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2017年2月11日土曜日

(増補版)492E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年8月~1889年9月)

題:(増補版)492E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年8月~1889年9月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1889年8月15日、大同倶楽部、大同協和会、保守中正派、紫
 溟会、玄洋社、および「日本」「日本人」の関係者が、
 非条約改正委員会を開いた。
  1888年(明治21年)2月、大隈重信は外務大臣に就任し、
 各国との条約改正交渉を進めるにあたり、国際会議方式
 ではなく、国別交渉方式で臨む方針を固めた。
  まず、1888年11月、メキシコと修好通商条約を締結し、
  1889年、アメリカやドイツなどと交渉を進めた。
  当初、大隈の条約改正案の内容は秘密にされていた。
  しかし、その要旨が『ロンドン・タイムズ』に報道さ
 れ、国内各紙に訳載されるや、
  国民の間に激しい反対論が沸き起こった。
  特に、問題視したのが、外国人被告事件で大審院に外
 国人裁判官を任用することを定めた点だった。
  大隈の条約改正に最も強硬に反対したのが、新聞『日
 本』だった。
  1889年4月5日から、「日本外交論」を掲載、対等主義
 による条約改正でなければならないと主張した。
  さらに、5月末に、『ロンドン・タイムズ』の論説を記
 載、
  6月5日には、混合裁判の構成と泰西主義の法典とをも
 って、治外法権の撤廃を買うものだと批判した。
  『東京新報』も反対の立場を鮮明にしたが、6月28日に
 発行停止にされた。
  これら反対論に対し、大隈派の矢野文雄を主筆とする
 『郵便報知』は改正案擁護の論陣を張った。
  『東京毎日新聞』『朝野新聞』『読売新聞』なども擁
 護論を展開した。
  玄洋社は、直接、黒田清隆内閣に訴える策を練った。
  頭山満は、谷干城、三浦梧楼、鳥尾小弥太らと謀り、
 頭山が大蔵大臣松方正義に、谷が逓信大臣後藤象二郎に、
 鳥尾が外務大臣大隈に、それぞれ説得に当ることにした。
  頭山は、松方に対し、「条約案は、金甌無欠(きんお
 うむけつ、傷のない黄金のけめのように、完全で欠点の
 ないこと)の国体を毀損するものなり。
  今日の策は、他無し、条約改正を中止するに在るのみ。
 ……余は国論を代表して閣下の決心如何を聞かんと欲す
 るものなり」(『来島恒喜』153)と詰め寄った。
  松方は、襟を正して「余は誓(うけい、神に誓うこと
 によって)て足下の言に負かざらんことを期す」と言っ
 た。
  玄洋社は、頭山が中央で反対運動を展開するとともに、
 福岡において筑前協会を組織し、香月恕経、平岡浩太郎、
 進藤喜平太らが中心となって、反対運動を展開した。
  また、大井憲太郎ら大同協和会は、7月に入ると反対運
 動開始を決めた。
1889年8月25日、条約改正反対派は、東京で全国連合大演説
 会を開催した。
  (東京日日、明治22.10.2)の記事には・・、
  新演説号外第二政談大演説会筆記、十月八日臨時発行
  定価八銭、郵税一銭(郵券代用は必ず一銭切手の事)
  九月二十七、八、九の三日間新富座に開かれたる政談
 大演説会は実に国家重大の一問題たる条約改正に賛成な
 る愛国忠君の傑士九十名が満腔の熱血を濺ぎ吐露せられ
 たる一大演説なれば(已に本月八日臨時発行せし号外第
 一の条約改正に正反対なる全国同志聯合政談大演説の筆
 記と同じく)再び十月八日に於て特に号外第二を発行し
 以て憂世愛国の諸君をして曩(さき、以前)の号外第一
 (反対論)と比の号外第二(賛成論)とを比較対照する
 の便に供すべし是れ新演説発行の趣旨に所謂双竜玉を争
 ふの状況を明かにするの本意なり
  新演説
  第十一号十月一日発行、第十一号目次
  ・条約改正の断行を望むは日本国民の輿論なり…大江
   卓演説
  ・国体論…高橋安爾演説
  ・国民の主操…諸岡正順演説
  ・対等論…林林次郎演説
  ・外交意見一班…曽田愛三郎演説
  ・主務大臣と政治問題…林包明演説
  ・独立国の大権を論ず…前田下学演説
  ・国民の元気…山田寅次郎演説
  ・深思せよ熟考せよ…植木枝盛演説
  ・条約改正論…田口卯吉演説
  雑録数件
  ・雄弁法講義…福陵生
  定価一部八銭、六部前金四十五銭、十二部前金八十五
 銭外ニ郵税一部一銭宛(郵券代用ハ一銭切手之事)
  発行所 東京市日本橋区大伝馬町二丁目 大成館
  ・大売捌 全国諸新聞雑誌売捌店
1889年8月26日、江戸開府三百年祭
  江戸開府から300年は、1603年に幕府が開かれているか
 ら、1903年ということになる。
  しかし、祝賀の催しが行われたのは、徳川家康が江戸
 に入った年(1590年)から数えて300年を迎える年の前年、
 1889年(明治22年)だった。
  この年・2月に、大日本帝国憲法が発布された年で、
  また、この年8月26日には、上野公園で盛大な催しが開
 かれた。
  イベントの企画者・賛同者は、前島密ら旧幕臣を中心
 に、実業界、芸能界、政治家など各界の有力者の面々だ
 った。
  委員長は、榎本武揚・・、委員には政治家をはじめ渋
 沢栄一、岩崎弥之助、大倉喜八郎らの実業家も顔を揃え
 た。
  入場券は1枚1円。
  芝生の広場に各国の旗章が飾られ、来賓席は江戸城の
 宮殿を模した装飾がなされた。
  江戸町火消しの名残をとどめたはしご乗り、猿若狂言、
 競馬、獅子手古舞、近衛軍楽隊の奏楽、鍵屋の花火など、
 にぎやかな催しが続いた。
  また、このイベントと別に、都内各所でも様々なお祝
 い行事が行われた。
  この祝典の背景には、消えていく江戸、失われつつあ
 る江戸への回顧があった。
  また、旧幕臣たちの鬱積した感情もあった。
  因みに・・、
  女性の方々が少ない江戸の町のはなし・・、
  江戸の町には、江戸初期の頃はもちろん・・中頃にな
 っても、極端に女性方がすくない・・男ばかりが多い町
 だった。
  1733年(享保18年)の人口調査では・・、
  江戸の町民53万6000人のうち・・男性は34万人で、
 女性は19万6000人(36.5%)。
  町民3人のうち、男性が2人で女性1人となり・・男の
 半分には女性方が居ないという状態だった。
  江戸の町の形成は・・労働者や露店の主人などはもと
 より、大きな商家も奉公人のほとんどすべてが単身の男
 子で、いわゆる男所帯だった。
  しかも、この数字は町民だけの人数で、約50万人とい
 われた武家の人口は入っていない。
  その武家は、参勤交代の武士の大多数が単身赴任の男
 性。
  この時期・・江戸には・・男性が84万人、女性が19万
 6000人(18.9%、江戸総人口103.6万人)となる。
  男4.3人に、女性方が1人という状態。
  江戸の町は・・男だけが道を歩いていた(女性方は、
 家に居られる状況でもあっただろうから・・)
  だから・・時代劇は・・大間違い・・です。
  圧倒的な「男の町」だった。
  女性方が増えて来てくれる時代は・・?
  江戸後期の天保年間(1830年~1844年)頃から・・、
  男はストレスを抱えて道をあるっていた・・その様な
 町だった。
  喜多川歌麿の美しい女性方の浮世絵が売れる下地は、
 この様な所にもありました。
  (地方は女性天国でした、地方活性化策・・?)
  (今、地方の若い女性の方々が東京を目指すから・・)
  (地方の女性の方々へ、特別優遇策を・・)
1889年8月、十津川大水害など、紀伊半島南部で大雨被害が
 発生した。
  十津川大水害(とつかわだいすいがい)は、熊野川(
 十津川)流域で起きた大規模水害で、
  奈良県吉野郡十津川郷(現:十津川村)に壊滅的な被
 害をもたらした。
  奈良県吉野郡十津川郷では、大規模な山腹崩壊が1080
 ヶ所で発生した。
  秋雨前線が日本付近に停滞しているところへ、台風が
 南海上から接近し、8月18日~8月19日にかけて、和歌山
 県から奈良県南部の範囲に大雨をもたらした。
  台風は、19日午前6時過ぎに高知県東部に上陸し、まっ
 すぐ北上して四国地方及び中国地方を縦断、
  8月20日に、日本海に抜けた。
   和歌山県の記録では、20日午前3時頃から西南風が強
 く吹き、711mbの低気圧に風速40mをともなって県下に襲
 来した。
  雨は9月7日まで降り続いた。
  記録に残る和歌山県での最大雨量は20日に現:田辺市
 元町で観測した日雨量901.7mm、時間最大雨量は169.6mm。
  奈良県吉野地方では、19日の雨量は1,000mmを越え時間
 雨量は130mmと推定された。
  記録的な大雨で崩れた土砂は、谷を埋め、37か所で天
 然のダムを造り、多くの堰止湖が出現した・・が、
  その天然ダムが欠壊し・・それにともなう洪水により
 甚大な被害となった・・一気に大量の水が押し寄せるダム
 決壊は怖い・・
1889年8月、大磯で水着を着た婦人が話題になった。
  この月の朝野新聞に、「女性が水着で泳ぎ始める」と
 題した記事が載り、大磯海水浴場で泳ぐ婦人の水着姿が
 話題となった・・今では・・
1889年9月1日、山陽鉄道兵庫駅~神戸駅間が開通し、官有
 鉄道と接続した。
1889年9月9日、和仏法律学校
  東京仏学校と東京法学校が合併して、和仏法律学校と
 改称した(現=法政大学)
  東京法学校と明治法律学校との争い
  明治法律学校は、政府公認の準官学的な法律学校とし
 て出発したはずであったが、
  当時、高まりを見せていた自由民権運動の影響を受け
 て、急速に、野党色を強めて行った。
  特に、自由党を支える人材を生むことになった。
  明治法律学校の校舎となった旧松平忠和邸の三楽舎で
 は、フランス革命の影響を受け自由と権利の拡張を主張
 する学生たちにより演説会が盛んに行われ、
  政府からは自由民権の牙城とみなされるようになった。
  明治法律学校に対抗して設立された同じ仏法系の東京
 法学校が、司法省の強い影響下にあったのと対照的状況
 となった。
  両校は、学生の獲得をめぐって授業料値下げなどの競
 争・対立がなされた。
  そして、共倒れ寸前に至った。
  明治10年代末にようやく和解が成立した。
  その後、帝国大学(現:東京大学)を中心としたドイ
 ツ流法学の台頭を背景に、
  1888年末に、東京法学校・東京仏学校との間で、これ
 に対抗し・・同じ仏法系学校として合併しようとする構
 想が起こった。
  そして、東京法学校・仏学校は合同し、和仏法律学校
 となった。
.
  (今日の言葉)
.
  題:アメリカは、中国が好きなのか?・・または、繰られているのか?
.
1928年12月7日、アメリカ上院議会において、パリ不戦条約
 の『批准の是非』が討議された。
  この中で、アメリカが、第二次世界大戦で「日本を経
 済封鎖」したが、
  『経済封鎖は、戦争行為そのものだ』という見解が、
 断言されていた。
  ケロッグ国務長官は、アメリカ議会上院の不戦条約批
 准の是非をめぐる討議において、「経済封鎖は戦争行為
 そのものだ」と断言した。
  アメリカが、第二次世界大戦がはじまる原因となった
 日本を経済封鎖する1941年を遡(さかのぼ)ること13年
 前のことである。
  日米戦争について、日本ではなく・・アメリカこそが
『侵略戦争の罪で裁かれるべき』とされる由縁である。
  パリ不戦条約は・・、
  1928年8月、フランスの外相ブリアンが、アメリカに対
 し、戦争放棄を目的としたフランスとアメリカ間の仏米
 協定締結を提案した。
  それを受けたアメリカ国務大臣ケロッグが、多角的な
 国際条約にする必要があると各国に働きかけ・・、
  ドイツ、日本も含む15ヶ国が参加して、パリで調印し、
 成立した。
  後に、63ヶ国が参加し、全世界的な国際条約となった、
 「経済封鎖行為が戦争行為とされた」記念すべき会議だ
 った(これを、アメリカは侵すのである)
.
1930年6月17日、スムート・ホーリー法が、アメリカで成立
 した(極端な保護貿易策)
  これは、関税に関する法律で・・、
  1000品目以上の輸入品に最高800パーセントという記録
 的な高さの関税をかけた。
  昨日の値段の『8倍以上の値段となる』という馬鹿げた
 状況だった。
  また、20000品目に、40パーセントの関税をかけた。
  世界中の国が、当然、『報復措置をとった』。
  アメリカ商品に高い関税率をかけた。
  その結果、アメリカの輸出入は『半分以下』に落ち込
 んだ。
  (トランプさんも、自分に都合よさそうな事、アメリ
 カ国民の方々に心地よく聞こえる事を言っているが? 
 落ち着いて・・よく考えて下さい)。
  この時も・・『愚かなる・・世界恐慌』の原因の一つ
 となった。
  恐ろしい世界恐慌がやって来るのである。
  そして、ここからどうしても抜け出せなくて、ルーズ
 ベルトという大統領は「戦争需要の麻薬に手を出すので
 ある」。
  そして、日本を相手にした戦争が始まるのである。
  冷静に、事を処せないアメリカが・・最初に起こした
 原因アクションで、世界中がシッチャカメッチャカとな
 った。
  『愚かな歴史の教訓』となった。
  アメリカという国は、感情的に、この様な愚かなこと
 をする国なのだ。
  日本の安倍首相は、2017年2月、トランプ・アメリカ大
 統領の頭を冷やそうと、フロリダでのゴルフを誘った・・
 応じたトランプ氏も一息入れて・・自分の足元を見るだ
 ろう・・素晴らしい日本の政治家の行為が歴史に刻まれ
 ただろう。
  この時、アメリカは、第一次世界大戦中に、債務国か
 ら債権国なったにもかかわらず、ほぼ1920年代にわたっ
 て自分にだけ都合の良い『保護貿易政策』がとられた。
  これは、大戦によってアメリカに債務を負ったヨーロ
 ッパ諸国の負担を『より深刻なものにさせた』。
  第二次世界大戦の予兆を作ったアメリカだった。
  (参考)予兆:よちょう、きざし、前触れ、前兆、
.
1938年以降、イサク・アフメーロフ(ソ連諜報員)が、ア
 メリカや日本の諜報にかかわる。
  モスクワ大学を卒業と同時にNKVD(人民委員部=
 KGBの前身)に入り、1932年から対外情報部員、1934
 年中国駐在の非公然工作員、
  1935年、偽パスポートでアメリカに潜入。
  1938年、ソ連スパイのチェンバースがFBIに駆け込
 んだ頃はモスクワに一時待避。
  1942年~1945年、アメリカ内非公然組織のトップで、
 アメリカのスパイ組織立て直しに成功する。
  対日諜報作戦にも関わった(スノー作戦)
.
1939年7月26日、アメリカが、突如、日本へ、「日米通商条
 約」を廃棄すると通告した。
  この時の、アメリカの大統領は、フランクリン・ルー
 ズベルトだった。
  日本とアメリカは、まだ戦争もしていないというこの
 時に、アメリカは、『準宣戦布告』というべきこの様な
 過激な行為を日本に対して行った。
  当時の日本は、全輸出額の『半分近く』がアメリカ向
 けであったので、大きな打撃だった。
  『日本を追い詰めて行く』ルーズベルトの方針もあっ
 たが、中国ロビーのアメリカでの活動の結果でもあった。
  また、この中国ロビーの下で支えたのがキリスト教の
 YMCA組織があった。
  このキリスト教組織が、大々的に中国を支援していた。
  この頃、中国に派遣されていたキリスト教宣教師たち
 は、本部に対して宣教活動が上手くいっていると偽レポ
 ートを出していた。
  また、ルーズベルト・アメリカ大統領のサイドにも、
 中国支援の理由があった。
  ルーズベルトの母方の祖父は、中国とアヘンを含む貿
 易を手広く行っていて財を成した。
  その関係から、ルーズベルトは、中国に対して愛着を
 持ち、友好的に思い、「悪く思う訳はないだろう」と発
 言する始末だった。
.
1941年7月23日、アメリカのルーズベルト大統領は、日本
 本土を爆撃せよと命令し、命令書にサインした。
  これは、『宣戦布告』であった。
  秘密にされた・・、
  この決定は、アメリカ国民の方々へも、卑劣にも秘密
 にされた。
  ここに、ルーズベルトの頭の中に、「先に日本に手を
 出させる」があった。
  アメリカに定着している卑劣な考え方「ファイトバッ
 ク」「銃の早撃ちの殺し屋が、農夫を正当に殺す方法」
 が、このルーズベルトの頭の中にあった。
  牧場経営に邪魔な農夫は、この様な「金で雇った者」
 によって、卑劣なこの方法・考え方で処理された、排除
 された。
  日本も排除された。
  アメリカは、この自分勝手な考え方で、屁理屈で、世
 界のあちこちで、歴史の上で常に行って来ている。
.
1948年、国務長官になるアチソンは、この年に、ソ連スパ
 イで告発された高官のヒスを強く擁護した。
  ディーン・アチソンは、ルーズベルト大統領の財務次
 官や国務次官補を経て、1945年~1947年に国務次官を務
 め、
  そして、1949年から1953年には国務長官を務めたとい
 う政権中枢の人だったが・・、
  1948年に、アチソンは、国務省の元高官のヒスがソ連
 スパイとして告発された時に援護した。
  アメリカ国民の方々は、これが、アメリカ政権、国務
 省への共産主義の浸透を許したとして強く非難した。
.
1977年1月20日、ジミー・カーターが、アメリカ第39代大統
 領になった。
  この大統領選にカーターの外交政策のアドバイザーを
 務め、カーター政権発足後に、国家安全保障問題担当大
 統領補佐官に就任したブレジンスキーは、
  2006年秋に、ワシントンでの公開の外交シンポジウム
 で・・、
  「米中間には、日本人にだけは核を持たせないという
 密約がある、存在する」と発言した。
  米中政府間に、「日本から自主防衛力を剥奪しておく
 ため、アメリカ軍は日本駐留を続ける。
  たとえ、日本の周辺国がすべて核武装しても、日本人
 にだけは核を持たせない」という合意がある・・と。
  しかし、これは、ワシントンでは、すでに『公然の秘
 密』となっている・・という。
.
1992年2月、日本は、「米中両国の潜在的な敵性国家」・・
 故に、自主防衛能力は与えない・・このアメリカ政府の
 本音が暴露された。
  そして、アメリカは、史実を捻じ曲げた。
  1991年12月、ソ連が崩壊し、ソビエト連邦が解体され
 て・・、
  そして、ロシアが生まれ、資本主義が急速に進行して
 行った。
  そして・・その頃・・、一極となったアメリカは・・、
  1992年2月、アメリカが、冷戦後の方針(戦略プラン)
 を策定した。
  それは以下だった・・、
  (1)アメリカが世界を一極支配する。アメリカだけが
    世界覇権を握る。
  (2)ロシアを速やかに武装解除する。
  (3)今後、アメリカのライバルとなるような能力を持
    つ国が出現することを許さない。
  (4)第二次世界大戦の敗者である日本とドイツには、
    自主防衛能力を与えない。
     日本が、アジアにおいて地域的なリーダーシッ
    プをとることを阻止する。
  ・・以上は、機密とされた。
  ・・が、しかし、この機密は漏れた。
  3週間後に、『ニューヨーク・ダイムズ」と「ワシント
 ン・ポスト」が掲載した・・暴露された。
  大騒ぎとなった。
  日本とドイツは、共同歩調をとって、約半世紀・・50
 年を経て・・この時になっても、「仮想敵国扱い」をさ
 れていた・・という事実が・・「ばれた」のだった。
  アメリカ政府は・・、
  「それは、試案の試案、そのまた試案のようなもの」
 と慌てた・・変な言い方で弁解に必死だった。
  しかし、これは本音である・・事実である。
  新聞が、秘密をばらしたと言っても、このアメリカの
 基本的な考え方が変わるということにはならない。
  また、今・現在もこの記事は読むことが出来るが、し
 かし、アメリカ政府に都合の悪い所は書き換えられてい
 る。
  1992年3月8日から3月13日の原本は書き換えが行われて
 いる。
  例えば、日本を露骨に仮想敵国とした文は、かなり削
 られた。
  そして、削除・訂正がかなりある。
  しかし、アメリカの本音は、「米中両国の潜在的な敵
 性国家」。
.
2003年秋後半、アメリカが、韓国防衛に、核使用も辞さな
 いと言明した。
  アメリカと韓国の間には、1953年に、相互防衛条約が
 締結されていて、アメリカは韓国防衛の究極の保証人と
 なっている・・そして・・、
  2003年秋の後半、ドナルド・ラムズフェルドアメリカ
 国防長官は・・、
  「必要であれば、アメリカは、韓国防衛に核使用も辞
 さない」と明らかにした。
.
2011年、フーバー元アメリカ大統領の回想録「フリーダム・
 ビトレイド(FREEDOM BETRAYED、裏切られた自由)」が
  出版された。
  この本が出版されると、世界中で大きな話題となった。
  因みに、この本は・・
  1949年、ダグラス・マッカーサーGHQ司令官が、日
 本での翻訳と、出版は禁じたという本だった(卑劣な口
 封じ)
  フーバーは、ルーズベルトの前任のアメリカ大統領だ
 が、
  この書の中では、多くのルーズベルトが犯した間違い
 や、犯罪的事実が記していた。
  第二次世界大戦に至る事実が記され・・、
  その戦争が、本当に愚かなことから発生した悲劇だっ
 たことが分かる。
  また、人類史における未曾有の惨劇だった。
  日本とアメリカの戦争は、明らかに、アメリカが仕掛
 けた戦争で、まったく不必要な戦争だった。
  その責任は、アメリカに存在した。
  この書の説明文を以下に記すと・・
  1941年12月8日、日本は遂に対米開戦に追い込まれる――。
  アメリカ大統領ルーズベルトが、日本が非戦を唱えな
 がら、日本を対米開戦に追い込む過程を膨大な資料を元
 に容赦なく暴き・・、
  1948年に発刊されるも、直ちに「禁書」同前に扱われ、
 占領下の日本でも翻訳されることのなかった政治・外交
 史の大家の『幻の遺著』が、遂に全訳刊行!
  著者は、米政治学会会長や歴史協会会長などを務めた
 第一人者、チャールズ・A・ビーアド元コロンビア大教
 授(1874年~1948年)
  順次解禁された米側の外交公文書や連邦議会議事録な
 ど膨大な資料を詳細に調査・分析し、
  1948年4月に、米国内で発刊されたものの、政府側の圧
 力などによって激しい不買運動が起き、事実上の禁書扱
 いとなってしまった「幻の名著」だ。
  いわゆる「ルーズベルト陰謀説」が終戦直後に、米側
 公文書などによって裏づけられていた意味は大きい。
  因みに、1951年5月3日、アメリカ上院軍事外交委員会
 において、「日本の真珠湾攻撃は正当な『自衛権』の行
 使」とマッカーサー元帥は証言している。
.
2017年1月26日、韓国の「帝国の慰安婦」の著者が無罪とな
 った。
  この日の読売新聞によると・・、
  著者である朴裕河(パクユハ)教授に無罪判決が言い
 渡された。
  事実認定には踏み込まなかった。
  ソウル東部地検が虚偽とした記述に・・、
  「少なくとも『強制連行』という国家暴力が朝鮮人慰
 安婦に関して行われたことはない」・・とある。
  判決は、無罪。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
 

2017年2月8日水曜日

(増補版)491E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年7月~1889年8月)

題:*(増補版)491E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年7月~1889年8月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1889年7月30日、第一回条約改正内閣会議
  この年・1889年1月の大隈重信の条約改正案が、外国人
 判事の任用や欧米流の法典編纂の約束を骨子とするとい
 う点では、井上案を基本的に踏襲したものであった。
  1889年4月19日に、『ロンドン・タイムズ』が、この条
 約改正案を公表し、論評を掲載した。
  1889年5月31日、日本の新聞各紙が、この「ロンドン・
 タイムズ」の記事を翻訳して、掲載した。
  その結果、反対運動が、ニュースが日本国内に伝わる
 や、世論から、激しい批判が湧き上がった。
  反対論の中には、日本の司法権が脅かされるとの批判
 があった。
  また、さらに重大なことには、発布されたばかりの帝
 国憲法に違反するとの指摘もあった(外人法官任用問題)。
  これは、憲法第19条「文部官任用条項」に抵触し、同
 第24条「裁判官による裁判を受ける権利」の侵害にあた
 るというものだった。
  これについては、すでに、この年・1889年3月末に、陸
 奥宗光駐米公使が指摘していたが、大隈はその重大さに
 気づいていなかった。
  国内では、民権派・国権派の大半が結集し、非条約改
 正委員会が組織された。
  そして、条約改正反対運動(非条約運動)が展開され
 た。
  憲法制定と条約改正は、同時並行で進められていたも
 のの・・相互に没交渉であったことに原因があった。
  大隈は、外国人法官任用問題に対して、法制局長官の
 井上毅に帝国憲法との整合性を検討させた。
  井上毅は、公権力の行使に関わるところで外国人任用
 した場合、
  当該外国人は、自動的に日本に帰化して日本国臣民と
 なる旨の法案(帰化法)を起こした。
  しかし、これは、逆に、イギリスとの交渉の進展をこ
 じらせた。
  井上毅は、郷里・熊本の先輩であり、明治天皇陛下の
 侍講でもある元田永孚に相談した。
  このことから、政府部内で、黒田首相・大隈外相らの
 条約改正断行派と・・、
  後藤象二郎逓信大臣・松方正義大蔵大臣・西郷従道海
 軍大臣・大山巌陸軍大臣らの・・大隈案に批判的な閣僚、
 元田ら条約改正反対の宮中グループ、
  また、黒田の手法に反発しながらも、大隈の外相就任
 に深く関わり条約改正は潰せないと考える伊藤博文枢密
 院議長など、各論議が展開することとなった。
  これまで、伊藤博文と黒田清隆の2人によって先導され
 てきた「内閣・枢密院包摂体制」は、機能不全に陥った。
  内閣の首班たる黒田は、大隈に条約改正をあたらせ、
 その条約改正推進の立場は揺るがなかったが・・、
  大隈もまた、現実的に、すでに、居留地や治外法権と
 いう、本来は、憲法に規定されていない事態が継続して
 いる以上、外交事情が憲法に優先するものと判断して、
  黒田からの強い支持がある以上、条約改正は、憲法が
 どのようなものであろうとも、最優先すべき課題であっ
 た。
  こうして、各国との外交交渉は、総理大臣と外務大臣
 の権限をもって、急ピッチで進められて行った。
  ところが、内閣と枢密院は、相互依存関係にあって、
 枢密院の会議は、専任の枢密顧問官と内閣の諸大臣を構
 成員としていた。
  そこで、枢密顧問官の一部や宮中顧問官は、枢密院会
 議の召集を要求し、条約改正反対論を述べる機会を求め
 た。
  枢密院会議が開催されれば、条約改正反対論が多数意
 見となることが確実と考えられていた。
  改正交渉の阻止の可能性があった。
  枢密院議長である伊藤の立場としては、召集の要求に
 応じることはできなかった。
  ここには、大隈の条約改正を承認し続けて、憲法違反
 の行為を認めてしまったという状況があった。
  枢密院で弾劾される恐れもあった。
  条約改正交渉が進められている段階での枢密院の介入
 は、憲法規定に抵触もした。
  伊藤の意図を離れた所で、話が行き詰っていた。
  条約改正問題によって生じた政治の機能不全を解きほ
 ぐそうとして調停にのりだされた明治天皇陛下、
  在野の民権派・国権派、官にあっては宮中グループや
 天皇親政派の人びとが、条約改正反対を唱えた。
  その様な状況のなか、1889年8月2日、黒田首相は、閣
 議を開いて、帰化法制定を条件として、条約改正路線を
 採ることで内閣の意見をまとめた。
1889年7月31日、土地収用法が公布された。
  (1889年7月31日法律第19号)
  事業認定:
  1、起業者:工事計画書・図面を地方長官に提出し事
   業認定申請。
  2、地方長官:提出書類を審査、内務大臣に具申。
  3、内務大臣:閣議に提出。
  4、内閣:事業認定。認定後、官報で起業者・起業地・
   工事種類を公告。
   一、国防其他兵事ニ要スル土地
   二、政府、府県郡市町村及公共組合ノ直接ノ公用ニ
    供スル土地
   三、官立公立ノ学校病院其他学芸及慈善ノ用ニ供ス
    ル土地
   四、鉄道電信航路標識及測候所ノ建設用地
   五、河川溝渠ノ掘鑿道路橋梁埠頭水道及下水ノ築造
    用地
   六、防火及水害予防竝検疫所火葬場其他公衆ノ衛生
    ニ要スル土地 (後略)
1889年7月、我国初の有料道路日見峠一等県道の道銭徴収を
 終了した。
  長崎街道の日見峠は、「西の箱根」と呼ばれた街道き
 っての難所だった。
  長崎河川国道事務所のホームページには・・、
  江戸時代、長崎から小倉間を結んだ長崎街道。
  その中で街道一急峻な坂道として知られた峠。
  江戸参府に赴くオランダ使節、幕末の志士たち‥往く
 も還るも、旅人の心に「長崎」を焼きつける道でした。
  現在も往時の姿をとどめており、平成8年に建設省の歴
 史国道として選定されています・・と説明されている。
1889年7月、特別輸出港規則が制定された。
  門司港などの特別輸出港は、輸出振興の見地から、開
 港の不足を補うため設けられた。
  当時、輸出無税品であった、米、麦、麦粉、石炭、硫
 黄などは、日本屈指の物産で、海外への輸出は年々増加
 していた。
  輸出を増進するため、その運搬に特別の便宜を図る必
 要があった。
  1889年(明治22年)7月、法律第20号「特別輸出港規
 則」が制定され、
  不開港のうち、これらの物品の産出地に近い適当な港
 を選んで、これを特別輸出港とし、
  この5品目に限って、
  日本船、又は、日本人雇入れの外国船によって、直接、
 海外に輸出できるようにした。
  1888年(明治21年)に、九州鉄道会社が発足した。
  路線は、門司~遠賀川、遠賀川~博多、博多~久留米、
 高瀬~熊本の4区間と決まった。
  筑豊の石炭産業は、幕末期頃から発展して来た。
  乱掘、乱売を防ぐために、石炭同業者間で、1885年(
 明治18年)11月、「筑豊五郡坑業組合取締所」を組織し
 た。
  政府も、海軍予備炭田の封鎖と、経営拡大のため、選
 定鉱区を設定した。
  そのため、小規模の炭坑が整理されることとなった。
  中央の財閥の進出が進んでいった。
  地場では、安川敬一郎が、筑豊等にあった炭坑を合わ
 せて炭坑会社「明治鉱業」を設立した。
  門司港の貿易品目は、特別貿易港指定からしばらくは
 石炭輸出のみであった
  門司港は、1889年(明治22年)特別輸出港に指定後、
 急速に、石炭輸出シェアを拡大し、
  1896年(明治29年)には、石炭輸出日本一となった。
  (門司税関のホームページを参考にした)
1889年8月3日、大隈重信が、イギリスの最恵国条項による
 内地居住権要求を拒否した。
1889年8月8日、ロシアとの新通商航海条約に調印した。
  しかし、発効せず。
1889年8月11日、甲武鉄道の、立川駅~八王子駅間が開通
 した。
1889年8月12日、藤岡市助が、白熱舎で白熱電灯を製作した。
  この日、後に、東芝へと発展する電灯会社「白熱舎」
 で、日本初の白熱電球が完成した。
  当時の世界の最先端技術であったこの白熱電球の国産
 化は、一国の産業発展の根幹をなす自給自足の精神を具
 現化して、
  独立した近代国家への道へと通じる大きな一歩となっ
 た。
  因みに、日本で初めて電灯が輝いたのは、1878年(明治
 11年)3月25日(電気記念日)で、
  東京虎ノ門の工部大学校(現:東京大学工学部)で開催
 された電信中央局開業祝賀晩餐会であった。
  藤岡市助、中野初子らが、グローブ電池で、フランス
 製デュボスク式アーク灯を点灯して人々を驚かせた。
  一方、白熱電球の日本初点灯は、1884年(明治17年)の
 上野~高崎間鉄道開通式で、
  この頃から白熱電球の暮らしや社会における利便性・
 事業性の認識が高まっていった。
  1887年(明治20年)、東京電燈(現:東京電力)が設立され、
 産業に使用できる電力体系が整備されるが、
  白熱電球は、アメリカ・ドイツ製などの高価な外国製
 品に依存するしかなかった。
  藤岡市助は、1884年(明治17年)、アメリカ・フィラデ
 ルフィア万国電気博覧会に、国の使節として派遣された
 際、エジソンと面会した。
  電気器具の国産化を指導され、白熱電球の国産化を決
 心したものの、いくつかの技術的な課題があった。
  それは、ガラス管球を作ること、管球の中から空気を
 排出すること、フィラメントを作ることなど・・さまざ
 まで、
  1889年(明治22年)、京橋の東京電燈の社宅で、試作・
 研究を開始した。
  翌年・1890年4月に、電球製造の独立経営を目指し、同
 郷の三吉正一と共に、電球製造会社「白熱舎」を京橋槍
 屋町に設立した。
  最初は、木綿糸でフィラメントを作ったが、エジソン
 が日本の竹を使用したと聞き、竹フィラメントの炭素電
 球12個を日本で初めて製造した
  (東芝未来科学館ホームページより)
.
  (今日の言葉)
.
  題:アメリカには・・この様なスパイ話が・・嫌になるほどある・・
   そして・・今・現代も・・中国やソ連に繰られている・・
.
1939年8月23日、独ソ不可侵条約が調印された。
  そして・・その1週間後・・
.
1939年9月1日、ドイツが、ポーランドへ侵攻した。
  第二次世界大戦が始まった。
.
1939年9月2日、アメリカに、スパイ網があると暴露された。
  ヨーロッパに大戦がはじまった翌日だった・・、
  ウィタカー・チェンバースという男は・・、
  アメリカのジャーナリストであるが、コロンビア大学
 を卒業し、1925年に、アメリカ共産党に入党した。
  アメリカ共産党機関誌の編集長を歴任し、
  1934年に、党指導部より『地下活動を命じられた』。
  そして、種々の活動を経て・・その後に・・、
  1939年9月2日、国務次官エイドルフ・バーリーに、
  『アメリカに存在するスパイ網』について告白した。
  このチェンバースの離反で、『ソ連スパイ網』は、一
 時、活動を停止した・・が・・しかし・・、
  その告発に・・FBIは動かなかった。
  1944年、アメリカに亡命したロシア人スパイが変死し
 た。
  このことに脅威を抱いたチェンバースは、再び、FB
 Iにスパイ網を告発した。
  チェンバースの告発は、具体的だった。
  しかも、「パンプキン・ペーパー(カボチャ資料)と
 呼ばれる証拠物件を隠し持っていた。
  このことから、政府の大物が隠れおおせなくなった。
  疑惑を否定していた国務省高官アルジャー・ヒスは、
 偽証罪で有罪となった。
.
1941年7月、アメリカが、日本へ経済制裁をした。
  これは・・、
  ルーズベルトに、「日本との戦争に入りたいという欲
 望があったからだ」・・と・・フーバー元大統領は言っ
 た。
  また、この見方に、マッカーサーも同意した。
  そして、さらに・・、
  「この時、1941年7月のアメリカによる、日本への経済
 制裁は、単に、挑発で行なっただけではなく、
  日本に、戦争をやらざるを得ないというレベルの最悪
 のものだった」・・とフーバーは言った・・そして、な
 お、さらに・・、
  「日本は、例え、自殺行為であると分かっていても、
 日本に戦争を余儀なくさせるものだった。
  何故なら、この経済制裁は、殺人と破壊を除く、あら
 ゆる戦争の悲惨さを日本に強制するものであり、
  誇りのある国ならとても忍耐できるものではないから
 だ」・・と、フーバーは言った。
  この発言にも、マッカーサーは同意した。
  これは、戦後、1946年5月、フーバーが来日し、GHQ
 の連合国軍最高司令官だったマッカーサーに会った時に
 交わされた言葉だった。
.
1941年半ばのこの頃、日本が進めて来ていた調査報告が
 なされた・・、その経緯(いきさつ)・・、
  ☆《戦争開戦前に・・現状を詳細に分析した報告書が
 日本に存在した・・しかし、その現状認識を封印し・・
 戦争は・・始められた・・》
.
  70年前の日米開戦前に、日本の国力を正確に予測しな
 がら、葬り去られた幻の報告書が存在した。
  1939年9月、関東軍参謀部で、満州国の建設主任から急
 きょ帰国した陸軍中佐の秋丸次朗は、
  「戦争経済研究班」を取り仕切って、その報告書を作
 成した。
  同班は「秋丸機関」と通称され知られた。
  秋丸は、英米との戦争に耐えられるかどうかの分析を
 命じられ、東大教授の有沢広巳、後に一橋大学学長にな
 る中山伊知郎らの学者を集め、徹底的に調べた。
  20~30人の研究チームだった。
  調査対象は人口、資源、海運、産業など広い分野に及
 んだ。
  資料収集に苦労を重ねた。
  経済封鎖されている日本。
  軍需産業育成にどれだけ力を注げるのか。
  英米との力の差は・・、
  分析が進んで行った。
  調査開始から1年半後の『1941年半ば』・・、
  12月8日の日米開戦まであと数カ月の時期に、陸軍首脳
 らに対する報告会が催された。
  秋丸は意を決して言った。
  「日本の経済力を「1」とすると、英米は合わせて「20」。
  日本は、2年間は蓄えを取り崩して戦えるが、それ以降
 は・・経済力は下降線をたどり・・、
  逆に、英米は上昇し始める。
  彼らとの戦力格差は大きく、持久戦には耐えがたい」。
  これが、秋丸機関の・・結論だった。
  列席したのは、杉山元参謀総長ら陸軍の首脳約30人。
  じっと耳を傾けていた杉山がようやく口を開いた。
  「報告書はほぼ完壁で、非難すべき点はない」と報告
 書の分析に敬意を示し・・そして続けた・・
  「その結論は国策に反する。
  報告書の謄写本はすべて燃やせ」。
  会議から帰って秋丸は報告書を焼却した。
  有沢は、直ちに活動から手を引くように命じられた。
  秋丸機関は、ほどなく解散し、現状認識を封印した戦
 争が始まった。
  結果は悲惨そのものであった。
  報告書の一部が秋丸の死後、遺品の中から発見された。
  詳細を極めた報告書であった。
  (参考:日本経済新聞、2011・1・3)
.
1941年10月18日、東条内閣が成立した。
  東郷茂徳(とうごうしげのり)が、東条内閣の外相に
 なり、日米交渉において、第二次世界大戦の開戦の回避
 に死力を尽くした・・が・・、結局、開戦の責任者とな
 った。
  1945年に、再び、鈴木内閣の外相となり、終戦工作に
 挺身した。
  東京裁判に於いて、A級戦犯に問われたが、信念をも
 って戦争前後の行動の『正当性を主張した』。
  禁錮20年の判決を受け、服役した・・その服役中に・・
 逝去した。
  開戦時と終戦時に外相となった運命の方だった。
.
1941年11月26日、ハル・ノートの手交
  この日、「ハル・ノート」が手交された。
  この「ハル・ノート」は・・、
  ハリー・デクスター・ホワイトというアメリカの経済
 学者が・・、
  日本に対する最後通牒の役割を果たした「ハル・ノー
 ト」の原案となった対日交渉案を作成した。
  この男は・・この「ハル・ノート」など・・、
 アメリカの政策に大きな影響を及ぼした・・しかし・・?
  戦後になって・・1948年8月16日、アメリカ下院非米活
 動委員会公聴会で・・追及された「ソ連スパイ疑惑」を
 否定した直後・・急死した。
.
1941年12月8日(現地時間7日)ハワイ・真珠湾攻撃
.
1941年12月8日、アメリカ・イギリスが、対日宣戦布告
.
  この日、日米の戦端が開かれたが・・
  フーバー・第31代アメリカ大統領は、次のことを言っ
 ている・・、
  「日米戦争は、ルーズベルト・アメリカ大統領が仕掛
 けたもので、日本が原因ではない」・・と・・、
  また・・、
  日本への強い経済制裁を唱えた対日強硬論者のスタン
 レー・ホーンベックは・・、
  この日本の真珠湾攻撃直前にあっても・・、
  「日本には、アメリカを攻撃する能力はない」・・と
 いう主張を繰り返した。
  また、彼は、極東問題の専門家として・・、
  ルーズベルト大統領に助言したほか、
  コーデル・ハル国務長官に対しても、大きな影響力を
 与えた。・・そして・・悲惨な戦争が続き・・
.
1945年4月1日、アメリカが、沖縄に上陸した・・そして・・
 その約10日後に・・
.
1945年4月12日、フランクリン・ルーズベルト大統領が死ん
 だ。
  この死と共に、アール・ブラウダー(アメリカ共産党
 書記長)は、アメリカ共産党指導部から外された。
  そして、翌年・1946年、党を追放された。
  この男は、ソ連コミンテルンやKGBに情報を流す『
 アメリカ政府内のスパイ網の充実』に強い指導力を発揮
 していた。
.
1945年11月7日、エリザベス・ベントレーが、FBIに出頭
 した。
  そして、アメリカのスパイ網について白状する。
  彼は、1930年に、コロンビア大学を卒業すると、
  1935年に、アメリカ共産党に入党した。
  そして、1938年に、ソ連スパイ網の非公然のワシント
 ン駐在員のヤコブ・ゴロスに紹介された・・そして、
  特殊な関係となった。
  1943年、FBIの捜査が迫っているとの強迫観念に襲
 われ、FBIに出頭した。
  スパイ網での具体的な活動歴と、リストを提出した。
  1948年に、下院非米活動委員会公聴会でハリー・デク
 スター・ホワイトや、ソロモン・アドラーらをスパイだ
 ったと証言した。
.
1945年12月、アメリカのFBI(連邦捜査局)が、大統領
 (ハリー・S・トルーマン)へ「政府内に二つのスパイ
 網がある」と警告した。
.
1946年5月3日、東京裁判(極東国際軍事裁判)が開かれた
 (~1948年11月12日)
  しかし、日本の敗戦が確定的になった頃、すでに連合
 国は、卑劣にも、すでに、『日本の誰を死刑にするか』
 を打ち合わせていた・・決めていた。
  各国が、好き勝手なことを言っていた。
  そして、裁判をする前から「死刑が確定している」被
 告たちを、
  2年半以上も、
  死を恐れさせる立場に曝(さら)すという非人道的
 状況に置き・・そして、その中で裁判が行われた。
  しかし、この肝心な東京裁判では・・、
  日本を罪に落とす事に苦労した・・
  後追いで・・無い法律を・・わざわざ作った・・、
  日本は「侵略戦争をした」と追及された・・が・・、
  アメリカなどの連合国は、『侵略戦争と立証する事は
 出来なかった』。
  ドイツの場合は、戦争の始まる前から侵略の意図を持
 って、
  開戦の3年も前の1936年に、ヒトラーを中心にナチス指
 導者による明確な『共同謀議の記録』もあった。
  そして、そこには、最初にチェコスロバキアを侵略し、
 次がポーランド、そして、フランス、最後にソ連を植民
 地にするという『侵略計画があった』。
  しかし、日本には、勿論、その様なものもなく・・、
  また、共同謀議もなく・・同然、その記録もなかった。
  アメリカなどの連合国側は・・、
  ドイツの様な「一貫した侵略の意図」があり、また、
 「侵略の計画がある」と、無理にしたが、それらを・・
 『立証する事は出来なかった』。
  そんなもの・・侵略の意図は無いのであるから・・当
 然であった。
  しかし・・卑劣にも・・アメリカは・・プロパガンダ
 (嘘宣伝)した。
  日本は、させられた戦争に、事前の計画があるわけは
 なかった。
  連合国側は、初めから、罪に落としたかった・・、
  裁くべき法が無ければ、作るという卑劣な事までして、
 日本を罪に落としたかった・・
  そして、戦後・・、
  マッカーサーは、戦後の占領政策の中で、必死に日本
 人へ、「あの日本の戦争は、侵略戦争だった」というこ
 とを洗脳した・・、
  日本人に対してマインド・コントロール(嘘宣伝)し
 て、洗脳した。
  東京裁判において、「侵略戦争だ」と追及された日本
 の被告たちも・・、
  「そのような上等なものは、まったくありません」と、
 きっぱり否定をしていた。
  また、日本の凄い所・偉い所は、日本には、法律を犯
 した殺戮は一つもなかった。
  アメリカには、国際法違反の「一般市民殺戮」を、あ
 ちこちでやっているが・・、
  開戦についても、日本は、アメリカのルーズベルトの
 策にはまって行った。
  侵略の意図はなく、そして、「戦争は、常に、収めた
 い」という中に日本はあった。
  日本は、最初から、アメリカとの戦争は勝つことは出
 来ないという分析結果を持っていた。
  故に、だから・・、
  日本から好き好んで戦争を仕掛けることがある訳はな
 かった。
  その様にぜざるを得ない悲惨な窮地に、アメリカのル
 ーズベルトは、日本を追い込んで行った。
  日本は、「させられた戦争」をせざるを得なかった。
  そこに計画性があるわけはなかった・・、
  アメリカのルーズベルトには、あまり知られていない
 が・・、
  1941年(昭和16年)夏に、日本に戦争を起こさせよう
 と、徴発(ちょうはつ)した事件があった。
  未遂事件があった。
  逆に、アメリカのこの様な「戦争したい」が、東京裁
 判で、裁かれるべきだった。
  アメリカ巡洋艦を・・日本の領海内に侵入させた。
  (これだけで、アメリカの戦争を起こさせようとする
 戦争挑発行為だった)、
  そして・・さらに・・、
  日本の軍艦とわざと衝突させようとしていた。
  その様なことまでする「戦争したいのルーズベルト」
 だった。
  そして、インドのパール判事が、「こんな最後通牒の
 様な文書を出されたら、モナコでさえ武器を持って立つ」
 という糾弾を・・アメリカに対して発言した。
  そして、パール判事が、「日本政府が戦争したのは当
 然」と言うほどの「強圧的なアメリカだった」。
  事態は、ルーズベルトの思惑通りに運ばされていた。
  交通事故ではないが、一方が、完全に100パーセント悪
 いということはないのである。
  しかし、アメリカは、うまく立ち回った。
  アメリカは、完全に日本に一方的に責任をとらせ、自
 分は、卑劣にも・・責任から逃げた。
.
1949年、ロークリン・カリーが、ソ連スパイと確認された。
  カリーは、アメリカの経済学者で官僚だが、
  1925年、経済学研究を通じてハリー・デクスター・ホ
 ワイトと知り合う・・そして、親しい関係を保った。
  1934年にモーゲンソー財務長官に招かれて、財務省の
 高級官僚となった・・内心・・ほくそ笑んでいただろう。
  1941年、ルーズベルト政権の中枢に入り、中国支援の
 責任者となった(援蒋ルート)
  1941年~1943年、大統領特使として2回、中国訪問し、
 中国国民政府の蒋介石主席らと懇談した。
  戦後、KGB電文解読資料で、『ソ連スパイの一人』
 として確認された。
  1949年、アメリカ議会下院非米活動委員会の公聴会証
 人席に立ち、疑惑を否定したが、逆に、疑惑が深まった。
  その様な状況の中、南米・コロンビアへ向かい、
  1954年、アメリカ市民権を失った。
  ルーズベルト政権は、共産圏のソ連や中国に繰られて
 いた・・(今・現代でも)・・、
  また、ルーズベルトは、ソ連・スターリンへ甘い話を
 提供した。
  その中で、日本の固有の領土・北方四島、千島列島を
 奪われた。
.
1950年2月、アメリカのジョセフ・マッカーシーが、「国務
 省に205人の共産主義スパイがいる」と告発した・・
  当然、アメリカ国内のみならず・・世界中から注目を
 浴びた。
  朝鮮戦争直後のアメリカでは、共産主義勢力の横暴に
 怒る声が満ち満ちた。
.
1950年、アルジャー・ヒスという、ルーズベルト政権にも
 加わっていた男が、偽証罪で有罪とされた。
  この男は、ハーバード大学法律大学院を出た優秀な政
 治家で、
  ルーズベルト政権では、農業問題専門家としていた。
  ヤルタ会談に出るなど重責を担っていた。
  しかし、1948年、元ソ連スパイのウィタカー・チェン
 バーズの告発で・・スパイ疑惑が深まった(スパイだと
 暴露された)。
  アメリカ下院非米活動委員会の公聴会などで証言を求
 められた。
  しかし、1950年、立証され、偽証罪で有罪となった。
 4年間、服役した。
  後に、無罪を主張したが・・、KGB電文解読資料に
 よると、ヒスは、明らかにソ連赤軍第四部(情報部のス
 パイ網に属し・・、
  ヤルタ会議出席後、モスクワで、ソ連外交官・ビシン
 スキーからソ連への貢献を理由に勲章を授与されていた。
.
1952年、フランク・コーというアメリカの高級官僚もソ連
 のスパイだった。
  フランク・コーは、シカゴ大学を卒業して財務省に入
 省した。
  そして、1946年、国際通貨基金(IMF)の事務局長
 となった。
  そして、上司で財務次官だったハリー・デクスター・
 ホワイトとともにスパイ疑惑で追及された。
  1952年、財務省を辞職し、スパイ疑惑を否定した後に、
  1958年に、中国へ移住し、社会科学院の客員研究員と
 なった。
  1995年に、ソ連KGB電文を解読した史料が公開され、
 第二次大戦中に、ソ連側へ情報を流していたことが確認
 された。
  アメリカには・・こんな話が・・嫌になるほど・・う
 じゃうじゃある・・今・現代も・・中国やソ連に繰られ
 ている・・
  (トランプ大統領は、中国ロビイストなどを排除する
 としている)
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

2017年2月6日月曜日

(増補版)490E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年6月~1889年7月)

題:*(増補版)490E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年6月~1889年7月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1889年6月、新聞に講談の連載が流行した。
  口演速記が新聞に連載され、また、単行本にもなった。
  また、名人上手と言われる講釈師も登場した。
  そして、速記の口演をした講釈師の実演を聞いてみよ
 うと、この頃から、釈場(講釈場)もにぎわった。
1889年7月1日、呉・佐世保の南鎮守府が開庁した。
  同時に海兵団・呉海軍病院なども業務開始した。
1889年7月1日、東海道本線全通(新橋~神戸間鉄道全通)
  大津駅~長浜駅間が開通し、東海道線が全通した。
  新橋~神戸間に、直通長距離列車が(毎日1往復)登場
 した。
  現在の東海道本線にあたる新橋駅~神戸駅間の記念す
 べき全通だった。
  東海鉄道全通(氷川清話)
1889年7月1日、山梨県甲府に市制が実施された。
  この日、甲府総町(こうふそうまち)、上府中総町(
 かみふちゅうそうまち)、増山町(ますやまちょう)、
 飯沼村(いいぬまむら)、稲門村(いなかどむら)があ
 つまり、甲府市に市制が施行された。
  全国では34番目、関東では4番目の市の誕生だった。
  人口は31,128人、
  戸数は6,855戸だった。
1889年7月19日、第三高等学校に法学部を設置した。
  旧制第三高等学校(きゅうせいだいさんこうとうがっ
 こう)は、京都市、および、岡山市に所在した旧制高等
 学校で、略称は「三高」。
  現在の京都大学総合人間学部、および、岡山大学医学
 部の前身。
  そして、この年・1889年、第三高等中学校を京都市(
 現:京都大学本部構内)に移転し、法学部の設置した。
  因みに、1894年(明治27年)に、第三高等中学校は、
 第三高等学校に改組された。
1889年7月24日、艦隊条例を公布した。
  艦隊条令公布により、常備艦隊を編成した。
  この艦隊条例によって、本格的な機構を持った艦隊と
 して「常備艦隊」が設置された(第1艦隊の前身)
  そして、1894年に、「常備艦隊(決戦用主力)」と、
 西海艦隊(沿岸警備用:清との戦争に備え新設)の2つの
 艦隊を統合指揮するため、「連合艦隊」が編成された。
  (日清戦争後は、解散して元の常備艦隊に戻った)
  常備艦隊司令長官が、連合艦隊司令長官を兼ねた。
1889年7月28日、入谷の朝顔市
  東京都台東区下谷の入谷鬼子母神(真源寺)と、その
 界隈で開催される「入谷朝顔まつり(朝顔市)」は、
  毎年7月の6・7・8日の3日間、開催される。
  入谷の朝顔が有名になったのは江戸末期の文化・文政
 の頃、
  最初は、御徒町の下級武士、御徒目付の間で盛んに栽
 培されていた。
  御徒町の発展とともに、また、江戸幕府の崩壊で、
  入谷に居た十数軒の植木屋が造るようになった。
  その出来が素晴らしいので評判となり、木戸銭を取っ
 て見せるほどになった。
  「変わり咲き」の朝顔がとても珍しかった。
  変化咲きの朝顔の不思議な美しさが、江戸から続く伝
 統の中で、人々へ魅力を伝え、そして、引き付けた。
  下谷繁盛記(大正三年明治教育社発行)には・・、
  「入谷の朝顔の全盛を極めたりしは、明治二十四・五
 年頃にして、其の頃は、朝顔を造る植木屋十数軒を数え、
 入谷の通りは、毎朝、往来止めとなる程なりし也。
  殊に、当時は、周囲一面の蓮田を廻らしたれば、涼し
 き朝風に吹かれ乍ら、朝顔を見又蓮の花を見るを得たり
 敷かば、観客頗る多く、非常の盛況を呈したり」・・と。
  そして、一旦、廃れるが・・
  戦後のすさんだ世を明るくしようと、昭和23年に、地
 元の有志の方々が復活させた。
  そして、江戸情緒豊かな夏の風物詩として、人々の心
 を、今も温かくしている。
1889年7月29日、英国公使が、日本・メキシコ間の条約締結
 による内地居住権に関して、最恵国条項により同等の権
 利を要求した。
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  (今日の言葉)
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  題:アメリカのルーズベルト大統領が作った『ヤルタ体制』は・・、
    ソ連・スターリンの「欲望に火をつけた」だけだった・・
    ブッシュ大統領は・・批判した・・、
    その後のアメリカは・・、これの対処に・・何年も苦労した・・
    何年も・・そして、それは、今も続いている・・その後遺症が・・
    日本も・・領土を奪われたままとなっている・・
.
1900年、北清事変が起きた。
  アメリカ大統領・フーバー・・、
  親中反日が多いアメリカ大統領に於いて、このフーバ
 ー大統領は公正だった。
  その理由の一端は・・、
  若い頃、フーバーは、この北清事変が起きた頃、鉱山
 開発で中国に居た。
  そして、その時、この北清事変を見ていた。
  フーバーが大変ショックを受けたという・・中国の義
 和団と、清国政府の双方の残虐さを、直に見ていた。
  中国人の殺し合いは、身の毛のよだつ残虐非道だった
 ・・と・・
  フーバーは、それを実際に見て、大変なショックを受
 けたと言う。
  義和団事件の時も、日本人と中国人には、天地雲泥の
 差があった。
  フーバーは、それを見たのだった。
  義和団事件の時、各国の外交官たちは、中国の義和団
 に包囲され、籠城(ろうじょう)を余儀なくされた。
  これを取材していたイギリス人ジャーナリストは、日
 本を絶賛している。
  本「守城の人」にも描かれているが、
  北京に出兵していたロシア軍やフランス軍、そして、
 イギリス軍も、
  この時、皆、略奪を繰り返すという卑劣な軍の状況だ
 った。
  しかし、柴五郎大将の日本軍だけは、規律正しく、事
 変を収束し、
  そして、制圧した後の、引き揚げ方も極めて整然と
 潔(いさぎよ)かった。
  そして、この話には後日談があった。
  この時の義和団制圧の「連合国軍総司令官」ともいう
 べき人は、駐支イギリス公使のクロード・マクドナルド
 だった。
  彼は軍人だった。
  それであるから、特に、日本軍、及び、日本人の素晴
 らしさがよく分かった。
  北清事変直後、彼は、駐日公使に転じると、この時の
 ソールズベリー首相に、日英同盟の締結を勧めた。
  マクドナルド公使は、「将兵が、あれだけ規律正しい
 国であれば、同盟を結んでも、何の心配もいらない」と
 説明した。
  そして、1902年、日英同盟は締結された。
.
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1906年、アメリカの日本人差別の歴史
  この年、サンフランシスコ市の教育委員会が、日本人
 の学童の『隔離教育』を決定した。
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  1907年、サンフランシスコで反日暴動が起きた。
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  1908年、日米紳士条約が締結された。
   (日本が、移民を自粛する代わりに、アメリカも排
   日的な移民法を作らないことを約束する)
.
  1913年、カリフォルニア州で、排日土地法が成立した。
.
  1920年、カリフォルニア州で、新たな排日土地法が成
   立した。
   (1913年の土地法は、。「日本人移民」の土地所有
   を禁止するものだったが、この1920年の法律では、
   「日本人移民の子供=いわゆる二世」までもの土地
   所有が禁じられた)
.
  1922年、アメリカ最高裁が「黄色人種(日本人)は、
   帰化不能外国人であり、帰化権はない」とする判決
   を出した。
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  1924年、『絶対的排日移民法』が成立した(約束違反)
   これは連邦法で・・、
    アメリカという国家全体として、日本からの移民
   を排斥するという破廉恥な約束違反の法律だった。
   アメリカは・・国家全体で日本を排斥した。
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1941年7月18日、第二次近衛内閣総辞職・・と同時に、第三
 次内閣が成立した。
  第3次近衛内閣が誕生して、和平の道へ努力が行われた。
 しかし・・、
  フーバー第31代アメリカ大統領は・・マッカーサー
 と会見した時に、マッカーサーから言われた・・
  「1941年の日本の(近衛内閣の)誠実な和平への努力
 を、アメリカは受け入れるべきだった」・・と・・、
  「しかし、ルーズベルトには、受け入れる意図は、初
 めから全くなかった」・・と、この時、フーバーは言っ
 ている。
1941年8月1日、アメリカ、対日石油輸出の禁止
  フーバー(アメリカ元大統領)の言葉:
  『これは、宣戦布告なきアメリカの宣戦布告だ』と・・
  「(1941年7月~8月のアメリカの日本に対して行った
 経済制裁は)・・
  『明らかに、日本に対する宣戦布告なき、戦争の仕掛
 けだった』・・と・・フーバー元アメリカ大統領は言っ
 た。
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1954年、ダライ・ラマ法王(チベット仏教の最高指導者)
 と、パンチェン・ラマ(ダライ・ラマ法王に次ぐ存在)
 が、お互いに相手を承認するという関係になった。
  本「新・戦争論」で、池上彰氏は言う。
  そして、中国共産党が、チベットを占領した後の1954
 年に、
  ダライ・ラマも、パンチェン・ラマも、毛沢東に呼ば
 れ、チベット代表として、全国人民代表大会のメンバー
 になった。
  ダライ・ラマは、常務委員会副委員長・・、
  この時、実は、ダライ・ラマは、一時だが共産主義に
 憧れた。
  ところが、1955年春、チベットへ帰る前日、毛沢東が、
 自分の執務室に彼を呼び出し、
  「最後に、ぐっと体を近づけ、『あなたの態度はとて
 もいい。
  だが、宗教は毒だ。第一に人口を減少させる。
  何故なら、僧侶と尼僧は独身でいなくてはならないし、
 第二に、宗教は物質的進歩を無視するからだ」と言った。
  これを聞いて、私は激しい嵐のような感情が顔に出る
 のを感じ、突然、非常なおそれを抱いた。
  『そうなのですか。あなたは、結局、ダルマ(法)の
 破壊者なのですね』、私は心の中で、怒りを込めて呟(
 つぶや)いた」(『ダライ・ラマ自伝』)。
  そして、チベットに戻ってみると、自分の留守の間に、
 チベット仏教がすっかり弾圧されていた。
  それで反発し、インドに亡命する事になりました。
  しかし、パンチェン・ラマは、北京に残って、中国共
 産党の方針に従い、出世していく。
  しかし、そのパンチェン・ラマも、年を取ってからチ
 ベットに戻って布教活動を始める。
  そして、チベットの状況を見て、共産党に対する批判
 的な事をわずかに口にする。
  その途端、変死するのです。(後略)
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1966年~1976年、中国・文化大革命。
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1979年1月1日、台湾関係法
  台湾関係法は、アメリカ合衆国の法律である。
  中華民国(台湾)に関するアメリカ合衆国としての政
 策の基本が定められていて、
  事実上のアメリカ合衆国と中華民国(台湾)との間の
 軍事同盟。
  1979年1月1日に、民主党のジミー・カーター大統領は、
 中国との国交を樹立し、中華民国(台湾)との国交は断
 絶した。
  ホワイトハウスのこの方針は、ソビエト連邦と中華人
 民共和国の離間を決定的なものとし、
  また、アメリカ企業が、中国大陸の『巨大な市場を獲
 得』するための重要な布石となった。
  しかし、同時に、米華相互防衛条約の無効化に伴うア
 メリカ合衆国台湾防衛司令部の廃止と、
  在台米軍の撤退によって、東アジアに急激な軍事バラ
 ンスの変化が起きることが懸念され、
  自由主義陣営の一員である中華民国(台湾)が、中華
 人民共和国に占領される事態を避けるため、
  また、中華民国政府(民主党とほぼ唯一のパイプであ
 った許国雄僑務委員会顧問)や、在米国台湾人(台湾独
 立派を含む)からの活発な働きかけもあって、
  台湾関係法が、1979年4月に制定され、
  1月1日にさかのぼって・・施行された。
  アメリカは、国内法規である台湾関係法に基づき、通
 常の軍事同盟のように中華民国(台湾)に駐留こそして
 ないものの、武器売却や日本の沖縄県の在日米軍基地な
 どにより、中華人民共和国を牽制している。
  そして、もともと、中国は、台湾を「化外の地」だと
 日本へ言った地で、
  中国とは何ら関係ありませんよ・・と・・日本に説明
 した地である。
  (参考)化外:けがい、国家の統治のおよばない地。
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2003年11月27日、台湾の独立を問う公民投票法
  台湾の陳水扁総統によって、「台湾の独立」を、台湾
 の方たちに問う住民投票を「実施するか?否か?」の発
 議をし、
  その「公民投票法」が、2003年11月27日に、成立しそ
 うになった。
  「中国は青くなった」「反対した」・・と言うより、
 どんなことがあっても阻止したいとした。
  これが、このまま進んでいくと、住民投票の結果に関
 わらず、少なくとも「台湾民主主義の完成」の証になっ
 てしまうからだった。
  また、仮に、住民投票の結果が「独立すべき」となっ
 たら、中国は全く対応できず、台湾は名実ともに完全な
 独立国になる。
  この様な方向へ進む法案だった。
  2003年12月初旬、アメリカのブッシュ大統領(第43代)
 は、「台湾の住民投票に我々は反対する」と言った。
  中国の北京政府の「住民投票など絶対に容認しない」
 という声明も出ていた。
  また、「我々の忍耐もすり減ってきた」の強硬姿勢も
 あった。
  そして、この言葉が、台湾というより、むしろ、アメ
 リカ向けだったことも影響した。
  そして、また、その時、中国の温家宝首相が、アメリ
 カ訪問し、ホワイトハウスで行なわれた首脳会談の後の
 発言でもあった。
  また、アメリカの希望した「北朝鮮の核保有問題を協
 議する六か国協議の開催を中国が受け入れたから」と
 みられた(実際、この後、開催された)。
  日本の外務省は、公式ルートで、台湾の住民投票に反
 対を声明した。
  台湾は、見捨てられたのか?
  台湾が、中国に落ちれば、次は、沖縄県である。
  今、中国は、この次の次の手を打っている。
  最後は、アメリカと近接するところまでを中国は目標
 としている。
  中国は、「太平洋を、アメリカと半分づつ」と言明し
 ている。
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2005年、アメリカ大統領のブッシュ大統領(子)が、『ヤ
 ルタ体制は間違いだった』と演説した。
  ブッシュ大統領は、バルト三国のラトビアの首都リガ
 へ行って、ヤルタ体制の批判をした。
  フランクリン・ルーズベルト大統領が、第二次世界大
 戦の時にした失敗を批判した。
  ルーズベルトが、焚き付けたから・・東ヨーロッパが、
 ソ連に奪われ、日本の領土を奪われた。
  その様に事を運んだソ連のスターリンだった。
  ルーズべルトが「取ったら」と言った領土は・・
  「それ以上に、ソ連は取り」
  そして、手のつけられないスターリンに、面食らった
 ルーズベルトだった。
  そして、ブッシュは、「東ヨーロッパを解放できなか
 った」と批判した。
  そして、また、バルト三国も解放できなかったと言っ
 た。
  「それから、50年、経ってしまったではないか」と批
 判した。
  アメリカは、冷戦という形で東欧解放のために、ソ連
 と戦わなければならなかったではないか・・と批判した。
  「ソ連を大きくした」ルーズベルトを、批判した。
  日本の固有の領土の北方領土は取られ、千島列島は取
 られ、ルーズベルトが言った満州や旅順だけでは済まな
 かった。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive