ページビューの合計

2015年12月12日土曜日

(増補版)258D3/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1863年6月~1863年12月)

題:(増補版)*258D3/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1863年6月~1863年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1863年(文久3年)6月、西ノ丸火災(氷川清話)・・再建
 が成らず
  この年の江戸城焼失を以って・・幕末の政治的混乱と
 幕府の財政不足などが理由で、再建が不能となる。
  この火災で・・表・中奥・大奥のすべてが焼失した。
  焼け残った本丸の櫓や、門なども、富士見櫓、富士見
 多聞櫓、北桔橋門の高麗門を残して・・明治初年に解体
 された。
  本丸御殿は、1863年の焼失で再建不能へ、
  二の丸御殿は、1867年の焼失で再建不能へ
  西ノ丸御殿は、1873年の消失で廃止、
1863年6月13日、勝海舟、将軍に従い順道丸で大阪を出発
 (氷川清話)
1863年、将軍、神戸軍艦操練所の地を自ら指画す(氷川清
 話)
1863年6月16日、勝海舟と将軍が江戸城に帰着(氷川清話)
1863年6月24日、生麦事件などの賠償金の全額が、イギリ
 ス公使館へ輸送された。
  生麦一件の償金を英国に出す(氷川清話)
  横浜の商人の取引は、メキシコ・ドルによる支払であ
 った。
  賠償金も同様で、生麦事件の賠償金が10万ポンドであ
 ったので、メキシコ・ドルで40万ドルを超える金が支払
 われた。
1863年、この頃の竜馬・・、
  竜馬は、勝海舟の人脈を頼って・・、
  松平春嶽、そのブレーン(頭脳)の横井小楠、薩摩藩
 のリーダー・西郷隆盛、開明的な幕閣・大久保一翁など
 と会う機会に恵まれた。
  竜馬は、さらに、見識を広めて行った。
  竜馬は、利己心があまりないので、誰もが、胸襟を開
 いて会ってくれた。
1863年7月16日、小笠原の率兵、上京
  老中格・小笠原長行の率兵着坂、
  老中格・小笠原長行が、千数百名を率兵して着坂、大
 坂に上陸した。
  1963年6月24日に、生麦事件償金を独断で交付した老
 中格・小笠原長行は、
  1863年7月4日の慶喜の命により、償金交付を朝廷に弁
 明するためとして、
  1863年7月11日に、幕府が育成していた洋式軍隊1600
 名を引き連れて、江戸を出立した。
  しかし、すぐには京都へ向かわず、横浜に滞在し、
  軍艦5隻(蟠龍丸、朝暘丸、鯉魚門丸、イギリス船エル
 ギン号、ラージャー号)とイギリス艦も借り、
  歩兵と騎兵を合わせて約1600名を率いて乗船し、海路
 大坂へ向った。
  その目的は、武威をもって攘夷の朝議を一変しようと
 した・・という説があり、
  また、足止めされている将軍を、尊王攘夷派から警護
 し、迎え取るためだ・・という説もある。
  また、イギリスとフランスの両国の軍事援助に支援さ
 れた打倒尊攘急進派クーデターだった・・という説もあ
 る・・が、確定的なことは不明・・、
  幕府は、前年の1962年に、将軍の上洛の下準備として、
 京都・尊王攘夷の急進派勢力を抑えるため、
  当初は、慶喜らに大兵を率いさせての武力制圧を考え
 ていたこともあった・・が、
  公武合体派連合策・・
  総裁職の松平春嶽からの公武合体派連合策(薩摩藩ら
 の公武合体派大名・公家が連携して、公武一和の国是を
 決定する)・・の提案があって、
  この策で臨む事に決定し、武力制圧計画の実現はなさ
 れなかった。
  ただ、小笠原は、のちに、公卿の中に内応する人がい
 たため上京したが、
  その人が、不慮の禍害を受けたため蹉跌(さてつ、物
 事がうまく進まず、失敗すること)した・・と語ったと
 されており、
  これは、1863年7月5日に、暗殺された姉小路公知(あ
 ねこうじきんとも)と謀(はか)るところがあったと推
 側されている。
1863年8月15日、薩英戦争(~8月17日)
  8月6日に、イギリス公使代理のジョン・ニールは、薩
 摩藩と交渉するため、横浜に停泊していた軍艦7隻を、
 鹿児島へと向け・・出港した。
  1863年8月11日に、鹿児島湾に到着、
  鹿児島城下の南、約7キロメートルの谷山郷沖に投錨し
 た。
  1863年8月12日、イギリス艦隊は、さらに前進し、鹿
 児島城下前之浜・約1キロメートル沖に投錨した。
  艦隊を訪れた薩摩藩の使者に対し、イギリスは、国書
 を提出した。
  イギリスは、違法にも2万5000ポンドを要求した。
  薩摩藩は回答を留保し、翌日の鹿児島城内での会談を
 提案した。
  1863年8月13日、イギリスは城内での会談を拒否、早
 急な回答を求めた。
  薩摩藩は、「生麦事件についての責任はない」とイギ
 リスへ回答した(この回答が当然で、日本の規律であり、
 慣習である、これを知らなかったイギリスに落ち度があ
 る。
  逆に、この最大の無礼である行為を、イギリスは、謝
 罪しなければならない)
  1863年8月14日、ニール代理公使は、要求が受け入れ
 られない場合は武力行使に出ると通告した。
  薩摩藩も開戦はやむを得ないと判断した。正義はこち
 らにあると判断した。
  1863年8月15日、夜明け前に、イギリス艦5隻が、薩
 摩藩の艦船の3隻へ接舷し、イギリス兵50~60名が乱入
 した。
  薩摩藩兵を殺傷した。
  そして、薩摩藩の艦船を奪取した。
  午前10時に至って、捕獲した3隻を、イギリスは、自
 船の舷側に結わえ、牽引し、桜島の小池沖まで曳航した。
  薩摩藩は、これを、イギリスの盗賊行為であるとして、
 薩摩藩の7か所の砲台へ、攻撃命令を出した。
  正午、湾内各所の砲台へ薩摩藩本営からの追討令の急
 使が出た。
  そして、最も近い天保山砲台の火が噴いた。
  狙いは、イギリス艦隊の旗艦・ユーライアラス号に向
 けられた。
  その攻撃で、攻撃命令が出された事を知った各砲台の
 火が噴いた。
  桜島側の袴腰砲台は、眼下のイギリス艦・パーシュー
 ス号に向け砲撃した。
  パーシューズ号は命中弾を受け、慌てて、錨を上げる
 暇もなく、艦長は、錨の切断の命令を出し、その場から
 逃走した。
  キューパー提督(海軍少将)は、薩摩船3隻の焼却命令
 を出した。
  イギリス兵は、3隻から貴重品を略奪し、この3隻に砲
 撃をし、そして、放火した。
  3隻は沈没した。
  この後、イギリス艦隊は戦列を整え、薩摩藩砲台を砲
 撃し、対する薩摩藩砲台からも盛んなる応戦の砲撃が行
 われた。
  接近する艦隊には、小銃隊による狙撃も行われた。
  薩摩藩の大砲8門が破壊された。
  この時、暴風雨(台風)が吹き荒れていた。
  この暴風雨の影響で、イギリスは、近代兵器の長距離
 砲の利点が十分に活かせなかった。
  射程距離の劣る薩摩藩の大砲であったが、荒天によっ
 て、接近して狙いをつけざるを得ないイギリス艦に対し
 て善戦した。
  イギリス艦船に、この荒天による機関故障による操船
 の間違いなども発生し、
  また、艦船内への浸水が起きたりし、退却せざるを得
 ない状況も起きた。
  薩摩側へ有利な戦闘展開となった。
  イギリス側としてみれば、予想以上に薩摩藩との戦い
 に苦戦をし、大きな損害を出した。
  午後3時前、薩摩藩の辨天波戸砲台のボンベン砲の弾
 丸1発が、旗艦・ユーライアラス号の甲板に命中した。
  軍議室(艦橋)で破裂・爆発が起き、居合わせた艦長・
 司令・次官司令などの士官が戦死した。
  キューパー提督(司令官)は、艦長や指揮官などと居
 合わせたが、打倒されたり、転落したりしたが、左腕を
 負傷したにとどまり、幸い命は助かった。
  この様な状況で戦いは続いた。
  薩摩藩の側も、砲台・集成館(洋式兵器工場)を破壊
 され、多くの藩士が命を失った。
  圧倒的なイギリスの火力・装備で、叩かれた薩摩藩だ
 ったが、
  薩英戦争を戦って、薩摩藩が得た最大の教訓は、
  『武力をもって西欧列強を攘夷することは、現状の幕
 府・諸藩の力では不可能である
  (まずは西欧の先進的な兵器・技術・知識を導入して
 国力を充実強化しなければならない)』という現実認識
 だった。
  また、イギリスも、想像以上の薩摩藩(日本)の強さ
 を見直したのだった。
  戦後、薩摩藩は、急速にイギリスに接近して、武器・
 軍艦の購入を交渉するようになって行き、
  薩摩藩の『軍備・軍隊・工場の近代化』は、イギリス
 の支援を受けて進められて行った。
  薩摩藩は、武力で西欧諸国を攘夷することを断念する
 が、西欧諸国の先進的な技術や兵器、知識(科学)を積
 極的に導入し、国力を増強する『西洋文明の利点・優位
 の活用』こそが、薩摩藩、そして、日本の将来に役立つ
 と確信した。
1863年8月15日、薩英戦争・その2
  英船、薩摩と戦う(鹿児島戦争)(氷川清話)
  前年に起きた生麦事件の賠償と実行犯の処罰を求めて
 イギリス艦隊が、鹿児島湾(鹿児島市の錦江湾)に侵入。
  薩摩藩はこれに応じず、交戦となった。
  薩摩藩は、かなりの善戦(薩摩側の民間人を含む死傷
 者9名に対して
  イギリス側の軍人死傷者63名をするが、鹿児島城下
 (焼失1/10)、藩の工場や民家へのなどへの大きな被害
 を受けた。
  しかし、これによりイギリスは、薩摩の戦力の優秀さ
 を知り、薩摩と直接の和平を結ぶことになる。
  この和平により薩摩は、イギリスからの情報や武器の
 入手が容易となり、薩摩は更なる軍備の充実に努めるこ
 とになり、聡明なる薩摩は、それを行った。
  一方、長州や薩摩の攘夷実行の現実を見た幕府は、
  1863年8月21日、国の方針が確定する前の外国船への
 砲撃は慎むよう長州藩に通告した。
  1863年8月29日には、中根一之允らを、軍艦「朝陽丸」
 で派遣し、
  無断での外国船砲撃や小倉藩領侵入について長州藩を
 詰問した。
  ところが、長州の奇兵隊員たちは、アメリカ軍との交
 戦で失った長州艦の代用として、幕府の「朝陽丸」の提
 供を要求した。
  そして、1863年9月21日に、「朝陽丸」を拿捕した。
  さらに、1863年9月1日~2日に、中根一之允らを暗殺
 した、幕府への明らかな挑戦(朝陽丸事件)
1863年、その、長州藩は・・、
  江戸期を通して、庶民を政治方針のために動員できた
 藩は長州藩しかなく、
  庶民軍である奇兵隊は、盲人まで太鼓を打ったという
 気質の中で成り立っていた。(街道をゆく・1)
1863年、朝廷が攘夷祈願、攘夷論最高潮。
  天皇、加茂社に行幸(氷川清話)
  賀茂、石清水に行幸される。
1863年8月、洋書調所を開成所と改め、数学局を置き、神
 田孝平が教員となる(氷川清話)
1863年8月、長崎に、清・蘭・英・仏・露の語学所を置く
 (氷川清話)
1863年8月、市川文吉、露に留学(氷川清話)
1863年、緒方洪庵が没した(1810年~1863年)(53歳)
  江戸後期の蘭学者・医者・教育者。
  備中(岡山県の西部)の人。
  江戸・長崎で蘭学を学び、
  1838年に、大坂に蘭学塾(適塾)を開き、大村益次郎・
 福沢諭吉・橋本左内らを育てた。
  1862年に、江戸に出て、幕府奥医師、兼、西洋医学所
 頭取となる。
  種痘の普及に尽力、蘭学の発展に貢献した。
  訳書「病学通論」のほか、著書は多数におよぶ。
1863年、文久銭を鋳る(氷川清話)
1863年8月、勅許を下し攘夷の指揮を幕府に委す(氷川清話)
1863年8月、和州一途、追討を諸侯に促す(氷川清話)
1863年8月、伊東圭介、職を辞す(氷川清話)
1863年8月、勝海舟、海陸備向取扱を命ぜられる(氷川清
 話)
1863年9月、勝海舟、幡龍丸修繕慰労として時服3を賜う
 (氷川清話)
1863年9月19日、攘夷親征論・・本当の目的は倒幕?
  朝議において、孝明天皇は、攘夷親征論を時機尚早だ
 と断固退け、
  代案として中川宮に西国 鎮撫使を命じることにしたい
 と強く述べられた。
  暗殺や放火の噂が絶えない京の都。
  尊王攘夷を口にして狼藉をはたらく浪人が溢れ、治安
 は完全に乱れていた。
  朝廷内では、天皇自ら兵を率いて攘夷を行うべしとの
 方針に傾き、行幸親征の実施を決定していた。
 『徳川幕府が攘夷期限の五月十日以降、攘夷を実行でき
 ずにいる。ならば天皇自らが御親征し、挙国一致で攘夷
 に臨むのだ』
  そう朝議で決定した。
  それに対して、幕府側の一橋慶喜や松平容保は、「武
 力攘夷が実行できないのは、異国に対抗しうるだけの軍
 事力ないからだ、時期が早過ぎる。
  もし負けるような事にでもなえば、皇威を失墜する事
 になるではないか」・・と進言していた。
  だが、尊王攘夷派の本当の目的は、倒幕のための挙兵
 であった。
  朝議を操っているのは三条実美であり、その背後には
 尊王攘夷の巨魁・真木和泉、
  そして、長州藩がいて、彼等が完全に朝廷を牛耳って
 いた。
  しかし、当の孝明天皇・御自身の心の中は別だった。
  「神国の国体を護るため攘夷を望むが、公武合体の象
 徴として和宮を嫁がせた、徳川幕府を見限るつもりはな
 い。倒幕は望んでもいない」
  それが天皇の思いだった。
1863年9月30日(旧暦:8月18日)八月十八日の政変
  会津藩・薩摩藩を中心とした公武合体派が、長州藩を
 主とする尊皇攘夷派を京都から追放したクーデター事件。
  七卿脱走(氷川清話)
  尊王攘夷論者が失脚、七卿の都落ち、天誅組の変が起
 きた。
  長州藩は、倒幕一辺倒の過激さから京を追われ、七人
 の公卿を擁して西に落ちのびた。
  追ったのは会津と薩摩、
  会津は、幕府に忠誠を誓う佐幕派の筆頭。
  この二藩は、賊と奸と言われた。
  薩賊会奸、薩摩の賊、会津の奸物の意。
  薩摩は、公武合体派であるので、会津に接近した。
  長州藩から見れば、1862年から、長州藩を中心にして
 攘夷派勢力の活動を活発にした、
  そして、この年、長州藩による外国船砲撃事件をした。
  ここで、天皇に大和行幸をして戴き、また、攘夷親征
 の詔勅を発して戴いて、一挙に倒幕・王政復古に突き進
 みたいと画策した。
  これに、危機感を抱いた薩摩藩・会津藩を中心とする
 公武合体派が、中川宮を擁して、朝議を覆して、長州藩
 と急進派公卿を一挙に朝廷から追放した。
1863年10月、勝海舟、神戸を出、浦賀に漂泊、順動丸に令
 し一橋公を乗せ上京させる。自分は陸路帰府す(氷川清
 話)
1863年10月 長崎・江戸・京都市中に天誅の張紙
1863年10月31日、天誅組の変が終わる
  天誅組が、1863年9月29日に組織されたが・・、
  10月31日に至り・・掃討され、急進攘夷派公卿の中山
 忠光は、天誅組の解散命令を出した。
  天誅組の変(てんちゅうぐみのへん)が終わった。
  吉村寅太郎をはじめとする尊皇攘夷派浪士の一団(天
 誅組)が、公卿・中山忠光を主将として、大和国で決起
 し、
  後に、幕府軍の討伐を受けて壊滅した。
  幕府は、この時、討つために、彦根藩、紀州藩、伊勢
 の津の藤堂藩の兵を差し向けた。
  その列が、朝から晩まで続いていたそうですと司馬遼
 太郎は現地で話を聞く(街道をゆく・8)
  吉村寅太郎・・勤王倒幕の士、天誅組を大和に起こす。
  士は、その総裁となり、幕府軍を相手にさんざん戦っ
 た・・
  が、しかし、時勢まだ熟せず、吉野山中の鷲家口(わ
 しかぐち)で、身に数弾をあび死す。
  時が、少し早かった。
1863年11月4日、勝海舟、登城(氷川清話)
1863年11月15日、本丸火災(氷川清話)
1863年11月27日、将軍、再び、海路上洛、鎖港談判。
  使節・池田筑後守、河津伊豆守、河田相模守、外国に
 出発す(氷川清話)
  幕府は、将軍の上洛を辞退し、後見職の慶喜に上京さ
 せる旨を奏上した。
  この将軍上洛の辞退の公の理由は、横浜鎖港談判だっ
 た(9月14日に開始)
  横浜鎖港の件を決着しないで上洛できないからだった。
  『徳川慶喜公伝』によると、
  幕臣は、「将軍一代の2度の上洛はすべきでない」「幕
 府の財政が欠乏している(上洛費用が多大)」と、上洛
 に異議を唱えた。
  だが、本音は、春の将軍上洛時の恥辱を再び受けるこ
 とを恐れたからだった。
  慶喜は、10月26日に、江戸を発ち、海路をとって、下
 田・清水等の諸港を経て、ゆっくり京都に向かった。
  1863年11月12日に、兵庫に着港し、
  1863年11月21日に、大坂城に入った。
  そして、入京したのは、1863年11月26日だった。
  また、幕府は、将軍上洛を、一度、辞退したが、
  朝廷は、再度、公武合体への将軍上洛の意を示した。
  1863年11月5日に、幕府は、朝廷へ「上洛すること」
 を奉答(ほうとう、謹んで答えること)した。
  徳川慶喜は、この後、一会桑政権の体制づくりをして
 行く。
  一会桑政権(いちかいそうせいけん)は、幕末の政治
 動向の中心地の京都において、
  徳川慶喜(禁裏御守衛総督、一橋徳川家当主)、松平
 容保(京都守護職・会津藩主)、松平定敬(京都所司代・
 桑名藩主)の三者により構成された体制をいう。
1863年11月26日、一橋慶喜上京(氷川清話)
1863年、徳川慶喜、上洛
  将軍上洛に先立って、徳川慶喜が上京し、尊王攘夷の
 勢力と対抗した。
  朝廷の攘夷(じょうい)督促に対して、自ら開国を説く
 べく上洛(じょうらく)して、朝廷と折衝したが、かえっ
 て尊攘派勢力の工作によって、攘夷期日を5月と約束させ
 られて江戸に帰った。
1863年12月27日、将軍上洛、艦隊を作って将軍が上洛
  14代将軍(家茂)が、上洛せられる時は、幕府では、
 例の通り、陸路・東海道を御通過になるという予定であ
 ったけれども、
  俺は、日本は海国であるから、国防のためには、海軍
 を起こさねばならぬ。
  しかして、海軍を起こすには、将軍などが率先して、
 これを奨励して下さらなくてはいけない。
  それ故、この度の御上洛も、諸藩の軍艦を従えて、海
 路よりご出発あるが宜しかろうと、老中などに建議した。
  ところが老中なども、至極もっともの事ではあるが、
 諸藩から、各々その船を出させるのが、なかなか困難だ
 と心配するから、
  「それは、私がきっと引き受けます。しかしながら、
 いったん私にお任せある以上は、種々些細の事まで、あ
 なた方よりお指図があっては困ります」と言ったら、
  それは承知だから、一切お前に任せることになった。
  そこで、俺は、直ちに、諸藩に命じて、このたびは、
 将軍が、海路よりご上洛になるから、各々、その艦船を
 出してお供をせよと達した。
  ところが、西洋型の船を所有する藩は、皆、一そうず
 つを出したが、
  また、中には、幕府の船を借りて、乗組員だけは、そ
 の藩から出してきたものもあった。
  そのとき、集まった船と船将とはこの表の通りだった。
  幕府(翔鶴丸、朝暘丸、千秋艦、第一長崎丸、幡龍丸〉
  越前(黒竜丸)、薩摩(安行丸)、佐賀〈観光丸)、
  加州(発起丸)、南部(広運丸)、筑前(大鵬丸)、
  雲州(八雲丸)。
  乗組員は皆、「私どもは船の事は誠に未熟であるから、
 万事指図を頼む」と言うから、
  「よしよし、俺が引き受けた。心配するに及ばない」
 と言って、俺の部下から練達のものを3人ずつ各藩の船
 に乗り込ましたところが、彼らも大いに喜んだよ。
  そのうえ、彼らは、藩から相当の手当てをもらってい
 る上に、幕府からも幕船同様に、給料を与えたから、ち
 ょうど二重に給料をもらう都合で、益々喜んだよ。
  将軍が、多数の軍艦を率いて、上洛するという事は、
 前古未曾有の事で、実に壮観であったよ。
  しかし、前古未曾有の事であるだけ、俺は、責任は重
 く、且つ、諸藩の船もあることだから、俺は、終始マス
 トの上に登って、艦隊の全部を見渡していたが、大阪へ
 着くまで、一週間というものは、ほとんど眠らなかった
 よ。
  しかし、ともかく、無事に大坂に着いて、それから、
 将軍は上洛せられたが、ずいぶん骨が折れたとはいえ、
 これも、日本は海軍を盛んにせねばいけないという考え
 から、幕府や諸藩の海軍を奨励するつもりなのさ(氷川
 清話)
  勝海舟、将軍海路再び上洛。これに従う。汽船、翔鶴
 丸で品川を出帆(氷川清話)
1863年12月28日、勝海舟、浦賀に滞泊。将軍が手酌で酒
 を賜い、又、紋付小柄、及び、目貫を賜い、海上すべて
 委任の旨、厚い裁旨あり(氷川清話)
1863年、近藤勇は、将軍・家茂の上洛に当たり、その警備
 役に加わる。
  後、京都に残って、この年、新選組を組織した。
1863年、高杉晋作は・・、
  万延元年から3年後、長州の高杉晋作が、京都で将軍の
 行列を懐手(ふところで)をしながら見物し、ちょうど
 芝居の役者にでも声を掛ける様に「いよう、征夷大将軍」
 と大声ではやした。
  それを聞いた将軍のお供の旗本たちは、悔しさに暗涙
 (あんるい)にむせんだと言う。(竜馬がゆく・2)
1863年、浪士、京都で足利将軍木像を壊す(氷川清話)
1863年、松平春嶽、京都を去る(氷川清話)
1863年、天気図
  ルヴェリエ(フランス)が、この年、気象観測収集の
 ために通信網をつくり、これに基づいた天気図が刊行さ
 れた。
1863年、グラバーが、マッケンジーの南山手1番地の土地
 を引き継ぎ家(グラバー邸)を建てた。
  1864年に、艦船や、武器の取引、不動産、地金取引、
 金融代理店的な仕事もはじめた。
  後に、若い武士たちに、銃や艦船などの機械類を、大
 量に販売した。
  そして、茶、絹、銀など、各地方の特産物を輸出した。
  日本での主な取引相手は、倒幕を画策する、西南諸藩
 で、維新前の政治情勢に深くかかわった。
  後に、横浜や、上海に支店を置いた。
  1867年に、淡路屋ツルと結婚し、翌年に、女の子が生
 まれ、ハルと名づけた。
  1870年に、イギリスの本国政府が、グラバー商会に対
 し、破産を宣告した。
  理由は、この年が、日本の政情が不安定であったので、
 大量の武器・弾薬の需要があると見込んで、大量の買い
 付けをしたのだった。
  知恵ある日本人は、大戦争にならずに事を治めたのだ
 った。
  江戸城無血開城など・・、
  負債が、数十万ドル・・、
  その後、三菱の顧問になることが出来、高給を得て、
 新事務所を、1871年に、神戸に作った。
  また、1885年に、キリン麦酒株式会社の前身会社の設
 立に奔走している。
  1897年に、日本人の妻のツルとともに東京へ転居した。
  1899年に、胃がんのため東京のグラバー邸で妻のツル
 が没し(49歳)、長崎の太平寺に埋葬された。
  1908年に、日本政府から外国人には破格の勲二等旭日
 重光章が贈られ、功績が讃えられた。
  1911年に、グラバーは、73歳で慢性腎炎の発作に襲
 われ、東京にて没した。
  長崎の新坂本墓地に埋葬され、妻ツルの遺骨の一部も
 グラバーの墓へ分骨埋葬された。
  シーボルトは、日本での妻を捨てたが、グラバーは、
 誠実だった。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

2015年12月10日木曜日

(増補版)257D3/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1862年12月~1863年6月)

題:(増補版)257D3/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1862年12月~1863年6月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1863年(文久3年)1月、勝海舟、山内容道に謁す(氷川清
 話)
  勝海舟、土佐藩亡命の士、坂本龍馬以下数名を預かる
 許しを得る(氷川清話)
1863年1月13日、勝海舟、兵庫を出帆(順道丸)(氷川清話)
1863年1月15日、勝海舟、下田港に入る(氷川清話)
1863年1月16日、勝海舟、帰府(氷川清話)
1863年1月23日、勝海舟、同艦に松平春嶽侯を乗せて品海を
 出帆(氷川清話)
1863年1月29日、勝海舟、大阪着(氷川清話)
1863年1月31日、英国公使館焼打ち事件が実施された。
  高杉晋作・久坂玄瑞・品川弥次郎らの長州藩士10名が、
 江戸品川御殿山に新築されたばかりのイギリス公使館を
 焼き討ちした。
  幕府の追補が始まるとみるや藩は、彼らを京都に呼び、
 形式的に叱責して藩邸内にかくまった。
  浪士、品川御殿山公使館の門衛を殺害す(氷川清話)
  幕府は、東禅寺事件などの対策の為、また、諸外国の
 要求を受け入れて、各国公使館を品川御殿山の景勝地に
 移す工事を進めていた。
  一度未遂に終わったこの行為が、この日に、実施に移
 された。
  何故、イギリスだけがこの様な目に会うのか?
  当時の志士たちも知っていたのだ。
  イギリスだけが、特に、正義が無かった。
  イギリス公使館だけが、この時、火薬を仕掛けられて
 全焼してしまった。
  攘夷の事件(24の事件)
  1、安政3年(1856年)ハリス襲撃未遂事件
  2、安政6年(1859年)ロシア海軍軍人殺害事件
            フランス領事館従僕殺害事件
  3、安政7年(1860年)日本人通訳殺害事件
            フランス公使館放火事件
            オランダ船長殺害事件
  4、万延元年(1860年)フランス公使従僕傷害事件
            マイケル・モース事件
            ヒュースケン殺害事件
  5、文久元年(1861年)第一次東禅寺事件
  6、文久2年(1862年)第二次東禅寺事件
            生麦事件
             英国公使館焼打ち事件
  7、文久3年(1863年)井土ヶ谷事件
  8、元治元年(1864年)鎌倉事件
  9、慶応2年(1866年) 鳶の小亀事件(仏水兵殺害)
             ハリー・パークス恫喝事件
 10、慶応3年(1867年)アーネスト・サトウ襲撃事件
            英国水兵殺害事件
            ヘンリー・スネル襲撃事件
            英国水兵襲撃事件
 11、慶応4年(1868年)神戸事件
            堺事件
            パークス襲撃事件
1863年(文久3年)2月、朝廷が、島原を領する松平主殿頭
 に勅して、諏訪社の再建を急ぐようにと命じた。
1863年2月6日、勝海舟、病気をおして順道丸に乗り大坂出
 帆(氷川清話)
1863年2月11日、勝海舟、帰府平臥(氷川清話)
1863年2月12日、松平容保、入京
  将軍上洛に先立ち・・、
  会津藩主・松平容保が、京都守護職として入京した。
  町奉行の永井尚志・瀧川播磨守は、三条橋東まで容保
 を出迎えた。
  これは老中・所司代の入京時と同じだった。
  容保は、寺町本禅寺で衣服を改め、関白・近衛忠熙を
 訪ね、天機を伺ってから、宿舎である金戒光明寺(黒谷)
 に入った。
  黒谷には、所司代・牧野忠恭(備前守)・伏見奉行・
 林忠交(肥後守)などが挨拶に来た。
  『京都守護職始末』には、この日、守護職の行列(一
 里ほどの長さ)を見ようと、蹴上から黒谷の道の両脇は、
 鈴なりの人だったという。
  これまで京都人は、京都所司代や京都守衛をしていた
 彦根藩士が浪士を鎮圧できないので、腰抜けだと見てい
 た。
  しかし、容保の行列が立派であり、また、容保が関白
 に立ち寄るという朝廷尊崇の姿勢をみせたことなどが好
 感され、心を安んじたとある。
  この頃の京の浪士たちは・・、
  会津藩主・松平容保(たかもり)が、会津兵を率いて
 京都守護職に任じたとき、それまで京都で、佐幕派の暗
 殺に跳梁していた過激浪士たちは、会津が来るという噂
 (うわさ)だけで戦慄(せんりつ)したという(竜馬が
 ゆく・1)
1863年、そして、この頃の、長州藩
  長州藩はずっと萩で我慢した。
  大老の井伊直弼が、江戸桜田門外で暗殺され、幕威が
 にわかに落ちたのを見て、
  長州藩は、1862年に、そっと、藩庁を山口に移してい
 た。
  幕威が盛んな頃なら、この一事だけでも、毛利家の取
 り潰しは確実であった。
  この時、幕威が、いかにその威力をなくし、権威もな
 くしていたかが、この長州藩のしたこの態度一つでも分
 かる。
  ところが、その後、幕府は、第一次長州征伐で長州藩
 を圧倒した。
  長州藩は、家老数人に腹を切らせて幕府に謝ったが、
 この時、幕府は「山口城を破却して、萩へ戻れ」と命じ
 た。
  長州藩は、「山口にあるのは城ではない、役所である」
 として、言を左右にして破却せず、
  ただ、藩主が、萩城へ戻るだけで、わびを済ませた。
  その後、長州が勢いを盛り返した時、再び、藩庁を山
 口に置いた。
  この藩が、山口に固執したのは、この町が、領内の交
 通上の要衝にあるため、幕末風雲期における、情報入手
 や命令伝達に都合がよかったからである(街道をゆく1)
1863年2月24日、勝海舟、品川出帆(同艦)(氷川清話)
1863年2月26日、勝海舟、大阪着(氷川清話)
1863年3月、将軍・徳川家茂の上洛
  これは、三度目の上洛である。
  朝廷は、従来通りの政務委任とともに攘夷の沙汰を申
 しつけ、幕府はやむなく5月10日(旧暦)をもって攘夷を
 実行することを奏上し、諸藩にも通達した。
  だが、幕府は、他方で、生麦事件と第二次東禅寺事件
 の損害賠償交渉にも追われており、
  攘夷決行は、諸外国と勝ち目のない戦争をすることに
 なり、その損害は計り知れないという趣旨の通達も諸藩
 に伝えていた。
  幕府は、賠償金44万ドルを攘夷期日の前日の5月9日に
 イギリスに支払うと共に、各国公使に対して文書にて開
 港場の閉鎖と外国人の退去を文書で通告し、
  攘夷実行の体裁をとった。
  しかし、同時に、口頭で、閉鎖実行の意志がないこと
 も伝え、
  9日後には文書にて閉鎖撤回を通達した。
1863年、京都は実に物騒なところ
  この年の家茂公が御上洛なさるについて、その頃、京
 都は実に物騒で、
  この時、おれも、船でもって上京したけれど、
  市中を歩いていたら、寺町通りに、3人の壮士がいきな
 り俺の前へ現れて、ものも言わずに切りつけた。
  驚いて、おれは、後ろへ逃げたところが、おれの側に
 いた土州の岡田以蔵(いぞう)、にわかに長刀を引き抜
 いて、一人の壮士を真っ二つに斬った。
  「弱虫どもが、なにをするか」と一喝したので、あと
 の二人は、その勢いに、辟易してどこともなく逃げて行
 った。
  なにぶん岡田の早業には感心したよ(氷川清話)
  勝海舟、京都滞在中、寺町通りで壮士の刃にあう。岡
 田以蔵の防御で免れる(氷川清話)
1863年3月、勝海舟、和歌山に砲台諮問の招きに応ず。紀伊
 中納言に諮す(氷川清話)
1863年4月、幕府が、神戸に海軍操練所を設立した
  長崎製鉄所より機械類の一部を移送、機械方職工数人
 を転任させた。
  長崎製鉄所は、神戸操練所の付属工場に。
1863年4月、海軍操練所、家茂に直取引で許可を得る
  神戸に、海軍操練所を設けることは、前年に、幕府が、
 軍制度を改革したときに、大阪御船手組の改組の一環と
 して、海舟が建白していたプランであったものを、文久
 3年4月に、大阪湾の船の上で、将軍・家茂にねだって、
 直取引で、許可を貰ってしまったものだった。
  同時に、勝の私塾として海軍塾を併置する許可も取っ
 ておいた。
  この操練所並びに海軍塾を作る狙いは、咸臨丸以来の
 勝の持論である「能力ある人材をあらゆる階層から発掘
 する」ということ、
  「挙国一致の世論の形成」という事にあった。
  この海軍局には、坂本龍馬を塾頭に、薩摩の伊東四郎
 (後元帥、海軍大将、伯爵伊東祐亨)、紀州の伊達陽之
 助(後外装、伯爵・陸奥宗光〉ら、天下の人材が集まっ
 た。
  理念である「一大共有の海局」というのは、幕府も諸
 藩もない。
  対立や分裂の中に最大公約数を発見し、その公約数的
 なものを育てて行こうというものである。
  門地〈血筋、家柄、身分)に拘泥せず、人材であれば
 百姓でも漁師でも良いとした。
  海舟は、幕府の中に、地位・肩書だけの人間をさんざ
 ん見て来たのだ。
  しかし、当時にあって、この様な考え方を抱く集団は、
 「幕府=徳川家」という考え方を離れられない幕閣首脳
 から見ると、危険な存在であった。
  元治元年11月、「わが処置宜しからずとて、江戸に召
 還せられ、退職、謹慎す。事業ついに崩壊せり」で、御
 役御免となり、役高2000石も取り上げられ、氷川の屋敷
 に閉門同様となった。
  神戸操練所は解散となったが、短期間ながらその存在
 の意味と影響力は大きい。
  この期間に作られた「一大共有」という思想と「門地
 に拘泥」せぬ人脈とは、もう数年に迫った「維新」の火
 種になる(氷川清話)
1863年4月、日清韓合従連衡説
  勝海舟、「日清韓合従連衡説」を桂小五郎などに談ず
 (氷川清話)
1863年4月、5月10日を期して、朝廷は、攘夷を決行せんと
 す(氷川清話)
1863年4月25日、勝海舟、汽船(順道丸)で姉小路少将(公
 知)摂海試乗に従い、大いに海軍の要を得く(氷川清話)
1863年4月28日、勝海舟、将軍が順道丸で紀淡海岸を巡覧さ
 れこれに従う(氷川清話)
1863年4月、勝海舟、将軍の内海巡覧に従い摂州神戸村で軍
 艦操練所取立。内海警備の直命を受く(氷川清話)
1863年5月1日、島津久光が、2回目の入京をした
 (4月21日鹿児島発、5月1日京都着)
  しかし、長州藩を後ろ盾にした尊攘急進派の専横を抑
 えられず、足かけ5日間の滞京で帰藩した
  (5月5日日京都発、5月28日鹿児島着)
  しかし、帰藩後も、尊攘派と対立関係にあった中川宮
 や近衛忠煕・忠房父子、また、尊攘派の言動に批判的だ
 った孝明天皇から、再三、上京の要請を受ける。
  長州藩の勢力を京都から追放するべく、薩摩藩と会津
 藩が、中心となって画策し、天皇の支持を得た上で決行
 された八月十八日の政変が成功した後、3回目の上京を果
 たす(10月24日鹿児島発、11月13日京都着)。
1863年5月1日、勝海舟、八幡山崎関門修築の事を命ぜられ
 る(氷川清話)
1863年5月4日、勝海舟、将軍また順道丸で淡播摂海岸を巡
 覧、これに従う(氷川清話)
1863年5月、姉小路、途上に暗殺さる(氷川清話)
1863年5月、勝海舟、諸太夫に昇進の内達あり、固持する
 (氷川清話)
1863年6月24日、幕府が、生麦事件解決のため、イギリスへ
 10万ポンドを支払った。
  支払を決断した老中の小笠原長行は、1863年7月に老中
 職を罷免された。
1863年6月25日、攘夷行動をとる長州藩
  長州藩が米仏蘭艦船に砲撃開始
  長州、下関通交の外国船を砲撃す(氷川清話)
  孝明天皇の強い要望により、将軍・徳川家茂は、文久
 3年5月10日(1863年6月25日)をもっての攘夷実行を約束
 した。
  幕府は、攘夷を軍事行動とはみなしていなかったが、
 長州藩は、馬関海峡(現 関門海峡)を通過する外国船へ
 の砲撃を実施した。
  戦後、長州藩は、幕命に従ったのみと主張したため、
 米英仏蘭に対する損害賠償責任は、徳川幕府のみが負う
 こととなった。
  この様な戦いは二度あり、前段としてのこの文久3年
 (1863年)5月は、長州藩が馬関海峡を封鎖し、航行中の
 米仏蘭艦船に対して無通告で砲撃を加えた。
  約半月後の6月、報復として米仏軍艦が馬関海峡内に停
 泊中の長州軍艦を砲撃し、長州海軍に壊滅的打撃を与え
 た。
  しかし、長州藩は、砲台を修復した上、対岸の小倉藩
 領の一部をも占領して新たな砲台を築き、海峡封鎖を続
 行した。
  戦力:米仏英蘭・軍艦3隻、長州藩・軍艦4隻
1863年6月25日、攘夷運動の中心となっていた長州藩は、日
 本海と瀬戸内海を結ぶ海運の要衝である馬関海峡(下関
 海峡)に砲台を整備し、
  藩兵および浪士隊からなる兵1000程、帆走軍艦2隻(丙
 辰丸、庚申丸)、蒸気軍艦2隻(壬戌丸、癸亥丸:いずれ
 も元イギリス製商船に砲を搭載)を配備して海峡封鎖の
 態勢を取った。
  攘夷期日の6月25日(旧暦:5月10日)、長州藩の見張
 りが、田ノ浦沖に停泊するアメリカ商船ペンブローク号
 を発見。
  総奉行の毛利元周(長府藩主)は、躊躇するが、久坂
 玄瑞ら強硬派が攻撃を主張し、決行と決まった。
  翌日、午前2時頃、海岸砲台と庚申丸、癸亥丸が、砲撃
 を行い、攻撃を予期していなかったペンブローク号は、
 周防灘へ逃走した。
  外国船を打ち払ったことで、長州藩の意気は、大いに
 上がり、朝廷からもさっそく褒勅の沙汰があった
  フランスの通報艦:キャンシャン号の被害
  7月8日(旧暦:5月23日)、長府藩(長州藩の支藩)の
 物見が、横浜から長崎へ向かうフランスの通報艦キャン
 シャン号が、長府沖に停泊しているのを発見。
  長州藩は、これを待ち受け、キャンシャン号が、海峡
 内に入ったところで各砲台から砲撃を加え、数発が命中
 して損傷を与えた。
  キャンシャン号は備砲で応戦するが、事情が分からず
 (ペンブローク号は長崎に戻らず、上海に向かったため、
 同船が攻撃を受けたことを、まだ知らなかった)、
  交渉のために書記官を乗せたボートを下ろして、陸へ
 向かわせたが、藩兵は銃撃を加え、書記官は負傷し、水
 兵4人が死亡した。
  キャンシャン号は、急ぎ海峡を通りぬけ、庚申丸、癸
 亥丸がこれを追うが深追いはせず、キャンシャン号は、
 損傷しつつも翌日長崎に到着した。
  7月11日(旧暦:5月26日)、オランダ東洋艦隊所属の
 メデューサ号が、長崎から横浜へ向かうべく海峡に入っ
 た。
  キャンシャン号の事件は知らされていたが、オランダ
 は他国と異なり鎖国時代から江戸幕府との長い友好関係
 があるので攻撃はされまいと油断していたところ、長州
 藩の砲台は、構わず攻撃を開始し、癸亥丸が接近して砲
 戦となった。
  メデューサ号は、1時間ほど交戦したが死者4名、船体
 に大きな被害を受け周防灘へ逃走した。
1863年6月25日、NHK、嘘つき放送をする下関事件
  この下関事件は・・、
  長州藩は、最初、アメリカ商船のペンブローク号を砲
 撃した。
  不意を突いて狙って撃った。
  その後、フランスやオランダの軍艦に、長州は砲撃を
 加えられた。
  翌月、アメリカ軍艦から報復攻撃を受けた。
  この史実を、NHKは史実を曲げた。
  NHKは、日曜大河ドラマで「花燃ゆ」をしているが、
 この第21話「決行の日」(5月24日放送)がでたらめ
 だった。
  史実はアメリカ艦を撃っているが、これを止めて、史
 実を曲げてフランス戦を撃ったことにして放送した。
  この「花燃ゆ」の脚本家3人が、著者になっている小説
 版の「花燃ゆ」第2卷(NHK出版刊)は、このドラマ
 のシナリオ本であるが、
  史実通りに「アメリカ船」になっているので、放送で
 は確信犯的に史実を変えて、フランス船に撃ったことに
 した。
  見ている日本の方々が間違った事を認識しようが構わ
 ないというNHKだった。
  こんな事を、NHKは、良くやる放送局だ。
  キリスト教に偏するNHKは、キリスト教を宣伝しよ
 うと、ガラシャ夫人がお城の中でキリスト教の十字架を
 祈るシーンを、何度も、放送し、天井まである大き過ぎ
 る十字架が、これでもかという極大十字架を祈ったりし
 ている。
  違和感極大のシーンを臆面もなく放送している。
  特に、キリスト教の偏するNHKの最もキリスト教に
 偏する番組がこの日曜大河ドラマだ。
  視聴率が大きい番組を狙ってこんなことをしているN
 HKなのだ。
  「歴史修正主義のNHK」と批判されている。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

2015年12月7日月曜日

(増補版)256D3/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1862年9月~1862年12月)

題:(増補版)256D3/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1862年9月~1862年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1862年4月16日、薩摩藩・藩主の島津久光が、公武合体運動
 推進のため兵を率(ひき)いて京に入った。
  薩摩の島津久光が大軍をひきいて京に入り、天子を擁
 して幕府の政道を正すという、幕末、この情報ほど天下
 の志士を興奮させたものはなかった(竜馬がゆく・2)
1862年7月2日、西郷隆盛が、また、島流しになる。
  西郷は、島津斉彬の死の後も、その斉彬の意思を継ぐ
 決意をした。
  西郷は、孝明天皇の内勅を、水戸藩や尾張藩に渡す行
 動などをしたり(これは成功しなかったが・・)、
  井伊直弼の排斥などに関わったり、
  また、上京して諸志士らと挙兵を図ったりした。
  その為、幕府の捕吏の追求が厳しなった。
  西郷は、そのため、鹿児島へ帰った。
  捕吏の目を誤魔化すため藩命で、改名したりもした。
  そして、藩は、幕府の目から西郷を隠すため、奄美大
 島に潜居させることにした。
  そして、藩主・久光は、公武合体の周旋に乗り出す決
 意をし、西郷が島で生活している間に、久光は、上京を
 計画する。
  薩摩の軍事力を背景に、上京して、幕府に対する発言
 力を高めようと思った。
  そして、この計画実行ためには、西郷隆盛の力が必要
 であると、大久保たちは久光に説いた。
  西郷が召還される事となった。
  仲間の努力の甲斐あって、西郷は、3年ぶりに薩摩藩へ
 戻った、1862年3月12日に、鹿児島に着いた。
  西郷は、改名もして、久光の上京計画の実行役に就い
 た。
  そして、島津久光が、上京計画について、西郷に意見
 を求めた時、
  西郷は、大久保たちが耳を疑うような進言を口にした。
   久光が無官で、斉彬ほど人望も無いと言った。
  「官位も人脈もない久光公が、京へ行っても何もでき
 ません、計画を延期すべきと思う」・・と、
  また、
  「久光公は地ゴロ(田舎者)なので、周旋は無理だ」
 と言った。
  久光は怒り、不興を買った。
  西郷は、同行を断わった。
  しかし、大久保の説得や仲立ち、仲間たちの取り繕い
 で、処罰は逃れ、上京を承諾する事になる。
  しかし、西郷は、再び、上京中に久光の命令に背くこ
 とをする。
  下関で合流するという計画だったが、西郷は、下関で
 京大阪の緊迫した情勢(京都で薩摩藩士が反乱を企てて
 いるということ)を聞く、
  西郷は、久光上洛までに解決をしようと、
  上洛の成功のためにその行動が必要だと、1962年4月20
 日に、大阪へ向けて出航した。
  西郷らは、4月29日に、伏見に着いた、
  そして、激派志士たちの京都焼き討ち・挙兵の企てを
 止めようと試みた。
  しかし、1862年5月4日に、姫路に着いた島津久光は、
 西郷が待機命令を破った再三の背信行為のことや、激派
 志士を扇動していると報告を受け、激怒した。
  久光は、西郷らの捕縛を命じた。
  5月8日に、西郷らは捕縛され、鹿児島へ護送された。
  久光は、浪士鎮撫の朝旨を受け、伏見の寺田屋に集結
 している真木保臣(和泉)・有馬新七らの激派浪士を鎮
 撫するため、5月21日に、久光臣下を寺田屋へ派遣した。
  派遣された奈良原らは、激派浪士を説得したが聞かれ
 なかったため、やむなく浪士ら8名を上意討ちとした(寺
 田屋騒動)。
  そして、西郷らの、護送され山川港で待命中の者たち
 は、1862年7月2日に、徳之島(沖永良部島説あり)など
 の遠島にされた。
  2回目となった今度の西郷の島流しは、厳しい牢獄生活
 となった。
  1回目と違って罪人として牢獄に入れられた。
  牢の中で、西郷は、衰弱し、やせ細って行った。
1862年5月27日、高杉晋作らが上海の実情を見る(この日
 に、長崎を出航した)、
  4か月後の、9月13日に、長崎に帰着し、そして、軍艦
 購入へ
  藩命によって、晋作は、五代友厚らとともに、幕府使
 節随行員として、長崎から、中国の上海へ渡航した。
  清が、欧米の植民地となりつつある実情をつぶさに見
 た。
  上海は、イギリスやフランスの属領のようになってお
 り、主権者であるはずの清国の人々は貧乏で、みすぼら
 しく、ひたすら外国人に使役されていた。
  白人が通りかかると、こそこそとよけて道を譲る。
  そして、警察権も奪われ、行政権も奪われた状況を見
 た。
  奴隷のように扱われている現地の人々を見た。
  そして、晋作は、また、イギリス兵が守る砲台を見て、
 アームストロング砲の進んだ兵器を実地に見たのだった。
  まだ、日本と大きく違うこうした状況を見て衝撃を受
 けた。
  清国は、当時、民衆が蜂起した「太平天国の乱(1851
 年~1864年)」(長髪賊とも呼ばれた)の最中で、
  1851年には、「太平天国」の国号で独立国家を樹立し、
  1853年には、南京が陥落させられていたが、
  当初、英仏は、キリスト教徒ともいわれる長髪族を利
 用して、漁夫の利を得ていた。
  そして、晋作は、この様な上海で、数多くの蒸気船を
 見た。
  晋作は、これまでの風と潮によって航行を制約される
 帆船では、到底、外国に対抗できないと悟った。
  また、晋作は、同行した薩摩藩や佐賀藩の二人の貿易
 調査をしている事に感銘(かんめい、忘れられないほど
 深く感動すること)し、
  また、蒸気船購入などの行動に大いに刺激を受けた。
  五代は、この渡航時に、上海でドイツ船を購入した。
  五代は、まだ、ドイツは、日本と国交がないため、一
 旦、香港に回航し、イギリス船籍に変更した上で、1863
 年4月に、薩摩船籍(青鷹丸)としている。
  (1962年8月から、幕府は、海軍興起の奨励で、各藩が
 自由に艦船を購入をすることを認めている)
  さらに、翌年・1863年に、長崎で、アメリカ船を購入
 し(白鳳丸)蒸気船を3隻持つまでとなっている。
  薩摩藩は、貿易(密貿易)をして、利益も上げていた。
  晋作は、薩摩藩の外国との取引の習熟さにも感銘を受
 け、商売の仕方も実地に学んだ。
  長州藩の遅れも痛く知った。
  晋作は、どうしても蒸気船を購入しなければならぬと
 思い詰め、長崎に着くと、独断で、3万7千ドルで売り
 に出ていたオランダ船の購入の契約をしてしまう。
  驚いた藩政府は、そんな大金はとても支払えないとし
 て、購入を不許可とするが、
  高杉の報告も受け、藩は、長州藩での蒸気船購入の支
 出と決まった。
  そして、横浜に、ジャージンマジソン商会が所有して
 いる2隻の蒸気船が入港し、売りに出されていた。
  1隻は、薩摩藩が買い(永平丸)、もう1隻は、長州藩
 が買った(壬戌丸)。
  これが、初めての長州藩の蒸気船となった。
  高杉は、長崎で注文した船も、正式に買うつもりであ
 ったが、こちらは財政上の問題で中止となった。
  高杉は、「敵を防ぐには、軍艦や大砲が必要」・・と、
 説くが、聞き入れられず、売買は破約となった。
  晋作は、1865年に、伊藤博文と洋行という名目で、2
 度目の長崎行きをして、グラバーに会った。
  そして、グラバーに説得されて洋行を断念し、軍備の
 強化の相談をした(グラバーにとっては商売)
  そして、また、高杉は、1866年に、3度目の長崎行き
 をして、薩長同盟の動きをする。
  1866年3月7日(慶応2年1月21日)(22日説あり)高杉
 は、桂小五郎・井上聞多・伊藤俊輔らと進めていた薩長
 盟約が、
  土佐藩の坂本龍馬・中岡慎太郎・土方久元の仲介によ
 って京都の薩摩藩邸で結ばれた。
1862年9月24日、松平容保(まつだいらかたもり、会津藩主)
 が、京都守護職に任命された。
1862年11月31日、イギリス公使館焼打事件が説得されて、
 中止とされた。
  攘夷断行を、幕府に促す勅使一行が、江戸滞在中の11
 月31日、高杉ら10余人は、横浜襲撃を計画したが、長州
 藩の説得で中止した。
  その詳細を記せば・・
  この計画は、久坂玄瑞が、協力を求めた土佐藩の武市
 半平太が、前土佐藩主の山内容堂に知らせてしまった。
  そのため、容堂公から長州藩主の世子・元徳に伝わり、
  世子と勅使の使者が、神奈川宿までやってきて、晋作
 たちに計画の中止を求めたため、この計画は頓挫した。
  しかし、その後、御楯組を組織し、勅使らが江戸を離
 れた後の1863年1月31日に、実行された。
  浪士、品川御殿山公使館の門衛を殺害す(氷川清話)
  幕府は、東禅寺事件などの対策の為、また、諸外国の
 要求を受け入れて、各国公使館を品川御殿山の景勝地に
 移す工事を進めていた。
  しかし、ここのイギリス公使館が焼き打ちにあう。
  何故、イギリスだけが?
  当時の志士たちも知っていたのだ。
  イギリス公使館だけが、火薬を仕掛けられて全焼して
 しまった。
1862年12月、勅使・三条中納言、副使・姉小路少将、東下、
 外交期限を促去る(氷川清話)
  『高杉晋作顕彰碑』の文に以下の記述がある(抜書)
  やがて勅使の三条中納言と姉小路少将が江戸を訪れ、
 幕府に攘夷の勅命を伝えた。
  幕府の態度は依然優柔不断で、なかなか攘夷を決断す
 ることができない。
  君(晋作)は同志らと謀って外国人を襲撃し事端を開
 こうとした。
  世子は引き止めたが、君たちは遂に御殿山の外国公使
 館に対し焼き打ちを行った。
  その後、世子(君主の世継)は君を京都に呼び寄せ、
 君は身分を隠すため剃髪し、その名を東行と号した。
1862年12月、軍役兵賦令を出す(氷川清話)
  500石以上の旗本,御家人に、領内から石高に応じて
 人数を出させ歩兵組として編成した。
1862年12月、勝海舟、小笠原閣老大阪出張につき順動丸に
 乗組を命ぜられ、且つ、摂海警護の事を報ずべきの命あ
 り(氷川清話)
  文中の小笠原閣老は、小笠原長行で(おがさわらなが
 みち、肥前国唐津藩の世嗣で、幕府老中になった)
 (1822年~1891年)
  1862年に、世嗣の身分のまま、若年寄、老中格と出世
 し、老中となった。
  生麦事件の時には、事態を、早急に終結させるために、
 1863年6月24日に、幕府に無断で賠償金10万ポンドを、イ
 ギリスに支払った。
  続いて太兵を率いて上京の途に就いた。
1862年12月、勝海舟、賜暇金5枚、時服2、及び羽織を賜う
 (氷川清話)
1862年12月、勝海舟、海軍所を兵庫、対馬に設け、その一
 を朝鮮に置き、終に支那に及ぼし、三国合従すの策を建
 白(氷川清話)
  勝海舟のこの考えは、日中韓の三国が合従して、欧米
 列強の帝国主義的搾取と金儲け主義を跳ね返そうという
 大東亜共栄圏的発想であった。
1862年12月、それまでの竜馬、
  竜馬は絶望し、武市半平太と決別し、脱盟し、やがて
 脱藩を敢行した。
  既存の勤王・佐幕の主義や、硬直し腐った幕府や藩の
 組織に関わりあっては、異質の価値観をもってせまる米
 国や西欧列強に対抗できないと竜馬は思った。
  自分流にやる。
  当時、全国の脱藩の士は京・大坂の尊王攘夷の志士に
 参加し、テロ行動を行なっていたが、
  竜馬は、下関を経て、薩摩から長崎へ回った。
  商売をして金を設け、海軍を作る。
  独自のプランがあった。
  一脱藩浪人に、すぐさまそれを実行に移す力はない。
  九州巡歴は、下見に終わった。
  やがて、竜馬は、大阪を経て江戸に出る。
  まず、訪ねたのが勝海舟である。
  海舟は、3年前に咸臨丸のキャプテンとして、米国に
 渡っている。
  その説は、開国、海軍立国である。
  「これからは、幕府や藩にこだわらず、国家百年の計
 をもって海軍を創設すべき」と・・、
1862年12月、坂本龍馬が、勝海舟の門に入る
  坂本龍馬(27歳)が脱藩して、江戸で勝海舟の門に入
 った。
  勝海舟の所に、土佐の士、坂本龍馬ほか九名門下に入
 る(氷川清話)
  「これからは、幕府や藩にこだわらず、国家百年の計
 をもって海軍を創設すべき」と、幕臣の海舟は、幕府批
 判もやり、海軍充実の必要を竜馬に説いた。
  当時、幕府は、咸臨丸ほか4隻の軍艦しか所有していな
 かった。
  海舟は、西欧の海軍を参考に、艦船百数十隻からなる
 大連合艦隊を構想し、幕閣に提案したばかりであった。
  竜馬は感動し、その場で弟子入りをした。
  そして・・、
  幕府は、海舟の建議した海軍操練所の設置を許した。
  海舟は、幕府に出費をさせるが、運営は自分の理念に
 基づいてやるつもりであった。
  脱藩の竜馬を塾頭格に据え、幕臣に限らず、諸藩から
 の有志を入所させた。
  浪人や士分以外の者も拒まない。
  竜馬は、小龍の薫陶を受けた土佐の同志を呼び寄せた。
1862年、日本初の「英和対訳袖珍辞書(えいわたいやくし
 ゅうちんじしょ)」が刊行された。
  編者は、通詞出身の堀達之助。
  幕府の命により、堀達之助が主任となって編纂し、こ
 の年・1862年に、洋書調所から刊行された。
1862年1月、官板バタヒヤ新聞(かんぱんばたびやしんぶん)
  幕末に発行された邦訳新聞。
  日本における新聞出版の初め。
  長崎のオランダ商館は、幕初以来,毎年オランダ商船
 のもたらす海外情報を江戸幕府に献上していた。
 これを〈オランダ風説書〉といったが、
  安政末年に至り、ジャカルタのオランダ総督府機関紙「
 ヤファンシェ・クーラント」が、代わって献上されるよ
 うになり、
  蕃書調所が翻訳して幕政当局に提出した。
  1862年(文久2)1月、幕府は、御用書肆であった本所竪
 川三之橋の老皀(ろうそう)館に、これを「官板バタヒ
 ヤ新聞」と題して出版させた。
1862年、アメリカ・インディアンの方々の蜂起
  アメリカ・インディアンの方々は、アメリカ合衆国の
 度重なる嘘や裏切りに、10年の間の積もり積もった怨念
 が爆発して、戦いが起こされた。
  リトル・クロウに率いられたサンティー・スー族の方
 々が、1862年に、白人・アメリカ人の耕作地や商店や詰
 所、そして、砦などを襲撃した。
  恐怖に襲われた白人・アメリカ合衆国の住民たちは、
 家や収穫物など、何もかもを捨てて、逃げ出した。
  州政府は、「インディアンとの戦いは国家の戦争であ
 る」と宣言した。
  そして、中央政府に、連邦軍の出動を要請した。
  武器や戦う組織が、完全に大きく違う、すぐれている
 連邦軍に、インディアンの方々が敵(かな)う訳はなか
 った。
  アメリカ合衆国側には、インディアンの方々に対して
 「野獣と同じに取り扱うべきだ」とし、また、
 「血なまぐさい野蛮人」という記録が残されている様に、
  まったくの有色人種蔑視感によって、卑劣な戦いが行
 われた。
  その後も、その蔑視感で事態は進んだ。
  話し合いも、そして、条約などを結ぶ意思もアメリカ
 合衆国には無かった。
  ただただ殺戮し、そして、捕まえた。
  1800人のスー族の方々が捕らえられ、300人を殺した、
 絞首刑にされた。
  あたかも、インディアンの方々だけが悪いという態度
 だった。
  そして、38人のインディアンの方々が、マンカトーに
 連れて行かれ、市民たちの見る中で、公開処刑をされた。
  見せしめだった。
  怒りの市民の、公衆の、うっぷん晴らし的に殺す非人
 道的な行為が、アメリカ合衆国内で行なわれた。
  アメリカ・インディアンの先住民の方々の地であった
 場所で、その持ち主の方々を無残に殺す行為が行われた。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive