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2016年1月16日土曜日

(増補版)274E1/3:気になった事柄を集めた年表(1868年1月~1868年2月)

題:(増補版)274E1/3:気になった事柄を集めた年表(1868年1月~1868年2月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1868年1月21日(慶應3年12月27日)明治天皇が、最初の御
 閲兵
  明治天皇、最初の御閲兵が、この日、京都御所の建春
 門前で行われた。
  参列の光栄に浴した諸隊は、一番隊から四番隊までで、
  一番隊は、土佐藩の約40人、
  二番隊は、薩摩藩の約60人、
  三番隊に、長州藩の約400人、
  四番隊が薩摩藩のおよそ1,000人、
  総計約1,500人の勤王軍となった。
  中でも薩摩藩の兵は、他藩と趣を異にして、服装も帽
 子も揃いのイギリス式を模していた。
  そして、大太鼓、笛などの軍楽隊を先頭に、砲兵隊も
 加わり盛況に行われた。
  当時の事が、谷干城の日記には、
  「斯(か)くの如き盛大な観兵式は余未だかって見ざる
 所也」と述べている。
  時節柄、銃の発射演習は行われなかった。。
1868年1月22日(12月28日)今津藩、及び、桑名藩の佐幕党、
 および、旗本諸隊が憤怒し、徳川慶喜に迫り、挙兵を主
 張した。
1868年1月、小栗忠順(おぐりただまさ、幕臣、小栗上野介)
 は、長州征伐を奇貨(きか、利用すれば思わぬ利益を得
 られそうな事柄・機会)として、
  まず、長州を倒し、次に薩州を倒して、幕府のもとに
 郡県制度を立てようと企て、
  フランス公使レオン・ロセスの紹介で、フランスから
 銀600万両と、年賦で軍艦数そうを借り受ける約束をした
 が、
  これを知っていたものは、慶喜公ほか閣老をはじめ4,
 5人に過ぎなかった。
  長州征伐が難しくなったなど、そうこうするうちに、
 慶応3年の12月(1868年1月)、フランスから破談の知ら
 せが来た。
  後でフランス公使が俺に、「小栗さんほどの人物が、
 わずか600万両くらいの金の破談で、腰を抜かすとは、さ
 ても驚き入った事だ」と言ったのを見ても、
  この時、小栗がどれほど失望したかは知れるよ。
  小栗は、わずか600万両のために徳川の天下を賭けよう
 としたのだ(氷川清話)
1868年1月23日(12月29日)岩倉具視、西郷隆盛、井上馨、
 大久保利通らが、三条実美邸にて施政を議した。
1868年1月23日(慶応3年12月29日)徳川慶喜が、兵を率い
 て京へ上ることを声明した。
  徳川慶喜が、慶応3年12月29日に、ついに、兵を率いて
 京へ上ることを声明した。
  そして、慶喜は、京都に向け進軍を開始した。
  今までの流れを顧みると・・
  慶応2年(1866年)の第二次長州征伐では、薩摩藩の妨
 害があったが、それを抑えて、慶喜は、長州征伐につい
 ての天皇からの勅命を得た。
  しかし、薩長同盟を結んだ薩摩藩の出兵拒否もあり、
 幕府軍は、連敗を喫した。
  その第二次長州征伐最中の7月20日、将軍・家茂が大
 坂城で薨去する。
  慶喜は、朝廷に運動して休戦の詔勅を引き出し、会津
 藩や朝廷上層部の反対を押し切る形で休戦協定の締結に
 成功した。
  家茂の後継として、老中の板倉勝静、小笠原長行は、
 江戸の異論を抑えて、慶喜を次期将軍に推した。
  慶喜は、これを固辞し、8月20日に、徳川宗家は相続し
 たものの将軍職就任は拒み続け、
  12月5日に、将軍宣下を受け、ようやく将軍に就任した。
  これは、言わば恩を売った形で将軍になることで、政
 治を有利に進めていく狙いがあったと言われているが、
  就任固辞が「政略」によるとみなせる根拠も「政略」
 説を否定する根拠もないのが実情となっている。
  この頃の慶喜は、はっきりと開国を指向するようにな
 っており、将軍職就任の受諾は、開国体制への本格的な
 移行を視野に入れたものであった。
  そして・・、
  大政奉還後の政治体制については、諸侯会議によって
 定められるはずであった・・が、
  12月、薩摩藩らは、政変により朝廷を制圧し、慶喜を
 新政府から排除した(王政復古)。
  慶喜には、辞官(内大臣の辞職)と納地(幕府領の返
 上)が命ぜられた。
  慶喜は、衝突を避けるべく会津藩・桑名藩兵とともに、
 大坂城に退去し、
  諸外国の公使らを集めて自身の正当性を主張した。
  慶喜は、越前藩・土佐藩に運動して辞官納地を温和な
 形とし、年末には、自身の議定就任(新政府への参画)
 がほぼ確定した。
  しかし、翌・慶応4年(1868年)に、薩摩藩の挑発に乗
 った慶喜は、会津・桑名藩兵とともに行動を起こした。
  1867年12月(旧暦、11月)に、上京した有力大名は、
 わずかだった。
1868年1月24日(12月30日)松平慶永、成瀬正肥ら、参内し
 て徳川慶喜の復命書を上る。
  戦いを避けようとして出された復命書は・・、
  奉帰政権将軍職辞退の議被聞食候上は官位も一等を辞
 し奉り且つ政府御入費も差上度段申上候心底には候へど
 も即今手元人心居合兼痛心の訳柄も御座候に付鎮定次第
 奏願上度候間此段相含於両人可然様及執奏呉候様申聞候
 事も御座候間慶永天地へ誓つて御請合申上候間徳川内府
 内願之節御聞届被下候様奏願上候  慶 永
1868年1月26日(1月2日)松平泰直が、全軍15,000余を引率
 して進軍を開始した(鳥羽伏見の戦いの序幕)
1868年1月27日(1月3日)鳥羽・伏見の戦い起きた。
  戊辰戦争始まる。
  (1)三代目・中村仲蔵の日記・・、
  「慶喜公、会津・桑名を先手として、3000人程の少人
 数にて、上洛のところ、薩長の藩、伏見に関門と構え、
 これを拒み留む。
  慶喜公は、天朝のお召なれば、押して通らんと、人数
 を進む。
  関門より不意に大砲を放つ。
  遂に戦争となり、然るに薩長、錦の旗を押し立て、こ
 れへ砲発せしゆゑ、朝敵と口々に叫ぶ、
  ここに於いて、江戸方、敗北して、淀へ引取る」。
  薩長の官軍と会津・桑名の幕軍が衝突し、幕府軍は総
 崩れになった。
  (2)幕臣・川村修就の日記:伏見・淀・竹田街道等
 に薩摩兵より御先手之向に戦争これ有り。
  (3)前将軍先鋒隊が伏見鳥羽で薩摩・長州藩と戦う
 (氷川清話)
1868年、江戸の噂・・、
  戊辰戦争勃発の噂は、江戸に、またたくうちに広まっ
 た。
  芝居は休みとなり、開けたところで客は来ない。
  去年暮れの三田薩摩藩邸焼打ち事件以来の治安の悪化。
  それに伴う不景気だった。
1868年、江戸城中では・・、
  戊申の変の事は・・、城中は鼎(かなえ)を沸かすよ
 うだった。
  この時の幕議では、事の起こりが少々の行き違いだか
 ら、大した事にもなるまいとの説だったけれども、
  俺は、一人で、西郷めがこの機に乗じて、天兵を差し
 向けはないかと心配していたところが、やはりやって来
 たわい。・・(氷川清話)
1868年1月27日(1月3日)東郷平八郎が、海軍生活の第一歩
 を踏み出した。
1868年1月28日(1月4日) 朝廷が、仁和寺宮嘉彰親王に錦
 旗・節刀を与えた(1月3日か?)。
  薩長軍が、官軍となった。
  この年、宮さん宮さんの俗謡的な最初の軍歌とも言え
 る歌が流行した。
1868年、薩長軍が官軍になったので・・、
  御三家の筆頭の尾張藩が官軍方についた。
  そして、紀州や水戸、高松などの親藩も官軍に味方し
 た。
  鳥羽・伏見の戦いで、高松藩は幕府軍と戦闘までした。
  薩長軍のままだったら違っただろうと言われている。
1868年1月30日(1月6日)鳥羽・伏見に敗れた幕府の軍が、
 大阪へ敗走した。
  慶喜は恭順の意を示そうと大坂へ下った。
  そして、慶喜公は、大阪城をわずかな供を連れて抜け
 出し、開陽丸で海路江戸へ帰った。
  幕臣の日記:今夜、天保山沖にて開陽へ御乗船。
1868年1月30日(1月6日) 幕臣の日記:今日、浪華(大阪)
 御出帆。
1868年1月31日(1月7日)慶喜追討令
  勅して、徳川慶喜の罪を声明し、征討の大号令が下っ
 た。
  また、公卿、大名の去就を決せしむ。
  旧幕府軍、朝敵となる。
1868年2月1日(1月8日)長州藩兵、大阪城の幕軍を砲撃す。
1868年2月2日(1月9日)薩長藩の兵、備後福山城を降す。
1868年2月3日(1月10日)土佐商会、全焼
  午前2時頃、長崎の本古川町から出火し、榎津町、萬
 屋町、東浜町に延焼した。
  そして、西浜町海岸沿いの土佐商会が全焼してしまっ
 た。
  長崎に、鳥羽伏見の戦いが発生したことが伝わり、長
 崎の町には、流言飛語が乱れ飛び、市民は不安にかられ
 た。
  長崎の町から逃げ出す者もいた。
  海援隊の隊長・佐々木三四郎(土佐藩士でもある)は、
 土佐藩としても関わっていた土佐商会の事もあって、2月
 6日、薩摩藩の松方助左衛門を訪ね対策を協議した。
  勤王派の海援隊は、町の不安の状況の中で、幕府方の
 遊撃隊と一触即発の戦々恐々の状態の中にあった。
  夜、佐々木は、単身で西役所で出向いて、奉行の伊豆
 守に面会し、争いが起きない様にと説得した。
  伊豆守は「慶喜追討令」が出ている情報を入手してお
 り、九州諸藩が勤王派が多いことも承知していた。
  この後、奉行は、長崎を脱出した。
  残っていた役人は、帰順の意思を表明した。
  薩摩藩の松方は、遊撃隊へ、単身で出向き、事態を説
 明し、説得した。
  遊撃隊の幹部の白江竜吉は、松方の意を受け入れ、一
 触即発の状態は回避された。
  この様な状況で、長崎の町の人達も不安の中に居た。
  長崎は、無政府状態となっていた。
  幕府の残した金と回米は、市民へ配られた。
  配給を受けた者は、2万人以上に達した。
  また、 「旧来のわだかまりをいっさい捨て、今後ど
 んなことが起きても互いに協力し、朝廷のため鉄石の誠
 意を示す」と、18の藩が誓書に署名したりし、長崎の治
 安・秩序が回復する努力がなされた。
  市民向けに高札も立った、「流言などにまどわされず、
 一般は安心して生活するように」・・と。
..
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2016年1月15日金曜日

(増補版)273E1/3:気になった事柄を集めた年表(1867年11月~1868年1月)

題:(増補版)273E1/3:気になった事柄を集めた年表(1867年11月~1868年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1867年11月24日(10月29日)天皇陛下が、勅使・日野資宗
 を孝明天皇御陵に差遣、大政復古を告げしめ給う。
1867年11月、勅して総裁、議定、参与の三職を置く(氷川
 清話)
1867年11月、勝海舟が、英・仏・米の船将を同伴して、我
 が汽船で、燈台の位置検定の為、房州沿海を巡航す(氷
 川清話)
1867年12月8日(11月13日)鹿児島藩主の島津忠義(しまづ
 ただよし)が、藩兵3000名を率いて鹿児島を出発した。
  これは、西郷隆盛・大久保利通・小松帯刀らの進言を
 容れて上洛したのだった。
  そして、後に、王政復古の大号令に貢献し、議定に任
 ぜられて小御所会議に参席した。
  時代の流れの中心に位置した。
1867年12月10日(11月15日)坂本龍馬が暗殺された。
  坂本龍馬、中岡慎太郎が暗殺される(近江屋事件)
  竜馬、暗殺、氷川清話では・・、
  慶応三年十一月の「海舟日記」に・・、
  本月15日夜4ッ時頃、京三条通り油屋、土藩・後藤象次
 郎寓宿此頃大坂へ下り居合せず、坂本龍馬を尋ね、武士
 3・4人罷(まか)り越し、案内を請い候所、取次ぎの者、
 名札請取り、二階へ上り云々申聞る折、既に武士、後よ
 り取次の者切り掛け、口より進む者、竜馬に打掛け、そ
 の内、同所へ談話に参り居り候、同藩陸援隊頭吉田某へ
 切掛り、両人共痛手おい、竜馬は同夜息絶え、吉田は暁
 迄死きれぬ趣(注)吉田とは中岡慎太郎のことであろう)
 (氷川清話)
  惜しいかな、竜馬は11月15日、河原町通り近江屋の2階
 で暗殺された(氷川清話)
  中岡慎太郎と会談中、刺客に襲われ殺された。坂本竜
 馬ら暗殺さる(氷川清話)
  坂本竜馬が暗殺された時、一緒にいた中岡慎太郎は重
 体となった。
  竜馬は即死、ないしは、翌日未明に息絶えたが、
  慎太郎は、二日間生き延び、暗殺犯の襲撃の様子につ
 いて詳細に語ったが、
  12月12日に死去した。享年30歳。
1867年12月12日(11月17日)中岡慎太郎絶命。
1867年12月18日(11月23日)薩摩の島津忠義が、兵を率い
 て京都に入った。
  西郷隆盛、品川弥二郎も京都に着いた。
1867年12月20日(11月25日)東北の各藩に、樺太の開拓を
 許した。
1867年12月24日(11月29日)幕府が、樺太の漁業を民間に
 奨励した。
  また、旗本大名にして同地希望者へは割与した。
1867年12月25日(11月30日)幕府が、海底電信布設を計画
 した。
1867年3月30日、アメリカが、財政難のロシアからアラスカ
 を720万ドルで購入する条約に調印した。
  1エーカー(4047平方メートル)が2セントという安さ。
  しかし、「巨大な保冷庫を買った」と非難された。
  1896年に、金鉱が発見され、資源の宝庫であることが
 分かった。
  しかし、本当の所有者は、アメリカ・インディアンの
 方々やエスキモーの方々である。
  この本当の所有者を無視した行為だった。
1867年、アメリカが、アリューシャン列島・ミッドウェ
 イ諸島を新領土の植民地として手に入れた。
1867年、カール・マルクスが資本論を書いた。
1867年、フランク・ロイド・ライト(アメリカの建築家)
 が生まれた(92歳まで生きた)
1867年、ノーベル(スウェーデン)が、ダイナマイトを発
 明した。
1868年(慶応4年)1月1日(12月7日)幕府が、兵庫(神戸)
 港を開港した。
  大坂の互市場(ごしじょう、貿易の行われる場所の意
 味)が国際的に開かれた。
  ロンドン覚書に従って、兵庫が開港される。
  それを祝うため、英・米・仏の艦艇17隻が集結。
  各国公使も大坂に滞在した。
1868年1月1日(12月7日)坂本龍馬や中岡慎太郎の仇を狙っ
 て新撰組が襲撃された。
1868年、横浜の人口が3万人。
  そして、すでに、横浜には、イギリス・フランス・プ
 ロシア(ドイツ)の軍隊が居た。
1868年1月2日(12月8日)、土佐藩の山内容堂が、ようやく
 入京した。
  王政復古クーデターが勃発するのは、この翌日・1868
 年1月3日だった。
1868年1月2日(12月8日)三条実美ら六卿、及び、毛利敬親
 父子の官位を復し、入京が許された。
1868年1月3日(12月9日)小御所会議
  (王政復古に関する御前会議)
1868年、勝海舟、正月、二月、二度にわたり越前家を介し
 京師参与に意見書を呈す(氷川清話)
  勝海舟、一書を三道の城主に贈る(氷川清話)
1868年1月3日(12月9日)、王政復古クーデター
  討幕派による王政復古クーデターが敢行された。
  王政維新の勅諭(氷川清話)
  王政復古の大号令・・、
  徳川慶喜の将軍職辞職を勅許し、江戸幕府を廃止した。
  禁裏の小御所で、朝議が開かれ、
  明治天皇は、大政奉還に伴う王政復古を宣した。
  西郷は、直ちに、旧幕の親藩・桑名の禁門衛兵を追っ
 て、薩摩の兵を配置につけた。
  銃剣は、内に向け、朝議に無言の圧力をかけた。
  禁裏では、引き続き、王政復古後の初めての会議が開
 かれて居た。
  西郷は、議場の外。
  大久保は、内に居るが、藩士の身分で出席し、宮中で
 は地位が低い。
  玉座近くには島津久光がいる。
  幕府は消滅しても、天皇の下に、総理が徳川慶喜で、
 副総理が島津久光と山内容堂あたりが収まると予測され
 た。
  容堂が、前将軍・慶喜を出席させないのは不都合だと
 発言した事から会議はにわかに紛糾した。
  硬骨の岩倉具視が反駁した。
  「慶喜は、速やかに官を辞し、領地を返上して、忠誠
 のあかしを示すべし」。
  大政奉還を演出した容堂は激昂した。
  「勤王の志により政権を返上した徳川殿を、更に、罰
 するとは不埒千万なり」。
  大久保は、岩倉に同調した。
  「辞官納地の命を拒めば追討もやむなし」。
  激越な発言も末席からでは効果が無かった。
  休憩の間に、使者が状況を伝えると、西郷は、事もな
 げに言った。
  「短刀一本あれば片付くことでごわす」。
  岩倉の席は容堂に近い。
  岩倉は、本気で容堂を刺す気でいた。
  議場は殺気に包まれて、討幕派の主張が容認された。
  二条城の幕臣たちに怒りが渦巻いた。
  慶喜は、暴発寸前の幕臣を鎮めて辞官納地を承諾した。
 (プレジデント平成10年7月号)
  王政復古の大号令が発せられ、追い詰められた徳川慶
 喜のいる二条城では主戦論がつのった。
  そして、一旦、大阪に下った。
1868年1月3日(12月9日)新たに総裁、議定、参与を置く
1868年1月4日(12月10日)徳川慶喜に退官納地の勅諭
1868年1月6日(12月12日)徳川慶喜の将軍職の辞職に、幕
 臣が騒然(特に会津、桑名の両藩の兵激昻する) 
1868年1月6日、徳川慶喜、二条城を退去。
  翌日、大坂城に到着。
1868年1月8日(12月14日)西郷従道、大山巌ら、三条実美
 以下の五卿を迎えるため大宰府に到着した。
18687年1月10日(12月16日)徳川慶喜が、英・米・仏らの
 六国使臣を招き、政体改革の事を告げた。
1868年1月10日、徳川慶喜、英仏米蘭伊普の6カ国公使に、
 外交権は幕府が保持していることを宣言
1868年1月13日(12月19日)三条実美ら、帰京のため大宰府
 を発った。
1868年1月14日(12月20日)江戸城二の丸が全焼した。
1868年1月16日(12月22日)、勝海舟へクーデター情報が届
 く・・、
  この時、大阪湾にある開陽丸の船長・榎本釜次郎から
 の密書が届いて、
  京都朝廷におけるクーデター、小御所会議の結果とし
 ての、倒幕密勅の動き、慶喜に辞官納地を命ずる旨の策
 謀がある旨を知らせて来た(氷川清話)
1868年1月17日(12月23日)閣老の小笠原壱岐守が、米国
 書記官・ボルトメンの願により、江戸~横浜間の鉄道敷
 設免許を与えた。
  (その後明治新政府はこの契約を認めず)
1868年1月17日、勝海舟がスパイではないかと・・、
  この時、勝海舟は、登城して海軍総裁の稲葉兵部大輔
 へ状況の重大な事を進言したが、
  稲葉兵部は、勝に向かって、「そこもとの申したつる
 所は頻る善いが、役人たちがそこもとを嫌って、薩・長
 のスパイではないかと疑っている。
  そこもとを、免職すべきだとさえ云っている。
  暫く時の至を待つがよい」。
  勝海舟は、こうまで疑われては、今更、言うことはな
 いと思った。
  そこで退職を願い出て、「憤言上書」を書いて差し出
 す。
  この書には、海舟の平常の考え方の真髄が露出してい
 る。
  署名も「海舟狂夫」とある(氷川清話)
1868年1月19日(12月25日)薩摩屋敷焼討事件 :戊辰戦争
 への流れを決定的にした事件
  庄内藩を中心とする旧幕府軍による薩摩藩邸、佐土原
 藩邸焼き討ちが起きた。
  江戸の三田にある薩摩藩の江戸藩邸が、江戸市中取締
 の庄内藩・新徴組らによって襲撃され、
  砲火により焼失した事件。
  この事件からの一連の流れが、戊辰戦争のきっかけと
 なった。
  この時期、前将軍・徳川慶喜をはじめとする旧幕府の
 幹部は、小御所会議により大坂城に詰めており、
  江戸には、市中取締の藩兵のみが警護にあたっていた。
  京では、朝廷が、幕府に見切りをつけて、
  そして、討幕の密勅が薩摩と長州に下されていた。
  密勅を賜った薩摩は、すぐに行動を開始した。
  薩摩の意を受けて活動を開始したのは相楽総三であり、
 三田の薩摩藩邸を根拠地として、意思を同じくする倒幕、
 尊皇攘夷論者の浪士を全国から多数招き入れた。
  彼らは、薩摩藩士・伊牟田尚平や益満休之助に指導を
 受け、放火や、掠奪・暴行などを繰り返して、幕府を挑
 発した。
  その行動の指針となったお定め書きにあった攻撃対象
 は、
 「幕府を助ける商人と諸藩の浪人。
  志士の活動の妨げになる商人と幕府役人。
  唐物を扱う商人。
  金蔵をもつ富商」・・の四種に及んだ。
  旧幕府も、前橋藩、佐倉藩、壬生藩、庄内藩に
 「盗賊その他、怪しき風体の者は見掛け次第、必ず召し
 捕り申すべし。
  賊が逆らいて、その手に余れば、討ち果たすも苦しか
 らず」・・と、
  厳重に市中の取締りを命じたが、武装集団に対しては
 十分な取締りとならなかった。
  庄内藩は、旧幕府が上洛のため編成し、その後、警護
 に当たっていた新徴組を借り受け、薩摩藩邸を見張らせ
 ていた。
..
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2016年1月11日月曜日

(増補版)272E1/3:気になった事柄を集めた年表(1867年9月~1867年11月)

題:(増補版)272E1/3:気になった事柄を集めた年表(1867年9月~1867年11月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1867年9月22日(8月25日)土佐藩士・後藤象二郎らが、藩
 主の命により大政奉還の建策(けんさく、計画を立てる
 こと)のため、高知を発ち、上洛した。
1867年10月、お陰参り(ええじゃないか)大流行。
1867年10月1日(9月4日)幕府が、デンマークと通商条約締
 結した。
1867年10月3日(9月6日)幕府が、イタリアと通商本条約締
 結した。
1867年10月6日(9月9日)土佐藩士・後藤象二郎、福岡藤次
 (孝弟)ら、小松帯刀、西郷隆盛と会見し、幕府に対す
 る武力牽制の延期を求める(西郷隆盛訊かず)
1867年10月8日(9月11日)島津忠義(しまづただよし、薩摩
 藩主、島津久光の子)が、1000余の兵を率いて京都に入っ
 た(西郷隆盛の王政復古の大計いよいよ熟す)
1867年10月9日(9月12日)江戸~大阪間に飛脚船が開設さ
 れ、始まった。
  農民・町人も乗船を許可された。
1867年10月11日(9月14日)幕府が、江戸の市街地に3階建
 て家屋の建築を許可した。
1867年10月12日(9月15日)三代目・澤村田之助(さわむら
 たのすけ、歌舞伎役者)が、片足切断の大手術(義足を
 つけた最初の日本人)
1867年10月14日(9月17日)正岡子規、誕生。
  正岡子規が愛媛県で生まれた。
  この年には、夏目漱石・尾崎紅葉も生まれている。
1867年10月15日(9月18日)薩摩藩士・大久保利通らが、山
 口において毛利敬親父子に謁し、薩長攻守同盟を謀る。
1867年10月17日(9月20日)海援隊・坂本龍馬が、長崎を発
 して下関に向う(10月15日説あり)
  坂本龍馬が、プロシア商館からライフル小銃1300挺を
 購入し、
  土佐藩へ輸送のため芸州藩(広島藩)の震天丸で長崎
 を出帆した。
1867年10月29日(10月3日)山内豊信(容堂)、後藤象二郎、
 福岡孝親ら大政奉還建白書を、老中・板倉勝静に提出し
 た。
1867年10月30日(10月4日)土佐藩主・山内容堂が、将軍・
 徳川慶喜へ、大政奉還の建白書を提出した(10月29日説
 あり)
1867年11月1日(10月6日)大久保利通、品川弥二郎の両人
 が岩倉具視を訪ねて、「錦の御旗」作製について相談す。
1867年11月1日(10月6日)芸州藩主・浅野茂長が、藩士・
 辻将曹をして書を幕府に呈せしめ、政権変換を建言す。
1867年11月3日(10月8日)長州藩の品川弥二郎が、上京せ
 る広沢真臣と共に、薩摩の小松帯刀、西郷隆盛、大久保
 利通、芸州藩の辻将曹、植田元次郎らと共に、三藩合同
 し倒幕の事を議決する。
1867年11月4日(10月9日)薩摩、長州、芸州三藩の倒幕連
 盟成立の顛末につき、中山忠能(なかやまただやす、公
 卿、明治天皇の外祖父)が、委曲(いきょく、詳しく細
 かなこと)奏上する。
1867年11月5日(10月10日)坂本龍馬、倒幕を期し江戸に入
 る。
1867年11月7日(10月12日)将軍・徳川慶喜が、老中以下諸
 有司を召し、大政奉還の已むを得ざる旨を懇諭する。
1867年11月8日(10月13日)薩長両藩主に倒幕の蜜勅。
  討幕の密勅が薩摩・長州に下りた。
  徳川慶喜が、大政奉還を乞うた(1867年11月8日)。
  翌日、勅許。
  将軍の徳川慶喜が、政権を朝廷に返還(大政奉還)(
 1867年11月9日)した。
  江戸幕府がほろんだ。
1867年11月9日、討幕の密勅が、薩摩藩と長州藩に下った
 (現在では偽勅説が有力)
1867年11月9日(10月14日)大政奉還
  徳川慶喜が、朝廷に大政奉還した(家康以来270年の歴
 史に幕が下りた)
1867年11月9日(旧暦、10月14日)大政奉還
  江戸幕府・第15代将軍・徳川慶喜が、政権返上を明治
 天皇に上奏す(大政奉還)。
  朝廷は、これを受けて、薩長に倒幕の実行延期の沙汰
 書を下す。
  翌(1867年11月10日)に、天皇は奏上を勅許した。
  実際には、朝廷は、外交に関して、為す術は無く、
 1867年11月18日(旧暦、10月23日)に、外交については、
 引き続き、幕府が、中心となって行なうことを認める通
 知を出された。
  1867年12月14日(旧暦、11月19日)の江戸開市と、新
 潟開港の延期通告や、
  1867年12月23日(旧暦、11月28日)のロシアとの改税
 約書締結を行ったのは幕府だった。
  朝廷は、慶喜に、当分の間、引き続き庶政を委任し、
 諸大名に上京を命じたものの、形勢を観望するため、上
 京を辞退する大名が相次いだ、
  将軍職を巡る慶喜の進退に関し、何ら、主体的な意思
 決定ができぬまま、事態は推移した。
  1867年12月(旧暦、11月中)に上京した有力大名は、
 薩摩・芸州・尾張・越前の各藩のみで、
  土佐藩の山内容堂が入京したのがようやく1868年1月2
 日(旧暦、12月8日)であった(王政復古クーデターが勃
 発するのはその翌日・1868年1月3日である)。
  この間、土佐藩は、坂本龍馬を越前藩に派遣するなど、
 公議政体構想の実現に向けた努力を続けていた。
  他方、会津藩・桑名藩・紀州藩や幕臣らにの間には、
 大政奉還が、薩摩・土佐両藩の画策によるものとの反発
 が広がり、大政再委任を要求する運動が展開された。
  この時期の朝廷は、二条摂政や、賀陽宮朝彦親王(中
 川宮、維新後久邇宮)ら親幕府派の上級公家によってな
 お主催されていたのであり、
  大政奉還がなされても、この様な朝廷の下に開かれる
 新政府(公武合体政府)は、慶喜主導になることが当然
 のごとく予想された。
  薩長や、岩倉ら討幕派は、クーデターによってまず朝
 廷内の親幕府派中心の摂政・関白・その他従来の役職を
 廃止し、体制を刷新し、朝廷の実権を掌握する必要があ
 った。
  討幕の密勅は、朝廷内でいまだ主導権を持たない岩倉
 ら倒幕派の中下級公家と、薩長側が、慶喜のそうした狙
 いに対抗する非常手段として、画策したものである。
  密勅を受けた討幕の実行は、慶喜の速やかな大政奉還
 が朝廷に受け入れられたことにより、いったん延期とな
 ったが、
  薩摩・長州・芸州の3藩は、再び、出兵計画を練り直し、
 土佐藩ら公議政体派をも巻き込んで、1868年1月3日(旧
 暦、12月9日)の王政復古へと向かっていくことになった。
1867年11月9日、大政奉還。
  江戸幕府の第15代将軍・徳川 慶喜が、政権の返上を明
 治天皇に上奏し、翌15日(旧暦)に、天皇が、これを勅
 許した。
  幕末、及び、維新の方々の優秀さは、外国勢力を引き
 入れて相戦うということが駄目な事を良く知っていた。
  それは、禁じ手だとよく知っていた。
  悲しいかな、ベトナムには、17世紀に鄭政権が、オラ
 ンダを引き入れ、
  また、阮政権が、ポルトガルを引き入れ、当時の内乱
 をいっそう複雑にしてしまった。
  日本の幕末の指導者たちは、こういう事態が起こるこ
 とを恐れて、自らの手で政権を自沈させてしまった。
1867年11月、徳川慶喜の将軍職辞職
  徳川慶喜は、薩長両藩に倒幕の密勅が下ると、山内豊
 信の意見を入れ、ただちに将軍職を辞した(大政奉還)。
  しかし、倒幕派の慶喜に対する辞官納地要求で不満が
 爆発し、鳥羽伏見の戦いとなって行く。
1867年11月10日(10月15日)朝廷の允許
  朝廷が、徳川慶喜の大政奉還に允許(いんきょ、許す
 こと、許可)す。
  将軍慶喜、大政奉還を奏す。朝廷において万機決裁の
 旨布告(氷川清話)
  朝廷から長州に対し倒幕の密勅が下った。しかしその
 日、15代・将軍・徳川慶喜は、大政奉還の上書を奉じて
 勅許された。
1867年11月10日、大政奉還・・坂本龍馬の感激
  慶応三年十月十四日、慶喜が将軍を辞し、いわゆる大
 政奉還が実現したとき、
  これを聞いた坂本龍馬の感激は大変なものであった。
  「よくも断じ賜えるものかな。この公の身辺に万一の
 事あるときは、自分は誓って一命を捧げてこれを守らん。
  天下の為に、その公正な処置に感謝せずにいられない」
 と言って、感涙にむせんだ・・という。
  「私を捨てて公につく」という出処進退に、竜馬は、
 純粋に感動できた人である(氷川清話)  
  大政奉還・・西郷・大久保・桂は、新帝の外祖父・中
 山忠能を通じて工作し、倒幕の密勅を手にした。
  同じ日に、慶喜は、大政奉還の挙に出た。
  幕府が消滅したので、密勅は宙に浮いた。
  大政奉還をしても徳川家は残る。
  竜馬が発案して、土佐藩・山内容堂が演出した。
  主導権が、土佐藩に奪われることを西郷は我慢できな
 いと思った。
1867年11月12日(10月17日)伊東玄伯(いとうげwんぱく、
 医師)が、日本人として初めて電報を打つ。
  オランダに留学中の伊藤玄伯が、一緒にヨーロッパ留
 学をしてアムステルダムに滞在していた赤松則良へ、「
 明日、そちらに着きますので宜しく」と打電した。
  1868年3月には、フランスのパリから日本に向けて、電
 報が打たれてもいる。
  これは、徳川昭武で、旅費がなくなって、電報なら早
 く用件を伝えることが出来ると聞いて、「金あらず、資
 金援助頼む」と打った。
  しかし、この時、直接、日本に打つことは出来なかっ
 たので、ロンドンに打たれ、ロンドンから大西洋を横断
 する海底ケーブルでサンフランシスコに電報が送られ、
 それを印刷して、日本へ船便で運ぶというものだった。
  日本到着まで1ヶ月以上もかかったという。
1867年11月16日(10月21日)幕府が、諸大名に総登城を命
 ず。
1867年11月19日(10月24日)徳川慶喜が、朝廷に征夷大将
 軍の辞表を提出。
   慶喜の征夷大将軍辞職の申し出に対し、朝廷は、これ
 を認めず。
1867年11月、毛利侯入京(氷川清話)
1867年11月、官位は旧のまま脱走の公卿入京(氷川清話)
1867年11月、前将軍、京都を退く(氷川清話)
  徳川慶喜は、恭順の意を示そうと大坂へ下った。
  しかし、慶喜にその気は無くても、前将軍という名か
 ら兵力が増強された。
  武器弾薬が蓄積される。
  兵糧が調達され、フランス公使が戦闘を支援すると申
 し出て来た。
  それでも、慶喜は、冷静であり続けた。
  しかし、暴発を押さえ通せる保証はない。
  大久保と慶喜との忍耐比べには限度がある。
  大久保は、西郷と相談した。
  西郷は、武力発動の決意があった。
  戦争の大義名分について、西郷に謀略があった。
  血なまぐさい京都と違って、江戸には平穏な暮らしが
 保たれていた。
  ところが、突然に無頼の徒がはびこり、火付け・押し
 込み・拐かし(かどわかし、誘拐)など、狼藉の限りを
 尽くした。
  西郷が、東国に明るい相良総三(さがらそうぞう、特
 に、特定の藩に属さない尊攘派志士)らに江戸を錯乱さ
 せたのだった。
  たまりかねた幕府は、無頼の徒が屯する薩摩藩邸に砲
 弾を撃ち込んだ。
  大阪城に居た慶喜も、幕臣の怒りを抑えようがなかっ
 た。
  倒幕派の挑発だと知りつつ、薩摩を除けと軍を発した。
  謀略は成功し、西郷は、大久保に後事(朝廷のこと)
 を託して、出陣した。
  鳥羽伏見街道を攻め上ってくる徳川の軍勢に、薩長の
 砲列が火を噴いた。
  戊辰戦争が開始された(1868年1月に開始し、1869年に
 終わった)。
  戦場には錦の御旗が翻った。
  徳川軍を怯(ひる)ませた。
  官軍と賊軍に分かれる。
  徳川軍は、総崩れになり、慶喜は、秘かに江戸に逃れ
 た。
  西郷は、東征軍の総参謀長となった。
  最上位の地位である。
  西郷の謀略はすごかった。
  江戸の攪(かく)乱工作に功のあった相良総三は、東
 征軍の先鋒として中山道を進んでいたが、
  「偽官軍だ」の汚名をかぶせられて、諏訪湖畔で処刑
 された。
  歴史のダーティな部分を知るために消されたのだった。
  処刑を命じたのは西郷だった。
  江戸に帰った慶喜は、抗戦を説く幕臣に、耳をかさず、
 ひたすら恭順の意を示そうとした。
  そうとは知らぬ西郷は、江戸開城に猛りつつ、駿府に
 まで攻め上っていた。
  その時、幕臣・山岡鉄舟が、陸軍総裁・勝海舟の手紙
 を持参し、自らも訴えた。
  「戦に逸る(はやる、あせる)だけでは、王師(おう
 し、王の軍勢、官軍)とは申せますまい。徳川もまた帝
 (みかど)の民でございます」。
  西郷は、臆する事のない山岡の度胸と誠意に動かされ、
 「慶喜公は、この西郷が身命に代えてお守り致す」と言
 った。
  江戸城総攻撃の時が迫る中で、西郷は、柴田町の薩摩
 屋敷に海舟を迎えた(1868年3月13日)。
  4年前に初めて会った時(1864年9月11日)、西郷は、
 勝の偉才に惚れた。
  しかし、総参謀長として西郷は、最後の質問を放った。
  返事次第では、会談は決裂するだろう。
  勝も、江戸を自らの手で焼く手筈(てはず)を、すで
 に整えている。
  勝は言った「江戸を焼けば、この国も支那やインドの
 轍を踏む(てつをふむ、前人の犯した失敗を繰り返すた
 とえ)ことになる」。
  大きく首肯(しゅこう、うなずくこと)した西郷は、
 隣室の側近を呼ぶと告げた。
  「江戸城総攻撃は取り止め」。
  江戸の無血開城によって、幕藩体制は終焉した(1868
 年4月)。
  列強の植民地化の危機も去った。
  西郷は、我がこと成れりと野に下ったが、新政府は、
 西郷を迎えて、筆頭参議に据えた(1871年)。
  しかし、破壊の時代にときめいた者は、必ずしも、新
 時代建設にも適任とはならない。
  新時代プランナーとしての精彩は欠いたが、令名(れ
 いめい、名声)は却(かえ)って輝きを増した。
  価値観の混乱から、新政府に不満を持った者が、巷(
 ちまた)に溢(あふ)れ、彼らは、西郷を慕った。
  大久保は、西郷の存在に危険を感じ、征韓論を政争の
 具にして、かつての盟友を追放した(1873年)。
  新政府の権力を掌握した大久保は、西郷を担いで暴走
 する薩摩軍団を殲滅(せんめつ)した(西南の役、1877
 年)。
  西郷は果(は)て、それから僅か8ヶ月後に、大久保
 利通も紀尾井坂の凶刃に倒れた(1878年)(参考:プレ
 ジデント平成10年7月号)
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
 

2016年1月10日日曜日

(増補版)271E1/3:気になった事柄を集めた年表(1867年6月~1867年9月)

題:(増補版)271E1/3:気になった事柄を集めた年表(1867年6月~1867年9月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1867年(慶応3年)7月、勝海舟、長男・小鹿、米国留学の
 ため出発(氷川清話)
1867年7月上旬、土佐藩は、「亀山社中」を「海援隊」(隊
 長:坂本龍馬)と称し、藩の付属にした。
  ここに、坂本龍馬の海援隊長としての活躍がはじまる。
  外国を視野に入れた大きな夢がスタートした。
  しかし、竜馬の暗殺もあり、1868年(慶応4年)4月27
 日、「海援隊」は解散する。
  また、同時に、「土佐商会」も閉鎖された。
1867年7月10日(6月9日)坂本龍馬と後藤象二郎が、上洛の
 ため、長崎を出帆した(この航海の途上、坂本龍馬は、
 「船中八策」を提唱した)
1867年7月11日頃、船中八策
  坂本龍馬が、土佐藩の参政・後藤象二郎に大政奉還を
 含む船中八策を提示した。
  これには、新国家体制の基本方針が示されている。
  坂本龍馬は、いろは丸沈没事件を解決させたのち、京
 都に上洛していた前土佐藩主の山内豊信(容堂)に対し
 て大政奉還論を進言するため、藩船の夕顔丸で、長崎を
 出航し、
  この上洛中の洋上で、参政の後藤象二郎に対し、口頭
 で提示したものを、そばにいた海援隊文司の長岡謙吉が
 簡潔に書きとめ、成文化した。
  (別史料:後藤象二郎が、山内容堂から大政奉還に備
 えての上京を命じられたため・・となっている)
 一、大政奉還:天下ノ政権ヲ朝廷ニ奉還セシメ、政令宜
     シク朝廷ヨリ出ヅベキ事。
 一、上下議政局:上下議政局ヲ設ケ、議員ヲ置キテ万機
     ヲ参賛セシメ、万機宜シク公議ニ決スベキ事。
 一、有材之人物登用:有材ノ公卿諸侯及天下ノ人材ヲ顧
     問ニ備ヘ官爵ヲ賜ヒ、宜シク従来有名無実ノ官
     ヲ除クベキ事。
 一、外国トノ交際:外国ノ交際広ク公議ヲ採リ、新ニ至
     当ノ規約ヲ立ツベキ事。
 一、無窮ノ大典(憲法)撰定:古来ノ律令ヲ折衷シ、新
     ニ無窮ノ大典ヲ撰定スベキ事。
 一、海軍拡張:海軍宜ク拡張スベキ事。
 一、御親兵帝都守衛:御親兵ヲ置キ、帝都ヲ守衛セシム
     ベキ事。
 一、金銀物貨外国ト平等(対等条約):金銀物貨宜シク
     外国ト平均ノ法ヲ設クベキ事。
  以上八策ハ、方今天下ノ形勢ヲ察シ、之ヲ宇内万国ニ
 徴スルニ、之ヲ捨テテ他ニ済時ノ急務アルベシ。
  苟モ此数策ヲ断行セバ、皇運ヲ挽回シ、国勢ヲ拡張シ、
 万国ト並立スルモ亦敢て難シトセズ。
  伏テ願クハ公明正大ノ道理ニ基キ、一大英断ヲ以テ天
 下ト更始一新セン。
  坂本龍馬は、「このほかに策はなし」と断言した。
  これは、横井小楠の「国是七条」の思想を色濃く反映
 していた。
  この二人は、1867年7月13日(6月12日)に、兵庫に上
 陸し、1867年7月15日(6月14日)に、後藤象二郎は、京
 都に入り、夜遅くには、藩論としてまとめ上げられた。
  そして、1867年7月16日(6月15日)に、成案を得て、
 1867年10月29日(旧暦、10月3日)に、この成案を基にし
 た大政奉還の建白書が幕府に提出された。
  そして、この後、明治新政府の大方針を示す「五箇条
 の御誓文」へと繋がり、新政府樹立後の国政の指標とな
 った。
  坂本龍馬は言う・・、「船中八策」を披露した坂本龍
 馬は、今までの意見とは違うじゃないかと言われて、
  「昨日までの俺は、今日の俺じゃない」・・と、言っ
 たという。
1867年、プチャーチンとの交渉を見事に収めた川路聖謨(
 としあきら)。
  有能な武士と言われた。
1867年、坂本龍馬は・・、桂小五郎は・・、
  竜馬自身、土佐の勤王派を弾圧した仇敵の後藤象二郎
 と手を組み、亀山社中を海援隊に編成し直し、「船中八
 策」を示して、後藤に大政奉還の献策を示している。
  竜馬は、大目標の為には、仇敵とも手を結んだ。
  国元の姉の乙女から「おまえは利に眼がくらみ、後藤
 などと手を組んで、天下国家の事を忘れたか」の手紙を
 貰ってもいた。
  土佐24万石をバックに、後藤に演じてもらうためなら
 ば・・、
  「船中八策」には、幕府が政権を返上した後の、国の
 政治の在り方が、実に、具体的に述べられていた。
  竜馬の描いた新国家の青写真は、鮮明だった。
  議会制度を設け、人材を広く募り、諸外国との条約を
 改正し、新憲法を制定し、海軍を充実させ、通商貿易の
 レ-トを正して、諸外国と対等に行動できる国家をつく
 る。
  この竜馬の示した国家構想を下敷きにして、明治の指
 針「五箇条の御誓文」が作成された。
  これは、西郷や木戸(桂小五郎)にもできなかった事
 だった。
1867年7月15日(6月14日)薩長土の三藩の志士・西郷隆盛、
 大久保利通、後藤象二郎ら王政復古を議す。
1867年7月23日(6月22日)後藤象二郎・坂本龍馬ら、西郷
 隆盛・大久保利通らと会見(大政奉還の薩土盟約を結ぶ)
1867年7月26日(6月25日)土佐藩士・中岡慎太郎、坂本龍
 馬と共に岩倉具視を訪ね、王政復古を論ず。
1867年8月5日、長崎で、イギリス船のイカラス号の乗組員
 達が、日本人の歓楽街へと繰り出し、酒を飲んだ。
  イギリス人の2人が酒に酔い、道に寝込んだ。
  仲間たちは見捨てて、そのまま放置してしまった。
  この二人は、日本の侍に切り殺されて見つかった。
  不逞の輩と切り捨て御免にしたのだろうが、坂本龍馬
 の率いる海援隊がしたとの話となって行く。
  イギリスは、この土佐侍の逮捕を要求したが、日本は
 証拠がないとして拒否した。
  イギリス総領事のパークスは、アーネスト・サトウを
 団長とする代表団を派遣して調査をした・・が、立証で
 きる証拠を得る事は出来なかった。
  幕府は、長崎奉行が事件を解決できないと責任を問い、
 奉行を解任した・・しかし、イギリス側は納得しなかっ
 た。
  1868年(明治元年)の新政府に至っても、イギリスは
 犯人捜査の要求をした。
  後日談として、後に、土佐の役人が、筑前黒田藩の藩
 士(塾生)が下手人と突き止めた。
  そして、さらに後、この下手人は、事件直後、自刃し
 ていた事が判明した、
  そして、明治2年になって、筑前の仲間たちが投獄され、
 筑前藩主は蟄居し、殺された遺族に賠償金の支払いが命
 じられた。
  尚、事件直後の8月18日に、坂本龍馬ら海援隊士が、長
 崎奉行に出頭している。
  また、尚、この年に、イギリス人2名が、許可なく雲
 仙を登山し、小地獄で捕らえられ、長崎へ護送されてい
 る。
1867年8月7日(7月8日)兵庫開港のため、国産改所を京都
 及び大阪に設置して物産検査の制を定めた。
1867年8月9日(7月10日)江戸の四門、品川、千住、板橋、
 新宿の四駅廃され、江戸の出入り自由となる。
1867年8月23日(7月24日)英国公使・パークス大阪に入り
 て、老中板倉勝静らと会見する。
1867年8月26日(7月27日)徳川慶喜が、英国公使パークス
 と会見した。
  徳川慶喜以前の将軍は、老中を前面に立たせていた。
1867年8月~12月、ええじゃないか
  名古屋地方に「ええじゃないか」が起こり、各地に波
 及して行った。
  「天から御札(神符)が降ってくる、これは慶事の前
 触れだ」・・という話が広まるとともに、
  民衆が仮装するなどして囃子言葉の「ええじゃないか」
 などを連呼しながら集団で、町々を巡って熱狂的に踊っ
 た。
  平成の「ハロウィン」のようなもの。
  討幕派が、国内を混乱させるために引き起こした揺動
 作戦だったという説がある。
  平成のハロウィンは、キリスト教のお祭りで、
  「キリスト教の巧妙なる伝道行為」となっている。
  嬉々としてキリスト教徒が駆け付けている。
  日本をキリスト教化したいと、近隣アジアからも日本
 見物を兼ねて、キリスト教徒が来ている。
  一般大衆は、それに乗せられ、商店街は一時の利を求
 めて加わっている。
1867年9月8日(8月11日)幕府、従来の飼鷹を廃す。
1867年9月10日(8月13日)幕府、ベルギーと通商条約締結
1867年9月18日(8月21日)桂小五郎、坂本龍馬ら、長崎に
 おいて公儀政体を論じ、その貫徹を期す。
1867年9月、幕府の勝房州登庸は困る
  慶応三年八月(1867年9月)、土佐の佐々木高行が、
 長崎へ行った時、その旅宿に、坂本龍馬が、毎夜の様に
 やって来て、徹夜で倒幕の議論をし、泊っていった
  ある時、竜馬は言った、「今日、幕府において勝房州
 を登庸されては、吾々同志に一の城郭を築くもので、実
 に由々しき大事である。
  僕は、房州には、非常に恩顧を受けて居るから、之を
 敵とする事は出来ぬ。
  君等宜しく注意して、其間に策略を施して、彼が驥足
 (きそく、才能の優れた人、足の速い馬の意)を伸ばさ
 ぬようにして呉れ」と。
  この一言は、倒幕派の薩・長・土の志士たちが、徳川
 方における最強の相手として勝を見ていたことを物語る
 ものである(氷川清話)
1867年8月14日、原市之進(はらいちのしん)、暗殺さる
 (氷川清話)(1830年~1867年)
  水戸藩士で、藤田東湖に学び、また、昌平黌(しょう
 へいこう)に学んだ。
  一橋慶喜に仕え、慶喜が将軍職につくと目付となり、
  兵庫開港をとなえ、この日に、部下の幕臣に暗殺され
 た。38歳。
1867年9月6日(8月9日)、築地ホテル着工
  築地に「築地ホテル館」と呼ばれる日本初の本格的ホ
 テルが着工された。
  これは、小栗忠順(おぐりただまさ、幕臣)の発案と
 主導のもとに清水喜助(清水建設の創業者)らが建設し、
 翌年・1868年9月25日(8月10日)に完成した。
  江戸に来る外国人のための宿泊、交易場として建設さ
 れた建物で、
  江戸は開港場でなく開市場であるため、外国人が商館
 を建てることが出来ず、
  外国人旅館が建設されたのである。
  敷地は、かつての紀伊・尾張家の屋敷地だった所で、
  後に、軍艦操練所となった地である。
  建物の設計者は、アメリカ人の建築家R・P・ブリジ
 ェンスで、後に、新橋や横浜の停車場(明治5年)を設計
 した人物。
1867年秋ごろ、大阪城の皇城説
  秋ごろになると、国威をいっそう外国へ輝かすために
 は、万事不便な京都ではなく、「帝都」を大阪に移すと
 いう意見が、現実味を持って語られた。
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