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2015年7月25日土曜日

(増補版)163D1/3:気になった事柄を集めた年表(1733年~1735年)

題:(増補版)163D1/3:気になった事柄を集めた年表(1733年~1735年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1733年、北米植民地に関する糖蜜法(とうみつほう)が、
 イギリス議会で成立した。
  糖蜜や砂糖に関し、フランス領の西インドの商品に、
 イギリス領の植民地の西インドの商品が敗れた。
  この為、イギリスは、フランス領の商品に高率の関税
 をかけた。
  糖蜜法は、イギリス議会が北アメリカ植民地に対して
 外国領産糖蜜・砂糖の輸入に課した高率な関税法。
  奴隷主プランターの言いなりに禁止的な高い関税の法
 律を作った。
1733年、ポーランド継承戦争(けいしょうせんそう)が起
 きた(~1735年)
  元はポーランド王位の継承をめぐる内戦だが、
  それに呼応したフランスとスペインの連合と、そして、
 それに対する、オーストリアとロシア諸国との戦争。
  お互いが推す王を巡っての争いだが、卑劣な事に、こ
 の問題によって、ヨーロッパ中が戦争になった。
  ヨーロッパの国々が、恨み・つらみなどの一物を抱え
 る(いちもつをかかえる、表面上は平静を装っているが、
 実は隠れたところに不満などが溜まっている)状態の
 国々だった。
  王位と領土を巡って争っていた。
1733年、大清会典(だいしんかいてん):基本法典の一つ
  中国、清代に編纂された行政上の大綱の総合法典。
1733年、ジョン・ケイ、飛杼を発明、高速織機の発明。
  ジョン・ケイは、イギリスの機械工で、自動織機発明
 への重要な一歩となる飛杼(とびひ)を発明した。
  素晴らしい発明だったので、この高能率のこの装置の
 普及につれて、失業を恐れた職工が暴動を起こした。
  この様な素晴らしい発明をしたケイは、特許を申請し
 たが、
  資本家が、特許使用料を払わなったこともあり、フラ
 ンスに渡り、不遇のうちに死んだ。
1734年4月、紀伊国屋文左衛門(きのくにやぶんざえもん)
 が没する(1669年?~1734年)
  一代で巨万の富を築いた。
  そして、一代で使い果たした豪商。
  紀州のミカンを江戸に運び、そして、江戸から塩鮭を
 上方へもたらすという商売で巨利を得た。
  後に、材木商として、江戸に進出し、
  江戸・京橋本八丁堀に居を構え、
  一町(約109メートル)四方の屋敷に材木問屋を開き、
  また、材木置き場を、深川木場に置いて、木材の買占
 めでも巨富を築いたという。
  江戸は火事が多く、その都度、繁盛を極めた。
  老中の柳沢吉保に取り入り、幕府の御用達商人となっ
 て全盛を極め、紀文大尽と呼ばれた。
  吉原で大尽遊びを競った。
  柳沢吉保が失脚すると廃業となり、失望・落胆の生活
 を深川で送ったという。
  柳沢吉保らと結託し、御用達商人として利権を得て、
 巨利を得たという。
  また、御用達商人として、長崎貿易にも関係し、亜鉛
 を原価で仕入れ、
  亜鉛はリスクが多かったが、材木と共に利益の大きな
 商品だったという。
  取り巻きに、俳人の榎本其角らの一流の文化人がつい
 ていたという。
  しかし、不明な点が多い。
1734年8月、室鳩巣(むろみゅうそう、儒学者)が没する
 (1658年~1734年、77歳)
  新井白石の失脚後も、将軍・徳川吉宗の信任が厚く、
 1722年に侍講(じこう)となった。
  しばしば諮問を受けて、幕政にも関与していた。
  没するまで、西丸(にしのまる)奥儒者の地位に居た。
1734年、農業:諸国産物の調査
  幕府が、「庶物類纂(しょぶつるいさん)」の増訂を
 企て、諸国産物を調べた。
  庶物類纂は、本草学者で加賀金沢藩の儒医であった稲
 生若水、および、その弟子であった丹羽正伯らが編纂し
 た博物書。
  古今の漢籍などから、植物・動物・鉱物・薬物などの
 記事を調査し、
  その3590種の記事を、それぞれの種類・分類を精査し、
 分類検討を加え、また、再編集を加え、登載した書。
  1734年より、未完成的であったものを、編纂開始し、
 4年後の1738年に、未完部分であった638巻を完成させ、
  後援していた加賀藩に提出し、
  加賀藩は、それを幕府に提出した。
1734年、農業:甘藷の栽培、
  この頃、甘藷を小石川薬園、江戸城吹上苑に試植、諸
 国に栽培を奨励した。
1735年10月、経済:最低価格を公定
  米価の下落を防止し、更に、米価引き上げのため、最
 低価格を公定した。
1735年、アイヌ交易:松前藩、
  この頃、アイヌ交易を内地商人に委託する。
  「場所請負(ばしょうけおいせい)」制を採用した。
  場所請負制は、松前藩特有の、蝦夷地特有の流通制度
 であるが、
  この藩は、米の収穫が望めないため、藩主が家臣に与
 える俸禄は、石高に基づく地方知行ではなく、
  給地に相当するものとして、漁場、および、アイヌと
 の交易地域である商場を設け、
  そこでの交易権を知行として家臣に分与した。
1735年、出版:蕃薯考(ばんしょこう)
  青木昆陽の「蕃薯考」が出版された。
  農書である。救荒作物として有用な甘藷(かんしょ)
 の性質、栽培法などが記してある。
1735年、発明:コークス高炉法が発明され、実用化された。
  木炭による高炉製鉄の方法は、15世紀頃に、ドイツの
 ライン川流域で生まれ、イギリスなど西ヨーロッパ全域
 に広がっていた。
  しかし、木炭が枯渇し始めていた(山がはげ山になる)
  コークスが、1709年に、イギリスで熱源としての試み
 に使用して成功した。
  1735年に至って、ダービー二世(イギリス)が、燃料
 のコークスを用いる高炉で、鍛鉄用銑鉄生産をした。
  硫黄の少ない銑鉄が製造可能となり、銑鉄の生産量が
 急速に増大した。
1735年、ハドレー(イギリス)が貿易風の原因を論じた。
  この年に書いた「一般貿易風の原因について」は、大
 気大循環論のはしりというべき論文だった。
  大循環の原因を、「赤道地方と極地方の気温差」「地
 球自転の影響」の2点であるとしている。
  現代でも通用する論理である。
1735年、清朝六代皇帝の乾隆帝(けんりゅうてい)が即位
 した(生没:1711年~1799年)
  (在位:1735年~1796年)廟号:高宗、
  清帝国の版図とともに、政治・文化・芸術が最高潮に
 達した。
  幼少時から帝王学を授けられ、生まれながらの皇帝と
 して存在した。
..
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2015年7月24日金曜日

(増補版)162D1/3:気になった事柄を集めた年表(1732年~1733年)

題:(増補版)162D1/3:気になった事柄を集めた年表(1732年~1733年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1732年、イギリスのアメリカのジョージア植民地が成立し、
 北米のイギリス植民地が13州(最初は「邦」と言ってい
 た)となった。
  北米におけるイギリスの植民地は、1607年のヴァージ
 ニアに始まり、
  この1732年のジョージアに至って、北アメリカ大陸の
 東海岸に13の植民地が形成された。
  このイギリスからの移住者(植民地人)は、フランス
 からの移住者と違い、先住民のインディアンの方々の土
 地を奪って、定住して行ったため、
  インディアンの方々と衝突することも多く、殺戮し、
 土地を奪って行った。
  ニューイングランド植民地(北部植民地)は、ピュー
 リタン(キリスト教清教徒、イギリスの新興宗教のキリ
 スト教でイギリスで迫害を受けたため、アメリカの新天
 地を求めて移住して来た)が多かった。
  後に、奴隷貿易を始めて、アフリカから非人道的行為
 である黒人の方々を連れて来る(輸入すると称した)。
  この黒人の方々を使ったプランテーション経営層は、
 キリスト教のカトリックが多かった。
1732年、中国、清朝、雍正帝が、軍機処(ぐんきしょ)を設
 置した。
  軍事機密を保持するため。
  軍事・行政上の最高機関。
  1929年に、紫禁城内に臨時に設けられ、1732年に独立
 し、正式に軍機処と呼ばれることになった。
  雍正帝の時は、北方遊牧民族に対する軍事力行使のた
 めに臨時に設けられたが・・、
  乾隆朝になると、内閣の実権を奪って、重要政務全般
 をつかさどる最高機関になった。
1733年、杉田玄白(すぎたげんぱく、蘭方医、蘭学者)が、
 江戸で生まれた(1733年~1817年)
  前野良沢らと「ターヘル・アナトミア」を訳出し「解
 体新書」として刊行した。
  西洋医学を広く紹介した。
  著書に「蘭学事始」などがある。
1733年、円山応挙(まるやまおうきょ、絵師)が生まれた
 (1733年~1795年)
  「雪松図屏風」(国宝)
1733年1月、米価騰貴し、初めて江戸で打ち壊し(打毀・う
 ちこわし)起こる。
  また、各地で米価高騰のため、打ち壊しが相次いだ。
  前年の1732年に、享保の大飢饉が起きている。
  打毀は、百姓一揆と違い、おもに都市において見られ
 た暴動で、暴動の主体勢力が都市の下民層で、原因が、
 米価高騰にあった。
  打毀の対象となったのは、米屋、酒屋、質屋、問屋な
 どの富裕な商人たちだった。
  この人々の意識に、米価の吊上げを謀った(はかった、
 計略に掛ける)ことから、その影響を受けたという意識
 があった。
  打潰(うちつぶし)とも言い、打壊とも書き、
  百姓の場合は、大庄屋・庄屋層、地主・在方商人(ざ
 いかたしょうにん、農民身分のまま商業活動を手広く営
 むようになった商人層)・都市富商などの豪農・豪商の
 家屋・家財・生産用具類を破壊し、被害を与えた。
1733年、江戸日本橋で高間騒動。
  この江戸での打ち壊しに、高間騒動というのがある。
  高間伝兵衛は、豊かな米商人だった。
  幕府は、1730年9月12日に、この打ち壊しから3年前に、
 豊年が続いて米価が下落し、武士などの財政が困窮して
 いたのを救うため、
  幕府は、伝兵衛など8人の米穀商に、上方の米(かみが
 たまい)の独占取引権を与え、買い入れさせていた。
  1731年には、幕府は、米穀商へ安売りを禁じた。
  そしてまた、1731年7月には、米方役の伝兵衛を、大阪
 に派遣して買米(かいまい、幕府の買い上げ)をさせた。
  1732年に、享保の大飢饉が起きる。
  1733年まで餓死者が相次いだ酷い飢饉だった。
  幕府は、この飢饉の時、昨年に買入れた米や、東国の
 米までもを加えて、西国に送り出し、救援した。
  その為、江戸でも、米不足が起きて来て、米価が上が
 った。
  そして、庶民は困窮した。
  1733年1月23日に、伝兵衛は、高騰した米価を下げるた
 め、幕府に安価で、備蓄していた米の2万石を売りに出す
 ことを願い出た。
  幕府は許可した。
  しかし、江戸の町民は、「米価が高騰したのは、幕府
 と癒着した米商人の、この高間伝兵衛が、米を大量に買
 い占めて、貯えているせいだ」と噂を立てた。
  その時、流行った狂歌が・・、
  「米高間 壱升弐合で粥にたき 大岡食はぬ たった
 越前」・・と詠った。
  これは、米が高く(高間)て、銭百文では一升二合し
 か買えないので、お粥にしたが、多く(大岡)食べられ
 ず、たった一膳(越前)だけだ。
  実際は、伝兵衛の備蓄は、米価調整の為であり、私欲
 で貯め込んでいた訳ではなかったが、
  米方役として米価を左右し、江戸吉原を3日間貸切ると
 いう豪遊も伝わる富んだ伝兵衛に対し、
  庶民は「私欲で、米穀を買占め、高値で売っている」
 と疑った。
  そして、26日の夜、町民たちが1700人余り(4000人と
 もあり)が集まり、
  伝兵衛の本船町の店(たな)の打ち壊しを決行した。
  家財は砕かれ、前の川に捨てられた。
  町奉行は、捕り手を出動させ、騒動を収めた。
  そして、打ち壊しを扇動した首謀者を捕らえた。
  首謀者4人の内、1人を重遠島、3人を重追放とした。
  伝兵衛は、打ち壊しは会ったが、翌月には、米2万石を
 安価に売却する事を、幕府に願い出て、上申した。
  歌舞伎・講談などでは、町人の受けを狙って伝兵衛を
 悪徳商人として描いていることが多い。
  伝兵衛は、1735年7月に、病死した。
  そして、次の代の同じ名の伝兵衛が引継ぎ、11月に、
 米方役に任命された。
1733年、狂犬病の流行(日本における最初の流行)
  西日本に狂犬病が流行し、以後、東日本にも波及した。
  この狂犬病の発端は長崎だった(外国からの流入)。
  この年に、長崎から狂犬病の大流行が始まった。
  「両郡古談」に、
  「(1733年の享保)18年5、 6月頃より犬夥しく麻疹
 に而多くくるい人に喰付く、 はれ候者は疵口甚痛、 病
 犬の熱毒皮肉臓腑に通り多く死す。 尤去子年、 長崎辺
 りより流行、 牛馬等へも喰付候段、 打殺川にも入る也」
 とある。
  翌年の1734年には、長崎から大分へ伝播した。
  また、別の史料によると、
  「享保17(1732年) 壬子年、今年西国筋は不気候に之
 あり、備前、備中、広島、備後辺之犬迄も病につき、人
 民に噛付き、多く人損しも有之、播州辺迄も同様之由也」
 という記載がある。
  長崎での発生と同時に、中国地方を山陽道に沿って一
 気に東走して、4年後の1736年に、東海道を経由し、江
 戸まで到達したという。
1733年、農業:藍専売制、阿波藩(徳島藩)が、藍の専売
 制を開始した。
  吉野川流域に産する阿波藍(あい)は、藩最大の国産
 品で全国に市場を持っていた。
  1804年のピーク時には27万俵を算出し、藩の経済を大
 きく支えていた。
  しかし、順調に来たわけではなかった。
  藍作人は、藍作の展開に伴って、逆に、商品経済の好
 餌となり、経営が破綻し、困窮化の様相を強めた。
  藩は、阿波藍の利潤に着目して、1733年に、藍方御用
 場を新設し、葉藍取引税など葉藍専売制の政策に着手し
 た。
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2015年7月23日木曜日

(増補版)161D1/3:気になった事柄を集めた年表(1730年~1732年)

題:(増補版)161D1/3:気になった事柄を集めた年表(1730年~1732年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1730年6月、再度、藩札発行を許した。
  領国の石高が、20万石以上であれば、通用期間25年、
 20万石以下であれば通用期間15年・・などの条件付きで、
 藩札の発行が再解禁された。
  この背景には、 下落した米の価格があり、諸藩の財政
 窮乏救済の目的があった。
  発行は、幕府の許可を必要とし、領国内のみの流通と
 し、また、幕府の貨幣と兌換(だかん、幕府の正貨と引
 き換えること)ができる事を原則とした。
1730年、経済:相場公認される
  大阪堂島の米市場が設立され、米仲買人の相場が公認
 された。
1730年、人事:水野忠之が、老中を罷免される。
  享保の改革の大きな転換点を迎えた。
  忠之のこの辞任の後、松平乗邑(まつだいらのりさと)
 が老中首座となり、後期の享保の改革をリードして行く
 こととなった。
  松平乗邑は、1737年に、勝手掛老中となる。
  幕府にとって痛かったことは、米の増産が収入増に、
 当初はなっていたが、
  その増産が、米価下落を起こすようになると、肝心の
 収入増につながらなくなって来た事だった。
  当初の「米の増産と倹約」の政策の見直しが必要とな
 った。
  乗邑のとった政策は、何と言っても「米価安諸色高」
 をどうするかだった。
  災害対策や、災害からの復旧も一生懸命やって、功を
 奏してもいた。
  そして、米の収穫量の増大で、幕府財政も好転したが、
 物価の不安定は収まっていなかった。
  1733年には、突然、米価が高騰した。
  これは、前年の1732年に、西国全域を襲った未曾有の
 蝗害(こうがい、イナゴが稲などを食う害)が原因だっ
 た。
  この蝗害は、199万人余りといわれる被害者を生み出す
 大飢饉となった。
  米は、不足した上に、商人の買占めもあって、一時的
 に米価は急騰した。
  この様な、時の流れの中で、結局、乗邑の取った政策
 は、年貢の引き上げによる年貢増徴策だった。
  その策によって、毎年、黒字が計上され、
  乗邑は、町奉行の大岡忠相が「その才知は舌を巻くば
 かり」と評したほどだった。
  乗邑は、1745年に、その功績を認められて1万石が加
 増された。
  一方、当然、乗邑の強引な増徴策は、百姓らの不満を
 募らせた。
  幕府への不信感も醸成され、社会全体にひびが入った
 状況となった。
  また、厳格すぎる緊縮策は、幕臣や大奥までもの不興
 を買った。
  1745年、吉宗は、約30年の将軍職を、嫡男の家重に譲
 位し、人心刷新をはかった。
  1745年に、乗邑は、家重が9代将軍に就任すると直後に
 老中を解任された。
  加増された1万石も没収され、隠居を命じられた。
1730年、吉宗の次男の徳川宗武(とくがわむねたけ、松平
 定信の実父)が、田安家(御三卿の初め)を創始した。
  兄が、第9代将軍の家重。
  聡明であったため、身体的な障害のあった兄・家重に
 代わり将軍後継者に推す者もあった。
  しかし、吉宗は長幼の序を重視した。
  しかし、この将軍後継者問題は、その後も尾を引き、
 家重が将軍となった後、宗武の登城は、3年間の停止処分
 を受けた。
  乗邑は、宗武を推したので罷免された。
1730年、江戸町火消しの規則を改め、47組を10組に再編成
 された。
1730年9月28日、パトロナ・ハリルの反乱
  オスマン帝国の首都イスタンブールで、パトロナ・ハ
 リルに率いられた下層市民、下級軍人が民衆蜂起した。
  トルコ・イスラム文化の爛熟期を謳歌する「チューリ
 ップ時代」の上流支配層の政治的腐敗と、奢侈(しゃし、
 度を過ぎてぜいたくなこと)、
  そして、インフレによる生活不安に対する人々の不満
 が爆発した。
  反乱は、大宰相を処刑し、スルタン(君主)を退位さ
 せて、イスタンブールを支配して、一時期、反乱は成功
 したが、
  改革のための具体的プランを持たなかったため、
  ハリルが、宮廷のはかりごとによって殺害されると、
 反乱は、短期間で鎮圧された。
1731年、米価低迷のため、米を買い占める(幕府は、懸命
 なる策を講ずる)。
  幕府が、市場の米を買い上げ貯蔵し、米価の引き上げ
 を図った。
  米価下落によって、年貢収入の換金に支障をきたした
 旗本・御家人の武士階級を救済した。
  1722年に、米の取引を活発化させるため、それまで禁
 止していた米の空米取引(名目的な先物買い取引)を一
 部解禁し、
  1728年には、これを全面的に公認とした。
  そして、1725には、江戸の富商3人に、買米を命じた。
  また、1729年から1731年にかけては、幕府自身が、毎
 年、買米を行った。
  さらに、諸藩に対しても、米の貯蔵を命じ、
  江戸と大坂への廻米を制限し、
  こうして、米の供給量を減らして、取引を活発にし、
 米価を引き上げようとした。
  しかし、市場経済に、幕府が介入しようとしても、効
 果は少なかった。
  米価は、傾向として下がり続けた。
  1730年・1731年には、通常の半額にまで下がった。
  武士の収入は半減してしまった。
  しかたなく幕府は、1735年に、公定価格を設けた。
  江戸では金1両で米1石4斗以下に、大坂では米1石
 について銀42匁以下という公定価格だった。
  この布告の徹底を、米商人・蔵宿・札差を残らず奉行
 所に集め、命じた。
  だが、これでも米価は傾向として下がり続けた。
1731年、米価調整のため、米会所を認めた。
1731年、幕府が、三ヵ年の倹約令を出した。
  米価下落のために出した(出・いずるを制した)。
1731年、中国、清代の画家・沈南蘋(しんなんぴん)が、
 来朝して画法を伝えた。
   日本の花鳥画に影響を与えた。南蘋派。
1732年、日本の総人口:26,922,000人
1732年、享保の大飢饉(きょうほうのだいききん)
  西日本(近畿・中国・四国および九州地方一帯)を襲
 った大飢饉(江戸時代の三大飢饉の一つ)、死者多数。
  近畿以西の山陽・南海・西海・畿内に、暖冬に次ぐ冷
 夏で、虫害を伴い、米の大凶作が起こった。
  蝗虫(こうちゅう)(イナゴ説もあるが、ウンカ説が
 有力)の大量発生であった。
  草間伊助筆記に、
  「七八月ニ到り、西国・九州・四国・中国筋都テ稲虫一チ
 時ニ生シ、次第次第ニ五畿内マデも移り、此虫後ニハ大
 キニ相成りこがね虫之如クニテ悉ク稲ヲ喰ヒ枯シ申候、
  (中略)、其虫形チ甲冑ヲ帯シたるやうニありて、一夜
 之内ニ数万石之稲ヲ喰ヒ、田畑夥敷損毛有之、土民飢渇
 ニ及ヒ、西国筋、五畿内大坂辺マデ道路ニ倒レ候もの数
 しれす、米価古銀ニテ五六月頃、七月中旬マデハ壱石六
 拾四五匁、追々高直ニ相成り、九十月之頃百弐三十匁ニ
 成候」
1732年、農業:甘藷の栽培が広まる。
1732年、吉宗が、尾張・徳川宗春の言動を糺す(ただす、
 物事の理非を明らかにする)。
  徳川宗春は、1730年に、死亡した兄に代わり、第七代
 尾張藩主となった。
  江戸では、将軍・吉宗が、享保の改革で倹約政策を実
 施していた。
  宗春の著書「温知政要(おんちせいよう、1731年に脱
 稿、1732年に刷られた)」には、
  「倹約は大事だけれども、度が過ぎると民の不自由に
 なる」と書かれていた。
  そして、宗春は、初代藩主の墓参りの際には,真っ赤
 な着物に亀の甲の笠をかぶり、白い牛に乗って出かけた。
  また、宗春は、尾張(名古屋)に無かった遊郭を3ヶ
 所作った。
  また、当時、倹約のために禁止されていた武士の芝居
 見物を許した。
  倹約ムードの日本の中で、名古屋だけは江戸の令を無
 視した行動が行われていた。
  しかし、活気は満ちていた。
  この状況について、吉宗は、宗春の言動を糺しても変
 わらなかった。
  将軍・吉宗は、1739年に、宗春に蟄居謹慎を命じた。
  宗春は、これ以外でも、江戸の幕府が改鋳で金融緩和
 をしている時に、尾張藩では、逆に引き締め政策を行な
 ったりしていた。
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2015年7月21日火曜日

(増補版)160*D1/3:気になった事柄を集めた年表(1728年~1930年)

題:(増補版)160*D1/3:気になった事柄を集めた年表(1728年~1930年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1728年、関東一円が飢饉に見舞われた。
  三河などの中部地域は大日照りで雨乞いが行われた。
1728年3月、朝鮮で、戊申(李麟佐)の乱が湖西(忠清道)
 で起きた。
  全国的な規模の反乱だった。
  反乱組織は広く結成され、準備されていた。
  各地の反乱指導部は、連携をとり大きな組織を作るのに
 成功した。
  中心に居たのが李麟佐だった。
  景宗が毒殺された事への復讐戦でもあった。
  兵力は7万に膨れ上がった。
  王権交代を掲げての反乱であったが、結局、失敗に終
 わった。
1728年、ジェームズ・クック(イギリス、探検家)が、生
 まれた(1728年~1779年)
1729年、平賀源内(ひらがげんない、本草学者、地質学者、
 蘭学者、医者、殖産事業家、偽作者、浄瑠璃作者、俳人、
 蘭画家、発明家)が生まれた(1729年~1779年)
  「平賀源内のエレキテル」という言葉が有名。
  1776年に、長崎で手に入れたエレキテル(静電気発生
 機)を修理して復元したという天才である。
1729年、石田梅岩(いしだばいがん、思想家、倫理学者)
 が、京都で心学の講義を始める。
  松下幸之助は、この人の心学の教えを引き継いだと言
 われている。
  梅岩は、既に、この時代に、企業の社会的責任を説いて
 おり、現在、脚光を浴びている。
  その思想は、企業の営利活動を否定せず、倫理という
 よりむしろ「ビジネスの持続的発展」の観点から、本業
 の中で社会的責任を果たして行くという事を説いている。
  欧米にない、梅岩の視点、特徴が見直されている。
1729年8月、農業:ナタネ栽培を奨励
  幕府が、関八州(関東地方)の諸代官に命じて、農民
 のナタネ栽培を奨励した。
  幕府は、飢饉対策のサツマイモもそうだが、朝鮮人参
 などの薬草栽培も奨励し、
  菜種油は、食用以外に灯火などにも使い道の広い作物
 だった。
  幕府は、この他にも、桜や桃の植林も奨励した。
1729年3月、陸奥の信夫(しのぶ、福島県陸奥のしのぶ地
 方)と伊達の両郡の幕府領の農民が、夫食米(ふじきまい
 )などを要求して一揆した。
  夫食とは、農民の食糧一般をさす。
  夫食は、米以外の雑穀が中心で、芋やこんにゃくを主
 食とした地方もある。
  幕府や諸藩は、凶作に供えて貯穀を奨励し、
  凶作や飢饉の時には、救済のために貸付(夫食貸)も
 行った。
  しかし、貸付けや返済を巡って、農民の闘争原因にな
 る事が多かった。
1729年4月、源氏坊改行事件
  大岡政談で有名な「天一坊事件」の首謀者・天一坊の
 モデルもなった、修験者・源氏坊改行が鈴ヶ森刑場で処
 刑された(天一坊事件のモデル)
1729年、天一坊事件
  天一坊改行(てんいちぼうかいぎょう、山伏)が、
 「吉宗の落胤」と主張して処刑された。
  1728年に南品川宿で、「近々、大名に取り立てになる」
 と称して浪人を集めたりした。
  不審に思った関東郡代が引き立てて取り調べ、翌1729
 年に、捕らえられ死罪となった。
1729年、出版:太宰春台の「経済録」
  荻生徂徠の門人・太宰春台の「経済録」なる。
  経済録は10巻からなる。
  経済すなわち経世済民という広義の政治・経済・社会・
 制度・法令などについて論じている。
  経済総論をはじめとして、地理、天文、食貨、礼楽、
 官職など、経済のみではなく広く政治論も含んだ経済書
 となっていて、広く読まれた。
  「天下国家ヲ治ルヲ経済ト云。
      世ヲ経シテ民ヲ済(すく)フト云義也」
1729年、朝鮮の英祖が、蕩平策(とうへいさく)をとり、
 党争融和を図る。
  朝鮮王朝(李朝)第21代の王・英祖が党争をなくすた
 め、党派間の政治勢力の均衡をはかった政策をとった。
  即位当初から、臣下間の党争がひどく、その調停に心
 をくだいていた。
  老論派と少論派に分裂していた。
  1721年に、少論派が権力を握った。一時期だった。
  その後は、老論派が長く支配していた。
1730年3月、本居宣長(もとおりのりなが、国学者、文献
 学者、医師)が、松坂に生まれた(1730年~1801年)
1730年4月、初代・松本幸四郎(まつもとこうしろう、歌舞
 伎役者)が没した。
1730年4月、経済:上米の制(あげまいのせい)を廃止し、
 参勤交代制を復旧する。
  幕府は、財政破綻(はたん)するほどだったが、一生懸
 命、社会資本整備はやっていた。
  1例では、初期は「川通奉行」、後には「四川奉行」が
 任命され、四川は、関東地方の幕府直轄領を貫流している
 江戸川、鬼怒川、小貝川、下利根川の4つの河川の土木
 工事をしている。
  吉宗は、紀州藩から、技術を持った者を、何人も引き
 抜いて工事を進捗した。
  紀州は、地形から険しい河川が多かったので、有能な
 技術を持った者が多く育っていた。
  そして、この様な工事金が必要な時に、幕府は、上米
 の制を廃止した。
  何故、廃止したのかは、幕府の体制維持があったと考
 えられる。
  幕府としては、藩から、米が得られるというところだ
 ったが・・。
  文献に、「御恥辱を顧みられず仰せ出され候」とあり、
 幕府には、御金蔵の金も底をついてやったことという気
 持ちの重さがあった。
..
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2015年7月20日月曜日

(増補版)159D1/3:気になった事柄を集めた年表(1727年~1728年)

題:(増補版)159D1/3:気になった事柄を集めた年表(1727年~1728年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1727年、人事:荻生徂徠(おぎゅうそらい、儒学者、思想
 家、文献学者)が、将軍吉宗に拝謁した。
  この頃、「政談」を著して、献上していた。
  徂徠は、1696年に、将軍・綱吉の側近の幕府側用人の
 柳沢吉保に抜擢され、吉保の領地の川越で15人扶持を支
 給されて仕えていた。
  のちに500石取りに加増されて、柳沢邸デ講学、ならび
 に政治上の諮問に応えた。
  1709年に、綱吉の死去と吉保の失脚にあって柳沢邸を
 出て、日本橋茅場町に居を移し、そこで私塾・蘐園塾を
 開いた。やがて、徂徠はという学派が形成される。
  1721に、幕府から「六諭衍義(りくゆえんぎ)」に訓点
 をつけることを命ぜられ、
  まもなく、1722年に、吉宗の信任を得て、間接に政治
 上の諮問を受ける様になった。
 この諮問に応え、幕府政治の改革案を述べた著書が「政
 談」である。
1727年、カンボジア使節が長崎に来航。
  幕府より、信牌(長崎港の入港許可証というべきもの)
 を与えられる。
1727年、キャフタ条約が締結された。
  ロシアと清の間で、それまで未確定だった外モンゴル
 における支配領域を画定した(シベリアの境界画定)。
  この両国は、1689年に、ネルチンスク条約を締結し、
 スタノヴォイ山脈とアルグン川を境として支配領域を確
 認していた。
  その後、雍正帝の時代に、外モンゴルにまで勢力を伸
 張させたことで、再び、条約締結の必要が生じていた。
1728年1月、荻生徂徠が没した。
1728年、経済:先物信用取引を許可(黙認)
  米価引き下げのため、米の延売買取引(先物信用取引)
 を許可した。
  幕府は、1727年3月に、江戸の中川清三郎・川口茂右衛
 門・久保田孫兵衛の3名に堂島永来町御用会所の開設を
 公認した。
  この会所は、堂島永来町(北区堂島1丁目)の町年寄であ
 った塩谷庄次郎の屋敷に設けられた。
  この処置に対し、翌1728年6月、大坂の米仲買604人は、
 河内屋儀兵衛・福島屋久右衛門・田辺善左衛門・境屋善
 衛門・加島屋清兵衛の5名を惣代に選び、
  江戸に派遣して、御用会所の廃止と延売買の公認を勘
 定奉行に願い出た。
  こうした動きに対し、勘定奉行から大坂町奉行に問い
 合わせた結果、御用会所が開設されても、米仲買は悪影
 響を受けていないという報告があって、出願は却下され
 た・・が、
  その後も、米仲買惣代は、執拗に運動を続け、老中・
 水野忠之に直訴するなど、御用会所設立後における大坂
 米仲買および米小売商の窮状を説いたので、幕府当局も
 その実状を認め、江戸町奉行大岡忠相の裁断により、
  1728年2月1日をもって御用会所は廃止となった。
  この時、延売買の公認については取り上げず、それま
 で大坂米商人仲間が非合法におこなってきた延売買の商
 習慣をそばらく黙認するかたちとなった。
1728年、徳川吉宗が、日光東照宮へ社参した。
  幕府の権威を象徴する行為である日光への社参をした。
1728年6月13日、世相:象(2頭、牡と牝)が長崎に渡来し、
  翌年、江戸までの道中を通交し、江戸で飼育される。
  これは、吉宗が中国商人に注文して、輸入されたもの。
  この象は、ベトナムのホイアンあたりのものという。
  二人のベトナム人の象使いが付き添っていた。
  また、このベトナム人象使いのための通訳が、中国人
 で二人来た。
  牝象(5歳)は、長崎到着後、3ヶ月後の1728年9月11日
 に死亡した(舌にはれものが出来た)。
  残った牡象(7歳)は、1729年3月13日に、江戸ヘ向け
 出発した。
  3月22日下関通過、4月18日兵庫泊、4月18日尼崎泊、4
 月20日大阪着、4月25日伏見着、4月26日京都入り、
  途中のこの京都では、この象に位が与えられた。
  1729年4月28日には、中御門天皇陛下がご覧になった。
  象は、うやうやしく前足を折り曲げ、最敬礼の所作を
 演じた。
  発注をした時、発注を1727年に受けた中国人の呉子明
 の返事は、「中国の諸省には象は居ません。シャムの地
 より出るものとか、象の小屋や飼い方はシャムで訪ねる
 など・・」と。
  そして、5月25日に、江戸に着いた象は、江戸っ子から
 熱狂的な歓迎を受け、その熱狂の江戸市中を練り歩き、
 浜御殿に収容された。大ブームとなった。
  出版界は大賑わいだった。
  書物、漢詩集、瓦版、錦絵など、象、象、象となった。
  また、歌舞伎も象をあしらった関連グッズなどを販売
 した。
  象は、その後10年以上に渡って浜御殿(浜離宮恩賜庭
 園)で幕府が飼育にあたった。
  吉宗は、到着後の5月27日に、象と対面しているが、象
 を見るのを楽しみの一つとして、何度も江戸城に召し出
 したという。
  その後、この象は、1741年4月に、民間に払い下げられ
 た。
  掛茶屋を営んでいた中野村(現・東京都中野区)の農
 民・源助が引き取った。
  源助は、見物料を取って象を見せ、また、幕府の許可
 を得て、象の糞を乾燥させ薬として売り出したという。
  象は、1742年12月に病死した(21歳)。
  因みに、象は室町期に日本に来ている。
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2015年7月19日日曜日

(増補版)158D1/3:気になった事柄を集めた年表(1725年~1727年)

題:(増補版)158D1/3:気になった事柄を集めた年表(1725年~1727年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1726年、日本の総人口:26,549,000人。
1726年12月、物価取締令を出した(銭価・物価の高騰抑制
 を命じた)。
1726年、大坂の町人が、1724年に創立した学校・懐徳堂を
 準官学の扱いとする。
1726年、交通:借駕篭の数の制限を廃止した。
1726年8月、令:新田検地条目を制定した(全32条)。
  江戸幕府検地条目の集大成と言うべきもの。
  従来のどの検地条目よりも詳細な規定となっている。
  第1条~4条、検地を受ける村方での準備に関する規定。
  第5条~32条、検地の施行にあたっての地主、作人、反
 別、等級などの決定方法、及び、それらに伴う雑則。
1726年、スウィフト(アイルランド)著の「ガリヴァー旅
 行記」が刊行された。
  出版後、間もなく非常な人気を博した。
  イギリス人の社会や慣習に批判的な視点を与えている。
  「ロビンソン・クルーソー」の方向性を継承していた。
  イギリスは、アイルランドに、経済的な政策において、
 イギリスだけが美味しい・旨いことができる様に仕組ん
 でいた。
  それに反して、アイルランドは極度の貧困にあえいで
 いた、
  スウィフトは、この本が出版以前に、パンフレットを
 用いてイギリス製品のボイコット運動を呼びかけていた。
  イギリス政府から危険人物視されていた。
  その為、出版社は、出版に慎重な姿勢を取っていた。
  この本は、これまでに書かれた道徳と品行に対する風
 刺文学の中で、最も痛烈な一作品であると言われている。
  法において判例上の対立が書かれ、数理哲学が、不死
 の追求が、男性性について、動物を含めた弱者の権利な
 ど、今日の数多くの議論が、予見的に書かれているとい
 う。
  リリパット国とブレフスキュ国は、イギリスとフラン
 スを例えていて、その国際上の問題を表現している。
  その戦争の理由の、両国の意見の違いを表現している
 ・・など。
1726年、チューリップ時代のオスマン帝国、イスタンブー
 ルに印刷所を設立。
  イスラム教徒のイブラヒム・ミュテフェッリカが、イ
 スタンブールに「ミュテフェリカ印刷所」を開設した。
  彼は、オスマン政府の官人であるが、フランスへの使
 節団に随行した経歴のある官僚と共同で、1726年に、印
 刷所の効用を説いた意見書を提出し、アラビア文字文献
 の印刷を認める勅許とイスラム法学者の意見書を得て、
 印刷所を開いた。
  辞書や歴史書など17点の出版物が刊行された。
1727年、経済:米価の下落が著しい
  蔵物の大量出荷により、この頃から、米価の下落が著
 しく、幕府や諸藩の財政が大打撃を受けた。
  しかし、一方下記の記述もある。
  1726年に、幕府の年貢収納量が150万691石と、史上初
 めて150万石を突破した。水野忠之は1万石加増された。
  そして、1727年には、さらに162万1980石となる。
  (1731年や1734年の米価下落の記述は確認した。1727
 年は、年貢の増徴の記述までしか確認できず。豊作貧乏
 があったのか?)。
1727年2月、経済:米相場会所を設立(付随して米会所・
 こめかいしょ)、別名:堂島永来町御用会所1727年~
 1728年、北浜冬木会所1730年。
  大阪御為替米御用会所が、1711年から1726年頃に、幕
 府から堂島に設立を許可され、同会所が米取引をとりし
 きった。
  大阪の堂島に米相場会所(堂島永来町御用会所)が設
 立された(翌年廃止となる)。
  大阪には、17世紀以降、堂島(どうじま)米市場が、
 米取引の中心となるが、それに付随した形で米会所が成
 立する。
  この堂島米会所は、堂島米市場に付随する事務所施設
 であり、堂島米仲買の代表である米方年行司(こめかた
 ねんぎょうじ)が運営にあたった。
  大阪では、1725年~1730年の間に幕府公認の下、3回
 に渡って江戸商人による米会所が設立された。
  この米会所は、米取引所であったが、いずれも大阪商
 人の反発を受けて、短期間で廃止された。
  畿内(きない)直轄都市では、このほかに、堺、兵庫
 に米取引の場としての米会所があった。
1727年、農業:青木昆陽が、芋の栽培を始めた。
  苗を取り寄せし、栽培に成功。
  サツマイモは、新大陸の発見以来、原産の南米からヨ
 ーロッパ、そして、中国へ、→琉球(1605年に、沖縄の
 野国総管が福建省から苗を持ち帰り、
  儀間真常・ぎましんじょうが、栽培に努力し普及させ)
 →種子島(1698年)→薩摩・鹿児島藩(1705年)・・
 九州地方へ、
  昆陽は、島流しになった罪人が、餓死するという事を
 聞いて、離島での栽培植物としてサツマイモに注目して
 いた。
  これを発端として、凶作対策として甘藷を説く「甘藷
 考」を著し、普及に努めた。
  これが、八丁堀の名主・加藤枝直の目に留まり、
  彼の推薦により、大岡越前守に「甘藷考」が提出され、
 奉行に目通りとなった。
  昆陽は、世間では「甘藷先生」と呼ばれていた。
  そして、その本は、吉宗に渡った。
  吉宗は、栽培実験を命じ、小石川御薬園で栽培し、伊
 豆七島・八丈島・佐渡島などに送り、その培養を奨励し
 た。
  また、青木昆陽が栽培法を記した書物とタネ芋を諸国
 に配らせ広まった。
  また一方、栽培実験は、千葉の九十九里浜でも行われ、
 ここでも、栽培実験は成功し、九十九里浜からも広まっ
 た。
  1627年に、南永井村の吉田弥右衛門が、九十九里から
 買って、三富に広まった。
  昆陽の墓には、「甘藷先生墓」と刻まれている。
  また因みに、八丈実紀には、
  「甘藷、薄く切りて日に干し。俵として倉に収む、こ
 れを切干(きんぼし)と云う。和田藤右衛門これを始し
 め、文化文政には辻彦之丞しきりにこれを製し・・今は
 八丈一同にこれ習ふて製し、粮穀トス」とある。
  八丈島に、サツマイモが初めて入って来たのが1727年
 とある。
  これは、吉宗が広めようと八丈島にもたらしたものだ
 った。
  しかし、当初は、栽培法が分からず失敗したという。
  八丈島においての本格的な栽培は、昆陽が、1735年に
 栽培成功してから80年後の1813年だったという。
  千葉の下総では、1735年に、4400の芋が取れたという。
 これが関東での甘藷栽培の初めと言われている。
  因みに、この頃、九州では、飢饉を乗り切ったという
 実績があったが、江戸や関東では、初めは「甘藷を食べ
 ると病になる」などの流言があった。
  因みに、サトウキビも、1727年に、苗を取り寄せ栽培
 が成功し、諸国へ移植したとある。
  また、高麗人参の種子と生根を、対州候が、1721年に、
 朝鮮から入れ、幕府に献じられたという。
  そして、これを小石川薬園と下野の日光に植え、約40
 年後の1763年に、5万株に増やし諸藩に配ったという。
  日本は、民の事を思って一生懸命だった。
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