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2015年7月18日土曜日

(増補版)157D1/3:気になった事柄を集めた年表(1723年~1725年)

題:(増補版)157D1/3:気になった事柄を集めた年表(1723年~1725年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1724年6月、令:大名および全幕臣に倹約令を発した。
  吉宗は、理知的に改革に向き合った。
  封建体制を強めて、幕府だけが良くなるなどという改
 革ではなかった。
  ヨーロッパによくある、自分たちだけという視点では
 なかった。
  世の変化、社会の方向を直視し、その流れに即して、
 その変化に合わせて、幕府財政を切り替えよう、建て直
 そうという努力だった。
  時代の流れの先取的な所もあった。
  それ故、吉宗は「幕府、中興の祖」と言われ、名君と
 言われ、
  そして、死後、間もない頃から神格化された。
  そして、この頃から、吉宗の改革の中心的施策が行わ
 れて行く。
  老中・水野忠之が、幕政の中心となって活動した。
  この時期、幕政の中心であった代官制度で、代官が、
 口米や口永だけで、経常費を賄えることのできる代官所
 は日本中から居なくなっていた。
  (注)口米:くちまい、米納の本租である年貢米のほ
   かに加徴された税米。
  (注)口永:くちえい、金納の貢租に付加された税。
  真面目につとめれば勤めるほど、借金の代官だった。
  吉宗は、1716年から、口米支給仕法を廃止した。
  それに代えて、地域に応じて代官所の必要経費を算定
 し、それを、幕府から支給する方式に切り替えた。
  罰せられる代官は、悪いことをしたくて処罰される様
 な事をしていたのではなかった。
  この後、処罰される代官は、ほとんどと言って居なく
 なった。
  必要なものは与える、しかし、中心になるのは支出を
 とにかく抑制するという方策だった。
  新田開発もしたが・・、
  そして、吉宗は、当時のヨーロッパと比べても、立派
 な福祉大国の手厚い政治もした。
  社会資本整備もよくした。
  民を思う心がその基本にあった。
1724年11月、近松門左衛門が没した(1725年説あり)。
 (1653年~1725年)、72歳。
  江戸元禄期の人形浄瑠璃・歌舞伎の作者、巨星!落つ。
  辞世の歌:「残れとは 思ふも愚か 埋み火の 消ぬまあ
 だなる 朽木書きして」・・
  大意:埋火が消えずに残るわずかな暇に、書いたたわ
 いない作品が、あとあとまで残れと思うだけでも、愚か
 なことだなぁ・・
1724年、経済施策:諸物価引き下げを命じた
  米価下落のため、諸物価引き下げを命じる。
 (諸色元値引き下げる)
  かつて、1706年に、大豆の値段が下がったのに、豆腐
 の値段が非常な高値のままで下がらない、江戸町奉行は、
 豆腐屋全員を呼び出して、理由を問いただした。
  結局、カルテルをしている事が判明した。
  (注)カルテル:同一業種の各企業が、独占的利益を
   得ることを目的に、競争を避けて価格の維持・引き
   上げ、生産の制限、販路の制定などの協定を結ぶ連
   合形態。今、日本では独占禁止法で禁止されている
   悪の行為。
1724年、組合結成を命ず(1721年8月説あり)
  江戸の生活必需品22品目(96種との説あり)の問屋に
 組合結成を命ずる。
  幕府が、江戸問屋仲間の組織を本格化させた。
  扇屋、菓子屋、雛人形屋など、幕府から考えて嗜好品
 と思われる商品の組合の結成を命じて作らせ、その商品
 を作って販売しない様にした。倹約の為・・、
1724年、江戸日本橋で塗家・土蔵を命じる(防火性向上)。
1724年、懐徳堂(かいとくどう、学校)が開設した。
  (1726年に、幕府官許の学問所となった)
  大阪の豪商たちが、三宅石庵を学生として懐徳堂書院
 を設立した。
  庶民教育の漢学塾で、朱子学・陽明学が講じられた。
  吉宗が援助し、大阪尼崎町に建てた半官半民の学校。
  ここに、中井甃庵(なかいしゅうあん)・竹山履軒・
 並河誠所・五井蘭洲等、緒方洪庵らが集った。
1724年、社会資本整備:印旛沼(いんばぬま)の干拓
  洪水期に冠水の害が頻発した。
  幕府は、この年の1724年と1758年と1843年の3度、干拓
 を計画した。工事は難航した。
  沼の西端平戸村から検見川村までの延長約17キロの掘
 割を掘り、沼の水を江戸湾に落とそうとする工事が3回行
 われた。
1724年、ファーレンハイト(ドイツ)が、華氏目盛りを始
 めた。
1725年、新井白石が没した(1657年~1725年)(68歳)
  白石が、幼少の家継の将軍の権威を向上しようと改め
 た朝鮮通信使の応接や武家諸法度は、吉宗によって翻さ
 れた・・が、
  (吉宗の「援立の臣」達は、白石が怖い先生で、白石
 をその政策と共に排斥したかった)
  しかし、将軍家宣は、白石の献身的努力を感じて、白
 石との関係を「一体分身(一体の神仏が、衆生救済のた
 め様々な姿をかりて現れること、また、その神仏)」と
 支持を表明していた。
  白石の正徳政治は、仁政(じんせい、恵み深い、思い
 やりのある政治)を基本理念としていた。
  一方、賄賂請託(わいろせいたく、賄賂で特別の計ら
 いを頼むこと)の腐敗政治の一掃に努力し、民の政治不
 信の解消に努力したりしていた・・また、
  公平な裁判が行われるように意を配り、百姓ほか多く
 の庶民を冤罪(えんざい、罪がないのに罰せられること)
 から救っていたり・・と、
  これらは、正徳の治と称せられ、吉宗の政治にも継承
 され・・(吉宗は、原則的に白石の政策を承継した)、
  白石の業績は多方面にわたって、歴史的意義は大きい。
  また、学問的業績も、先駆的な偉大な業績を遺した。
  歴史的に偉大な存在の人だった。
1725年3月、大判改鋳を命じた。
  吉宗は、白石のデフレ政策を継承した。
  白石は、改鋳を20年もかけてゆっくり実施する事を命
 じた・・が、
  吉宗は、白石の路線を継承するが、その実施において、
 改鋳を急激に行って行く。
  その辺が、吉宗には、それが幕府財政にどのような影
 響を与えるかの理解が至らなかった。
1725年、社会資本整備:飯沼新田工事を着工した。
  農民の悲願に応える形で行われた。
  まず、新しい川を開削し、飯沼の水を利根川に流した。
  そして、さらに飯沼の水を落とすために南北に流れる
 川を開削するという、大変、手の込んだ工事だった。
  次に、飯沼に流れ込んでいる川の水を東西に分けた。
  そして、新田に流れ込むようにもした。
  この様に、何本の川を作り、水路をつくる工事だった。
  吉宗に呼ばれて、紀州から来た井沢弥惣兵衛為永の指
 導で行なわれた。
1725年、古今図書集成(ここんとしょしゅうせい)が成っ
 た。
  中国、清代の類書(今の百科事典に近いもの)。
  1万巻で、中国最大の類書。
  初め、1698年に、康煕帝の命によって陳夢雷が編纂し、
 27年の時を経て、この年に完成した。
  翌々年の1727年に、銅版印刷法で64部を刷った。
1725年2月、ベーリングの第一次カムチャッカ探検
 (~1730年)
   ピョートルは、1682年に皇帝に即位し、1696年には、
 ロシア初の艦隊を組織して、トルコのアゾフで勝利した
 りした。
  そして、1700年からは、バルト海の覇権を巡って、ス
 ウェーデンとの間で、北方大戦争を始めたり、
  そして、1722年に、22年間におよんだ戦争に勝利する
 と、1720年からは、ドイツ人学者が率いるシベリア調査
 隊を派遣した。
  続いて、カムチャッカ探検隊を組織し、操船技術の長
 けたベーリングを隊長に任命した。
  このピョートルの命を受けたベーリングは、1725年2月
 に、50名を率いて、サンクトペテルブルグを出立した。
  そして、この年の8月に、この探検を命じたピョートル
 1世が没した・・が、ベーリングは、シベリア横断を続け、
 19ヶ月をかけて、1726年9月に、オホーツクに到着した。
  そして、その地で、船舶を作って、北極海への入り口
 のデジネフ岬に到達した。
  しかし、海の向こうにあると思われる東方の陸地(ア
 ラスカ)の調査まで至らず、
  1730年に、不十分な結果を携えてサンクトペテルブル
 グへ帰還した。
  その後、第2次探検隊の派遣が行われる(1732年~
 1743年)。
..
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2015年7月17日金曜日

(増補版)156D1/3:気になった事柄を集めた年表(1722年~1723年)

題:(増補版)156D1/3:気になった事柄を集めた年表(1722年~1723年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1723年、前野良沢(まえのりょうたく、豊前国中津藩の藩
 医で蘭学者)が生まれた(1723年~1803年)
  47歳にして蘭学を志し、青木昆陽に学ぶ。翌年、長崎
 へ遊学。
  「解体新書」を翻訳し、書く。
1723年、池大雅(いけのたいが、文人画・南画の大成者)
 が生まれた(1723年~1776年)
  「桜閣山水図」(六曲一双):国宝
1723年2月、幕府が、心中を禁じた。
  情死の罰則を定め、歌舞伎・浄瑠璃の心中物の上演を
 禁止する。「曾根崎心中」の上演を禁ずる。
1723年6月、経済政策:足高制を実施した。
  下級武士の抜擢を容易にするために設けられたのが、
 足高の制度で、
  これは、あらかじめそれぞれの役所に相応の役高を定
 めておく、
  例えば、町奉行・勘定奉行は、3000石、作事奉行・普
 請奉行は2000石・・と、
  そうして家禄がそれに及ばない者は在職中にかぎり、
 その額まで加給される。
  この制度は、この後、大いに効果を発揮し、少禄の者
 の栄進の道が大きく開けたが、また一面、役職に伴う収
 入に対する世襲家禄の比重がどんどん軽くなり、武士の
 サラリーマン化を促進した。
1723年、質地騒動
  出羽村山郡で質地騒動が起きた。
1723年8月、質流地禁令(りゅうちきんしれい)を撤回
  質流地禁止令は、1721年12月(1722年4月説あり)に、
 出された。
  この法令は、幕府の祖法(そほう、祖先から代々伝わ
 る法)である田畑永代売買禁止令が質流れによって有名
 無実化するのを防ごうとするものであったが、質地騒動
 などの混乱が生じたために、この時に、撤回された。
1723年、新田開発を奨励
  代官見立新田十分一法を定め、年貢の十分の一支給を
 条件に幕領代官の新田開発を奨励した。
  諸大名もこれにならって大いに開墾に力を入れた。
  そして、新田の主流が、官営の代官見立新田から民営
 の町人請負新田へと変わって行く。
  今現代でも、民営化で経済を活性化させるのと同じ事
 が、すでに、この江戸の時にも行われていた。
  この民営で開発された新田には「鍬下年季・くわした
 ねんき」と言って、3年間以上の免税期間があった。
  そして、幕府も奨励する意味から、この鍬下年季の延
 長している例も多かった。
  また、幕府は、援助金を出して、利子も安くしている。
  そして、開発した新田は町人の所有を許した。
  そして、開発した新田を売って、早期に資金回収し、
 また、儲けを手にする者もいた。
  課税比率も、一般の天領が税率30%だったが、その10
 分の1程度だった。そして、収量が悪い悪地の場合は非
 課税となった。
1723年、武蔵野新田開発が始まった。
  享保の改革の一環として展開された新田開発政策にお
 いて、武蔵野台地を中心に開発された享保期新田の総称
 で、総石高は1万2600石余であった。
  武蔵国の多摩郡・入間郡・新座郡・高麗郡の4つの郡
 にまたがるもので、計82の農村がここに開拓された。
  水田は少なく、陸田が多かった。
  新田出百姓の総戸数は、1739年当時で、1300戸程度。
1723年、「おかげまいり」が流行した。
  「お蔭参り(おかげまいり)」は、伊勢神宮への集団
 参詣であるが、
  数百万人規模のものが、およそ60年周期に、3回おこ
 った。
  江戸からは片道15日間、大阪から5日間、名古屋から3
 日間、東北地方からも、九州からも、参宮者は歩いて参
 拝した。
  また、この時代は、五街道を初めとして交通網が発達
 整備されていて、参詣が以前より容易となっていた。
  世の中も落ち着いた、良い社会となっていた。
  観光の目的も含んで、庶民は楽しんだ。
  農民でも、現金収入を得る事が容易となり、
  現代の「旅行ガイドブック」に相当する本も出ていた。
  伊勢神宮の参詣に関しては、幕府の厳しいお咎めは、
 なしだった。
  伊勢神宮参詣の名目で、通行手形さえ発行してもらえ
 れば、実質的には、どの道を通って何処へ旅をしても問
 題はなかった。
  参詣後にも、京・大坂などの見物を楽しむ者も多かっ
 た。
  「お伊勢講」による旅費の相互扶助的な仕組みも流行
 をつくった。
  庶民の人生の楽しみとして位置づけられ、そこに、講
 という仕組みが、貧乏な人にも、一生に一度はという参
 詣ができるという希望を与えた。
1723年、人事:吉宗が、田中丘隅(たなかきゅうぐう、休
 愚とも)を召し抱え、民政・治水を委(ゆだ)ねた。
  1723年に、支配勘定並に抜擢された(または、川方御
 普請御用を命ぜられた)。
  吉宗のもとで、荒川・多摩川の治水を行い、酒匂(さ
 かわ)川の築堤を行った。
  田中丘隅は、民政家、武州川崎宿の名主だった。
  50歳を過ぎてから、荻生徂徠に学び、治水や、民政に
 功績があった。
  民政上の意見を、1721年に書いた「民間省要(みんか
 んせいよう」がある。
  これは、1722年に、幕府に提出された。
  「民間省要」は、農政書であるが、役人の横暴を批判
 し、武士階級だけではなく、民間の有為な者の登用を主
 張した。
1723年、人事:松平乗邑(まつだいらのりむら、下総佐倉
 藩主)が老中になる。
  享保の改革に参画し、幕府財政の再建にあたる。
  1744年に、年貢徴収量の最高値をみた。
  しかし、翌年の1745年に、突然、老中を罷免され、蟄
 居(ちっきょ)を命じられた。
  この原因として、有毛検見法(ありげけみどりほう、
 田畑の位や石盛に関係なく、実収によって年貢を決める
 法)による年貢増徴政策の強引さに、諸大名、旗本、町
 人、農民などの諸階層の強い反発や批判があったという。
  その強引なやり方は、重罪に処すという罪を事前にひ
 らめかせて、百姓の抵抗をくじくというやり方だった。
  年貢が多いからと喜ぶ幕府ではなかった。
1723年、中国・清の雍正帝が、キリスト教を厳禁し、宣教
 師をマカオへ追放した。
1723年、ブラジルのリオのカーニバルが、この年に、始ま
 ったが、
  このカーニバルの始まった起源にも悲しい原因があっ
 た。
  それは、キリスト教徒とキリスト教聖職者たちに殺さ
 れた先住民の方々(因みに、インカの滅亡は1533年)、
  そして、その後、アフリカから連れて来られて、奴隷
 として虐げられたアフリカの方々、
  これらの非人道的なストレスの発散から、始まったエ
 ネルギー発散のカーニバルだったという。
 ..
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2015年7月16日木曜日

(増補版)155D1/3:気になった事柄を集めた年表(1722年~1722年)

題:(増補版)155D1/3:気になった事柄を集めた年表(1722年~1722年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1722年、施策:吉宗が、本格的に享保の改革を開始。
  老中の水野忠之を財政専管として、本格的な財政再建
 を開始した。
  水野氏は、徳川家康の母の実家。
  そこを領している忠之、三河の国、岡崎の5万石藩主。
  譜代中の譜代だった。
  吉宗は、その忠之を勝手掛老中にして起用した(5月
 15日)。当然、この人事に誰もが異を唱えなかった。
  そして、吉宗の改革が始まった。
  世は、貨幣経済の下にあった。
  年貢米収入はデフレ下で目減りしていた。
  幕府の収入も大幅に減じていた。
  非常用支出に「奥金蔵」というものがあった。
  しかし、その金蔵に、1661年の時点で384万7194両あっ
 たという。
  ここから非常時の支出をしていた。
  その金蔵に、1722年の時点で13万6618両しかなかった
 (わずか3.6%)で、96.4%は非常支出で使ってしまって
 いた。
  幕臣の俸給支払いにも困っていたという。
  吉宗が改革は待ったなしだった。
  そして、やったのが上米の制であった(7月3日)。
  上米の制の口語訳:「旗本・御家人の数が、将軍の代
 を重ねるにつれて、段々と多くなった。
  蔵入地からの年貢収入も、以前よりは増加しているが、
 切米、扶持米、その他、経常支出と比べると、結局、毎
 年不足している。
  特に、今年の場合には、切米を支給することも難しく、
 行政費用にも差し支える状況となっている。
  そこで、幕府では、和泉守(水野忠之)に命じて、い
 ろいろ詮議を重ね、年貢の増強と新田開発等の政策によ
 ってこの財政危機を切り抜けることにした。
  しかし、それは急場の間に合わない。
  そこで、これまで、このような沙汰はなかったが、万
 石以上の大名より米の上納をするようにと命じようと思
 われた。
  そうでないと、御家人を数百人も解雇しなければなら
 ないので、恥辱も省みず、命じられたのである。
  1万石について100石の割合で上納しなさい。
  その代わり、江戸滞在を半年ずつ免除されるので、国
 元でゆっくり休息するようにとの仰せである」。
1722年、吉宗が、小石川薬園内に、小石川養生所(こいし
 かわようじょうしょ)を設置した。
  貧民・窮民のための救療・療養施設であるが、当初の
 入院定員が40名だったが、後に100名となった。
  多くの医師が診療にあたり、幕府の終わりまで続いた。
  施薬局を設け、低所得の病人、看護する人のいない者
 なども収容した。
1722年4月、越後質地騒動(えちごしっちそうどう)
  質流地禁令の実施を巡り、越後国頸城郡(くびきぐん)
 で質地騒動起こる。
  天領の村々から起こった質地取り戻しの農民騒動。
  幕府の法令の「流地禁止令」が難解な事から質置人ら
 は、徳政だと、自己に有利に解釈し、質地取戻しの願書
 を代官所に提出したが、受け入れられなかったため、大
 挙して取戻しを敢行した。
 (注)質屋は質物をとると質札を質置人に交付した。質
  置人は質物受戻の際、この質札を持参しなければなら
  ない。
1722年頃、物価:米価安の諸色高
  江戸の町は、人口が50万人を数えるという世界有数の
 大都市となっていた。
  幕府の収入も、新田開発など、吉宗の政治の努力で、
 わずかづつでも多くはなっていた・・が、この頃、「米
 価安の諸色高」の現象が顕著となっていた。
  吉宗は、足高の制といい、有能な人材を確保するため
 に禄高を加増し、人材を迎え入れたが、職を離れたとき
 には元に戻すという『足高の制」にした(出費を抑えつ
 つ有能人材の確保する)。
  この様な財政努力をしていた時、米の収穫量は、技術
 の改善・新田開発などがあり増加していたが、米の価格
 上昇時に、物価も上昇するというパターンに、必ずしも
 ならなくなって来た。
  この頃は、米の余剰による値下がりがよく起こる様に
 なり、世はバブルで、貨幣経済は進展し、物価は上昇し
 ていた。
  収入を米としていた武士層は、収入減という状態に陥
 (おちい)った。そして、収入が減り、物価は上昇とい
 う二重のダメージを受ける状況だった。
  (注)諸色:しょしき、必要ないろいろの品物。
1722年、中国の清の第5代皇帝の廟号(びょうごう)が世宗
 である雍正帝(ようせいてい)が即位した(在位期間、
 1722年~1735年)
  前帝の康煕帝60年の放漫政治の後を受け、
  官僚の綱紀を引き締めて、皇帝独裁権を強化し、財政
 を改革し、清朝支配権を確立した。
  そして、次の乾隆(けんりゅう)帝60年の治世に引き継
 いだその事業の歴史的意義は、高く評価されている。
1722年~1723年、ロシア・ペルシャ戦争
  ロシアのピーター大帝が、イランに侵入。
  イランのサファヴィ朝の北部領域であるカスピ海と南
 コーカサス地域でのロシアの影響力拡大を図り、
  この地域で衰退するサファヴィ朝に代わり、ライバル
 国のオスマン帝国によって奪われ、オスマン帝国領にな
 ることを防ごうとするロシア皇帝ピーター大帝(ピョー
 トル1世)の企てによって引き起こされた戦争。
  1724年に、フランスの仲裁でコンスタンティノーブル
 条約を締結した。
  ロシア帝国とオスマン帝国の間で締結され、両国間に
 挟まれたサファヴィ朝ペルシャの領土を分割する事を取
 り決めた。
  しかし、ペルシャのナーディル・シャーは、この条約
 を認めず、後に、オスマン帝国に宣戦する。
1722年、イランのサファヴィ朝が、アフガン族に首都・イ
 スファハンは陥落して占拠され、事実上、崩壊した。
  しかし、このアフガン族を率いたマフムードは、間も
 なく発狂し、従弟のアシュラフによって暗殺された。
  その後、トルコ部族の一つのカジャール族の首長の一
 人が、サファヴィ朝の旗を掲げて、アシュラフを破り、
 自らナーディル・シャーと称して即位し、
  新たな王朝であるアフシャール朝を開いた(1736年)。
  この王は、イランからカスピ海沿岸のロシア人を追い
 出し、オスマン・トルコを押し返した。
  また、この王は、インドへ遠征し、デリーを占領して
 掠奪した。
  この王は、クルド人討伐の宿営中、部下に暗殺された。
  その後は、この王朝も衰退して行った。
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2015年7月15日水曜日

(増補版)154D1/3:気になった事柄を集めた年表(1721年~1722年)

題:(増補版)154D1/3:気になった事柄を集めた年表(1721年~1722年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1722年4月、芸能:近松門左衛門の「心中宵庚申(しんじゅ
 うよいごうしん)」が大阪の竹本座で初演された。
  この年に起きた八百屋の養子・半兵衛と女房お千代の
 心中(姑の嫁いびり)を脚色したもので、近松の最後の
 世話物。
  夫婦愛と義理人情の切なさが強く描かれている。
1722年7月、施策:参勤交代の制をゆるめた
  上米の制を定めて、参勤交代の制をゆるめた。
  幕府が、財政の立て直しのため、大名に対し、1万石に
 つき米百石の上納を命じる上米の制を行うかわりに、
 参勤交代を、在府半年、在国1年半に緩和した。
  これは、1730年に、上米の制が廃止され、参勤交代制
 も元に戻った。
  因みに、東北の伊達家(63万石)は、参勤交代に8~
 9日かかり、行列規模が2000~3000人、距離:368キロ、
 費用:3000~5000両(米換算で1両=約4万円、そば代金
 換算で1両=12~13万円)、故に、今だと3億5000万円と
 なる。
  また、遠い九州の島津家(77万石)は、40~60日かか
 り、行列は1880人、距離:1700キロ、費用:17000両で、
 今だと14億5000万円となる。
  行列の沿道の経済的効果も大きかっただろう。
1722年10月、教育:手習いの教科書
  吉宗が、江戸郊外の葛西方面に放鷹に出掛け、休息の
 ため立ち寄った医者の家で、代々の法度書を、近所の子
 供たちの手習いの手本としているのを見つけ、これに褒
 美を与えるとともに、
  代官を通じて、各地の手習いの師匠に、法度書や5人組
 帳などを教科書として使う事を奨励した。
  因みに、この頃、江戸に手習い師匠が840人もいたと
 いう。
1722年、教育:室鳩巣の手習い手本を寺子屋で使わせた。
  室鳩巣の作った「六諭衍義大意(りくゆえんぎたいい)」
 を、書家に清書させて出版し、手習いの手本として寺子
 屋で使わせた(1721年に、初めて編纂したともある)。
  これは、我が国の初の国定初等教科書で、江戸時代を
 通じてかなり広く普及した。
  吉宗の意図は、読み書きを通じて道徳教育を庶民に施
 し、法秩序を認識させ、遵法の精神を養う所にあった。
1722年11月、出版:統制
  「古状揃(こじょうぞろえ)」は、有名な手紙を収録
 したものであるが、幕府は、これを絶版にさせた。
  この中に、豊臣秀頼の手紙があり、「家康は、表裏之
 侍前代未聞に候、太閤之厚恩をわすれ・・・」という、
 家康非難の文章が含まれている。
  幕府が、法律でもって明確に「家康及び徳川氏の事を
 えがいてはならない」という禁止規定を設けた。
1722年、出版統制(政治批判禁止)。
  この法は、異説・新説はもとより、世上の噂話、ある
 いは、たとえ事実であっても、徳川家に関する事は刊行
 できなかった。
  脚本や上演も同様であったから、例えば、「忠臣蔵」
 「先代萩」など、この時代の事件を題材としつつ、時代
 を鎌倉や室町に仮託(かたく、他の物事を借りて言い表
 すこと)している。
  「大岡政談」などでも、公刊されたものは松亭金水「
 大川仁政録」などのように、大岡を大川とし、時代を鎌
 倉としている。
1722年11月、出版取締令
  幕府は、5ヶ条の出版取締令を出した。
  1721年7月に、幕府は書籍の大調査を開始した。
  そして、1721年8月に、江戸本屋仲間を結成させ、
  1721年12月1日に刊行書籍の目録の作成を命じた。
  この書籍調査目録は、1722年に、完成し、幕府へ差し
 出された。
  掲載点数は7446点だった。徹底的な調査だった。
  この徹底的な調査を踏まえて、幕府は、1722年11月に、
 五ヶ条の出版統制令を発した。
  この令には、出版書物には作者名と版元の実名を入れ
 ることとし、出版物の責任の所在を明確にさせた。
  そして、風俗のよからぬもの、卑猥なものは段々改め
 て行くか、絶版とせよとしている。
  そして、権現様や徳川家を貶めるものの無き様にと。
  1. 猥りなる儀・異説等を取り交え作り出すことの禁
  2.好色本絶板
  3.人の家筋・先祖の事など、かれこれ相違の儀ども
    出版の禁
  4.作者・板元の実名を奥書しなければならないこと
  5.徳川家のことは出版・写本とも禁。よんどころな
    き子細ある場合は奉行所の指図を受けること
1722年12月、出版・統制:幕府が、心中物の出版を禁じた。
1722年、江戸城外郭を廃止して松を植えた。
1722年、経済:新田開発奨励の出資呼びかけ
  日本橋に新田開発奨励の高札を上げ、町人に出仕を呼
 びかける(町人請負新田)。
1722年、経済:税・定免法に
  天領で、検見法から定免法に切り替える。
1722年、施策:町名主を町の区域ごとに編成した。
  治安の維持は、奉行所の力だけではできない。
  町の自治組織が大切な役目を果たした。
  その自治組織は、町年寄を筆頭として、その下に数町
 を束ねる町名主が決められていた。
  家康の時から、江戸のその町に住む名主は、草創名主(
 くさわけ)と呼ばれ尊敬されていた。
  町年寄は、家康に三河の時から付いて来た喜多村・奈
 良屋・樽屋の3家で代々の世襲で務め、トップに居た。
  その江戸市中の町名主を番組に編成し、大家などで作
 る5人組を作り、人別の報告、幕府からの御触れの伝達、
 税の支払いなど色々と担当していた。
  1722年の町名主の数は、17組の264人だった。
..
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2015年7月14日火曜日

(増補版)153D1/3:気になった事柄を集めた年表(1721年~1721年)

題:(増補版)153D1/3:気になった事柄を集めた年表(1721年~1721年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1721年2月8日~3月31日、江戸大火(江戸享保6年春のあま
 りにも悲惨な連続火災):2月から3月にかけて、6度の
 火事で江戸の3分の2が焼失した。
  2月8日(6日説あり)午前10時頃、日本橋呉服町1丁目
 から出火し、北風にのって延焼、大工町、新数寄屋町、
 京橋から築地浜まで燃えて、やっと鎮火した。
  2月24日、午前1時頃、麻布善福寺門前の家から出火し、
 芝愛宕下裏町まで延焼。
  3月4日、午前9時頃、四谷中殿町から出火し、六本木、
 麻布一本松あたりまで焼く。
  3月6日、午後1時頃、四谷忍町から出火し、左衛門町、
 麻布谷町、狸穴脇、三田筋より芝、品川あたりまで焼失、
  3月30日、午前11時頃、神田三河町四丁目から出火し、
 強い南風にあおられて須田町、神田旅籠町、湯島天神社
 地、下谷筋まで残らず焼失、
  そこからまた上野池端から東叡山の仁王門を焼き、広
 小路も越えて下谷、浅草観音寺内あたりから坂本、千住
 まで焼く大火となった。
  翌3月31日に、前日に続き、南の烈風が吹き荒れた。
  午前9時頃、牛込木津屋町から出火し、同若宮、同御門
 外を経て、小日向から小石川伝通院も全焼し、境内に避
 難していた360人余が焼死したという。
  その後、火は本郷、駒込、千駄木、谷中と進み、氷川
 あたりでようやく鎮火した。
  この6回の火災で、江戸市中の3分の2が焼失し、
  2107人が焼死し、
  百石以上の武家屋敷と医師屋敷7415軒、陪臣屋敷と町
 屋13万3720軒、その他225軒、寺社560ヶ所が焼失した。
  焼失した伝通院は、後に、死者を弔い、無縁塚を建立
 した。
1721年閏7月、経済:大坂蔵米の延売(のべうり、延払いで
 商品を売ること)と買占(かいしめ)を禁止し、大阪銅
 吹屋の御用請負を廃止した。
1721年閏7月、経済政策:幕府が、勘定所機構を改め、公事
 方(裁判・民政)・勝手方(財務)に分けた。
  行政効率の向上を図った。
1721年8月2日、施策:目安箱(めやすばこ)の設置
  吉宗が、江戸城竜の口評定所の門前に、目安箱を設置
 し、一般庶民の不満や要求の意見を投書させた。
  これは、吉宗の考案によるもので、
  民の気持ち・心を知りたいというのが目的だった。
  江戸市中の防火制度の整備や、小石川養生所の設置も
 目安箱の投書に基づくものと言われる。
  町医者の小川しょうせん(赤ひげ先生と言われた)が、
 目安箱に、江戸の貧しい病人のための病院が欲しいと投
 書し、小石川養生所が実現した。
  これは、無料の病院として、幕末まで存続した。
  吉宗の幕府が偉いのは、目安箱で幕府への不満を言っ
 た場合でも、良く言ってくれたと褒美を与えている。
  そして、吉宗が、将軍自らが目を通したというところ
 も偉い(毎月3回、目を通したという)。
  また、箱は、将軍の面前で錠が開けられ、
  書状は、将軍が自らが開封し、
  採否は将軍のみによる判断だった。
  後に、京都、大阪、駿府、甲府などにも置いた。
  意見が、施政上、具体的に活用された事例が多く、新
 田開発が採用された事例もあった。
1721年8月17日、施策:江戸小石川に薬園を拡張設置した。
1721年8月25日、施策:江戸市中の諸商人・職人に組合結成
 を命じた。
1721年9月15日、幕府が、荻生徂徠に「六諭衍義(りくゆえ
 んぎ、分かりやすい道徳教科書) 」を講ぜしめ、
  訳述させ、流布を図った。
  六諭衍義は、中国の「六諭」が、琉球を経て日本に伝
 わり、
  幕府は、室鳩巣に「六諭衍義大意」を作らせていた。
  幕府は、各藩に奨励し、流布した。
  これは、明治期の教育勅語の成立に影響を与えている。
1721年、教育:手習い手本を編纂
  寺子屋の手習いの手本を、幕府は、享保6年に初めて編
 纂した。
  「六諭衍義大意(りくゆえんぎたいい)がそれ。
1721年頃、経済政策:この頃から、年貢徴収を検見法から
  定免法へ転換開始。
1721年、令:幕府が、質流地禁令を発布して、質地小作の
 制限を図り、質入れ田地の請戻し権を保障し、小作料率
 を制限した。
1721年、事件:医師・中島隆硯夫婦殺害
  江戸深川の医師・中島隆硯夫妻を下男直助が殺害して
 逐電した事件が吉宗の耳に入った。
  側近の者は、吉宗が、犯人に対しさぞ怒りを発すると
 思ったところ、
  吉宗は、江戸の自分の膝元に、この様な主殺しという
 重罪人が出たのは残念だ・・と、心を痛めたという話を、
 室鳩巣が、伝え聞いて手紙にのせている。
  室鳩巣の庶民教育への関心の方向がここに現れている。
1721年、天領の一部を大名の領地とする
  適正代官不足のため、天領の一部を大名の領地とする。
1721年、出版:田中丘隅(たなかきゅうぐう、または、休
 愚・きゅうぐ)が、「民間省要(みんかんせいよう)」
 を著した。
  田中丘隅は、武州川崎宿の名主で、役人の横暴を批判
 し、武士階級だけではなく民間有為(才能のある)の者
 の登用を主張した。
  民間省要は、農政の沿革、民間の実情、民政に対する
 批判的意見が書かれている(治水政策・土地政策・交通
 政策・地方役人論・村役人論・民役・国用・賦税など77
 項目にわたる大著)。
  この書は、1722年に、吉宗に献上され、享保改革に採
 用された節がある。
1721年、イギリスで、ウォルポール内閣が成立した(責任
 内閣制の初め)
  お粗末な事件の南海泡沫事件の後処理をした。
  責任内閣は、議院内閣制の下で、内閣が議会に対して
 責任を負う制度で、内閣は、議会の多数の支持により成
 立し、その信任を失った場合には辞職する。
  王ではなく、議会に責任を負う。
  彼を、最初のイギリス首相としている。
1721年、二スタット講和条約(北方戦争終結)
  ロシアとスウェーデン間に締結された条約。
  ロシアは、バルト海に領土を拡張し、覇権を握った。
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2015年7月13日月曜日

(増補版)152D1/3:気になった事柄を集めた年表(1720年~1721年)

題:(増補版)152D1/3:気になった事柄を集めた年表(1720年~1721年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1720年、消防政策:町屋に防火性の良い塗壁や瓦葺を推奨
 した。
  この頃は、江戸初期のロの字型の町割りは消滅して、
 市街が密集化しているので、特に、防火性に配慮した。
1720年、下田奉行(しもだぶぎょう)の廃止
  1616年に設置されていた伊豆下田の廻船改番所が廃止
 され、浦賀に移し、統轄された。
  下田奉行は、幕府の遠国奉行の一つで、
  伊豆国下田番所の長で、
  下田湊の警護や、船舶の出入り監督、廻船の積荷改め
 などにあたっていた。
  伊豆は小国であったが、江戸を防御するにの自然の立
 地が良く、
  また、交通上の要衝にあった。
  箱根の関を控える三島に代官陣屋が置かれ、
  東海道と海上の要所であった。
1720年、広東に公行(こうこう)が結成された(公行の創
 設)。
  中国の清代に、広州で外国貿易に従事した行商の同業
 組合で、通常は広東十三行と称された。
  清朝の貿易は、仲買商(行商)にのみ許された(独占)
  この年に、同業組合を結成して「公行」と称した。
  また、この年には、行商16家が公行を結成てし、取引
 を独占し、価格の協定をはかったのだが、他の行商の反
 対で成功せず、有力な行商6家が、1726年に選ばれて、
 外国船との取引独占権を与えられ、他の一般行商は、こ
 の6家の保証のもとで取引を行った。
1720年、イギリスが、南海泡沫事件(なんかいほうまつじ
 けん)、その結果、恐慌が起こった。
  この年に、株価が暴落し、イギリスの経済界と政界に
 大混乱をもたらした事件。
  戦争ばかりしている好戦国・イギリスは、この時も、
 スペイン継承戦争中であった。
  その為、イギリス政府は国債を乱発した。
  そして、その利子の支払いに苦しんだ。
  そして、大蔵大臣の肝いりで、1711年に、南海会社が
 設立された。
  南海会社は、1720年に、多額のイギリス国債と引換に
 スペイン領アメリカとの貿易独占権を与えられた。その
 ため株価が暴騰した。
  しかし、この年に株価は、大暴落をする。
  そして、これを契機として、イギリスは大恐慌に陥(
 おちい)る。
  1711年に、南海会社を設立した目的は、卑劣な事に、
 スペイン領の中南米との奴隷貿易だった。
  そして同時に、イギリスが利子支払いに苦しむので、
 低利債への転換を目的としていた。
  そして、一時は、奴隷貿易の独占権を獲得したため、
 膨大な利潤を得るだろうと予想した者による株価暴騰だ
 った。
  また、イギリス政府の肝いりで東インド会社やイング
 ランド銀行ともうまくやるだろうと予測されていた。
  イギリス議会も承認もしていたので、安心して株価は
 急騰した。
  空前の株式投機ブームとなって浮かれた。
  しかし、しかし、事業計画が次第に明らかになるにつ
 れ、そのお粗末さが露呈して来る。
  数か月後には、株価は反転して、大暴落となった。
  南海会社株は泡沫となって舞った。
  破産者が続出した。
  またまた、この劇に、汚職が露顕する。
  政界のスキャンダルとなる。ひどい国のイギリスだっ
 た。
  そして、馬鹿なことに、19世紀まで、イギリス政府は、
 株式投資を禁止した。
  この事件の罪作りなところは、外国へまで多くの被害
 を与えたところだった。
1720年、フランスで、ジョン・ローが、財務長官に就任(
 翌年、改革失敗)
  これも、ヨーロッパの不名誉な話。
  ジョン・ローは、1671年のイギリス生まれで、フラン
 スの財政を指導した財政家だった・・が、
  ローは、ロンドンに移住し、1694年に、女性を巡る問
 題で決闘をし、人を殺し、死刑の判決を受けた・・が、
 脱獄し、ヨーロッパ大陸に逃れた。
  アムステルダムで銀行業務を行っていた。
  フランスのルイ15世の治世下、莫大な債務残高に悩む
 国に、それを軽減して、経済発展をしますよという政策
 「経済システム」を売り込んだ。
  そして、取り立てられ、金融財政の責任者となった。
  そして、実行に移した。
  だが、結局は、フランスにバブルを引き起こし、
  やはりこの時も、株価がバブルで暴騰するが、暴落さ
 せるというバブル経済に悶えるフランスを現出、そして、
 後は、ローは、ベネチアで、58歳の時に客死した。
  多くの文献では、絵空事をまくし立てる詐欺師だと書
 かれ、また、トリックスターとされた。
  一部に、評価する者もいるが、しかし、結果は、社会
 を破綻(はたん)させた人物だった。
1720年、イタリアにサルデーニャ王国が成立した。
  トリノを事実上の首都とした。
  この期間、フランスと反フランス大同盟との間を巧み
 にくぐり抜け、フランスからの独立に成功したりして、
 王国の成立に至った。
  スペイン継承戦争の時は、シチリアを獲得したが、後
 に、オーストリアに、そのシチリアをやむなく譲渡した
 りと大変なヨーロッパをくぐり抜けて来た王国だった。
1721年、施策:全国の人口・耕地・戸数を大調査、
  吉宗の時代のこの年から、諸国人数調査が実施される
 こととなる。ほぼ、5年ごとに行った。
  この頃の総耕地面積:297万町歩、総石高:2610万石。
  そして、日本の総人口は、26,065,000人(約2600万人)
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2015年7月12日日曜日

(増補版)151D1/3:気になった事柄を集めた年表(1719年~1720年)

題:(増補版)151D1/3:気になった事柄を集めた年表(1719年~1720年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1719年~1723年、第二次ジャワ承継戦争(じゃわしょうけい
 せんそう)が起きた。
  オランダは(オランダ東インド会社)、インドネシア
 を着々と植民地化して行った。
  オランダは、インドネシアのマタラーム王国を自分の
 都合の良い形に、介入して変えて行った。
  第一次ジャワ戦争を経過し、
  1719年に、王国のパクブウォノ1世が死に、長男のア
 マンクラット4世が即位すると、オランダは、オランダ
 の不利な行動をする反対派の叔父や弟を弾圧し、島流し
 にした。
1719年、デフォー著の「ロビンソン・クルーソー」が発表
 された。
1719年、収賄などの不正をした代官を大量処分する。
  田沼意次(たぬまおきつぐ)が、この年に生れている
 が、
  吉宗は、代官の綱紀粛正の為、代官の大量処分を行っ
 た。
  幕府は、後の1722年に、代官の不正が起こりにくい年
 貢の取り方を、検見取法(けんみどりほう、田畑の収穫
 高に応じて貢租量を決める徴税法)を止めて、
  定免法(じょうめんほう、収穫高の平均から一定の年
 貢率を決める)にした。
1720年1月26日、司法政策:刑罰基準
  三奉行に、刑罰基準の検討を命じた(公事方御定書の
 源)。
  江戸城中において、老中の水野忠之から、寺社・町・
 勘定の三奉行に対し、何々の科は死罪、何々の罪は遠島、
 あるいは、追放などという様に、あらかじめ、大体の基
 準を定(さだめ)て書き立て置くようにと申し渡された。
  公事方御定書(くじがたおさだめがき)は、1742年に、
 吉宗の下で作成されて、仮完成したものだが、幕府の基
 本法典となっている。
  上巻・下巻の2巻からなり、上巻は基本法令を、下巻は
 旧来の判例に基づいた刑事法令が収録されている。
1720年12月、出版:大日本史を献上
  水戸藩が、「大日本史」本紀・列伝を幕府に献上した。
  光圀は、1645年に「史記」「伯夷伝」を読んで、伯夷
 や叔斉に感銘を受け、学問に精励し、史書編纂を志した。
  1657年の明暦の大火で、藩邸が焼失して駒込別邸へ移
 り、ここに史局を作り、編纂事業を始めた。
  種々の変遷の後、1715年の光圀忌日には、「大日本史」
 と書名決定された書名で、清書本(正徳本)が、光圀廟
 に供えられた。
  1720年には、さらに、校訂を加えた享保本が、幕府に
 献上された。
  この事業は、途中の休止はあったが、継続して行われ
 水戸藩の事業として、光圀死後も二百数十年継続し、明
 治になって完成した。
1720年6月、小倉藩主が、中国・唐の密貿易商人の3人を捕
 らえ、長崎へ護送した。
1720年、芸能:近松門左衛門の作の「心中天の網島(しん
 じゅうてんのあみじま、浄瑠璃)」が大阪・竹本座で初
 演された。
  この年に起きた、紙屋治兵衛と紀伊国屋小春との心中
 事件を脚色したもの。
  商業で栄える大坂を背景にして、妻子ある身で遊女の
 小春に通いつめる治兵衛、
  その小春に、憎しみを越えて、女同士の義理を感じ合
 う治兵衛の妻おさんなど、登場人物の心理や性格が見事
 に描かれ、近松の最高傑作と言わわれている。
1720年、事件:会津御蔵入騒動(あいづおくらいりそうど
 う、百姓一揆)が起きた。
  年貢減免と郷頭(ごうがしら、数ヶ村支配の村役人)
 の廃止を求めた。
  農民の約800人が、竹槍、鋤、鍬、棍棒を持って代官所
 に迫った。
  代官所は、18組の郷頭と、名主236人を呼び出し、談合
 し、願書を出させたが、首謀者が投獄された。
  このことから、江戸訴訟となり、農民代表35人が、翌
 年の1721年に、訴状を提出した。
  幕府は、一部を削除し、農民側は、残りの13ヶ条を再
 び願い出て、さらに50ヶ条の訴状となった。
  しかし、郷頭側は不正はないと反駁し、結局、農民側
 は敗訴に終わった。
  江戸にいた農民は、皆、投獄された。
  そして、この後、在国の者の380人が牢舎となり、名主
 5名は死罪となった。
1720年、吉宗が、禁書令を大幅にゆるめた。
  例えの中にキリスト教に言及する文章が入っていても、
 輸入が認められた。
  また、漢訳の洋書が輸入された(洋書の解禁)、この
 輸入漢書は、洋書に先立って、日本人の中に科学技術に
 関する基礎を築いた。
  外来文化を考える場合、この漢籍の果たした役割を無
 視することは出来ない。
  日本の近代化への貢献は大きかった。
1720年頃、教育:この頃、禁書令が緩和されて、蘭学が起
 こった。
  勝海舟は、長崎に行けば西洋の状況・事情は、苦も無
 くつかめたと言っている。
..
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