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2015年9月19日土曜日

(増補版)208D2/3:気になった事柄を集めた年表(1817年~1818年)

題:(増補版)208D2/3:気になった事柄を集めた年表(1817年~1818年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1818年(文政元年)1月、幕府が、塙保己一(はなわほきい
 ち、国学者)に、和学講談所(わがくこうだんしょ)の
 勤務を命じた。
  和学講談所は、1793年に、幕府の許可と、下付金を受
 けて、江戸麹町に、塙保己一が創立した学問所で、
  林大学頭の指導の下で、国史・律令の資料の編纂や講
 義をおもな事業とした。
  「群書類従」などを編纂した。
  明治元年(1868年)1月まで続き、明治政府の修史局に
 引き継がれた。
  学問所としては、当時、漢学が主流の中で、この様な
 特徴ある学問所が開かれた意義は高い。
  本学問所の修史事業は、後世に多大な貢献をしている。
1818年1月、岩崎灌園(いわさきかんえん、本草学者)が、「
 草木育種」を刊行した。
  江戸時代の園芸書的なもので、
  例えば、「オオヤマレンゲ」は、日本に自生している
 ことが、当時、すでに知られていたが、この草木育種で
 は、雄株に紅白の2種類があるとしている。
  因みに、今・現在のオオヤマレンゲの解説では、モク
 レン科モクレン属の落葉広葉樹の低木で、
  花は白、開花時期は5月~7月、分布:本州の関東地方
 から九州、生育地:山地の林の中、樹高:2~4メート
 ルとある。
  また、花径:5~10センチくらいあって大形、香り
 の良い白い花を下向きにつけ、花被片は多くて9枚くらい
 で、花の中心部には紅色の雄しべがたくさんある・・と
 ある。
1818年2月15日、幕府が、京都定職以外の銀箔製造を禁じた。
  また、江戸呉服町に京都銀箔所を再建した。
  1775年5月に、幕府は、既に、令を発し、諸国で箔を打
 つことを禁じていた。
  当時、金座や銀座の監督の下で、免許を受け、営業を
 行なっていた箔屋は、他業種と同様に株仲間を形成して
 いた。
  中でも、京都の銀箔屋は、江戸にも共同市場を設置し、
 強大な勢力を持っていた。
  加賀藩は、文化時代(1804年~1818年)や、文政時代
 (1818年~1830年)ころに、藩内が、ますます華美とな
 り、爛熟の極に達していたという状況や、
  風俗の奢侈(しゃし、度が過ぎて贅沢なこと)なこと、
  また、大量の金銀箔の需要が増大していること、
  そして、その購買のための加賀藩の資金の流出と、そ
 れによる財政圧迫があるため、
  その対策の為、藩内自給の必要性を痛感した。
  藩は、自給計画の元に、金沢安江木町に自給製造を命
 じた。
  命じられた町人は、藩から特許を得て、京都から職人
 を呼び寄せ、大々的に製造を開始した。
1818年3月7日、3代目尾上菊五郎が、清元「保名(やすな)」
 (篠田金治作詞、清沢万吉作曲)を江戸都座で初演する。
  保名は、歌舞伎の舞踊曲のこと。
1818年4月13日、伊能忠敬(いのうただたか、測量家、地理
 学者)が没した(1745年~1818年、74歳)
  日本の偉大な測量家であった。
  隠居後の残りの生涯を、一つの事に極めた。そして、
 大きな業績を遺した。
  生涯でやる事をやって後、49歳の隠居以後にも、この
 様な大業績を遺した。偉大だった。
1818年4月16日、幕府が、真文二分判金(しんぶんにぶきん)
 を発行した(文政期の貨幣悪鋳の始まり)。
  二分判(にぶばん)とも言う。
  当時、流通していた元文小判の1/2の量目である上、品
 位が14%低かった。
  1835年に、通用停止となった。
  今の時代は、良いか悪いかは別にして、すべての国が
 紙幣でことをなしている。実質的価値は全くない。
  特に、世界の基軸通貨となっているアメリカの米ドル
 は、どんどん刷られて、世界に流出されている。
  江戸幕府のやったことの極みだ。
1818年5月、イギリス船(ゴードン)が、浦賀に来て、貿易
 を要求した。
  そのうち、イギリスの捕鯨船も、浦賀に来る(1822年)
1818年6月、蘭学者の大槻玄沢らが連署して、西洋新薬を
 オランダに注文することを幕府へ建議した。
1818年7月、画家の亜欧堂田善(あおうどうでんぜん)が、油
 絵の具の製法を門人に伝えた。
1818年12月、本田畑甘藷植付禁令
  幕府が、みだりに本田畑に甘藷をつくることを禁止し
 た。
  1643年には、既に、本田畑での五穀以外の商品作物(
 木綿・煙草など)の栽培も禁止されていた(田畑勝手作
 の禁令)
  しかし、この法令は干渉と見なされて、まったく不評
 であった。
  17世紀の終わり頃になると、商品作物の生産が盛んに
 なり、法令無視で作って売却益で年貢米を購入して納入
 する者も出始めた。
  また、各地でコメの生産量も増えて米価が低迷して来
 た事から、諸藩は商品作物の栽培を奨励して、農家の収
 入を増加させて、納税させて藩の財政を安定させようと
 するところも増加した。
  この様に政策も二転三転した。
1818年、幕府が、地図上で、江戸城を中心に朱引きの範囲
 を定め、御府内(ごふない)とした。
  御府内は、町奉行の支配に属した江戸の市域のことで、
  東は、亀戸・小名木辺り、
  西は、角筈村・代々木辺り、
  南は、上大崎村・南品川町辺り、
  北は、上尾久・下板橋村辺りの内側と定められた。
  だが、境域は一定しなかった。
1818年、農学者の大蔵永常(おおくらながつね)が「老農
 茶話」を刊行した(1804年説あり)。
  1818年には、「農家益続編」を書いたという説もある。
  永常は、生涯に80冊あまりの農書を著した。
  そして、彼は、自愛即他愛の立場から、自他ともに栄
 える道を説いた。
  そして、民に利を得させてはじめて為政者の利となる
 と主張した。
  彼は、商品作物の栽培・加工を重視した実践指導を行
 った。
  老農茶話には、稲の乾燥法、科の繊維・織布の研究書
 となっている。
  農家益続編2巻などには、はぜの栽培や製ろう技術など、
 特用作物(とくようさくもつ、食用以外の特別の用途に
 あてるため栽培・加工する農作物で、綿・桑・茶・麻・
 煙草・藍など)の栽培とその加工法を詳しく書いている。
1818年、大田南畝(おおたなんぽ、文人、狂歌師、戯作者)
 が、狂歌狂文集「万紫千紅(ばんしせんこう)」「蜀山
 百首(自選歌集)」を刊行した。
  南畝は、別号は蜀山人(しょくさんじん)、また、狂
 歌名は四方赤良(よものあから)。
  幕臣(支配勘定役)である。
  生没年:1749年~1823年、江戸牛込仲御徒町に生まれ
 た。
  1794年の人材登用試験には、見事な成績で合格したと
 いう(学問吟味を受けて首席となる)。
  大阪銅座出役や長崎奉行所出役などの勤務をこなし、
 かたわら江戸文人の代表格として名声を得ていた。
1818年、渡辺崋山(わたなべかざん、洋学者、南画家)が、
 「一掃百態」を売成した(崋山が25歳のとき)。
  崋山は三河国田原藩の家老。
  生没年:1793年~1841年(48歳)
  一掃百態は、漫画的に寺子屋風景を描いた作品。
  田原藩の藩士の子として、江戸藩邸内で生まれ、8歳で
 出仕した。
  貧困とたたかいながら儒学を学び、生計のために画を
 修行し、学んだ。
  1824年の31歳のとき、父の死により家督を継ぐ、
  1832年の39歳のとき、年寄役末席(家老)となる。
  藩務にあたり、殖産興業に努めるとともに、海防掛に
 任じたことから蘭学にも通じ、高野長英らとも交わった。
  開明的政策を行なった。
  1937年の44歳のとき、浦賀に来航したアメリカ船のモ
 リソン号に対し(モリソン号事件)、異国船打払令によ
 って対処したことを、世界に目を覆っているとの立場を
 とった。
  そして、1939年の46歳のとき、幕府の対外政策を批判
 した「慎機論」を著し、
  1939年5月に、蛮社の獄に連座した。
  そして、同年の1939年に、国元に蟄居を命じられ、
  1941年に、崋山の窮迫を助けるために、弟子たちが江
 戸で開いた画会が、蟄居中に不謹慎ととがめられ、藩主
 に塁が及ぶのを恐れた崋山は自殺した。
1818年、イギリスのインドの土地を奪う行為に手を貸した
 イギリスのインド総督のウォレン・へスティングスが死
 んだ。
  イギリス東インド会社に、1750年に、赴任した。
  そして、クライブ中佐の指揮下で、インド知事や総督
 を歴任した。
  その後、イギリス議会で、インド統治が過酷だとも美
 しく言いながらも、
  その右の手の言い方と違った左の手の方の言い方で、
 イギリスの指示で、インドの地を奪い、利益を奪って行
 った。
  イギリスは言った、
  「統治は、正義と温情を旨としなければならない・・
 が、ただし、金を送れ、もっと送れ、もっともっと送れ」
 の命令を出した。
  ヘスティングスは、「矛盾した命令だ」と泣いた。
  このインド総督は、命令に従うため色々な暴虐をした。
  イギリスは、何時も、この様な狡(ずる)いやり方を 
 した。
  その1つが、ある地域のインドの藩王に、
  「イギリスの軍隊を貸すから、隣の国を占領してしま
 え。そして、私にはその代償として40万ポンドを支払い
 なさい」・・とそそのかした。
  その「そそのかしの言葉」は実行された。
  それが、1774年の「ロヒラ戦争」である。
  結局、この可哀想な戦争となった地は、イギリスが横
 取りして、1801年に、イギリス領になってしまった。
  この事を、歴史家マコーレーは、
  「ロヒラ戦争の目的は、他国や人に対し、何も悪い事
 を加えたことのない善良な人々が、
  その善き人々から、善き政治を奪い、
  また、その善良な意思に背かせて、嫌だという様な虐
 待的政治を押し付けるという事だった。
  戦争を仕掛けられるロヒラ人は、平和を望んで哀訴し、
 嘆願し、また、巨額の金を積んで、ひたすら戦争を避け
 たいとしたが、すべては無駄だった(イギリスは拒否し
 た)。
  戦争に至る道しか示されなかった。
  血なまぐさい戦争が、こうして起こった。
  インドに於いて、最も善良で、最も立派であった国民
 は、貪欲で無知で残虐無類な暴君の手に委ねられ、豊か
 な国は、今やみじめな、最も貧乏な地に成り下がった」
 ・・と批判した。
  イギリスは、この様な卑劣な手で、インドの地を奪っ
 て行った。
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2015年9月17日木曜日

(増補版)207D2/3:気になった事柄を集めた年表(1817年~1817年)

題:(増補版)207D2/3:気になった事柄を集めた年表(1817年~1817年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1817年11月、諸国の風俗、習慣の調査
  幕府の右筆である国学者・屋代弘賢(やしろひろかた)
 が、諸国に「風俗問状」を発して、
  諸国の古来の風俗や習慣を調査した。
  右筆(ゆうひつ)は、文書・記録の作成を司った役の
 ことであるが、
  弘賢のこの時の調査の回答書の20余編が残っている。
  秋田、越後長岡、若狭小浜などが現存している。
  調査書は、1813年頃から、逐次、配布された。
  送付先は、全国各藩の儒者や知人。
  調査内容は、歳時風俗および冠婚葬祭など131項目。
  これは、同一項目による全国同時の民族調査として意
 義があり、
  先駆としての民俗学史上に残る事業であった。
  この様な、広い考えにあった幕府も褒められるべきで
 ある。
1817年、深川芸者が、帯の太鼓結ぴを始め、流行した。
1817年、女性の手になる「西洋に勝る」先見的な書
  女流文学者の只野真葛(ただのまくず)が、「独考(ひ
 とりかんがえ)」を著した(1819年に、曲亭馬琴に送ら
 れた)。
  真葛は、工藤平助(仙台藩医、経世家)の長女として
 生まれた(生没年:1763年~1825年)
  経世論の「独考」は、曲亭馬琴に批評を頼んだ。
  真葛は、苦しむ貧民に心を寄せて、後々まで続く経世
 済民の志(こころざし)を抱いた女性だった。
  経世済民(けいせいさいみん):世を治め、民を救う
 こと。
  武士の夫の江戸勤めが多い状況の中、思索にふけり、
 55歳の時に、思っていたことを全3巻にまとめ、「独考」
 と題して、江戸の滝沢馬琴に送った。
  馬琴は、幕府の意に触れる所があると出版は控えた。
  江戸期の女性の手になる社会批判書で、
  女性解放を主張する部分など、先見的で、西洋に勝る
 書が、すでに、江戸期の日本には存在していた。
1817年、科学:世界年平均温度分布
  フンボルト(ドイツ)が、世界年平均温度分布をつく
 った。
1817年、「大御所政治」始まる。
  1817年9月に、老中首座の松平信明が病死すると、
  第11代将軍・家斉は、寛政の遺老たちを遠ざけた。
  そして、かつて田沼意次派に属した水野忠成を、老中・
 首座に任じた。
  忠成のもと、賄賂政治が横行し、幕府財政の破綻、幕
 政の腐敗、綱紀の乱れを生じた。
  一見華やかな時代となったが、幕府の政治的停滞は強
 まり、財政は放漫経営となって、徐々に社会の不満は高
 まって行った。
  家斉自身も、豪奢な生活を送った。
  厳格過ぎた寛政の改革の反動だった。
  そして、忠成の死後は、浜松藩主の水野忠邦が、老中
 となり、幕政改革を試みたが、
  家斉のもとでは、空回りが続いた。
  家斉は、将軍在職50年の後、1837年に、世子・家慶に
 将軍職を譲った・・が、
  しかし、隠居をしてからも実権を持った。
  1841年1月に、69歳で家斉が死去するまで続いた。
  家斉の死後、幕政建て直しのため、水野忠邦は、天保
 の改革を始めた。
18世紀、砂糖というもの
  17世紀から18世紀の初期にかけて、中国の福建省から
 琉球・奄美へ、黒砂糖の製法が伝えられ、生産が始まっ
 た(白砂糖や氷砂糖は18世紀の末)。
  砂糖は、大変な貴重品だった。
  18世紀の半ばには、長崎にはすでに「砂糖屋」があっ
 た。
  また、唐船やオランダ船の砂糖を買い集める業者も33
 人も居た(後に、85人)
  長崎の輸入の10パーセントを占めるというデータもあ
 る。
  江戸のおいては、砂糖は薬扱いであった。
  砂糖屋が薬種屋から分立するのは19世紀に入ってから。
  しかし、工藤平助の「報告以言」によると、砂糖の輸
 入量の3分の1が菓子に使われており、3分の2が食用だっ
 たという。
  「小買のなめ物」といい、貧しい人々が空腹を満たす
 ための食用としていたという。
  この様な形での国内での砂糖の需要拡大を受けて、
  自力での砂糖の栽培拡大を目的として、南方の探索と、
 開拓が本格化した。
  幕府は、砂糖の輸入増大による、国内の金銀の流出を
 懸念した。
  それほど砂糖の消費量は拡大していた。
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2015年9月16日水曜日

(増補版)206D2/3:気になった事柄を集めた年表(1815年~1817年)

題:(増補版)206D2/3:気になった事柄を集めた年表(1815年~1817年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1816年(文化13年)1月16日、幕府が、諸国の人口調査を
 行った。
1816年2月、二年前の1814年に禁止された「咄(はなし)の
 会」が、落語・昔物語は、忠孝を説くという条件つきで
 許可された。
1816年4月、司馬江漠の「天地理談」が刊行された。
1816年9月、山東京伝(さんとうきょうでん、戯作者、浮世
 絵師が没した(1761年~1816年、56歳)
  寛政の改革で洒落本が発禁になって影響を受けたが、
 その後も大活躍し、人気を博した。著書は多数。
1816年9月、幕府が、年貢の不足米を正米(しょうまい=実
 物)で納めるようにと、幕府領の各村に命じた。
1816年10月、イギリス船が、琉球に来航した。
  幕府は、島津藩の役人とともに対応した。
  幕府に新たな交易拡大と南方の調査許可を求めた。
  これは、幕府に、領土確定を意識させた。
  幕府は、清のアヘンが絡むイギリスの悪行を知ってい
 た。
  国内産業は、この年頃より、輸出が拡大して行き、日
 本各地で、工場制手工業が大幅に拡大していった。
1816年12月、史上最長の漂流
  三年前の1813年に遭難した尾張藩の督乗丸(120トン)
 の船頭らが、この時に、江戸へ帰還した。
  史上、最も長期間に渡った漂流だった。
  この遭難は、江戸からの帰途、遠州灘で暴風雨に巻き
 込まれた事で起きた。
  舵(かじ)が破損したため、漂流状態となった。
  太平洋上を、484日間に渡って漂流した。
  アメリカのカリフォルニア州のサンタバーバラ付近の
 洋上で、英国船に発見され救助された。
  生存者は、船長〈船頭)の小栗重吉と乗組員2名の計3
 名だった。。
  当初は、船頭と13名の乗組員が乗船していた。
  帰途は、ロシア船に択捉島へ護送され、ここで乗組員
 1名が病死した。
  残った2名は、国後島からノッケ岬、根室を経て、
  1816年9月に、松前に到着した。
  江戸で事情聴取を受けたのち(この時、新城藩の家老
 で国学者の池田寛親の聞き取りが行われ、「船長日記・
 ふなおさにっき」が書き上げられている)。
  そして、1817年4月に、身柄は尾張藩に移され、5月に、
 帰郷を果たした。
  漂流を生き延びられたのは、積荷の大豆をきな粉にし
 たり、魚を釣ったりして、飢えをしのいだからだった。
  しかし、乗組員は、壊血病や栄養失調で、次々と落命
 したという。
  船長の重吉は、尾張藩から5石2人扶持と、名字帯刀の
 武士として待遇される身となった。
 また、御水主の職(すいしゅ、かこ、船の長・おさ)を
 得た。
  しかし、2か月で重吉は辞職し、乗組員の供養に余生を
 捧げ、過ごした。
  1824年頃、重吉は、著作を売って得た資金で、慰霊碑
 を笠寺に建立した。
  この碑は、今・現在も、名古屋市熱田区の成福寺の境
 内に現存している。
1816年12月、幕府が、1812年からの米の倹約令の年限が、
 終了したことを、各大名・旗本に通達した。
1816年、岩崎灌園(いわさきかんえん、本草学者)が、「救
 荒本草通解(きゅうこうほんぞう)」を著した(生没年
 :1786年~1842年)
  岩崎灌園は、江戸下谷に生まれ、父は、直参の下級武
 士だった。
  本草学を小野蘭山に学び、若年の時から本草家として
 薬草採取を行なったりした。
  1809年の23歳の時に出仕した。
  そして、1814年の28歳の時に「古今要覧稿」の編集、
 そして、図版製作の手伝いを命じられた。
  1820年の34歳の時に、小石川の火除地で、薬種植場を
 設け研究に没頭した。著書は多数。
  救荒本草通解は、中国・明代の本草書を元に、飢饉の
 際の救荒食物として利用できる植物を解説した書で、
  収載品目は400余種。文章と図で示し、また、料理法を
 記している。元の書に多くの加筆をしている。
  灌園は、薬草が万民のためになると確信し、その真偽
 をただすことに努めていた。
1817年(文化14年)1月、幕府が、1812年に発令した倹約令
 の期限終了にあたり、諸大名に以後も諸経費の 節約を
 命じた。
1817年3月、両国・柳橋の万屋八兵衛方の万八楼で大酒大食
 の会が催された。
  この時、芝口の鯉屋利兵衛(30歳)は、酒を3升入り
 杯で6杯半を飲んだという。
  これは、35.1リットルと考えられない量となる。
  1000cc入り牛乳パックが、35本以上というとてつもな
 い量となる。
  利兵衛は、その座に倒れ、「余程」の休息ののち、目
 をさまし、水を茶碗で17杯飲んだという。
  因みに、2位は、3升入り杯で3杯半だという。18.9リッ
 トル。
1817年4月17日、蘭学者の杉田玄白(すぎたげんぱく)
 が没した(生没年:1733年~1817年、85歳)
  巨星墜つ(きょせいおつ、偉大な人物が死ぬ)。
1817年5月3日、儒学者で寛政の三博士のひとり古賀精里(
 こがせいり)が没した(生没年:1750年~1817年、68歳)
1817年9月、イギリス船が、浦賀に来る。
  各台場は大騒ぎとなった。何事もなく退帆させた。
  前年の1817年には、イギリス船は、白浜村や大島沖に
 現れていた。
1817年9月10日、奏者番(そうじゃばん、取次にあたる役)の
 水野忠邦が寺社奉行を兼務した。
1817年秋、画家の石崎融思(いしざきゆうし)が、「ブロ
 ンホフ家族図」を描いた。
  融思は長崎派と言われる画家で、御用絵師(ごようえ
 し、幕府から一定の俸給を貰って、用命によって制作を
 する画家)となった。
  ブロンホフは長崎出島のオランダ商館長。
  妻たちは、長崎奉行への嘆願をしたが許されず、4か月
 後に日本を去った。
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2015年9月15日火曜日

(増補版)205D2/3:気になった事柄を集めた年表(1814年~1815年)

題:(増補版)205D2/3:気になった事柄を集めた年表(1814年~1815年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1814年、津軽藩および南部藩が、蝦夷地警備から撤兵し、
 松前藩兵と交代した。
1814年、蒸気機関車のが発明された
  スチブンソン(イギリス)が蒸気機関車を発明した。
1814年~1816年、ネパール戦争が起きた。
  イギリスとネパールの戦争。
  イギリスは、隠れ蓑の東インド会社がやったんだと言
 うが、卑怯な言い訳を言うが、「利益はイギリス本国へ、
 悪行為は東インド会社だ」は、おかしい。
  イギリスのインド占領の地域が拡大して行き、ネパー
 ル領と接触したために起きた戦争。
  そして、勃興するゴルカ王の脅威に対して、イギリス
 へ助けを求めて来たのでと、正義を主張する・・が、
  そして、その救援要請に対し、イギリス本国から来た
 イギリス兵のキンロック大尉に、連合軍を編成させ、イ
 ギリス軍を率いて出撃させた。
  赤子の手をひねるような戦いで、あちこちで悲惨な様
 相が生まれた。
  戦いは兵器の差が歴然としていた。
  弱い者いじめそのものだった。
  連合軍の弱い軍が敗けることもあったが、また、清国
 がからむ戦いもあったが、強い軍隊を持つイギリスは絡
 んで行った。
  これが作戦だった。かねてから予定した遠征と征服だ
 った。イギリスの勢力圏拡大が行われた。
  近代兵器を装備し、数においても勝るイギリスの取り
 放題だった。
  インドどいう他国に来て、更に領土を広げ、隣の国ま
 で拡大した結果で起きたことで、
  イギリスは、ネパールが先に手を出したと言うが、そ
 もそも侵略をして来たのはイギリスでしょというのが実
 相。
  こんな手で戦争を起こして、強い軍隊が、ネパールの
 首都のカトマンズを制圧して、
  そして、ネパールは敗北を認めた。
  イギリスは、ネパール領の北西部を手に入れた。これ
 が目的だった。
  歴史に、ごまかしで書かれる様に立ち回ったイギリス
 だった。
  ネパールの宮廷は、イギリス政府の駐在官の統制下に
 置かれることとなった。ここで、隠れていたイギリス政
 府が本音の尻尾が出た。
  イギリスは、世界のあちこちで、この様な卑劣な、ご
 まかしの侵略をして来た。
  また、世界史で、アジア、アフリカ、オーストラリア、
 北米、南米などなどを侵略して来たのは、ヨーロッパ・
 キリスト教諸国だ。
  しかし、今日まで、ヨーロッパ・キリスト教諸国が、
 こうした侵略の謝罪をしたことはない。
  この様な状況を日本は見ていた。
  特に、イギリスの行う、アヘン戦争のいきさつを・・、
1814年9月、ウィーン会議が始まった
  フランス革命・ナポレオン戦争ののち、乱れたヨーロ
 ッパの政治秩序を再建したいとした。
  ウィーン体制:ウィーン会議(1814年~1815年)から、
 1848年のフランスに起こった市民革命である2月革命に
 至るヨーロッパの反動体制。
  フランス革命・ナポレオン戦争による支配権や国境の
 移動を革命前に戻そうとする正統主義・復古主義を理念
 とした。
  中心人物オーストラリアのメッテルニヒは、神聖同盟・
 四国同盟(イギリス・ロシア・オーストリア・プロシア)
 によって革命・自由主義を弾圧した・・が、
  ラテン・アメリカ、ギリシャの独立、7月革命で打撃を
 受け、2月革命で失脚し、体制は崩壊した。
1815年(文化12年)1月、幕府が、諸国の荒鉛の大坂銅座買
 い上げを廃止し、売買を自由にした。
1815年2月17日、座頭金(ざとうがね)などの高利の金融の不
 正を取り締まった。
  幕府から許可を得て、座頭は貸付けを行なっていた。
1815年3月、司馬江漢の長崎紀行「江漢西遊日記」ができた。
1815年4月、杉田玄白が、「蘭学事始(らんがくことはじめ)」
 を著した。2巻、
  玄白が、83歳の時に、往時を回想して書いたもの。
  オランダ医学の伝来、ヨーロッパ人の渡来、「解体新
 書」の翻訳の苦心を記している。
  そして、蘭学が盛んになって来ていることの喜びを記
 している。
1815年6月5日、鳥居清長(とりいきよなが、浮世絵師)が
 没した(1752年~1815年、64歳)
  役者絵、のちに、長身で健康的な美人を群像形式で描
 く美人画に転じ、「清長風美人」を確立した。
  「大川端の夕涼」重要文化財
1815年8月、散逸していた「類聚国史(るいじゅうこくし)」
 (892年成立、菅原道真編)を、仙石政和(せんごくまさ
 かず)がまとめて出版した。
  類聚国史は、古代史研究には欠かせない基本史料とな
 っている。
1815年9月、幕府が,日光社参のため国役(くにやく)金(臨
 時の賦課)を関東・東海諸国に命じ、以後5年間の1年ご
 との上納金を定めた。
1815年9月、幕府が、諸大名に大坂廻米の2割削減を命じた。
1815年、井伊直弼が生まれた(1815年~1860年)
  江戸後期の大老で、近江彦根藩主。
  1850年に、家督を継いで、掃部頭(かもんのかみ)と
 称し、藩政につとめた。
  1853年のペリー来航の時、相模沿岸の警備にあたって
 いたが、この頃から、開国和親の考えを持ち、
  江戸城留間詰(たまりのまつめ)譜代大名らの保守派
 の代表となって、
  水戸の徳川斉昭(なりあきら)ら、強硬な攘夷論者、
 幕政改革派と対立した。
  その間、1854年の和親条約締結に尽力し、
  同年(1854年)京都守護を命じられた。
  1858年に、ハリスとの安政の仮条約締結問題が起こり、
 14代将軍継嗣問題ともからんで、保守派と改革派は、対
 立関係になった。
  1858年に、彼は、保守派におされて大老に就任すると
 慶福(よしとみ、家茂)を14代将軍に定め、
  勅許のないまま安政条約を締結し、
  また、反対派を徹底的に弾圧した(安政の大獄)。
  このため、水戸、薩摩両藩の志士らによって、1860年
 3月に、桜田門外の変で暗殺された。
1815年、アルジェリア戦争(第二次バーバリ戦争)が起き
 た。
  アメリカ合衆国とオスマン帝国との間に争われた2回目
 の戦争。
  北アフリカでは、トリポリ・チュニス・アルジェの3
 邦が、オスマン帝国に従属しながら、独立色の強い統合
 を行っていた。
  この3国を合わせて、バーバリ諸国と言われていた。
  バーバリ諸国は通行料を取っていた。
  この行為をアメリカ合衆国は海賊行為だとして戦争と
 なった。
  戦いの結果は、アメリカ勝利となり、この行為が出来
 なくなった。
  これまでの経緯は、第一次バーバリ戦争の結果、アメ
 リカ合衆国は米英戦争につながって行った。
  バーバリ諸国は、この様な状況の中で通行料を取るよ
 うになった。
  また、ヨーロッパ諸国は、ナポレオン戦争中で手が回
 らなかった。
  米英戦争が終わったアメリカ合衆国は、この件に介入
 した。
  アメリカは海賊行為だと言った。
  なんでも武力で決着する時代。強いものが力で抑え付
 ける時代だった。
1815年、ナポレオンのパリ入城
  ナポレオンが、エルバ島を脱出し、パリに向かった。
  パリに近づく彼を、報じた新聞記事。
  ナポレオンが、パリに近づくにしたがって、書き方が
 変化するのが面白い。
  [5月9日]:悪魔が流刑地を脱出した。
  [5月10日]:コルシカ生まれの人食い鬼は、ジョアン岬
 に上陸した。
  [5月11日]:猛虎はガップに現れた。
  [5月12日]:悪魔は、グルノーブルに進出した。
  [5月13日]:僭主(せんしゅ、身分を越えて君主の称号
 を唱える者)は今リヨンにいる。
  [5月18日]:さん奪者(さんだつ、本来君主の地位の承
 継資格がないものが、君主の地位を奪取すること)は、
 首都に接近。
  [5月19日]:ボナパルトは、軍を率い前進。
  [5月20日]:ナポレオンは、明日パリ城壁に。
  [5月21日]:皇帝・ナポレオンは、今フォンテンブロー
 にいる。
  [5月22日]:皇帝陛下は、昨夕、チュイルリー宮殿に到
 着遊ばされた。
  この後、「100日天下」で、ナポレオンは、セントヘレ
 ナに流される。
  ここで、死ぬときの言葉、「フランス、軍隊、ジョセ
 フィーヌ」
  ジョセフィーヌは、離婚した皇后の名。
  彼女も死ぬ時、「ナポレオン」と言った。
  ワーテルローの戦い、そして、ナポレオンが失脚した。
  ウィーン体制が始まる(大国の勢力均衡によるヨーロ
 ッパの安定を願う時代)。
1815年、ネーデルラント連合王国(オランダ・ベルギー・
  ルクセンブルクに相当、1815~1839)が設置された。
  ナポレオン戦争中にフランス帝国領となっていたネー
 デルランドに、1815年のウィーン会議によって成立した。
  設立の意図は、フランスのこの方面への野望に対抗で
 きる国を作ることだった。
1815年、清国が、アヘンの麻薬吸引を禁じた。
  清国は、1796年に、アヘンの輸入を禁止していた。
  この様な禁止令は、何度も発せられた。
  国内ではアヘンの吸引の悪弊が広まって行っていた。
  社会の風紀も退廃して行き、事態は由々しき状態とな
 った。
  イギリスがアヘンの密輸を行なっていた。
  この代金の決済が銀で行われたため、貿易収支は逆転
 し、清国内の銀保有量は激減した。
  そして、清国内の銀価格は高騰した。
  この時の納税は銀による納税であったため、農民は納
 税額が2倍になったような状況に置かれた。
  清の税制の地丁銀制は事実上崩壊し、経済への深刻な
 打撃を与えていた。
  イギリスのアヘン密輸はこの様な大きな影響を清国に
 与えていた。
  この頃、アメリカ合衆国も広東貿易を開始し、大きな
 利益を受けていた。収奪。
..
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2015年9月14日月曜日

(増補版)204D2/3:気になった事柄を集めた年表(1812年~1814年)

題:(増補版)204D2/3:気になった事柄を集めた年表(1812年~1814年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1813年(文化10年)、この年、「蕎麦を食べたら死ぬ」とい
 う風聞が巷に流れ、市中の蕎麦屋は困惑した。
1813年、3月5日、4代目・鶴屋南北(つるやなんぼ
 く、歌舞伎作者)作の「お染久松色読販(おそめひさまつ
 うきなのよみうり)」が、江戸の森田座で初演された。
  5世・岩井半四郎と、5世・松本幸四郎らの初演。
  喜劇味も織り混ぜてある。
1813年3月28日、幕府が,菱垣廻船の積問屋から構成される
 十組問屋65組の1271軒に対して、株数を1,995株と定めて、
 以後の新規加入を禁止し、株札を交付した。
  この措置により、株の譲渡を受ける以外には参入の途
 が閉ざされた。
  経済統制の意味があった。
  また、財源であった。
  幕府財政や藩財政の維持において、旧来型の米本位制
 を基本とする武家の収入構造は、貨幣経済や市場経済シ
 ステムの発展の中で、すでに崩壊の様相を呈していた。
  現実の経済状況との乖離は大きかった。
  それ故、当然の様に、改革が必要とされた。
  商業資本対策面の施策がなされていく。
1813年4月、幕府が、伊勢町に米会所(こめかいしょ)を
 設置し、120人に株札を免許する。
  米会所は、大都市や諸藩の城下町などに設けられた米
 穀集散地の米商組合の集合所で、
  米市(市場)の運営を任されていた。
  また、米相場や手形引換所を兼ねていた。
1813年5月20日、戯作者・狂歌帥の朋誠堂喜三二(ほうせい
 どうきさんじ=手柄岡持・てがらおかもち)が没した(
 79歳)
  1788年に、幕政に取材した「文武二道万石通(まんご
 くとおし)」で筆禍を起こした。この後は、狂歌に専念
 した。
1813年6月、関東諸国の幕府直轄林の木材価格が定められた。
1813年7月5日、尊王家で寛政の三奇人の一人の蒲生君平(
 がもうくんぺい)が没した(46歳)
1813年7月、米価下落のため、幕府が、諸大名に大坂廻米量
 の半分を、領地て囲籾(かこいもみ=非常用の 貯蔵粧)
 とするように命じた。
  豊作ゆえの米価下落による幕府の必死の収入減対策。
1813年7月、幕府が、米価引上げのため、鴻池善右衛門ら
 有力町人41人に御用金を命じた。
  その他、江戸・大坂の町人にも御用金を申し付けた。
  その金で、必死に米を買い上げて、市場流通米を減じ
 て、米価を上げようとした。
  また、町人の収入が多いため、農民との格差を減らす
 意味で、御用金調達をした。
  そして、この年以降は、海防費用などの御用金調達も
 する。
1813年9月、銭相場が下落したため、銭の江戸回送を厳しく
 禁じた。
  これは、銭座で鉄一文銭の大量鋳造による、銭相場の
 下落に対処するためだった。
1813年秋、佐山半七丸(さやまはんしちまる)によって著
 された美容指南の書である「都風俗化粧伝(みやこふう
 ぞくけわいでん)」が出版された。
  当時の都会で流行する化粧やファッションについて書
 かれている。
  また、身のこなしについての指導書にもなっている。
  色を白く見せる方法、色が白いのが美人の第一条件だ
 った。
  そして、化粧品の基本に白粉化粧(おしろいげしょう)
 があった。
  その他に、目を細くするための方法、
  鼻の低きを高う見する伝(鼻筋を通して見せる方法)、
  眉は濃いめにして、紅は薄めにする、
  目の大いなるを小さく見する図(ぱっちり大きな目よ
 り、控えめな目元が美しい)、
1813年冬、海保青陵(かいほせいりょう、経済学者、儒学
 者)が「稽古談(けいこだん)」を著した。
  地理、天然資源、産物などの豊富な知識を、儒教的論
 理で展開する独自の経済思想を持っていた(1755年~
 1817年)
  稽古談は、青陵の経済思想の集大成的な著述である。
  全5巻、
  「物を売て、物を買は、世界の理なり」(売買天理論)
  また、藩専売制ほかの経済政策を記している。
  富国こそが現実の急務の課題。
  営利追求は正当で、積極的に求める意義を説いている。
  商業蔑視の風潮に対して、大胆な批判を加えている。
  武士階級の賤商(せんしょう)意識を脱却して、功利
 的主体としての自覚を喚起すべきと説いている。
1813年、解放戦争(~1814年)
  ヨーロッパ各国が、ナポレオン1世の軍事的支配に対
 抗して行なった。
  ナポレオンの制覇体制の崩壊の戦争。
  ナポレオンが、ロシア遠征に失敗すると、
  ロシア皇帝のアレクサンドル1世は、諸国民の解放を唱
 えて、1813年1月に、ロシアのナポレオン追撃軍がニー
 メン川を越えた。
  また一方、プロシア改革によって、プロシアでは反ナ
 ポレオン的国民意識が高揚していて、西欧諸国民が一斉
 蜂起して、解放戦争への契機となった。
  1813年10月16日~19日に戦われた決戦のラオプチヒの
 戦い(この戦いだけを解放戦争という事もある)は最大
 の会戦で、ナポレオン軍は敗れ、ナポレオンの失脚が決
 定的となった。
  ドイツの分裂状態を決定的にした三十年戦争(1618年
 ~1648年)から、ナポレオン支配からの解放戦争(1813
 年~1814年)に至るまで、ユダヤ人の財力や仲介なくし
 て行われた戦争はほとんどなかった。
1814年(文化11年)2月3日、天文方の高橋景保(かげやす)
 が、書物奉行(じょもつぶぎょう)兼任となった。
  若年寄に属し、紅葉山文庫の図書の保管・出納や写本
 の作成などを担当した。
  初めは林家ほかが扱っていたが、奉行の設置によって、
 逐次、諸業務を管掌していった。
1814年5月、幕府が、咄(はなし)の会を禁止する。
  烏亭焉馬(うていえんば、戯作者)は、1786年より咄
 の会を主宰し、落咄(おとしばなし)を公募し,秀作の
 「無事志有意(ぶじしゆうい)」などを、1798年に上梓
 (じょうし、書物を出版すること)するとともに、初代・
 三笑亭可楽,初代・三遊亭円生を登場させて来た。
  この功績によって「江戸落語中興の祖」とよばれてい
 る。
  大阪では、1772年から1789年にかけて、素人(しろう
 と)による咄の会が開かれ、咄本の出版、落語の演劇化
 の大阪俄(にわか)、そして、雑排の流行と、さらに知
 識人の余戯としても流行した。
  幕府は、この年・1814年に、咄の会を禁止した。
  しかし、1816年には、咄の会が、落語・昔物語におい
 て、忠孝を説くことという条件付きで許された。
1814年6月、医薬品原材料の流通統制を強化した
  幕府が、唐薬・和薬ともに、本町3丁目薬種問屋・大伝
 馬町組薬種屋以外、直取引を禁止した。
1814年9月、伊能忠敬の「沿海実測全図」が完成した。
  「伊能図(いのうず)」と呼ばれる「大日本沿海輿地
 全図(だいにほんえんかいよちぜんず)」は、1821年に
 完成している。
1814年11月、曲亭(滝沢)馬琴の「南総里見八犬伝(なん
 そうさとみはっけんでん)」第1集が刊行された。
  小売値が、銀20匁以上であった。
  とても大衆の手の出せる値段ではなかった。
  出版部数も500部前後で、その大部分は、貸本屋が買
 ったという。1841年に完結した。
1814年11月、富本斎宮太夫(とみもといつきだゆう、初代・
 清元延寿太夫)が、市村座に出演して、清元節き(きよ
 もとぶし)を興した。
  清元節は三味線音楽の一流派で、一般には単に「清元」
 と呼び、富本節から派生した浄瑠璃のこと。
  この清元節の創始者の清元延寿太夫(きよもとえんじ
 ゅだゆう)1世は、富本との不和から独立した。そして、
 創流した。
1814年12月、鉛の価格下落のため、諸国の荒鉛の大坂銅座
 の買上げを止めて、売買を自由にした。
1814年、葛飾北斎(かつしかほくさい、浮世絵師、1760年
 ~1849年)の「北斎漫画」初編が刊行された。
  北斎漫画は、全15編、図数は4000図とされ、北斎54歳
 のとき、
  初めは、絵手本(画学生の為の絵の教本)として描か
 れたものだった。
  しかし、これが評判を呼び、職人の意匠の手引書にも
 なったり、広く普及して行った。
  ただ単に、道具類やふざけた顔が描かれているのでは
 なく、遠近法など多岐にわたる内容まで含まれている。
  北斎は、江戸・本所・割下水(わりげすい)に生まれ
 た。
  江戸っ子・川村某の子だという。
  フランスなどヨーロッパの大画家に影響を与えた日本
 の江戸の大画家・絵師の幼少時は、あまり明らかではな
 い。
  幼名は、時太郎と言い、また、後に、鉄蔵と言った。
  4歳か、5歳の頃、一時、幕府御用の鏡師である中島伊
 勢(いせ)の養子となったが、詳しい事情は不明となっ
 ている。
  そして、14歳か、15歳の頃に、
  木版版下彫りを学んだ(小学校の頃にやった版画の様
 なもの)、
  また、貸本屋の徒弟(親方の家に住み込んで見習う少
 年)となったらしい。
  小さい時から、6歳頃から、絵は好きだったと後年に
 述懐している。
  18歳の頃の1778年に、当時、役者絵の大家として知ら
 れていた勝川春章(かつかわしゅんしょう、浮世絵師)
 の門に入った。
  才能のあった北斎は、早くも、その翌年・1779年に、
 画界にデビューとなった。
  勝川春朗と号し、役者絵の数点を同時に発表した。
  この後、15年間くらいを、師の門の絵師として錦絵(
 にしきえ)や、黄表紙、洒落本(洒落本)などの挿絵を
 描いた。
  1794年の34歳の時に、勝川派を離れた。
  何故かは不明だが、勝川派を破門とされた。
  これには、最古参の兄弟子との不仲説がある。
  才能を妬まれたか?
  また別に、他派に出入りして画法を学ぶことが原因だ
 ったという説がある・・? 
  北斎は、狩野融川に出入りしていたという。
  北斎は、画法をさらに極めたかったのか?
  この融川以外にも、堤等琳にもついたりしていた、
  そして、中国絵画も習得したりと・・貪欲に画法を極
 めようとしていた。
  そして、琳派(りんぱ)の俵屋宗理(たわらやそうり)
 を襲名して狂歌絵本や摺物(すりもの)などを数多く描
 き、活躍した。
  また、この頃は、時太郎可候(かこう)の名前で、数
 種の黄表紙も発表している。
  1898年の38歳の時には、宗理の号を家元に戻して、
  『北斎』を号した。
  そして、独立独歩の道へと歩み始め、大画家への作画
 活動を開始した。
  「富嶽三十六景 凱風快晴」通称:赤富士など多数。
..
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