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2016年8月26日金曜日

(増補版)408E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1885年1月~1885年1月)

題:(増補版)408E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1885年1月~1885年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1885年、その他:
・往復ハガキ発売(1月)
・電信料金、全国均一制
  1870年(明治3年)6月、前島密によって建議され、
  1871年4月20日(明治4年3月1日)スタートし、
  当初、この事業部署は「駅逓司」といい、本拠は、現
 在の日本橋郵便局の位置で、搬送に郵便馬車が活躍した。
  業務の多角化、取扱量の増大、国際化の進展によって、
 郵便事業の重要性は、年ごとに高まって行った。
  1885年(明治18年)12月、電信電話事業も包含する「
 逓信省」が創設された。
  郵便局のシンボルマーク「〒」は、1887年(明治20年)
 に、逓信省全般の記章として制定した。
  〒は、逓信の頭文字のTとテをロゴ化したもの。
・国産の石盤ができる。
  石盤(せきばん)は、粘板岩などを薄い板に加工して
 木の枠をつけたもので、
  蠟石(ろうせき)、白墨などを用いて文字や絵をかき、
 学用品として用いられていた。
  ペン筆記用加工紙の、普及前の欧米で用いられていた
 石盤slateが、明治初年、日本に導入され、
  和紙が、手工芸品として比較的高価であったことと、
 唯一の筆記具であった毛筆が、低年齢児には取り扱いに
 くいことのために、
  小学校、幼稚園での初学用具として、広く用いられる
 ようになった。
・除虫菊栽培はじまる。
  この年、玉利喜造が、アメリカから除虫菊の種子を持
 ち帰り、それを東京・駒場の東京農林学校農場で栽培し
 たのが最初。
  アメリカでは、19世紀後半から大規模に栽培されるよ
 うになっていた。
  ピレトリンを抽出し、粉剤や液剤にして、農業害虫に
 たいしても使用した。
  (参照:農薬工業会ホームページより抜書き)
・東京感化院創立
  この年に、高瀬真卿(たかせしんけい)によって、日
 本最初の組織的な少年感化院が設立された。
  高瀬真卿は、明治~大正時代のジャーナリスト、社会
 事業家で、
  仙台で「東北毎日新聞」を発刊し、自由民権論をとな
 えた。
  東洋的な儒教精神と、それに基づいた家族制による感
 化が行なわれた。
1885年1月1日、往復はがき、初めて発行される。
  往復ハガキの通用が始まる。
1885年1月1日、東京日日新聞が、勢力挽回のため、我が国
 ではじめて、朝夕刊発行をはじめた。
  しかし、1年間、試みたが形勢は変わらなかった。
  無休刊制も導入した。
  この新聞は、毎日新聞(東京)の前身で、1872年2月21
 日に、創刊された日刊紙。
  江藤新平らが後援した。
  1874年末に入社した福地桜痴(おうち)が、社説欄を
 創設し、政府御用新聞としての立場を鮮明に打ち出し、
  自由民権派の政論新聞に対抗して健筆をふるった。
  1911年(明治44年)に、大阪毎日新聞に買収された。
1885年1月6日、国道の等級を廃止し、幅7間以上を国道と
 定めた。
  以下は、明治18年(1885年)の国道と現在の国道の例
 (路線名)1号、(明治18年当時の区間)日本橋~横浜港
        (現在の起終点)東京都中央区~大阪市
 (路線名)2号     日本橋~大阪港(横浜までは1号)
        (現在の起終点)大阪市~北九州市
 (路線名)3号     日本橋~神戸港(大阪までは2号)
        (現在の起終点)北九州市~鹿児島市
 (路線名)9号     日本橋~伊勢皇太神宮
        (現在の起終点)京都市~下関市
 (路線名)11号     日本橋~熊本鎮台
        (現在の起終点)徳島市~松山市
 (路線名)44号     日本橋~沖縄県(那覇)
        (現在の起終点)釧路市~根室市
         (参照:国土交通省ホームページ)
1885年1月6日、東京の万世橋際に駅逓局東京貯金預所が新
 設された。
  この年の郵便の特記すべき事柄は・・、
  ・電信為替・郵便小為替が創設される。
  ・日本郵船会社に郵便物の逓送が委託される。
  ・汽車郵便逓送規則が制定される。  
  ・逓信省が創設され,初代逓信大臣として榎本武揚が
   選ばれる。 
  そして・・、
  この年・1875年(明治8年)5月、日本の郵便貯金制度
 が始まった。
  前島密が、イギリス滞在中に、郵便貯金が国民の生活
 や国家の発展に大きな役割を果たしているのを見て、
  日本でも取り入れることにした。
  創業時は、「郵便貯金」ではなく、単に「貯金」と呼
 ばれた。
  1880年(明治13年)、民間銀行との混乱を避けるため
 「駅逓局貯金」という名称に改め、
  1887年(明治20年)以降に、「郵便貯金」になった。
   郵便貯金制度の開始に当たり、最初の郵便貯金通帳が
 作られ、
  当時の名称は、「貯金預渡通帳」だったが、
  1885年(明治18年)に、「駅逓貯金通帳」に改めた。
  そして、1889年(明治22年)、「郵便貯金通帳」とい
 う名称になった。
  (郵政博物館ホームページより抜書き)
1885年1月9日、甲申事變善後約定(1月7日説あり)
  井上馨・全権公使、甲申事変に関する漢城条約締結。
  特命全権大使・井上馨、韓国全権大臣・金宏集と談判、
 朝鮮王国と甲申事変に関する漢城条約に調印。
  我要求五事を約す。
  交渉は、互いの主張があり、平行線を辿った、全権大
 使の井上馨は、すみやかに両国関係を修復する事が、第
 一義(だいいちぎ、最も大切な根本的な意義)で大切だ
 として、打開すべく、明らかな被害・日本側の被害に関
 する事のみにして(他を棚上げして)解決を見た。
  第一款:朝鮮国は、国書をもって日本国に謝罪を表明
     すること。
  第二款:日本国民の被害者遺族並びに負傷者に対する
     見舞金、及び暴徒に略奪された商人の貨物の補
     填として、朝鮮国より11万円を支給すること。
  第三款:磯林大尉を殺害した犯人を捜査・逮捕し、正
     しく処罰すること。
  第四款:日本公使館を再建する必要があるので、朝鮮
     国が代替の土地と建物を交付しそれに充てるこ
     と。
     また、修繕・改築費用として、朝鮮国は2万円を
     支給し、工費に充てること。
  (朝鮮側が減額を望んだので、井上馨は、その意を汲
  んで、既存の建物を改修して用いるという修正案に改
  めた)。
  第五款:公使館護衛兵用の兵営は、新しい公使館に相
     応しい場所に移動し、その建設と修繕は、済物
     浦条約第五款の通り朝鮮政府が施行すること。
1885年1月10日、朝鮮国との交渉を行っていた井上馨帰国。
  金宏集朝鮮全権が、井上馨に、亡命した金玉均らの引
 き渡しを要求した。
  金玉均は、日本の明治維新を模範としたいとして、
  また、清朝(中国)からの独立をしたいとした。
  そして、朝鮮の近代化を目指したいとした。
  1883年には、借款交渉のため日本へ渡り、
  翌年・1884年4月に、帰国。
  清がベトナムを巡ってフランスと清仏戦争を開始した
 のを好機と見て、
  1884年12月に、日本公使・竹添進一郎の協力も得て、
 閔氏政権打倒の甲申事変を起こした。
  しかし、清の介入で失敗し、わずか3日間の政権で終わ
 った。
  井上角五郎らが助けて、日本に亡命した。
  日本亡命中には、岩田秋作と名乗っていた。
1885年1月11日、井上馨が、金玉均らの朝鮮引き渡しを拒否
 した。
.
  (今日の言葉)
.
  題:NHK・・ひたすら日本を悪く言い続ける
    (国を売る放送局)
.
  キリスト教に偏するNHKの元職員・池上彰は・・、
  アメリカの原爆投下について、今ではアメリカのプロパ
 ガンダの嘘話とはっきりなっていることを、今・現時点
 でも、その嘘を言い続けている。
  「日本を売る話」を、そして、「日本を悪く言う嘘の
 話」を、
  さも、テレビ解説だと・・真実そうにみえるやり方で
 言っている。
  その様な行為は・・NHKも、同じやり方で「日本を
 売り」「日本を悪く言っている」。
  NHKの元職員・池上彰は、このNHKの行動に洗脳
 され、マインド・コントロールされている。
  NHKの、最も悪い所は、「嘘と、屁理屈で、ひたす
 ら日本だけの悪い所を言い続けること」だ、
  ひねくれた言い方で、公平な言い方はしていない。
  公正で、公平であるべき放送局が、そうではない。
  日本の公共放送で、日本の放送局の模範となるべき放
 送局なのに・・そうではない。
  NHKは、あまりに大きな放送媒体であるので・・、
 「自制が効かない」、
  また、その大きさから、自分の身を顧(かえり)みる
 事ができない。
  そして、「これでいいのだという・・増上慢に陥(お
 ちい)っている」。
  NHKは、競争状態に置くべきだ。
  無競争の状態で、のほほんと、また、高給を貪(むさ
 ぼ)っている・・、
  そのため・・甘い職場になっている。
  例えば、東地区と西地区に分割し、「東NHK(HN
 HK)」と「西NHK(NNHK)」とに分割すべきだ。
  切磋琢磨する形態に・・分離すべきだ。
  NHKの酷い事例の1例・・、
  その言い方があまりにも屁理屈で、酷い・・
  広島や、長崎に原爆が落ちたのは『自業自得だ』的に
 言う。
  元NHK職員の池上彰は・・「ハワイの真珠湾攻撃を
 したからだ」と言ったが・・、
  NHKは、「日本が先に中国の無差別爆撃をしたから
 だ」と言った。
  NHKという放送局は、よく「中国へのごますり放送」
 をするが・・、
  この時、NHKは、原爆が投下されたのは、中国の爆
 撃をしたからだと・・放送で言った。
  NHKは、さも、アメリカによる「東京大空襲の無差
 別爆撃」も・・、
  「大阪の無差別爆撃」も・・、
  「日本の各地の都市の無差別爆撃」も・・、
  皆、この中国のこの爆撃行為が原因だ・・のような言
 い方である。
  まず、規模が格段に違うではないか?
  日本の爆撃は、些細な爆撃であったのだ・・、
  NHKの言い方は・・例えば・・さも、グレタあんち
 ゃんが、「お前が、先に手を出した」「俺につっかかっ
 た」から、「刺したんだ」と言うがごときである。
  些細なことを、言いがかりにして、大罪の言い訳にす
 るという不合理さをである。
  大のNHKが、常識がありそうなNHKが、この様な
 屁理屈論理で・・放送をしている。
  まったく、馬鹿々々しい公共放送である。
  こんな言い方が、世の中で通るのなら、世の中が、ま
 ったく恐ろしい世の中になってしまう。
  些細なことで、簡単に人が傷つけられてしまう。
  NHKは、世の中に、『こんな風潮をばらまいている』。
  こんな簡単な論理が解らないで、NHKは、マスメデ
 ィアを繰り・・、
  そして、大きな放送媒体を利用する、利用できるとい
 う立場にいる。
  常識が、まったく無い輩に、分からない輩に、大きな
 影響力を持たせているという状態になっている。
  無分別(むふんべつ、思慮がなく軽率なこと)な輩に、
 人類の文明の利器を与えていると・・言える。
  NHKも、巨大な放送媒体を使って、超強力な影響力
 のある放送をしているという自制心、自制の念を持て。
  軽薄な、今のNHKは、些細なことで人を殺すような
 論理と同じ論理を振り撒いている。
  NHKは、この様な放送をする前に、爆撃というもの
 を少しは勉強したのだろうか?
  既に、スペイン戦争で、空爆で、嫌と言うほど爆弾投
 下したのが、1936年~1939年・・NHK、知っていまし
 たか?。
  NHKが言う、日本の『重慶爆撃』は、1938年12月4日~
 1943年8月23日で、そのスペイン戦争の8年も後の事であ
 る・・知っていましたか? NHK!。
  完全に、スペイン戦争の方が早い。
  中国に落とした僅かな爆弾が・・どういう理由で、原
 爆になり、アメリカが、日本に落とす事になるのだ・・
 NHKよ!はっきり説明して戴きたい。
  何故?このスペインに落とさなかったのだ・・NHK
 よ!説明しなさい。
  空爆の行為は、1914年から始まった第一次世界大戦で
 も、既に、行なわれていた・・知っていたか?、NHK!。
  また、1849年には、オーストリア帝国が、ベニスを気
 球で爆撃している。
  これには、原爆を落とす罪ではないのですか? NH
 K!
  1871年には、フランス政府が、パリコミューンに爆撃
 している・・どうです? NHK!
  1911年には、イタリア軍が、飛行機からトルコに手り
 ゅう弾を投下している。
  1912年~1913年に、バルカン戦争で、22ポンド爆弾を
 開発して、盛んに都市爆撃をしている。
  1914年の第一次世界大戦では、ドイツが、パリ爆撃を
 し、
  1915年は、飛行船で、
  1917年に、イギリス本土爆撃を、
  そして、イギリス・フランスも、その報復爆撃を、1915
 年後半には、戦闘機・爆撃機と別れて盛んに爆撃してい
 る。
  日本は、1914年9月の青島の戦いで、海軍のモーリスフ
 ァルマン式飛行機の4機で、青島市街が最初。
  この飛行機は、ライト兄弟の飛行機の様な飛行機で、
 爆撃したなんて言えないくらい。
  そして、この戦いは、第一次世界大戦であるので、こ
 の後、ドイツ戦艦に対して実施した。
  命中しなかったという。
  心理効果を狙ったという。
  くだらない論理を言って、屁理屈を言って、NHKは、
 日本国民へ下らない放送をして、日本の国を貶(おとし)
 めている。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
 

2016年8月23日火曜日

(増補版)407E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1885年1月~1885年1月)

題:(増補版)407E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1885年1月~1885年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1885年、演劇:
・黙阿弥 「水天宮利生深川」千歳座で初演 (2月)
  水天宮利生深川(すいてんぐうめぐみのふかがわ)歌
 舞伎狂言が、1885年2月、東京の千歳座で、5世尾上菊五
 郎が初演した。
  明治維新による幕藩体制の瓦解を背景に、気が狂うほ
 どに生活に窮する士族・船津幸兵衛の悲劇を描いたもの。
  千歳座が開場するのに際して・・、
  近くにある水天宮の利益(りやく)を利かせ、
  作者・河竹黙阿弥が、実際に見た明治維新後の社会的
 悲劇を取り込んで、書き下ろした。
  旧幕臣の士族が、扶持(ふち)を失い、生活に窮し、
 妻に死に別れ、残された盲目の娘を頭に、赤子もいる子
 供たち3人を抱え、苦労しながら生計をたてる・・が、
  金貸しにも責められ、錯乱して川に身を投じる・・が
 ・・、
  作者の実見の光景を描写したので、世相を良く映し出
 し、評判となった。
1885年、発明:
・ベンツ(ドイツ)が、ガソリン自動車を発明した。
  ベンツと言ってもメルセデス・ベンツ社ではなく、ダ
 イムラー社のこと。
  困難な課題をすべてクリアし、ベンツは、ガソリンエ
 ンジンで走る三輪自動車「パテント・モートルヴァーゲ
 ン」を作り上げた。
  1885年に、試運転に成功し、
  1886年に、特許が認められ、
  これによって、ベンツは、世界初のガソリン自動車を
 造ったエンジニアとなった。
・丸善、万年筆を輸入、和製もできる(1884年説あり)
  丸善雄松堂株式会社のホームページに・・
  万年筆は、明治17年(1884年)、丸善が初めて輸入
 販売を開始。
  「カウスのスタイログラフィックペン」というもので、
 軸先に針が少しのぞいていて、
  紙に軸先をつけると針が引っ込み、周りからインキが
 流れ出るというものだった。
  当時の売り場担当者だった金沢井吉が、それに惚れ込
 み、彼の通称が「万吉」であったことから、
  スタイログラフィックペンのことを「万吉筆」、また
 は「万さんの筆」と呼ぶようになり、
  いつしか「万年筆」になったという説があるという。
  ちなみに、現在のような「Fountain pen(泉式)」を
 輸入したのは、1895年(明治28年)、米国製ウォーター
 マン万年筆でした・・とある。
・浅草でゴム印を作るのに成功。
  新聞に、浅草で製造されていたゴム印の紹介記事が載
 った。
  それまでは、ツゲ(黄楊)印や石印に印肉をつけて捺
 印していた。
  そして、その新聞の広告記事は・・
  「軽くていいと、有名な書家、画家から注文あり」(
 京浜毎日新聞)
・筆の軸にインキを入れる、字を書く道具を作った者あり。
 売れるかな(京浜毎日新聞)
1885年、医・衛生:
・パスツールが、狂犬病ワクチンを完成した。
  パスツールは、ワクチン療法の創始者だった。
  病原体を弱毒化する方法を開発し、ワクチンの製法を
 確立した。
  しかし、その結果を得るまでに、パスツールには研究
 の蓄積があった。
  1848年(26歳)結晶に関する論文を発表。
      酒石酸塩で立体異性体を発見。
  1856年(34歳)アルコール製造業者の依頼で、発酵の
     研究を始めた。
      アルコールを作らず、すっぱくなる液に微生
     物=乳酸菌がいることを発見した。
      さらに、細菌の培養法を開発した。
      低温殺菌法(1865年)を考案した。
  1860年(38歳)自然発生説を否定する実験結果を発表
     した。
  1870年(48歳)カイコの病気についての研究する。
  1876年(54歳)ビールに関する研究。
      ローベルト・コッホが炭そ病の病原菌を発見。  
  1879年(57歳)ニワトリコレラ菌の研究から弱毒性の
     病原体で免疫ができることを発見した。
  1880年(58歳)狂犬病の研究を始めた。
  1885年(63歳)7月6日、狂犬病にかまれたメイステル
     少年が来た。
      パスツールは初めて人間に狂犬病のワクチン
     を注射した。
      メイステルは回復した。
      世界中から狂犬病の患者が押し寄せた。
・長崎に於いて、1885年、コレラ流行後、下水道の大溝を
 改築し、中小溝・下水路の改修が行なわれた。
  また、大阪に於いて・・、
  大阪市の井戸の水質は、上町台地周辺を除き全体に悪
 く、
  1893年~1894年(明治26年~27年)に、元大阪市飲水
 試験所が調査した全市の井戸38707 の内飲料適は、僅か、
 1838にすぎず、
  多くの市民は、天満橋上流で採取した水を、簡単な濾
 過器を備えた濾水船で処理し、市内で販売された水を利
 用した。
  1879年(明治12年)頃のコレラの流行後、河川の飲用
 が禁止され、天満橋上流の河川水のみが許可され、
  1887年(明治20年)頃には、濾過河川のみが許可され
 た。
・萩野吟子(ぎんこ)が、女医となる(3月)
  1885年(明治18年)3月、後期試験を受験し合格。
  同年・1885年5月、湯島に診療所「産婦人科荻野医院」
 を開業。
  34歳にして、近代日本初の公許女医となる。
・全国的に麻疹(はしか)が流行し、東京では、芝居の子
 役不足となる。
  1885年3月に出版された「脱亜論」の一節に、以下の文
 がある・・、
  文明ハ猶麻疹ノ流行ノ如シ目下東京ノ麻疹ハ西國長崎
 ノ地方ヨリ東漸シテ春暖ト共ニ次第ニ蔓延スル者ノ如シ
 此時ニ當リ此流行病ノ害ヲ惡テ之ヲ防カントスルモ果シ
 テ其手段アル可キヤ我輩斷ジテ其術ナキヲ證ス
  (目下、東京の麻疹は西国の長崎地方より東に進み、
 春の暖気と共に次第に蔓延するもののようである。
  この時、流行病の害をにくみ、これを防ごうとするに
 しても、果してその手段はあるだろうか? 
  筆者はその手段は断じてないことを保証する)
  因みに、脱亜論は、新聞『時事新報』紙上に、1885年
 (明治18年)3月16日に掲載された無署名の社説。
  福澤諭吉が執筆したと考えられるようになった。
・南北戦争で負傷したペンバートンがモルヒネ中毒になる。
  ジョン・ペンバートンは、南部連合国軍人で、アメリ
 カ合衆国の薬剤師、コカ・コーラの発明者として有名。
・西道仙が長崎医会を創設(1884年10月31日説あり)。
  医会会長に長崎医学校の吉田健康、副会長に漢方医の
 西道仙。
1885年、科学:
・ウインクラーが、新元素を発見した。
 母国ドイツ(ゲルマン)にちなんでゲルマニウムと命名
 した。
  ゲルマニウムは、アルジロダイトから化学的に分離さ
 れた成分で、
  1885年、「新鉱物」として注目されていたアルジロダ
 イトだった。
  化学分析の結果が「銀:73~75%」「硫黄が17~18%」
 と、 成分の合計がどうしても100%にならなかった。
  ウインクラーは、「揮発して無くなってしまうような
 未知の元素があるはずだ」と考えた。
  アルジロダイトを熱して、空気中に揮発してくる物質
 を集め、そして、新元素を分離することに成功した。
  ゲルマニウムは、その性質から、エレクトロニクスの
 発展には、無くてはならない元素だった。
1885年、災害・防災:
・横浜市で日本で最初の消火栓を設置した。
  横浜市の水道は、わが国最初の近代水道で・・、
  横浜のような港湾都市にとっては、船舶への給水とい
 う機能の上で不可欠なものであった。
  海に接し、真水が得られる井戸の少ない横浜に、
  開港場を整備しようとすれば、水の確保は重要な課題
 だった。
  最初の配水地域は、市中心部のみで、街頭に設置した
 十数軒が共用する獅子頭を持つイギリス製共用栓を用い
 て配水した。
  給水開始時の共用栓数は143基、
  他に、消火栓を629基設置した。
  共用栓は、最盛期には、600基が、横浜市内各所に設置
 された。
  当時の日本では、日常の水には、井戸水を利用する場
 合が多く、
  水道を引くという考えは一般的ではなく、
  また、屋内に蛇口を引くという習慣もなかった。
  そのため、水道の水は、路頭の共用栓(獅子頭共用栓)
 から供給を行っていた。
  日本最初の近代水道となった横浜水道は、1885年~1887
 年(明治18年~20年)が創設期だった。
  創設期の600基は、イギリス・グレンフィールド社から
 輸入された。
  (タイムスリップよこはま)より抜書き
.
  (今日の言葉)
.
  題:アメリカが、日本に先制攻撃した・・などを、
   もう一度、その概略を説明すると・・、
.
  キリスト教に偏するNHKの元職員・池上彰は、オバ
 マ大統領が広島に来て謝罪したとき、
  その翌日に、「緊急テレビ解説だ」と称して、テレビ
 に出て、、解説風に発言をした。
  「広島・長崎に原爆が投下されたのは、真珠湾の奇襲
 攻撃をしたからだ」・・と、
  卑劣にも、これは、アメリカがデッチ上げた嘘の話を
 そのまま鵜呑みにしている。
  何も知らない日本の方々へ「嘘発言している」。
  さも正しいように、池上彰は、解説と称して、この様
 に発言した。
  さも正しいように錯覚させて、発言した。
  池上彰は、まだ、今になっても、アメリカのデッチ上
 げの嘘話を、既にそうではないとはっきりしていること
 を、自分の勉強不足を・・、時代遅れの事を、わざわざ
 テレビに出て、言った。
  アメリカの代弁者の様に・・、
  ゴマすり代弁を、国民の電波を使って、オバマ大統領
 の広島訪問の翌日に、緊急だと称して言った。
  このアメリカのデッチアゲ話が、嘘話だという事は、
 数々の歴史の検証から、日本の奇襲ではないと、
  日本の奇襲とは認められないとされている。
  東京裁判でさえ、『奇襲だとしていない』。
  奇襲ではなく、「単なる事務上の遅れだ」と判決して
 いる。
  デーブ・スペクター氏の発言、「知識のある人、深い
 本を読むアメリカ人は分かっている」と言っている。
  また、氏は、「アメリカは、(嘘の話をし続けて)神
 話を作ろうとしている」と言っている。
  また、この時、日本の潜水艦は、日本の連合艦隊より
 先行して、真珠湾に侵入して行った。
  その日本の先行していた潜水艦を、アメリカの駆逐艦
 が発見して、そのアメリカの駆逐艦は、日本の潜水艦を
 攻撃している、先制攻撃をしている。
  日本の潜水艦は、数隻、先行していたが、そのすべて
 が、未帰還になっている。
  その日本の数隻の潜水艦を、アメリカは先に攻撃して
 いる。
  このアメリカの駆逐艦に攻撃された日本の潜水艦は、
 当然、この時にやられて、未帰還となった。
  そして、油などが海上に浮き上がり、判別可能状態に
 なった。
  また、このアメリカ駆逐艦の様な戦闘艦は、ただ攻撃
 して「はい、終わりました」と去る訳ではない。
  戦闘終了したと、終わったと、子供の喧嘩の様に直ぐ
 に去る事はしない。
  攻撃は、「効を奏したのか?」「その攻撃効果はどの
 程度相手にダメージを与えたか?」などを、留まって確
 認する。
  だから、この様に、戦雲極まる時には、特に、日本と
 の一戦が触発されそうな時は、特に、
  その様なときに、「ぼけっ」となんかしている訳は絶
 対にない。
  警戒して航行し、臨戦態勢をとっている。
  アメリカのその任務にあたる駆逐艦が、戦闘艦が、攻
 撃効果を確かめようとしているとき、今、攻撃したのは
 日本以外の船と思うか? 思う訳がない。
  また、めったやたらに、花火を打ち上げる様に、攻撃
 をする訳もない。
  ちゃんと、攻撃対象を認知し、計測し、攻撃対象物の
 位置、種類を認知して、効果のある攻撃をする。
  攻撃後の確認もする。
  そして、それらの結果を基地へ連絡・報告する。
  「こちら○○、△△の位置にて、日本の潜水艦を攻撃
 せり、
  油などの浮上から、攻撃効果、大なるものと判断され
 る」・・と。
  基地は、当然、ペンタゴンへ連絡・報告し、ペンタゴ
 ンは、アメリカ政府機関へ連絡・報告し、
  そして、当然、アメリカの最高機関・大統領ルーズベ
 ルトへも連絡・報告される。
  アメリカ大統領のルーズベルトは、この時、日本と戦
 争する事を画策していた。
  この事は、新たな資料から明らかとなっているが、そ
 して、日本の奇襲をデッチアゲテ、アメリカ国民の方々
 の世論を変えたいと思っていた。
  「戦争をしない」というアメリカ世論を変えたいと思
 っていた、その為にも、「日本の奇襲をでっちあげたい」
 と思っていたところだった・・、
  この日本の先行した潜水艦は、アメリカの駆逐艦が攻
 撃し、アメリカのこの攻撃によって、日米が開戦状態に
 なった事にはしたくなかった・・当然、
  そのため、このアメリカ駆逐艦の攻撃は、「クジラだ
 った」となった。
  まったく、馬鹿々々しい話である。
  未帰還の『すべて』の日本の潜水艦は、クジラだった
 とされた・・?・・呆(あき)れた話となった・・、
  バカも休み休み言えと言いたい。
  鋼鉄の潜水艦が、肉と脂肪のクジラと間違う訳がない。
  事前に探索し、探査し、攻撃の必要を判断する。
  それを、クジラだとした。
  日本の漁師の魚群探知機だって、魚の種類まで分かる
 のだ・・船とクジラの見分けがつかない訳がない。
  それも、玄人(くろうと)の軍人が乗艦している軍艦
 が・・?
  日本の潜水艦は、何隻もが未帰還なのだが、交戦状態
 もあった訳だが、アメリカはクジラにした。
  そして、秘密にした。
  この時、アメリカは、日本の領土だった千島列島から、
 日本の連合艦隊が、ハワイへ向けて発進していたことを
 検知していた。
  一戦触発の時に、敵となろう相手の最大戦力に無関心
 である訳はなく。
  アメリカは、日本の最大戦力の連合艦隊の行動に、最
 大の関心を示していた、当然に・・、
  そして、把握していた。
  日本の艦隊の通信を完全に傍受し、その艦隊の位置を、
 逐一、その変わる位置を掴んでいた。
  奇襲だなんて、でっち上げるのは赤子の手をひねるが
 如くの嘘の話だ。
  日本だって、アメリアの最大の戦力の動向を掴んでい
 た。
  だから、ハワイへ向かったのだ。
  今、ハワイに集結している・・と。
  また、アメリカは、日本がハワイに攻めて来ることを
 事前に予想して、事前に、対策・対抗の演習をしている。
  だから、日本は、ハワイにおびき出されたとも言える。
  肝心の空母のすべてを、アメリカは隠していた。
  日本の戦果の中に空母は一隻もない。
  だから・・、ただ、ぼけっと、攻められた・・奇襲だ
 った・・などとなる訳はない。
  奇襲だなんて話は・・まったく、ばかげた話なのであ
 る。
  日本は、ハワイにおびき出された。
  また、アメリカは、中国で飛行機で日本を攻撃してい
 る。
  中国で、アメリカは、日本を先制攻撃をしている。
  これこそ、アメリカの奇襲攻撃である。
  日本が、「アメリカに奇襲攻撃された」と言えるのだ。
  そして、これが日米開戦となったのだった。
  あまり、知られてないが。
  まだまだ、日米開戦の初めは、真珠湾ではないという
 史実がまだまだある。
  アメリカは、アメリカ国民の方々が、戦争をしてはな
 らないという意見だった、世論だった。
  アメリカ大統領のルーズベルトは、「戦争を作った」
 と自分の思惑を吐露し、しゃべったように、
  このアメリカ国民の方々のこの世論を、変えなければ
 と、卑劣にも変えたいと考えた。
  そして、日本が悪者にされた。
  ヨーロッパは、ドイツがほぼ制圧し、イギリスに上陸
 する気配があった。
  そんな時でも、アメリカ国民の方々は、戦争はいけな
 い、戦争をしてはいけないとなっていた。
  そこで、日本を悪者にして、アメリカ国民の方々の正
 義感を使おうと、悪の計略(けいりゃく、相手をだまそ
 うとするたくらみ)を、ルーズベルトは巡らせた。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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2016年8月22日月曜日

(増補版)406E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1885年1月~1885年1月)

題:(増補版)406E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1885年1月~1885年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1885年、報道:
・アングロ・ジャパニーズ・エヴィユ(9月27日)
 日本人が編集した最初の英字新聞。
 大阪で発行された。
1885年、論・文学・本:
・福澤諭吉 「日本婦人論.後編」
  封建的観念からの人民の解放は、福沢生涯の宿願であ
 った・・が、
  日本の家庭に於ける、婦人の地位は、旧態依然たるも
 のがあったので、
  これが、解放のために立論したものが「日本婦人論」
 であった。
  明治十八年六月四日から十二日まで、八回にわたり時
 事新報社説として発表せられた。
  われわれは、この論説の単行本を未だ目挙したことは
 ない。
  明治三十一年、福沢生前に刊行された五巻本「福沢全
 集」の第五巻には、「日本婦人論後編」の前に収められ、
 大正十五年版「福沢全集」第六巻にも、後編と併せて収
 められ、
  そのときには、「明治十八年七月発免」と記されてい
 るが、これは果して何に拠って斯く記したものか明らか
 でない。
  当時の時事新報広告などによって、われわれの探索し
 た限りでは、「日本婦人論」が、単行本として刊行され
 た証跡は見当らない。
  しかし、福沢の残後、年月を経るに従って、次第に福
 沢の婦人解放論の代表的著作と目され、
  いろいろの形で、他の婦人解放論と併せて複刻出版さ
 れるに至った。
  「日本婦人論後編」は、明治十八年七月七日から十七日
 まで十回にわたって時事新報社説として発表せられた。
  この頃の社説は、すべて漢字片仮名まじりのやや固い
 文章で綴られるのが常であったが、
  この後編に限り、平仮名まじりの平易な文体で婦人に
 読み易いようにと配慮が加えられた。
  この後編は、その翌月に、四六版洋紙活字版の小冊子
 として刊行せられた。
  紅洋紙の薄い表紙で、「福沢諭吉立案/中上川彦次郎筆
 記/ 日本婦人論後編全一冊/明治十八年八月出版」の文
 字を飾り枠で囲ってある。
  序言二頁、本文六十三頁、奥附一頁、巻末に広告四頁
 を附けている。
  奥附には「明治十八年七月十五日出版/同年同月出版/
 定価金十七銭/抜萃兼出版人大分県士族石川半次郎東京
 日本橋区通三丁目十一番地寄留」と記し、その左側に売
 捌所書店名が列記してある。
  奥附の署名人石川半次郎は当時の時事新報発行名義人
 で、その寄留先は時事新報社の所在地である。
  巻末の広告頁は黄色の紙を用い、第一頁が時事新報の
 広告、二頁以下が発免書目録で、慶応義塾出版社および
 時事新報社の出版書目を掲げ、発売所として時事新報社
 と中近堂との名を併記してある。
  (日本婦人論. 後編 - Keio Universityより)
・田口卯吉 「日本開化之性質」 (9月)
  田口卯吉は、明治の経世家(けいせいか、経世の論を
 説いた知識人)。
  福沢諭吉と並び称せられた啓蒙思想家。
  号は鼎軒。黄東山樵・畠山機知・田口十内・牛嶺逸士
 のペンネームをもつ。
  経済学者・歴史家であるほか雑誌主宰者・史料編纂者・
 政治家・実業家でもあり、その活動領域は多彩である。
  学者であると同時に実践家でもあり、森鴎外からは、
 西洋と東洋に通じた「二本足の学者」と敬称された。
  江戸生れ。佐藤一斎の曾孫。下級幕臣の子で、しかも
 幼年で母子家庭となり、
  明治以降、ひどい困苦流浪生活の中で英学・医学を学
 んだ。
  1872年(明治5年)大蔵省翻訳局上等生徒となり、
  1874年、同省紙幣寮に出仕、
  1878年、退官する。
  在職中は、英書翻訳のかたわら経済学や開化史を修得
 しつつ、著述や新聞投書で保護貿易政策を批判した。
  1878年、「自由交易日本経済論」を刊行し、経済自由
 主義を唱えた。
  この主張は、1879年創刊の「東京経済雑誌」上で精力
 的に展開された。
  1877年~1882年に、「日本開化小史」を出版し、一躍
 文名を顕す」(日本思想史辞典[2009:624])
・有賀長雄 「文學論」
  有賀長雄(あるがながお)は、明治・大正期の国際法
 学者、外交政治史家、社会学者、陸軍大学校教授、早稲
 田大学教授。
  1913年(大正2年)、袁世凱に招かれて渡中、大総統法
 律顧問として清国憲法制定に尽力した。
・坪内逍遥著『当世書生気質』分冊刊行(6月)
  坪内逍遥は、かねて『遊学八少年』という戯作の構想
 を抱いていた。
  勧善懲悪を否定し、写実主義を主張した文学論『小説
 神髄』の執筆に続いて、
  1885年(明治18年)4月に書き始め、6月に『一読三歎
 当世書生気質』第1巻を刊行。
  好評のため翌年・1886年1月までに第17巻を刊行した。
  明治初年の書生社会の風俗と気質をうつすことを主眼
 として、下宿生活、牛肉屋、楊弓店などで書生らが遊ぶ
 様子も描く。
  日本近代写実小説の第一として、『小説神髄』に展開
 された理論の具体化であるとされる。
  ただし、文体は、戯作の影響が強く、芸妓が筋の中心
 には上野戦争(彰義隊のたたかい)で生き別れになった
 兄妹の再会など、通俗的な側面もあったので、作者は晩
 年『逍遙選集』を編集したときに、この作品などの小説
 類をすべて〈別冊〉にくくりこんだ。
  この小説は、当時から世評が高く、長く読み継がれた
 ため、作中の〈野々口精作〉なる人物のモデルと誤解さ
 れるのを苦にした野口英世が、清作という本名を英世に
 変えたという。
・坪内逍遥著『小説神髄』第一冊刊(9月)
  明治に入ってからの日本文学は、江戸の戯作の流れを
 汲む戯作文学か、西洋の思想・風俗を伝え啓蒙するため
 の政治小説が中心だったが、
  『小説神髄』は、道徳や功利主義的な面を文学から排
 して客観描写につとめるべきだと述べ、心理的写実主義
 を主張することで日本の近代文学の誕生に大きく寄与し
 た。
・坪内逍遥 「妹と背鏡(いもとせかがみ)」
  「妹と背(いもとせ)」は夫婦、「かがみ」は映し出
 す意味。
  つまり夫婦の生活を描写するという意味。
  この小説は、「自由恋愛」で結婚した夫婦と、親の都
 合で結婚させられた夫婦のいずれもが、不幸な結婚生活
 を送る様子を、逍遥自身の小説論に忠実に写実主義で再
 現しようとしている。
・東海散士『佳人之奇遇(かじんのきぐう)』刊(10月)
  佳人(かじん)は、美しい女性の意味で、
  会津の遺臣である東海散士が、アメリカにわたり、フ
 ィラデルフィアの独立閣でアイルランドの美女紅蓮、ス
 ペインの貴女幽蘭にめぐりあうのが発端で、
  後に、中国の明朝の遺臣も加わる。
  いずれも、亡国の憂いを抱き、権利の回復運動に進も
 うとするかれらの交情が描かれる。
  なお、この話の中でハンガリーのコシュートが亡国の
 代表として各編に登場する。
  東アジア経営にかんする意見、世界の地誌、世界史へ
 の注釈などが加わり、前半では、小国が大国に依存した
 状態では民族的解放ができないこと、
  小国の国民は、国を守る気力を持たなければならない
 こと、小国同士が手を取り合って協力すべきことが説か
 れている。
  後半になると、作者自身が、谷干城に随行してヨーロ
 ッパを視察したときの体験が混ざり、また、金玉均との
 交友から朝鮮半島をめぐる議論や、日清戦争後の三国干
 渉をめぐる議論が作品の主軸を占めるようになり、佳人
 の面影は作品からは遠ざかっていく。
・近藤瓶城編『史籍集覧』正編刊了
  岡崎藩の儒者近藤瓶城が、編纂した江戸時代までの日
 本の国史の叢書。
  1881年~1885年刊。1900年~1903年の改定版では、全
 465種1135巻。
  群書類従に漏れた諸書を通記、纂録、別記、雑類に分
 けて収録した。
・三遊亭円朝 「塩原多助一代記」
  創作された落語・人情噺。
  実在の塩原太助をモデルにした立身出世物語。
・植木枝盛 「貧民論」
  植木は、青年時代から独自のアジア主義(小国主義、
 アジア連合論)を説き、
  興亜会(日本、支那、朝鮮等東洋の団結」を目的とす
 る)の会報をよく読み、
  アジア侵略をする欧米を「大野蛮」と言った。
  アジアの被抑圧からの独立振興を主張した。
  改革アジア同士の連携を志向し、具体的には通商貿易
 という手段でのアジアの独立振興を志向した。
  新聞で、キリスト教を痛烈に批判した。
・硯友社創立、『我楽多文庫』創刊(2月)
  近代日本文学で初の文芸雑誌。
  同人雑誌の先駆。
  硯友社の機関誌。
  硯友社(けんゆうしゃ)は、1885年、尾崎紅葉、山田
 美妙、石橋思案、丸岡九華によって発足した文学結社。
  「我楽多文庫」を発刊した。
  川上眉山、巖谷小波らが参加し、当時の文壇で大きな
 影響を与えた。
  1903年(明治36年)10月の紅葉の死によって解体した。
  近代文体の確立など、その意義は大きい。
・『女学雑誌』創刊(7月)
  1885年7月20日、創刊された日本初の本格的女性誌。
  1885年(明治18年)7月~1904年(明治37年)2月まで、
 526号、計548冊刊行された。
  巌本善治が長く編集人を勤めた。
  『日本の婦女をしてその至るべきに至らしめんことを
 希図す』と創刊号の『発行の主旨』にある。
  『女学』とは、『女性の地位向上・権利伸張・幸福増
 進のための学問』とされる。
  (参考)希図:きと、希望して計画すること。
1885年、歌・流行・世相:
・歌 :琵琶歌 「南洲追憶」(作:勝海舟)
・髪:束髪(そくはつ)
  日本髪と並んで普及した女性の結髪の一つ。
  この束髪は、当時の鹿鳴館(ろくめいかん)時代の影響
 もあって女学生の間に人気を博した。
  その束髪は、洗い髪を香油を用いて整え、それから額
 中央から髪を左右に分け、後頭部で一度束ねてから三つ
 編みとし、それから髷をつくり、「西洋下げ髪」「西洋
 上げ髪」「マーガレイト」「伊太利(イタリア)結び」な
 どにまとめあげた。
  「夜会(やかい)巻き」もこれから出た髪形の一つ。
・生活:麦藁帽子値上り
・生活:馬の飼育奨励
  この年の記録から・・、
  獣医開業試験規則制定。
  戦時病馬厩服務規則制定。
  陸軍の馬医部馬医を獣医部獣医に改称。
  馬医生を看馬長へ改称。       
  民有種牡馬、牛取締に関する規則公布。
  宮内省が、藤波言忠子爵と新山荘輔子爵をヨーロッパ
 牧畜視察に派遣。      
  下総種畜場、宮内省への移管により下総御料牧場に改
 称。
  大日本獣医会発足。
  (参考:www2.town.yakumo.hokkaido.jp/history/ep04.htm)
・産業:大麦作盛ん
  北海道の事例・・、
  農業経営を安定させる施設については、逆に積極的な
 方策がとられた。
  すなわち、共立商社の設立、備荒貯蓄制度の実施、輪
 作・牧畜の奨励などが主なもので、特に、輪作補助規程
 を設けて、大麦・大豆・あわなどの輪作を奨励し、
  地力の維持増進、略奪農業の防止に努めた。
  このように、直接的な援助の廃止にかかわらず、この
 地に残った移住者たちは、自立経営の意欲も盛んになり、
 それ以後、作付反別および収穫高は飛躍的に増加し、殊
 に、産馬の振興によって牧草・えん麦などの飼料作物は
 急激に増え、
  1902年(明治35年)には、総作付面積の4割強を占め
 るに至る。
  (参考:www2.town.yakumo.hokkaido.jp/history/ep04.htm)
.
  (今日の言葉)
.
題:アメリカの非人道的攻撃の一例:無実の一般市民殺戮
.
1944年11月14日、アメリカの非人道的なじゅうたん爆撃
  この日、東京が、初めて、アメリカによる爆撃を受け
 た。
  無実の一般市民に対する無差別爆撃の国際法違反行為
 だった。
  アメリカは、国際法違反の無実の一般市民を殺戮をす
 る。
  日本は、ハワイの攻撃の時は、一人も一般市民の殺戮
 はしていない。
  アメリカの方々の殺戮はしていない。
  この時、アメリカ軍が、誤射で、自国民のアメリカ市
 民を殺戮しているが・・。
  この東京の様な卑劣なアメリカの市民ターゲット行為
 は、日本全国の都市で、この国際法違反の無差別爆撃を
 行なった。
  東京だけに関しても、以下の様な事が行なわれた・・、
  東京は、1944年(昭和19年)11月14日以降に106回もの
 爆撃・空襲を受けたが、
  106回もの回数、無実の一般市民をターゲットにした殺
 戮行為がなされた。
  特に、1945年(昭和20年)3月10日、4月13日、4月15日、
 5月24日未明、5月25日~26日の5回は大規模だった。
  その中でも、「東京大空襲」と言った場合、死者数が
 この1回の攻撃で、10万人以上と著しく多い1945年3月10
 日の空襲(下町空襲)を指すことが多い。
  この3月10日の空襲だけでも罹災者は100万人を超えた。
  そして、この空襲の体験をした・・、
  芸人の毒蝮三太夫(どくまむしさんだゆう)氏は、
 (読売新聞、2016年8月13日)で、以下の様な事を言う。
  第二次世界大戦時の空襲のことを言う・・、
  「警報が鳴ったと思ったら、焼夷弾がバラバラ落ちて
 きた。
  『もうだめだ、逃げよう』って、おふくろと逃げ始め
 た。
  火が強い風にあおられるのでとにかく熱くてね。
  『こんなに苦しいんなら死んだ方がいい』と俺が言っ
 たら、
  『死ぬために逃げてんじゃないよ。生きるために逃げ
 るんだから、そんなこと言うもんじゃないよ』って
 お袋に叱咤(しった、大声を張り上げてしかりつけるこ
 と)された」。
  「逃げる途中で、革の靴が落ちていて拾ったんだけど、
 片方が重いなと思ったら、足首が入っていた。
  無我夢中でその足首を抜いて、靴を履いた覚えがある。
  東京の空は真っ赤だった」・・・。
  「翌日は、一面焼け野原だから、どこが自分の家かな
 んてわからない。
  防空壕を見つけて、ふたを開けた。
  5人ほどが俺をにらみ付けているから、『空襲は終わっ
 たよ』と声をかけたよ。
  でも、動かない。
  よく見ると、息をしていなかった。
  肌がロウ細工のように白く、眼だけがぎょろっとして
 いた」・・・。
  「空襲の最中には、『俺たちは兵隊じゃない』。
  『何で焼夷弾が落ちて来るんだ』って気持ちが、何度
 も湧いた」・・・。
  (世界で一番悪いことをしたのはアメリカ、無実の一
 般市民の大量虐殺・殺戮)
  キリスト教に偏するNHKの元職員の池上彰は・・、
  これも、日本が真珠湾攻撃をしたからと言うのか?
  池上彰は、原爆投下は真珠湾攻撃をしたからと言った。
  真珠湾攻撃は、このブログでも、色々と、数おおく、
 奇襲攻撃ではないとはっきりした証拠で説明しているが
 ・・、
  また、日本の先制攻撃ではないと証明もした。
  この卑怯な言い方をする池上彰は、何でもかんでも、
 日本が真珠湾攻撃をしたからと、テレビで「解説だと誤
 魔化す番組で」言っている。
  アメリカが、先に先制攻撃していたことも、色々な資
 料から、明らかになっている。
..
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2016年8月21日日曜日

(増補版)405E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1885年1月~1885年1月)

題:(増補版)405E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1885年1月~1885年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1885年、食:
・三田育種場『再植馬鈴薯の記』を刊行した。
  11代将軍・家斉(いえなり、在位:1787年~1837年)
 の頃、
  蝦夷地の探索中の最上徳内が、ロシア人からジャガイ
 モをもらう。
  家斉の治世、最後の頃、大飢饉(1833年~1839年、天
 保の大飢饉)となる。
  蘭学者の高野長英は、1832年、飢饉対策として作られ
 た研究会に入り、中心的役割を果たした。
  救荒作物として、蕎麦と馬鈴薯(じゃがいも)の栽培
 を奨励した「勧農二物考」という書物は、この成果だっ
 た。
  1871年(明治4年)、北海道で、今度はアメリカから
 もたらされたジャガイモの試作が始まった。
  1885年(明治18年)には、ジャガイモの作付けに拍車
 がかかり、全国に普及した。
  そして、この年、東京の三田育種場が『再植馬鈴薯の
 記』のパンフレットを作って配布した。
  これには、栽培の仕方はもちろん、調理法まで記述し
 てあった。
・大阪の屠牛数12,676頭に達し、同年の日本全屠牛中数の
 約80%を占めた。
・グラバーの息子の倉場富三郎が、長崎に製氷会社を設立
 した。
  1859年、横浜開港以来、幕末横浜の外人居留地に、米
 国ボストンの天然氷が、アフリカの喜望峰を大迂回して
 半年がかりで、1万5千海里の海原を渡って、日本に輸入
 された。
  主として、外人の医療用等に使われた。
  当時、横浜に到着したボストン氷は、ビール箱の大き
 さで黄金3両(30万円)した。
  日本には、中川喜兵衛という天然氷事業を興した人物
 がいた。
  中川喜兵衛は、1817年(文化14年)、愛知県三河に生ま
 れた。
  中川喜兵衛は、京都に学び、40歳で、江戸で英公使館
 のコックとなった。
  医師ヘボンから、氷が、医療用・食品保存にきわめて
 有益であると教わり、
  天然氷の事業化に執念を燃やした。
  まず、横浜で、牛乳販売所を開業して資金を蓄積した。
  そして、1861年(文久元年)、氷事業を始めた。
  1861年の最初の試みは、富士山麓鰍沢に、165㎡の製氷
 池を造り、100㌧2千個の氷塊を得て、採氷し搬出した。
  木箱に、オガ屑をつめ、氷を包んで馬の背で運び、静
 岡・江尻港より、日本の帆船2隻で、横浜へ輸送した。
  しかし、 途中難航し、横浜に到着した時は、僅か8㌧
 となり、1715両(約5億円)の損失となった。
  2度目の試みは、2年後の1863年、信州の諏訪湖で、湖
 水氷の採氷、輸送を試みたが、再び、失敗した。
  3度目の試みは、1864年(元治元年)「日光赤城」の名
 で、56里を馬で運び、高瀬川を下り、横浜に運んだが、
 製造、輸送費を回収できずに失敗した。
  4度目の試みは、翌年・1865年(慶応元年)陸中釜石で
 300㌧採取し、帆船で横浜へ送ったが、約1割の30㌧しか
 残らず、採算とれず、失敗した。
  5度目の試みは、翌年・1866年(慶応2年)青森県で採
 氷したが、運搬船が外国船しかなく、その費用捻出不能
 で空しく氷を溶解してしまった。
  6度目の試みは、今までの失敗が、すべて輸送の不備に
 よることを反省し、ヘボンの強い激励によって、他の業
 務をなげ打って、 用意周到に計画を練り、米国技師を
 招聘し、函館の榎本武揚の援助を得て、
  北海道開拓使(今の北海道開発長官)黒田清隆より、五
 稜郭における7年間の採氷専取権を得て、全財産を投入し、
  1867年(慶応3年)北海道函館にわたり、6回目の挑戦を
 したが、
  暖冬のため薄い氷しかできず、250㌧の氷を横浜に回送
 して大損失、 窮乏のどん底に陥入った。
  そして、第7回の挑戦を試みた。
  1869年(明治2年)ついに、純良な500㌧の氷の採氷に成
 功した。
  氷の厚さ40センチ(1尺3寸)、これを外国船を仕立てて
 京浜地区に輸送し販売した。
  大成功だった。
  五稜郭の外濠は水質が良く、運搬の便も良かったこと
 が幸いした。
  ボストン氷と競争状態になったが、わずか1年で、外国
 氷を駆逐した。
  翌年・1870年(明治3年)600㌧、1882年(明治15年)
 3,400㌧を採氷するまでになった。
  当時の氷は、1㎏約7銭、米1㎏3.5銭、
  氷は、米の約2倍の価格だった。
  その後、台湾、清国、韓国、シンガポール、南洋、イ
 ンドまで輸出した。
  中川は、米国から氷採取機械を輸入し、完全な氷製品
 を出荷し、内国博らん会の大賞を受賞した。
  また、宮内庁ご用達に採用され、五稜郭氷の名声を高
 めた。
  この中川の成功を聞き、全国的に採氷池が続出し、天
 然氷事業の普及・発展がもたらされた。
  日本の機械製氷は・・、
  有名な話として・・、1870年(明治3年)夏、福沢諭吉
 は熱病でかなり苦しんだ。
  たまたま、福井藩主・松平春獄公が、外国製の小型製
 氷機を所有していた。
  それが、遊休していることを、慶応義塾の塾生が知り、
 これを借りて少量の氷を造り、
  諭吉の解熱に使ったのが日本の機械製氷の始まりであ
 った。
  1879年(明治12年)オランダ人のストネーブリングが、
 横浜に、最初の機械式製氷工場(日産能力3㌧)を設立し
 た。
  1887年(明治16年)日本人による日本最初の製氷会社
 が、東京京橋新富町に建設された。
  東京製氷会社(日産能力6㌧)だった。
  以後、天然氷と機械氷の激しい競争が始まった。
  1889年(明治22年)当時の氷価は、12貫匁(45㎏当り)
 五稜郭天然氷80銭、日光天然氷70銭、神奈川天然氷65銭、
 機械氷60銭・・だった。
  この年・1889年(明治22年)五稜郭の貸与規則の変更
 により、天然氷の採取も中止となり、
  中川氏は、機械製氷時代への移行を看破し、
  自ら、東京機械製氷会社を設立計画し、
  1898年(明治31年)東京業平橋に、事業を開始したが、
  中川氏本人は、前年の1897年(明治30年)1月4日、東
 京越前堀の自宅で、80才で他界された。
・経営破綻したビール会社スプリング・バレー・ブルワリ
 ーをグラバーらが買取る。
  スプリングバレー・ブルワリーは、キリンビールが展
 開するオリジナルのクラフトビールを提供する店舗だが
 ・・、
  1870年(明治3年)ウィリアム・コープランドが、横浜・
 山手に日本初のビール醸造所として設立した。
  だが、その後、スプリングバレー・ブルワリーは破産
 する。
  1885年(明治18年)に、「ジャパン・ブルワリー・カンパ
 ニー」へと経営が移った。
  1888年(明治21年)に、「キリンビール」というブラン
 ド名のビールを発売した。
  そのジャパン・ブルワリーから経営を引き継いで、
  1907年(明治40年)2月23日に、現在の麒麟麦酒が創業
 した。
  スプリングバレーブルワリーは、キリンビールの起源。
 そして、コープランドは、その生みの親。
  スプリングバレーブルワリーのあった場所は、横浜・山
 手の外人墓地や、港の見える丘公園の近くで、
  当時、山手居留地123番地と呼ばれていたところ。
  ここに、ビール工場が建設された理由は、美味しい天
 然水が湧き出る場所だった。
  小高い丘の上にある港の見える丘公園付近から海側は
 急な斜面になっているが、
  ビール工場があった所は、ちょうど谷間(バレー)に
 なっていて、湧水(スプリング)が湧き出していた。
  そして、スプリングバレー・ブルワリーと名付けた。
1885年、住:
・摺附木(マッチのすりつけぎ)に黄燐使用を禁止した。
  黄麟は、湿った空気中では自然に燃えだし、猛毒。
  摂氏55度(55℃)で発火し、五酸化二リンの白煙をあ
 げながら激しく燃える。
  1830年に、フランスのソーリアが黄燐マッチを発明し
 た。
  これは、頭薬をどんなものにこすりつけても発火する
 ため普及したが、その分、自然発火が起こりやすく、
  また、黄燐がもつ毒性が問題となって、
  製造者の健康被害も、社会問題化した。
  そのため、19世紀後半に、黄燐マッチは禁止されてゆ
 き、
  1906年、スイスのベルンで、黄燐の使用禁止に関する
 国際会議が開かれて、黄燐使用禁止の条約が採択された。
  欧米各国は批准した。
  しかし、マッチが有力輸出商品だった日本は、加盟し
 なかった。
  結局、1921年(大正10年)になって、ようやく、日本
 は、黄燐マッチの製造が禁止した。
  その後、赤燐を頭薬に使用し、マッチ箱側面にヤスリ
 状の摩擦面をつけた赤燐マッチが登場した。
  19世紀半ばに、側面に赤燐を使用し、発火部の頭薬に
 塩素酸カリウムを用い、頭薬を側薬(横薬とも)にこす
 りつけないと発火しない安全マッチが登場した。
・東京瓦斯株式会社が設立された。
  沿革・・、
  1872年(明治5年)横浜で、日本初のガス事業が始まる。
     高島嘉右衛門により、馬車道通りに街灯として
    ガス燈が灯ったことに始まる。
  1874年(明治7年)東京府芝区浜崎町(現港区海岸、現
    本社所在地、当時金杉橋)で、ガス製造工場が稼
    働し、銀座通りにガス灯が点灯。
  1876年(明治9年)東京府瓦斯局が開設された。
  1885年(明治18年)10月、当時の東京府から、東京府
    瓦斯局の払い下げを受け、渋沢栄一、浅野総一郎
    らによって、東京瓦斯会社として創立された。
・横浜市初めて鉄管使用の上水道を設ける。
  横浜は、今の、特区的な地域だった。
  横浜市の水道は、わが国最初の近代水道として存在し
 た。
  神奈川県知事は、英国人技師H.S.パーマー氏を顧問と
 して、相模川の上流に水源を求め、
  1885年(明治18年)近代水道の建設に着手し、
  1887年(明治20年)9月に完成した。
  1887年(明治20年)10月17日に、給水が開始した。
  戸数わずか87戸ほどの一寒村であった横浜の人口は、
 日増しに増加し、市街は急激に発展した。
  当時、住民は、水を求めて井戸を掘ったが、
  横浜は、海を埋め立てて拡張してきたので、良質な水
 に恵まれず、ほとんどの井戸水は、塩分を含み、飲み水
 には適さなかった。
  1890年(明治23年)の水道条例制定に伴い、水道事業
 は、市町村が経営することとなり、
  同年・1890年4月から、横浜市に移管され、市営として
 運営されるようになった。
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  (今日の言葉)
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  題:国を売る・・金の力で、だんだんと牛耳られて行く・・
.
19世紀、ヨーロッパで、金の力を使って、国を乗っ取るこ
 とが行われた。
  それが、20世紀になると世界中で行われ出した。
  かつては、アメリカが、ヨーロッパ資本によって、乗
 っ取られていた。
  それが、今では、アメリカが、盛んにやっている。
  そして、今、中国が、その手をやり出している。
  最近、アメリカのシカゴの新聞社の資本が中国になり
 (乗っ取られて)、中国に都合の良い記事が書かれ出し
 ている。
  日本の朝日新聞は、日本を売る、国を売る様な事をし
 ているが、
  嘘の記事まで書いてやったが、
  それも、何年も経って、やっと作り話だったと白状す
 る、認めるという卑怯な、卑劣な始末となったが、
  この様に、謝罪をしたって、海外版では、今でも、そ
 の謝罪はなんのその、日本を売るような記事を、今だに
 出しているという状態。
  何か?その様にする理由があるのか?
  金の力が働いているのか・・?
  中国は、金の力で、あちこちに手を伸ばしているが、
 沖縄が、この洗礼を受けている。
  この金の力に負けた輩が増えている。
  今、アメリカは、やられていた時代もあったが、やっ
 ている方になっている。
  やられている時は、ヨーロッパ資本に、企業が、どん
 どん買い取られて、アメリカ議員まで、連邦議会の議員
 たちまで買収された。
  色々な手段で、色々、金の力の影響を与え、その国の
 経済や、政治を牛耳って行く状況が現れている。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive