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2016年10月8日土曜日

(増補版)431E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1886年8月~1886年9月)

題:(増補版)431E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1886年8月~1886年9月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1886年8月5日、内務省が、道路築造標準を告示した。
  国県道の築造標準(内務省訓令第13号)
  國縣道新設又ハ變換二係ルモノ其築造保存方法等取調
 標準
  國縣道ノ新設又ハ變換二係ルモノハ自今左二掲ル所ノ
 標準二從ヒ其築造保存方法等取調差出ス可シ
  但在來ノ道路ト雖モ可成此標準二據リ漸次改良ヲ加フ
 ル儀ト心得ヘシ
             明治十九年八月五日
             内務大臣 伯爵山縣有朋
  第一章 築造計畫
  第一條 國道縣道ヲ新築若クハ改築スルトキハ左ノ圖
     面及書類ヲ調製ス可シ
   一 實測平面圖 縮尺六千分一
   二 實測縦斷面圖 縮尺長六千分一 同高二百分一
   三 實測横斷面圖 縮尺適宜
   四 橋梁隧道暗渠等ノ圖 縮尺適宜
   五 堀割及盛土土坪計算書
   六 一位代價表
   七 工費計算書
   八 計畫説明書
  第二條 實測平面圖ニハ國界、郡界、村界、地名、字、
    宿驛、市街、村落、人家、山脈、丘陵、水流、沼
    澤、森林、原野、荒蕪地、耕地、橋梁、堤塘等其
    外地形ヲ顯ハスニ必要ナルモノハ之ヲ詳記スヘシ
    又高六尺毎二計畫路線近傍地ノ高低線ヲ記入シ計
    畫路線ハ赤線ヲ以テ記シ其丁杭并直線ノ長及方向、
    曲線ノ長及半徑等ヲ詳記スヘシ・・・以下略
1886年8月6日、法律取調所の設置
  条約改正のための法律取調所を外務省に設置した。
  当初、外務省に設置されて、後に、司法省へ移管され
 た。
  法典の起草を行なう機関で、日本の法典整備に大きな
 役割を果たした。
  井上馨外務卿は、1882年1月25日~同年7月27日まで、
 東京において、条約の全締約国の代表を相手に、条約改
 正の予備会議を開いた。
  この席で、イギリス公使ハリー・パークスは、当時、
 同公使館の法律顧問であったカークウッドに意見書を作
 成させ、
  「民法、商法、民事訴訟法についても、刑法と治罪法
 のような泰西(たいせい、西洋)の法原則に基づく法律
 が完成されてから、日本政府の治外法権撤廃の交渉に応
 じよう」という意見を主張した。
  条約改正の本会議は、1886年5月1日~翌1887年7月18日
 まで、東京にて、計27回にわたって開かれ、
  治外法権の問題に関しては、その第6回会議(1887年6月
 15日)に提出された英独案が審議の土台とされた。
  英独案は、条約の批准後2年以内に、泰西(たいせい、
 西洋)の主義に従った「帝国諸裁判所の章程」を制定し、
 刑法、治罪法、民法、商法、海上法、為替手形に関する
 法律、民事訴訟法、破産法の諸法典を編纂する、という
 内容を含んでいた。
  英独案が提案された6月~10月まで、各国代表が、この
 案についての本国の訓令を待つため休会となった。
  その休会中の7月、フランス公使シェンキェヴィッチが、
 司法大臣・山田顕義に対して、「日本が近く備えるであ
 ろう諸法律の体系をばらばらにしない必要」があるが、
 「そのためには、一人の大臣を委員長とし、法典起草を
 担当する外国人を委員とする委員会を作るほか良策はな
 いのではないか」と進言した。
  山田司法大臣は、この進言を入れ、井上外務大臣と協
 議を行い、山田から伊藤博文総理大臣宛に、法律取調委
 員会を設けること、
  その委員長には、井上を任命することが上申された。
  委員長、各委員は、伊藤より天皇陛下の裁可をへて、
 1886年8月6日付で任命された。
1886年8月9日、金玉均が小笠原へ。
  亡命中の朝鮮の政治家・金玉均が、小笠原島に移され
 た。
1886年8月13日、地所売買譲渡規則などを廃止し、登記法、
 公証人規則を公布した。
  登記法公布(施行1887年2月1日): 公文式による法律第
 1号。
  また、フランスの制度を参考にして「公証人規則」が
 制定され、3年後に第1回の任命が行われて123人が任命さ
 れた。
  だが、この時には、公正証書の作成は出来ても認証権
 限は存在しなかった。
1886年8月13日、長崎上陸の清国水兵暴虐事件起こる。
  長崎で、清国水兵が飲酒暴行容疑で逮捕される。
  8月15日、長崎で、清国水兵が暴動を起こし、日本巡査
 との間で争乱となる。
1886年8月17日、農商務省が、蚕種検査規則を公布した。
  8月、蚕微粒子病(=黒痣病)予防のため、農商務省は、
 蚕種検査規則を発布し、
  各府県に、検査所を設置させ、蚕種の微粒子毒検査を
 義務づけた。
  1886年の農商務省制定の蚕種検査規則を受けて、南多
 摩郡八王子町(当時は神奈川県の管轄)に置かれていた神
 奈川県蚕種検査所が明治36年(1903年)に横浜に移転。
  その2年後には、愛甲郡厚木町に出張所を設けた。
1886年8月、近江麻糸紡績会社が設立された(1884年6月説
 あり)
  吉田健作は、福岡県みやこ町出身の官吏・技術者で、
 日本の近代製麻業の創始に貢献した人物。
  1852年(嘉永5年)、豊前国京都郡上田村(現みやこ町
 勝山上田)に生まれる。
  村上仏山の漢学塾・水哉園で学んだ後、小倉県の職員
 となる。
  しかし、日本の近代化、発展のため、殖産興業に貢献
 したいという強い思いがあった健作は、県職員を退職し
 て上京、内務省に入る。
  殖産指導の技術者となった健作は、フランスへ渡り製
 麻技術を学び、帰国後は産業 視察のために全国をまわり、
 製麻業創立を企画。
  1886年(明治19年)に、近江製絲紡織会社、
  1890年(明治23年)には、北海道製麻会社や下野麻紡
 織会社の設立にかかわり、日本の製麻業を育てた。
  当時の日本にとって、麻布は、必要不可欠なもので、
 製麻業の発展にはとても重い意味があった。
  1892年(明治25年)没した。41歳の若さだった。
  弟の吉田学軒は、漢学者で、元号「昭和」を創案した
 人物として広く知られている。
  1894年(明治27年)2月、滋賀県大津市の園城寺境内に
 吉田健作の顕彰碑が建立された。
  顕彰碑には「近江麻糸紡織場の創立等、わが国紡績業
 の先駆者吉田健作の顕彰碑」と刻まれている。
  また、故郷みやこ町勝山上田には、吉田健作の墓があ
 る。
  (福岡県みやこ町ホームページより抜粋した)
1886年8月、演劇改良会
  是月末松謙澄ノ主唱ニヨリ、内閣総理大臣・伊藤博文、
 外務大臣・井上馨、外、朝野名士及ビ実業家多数援助ノ
 下ニ演劇改良会成立ス。
  渋沢栄一、井上馨・森有礼・福地源一郎・大倉喜八郎・
 外山正一・穂積陳重等ト共ニソノ発起人トナル。
  更ニ、同改良会ノ趣旨ニ基キ、福地源一郎・安田善次
 郎・益田孝・大倉喜八郎・岩崎弥之助・千葉勝五郎等ト
 共ニ改良劇場設立ノタメ資本金二十五万円ヲ以テ演劇改
 良会社創立ヲ企画シ、栄一之ヲ援助ス。
  翌二十年九月六日会社ノ設立ハ許可サレシモ、ソノ後
 改良会ノ不振ニヨリ同会社ノ設立ハ挫折ス。
.
  (今日の言葉)
.
  題:2008年のこと・・
    その1:アメリカ軍が・・引き上げた。
.
2008年12月、韓国のアメリカ軍が引き上げた。
  日本の対馬が、共産政権と対峙する最先端になる可能
 性が高まった。
  ・・今、ニコニコと日本人はレストランで食事をして
 いるが??
  脅(おど)かすつもりはありませんが、北朝鮮のロケ
 ット(核を積んだロケット)は、日本へ7分で飛んで来る。
  また、中国の核弾頭のロケットは、約200発が、日本へ
 向けられている。
  国防に無関心ではいけません。
  愛する方々を守るために、ある程度の国防をしなけれ
 ばいけません。
  国を守ることに、反対ばかりしていてはいけません・・、
  その様な現状にあって・・、
  オバマ政権が、ブッシュ政権からの引継ぎを始めた頃
 のこと・・、
  アメリカ軍は、ブッシュ大統領と韓国の李明博大統領
 との取り決めを破って、
  アメリカ軍の戦闘部隊を、アメリカ本土へ引き上げ始
 めた。
  韓国のアメリカ軍筋によると・・、
  2008年12月、アメリカ陸軍は、ソウルの東ほぼ145キロ
 にあるキャンプ・イーグルから、第一線の戦闘ヘリコプ
 ター一個大隊を、
  アメリカ本土のコロラド州フォート・カールソンへ引
 き上げる準備を始めた。
  このアパッチヘリコプター部隊は、北朝鮮が、韓国に
 侵入してくるのを探るために、アメリカ陸軍が展開して
 いる最新鋭の部隊で、
  極めて戦闘能力の高いアパッチヘリコプターを中心に
 装備している。
  このアパッチヘリコプター部隊を、アメリカ軍は、い
 ったん、コロラド州のフォート・カールソンに引き上げ
 た後に、
  機体を整備し、隊員に休暇を与えた後、
  2009年秋には、アフガニスタンの山岳地帯へ展開する
 予定にしている。
  「このアパッチヘリコプター部隊は、戦闘能力が高い
 うえ、機動力に優れている。
  アフガニスタンの山岳地帯での戦闘に必要になったの
 で、移動させる。
  韓国側からは抗議の声が上がっているが、アフガニス
 タンで、新しい戦闘を行なうためには移動せざるを得な
 い」。
  ペンタゴン当局は、こう述べている。
  こうした国防総省の発表は、ブッシュ政権から留任が
 決まったゲイツ国防長官が、オバマ大統領の意を受けて
 行ったものとみられている。
  この大幅削減は、韓国政府とブッシュ大統領との直接
 の話し合った結果、中止されるはずだった・・が、
  韓国のアメリカ軍は大幅に減ってしまった。
  尖閣諸島もそうだが、対馬も、共産政権と接する形に
 なって来ている。
  そして、今、本当に日本を守るために・・「専守防衛
 」だけで良いのか?
  『いざという時には使いますよ』という「攻撃型兵器」
 を持たなければいけない時が来たのではないか?
.
  題:その2:アメリカと中国の関係、
        そして、日本との関係・・、
.
2008年12月16日、アメリカと中国の貿易戦争で、この日、
 アメリカの訴えをWTOの上級裁判所が支持した。
  中国は、共産主義の国。
  共産党の一党独裁である。
  市場経済システムを取り入れてはいるが・・、筋の通
 らない社会システムではあった。
  何しろ豊かになればいいのだ・・だった。
  その中国が豊かになった。
  しかし、格差はひどかった・・。
  中国とアメリカは、深刻な対立を起こさずにやって来
 た。
  何とか調子を合わせてやって来た・・が、
  しかし、中国は、経済の拡大に成功するとともに・・
 傲慢(ごうまん)になった来た。
  2008年9月、中国は以下の事を発表した・・、
  「中国のブランドを世界的なブランドとして権威づけ、
 世界的に大いに売り出す」・・と。
  この計画の考え方は、保護貿易の考え方にほかならず、
 アメリカは、WTO(世界貿易機関)の規則違反と訴え
 た。
  また、オバマ政権は、中国が、自動車部品に「25パー
 セント」の高率な関税を課していると、著しい自由貿易
 違反だと、WTOに「断固とした措置をとるように」と
 申し入れた。
  これは、自由貿易違反と判定され、さらに、2008年12
 月16日に、WTOの上級裁判所が、その判定を支持した。
  アメリカは、中国の『保護貿易的側面』を強く指摘し
 た。
  この頃、アメリカも保護貿易への動きの気配があった。
  特に、自動車業界が荒れていた。
  保護貿易を求める動きにあった。
  「保護貿易は保護貿易を呼ぶ」と言われる。
  世界中の国々で、「自国の雇用の確保のために・・」
 という標語で、保護貿易にしたいという風潮にあった。
  震源地は中国だった。
  中国は、何しろ! 人民元を安く抑えるという為替操
 作をしている。
  これが第一の『保護貿易行為』で、アメリカは黙認し
 て来た。
  安い人民元にしていれば、いとも簡単に輸入を防げる。
  中国には、これが許されて来ている。
  その安易な対応が、今、積もりに積もって、抜き差し
 ならない所まで来ている。
  2008年12月、これまで、毎年2回、開かれて来た「アメ
 リカと中国の経済戦略会議」が開かれた。
  ブッシュ政権の下での最後の会合だった。
  その前の2008年6月の会合では、アメリカの金融の混乱
 や、それに伴う騒ぎについて、中国側が、アメリカに厳
 しく説教した。
  この12月の会合では、さらに、中国側のアメリカに対
 する態度は、一段と厳しいものとなった。
  「アメリカ人は貯蓄をしない」、「浪費が激しい」、
 「今度の金融混乱を生じさせた」・・と、厳しく批判し
 た。
  これまで、アメリカに叱られてばかりいた中国だった
 が態度が変わった。
  アメリカの基本的な考え方は、「中国を、世界の経済
 体制に引き込む」だった。
  しかし、時を経て、貿易戦争の端緒があった。
  そして、この様は中国と日本とを比較すると・・、
  中国は、自国の主張を、良いか悪いかは別にして、し
 っかりアメリカに言えている。
  しかし、日本は、この様なことが出来ていない、言え
 ていない。
  何故か?
  やはり、自国の防衛を、アメリカに頼っているからに
 他ならない。
  だから、ひ弱な、軟弱な日米関係になっているのだ。
  皇室の事まで・・アメリカにとやかく言われる、内政
 干渉の極みの事まで・・アメリカの好き勝手が言われる
 状態になっているのだ。
  その様な日本になっているのだ。
  主権を持った独立国家となっていない。
  男尊女卑にかこつけて言われている。
  アメリカにも男尊女卑の面は多くあるのに、自分の国
 はさておいて、日本の皇室に関して、特に、とやかく言
 っている。
  卑劣な国=アメリカである。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
 

2016年10月7日金曜日

(増補版)430E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1886年7月~1886年8月)

題:(増補版)430E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1886年7月~1886年8月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1886年7月26日、陸軍検閲条例、陸軍進級条例を改正した。
 (7月24日説あり)
  1886年7月24日の監軍部廃止、陸軍検閲条例改正、陸軍
 武官進級条例改正は、進級に関わる監軍部長の学術シス
 テムを廃止した。
  そして、定期検閲の時期に進級・順序を定めるために
 学術を検査する陸海省の事務システムを作った。
  これに対する反対意見もあった。
  三浦梧楼著の「陸軍改革意見」「陸軍改革衝突事情」
 に、みられるように、
  薩長の情実人事打破を主張し、将校の進退黜陟(ちっ
 ちょく、功の有無により、官位を上げ下げすること)と
 実力・人物本位の均衡をはかる独立機関を作る必要性を
 構想していたことから、この改革には反対していた。
  (このことにより、功のない、人望だけの人は退けら
 れた)
  (観樹将軍回顧録 復刻版より抜粋・参考にした)
1886年7月31日、箱根離宮(函根塔ノ島離宮)が落成した。
  県立恩賜箱根公園は、「旧箱根離宮」跡地に広がりま
 す。
  観光地「箱根」の中心かつ離宮跡地だけあって、公園
 からの眺めは秀逸です。
  芦ノ湖や周りを囲む箱根外輪山、富士の峰が一望でき、
 その見事さから「かながわ景勝50選」のひとつにも選ば
 れています。
  公園のほぼ中央に、旧離宮本館の礎石が残されていま
 す。
  その正面 に建つのが、かつての離宮を思わせる「湖畔
 展望館」です。
  展示されている函根離宮の資料が、華やかな時代を物
 語ります。
  2階のバルコニーからは、離宮時代にも劣らない秀景を
 観賞することができます。(中略)
  明治17年、当時、笹の密集していた塔ヶ島を中心に
 163000平方メートルを買収し、離宮の造営が始まりまし
 た。
  明治19年7月に完成した箱根離宮は、二階建ての西洋館
 と日本館を中心に、官舎・兵舎が建ち並び、華麗な姿を
 芦ノ湖に映していましたが、
  大正12年の関東大震災・昭和5年の北伊豆地震と続いた
 災害によって倒壊してしまいました。
  その後、箱根離宮を再建する計画もありましたが、時
 代が戦争へと大きく傾いてゆく中にあって、再建計画は
 打ち切られてしまいました。
  そして、終戦後の昭和21年3月18日、離宮跡地は、神奈
 川県に御下賜され、
  神奈川県は、ここを整備し、その年の5月5日、「恩賜
 箱根公園」として、一般に開放いたしました。(後略)
  (神奈川県立 恩賜箱根公園ホームページより抜粋)
1886年7月、帝国大学運動会(組織)を結成した。
  この組織は、日本の学校での体育会・校友会組織の最
 初で、
  以後・・、
  1887年:高等商業学校運動会
  1890年:第一高等中学校校友会
  1892年:慶應義塾体育会
  1896年:高等師範学校運動会・・が設立された。
  そして、高等教育機関における、スポーツクラブの活
 動が軌道に乗り、
  学校間の対抗競技が活発になって行った。
  この様な動きは、中等教育機関にも影響して行き、
  1900年頃より、同様な、校友会組織が設立されて行っ
 た。
1886年7月、学士会が創設された。
  帝国大学(現在の東京大学)の卒業生の同窓会組織と
 して創立された。
  学士会は、次の資格を備えた正会員と、学生会員(1の
 大学に在学する者)により構成される組織とある。
  1.東京大学、京都大学、東北大学、九州大学、北海道
 大学、大阪大学、名古屋大学、及び、その前身の帝国大
 学、京城帝国大学、台北帝国大学出身の学士
  創立は、1886年(明治19年)4月18日。
  帝国大学(現在の東京大学)を卒業した学士たちが、
 小石川植物園で開いた「加藤弘之先生 謝恩会」の席上、
 このような卒業生の親睦会を継続したいという気運をき
 っかけとして、同年7月に創設された。
  その後、各帝国大学の卒業生にも学士号が与えられて、
 学士会に入会した。
  会員数は約4万9000人。
1886年8月1日、長崎事件が起きた。
  長崎に来航した清国北洋艦隊水兵が起こした暴動事件。
  長崎清国水兵事件とも呼ぶ。
  1886年7月、清国の北洋艦隊が、朝鮮東岸の元山に出動
 した。
  これは、朝鮮問題をめぐり、当時、清と対立していた
 ロシアを威嚇するためだった。
  この出動の帰路に、艦隊は長崎に寄港した。
  寄港の目的は、燃料の補給、及び、北洋艦隊の主力で
 ある定遠級戦艦の修理だった。
  特に、定遠級は、当時、修理が必要な段階に来ていた
 が、当時の東アジアには、巨大な定遠級を受け入れられ
 るドックが、長崎にしかなかった。
  8月1日、清国の出師提督の丁汝昌が率いる北洋艦隊の
 主力艦の定遠、鎮遠、成遠、済遠の4艦が入港した。
  旗艦の定遠に丁汝昌が、鎮遠に副提督の英国士官・ヤ
 ングが乗船していた。
  山のような鋼鉄艦隊の停泊は、港内を圧した。
  8月13日、長崎の花街・丸山界隈は、宵の口から清国
 水兵たちがゾロゾロと姿を見せた。
  寄合町の遊廓、遊楽亭に、5人の水平が登楼するが断
 られた。
  カッとなった酔いどれ清国水平たちは暴れだした。
  戸障子やフスマをやぶり、手がつけられない状態にな
 った。
  楼主は、「ご注進」と丸山の派出所へ。
  黒川小四郎巡査がかけつけ、その場は鎮めた。
  しかし、夜9時頃、士官につれられた14、5人の水兵が
 丸山派出所を取り囲んだ。
  黒川巡査は、取調中に逃げだした1人を見つけ、素手で
 捕らえようとした。
  水兵は、剣を抜いて、頭に切りつけた。
  黒川は、ひるまず、肩車で投げ飛ばす。
  血まみれになり逃げる水兵を追跡、船大工町の片峰薬
 局の格子戸に頭をぶつけ倒れた大男。
  西、島田両巡査の応援で逮捕。
  大男の王発は、鎮遠乗組みの水兵。
  外国人は、治外法権により日本では処罰ができない。
  夜、長崎署の田川基明警部が、清国領事館を訪ね大王
 発を引き渡す。
  王発は、怪我をしており、領事蔡軒の要求で、長崎病
 院で手当てを受けさせる。
  夜の騒ぎで、市民の吉川兼太郎が、数人の清国水兵に
 袋叩きにあい、重傷を負う。
  8月14日、朝、領事の蔡軒が、県庁舎に知事の日下義雄
 を訪ねる。
  清国側は、水兵の集団上陸を禁止。
  上陸の際は、必ず、監督士官を付き添わせるという平
 和協定ができた。
  しかし、協定は守られず、多数の清国水兵が、上陸し、
 広馬場、本籠町、船大工町、山の口、本石灰町一帯は不
 穏な空気となった。
  8月15日、朝、清国水兵が、上陸をはじめ、
  昼ごろには、450~60人にふくれあがった。
  水兵たちは行動をはじめた。
  街角や店先で、日本人に乱暴をし、市民と小競りあい
 となった。
  広馬場受け持ちの梅香崎署の坂本半四郎が、巡察中に、
 水兵の一団に捕まる。
  水兵たちはののしり、中の一人は小刀をふり回すなど、
 挑発的な態度をとるが、
  坂本は我慢した。
  坂本は、その場を切り抜け梅香崎署に駆けもどり、報
 告、
  警備巡査の増派を要請した。
  広馬場へ、福本富三郎と喜多村香巡査、本籠町の立番
 所に黒田雲章巡査を配置した。
  夜8時、清国居留民が、福本の棍棒を引ったくろうとし、
 福本はふり返す。
  清国居留民が大声でわめく。
  恩福楼、宝和楼など料理店で、酒を飲んでいた清国水
 兵が喚声をあげて飛びだし、立番の3巡査を包囲した。
  ジリジリと迫り、帯剣のない無防備の3巡査にいっせ
 いに躍りかかる。
  頭を殴られ倒れた福本は、刀で突き刺される。
  喜多村も昏倒。
  重傷を負った黒田は、梅香崎署になだれ込む。
  福本と喜多村は、市民により付近の民家に運ばれ手当
 てをうける。
  福本は息が絶えた。
  喜多村は重傷。
  梅香崎署の小野木源次郎は、清国領事館に報告、
  鎮圧を要請。
  吉田警部補を指揮官とする警官隊7、8人を広馬場へ
 走らせる。
  清国水兵は加勢が来たと勘違い。
  警官隊は、広馬場の四つ角で取り囲まれ、殴られ、蹴
 られ、切りつけられる。
  鎮圧の方針でいた小野木署長は、腹を決め全署員に帯
 剣を命じた。
  梅香崎署は、外国人居留地を管内にもち、外国人との
 いさかいを避けるため常時帯剣を警棒に替えていた。
  清国水兵たちは、士官に指揮され、50人~60人ずつの
 一団となり梅香崎署を襲撃した。
  40人足らずの署員は必死に攻防。
  襲撃は、数回続けられ、その都度、勇敢に撃退。
  上陸した清国水兵は、500人に近い。
  一隊は、船大工、丸山、寄合町付近でも暴れだす。
  人力車で駆けつけた長崎署の森監督巡査は、山の口で
 水兵に囲まれる。
  いきなり胸を刺され車から転げ落ち、市民が、長崎病
 院に担ぎ込むが、その後、息を引きとった。
  市民は、十善寺、大浦、小島、丸山一帯から中央地区
 まで伝令がとび、血気の若者は殺気立つ。
  清国の士官が、停泊中の4艦から仲間を呼ぼうと連絡
 員を飛ばす。
  小野木署長は、水上署長に連絡。
  海陸の交通網を全てを遮断。
  時宜を得た措置となる。
  ノコギリ、ノミ、カミソリ、包丁とあらゆる凶器を動
 員し、凄まじい乱闘がはじまる。
  怒号のなかに血が飛び、怪我人が続出。
  次第に清国水兵が追いつめられる。
  県警察部から警部以下多数が出動して、鎮圧に努める。
  8月16日、午前2時、街が平静を取り戻す。
  「清国水兵事件」で、日本側は、警察官を含め即死1、
 負傷後死亡1、重軽傷29
  清国側は、即死4、負傷後死亡4、重軽傷42
  日下知事は、内務、外務両省に報告、
  清国との談判に備え事件の真相調査、証拠品の収集に
 全力をあげる
  外務大臣の井上馨から訓令が届く。
  「清国北洋艦隊の将校と談判し、互いに後事を戒むる
 方法を講じ、大事に至らぬよう注意を加うべし」
  8月17日、総理大臣の伊藤博文から示達。
  「事件処理のため外務省に一局を設け、外務、内務、
 司法各省から委員1人ずつを任命した」
  政府は、事件を重大視、事件の不拡大を望む。
  8月20日、内務省警保局長の清浦奎吾が、8月23日、司
 法省刑事局長の河津祐之、外務省取調局長の鳩山和夫が、
 長崎に来る。
  9月6日、善後措置を講じ、日本側は、鳩山と日下知事
 を談判委員として清国側と話合いに入るが、ラチがあか
 ず。
  11月、長崎での談判が打ち切られる。
  1887年(明治20年)3月、事件調べが、清国北京に移さ
 れる。
  後に、東京での、井上外務大臣と徐清国公使との会談
 で和議が成立。
  事件はようやく解決する。
  「関係者は、それぞれの国の法律で処理する」。
  「双方の死傷者に対し、互いに弔慰金、見舞い金を送
 る」
.
  (今日の言葉)
.
  題:日本への包囲網は・・もう、この時に出来ていた。
    アメリカが、既に、決めていた方針だった・・
    それなら・・行くべきところへ行くしかないじゃないか・・
.
1929年~1930年、この頃から、アメリカの日本追い落とし
 が酷くなって行ったが・・
  それ以前は、一旦は、日本を取り込もうとはなったが、
 しかし・・、
  この頃から、アメリカの『日本追い落とし政策』の真
 っただ中になって行く・・、
  満州は、アメリカも権益が欲しかったところだった。
  満州鉄道を、日本は、多大な投資をして、土地の人々
 も潤うという社会資本投資をする日本だった。
  日本のやり方は、この様に自らのお金で、その地を良
 くして、
  そして、利益を得るというやり方だった。
  勿論、その土地の人々も、その利便を得るという方法
 だった。
  アメリカやヨーロッパの、米欧列強の国の様な、ただ、
 ひたすら利益を収奪するだけというやり方ではなかった。
  戦後、日本が、敗戦となって、日本が引き上げた後に、
 その置いてきた社会資本で、残されたそれらの社会資本
 =鉄道や、ダムや、学校や、橋や、その他のもろもろの、
 色々な社会資本で・・、
  この社会資本を基盤に、これ等の国々が豊かになった
 ことが、何よりの証拠となっている。
  この様な話が・・話されることは、めったにない。
  本当は、ありがたい訳なのに・・?
  台湾の方々だけが、真実を口にして戴いていて、小学
 校の教科書にも記して戴いていると聞く。
  アメリカのプロパガンダ(嘘宣伝)は、こんな事は、
 おくびにも言わない。
  ただ、ひたすら日本は悪かった・・である。
  満州事変だって・・プロパガンダされている。
  まず、アメリカに支援された中国の国民党軍がいる。
  ふんだんに『金と武器の支援』をアメリカは与えてい
 る。
  軍事顧問団も支援し、援助されている。
  「日中戦争」なんていう名称は正しくない。
  「日中(米)戦争」、または、「日・中米戦争」だ。
  れっきとしたアメリカの正規軍が、秘密裏に投入され
 ている。
  アメリカ大統領が、日中戦争への参加を許可している
 ことが公(おおやけ)になっている。
  一緒に「日本の追い落とし戦略」が行なわれている。
  1929年~1930年に行われたことは、露骨で卑劣なやり
 方だった。
  満州には、満州族(女真族)の方々(中国の漢族では
 ない)の他に、20万人の日本人が居た。
  満州の地を開拓して、夢を叶(かな)えたいという
 人々だった。
  また、同じく、夢をかなえたいと朝鮮の方々が80万人
 居た。
  (この時、日本と朝鮮は、併合という形で一体だった)
  ロシアの地で差別を受けたた白系ロシア人の方々や、
 弾圧されていたユダヤ人の方々や、蒙古人の方々も含む
 協和の地だったのだ
  この日本人がターゲットにされ、また、朝鮮の方々が
 巻き添えになった。
  今・現代でも行われる百貨店襲撃の様な行為である。
  現地の日本人会は、日本政府に訴えるが、日本政府の
 姿勢は、『穏便に解決したい』だった。
  また、地方政権に訴えるが、この地方政権は、中華民
 国の東三省の政府で、中央の息がかかっているから、ま
 ったく取り合おうとしない。
  日本政府も蒋介石の中央政権へ訴えるが、「現地の政
 権と交渉してくれ」と逃げた。
  日本の投資した事業も経営が苦境に陥(おちい)って
 来る。
  日本人や日本企業は、経済的に追い詰められるだけで
 はなく、生命の安全も保てなくなって行く。
  上海でも、どこでもやり方は一緒だった。
  この様な手順で追い詰められて行った。
  今までの恩も義理もなかった。
  日本政府の穏便に話し合っていこうという方針は空転
 した。
  先方に、お互いの立つ瀬をつくろう、それを探ろうと
 いう立場が無ければ、努力は空転するしかなかった。
  至る道は、至るところに行くしかなかった。
  中国政府の国民党の方針が、一段と過激になった。
  その戦略は、一挙に「日本の全面排除」になった。
  これは、戦争に至るという方針だった。
  アメリカに支援された国民党の強硬方針だった。
  日本政府は『国際協調』が大方針だったが、思うよう
 に進まない事態が起きて行った。
.
  (追伸)
  当時、満州の関東軍の責任者だった東条英機は、逃げ
 て来たユダヤの方々を、満州に受け入れている。
  日本は、国としても、ユダヤの方々の入国を受け入れ
 ていた。
  日本は、ユダヤ人の方々の入国許可を与えていた。
  キリスト教が嘘をつく杉浦千畝のこと・・、
  杉浦千畝は、キリスト教徒だったから、キリスト教は
 ウソをデッチ上げた。
  さも、日本がユダヤ人の方々の入国を許可していなか
 ったと・・、まったく卑劣である・・、
  これは、キリスト教の卑劣なウソなのである。
  日本の大使館は、どこでも、ユダヤの方々へビザ(査
 証)を発行していた。
  杉浦千畝だけではない・・、
  日本を貶(おとし)めてまでして、キリスト教を美化
 しようとするキリスト教は・・本当に卑劣だ。
  もう、こんないい加減なウソを言うのは止めなさい!
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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2016年10月6日木曜日

(増補版)429E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1886年7月~1886年7月)

題:(増補版)429E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1886年7月~1886年7月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1886年7月19日、東海道経由に変更
  関東~関西間の鉄道計画を、中山道から東海道路線に
 変更した。
  東京と大阪を結ぶ幹線を、工期が半分に抑えられると
 して、東海道経由に変更すると公布された。
  中山道経由は、全体に山岳区間で難工事が予想された
 という理由だった。  
  高崎~横川間開通(1885年)
1886年7月20日、地方官官制が公布され、府知事・県令の名
 称を知事に統一した。
1886年7月22日、モッセが、町村制に関する意見書を提出し
 た。
  ドイツの公法学者の御雇外国人アルベルト・モッセは、
 内相の山形有朋の諮問に答えて、市制・町村制に関する
 意見書を起草した。
  これを契機として、町村合併による改革が図られ、
  これが、地方制度の骨格となった。
  (1884年4月に、制定公布された)
  そして、地方行政制度の創設や、両院同権の二院制、
 制限間接選挙制、憲法制定について助言して行く、
  1890年に、帰国した。
  因みに、1882年~1883年、憲法取調べ(調査)のため
 渡欧した伊藤博文に、グナイストの推薦で、憲法と行政
 法を詳述した。
  これが、『莫設(モツセ)氏講義筆記』となった。
1886年7月24日、監軍本部が廃止された。
  監軍部(かんぐんぶ)は、日本陸軍の組織で、二つの
 同名称の組織があり、
  第一次は、師団司令部の前身といえるものと、
  第二次は、教育総監部の前身。
  1878年(明治11年)12月13日、監軍本部条例(太政官
 第52号達)により「監軍本部」が設立された。
  監軍本部は、師団司令部の前身といえるもので、本部
 を東京に置いた。
  そして、各軍管を管轄した。
  1885年(明治18年)5月18日、監軍部条例の制定により
 監軍本部を「監軍部」と改称し、
  1886年(明治19年)7月24日のこの時、廃止された。
  そして、1887年(明治20年)6月2日、監軍部条例(勅
 令第18号)が制定され、
  教育総監部の前身である第二次「監軍部」が設置され
 た。
  任務は「陸軍軍隊練成ノ斉一ヲ規画」する陸軍の教育
 を担当した。
1886年7月26日、亡命中の朝鮮独立運動の志士・金玉均が、
 日本に遊説中に、神奈川県において拘留の難に遭った。
  理由は、外交上問題を起こす可能性として拘留された。
  俊英だった彼は、22歳で科挙に合格し、
  中堅官僚として、近代化を推進するために、開化思想
 に目覚めていった。
  1882年(明治15年)年2月~7月にかけて初来日し、大
 阪に滞在した。
  福沢諭吉ら多くの支援者と出会う。
  既に、朝鮮からは前年の1881年(明治14年)に2名の留
 学生が慶應義塾で学び、1名が同人社に入学していた。
  1884年(明治17年)12月4日に、金玉均らは、クーデタ
 ー(甲申事変)を起こした。
  しかし、清国の介入で失敗。
  そして、日本に亡命。
  亡命中は、日本政府は、国際関係を配慮して中立、
  しかし、玄洋社の頭山満ら多くの支援者に出会った。
  そして、この年・1886年、日本に居る状態は、庇護し
 ている状態となっているため、外交上の事もあり、
  6月に国外退去も伝えた・・が、横浜へ向かって、治外
 法権だった横浜居留地内(グランドホテル)に留まった。
  日本政府は、退去命令を出した。
  そして、神奈川県令が本人に令達するが、本人は拒否
 した。
  約1ヶ月半の後、グランドホテルで拘致(こうち、捕ら
 えて連れて来ること)し、
  野毛山の三井別荘に拘留された。
  その後、金玉均は、国外追放にはならず、小笠原で生
 活した。
  体調を崩したので、一時、北海度に行き、
  また、内地で暮らす事が許された。
  支援者とも交流した。
  そして、1894年(明治27年)周囲の制止を振り切り上
 海へ渡る、この地で暗殺された。43歳。
  日本人妻が居た。
  暗殺者は洪鐘宇。
  暗殺者は、逮捕後に朝鮮政府の交渉により釈放された。
  福沢諭吉は、上海で暗殺された金玉均の供養のため、
 法名もつけてもらい、篤く葬った。
  法要も、諭吉邸で営まれ、遺髪などを持ち帰られて、
 葬儀も営(いとな)まれた。
  墓所は、東京文京区の真浄寺。
  また、友人・有志が、青山にも墓地を建てた。
  墓碑には、朴泳孝の撰文、興宣大院君の孫である李埈
 鎔の書で・・以下が刻まれた。
  「嗚呼、抱非常之才、遇非常之時、無非常之功、有非
 常之死(以下略)
  (ああ 大変な時期に たぐいまれなる才を抱き 大きな
 功績を残せず 無情の死・・)
  尚、金玉均の朝鮮における妻子は処刑されたとも、逃
 亡したとも言われていたが・・?
  1894年(明治27年)に、日本軍が、偶然、忠青道で発
 見した。
  妻子二人は、憐れむべき姿だったという、
  そして、朴泳孝、徐光範が預かることとなったが、
  この妻子は、金玉均が暗殺されたことも知らなかった。
  日本政府にとって、初めての政治亡命の受入れ者だっ
 た。
  因みに、暗殺者の洪鐘宇は、朝鮮へ帰国後に高宗から
 激賞され、守旧派の一員として要職に就いた。
  そして、開化派を弾圧した。
  だが、甲午農民戦争後に、日本が圧力を強めたことか
 ら1903年に失脚し、済州島に流され、それから10年後に
 没した。
.
  (今日の言葉)
.
  題:アメリカ本土爆撃
.
1942年4月21日、アメリカ合衆国本土への爆撃へ
  この日、軍令部に呼び出された藤田信雄(日本海軍軍
 人)は、
  その場で、首脳部より単独によるオレゴン山中への空
 爆命令を拝した。
  藤田の操縦の腕を買われたものだった。
  藤田には、この作戦で生還する自信がなく、出発前日
 の1942年8月14日に、家族に宛てた遺言書を残している。
  1942年8月15日、藤田は、横須賀より伊25でアメリカへ
 と向かった。
  1942年9月9日(水曜日)の午前6時、日本海軍の潜水艦・
 伊25は、カリフォルニア州とオレゴン州の境界線の西側
 に浮上した。
  藤田と奥田兵曹が搭乗するEY14は、2個の焼夷弾(合計
 155キログラム)を積み飛び立った。
  (日本は、潜水艦から飛行機が飛び立てる技術を持っ
 ていた)。
  藤田の投下した焼夷弾のうち1個は、オレゴン州のエミ
 リー山脈のホイーラーリッジに落ちている。
  もう片方の爆弾の落下地点は不明である。
  ホイーラーリッジに落ちた焼夷弾により、ブルッキン
 グズの東約15キロの地点で、小規模の火災が発生したが、
 アメリカ林野部によってすぐに鎮火された。
  その前夜に雨が降っていたため、森林は、とても湿っ
 ており、結果として爆弾の効力はほぼなくなっていた。
  帰国後、藤田は、上官より「木を一本折っただけでは
 ないか」と叱責されたという。
  藤田の乗った飛行機は、シスキュー国有林の監視台に
 いた2人の男性、ハワード・ガードナーとボブ・ラーソン
 によって発見される。
  他の監視役(チェクトポイント監視台とロングリッジ
 監視台)は、敵機来襲を報告したものの、濃霧のためそ
 れを確認することはできなかった。
  また、藤田機は、ブルッキングズを通過した際にも、
 多くの人々に目撃されている。
  同日正午ごろ、エミリー山脈の監視台にいたハワード・
 ガードナーが、煙が上がっていることを報告し、
  4人のアメリカ林野部の作業員によって、この火災が、
 日本の爆弾によって引き起こされたものであることが判
 明した。
  その後、爆弾の先端部分を含む約25キログラムの断片
 が、アメリカ軍に引き渡された。
  爆撃実施後、伊25は、警戒中のアメリカ陸軍航空軍の
 航空機によって攻撃を受ける。
  オレゴン州ポートオフロードの海底に潜っていた潜水
 艦の支援を受けてのものだった。
  アメリカ軍の攻撃によりいくらかのダメージを受けた
 にもかかわらず、3週間後の9月29日、藤田は、2回目の爆
 撃を行うため出撃する。
  ケープブランコ灯台を目印にし、東への90分後のフラ
 イトの間に、藤田は、爆弾を投下し、炎を見たと報告し
 たが、
  爆撃は、アメリカ側には認知されることなく終わった。
  伊25は、SSカムデンとSSラリー・ドヘニーを撃沈し帰
 還した。
  日本へ帰る途中、アラスカ州ダッチハーバーとカリフ
 ォルニア州サンフランシスコの間を通行中だったソビエ
 ト連邦の潜水艦L-16を、
  アメリカの潜水艦と間違えて撃沈した。
  (当時、日本とソ連は日ソ中立条約を結んでおり、戦
 争状態になかった)。
  1942年9月のオレゴン州に対する2度にわたる攻撃は、
 アメリカ合衆国本土に対する『史上唯一の航空機による
 爆撃』である。
  藤田は、その後も、偵察を主な任務として、日本海軍
 のパイロットを続け、海軍特務少尉に昇進した。
  1943年(昭和18年)9月1日より、鹿島海軍航空隊に着
 任、航空隊付教官となった。
  藤田は、1945年(昭和20年)2月16日に、速度性能と武
 装で決定的に不利であった零式観測機で、
  グラマンF6Fを迎撃し、格闘性能を活かして、1機を未
 確認撃墜(藤田は、撃破を確認、近隣の香取空がF6Fの墜
 落を確認)するという戦果を上げた。
  (ただし、藤田と同時に迎撃した5機の零式観測機と2
 機の二式水上戦闘機の大半は撃墜されている)。
  終戦直前に、特別攻撃隊に志願し、第二河和海軍航空
 隊へ異動、
  教え子だけでは無く、藤田自身が特攻隊として突入す
 ることを想定して、自身も訓練を行った。
  訓練は、強風を使用しており、胴体が太く前方視界が
 悪い所為か、飛行経験が浅い搭乗員達には離着水が難し
 く、技量の向上は思うように進まなかったが、
  当時、第二河和空にいた皐月雅昭一飛曹によると、「
 藤田中尉は何でもないように飛び上がり、直ぐに、スタ
 ントを始めた」と記している。
  終戦後、藤田は、特務士官たる海軍中尉に昇進した。
  因みに、藤田信雄氏は、1997年9月30日に、満85歳で没
 した。
..
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2016年10月4日火曜日

(増補版)428E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1886年6月~1886年7月)

題:(増補版)428E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1886年6月~1886年7月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1886年6月、三重紡績会社が設立された。
  1882年(明治15年)、日本初の蒸気を動力とした大規
 模な紡績会社である大阪紡績が、民間の会社組織として、
 創業した。
  渋沢栄一が、発起人で、相談役だった。
  同年・1882年に創業した三重紡績所は、水力利用の小
 規模な紡績業を営んだが、
  1886年(明治19年)、栄一の助言により、新たに株式
 組織の三重紡績会社を設立し、これに併合した。
  1914年(大正3年)、両社は合併し、東洋紡績(株)が誕
 生した。
  (東洋紡関連社史・団体史及び関連人物伝記案内を、
 参考にした)
1886年7月5日、東京電灯会社が開業する(後の東京電力)
  1883年(明治16年)2月15日、矢島作郎、藤岡市助、大
 倉喜八郎、原六郎、三野村利助、柏村信、蜂須賀茂韶な
 ど数名からなる発起人が、
  国から会社の設立許可を受けた。
  『富国強兵に、電力は、今後、欠かせない』という判
 断の元に行動された。
  資本金20万円で、前年・1885年に出した企業創立の請
 願書が認められたものだった。
  そして、この日・1886年7月5日に、企業活動を開始し、
  1887年(明治20年)11月には、東京の日本橋茅場町か
 ら電気の送電を開始した。
1886年7月5日、内務省衛生局が、越後屋呉服店の従業員の
 食料調査を実施した。
  明治初期の近代的衛生行政は、1873年(明治6年)11月
 に、内務省が設置されて始まった。
  その後、1875年(明治8年)6月に、衛生事務が、内務
 省の所管となり、
  1886年(明治19年)2月、内務省衛生局に、医務課と衛
 生課が設置され、さらに・・、
  1897年(明治30年)には、防疫課が新設され、急性伝
 染病の克服を目標とした。さらに・・、
  1919年(大正8年)12月に、調査課が、また、
  1921年(大正10年)7月に、予防課が設けられ、全5課
 制となった。
  こうして、内務省における衛生行政の基礎が形成され
 た。
  調査においては・・、
  1876年(明治9年)には、全国的な死亡調査を実施し、
 さらに、1880年(明治13年)には、出産・結婚・死亡、
 および、伝染病等の統計収集の方法を定め、
  1882年(明治15年)に、内務省衛生局にて全国調査を
 実施した。
  これが、内務省衛生統計の最初とされている。
  初期のころは、まだ脱漏が多く、戸籍調査と数が合わ
 ないところがあったが、
  1892年(明治25年)に、統計局を設置し、
  1907年(明治40年)には、衛生統計の精度は少しずつ
 進歩した
  これ等の調査などは、日本国民を平等に、公平・公正
 に行われている。
  逆に、不健康的なところが見受けられると、気を使っ
 て行っている。
  二宮尊徳の『報徳の精神』が出ている。
  荒村を興して良郷に化せしめるという言葉が出て来る。
  日本人の温かい心がよく見られる。
  「即ち衛生上の不良村に入りては徐ろ(ゆっくり、て
 いねいに)に・・云々」とか、
  不良村を調査対象に選んでもいる。
  「不健康部落を変じて健康部落となすにあり・・」と
 かと・・、
  そして、その結果を以って全国展開して行く。
  (愛知県立大学、宇都宮みのり氏の論文を参考にした)
1886年7月10日、大日本音楽会が設立され、第1回演奏会が
 開催された。
  会長・鍋島直大、副会長・伊沢修二で、
  7月10日に、鹿鳴館で、第1回演奏会が行われた。
  チャイコフスキー《ドゥムカ ハ短調Op.59》、
  ドボルザーク《スラブ舞曲 第2巻Op.72, B147》、
  サティ《4つのオジーヴ》
1886年7月13日、東経135度の子午線時を、本邦一般の標準
 時と定め、この日に、公布された。
  東経135度の兵庫県明石市の時刻を日本の標準時とする
 と勅令が公布された。
  明治十九年勅令第五十一号(本初子午線経度計算方及
 標準時ノ件)
  東経135度の子午線を太陽が通過する時刻が正午となり、
 明石市の正午が日本全国の正午になった。
  グリニッジから整数の時間差で自国の標準時を決定す
 る。
  明石市は9時間進む位置になった。
.
  (今日の言葉)
.
  題:軍産複合体
.
1961年1月20日、アメリカ合衆国・第34代大統領アイゼンハ
 ワー(任期:1953年1月20日~1961年1月20日)は、この
 日が、退任する日だった。
  アイゼンハワーは、退任演説で「軍産複合体(ぐんさ
 んふくごうたい)」に触れた。
  軍産複合体(ぐんさんふくごうたい)とは・・、
  軍需産業を中心とした私企業と軍隊、および、政府機
 関が形成する政治的・経済的・軍事的な勢力の連合体を
 指す概念である。
  この概念は、特に、アメリカに言及する際に用いられ・・、
  1961年1月、アイゼンハワー大統領が、退任演説におい
 て、軍産複合体の存在を指摘し、
  それが、国家・社会に過剰な影響力を行使する可能性、
 そして、議会・政府の政治的・経済的・軍事的な決定に
 影響を与える可能性を・・告発した。
  (「与える可能性」と言ったが、退任する大統領が、
 任期中、その存在に悩まされたから、わざわざ退任にあ
 たって、この問題を指摘した)
  このことによって、一般的に認識されるようになった。
  アメリカでの軍産複合体は、『軍需産業と国防総省』、
 そして、議会が、形成する経済的・軍事的・政治的な連
 合体である。
  1914年に始まった第一次世界大戦により・・、世界中
 で軍需産業が勃興した。
  特に、アメリカでは、国内労働力の『25%』が、軍需関
 連産業に従事するようになり、
  一時的な経済的活況を呈した。
  軍需産業の発言力も大きくなり、政治に大きく影響力
 を与えた。
  軍需産業界は、『金』と『票』を持っていた。
  軍需産業界の影響力は絶大だった。
  例えば、1918年の第一次世界大戦の戦争終結によって、
 アメリカの国内経済は一転して不況となった。
  この絶大な影響力は・・次なる影響力も与えた・・、
  1929年のアメリカ発の『世界恐慌の遠因』・・と、な
 った。
  世界恐慌がもたらしたアメリカの不況は、ルーズベル
 ト大統領によるニューディール政策によっても、本質的
 には『解消され無かった』。
  だから、ルーズベルトは、また、戦争を考えた。
  卑劣な事である。
  第二次世界大戦のヨーロッパ戦線へ参戦することで、
 そして、日本と戦争を始める事で、第一次世界大戦の時
 と同様の・・戦争特需での景気回復が得られると考えた。
  そして、その考えの様に、考えの通りになった。
  この2度の戦争の過程で、「雇用確保」「価格の安定」
 「民間企業の参加」という軍需産業の利点が関係者に理
 解されていった。
  これを、たびたびアメリカは用いた。
  卑劣な事にベトナム戦争もそうだった。
  この戦争で、アメリカは、『色々な武器を試す』とい
 う非人道的な事もした。
.
  続:(今日の言葉)
.
  題:戦争しない大統領が・・非難されるアメリカ
.
1961年8月4日、アメリカのオバマ大統領が生まれた。
  オバマ大統領は、大統領になる時、出生証明を、自ら
 出生地のハワイまで取りに行ったという・・、
  そのオバマ大統領を、「戦争をしない」と非難する人
 がいる。
  「腰抜け大統領」と、声を出しては言わないけれど、
 そう、言いたいのだろう。
  本当は、「戦争しない大統領が、真の強さを持った良
 い大統領」なのだが・・、
  そして、その様に、オバマ大統領を非難する人たちは、
 以下のように言う・・、
  「国家間の対立は、究極のところ、戦争でしか解決で
 きないという単純な事実に目をつぶっている(オバマ大
 統領もそうだが・・)」・・と、
  オバマ大統領を批判している。
  まったく、「憲法九条的精神」を否定している。
  「こんな憲法を信じて、よく安穏にして居られるな!」
 の論調である、声に出して言わないが・・、
  そして、この論調の輩たちは言う・・、
  「いわゆる人類の英知というものを単純に信じている
 のだろう」と言う。
  さらに、この輩たちは言う・・、
  「人類はあらゆるものを発明しながら、世界から戦争
 を無くす手段だけは、まだ考え出せないのだ」・・と、
  「永久に、そんなものが、考え出せるわけがない」と
 言いたいような口ぶりである。
  戦争でなければ解決できないと言う君たちは、「人間
 の見方」、そして、「人間が営んできた歴史」を、その
 様に見ているのだね・・と言いたい。
  「人間を信じていないのだね」・・と言いたい。
  人間を信じて、どこまでも信じて、そして、努力して、
 そして、どこまでも努力して、理解し合い、そして、ど
 こまでも理解し合おうという可能性は・・信じられない
 のだね。
  人間の理性・可能性・英知に、目が向けられないので
 すね。
  (結局、動物界の人間の姿しか描けない輩たち)
  (そして、修羅の界しか描けず、地獄の界しか描けず、
 畜生の界しか描けない輩たち)
  (その上の界の姿を・・描けない輩たち)
  (その上の界の存在を信じられない輩たち)
  性悪にしか人間が見られないのだね・・、
  性悪の人間、原罪のある人間の見方ですね。
  だから、身の回りに「銃を置いとかなければ、ならな
 いのだね」
  「結局、戦争しなければ、解決に至れない、その様な
 ものだ」と考えるのだね。
  「何事も、出来ないと考えた時から、達成という実現
 性はゼロ(0)になる」のだ。
  それが、キリスト教の性悪説。
  戦争の歴史が累々とある。
  殺戮の歴史が累々とある。
  殺された愛する人たちを、嘆き・悲しみ・泣く方々の
 姿が、満ち満ちて居ました。
  今・現代も、中東で、戦わせられたアメリカの青年た
 ちが亡くなり、そして、何ら戦争に関係のない、中東の
 方々が亡くなられています。
  アメリカのベトナム戦争も、本当に、悲惨でした。
  アメリカには、ヘンな考え方がある。
  「戦争をする大統領」が評価されるのである。
  戦争をしたと言うだけで、優秀な大統領だったと言わ
 れるのである。
  「戦争に訴えなければ」、「解決索を見出す事の出来
 なかった」「能力のない大統領だった」という見方は無
 いのである。
  本当に、軽蔑すべき考え方である。
  根源(こんげん)に、キリスト教の考え方があり、洗
 脳があり、マインド・コントロールがある。
  いつまで経(た)っても、世界は平和にならない。
  その点で、オバマ大統領は、立派な、素晴らしい大統
 領なのです。
  『真の勇気ある』大統領なのです。
  カーター大統領は、「気弱な政策で失敗した」と責め
 られました・・、
  しかし、もしかすると、それが、アメリカの方々、ア
 メリカの国民の方々にとって、幸せな選択だったのかも
 しれません・・という視点・・、
  この様な視点ではなかった「好戦的なアメリカ」・・
 ・・と言われる遠因がここにある、遠因の一つである。
  アメリカよ、戦いを止めた阿修羅に学べ!
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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2016年10月2日日曜日

(増補版)427E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1886年6月~1886年6月)

題:(増補版)427E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1886年6月~1886年6月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1886年6月17日、利根川橋梁の完成
  日本鉄道の利根川の橋梁が完成した。
  この橋が完成し、日本鉄道大宮~宇都宮間が全通した。
1886年6月21日、陸軍軍医学舎が開校した。
  陸軍軍医学舎は、1888年(明治21年)12月に、東京・
 新宿区戸山へ移り、陸軍医学校と改称された。
  現在、国立国際医療センターとなっている。
  明治維新以来、日本は、西洋医学の普及を急務とした。
 とりわけ、医学教育者・軍医・地方衛生指導者の育成を
 緊急課題と捉え、他の教育分野に先駆けて、医学の教育
 制度の整備をして来た。
  既に、1877年に、唯一の官立医学校で、唯一の大学の
 東京大学医学部が出来ていた。
  この学校の本科生は、お雇い外国人教師から直接指導
 を受け、原語(ドイツ語)で医学書を理解する事が要求
 されたエリート学生たちであった。
  この中から、また、医学を教える教員が輩出もされた。
  東京大学医学部は、1886年の帝国大学令によって、帝
 国大学医科大学として再編された。
  そして、1899年には、京都帝国大学医科大学が成立し、
 1903年には、卒業生を輩出し始めた。
  そして、各府県においても、医学教育制度は、明治初
 年代から独自に発展をしていた。
  頻発するコレラ・赤痢・腸チフス・天然痘などの急性
 伝染病の対策がまた緊急の課題だった。
  1870年代の後半以降に、東京大学医学部の本科卒業生
 が輩出され始めると、この府県立病院兼医学校は、この
 卒業生たちを病院長や医学校長などに破格の月俸(150円
 程度)で招聘した。
  この卒業生たちの勤務先を見ると、大学病院・軍・府
 県立病院兼医学校に行き、または、留学生となっている。
  また、全国各地から引き合い、移動性が高くなってい
 る。
  1886年まで、医学校における医学教育制度は、東京大
 学医学部本科と、別課医学および府県立医学校という二
 つの水準の学校に集約されている。
  また、官公立医学校による医学教育以外に、近世以来
 の徒弟修業による医師養成の経路も存続していた。
  これは、公教育を経由しない医師養成経路が残ってい
 ることを意味している。
  また、明治意思に全から開業していた者に、一代限り
 で無試験での継続開業が認められた。
  また、明治維新以来、官庁や官公立病院に奉職してき
 た者にも、無試験での開業が認められた。
  これ等の開業免許が与えられた医師たちの大部分は漢
 方医で、近世以来の伝統的な医師たちで、量的には最大
 だった。
  でも、時代は、西洋医学を急速に吸収して行った、そ
 して、普及して行った。
  明治の日本医療は、この新しい局面において、また、
 この最初の課題に対して、合理的に、そして、最善に、
 解答を得て行った。
  優秀な日本人たちであった。
1886年6月25日、北海道土地払下規則」が公布された。
  北海道土地売貸規則が廃止され、北海道土地払下規則
 が公布された。
  北海道(蝦夷地)の和人の定住地は、ほとんど道南の
 和人地(だいたい箱館近傍から熊石を結ぶ一帯)に限っ
 ていた。
  その他の地は、海岸線と内陸の河川に沿ってアイヌの
 集落と、和人の商人の経営する漁場(ぎよば)があった。
  開拓使時代において、松前藩や幕府の手で、漁場を中
 心に開拓が進められた。
  そして、1869年(明治2年)7月、「諸省卿(しょしょう
 けい)同等」の長官をいただく開拓使を設置し、開拓使長
 官が任命された。
  1869年8月に、北海道と改称し、11か国86郡を置いた。
  1870年2月に、樺太開拓使も置かれた。黒田清隆が専務
 となった。
  1871年8月に、黒田は道内と共に樺太も巡視した。
  そして、1886年のこの時、「北海道土地払下規則」が
 公布され、
  この規則によって、開墾希望者は、一人10万坪まで、
 未開地が無償貸与され、
  開墾成功後には、1000坪1円(現在の4044円ほど)で
 購入することができた。
  また、これ以外にも、開拓者へ与えられた優遇措置は、
 1891年(明治24年)北海道庁第二部植民課が刊行した北
 海道移住問答に、北海道に移住すると受けられる恩典が
 列挙されている・・が、
  ・開拓者が払い下げで得た土地には、20年後でなけれ
   ば地租・地方税が課せられない、
  ・地租は、地価の100分の1(他府県の地租は100分の2.5)、
  ・所得税は、官吏以外には およばない(無税)、
  ・酒造税は、一般税額の半額。
  ・菓子・醤油、及び、車税は免除(消費税・自動車税
   は無しという様なもの)
  ・徴兵令は、函館・福山(松前)・江差を除き試行さ
   れない・・など、
1886年6月25日、日本薬局方制定が公布された。
  日本薬局方が、制定(公布)される。
  日本薬局方は、日本国内で、医療に供する重要な医薬
 品について、その性状および品質の適正をはかるため、
 品質・純度・強度の基準を定めた公定書で、
  江戸時代では、オランダの都市薬局方を訳したものが
 知られており、
  最も古いものは、中川淳庵が訳述した「和蘭局方」だ
 といわれている。
  その後、宇田川玄真、中井厚沢、藤林普山、江馬木留
 園、緒方洪庵等がそれぞれ翻訳している。
  明治初期には、軍関係行政機関である兵部省が、1871
 年(明治4年)に、軍医療を設置され、
  翌年・1872年に、兵部省が陸軍省と海軍省に分離され、
 陸軍、海軍それぞれに薬局方が発行され、日本薬局方の
 先駆的役割を果たした。
  外国人教師のエーキマン、ゲールツ、ランガルト等の
 協力を得て、編纂され、
  1886年(明治19年)に内務省令により「日本薬局方」
 が制定された。
  1887年(明治20年)に「日本薬局方」が施行となった。
  1888年(明治21年)にはラテン語版、
  1890年(明治23年)に註釈版が刊行された。
  1891年(明治24年)に日本薬局方が改定された。
1886年6月29日、第七回条約改正会議
  第六回条約改正会議(1886年6月15日)に引き続いて、
 第七回条約改正会議が行われた。
  この会議で、イギリス・ドイツ両国共同案に基づいて、
 改正交渉を行うことを決定した。
1886年6月、人類学会が、東京人類学会と改称された。
  日本人類学会は、1884年(明治17年)、当時、東京大学
 理学部学生であった坪井正五郎ら10名により結成された
 「じんるいがくのとも」という団体に端を発する。
  1886年(明治19年)には、機関誌の第1号を出版し、
 同時に会の名称は「東京人類学会」に変わった。
  黎明期の人類学会では、イギリス留学から帰り、東京
 大学人類学教室教授となった坪井正五郎を中心に、
  解剖学の小金井良精、多くの海外調査を行った鳥居龍
 蔵、軟部人類学の足立文太郎などが活躍し、
  土器、石器、動物遺物、人骨、 生体計測、成長、比較
 解剖学、 考古遺跡、言語、
  そして、有名な日本先住民のアイヌ説、コロボックル
 説など広範な話題が提供された。
  これらが後年、考古学会、民族学会、民俗学会などを
 生み出す母体となった。
  坪井正五郎氏は大正になって亡くなりましたが、昭和
 になると長谷部言人、清野謙次らが登場し、
  人類学研究はますます広範囲になり、会員も増えた。
  1936年(昭和11年)には、新たに設立された日本民族学
 会とともに、東京人類学会・日本民族学会の第1回連合
 大会が開催された。
  東京人類学会は、1941年(昭和16年)、日本人類学会と
 改称された。
  連合大会は、そのまま続き、第2次大戦中一時途絶えた
 が、
  1996年(平成8年) の第50回大会まで、足掛け60年間続
 いた。
  連合大会時代には、人類学における自然人類学と民族
 学は密接不離のもので、
  人類学者は、両方の知識を統合さ せておかねばならな
 いという気風があった。
  両学会は、1968年(昭和43年) に、第8回国際人類学民
 族学会議(会長・岡正雄)を東京と京都で開催した。
  また、1984年(昭和59年)には、日本人類学会の100周
 年、日本民族学会 の50周年を迎え、第38回連合大会 (
 大会長・猪口清一郎)において、同時に記念式典を行った。
  しかし、その後、時代が変わり、学問の細分化がさら
 に 進んでくると、共同開催の意義は薄れ、
  1996年(平成8年)、第50回大会をもって連合大会には
 終止符が打たれ、
  その後は、両学会とも単独で学術大会を開いている。
  2002年(平成14年) に、両学会の協力で国際人類学民
 族学中間会議(会長・尾本惠市)を開催した。
  なお、日本民族学会は、2004年(平成16年)に、日本
 文化人類学会と名称を変更した。
  人類学細分化の傾向はその後も続き、1978年(昭和53
 年)には、生理人類学懇話会が人類学会内に作られ、
  この会は、その後、日本生理人類学会として独立した。
  また、京都大学を中心として戦後台頭してきた霊長類
 学も、1985年(昭和60年)に独立した学会として発足した。
  さらに、1999年(平成11年)には、日本人類学会や生物
 学関連の学会員による学際領域の学会として、日本進化
 学会が設立された。
  この様に、日本人類学会は、明治時代に人類学の唯一
 の学会として発足したが、
  その後の学問の発展、研究者の増加などを背景に、多
 くの関連 学会を生み出し、日本の人類学研究の中心的役
 割を果たしてきた。
  現在の人類学会では、自然人類学(形質人類学)の研究
 者を中心に、人類の起源と進化、変異や適応、化石人類、
 日本人の起源、生体計測、歯の人類学、成長、霊長類、
 生態学など広範囲な研究発表が行われている。
  (日本人類学会ホームページを参考にした)
1886年6月、海軍兵器製造所が、クルップ式25mm砲の製
 作と試射を行う(1885年説あり)
  「せいぜい砲架の修理をする位が関の山」と言われた
 海軍造兵所の技術は、
  1871年(明治4年)2月以来、イギリスのアームストロ
 ング社において、造砲術を取得して来た原田宗助(後の
 海軍造兵総監)が、
  1877年(明治10年)5月21日に、帰国、
  全工場の指導にあたったことにより発展の緒につくこ
 とになった。
  次いで、1878年(明治11年)に、製鋼技術研究のため
 大河平才蔵(のち海軍造兵大監)が、
  ドイツのクルップ社に派遣され、1881年(明治14年)
 に、帰国した。
  1882年(明治15年)には、これら2名の技術者を中心に、
 製鋼法を研究するとともに、
  製鋼、および、鍛工工場を新設、
  「十二月鎔鋼用黒鉛○○ヲ創製シ従来使用ノ外国製『
 モルガン』○○二劣ラサル良品ヲ得タ」
 ・・という。
  こうして、日本最初の黒鉛○○により兵器造修用鋼材、
 及び、鈩地金を製造した同じ年・1882年に、練習艦「鳳
 翔」用12斤ナポレオンカノン砲の砲架二基を製造した
 (海軍における最初の鉄製砲架)。
  1884年(明治17年)、海軍兵器製造所が製造した鋼に
 よって、四連機砲四挺を完成した(海軍の最初の機砲)。
  また、1885年(明治18年)には、クルップ式短七セン
 チ五砲一門及び同砲架を製造した(海軍の最初の砲身)。
  そして、1886年(明治19年)には、12センチ以上17セ
 ンチまでのクルップ式鋼鉄榴弾を創製した。
  なお、1887年(明治20年)には、機械の新設、製鋼炉
 の改築、蒸気力の増設があり、
  蒸気力の総高153馬力、職工総数800名に達した。
  (呉市海事歴史科学館研究紀要、千田武志氏論文を参
 考にした)
.
  (今日の言葉)
.
  題:1898年という・・年は・・?
.
1898年1月3日、アメリカのアジア艦隊の旗艦・オリンピア
 が長崎に入港した。
  続いて、1月18日、横浜に入港した。
  これは、アメリカの威勢活動で、日本への威圧だった・・、
.
1898年4月25日、アメリカ議会が、スペインへ宣戦布告した。
.
1898年、アメリカが、赤子の手をひねる様な米西戦争で、
 フィリピンを奪い取った。
  勝つと分かっている戦争を始めて、その戦争相手の国
 (スペイン)が持っていると称した国や領土を奪った。
  まさしく、この戦争がそうだった。
  アメリカが宣戦布告して始まったこの戦争は、1898年
 7月、わずか3ヶ月でアメリカは勝った。
  アメリカは、キューバとフィリピンを手に入れた。
  勝てば手に入れられると思っていたアメリカの行為だ
 った。
  パリ条約を、12月に結んで、手に入れたことを確定さ
 せた(手に入れたと思い込んだ)。
  その他、スペイン領だったプエルトリコやグアム島を
 買った。
  (売る国の持ち物でないものを買ったということ)
  買ったと言ったって、この様な時点で買うという行為
 が公正さを欠いている。正義に反している。
  また、この年、アメリカは、ハワイ諸島やジョンスト
 ン島までをも、自分の新領土と称して植民地として手に
 入れた。
  その後、地元のフィリピンの方々の意思を無視したア
 メリカがあった(約束を果たさないアメリカ)。
  このアメリカの行動に対し、フィリピンの方々は独立
 運動を起こした。
  アメリカが買ったと称した行為が成立していないと、
 当然に思っていた。
  本当の持ち主なのだから・・、
  しかし、アメリカは、これを力で抑え込んだ。
  そして、俺のものだと植民地とした。
  これらの行為を行うにあたって、アメリカ大統領は、
 「神意だ(キリスト教の神の意思だ)」と言った。
  この筋立てを作ったのは海軍長官だったルーズヴェル
 トだった。
  強烈なキリスト教の信徒だった。
  また、この筋書き通りに行くように独立運動者を扇動
 したりするアンフェアな事をアメリカはした。
  その時、独立運動者たちに旨い事を言った約束は、そ
 の後、果さないという卑怯な事をした。
  そして、アメリカは言った、「イギリスが香港に拠る
 ように、アメリカもマニラに拠る」と。
  マニラを拠点にして、次なる目標・中国だとアメリカ
 は言う、「支那(中国)の門戸を開放すべし」と、
  要は、私(アメリカ)も中国からの益が欲しいだった。
.
1898年4月25日~8月12日、米西戦争
  そして、米比戦争へ(1899年~1913年)、
  (アメリカが、フィリピンの方々を、60万人を虐殺し
 た)、
  米西戦争の結果、フィリピンの統治権が、スペインか
 らアメリカに移った。
  米西戦争(フィリピンを巻き込む、アメリカとスペイ
 ンの戦争)の最中に独立を果たしたのもつかの間、
  1898年のパリ条約によりフィリピンの統治権が、スペ
 インからアメリカに譲渡された。
  (別に、スペインの国でもないものを売るという行為
 がおかしい?)
  (また、買うという行為も おかしい?)
  (まったく、正当化の演技?)。
 1899年1月21日に、フィリピン共和国がフィリピン人によ
 って建国された。
  5月18日に、フィリピンの南方の地方のサンボアンガ共
 和国がサンボアンゲーニョによって建国された。
  フィリピン共和国の建国を認めないアメリカによる植
 民地化にフィリピンは猛烈に抵抗したが、
  米比戦争で60万人のフィリピン人が、アメリカ軍によ
 り無残に虐殺され、抵抗が鎮圧される。
  1901年に、アギナルドが、アメリカ軍に逮捕されて第
 一共和国は崩壊し、
  フィリピンは、旧スペイン植民地のグアム、プエルト
 リコと共にアメリカの主権の下に置かれ、
  過酷な植民地支配を受けることとなった。
  1903年に、サンボアンガ共和国も崩壊したが、モロの
 反乱は1913年まで続いた。
  フィリピン史では、1899年2月~1902年7月までを、フ
 ィリピン・アメリカ戦争期として位置づけている。
  1901年9月28日、サマール島でバランギガの虐殺が発生。
  小さな村でパトロール中のアメリカ軍二個小隊が待ち
 伏せされ、半数の38人が殺された。
  アーサー・マッカーサー将軍は、報復にサマール島と
 レイテ島の島民の『皆殺し』を命じた。
  少なくとも10万人は殺されたと推定されている。
  また、マッカーサーは、アギナルド軍兵士の出身者が
 多いマニラ南部のバタンガスの掃討を命じ、家も畑も家
 畜も焼き払い、餓死する者多数と報告された。
  白人同士の戦争では、将校へ銃を向けないなどの不文
 律(ふぶんりつ、成文化されていない、公式に書かれて
 いないルールのこと)があった。
  しかし、この不文律は、キリスト教の有色人種蔑視の
 教義で、有色人種に対して無差別殺戮がなされた。
  アメリカ上院に報告された数字では、アメリカ軍は、
 1902年までの4年間で20万人を殺害(虐殺)したと報告さ
 れた。
  戦死者数は、20万人~150万人と公に記録されている。
.
  そして、次の話・・、
.
 題:キリスト教国・フィリピン・・そして、座談は、創造的である。
.
  フィリピンは、キリスト教国にされた。
  征服され、駆逐され、強烈に宗主国の宗教にさせられ
 た。
  宗教まで征服した・・征服された。
  精神的征服によって、マインド・コントロールがなさ
 れた。
  大統領もキリスト教の大統領となった。
  そして、国の政策にもキリスト教の口出しがなされた。
  キリスト教の教義である「産児の制限をしてはならな
 い」が押しつけられた。
  このキリスト教の教義で『エイズ』が流行した。
  また、国は、人口増加して行った。
  そして、国は、人口増加に腐心した。
  人口増加と共に、『貧しい方達も増加する』という状
 況だった。
  この様なマイナス面の多いキリスト教の教義から脱却
 したいが本音だった。
  そして、キリスト教の教義に押さえつけられていた『
 国の基準』を、『変えなければならない』という結論に
 達した・・至った。
  キリスト教会は、『エイズが流行』し、『国民の方々
 が困っている惨状』を目のあたりにしているが、
  教義にこだわって、『人々の救済に道を閉ざす』とい
 うことをしていた。
  この様な、人々の救済活動に猛反対した。
  キリスト教の教義を優先に振りかざした。
  教義優先から、目の前の困っている方々を救わず、目
 を閉じるどころか、救済処置に猛反対する始末だった。
  人々が幸せに暮らすという大前提をないがしろにして、
 キリスト教の教義が勝るという行動をしていた。
  困った方々は、結局、困ったままだった。
.
  そして、次の話
.
  早稲田大学の鶴見太郎教授は、『座談の思想』という
 本を書かれた。
  その書評が、読売新聞の2014・1・5に載った。
  書評を書かれたのは、批評家の若松英輔氏である。
  「真実は書き記され得ない」というところがポイント。
  キリスト教の聖書に、キリスト教は、『すべてが書か
 れている』と言うが、「いやいや、そんなもんじゃあり
 ませんよ」と、この本は言っていた。
  確かに、キリスト教自体も「言葉はロゴス」と言って
 いる・・が、
  そのロゴス、言葉にこそ神が居る・宿るのであるのな
 らば、ロゴスの言葉の中に神は居て、聖書の印刷された
 字面には居ないのだろう・・と、巷の話題となった・・、
  「真実は書き記され得ない所にある」
  『鍵となる言葉は、むしろ著作ではなく、座談の中に
 隠されている」・・と言う。
  だから、書かれた記録にだけ根拠を置く歴史観は疑問
 ・・という。
  そして、言う。
  書くのは理性の働きだが、座談には感情が生々しく現
 れる・・と、
  だから、感情の働きを見過ごした歴史は、剥製のよう
 な作りものになっている・・と、
  これは、キリスト教聖書も同じ、キリスト教聖書も、
 作りものの剥製の様なもので、そこには、イエスの真の
 感情や・・伝えたいものは・・無い。
  そして言う。
  座談は、創造的であると、そして又、偶発的で生きて
 いると、座談は、他者と相まって、予測の出来ない展開
 へ進んで行き、他者の言葉が契機となって、話者が、今
 まで何を見て来たか、考えて来たかをより鮮明に自覚さ
 せ表出する・・という。
  驚くようなものが表出する事もある・・という・・、
  座談に誠実さがあり、繰り返し繰り返し、繰り返され
 れば、混迷を切り拓(ひら)く鍵が潜(ひそ)んでいる
 と・・いう。
  そして、沈思がともに大切という。
  そして、「感情と内省、中野重治の誠実」が秀逸とい
 う。
  時代の困難に対して、いつも誠実をもって抗(こう)
 したこの人物の軌跡を、今、考える事の意味は大きいと
 いう。
  そして、「歴史に潜む誠実を見い出す事が出来るのは、
 やはり現代の誠実なる精神だ」・・という言葉で・・結
 んでいる。
 つるみ・たろう=1965年、京都生まれ、。早稲田大教授。
 専門は日本近現代史。著書に「橋浦泰雄伝」など。
,
  そして、アメリカ・・、
1898年5月1日、アメリカ艦隊が、マニラ湾海戦で、スペイ
 ン艦10数隻を撃沈・炎上させて、大勝利した。
  アメリカ艦隊の威力を見せつけた。
  世界で、好きに、横暴な振る舞いをしているアメリカ
 だった。
.
  (追伸)
  Aさんのものを・・、
  Bが、「あれは、俺のものだ」と言って奪い、
  Cが、「ならば、俺に売ってくれ」と言って、Bから
 買ったと言ったって、Cのものになったと言える訳がな
 い。
  この間、ある国が、盗品の美術品を、買って持ってい
 たが、元の本当の持ち主の国へ返還したが、返したが、
 これが正しい、正義の行為なのだ。
..
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