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2016年2月13日土曜日

(増補版)296E1/3:気になった事柄を集めた年表(1870年8月~1870年11月)

題:(増補版)296E1/3:気になった事柄を集めた年表(1870年8月~1870年11月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1870年8月(7月)大阪に、聴訴掛・断獄掛(のちの大阪府
 警察)を設置した。
  この当時、民事裁判を聴訟と言い、刑事裁判を断獄と
 言った。
  また、刑事裁判に関して、フランス法に範をとった治
 罪法が、1870年に公布された(1872施行)。
  治罪法は、刑事訴訟および裁判所の構成などについて
 定めた法律と説明されている。
1870年8月25日、日本政府が、デンマークの大北(グレート・
 ノーザン)電信会社の要求を受け入れた。
  「長崎~ウラジオ間、および、長崎~上海間に、海底
 線を敷設して、長崎に陸揚げさせ」、
  また、「長崎~横浜間に、九州、四国の南端を経由す
 る海底線を敷設させる」
  外務卿・沢宣嘉らは、国内通信まで外国資本に握られ
 かねないと条件をつけた。
  「ただし長崎~横浜間は、日本政府の電信線(陸線)
 が完成した場合は、海底線敷設を見合わせること」
  1870年10月に、デンマークの軍艦・キヨルト号が、長
 崎に入港した。
  大北電信会社のシュエンシン総代をはじめ技師たちが、
 乗船していた。
  大北電信会社は、前年に、ロシア領から大阪、横浜、長
 崎、上海、福州、香港への海底電線敷設権を獲得してい
 た。
  1871年4月14日に、大北電信会社長崎支局を、下り松に
 あるベルビューホテルの一室に開設した。
1870年8月、長崎伝信局が開設された。
  長崎~横浜の電信線(陸線)の架設工事に着手した。
  伝信局は、のちの電信局。
  電信線のない当時、電報は、早飛脚で、長崎~横浜を
 7~9日間を要した。
  1871年7月29日、長崎伝信局が、長崎~東京(1368キロ
 メートル)に電信線架設した。
  沿道の各県に4キロメートルあたり、70本の電信柱の
 設置を割りあてた。
  1873年2月17日に、長崎~東京の架設電信回線が完成し
 た。
  あわせて、九州初の長崎電信局が開設した。
1870年9月8日(8月13日)相模(現:神奈川県)城ヶ島の燈
 台が、竣工し点火された。
1870年9月9日(8月14日)工部大学の前身たる工学寮(こう
 がくりょう)、及び、測量司を設置した(1871年説あり)。
  明治新政府は、産業育成に力を入れて、工部省を置い
 た。
  日本の近代工学の理念の移植と定着を図った。
  これから建国していく日本が欲している高級技術者の
 養成機関でもあった。
  工学寮は、工部省に設けられた工業教育機関で、1873
 年、イギリス人教師9名の来日を待って開校した。
  大学と小学に分かれ、大学は土木・機械・電信・造家・
 採鉱・実用化学の6科があった。
  修業年限は、予備・専門・実地教育の各2年の6ヵ年。
  全寮制で、卒業後7年間の工部省奉職を義務とした。
  また、国を創るのに正確な地図が必須だった。
  この広範囲の地図測量を担当したのも、1870年に、民
 部省から独立した工部省が担当した。
  1871年になって、工部省に測量司が設けられた。
  そしてまず、東京府をはじめ、都市の測量から、お雇
 いイギリス人の6名の指導で実施した。
  俸給(月)は、師長400円、助師350円を金貨にて支払
 い、支払日には銀行が出張して来て支払った(そのくら
 い高給だった)。
  そして、生徒も募集され、学校は赤阪溜池に、5棟、
 新築された。
  お雇い外国人の下で仕事をスムースに進めるため、通
 訳と監督役の督役掛を付け、外人の命を伝達して人夫を
 使役し、昼食の世話もさせた。
  2年後には、さらに6名の指導外人を追加した。
  作業は、すべてが順調であったという訳ではなく、意
 見がぶつかった。
  京都の場合、お雇い外人の技量が不足していて、作業
 が遅々として進まなかったことに由った。
  数年後には、優秀な日本人教授が育ち、指導する様に
 なった。
  測量は、伊能忠敬の素晴らしい先人が居た日本で、こ
 の忠敬の曽孫の伊能源六とも関係を持った。
1870年9月9日(8月14日)天文暦道局を星学局と改称した。
  江戸時代に天文方(てんもんかた)という天体運行や
 暦の研究機関があったが、
  この年・1870年に、天文暦道の権限は、文部省の天文
 暦道局に移された。
  さらに、この年の1870年、天文暦道局は東京に移され、
 星学局と改称された。
  星学局には、旧天文方の渋川敬典(しぶかわよしのり、
 江戸幕府の最後の天文方)も任用された。
  敬典は、東京天文台職員にもなった(1838年~1904年)
1870年9月15日(8月20日)大坂~神戸間に電信が開通した。
1870年9月16日、グラバーが、日本の政情不安定で、武器弾
 薬の需要を見込み、大量買付け・・、しかし、
  1870年9月16日に、イギリスの本国政府が、グラバー商
 会に対し、破産を宣告をした。
  日本の騒乱を大きくなると想定したが、予想外の早期
 安定で、武器弾薬が売却できず、負債が数10万弗となっ
 た。
  日本の国情安定が、グラバーを破滅させたことになっ
 た。
  1871年8月に、グラバーは、商会を廃社にした。
  倒産後は、三菱が顧問として、面倒を見た。
  新しい事務所を、神戸につくった。
1870年9月17日(8月22日)東京府下に中学校を開設す。
  華族以下、一般の入学を許す。
  洋書教科書を使用。
1870年10月2日(9月8日)「君が代」が初めて演奏された。
  この日、明治天皇陛下が、東京の越中島で、薩摩・長
 州・土佐・肥前という明治政府を支える4藩の兵を閲兵さ
 れた。
  この日は、あいにく雨で、天皇陛下のお立ち台の近く
 までが水浸しという状態で、式は途中から中止となった
 が、
  この日、天皇陛下をお迎えするのに「君が代」が演奏
 された。
1870年10月13日(9月19日)苗字許可令(庶民苗字差許)
  平民の氏姓を許す(氷川清話)
  平民に苗字使用を許可(四民平等)
  平民苗字許可令が布告。
  一般の「平民」も苗字を持つことが認められる。
  国民(平民)は、政府を信用せず、付けることで余計
 課税されるのではないかと警戒し、あえて苗字を名乗ろ
 うとはせず・・
  そこで、5年後に・・、
  1875年2月13日、太政官布告、「平民苗字必称義務令」
 が布告される。
  国民は、みな公的に苗字を持つことが義務づけられた。
1870年10月19日(9月25日)囚人に、刺青することを廃止
1870年10月19日(9月25日)生糸、輸出品として技術改良
  ヨーロッパ式機械製糸法がはじまる。
  日本は、開国直後、生糸・蚕種・茶などの輸出が、急
 速に伸びた。
  この生糸の輸出拡大の背景に、ヨーロッパにおける生
 糸の生産地であるフランス・イタリアで、微粒子病とい
 う蚕の病気が大流行した。
  しかし、急激な需要の増大は、粗製濫造を招いた。
  そして、日本の生糸の国際的評価は低落した。
  日本製の生糸の価格も下落した。
  この様な頃、外国商人から器械製糸場建設の要望が、
 日本政府に出されていて、資金提供まで申し出されてい
 た。
  この様な背景から、国策として器械製糸工場を建設す
 べきという意見が持ち上がった(インドなどで、欧米な
 どの外国資本が横暴だったことを学んでいる)。
  そして、この年、1870年2月に、外国資本を入れずに、
 器械製糸の官営模範工場建設が決定した。
  富岡製糸場(とみおかせいしじょう)が、群馬県富岡
 に日本初の本格的機械製糸の工場として、1871年3月に、
 着工し、1872年7月に、竣工し、開業した。
1870年10月26日(10月2日)兵制統一布告
  陸海軍の制式が決まる
  陸軍はフランス式、海軍をイギリス式と決定。
  兵制統一、海軍は英式、陸軍は仏式(氷川清話)
  1870年11月5日(10月12日)説もある。
1870年10月27日(10月3日)皇族旗、将旗などの旗章が制定
 される。
1870年10月(9月)官吏の出勤時刻を午前9時と決める
1870年11月11日(10月18日)外国人に東京府下の遊覧を許
 した。
1870年、この年に、牛乳屋が開業した。
  長崎大学医学部の創設者の松本良順(1832年~1907年)
 は、種々の業績を遺しているが、
  番外編となるが、牛乳の滋養効能の良いことから、牛
 乳を飲むことを広く薦めた。
  その啓蒙の仕方も半端ではなかった。
  当時の人気のあった名優の紀伊国屋澤村田之助や、芸
 妓を呼び集めたりして、牛乳を飲ませて話題となった。
  そして、この年の1870年に、良順は、義理の叔父で、
 旧旗本の阪川當晴と、赤坂に「阪川牛乳店」を開いた。
  時代が変わって、元武士が、職が無くて溢れていたこ
 の時、その救済策として、良順は、牛乳屋になることの
 手本を見せた。
  因みに、良順は、海水浴も奨励した。
  大磯の照ヶ崎には、良順によって開かれた日本最初の
 海水浴場がある。記念碑が設置されている。
.
  そして、今日の言葉・・、
  「ピサの斜塔」は、地盤の弱い所に立っているので、
 少しづつ傾きが大きくなっていて、
  対策を講じているが、傾き増大が止まらないので、日
 本の技術に頼ろうと、日本に依頼して来た。
  まだまだ、使って行きたいという意思の表れで、
  日本の技術はその依頼に応えた。
  このピサの斜塔の完成は、1372年。
  644年も使っている。
  ピタゴラスが振り子の実験をしたのが有名。
  こんな昔から使っている。
  「もの」は、大切に使えば、使えるのです。
  それを、NHKは、間違った放送をし続けている。
  耐用年数の洗脳です、マインド・コントロールです。
  NHKの根幹に、渋谷の放送センターを建て替えたい
 があるだけです。
  自分に利があるからと、たった、この事だけで、「大
 嘘を放送し続けているのです」。
  放送センターの耐震が心配なら、耐震診断を受けて、
 耐震補強をしなさい。
  そして、放送センターは大切に使いなさい。
  そして、放送センターを建て替えるからと貯め込んだ
 国民・視聴者の受信料は「返還しなさい」。
  そしてまた、NHKは、自分に都合の良いニュースは
 放送しないこと。
  「○○ビルは、耐用年数が来たから、建て替える様に
 なりました」などと・・、
  都合の良いニュースだけを放送しないこと。
  例えば、渋谷の・・NHKの御近所の話を仕入れて来
 たのか?
  「渋谷の『子供の城』が耐用年数が来たので建て替え
 に決まりました」などと・・、
  自分に都合の良い話を、自前の放送媒体で、全国へ放
 送するのは止めなさい。
  都合の良い、こんな類いの放送ばかりしている。
 マインド・コントロールのニュースばかりしている。
  因みに、法隆寺は1000年以上です。
  しっかりメンテナンスをして、大切に社会資本は使い
 ましょうという放送をしなさい。
  そして、税金を大切に使いましょうと放送しなさい。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
 

2016年2月12日金曜日

(増補版)295E1/3:気になった事柄を集めた年表(1870年4月~1870年8月)

題:(増補版)295E1/3:気になった事柄を集めた年表(1870年4月~1870年8月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1870年4月(3月)女性への授産事業
  東京府が、深川に工作場を設置し、12歳以上の婦女に
 紡績や機織りを教えた。のちの深川授産所。
  授産所:じゅさんじょ、仕事を教えて、仕事を与える
 所。
1870年5月15日(4月15日)水運への展開(玉川上水)
  玉川上水の通船が許可された。
  玉川上水は、1653年に、多摩の羽村から四谷までの43
 キロメートルに渡って築かれた上水のための川であった。
  船による輸送力は、人馬に比べ圧倒的であったので、
 江戸の地元有力者から、何度も、玉川上水を物資運搬の
 ための通船を行ないたいという願いが出されていた。
  江戸時代は、水質悪化を案じた幕府は許可しなかった
 が、維新政府は、税金収入もあり、それを許可した。
  そして、通船の為の工事が、1年程度をかけて急ピッチ
 で行なわれ、そして、通船が始まった。
  羽村から内藤新宿まで、玉川上水を船が往来した。
  これで農産物などの水運が可能となった。
  しかし、補修工事が必要な事にもなって、その費用は
 多大であった。
  またやはり、上水としての用途もあり、その汚染も問
 題となった。
  そして、1872年に、水質汚濁が問題となり禁止となっ
 た。
  以下の記述もある・・、
  舟には荷物や人が乗って、青梅から多摩川を下り、羽
 村の堰を通って、四谷大木戸(新宿)まで1日がかり、
   帰りは、舟に綱をつけて、船子が上水の両側の堤の上
 から引っ張った・・、
  経営者は、村の名主や有力者・・とある。
1870年5月17日(4月17日)東京駒場野の調練場で、在京の
 常備兵による初の天覧演習が行われた。
  明治天皇陛下は、駒場野(現在の東京大学のある所)
 に於いて、親兵諸隊、並びに、在京諸藩の兵で臨時編成
 した連合兵団の1万8千余の演武を御観覧された。
1870年5月22日(4月22日)暦本類を密かに販売するを禁ず
 る。
1870年5月24日(4月24日)種痘の全国実施を施行
  この年、全国に種痘法(方法)を奨励勧告した。
  維新政府は、種痘医の免許制度を定め、痘苗を頒布し
 た。
  そして、これらの推進、及び、医制の確立を目指した。
  この日・1870年5月24日(4月24日)、全国に種痘法(
 方法)を奨励勧告した。
  日本で最初の強制予防接種は、1876年の天然痘予防規
 則に基づく種痘の強制にさかのぼることができる。
  その後、1909年に種痘法(法律)が制定され、種痘の
 徹底が図られた。
  しかし、種痘以外の予防接種の法制化は、1948年(昭
 和23年)の予防接種法の制定をまたねばならなかった。
  第一条:この法律は、伝染のおそれがある疾病の発生
 及びまん延を予防するために公衆衛生の見地から予防接
 種の実施その他必要な措置を講ずることにより、国民の
 健康の保持に寄与するとともに、予防接種による健康被
 害の迅速な救済を図ることを目的とする。
  因みに、この年の1870年~1871年に、ドイツでは、天
 然痘の猛威により100万人以上の人が罹患し、12万人の方
 々が死亡している。
1870年5月30日、雑誌 「The Far East」 が創刊された。
  これは、写真入りの隔週の週刊新聞で、横浜で創刊さ
 れた。
1870年6月3日、勝海舟、東京着。(氷川清話)
1870年6月11日(5月13日) 庚午事変(こうごじへん)
  徳島藩の洲本城代家老の稲田家(1万4千石)は、主家
 である徳島蜂須賀家との間に、様々な確執が以前よりあ
 った。
  因みに、洲本城は、淡路国津名郡(淡路島)にある。
  幕末期に、徳島藩が佐幕派であったのに対し、稲田家
 側は尊王派であり、
  稲田家側の倒幕運動が活発化していくにつれて、徳島
 側との対立をさらに深めていくようになった。
  そして、明治維新の後になって・・、
  徳島藩の禄制改革によって、徳島の蜂須賀家の家臣は、
 士族とされたが、
  陪臣(蜂須賀家の家臣の家臣)である稲田家家臣が、
 卒族とされたことに納得できず、
  自分たちの士族編入を徳島藩に訴えかけた。
  それが叶わないとみるや、今度は、洲本を中心に淡路
 を徳島藩から独立させ、
  稲田氏を知藩事とする稲田藩(淡路洲本藩)を立藩す
 ることを目指した(そうすれば自分たちは士族になれる)
  明治政府にも、独立を働きかけていくようになる。
  稲田家側は、幕末時の活躍により、要求はすぐ認めら
 れると目論んでいた。
  この日・1870年6月11日、稲田家側のこうした一連の行
 動に怒った徳島側の一部の過激派武士らが、
  洲本城下の稲田家と、その家臣らの屋敷を襲撃した。
  また、その前日には、徳島でも、稲田屋敷を焼き討ち
 し、脇町(現在の美馬市)周辺にある稲田家の配地に進
 軍した。
  これに対し、稲田家側は、一切無抵抗でいた。
  これによる稲田家側の被害は、自決2人、即死15人、重
 傷6人、軽傷14人、他に、投獄監禁された者は300人余り、
 焼き払われた屋敷が25棟であった。
  政府は、一部の過激派だけの単独暴動なのか、徳島藩
 庁が、裏で過激派を煽動していたりはしなかったかを調
 査した。
  少なくとも、洲本では、意図的に緊急の措置を怠った
 疑いがある。
  その様な事実が少しでもあれば、徳島藩知事であった
 蜂須賀茂韶を容赦なく知藩事職から罷免するつもりであ
 った。
  当時の日本は、版籍奉還後も、かつての藩主が、知藩
 事となっているだけで、旧体制と何ら変わらない状態だ
 った。
  政府にとって、この問題は、中央集権化を推進してい
 く上で、是非とも克服してゆかねばならなかった。
  だが、下手な手の付け方をすれば、日本中に反政府の
 武装蜂起が起こりかねないため、慎重な対応を余儀なく
 された。
  結局、政府からの処分は・・、
  徳島側の主謀者・小倉富三郎・新居水竹ら10人が斬首
 (後に蜂須賀茂韶の嘆願陳情により切腹になった、日本
 法制史上、最後の切腹刑)。
  八丈島への終身流刑は27人、81人が禁固、謹慎など多
 数に至るに及んだ。
  知藩事の茂韶や参事らも、謹慎処分を受け、
  藩自体の取り潰しはなかったものの、
  洲本を含む津名郡は、翌・明治4年(1871年)5月に、
 兵庫県に編入された。
  稲田家側に対しては、この事件を口実に、北海道静内
 と色丹島の配地を与えるという名目で、兵庫県管轄の士
 族として移住開拓を命じられ、稲田家の家臣らは、荒野
 の広がる北の大地へと旅立っていった。
1870年6月12日、勝海舟、願により本官を免ず、東京滞在
 仰せ付けらる。(氷川清話)
1870年6月13日(5月15日)陸軍旗章、及び、その他、諸旗
 章を制定した。
1870年6月15日(5月17日)北海道への入植
   1874年(明治7年)に屯田兵制度が設けられ、1904年
 (明治37年)まで続いた。
  北海道への入植を見るために、札幌の入植の歴史を見
 ると、
  札幌の中心部に最初に入植したのは志村鉄一、吉田茂
 八という人で、1869年(明治2年)の開拓使が設置される以
 前に、
  札幌の周辺では、1860年(万延元年)荒井金助の荒井村、
  1866年(慶応2年)、大友亀太郎の札幌村を始め、発寒、
 琴似、篠路、などの村が開かれ、農業が営まれていた。
  開拓使設置後の1870年(明治3年)には、苗穂、丘珠、円
 山、札幌新村に入植が始まった。
  また、屯田兵の入植については・・、
  1875年(明治7年)、最初の屯田兵が、琴似に入植、
  続いて1877年(明治9年)、山鼻屯田兵、
  1887年(明治20年)、新琴似屯田兵、
  1889年(明治22年)、篠路屯田兵が入植、
  屯田兵制度が廃止される1899年(明治32年)まで、札幌
 には、4つの屯田兵村が開村した。
1870年6月(明治3年5月)京都府から留守官が宮中に移され
 た。(注)留守官:りゅうしゅかん、るすかん、
  京都では、京都御所を後に残して、
  明治4年(1871年)までに刑部省・大蔵省・兵部省など
 の京都留守・出張所が次々に廃され、
  中央行政機関が消えていった。
  また、留守官は、明治3年5月に、京都府から宮中に移
 され、
  同年12月に、京都の宮内省に合併、
  明治4年(1871年)8月23日には廃され、東京への首都
 機能の移転が行われた。
1870年7月6日(6月8日)東京に小学校の開校の布達
  そして、7月10日に、東京府に小学校を6校設置した。
 (お寺の中に小学校。寺子屋 → 寺小学校)。
  第一校 芝 増上寺源流院 (のちの鞆絵小学校)
  第二校 市ヶ谷 洞雲寺 (番町小学校)
  第三校 牛込 万昌院 (愛日小学校)
  第四校 本郷 本妙寺 (湯島小学校)
  第五校 浅草 西福治 (育英小学校)
  第六校 深川 長慶寺 (深川小学校)
1870年7月7日(6月9日)東京府で、男女混浴が禁止された。
  ペリーに、日本人は、他の東洋国民に比し、道徳心が
 はるかに優れているにもかかわらず・・と言われ、なの
 に、混浴は淫蕩だと言われている。
  明治政府は、この様な事からも混浴禁止令を出した。
  現在でも行われている家族風呂も駄目だったのか?・
 ・これは不明。
  (西洋の蒸し風呂は混浴だったのでは・・?)。
  ローマ時代は混浴であった。十字軍もこれ。
  イギリス人は風呂に入らなかった(チューダー朝)。
  中世の西洋は風呂に入らないのが普通。
  体臭を消すために香水が発達した(上流階級)。
  アメリカ人は朝にシャワーをするだけ、夜、風呂に入
 る人はいない(朝シャワーだけ)。
  アメリカ人のバスタブ使用率は、月1回が30%。ほとん
 どの人が年に1回、もしくは、前回使ったのがいつか不明
 という人。
1870年7月8日(6月10日)樫野埼灯台が点灯した。
  石造の灯台、樫野崎に竣工。
1870年7月10日(6月12日)東京府下に小学校6校を設置した。
1870年7月21日(6月23日)前島密(まえじまひそか)が、
 西洋諸国の郵便事業の視察のため、横浜を出帆した。
  切手になった人、幕臣だった。
  維新後に、新政府に出仕し、郵便創業を建議した。
  そして、渡英し、郵便制度を調査した。
  明治4年に、イギリスから帰国し,駅逓頭(えきていのか
 み)となり近代郵便制度の確立につとめた。
1870年7月、薩摩藩士・横山安武(よこやまやすたけ)、集
 議院にて諌死す(氷川清話)
  諌死:かんし、死んでいさめること。また、死を覚悟
 していさめること。
  明治3年(1870年)7月、時弊10箇条を挙げた書を集議
 院門扉に公示し、津軽藩邸前で屠腹(とふく、割腹)し
 て果てた。
  その建言は、上に達することはなかった。
  安武は、当時さかんに論じられていた征韓論に対して
 は「ただでさえ国内が疲弊しているときに、征韓などで
 きるはずがない」という見解をもっており、その自決に
 は征韓論に対する抗議の意味があった。
1870年8月16日(7月20日)小松帯刀(こまつたてわき)が
 病により大坂に没した(享年36歳)
  薩摩藩士、西郷隆盛と共に、木戸孝允らとの間で薩長
 同盟を結ぶ。
  また、西郷、大久保利通と共に後藤象二郎との間に薩
 土盟約を交わした。
  維新後は、新政府の総裁局顧問などに就任し、大久保
 らと版籍奉還も画策した。
1870年8月19日(7月23日)弘文・淳仁・仲恭の三天皇に追
 諡(弘文 ・淳仁 ・仲恭天皇が天皇系譜に追加)(7月説
 あり)
  諡:し、おくりな、帝王などの貴人の死後に奉る、生
 前の事績への評価に基づく名のこと。
1870年8月24日(7月28日)普仏戦争に日本は中立を宣言す
 る(局外中立を宣言)。
  普仏戦争は、プロシア=フランス戦争とも言われ、ま
 た、独仏戦争とも言われる。
  ドイツ統一を目指すプロセインと、それを阻止しよう
 とするフランス・・、
  スペイン王位継承問題をきっかけに、プロセインの徴
 発にフランスは引っかかって開戦した。
  ビスマルクが率いるプロセインが圧勝した。
  ナポレオン3世は、セダンの戦いに敗れ、同地で降伏し、
 退位した。
  ナポレオン3世は、この戦いの前に行ったメキシコ遠征
 が失敗していて、フランス国内の政情が不安の状態に陥
 っていた。その名誉回復を狙って開戦した。
  最初から、勝つ見込みは低かった、しかし、ドイツが
 統一し、強大なドイツが成立するのも怖かった。
  また、ドイツ西部の領土獲得の野望も、プロセイン・
 オーストリア戦争でプロセインが勝利して挫折していた
 こともあった。
  フランスは強国になりたかった・・が、失敗した。
  そして、ドイツが勝利し、統一を果たした。
  阻止しようとしたフランスの自業自得か・・?
  ナポレオンをフランス世論が煽り立てたのにも罪があ
 った。勝てると思った。
  そして、宣戦布告した。
  しかし、北ドイツ連邦の諸邦も、またさらに、南ドイ
 ツの諸邦までもが、プロセインに味方した。
  ドイツの先制攻撃はすごかった。各地でフランス軍を
 撃破(この後の時代も、この歴史は繰り返すが・・)
  フランスは、7月19日に宣戦布告したと思ったら、9月
 1日には、壊滅的な打撃を受けて降伏してしまった。
  ナポレオン3世は、8万3000の将兵と共に捕虜になって
 しまった(セダンの戦い)
  そして、ナポレオン軍が破れたことを知ったフランス・
 パリでは、降伏の3日後の9月4日に、労働者が蜂起し、帝
 政が打倒され、共和制が宣言され、第三共和政が成立へ。
  敗れたフランスは、アルザス・ロレーヌを割譲させら
 れ、また、50億フランの賠償金支払いとなった。
.
  そして、今日の言葉・・
  アメリカの「エンパイア・ステート・ビルディング」
 が、竣工したのが1931年4月11日。
  建てられてから85年が経っている。
  日本のよく言う耐用年数的には、完全に「アウト」。
  NHKは、自分の渋谷の放送センターを建て替えたい
 から、
  どこから聞いてきたのか?
  「建物は○○年、橋は△△年」と自前の放送媒体を使
 って、日本中に洗脳放送をしている。
  (まったく罪作りな放送だ)
  メンテナンスをしっかりすれば、しっかり使えるもの
 なのです。
  渋谷の放送センターも、大事に使いなさい。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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2016年2月10日水曜日

(増補版)294E1/3:気になった事柄を集めた年表(1870年1月~1870年4月)

題:(増補版)294E1/3:気になった事柄を集めた年表(1870年1月~1870年4月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1870年1月3日(明治2年12月2日)禄制改革(ろくせいかい
 かく)・・この時は、徳川幕府の家臣・旗本を対象とした。
  禄制を定め藩士の俸禄を削減した。
  版籍奉還のとき、藩主の家禄は、藩の実収高の10分の1
 に定められたが、
  藩士の家禄については、財政困難のため1~2回の禄制
 改革を行なって変更(多くは削減)された。
  改革のやり方は、禄制の階層を簡素にし、単純化した。
  結果的に、上士層が大きく(20~50%)削減され、中・
 下士層は加増(10~20%程度)となった。
  当時、この層が主導権を握っていたこともあった。
  この禄制は廃藩まで変化することなく、
  そして、これは、後の秩禄処分はこれを基準として実
 施された。
  徳川家家臣だった旗本の場合は、この時の1869年12月、
 禄制が布告され、すべて旧来の知行制を廃し、21等級、
 および、等外に分けて、家禄を定め、現米で支給される
 ことになった(大きく削減された)。
  1871年には、禄高人別帳が作成されるなど、多元的で
 あった家禄の支給体系の一律化が進んだ。
  禄制改革をはじめとする政府の政策に対しては、反対
 意見も存在し、
  農民一揆なども勃発していた。
  また、政府では、旧薩摩藩士で参議の西郷隆盛らが朝
 鮮出兵を巡る征韓論で紛糾したおり、薩摩士族の暴発を
 予防策として、家禄制度を維持しての士族階級の懐柔を
 行うべきであるとする意見も存在した。
1870年1月3日、勝海舟、徳川家達より使いをもって退身を
 止められる(氷川清話)
1870年1月18日(12月17日)大学校を大学、開成所を大学
 南校、医学校を大学本校と改称した。
1870年1月22日(12月21日)安房の野島崎に西洋式燈台竣工
 点火する。
  相州観音崎燈台に次ぐ西洋式燈台だった。
1870年1月25日(12月24日)外務大臣・丸山作楽(まるやま
 さくら)など、樺太にてロシア代表と日露境界を談判(
 容易に決せず)
  因みに、作楽は、明治4年に征韓論に同調して、投獄さ
 れた。
  また、明治15年には、立憲帝政党を組織した。
1870年1月26日(12月25日)東京~横浜間に電信開通
  1969年10月23日(明治2年9月19日)に、東京~横浜間
 の電信線の設置工事が始まり、
  そして、この日に、東京~横浜間電信が開通した。
  そして、伝信局を置き、通信規則・料金を定め、公衆
 電報の取り扱いが開始された。
  この後、数年で、電信網は全国に張り巡らされた。
  明治2年(1869)に、横浜灯明台役所と、横浜裁判所の間
 の約800メールに、我が国最初の電信線が架設された。
  そして、その後のこの日の・・、、
  1870年1月に、東京~横浜間が開通した。
  1873年3月(明治6年2月)には、東京から長崎に達し、
  また、東京以北の青森に至る幹線は、1875年4月(明治
 8年3月)に竣成し、電信線路網は全国へ広がった。
1870年2月3日(明治3年1月3日)大教宣布の詔(だいきょ
 うせんぷのみことのり)
  天皇陛下に神格を与え、
  神道を国教と定めて、日本を祭政一致の国家とする国
 家方針とした。
1870年2月5日(1月5日)徳川慶喜以下旧幕臣の罪を宥す
1870年2月17日(1月17日)最初の陸軍始(観兵式)
  明治天皇陛下が、宮城内旧本丸跡にて鎮台兵を閲兵さ
 れた。
1870年2月27日(1月27日)日章旗が国旗となる(商船規則)
  国旗、日の丸のサイズ制定される。
  商船に掲げる国旗に、日の丸を制定し、布告した。
  明治政府が、太政官布告(第57号)を以て、国旗のデ
 ザインや規格を示し、日章旗を「御国旗」として規定し、
 日本船の目印として採用した。
1870年2月、本木昌造が、長崎製鉄所の頭取の職を辞した。
1870年3月、本木昌造が、長崎製鉄所の頭取を辞し、長崎の
 新町に新町活版所を創設した。
  私学校「新街私塾」の経費を賄う目的も、日本最初の
 民間活版所で、活字鋳造と印刷事業を始め、近代日本の
 印刷技術発展の基礎がつくられた。
  そして、新町活版所にて、日本活字号数制を確立した。
   和文活字の大きさは、ウイリアム・ガンブルの考案し
 た号数活字のシステムを参考にした「号数制」が基本。
  ガンブルは、スモールパイカ(11point)を5号活字と
 するが、11pointに相当する日本の尺度、鯨尺の1分をあ
 てた。
1870年3月4日(2月3日)イギリスから蒸気消防ポンプを、
 東京府消防局が輸入した。
  因みに、日本の消防車が赤であるのは、1911年に、大
 阪市が輸入した消防車が赤色であったため・・、
  1951年に、道路運送車両法保安基準によって、消防自
 動車は、朱色であることが法律上で定められた。
  また、因みに、アメリカは、各消防局ごとに色が異な
 っている。
  アメリカ合衆国のタコマ市は黄緑色。
1870年3月14日(2月13日)樺太開拓使が設立された。
  樺太開拓使を置き、1870年6月には、黒田清隆(くろだ
 きよたか)が、開拓次官に任ぜられ、樺太専務を命ぜられ
 た、
  そして、開拓費を金12万両、米5000石と定めて、クシ
 ュンコタンに庁舎を置いて、農作物の試作を行なった。
  また、漁場を官営で行ったりした。
  そして、移民の誘致などを試みた。
  しかし、十分な成果はあがらなかった。
  ロシアの方が、盛んに植民経営をして、押されがちだ
 った。
1870年3月16日(2月15日)大阪造幣寮(現在の造幣局)開
 業。
1870年3月19日(2月18日)新橋駅~横浜駅間(現:桜木町
 駅)の鉄道を着工した。
  1872年10月14日(明治5年9月12日)に開業した。
  全線:29キロメートル。
  この日、開業式典が新橋駅で催され、明治天皇陛下の
 お召列車が横浜まで往復した。
  翌・10月15日から全線の正式営業を開始し、列車本数
 は、1日に9往復であった。
  全線の所要時間は53分。速度:32.8km/hだった。
  開業の日をさかのぼること1872年6月12日に、仮開業と
 いう形で、列車が2往復、運行されている。
  翌・6月13日には、6往復がなされた。
  途中の駅は設けられてなかった。
  欧米では、開国してわずかな期間に、鉄道を運行した
 日本に対し、驚嘆の声が上がった。
  (誇るべき日本の影の実力だった・・わずか数年で・・)。
  歴史家のアーノルド・トインビーは、「人類の歴史の
 奇跡の一つは、日本の明治以降の近代化である」と述べ
 た。
  因みに、アーノルド・トインビーは、ロンドン生まれ
 の、オクスフォード大学卒、キングス・カレッジ・ロン
 ドンの教授・王立国際問題研究所理事など歴任した、著
 名な欧米中心の歴史観ではない歴史学者である。
  日本の鉄道技術は、目覚ましい発展を遂げ、この開業
 からわずか30年余りで、7000キロメートルを突破する鉄
 道網を日本国内に築いた。
  今なお、新幹線やリニアモーターカーの技術へとその
 技術は継承され、花が咲き続け、伝統技術となっている。
  また、日本の誇るべきは、韓国や朝鮮半島にも、また、
 台湾、そして、中国の国内など、日本国内と同等に、差
 別することなく、鉄道網を構築した。
  ヨーロッパへつなげるという大局的な夢を掲げて、鉄
 道網を造って行った功績も誇るべきである。
  欧米の列強の搾取だけの態度・行動とは、まったく正
 反対だった。 
1870年3月21日(2月20日)京都諸藩兵を兵部省支配に管す
 る。
1870年3月22日、勝海舟、太政官より草々出京致すべき旨
 御達しあり。(氷川清話)
1870年3月25日、勝海舟、母信子逝く静岡豊田村蓮永寺に
 葬る(氷川清話)
1870年3月、勝海舟、再度御達示あり静岡発(氷川清話)
  因みに、この時、勝海舟は47歳。
  勝海舟は、1899年(明治32年)に75歳で没している。
1870年3月(2月)華族のお歯黒と眉描きを禁止した。 
1870年3月(2月)ドイツ医学の採用を決定。
  この「ドイツ医学採用」までには、イギリス医学が良
 いという意見との間で激論が戦わされた。
  ドイツ医学を推薦したのは、佐賀藩医の相良知安だっ
 た。
  イギリス医学を推薦したのは、新政府内の西郷隆盛や
 山内容堂などだった。
  二人は、戊辰戦争の傷病兵の治療で、イギリス人医師
 のウイリスに恩義があった。
  また、当時の医学の流れは、漢方からオランダ医学へ
 進み、さらにイギリス医学への流れだった。
  しかし、知安の知識は確かだった。
  知安は、ドイツ医学こそが世界最高水準であり、日本
 のとるべきは「ドイツ医学だ」との確信があった。
  その裏付けは、(1)オランダ医学書は、ドイツ医学
 書の翻訳が大半(オランダ医学はドイツ医学の焼き直し)
 で、当時のドイツ医学は、基礎医学で世界的発見が相次
 ぎ、発展していた。
  (2)大学南校学監の先人も「ドイツ医学が世界に冠
 たるもので、日本はドイツを範とすべき」と先見の明を
 示していた。
  (3)日本とドイツは、国情・民族性などに類似性があ
 るなどだった。
  ・・などの激論の末に、知安の論理に、新政府も理解
 を深めて行き、正式決定となった。
1870年4月5日(3月5日)東京湾最初の灯台、品川第二砲台
 に竣工した。
1870年4月10日(3月10日)続いて、品川第四砲台にも灯台
 を竣工した。
1870年4月15日(3月15日)我が国初の靴工場が着工(伊勢
 勝造靴場)
  西村勝三が、築地に伊勢勝造靴場を設立。日本初の西
 洋靴工場。
1870年4月17日(3月17日)人力車の営業許可願が提出され
 た(人力車の発明)。
1870年4月17日(3月17日)東京築地の尾張邸跡に、鉄道敷
 設事務局が設置される。
1870年4月22日(3月22日)和泉要助発明の人力車に営業許
 可出た。
  和泉要助、鈴木徳次郎、高山幸助らが、人力車業を開
 業、東京府に、人力車の製造と営業の許可を得る。
  拠点は日本橋。
1870年4月23日(3月23日)外債の初め(5月23日説あり)
  鉄道敷設費のため、英国人より九分利附公債480万円を
 募る(外国公債募集の始)
   日本政府が発行した最古の外債は、1870年4月23日(
 明治3年3月23日)に、ロンドンで出された新橋駅~横浜
 駅間の鉄道建設費用を捻出する為の9分付英貨国債100万
 ポンド(当時の相場で488万円相当)と、
  1873年に出された、秩禄処分の費用を捻出するための
 7分付英貨国債240万ポンド(当時の相場で1,171万円相当)
 であった。
.
 そして、今日の言葉・・
  減税策が採用できないなら・・、
  減税の景気刺激策が採(と)れないなら・・、
  約束のNHK受信料の3%値下げを実施せよ!
  NHK受信料の国民への、視聴者への3%返還分を、
 返還実施せよ!
  NHKは、金を貯め込むな!
..
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2016年2月8日月曜日

(増補版)293E1/3:気になった事柄を集めた年表(1869年9月~1870年1月)

題:(増補版)293E1/3:気になった事柄を集めた年表(1869年9月~1870年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1869年9月14日(8月9日)デンマークに注文の電信敷設用の
 諸機械が、横浜に到着した。
1869年9月17日(8月12日)民部、大蔵の二省合併される。
1869年9月18日(8月13日)医学校(東京大学医学部の前身)
 において最初の人体解剖行われる。
1869年9月19日、平民に姓(氏)の呼称を許可する(苗字使
 用の許可)
1869年9月20日(8月15日)蝦夷地を北海道と改称した。
  蝦夷地を北海道と改称し、11か国86郡を置いた。
  当初、開拓使は、直轄地以外の経営を水戸・佐賀など
 の諸藩や、東京府、兵部(ひょうぶ)省などに割り当てる
 分領開拓の方式を採用したが、
  全道の統一的開拓が困難なため、1871年8月までに、す
 べて開拓使の直轄となった。
  なお、樺太(からふと)と改称された北蝦夷地には、ロ
 シアとの関係が緊迫化したため、1870年2月、開拓使の管
 轄から外れて樺太開拓使が置かれ、
  開拓次官・黒田清隆(きよたか)が、その専務となった
 が、翌年の1871年8月に、北海道開拓使に併合された。
  開拓次官の黒田は、就任直後に、道内および樺太を巡
 視した。
1869年9月25日(8月20日)明治新政府が、東京市内の地所
 約916万6770坪を民間に払下げを行う。
  一坪の売価が、1銭5厘~2銭5厘(現在の価格に換算す
 ると150円~250円相当)
  新政府は、旧幕府側の大小名屋敷や旗本屋敷等の一切
 の土地を、政府へ返還せしめたため、広大な空地が生じ
 た。
  そこで、桑や茶を植えたり、あるいは畑にした方が好
 いだろうということで、民間に払下げを許す事になった。
  政府は、いつまでも空地のままで放って置けないので、
 日比谷を練兵場にしてみたり、
  その他の地所は、富豪に勧めて、
  ほとんど、半ば強請的に千坪二千坪と区切って買取ら
 せ、着々と処分を進めた。
  明治初年には、地所を買っても、そのまま畑にもしな
 いで、板塀で囲ったまま、草茫々たる空地があちらにも
 こちらにも沢山見られた。
  今の東京駅前辺りは、三菱ヶ原と呼ばれ、停車場が建
 てられる直前まで、草原のままで放任され、
  その草深い中に他殺死体が発見されたという、今から
 考えると嘘のような事もあった。
  明治維新以来の東京は、茫漠たる原野と化し、日暮か
 ら通る者も無い、往古の武蔵野に還ったような情態であ
 った。
  明治23年、陸軍省でも、東京の空地を持余して、渋沢、
 大倉、岩崎、三井等の富豪を招き、懇談的に払下げの相
 談に及んだところ、誰一人引受手が無く、
  結局、岩崎家が貧乏くじを引いたつもりで、10万坪を
 坪5円当りで(50万円)背負い込む事になった。
  荒地のままで放っておいたが、明治27年に漸く二重橋
 前通りの正面中通りに、唯一軒、初めて赤煉瓦の西洋館
 が建てられた。
1869年9月30日(8月25日)菊花御紋章の制定められる。
  十六八重表菊が、日本の天皇陛下、および、皇室を表
 す御紋章で、俗に菊の御紋とも呼ばれる。
  太政官布告をもって、この年に制定された。
1869年9月、農民一揆、各地で頻発(新潟、仙台、南部、高
 山、福江、松江、長崎、飯田、高崎、郡上、甲府、延岡
 など)。世情不安(氷川清話)
1869年、軍楽隊の初め(薩摩藩)。
  最初の近代軍楽隊は、1869年(明治2年)薩摩藩が、イギ
 リス海軍軍楽隊長・フェントン(生没年不詳)の指導を受
 けて編成した薩摩藩軍楽隊である。
  1871年に、陸・海両軍に軍楽隊が誕生した。
  この時に発足した兵学寮教導隊軍楽隊が、後の陸軍戸
 山学校軍楽隊で、演奏活動のほか、軍楽教育機関も併せ
 もった。
1869年10月、イギリス人フェントンが、薩摩藩の依頼で軍
 楽隊の皇礼式曲として「君が代」を作曲した。
  1869年(明治2年)に設立された薩摩バンド(薩摩藩軍
 楽隊)の隊員に対し、イギリス公使館護衛隊歩兵大隊の
 軍楽隊長のジョン・ウィリアム・フェントンが、国歌、
 あるいは、儀礼音楽を設けるべきと進言し、
  それを受けた薩摩藩軍楽隊隊員の依頼を、当時の薩摩
 藩歩兵隊長である大山弥助(後の大山巌、日本陸軍元帥)
 が受け、
  大山の愛唱歌である薩摩琵琶の「蓬莱山」より歌詞が
 採用された。
1869年10月8日(9月4日)兵部大輔・大村益次郎、京都で襲
 撃される。
  翌4日夕刻、大村は、京都三条木屋町上ルの旅館で、長
 州藩大隊指令の静間彦太郎、および、大村の鳩居堂時代
 の教え子で伏見兵学寮教師の安達幸之助らと会食中、
  元長州藩士の団伸二郎、同じく、神代直人ら8人の刺客
 に襲われた。
  静間と安達は死亡。
  大村は重傷を負ったが、1869年12月7日(旧暦11月5日)
 に死亡した。
1869年10月18日(9月14日)オーストリアと通商航海条約
 調印
1869年10月22日(9月18日)東京築地に、海軍操練所を開所
 (海軍兵学校の前身)
  海軍操練所の流れは・・、
  江戸時代末期の幕府の海軍教育機関を元治1年 (1864年)
 5月神戸に開設 → 翌年・1865年廃止 → 明治初年の
 海軍軍人養成所。海軍兵学校の前身 → 明治2年 (
 1869年) 9月、東京築地に兵部省が設置した。
1869年10月23日、東京~横浜間に国内初の電信線が着工(
 6月19日説あり)
  12月25日、公衆和文電報の取り扱いが始まる。
  日本の電信による通信の初め:
  1854年のペリーの2度目の来日の際に、米国大統領ミラ
 ード・フィルモアから、江戸幕府へ1/4サイズの蒸気機関
 車と共に贈られた「エンボッシング・モールス電信機」
 によるものであった。
  エンボッシング・モールス電信機は、受信側で信号が
 紙テープへ記録されるもので、この電信機のセットで約
 1マイル(1.6km)の電線を用いて送信された。
  この時の電文は、「YEDO, YOKOHAMA」(江戸、横浜)で
 あった。
  その後、幕末の混乱の中で、電信の普及は無かったが、
 明治維新後の1869年(明治2年)に、英国の通信技師を招
 き、横浜燈台役所と横浜裁判所の間に、電信回線が敷設
 され、ブレゲ指字電信機(モールス信号ではなく針で文
 字を指す方式)による通信が始まった。
  同年中には、東京~横浜間で電信による電報の取り扱
 いが始まった。
  明治政府は、電信網の重要さを認識しており、整備に
 力を入れた。
  東京・横浜間の電報の取り扱いが開始されてから、数
 年で、電信網は、全国に張り巡らされた。
  この電信網は、1877年(明治10年)の西南戦争におい
 ても活用され、政府軍の勝利に貢献した。
  因みに、ブレゲ指字電信機は、時計のような形をした
 電信機で、送信したい文字に針を合わせると、受信側で
 も同じ文字を指してメッセージを送信するという仕組み。
  モールス信号は、文字と信号を覚える必要があったが、
 ブレゲ指字電信機は、その必要がなく、誰でも扱うこと
 ができた。
  しかし、ブレゲ指字電信機には、1秒間に5~6文字程度
 しか送れない、通信線の敷設に多額な費用がかかるなど
 の欠点があった。
  そのため、多くの文字を送ることができ、通信線の敷
 設費用が安いモールス信号へと置き換わっていった。
1869年10月(明治2)、ばんどり騒動
  越中国新川郡で,加賀藩の厳しい封建支配に反抗して
 起こった農民一揆。
  同年は、大凶作であったが、加賀藩は、貢租の徴収を
 強行した。
  新川郡の農民たちは、10月,塚越村忠次郎を発頭人と
 し、貢租徴収の公正、農村役人(徴税機関)である十村(
 とむら)・同手代・惣代肝煎の公選、貢租減免、物価引下
 げなどを要求して蜂起した。
  ときに晩秋で、数万の農民たちはばんどり(蓑)をまと
 って集結したので,この呼称がある。
  農民騒擾(のうみんそうじょう)・・、
  王政復古により成立した明治維新政府の旧体制下と変
 わらぬ政策に対し、
  「御一新」の幻想を破られた農民は、各地で反対一揆
 を展開した。
  とくに1869年(明治2)には、大きな高揚がみられ、政
 府に動揺を与えた。
  このあと、71年7月の廃藩置県以後の学制(72年8月)、
  徴兵令(同年11月)、地租改正(73年7月)を中心とし
 た一連の諸政策に対して、農民一揆はふたたび高揚を示
 すことになる。
  とくに73年は、学制・徴兵令への反対を中心とする一
 揆の激発により、一つのピークを形成した。
  この高揚は、地租改正事業の進展のなかで、地租改正
 反対一揆へ受け継がれていった。
  他方政府は、先進資本主義諸国の圧力に促されて資本
 主義的生産様式を採用すべく、
  殖産興業政策のもとに鉄道・電信・電話の敷設、鉱山
 の官収などを進めた。
  これらの諸事業に対しても、それに反対する電信・鉱
 山騒擾が激烈な形態で爆発した。
1869年11月4日、明治期のベストセラー筆者・福沢諭吉は、
 コピーライト(著作権、複製権、版権、Copyright)を
 「版権」と訳すなど著作権にも詳しかった。
  自費で出した『西洋事情』『世界国尽』『学問のすす
 め』などの海賊版まで出たため、たまりかねて大阪府知
 事に取締要望書を出した。
1869年11月5日(10月2日)政府が、海軍はイギリス式、陸
 軍はフランス式と定めた。
1869年11月10日(10月7日)庶民の西洋型船舶の所有が許
 された。
1869年11月23日、勝海舟、兵部大丞仰せ付けられる。
  即日辞退の旨述ぶ。未だ命を得ず(氷川清話)
1869年11月25日(10月22日)西周、兵部省に出仕(以後、
 陸軍軍制の整備・軍人勅諭の制定などに参画)
1869年11月26日(10月23日)無提灯の夜行を禁止
  ガス灯が、日本に点火したのは明治5年だった。
  場所は、横浜の外人居住区、これが最初だと言われて
 いる。
  次に、明治7年、東京の芝の金杉橋から京橋までの表
 通りに85基が点火した。
  ガス灯は、文明開化の象徴として、大歓迎された。
  やがて、浅草まで伸びた。
  しかし、ガスの供給ができなかった
  浅草では、ガス灯と同じ形の街灯を立て、中に石油ラ
 ンプを点火して、ガス灯と呼んだ様だ。
  明治11年になると、銀座に点火された。
  アーク灯が、わずか数年で白熱灯に代わったのに比べ
 て、ガス灯の方は、大正の大震災まで灯し続けられた。
  ガス灯の燃える明かりが、アーク灯より日本人の情緒
 に合っていたものと考えられる。
  紫舟は・・
  蒸暑く 閉じたる部屋の 瓦斯の灯に 
            検温器見る 夏の夕暮れ
  ・・とうたっている。
  ガス灯が、室内に使われたのは、明治16年の鹿鳴館が、
 最初のようである。
  一般の家庭に使われたのは、東京ガス会社が設立され
 て、配管工事が行われるようになった明治20年以後のこ
 と。
  しかし、この方は、ランプほどの普及はなくて、やが
 て電灯に取って代わられた。
1869年12月、稲葉騒動(いなばそうどう)
  稲葉騒動とは、明治2年(1869年)12月に、西尾張地域
 一帯(稲沢・尾西・一宮・津島の133村)で起こった大規
 模な農民一揆。
  発端が、美濃路の稲葉宿であったことから、稲葉騒動
 と呼ばれた。
1869年(明治2年)12月1日、大楽源太郎(だいらくげんた
 ろう)率いる奇兵隊が乱を起こした。
  大楽源太郎は、1869年(明治2)、政府の国民徴兵制に
 反対し、
  兵部大輔(ひょうぶたいふ)大村益次郎(ますじろう)の
 暗殺事件に関係ありとして、幽閉されたが、脱走した。
  ついで、藩の脱隊騒動を指導したとして探索を受け、
 翌年九州日田県の農民一揆(いっき)を指導し逃走中、久
 留米(くるめ)で暗殺された(1832年~1871年)
  別史料には、1869年(明治2)の諸隊脱隊騒動に参加して
 敗走し、九州で再起を図ったが,潜伏先の久留米藩によ
 って暗殺された・・とある。
1869年12月6日(11月4日)海軍操練所を海軍兵学寮、
 大阪兵学寮を陸軍兵学寮と改称
1869年12月6日(11月4日)大阪造幣寮(後の造幣局)が火
 事になった。
  この造幣寮の権判事・斎藤弥九郎は、この時、72歳の
 老齢であったが、
  さすがに、幕末に鳴らした剣道の指南役だけあって、
 六男の六郎之助を従えて、真先に駆けつけ、
  狼狽して騒いでいる使用人に、「倉庫の重要書類を出
 したか?」と尋ねた。
  使用人が、「アッ、うっかりしておりました」という
 のを聞くと、
  手桶の水をザブリと頭から被って、阿修羅のように、
 火炎の中に飛び込んで行った。
  六郎之助も、父に負けじと、同じ様に水を被ってその
 後に続いた。
  斎藤父子の命懸けの働きで、重要書類だけは、無事に
 取出せたが、そのため、二人は、大火傷を負って病院に
 担ぎ込まれた。
  造幣頭の井上馨が、病院に見舞いに来て、源九郎の手
 を固く握って、「あんたは、明治の大川友右衛門じゃ」
 と言って、感激の言葉を述べた。
  ちなみに、大川友右衛門は、講談『細川血達磨』で猛
 火中に飛込み、お家の重宝を割腹した腹中に収めて全う
 したという美談の主。
  斎藤弥九郎は、幕末の剣豪で、神道無念流の達人、千
 葉周作(北辰一刀流)や、桃井春蔵(鏡新明智流)とと
 もに三傑と称された程の人物だった。
  江戸の飯田町に、練兵館という道場を開いて、盛んに
 少壮志士の腕を磨いた。
  長男の新太郎(二代目弥九郎)、木戸孝允を始め、楠
 本正隆、渡邊昇ら、後の、明治新政府の大官達多数が、
 この道場から輩出した。
  かっては、彰義隊一党が、彼を迎えて党首にしようと
 した。
  しかし、彼は、順逆の大義を説いて、断然これを刎ね
 つけた。
  明治政府となって、道場も賑わなくなったが、間もな
 く、大阪造幣寮の権判事に用いられた。
  なお、火傷の方は平癒したが、高齢のため東京に帰り、
 1871年(明治4年)、火事から約2年後、病気により没す。
1869年12月7日、勝海舟、帰省願の上、静岡に帰る(氷川清
 話
1869年12月7日(11月5日)大村益次郎、逝く
  大村益次郎が没した(1824年~1869年)(46歳)
  1869年10月8日(9月4日)に襲撃され、手術を受けるも、
 旧暦11月1日に至り、敗血症による高熱を発し、容態が悪
 化した。
  この年(1869年)兵部大輔となり、兵権の中央政府へ
 の統一をはかったが、その急進的な兵制改革は、守旧士
 族の反感を招き、神代直人らに京都で襲われて重傷を負
 い、大阪病院で死んだ。
  事実上の日本陸軍の創始者と言われる。
  賊、大村益次郎を殺す(氷川清話)
1869年12月12日(11月10日)政府、鉄道布設のことを決議
 する。
1869年12月12日、勝海舟、徳川へ退身書を差出す。これは
 逸民でありたいことを乞う為である。(氷川清話)
  逸民:いつみん、俗世間を逃れて、隠れ住む民。
1869年12月21日(11月19日)金銀銅の自由貿易を禁ず。
1869年、東京・大阪などに、通商会社・為替会社が開業し
 た(株式会社、発券銀行の起こり)
  明治政府の殖産興業政策推進を目的に通商司(勧商、
 産業政策担当の政府機関)の監督下に、通商会社ととも
 に設立された、日本最初の株式会社。
  その任務として、幣制整備、民間融資とあわせて、商
 業、貿易を担う通商会社に信用を与えることが期待され
 た。
  政府は、三井、小野、島田などの富商に勧めて、東京、
 横浜、京都、大阪、神戸、大津、新潟、敦賀(つるが)の
 8か所に為替会社を設立させた。
  運用資金は、これら富商の出資した身元金(資本金)
 のほか、その一部を金準備として発行した紙幣、政府の
 貸下げ金(太政官札(だじょうかんさつ))であった。
  業務は、紙幣発行、貸出のほか、預金、為替、両替な
 どをも行ったが、政府の保護にもかかわらず営業は振る
 わず、1871年の通商司の廃止とともに衰え、翌・1872年
 の国立銀行条例の制定にあたり、第二国立銀行に転形し
 た横浜為替会社を除いてすべて解散した。
1869年、パンの製造
  日本人の手によってパンが作られたのは、1840年に中
 国で起こったアヘン戦争がきっかけだった。
  徳川幕府は、日本にも外国軍が攻めてくることを恐れ、
 兵糧としてパンを作らせた。
  米飯では炊くときの煙が敵方にとって格好の標的にな
 りかねないのが理由だった。
  また、固いパンは、保存性と携帯性の面ですぐれてい
 ると考えたからだった。
  この時、パン作りの指揮をとったのは、江川太郎左衛
 門だった。
  1854年に、横浜、神戸など港町を中心に、パン作りが
 広がった。
  また、1869年に、現存するパン屋でもっとも古い「木
 村屋総本店」が銀座に開業した。
  6年後(1875年)には、日本独特の「あんパン」が発売
 され、人気商品になった。
1869年、人力車が発明された。
  和泉要助、高山幸助、鈴木徳次郎の3名が、発明者とし
 て明治政府から認定されている。
  3名は、東京で見た馬車から着想を得て、1868年に、人
 力車を完成させた。
1869年、脱隊騒動(だったいそうどう))
  1869年(明治2)から翌年にかけて、長州藩の諸隊脱隊
 兵が藩の常備軍編成に対する不満から反乱を起こした事
 件。武力により鎮圧された。
1869年、アメリカ大陸横断鉄道がなった。
1869年、メンデレーフ(ロシア)が元素の周期律を発見し
 た。
1869年、イスタンブール大学設置された。
1869年、この頃、アニリン染料が発明された。
1869年11月17日、スエズ運河が出来た(開通した)。
  建設開始は、1859年4月25日だった。
  建設に、約10年半を要した。
  フランスは、エジプトと協力して完成させた。
  1875年からイギリスが支配権を手に入れた。
  11月17日の午前8時、エジプトのスエズ地峡の地中海
 と、紅海(スエズ湾)を結ぶ海面と、水平な人工のスエ
 ズ運河が開通した。
  これによって、アフリカ大陸を回りこまずにヨーロッ
 パとアジアを海運で連結することができるようになった。
  運河は、北端のポートサイドと、南端のスエズ市タウ
 フィーク港を結んだ。
  全長は193.3キロメートル、深さは8メートル。
  開通式では、フランス皇后・ユージェニーが乗る皇室
 所有のエーグル号が先頭を切った。
  その後に続くイギリス船などの総勢48隻が、ポートサ
 イドから運河を渡った。
  オーストリア皇帝など、ヨーロッパ中から1000人以上
 の賓客が出席した。
1869年、フランシス・ゴルトン(イギリス)が、「遺伝的
 天才」という本を著した。
  この本の中で、彼は、「人間の才能がほぼ遺伝によっ
 て受け継がれるものである」と主張し、そして、更に、
 「人間も人為選択を適用すればよりよい社会ができる」
 と論じた。
  このゴルトンの論理はイギリスに受け入れられ、アメ
 リカにも伝わり、アメリカはイギリスより大きな影響を
 受け、「断種法」を成立させ、劣等な遺伝子を持つとア
 メリカの判断した方々が断種された。
  この考え方・論理の思想は、キリスト教の有色人種蔑
 視など人種差別の考え方・教義に洗脳されたところから
 由来している。
  また、ナチスがこれと同じ考え方をして、劣等因子を
 持つ方々を殺戮し、軽蔑すべき卑劣な大虐殺であるユダ
 ヤの方々への行為に及んだ。
  この思想の発端のゴルトンは、キリスト教聖職者のダ
 ーウィンの従兄弟である。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
 

2016年2月7日日曜日

(増補版)292E1/3:気になった事柄を集めた年表(1869年7月~1869年9月)

題:(増補版)292E1/3:気になった事柄を集めた年表(1869年7月~1869年9月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1869年7月27日(明治2年6月19日)東京九段に東京招魂社(
 靖国神社)の造営が起工された。
1869年7月29日(6月21日)明治政府として、最初の渡航免
 状を下付した(佐藤進、横浜を出帆しドイツへ向う)
  佐藤進:さとうすすむ、医師、医学者、日本陸軍軍医、
 男爵(1845年12月23日~1921年7月25日)
  この年、明治政府発行の海外渡航免状第1号を得てドイ
 ツに留学をし、ベルリン大学医学部で学び、1874年(明
 治7年)に、アジア人として初の医学士の学位を取得して
 帰国した。
1869年7月(6月)本木昌造(もときしょうぞう)が、長崎
 製鉄所で金属活字(鉛)の鋳造に成功した。
  1869年11月、本木昌造らのグループが洋式活版術の移
 入を受ける。
  日本の活版印刷技術の先駆者と言われている。
  興善町の唐通事会所跡(旧新興善小学校)に、長崎製
 鉄所付属活版伝習所を設立した。
1869年8月2日(6月25日)藩知事家臣を士族と称し、農工商
 民を平民とする。
  封建的身分制の廃止の進捗は・・、
  1869年に、公卿・諸侯を華族に、そして、藩士・幕臣
 を士族・卒に、町人・農民を平民にした。また、
  1870年に、平民に名字の使用許可し、
  1871年に、士族の散髪・脱刀の自由とし、華族・士族・
 平民間の結婚を許可し、職業の自由とした。そして、
  1872年に、全国戸籍調査 →翌年「壬申戸籍」
   裁判上の扱いも四民平等とした。
  1873年に、徴兵令を公布し、
  1876年に、廃刀令を公布した。
1869年8月5日(6月28日)明治天皇陛下、群臣を率いて神祇
 局に臨み、国是一定を天神地祇、皇祖の霊に告げ給う。
  神祇官(じんぎかん、かみづかさ、かんづかさ)は、
 古代の律令制で設置された、国家機関の一つ。
  天神地祇(てんじんちぎ)は、天つ神と国つ神。すべ
 ての神々。一般に、天神は高天原(たかまがはら)に生ま
 れた神、あるいは葦原の中つ国に天降った神、地祇はこ
 の国土の神とされる。
  国是一定:一定の国是
  議會政治は、神代以来の傳統であり、近代になってわ
 が國に西洋から輸入されたものではないことは、
  明治二年六月二十八日に執行された『國是一定天神地
 祇列聖神霊奉告祭』の祝詞に
  「昔常夜往く枉事多くなりし時、高天原に事始めせる
 天の八瑞の河原の故事のまにまに」とあることによって
 明らかで、
  「議會政治實現」とは、神代への回帰、
  明治維新における徳川幕府政治打倒、一君萬民國家の
 建設、議會政治實現は、まさに「復古即革新」=維新だ
 った。
1869年8月6日(6月29日)招魂社(しょうこんしゃ、後の、
 靖国神社)が、戊辰の戦没者3,588柱を合祀鎮祭、「東京
 招魂社」として、元歩兵屯所跡の火除地に創建された。
  但し、創祀時は、未だ仮神殿の状態であり、本殿が竣
 工したのは1872年(明治5年)であった。
  また、明治天皇陛下の裁可を得て、1879年(明治12年)
 6月4日に「靖國神社」への改称がなされ、
  また、別格官幣社列格の太政官達が発せられた。
  鳥羽・伏見から箱館戦争にいたるまで、戊辰戦争の全戦
 没者が合祀された。
1869年8月9日、勝海舟、辞表に及ばずの御沙汰あり、更に
 藩知事より藩務諮の為大丞御免願書呈出(氷川清話)
1869年8月13日、勝海舟、外務大丞御免(氷川清話)
1869年8月15日(7月8日)政治情勢の変動に対応して中央集
 権が強化される。
  新しい太政官制が導入され二官六省制がとられた。
  二官六省の制:政府官制を改革し、神祇官・太政官・
 民部省・大蔵省・兵部省・刑部省・宮内省・外務省、お
 よび、開拓使・衆議院そのほかを設置し、行政官・6官・
 上局会議を廃止。
1869年8月15日(7月8日)集議院が設置された(公議所が改
 称された)(7月7日説あり)。
  集議院は、明治初期の政府の議事諮問機関で、この日
 の官制改革で、公議所(こうぎしょ)を改称して設置さ
 れた。
  長官には大原重徳、次官に阿野公誠、判官に神田孝平、
 丸山作楽らが任じられた。
  議員は、諸藩の参事1名ずつで構成され、諸藩の意向の
 反映が配慮されていたが、公議所が議決機関であったの
 に対し、諮問機関ないしは諸藩の政府協力機関であり、
 その権限は縮小され、太政官提出の議案を審議、答申す
 るだけにとどまった。
  公議所(こうぎしょ)は、集議院の前の機関で、やは
 り1869年に開設されていた明治政府の議事機関だった。
  やはり、各藩から1名ずつ任命された公議人から成り、
 幕末以来の公議思想の実行を意図したもので、審議は各
 方面にわたった。
  1869年8月15日の官制改革により集議院と改称された。
  公議所を開き、制度律令を議す(氷川清話)
1869年8月15日(7月8日)、開拓使は、版籍奉還を受けて、
 この日に、実施された官制改革で誕生した中央政府機関
 であった。
  明治政府が、北方開拓のために「開拓使」を置いた。
  また、歯舞群島、色丹島、国後島、択捉島を郡制の中
 に組み入れた。
1869年8月15日(7月8日)造幣局は、造幣寮へ改称されて大
 蔵省所属となった。
1869年8月19日(7月12日)高輪談判(たかなわだんぱん、
 贋貨の回収と近代貨幣制度の導入を国際公約する)
  東京高輪において開催された明治政府首脳と、イギリ
 ス・フランス・アメリカ・イタリア・ドイツの5ヶ国の駐
 日公使による会談。
  この会談で、日本が官民の(二分金を中心とした)贋
 貨の回収と、近代貨幣制度の導入を国際公約とすること
 になった。
  また、新貨条例や造幣局設置のきっかけとなった。
  倒幕後、明治新政府は、幕府の交わした改税約書を引
 き継ぐこととなり、
  慶應4年5月9日(1868年6月28日)新政府は、銀目廃止
 を布告し、丁銀および小玉銀は廃止され、通貨の両への
 一本化が図られた。
  この時期、日本国内には、多種多様の貨幣が混在し、
 それぞれが、額面でなく、実質価値による相場で取引さ
 れ、
  加えて、贋造貨幣が横行していたことから、
  これらについても、日本国外から改善を求められた。
  明治2年7月12日(1869年8月19日)高輪談判において、
 二分判を主とする贋造貨幣の処理について、新政府と、
 5カ国の駐日公使との間で交渉が行われた。
1869年8月24日(7月17日)太政官令にて三府の外、県と称
 す
1869年8月24日(7月17日)北海道という名称
  蝦夷開拓史となった伊勢国の探検家の松浦武四郎が、
 蝦夷の改名候補を政府に提出した。
  「蝦夷地道名之儀勘弁申上候書付」
  候補は、日高見道、北加伊道、海北道、海島道、東北
 道、千島道。
  すべて地理や歴史に基づく
  北加伊道は、アイヌ民族が、自らの住む土地を「kay」
 と呼び、
  北に位置することから名づけられる
  8月15日、政府による審議を経て、「北加伊道」案が
 「北海道」と改字、
  南海道、東海道という地域名にならって「北」の「海
 道」で「北海道」に、
  太政官布告第七三四「蝦夷地自今北海道ト被称
 十一箇国ニ分割国名郡名別紙之通被仰出候事」による。
1869年(明治2年)北海道茅沼炭鉱にて、炭鉱軌道(茅沼炭
 鉱軌道)が運行を開始した。
  鉄道とはいっても、鉄板で補強した木のレールを使用
 し、牛馬で運行していたものであった。
  これを、日本の鉄道の最初とする説もある。
1869年9月1日(7月25日)定期蒸気船が、初めて、東京~横
 浜間に運輸を開始した。
  毎日2回運輸、片道賃金100匹。
1869年9月5日(7月29日)能楽
  明治最初の、盛大な能楽が、赤坂の紀州藩邸で演じら
 れた。
  能を外交のもてなしとすること自体は、欧米視察後の
 岩倉卿の肝煎りで始まったわけではない。
  確かに、岩倉は、1871年に、岩倉使節団を組織して、
 1873年に、欧米視察をし、その時に、オペラが外国要人
 の饗応に催されることを知り、
  能が、日本で、これにあたると考え、能の再興と外交
 への活用を働きかけたが、
  すでに、岩倉使節団が出発する2年前の1869年(明治2
 年)に、
  早くも、外国賓客のために能狂言の催しが開かれた。
  1869年7月、明治政府は、英国ヴィクトリア女王の次男、
 エジンバラ公アルフレッド王子を迎えた。
  その饗応に、相撲観戦や浅草訪問とともに、観能の催
 しを組み、赤坂の紀州藩別邸で演じた。
  その時の能は、「弓八幡」(喜多勝吉)、「経正」(
 観世銕之丞)、「羽衣」(宝生九郎)、「小鍛冶」(金
 剛唯一)の四番。
  狂言も、「墨塗」「太刀奪」の二番が出された。
1869年9月6日(8月1日)鉄橋
  日本最初の鉄橋が、長崎の浜町通りに竣工した。
  (注)「初代」の銕橋(くろがねばし)が、1868年に
 架けられ、これが、日本最初の鉄橋という説もある。
  1867年(慶応3年)の豪雨にて、橋が大破し、有志らの
 協力を経て、長崎製鉄所の鉄を使った頑丈な鉄橋として
 架け直されることになり、
  設計は、オランダ人技師ホーゲル、
  工事は、長崎製鉄所頭取の本木昌造が指揮を採り、
  総工費は、1万6千両をかけて建設されたという。
  橋は、全長27メートル、全幅6メートルで、
  橋面は、板張りとされ、通行人の下駄の音がよく響い
 たという。
1869年、牛鍋屋の流行
  安政6年(1859年)の横浜が開港後、居留地の日本国外
 の人々から食肉文化が伝わってきた。
  日本に肉牛畜産の産業がなかったため、当初は、中国
 大陸や朝鮮半島、あるいは、アメリカから食用牛を仕入
 れていた。
  しかし、居留地人口の増加に伴い、牛肉の需要が増加
 し、
  のちに、神戸の家畜商が、横浜へ食用牛を搬送するよ
 うになった。
  この様な背景の元、幕府は、元治元年(1864年)居留
 地に指定されていた横浜市の海岸通に、屠牛場の開設を
 認めた。
  屠場開設から2年遡った文久2年(1862年)に、横浜入
 船町で、居酒屋を営んでいた「伊勢熊(いせくま)」が、
 1軒の店を2つに仕切り、片側を牛鍋屋として開業したの
 が最初の事例とされる。
  幕末期、開港場の横浜では、牛肉の煮売り屋台があっ
 た。
  1867年、江戸の芝で珍しい牛肉屋を開いていた「中川」
 も牛鍋屋を開業した。
  明治元年(1868年)、高橋音吉が「太田なわのれん」
 を創業し、
  当時主流の味噌煮込み風牛鍋を提供した。
  同年、横浜につづき、東京の芝にも、外国人向け屠牛
 場ができると、牛鍋屋の流行は飛び火し、
  それ以降の牛食は、文明開化の象徴となった。
1869年9月12日(8月7日)対馬藩の改称
  対馬の府中藩(対馬藩)が、厳原藩(いづはらはん)
 と改称した。
  宗義達は、版籍を奉還し、新藩制により厳原藩と改称
 されて、厳原藩知事となった。
  これとともに「対馬府中」の地名も「厳原」に改めら
 れた。
1869年9月12日(8月7日)、静岡藩の成立
  明治のこの時に成立した藩は静岡藩(しずおかはん)
 と呼ぶ。
  かつての藩は、駿府藩(すんぷはん)で、駿河府中藩、
 もしくは、府中藩とも呼ばれた。
  以下、勝海舟の話・・
  維新の際、旧旗本の人々を、静岡に移したのは、およ
 そ8万人もあったが、
  政府では、10日の間に移してしまえと注文したけれど
 も、それは到底できないから、
  20日の猶予を願って、汽船二そうでもって運搬した。
  しかし、その困難は非常なもので、1万2000戸より他に
 ない静岡へ、一時に、8万人も入り込むのだから、
  俺は、自分で農家の間を奔走して、とにかく、ひとま
 ず皆のものに尻を据えさせた(氷川清話)
  また、以下、海舟の後日談・・
  将軍に政権の返上を進言・・、将軍が、政権を返上し
 て、徳川家がもとの駿・遠・参の一大名に戻るべき事を、
 公式に進言した最初の人は、大久保忠寛である。
  その直言のために、度々、上役に嫌忌されて、左遷さ
 れたり、屏居させられたりした。
  忠寛は、講武所奉行、外国奉行を歴任し、慶応4年の江
 戸無血開城の前後には、会計総裁として、陸軍総裁・勝
 安房の女房役であった。
  海舟は、この大久保越中によってどんなに助けられた
 か分からない。
  明治になってから、大久保は「一翁」と称したが、明
 治5年から8年まで、東京府知事を務め、また、元老院議
 官となった(氷川清話)
  また、勝海舟の回顧談・・
  幕府に軍艦製造を進言の件・・、長崎のオランダ商館
 長ドンケル・グルヂウスは、幕府に勧告して、日本も海
 軍を建設し、軍艦製造に着手し、そのための要員・人材
 を教育すべきことを進言し、
  幕府も、その勧告に従う事になった(氷川清話)
  長崎には、かねて、幕府の注文していた新造艦が、オ
 ランダから回航されてきた。
  このヤッパン号は、咸臨丸と名付けられた(氷川清話)
  また、長崎の飽の裏には、長崎製鉄所が設けられた。
  内容は、製鉄ではなく、造船所であり船の修理工場で
 ある(氷川清話)
  オランダへ発注した第二号艦エド号も到着して、これ
 は朝陽丸と名付けられた(氷川清話)
  家光と沢庵について・・、三代将軍・家光は、沢庵和
 尚を座右に置いて、重く用い、いつも民間の事情などを
 聞いた。
  家康公が、天海におけるのと同じ(氷川清話)
  島原の乱の事・・、注進が、幕府に来ると、将軍は、
 すぐに板倉内膳正(ないぜんのしょう)に命じて征討に
 向かわした。
  それを聞いた柳生但馬守(やぎゅうたじまのかみ)は、
 将軍をひどく換言して、将軍が、すでに厳命を下して江
 戸をたたせたものを、わずか剣道指南ぐらいの身分であ
 りながら、独断をもって、それを引き止めようとした(
 氷川清話)
  (注)キリスト教は、幕府が、日本が、キリスト教を
 弾圧したとかと言うが、この事の様に、キリスト教には
 非常に寛大であった。
  捕らえても、本人ではなくても「キリスト教を止めま
 した」と言えば、すぐ許した。
  また、余り刑には処さなかったが、処す場合でも、そ
 の刑場の囲いの一部を開けておいて、逃げられるように
 していた。
  ヨーロッパのキリスト教会の様に、魔女を広場に連れ
 出し、なかなか燃えない生木でじわじわ焼くような、卑
 劣なやり方など、温厚な日本は、しなかった。
  そして、勝海舟の想い出のはなし・・、
  静岡に隠居の家康公について・・、静岡近辺の旧家に
 は、東照宮(家康公)が来て、碁を打たれた。
  これは、民と親しむことによって、民間の実状を知る
 ためであった(氷川清話)
  そして、勝海舟の財政手腕について・・、勝海舟が、
 明治20年にまとめた書物に「吹塵録(すいじんろく)」
  という大部の経済書があるが、
  これは、海舟が、当時の松方蔵相の依頼を受けて、旧
 幕時代の財政を担当した勘定奉行、組頭・目付など16名
 を動員して、資料をそろえて編纂した幕末財政史である。
  今日、幕末財政史を調べるためには、ほとんど唯一の
 基礎資料であると言われる。
  大蔵大臣が、ゆうに勤まるだけの手腕があった。
  幕府が倒れて、徳川家が駿・遠・参の70万石の一大名
 に格下げされて、静岡に移転するとき、
  徳川家臣団が飢え死にもせず、大きな混乱もなく、な
 んとか収拾できたのも、勝海舟や大久保一翁らの指揮宜
 しきによるものである(氷川清話)
  そして、勝海舟、海軍伝習所で近代国家観念を得るに
 ついて・・、勝海舟が、長崎の5ヵ年間に身に付けたもの
 は、海軍技術だけでなく、「近代国家観念」とも呼ぶべ
 きものを、外国人との接触の中で学び取った。
  カッテンディーケ中尉の書いた「長崎海軍伝習所の日
 々」という日本滞在記の中に、しばしば勝の名前も出て
 来るし、勝が、常に、教師団と緊密な接触を保っていた
 ことが分かる・・、
  勝海舟の明敏な頭脳には、西欧先進国の近代国家の観
 念が、かなり鮮明に浮かび上がってきたに違いない。
  その国家観念に照らしてみて、幕末の我が国の分裂状
 態、無防備状態、無統制状態というものは、お話の外だ
 という事になる。
  攘夷だ、開国だと言って、騒いでいるけれど、てんで
 んばらばらで、先ず、国論を統一し、国家意思を表現す
 るという事の大切さに、気付いているものがいない(氷
 川清話)
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