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2015年3月28日土曜日

(増補版)52B:気になった事柄を集めた年表(1358年~1378年)

 題:(増補版)52B:気になった事柄を集めた年表(1358年~1378年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1363年、世阿弥が生まれた(1363年~1443年)
1368年、足利義満が第三代将軍となった。
  足利氏の全盛時代となる。
1368年、元朝滅亡。南京で明が建国された。
  この年、トゴン・テムルは、首都の大都を放棄して、
 北のモンゴル高原へと退去した。
  モンゴル人が、中国を支配した元朝の滅亡だった。
  元朝は、モンゴル人の政権だったが、つまり、中国は
 モンゴルの植民地だった。
  つまり、この事件は、モンゴルが植民地の一つを失っ
 ただけのことだった。
  モンゴル帝国は、中国の版図の何倍もの支配領域を持
 っていた。故に、この事は、モンゴル政権が、モンゴル
 高原に撤退しただけのことだった。
  中国は、いつの時代も、流民の暴走や宗教反乱で王朝
 が倒れ、そして、交代した。
  元を滅亡させた明の初代皇帝は、朱元璋(しゅげんし
 ょう、明の創始者で初代皇帝、廟号は太祖、また、洪武
 帝とよばれる、紅巾軍に参加した)、
  白蓮教徒が1351年に、各地で反乱を起こした(紅巾の
 乱)、そして、この皇帝も参加している、そして、頭角
 を現して行く、この頃に、皇帝になる野望を抱いたと言
 われている。
  参加したその軍の長が死ぬ(1355年)と、その軍を受
 け継いだ、そして、他の長の居なくなった(戦死)した
 軍を吸収し、大勢力になって行く。
  大勢力になると、各地の有力武士が集まって来た。
  紅巾軍のある一派は、大漢国を打ち立てたりした。
  反乱軍同士の覇権争いもあったりしたが、60万の大水
 軍を率いる一派も居た、朱元璋はその一派を救援したり
 した(1363年7月)、そして、大漢国を滅ぼした。
  朱元璋は、1364年に呉王を名乗った、同じく、呉王を
 名乗る一派と激突した。
  准南、江南を、1367年に統一した。
  1368年1月に即位し、元号を洪武とし、国号を大明と
 した。南京を都とし、後に、北京に都を移した。
  皇帝権力の強い中央集権制をとり、朱子学を官学とし
 た。
  また、土地と税金の台帳作成により、人民を把握して
 行った。
1368年、陽明学:明代の儒学者・王陽明が作った学派。
  王陽明は、形式化した朱子学に反対し、人間の心の働
 きの中に理があるとし(心即理)、人間本来の心の働き
 ・判断力を発揮するときは理は極められ(致良知)、知
 識と行動は一致しなければならないとする実践的思想を
 説いた。
  だが、この考え方は主流にならなかった。
  日本では中江藤樹によって普及し、心学・王学と呼ば
 れた。
14世紀後半、高麗:14世紀後半に中国で明が興ると、国内
 では親明派と親元派の対立が起き、新明派の李成桂が実
 権を握って新しい朝鮮王朝を建てた。
1369年、チムール帝国が成立した。
1370年、明軍が、モンゴルを討伐して南京に凱旋した。
1371年、合戦の使者の衣類の取得権で争いがあった。
1377年、教皇グレゴリウス11世がローマへ帰還する。
1378年、三条公忠(さんじょうきんただ、公卿)、知識人
 で歌人。師と仰ぐものが多かったという、猿楽を乞食の
 所行とし、世阿弥を寵愛する足利義満を非難した。
14世紀、この頃、キリスト教の宗教絵画を多く手がけたジ
 ョットはじめ、シモーネ・マルティーニらの、14世紀の
 西洋画科の巨匠たちは、中国はじめ東洋の絵画に大きく
 影響を受けた。
  中世の長い期間、イスラム教徒の学問は、世界最高水
 準にあった。
  ルネッサンスなどと言って、ヨーロッパで、中世末に、
 古代ギリシャ精神の復活があったとされて居るが作られ
 た話である。
  ヨーロッパが、アラビア語を介しながら、少しずつ習
 得したものであって、アラビア語訳のアリストテレスが、
 ヨーロッパ中世哲学の支柱をなした。
  ルネッサンスで言われる「古代の復活」が、具体的に、
 ヨーロッパの現実となることはなく、所詮、ヨーロッパ
 人の願望に過ぎなかった。
  せいぜい、大学のある都市の宮廷クラスや、知識人ク
 ラスだけであって、一般化はなされなかった。
  民衆レベルの意識を変えるまでの影響はない。
  本来、進んでいるイスラム文化や学問を、ヨーロッパ
 が語る訳が無い。
  ヨーロッパ人は、自己の歴史に刻まれたイスラムの痕
 跡を、逆に、「我が物だ」として語るのが当然。
  また同時に、モンゴルや中国などが、ヨーロッパへ及
 ぼした東方の影響も、ヨーロッパは隠し、見ないように
 し、語ろうとしなかった。
  日本人も、その様なヨーロッパ人の見方に影響され、
 同様の認識の中に居て、同じ行為をしている。
  例えば、日本の中村教授のiPS細胞のノーベル賞の発明
 も、後々には同様に、ヨーロッパの発明だとなされる様
 なもの。
  ルネッサンス画家・ジョットは、空間構成や人物像に
 おいて、特に、古代ギリシャではなく、モンゴル帝国の
 拡大によって知らされた中国絵画に影響されている。
  また、このジョットはじめ、シモーネ・マルティーニ
 らの、14世紀の西洋画家の巨匠たちも、影響を受けてい
 る。
  その絵画の目は細く、つり上がり、東洋人の顔となっ
 ている。彫りの深い西洋人ではなく、平たく、黄色人種
 の影響を受けた血を表現し、語っている。
  まさしく、この事などを正直に語ったのが、I・V・ブ
 ツィナである。その著書「中国・イタリアとルネッサン
 ス初期」である。
  中国の宋と元の絵画からの影響を具体的に述べている。
  当然の様に、アメリカやヨーロッパは黙殺した。
  その影響度が、過大であるにもかかわらずである。
  モンゴルの影響は過大であった。
  画期的スケールでなされていた。
  しかし、語られることはほとんど無い。
  ヨーロッパの近代化の華のように語られるルネッサン
 スは、ギリシャではなく、『東方の刺激』によって花開
 いたのである。
  そして、有色人種の無視・蔑視である。こんな事は、
 年がら年中やっている。
  これらは、モンゴルの統治方針の構想からなされた伝
 番であって、ただ単に、伝わったというものではなく、
 それ以上のものだった。
..
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2015年3月26日木曜日

(増補版)51B:気になった事柄を集めた年表(1338年~1358年)

 題:(増補版)51B:気になった事柄を集めた年表(1338年~1358年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1338年8月11日、足利尊氏が征夷大将軍となった。
  光明天皇から征夷大将軍を任じられた。
  京都に幕府を開く。室町幕府が始まった。 
  この頃、商業都市が起こった。
  室町時代に入ると、京都・奈良・境・兵庫津などの主
 要な商業都市には割符屋・替銭屋と呼ばれる専門業者が
 発展するに至った。
  また、農民や商人層の社会進出があった。民衆が見え
 る時代へと変わって行った。
  こういう形での新しい勢力の興隆の時代でもあった。
  技術の向上、生産の増大、工業の起こりがあった。
  また、河川による生産地と消費地間の運送とその河港
 商業都市への発展などもあった。
  また、河川のみならず海運も盛んで、倭寇が、朝鮮や
 中国沿海部を襲うぐらいだった。
  また、諸街道の整備も進み、同時に、街道筋の発展も
 あった。
  また、畳や障子などを組み込んだ日本の家の基本形は、
 室町時代に作られている。
1338年、百年戦争が起きた(英仏の100年以上に及ぶ果て
 しなき戦い、~1453年)
1339年8月16日、後醍醐天皇が崩御した(1288年~1339
 年)、奥州に至らず、吉野へ戻っていた義良親王(後の
 村上天皇)へ、8月15日に譲位し、翌日の8月16日に、
 吉野の金輪王寺で朝敵の討滅と、京都の奪回を遺言して
 崩御された。
  足利尊氏は、後醍醐天皇を弔い、京都に天竜寺を造営
 した。
  日本を良くして行きたいと行動した屈指の偉大な天皇
 だった。
1346年、室町幕府が、「故戦・防戦の法」を制定した。
  「戦いを無くしたい」「戦争を無くしたい」の願いか
 らできた法である。
  この思想は、日本は以前からあった。
  また、豊臣政権の「惣無事令」へとつながっていく。
  そして、刀狩へとつながり、武器のない日本へとなっ
 て行く(悲惨な銃社会ではない)。
  この「故戦・防戦の法」は、攻撃を仕掛けたものは無
 条件に処罰、戦者側は非があれば同罪、非がなければ
 無罪とした。
  「非が無くても、戦いを仕掛けたらダメ」の思想。
  無罪となる道は、「戦いは仕掛けなかった、そして、
 仕掛けられたけれど、非も無かった」しかない。
1346年、クレーシーの戦いが起きた。
  100年戦争の初期の戦争。
  イギリスのエドワード3世(1万2千人の兵)が、フラ
 ンスのフィリップ6世(3万~4万人の兵)を、フランス
 北部の街クレシーで惨敗させた。
  この100年戦争を、今・現在の英仏の国境線から考えれ
 ば、イギリスが、フランスの領土を欲しいと言って始まっ
 た戦争で、愚かにも、100年間以上も戦争をした。
  キリスト教の聖書にある「目には目を」の教義ではない
 が、果てしなく続く、愚かこの上ない戦争だった。
1347年、ペストが世界中に広がっていく。
1348年~1350年、ペストが流行するが、特に、この頃の
 流行の猛威は凄(すさ)まじかった。
  ヨーロッパの3分の1の方々が亡くなった。
  全滅した村もあった。
  死者を埋葬する間もなく、次々と死者が出て、町のい
 たるところに累々と死体が積まれた。
  この黒死病と呼ばれるペストは、14世紀に蔓延し、人
 口が激減したが、
  15世紀になってもこの状態は続き、キリスト教も絡ん
 だりした戦争が頻発し、領主と農民との間で果てしない
 闘争が繰り広げられてもいた。
  生産は停滞し、飢饉も襲った。暗黒の時代だった。
1351年、夢窓疎石(むそうそせき、禅僧)が没した(1275
 年~1351年)、世界遺産に登録されている京都の西芳寺
 (苔寺)および天竜寺のほか、瑞泉寺、恵林時など多く
 の庭園の設計でも知られる人。
1351年、紅巾の乱が起きた。
  中国の農民の反乱(初めは黄河の建設作業員が戦う)。
  元朝の末期症状。
  この乱は、「元王朝の打倒と、ユートピア社会の実現」
 を唱えた。
  元の末期になると、皇帝を、力の強い臣下が擁立した。
  故に、臣下同士の争い、殺し合い状況となった。
  その為、その臣下が変われば、皇帝も変わるという状態。
  当然、政治も混乱。統治能力は失われていた。
  挙句に、凶作・飢饉が頻発していた。
  当然、民は立ち上がった。
  「白蓮教」という宗教団体の人が、黄河の建設作業に
 従事していた人々と反乱を起こそうとした。
  しかし、企てが発覚し、白蓮教の教祖は処刑された。
  一旦は、この様に鎮圧されたが、処刑を免れた指導者
 が、その教祖の息子を擁立し、蜂起した。
  蜂起は成功し、短期ではあったが、一時は、国を号す
 るまでなった。
1352年、室町幕府が「故戦・防戦の法」を改訂した。
  防戦者側に非がなくても、所領半分を没収するとした。
  何しろ争いはするなと言う事。
1352年、この年に始まる「半済(はんぜい)」が普及した。
  これは足利尊氏によって行われ、近江・美濃・尾張に
 実施された。
  戦費を賄うために、荘園収入を領主と武士で折半した
 ことから始まったもので、次第に土地そのものを折半す
 るようになり、守護による荘園支配が強まった。
  鎌倉期の守護が、軍事警察権にとどまっていたのに対し、
  余裕の出た室町期の守護は、軍事警察権のみならず、
 荘園領主が持つ権能をも持つようになった。
  また、領国内の武士(国人といった)の統制や、支配
 を持つという様に拡大して行き、室町期の守護は、守護
 大名へとなって行く。
1353年頃、吉田兼好が没した(1283年頃~1353年頃)
1358年、足利尊氏が没した(1305年~1358年)
1358年、足利義満が生まれた(1358年~1408年)
1358年、ハンザ同盟が成立。
  イギリスは、ヨーロッパの片隅の弱小の国家だった。
  当時、ヨーロッパは、ハンザ同盟(都市同盟、12世紀
 頃より始まる、1358年に成立、15世紀の最盛期の都市数
 は200を超えた)に、100を超える都市が参加するなど、
  また、イタリアの町々を結ぶ商圏が花開き、経済によ
 る豊かさを享受した。
  この様な弱小のイギリスに陽が当たって来るのは、ア
 メリカ大陸の発見(1492年、コロンブスが達した)と、
 インドへの航路の発見(1497年、バスコ・ダ・ガマが喜
 望峰を回ってインドへ達した)だった。
  大西洋を舞台にし始めたイギリスへと大転換して行き、
 弱貧な国家だったイギリスへ「おいしい収奪した利益」
 が流入し始めて行く。
  この旨(うま)さが忘れられない国家となって行く。
..
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2015年3月25日水曜日

(増補版)50B:気になった事柄を集めた年表(1335年~1338年)

 題:(増補版)50B:気になった事柄を集めた年表(1335年~1338年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1335年7月23日、護良親王が足利尊氏に反目し、建議を得
 て、鎌倉に配せられ、幽閉されていたが・・、
  そして、この日に、護良親王は中先代の乱の際に殺さ
 れた。
  護良親王(1308年~1335年、後醍醐天皇の第一皇子)
 は、元弘の乱には僧兵を率いて活躍した。
  その間、復職して名を大塔宮(おおとうのみや)から
 護良(もりなが、または、もりよし)と改め、熊野・吉野
 あたりに潜行し、国々に令旨を発し、勤王の兵を募った。
  建武の中興政府が成るや征夷大将軍となり、兵部卿に
 任じられた。
  間もなく、足利尊氏に反目し、天皇が、1334年、親王
 を鎌倉に幽閉され、足利直義の監視下に置かれた。
  中先代(なかせんだい)の乱に際し、足利直義の家臣
 によって殺された(1335年7月23日)。
  その家臣は、北条時行軍の手を逃れ、鎌倉がおちる際、
 秘かに、足利直義の命を受けた家臣が、護良親王を殺し
 たという、直義の独断だったという。
1335年、足利尊氏が天皇に叛いた。
  尊氏は、反乱鎮圧のために下った鎌倉で、天皇への叛
 意を明らかにしたという・・、
  その因として、武士として活躍しているが、その割に、
 恩賞が少なかった・・という一説がある。
  しかし、この時ではなく、後に決断したとの説もある
 が、その説が正しそうである。
  尊氏は、過去に、後醍醐天皇に征夷大将軍の官職をの
 ぞんだが許されなかったことがあった。護良親王は征夷
 大将軍になっている。
1335年8月2日、尊氏は、天皇の許可を得ないまま、軍を
 率いて鎌倉へ向かった。
  天皇は、やむなく征討将軍(せいとうたいしょうぐん、
 臨時の称号)の号を与えた。
  足利尊氏は、足利直義の軍勢と合流し、相模川の戦い
 で北条時行を駆逐して、8月19日には鎌倉を回復した。
1335年8月19日、足利尊氏が、鎌倉を回復した。
  足利直義の意向もあって、尊氏は、そのまま鎌倉に本
 拠を置き、独自に恩賞を与え始め、京都からの上洛の命
 令も拒んで、独自の武家政権創始の動きを見せ始めた。
1335年11月、足利尊氏は、新田義貞を君側の奸であるとし
 て、後醍醐天皇にその討伐を要請するが・・、
  天皇は、逆に、新田義貞に尊良親王(たかよししんの
 う、後醍醐天皇の皇子)をともなわせて、「尊氏討伐」
 を命じた。
  さらに、奥州からは、北畠顕家も南下を始めており、
 尊氏は、赦免を求めて隠居を宣言し、寺に引きこもり断
 髪したという。
  しかし、足利直義や、高師直(こうのもろなお、武将、
 尊氏の執事)などの足利方が各地で劣勢となると、尊氏
 は、彼らを救うため天皇に叛旗を翻すことを決意した。
  「直義が死ねば、自分が生きていても無益である」と
 宣言し、出馬した。
  尊氏は、12月に、新田軍を箱根・竹之下で破った。
1335年12月、箱根・竹下の戦いが起きた。
  この戦いの後、尊氏は、京都へ進軍を始めた。
  この間、尊氏は、光厳上皇と連絡を取り、叛乱に至っ
 た意味を説明している。
1336年1月11日、足利尊氏が入洛した。
  後醍醐天皇は、比叡山へ退いた。
  しかし、ほどなくして、尊氏は、奥州から上洛した北
 畠顕家と楠木正成・新田義貞の攻勢に晒される。
1336年1月30日、この日の戦いで、尊氏は敗れた。
1336年2月11日、尊氏は、この日の、摂津豊島河原の戦い
 (大阪市箕面市・池田市)で、新田義貞・北畠顕家軍に
 大敗を喫した。
  尊氏は、京都を目指すことを放棄し、海路で鎮西(九
 州)へ向かった。
  途中、播磨国(兵庫県姫路市)の赤松則村らに助けら
 れ九州へ下った。
  九州では、肥前国(佐賀県佐賀市)守護の少弐頼尚(
 しょうによりひさ、武将)らにむかえられた・・
 ・・が、九州の諸豪族の大半は宮方に味方した。
  そして、そこで待ち受けていた菊池氏・阿蘇氏ら2万
 の大軍を、尊氏は、多々良浜(たたらはま、福岡県)の
 戦いで破った。
  一度、宮方についたが、尊氏に加勢する者も出た。
  尊氏の戦法も積極的で、不利な状況を逆転して行った。
  この戦いで、九州のほぼ全域が、尊氏側に付くことと
 なった。
  尊氏は、戦いを勝つと、再び、体勢を整え直して・・、
 京を目指して、東上を始めた。
1336年4月13日、多々良浜の戦い。
1336年、足利尊氏が、また、東上した。
  追討を命じられた新田義貞は、赤松氏の拠る白旗城(
 兵庫県赤穂郡)や、足利氏の武将が籠もる三石(みつい
 し)城(岡山県備前市)を攻めあぐねていた。
  そんなことをしているうちに、新田勢が守る福山城(
 広島県福山市)が、陸路を進撃する足利直義の攻撃を受
 けて落城してしまった。
  退却した新田義貞は、楠木正成と共に湊川(みなとが
 わ、兵庫県神戸市)で決戦を挑(いど)むが、海路を進
 んで来た足利尊氏の上陸を許して、敗退した。
  湊川の戦いで楠正成が戦死した(43歳)・・が起きた。
  比叡山に逃れていた後醍醐天皇も、入京した足利勢に
 降りた。
1336年5月25日、湊川の戦い。楠木正成戦死。
1336年8月15日、足利尊氏が光明院を擁立した。光厳上皇
 の院宣によるものだった(北朝の始まり)。
  光明天皇は、まだ幼かったため(4歳)、兄である光厳
 天皇の院政が行われた。
  囚われた後醍醐天皇は、この即位をいったんは認めた
 ものの、尊氏が擁立した光明(こうみょう)天皇へ神器
 を剣璽渡御(けんじとぎょ)を迫られたが、天皇は奈良へ脱出さ
 れた。
1336年10月10日、後醍醐天皇が吉野へ遷幸した(南朝政
 権の樹立)。花山院に幽閉。
1336年11月1日、足利尊氏が、花山院に後醍醐天皇を訪ね
 て行く。
  南北朝の統合の話だった。
  後醍醐天皇の皇子の成良親王を、光明天皇の皇太子と
 することを条件に、神器を戴きたいという奏上だった。
  つまり、光明天皇の次に成良親王(なりながしんのう)
 を即位するという奏上だった。
1336年11月7日、建武式目17条を制定した。
  尊氏が発布したこの式目に、室町幕府の施政方針が示
 されている。
  中原是円(ぜえん)・真恵(しんえ)らの公家・僧侶・
 武家の法曹家に諮問して政治方針としてまとめたもの。
1338年7月2日、新田義貞(にったよしさだ)が没した(
 1301年~1338年)。
  越前国(福井県越前市)で交戦中に戦死した。
  東国の一御家人だった新田義貞。
  鎌倉幕府を滅ぼして中央へ進出し、その功績は多大で
 あった。
  南朝の総大将として重責を果たし、忠節を尽くして来
 た新田義貞の生涯が、やはり、戦いに場で幕を閉じた。
  義貞の首級は京都に送られ、引き回され獄門に掛けら
 れたという。義貞に恩を受けた多くの人が、嘆き悲しん
 だという。
  また、義貞の死後、義貞の息子らも戦乱に倒れたとい
 う。
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(増補版)49B:気になった事柄を集めた年表(1333年~1335年)

 題:(増補版)49B:気になった事柄を集めた年表(1333年~1335年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1333年4月29日、足利高氏(後の尊氏)が、丹波国篠村八
 幡宮(京都府亀岡市)で、反幕府の兵をあげた。
  後醍醐天皇は、隠岐を脱出されて、伯耆国(鳥取県倉
 吉市)船上山に籠城されていた。
  高氏は、この時、病中だったが、再び、鎌倉幕府の命
 を受け、名越高家とともに司令官として上洛した。
  この時、高氏は、妻子を同行させようとしたが、幕府
 は、人質として二人を鎌倉に残留させた。
  緒戦で、同行した司令官の名越高家が戦死した。
  高氏は、この事もあり、また、後醍醐天皇からの話が
 あったため、天皇方へと味方する事を決意した。
1333年5月7日、足利高氏が、京都を制圧・・
  後醍醐天皇へ味方する事を決意した高氏は、諸国へ軍
 勢催促状を発した。
  そして、これに応じた武将らを糾合して入洛し、この
 日・5月7日に、六波羅探題を滅亡させ、京都を制圧した。
 (そして後に、尊氏は、建武の中興第一の功臣となり、
 参議になった)。
  尚、この頃、赤松則村(あかまつのりむら、播磨国、
 今の兵庫県姫路市の地頭、1277年~1350年)が、
  後醍醐天皇の皇子・護良親王の令旨も受け、佐用荘苔
 縄城(兵庫県佐用町)で挙兵していたが、
  また、元弘の変(1331年の後醍醐天皇の幕府討伐計画)
 に際しても、本領播磨国佐用庄を中心に、反幕府軍とし
 て活躍したが・・、
  建武の中興の成立に寄与しているが・・、
  新政府に理解されず(地方だったからか?)優遇され
 ず、足利尊氏の叛と共に北軍に投じた。
  尊氏の九州への敗走するにあたっては、播磨を守って
 新田義貞らの南軍の西下を阻止し、尊氏から播磨守護に
 補任され、赤松氏繁栄の基を築いている。
  尚、この鎌倉時代末期のこの頃、「曽我物語」が成立
 している。
1333年5月中旬、新田義貞が挙兵した。
  幕府の御家人だった義貞は、京都の警護(大番役)を
 命じられ、上洛していたが、
  河内国で楠木正成の挙兵が起こり、幕府に従って「楠
 木正成討伐」に向かい、幕府側の武将だったが、
  正成の城である千早城の戦いにも幕府側として参加し
 ているが・・、
  しかし、1333年3月に、義貞は、病気を理由に無断で
 新田荘に帰ってしまった。そして、この日に、挙兵した。
  挙兵した日は、「5月5日説」や「5月8日説」がある。
1333年5月22日、鎌倉幕府が滅んだ。
  北条高時が没した(1303年~1333年)。
  関東・上野国の御家人・新田義貞軍が挙兵し、幕府軍
 を連破して鎌倉へ進撃する。
  新田郡が鎌倉へ侵攻すると、北条一族や家臣らと共に
 北条高時(31歳)は自刃し、鎌倉幕府が滅んだ。
1333年6月、後醍醐天皇によって「建武の新政(建武の中
 興)」が開始された。
1333年6月~10月、記録書・雑訴決断所・窪所・武者所を
 置いた。
1333年6月5日、高氏が、鎮守府将軍に任命され、名を尊氏
 に改めた。
  この時、護良親王は、足利尊氏らの足利氏の勢力を警
 戒し、奈良の信貴山(しぎさん)に拠り、尊氏を牽制す
 る動きに出た。
1333年6月15日、旧領回復令が発布された。
  御成敗式目で認められていた土地所有権が無効とされ、
 新たな土地所有権は、申請が必要とした・・が、
  申請者が都に殺到した。
  7月に、諸国平均安堵令が発せられ、この騒ぎの対象者
 は、北条一族のみとし、知行の安堵を諸国の国司に任せ
 た。
1333年6月23日、尊氏と護良親王の関係については、
  後醍醐天皇は、この日に、事態打開策として、護良親
 王を征夷大将軍に任命している。
1333年12月、尊氏の弟の足利直義が、後醍醐天皇の皇子・
 成良親王を奉じて、鎌倉へ派遣され、鎌倉将軍府が建っ
 た。
1334年1月、年号を「建武」と定められた。
  そして、この月に、新税が計画され、土地調査が行わ
 れた。また、新紙幣や貨幣の発行も計画された。
1334年3月、貨幣の「乾坤通宝」の発行詔書が出された。
 しかし、この通貨の存在は確認されていない。
  尚、この頃から、新令による問題点が出始める、所領
 問題、訴訟は恩賞の問題・・など。
  記録書などを新設し調整に努めたが、権限の衝突など
 の混乱が収まらず、新政の諸問題が露呈した。
1334年5月、本家(荘園制の土地の名義上の最上位の所有
 者)や、
  領家(荘園制においての荘園開発した開発領主から寄
 進を受けた荘園領主)が廃止された。
  また、徳政令が発布された(債権債務の無効を意図し
 た事になってしまった)。
  また、雑訴決断所の訴訟手続法が定められた。
1334年8月、この頃の新政下の混乱した世相を風刺する二
 条河原落書(にじょうがわらのらくしょ)が現れた。
  「コノゴロ都ニハヤル物、夜討(ヤトウ)、強盗、ニ
 セ倫旨(リンジ)、召人(メシウド)、早馬、虚騒動(
 ソラソウドウ)・・」という書き出しで始まる。
  世相・人情・風俗・下剋上の世界・成り上がり者・軽
 薄な流行ファッション・退廃と混乱の世相を描き出した
 庶民の痛烈な落書。日本落首史上の傑作という。
1335年7月、北条時行の乱が起きた。(中先代の乱)。
  鎌倉幕府の第14代執権・北条高時の遺児である北条時
 行の乱が起きた。
  鎌倉幕府再興のための挙兵だった。
  御内人(みうちびと、執権北条氏の家督に仕えた武士)
 の諏訪頼重らに擁立され、時行が鎌倉へ侵攻した。
  先代(北条氏)と後代(足利氏)との間にあって、一
 時的に鎌倉を支配したことから、「中先代の乱」と呼ば
 れている。
  鎌倉支配は、20日余りしか続かなかった。
  鎌倉幕府の滅亡の後、「建武の新政」が打ち立てられ
 たが、
  そして、鎌倉には、後醍醐天皇の皇子の成良親王を長
 として、尊氏の弟の足利直義が執権として、これを補佐
 する形の「鎌倉将軍府」が置かれていた・・が、
  しかし、この政権は、武家の支持を得られていなかっ
 た。
  北条氏の残党などが各地で蜂起を繰り返す状態だった。
  1335年6月には、京都で政権転覆を企てた陰謀が発覚
 したりして、不穏の世情だった。
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2015年3月24日火曜日

(増補版)48B:気になった事柄を集めた年表(1324年~1333年)

 題:(増補版)48B:気になった事柄を集めた年表(1324年~1333年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1324年7月、後宇多天皇が崩御した(1267年~1324年)
1324年9月、正中の変が起きた。
  鎌倉幕府の討幕の動き・・
  後醍醐天皇(1318年に即位)の討幕計画が漏れ、日野
 資朝(ひのすけとも)・俊基(としもと)らが罰せられ、
 土岐頼兼・多治見国長は処刑された。
  漏れた原因は、土岐頼兼が、いよいよ計画が実施とな
 る頃、妻に「今生の別れ」のように話してしまったこと
 による。
  後醍醐天皇は、幕府が乱れていたため、討幕を決意さ
 れた。
  幕府の北条高塒は、田楽や闘犬に興じたりして政治を
 顧みなくなっていた。
  後醍醐天皇は、討幕の計画を練るために、朱子学の講
 習会や無礼講を開き、同志を糾合したという。
1324年11月14日、「花園院宸記」に、この日の事につい
 て、「聖主の謀叛」という表現を用いている。
  それによって「天皇の謀叛」という観念が、当時、一
 般に広がっていた事が分かる。
  「公」と「国家」と「天皇」、これは古代律令国家に
 おいては一体であった。
  少なくとも鎌倉初期にあっては、幕府は、自己の行動
 の合法性を皇室=古代国家の承認によって獲得していた。
  それが、社会に対する幕府の権威の裏付けをなした。
  ところが、南北朝・室町時代になると、その価値体系
 が崩れて行く。
1325年7月、幕府が、「元」へ、建長寺船を遣わした。
  翌年9月に帰航した。
  もうすっかり、日本に、「元アレルギー」は無くなっ
 ていた。
1326年3月16日、第15代執権・北条貞顕(1326・3・16
 ~1326・3・26)
1327年4月24日、第16代執権・北条守時(1327・4・24
 ~1333・5・18)
1328年、100年戦争が始まった。
  フランスの領土をめぐる英仏間の戦争。
  フランス国王・シャルル4世が1328年に死ぬと、男子
 の継承者が居なかったため、フランスは家系が絶えたの
 で、別の家系の従兄弟の王を即位させ王位を継承した。
  そして、この年の1328年に、戴冠式を迎えたが、
  その戴冠式に先立って、家系が絶えたフランス国王の
 血筋のイングランド王が、フランス王位の継承権を主張
 した。
  そして、その王位継承をめぐってフランスへ侵攻した。
  フランスとイギリスの間で、100年戦争(1337年~
 1368年)が始まった。
1330年頃、この頃、吉田兼好が「徒然草」を書く。
1331年8月、元弘の変(げんこうのへん)。
  後醍醐天皇の第二回目の討幕計画が失敗した。
  討幕計画が、側近の密告により未然に露見した。
  後醍醐天皇は、急遽、御所を脱出し(女装をされて脱
 出されたと言われている)、8月27日には笠置山(京都
 府相楽郡)に至り、挙兵した。
  護良親王も、吉野で兵をあげた。
  また、楠木正成も河内国で兵をあげた。
1331年9月2日、笠置山にて、後醍醐天皇側と鎌倉幕府側
 との間で戦いが始まった。
  最初、幕府側は、天皇が比叡山にいるものと思ってい
 たが居ない事に気付き、9月2日に、笠置山を包囲して、
 攻撃を始めた。幕府軍75000、天皇側3000余、
  天皇側は少数であったが、よく善戦した・・が、9月
 28日に、幕府側が山に放火するなどし、天皇側は総崩れ
 し、陥落した。
  数日して、後醍醐天皇や側近は幕府側に捕らえられた。
1331年9月20日、戦いの最中の9月20日に、幕府は、後醍
 醐天皇が京都を去っているので廃位とし、皇太子を即位
 させた(光厳天皇、後伏見天皇の第三皇子)。北朝の
 始まり。
1332年4月2日、後醍醐天皇が隠岐(島根県)に流された。
  捕らえられてから約6か月の後だった。
1332年9月28日、笠置山の戦いで敗北した後醍醐天皇は、
 捕らえられ、隠岐に流されたが、
  笠置山を落ち延びて残った楠木正成は、護良親王を擁
 して、赤坂城(河内国、河内国府は大阪府藤井寺市、正
 成が挙兵した城)で、幕府軍と戦っていた。
  楠木正成500、幕府軍20万~30万。
  笠置山の戦いから、約1年の間、善戦したが、楠木正成
 (1294年~1336年)は、この日に、敗退した(赤坂城
 の戦い)
  楠木正成は、「楠木七城」と言う城や砦をたくさん持
 っていた。
  河内国金剛山にある千早城もその一つ。
  彼はこの城をうまく使い、また、金剛山の標高1125
 メートルの地形をうまく使い、
  また、鎌倉幕府方の湯浅宗藤を味方に引き入れたり、
  また、作戦に奇策を用いたりして善戦していた。
1333年2月1日、護良親王が討幕の令旨を出す(太山寺文
 書)。
1333年4月9日、後醍醐天皇が隠岐から脱出した。
  名和長年が、船上山に天皇を迎えた。
  この頃、楠木正成らの活躍に触発されて、各地には討
 幕の機運は広まっていた。
  因みに、名和長年(なわながとし)は、鳥取県で海運
 業を営んでいた名和氏の当主で、武将。
  楠木氏も同様に、商業活動を行っていて、比較的裕福
 な武士だった。
  名和長年は、海運業であったため天皇を脱出させ得た
 のだろうし、天皇も船上山に迎えている。そして、その
 後、鎌倉幕府の倒幕運動に加わっている(船上山の戦い
 をしている)。
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2015年3月22日日曜日

(増補版)47B:気になった事柄を集めた年表(1303年~1324年)

 題:(増補版)47B:気になった事柄を集めた年表(1303年~1324年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1303年、アナーニ事件が起きた。
  ローマ法皇のボニファティウス8世とフランス王フィ
 リップ4世の対立からアナー二事件が起きた。
  フランス軍が、法王を襲撃した事件である。
  法王は死ぬ(キリスト教は、病気で死んだんだと言っ
 ている)。
  この頃、十字軍に対する批判が強くなっていた。
  また、ローマ教皇の権威と共にキリスト教の権威も揺
 らいでいた。
  権威を誇示するローマ法王との間で軋轢が生じていた。
  「すべて、教皇に服従すべきである」と宣言していた。
  時代は大きく変わっていたのに・・。
  このボニファティウス8世は、非常にぜいたくな生活を
 していると、また、教会の役職を金で売っていたと弾劾
 されている。
  また、このいざこざに、テンプル騎士団を解散させて、
 多くのお金を得る(財産没収)など、金に絡む話が多い
  (テンプル騎士団は、十字軍遠征などの略奪品で財産
 が一杯あった)。
1304年、後深草天皇が崩御した(1243年~1304年)
1305年、足利尊氏が生まれた(1305年~1358年)、貞氏
 の子。早くに源氏の再興の志があった。
  武蔵守に任ぜられて、尊氏と改名した。
  時勢を洞察して武士を糾合し、公家の中心の護良親王
 を失脚させ、1335年に、北条時行の征伐のために鎌倉に
 下り、ついに、中興政府に叛き、大挙して上洛した。
1305年、亀山天皇が崩御した(1249年~1305年)
1305年、この頃、羅針盤が発明された。
1305年、ジョット・ディ・ボンドーネというイタリア人
 画家兼建築家が居た。
  この年に、礼拝堂の内部装飾画を書いたりした。
  比較的、キリスト教の宗教画を多く描いた。
  イエスが十字架に磔になった後、降ろされて、聖母マ
 リアがその死を嘆くという状況があったとされ、その場
 面を『ピエタ』と言ったが・・、
  この画家の描いた「ピエタ図」は、他の画家と大きく
 違っていた。
  異常な違いなのであるが、聖書を読んでも分かる様に、
 イエスが磔刑になる場には、一緒に刑に処せられる強盗
 の十字架が立っており、そして、刑を執行する役目の刑
 執行人が居るという殺伐たる光景である。
  居る人と言ったら、聖書には、そのイエスの刑の執行
 を見ようと集まった群衆・見物人。これでほとんどとな
 っている。
  イエスの弟子は、馬鹿な事に、逃げて隠れてしまって、
 この場には居ない。居るのは母マリア、娼婦のマグダラ
 のマリア、他2人ぐらいの女性だけ。この状況は聖書に
 書いてある。
  しかし、ジョットのピエタ図には、仏教の涅槃図のご
 とく、多くの弟子や、人々や鳥や花などに囲まれた涅槃
 図の様になっている。
  ジョットは、明らかに、この東洋の釈迦の死の涅槃図
 をモンゴル経由で知っていた。
  シルクロードなどで、インド仏教の影響は、輸送・搬
 送される物と同時に、ヨーロッパ世界へ伝わっていた。
  キリスト教は、「一神教の壁があったから、伝わって
 いない」というが、これはまったくの嘘のプロパガンダ
 で、洗脳である。嘘とプロバガンだばかりをするキリス
 ト教というところとなっている。
1306年、我が国の商船が元に入り、貿易をした。
1308年8月10日、第9代将軍・守邦親王(1308・8・10~
 1333・5・22)
1309年、ローマにあった教皇庁が、フランス王フィリップ
 4世によって南フランスのアヴィニヨンに移された。
  ローマ法王のクレメンス5世が、ローマを嫌ったとの話
 もある。そして、ここに、77年間、教皇庁は置かれた。
  ローマは、ますます寂れた。政治も宗教もローマを去
 った。
1310年、神聖ローマ皇帝ハインリヒ7世のイタリア遠征(
 ~1313年)。
  イタリアが、神聖ローマ帝国に侵略された。
  ダンテは、これを「喜劇(コメディ)」と呼んだ。
  後に、ボッカチオが神聖をつけて「神聖喜劇」と呼び、
 「神曲」となった。
  ダンテが、あなたが喜劇と名付けたものが、神曲にな
 っていますと聞いたら、びっくりするだろう。
1310年、この頃、大友氏が、『元』と私貿易をした。
1310年、家畜図譜の早い例「国牛十図」ができ、馬は関東、
 牛は西国の言い方がみえる。
1311年10月3日、第11代執権・北条宗宣(1311・10・3
 ~1312・5・29)
1312年6月2日、第12代執権・北条熙時(1312・6・2~
 1312・5・29)
1315年7月12日、第13代執権・北条基時(1315・7・12
 ~1315・11・20)
1315年~1317年、西ヨーロッパの大飢饉。
  ヨーロッパが、天候異変により深刻な飢饉となる。
  餓死者多数。1315年には、150万人もの餓死者を記録
 した。また、疾病による死者も増加した。
  この飢饉は、ニュージーランドにあるカハロア火山の
 5年間も続いた火山活動によって引き起こされたとされて
 いる。
1316年7月10日、第14代執権・北条高時(1316・7・10
 ~1326・3・13)
1317年、文保の和談(ぶんぽうのわだん)。
  皇位継承のルールを幕府が仲介してまとめた。
  持明院統と大覚寺統との協議が行われた。
  この流れの中で、後醍醐天皇が討幕を決意していった。
1321年、ダンテが死んだ。
1322年、英国のマンデヴィルが地球が球形であることを
 説いた。
1324年、マルコポーロが没した(1254年~1324年)
..
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