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2013年7月19日金曜日

その行為を、特別視し、信仰対象とした。

 題:その行為を、特別視し、信仰対象とした。
...(真を求めて 皆様と共に幸せになりたい)
.
 イエスが、実際に、実在したかは確定できないのが現状な
のだが、イエスが在世の頃、
 ユダヤ民族は、様々な重圧を受けていた。
 武力でユダヤ民族の権力を奪った「ローマ帝国」。
 そして、民は、ローマ帝国に『富み』を吸い上げられた。
 また、その「ローマ帝国に媚(こ)びる、ユダヤ人の裏切り
傀儡(かいらい)政権」。
 その様な政府だから、民へ重圧をかけた。
 そして、『ローマ帝国のお先棒かつぎ』の手先のユダヤ人の
徴税人(民から金を取り上げた。取り上げれば取り上げるほど、
自分の身入りが良いというシステム・規則だった)。
 そしてまだ居る。民へ弱い者いじめをする者が。
 山の頂(いただき)に神殿を作る、一握りの宗教的な特権集
団、エルサレム神殿の聖職者たち。
 宗教を誇示しながら、民へ「神殿税」を掛け、「旨(うま)
い汁」を吸っていた。
 この様な、様々な重圧を受けていた民。
 心理的重圧も、現代からは想像を絶するものだったと思われ
る。
 それ故、イエスの癒(いや)しの行為は人気だった。
 医学の発達した現代、イエスの行為の必要性は『広い』こと
が分かっている。
 身体的機能麻痺について、想像以上に多くの麻痺が「心因性」
の原因と、起因するということが分かっている。
 イエスは、心療的治療師と言える。
 イエスの治療を欲していた民も多かったのだろうと、それも
絶大に多かったのだろうと想像できる。
 イエスの奇跡物語はここから生まれた。
 現代医学からは、当然のこととして証明できること。
 今では、普通のこと。古代だから、珍重されたのだろう。
 奇蹟的にも、神がかり的にも見えたのだろう。
 そして、「この奇跡感」や、「神がかり感」から、キリスト
教は生まれてきた。
 その行為を、特別視し、信仰対象とした。
(追記)
 この時、「イエスに触(ふ)れたがる群衆」や、「さわりた
がる群衆」が、多かった・・というのは、完全に、病気治癒の
ため、病気が治りたいがためである。
 その目的で、イエスのところに集まった、押し寄せた。
 聖書学者は指摘する。「何故、これ等の群衆は、皆、癒(い
や)されたという記述がないのか?」と。
 結局、この状況から宗教性が付加され、宗教性をもって、癒
されるという「御利益(ごりやく)を求める」御利益宗教へと
移行していく。
 群集は熱狂する。それだけ、民は抑圧されていた。
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結局、偽善に堕している。

題:結局、偽善に堕している。
...(真を求めて 皆様と共に幸せになりたい)
.
 ある有名な人の言葉に、
 「私は、キリスト教徒を信じることができない。なぜなら彼
らは、怒ることができないほどに不誠実だからである」・・
がある。
 (やはり、怒るときには怒るのが誠実と言っている)。
 イエスは、気が短かったようで、キリスト教の聖書のあちこ
ちで怒っている。
 また、弟子たちを本気で叱っている。
 弟子も、イエスに反抗して、イエスを叱っている。
 弟子には師という見方が薄く、よく言えば、平等意識が強い。
 弟子が反抗した時、イエスは、時には、シモン(ペトロ)を
 「サタン(悪魔)」と怒鳴ったりしている。
 イエスにこの様なところが見られるが、
 キリスト教会には、「怒る」ことについて「はしたない」「
恥ずべきこと」という不文律がある様で、
 怒りを押し殺している。
 それは、怒りに「愛の精神に反するという見方をしている」
からで、そこに無理が生じている。
 イエスのように、あまり感情むき出しも駄目だが、あまりの
無理さに『ひきつる顔で押し殺す』とかの不自然さが生じる。
 結局、その様な姿勢は「偽善的態度」と言え、
 怒るときには怒るが良い。
 本当に考慮すべきは、怒り方なのである。
 心をここへ持って行かなくてはならない。
 心なく「柔和な顔つき」をしているが、ひきつっている顔は、
 結局、偽善に堕している。
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2013年7月18日木曜日

もうすぐ私もベリー摘みに行くよ。

 題: もうすぐ私もベリー摘みに行くよ
...(真を求めて 皆様と共に幸せになりたい)
.
 キリスト教の聖書は、神の言葉だという。
 そして、世に、「本当に神の言葉なら書き採(と)る事も出
来ないし、記述する事も出来ないし、ましてや、翻訳などもで
きない」という言葉がある。
 翻訳によって『翻訳者』という人の意思が入ってしまう」し、
 また、『筆記者』の意思も入ってしまうし、
 「どうも、この言葉が正しい」らしい。
 キリスト教は、その神の言葉を記したという聖書を、信仰の
根本において、信じている。
 その聖書に、福音書という記述書が、複数あるが、
 これ等は『ギリシャ語』で書かれている。
 マルコが書いた、マタイが書いた、ルカが書いた、そして、
ヨハネが書いたとも言うから、
 その人たちの人間が書いたと言っているから、
 その人間の頭の中にあるものが、筆記されているのだろう。
 イエスは、「アラム語」を話した。
 そして、前記のマタイなどの福音書を書くにあたって、
 「G資料」などという資料を見ながら書いたと言われているが
(今は「行くへ不明」になっている資料)、
 また、これらの資料も別の言語である。
 聖書になるまでに数々の「言語の橋を渡り、意思の川を渡り」、
 翻訳や、その資料からの人間の恣意的(しいてき)な意思の
選択が入った資料部分の選択作業がある。
 (参考)しい‐てき【恣意的】 [形動]気ままで自分勝手な
さま。論理的な必然性がなく、思うままにふるまうさま。「―
な判断」「規則を―に運用する」
 そして、その様に、人間の意思の橋を渡って出来た『キリス
ト教聖書原典』を、ここからさらに、翻訳して、各国の人が読
める形へ「かたちを変える」という作業もある。
 神の言葉や意思は、どこかへ飛んで行く・胡散霧消している
とも、少なくとも、神の意志とは変わっているものが、『聖書』
としてある、存在している。
 関係することを、日本経済新聞から、その点について見てみ
よう。
 今、『世界で失われる言葉』があるという。
 そこに「翻訳できない言葉の叡智(えいち)がある」という。
 本『亡びゆく言語を話す最後の人々』(K・ディヴィッド・
ハリソン著、原書房)
 (参考:日本経済新聞 2013・6・16)の『書評』を見た。
 書評の筆者は、文化人類学者の今福龍太氏である。
 [書評]・(抜粋):著者は、地球上で失われつつある言語が
集中する「言語のホットスポット」に赴き、
 「最後の話者たち」の言葉と語りを記録する作業を続けてき
た行動派の言語学者である。
 一つの言語の死とは、僻地(へきち)に住む話者の言語の消
滅という局地的な『余所事(よそごと)』ではない。
 たとえば、生物種の消滅と言語の消滅の間にある相関関係は
とても示唆的だ。
 未知の生物種が記録されぬままに消えているように、
 言語もまた知られぬままに消えようとしている。
 そして、そうした科学的に特定されていない生物種とその生
息地についての甚大な知識を有しているのが、まさに、
 危機に瀕(ひん)した言語の話者たちなのである。
 ならば彼らの言葉の消滅とは、
 自然界について人類が持っていた豊かな智慧(ちえ)が失わ
れていくことを意味する。
 ボリビアのカラワヤ族の持つ薬草に関する驚くべき知識。
 アラスカのユピク族が99種類の海水の形状を言い分ける繊細
な表現。
 シベリアのトファ族がトナカイの群れを識別するときの魔法
のような呼び名。
 他言語には翻訳できない言語的な叡智(えいち)、繊細なコ
トバの陰翳(いんえい)あるリズムが本書から聴こえてくる。
 そのとき、それらの言葉も私たちのかけがえのない一部なの
だ、と私たちは確信する。
 言語は私有するものではなく、分かち合うものなのだ。
 こうした理解は、「最後の話者であること」を引き受け、
 それを他者と分かち合う人々がいるという現実を知ることで
深められる。
 言語学者と協力して言葉の現状を記録してゆくためには、
 他者と共有できる言語の習得もまた、
 智慧の媒介として決定的に重要だった。
 「最後の話者」であるためには、現代の多言語的な現実にむ
かって参入してゆく勇気も必要だったのだ。
 トファ語の最後の話者である老女は言った。
 「もうすぐ私もベリー摘みに行くよ、そのときはこの言葉も
一緒に連れていくさ」。
 たとえトファ語の話者が消えても、
 「死」という観念を「ベリー摘み」という具体の言葉で言い
 表す人々の持つ智慧を、私達はもう忘れることはできなくな
る。(感想):美しい言葉で綴った、つづられた書評だ。内容
の豊さも嬉しい。
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2013年7月17日水曜日

キリスト教は、新たな罪つくりの宗教。

 題:キリスト教は、新たな罪つくりの宗教。
...(真を求めて 皆様と共に幸せになりたい)
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 キリスト教を作ったパウロは、規則(律法)は「いらない」、
無用だと言う。
 しかし、一方でキリスト教は、律法の顔を立てる事も言う。
 完全に律法と縁を切っていない。
 あらゆる所で『矛盾噴出』のキリスト教なので何も驚くこと
ではないのだが・・、
 キリスト教は、律法について、くどくどと、もったいぶって、
難しそうに言う。その1例、「安息日は、人のために定められた
」・・・と。
 何も改めて言われなくても。そうです、何しろ人間が基本な
のです。
 そして、更に、キリスト教は言う「人が、安息日のためにあ
るのではない」。当り前、安息日は、人でも何でも無い。
 そして更に、「人の子は安息日の主である」と。当り前。
人が主だ。同じ言葉を繰り返す、何の示唆も与えない浅い話だ。
 この当り前の話を、キリスト教は、ごちゃごちゃと、「尾ひ
れ、はひれ」を付けて話す。
 規則(律法)を守る人=「義人」、そうでない人=「罪人」
と、キリスト教は発想して、その発想の視点で他人を批判・
非難している。
 そして、その様な事を廃棄する権威を、イエスが持っている
としている。
 自分で勝手に自分の好みの規則を作って、好き放題をしてい
る。
 そうではないでしょー。
 これはキリスト教が、いつもやっている「我田引水」の自分
勝手なの解釈方法・解決方法でしょう。
 規則を守るのは当り前の事です。義人でも何でもありません。
普通の人が守るルールなのです。特別視は無用です。
 また逆に、守らない人を義人に対して、守らない人を「罪人
」と言っていますが、違反の行為が発生した時に、罪が発生し、
裁判で罪が確定するのだ。「無罪」もあり得る。ここが大切。
 キリスト教は「二項対立」の狭い思考範囲に押しとどまって
いる宗教。
 アメリカの大統領も言った「イエスか?、ノーか?」と、
 思考範囲を自分の勝手な範囲に押しとどめて、相手に迫った。
第三の選択肢は無かった。
 そして、その狭い思考範囲の判断でさえ、イエス個人にそれ
らの総べての権力を与えてしまって、おおやけの判断や行為を
侵害するキリスト教的思考。これでは世の中が乱れます。
 キリスト教の考えを進めて行くと、世の中は乱れて来るので
す。過去がこの事例でいっぱいです。
 現代の1事例の、この様なキリスト教の洗脳から、ある大統
領が「イエスの夢を見た」と、だから決断したと、「戦争を始
めた事例」が、現代にもある。まったく、他の人の、皆(みん
な)の意見を聞こうとしなかった。聞く耳持たずの状況だった。
 夢でイエスが戦争を赦した・・と、
 イエスが戦争を許したと話を『転化』した。
 ある意味、自分の頭で考え、その重大な責任を伴って決断す
るという姿勢は・・『皆無』だった。
 自分は無責任の領域に居た。・・逃げた。
 ここにも、キリスト教に洗脳されて、この様な思考になって
しまった大統領がいた。
 イエスは自分に権威がある・・と、自分にだけ決定権がある
ように言うのは間違い。
 この大統領も、このイエスの指示を受け、イエスと対話した
だけで、「戦争の決断」をした。
 この様な、『浅はかな行為を生み出す』危険なキリスト教の
洗脳書=聖書。この様な事までしでかしている。
 これは、キリスト教の「キリスト教の他に救い無し」の洗脳
から来ている。
 キリスト教から、排他的な面が生み出され、この様な悲惨な
戦争に至った。
 これは『陰に陽に』主張される『キリスト教唯一絶対主義』
の『傲慢なキリスト教教義』が罪なのだ。
 キリスト教の罪は、何ら解決的示唆も与えてないのに、本当
は、『もやもやのまま』なのに、「一挙に問題が解決したよう
な錯覚を与えて」、そして、「戦争に決断させる」という思考
パターン。
 キリスト教は、マジックのように「罪を許し」たり、「行為
をさせたり」の「無責任・罪赦し・罪作り」の『新たな罪を製
造する宗教』。  
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2013年7月16日火曜日

イエスの弟子への「権威落とし行為」。

 題:イエスの弟子への「権威落とし行為」。
...(真を求めて 皆様と共に幸せになりたい)
.
 イエスと弟子たちは、一緒の行動をしているが、その行動は、
イエスがイニシアティブをとり、弟子たちが従うという、ブッ
ダの様な行動パターンをイメージすると大間違いとなる。
 その様な状況とかけ離れた状態となっている。
 故に、旅に行った時に、気が合っていれば、楽しく、また、
嬉しいものですが、イエスたちの行動は、まったく、この逆。
 駆け引きと修羅の世界です。
 まず、弟子たちが、『イエスと対等の意識』にある事。
 キリスト教聖書には、「(弟子の)ペトロが、イエスを叱っ
た」という記述がある。その時、イエスは怒って、ペトロを「
サタン(悪魔)」と怒鳴りつけたという。
 この様な記述は、ここだけではない。
 例えば、「イエスは、静かな所には神が居る」と思うのか、
イエスは静かな方へ行く。
 すると、弟子たちのリーダー格の「シモン(ペトロ)」が、
イエスを呼びに行って、「みんなが探してますよ」とイエスに
言い、弟子たちが、イエスの後に、常について、尊敬するイエ
スの一挙手一投足の行為を見守り・学ぼうという姿は『まった
く見られない』。常に従うという状況では、まったくない。
 あたかも「イエスさん、こっちこっち、みんなが探してます
よ」という感じである。
 また、だから、イエスは、弟子たちに自分の気持ちを説明し
なければならない状況に追い込まれる。
 イエスは言う「私は宣教の目的のために出て来たんだから」
と、わざわざ、誰でも知っている、当り前の大目的を言わざる
を得ない状況になっている。宣教目的の人たちにとって『低レ
ベルの状況』となっている。
 そして、イエスは言う「だから、近くの他の町や村に行こう
」と。イエスには完全にイニシアティブは無い。
 「行くよ」ではない。
 この時、弟子のシモンは、本当は、「一つの場所」に留まり
たかった。
 聖書に、このシモンの批判の気持ちが、間接的に書かれてい
る。「シモンのイエスに対する批判が込められている」と聖書
研究者の言葉もある。
 また、キリスト教聖書には、「イエスは宣教した」「宣教し
た」と書かれているが、肝心のイエスの宣教の言葉は、まった
くと言っていいほど書かれてない。
 少なくとも、「書くに価しない」とか、「特別書く必要はな
い」という状態なのだろう。
 『肝心な宣教』などしていないのではないか?得意な疑似「
心療内科モドキ」の行為だけなのではないか。宣教思想・哲学
の宗教的宣教の面は見られない状態。悪霊追い出しだけではな
いのか?
 ここは、「後の一番弟子のシモン・ペトロの権威を、イエス
が否定している」ところだと書く聖書研究者もいる。  
.
(追記)・・そして、次の話・・・
 イエスは、「心を病んだ方たち」を病人と見る事が出来なか
った。
 やはり、古代に生きる人だった。
 古代人は、自分の認識を越える事ごとを,「『悪霊』のなせる
災(わざわい)い」と見た。
 知識が認識レベルを越えると、すぐ、「その様に見るのは、
現代と違うので、やむを得ない所でもある」が。
 イエスも、この例外では無かった。
 イエスは、この「心を病んだ方たち」の治療行為をした。
 現代の精神的な医師の治療行為の様な事をしたのだろう。
 科学的にも、ある程度のステータスのある人が、行為を行な
っただけでも、「ある程度の精神的治療効果はある」と認めら
れている。イエスの行為は、それに相当する行為だったのだろ
う。その点、イエスは、宗教的な特別な行為をしていた訳では
ない。
 会えて、キリスト教が、宗教的なことだとするなら、未開地
の「アニミズム」と同じ類いである。
 未開地のシャーマンが、気を病んだ方に種々の事を行ない、
癒(いや)し、治(なお)す行為と同じだ。
 キリスト教は、その様な宗教とも言える。
 キリスト教は、この類いの宗教であるが、この「悪霊」に、
人格を持たせ、いじくり回す。シャーマン世界の宗教とまった
く同じ。
 キリスト教は言う、「イエスは、悪霊にものを言う事を赦(
ゆる)さなかった」とか。
 「悪霊は、イエスを知っていたから、静かにしていた」とか
・・と。
 そして、キリスト教は、悪霊を信徒の『脅し』に使い、悪霊
にイエスを「神の聖者」と呼ばせ、悪霊を畏(おそ)れる信徒
に、イエスへの帰依を強いたり、思わせたりする。
 キリスト教は悪霊の人格を設定し、信徒にその対応を迫(せ
ま)る宗教。信徒は、その面でも「心を刷(す)り減らす」。
 ○○すると、悪霊が××するから・云々(うんぬん)の宗教。
 この様な宗教で人類が救済される訳がない。また、皆様が幸
せになれる訳がない。
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イエスの疑似「心療内科モドキ」

 題: イエスの疑似「心療内科モドキ」
...(真を求めて 皆様と共に幸せになりたい)
.
 イエスは、ユダヤ教徒だった。そして、意識は、ユダヤ教徒
の意識だった。ただ、イエスは、その律法を無批判に受け入れ
ていたのではなく、「正さねばならない」と考えていた。
 故に、イエスには、次の言葉がある、「(ユダヤ教の律法を)
捨てなくて良い。だが、正さねばならない。私は、そのために
来た」・・と。
 そして、(「マルコによる福音書』2・1~12)に、「(イエ
スが)『子よ、あなたの罪は赦(ゆる)される』と言った、そ
こに(ユダヤ教の)律法学者が数人座っていて、・・心の中で
考えた。
 『この人は、何故こういうことを口にするのか。神を冒瀆し
ている。神・お一人の他に、一体誰が、罪を赦す事が出来るの
だろうか』」・・と。
 ここで分かる事は、ユダヤ教の律法学者は、「イエスもユダ
ヤ教徒だ」と見ているという事、そして、当然であるが、その
前提で、イエスの行為に、「あれやこれや」と言っている。
 そして、ユダヤ教律法学者は、ユダヤ教を一神教と見ている。
 現代のイスラエルのエルサレム大学の教授は「一神教になっ
た歴史は浅い」と言っているが、イエス在世の頃は、「一神教
観念が定着していたことが分かる」。
 因(ちな)みに、イエスの神観念に関し、色々な言葉が残さ
れているが、「天の父(神)の一神教的観念」と、「神々の存
在を信じる多神教的観念」がある。
 また、この文で、一神教概念の律法学者は、神一人が占有す
る『罪を赦(ゆる)す行為を、イエスは侵害している』と見た。
 イエスは、元々「ユダヤ教の律法」を捨てはしないが、律法
規定とおり拘束はされたくないという立場なので、その点はお
構い無しの考えで、ここは立場の違い、考え方の違いである。
 そして、イエスは、律法学者が、いつも言っているの事なの
で、彼らが「何を考えているかが分かっている」。
 ここを聖書は、もったいぶって「イエスが霊の力があるから
分かったのだ」と、イエスを美化する。
 そして、イエスは、律法学者たちに言う。
 「(神で無く)人の子が、罪を許せる事を知らせよう」と。
 そして、「中風の人に『起き上って、家に帰りなさい』と言
う。そしたら、その人は、起き上って、家に帰った。
 それを見ていた皆は驚いた。そして、神を賞賛した・・と言
う記述である。
 これは、現代科学でも認められている。ある程度のステータ
スのある人が、この様な『暗示』を掛けて起きる事とされてい
る。
 何も、聖書が言う様な「イエスの神通力ではない」。
 故に、ある程度の誰でもが出来る事なのである。古代の人々
は驚いたのだろうが、その様な事。
 だから、人々は『神を賞賛した』と言うのは『オーバー』な
書き方・聖書的な記述となっている。神と言っても「ユダヤ教
の神」なのだろうが。
 イエスは「ユダヤ教の会堂」で講演を良くし、また、ユダヤ
教側も、イエスの講演を『ユダヤ教の宣教』と見ていたから、
会堂使用も許した。
 中風になったのは、宗教と、まったく関係が無い事で、こぞ
って、宗教と関連して宣伝し、考えている。
 確かに、現代では普通にに行なわれている療法を、古代にお
いて、イエスは、一種の疑似「心療内科モドキ」で行為し、い
くばくかの効果を見たら、人々は驚くだろう。
 しかし、現代では一般的な事、何ら驚くには当たらない事な
のである。
 今・現代においても、キリスト教聖書は、この古代の物語を
化石のように記述し、「奇跡をしているイエス」のように感じ
させている。そして、神の讃美に帰結させている。神のなせる
「ワザ」の様に見せている
 キリスト教は、律法学者を口汚く罵(ののし)るが、ただ宗
教観が違うだけで、その様に嫌ってはいけない、愛すべき人た
ちなのである。
 あまりにも、キリスト教は偏狭(へんきょう)に、自分たち
だけを讃美し、相手を異常に敵対して、虐(しいた)げる。
 キリスト教の宗教的な狭さの一つとなっており、また、敵対
側の殺戮へと、最終的につながって行く。
 そして、根本原因は、イエスの「病気は罪のせい」という遅
れた観念である。
 この様な遅れた観念の書・聖書を、いくら読んでも幸せにな
れない。そして、彼は神でも何でもない、ただ、普通の一般的
な古代人だった。この様な古代の認識を、いくら読んで進歩は
できない。
 (参考)ちゅう‐ふう【中風】 《「ちゅうぶう」とも。悪風
に中(あた)る意》脳卒中の発作の後遺症として主に半身不随と
なる状態。中気。ちゅうぶ。
 (参考)心療内科:心身医学(しんしんいがく、英語:psyc
hosomatic medicine)は、患者の身体面だけではなく心理・社
会面を含めて、人間を統合的に診ていこうとする全人的医療を
目指す医学の一分野である。心身医学を実践している診療科が
心療内科(しんりょうないか)である。
 (参考) へんきょう【偏狭】 [共通する意味] ★心が狭いさ
ま。[英] narrow-mindedness
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