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2013年7月12日金曜日

ある会堂での、『イエスの行動』について。

 題:ある会堂での、『イエスの行動』について。
...(真を求めて 皆様と幸せになりたい)
.
 キリスト教の聖書の(「マルコによる福音書」1・21~28)
に、
 イエスが、ユダヤ教の会堂で、人々の前で話をする場面が書
かれている。
 この会堂の中の聴衆に、『心を病んだ方』がいた。
 この人が、イエスに叫んだ、『ナザレのイエス、構(かま)
わないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか? 正体は分かってい
る。神の聖者だ』・・と。
 これは、可哀想な事に、心を病んでしまった方の叫びだ。
 それを聞いたイエスは、怒って答えた。『黙れ』・・と。
 そして、『この人から出て行け』と怒りの形相(ぎょうそう)
で命じた。
 人を集めて講演をしようという講師が、聴衆の状態の状況判
断もせずに、短絡的にその聴衆の言葉に怒って、『出てけ』と
いう話は聞いた事がない。
 怒られた、その聴衆は、可哀想に「痙攣(けいれん)」が
起きたという。
 イエスに怒られ興奮し、発作が起きたのだろう。
 その聴衆は、会場から出て行ったとの事であるが、イエスの
対処の仕方は、まったく間違っている。まずい。
 しかし、キリスト教は、これを美化して、あらゆる美しい言
い方で、キリスト教徒を洗脳する。
 ただ、これだけの事なのであるが、美しく、あらゆる事を言
って洗脳する。
 イエスの行為は、「権威ある者」の行動だという。
 弱い者いじめだけの話ではないか。TPO的にも「まったく、
まずい」。
 そして、「権威ある者の教え」だという。
 そして、その『教えと行為』に、人々は、非常に驚いたと聖
書は書く。
 イエスが、どんな事をしても、権威があるとか、聴衆が驚い
たと言って美化してしまえば、
 キリスト教徒は、その様に『美しく洗脳』される。
 聴衆は、実際は、イエスの教えに驚いたのではなく、心を病
んだ方が居て、その様な事態が起きた事をオドロキ、そして、
心を病んだ方が『可哀想』と思ったのだろうが・・、
 聖書には、その様な事は、一切、書かれていない、省(はぶ)
かれている。何しろ、美しい話に変え、転化している。
 そして、さらに言う、
 人々は、「今までに無い、新しい教えだ」と言ったという。
 何処が「新しい教え」なのか?
 ただ怒こって、心を病むという『弱者』を会場から追い出した
だけではないか。あまりにも、自分勝手な言い回しだ。
 「ただ、イエスが短気に怒っただけの内容なのに」・・権威
があるとは?
 確かに、この様に人を集めた講演で、講師が怒って聴衆を罵
倒し、怒鳴りつける事は無いこと。その点は、珍しいと言うべ
き事で、新しいと言うべきことではない。
 何しろ話は、どうひっくり返しても『低次元』『低レベル』。
 本当は、逆に、恥ずかしくて隠さなければならない事件。
 ここまで言い方を変えて、美化して、聖書の読者に錯覚を起
こさせるとは・・呆(あき)れる、疑問?「聖書」の名が恥じ
る。
 「聴衆の方たちの、『心を病んだ方』への思い遣りが、一つ
も書かれていないところが、逆に心を痛む。
 心を病んだ方を、終始一貫『悪漢』にしている。
 可哀想に、その方は大声を上げながら会場を出て行ったとい
う。こんな話を、感受性の強い子供たちには読ませたくない。
 聖書は、心を偏頗(へんぱ)にする。素直な心の子供たちが
育たない。
 そして、聖書は書く『イエスが評判になった』・と。
 これだって、町では、本当は、『怒鳴りつけたのよ、大きな
声で』という人々の言葉なのだろう。そして、「まあ、可哀想」。
「もっと穏やかに言ってあげればいいのにね」という町の言葉
だったのだろう。
 福音書は、『左のものを、強引に、右へ持っていく』という
偏頗な心になってしまう書物。この様な事を聞く、子供たちの
「心が痛む」ことを恐れる。
 その様な洗脳書が、キリスト教の聖書。

キリスト教、現在の『世に規範になり得ない宗教』。

 題: キリスト教、現在の『世の規範になり得ない宗教』。
...(真を求めて 皆様と共に幸せになりたい)
.
 モーゼの十戒に「姦淫するな」と書かれているが、モーゼが
この様に書くほど、この時代、男女の関係が乱れていた。
 1例として、この時、日常茶飯、乱交が行なわれていた。
 書かざるを得ない最低の民の状況だった。
 今、この様な最低の時の規範を、今現在の時点で、その記述
のキリスト教聖書を規範とするのは「間違いである」という事
がこのこと1つで分かる。
 現時点におけるキリスト教の根は、この様な経緯の中にある。
 イスラエルの民がエジプトから脱出し、カナンの地に来た時、
その地の宗教と混淆・習合した。
 その宗教は、取り除かれるのではなく吸収され混淆(こんこ
う)したのである。
 キリスト教が無謬であるわけがない。
 イスラエルの民の信仰は、カナンの地場の宗教の血が混じっ
たのである。
 混じった血はバール信仰である。
 この信仰は、繁殖の女神であるアシュタルテと対をなす神で
ある。
 そして、豊饒(ほうじょう)の観念と生殖とを同一視して、
春のよみがえりや豊作を祈って、酒を飲み、踊り狂い、神の前
で男女乱交する。
 ヤハウェを神とするエルサレム神殿にも神殿娼婦が居て、神
殿の巫女が同時に娼婦になった。
 オルギア・乱交状態である。
 エジプトからカナンの地に着いたイスラエルの民は、カナン
の地のこの淫風(いんぷう)に染まった。
 この様な宗教で、皆様が幸せになるわけがない。人類が幸せ
になるわけがない。
 (参考)こん‐こう【混交/混淆/渾淆】 [名](スル) 1 異
なるものが入りまじること。ごちゃごちゃになること。「玉石
が―する「和漢―文」 2 ⇒コンタミネーション
 (参考)ほうじょう【豊穣】 [共通する意味] ★農作物がよく
実り収穫が多いこと。[英] a good harvest[使い方]〔豊作〕▽
米が豊作だ▽豊作貧乏〔満作〕▽豊年満作〔豊熟〕スル▽豊熟
の季節〔豊穣〕(名・形動)▽五...
 (参考)いん‐ぷう【淫風】 みだらな風習・風潮。

2013年7月11日木曜日

キリスト教は、イエスと違う神概念の、イエスと違う宗教。

 題:キリスト教は、イエスと違う神概念の、イエスと違う宗教だ。
...(信を求めて 皆様と共に幸せになりたい)
.
 キリスト教は、宗教として存立する一番大切な「信仰対象の
神」について、呆(あき)れるほど「滅茶苦茶」だ。
 信徒の方は知ってか知らずか、深くは考えていないようだが、
 また、聖職者の牧師・神父・司祭などの方々は、説明もしな
いのだろう、ホッカムリなのだろう。だんまり決め込みだ。
 例えば1例、(「マルコによる福音書」12・18~27)を見る
と、多神教的な発言を、イエスはしている。
 イエスが、発言しているとしても、キリスト教の聖書のイエ
スの発言だと言われている言葉のそのほとんどが、
 「イエスの言った事ではない」という研究結果である。
 ほとんどが「イエスではない」なので、イエス以外の誰かが
言った事なのだろうが、イエスが言ったというその言葉は・・。
 今、「マルコ」を例にしていますが、この福音書も含め、キ
リスト教聖書は、その福音書が書かれた後に、
 名前の分からない、不特定の人たちが、好きな様に、書き加
えたり、削除したりと、勝手な事をしているから、
 誰とも判らない人が書いた聖書の『その記述』を読むと・・、
 イエスは、「原罪のある人は、復活して神になる」と言って
いる。
 キリスト教の神の大量製造となる。
 引用すると「イエスは言われた。『あなたたちは、聖書も神
の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか。
死者の中から復活する時には、めとることも嫁(とつ)ぐこと
もなく、天使のようになるのだ。死者が復活することについて
は、モーゼの書の『柴』の箇所で、神がモーゼにどう言われた
か、読んだ事がないのか。『私はアブラハムの神、イサクの神、
ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神では
なく、生きている者の神なのだ。あなたたちは大変な思い違い
をしている。」と書かれている。
 つまり、イエスは、「復活を信じて居た」。
 イエスのこの言葉は、復活を信じない「サドカイ派」から問
われて、答えたものなのだ。
 イエスは、普通の人も復活する(出来る)と言っている。
 また、復活するした人は、肉をもって復活するのでなく、
 天使のようになって、人々の神になるのだ。
 死んだ者の神ではない・・と。
 イエスは、人々が死んで、復活して、人々の神になると説い
ている。
 イエスが、「人々が、神になって行く」と考えているという
事は、当然、「人々が復活して、神々になって行く」と考えて
いた。
 イエスは、神々の生じる思想を説いている。
 因(ちな)みに、(「出エジプト記」3章)では、「先祖の
神々」が出て来る。
 イスラエルのエルサレム大学の教授は、『ユダヤ教が一神教
になったのは歴史が浅い』と言っている。
 イエスも「多神教」の観念の中に居た人。先祖の神々を信じ
ていた人。
 キリスト教は、『イエスの神概念と違う神』を神として信仰
対象としている。
 イエスと別の宗教である。

2013年7月9日火曜日

キリスト教は、無反省です・・。

 題: キリスト教は、無反省です・・。
 ...(真を求めて 皆様と共に幸せになりたい)
 .
  キリスト教の聖書に、『福音書』というものがありますが、
福音書は複数あります。
  その複数の福音書の「最初の福音書」を書いた人は、『マル
コ』という名前の人です。
  このマルコが書いた福音書は、正統と言われるキリスト教に
『批判的な福音書』を書きました。
  そのため、「マルコによる福音書」は、キリスト教から卑劣
な『いじめ』に遭(あ)いました。
 マルコが、最初に福音書を書いているのに、
  聖書の中で、第二番目に置かれています。
  そして、正統派への「ゴマスリ福音書」の「マタイによる福
 音書」が第一番目に置かれています。
  そして、さらに、マタイと同じ姿勢の、弟分の「ルカによる
 福音書」が第三番目に置かれ、
  「マルコによる福音書」は、サンドイッチにされて、マルコ
の批判色が分からないように仕組まれ、薄められています。
  最初にキリスト教の聖書を手にした人が、「正統派に批判的
なアンチ正統派」の「マルコによる福音書」を読んで、
  そのアンチ色を強く心に刻まれることを、嫌った・忌んだキ
リスト教の仕組んだ聖書の福音書配列なのです。
  そして、マルコという人は、まったく、正直な人と言えます。
  マルコは、『イエスの復活の話』を認めていません。
 まず、キリスト教正統派は、ここが嫌だったのです。
  しかし、マルコが主張したかったのは、「生前のイエスの言
葉や行動』なのでした。
  正統派は、パウロです。
 パウロは、昨日まで『ガチガチのユダヤ教徒』で、敵対宗教
集団だったキリスト教徒を殺してまでして敵対していました。
 その『パウロ』が、
  当然、ユダヤ教の正典(=キリスト教の旧約聖書)にまたガ
 チガチに頭が凝り固まっているパウロでしたが、
  その旧約のあちこちに書いてある「生け贄(いけにえ)の血
 による贖(あがな)いの思想」と、セットになった「復活」を
 (イエスの十字架上の死による生け贄の血の贖い)と(イエス
 の復活があったこと)として「宗教企画」をしました。
 それ故、パウロのキリスト 教(パウロ=キリスト教)」と言
えます。マルコは、このパウロキリスト教に、反対でした。
  マルコは、パウロが「無用なのだ」と文にまで書いて捨てた
「生前のイエスの言葉や行動」にこそ、キリスト教の根幹があ
ると思いました。
  もしマルコが、「イエスの復活に肯定的」であったならば、
  刑死後、復活してガラリヤに戻ったイエスが、
  イエスの弟子達もガラリヤに戻り、
  そこで復活したイエスに出会ったという事が事実であって、
  復活したというイエスも事実であるという事が、
  もしも、マルコの主眼であるならば、
  『絶対、書き落とすわけはなく』、
  その『肝心・かなめさ』を
  『逆に、強調する』わけですが・・。
  この様な行為をしてないマルコ。
 ここに、明らかに、マルコの想いが現われています。
  イエスは、『復活などしていないのだ』・・と。
  今、何と、英国・キリスト教聖職者でさえ、「イエスの復活」
を信じてない人・聖職者たちが過半数を超えています。
 マルコの考えを深く探(さぐ)りますと、
  マルコは、「復活を、来世の問題として論じる事を空(むな)
 しい思弁(しべん)」として退けています。
  (「マルコによる福音書12・18~27)「復活についての問
 答」。マルコは、まったく「この様な展開」を拒否しています。
  「関心なし」です(詳細は略)。
  マルコという人は、福音書という文学の形式で初めて「生前
 のイエスのイメージ」を書いた人です。
  イエスの弟子たちは、復活という観念を真理と思い込み、福
音と捉え、忠実的に思い捉え、実体的に捉えています。
  この事に対し、マルコは、「生前のイエスをないがしろにす
るのか」と、「生前のイエスを想起せよ」と訴え、
  このイエスの弟子たちこそを、再生しなければならないと想
 いました。
  また、福音書には、「イエスの復活」を教えられたマグダラ
 のマリアや、イエスの弟・ヤコブの母マリア(イエスの母)ら
 の女性たちが、
 「復活」が起きたことに驚き、正気を失って、
  「もう、誰にも何も言うまい」と思ったという事が、事細か
 に書かれています。
  女性たちが、イエスの墓へ行った時、
  どこの誰だか、まったく分からない、不明の第三者の人が居
て(この者について何も説明が無い)、
 重大な役をする人物が、突然、登場して、
 重大な立ち回り・演技をする。この者を「仮 に、X氏(エッ
クス氏)」とする。
  何故か?X氏は、『イエスが復活した事を知っている』。
 そして、女性たちに、色々と、誰に頼まれたのか?、一部
始終を見ていたのか、分からないが、女性たちに、詳細に
くどくどと説明する。
 頼んだのはイエスとしか考えられないが・・・。
  安易なストーリー展開だ。何とでも言える。
 そして、不思議なストーリーの設定・書き方の仕方をするも
のだ。
  この様な場面に立ち会ったこの不明の人物・X氏こそ凄い。
  『イエスの復活の場面に、立ち会った人物なのだ』。
  しかし、この後は、うんともすんとも、これ以上の出番の無
 い人物・X氏なのだが・・・。
  イエスは、復活する時、X氏に「これから復活する」と、そ
 の人物・X氏に教え、
  そして、その人物・X氏に、その後のイエスの予定まで教え、
  イエスは、「これから『ガラリヤ』ヘ行くつもりです』と言
 い、
  誰か私を訪ねて来たら、申し訳がございませんが、ここに居
 て、『ガラリヤに行った』と伝えて下さいと、X氏に『依頼し
 て』お願いして、『ガラリヤへ行った』。
  イエスの墓の入り口に置いた石は、
  この人物・X氏が、イエスの墓の中に入る時に、退(ど)け
 たのか?(この人・X氏だけでは退けられない重い石の様なの
 だが、だから、また別の第三者・X氏以外の人が居たのか?)、
  復活する予定のイエスは「肉体を持って行きたかった」らし
 いが、何しろ、肉体と共に、イエスは、ガラリヤへ行った。
  墓の石を動かさなくても、イエスは外に出られるのか?、肉
体を持って行くから、墓の入口の石は退けなければ出られなか
ったのか?は、まったく不明。
  しかし、大人1人で簡単に動く石ではないようなのだが、イエ
 スは、その人物・X氏に頼んで「一緒に、エイこりゃと動かし
 たのかもしれない」。
  マリアたちの女性が、石が退けてあるのに驚いたというので、
 多分、そう簡単に動かせる石では無かったのであろう。
  つまり、イエスが、その人物にお願いして、頼んで、手伝っ
 てもらったのだろう(なぜなら、何の関係もない人物・X氏が
 ここにずーと居て、いつ誰が来るか分からない墓に、居続ける
 訳がない。また余計な仕事の重い石を動かすわけがない)。
  小生が、ここまで書いているのは『怒って居るからです』。
  このキリスト教聖書に、煽られ、何人の方々が『無念の死』
 をしたかです。あまりにも多く、あまりにも悲惨なのです。
  そして、過去のことではなく、現代でも起きているのです。
  この様な、悲惨な事例に対しても、キリスト教は何もせず、
  逆に推進する側に居て、
  そして、キリスト教は、今でも、何も変えていないのです。
  無反省なのです。
 そして、『巧妙なる伝道行為』という「ずるい方法の伝道行
為」ばかりをしています。
 (参考)し‐べん【思弁/思辨】 [名](スル)《(ギリシャ)the
 ōriaの訳語》経験に頼らず、純粋な論理的思考だけで、物事を
 認識しようとすること。「―的な小説」

キリスト教は、『愛の宗教』か・・?

 題:キリスト教は、『愛の宗教』か・・?
 これは、キリスト教のプロパガンダ(嘘宣伝)です。
...(真を求めて 皆様と共に幸せになりたい)
.
 キリスト教が「愛」の宗教の欠片(かけら)もない事は、次
のキリスト教聖書の言葉で分かります。
 「われヤハウェ、汝の神は嫉(そね)む神なれば、われを憎
む者にむかいては、父の罪を子にむくいて3、4代に及ぼし、わ
れを愛しわが戒(いまし)めを守る者には、恩恵をほどこして
千代にいたるなり」(「出エジプト記」20章)。
 これは、嫌になるくらい自分だけに固執(こしつ)するキリ
スト教の神の性格を示す1例です。
 信じてくれない者には、信じない者だけでなく、3代も、4代
も祟(たた)るぞと、執念(しゅうねん)深い呪(のろ)いの
言葉を吐(は)く。
 そのくせ、信じてくれるなら千代に渡って恩恵を上げます・
・・とくる。
 こんなキリスト教の神が「愛の神」である訳がない。
 こんな宗教を信じて人類が幸せになれるはずがない。
 ここまでキリスト教の神が、脅しで「戒めを守れ」と言って
も、パウロというキリスト教の骨格を作った人は、キリスト教
に律法は無用だと、『律法無用論』で律法を捨てた。
 そして、アブラハムは、ベルシバの井戸をめぐって、新来の
べリリシテの隊長と誓約を交わした。
 ここでも出てくる「取り決め書」・約束事・律法である。
 カナンの土地には次々に新しい民族が入って来た。
 狭い土地に雑多な民族が雑居した。
 規律や律法は必要なのだ。
 この様な狭い地の規律を保つために、他民族との契約や自民
族の規律を守る規範が必要だった。
 それがモーゼの十戒である。
 「殺すな」「盗むな」「嘘を言うな」「貪(むさぼ)るな」
「姦淫するな」「隣人の妻を奪うな」「家畜を奪うな」「召使
を奪うな」「父母を敬え」「偶像を作るな」「みだりにヤハウ
ェの名を口にするな」「7日目には休め」である。
 品位の低い民への最低の規範を示したもの。
 いま、世界中で規範にする様なレベルのものではない。
 当時のイスラエル人の倫理レベル・道徳レベルが低く、他民
族との関係、及び、自民族の乱れが酷かったのでできた規範。
 倫理レベルは呆(あき)れるほど最低のものなのである。
 キリスト教とはその様な宗教。
 (参考)き‐はん【規範/軌範】 1 行動や判断の基準となる
模範。手本。「社会生活の―」 2 《(ドイツ)Norm》哲学で、
判断・評価・行為などの基準となるべき原則。
 (参考)むさ‐ぼ・る【貪る】 [動ラ五(四)]《「むさ」
は「むさと」と同語源、「ぼる」は「欲(ほ)る」の意》 1 飽
きることなくほしがる。また、際限なくある行為を続ける。「
暴利を―・る」「惰眠を―・る」 2 がつがつ食べる。...

2013年7月8日月曜日

(続)キリスト教の話・・2題。

 題: (続)キリスト教の話・・2題。
...(真を求めて 皆様と共に幸せになりたい)
.
 キリスト教を実質的に作った、
 キリスト教宗教企画者のパウロが、
 何故、「復活」を重視したかと言えば、
 パウロは、ユダヤ教の「ファリサイ派」に属していた。
 その属していたユダヤ教のファリサイ派が、
 「復活を信じ、重視していた」
 ・・・というだけの話。
 因(ちな)みに、ユダヤ教の「サドカイ派」は、
 復活を信じていなかった。
 死人の中から復活するという事は、古代に流行(はや)る
「古代的世界像に基づく、ある1つの観念」だった。
 当時でさえ、
 古代人に「何ら普遍性の無い観念」だと捉(とら)えられ
ている観念に過ぎなかった「復活観念」。
 キリスト教は、
 たまたま、宗教企画したパウロが、
 「復活観念を重視するユダヤ教の派閥に属し、
 キリスト教にその観念を導入しただけのこと」。
 故に、キリスト教は、
 古代人さえ普遍的ではないと捉えている「復活」を重要視し、
 たまたまの経緯(いきさつ)から、
 「復活」を、キリスト教の重要教義・『根幹教義』にした
だけのこと。お好みの領域の話。
 故に、イギリスのアンケート調査で、
 この復活の観念を、
 キリスト教聖職者さえも信じている人は少ない(半数以下)
 という実態となっている。
 このキリスト教の『根幹教義』を信じないで、
 よくキリスト教聖職者をしていると呆(あき)れる。日本も
この程度?
 そして、キリスト教にある「ある話」。
 イエスが復活できる事を、
 キリスト教の神は知っていたから、
 神はイエスを選び、殺したんだ・・と、キリスト教は言う。
 イエスを贖(あがな)いの血の生け贄(いけにえ)のターゲ
ットに選んだ・・という理由の話が、キリスト教にある。
 咄嗟(とっさ)に、くだらないこと・・と思う。
 そして、さらに言う、
 「故に、この様な信仰が生まれたのだと、。
 何か変だ? 何か変に感じませんか?
 この様な「子供だまし」の様な論理を。
 この様な論理や教義で信仰を展開して行く、いつもの、キリ
スト教なのだが。
 神に捧げる生け贄は、命を捧げて、捧げた命でもって、神の
怒りを治めようと、古代からある、この様な信仰に基づく所作
である。
 そうでは無いのでしょうか?
 イエスが復活するのを知っていたから、神に捧げる生け贄に
したとは?
 結局、神への捧げる命は復活していいのだと、スマしていて
良いのか?
 神聖な神への捧げもの、その神聖な「捧げる行為」が、神へ
捧げたことには、ならないのではないのか?
 くだらない「論理の隘路(あいろ)」で、何の益もない論理
を弄(もてあそぶ)ぶ、キリスト教の教義。
 キリスト教とはこの様な宗教で、終始、この様に論理が無駄
な展開をしている。徒労(とろう)に終わる宗教。心も病んで
行く。

力を合わせれば、はるかに素晴らしい世界を築くことができるはずだ。

 題: 力を合わせれば、はるかに素晴らしい世界を築くことができるはずだ
...(真を求めて 皆様と共に幸せになりたい)
.
 1972年に、ヨルゲン・ランダース教授は、未来を予測した
「成長の限界」を、委嘱された国際調査研究機関のローマ・ク
ラブで発表すると、世界に激震が走った。
 それまで、呑気(のんき)に構(かま)え、成長策の一辺倒
の世界が、「持続可能性」を考えざるを得ない、きっかけとな
った。
 この時から40年の昨年(2012年)、ダンダース教授は、最新
のコンピューターモデルを使って、再び、ローマ・クラブへの
報告書として『2052』を発表した。
 様々な統計資料、経済学者や生物学者、投資家ら40人の専門
家による検証をもとに分析し、2052年までの世界を予測した。
 それによると、世界人口は、2040年代初めに約81億人でピー
クを迎え、その後は減少。
 世界経済は、成長を続け、GDPの世界合計は、現在の2.2倍と
なる。
 ただ、成長にはかなりの地域差があり、中国が最も成長する。
 一方で、先進国住民の可処分所得は、あまり増えない。
 また、現在の貧困国の大半は、貧しいままだ。
 心配される石油などの資源枯渇や食糧問題、気候問題は、
 壊滅的レベルには達しない。
 ただし、人類は現在、世界の森林と海が吸収できる量の2倍に
あたる温室効果ガスを、毎年、放出している。
 今世紀前半に、集中的対策を進めない限り、世紀の後半、凍
土が溶けて放出された温室効果ガスのメタンが、更に、気温を
上げるといった、温暖化の自己増幅が始まるという。
 そして、干ばつや洪水、昆虫の大発生など、歯止めがきかな
い気候変動に人類は多いに苦しむ。
 ランダース教授は、短期志向になりがちな資本主義と民主主
義では、問題解決の対応が手遅れになると警鐘を鳴らしている。
           (以上、参考・読売新聞2013・7・1)
 ヨルゲン・ランダース教授は言う、「投資の流れを変えるこ
と。
 現在、世界のGDPの約25%がインフラ整備や資源開発といっ
た投資に使われています。
 40年後の未来へ向けて、その内の2%を資源枯渇、環境汚染、
生態系破壊、気候変動を避けるための予防的な投資に変えてい
けば、ほとんどの問題は解決することができます。
 別の言葉で言えば、現在の労働人口と資本の2%を気候に優し
い生産とサービスに移行するということです」。
 「ローマ・クラブ」は、スイスに本部を置く、世界的な民間
シンクタンク。
 最後に、ヨルゲン・ランダース教授の言葉:「どうか、私の
予測が当たらないよう、力を貸してほしい。力を合わせれば、
はるかに素晴らしい世界を築くことができるはずだ」。

2013年7月7日日曜日

キリスト教の本(もと)について・・・。

 題:キリスト教の本(もと)について・・・
...(真を求めて 皆様と共に幸せになりたい)
.
 キリスト教の聖書の原本は、『無い』という状態です。
 腐食しやすいパピルスであったので腐ってしまい、無いとい
う状態になってしまったのです。
 あるのは写本ばかりです。
 それも、キリスト教が当分ほったらかし状態であったので、
紀元400年~500年の物です。
 その間は空白なのです。
 この長い空白期間は、捨て去っていたと言える期間です。
 連綿と続いて来たという訳ではありません。
 途切れています。
 この放置状態だった期間に、本(もと)が無くなってしまっ
たのです。
 だから、では、その写本が信頼が置けるかというとそうでは
ないのです。
 まったく、写本の統一性は無いのです。
 どれが本物か?、どの部分が本物か?なのです。
 同一の文の写本ではないのです。
 現代までの、今まで、『どの言葉が真の言葉なのだろうかと
いう』、悩み、さ迷う、歴史だったと言えます。
 例えば、ほんのわずかなことでもまったく違う意味となりま
す。
 この問題もあります。ピリオドの位置とか・・・。
 その位置が分からないと真意が不明となってしまう問題とか
・・・。
 この類いの不明が『非常に多い』状態なのです。
 聖書の翻訳には「釈義」という『類推』・『謎解き』的行為
を要する状況です。クイズ的状況です。
 『えいっ、やっ』と解釈するという、翻訳者の『意思』が入
って来てしまいます。
 結局、翻訳者の宗教観からの解釈が入ってしまう宗教なので
す。『神』ではないのです。
 本物へ、神へ、辿(たど)れない宗教の状態なのです。
 結局、写本の領域でふらふらしている宗教と言えます。
 宗教の根本(聖書)がこの状態で、実体がない状態です。
 世界宗教になり得ない宗教です。
 (参考)しゃく‐ぎ【釈義】 文章・語句や教えなどの意義を
解釈し、説明すること。また、その内容。
 (参考)実体:本質、本体