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2015年8月22日土曜日

(増補版)187D2/3:気になった事柄を集めた年表(1784年~1788年)

題:(増補版)187D2/3:気になった事柄を集めた年表(1784年~1788年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1784年、勝利に勢いづいた「できたての国・アメリカ」は、
 傲慢にも先住民のアメリカ・インディアンの方々を無視
 した。
  パリ条約が、1783年に締結されて、アメリカの独立が
 国際的に承認されたが、
  アメリカ領土の「本当の持ち主である先住民のアメリ
 カ・インディアンの方々」が、
  この戦争で、自分たちの国が、自分たちの国家が、持
 ちたいと戦ったが・・その可能性はまったくなかった、
 無視された。
  アメリカは、「ミシシッピ川以東の広大な土地を手に
 入れた」が、
  その後、スペインが、アメリカ合衆国と交渉している
 最中に、たまたま、「ミシシッピ川以西」の土地の問題
 を話題にした、
  (「以東」ではなく、「以西」の話をした)。
  その時、スペインのアランダ伯爵は、次の様に主張し
 た、「その地は『独立して自由な』インディアンたちの
 ものである」・・と。
  そして、言った、「あなた方アメリカ人は、それにつ
 いていかなる権利も持っていない」・・と。
  国際的に、これが常識だった。
  しかし、これに対して、アメリカは言った、「我々は、
 インディアンに対しては、土地の先買権を要求する(先
 買権を持ってないが、それを我々は得たいので要求する
 )」・・と、
  そして、言った、「それ以外の国に対しては、アメリ
 カ大陸全土の主権を要求する(アメリカ大陸全土の主権
 は持っていないが、持つことを要求する)」・・と。
  1784年になって、アメリカは、イロコイ族に、土地の
 一部を割譲する様に迫った。
  イロコイ族は、「被征服民族以外の何者でもない事」
 をおもい知らされた。
  アメリカ政府は、オハイオ渓谷や五大湖南部の土地を、
 独立戦争に参加した兵に分け与えた(インディアンの方
 々には無断で)。
  そして、この強引な、勝手な行為に対して、これ等の
 地のアメリカ・インディアンの方たちが何も言えない様
 に力でねじ伏せた。
  とやかく文句が言えない状態にした。
  「アメリカ合衆国の兵隊の数は、森の中の木と同じほ
 ど沢山いるのだ」・・と、アメリカ・インディアンの方
 々を見下した言い方で恫喝した。
  日本が、第二次世界大戦で敗北し、武装解除され、戦
 う戦力も解体させられた後、その様な弱い立場になった
 日本に対して、
  裁く法律もないのに、後追いで、日本を裁く法律を作
 ってまでして、日本を裁いたアメリカの傲慢さと同じだ
 った。
  逆に、当時、すでにあった、『一般市民の殺戮禁止』
 の国際法に、明らかに違反する行為をしたアメリカだっ
 た。
  裁かれる方は、アメリカ側にあった。
  (明らかに、広島・長崎の一般市民の方々を殺戮する
 事を意図した原爆投下。
  そして、東京をはじめ、日本の各都市の一般住民の人
 々を殺戮する事を意図した爆撃の仕方・じゅうたん爆撃
 で、多くの市民を殺戮した行為・・などなど)
  それらについて、アメリカは、ホッカムリしている。
1786年5月、林子平(はやししへい、経世家、兵学者)が
 「海国兵談(かいこくへいだん)」16巻を脱稿した。
  そして、翌年から1791年までに自費で全巻を刊行した。
  この書は、当時、ロシアが千島列島や蝦夷地を南下し
 ている新情勢に対して、日本を守るために海防が必要で
 あると説いている。
  国防の急務を説いているのだが、幕府に忌まれ、1791
 年に絶版になった。
  林子平は、日本は海国と捉え、それにふさわしい軍備
 を要すると説き、
  海軍を設立し、全国の海岸に砲台を設置することが緊
 急に必要と説いた。
  特に、日本の中枢である江戸の沿海部の防備が重要と
 説き、江戸湾頭に有力諸侯を配置して防備にあたらせる
 ことの緊急性を説いた。
1786年7月14日、天災:関東が大雨が続き、大洪水となった。
1786年8月2日、幕府が、7月の大洪水で浸水被害にあった
 御家人へ救助金を貸し与えた。
1786年8月4日、幕府が、関東大洪水により、損害のない国
 々からの食糧回送を命じた。
1786年8月27日、老中の田沼意次が、25日の将軍・家治の死
 とともに解任された。
1786年9月、米価が高騰した。
  幕府は、問屋・仲買人ほかに、手持ちの米などを売買
 する様に令した(これは、逆効果になって11月に撤回し
 た)。
1786年9月19日、幕府が、諸国に酒造米の半減を命じた。
1786年閏10月、田沼意次が減封され、相良城が没収された
 (1787年説あり)
1786年、探検:蝦夷地を、最上徳内らが探検した。
  幕府役人の最上徳内が、1786年に、千島列島のウルッ
 プ島まで調査した。
  そして、たまたまウルップ島に上陸したロシア人から
 聞いたロシア事情をまとめた。
1786年、ゲーテは、サンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ
 教会を見るためにアッシジに来たという。
  ただ、屋上からの景色を見たいため・・、
1787年4月15日、徳川家斉が、第11代将軍になった(1773年
 ~1841年)、(将軍期間、1787年~1837年)
1787年5月20日、事件:江戸打ち壊し、
  天明の江戸打ち壊しが起きる。
1787年5月、事件:大阪の町人が騒乱
  米の価格が上がり、江戸と共に大阪の町人などが騒乱した。
  (天明の打ち壊し)、また、各地に騒乱が起こる。
1787年6月19日、松平定信が老中首座になった。
1787年7月、寛政の改革が始められた(~1793年まで)
1787年8月、令:倹約令
  松平定信が老中頭となり倹約令を発した(~1793年)
1787年9月4日、二宮尊徳(にのみやそんとく、たかのり、
 農民思想家)が神奈川県に生まれた(1787年~1856年)
  農家の生まれ。勤倹努力の人。
  諸藩・諸村の復興に尽力する、指導者。手がけた事業
 は多数(600村など)。
  幕臣となった、そして、日光領の復興に従事した。
  徹底した実践主義者で、その思想・行動は報徳社運動
 として受け継がれた。
  「大事をなさんと思わば小なることを怠らず勤むべし、
 小積りて大となればなり 」
1787年9月27日、田沼政権が設置した鉄座・真鍮座が停止さ
 れた。(8月説あり)
1787年11月26日、幕府が、田沼政権によって行われた極印
 制と人参座を廃止し、元飯田町に人参製法所を設置した。
1787年、アメリカ合衆国が憲法を制定:アメリカ合衆国の
 成立
  奴隷制などの人種差別を残している。
  アメリカは、黒人の方々の差別の克服に、今・現代も
 できていない国となっている。
1787年、オスマン戦争が起きた。
  ロシアとオスマン帝国との12回ある戦争の内、7回目の
 戦争。
1788年1月26日、米屋への打ち壊しが頻発するため、幕府は、
 米の売り惜しみや、酒の密造を禁止した。
1788年、田沼意次が没した(1719年~1788年)
1788年4月29日、幕府が、定額貨幣の南鐐(なんりょう)二
 朱銀の鋳造を停止し、従来通りの秤量貨幣丁銀を新鋳し
 た。
1788年、司馬江漢(しばこうかん、絵師、蘭学者)が、江
 戸~長崎を往還(西遊日記・さいゆうにっき)
1788年、古河古松軒(ふるかわこしょうけん、旅行家、地
 理学者)が、江戸~松前を往復(東遊雑記・とうゆうざ
 っき)
  古河古松軒が幕府巡見使に従い、奥羽地方、蝦夷地を
 視察した半年間の紀行誌。
1788年、第一次ロシア・スウェーデン戦争が起きた。(~
 1790年)
  北方の覇権を確立し対ロシアに対し、スウェーデンが、
 外交によって、内政干渉やデンマークとの協力関係を撤
 廃しようと画策したが、いずれも目的を果たせなかった
 ため、開戦に踏み切った。
1788年1月26日、イギリス人が、オーストラリアのシドニー
 のボタニー湾に上陸した。
  総督のフィリップ以下、1044人。
  そして、この年から、オーストラリアのニューサウス
 ウェールズが、アメリカに代わって、イギリスの囚人の
 はけ口となる(イギリスの国民放棄行為)。
  1788年の第1船団のイギリスからの囚人が着いた時か
 ら、
  そして、この後、先住民のアボリジニー方々は、まる
 で動物の様に撃ち殺されることとなる。
  動物の狩りをするごとくに、キリスト教徒のイギリス
 人は、アボリジニーの方々を殺した。
  イギリスの囚人輸送は、1868年まで続いた。
  そして、延16万人もの多くの、気が遠くなるほどの人
 数の囚人をイギリスは送った。
  イギリスから送られた囚人は、常習犯だった。
  イギリス国内では貧困に苦しんでいた。
  イギリス政府の役人は囚人たちを軽蔑していた。
  この囚人たちは、安価な労働力以外の何物でもないと
 されていた。
  囚人たちは、その抑圧のはけ口を、自分たちより弱者
 のアボリジニーの方々へ向けた。
  特に、最初に送り込まれた囚人たちの5分の4は、男囚
 であったことから、
  アボリジニーの女性の方々への性的な犠牲者になりう
 るに十分な理由でもあった。セックス・スレイブにされた。
  後になっても、この様な状況は続いた。
  それは、この様な状況が、イギリス本国へ伝わり、良
 い立場の人々がオーストラリアに渡りたがらなかったか
 らで、
  一般のイギリス人がオーストラリアに渡って来ても、
 一般人の「二級」の移住者しか集める事ができなかった。
  アボリジニーの方々は、抑圧されていた白人層の不満
 のはけ口となった。
  イギリス人のアボリジニーの方々に対する先入観は、
 18世紀のヨーロッパ人のいだいていた狩猟民族について
 のステレオ・タイプ(思い込み、固定観念、レッテル、
 偏見、差別)と同類だった。
  それは、アフリカの黒人の方々へも抱いていた「野蛮」
 な種族で、白人に劣る「薄汚れた」人間と考えていた。
  アフリカの黒人の方々が、安価な労働力として奴隷貿
 易の対象となったのも、その様な見方から来ていた。
  キリスト教の有色人種に対する蔑視の見方に洗脳され
 ていた。
  『人間とは考えられない』という洗脳だった。
  『白人から劣る種族』という洗脳だった。
  そして、卑劣な事に、イギリス本国が、アボリジニー
 の方々の土地を一方的に取り上げ、その土地の占有を宣
 言したのだった。卑劣な宣言だった。
  そして、異教徒だからと法廷での証言の権利を与えな
 かった。
  イギリスの法の、一方的な勝手な押し付けをしておき
 ながら、権利を認めなかった。
  また、そのイギリスの法や、その運用など何らアボリ
 ジニーの方々へ知識を与えなかった、説明もしなかった。
  一見、人道主義的に見える様な事をするが、それは詭
 弁に過ぎず、現実は『合法的』搾取できる対象としての
 アボリジニーの方々だった。
..
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2015年8月21日金曜日

(増補版)186D2/3:気になった事柄を集めた年表(1783年~1786年)

題:(増補版)186D2/3:気になった事柄を集めた年表(1783年~1786年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1783年9月3日、パリ条約が締結された。
  アメリカ独立戦争の結果、アメリカの独立が、パリ条
 約で国際的に承認され、講和条約が調印された。
  戦死者:アメリカ25000名、イギリス20000名、
  この時、アメリカは、「ミシシッピー川以東の広大な
 土地」を購入した(割譲された)(購入したと言ったっ
 てインディアンの方たちの土地。イギリスが譲渡したと
 したって、先住民のアメリカ・インディアンの方たちの
 権利を完全に無視)。
   このアメリカとイギリスの戦いは、将校の狙い撃ちを
 避けたりした『限定戦争』であった。
  このキリスト教徒の白人たちは、有色人種の時は、こ
 の様な限定戦争の考えは持たなかった。
  無残な『殺戮戦争』で良いのだの考えだった。
  戦争の仕方にも人種差別があった。
   この時からアメリカは、「戦後処理」と「建国」の期
 間となる。
1783年、ロシアが、オスマン帝国支配下のクリミア半島を
 占領した。
  オスマン帝国は、ヤッシーの和約(1792年1月9日説あ
 り)で、オスマン帝国がロシアのクリミア半島領有を認
 めた。
1783年、ソシュール(スイス)が、毛髪湿度計を発明した。
1783年6月、全国的な天候不順で米価が急騰したため、江
 戸・大坂・京都などで、米・銭などの施し(ほどこし)
 が行われた。
1783年11月、幕府が、武蔵・上野・信濃の浅間山噴火被害
 の修復を、幕府の財政からの出費とし(御普請とし)、
 お救いとして村方へ請け負わせることにした。
1783年12月16日、幕府が、財政窮迫と凶作を理由に、翌年
 から7年間の諸事倹約を令した。
1783年、この年、天災:大飢饉、
  (天明の大飢饉、1782年~1788年)
  奥州地方が大飢饉となった。死者数10万人。
  悲惨な事であるが、杉田玄白の著書『後見草』(のち
 みぐさ)が、その悲惨さの凄さを伝えている。
1784年1月、幕府が、浅間山噴火被害による武蔵・上野・信
 濃の河川浚渫の助役を熊本藩に命じた。
1784年閏1月、幕府が、米価高騰のため、関東・東北・信濃
 の農民へ余剰米の販売を命じた。
1784年3月、田沼意知が江戸城中で刃傷する。
1784年5月、幕府が、日光道・奥州道の宿駅困窮のため、7
 年間の値上げを許可した。
1784年10月、幕府が、灯火用油の値段が高騰のため、売り
 惜しみや便乗値上げを禁止した。
1784年、風俗:菅江真澄(すがえますみ、旅行家、博物学
 者)(1754年~1829年)
  この年に、漂泊の旅人・菅江真澄が、出羽国(山形県・
 秋田県)を旅す。
  真澄は、三河国(現在の愛知県)で生まれ、1770年頃
 から、尾張藩の薬草園につとめ、
  1780年に、生家へ戻った。
  その後、漢学・画技・本草学・医学を習得した。
  そして、しばしば各地を巡って紀行を執筆した。
  信越・東北から蝦夷地へ、長い旅を重ねた、生涯を旅
 に暮らした人だった。
  1784年に、初めて秋田を訪れ、以後、青森、岩手、宮
 城、北海道を経て、1801年に、再び、秋田へ戻り、生涯
 を秋田で暮らし、1829年に、この地の仙北で没した。
  その際の著述は、100種200冊を数え、本草学的記述、
 学術的記述と共に、彩色されたスケッチ画など記録とし
 ての価値は高い。
  民族・歴史・地理・文学・考古・宗教・科学と多岐に
 渡る。
1784年、ジェフリース(アメリカ)が気球に乗って飛行し、
  気球から、最初の気象観測をした。
  1785年には、ドーバー海峡を横断した。
1785年、カートライト(イギリス)が、力織機を発明し、
 特許を得た。
  キリスト教カトリックを批判し、プロテスタントを生
 み出す宗教改革に加わったため、追放された。
  そして、その後も、イギリス国教会を批判したため、
 4度も国外へ亡命する羽目になる。
1785年、クーロン(フランス)が、磁気・電気のクーロン
 の法則を発見した(~1789年)
1786年、日本の総人口:25,086,000人
1786年5月、林子平が「海国兵談」16巻を脱稿した。
1786年6月、幕府が、賃金会所の設立を企画した(発表)。
  田沼時代には、多くの会所機構が設立された。
  会所を設立した特権商人たちは、大きな利益を得た。
  幕府も、その利益の一部を得た。
  しかし、この出願した特権商人以外の商人や、百姓・
 都市貧民には大きな犠牲を強いた。
  例えば、1767年に、大阪で設置許可された家賃奥印差
 配所は、
  家屋敷を担保として、金銀貸借証文(家賃証文)は、
 すべて差配所の奥印を受け、借主・貸主の双方に手数料
 を支払うことを義務付けた制度だった。
  この制度を使うと、手広く商売をする際の資金調達に
 便利な方法として定着した。
  大阪経済の中心を担っていた金融制度だった。
  この制度の許可申請の際の冥加運上金を得て、幕府は
 許可した。
  この差配所から出された運上金は巨額だった。
  しかし、逆に、商人たちは、その資金繰りなどを、す
 べて幕府に知られることとなった。
  この様なことなどから、急速にこの金融活動、および、
 大阪全体の金融流通は低下した。
  深刻な不景気になる恐れも出て来た。
  この様な噂・予測からも、金融活動は一層低下した。
  そして、この差配所設置に反対した大阪の町々が、反
 対運動実施の行動が起きた。
  不景気は、さらに拍車がかかった。
  芝居小屋の客や茶屋の客足までも遠のいた。
  屋台店や、振り売りの商売までもが、売れ行きが低下
 し、
  大工も普請がなく、諸職人層にも差しさわりが生じた。
  家賃金融に、多額の手数料が掛かることから、家賃の
 値上げも噂され、
  商人層から、日雇い稼ぎの下層の人々まで、生活に多
 大な困難が生じて来た。
  反対運動は活発化し、差配所廃止を求める請願が、大
 阪町奉行所に相次いだ。
  差配所設置を出願した商人が、打ち壊しに遭うという
 事態も発生し、
  これをきっかけに、60軒ほどの商家に対する打ち壊し
 が数日間、続き、逮捕者が多く出るという騒動にまで発
 展した。
  差配所設置は延期された。
  そして、後になって、制度が改変して設置はされた。
  しかし、1787年から翌年にかけて、綿屋延売買会所な
 どが次々と廃止された。
  この様な事は、関東でも起きた。
1786年7月、数日来の大雨で関東各地に洪水が起きた。
1786年8月2日、幕府が、7月の大洪水で浸水被害にあった御
 家人へ、石高に応じて救助金を貸し与えた。
1786年8月4日、幕府が、関東大洪水により、損害のない藩
 から食糧の回送を命じた。
1786年8月27日、人事:田沼意次が罷免された。
  この罷免は、25日の将軍・家治の死とともに解任され
 た。
  紀州から、将軍・吉宗が連れて来た、能力本位で登用
 された紀州党の出世頭だった田沼意次。
  種々の政策を展開して行った・・が、
  田沼に人災と、そして、不幸な災害が相次いで起きた。
  目黒行人坂大火災・二度にわたる天明の大地震・浅間
 山噴火による被害と大凶作、何年も渡る被害に、予期せ
 ぬ幕府の出費が重なった。
  田沼らが、財政改革に尽力するにも関わらず、歳出は
 膨れ上がった。
  火山灰の堆積で、後々まで、洪水が起き、続いた。
  この年、1786年の洪水は、未曾有の大洪水だった。
  これによって、田沼政権の政策の一つだった印旛沼干
 拓は壊滅し、失敗となった。
  民は、苦しさを政権に向けた。
  反田沼勢力譜代門閥は勢いを強めた。
  小氷河期という巡りあわせでもあったが、政権の責任
 ではなかったが、何度にもわたる天候不順による飢饉に、
 幕府も、そして、各藩も対策を講じてはいたが、それ以
 上の飢饉において、民は飢えた。
  貨幣経済の進展による社会構造が変わる、この点にも
 因を求めることができる。
  年貢米だけに頼ってはいけない時代で、米による体制・
 社会では無くなって来ていた。
  商業振興など新たな収入源確保をする事を模索し、奔
 走していたが・・、
  田沼政権は、「商人と結託した」と批判も受けた・が・、
  財政は、出費が膨大で、巨額な赤字を出していた。
  田沼政権は能力主義で、有能な役人を多く擁していた。
  しかし、その一方、その新参者の出世に反発する者も
 いた。
  「賄賂で出世したのだろう」と要らぬ事も言われた。
  田沼自身が、出世中の出世の人だった。
  浪人だった父、その後の身分も低かった。何ら、後ろ
 盾とはならなかった。
  しかし、その新参者の政権が・・、
  譜代門閥層によって、吉宗の孫の松平定信を担ぎ出さ
 れて、政権交代となった。
  米価下落、諸物価高騰が、武士階級の生活を圧迫して
 いた。
  また、田沼にとって、運の悪かったことは、第10代将
 軍徳川家治の長男の徳川家基が夭折した事だった。
  家基は、次期将軍と期待されていた。
  英才の誉れ高い17歳の若君だった。
  家治と、田沼の推薦で側室となったお知保との間に生
 まれた若君だった。
  子のない正室の子として成長し、文武の両道に才能を
 見せていた。
  変死だった。
  将軍・家治に、自らの跡継ぎがいなくなった。
  家治の悲嘆は大き過ぎた。その家治も没した。
  田沼の政権交代に、この悲劇も大きく関係している。
  田沼の落胆も、当然、大きかったと予想される。
  田沼の子の意知を取り立てたことも、親類縁者で固め
 たと、田沼への不満を増大させた。
  この田沼の長男・意知は、1784年に、城内で刺されて
 亡くなっていた。
  急速に取り立てられて行った田沼には、幕府の範囲し
 か見えない視点もあった。
  育った環境から、与えられた命題・幕府の政権運営、
 財政再建しか見えない点も見られた。
  大きく日本を見て、諸大名を俯瞰する視点も欲しかっ
 た。
  家基の死去で、家斉が養子入りし、家斉の将軍就任と
 同時に、田沼は去ることとなった。
..
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2015年8月19日水曜日

(増補版)185D2/3:気になった事柄を集めた年表(1780年~1783年)

題:(増補版)185D2/3:気になった事柄を集めた年表(1780年~1783年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1781年、幕府が、武蔵・上野に織物及び糸綿貫目改所の設
 置を許可した。
1781年、アメリカの独立戦争において、フランスは、財政
 悪化から和平の斡旋に乗り出した。
  アメリカ合衆国司令官のワシントンは、和平交渉で有
 利な条件を得ようと、フランス軍と連合し、イギリス軍
 を攻めた。
  フランス海軍も協力して、イギリス軍への補給を断っ
 たりした。
1781年10月、イギリス軍で信頼されていたコーンウォリス
 将軍の部隊が孤立し、とうとう降伏した。
  この名将の降伏は、イギリス本国に衝撃を与えた。
  ノース首相は「ああ、これで万事休すだ」と叫んだ。
  また、イギリス王のジョージ三世は、戦争継続論であ
 ったが、イギリス議会はこれに抗して「終戦を決議」し
 た。
1782年7月、印旛沼の干拓が始まる。
  印旛沼は、利根川の増水時には遊水地的な役割を果た
 していた。
  だが、洪水防止の観点からは、印幡沼の水を内海(現
 在の東京湾)に排水(開疎)する必要があった。
  また、そうする事で新たな新田が開発でき、また、利
 根川流域から江戸方面への水運が開ける利便もあった。
  幕府は、6000両を出資した。
  しかし工事は難工事を極め、資金は使い果たされた。
  この年・1782年に、老中・田沼意次は、再び、開疎工
 事の計画を立て、1785年10月から、手賀沼干拓と並行す
 る形で本格的な工事に乗り出した。
1782年8月、明礬(みょうばん)会所を増設する。
  従来の明礬会所以外に、薩摩産・中国産のみを扱う明磐
 会所を江戸・京都・大坂・堺に設置した。 
  明礬会所は、幕府から明礬の独占売買を許された会所
 の事。
  明礬は薬用として使用されていた。
  そして、媒染剤(ばいせんざい、染料を繊維に固着さ
 せる剤)として広く利用されるようになった。
  そこで、幕府は、明礬会所以外での取引を禁止して管
 理下の売買とした。
  「次は明礬会所、これは宝暦八(一七五八)年に、江
 戸、京、大坂、堺四ヵ所において、私売を禁じ、一切会
 所を経なければ明礬の売買は出来ぬという事に定めた。
 明和四(一七六七)年の閏九月になって、その禁を犯す
 者が多いので、さらにその令を申ねた。
  天明二〔一七八二〕年八月には従来の発売所の外に、
 新たに薩摩産、およびシナ産のみを引受けるところの会
 所を江戸、京、大坂、堺に立てさせた。自今はその総会
 所の外は私に売買することはならぬ。もしその産地より
 私に買出した者があったならば厳罰に処すという事を令
 した」(辻善之助『田沼時代』)
1782年、研究援助・出版:「群書類従(ぐんしょるいじゅ
 う)」がなる。
  日本の古代から江戸時代の初期に至るまでの古書の
 1270種を530巻に編集し、集大成した書(666冊)。
  編者は、塙保己一(はなわほきいち)を中心にした弟
 子や子息たち。
  続編(2103種1150巻1185冊)も出された。
  1819年に、全冊の刊行を終えるまで、41年の歳月を要
 した。
  幕府は援助し、蔵書も提供し、幕府の紅葉山文庫や伊
 勢神宮林崎文庫のほか、大名、公家、寺院など各方面の
 協力をさせた。
1782年11月、アメリカの独立への道
  1782年11月から、和平交渉が開始された。
  1783年9月に、アメリカの独立が承認され、講和条約が
 調印された。
  この結果、アメリカは、「ミシシッピー川以東の広大
 な土地」を手に入れた。
  先住民の方々のインディアンとの交渉は、大半が不成
 功で、成立しなかった(成立は、わずかに1つはある)。
  故に結局、本当の領土所有者との契約はない状況とな
 っている。
1783年4月~7月、浅間山が大噴火、そして、大飢饉:西南
 日本に大飢饉、死者多数。
  4月から7月初旬(旧暦)まで断続的に活動を続けてい
 た浅間山は、7月8日に大噴火を起こした。
  この時に発生した火砕流に嬬恋村(つまごいむら)で
 は一村152戸が飲み込まれ483名が亡くなったほか、群馬
 県下で1400名を超す犠牲者が出た。
  この直後に、吾妻川水害を発生させ、また、3年後にも
 利根川流域全体の洪水の原因となった。
  浅間山噴火による利根川の河床上昇が、各地での水害
 激化の要因となった。
  また、幕府の利根川治水に重要な影響を及ぼした。
  火砕流の流下量は1億立法メートルという膨大な量だと
 言われている。
  また、火山灰を広範囲に降灰させ、堆積させ、田畑の
 形状すら判別できない状況であったという。
  降灰の重みだけで70軒が潰れ、65軒が大破した。
  関東一円に堆積した火山灰は、農作物の生育に影響を
 及ぼし、既に始まっていた天明の大飢饉に拍車をかけた。
1783年、天災:天明の大飢饉が起こった。
  この飢饉は、既に1782年に始まっており、1787年まで
 の6年間にもおよんだ、全国的飢饉が続いた。
  1782年は、天候不順で凶作となった。
  1783年は、春から冷雨が続き、さらに洪水が起き、ま
 た浅間山が大噴火した。大凶作の年だった。奥羽・関東
 地方を中心とした大飢饉だった。
  疾病も流行し、餓死者・病死者は全国で90万人を超え
 た。秋には、各地で一揆・打ち壊しが発生した。
  1784年も、深刻な飢饉となった。
  また、1786年の凶作でその翌年・1787年も飢饉となっ
 た。
  この期間は、海流の異変も原因になっていて、冷害型
 気候となって関東・東北に著しい被害を与えた。
  1783年は、夏でも綿入れを着用するほどの寒冷な北東
 風(やませ)が吹き、稲は実らず4分作以下で、山間部
 はほとんど収穫はできなかった。
  米価は騰貴した。
1783年9月、大槻玄沢(おおつきげんたく、蘭方医、蘭学者)
 が、「蘭学階梯(らんがくかいてい)」を著す。
  蘭学階梯は、日本で刊行された最初の蘭学入門書。
  蘭学を学ぼうとする初心者の人たちのために、蘭語学
 の基本的事項や学習方法について述べている。
  上巻で、蘭学研究の意義と歴史を述べ、
  下巻で、アルファベット・アラビア数字・発音・訳例・
 文法・参考書を説明している。
  福知山藩主の出版助成を受けている。
1783年11月、人事:田沼意次の長男の田沼意知(たぬまお
 きとも)が若年寄となった。
  意知は、1764年に、第10代将軍・徳川家治に仕えた。
1783年11月、百姓一揆取締令を発した。
  幕府は、各地に発生する一揆や打ち壊しに対して令を
 発した。
1783年12月、与謝蕪村(よさぶそん、俳人、画家)が没し
 た(1716年~1783年)(没年に1784年説あり))
  摂津(せっつ、現在の大阪府北西部と兵庫県南東部)
 の生まれ。
  諸国放浪後、京都に定住。
  「蕪村句集」:春の海 終日のたりのたり哉
         さみだれや大河を前に家二軒
         菜の花や月は東に日は西に
  「夜色桜台図」掛幅(国宝)
  「十便十宣図」画帖(国宝)
..
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2015年8月18日火曜日

(増補版)184D2/3:気になった事柄を集めた年表(1779年~1780年)

題:(増補版)184D2/3:気になった事柄を集めた年表(1779年~1780年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1779年、出版:長久保赤水(ながくぼせきすい)が、『改
 正日本輿地路程全図(かいせいにほんよちろていぜんず)』
 を刊行した。
  赤水は、水戸藩の地理学者、儒学者、天文学者、農政
 学者で、
  「改正日本輿地路程全図」を、1775年に完成させた。
  そして、幕府の許可を得て、1779年に刊行した。
  縮尺が約130万分の1の日本地図で、緯線が1度ごとに引
 かれている。
  幕府の資料など、多くの資料によって編集されたもの
 で、竹島が初めて記されている。
  隠岐諸島の北西に竹島(現在の鬱陵島)、松島(現在
 の竹島)が記され、現在の竹島がわが国の領土であるこ
 とを示している。
1780年、日本の総人口:26,011,000人
1780年、鉄・真鍮(しんちゅう)の両座を開設する。
  真鍮座は、真鍮の鋳造と、販売の独占権を与えられた
 座で、幕府が、この年に設置した。
  鉄座と共に設けられ、江戸・京都・大坂において製造
 された。
  目的は真鍮銭の確保と、冥加金があった。
  江戸時代の銭貨には、銅銭・鉄銭のほかに真鍮で鋳造
 した真鍮銭があった。
1780年代、天麩羅:
  天明の初年(1780年代)、大阪の家僕45人を使うほど
 の家の次男が、江戸に下り・・
  「江戸には『胡麻揚げ』の辻売り多し。大阪にては『
 つけあげ』という。
  魚肉のつけあげはうまきものなり。江戸にはいまだ魚
 のつけあげを夜店に売る人なし。
  われこれを売らんと思ふ」と。
  夜店の行灯(あんどん)に「魚のごまあげ」としるさ
 んも、兄が「天麩羅」とした・・と。
  一説であるが・・ポルトガル語のtempero、または、
 temporas、または、スペイン語のtemploが語源という。
  名も、調理法も、江戸中期以降に広まったことは動か
 しがたい。
1780年、出版:「都名所図会(みやこめいしょずえ)」が
 刊行した。
  京都に関する地誌である。
  旅行者や好事家のために刊行したが、好評を博したた
 め、1787年に続編の「拾遺都名所図会」が出された。
  実地踏査に基づいて、代表的な名所だけではなく、隠
 れた名所や伝説・名物などについても詳細な解説を施し、
 更に豊富な鳥瞰図や風俗図などの挿絵が広い支持を受け、
 各種名所図会刊行のきっかけとなった。
  名所図会には、一国一地方を主とするもの、街道中心
 のもの、庭園、山水に関するもの、信仰関係のもの、歳
 時記風のものなど色々な種類がある。
1780年、アフリカ分割:
  我が物顔に領土を奪うヨーロッパ列強諸国
  18世紀末から19世紀後半にかけて、アフリカで展開さ
 れたヨーロッパのキリスト教国の植民地争奪競争。
  当初、商人やキリスト教宣教師集団を先駆とする内陸
 部への探検を支援していたヨーロッパ列強諸国は、
  次第に、国家的事業に切り替え、アフリカ各地で頻発
 した激烈な抵抗を、圧倒的な武力で、強圧的に鎮圧して、
 我が物として行った。完全な侵略行為。
  そして、植民地、もしくは、保護領として侵略を進め
 た。
  その調整の場が、1884年~1885年のベルリン会議であ
 った。
  各国は、アフリカ固有の民族文化などの差異をまった
 く無視し、自分たちだけの都合によって、意図的に国境
 線を引き、領土を決め奪い合った。
  この帝国主義の分割によって、アフリカ全大陸の9割が
 ヨーロッパ列強の支配下に置かれた。
  この民への殺戮と、侵略行為についてのお詫びはない。
1780年、産業革命:
  18世紀後半から約1世紀間、ヨーロッパ諸国・北米で起
 こった機械使用と工場制による生産の革命的変化と、そ
 れに伴う社会組織の変化。
  資本制生産様式の完成と資本主義社会の形成となった。
  イギリスで、まず、木綿の紡績・織布の技術革新があ
 り、動力としての蒸気機関の利用、工作機械の発明へと
 進み、
  同時に交通革命・農業革命、人口の都市集中などの現
 象が起こった。
1780年、この産業革命は、19世紀になって、各国がこれに
 追随した。
  産業革命は、一つの国内現象ではなく、原料獲得と廉
 価な工場製品の輸出で成立する世界システムであり、
  先進国の工業化は、後進地域の伝統産業や社会を破壊
 した。
  今日の南北問題の歴史的背景である。
  産業革命の語は、トインビーの研究で一般化したが、
 近年ではロストウのテイク=オフ〈離陸〉理論によって、
 近代社会への工業化現象の意味で用いられる。
  最近では、産業革命の現象そのものを否定する主張も
 ある。
1780年、東インド会社・廃止・・国家が前面に:
  18世紀末、植民地の重要性が増すと、各国とも会社を
 廃止して、国家の支配下においた。
  悪どい行為を会社形式で『隠れ蓑にしていた形』だっ
 たが、
  本音が出て来た、国家が見える形の中で「侵略」と
 「植民地化」の行為となった。
1780年~1784年、第四次英蘭戦争(えいらんせんそう)。
  このイギリスとオランダの両国は、性懲りもなく戦い
 続ける。
  欲が絡んだ利益のために・・、オランダは、イギリス
 との婚姻関係(ウィリアム3世とメアリー2世)を結んだ
 ことで、共同統治者を据えることで、ロンドンを新たな
 貿易拠点として使用するようになった。
  しかし、1720年頃より、オランダ経済は発展しなくな
 ってきた。
  1780年頃には、イギリスの総生産量が、オランダを上
 回った。
  オランダは憤っていた。
  オランダが、アメリカ独立戦争でアメリカを援助し始
 めた時に、第四次英蘭戦争が勃発した。
  イギリスとの同盟が無くなったことで、フランスから
 の侵攻が起きた。
  この時、オランダ海軍は弱体化していた。
  オランダは戦艦を建造した(95隻)。
  その数はイギリスの倍あった。
  1797年にも、英蘭は海戦をしている、そして、オラン
 ダ艦隊はイギリスに敗れている。
  フランスは、艦隊を持つのをあきらめている。
1780年頃、日本の一番あぶない時期
  この頃・1780年頃から、1842年のアヘン戦争終結の後、
 そして、1853年のペリー来航までの約70年間が、列強
 の侵略の恐れで、歴史上日本が最も危険な時期だった。
  当時の一般的な世界情勢は、列強の植民地になるか、
 または、不平等な条約で通商を行うかどちらかだった。
  この最も危険な期間に、人口の希薄な蝦夷地と、その
 周辺諸島を、幕府と松前藩、そして、東北諸藩が守り抜
 いたのは讃えるべきことだ。
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(増補版)183D2/3:気になった事柄を集めた年表(1776年~1779年)

題:(増補版)183D2/3:気になった事柄を集めた年表(1776年~1779年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1777年2月、信州高井・水内2郡の幕府領の百姓が強訴する
  中野騒動、(1月22日説あり)。
  この時は、貢納の延期などを要求している(年貢を払
 わないようにしてくれと要求しているのとはは違う)
  信州の百姓一揆・騒動は、江戸時代に200件ほどあり、
 全国一の発生件数となっている。
1777年5月、農民の江戸奉公(江戸出稼ぎ))が禁止になる。
  農業従事に専念してもらいたいという幕府の意思があ
 った。
  そして、新田開発を促した。
  幕府は、江戸に大量に流入していた地方出身の農民た
 ちに、資金を与えて、帰農させた。
1777年、アメリカ合衆国と国名を定めた。
  この年に、アメリカは、連合規約を締結し、国名を「
 アメリカ合衆国」とした(批准成立は1781年)。
  それまでは、邦(憲法で州が発足するまでの呼称)の
 各々が、兵の動員や、物資の調達や、将校の昇任などを
 していてバラバラだった。
  イギリス国王が、『7年戦争後のアパラチア山脈以西
 へのイギリス人植民者の入植を禁止した宣言』を出して
 いたため、
  先住民のインディアンの方たちは、このイギリス王の
 言葉・宣言に期待して、この宣言はあきらかに「7年戦争
 の後には、イギリス人の入植はしない」ということで、
  「自分たちの土地は守られている」と解釈し、
  この戦いにおいて、インディアンの方たちは、イギリ
 ス側に味方した、イギリスついて戦った。
  これは策略だった。
  この様な不誠実な策略を、イギリスは、世界のあちこ
 ちでやっていた。嘘つきである。
  そのような不誠実な国、悪巧みの国。
  イギリス軍は、このインディアンの方たちとドイツ傭
 兵なども加えて戦っていた。
  しかし、戦いの長期化で、食糧不足に陥っていた。
  この状況は、アメリカ軍も同様で、1777年から1778年 
 においての厳冬に、アメリカ軍の2000人の兵士が栄養不
 足や疫病で、死んだ。
  この数は、兵の約20%にあたる高率な数字となってい
 る。
  イギリス軍は、だんだん最前線への兵の補充も滞(と
 どこお)って行った。
  前線の兵も減少して行った。
  一方、アメリカは、民兵が近隣から駆けつけるという
 状況だった。
  ニューヨーク邦で、イギリス軍が、降伏したりする様
 になった。
1777年、売春婦が大勢いるイギリスのロンドン
  この年の調査で、ロンドンの売春婦が、7万5000人も
 居た。
  その記録がある。
  また、1840年には、何と、16万人に増加している。
  またさらに、1860年には30万人という人数に増えてい
 る。
  その様な世情のイギリス対し、1778年に、今まで、静
 観していたフランスが、今がイギリスをたたく機会だと、
 アメリカの独立を承認して、アメリカと同盟を結び、参
 戦した。
  海軍力を持つフランス軍と、イギリス軍との海戦も起
 きたりした。
  1779年、フランスの要請で、スペインも対英参戦した。
  このアメリカ独立戦争のフランスの参戦で、戦域が国
 際的に拡大して行った。
  ヨーロッパ、カリブ海、西アフリカ、インドなどへ及
 んだ。
  大西洋の制海権もイギリスだけのものでなくなった。
  しかし、良いことばかりではない。
  アメリカは、民兵の給料が払えないとか、食料も遅配
 するとかで、民兵の不満は高まっていた。
  一部の民兵が、反乱を起こすこともあった。
1778年6月、ロシア船が、日本領の国後島に来て、通商を求
 めた。
  国後島のアイヌの長のツキノエの案内で来た。
  ロシアは、勅書を携え、通商を求めていた。
  松前藩は、翌年に、拒否した。
  その他、厚岸、根室、ノッカマップ(根室市東方)に
 も来航した。
1778年、三浦梅園(みうらばいえん、自然哲学者、1772年
 ~1789年)が、長崎へ紀行し、「帰山録(きざんろく)
 草稿」を著した。
  梅園が、56歳の時に、長男や門人など一行12名と共に
 長崎へ出向いた。
  この本には、木製顕微鏡のことが記されている、また、
 ピアノと言われている「阿蘭陀琴」の記載もある。
  梅園は、1741年に、処刑された男性の遺骨を観察して
 根来東叔(ねごろとうしゅく)によって作成された「人
 身連骨真形図(じんしんれんこつしんけいず)」に、歴
 史的重要性を初めて認識した人だった。
  この「人身連骨真形図」の著者に会い、この本の模写
 図と解説文を写し取り、
  後に「造物余譚(ぞうぶつよだん)」としてまとめ、
 後世に伝えようとした。
  この梅園の行動がなければこの功績は世に出なかった。
  大分、時代が経て、1904年に、梅園の全集が刊行され
 たが、医学士の研究者が、連骨図に着目するまでに約半
 世紀の時が流れていた。
  日本学士院編の「明治前日本医学史」のために、日本
 の解剖学史を研究した小川鼎三は、「造物余譚」を元に
 「人身連骨真形図」を取り上げ、山脇東洋の人体解剖に
 先行する「験屍」に見られる「科学的態度」を讃えてい
 る。
1778年、本居宣長が、「古事記伝(こじきでん、ふること
 ふみのつたえ)」の上巻を書いた。
  本居宣長の「古事記」全編にわたる全44巻の注釈書。
  医学の修行のために上洛していた宣長は、1756年の27
 歳の時に、店頭で『古事記』の巻を購入した。
  この頃、宣長は『日本書紀』を読んでおり、賀茂真淵
 の論考に出会って日本の古道を学び始めていた。
  宣長が、本格的に『古事記』研究へ進もうと決意した
 のは、1763年(宝暦13年)である。
  直接には指導は受けていなかったが、秘かに師と考え、
 尊敬をしていた真淵に「松坂の一夜」を、初めて、直接、
 教えを受けた時である。
  その翌年の1764年から『古事記伝』を起筆し、1798年
 までの35年かけて脱稿した。
1779年12月、平賀源内が没した(1729年~1779年、50歳)
  この年に、大名屋敷の修理を請け負っていたが、勘違
 いから大工の棟梁を殺傷してしまった。
  そのため捕縛され、獄中で破傷風に罹り獄死した。
  杉田玄白らの手によって葬儀が行われた。
  しかし、別の説があり、その事件の後、江戸を去り、
 田沼意次、または、故郷の高松藩の庇護の下に入り、天
 寿を全うしたという。
1779年頃、田沼父子の専横が甚(はなは)だしかった(田
 沼時代)。
  田沼意次を中心とした老中首座の松平武元らの幕府閣
 僚は、数々の幕政改革を行なった。
  悪化する幕府の財政立て直しなどである。
  株仲間を結成し、銅座などの専売制を実施した。
  また、鉱山開発を進め、蝦夷地開発も進めた。
  また、俵物などの専売による外国貿易の拡大もさせ、
 また、下総国印旛沼の干拓に着手するなどの政策を実施
 して行った。
  その結果、幕府財政は、改善へと向かった。
  そして、景気も良くなった。
  その一方、社会は、ますます、初期の資本主義的傾向
 を強めて行った。
  民の生活、世の中は、金銭中心のものとなり、同時に、
 贈収賄も横行した。
  都市部での町人文化は発展し、賑わった。
  農民は、田畑を放棄して都市部へと流れた。
  農村は荒廃した。
  そこに、明和の大火や、浅間山の大噴火による天候異
 変を伴う凶作が起きた。
  天明の飢饉という大飢饉が起き、食糧難と共に、疫病
 が流行した。
  意次、および、幕府閣僚たちは、対策を打ち出すが、
 効果は上がらなかった。
  諸藩も財政難に陥っており、米価の値上がり、借金返
 済もあり、
  そのため、検地を行なって年貢の取立てを厳しくする
 というサイクルに陥って行った。
  この様な世情の中、都市部の治安も悪化し、一揆・打
 ち壊しが起きた。
  商人らの権益が見えていた世情に、庶民らに贈収賄疑
 惑が流れ、次第に田沼政治への批判が高まって行った。
  田沼時代は、外国貿易を黒字化するとか、
  国内の保有する金の量も多くなり、また、ロシアとも
 貿易を進めようとしたり、
  平賀源内などの知識人による改革を進めたり、蘭学を
 手厚く保護したり、
  士農工商などに捉われない平等な実力主義による人材
 登用をしたりと素晴らしい面も多々あった・・が、
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2015年8月17日月曜日

(増補版)182D2/3:気になった事柄を集めた年表(1775年~1776年)

題:(増補版)182D2/3:気になった事柄を集めた年表(1775年~1776年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1776年4月、上杉鷹山(治憲)が、米沢藩の藩校・興譲館
 (こうじょうかん)を設立する。
  1697年に、先の藩主によって始まっていた藩校が衰微
 していたので、上杉鷹山が再興を図った。
  1806年以後、朱子学を学風とした。
1776年11月、科学:平賀源内(ひらがげんない)が、エレ
 キテル(発電機)を作った。
  長崎で、源内が破損した器具を、通詞(つうじ)の西
 善三郎(にしぜんざぶろう)から入手し、この年に、修
 復に成功した。
  構造は、ガラスと錫箔(すずはく)とを摩擦して静電
 気をおこすもの。
1776年7月4日、アメリカ独立宣言:本国のイギリスの重商 
 主義政策・課税政策に反対するアメリカ東海岸の13植民
 地の独立。
  重商主義とは、自国の輸出産業をなにしろ保護し、育
 成し、貿易の差額によって資本と蓄積し、自国の富を増
 大させようとするもので、相手国のことは二の次だった。
  イギリスのトマス・マンガ主張するが片手落ちの主義
 だった。
  アメリカは、1776年7月4日に、独立を宣言する。
  これは、1783年のパリ条約で国際的に認められた。
  独立宣言は、基本的人権・革命権の主張を述べた前文、
  国王の暴政28か条の列挙と本国(イギリス)議会・本
 国人(イギリス人)への非難を述べた本文、
  独立を宣する後文、の三つの部分からなる。
  このうちとくに、「すべての人間は平等に造(つく)ら
 れている」ことを高唱し、
  不可譲の自然権として「生命、自由、幸福の追求」の
 権利を掲げた前文は、アメリカ独立革命の理論的根拠を
 要約した部分として知られている。
  しかし、1787年のアメリカ合衆国憲法は、厳格な三権
 分立を特色とし、世界最初の近代的成文憲法であるが、
  『奴隷制』や国家の組織などについて多くの問題を残
 した。
  また、この後アメリカは、多くの国々と争いを起こし、
 その民を蹂躙し、その領土・国家を奪って行く。
1776年、イギリスのクックが、北米西岸探検し、及び、
  1778年に、ハワイ諸島を発見した(~1780年、第三航
 海)  
  クックの悲劇が起きる。
  彼の乗った船に、1779年に、食糧の問題が起き(船員
 が騒ぐ、獲ったセイウチの肉は食べたくないという問題)
  その為、ハワイ島に、一度無事に出航したのに戻り、
 ケアラケクア湾に投錨した。
  約1ヶ月の滞在の後、
  クックは、北太平洋探検を再開したが、出航後間もな
 く前の帆柱が破損し、補修のため、また、ケアラケクア
 湾に戻らなければならなくなった。
  しかし、ハワイの宗教上の理由で、この突然の帰還は
 「季節外れ」で、先住民の側からすると思いがけないこ
 とだった。
  そのため、クック隊と先住民の間に緊張が生じた。
  1779年2月14日に、ケアラケクア湾でクックらのカッタ
 ーを村人が盗むという事件が起きた。
  この様な盗難、タヒチや、他の島々でも盗難はあった
 が、盗品の返還交渉は人質を取ればたいてい解決した。
  実際、クックは、この時も、先住民の長を人質に取ろ
 うとしたのだが、その頃、クックは、不安定な精神状態
 だったためか、盗品の引き取りのために下船した際、浜
 辺に集まった群衆と小ぜり合いを生じさせてしまった。
  クックは、傲慢な態度で言った、「塵一つに至るまで
 すべて返還せよ」と、
  そのクックの言葉と、木で鼻を括ったクックの態度に、
 住民方たちらは怒り、
  また、長の1人が、クックらの捜索隊に殺されたという
 噂に、住民の方たちらに動揺が生じた。その結果、
  槍と投石で、クックらを攻撃し始めた。
  クックらも、無謀にも強力な武器の鉄砲を、村人に向
 けて発砲した。
  その騒ぎの中、クックらは、退却を余儀なくされた。
  小舟に乗り込もうと背中を向けたクックは、頭を殴ら
 れた。
  クックは、波打ち際に転倒したところを、刺し殺され
 てしまった。
  クックらの死体は、先住民に持ち去られた。
1776年、自国民を売る行為をするイギリス
  イギリスは、18世紀の初頭から、自国民を新大陸のア
 メリカへ売った。
  自分の国の民を売るという「卑劣な行為をするイギリ
 ス」だった。
  自国民を他の国に売るという様な国・イギリスを、本
 当に軽蔑する・・破廉恥行為をする国家だ。
  イギリスは、国内の囚人(囚人と称せられた人々)を、
 労働力を欲しがっていたアメリカへ売った。
  民間の船荷請負業者に売り渡した。
  イギリスは、囚人が急激に増加したためと言うが、ま
 ったく破廉恥行為だ(魔女の次ぎは囚人だった)。
  イギリスは、アメリカの地主が経営する労働者として
 売りさばいた。
  イギリスは、アメリカが独立する1776年以降、アメリ
 カに売るという事が出来なくなると、
  自国民の囚人を老巧船に押し込んだ。
  そして、イギリスは、オーストラリアにおいて、先住
 の民であるアボリジニーの方々へ、まったくの配慮を欠
 いた行動をする。
  「自国領だ」「イギリス領だ」との行動をし、宣言を
 する。
  そして、このような経緯から、囚人を、イギリスは、
 自国領としたオーストラリアへ送り込んだ。
  内務大臣のシドニー卿は、1776年に、ボタニー湾に、
 流刑植民地を作ると発表した。
  そして、総督が任命された(総督の名は、アーサー・
 フィリップ)。
  総督は、今の北朝鮮がする拉致と同じように、本国の
 イギリスから「拉致行為をせよ」と命じられていた。
  イギリスが言った総督が行なうべきこと・・、
  1、自給自足で行え。
  2、流刑植民地を開け。
  3、囚人を使って開墾せよ。
  4、探検せよ、原住民に接触したら好感を抱かせよ。
  5、原住民にキリスト教を信仰させ、信仰を守らせよ。
  6、男の囚人が多く、女の囚人が非常に少ないので、
    近隣の諸島から女を調達せよ(奪い取れ、拉致せ
    よ)。
  7、良い囚人は釈放して土地を開墾させよ。
  以上の事からお分かりの様に、
  先住民の方々の持つ土地に対する配慮は、まったく無
 い状態だった。
  もう、完全に、イギリスのものだとの頭だけになって
 いた。
  そして、このイギリス人と先住民のアボリジニーの方
 々の接触において、アボリジニーの方々には、最初は、
 当初は、死者は白い姿で再びよみがえるという考えがあ
 ったので、
  イギリス人たちを、アボリジニーの方々の祖先の「よ
 みがえり」と見ていた、考えていた。
  アボリジニーの方々は、心底、白人のイギリス人に敵
 対した訳ではなかった。
  しかし、イギリス人も、最初こそは土産を渡したりし
 ていたが、意思の疎通も図れない、ぎこちない対応が流
 れ、そして、その様な中、ふとしたことから攻撃的行為
 が生まれた。
  初めての出会いにはあることだったが、イギリス人に
 強力な武器を持つという尊大さ・傲慢さと、キリスト教
 の有色人種への侮蔑の考え方・洗脳があり、悲惨な状況、
 惨憺たる状況へと発展した。
  そして、コミュニケーション・ギャップから予想でき
 ない方向へ進んで行った。
  アボリジニーの方々にも、初めの祖先のよみがえりの
 見方も消えた。
  アボリジニーの方々と会見がうまく行かなかったフィ
 リップは、アボリジニーの方々が、イギリスが占有した
 地に近づいて来ないようにした。
  入植して1年が経つ頃、食糧不足が大きな問題となった。
  この地で入手できる食料やその他の必要な物の有無を
 知る必要が生じた。
  その為、この地で暮らすアボリジニーの生活の知恵を
 知りたかった。
  フィリップは、卑劣な事にアボリジニーの方々を誘拐
 (拉致)する事にした。
  そして、白人の優越性を見せつける必要性も感じてい
 た。
  誘拐したアボリジニーに、白人教育をして、自分たち
 に都合よく使おうとした。
  自分たちの都合のよい橋渡しもさせたいと考えた。
  そして、実際にアボリジニーの方々を誘拐(拉致)し
 た。
  最初は3人捕まえた。
  その後、1人は天然痘で死んだ。
  南米のインディオの方々もそうだったが、原住民の方
 々は、天然痘などの病原菌がない世界に住んでいたので、
 すぐ天然痘など、白人が持ち込んだ病気に罹(かか)っ
 た。
  誘拐された残りのアボリジニーの方々は脱走した。
  フィリップの誘拐(拉致)して使う計画は失敗した。
  この様な、勝手なイギリス人の行為に怒ったアボリジ
 ニーの方々は、イギリス人たちを襲った。
  フィリップが使っていた囚人の召使たちは、既に、そ
 れまでアボリジニーの方々へ、随分、残酷な事をしてい
 た。
  以前のその事があって、この襲撃の時、この召使は殺
 された。
  この行為、アボリジニーの方々の行為は、先にイギリ
 ス人の召使が、残酷行為をしていたので、正当であった
 のだが、フィリップは、召使の「報復」(キリスト教の
 報復の教え)をする事とした。
  フィリップ総督は、アボリジニーの方々へ対する襲撃
 部隊を編成した。
  ここから、忌わしい、イギリス人のアボリジニーの方
 々への殺戮行為、破廉恥行為が始まる。
  フィリップは「6人、捕まえて来い」と命令した。
  こんな経緯で、イギリスの低劣な行為が始まる。
  何ら深い哲理があって、オーストラリア経営をしたと
 か、何とかの話は何にもない。
  その時、その時に策をするという『修羅の世界』の思
 考形態の中に居た。
  そこに、キリスト教の有色人種蔑視と「(キリスト教
 の)神の義があれば、我々は正義だ、何でもできる」と
 いう低劣な考え・教えがあった。
  そして、何の協定もなしに他人の土地を奪って行った。
  この頃の本国・イギリスのキリスト教聖職者の言葉、
 「アボリジニーは、犬とたいして変わらないし、彼らを
 撃ち殺すのも犬を撃ち殺すのもさしたる違いはないと人々
 が言っているのを私は何度も聞いています」と、私も同
 感というような発言が記録に残っている。
..
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