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2016年4月28日木曜日

(増補版)341E1/3:気になった事柄を集めた年表(1877年1月~1877年1月)

題:(増補版)341E1/3:気になった事柄を集めた年表(1877年1月~1877年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1877年、食:
・北海道開拓使が、缶詰製造の伝習を始める(1877.10.10)
  開拓使石狩缶詰所・・、
  開拓使は、北海道の産業を振興させるために、色々な
 事業を行なった。
  「札幌麦酒醸造所」(後のサッポロビール)、「真駒
 内牧牛場」など、北海道各地で官営事業を興した。
  この「開拓使石狩缶詰所」も、その一つ。
  缶詰工場は、この他にもエトロフ島や厚岸など5か所に
 設置した。
  そして、アメリカ製の製缶機や製造機械を導入して、
 本格的に事業を開始したのが、1877年10月10日だった。
  事業を進めたのは、アメリカ人指導者2人、伝習生11人、
 など総勢19人だった。
  そして、アメリカやフランスの万国博覧会に出品をし、
 好評を博した。
  作った缶詰は、鮭缶、スモーク・サーモン缶、カキ缶、
 シカ缶、牛缶だった。
・ブドウ酒の苗木を導入した。そして後に、山梨県のブド
 ウ酒醸造場が設けられた。
  1873年(明治6年)に、大久保利通は、日本におけるワ
 イン造りを奨励した。
  その理由は、大久保は、明治維新後まもなく、フラン
 ス視察で、夕食時にあたり前のようにワインを楽しむ「
 先進国の豊かな文化」を体験したからだった(1871年の
 岩倉使節団で体験)。
  大久保は、帰国後すぐ、国策の近代化を図る「殖産興
 業政策」の一環としてワイン造りを奨励した。
  1877年(明治10年)になって、大久保の命を受けた前
 田正名(農商務省の官僚)が、
  留学先のフランスの、国際的な農学者で苗木商のシャ
 ルル・バルデから、ブドウの苗木を大量に購入して、帰
 国した。
  そして、それを、東京・三田に「三田育種場」を開設
 し、苗木を増やし、
  そして、全国に配布した。
  「メルシャン株式会社」のルーツとなる日本初の民間
 ワイン会社「大日本山梨葡萄酒会社」が、山梨県勝沼の
 地に誕生した。
  山梨県令・藤村紫朗により地元有志が募られ、「大日
 本山梨葡萄酒会社」が設立された。
  これが、日本初の民間ワイン会社だった。
・ウイスキー会社の集まりの英国蒸留酒協会が発足、
  そして、1888年には、大坂の小西儀助が、ウイスキー
 の製造を始める。
  1877年に、ウイスキー会社が集まって英国蒸留酒協会
 (DCL)が発足した。
  政府と協力しつつ、次々と製造業者を吸収した。
  スコッチの五大ウイスキーメーカー(ホワイト・ラベ
 ル、ジョニー・ウォーカー、ブラック・アンド・ホワイ
 ト、ホワイト・ホース、ジョン・ヘイグ)が、これに参
 加し、当時ウイスキー取引の60%を抑えるまでに大きく
 なった。
  日本では、明治になってアルコールが輸入され、模造
 の清酒(後の合成清酒)や、ウイスキーなどがつくられ
 たが、
  本格的なウイスキーは、1924年(大正13)、寿屋(こと
 ぶきや)山崎工場(現:サントリー山崎蒸留所)において
 初めて製造された。
  また、小西儀助商店を調べると・・、
  1870年、古西屋の屋号で薬種業を始めた。
  1880年頃、洋酒の輸入販売を開始した。
  1888年、大阪洋酒醸造会社を創立し、ウイスキー・ブ
 ランデーなど製造販売をする。
  1925年、株式会社小西儀助商店に改組・・とある。
・札幌のホップ園が設置された。
  1877年に、開拓使が、札幌にホップ園を設置した。
  そして、翌・1878年に、東京芝に桜田ビールが創立さ
 れた。
  1878年に、東京の洋酒販売商・金沢三右衛門が、発酵
 社を設立し(芝・桜田本郷町)、
  そして、発酵社は、明治10年代後半に、日本最大の製
 造高を誇った。
  「桜田ビール」を醸造し、日本のビール産業草創期を
 牽引したビールを発売した。
・横浜で、氷水が流行り出される。
  「横浜新誌」(1877年)に・・、
  「氷水を估る(うる)者は彩燈を照らし、麦湯(むぎ
 ゆ)を售る(うる)者は燈影暗らく」と記されている。
  また、1890年、渋沢栄一や浅野総一郎など、財界のそ
 うそうたるメンバーが、株主として名を連ねて青山製氷
 所が設立された。
・初めて人造氷が作られた。
  雪国の加賀藩は、将軍への「献上氷」を始めた。
  そしてまた、加賀藩は、氷と同時に、日本海で獲れる
 真鯛も運んで献上した。
  この様な文献が残されている。
  また、この様な雪国の加賀藩は、氷で物を保存する事
 を知っていた。
  加賀から江戸まで、献上氷だけでなく、氷で保存した
 真鯛も運んだのだった。
  そして、駒込にある加賀藩の前田藩邸から江戸城まで、
 この氷の荷を運ぶ際には、はね落ちる冷水のしぶきを一
 滴でも受けようと、沿道には、人が群がったという。
  この様に、明治時代の初期までは、冬の間に氷室(ひ
 むろ)で保存していた天然氷が利用されていた。
  しかし、1877年(明治10年)に、初めて人造氷が作ら
 れ、次第に人造氷の生産が増えて行った。
  (注):氷室(ひむろ):天然氷を夏までたくわえて
    おくために設けたむろ。
     地中や山かげに穴をあけ、上を茅 (かや) など
    でおおう。
     昔は宮中用の氷室が山城・大和・丹波・河内 (
    かわち) ・近江 (おうみ) にあった。
  (参考):氷室の節句(ひむろのせっく):江戸時代
    の行事の一。
     暑い盛りの陰暦6月1日に、前年の冬の雪水で作
    った折餅(へぎもち)または氷餅(こおりもち)など
    を祝って食べた。
・この頃、卵を売る目的の養鶏が始まった。
  1861年に、福岡県に生まれた伊藤伝右衛門(代議士)
 は、13歳の時に、家計を助けるために卵売りをしたとい
 う、これは1874年のこと。
  また、岡山県出身のジャーナリストの岸田吟香(岸田
 劉生・洋画家の父)が、1877年頃に、「卵かけごはん」
 を食べたと言っている。
  養鶏の卵ではないだろうが、そもそも、人類が、最初
 に卵を食べたのは、
  人類が、サバンナの地上生活を始めた頃の、約500万年
 前と考えられている。
  地上に卵を産むダチョウの卵を食べたのだろうと・・、
  また、約4万年前の人類が、ダチョウの卵の殻で装飾品
 を作っている。
  この卵の装飾品が、アフリカ東海岸の中央ケニアの岩
 窟で発見されている。
  家禽(かきん)として飼育された、世界での最初は、
 4000年前と言われる。
  エジプトの古文書に、紀元前1500年頃には、すでに鶏
 が、ほぼ毎日のように産卵したという記録がある。
  また、2500年前のローマでも、鶏が、採卵用に品種改
 良されたことが記されている。
  その後、鳴き声や尾の長さを鑑賞するために鶏が飼育
 されている。
  そして、日本には、古事記に、天照大神を呼び戻すた
 めに鶏を鳴かせたという話がある。
  「常世の長鳴鳥」の話。
  紀元前100年頃に、日本へ朝鮮半島からニワトリが伝わ
 ったという。
  奈良時代には、鶏は「時告鳥」として飼い、食べなか
 ったが、
  雉(きじ)は食べたようだ。
  この頃の人は、病気の時に卵が良いという事を知って
 いた。
  但し、日本人が鶏肉として食べる様になったのは江戸
 時代の頃からという。
  また、江戸時代には、卵売りの行商がいたという。
  1785年に出版された有名な料理本の「万宝料理秘密箱
 (まんぽうりょうりひみつばこ)」の「卵之部」に、103
 種類の卵料理が紹介されている。
  1850年には、イギリスで商業用の「採卵養鶏」が始ま
 っている。
  130年前(1875年)頃に、アメリカの小規模養鶏産業が
 盛んになり、近代養鶏に用いられる鶏の品種の多くが、
 主に、卵生産を目的として品種改良され、発展した。
  この頃の鶏肉は、卵生産の副産物だった。
  1955年代(昭和30年代)に、アメリカから新品種の養
 鶏の新技術が、我が国に導入され、
  以後、盛んになったという。
  我が国は、世界屈指の生産国であり、消費国となって
 いる。
・多くの野菜が、タマネギ、ハナハボタンなど移入される。
  1876年に、札幌農学校が開校したが、
  そして、ここに着任したクラーク博士が、欧米農業の
 導入の窓口として、農業試験場のような役割をしていた。
  1877年、ここに、農業分野担当として、ウイリアム・
 ベン・ブルックスが着任した。
  クラークの後を引き継いだブルックスは、日本に腰を
 据え、日本の農業発展に大いに寄与した(10年間の在職)。
  その間、多くの野菜や牧草の種子を海外から取り寄せ、
 大いに日本の農業発展に尽くした。
  彼は、栽培法を学生だけでなく、周囲の農家にも熱心
 に指導した。
  栽培作物もどんどん増えた。
  玉ねぎ、ジャガイモ、とうきび、キャベツ、トマト、
 ニンジン、エンダイブ、コールラビなど・・と。
・長崎ハクサイを栽培した。
  長崎市の橋本氏が栽培したという記録がある(農事試
 験場試験時報、昭和12年8月)
・大浦の生鮮食料品を扱う片岡商店が、日本人で初めての
 製パン所を併設した。
1877年、住:
・コンドルが来日した。
  日本政府の招聘により、英国の建築家のジョサイア・
 コンドルが来日した。
  工部大学校造形学科(現=東京大学工学部建築家)の
 初代教授に就任し、
  日本で初めて、本格的な西欧式建築教育を行った。岩
 崎邸竣工(1896年)
・日本初のコンクリート造の小曽根邸が建築された。
  大工の大渡伊勢吉は、港外伊王島灯台の建設に来た英
 人・ブラントからコンクリートの技法を習った。
  応用して、日本初のコンクリート造の小曽根邸が建築
 された。
  この建物は、戦時中に建物の強制疎開となり取り壊さ
 れた。
  また、この大工棟梁・大渡伊勢吉は、初の洋式無筋コ
 ンクリート造の伊王島灯台旧吏員退息所を建てた。
・工作局に器具染物製造所を設けて、欧米風の家具、及び、
 ラック塗、ワニス塗の業を始めた。
1877年、その他:
・宮内省で、初めて電話の実演を行った。
  来日したグラハム・ベルが、宮内省で自身が発明した
 電話を実演した。
  グラハム・ベルは、工部省の招きで日本へやってきた。
  この日、並みいるお歴々を前に、ベルは、厳(おごそ)
 かに受話器を取り上げると、別室のメンバーと英語で通
 話してみせた。
  実験成功の直後、東京音楽学校の校長になる伊沢修二
 と留学生仲間で、後に、司法大臣になる金子堅太郎が、
 その電話で会話した。
  これは、日本語だったから、英語に続いて世界2番目に
 通話に使われた言語となった。
  工部省は、「これは便利」と早速同じものを『複製』
 して、各官庁間に設置した。
  ところが、電話を使う習慣がまったくなかったから子
 供の糸電話と同じとからかわれ、電話をかけるよりも出
 かけた方がよほど早いと敬遠された。
  それが、12年後の1889年(明治22年)には、東京~熱
 海間に公衆電話が開設され、翌年・1890年には、東京~
 横浜で電話交換業務が始まった。
  ようやく電話の便利さが認知されて、庶民向けのサー
 ビスが始まった。
.
[今日の言葉]
  アメリカの「民営化の圧力」で、民営化したため、日
 本で起きたことは・・?
  官公庁の手を離れたことで・・何が起きているのか・
 ・・?
  アメリカは内政干渉レベルの事を日本に要求して来た。 
  アメリカは、内政干渉の悪行為を、日本にして来た。
  まったく、自分だけの理屈を、アメリカは日本に強い
 て来た。
  その結果は・・?
  アメリカの「民営化せよ」との圧力で、民営化したた
 め、官公庁の行為が後退し、そのため、日本の品質・・
 その品質が低下をきたしている。
  その一つが・・「建築の検査」。
  日本が大きく揺れた問題・・、杭のデーター捏造で、
 大きな問題が起きたが、これも、そのほんの一つの1事例。
  民間へと移った検査が、厳しい官公庁へ検査を依頼す
 る事が、避けられ、ほとんどが民間の検査となっている。
  この事は、実際に起きていることを、体験し、多くを
 見聞きしているので、間違いない事なのである。
  民間委託した検査は『甘い』。
  競争状態においたとアメリカは言うが、検査を甘くし
 て、客を取ろうとする(一見、競争状態の)民間検査機
 関。
  こんな事が、こんな状態が、アメリカの言う「競争の
 実態」なのである。
  損をするのは、被害を受けるのは、「日本国民である」。
  当然である・・
  検査の申請を、甘い検査をする民間機関に持って行く
 のは当然である。
  委託された民間検査機関に、検査依頼する事が当然で、
 多くなっている。
  そこに、甘い検査がある。
  癒着もある。
  良く言えば、その民間の検査機関は、「融通をする」。
  そして、また、良く言えば、「善処する」・・である。
  事なきを得る・・ことを、起こしてくれる民間検査機
 関となっている。
  次も、その人は・・次も、その客は・・その民間検査
 機関へ検査依頼書を持って行くだろう。
  こんなことが・・日本で起きている。
  官公庁での検査の時には起きていなかったことが・・
 起きている。
  アメリカの圧力に屈した検査制度を、元に戻すべきで
 ある。
  アメリカの圧力に屈したすべてを・・元に戻すべきで
 ある。
  アメリカは、日本を自分の理屈で・・内政干渉までの
 口出しはしないこと。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
 

2016年4月27日水曜日

(増補版)340E1/3:気になった事柄を集めた年表(1877年1月~1877年1月)

題:(増補版)340E1/3:気になった事柄を集めた年表(1877年1月~1877年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1877年(明治9年~明治10年)出来事:
・西南の役において、佐野常民(さのつねたみ、政治家、
 赤十字事業の創始者)が、博愛社を起こした。
  1887年(明治20年)5月に、博愛社は、日本赤十字社と
 改称した。
  万国赤十字社にも加入した。
  1887年9月29日に、ドイツで開催された万国赤十字社大
 会に、森鴎外が日本の代表として出席した。
  因みに、佐野常民は、日本人による最初の蒸気車・蒸
 気船の模型を作り走らせた。
  また、枢密顧問官・第一次松方内閣の農商務省を歴任
 し、また、龍池会(後の日本美術協会)を結成して、美
 術工芸の発展にも寄与している。
・上野彦馬(うえのひこま、写真家)が、長崎県の北島秀
 朝県令を通じ、新政府軍から戦場写真の撮影を依頼され
 た。
  門人2人を連れて、西南戦争に従軍した。
  21日間にわたり、暗箱を人夫8人に担がせ、転々として
 戦場を駆け巡り、4つ切り記録写真を69枚を残した。
  因みに、上野は、日本で初めて銀板写真法(ダゲレオ
 タイプ)を輸入し、島津斉興を撮影したと言われている。
・西南戦争が勃発し、記者の犬養毅が「郵便報知新聞」に
 従軍ルポ「戦地直報」を掲載し、また、
  福地源一郎(東京日日新聞)、犬養毅(郵便報知新聞)の
 従軍記事は人気を博した。
  1881年(明治14年)に、矢野龍渓は、大隈重信と共に
 報知社を買い、犬養毅・尾崎行雄らが入社し、立憲改進
 党の機関紙となった。
  記者だった原敬は、反発して退社した。
・東京警視本署が内務省へ移管した。
  東京警視本署が、内務省警視局に主幹事務が移され、
 内務省の一部局となった。
  設置(1874年)、再設置(1881年)
・急速に発展する日本、
  中国の文人で、外交官の黄遵憲(こうじゅんけん)が、
 駐日公使の随行員として東京に赴任して、巡査が鉛筆で
 手帳に何か書きためている事や、
  タバコ屋の店番をしている女の子が、新聞を読んでい
 るのを見て、こんな事は中国ではありえない、ハイカラ
 な事だと驚嘆した。
  明治も10年も経つと、西洋化が町の中に入って来てい
 る。
  ペリーの来航から維新までの変化が、非常に速やかで
 あったが、維新から西南戦争を経た15年位までの変化も
 急速だった。
  因みに、黄遵憲は、詩人でもあり、日本研究家でもあ
 った。
  また、黄遵憲は、アメリカ合衆国の中国人排斥が酷い
 ため、この解決に、サンフランシスコ総領事として奔走
 してもいる(1882年)。
  著作に、「日本国志」「日本雑事詩」「人境廬詩草(じ
 んきょうろしそう)」などがある。
1877年、データ:
・日本の総人口、35,870,000人
1877年、経済:
・紙幣乱発で、物価が高騰した。
  不換紙幣の乱発でインフレを招いた。
  米1石が5円を超えた、そして、1881年には、15円のそ
 の3倍を超えた。
  原因に、西南戦争の戦費の為だった。
  イギリスは、日本の外債募集案に喜んで貸すと言い、
 エジプトは外債の利子が払えずに、イギリスに、スエズ
 運河を取られていた。
  また、チュニジアは、金が返せず、国を獲られた(フ
 ランスに、これを理由に併合された)
  この様な危険な因子を含んだ外債だった。
  日本は、1882年に、お金の発券権を持っていた国立銀
 行から、日本銀行を設立して、発券銀行とした。
  そして、1885年に、銀兌換の日銀券を発行し、
  1886年から兌換開始し、銀本位制とした。
  インフレは収束して、政府財政も好転して行った。
・租税総額に占める地方税の割合…27.4%
1877年、物価:
・米価:1石=5円61銭
・国産ビール…16銭/本
・西洋料理…スープ8銭5厘、牛肉鳥類8銭5厘、
・ライスカレー12銭5厘、
・コーヒー2銭、
・パン2銭、
1877年、本:
・1877年3月10日、「頴才新誌(えいさいしんし)」 創刊。
  《団々(まるまる)珍聞》《芳譚雑誌》のように、投
 書を重視する雑誌が多かった明治初期に、
  小学校生徒の作文を中心にした青少年の本格的な投書
 専門誌として出発した。
  投書内容は、修身や立身出世を扱った教科書風の紋切
 型が多かったが、しだいに文学色を濃くして行った。
  尾崎紅葉、大町桂月、田山花袋らの明治の文学者の多
 くが、本誌の愛読者・投稿者であり、
  文学愛好の青少年に、投稿を習慣づけることによって、
 明治文学の基盤づくりに寄与した。
・1877年8月、文部省編 「日本教育史略」
  日本の教育史学の発祥を象徴する書で、後に、府県師
 範学校の教科書となった。
  日本における最初の教育史。
・田口卯吉著 「日本開化小史(にほんかいかしょうし)」
  古代~江戸幕府終末までを、貨財の生産組織を基礎と
 する社会発展の過程を体系的に述べたもので、
  イギリスやフランスの文明史観を吸収して、独自の見
 解を示した。
  日本近代歴史学の記念すべき著作となっている。
・「馬爾去斯氏人口論要略」(著:マルサス/抄訳:大島貞益)
・「民約論」(著:ルソー/訳:服部徳)
1877年、美術:
•『鮭』(高橋由一)
1877年、流行・世相:
・東京で牛肉屋が激増した。
  1877年の東京における牛鍋屋は、550件を超えるほどあ
 ったという。
  また、朝野新聞・1877年11月8日の記事に、東京府内の
 牛肉屋の数488とある。
・大阪では紺木綿(こんもめん)が払底 → 西南戦争の
 兵士の紺足袋5万足、紺脚絆1万足を調製したため。
・熊本縣 → 西南戦争余波の農民騒動 31件。
  「この年、熊本はじめ諸県で農民騒動47件」の史料も
 ある。
  この騒動の原因は・・、
  政府の西南戦争の戦費は4100万円にのぼり、
  当時の税収4800万円のほとんどを使い果たすほど莫大
 になった。
  政府は、戦費調達のため不換紙幣を乱発し(→国立銀
 行)、インフレーションが発生した。
  このため、のちの大蔵卿・松方正義は、増税、官営企
 業の払い下げ、通貨整理を行って、兌換紙幣発行に漕ぎ
 付け、通貨の信用回復により、日本が欧米列強に並ぶ近
 代国家になる下地が作られた。
  しかし、この過程で、松方デフレが発生し、
  農民の小作化が進んで(小作農率の全国平均38%→47%)、
 大地主が発生した。
  また、小作を続けられないほど困窮した農民は、破産
 して、都市に流入した。
  そして、官営企業の払い下げで発生した財閥が経営す
 る工場で、低賃金労働者となった。
  都市部の貧困層が拡大した。
  また、財政難となった国は、「原則国有」としていた
 鉄道の建設が困難になり、
  代わって私有資本による鉄道建設が進んだ。
  西南戦争は、士族の特権確保という所期の目的を達成
 出来なかったばかりか、
  政府の財政危機を惹起させて、インフレ、そして、デ
 フレをもたらし、
  当時の国民の多くを占める農民をも没落させ、
  プロレタリアートを増加させた(農民の労働者化)。
  その一方で、一部の大地主や財閥が資本を蓄積し、そ
 の中から初期資本家が現れる契機となった。
  結果、資本集中により、民間の大規模投資が可能にな
 って日本の近代化を進めることになったが、貧富の格差
 は拡大した。
・東京で揚弓(ようきゅう)が大繁盛 → 風紀壊乱のた
 め取締を強化した。
  矢を拾う女性との風紀が乱れたため。
・西郷星(さいごうぼし)…人々の人心の動揺から起きた。
  150年ごとに地球に大接近する火星と重なった。
  西南の役で、全国の人心が動揺していたとき、火星が
 地球に近づいてきて、大接近の9月3日には距離5630万km、
 光度-2.5等あまりとなった。
  世間では、これを西郷星と呼び、その赤い光の中に陸
 軍大将の正装の西郷隆盛が見えると言って騒いだ。
1877年、衣:
・京都白川にモスリン加工工場できる。
  (注):モスリン:木綿や羊毛などの梳毛糸を平織り
    にした薄地の織物の総称。日本語では、主に、毛
    織物をモスリンと呼ぶ。
  (注):梳毛(そもう):羊毛繊維をくしけずって短
    いものを取り除き、長い繊維を平行にそろえるこ
    と。
  1875年のこと・・、毛織物の輸入が多くなりつつある
 日本は、このままでは大事な部分を外国に頼らざるを得
 なくなることを危惧した内務卿の大久保利通は、
  「毛織物は国産で興す」ことを決断した。
  そこで、大久保利通は、官が率先して模範を示そうと、
  1875年(明治8年)に、官営下総牧羊場設置と、
  そこで刈り取られた羊毛を使う官営千住製絨所の1879
 年(明治12年)設立開業を、太政官に具申し、実現した。
  大久保卿は、後に、同製絨所の初代所長となった井上
 省三をドイツに派遣し、
  機械設備を購入させて、
  同製絨所を紡毛機6台、整紡機6台、織機42台でスター
 トさせた。
  その後、後藤恕作(ひろさく)など、民間の手で毛織物
 工業に乗り出すものが現れ、
  1896年(明治29年)に、日本毛織が設立されるなど、日
 本の毛織物業界は黎明期を迎えた。
  最初期の日本の毛織物は・・、欽明天皇の御代(509年
 ~571年)に、下野国で、羚羊(カモシカ)の毛を織物とし
 て、これを計牟志呂、(けむしろ)と称したという古い記
 録がある。
  慶長年間(1596年~1615年)には、京都で兜羅(とろ)
 錦という棉と毛の交織物を織出しているが、これも一向
 にふるわなかった。
  明治初年には、西洋式の風俗が流行り出し、羅紗(ラシ
 ャ)服の需要に迫られて、
  1872年(明治5年)、明治新政府が、積極的に乗出して
 アメリカから綿羊数頭を輸入した。
  そして、東京雉子橋外の官邸で飼育を始めた。
  しかし、土地の関係もあり飼育場の、知識なり設備も
 甚だ不備であった為に、
  そのほとんどが失敗に終わった。
  しかし、一方、羅紗の需要は、益々増加し、年々輸入
 される量も大した額に上るので、
  政府は、1877年(明治10年)に、東京府下南千住に製絨
 所を設立し、
  また、京都の白川にはモスリンの加工場を設けて、
  毛織物の製造が、やっと、その端緒に入る事ができた。
  しかし、その原料たる綿羊の飼育が、ようやく奨励さ
 れ出したのは、昭和に入ってからだった。
  一方、稲畑勝太郎(いなばた・かつたろう、1862年~
 1949年)は、日本の染料業界をリードし、後に、関西経
 済界も指導した経済人だったが、
  また、フランスで発明された映画装置「シネマトグラ
 フ」を日本で初めて輸入し、映画興行を実現した人物で
 もあったが・・、
  繊維産業の発展にも寄与した人物だった。
  稲畑は、京都の和菓子屋に生まれ、京都師範学校(現
 :京都教育大学)在学中の1877年(明治10年)に、
  京都府政アドバイザーのレオン・ジュリー(フランス人)
  から推薦されて、京都府派遣勧業生(合計8人)の一人
 として、当時の繊維産業のメッカ、フランスのリヨンに
 留学した。
  フランスでフランス語を修得したうえで、工業学校に
 進み、
  卒業後は、マルナス染工場の工員(研修生)となって生
 産現場を体験し、
  さらに、リヨン科学工業技術学校(現:リヨン大学)
 で工芸化学を専攻し、
  1885年(明治18年)に帰国すると、明治政府から農商務
 技師への誘いがかかるが、これを断り、京都で洋式染色
 技術普及(京都府染工講習所の設立)に奔走した。
・鎮台所在地の一般人にもシャツの使用はじまる。
・山高帽子が、ナベボーシの名で地方でも着用される。
・西南の役によりメリヤス製造者が激増した。
・旧来のお白粉、人体に害ありと騒がれる。
・ジャカード織機の国産試作が行われた。
  (注):ジャカード織機は、1801年に、フランスの発
    明家ジョゼフ・マリー・ジャカールによって発明
    された自動織機。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
(今日の言葉)
  アメリカ系の外資系企業が、精神攻撃的な悪どいテレ
 ビ・コマーシャルをしている。
  「あなたの食卓テーブルには菌がいる」「あなたの夫
 は、悪臭がする」・・などという、目に見えない「菌」
 や「臭い」の宣伝話題で宣伝している。
  普通では気づかないことを「神経過敏」にして、自社
 商品を売り込もうという算段。
  テレビという影響力の強い媒体を使って、繰り返し、
 繰り返し、悪どい繰り返し手法を使って、
  また、あらゆる種類の精神攻撃的コマーシャル放送を
 している。
  「あなたの車も臭い」「あなたの亭主の靴下も臭い」
 「あなたの布団も臭い」「あなたのまな板も菌だらけ」
 「貴方の洗濯物も臭い」などなどと際限なくやっている。
  節操なく。
  品の良くない精神攻撃的コマーシャルを、あらゆる手
 を使って長い期間、続けている。
  あなたが神経過敏症になって、そのアメリカ外資系企
 業の商品を買わざるを得ない状況に追い込んでいる。
  「日本系企業では絶対にしない節操ない行為をしてい
 る」。
  儲かれば、日本人が神経過敏症になろうが、構わない
 というような宣伝となっている。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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2016年4月25日月曜日

(増補版)339E1/3:気になった事柄を集めた年表(1876年10月~1876年12月)

題:*(増補版)339E1/3:気になった事柄を集めた年表(1876年10月~1876年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1876年11月1日(明治9年)、官軍が、秋月の乱を平定す。
  1876年10月24日の「神風連の乱」が起き、そして、
 この3日後の27日、今度は九州・福岡で、旧秋月藩士・
 宮崎車之助ら400名が、神風連に続けと蜂起したが、
  しかし、鎮台が出動すると、敵(かな)わないとみて
 大分方面に逃走し、
  現地の士族たちに呼応を呼びかけたが応じる者もなく、
 結局、小倉鎮台に鎮圧された。
1876年11月3日、宮中御宴にて、初めて洋楽が演奏された。
  宮内省雅楽課が、初めて、洋楽を演奏する。
1876年11月4日、「甜菜(てんさい)より砂糖製造の法」
 を内務省にて翻訳し、これを地方産業開発のため領布し
 た。
1876年11月5日、前原一誠らが捕らえられた。
  陸軍少将・三浦梧桜(みうらごろう)が、萩に進撃し、
 前原一誠の餘党を破り、平定した。
  乱の首謀者・前原一誠と横山俊彦は、出雲瓜港にて捕
 えられた(11月6日説あり)。
  この萩の乱の首謀者の前原一誠(いっせい)は、10月
 30日に山口県令・関口隆吉(たかよし)を急襲し、萩で
 の市街戦を行なうが、
  前原らは、途中で戦線を離脱し、
  その後・11月5日、わずかな人数で出雲にいたところ
 を逮捕された。
  その出雲の島根県令の佐藤信寛は、前原の気持ちを理
 解した。
  佐藤も、新政府の一員でありながらも、中央政府の一
 部・政治家の不誠実な行為に批判的な気持ちがあった。
  その佐藤が、前原に言った「東京への護送において、
 天皇陛下に訴えるチャンスを与えたい」・・と。
  しかし、大量の逮捕者を、東京に護送し、裁判を行う
 事が難しいと判断した中央政府は、彼らを、萩に護送し、
 そこで裁判を行うことに決定した。
  萩での審議は、1週間に渡って行われ、
  1876年(明治9年)12月3日、前原以下・幹部7名+1
 名を斬刑に、48名を懲役刑に、14名を除族+放免に、残
 り388名を放免する・・と判決した。
  その日のうちに、刑は執行された。
  前原一誠、享年43歳・・
  除族:(じょぞく)華族・士族の者がその身分を除か
 れて平民とされること。
1876年11月6日、玉木文之進(たまきぶんのしん、長州藩
 士、教育者、山鹿流の兵学者、松下村塾の創立者、吉田
 松陰の叔父)が自害した。
  前原一誠による萩の乱に、養子の玉木正誼や門弟の多
 くが参加したため、
  玉木文之進は、その責任を取る形で、11月6日に、先
 祖の墓の前で自害した。享年67歳。
  その後は、正誼の子・正之が相続した。
1876年11月9日、谷干城(たにたてき)が、熊本鎮台司令
 長官となった(1872年説あり)。
1876年11月16日、日本初の幼稚園
  東京・神田の東京女子師範学校(お茶の水女子大学)
 構内に、官立幼稚園の附属幼稚園が設立された。
  中流以上の家庭の3歳~7歳の幼児をあずかり、教育
 を施こした。
  日本で最初の幼稚園で、主任・保母は、幼稚園教育の
 祖・フレーベルの教えを受けた。
  日本で、1872年(明治5年)に公布された学制に、小
 学校の一種として「幼稚小学」がある。
  「幼稚小学ハ甲女ノ子弟六歳迄ノモノ小学ニ入ル前ノ
 端緒ヲ教ルナリ」(第二十二章)・・と規定された。
  就学前の幼児教育施設として、日本で、実際に設けら
 れた最も早いものは、1875年(明治8年)12月に、京都
 上京第三十区第二十七番組小学校(後の柳池小学校、現
 在の京都市立柳池中学校)に付設された「幼穉遊嬉場(
 ようちゆうきじょう)」。
  これは、フレーベルのキンダー・ガルテンに倣って、
 官民一致で設けられたもので、しかし、1年半しか存続
 しなかった。
  キンダー・ガルテンの訳語として「幼稚園」を最初に
 名乗ったのが、1876年(明治9年)に開園した東京女子
 師範学校附属幼稚園だった。
  これが、日本で最古の幼稚園とされている。
1876年11月29日、東京・京橋の大火(約8500戸焼失)
  東京・日本橋数寄屋町から出火し、2万戸を焼失。 
1876年11月、「朝野新聞(ちょうやしんぶん)」が、社
 屋を銀座4丁目に移転した(現:和光の地)。
  イギリス人・ブラックが「日新真事誌」を創刊した地
 を買い取った。
  1877年(明治10年)の西南戦争の現地取材を逡巡し、
 時期を逸し、遅れて、社長兼主筆の柳北が、京都まで行
 って、記事を送り、読者を失望させた。
1876年11月、伊勢暴動(12月18日および19日説あり)
  この時に、三重県飯野郡(現在の三重県松坂市)に端
 を発した、地租改正反対一揆(竹槍一揆) 。
  愛知県・岐阜県・堺県(現在の大阪府南西部)にまで
 拡大した。
  受刑者数は50,773人に達した。
  この暴動を通して、地租が、3%から2.5%に引き下げ
 られたことから「竹槍でドンと突き出す二分五厘」とう
 たわれた。
  12月18日、翌日に控えた租税取り立ての延期を現在の
 三重県松阪市に相当する地域の農民が、戸長らに申し入
 れた。
  この農民と戸長らの話し合いはもつれ、松阪の農民は
 北と南に分かれ集団で行進を始め、
  各地で新政府に関係する施設の破壊・放火を行った。
  特に、北へ展開した一揆は、三重県を越え、愛知県や
 岐阜県にも広がった。
  こうした動きに対して、新政府は、鎮台や警視庁の巡
 査を派遣して農民を抑え込んだが、結局、地租を引き下
 げざるを得なくなった。
1876年12月1日、鉄道の複線の新橋~品川間が初開通した。
  新橋~品川間の鉄道が複線運転になった。
1876年12月1日、中外商業新報(ちゅうがいしょうぎょう
 しんぽう、日本名材新聞の前身)が創刊された。
  この時、三井物産の益田孝らが週刊で創刊したタブロ
 イド4ページの『中外物価新報』が起源(12月2日説あり)、
  1882年7月には、三井物産の手を離れ、
  1885年7月から、日刊となり、
  1889年1月27日に、「中外商業新報」に改称した。
  1911年8月、資本金 10万円で日本の新聞社最初の株
 式会社となり、
  1920年7月、一挙に 100万円に増資した。
  1924年12月、『大阪中外商業新報』を創刊して、関
 西にも進出した。
  1942年11月1日、政府の新聞統合令により「日刊工業」
 「経済時事」両紙と合併。
  「日本産業経済」と改題し、東日本唯一の経済新聞と
 なった。
  1946年3月1日、社名を日本経済新聞社に、題号を「
 日本経済新聞」に改めた。
1876年12月3日、前原一誠以下、萩の乱徒処分される。
1876年12月9日、各家毎に氏名の標札掲示を命ず。
  東京府 明治9年12月9日ほか
  東京府管内では、明治九年十二月九日に雛形を示し、
  明治十年一月三十一日を期限として標札等を標出致す
 べし旨の布達。
  〇東京府布達 明治九年十二月九日甲第百四十四號
  ※戸籍札更ニ一定候様別紙標札心得書相示シ候條
  來明治十年一月三十一日限リ標出可致此旨布達候事※
  標札心得
  第一條 宅地番號札ハ家主ニ於テ戸數點檢札ハ地主ニ
    於テ、戸主名札ハ居住人ニ於テ各自標出スヘシ
1876年12月15日、吉野朝の忠臣・新田義貞に正三位、楠
 木正行に従三位を追贈する。
1876年12月19日、函館の海防に備え湾岸砲台を設ける(
 砲12門に中隊長以下92人を置く)
1876年12月19日、伊勢暴動(三重騒動)
  三重県下で地租改正の反対する農民たちが、竹槍、ム
 シロ旗を押し立てて蜂起した。
  12月23日、東海地方にまで拡大し、日本の百姓一揆史
 上最大と言われる。
1876年12月27日、地租軽減の建議
  内務卿・大久保利通が、地租軽減を建議した。
  1873年7月28日に、地租改正法(上諭と地代の3%を地租
 とする旨を記載した1ヶ条で構成)と、
  (注):上諭(じょうゆ):公布の冒頭に記され天皇
    陛下の裁可を示す文章)。
  具体的な規定を定めた地租改正条例などから成る太政
 官布告第272号が制定され、
  明治政府は、翌年・1874年から地租改正に着手し、
  政府は、当初、検地が農民からの反発を受けることを
 懸念し、農民からの自己申告主義を採った。
  すなわち、農民自らが地押丈量を行い、面積・収量を
 算出し、
  (注):地押(じおし):田畑の等級や石盛 (こくも
    り) は従来のままとし、反別 (たんべつ) を測量し
    て修正すること。
  (注):丈量(じょうりょう):土地の面積を測量す
    ること。
  地方庁は、地方官心得書の検査例に基づいて点検し、
 これを経て地方庁が地券(改正地券)を発行する形を取
 った。
  しかし、この方法では、全国一律公平の租税を徴収す
 る目的は達しがたく、
  また、1874年の改租結果から、目標の租税額が確保で
 きそうにないことが明らかとなった。
  また、政府高官間の政争の産物である「大蔵省分割問
 題」も影を落としていた(内務省設置による測量機構と
 税額算定機構の分離)。
  このため政府は、1875年に、内務省及び大蔵省の両省
 間に地租改正事務局を設置し、
  これを中心として改租を強力に進めるよう方針転換し
 た(明治8年太政官達第38号)。
  この中で、府県庁は、地租改正事務局があらかじめ見
 当をつけた平均反収を絶対的な査定条件とし、
  申告額がこれに達しない場合は、農民が自らの労力と
 費用をかけて算定した地価を否定し、強圧的に変更させ
 たことから、伊勢暴動をはじめとした大規模な暴動が各
 地で頻発した(地租改正反対一揆)。
  これを受けて政府は、1877年1月に、地租を100分の
 3から100分の2.5に減額することを決定した。
  その後、政府の強硬姿勢は、1878年頃まで続いたが、
 税収の見込みがつくようになると、徐々に緩和されてい
 き、
  1880年に、耕地宅地の改正作業が完了した。
  地租改正は、約7年にわたる大事業であった。
  安定した税収を得たい政府方針に対して・・、
  税率を地価に対する一定率とすることにより、従前の
 ように農作物の豊凶により税収が変動することなく、政
 府は安定した収入を確保することができるようになった。
  具体的には、農作物の価格変動リスクを、政府から農
 民へ転嫁したものといえる。
  しかも、「旧来の歳入を減じない」という政府の方針
 によって3%という高額な税率が算定された。
  (地租改正の推進派であった木戸孝允は、この高税率
 を聞くと、農民を幕藩体制よりも酷い状況に追い込むも
 のだとして、最後まで反対した)。
  これは、結果的に、大多数の農民の負担を高めること
 につながり、
  また、土地の所有者がおらず、納税が困難な入会地が
 事実上、政府に没収されたことなどから、伊勢暴動、真
 壁暴動など一揆(地租改正反対一揆)が頻発し、
  自由民権運動へ影響を与えた。
  このため、士族反乱と農民一揆の結合を恐れた大久保
 利通の建議(意見)で、1877年(明治10年)に、税率
 が2.5%に引き下げられた。
1876年12月29日、三条実美および岩倉具視を、各勲一等に
 叙し、旭日大綬章を賜う(臣下勲章拝受の始まり)
1876年3月10日、電話が発明された。
  スコットランド生まれの科学者であるアレキサンダー・
 グラハム・ベルが、電話を発明した。
  助手との間で初の通話に成功した。
  ベルは、金銭的支援を受けて、トーマス・ワトソンを
 助手として雇うことができ、
  2人は、1875年6月2日に、実験を行った。
  その時、ワトソンは、偶然金属リードの1本を引き抜い
 てしまい、受信側にいたベルが、その金属リードの倍音
 を聞いた。
  倍音は、音声の伝送に必要である。
  この事から、ベルは、複数のリードは不要であり、1
 つのリードでよいと気付いた。
  これにより、明瞭な音声は伝えられないが、何らかの
 音だけは伝送できる電話の様なものができた。
1876年6月25日、インディアンの方々の最後の戦い
  アメリカ・インディアンとアメリカ政府軍・第七騎兵
 隊の戦いが起きた。
  この戦いを、インディアンの方々は、「グリージーグ
 ラス川の戦い」と言い、
  アメリカ合衆国は、「リトルビッグホーンの戦い」と
 言った。
  アメリカ合衆国軍のカスター将軍が、この戦いで戦死
 した。
  アメリカ・インディアンの方々と、アメリカ合衆国軍
 との戦いを、時系列的に大きく見ると、
  インディアンの方々の居留地の位置と、大きさを示す
 図において、
  年と共に、アメリカ・インディアンの方々が、東から
 居なくなっていく。
  つまり、西へ行けと、東の地に居られなくされて、追
 い出されている。
  そして、そこの西へ行ったところへ、また、白人のア
 メリカ人が入り込んで来て、さらに西へ移動させられる
 インディアンの方々。
  そして、ある特定の区域に住むようにさせられている。
  そして、その区域が、時代が進むにつれて狭くなって
 行き、居留地の広さ、大きさが小さくなって行く。
  そして、最後は、ゴマ粒のような居留地が、転々とあ
 るという姿になって行く。
  つまり、アメリカ合衆国は、インディアンの方々と条
 約を結んだりしているが、前の条約を無視して、その条
 約の約束を破って、常に、変更している約束が続く歴史
 となっている。
  そして、最後は、ゴマ粒のような居留地が、アメリカ
 中西部にばらまかれたように残るという状況へ至る。
  この戦いの発端も、現在のワイオミング州のビッグ・
 ホーンに金が発見されると、
  白人・アメリカ人は、ほってはおけなくなる、
  そこが、インディアンの方々の土地で、狩場であろう
 となかろうと。
  白人・アメリカ人は殺到した。
  約束も何もないように振る舞う白人・アメリカ人と、
 スー族の方々と衝突するのに、時間はかからなかった。
  当然、白人・アメリカ人が悪いのである。
  白人・アメリカ人のインディアンの方々の土地奪いが
 始まる。
  境界を侵しているのは欲に絡んだ白人・アメリカ人で、
  アメリカ合衆国政府は、カスター将軍に指示した。
  (力で奪って来いという命令になっている)
  命令を受けたアメリカ軍のカスター将軍は、
  公然と、インディアンの方々の意見や権利の主張を嘲
 弄(ちょうろう、相手を馬鹿にしてからかう事)して、
 インディアンの方々を挑発した。
  (西部劇映画でよく見る悪漢が嘲弄して、相手に、先
 に銃を抜かせるという・・あの悪巧みである・・こんな
 カスター将軍に、そして、将軍に命令したアメリカ合衆
 国に正義がある訳がない、卑怯なアメリカだった)。
  解決への道が閉ざれた中で、インディアンの方々は結
 集する。
  そして、この日に戦いは起きた。
  そして、カスター将軍と285人のアメリカ軍兵士は、
 リトル・ビッグ・ホーン川で殲滅させられる。
  このアメリカ軍の敗北は、アメリカ社会を大きく揺さ
 ぶった。
  一握りのアメリカ・インディアンの方々が、アメリカ
 合衆国軍を相手にして戦い、カスター将軍を失わせる勝
 利を得た。
  アメリカ政府は、直ちに報復・復讐に出る。
  正義も、また、復讐する正しい論理もない行動に出る。
  そして、この不名誉を挽回する策を取った。
  参謀本部へ命令した。
  今度は、クルック将軍が、最新の武器で、武装を固め
 た兵士、数千人と共に、スー族に立ち向かって行ってた。
  容赦のない攻撃を仕掛けた。
  アメリカ・インディアンの方々の抵抗の最後の砦であ
 った強大なスー族が敗れる時が来た。
  スー族を率いていたシッティング・ブルは、カナダへ
 逃れた。
  クレージー・ホースは、居留地に戻ったが、卑劣にも、
 そこで、アメリカ合衆国は殺した。
  インディアンの方々は、勇敢に機敏に、インディアン
 の方々に正義がある戦いを戦った。
  機関銃と大砲を持つアメリカ合衆国軍と、弓と矢で立
 ち向かったインディアンの方々。
  インディアンの方々に正義と勇気があったが、結果は、
 その武器の差で決着がついた。
  小さな戦いが、この後あるが、インディアンの方々の
 大きな戦いは、この戦いが最後だった。
  シッティング・ブルの、自分たちの土地を当然の権利
 として主張し、そして、要求した言葉:
  「われわれは白人が好きではない、ブラックヒルズは
 われわれのものだ」・・と、(その通り)。
1876年、イギリス女王ビクトリアがインド皇帝の座につい
 た(事実上、インドを奪う行為)
1876年、オーストラリア人(イギリス人)の絶滅行為
  イギリスは、タスマニア島のアボリジニーの方々を全
 滅させた。
  イギリスが、オーストラリアを占有して、オーストラ
 リアのタスマニア島に、19世紀に入った直後には、8000
 人のアボリジニの方々が居た。
  少なく見積もっても2500人のアボリジニの方々が居た。
  しかし、このタスマニア島のアボリジニの方々は、こ
 のイギリス人(オーストラリア人)に殺されて、約30年
 後に300人まで激減した。
  そして、この年の1876年に、最後のアボリジニーの女
 性が亡くなり、タスマニア島のアボリジニーの方々は絶
 滅した。
..
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