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2015年5月9日土曜日

(増補版)95C3/3:気になった事柄を集めた年表(1595年7月~1597年2月)

題:(増補版)95C3/3:気になった事柄を集めた年表(1595年7月~1597年2月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1595年、五大老。
  徳川家康・前田利家・宇喜多秀家・毛利輝元・小早川
 隆景が五大老に任命された。
1595年、検地が終わり、税法を定めた。
1595年、社会資本整備・利根川。
  利根川左岸(現在の太田市付近の34キロ)に堤防を築
 いた。
  さらに、利根川の脈川である会の川を締め切った。
1596年3月1日、この日に、石田三成が、その領地である近
 江国浅井郡と伊香郡の村々に、秀吉の「定」に則った数
 ヶ条の定を出した。
 「当村の百姓で、さる小田原城御陣の後、奉公人・町人・
 職人になり、よそへ行ったものは、返せとの御法度であ
 るから、よく調べて給人に申し出よ、たとえよその里へ
 行って、田を作っていても、元の所へ召し返せ、また、
 よその百姓が来ていても、だれも召しかかえてはならぬ」
1596年6月15日、和議のために、使節が、釜山を出発した。
  この日、ようやく明の冊封正使楊方亨(ようほうこう)
 が朝鮮の釜山を出発し、日本に向かった。
  副使の沈惟敬は、正使より一足早く日本に到着し、6月
 27日に、伏見城において秀吉に謁見した。
1596年8月29日、和議の正使が大阪に到着した。
  正使の大阪到着は、この日で、9月1日に、秀吉は、大
 阪城で楊方亨と沈惟敬の二人の使節に引見した。
1596年9月2日、秀吉、和議の正使と副使を、大阪城で饗応
 した。
  この饗応の後、猿楽なども催され、秀吉の機嫌も良か
 った。
  しかし、宴が終わって、明国王の勅を読ませたところ、
 そこには「特に爾(なんじ)を封じて日本国王と為(な)
 す」とあるだけで、
  秀吉が、先に明に要求した七ヶ条の要求については、
 何も触れられていなかった。
  怒った秀吉は、冊封使を追い返してしまい、再出兵の
 命が下された。
  この時の様子を、
  「秀吉、威を輝かさんと欲し、鮮赤の衣を着し、明冠
 を蒙り、上壇のの中央に大座す」とある。
1596年、秀吉と信長の頃の人たちとの関係
  信長の三男・信孝と柴田勝家が秀吉に敵対する。
   信孝は、岐阜城に挙兵して敗れ、知多郡野間に落ち
 て自刃に追い込まれた。
  辞世の歌
 「むかしより 主をばうつみの野間なれば、恨みを見よ
 や羽柴筑前」。
  そして、やはり、信長の子の信雄は、1590年の小田原
 の役の後の関東処分(1596年)で、家康が移った後の駿
 府を与えられたが、尾張、伊勢旧領に執着して秀吉の怒
 りをかい、所領を没収されて下野国烏山(しもつけから
 すやま、栃木県烏山町)に流された。
  信雄は、この地で2万石を与えられたものの、家来は
 わずかの侘(わび)しい生活に、剃髪して出家し、信長
 を供養し、秀吉への憎しみを押さえて、恭順の意を示し
 続けた。
  やがて、秋田に移った後に許され、秀吉の御伽衆(お
 とぎしゅう)になった。
1596年、秀吉内の武断派と官吏派との亀裂
  太閤秀吉と信長の時代から戦場を駆け巡って来た山内
 一豊、浅野長政、池田輝政、加藤清正(正室おねの台所
 飯で育ち、衣類の世話までしてもらった)、福島正則(
 まさのり)といった武将たちは、戦い一筋に生きて、太
 閤に奉公してきた者たちである。
  これに対し、石田三成、大谷吉継(よしつぐ)、小西
 行長ら官吏派と呼ばれる人たちは違っていた。
  秀吉が、最初に一国一城の主になったのは北近江の長
 浜。
  ここで多くの家臣団が必要となり、滅びた浅井氏の旧
 臣を数多く登用するなどした。
  頭脳派の官僚が必要だった。
  石田三成は、朝鮮出兵では船奉行を務め、その将兵の
 輸送にあたった後、三成は渡航して在朝鮮部隊督励の奉
 行を務めた。
  この際、秀吉への恩賞報告では、いわゆる官吏派に厚
 く、武断派には薄い、えこひいきな報告をしたとして
 、恨みを買う。
  この様な事から、三成を最も嫌ったのは加藤清正であ
 り、福島正則であった。
1596年、キリスト教の魔女狩りで、アルサスのサン・アラ
 マンでは、この年だけの1年間で200人以上が焼かれた。
1596年12月、松平信綱が生まれた(1596年~1662年)
1596年、デカルトが生まれた(1596年~1650年)
1597年、足利義昭が没した(1537年~1597年)
1597年2月、秀吉、朝鮮再出兵の陣立書を発表した。
1597年2月5日、豊臣秀吉に迫害されたとキリスト教が言う
 「長崎の西坂で殉教の26人」が十字架刑となる。
  これは殉教ではない。
  秀吉が出した禁教令で、ほとんどの宣教師は何事もな
 く帰国している。
  若しくは、長崎に戻っている。
  しかし、6人の宣教師が、この法律を犯した。
  活動を続けていた。
  この法律違反行為の宣教師が、隠れて活動を続けるか
 ら罰せられたのだ。
  日本人の信徒は、可哀想に、その宣教師にそそのかさ
 れて、やはり、法律の法違反行為をしていた。
  その事により、法律違反者として罰せられた。
  この6人の宣教師は、フランシスコ会の宣教師。
  日本は、ヨーロッパの様に、無実の人を残酷に殺すよ
 うな事はしていない。
  これを、キリスト教は、しきりに「殉教だ」「殉教だ」
 と嘘宣伝(プロパガンダ)する。
  法違反者たちなのだ。
  ちゃんと法に従っていた宣教師たちの安全は保たれて
 いる。
  ここが大切な所。
  ヨーロッパの悪行為とは全く日本の場合は違うのだ。
  自分たちに利があるからと、キリスト教は嘘を言うの
 は止めなさい。
  嘘付きキリスト教を返上して下さい。
  長崎の聖人像は嘘でできたものです。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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2015年5月8日金曜日

(増補版)94C3/3:気になった事柄を集めた年表(1594年~1595年7月)

題:(増補版)94C3/3:気になった事柄を集めた年表(1594年~1595年7月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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16世紀後半、日本は、この時、世界で一番、鉄砲を所有す
 る国になっていた。
  日本に、1543年に、鉄砲が伝来してわずかな期間、30
 ~40年の間に、その技術をマスターしたことに驚くどこ
 ろか、世界一の鉄砲所有国になっていた。
  しかし、ダートマス大学教授のノエル・ペリン氏が、
 主張したいところは、それ以上の事だった。
  人々は、その技術習得も凄いと言われるが、更に、日
 本の凄い所と、そして、世界に希望を与える所は、「軍
 縮への希望」を日本は示したのだと言われる。
  人間の本性から、軍縮は不可能と言われる世界に、希
 望を与えたと言う。
  例えば、イギリスのダンセイニ卿は言う・・、
  「むろん(私は)改革を示唆しているのではない。毒
 ガス兵器の時代から鉄砲の時代に後戻りできない様に、
 鉄砲の時代から刀剣の時代へは後戻りできないからであ
 る」・・と。
  この様な世界の考え方の中で、ノエル・ペリン教授は
 言う・・、
  「現代社会を根底から脅かしている核兵器による人類
 破壊の危機を憂慮する一人として、過去にあって、当時
 の最先端の新式武器(鉄砲)を捨てた日本の経験に学ん
 で、核兵器は放棄すべきであり、また放棄できるのだ、
 と(日本は)強く示唆しているのである」・・と。
  ノエル・ペリン教授は、安土桃山時代の鉄砲の使われ
 方が、その急速的にマスターし、競って戦いに取り入れ
 られ(その死の商人をしたのがキリスト教宣教師、この
 輸入鉄砲を使ったのが主に九州の大名、そして、技術を
 マスターした日本の鉄砲鍛冶)、
  そして、そこで、凄い事あ起きるのである。
  日本人は悟るのである。
  その殺戮性に、その非人道性に・・。
  そして、それに気付いた日本人は、その後、鉄砲を用
 いる戦いを控えて行く、止めて行く。
  その過程を知り、そして、江戸時代に昔の刀剣の時代
 に戻ったことを知った驚きが、教授にあった。  
  教授は、日本のこの事実を世界に発表した。
  世界から驚きと賛辞が沸いた。
  世界のマスコミが、この事を、次々に取り上げた。
  世界に、日本のこの軍縮の希望を見出した時となった。
  ノエル・ペリン著「鉄砲を捨てた日本人」をお読みく
 ださい。
1594年1月3日、秀吉が、伏見城の築城のための6人の普請
 奉行を任命した。
  そして、朝鮮に出動していない諸大名には、築城の軍
 役を賦課(ふか、割り当てる)した。
1594年1月29日、羽柴秀次が、新年挨拶のために大阪城へ登
 城した。2月10日まで逗留した。
1594年2月21日、秀吉が、羽柴秀次を招待して茶会を開催し
 た後、直ちに大阪城に帰城した。
1594年2月25日、秀吉が、羽柴秀次・諸大名・公家衆を従え
 大和国吉野山において花見を行うため大阪城を発ち、当
 麻に到着する。
  27日、秀吉が、大和国吉野山に登り、豊臣秀保の建て
 た茶屋において花見を行う。
  3月2日まで滞在する。
1594年3月17日、秀吉が、大阪より伏見に到着し、伏見城の
 普請の様子を視察する。
1594年4月16日、秀吉が、小西行長を通じて書簡を送付して
 来た島津義弘へ、長陣の慰労をし、明の返答次第でさら
 なる軍勢を派遣する予定を通知した。
1594年4月22日、秀吉が、徳川家康からの湯治見舞いを謝し、
 筋痛により湯治する旨を通知した。
1594年4月28日、羽柴秀次が、聚楽第より大阪城に登城し、
 本丸において秀吉に謁見する。
  次いで、秀吉と共に、二の丸の秀頼と対面する。
  秀次は、秀吉・秀頼父子、北政所、淀殿にそれぞれ進
 物を贈呈した。
1594年4月29日、徳川家康が、摂津国の有馬へ湯治に赴いた
 秀吉への見舞いとして家臣の平岩親吉を派遣した。
1594年6月2日、秀吉が、島津義弘へ長期の在陣を慰労して、
 栗毛の馬・1疋を贈った。
1594年6月28日、秀吉が、鍋島直茂へ、干鱈200枚の献上を
 謝す。
  また、明・朝鮮からの和議の申し出を容認する旨を通
 達する。
  釜山海・金海・熊川など受持ちの城の留守番を堅固に
 して帰朝すべきを命令した。
1594年7月、秀吉が、日向国・薩摩国・大隅国への検地衆の
 派遣に関する覚書を認めた。
1594年7月10日、秀吉が、再度、朝鮮へ渡海する吉川広家へ
 油断無きよう指示を与えた。
1594年7月22日、秀吉が、大政所の3回忌のため、東寺五重
 大塔を建立した。大塔供養が行われた。
1594年8月23日、大盗賊の石川五右衛門が、三条河原で釜茹
 になった。
1594年9月9日、秀吉が、伏見の家康邸を訪問した。
1594年9月22日、秀吉が、「伏見移徒祝儀」を献上して来た
 毛利輝元(「羽柴安芸宰相」)へ謝意を表した。
1594年10月20日、秀吉が、徳川家康らを引き連れて聚楽第
 を訪問した。
1594年10月25日、秀吉が、蒲生氏郷邸を訪問。28日には、
 上杉景勝邸を、そして、30日には、佐竹義宣邸を訪問し
 ている。
1594年11月10日、秀吉が、島津義弘の長期の朝鮮在陣を慰
 労し、寒気に備えて暖をとるよう指示している。
1594年11月25日、秀吉が、伏見の徳川家康邸を訪問する。
  30日には、家康と共に入京している。
1594年12月3日、秀吉が、小早川秀秋の下国に際し、種々の
 出迎え・馳走の様子を山口正弘より報告を受けて、毛利
 輝元へ謝意を表わし、
  また、毛利輝元による熊谷元直の派遣を賞した。
1594年12月4日、秀吉が、吉川広家からの高麗鷹の献上を謝
 した。
  また、小早川隆景の養子となる豊臣秀秋の下向、拾丸
 の伏見城移徒、
  来春の番替の軍勢が派遣されるため帰朝命令を予告し、
 御用あれば馳走する旨を通知した。
1594年12月6日、秀吉が、摂津国の有馬へ湯治した。
1594年12月8日、木下吉隆氏が、摂津国有馬惣中へ羽柴秀吉
 への進物停止・自粛の旨を通知した。
1594年12月10日、秀吉が、摂津有馬湯山年寄衆へ、新御殿
 造営のため、破却された在家65軒の地子銭・年貢を免除
 した。
  また、100石の年貢米を下した。
  また、474匁の地子銀子の免状を下した。
1594年12月20日、秀吉が、吉川広家からの高麗虎の献上を
 謝した。
  また、この日、吉川広家へ、朝鮮在陣衆の入れ替えを
 指示、
  明後年に予定されている羽柴秀次・豊臣秀秋・宇喜多
 秀家の初渡海を伝えた。
  また、古米の入れ替えを指示。
  来年早々の兵糧輸送を通知した。
  そして、この日、献上された虎を、秀吉・秀次・徳川
 家康・前田利家などと見物した。
  そして、来春予定の羽柴秀次の出陣、拾丸の伏見城移
 徒、兵糧輸送、豊臣秀秋が小早川隆景の養子となる事な
 どを伝達した。
1595年1月11日、秀吉が、小出秀政へ摂津国内の北政所知行
 方目録を下し、その運上を命令した。
1595年2月1日、大阪城中より多数の金銀が盗難される事件
 が発生した。
1595年2月7日、蒲生氏郷が、京都において病死した。
1595年3月7日、秀吉が、伏見より入京し、前田利家邸に宿
 泊した。
1595年3月8日、秀吉が、聚楽第において羽柴秀次と対面し
 た。
1595年3月27日、秀吉が、禁裏に参内し、先に羽柴秀頼が叙
 爵した御礼などを奏上した。
1595年3月28日、秀吉が、徳川家康邸を訪問した。
1595年4月8日、秀吉が、秀頼の病気見舞いの為、伏見城に
 入城した。
1595年4月10日、秀吉が、伏見城において、聚楽第より下向
 した羽柴秀次と対面した。
1595年4月16日、羽柴秀保が、横死(おうし、殺害されたり、
 災禍のために死ぬこと)する事件が発生した。
1595年4月28日、秀吉が、虎の肉などを送付して来た鍋島直
 茂へ、今後一切の狩猟は無用であることを通知した。
1595年5月3日、徳川家康が、江戸へ向けて京都を出発した。
1595年5月20日、秀吉が、江戸の徳川家康へ、蝋燭などの贈
 物の礼を述べ、新茶の壺を贈答し、口切の9月頃に茶会を
 開催する事を申し合わせた。
1595年6月3日、秀吉が、島津義弘へ蒲生氏郷の老臣どもの
 不正を糾弾し、蒲生秀行を近江2万石に転封することを通
 達した。
1595年6月29日、秀吉が、島津義弘へ検地後に57万石の知行
 宛行目録を下した。
1595年7月3日、秀次が、謀反の嫌疑で石田三成・増田長盛
 らの羽柴秀吉奉行衆より詰問を受けた。
1595年7月5日、長宗我部盛親、山田庄屋の門田藤兵衛・谷
 甚左衛門へ7月25日までに鉄砲玉薬の納品を命令した。
1595年7月8日、秀吉が、羽柴秀次を召還し、関白・左大臣
 の官職を剥奪し、羽柴秀次は出家し高野山へ追放となっ
 た。
1595年7月12日、徳川家康・毛利輝元・小早川隆景が、羽柴
 秀頼への忠誠、および、太閤様御法度を順守し、不断在
 京の上で羽柴秀頼への御奉公すること、
  および、徳川家康・毛利輝元が交替で暇乞をして下国
 する事を起請文を以って誓約。
1595年7月12日、石田三成・増田長盛が、全5ヶ条の起請文
 を提出。
  豊臣秀頼への表裏別心無く、盛り立てること。
1595年7月15日、秀吉の姉の子の羽柴秀次が切腹させらてた
 「言経卿記」。
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2015年5月7日木曜日

(増補版)93C3/3:気になった事柄を集めた年表(1592年4月~1594年)

題:(増補版)93C3/3:気になった事柄を集めた年表(1592年4月~1594年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1592年4月25日、秀吉が、肥前・名護屋城に入った。
1592年5月3日、秀吉の朝鮮出兵軍が京城(ソウル)を占領
 した。
  朝鮮に上陸した軍は、第9軍までの編成で15万8800で、
 3つのルートに分かれて京城に向かっていた。
  そして、この日に、第一軍と第二軍が、国都の京城に
 達した。
  上陸後、1ヶ月という、あまりに早い進軍に、秀吉は
 気を良くした。
  まだ、九州の名護屋城にいる兵が、徳川家康らの有力
 武士の兵・7万3000、秀吉5700、長束正家ら5300など、
 方銃隊や馬廻隊も含めると10万1000に達していた。
  これに、先発隊が6軍で13万6900、後続軍が3軍で5万
 8300、別に水軍が9200で、合わせて30万5300の大軍とな
 っていた。
1592年5月26日、秀吉が、大陸占領後の計画を発表する。
  秀吉は、自分の考えをキリスト教宣教師などにも話し
 ていたが、
  この日の日付で、関白・秀次に朱印状を与え、大陸占
 領後の計画を発表している。
  それは、後陽成天皇を明の国都・北京に迎え、
  秀次を明の関白とし、
  公家たちにも知行を与え、
  日本の関白には、羽柴秀保か宇喜多秀家を置き、
  日本の皇位には、若宮(良仁親王)か八条宮(智仁親
 王:としひとしんのう)についていただき、
  朝鮮には、織田秀信か宇喜多秀家を置く・・との秀吉
 の計画だった。
1592年7月9日、秀吉の水軍が、朝鮮水軍に敗けを喫す。
  快進撃を続けていた秀吉軍は、その戦線があまりに広
 範囲になったことが原因し、、
  また、兵站(へいたん)確保が不十分で、食料が乏し
 く、
  そして、最初、日本軍に協力的とさえ言えた朝鮮の民
 衆が、日本軍に抗戦しはじめたため、困難な戦いが続く
 状況となって来た。
  そして、この日、閑山島・安骨浦において(対馬に近
 い半島側の所)、秀吉軍の水軍が朝鮮水軍に敗けを喫し、
 制海権を奪われ、補給路の確保が出来ない状況になった。
1592年9月、秀吉の朝鮮出兵軍の戦線が泥沼化。
  明からの救援軍が鴨緑江を渡って朝鮮に入り、戦線は
 泥沼化した。
  また、厳寒のもとでの進軍は困難を極めて来た。
  戦線の縮小を計らねばならない状況となって来た。
1592年11月20日、和議交渉。
  この日に、明国の使者として沈惟敬(しんいけい)が
 和議のために平壌までおもむき、小西行長と交渉したが、
 和議が成らず、帰国した。
1592年12月19日、明の軍隊が、鴨緑江を渡って、諸道を進
 み、集結地だった慶州(釜山の北100キロ)に、この日に
 大会同(集まって相談)した。
1592年、朝鮮出兵に関する家康の考え。
  朝鮮の役は、戦国以来の領土拡張に終止符を打たれた
 大名の不満があり、
  また、外国貿易を求める豪商の希望があり、
  また、秀吉の冒険主義が結びついて起きたが、
 家康は批判的だった。
  秀吉から朝鮮出兵の命令を受けた時、家康は、江戸城
 の書院に座って、ただ黙然としていた。
  そばにいた本田正信が、「殿は渡海されますか」と聞
 いたが、返事が無かったので、
  三度までたずねると、「何事だ、人が聞くぞ、箱根を
 誰に守らせるというのか」と言ったという。
  家康は、出兵による家臣と物資の損耗を、また、何よ
 りも新しい領国の経営を破壊されることを恐れた。
  秀吉に正面切って反対もできない立場だった。
  渡海こそしなかったが、肥前の名古屋に赴き、秀吉の
 本営を固めた。
  この間、家康は、秀忠に井伊直政・榊原康政をつけて、
 領国経営に専念させる一方、
  渡海した諸大名に対しては手紙を送り、戦勝を祝った
 り、長陣の労をねぎらうなどをして、諸大名の人心掌握
 に努めている。
1592年、この年に、江戸城の西の丸の工事に着手している。
  これは、翌年に、一応の完成を見ている。
1592年、秀吉の妻・おねが、秀吉から所領を貰っている。
  大阪の天王寺など1万石を、北政所個人の所領として
 貰っていて、これは、秀吉の死後も、家康は追認し、そ
 のままの領国となった。
1592年、この年、痘瘡(とうそう)が流行した。
1592年、蒲生氏郷が没した。
1592年、秀吉が朱印船制度を定めた。
1592年、キリシタン大名の高山右近が、長崎で没した。
  wikipediaには、「右近は首を半分ほども切断するとい
 う大けがを負ってしまう。およそ助かりそうにない傷だ
 ったが、右近は奇跡的に回復し、一層キリスト教へ傾倒
 するようになった」と美化して書かれているが、首が、
 半分、切られたら絶対に死だ。
  「奇跡的に回復したから一層キリスト教へ傾倒した」
 とは、まったくおかしい。
  wikipediaは、キリスト教を美化する輩によって荒らさ
 れ、嘘が満載されているから、注意されたい。
1592年、、この年の米の取れ高が、1846万石だった。
1593年1月7日、平壌が奪い返された。
  明の李如松を総司令官とする軍により、平壌が奪い返
 された。
1593年1月26日、和議の動きが出る。
  碧蹄館の合戦で、小早川隆景らの軍勢が明軍を破り、
 ようやく和議の動きが出て来た。
1593年3月、文禄の役の講和の交渉が開始された。
1593年4月、文禄の役の講和が合意された。
  小西行長が、明の和議を入れた。
  合意内容:
  1、日本軍は朝鮮皇子とその従者を返還する。
  2、日本軍は釜山まで後退する。
  3、明軍は開城(ソウル北方約100キロ、北朝鮮の地)
 まで後退する。
  4、明から日本へ使節を派遣する。
1593年5月8日、小西行長らは、明の勅使とともに日本へ出
 発した。
1593年5月15日、明の和議の講和使が、名護屋に到着した。
  和議の話は、5月に入って具体化し、この日に、明の
 講和使・謝用梓(しゃようし)と徐一貫(じょいっかん)
 が名古屋に到着し、5月23日に、秀吉と会見し、講和交渉
 に入った。
  豊臣秀吉が、明の勅使に次の様に言っている、
 「予(よ)、懐胎の初め、慈母日輪(じぼにちりん)の
 胎中に入るを夢む」、自分は太陽の子である・・云々。
1593年5月28日、秀吉が、和議の条件を示した。
  秀吉は、この日に、和議の条件として七ヶ条を示し、
 明の使節は、6月28日に名護屋城を出た。
  秀吉が、以下の7条を申し渡した。
  1、明の皇女を天皇の妃として送ること。
  2、勘合貿易を復活させる事。
  3、日本と明、双方の大臣が誓紙を取り交わす事。
  4、朝鮮八道のうち、南の四道を日本に割譲し、他の
 四道および漢城を朝鮮に変換する事。
  5、朝鮮王子および家老を1,2名、日本に人質とし
 て差し出す事。
  6、捕虜にした朝鮮王子2人は朝鮮に返還する事。
  7、朝鮮の重臣たちに、今後、日本に背かないことを
 誓約させる事。
  この七ヶ条を秀吉が示したが、当初の秀吉の占領計画
 から、ほど遠かったので、秀吉としても不本意だっただ
 ろう。
  しかし、この七ヶ条ですら実現の可能性はなかった。
  直接の交渉役だった小西行長は、秀吉暗にこだわるこ
 となく、日明貿易の再開など実利面を前面に出した交渉
 をした。
1593年8月3日、秀吉の次男・秀頼が誕生した。
  淀殿が、大阪城の二の丸で秀頼を産んだ。
  朝鮮に居る日本軍に、この頃、厭戦気分がみなぎり出
 していた。
  開戦の当初は、快進撃を続けたが、海戦に敗けて制海
 権を失い、物資補給などに支障をきたしていた。
1593年11月、秀吉が、原田孫七郎を遣わして、台湾の入貢
 を促していた。
1593年12月7日、講和交渉の為、北京に入る。
  小西行長の腹心である内藤如安が北京に入ることがで
 きた。
  こうして、小西行長の講和交渉にすべてをゆだねる形
 で自然休戦となった。
  朝鮮在陣中の諸大名は、そのまま朝鮮に滞陣し、1594
 年には虎狩りなどを行っている。
  虎の肉の塩漬けを秀吉に送っている。
1593年、小笠原島が探検されている。
  信濃小笠原氏の一族という小笠原貞頼が発見したとい
 う。
1593年、大久保忠隣(おおくぼただちか、臣下に大久保彦
 左衛門が居る)が、秀忠の老職(大老や老中)となって
 いる。
1594年、伏見城が出来て、秀吉が移った。
  秀吉が、宇治川を瀬替えして、伏見城を築く。
  秀吉は、この京都桃山の伏見城を本城として起工した。
  諸侯の邸宅が、その周囲に集まり、大阪城の観を呈し
 たという。
  その後、豊臣秀頼・徳川家康の居城となったが、1615
 年に、江戸幕府の命により壊された。
1594年、国宝・姫路城の城主・池田輝政が、豊臣秀吉の斡
 旋(あっせん)で、徳川家康の娘・督姫と結婚した。
  督姫は、北条氏直の正室だったが、北条氏が滅ぼされ
 たため、家康の元に戻っていたところだった。
  家康の幼女を娶(めと)った武将は何人もいるが、実
 の娘を娶ったのは、輝政のほか少数しかいない。
  この事が、豊臣恩顧の大名だったが、関ケ原の戦いの
 時、迷う事もなく徳川方についた大きな要因だった。
1594年、左甚五郎(ひだりじんごろう)が生まれた(1594
 年~1651年)
  足利家臣・伊丹左近尉正利を父として、1594年に、播
 州明石に生まれた。
  父の亡き後、叔父である飛騨高山・金森家家臣・河合
 忠左衛門宅に寄寓し、13歳で、京伏見の禁裏大工棟梁・
 遊左法橋与平次の弟子となり、1619年に、江戸へ下り、
 徳川家大工棟梁・甲良(こうら)豊後宗広の女婿となり、
 堂宮大工棟梁として名を上げた・・とあるが・・、
  甚五郎の作と言われる彫り物は、全国各地に100か所近
 くあり、その製作年も300年にも渡っている。
  その為、左甚五郎は一人ではなく各地で腕を振るった
 工匠たちの代名詞という説もある。
1594年、全国検地(文禄検地)、
  太閤検地の完成期に当たる検地。
  秀吉の全国征服後の検地。
  秀吉は、次々に各地を征服するごとに検地して、それ
 らの地を掌握していった。
  武将に知行を与え、大名を転封させた場合にも検地を
 実施している。
  この頃の検地は、朝鮮出兵の後方安定を兼ねて、太閤
 政権の基礎固めのため、各地を、再三、検地をしている。
  越前検地の1598年8月が最後としている。
1594年、利根川の改修工事が行われた。江戸時代以前の主
 な社会資本整備と言われている。(~1654年)
..
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2015年5月6日水曜日

(増補版)92C2/3:気になった事柄を集めた年表(1590年12月~1592年4月)

題:(増補版)92C2/3:気になった事柄を集めた年表(1590年12月~1592年4月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1591年1月、秀吉が兵船を造らせた。
1951年2月15日、秀吉の弟・豊臣秀長が没した。
1591年3月、秀吉は、日本以外の地への侵攻軍の基地として
 名護屋城(現・唐津市)の建設を始めた。
1591年4月21日、千利休が没した(1521年~1591年)
  この切腹の本当の理由は謎で、秀吉の弟・秀長の死で
 豊臣政権内に権力争いが起きたためだとか、
  茶器の売買で不当な利益を上げたためだとかと、色々、
 言われている。
  また、利休の娘の側室にする話があり、利休がよい返
 事をしなかったという説が有力とされている。
  秀吉が通る門の上に、利休の像を置いたという話は、
 有力ではないようだ。
1591年5月、朝鮮国王の返書。
  秀吉の使いである僧の玄蘇と、宗義智の家臣・柳川調
 信が、朝鮮国王の返書を持ち帰った。
  昨年の11月に、秀吉の朝鮮国王宛ての書状の返書であ
 る。
  秀吉の書状の概要を書くと、
  「日本60余州が乱れていたが、我は悲憤慷慨し、3,4
 年で叛臣を討ち、掌握した。
  我は、胎児の時、慈母が夢に太陽が懐中に入った、占
 い師は、壮年になれば四海に威名を轟かせようと、
  事実、この母の夢は正に正夢だった。
  我に敵意持つ者あれば滅びる。
  戦えばすなわち勝たないことはない。
  攻めて取れないものはない。
  天下は大いに治まり、百姓(全人民)を撫育し、孤児
 孤老を憐慰している。
  民は富み財は十分だ。
  本朝は開闢以来の朝廷盛事、都は壮観で太陽の如く盛
 んだ。・・と書いて、
  入貢を促している。
  そして、自分は大明に入る太陽だと言っている。
  そして、日本国関白秀吉と結んでいる。
  「士卒をひきいて軍営に臨む」とま言っているのだが
 ・・、いい返事は来なかった(半分、無視的で、添削み
 たいにされ、本気にされていなかった)。
1591年6月、秀吉が、朝鮮国王に要求を突き付けた。
  秀吉が、先月の朝鮮からの返書を不満とし、宗義智を
 朝鮮に使いにやり、朝鮮国王に要求を突き付けた。
  こうした事態のもとで、朝鮮側は「秀吉の出兵近し」
 と判断、全羅道や慶尚道の城郭を増築したり、修築した
 りした。
1591年7月25日、豊臣秀吉が、ポルトガル領インド副王に
 宛ててイスパニア王の来日を要求した。
1591年8月21日、秀吉は、統一事業が進んできたことから、
 百姓の土着を定めた。
  これは、人返しが習慣的に行われていたため。
  また、秀吉が、兵農商工の身分を定めている。
  これは、江戸時代の幕藩体制の基礎になって行く。
1591年9月2日、秀吉の天下統一が成った。
  南部氏の一族の九戸政実(くのへまさざね)が乱を起
 こした。
  秀吉が送った秀次を総大将とする鎮圧軍によって、こ
 の日に、政実が降伏している。
1591年9月、朝鮮出兵の命令。
  秀吉が、朝鮮への出兵の命令を下した。
1591年9月15日、秀吉が、スペイン領ルソン島へ、朝廷(お
 よび秀吉)への入貢と服属を要求している。
  そして、この書状には、既に、朝鮮と琉球は、日本に
 入貢していると述べている。
  この書状は、マニラの総督のもとに届けられた。
  秀吉のこの書状を持って使いの原田は、返書を受け取
 り帰国している。
  翌年、総督の使節が、秀吉の下に来て謁見している。
1591年9月22日、秀吉の長男の豊臣鶴松が没した。
  「群臣亦た皆断髪して、以て哀情を示す」とある。
1591年10月10日、名護屋城の普請が始められた。
  朝鮮出兵の基地をしての肥前・名古屋城の普請が、こ
 の日から始められた。
  また、渡海のための軍艦建造も始めている。
1591年、秀次が関白になった。
  秀吉が、関白を秀次に譲ずり、自身は太閤(たいこう)
 と呼ばれた。
1592年1月5日、秀吉が、朝鮮・明への出陣命令を下した。
  秀吉が、朝鮮を経て明にまで兵を進める出陣命令が諸
 大名に出した。
1592年1月、秀吉が小西行長と宋義智へ、朝鮮へ再度服属と
 唐入りへの協力の意思を確認せよと命じている。
  そして、もし、朝鮮が従わないなら4月1日から「御退
 治あるべし」と命じた。
  4月7日に朝鮮側の拒絶の意思が日本に伝えられた。
 小西らは侵攻準備を開始した。
1592年3月、秀吉が、36ヶ国人掃令を出す。
  人掃(ひとばらい)令は全国的な戸口調査である。
  村々の身分別人口調査で、朝鮮出陣のための動員でき
 る人的資源を調査したものだった。
1592年3月26日、文禄の役。
  秀吉が、京都を出陣した。
  1ヶ月の後に名護屋城へ到着した。
  この名護屋城(佐賀県東松浦郡鎮西町)を中心に諸大
 名の陣屋が120数ヶ所つくられていた。
  陣屋は6キロ四方んぽ広がりを見せていた。
  ここには、10万を越える兵力がいつも居り、各大名は
 米を国元から運ぶとともに、百姓を同行させて、山野
 を開いて野菜を作らせた。
  また、陣屋周辺には商人も集まり、一般人も5万~6万
 人にのぼった。
  山野は、大都市に変革した。
  秀吉は、茶室を大阪から運ばせていて、茶会も行われ
 ていた。
  また、秀吉は、能に興味を持っていて、能楽師を連れ
 て来ていて稽古に励むという様子だった。
  大阪城で、淀殿が秀頼を産んだ。
  秀吉は、大変喜んで大阪へ向かい名護屋城を離れた。
  そのまま大阪城に居て、秀吉は名護屋城に戻ることは
 しなかった。
  「太閤様軍紀のうち」には、秀吉は、美しく装って名
 護屋城へ下向とある。
1592年4月12日、秀吉の朝鮮出兵軍が上陸し、釜山城を落
 した。
  この秀吉の朝鮮出兵について、韓国の論調として悪く
 言う話も伝わって来るが、
  朝鮮が中国・元とともに、日本を侵攻して来た事もあ
 った。
  つまり、この秀吉と逆の形もあった。
  1回目に攻めて来た時は、神風が吹いて、天が日本に味
 方したが、
  2回目は、完全に日本の武士の力が勝っていて、防御が
 勝っていたので撃退した。
  この様に、この秀吉の場合も、悪く言われるいわれは
 ない。
  この時、朝鮮・中国の連合軍が強かったら、日本軍は、
 散々打ちのめされ、殺され、日本人も連れ去られていた
 事になっていた。
  日本も、一歩間違えばその様になるところだったのだ。
1592年4月12日~1593年7月、文禄の役。
  豊臣秀吉が主導する日本の遠征軍と、朝鮮および朝鮮
 の救援に来た明軍との間の朝鮮半島における戦い。
  当時の李朝の社会は乱れ、人々の大半が農奴や奴隷状
 態の人だった。
  民心は離反していた。
  その為、日本側に協力する民衆が多数いた(キリスト
 教宣教師のルイス・フロイスも記している)
  因みに、当時の李氏朝鮮の人口は500万人、明朝は1億
 5000万人、日本は2200万人だった。
  また、イベリア帝国(スペイン・ポルトガル)は1050
 万人、イギリス(ブリテン諸島全体)625万人、オラン
 ダ150万人である。
  この日に、先鋒の小西行長・宋義智・有馬晴信が、対
 馬から700隻以上の船に、1万9千の兵を乗せて出港し、
 その日の内に釜山に上陸した。
  秀吉軍16万弱、朝鮮軍17万強、明軍5万強。
  損害:秀吉軍5万(ほとんどが病死と餓死で、戦死は
 わずか)、朝鮮軍方・数十万(文禄・慶長両役の総計)
  秀吉には大きな考えがあり、「唐入り構想」の「征明」
 の道案内を、朝鮮に、命じたところ拒絶された。
  そして、その経緯の中で豊臣秀吉の軍が、朝鮮の釜山
 に上陸した。
  そして、わずか20日あまりで漢城(今のソウル)を占
 領した。
  この勝利の報に接した秀吉は、関白・秀次に、世界征
 服計画を明らかにした。
  それは、「大唐の都・北京に後陽成天皇を移す。
  明後年には、天皇の居をお移しし、都の周辺の国々十
 ヶ国を進上する。
  そして、甥・秀次を大唐国の関白としてすえ、都周辺
 の百ヶ国を渡す。
  日本の国内の天皇には、皇太子良仁親王か、弟亭帝知
 仁親王かのいずれかどちらでもよい。
  日本の関白には、豊臣秀保か宇喜多秀家のいずれかと
 する。
  朝鮮には、織田秀信か宇喜多秀家をおき、
  九州は、羽柴秀俊。
  また、朝鮮は、羽柴秀勝か宇喜多秀家かに支配させる。
  そして、秀吉自らは、まず、北京に入り、
  その後、寧波(ニンポー)に居を定める。
  そこから諸侯各位に、予が命令せずとも天竺(インド)
 を好き勝手に切り取らせるようにする」・・と。
1592年4月17日、秀吉の朝鮮出兵軍が、釜山上陸から慶州を
 通過した。
  この時、加藤清正は、特に、部下を戒(いまし)め、
 「この新羅の旧都の建造物・その他を破壊したり、いっ
 さい手をつけるな」と軍令を下した。
1592年4月17日、秀吉の朝鮮出兵軍の第一軍司令官は小西
 行長であったが、
  小西軍の2万5000の兵と、第二軍司令官の清正軍が、
 忠州で落ち合った。
  第一軍が朝鮮の物を持っていたので、清正が、みずか
 ら行長の軍営に行って、「かような物は焼き捨てられよ」
 と言い、それを積み上げ、焼かせ、軍紀を締めた。
  秀吉も軍令で、厳しく「乱暴は一切してばいけない」
 「放火をしてはしてはいけない」「人さらいをしてはい
 けない」「地下人(じげにん、庶民)に対して勝手な労
 働をさせてはいけない」と通達していた。
  そして、「これに違反したものは厳科に処する」とし
 ていた。
  清正はよくこれを守った(司馬遼太郎:街道をゆく2)。
..
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2015年5月5日火曜日

(増補版)91C2/3:気になった事柄を集めた年表(1590年7月~1590年12月)

題:(増補版)91C2/3:気になった事柄を集めた年表(1590年7月~1590年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1590年8月1日、徳川氏、関東入国。「江戸御討ち入り」
  豊臣秀吉によって、東海の旧領5ヶ国から関東へ、
  そして、三河以来の武将の存在が小さくなり、官僚的
 組織によって、家康の体制が形成されていく。
  この関東転封は、論功行賞の美名に隠れた秀吉の大名
 統制策の一環だった。
  これより先、奥州転封の噂が飛んでいた。
  この時、井伊直政・本田忠勝・榊原康政の3人衆は、
 不満を唱えた。
  それに対して、家康は、「そう心配しなくても良い。
 百万石の加増であれば、たとえ奥州でもよいではないか。
  人数を大勢めしかかえ、3万を国に残し、5万を率いて
 上方に攻め上れば、天下に恐れる者はない」・・と言っ
 たという。
  家康の関東領国は・・、
  武蔵・相模・伊豆・上総・下総・上野の6ヶ国で、計
 240万2000石であった。
  その他に、近江・遠江・駿河・伊勢のうちに、10万石
 の領地があった。
  当然、秀吉に従う諸大名の中で、最大の所領高であっ
 た。
  家康は、まず、武蔵をはじめ、江戸の周辺諸国に100万
 石を上回る直轄地=天領を設置した。
  そして、徳川一門・譜代上層の中から、42名の者を万
 石以上に仕立て、
  北条氏の一族や家臣の支城を中心に、領国外の敵対勢
 力に対抗するような形で、有力な上級の家臣団を、領国
 の周辺部に置いた。
  そして、1、2万石以下、および、中・下級の家臣団
 を領国の中央部に配置した。
  領国の中央部に配置した中小級の家臣団の内、下級の
 家臣団は、そのほとんどが旗本となり、
 江戸幕府のいわゆる直属家臣団を構成して行く。
  家康は、知行割に際し、彼らには、江戸から10里ない
 し20里以内の所で、分散的に知行地を与え、そこに簡単
 な陣屋を造らせて、江戸に通勤させた。
  この様に、下級の家臣団の知行地を、中央部の江戸の
 近くに割り当てたのは、彼らが徳川氏の常備軍として、
 江戸城を守る任務を持っていたからだった。
  特に、常備軍の中心をなす大番6番は、江戸城の西北部
 (麹町・市ヶ谷方面)に宅地を与えられた。
  これが、いわゆる番町であり、旗本の屋敷地となった。
  家康は、江戸に入城すると、江戸城の整備は応急修理
 にとどめて、江戸の町づくりに邁進した。
  まず、必要な事は、江戸城へ軍事物資を入れるための
 船入堀の開堀であった。
  家康は、本田正信を総指揮として、東京湾にそそぐ平
 川の河口から江戸城に通ずる堀、三堀の開堀に着手させ
 た。
  堀普請についで、町場の中心となる本町の町割りを実
 施した。
  道幅は6丈(18メートル)、一町は40間(73メートル)
 の区画であり、町割りが済むと移住者を募った。
  これには京都の豪商で、すでに家康に親近していた茶
 屋四郎次郎が活躍した。
  こうして、江戸の新しい町が出来て行ったが、家康は
 それとともに、町方の支配組織を整えた。
  まず、駿府の町奉行を務めた板倉勝重を、江戸の町奉
 行に任命した。
  そして、家康は、天下の情勢も一応安定した、1592年
 になって、本腰を入れて江戸城の修築に取り掛かり、
  本田正信を総指揮として、西の丸の建設を始めた。
  しかし、江戸城が、名実ともに完成するのは、覇権が
 確立しての後であり、
  江戸の町も、数次にわたる江戸城の拡張工事と密接に
 関連しながら発展して行った。
  江戸の町づくりで重要な事は、豪商との結びつきが深
 くなったことであった。
  「慶長見聞集」に、家康が入府した頃の事が記されて
 いる。
  「草に果てなき武蔵野」、「茅(かや)ぶきの家、百
 ばかりも、あるかなしかの体(てい)」、
  また、司馬遼太郎の「街道をゆく(1)」には、
  「城は、かたちばかりにして、城の様もこれなく」「
 甚(はなは)だしき古屋(ふるや)」と、屋内は雨漏り
 して、敷物なども腐っていたと、
  玄関にあがる踏み段には、舟板二枚が使われていると
 いう粗末さ、
  玄関の他は、板敷きの間などはあまりなく、部屋は、
 ほとんどが土間だったという。
  屋根は、瓦でなく薄手の板葺であった・・とある。
1590年、徳川家康が、関東移封になった、この時・・、
  秀吉は、下総結城城(茨城県結城市)の大名・結城晴
 朝から養子斡旋を頼まれ、自分の養子としておく必要が
 無くなった家康の次男の秀康を、結城家の養子に出した。
  体のいいお払い箱だった。
  その後、秀康は、自分の弟の秀忠が、将軍に上り詰め
 て行く姿を、複雑な思いで見ていたのだろう。
1590年9月1日、秀吉が、京都に凱旋した。
  秀吉が、小田原から奥州を回って、京都に凱旋した。
1590年、信長の弟・信包(のぶかね)は、伊賀上野の城主
 だったが、
  信長の死後、秀吉に味方して伊勢の津(つ)城(当時
 は安濃城・あつのじょう)の城主となった。
  信包は、小田原の役の時、北条氏の命乞いを仲立ちし
 て、秀吉の不興(ふきょう)を買い、
  やがて、城を没収された(1590年)。
  そして、野に降った。
  しかし、彼は、淀殿が織田家の血を引くことから秀頼
 に味方し、大阪城と関係を持ち、大阪冬の陣の直前に死
 んだ。
1590年、秀吉が、若く苦労した頃、仕えていた松下加兵衛
 之綱へ恩返しをした。
  この恩人を、遠江・久野城の城主にした。
  これは、小田原征伐後の論功行賞でもあったが、
  徳川家康が関東に移った後、その遺領に豊臣の大名を
 配置するという一環でもあった。
  松下加兵衛之綱は、1万6000石の大名として入府した。
  この人は今川義元の家臣であった。そして、土豪(地
 侍)であった。この頃に、秀吉は恩を受けていた。
1590年、この年に、ドイツを旅した旅行者が書いた記録が
 残っている、「魔女の処刑場は、おびただしく立ち並ん
 でいる処刑柱は、まるで小さな森の様に見えた」・・と、
  ジュネーブでは、3ヶ月に500人(1513年)、
  トレーヴス(ドイツ)では7000人が焼かれ、そのため
 に2つの村は全滅し、別の2つの村では生き残る者、2人
 だけとなったと(1580年代)、
  ザクセンでは1日の内に133人(1589年)、
  アルザスのサン・アラマンでは、1年間に200人以上(
 1596年)、
  ラブールでは4か月間に600人(1609年)、
  ストラスブルクでは5000人(1615年~1655年)、
  ヴェルツブルクでは800人、
  バンベルクでは1500人・・など・・など・・
  これらの数字は、散在する残存記録の中から拾い出さ
 れたほんの一部に過ぎず・・その他にも、イタリアでも、
 スペインでも、イングランドでも、スコットランドでも、
 ポーランドでも・・でも・・でも焼かれた。
  最後は、新大陸アメリカのニュー・イングランドにま
 で飛び火している(セーレムの魔女事件)、
  この忌むべきキリスト教の魔女旋風が、中世前期の暗
 黒時代においてだけではなく、合理主義とヒューマニズ
 ムの旗色あざやまなルネッサンスの最盛期においても吹
 きまくっていた。
  しかも、この非人間的な旋風を煽り立てた人間たちが
 一般の方々ではなく、歴代のキリスト教法皇や聖職者で
 あったということ、
  魔女の話が昔からあったが、キリスト教会がひたすら
 権威と権力を張り巡らし、この上ない組織的な魔女裁判
 によって、魔女狩りが行われた。そして、1600年頃をピ
 ークとして300年から400年間に亘って、長い期間、人々
 を苦しめていた。
  キリスト教に偏するNHKは、この真実を、まったく
 放送しない。
  キリスト教を美化する放送ばかりをしている。
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2015年5月4日月曜日

(増補版)90C2/3:気になった事柄を集めた年表(1587年12月~1590年7月)

題:(増補版)90C2/3:気になった事柄を集めた年表(1587年12月~1590年7月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1588年、この年、秀吉が、昨年、九州を平定し、残るは北
 条氏の小田原だけで、近畿には、戦国の世が遠のいた安
 堵感が漂った。
1588年、秀吉が大番と小判を作った。
1588年7月8日、秀吉が、海賊停止令を出した。
1588年8月29日、刀狩
  秀吉の刀狩は、「刀・鉄砲狩り」と言うべきと言うア
 メリカの大学教授のノエル・ペリン氏。(7月8日説あり)
  この刀狩を、教授は、偉大な軍縮だとべた褒めする。
  そして、この東洋の日本のこの軍縮に始まる江戸時代
 の軍縮などは、今、世界が学ぶべきだと言われる。
1588年8月29日、天下を統一した豊臣秀吉が、この日、『刀
 狩令』を布告した。
  中世以来、刀は、農民にとって『武装権』とともに成
 人男性の人格と名誉の象徴で、刀狩は、それを奪うとい
 う事で、大きな問題だった。
  天下統一した秀吉だからできたことかもしれないが、
 秀吉が発した令は、
  「百姓が、刀や脇差、弓、槍、鉄砲などの武具を持つ
 ことを固く禁じる。
  余計な武器を持って年貢を怠ったり、一揆をおこした
 りして役人の言うことを聞かない者は罰する」だった。
  また、「取り上げた武器は、今つくっている方広寺の
 大仏の釘や、鎹(かすがい)にする。
  そうすれば、百姓はあの世まで救われる」と言った。
  そして、「百姓は、農具だけを持って耕作に励めば、
 子孫代々まで無事に暮らせる。
  百姓を愛するから武器を取り上げるのだ。
  ありがたく思って耕作に励め」だった。
  愛を説く秀吉でもあった。
  こんな事を言う施政者は欧米には居ない。
  権威を欲しがり、殺戮ばかりする施政者だ。
  「異教徒は殺せ」と教えるキリスト教という宗教と、
  「生きとし生けるものは、皆、平等に、仏となり得る
 仏性というものを持っている」と教える仏教とは、あき
 らかに違う。
  今・現代においても、銃を必要としている遅れたアメ
 リカがあるが・・、中々、銃を無くせない社会だが・・、
  日本では、すでに、400年以上も前のこの年に、武器の
 放棄を行っている。
  400年以上も昔に、既にやってしまっている日本なのだ。
  つい先日も、黒人の方が撃たれて亡くなっている姿を
 テレビで報道していたが、劣悪な宗教に汚染されている
 姿だ。
1588年、スペインの無敵艦隊が敗れる。
  イギリスが、英国海峡において、三日間の海戦で、ス
 ペイン(イベリア)の無敵艦隊を撃破した。
  この海戦は、スペイン艦隊がイギリスを襲った。
  イギリス海軍は、暴風雨に助けられスペイン艦隊を撃
 退した。
  これを契機に、スペインの勢力は衰退し、その勢力下
 にあったオランダが、事実上、独立した。
  イギリスは、この後、徹底してスペインの制海権を覆
 (くつがえ)し、100年に渡ったイベリアの制海権を奪っ
 た。イギリスの時代となる。
  この次に、イギリスは、オランダをターゲットに狙い
 撃ちにした。ナンバー2を撃滅していく。
1588年、イギリスが制海権を得たが・・、
  近世は、この様に、海軍力が強い国が、世界においし
 い汁の吸える植民地を作って・・、
  富を収奪した。
  この富で築かれた町がヨーロッパの街であり、きらび
 やかな教会なのだ。
  ここにもグローバリズムが存在した。
  強いものが勝つのが正義だ・・である。
  強いのだから相手を叩きののめすである。
  神の義がある、正義なのだ・・である。
  南米などで、インディオの方々を殺しまくったスペイ
 ン艦隊が、
  この時、イギリスに打ちのめされたのが象徴的だった。
  このイギリスも、この後、同じ様に、卑劣な事を世界
 でやる。
  今、アメリカが、グローバリズムをあげているが、そ
 の同じ位置にある。
  そして、「弱肉強食は正義だ」とやっている。
  強いのが勝つTPPで弱肉を強食しようとしている。
  最強者は自由を求めるのは歴史の常である。
  弱者を食い物にしている。
1589年1月、淀城を築く。
  秀吉は、弟・秀長に命じて、細川忠興にも助役させて
 淀城を築かせた。
  この城は、京都伏見区淀にあった。
  ここは、桂川、宇治川、木津川が一つになって淀川に
 なる3点合流の地で、京都と大阪を結ぶ、水上交通の要地
 にある。
1589年5月27日、秀吉の子・鶴松(秀頼の前の子)が生まれ
 た。
  秀吉は、天下の後継者だと示すため、誕生4か月後の9
 月13日に大阪城で迎えた。
1589年11月24日、秀吉が、北条氏直に宣戦布告状を送った。
  諸大名にも同文のものが配られた。
1589年、家康が、7ヶ条の「定書」を公布し、翌年にかけて
 5か国総検地を行った。
  この時、伊奈忠次らは検地奉行として活躍した。
  こうして家康は、結果的に、5か国時代の終わりになっ
 たが、領国の支配組織を整えた。
1589年、小田原征伐の準備。
  勝海舟の書いた「氷川清話」によると、
  「太閤様、小田原征伐の1年前で、明年ここへ10万の兵
 が来るから、あらかじめ糧米や「まぐさ」の用意をする
 ために小役人では事の運ばぬを恐れてか、本田佐渡守様
 は自分でここへおいでになったのだ」・・と。
1589年、秀吉が、方広寺を建立した。
  秀吉は、晩年、東大寺大仏殿をまねて、京都東山に方
 広寺を作り、木造の大仏を建立した。
1589年、秀吉が、諸大名の妻子の在京を命じ、聚楽第に集
 めた。
1588年頃、この頃、キリスト教の魔女狩りによる焚刑が盛
 んに行われる。
  1日に133人を焼くという酷い事例があちこちにある。
  ザクセンなど。岩波新書「魔女狩り」を・・、
1590年2月~7月、小田原征伐。
1590年3月1日、秀吉の大軍が、京都を出発した。
  軍勢は、東海道を北上する軍と、北陸からの軍に分か
 れ、東海道北上軍には、秀吉が、率いる14万の大軍の他、
  家康軍が3万、東海道諸城守備が1万、水軍が1万の計19
 万。北陸軍は上杉・前田らで3万、合計22万の大軍であっ
 た。
  これに対する北条軍は8万強だった。
1590年3月29日、秀吉軍と小田原軍が衝突。
  秀次らの攻撃によって、この日、小田原城の最前線の
 支城の山中城が落ち、韮山城が囲まれている。
1590年4月3日、秀吉が、小田原城を包囲した。
  秀吉軍が、この日から、小田原城を包囲し、秀吉得意
 の城攻め(兵糧攻め)が始められた。
  後北条の町は、城下町全体を包み込む囲郭、すなわち、
 城と町がすっぽり囲まれる巨大な土塁によって守られて
 おり、4、5年の籠城にも耐えられると言われる堅城で
 あった。
1580年4月6日、秀吉が、笠懸山に城を築く。
  この日から、秀吉は、小田原城を見下ろす早川の対岸
 の、笠懸山(かさがけやま)の山頂一帯に、わずか80
 数日をいう短期間の突貫工事で、石垣を持ち、天守台ま
 で配する城を築いた。
  これは単なる砦でなく、小田原城攻めの本陣として、
 石垣も積んだ本格的な城である。
  後に石垣山と呼ばれた。
  また、ここに商人までも集まる急造の城下町まで造っ
 た。
1590年6月、成田氏長の忍城攻めの話。
  小田原城へ成田氏長が向かう。
  秀吉が、小田原城の北条氏を攻略するため、関東にあ
 る北条の支城を次々に落として行った。
  「成田記」によると、甲斐姫の活躍の話があった。
  1590年2月、成田氏長は、家紋を染め抜いた三引両(み
 つひきりょう)の旗を掲げ、輪宝の指物をはためかせ、
 350騎を率いて忍城を後に、北条氏政に味方するため、小
 田原城へ向かった。
  氏長は、甲斐姫に「ただ城を堅固に守ることだけに心
 を砕くのだ」と言い置いて出発した。
  秀吉の大軍は20万。
  小田原城を包囲する一方、関東にあった支城を一つ一
 つ落として行った。
  この時、6月に、忍城も、石田三成、大谷吉継(よしつ
 ぐ)ら2万3000の攻撃を受けた。
  主力が、城主氏長とともに小田原城へ行って、留守を
 守る侍は300余人と、足軽400余人に過ぎなかった。
  一方、敵の攻撃を避けて町人、百姓とその妻子らも城
 へ入っていたため、非戦闘員は3000人を越えた。
  氏長は、甲斐姫だけでなく、その妹の15歳の巻姫と敦
 姫(つるひめ)、それに妻へも、心を引き締めて留守居
 役を立派に果たす様に命じていた。
  2万3000の秀吉軍に包囲された忍城は、利根川と荒川に
 はさまれた沼と湿田の中にあった強固な水城だった。
  城を囲んだものの、城を攻めても、味方の被害が多く
 なると見た石田三成は、水攻めをする事とする。
  ちょうど梅雨時でもあった。
  しかし、6月16日の大雨で、大被害を出したのは秀吉軍
 であった。
  堤防が決壊し、堤下に陣を敷いていた将兵が濁流に呑
 まれ、数百人が死んだ。
  そこで強行突破をすることになる。
  忍城では、百姓・町人も戦った。
  関東の諸城は次々に落城して行ったが、水に守られた
 忍城は不落だった。
  秀吉は、真田昌幸・幸村親子を援軍に向けた。
  真田の援軍を頼んでも、秀吉軍は、忍城に突入が出来
 なかった。
  だが小田原城では、父の氏長が、日ごろ連歌の友人だ
 った秀吉の右筆(ゆうひつ、文書を司った武家の職名)
 の誘いに応じて、秀吉方に内応し、また、小田原城も陥
 落する。
  ここに、甲斐姫は、二人の妹、母と共に、いずれも甲
 冑をつけ、馬に乗り、数多(あまた)の女を召し連れ、
 家臣に守られ城を出た。
  秀吉は、成田氏長と弟の奏親(やすちか)(ともに小
 田原城にいた)を、会津若松42万石を与えた蒲生氏郷に
 預けた。
  氏郷は、食客になった成田氏を哀れみ、采地(さいち)
 1万石を与え、福井城を守らせることになる。
  氏長は、会津へ入る。
  家臣も多く同行した。
  だが、新地に落ち着く間もなく東北に一揆が起きた。
  会津は、伊達政宗の領土になっていたが、秀吉はこれ
 を召上げ、氏郷に与えた。
  政宗は、不満で一揆を扇動しているとの風評がもっぱ
 らだった。
  氏郷は、一揆鎮圧に出撃して会津若松を開ける。
  その隙を突いて、伊達勢が、若松城を襲うとの情報が
 入り、氏長は氏郷の恩に報いようと、弟・奏親と家臣を
 率いて加勢に出る。
  手薄となった福井城には、蒲生家より差し向けられた
 浜田将監兄弟が、留守居役として滞在していた。
  この兄弟が逆心を起こした。
  氏長の妻は、病気で臥せっていた。
  反乱に、もはやこれまでと自害をするところへ、非情
 にも、浜田弟が掛け来たって、彼女を殺した。
  甲斐姫は、謀叛人と聞くと長刀(なぎなた)をとって
 出た。
  甲斐姫は、母を探した。
  家臣が、母の最期を知らせた。
  甲斐姫は怒りの鬼と化した。
  味方はわずか十余人、20倍もの敵勢に突入していった。
  敵兵を伐ち伏せながら、浜田弟に迫り、母の仇を討っ
 た。
  福井城の異変の報に、氏長は引き返し、途中、若松へ
 向かう甲斐姫一行と出会った。
  そして、浜田将監が占領している福井城を攻める。
  そして、ついに将監を取り押さえ、福井城で無念を晴
 らした。
  氏郷は、その顛末を関白・秀吉に報告した。
  1591年の事であった。
  秀吉は、甲斐姫のあっぱれを褒め、甲斐姫を大阪城へ
 呼んだ。
  甲斐姫は、その後を、大阪城で生きた。
  父の成田氏長は、福井城事件の後、蒲生氏郷の食客か
 ら下野(しもつけ)烏山城2万7000石の大名に取り立てら
 れた。
  この氏長の亡き後、男子が無かったので、本来、城を
 没収されるのだが、秀吉は、氏長の弟・奏親の相続とし
 て認めた。
  その後の事、奏親の子・重長(しげなが)は、関ケ原
 の戦いで徳川方となって江戸期を生きるた。
1590年7月5日、北条氏が滅亡した。
  北条氏政が没した(1538年~1590年)
  そもそも、小田原城攻めの発端は、秀吉によって私戦
 禁止が具体的に示され、上野の沼田領をめぐる、真田氏
 と北条氏の争いが、この「関東・奥両国惣無事令」の違
 反として、秀吉の制裁の対象となった。
  秀吉が、小田原征伐に踏み切るきっかけとなったのは
 名胡桃城をめぐる争いであった。
  小田原城の支城は、次々に落城し、遂に、小田原城だ
 けが孤立する形となり、1590年7月5日に、氏直は、自身
 の切腹と、城兵の助命を条件に投降して来た。
  秀吉は、氏直の命は助け、高野山に登らせ、氏政・氏
 照(北条家当主の弟)の2人の切腹に留めた。
1590年7月5日、秀吉の天下統一が成った。
  秀吉は、この時、次の戦いの準備を開始した。
  そこに、日本以外があった。
  また、この7月の小田原城落城後に、家康の関東移封が
 ある。
  移封の話は、既に、4月頃にはあったという。
  家康は、小田原城の落城した間際の地へ、その動揺の
 残る中を、江戸にと入って行った。
  この移封を、従来は否定的に見ていたが、肯定的にみ
 る意見もある。
  家康の居た5か国(三河・遠江・駿河・甲斐・信濃)を、
 秀吉は、織田信雄に与えるとしたが、
  信雄は、今までいた父祖伝来の領国・尾張に固執した
 ため、秀吉に追放されてしまう。
  過去にも、佐々成政が移封が絡んで滅亡している。
  家康は、その様な事も意に含み、北条の落武者が在所
 在所に隠れたり、盗賊などになったりして、物情は静ま
 らなかった地へ入って行く。
  その様な地に、落武者や浮浪人らが、武蔵の西の端の
 八王子辺りに集まり、住み着いている。
  武蔵の国の最大の都会でもあった八王子。
  この頃、北条氏政の居城で、有力な城があった。
  ここを、秀吉軍の上杉景勝と前田利家の兵・1万5000が
 攻めていた。
  城方は、2000ほどの兵だった。
  城主の氏照は、小田原に行っていたから、配下の武将
 が城を守っていた。
  秀吉の二将は、朝霧にまぎれて迫り、俄に襲い、半日
 で陥落させてしまった。
  北条方の戦死者は、守兵の半分以上の千余人となる熾
 烈な激戦だった。
  旧八王子の城下は、火で灰となった。
  その後、戻った商人たちが、新しい街を作り、市をた
 て賑わった。
  その賑わいに、落武者が集まった。
  家康は、関東移封で身代が大きくなったため、新規お
 抱えの者にこの落武者を、治安面からも召し抱え、家臣
 団の中に組み入れた。
  「落穂集」に、「家康公が江戸御入国のとき、武州八
 王子にて新たに500人ばなり召し抱えられ」とある。
  「八王子千人同心」と言われる、特殊な徳川家臣団は、
 この様にしてできた。
  家康は、彼らを甲州街道に、西端の押さえとして、八
 王子に住まわせ、甲斐や相模に抜ける峠の防衛に当たら
 せた。
  それを支配するために、徳川家臣団の中での甲州侍(
 武田家の旧臣)を組頭にした。
  この八王子千人同心の家系から、「東海道中膝栗毛」
 の十辺舎一九が出た。
..
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2015年5月3日日曜日

(増補版)89C2/3:気になった事柄を集めた年表(1585年12月~1587年12月)

題:(増補版)89C2/3:気になった事柄を集めた年表(1585年12月~1587年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1586年2月、秀吉が、聚楽第の工事を始める。
  秀吉が、2月下旬、聚楽第工事を始め、関白としての
 政庁を新たに京都に築いた。
  こうして、関白という形で、秀吉の武家政権はスター
 トした。
1586年3月、秀吉が戦艦(ガレオン船)の発注をしている。
  秀吉には、日本平定後の世界があった。
  その考えは、信長の「明侵攻計画」に影響を受けてい
 た。
  秀吉は、この時、キリスト教宣教師ガスパール・コエ
 リョに2隻の大型戦艦を発注をしている。
  そして、「日本を弟の秀長に譲り、唐国の征服に移る
 つもりで、そのため、新たに2000隻の船の建造を始めて
 いる」と告げている。
1586年頃、秀吉が、姉の子供を養子に迎える。
  自分の子・秀勝が亡くなった後、信長から於次秀勝(
 自分の子供の名前を秀吉は名付けた)を養子としてもら
 ったが、この於次秀勝が亡くなって、可哀想に、こうい
 う意味で秀吉は不幸だったが、
  秀吉は、今度は、姉・ともの子・小吉を養子に迎え、
 羽柴秀次と名のらせた。(1585年7月頃?)
1586年12月、秀吉が、九州征伐命令
  秀吉が、1586年12月に、諸国の大名に九州征伐の出動
 準備にかかるように命令した。
1586年12月19日、秀吉が、太政大臣に任じられ、それまで
 の近衛前久の猶子(ゆうし、兄弟の子)として藤原姓で
 あったのを改め、姓を豊臣にする(豊臣の姓を受けた)。
1587年、秀吉が、名護屋城を築く。
  対馬海峡を望む静かな九州西北端の漁村にある添垣城
 (そえがきじょう)を太閤秀吉はつぶして、高さ87メー
 トルの最高所に、五層の天守閣を築き、金箔の瓦を乗せ、
 本丸、二の丸、三の丸に、秀吉が日常生活の場とした山
 里丸の四主郭を中心に、11の付曲輪を持つ周囲約1700メ
 ートル、面積にして14ヘクタールの大城郭、名護屋城を
 1587年頃から、九州の大名に命じて造らせた。
  (1591年8月に、秀吉が築城を命じ、10月に城普請に取
 り掛かったとの説もあるが、発掘した瓦に1590年の銘が
 あり、1591年以前だともいう)
1587年3月1日、秀吉が、九州に出陣。
  秀吉が、8万の軍勢を自ら率いて、大阪を出陣し、九州
 平定に向かい、新しい国割りをして4か月後に帰国した。
  秀吉が、九州へ兵を動かしたのは、急成長していて、
 九州を制圧しかねない薩摩の島津の脅威があった。
  大友宗麟が、秀吉に助けを求めたからでもあった。
  この時、九州の諸将の多くは、群雄割拠の長い戦国の
 習いから脱皮が出来ず、日本を統一しようとする秀吉の
 力を侮(あなど)っていた。
  秀吉のもとへ出向くようにとの秀吉の命令を軽んじる
 者もいた。
  また、仮病を使ったり、代理を出すとかして、城主自
 らが参上しない者も少なくなかった。
  九州に上陸した軍勢は、20万に達した。
  この秀吉の力に慌てた九州の城主たちだった。
  秀吉の目的は、主に、薩摩の島津攻めにあった。
1587年3月28日、秀吉が、豊前小倉に到着した。
  秀吉の統一事業も関東・東北・九州となった。
  秀吉は、関白の立場から、九州で争いをしていた大友
 と島津の両氏に対し、正親天皇の勅命を奉じて、和睦を
 勧告していた。
  これに対し、大友氏は応じたが、島津氏は無視した。
  そして、この為、1586年から、大友氏を救援するため
 の長宗我部・十河(そごう)軍と、島津軍との間に戦闘
 が繰り広げられていた。
  秀吉は、1586年12月に、諸国の大名に九州征伐の出動
 準備にかかるように命令を下し、
  1587年1月25日に、まず、先鋒の宇喜多秀家が、1万
 5000を率いて出陣した。
  そして、連日、九州に向けて続々と出陣し、
  秀吉自らも、1587年3月1日に、大阪を発し、
  1587年3月28日に、豊前小倉に到着した。
1587年4月10日、秀吉が、筑後に入り、高良山に着陣した。
1587年4月19日、秀吉が、16日に隈本(くまもと)、
  17日に宇土(うと)を経由して、
  この日に、八代まで進んだ。
1587年5月3日、秀吉以下の本隊が、薩摩川内(せんだい)
 に達した。
  そして、泰平寺まで進んだところへ、対馬の宗義調(
 よしかげ)が服従するという使者を送って寄こした。
1587年5月4日、秀吉が、宗氏へ、朝鮮への出兵協力を命じ
 た。
  秀吉は、対馬の宗義調へ、この日の日付で書状をした
 ため、朝鮮へ出兵をすることになった場合の協力を命じ
 た。
  以後、宗義調・義智父子の朝鮮と板挟みになった苦し
 い交渉が始まる。
  朝鮮国王の参洛の目算もなく、一時しのぎの交渉に終
 始する。
  実際、宗氏は、秀吉の指示に従って朝鮮へ使節を出し
 ていなかった。
1587年5月8日、秀吉が、九州を平定した。
  秀吉51歳は、薩摩の島津義久を降ろして、九州を平定
 した。
  日向路を秀長軍15万が、肥後路を秀吉軍10万が進んだ。
  さしもの勇猛な島津軍も、これだけで勝つ見込みは無
 かった。
  日向根白坂の戦い(4月17日)で、島津義久・義弘の軍
 勢が、秀次の軍勢に敗れて、戦意を喪失した。
  ついに、5月8日に、義久は剃髪し、龍伯と号し、秀吉
 の軍門に降りた。
1587年6月1日、この日の日付で、「高麗(朝鮮)国王は諸
 大名と同じように朝廷(および秀吉)への出仕する義務
 があると朱印状に記している。
  そして、対馬の宗氏を介して李氏朝鮮に服属し入貢す
 る様に要求している。
  また、この年に、秀吉は、諜報の目的から26隻の船を
 朝鮮へ派遣している。
1587年6月11日、大友宗麟が没した(1530年~1587年)
  チフスによる病死とされている。
  秀吉が、宗麟に日向国を与えようとしていたが、統治
 の意欲を失っていた宗麟は、これを辞退した。
  墓は、京都の大徳寺にある。
1587年6月19日、キリスト教禁教令。
  豊臣秀吉が、九州征伐を完了させ、筑前博多まで凱旋
 して来た時であった。
  秀吉は、九州征伐中であったが、1587年6月19日の夜、
 突然、キリスト教宣教師のガスパル・コエリヨ(イエズ
 ス会福管区長)へ、バテレンおよびポルトガルの南蛮貿
 易の行為について詰問状を突き付けた。
  秀吉の臣下が、キリスト教宣教師がからむ南蛮貿易で、
 日本人を奴隷として売買している所を目撃し、秀吉に報
 告していた。その詰問状だった。
  そして、翌日の20日朝、諸大名を集めバテレン追放を
 指示した(バテレン追放令は6月19日付けとなっている)
  まったくキリスト教のやる事はレベルが低かった。
  この6月19日のバテレン追放令が出される直前において、
 秀吉の臣下は、博多の港外に停泊していたフスタ船に乗
 り込み、キリスト教のコエリョと共に船中を見ていた。
1587年7月4日、豊臣秀吉が、伴天連追放令を発布した。
  黒田官兵衛は、高山右近の影響を受けて、天正11年
 (1583年)頃に洗礼を受けたキリシタン大名であった
 が、豊臣秀吉が伴天連追放令を発令すると、いち早く、
 キリスト教を捨てた(キリスト教の棄教)。
1587年、博多の豪商であり、茶人である神谷宗湛(そうた
 ん)は、秀吉の九州征伐の時、筑前箱崎の陣所で秀吉の
 茶会に招かれている。
1587年、豊臣秀吉が、高麗(朝鮮)の王へ、早舟で『日本
 の内裏(だいり)へ出仕せよ、さもなくば来年成敗(せ
 いばい)するぞ』と申しつかわした。
  「私の命あるうちに、唐国まで手に入れる所存だ」と
 表明した。
1587年9月、聚楽第が完成した。
  九州征伐を終えた秀吉が大阪より移り、ここで政務を
 みた。
  後陽成天皇の行幸を、1588年5月9日に、迎えて饗応し
 ている。
1587年12月3日、秀吉の停戦命令。
  秀吉が、関東・奥両国惣無事令を出した。
  これは、関東と陸奥・出羽の二国(奥両国)の大名に
 出されたもので、停戦命令である。
  この命令の後、各戦国大名同士の戦いは、「私之儀」。
  すなわち、私闘として、豊臣政権によって禁圧され、
 裁かれる事になった。
  こんな素晴らしい史実が日本にある。
  戦争を止めさせる命令、戦争ばかりのヨーロッパには、
 この様な事例はない。もちろん、アメリカにもない。
  日本の誇るべき史実である。
..
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