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2016年2月6日土曜日

(増補版)291E1/3:気になった事柄を集めた年表(1869年5月~1869年7月)

題:(増補版)291E1/3:気になった事柄を集めた年表(1869年5月~1869年7月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1869年(明治2年)6月3日、勝海舟、出府(氷川清話)
1869年6月4日(4月24日)官軍の船艦8隻、函館港にて幕府
 残党の船艦と戦う(勝敗決せず)
1869年6月9日(4月29日)陸海軍のため軍律制定される。
  我が国の軍司法制度の根源は、明治維新直後の1869年(
 明治2年)に実施された軍律の発布と、糺門司の設置によ
 る、兵士に対する刑事裁判制度の発足に遡る。
  次いで、1872年(明治5年)2月の陸海軍省分立に際し
 て陸海軍はそれぞれ省内に裁判所を置き、
  1872年3月5日、陸 軍糺問司の長である糺問正から陸軍
 省に対して次の具申がなされ、ここに我が国の軍事 史上、
 初めて軍法会議なる呼称が登場した。
  因みに、糺問主義(きゅうもんしゅぎ)は、訴追者(
 検察官など)の訴えを待たずに、裁判所等が職権によっ
 て訴訟を開始し、捜査・事実認定・裁判をする主義のこ
 と。
1869年6月18日(5月9日)日本で初めてアイスクリームが製
 造販売される・・とあるが・・、
  日本人で初めてアイスクリームを食べたのは、1860年
 (万延元年)に咸臨丸で渡米した遣米使節団であるとさ
 れていて、
  日本初のアイスクリームは、1869年(明治2年)6月
 遣米使節団のメンバーであった町田房蔵が米国に密航し
 た後に帰国した出島松蔵から製法を教わり、横浜の馬車
 道通りに開いた「氷水屋」で製造・販売したもの。
  「あいすくりん」という名称で、一人前の値段は2分
 (現在の価値で約8000円)と大変高価な物であった為、
 民衆に敬遠され、なかなか浸透しなかった。
  原料は、生乳、砂糖、卵黄といたってシンプルなもの
 で、これは今は「カスタードアイス」とも呼ばれている。
  なお「アイスクリームの日」である5月9日が日本で初
 めてアイスクリームを製造・販売した日と一般的に言わ
 れているが、横浜沿革誌にはそのような記述はない。
1869年6月20日(5月11日)函館において官軍海陸相呼応し、
 幕府の残党軍と戦いこれを撃破する(土方歳三、戦死)
1869年6月22日(5月13日)議政官を廃し、輔相・議定・参
 与を行政官におく。
1869年6月22日(5月13日)出版条例が制定された(出版許
 可制)
  出版許可制、風俗取締り、政府誹謗の禁止、版権保護
 などを規定した。
   1875年9月に、太政官布告により、さらに1887年12月
  は勅令により改正された。
1869年6月27日(5月18日)五稜郭が落城(榎本武揚は、部
 下の助命を条件に官軍に降り、函館戦争が終わった。
  榎本武揚、新政府軍に降伏。箱館戦争終結。
1869年、勝海舟と榎本武揚は・・同じ考えのもとに・・居
 たのではないか?
  五稜郭が開城し、戊辰戦争終結したが・・、
  榎本武揚は、勝海舟が歩んだ道を歩んだ、弟子ともい
 える人だった。
  幕末に、だから、榎本が、勝海舟と同じことを目ざし
 ていたと考えられる可能性がある?
  勝海舟は、江戸に押し寄せる猛りくる官軍と、その長
 の西郷隆盛、
  その西郷隆盛と会談し、猛り立つ官軍の火を見事に消
 した。
  明日は火の海になるだろうという前日に、事を成功裏
 におさめた。
  また、勝海舟は、京から帰って来た近藤勇には、名誉
 を与え、
  近藤勇自身もびっくりの位(くらい)の名誉な地位を
 与え、金を与え、
  江戸に居た武力を持った武士をまとめて、
  そして、その武力集団を近藤勇に預(あづ)け、与え、
  そして、その長にして、「甲州路を上って来る官軍を
 押さえよ」と近藤の存在意義・行動目標を与えた。
  その途中の近藤勇の出身地の東京の三多摩の地を通過
 する時には、
  その地元の人々に、自分の出世の姿を見せるがよいと
 言って、この武力のエネルギー集団を江戸から西へ向か
 わせた。
  そして、江戸の町からエネルギー集団を送り出す、遠
 ざける。
  残った不満のエネルギーは、上野の山の大政奉還した
 将軍・徳川慶喜を守らせ、集結させる。
  そして、その他は、戦いの地だと会津に向かわせた。
  江戸から地方へ、「時代が代わる際の歪(ひずみ)」
 =不満のエネルギーを放散させた。
  また、江戸湾の大砲を持った破壊力抜群の軍艦は、弟
 子ともいえるその榎本武揚に任せ・・、
  榎本も、軍艦で、あちこちを行くが、最後は、破壊力
 エネルギー所持の武士たちを軍艦に乗せ、連れて江戸湾
 を出航する。
  東北へ向かい、仙台で積極的に新政府軍と戦うという
 ことなしに、榎本の軍艦に来る武士たちを、ひたすら収
 容する。
  そして、仙台藩が、新政府軍に降伏すると、不満武士
 たちを乗せて、北海道の函館に向かう。
  この地の五稜郭に籠る。
  榎本武揚は、不満武士たちを、あたかも日本中から寄
 せ集め、ここ五稜郭に来て、
  そして、その不満武士たちのエネルギーを発散させる。
  そして、ここが、最終的にエネルギーの発散処理を「
 完了させる地」とした。
  この様な見方もできる・・榎本武揚の行動だった。
  誰にも言えない、この様な行動をした榎本武揚を、新
 政府は、要人としての役目を、また、与え、新政府に迎
 えた。
  勝海舟と榎本は、時代の代わる歪(ひずみ)のエネル
 ギーの爆発を最小限にしたいと・・共に行動した・・と
 も考えられる。
  榎本武揚は・・幕臣 → 政治家 → 子爵、
  1836年に、幕臣の子として、江戸に生まれる。。
  1848年(12歳)に、昌平坂学問所に入る。
  1854年(18歳)に、函館奉行の小姓となり、樺太探検
 に従う。
  1856年(20歳)に、長崎の海軍伝習所に学び(ここで、
 勝海舟と知り合う、勝の指導の下に軍艦操練、航海術を
 学ぶ、これが後に大いに役立つ)、
  1858年(22歳)に、勝海舟の息のかかった江戸築地の
 軍艦操練所教授方出役となる。
  1862年(26歳)に、勝海舟の口添えか?オランダに留
 学し、砲術、造船術、機関学、国際法規などを習得する。
  1866年(30歳)に、幕府が注文した開陽丸を操船して
 帰国し、帰国後、幕府の同艦船将、軍艦頭並など歴任、
  1868年(32歳)に、幕府海軍奉行・海軍副総裁となる。
  勝海舟がやっていたことを、勝海舟がやらねばならな
 いと思っていたことを、その弟子の様に行う、そして、
 海軍奉行までなる。そして、幕末の時代の大変革期に突
 入する。
  1868年8月、品川沖脱出、明治維新の時、五稜郭にたて
 こもり官軍に抵抗。「蝦夷共和国」樹立宣言。
  1869年(明治2年5月)降伏(箱館戦争)
  1872年(明治5年)(36歳)に、2年半の禁錮を経て、
 許され、黒田清隆の北海道開拓事業に出仕、北海道開拓
 使となる。
  1874年(明治7年)(明治8年?)(38歳)に、駐露公
 使としてロシアと樺太・千島交換条約を締結。
  以後、海軍卿・逓信相・外相などの重要な職を歴任。
  1908年(明治41年)歿した、73歳。
  日本には、世界に類例のない二人の偉大な偉人が居た。
1869年6月(5月)弁天岬台場・五稜郭の旧幕府軍が降伏し、
 戊辰戦争が終結。
1869年6月30日(5月21日)京都に日本初の公立小学校開校。
  日本最初小学校柳池(りゅうち)校の石碑があった。
  現在は、御池中学校(おいけちゅうがっこう)がある。
  1872年の日本最初の近代的学校制度を定めた教育法令
 『学制(がくせい)』よりも早くに作られた。
1869年7月12日(6月4日)蝦夷開拓督務(北海道庁官・開拓
 使の前身)として鍋島直正た任命された。
  北海道に開拓使の前身をおいた。
  沙汰書が、1969年8月20日(7月13日)に出て、「蝦夷
 開拓督務」は、開拓使長官に直された。
  蝦夷開拓督務というのは、鍋島直正への勅書によると、
 直正の請願により設けられた職で、
  国家体制が整い、国を挙げて蝦夷地開拓に着手するま
 で少しの間、直正に蝦夷地開拓を委ねるというもの。
  蝦夷地開拓の問題は、外交問題、財政問題と並んで重
 要急務課題の一つだった。
1869年7月13日、勝海舟、安房と安芳と改名す(氷川清話)
1869年7月18日、勝海舟、外務大丞を仰せつけられ、23日辞
 表呈出(氷川清話)
1869年7月20日(6月12日)招魂社の創建が決定された。
  外国船が来て、国内で志士たちが攘夷や開国で活躍し、
  命を落とす志士たちが出始めた頃の1853年(嘉永6年)
 以降の殉国者を、慰霊する祭典が行われる等、
  幕末維新期の戦没者を慰霊、顕彰する動きが活発にな
 り、
  その為の施設である招魂社創立の動きも各地で起きた。
  それらを背景に、大村益次郎が、東京に招魂社を創建
 することを献策すると、
  明治天皇陛下の勅許を受けて、
  1869年(明治2年)旧暦6月12日に、現社地での招魂社
 創建が決定された。
1869年7月20日(6月12日)室蘭、函館らの賊徒、悉く平定
1869年7月22日(6月14日)函館戦役の戦死者等23人を大徳
 寺跡の梅香崎招魂社に祀る。
1869年7月23日(6月15日)東京の昌平校を改めて大学校と
 なし、開成医学の二校を附属する。
1869年7月25日(明治2年6月17日)、版籍奉還
  諸藩の版籍奉還の勅許あり、公卿、大名らの称を廃し、
 華族と改める。
  各藩主に対し版籍奉還の奏請を許し、各藩主を藩知事
 に任命し、知藩事を置いた。
  太政官は、諸藩の版籍奉還をさせ、262人の旧大名に公
 家を加えて華族とした。
  さらには、旧大名で、地方官を務める者以外は、東京
 に居住する事を強制した。
  士族たちが、彼らを擁して反乱を起こすことを恐れた
 ため、初め、薩摩・長州・土佐・肥後の四藩が版籍奉還
 を奉受した。
  これは、行政官布達54号によって、従来の身分制度の
 公卿・諸侯の称を廃して華族となることだった。
  そして、藩主が、旧来所有していた土地と人民を朝廷
 に返還することだった。
  尚、華族は、皇族の下で、士族の上に置かれた。
  これは、1947年(昭和22年)5月3日の日本国憲法の施
 行とともに廃止された。
1869年7月25日、四民平等
  版籍奉還にさいし公卿・諸侯(旧藩主)を華族に、平
 士以上の藩士などを士族とした事に始まり、
  その後、郷士などの世襲のものも士族にして、他は平
 民とした。
  過去の身分の差がある所を、はっきりと平等という意
 識のもとに置いた。
  1971年、穢多(えた)・非人の称を廃止し「平民と同
 様たるべき事」と令した。
  国民は全て平等にという事に徹底。
  公卿、諸侯を華族とする(氷川清話)
1869年、蘭学事始の刊行
  福沢諭吉が、玄白の「蘭学事始」の内容に感動し、
 この年、維新の騒然としている時期に自費で刊行した。
  杉田家の原稿本は、安政2年(1855年)の安政の大地震
 による杉田家の被災で失われ、大槻家の写本もいつか散
 逸し、完全に失われたものとされて、関係者から惜しま
 れていたが、
  幕末の頃、神田孝平が、湯島の露店で偶然に大槻家の
 写本を見つけ、
  1869年(明治2年)に、玄白の曽孫の杉田廉卿による校
 正を経て、福沢諭吉はじめ有志一同が『蘭学事始』(上
 下2巻)の題名で刊行した。
  その後、再発行を重ね、日本における西洋医学導入期
 の当事者による貴重な一次史料として、ひろく一般に読
 まれるようになった。
  資料として第一級であり、文学性も高い。
  福沢諭吉は、明治23年の「蘭学事始再版の序」で、草
 創期の先人の苦闘に涙したと記している。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
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または
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2016年2月5日金曜日

臨時ブログ:笹子トンネル天井版落下事故について・・、

臨時ブログ:笹子トンネル天井版落下事故について・・、
  何でも、ほっておいたら、劣化し、壊れる。
  国の、この面の対策が、非常に遅れている。
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
  笹子トンネルの天井版落下事故の原因は、「工法の採
 用を優先した」という原因の要因が、消すことが出来な
 い。
  工事の工法は、工期・コスト・実現可能性・安全性・
 メンテナンス性などなどから選択される。
  今回、起きてしまった不幸、天井版落下事故の原因に
 おいて、標記の要因が消せない。
  笹子トンネル工事は、「本体工事の工法選択が優先さ
 れた」と言え、そして、考えられる一面がある。
  それが、結果的に「事故につながった」と考えられ点
 がある。
  トンネルを構築するという主目的である「工法の選択」
 を優先したからと考えられる。
  この採用されたトンネル工法は、この後に続く後続工
 事に、ある条件を課さねば成立しない工法だったと考え
 られる。
  ある意味、後続工事をないがしろにしなければ、成立
 しないトンネル工法だったと言える。
  それ故に、天井版の支持に、「ホール・イン・アンカ
 ー工法」を採用せざるを得なかったと言える。
  だからまた、この工法を採用を「可」とした「規準が
 不適切だった」とも言える。
  それ故に、この様な「リスクの高い後続の工法」が、
 採用されてしまったと言える。
  この「ホール・イン・アンカー工法」は、出来た時か
 ら「上向き使用には用いない方がよい」とされていた。
  そのホール・イン・アンカー工法を、採用を可能とし
 た規準が、トンネルの構築工法の採用への道を、「良く
 言えば広げた」(悪く言えばリスクをないがしろにしな
 がら使用可とした)。
  「ホール・イン・アンカーの工法」が出来た当初は、
 抜け落ちる恐れのある使用はお勧めできない・・という
 技術的な説明がなされていた(つまり、上向き使用は避
 ける方向にして下さい・・だった)。
  この様な、国が造るトンネルに、この様な部位に、上
 向き使用として使われている違和感は大きく感じて、驚
 かされた。
  笹子トンネル工事は、この様な状況と規準の中で、「
 ホール・イン・アンカー工法」を使用しなければ採用で
 きない工法だったと考えられ、ある意味、国民の命・ト
 ンネル使用者のリスクを大きくした工法を採用したもの
 と判断できた。
  故に、だからこそ、メンテナンスや点検は、更に十分
 に、行われなければならない必然性と運命の元にあった。
  しかし、点検やメンテナンスの実態も分かって来ると、
 その簡略さが非常に残念で、亡くなられた方々が、非常
 に惜しい感じにつまされる(ほとんどメンテナンスもな
 されていなかったと感じる、悪く言えば、ほっておいた
 状態だったようだ)。
  NHKのニュースで、その事故に遭遇した方が、「津
 波の様に天井版が落ちて来た」と言われていた。
  つまり、隣のボルトが、落下した部位の天井版を支え
 られずに、次々と隣の板に荷重を掛けながら、続けて、
 落ちて行ったという、劣悪な支持状態だったことが分か
 る。
  支持している支柱も少なく、その支柱を支持するボル
 ト本数も少ない(支柱は中央だけの1本で、そのボルト数
 も2本)・・この件も問題なのだ(この事故に関わる部分
 には、その他、まだまだ、今後、改善すべき点が多々あ
 るのだ、設計段階も問題である・・問題点は多々ある)。
  この件を・・、原因について、東京大学の教授が「樹
 脂の劣化だ」と言ったことも、問題の視点をずらす、「
 反社会的発言」と申し訳ないが言える面もある。
  樹脂の劣化もあるが、この1点の視点に固着し、固定し
 たところが問題である(他の問題点に免罪符を与えてし
 まった)。
  長い期間の湿気の吸放湿の繰り返しで樹脂は劣化する、
 この一点で、他は無罪とした。
  この笹子トンネル事故は、この問題だけではない。
  後述する裁判の判決も、この一点だけに捉われて判決
 が下されている。
  この判決によって、「一件落着」として戴きたくない。
  問題点は、すべては解決していない。
  教授の発言は、その原因となっている。
  樹脂の劣化と言えば、「世の中、丸く収(おさ)まる」
 的な発言であった。
  しかし、社会は何ら良くはならない。
  事故は再発する(悪く言えば、他の原因者が、前記の
 発言で隠れてしまったからである)。
  樹脂が、劣化をするならば、「その樹脂を選択したも
 のにも責任がある」。
  それを許した「国の規準にも原因がある」「国にも責
 任がある」。
  樹脂の劣化要因は色々とあるが、よく知られているの
 が紫外線劣化である。
  太陽光の下において劣化する樹脂が多い(もちろん、
 劣化しにくい樹脂もある)。
  紫外線のないトンネル内で樹脂が紫外線劣化する訳は
 ない。
  ましてや、トンネルに掘られた穴の中に詰まっている
 樹脂が・・。
  しかし、他の劣化要因についてマークできなかった、
 長期における繰り返し劣化に対して・・。
  この様な事を言うのならば、樹脂を使って木材を貼り
 合わせて構造体にして、例えば、体育館などを作ってい
 るが、樹脂がこの様に劣化をするならば、この体育館も
 崩落するだろう。
  点検をしているのだろうか?
  点検結果から適切なメンテナンスをしているのだろう
 か?
  だから、この体育館の件に限らず、社会資本の点検は、
 国の第一の重大課題なのである。
  点検だけではない、その充実した、誠実な点検で知り
 得た問題点は、一つ一つ丁寧に解決して行かねばならな
 いのだ。
  そうすれば、社会資本は、極端な言い方をすれば、永
 久に使用可能なのだ。
  上野の前川国男の文化会館を見て戴きたい、良い点検
 により、そしてまた、良いメンテナンスにより、新築同
 然です。
  また、ル・コルビジュエの近代美術館は、世界遺産に
 して、永久に日本の社会資本としようとしている、良い
 点検とメンテナンスがそれを可能にしている。
  壊して作り替えればいいのだ・・という考えは、間違
 っている。
  何でも、作り替えることが・・今の世の風潮になって
 いるが、間違いだ。税金がいくらあっても間に合わない。
  そして、何でも、ほっておいたら、劣化し、壊れるの
 です。
  この面の対応、そして、対策が、非常に遅れている。
  日本には、その技術は、十分ある。
  笹子で亡くなられた尊い方々は、この事を教えて戴い
 た方々だった。
  (追伸)天井版の「版」は、新聞や社会は「板」を使
 っている。
  しかし、笹子トンネルは、「板」という軽量なもので
 はなく、「版」と言うべき非常に重いものであり、
  だからこそ、なお、「ホール・イン・アンカー工法」
 などという工法は、不適切だったと言いたい。
  まだまだ、言いたいところがある・・が・・、
  そして、(読売新聞、2016・1・6)で、「笹子事故、
 判決確定へ」「賠償命令、中日本高速、控訴せず」と伝
 えていた。
  その内容は・・、
  山梨県の中央道で、2012年に起きた笹子トンネル天井
 板崩落事故で死亡した9人の内男女5人の遺族が、中日本
 高速道路と小会社に損害賠償を求めた訴訟で、両社は控
 訴期限の5日、計約4億4000万円の支払いを両社に命じた
 横浜地裁判決について「控訴しない」と発表した。
  遺族側も控訴しないため、判決が確定する。
  昨年12月22日の判決は、供用開始から約35年が経過し
 ていた笹子トンネルの劣化を容易に想像できたのに、適
 切な点検を怠ったなどとして、中日本高速と子会社の中
 日本ハイウェイ・エンジニアリング東京の過失を認めた。
  両社は、「点検方法に問題はなかった」と争ったが、
 中日本高速は「判決を真摯に受け止めた。
  事故から3年が経過し、遺族の気持ちに改めて向き合っ
 ていかなければならと判断した」と控訴しない理由を説
 明した(後略)・・とある。
..
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(増補版)290E1/3:気になった事柄を集めた年表(1869年2月~1869年5月)

題:(増補版)290E1/3:気になった事柄を集めた年表(1869年2月~1869年5月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1869年2月4日(12月23日)府藩県三治制(ふはんけんさん
 ちせい)
  各府藩県に、仮に権知県事、権判県事を置き、その適
 任者を選んでこれを奏上せしむ。
  府藩県三治制は、明治初年の地方統治制度のことで、
  1868年5月(明治1年閏4月)の政体書により、地方統治
 は府藩県の三治制とし、
  旧幕府直轄地を府と県に分けて知事、判事を置き、藩
 は従来どおり諸侯に統治させた。
  政府は、府藩県の不統一の是正を図り、藩に対しては、
 1868年10月の「藩治職制」、
 1869年6月の「諸務変革令」、
 1869年7月の「職員令(しきいんりょう)」の藩の規定、
 1870年9月の「藩制」などでその画一化を進めた。
  また府県には、1869年2月の「府県施政順序」、
 1869年7月の「府県奉職規制」や「職員令」の府県の規定
 などにより整備に努め、府藩県三治一致を促進した。
  1871年7月の廃藩置県によって、府県二治制となり、
 三府302県、1871年年11月には、三府72県となった。
1869年2月5日(12月24日)府藩県に、地方地図作製を命ず 。
1869年2月9日(12月28日)皇后宣下(氷川清話)
  一条美子を皇后に冊立(さくりつ、勅命により皇太子
 殿下・皇后陛下などを正式に定めること)。
1869年2月9日(明治元年12月28日)諸外国、局外中立を解除。
  明治政府が、日本の唯一の正統政府とみなされた。
1869年2月11日(明治2年1月1日)日本最初の洋式燈明台を
 三浦半島・観音崎に開設。
1869年2月15日(明治2年1月5日)横井小楠、京都にて暗殺。
  横井小南、暗殺去る(氷川清話)
  (しょうなん)熊本藩士、思想家、明治新政府の参与、
1869年2月18日、この日、再幸の京都出発が、3月7日と布告
 され、
  さらに、東京行幸の間は、太政官を東京に移転すると
 発表された。
1869年2月20日(1月10日)安房国の野島岬灯台、竣工する。
1869年2月20日(1月10日)日独修交通商航海条約が成り、
 調印する。
1869年2月24日(1月14日)横浜港に初めて燈台が竣工する。
1869年2月、東京で、市中の風俗矯正の目的で男女混浴が、
 禁止された。
1869年3月2日(1月20日)薩長土肥藩主、版籍奉還を上奏
  封建を廃し、府藩県とする(氷川清話)
1869年3月2日(1月20日)諸道の関門、関所廃止を布告する。
  諸道の関門、関所廃止の布告令で、全国の関所は、す
 べて廃止された。
  諸街道の関所を廃止し、全国一律に1里36町と正式に決
 定した。
    距離の統一
  全国でまちまちだった距離の計測を統一し、全国一律
 に1里=36町=約4キロメートルと正式に定めた。
  そして、民部省からこの基準で諸街道の距離を測るよ
 うに命令が出た。
  そして、明治6年(1873年)になって、太政官より改め
 て全国の道路距離調査を命じた。
  この時、東京の日本橋と、京都の三条橋の中央が、国
 内全体の起点とされた。
  また、同時に東京・京都を除く各府県で、県庁所在地
 に中心(元標)を置いた。
  そして、その元標から距離を測るようよう決められた。
  また、同時に里程標を、各地の重要な場所に建てるよ
 う定めらた。
  そして、これに東京と京都からの距離と、近隣への距
 離が記入された。
1869年3月5日(1月23日)薩長土肥の四藩、率先して版籍奉
 還(これより各藩これに倣って奉還する)
1869年3月15日(2月3日)米国が、中立解除につき新政府に装
 甲艦甲鉄を引渡し。
  新政府軍の海軍力が蝦夷共和国軍を上回る
1869年3月15日(2月3日)毛利元就に豊栄神社を賜号
1869年3月17日(2月5日)造幣局を設置(金銀座廃止)
  貨幣司を廃止し、2月5日に、太政官に造幣局が置かれ
 た。
  大坂に造幣局が設置された。
  明治2年(1869年)貨幣司・金銀座を廃止して造幣局(
 正式には造幣寮と改称)を設置し、民部省札を発行した。
1869年3月20日(明治2年2月8日)新聞紙印行条例の公布
  新聞紙刊行が、初めて許された。
  明治新政府は,佐幕派の新聞を取り締まった。
  しかし、政治批判を禁ずるなどの介入をしながらも、
 新聞紙印行条例を、1869年3月20日に公布して、新聞の刊
 行を促そうとした。
  しかし、1873年10月に、征韓論をめぐって西郷隆盛ら
 が下野すると、世論鎮圧のため、新聞紙発行条目を公布
 した。
  また、1875年には、高まってきた自由民権運動の規制
 のため、1875年6月28日に、讒謗律 (ざんぼうりつ、名誉
 棄損罪の原型を為す法律) の制定と一緒に、新聞記者へ
 の処罰を定めた新聞紙条例を公布した。
1869年3月、明治政府が、陸海軍に函館攻略を命じた。
  長崎から、振援隊樂手と長崎海軍伝習所に学んだ士官
 などの他、
  奉行組下の船手係と水夫、火夫らが出征した。
   35人が朝陽丸に、15人が陽春丸に乗組んだ。
  6月11日に、朝陽丸沈没した。
  長崎参戦者のうち20人が艦と運命を共にした。
1869年3月28日、天皇陛下、東京着
  この日、再幸した天皇陛下が東京に着いた。
  そして、政府は、先に皇居とした東京城を、これから
 皇城とすると発表した。
  皇居と皇城では、内容に大きな違いがある。
  皇居は天皇陛下が居住するという意味。
  故に、これまでは京都の御所も皇居であり、東京城も
 皇居であった。
  皇城は、皇居と太政官政府が有る場所という意味。
1869年4月3日(2月22日)諸開港場に通商司を設置
1869年4月5日(2月24日)太政官を京都より東京に移す。
  東京に政府が京都から移された。
  明治維新のとき江戸が東京とされ、都として定められ、
  京都との東西両京としたうえで、
  慶応4年7月17日(1868年9月3日)に、江戸が東京と改
 称され、
  1868年9月に、元号が明治に改められ、
  1868年10月13日に、天皇が東京に入り、
  1869年(明治2年)に、政府が京都から東京に移された。
1869年4月14日、勝海舟、駿河国見回りの御暇を願い14日
 出立(氷川清話)
1869年4月18日(3月7日)最初の議事院たる公議所が、東京
 で開催した。
  諸藩より約220名が参加し、切腹の禁止、帯刀廃止など
 を討議した。
1869年4月19日(3月8日)造幣局を大阪の川崎に創設
1869年4月20日(3月9日)函館討伐の官軍が、品川を発す。
  黒田清隆、山田顕義ら軍艦及び運送船8隻に分乗。
1869年4月21日(3月10日)名主の制廃止
1869年4月22日(3月11日)、明治政府が、グラバー管理の
 小菅修船場(通称ソロバンドック)を、洋銀12万弗で買
 収し、長崎製鉄所の付属にした。
  1876年(明治9年)には、西南戦争のため、修理船が、
 11隻を数えた。新船も建造。
1869年4月23日(3月12日)天皇陛下が、伊勢神宮を参拝さ
 れた。
  伊勢大神宮へ天皇御親拝の始(明治天皇が伊勢へ行幸、
 内宮外宮御親拝)
  この時から、145年を経た2014年3月下旬にも、天皇陛
 下が20年ぶりに「三種の神器」を御持参されて、伊勢神
 を参拝された。
1869年5月1日(3月20日)府県に小学校を設け、また東京府
 に中小学校取調掛を設けた。
1869年5月1日(3月20日)朝廷修史のため史料編纂国史校
 正局を九段上旧和学講談所に設置(東京帝大史料編纂掛
 の始)
1869年5月6日(3月25日)宮古湾海戦(幕府残党軍による
 ストーンウォール号奪還事件)
  蝦夷共和国軍、甲鉄の奪取を試みるも失敗
1869年5月9日(3月28日)明治天皇陛下、再び東京へ
  東京城に到着、「皇城」と称する。
  これより実質的に東京が首都となる
1869年5月11日(3月30日)久我通久を函館鎮撫総督に任じ、
 軍艦「朝陽丸」にて差遣を命ぜられる
1869年5月20日(4月9日)新政府軍、蝦夷地に上陸。
1869年5月26日(4月15日)両替町を改称し銀座に
1869年5月27日、勝海舟、郡県制の御下問あり、難事でない
 旨述べる(氷川清話)
1869年5月、横浜馬車道の乗合馬車
  東京~横浜間に、乗合馬車が営業を始めた。
  開港後の横浜で、欧米人が持ち込んだ馬車が乗り回さ
 れていた。
  そして、1867年(慶応3年)秋には、茶や絹などの貿易
 を行っていたコブ商会によって、 江戸~横浜間の乗合馬
 車が企業化された。
  このコブ商会は、横浜と江戸の築地間に、午前と午後
 の2回、定期便を走らせた。
  料金は、1人2ドルで、所要時間は、2時間だった。
  1869年5月には、横浜と東海道を結ぶ「馬車道」(現在
 の馬車道とは異なる) が新設され、
  わが国の写真業の祖といわれる下岡蓮杖らによって、
 日本人の馬車会社 「成駒屋」が営業を始めた。
  成駒屋は、吉田橋(日本初の鉄製トラス橋;現在の伊
 勢佐木町入口付近)から 都橋を渡り、野毛山を通り戸部、
 平沼を経由して、東京日本橋四日市河岸まで 営業した。
  2頭立ての馬車を使って、定員6人、料金は3分(後に75
 銭)、所要時間 :4時間だった。
  ロンドンでは、1829年(文政12年)頃から馬車の定期
 運行をしていた。
..
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2016年2月4日木曜日

(増補版)289E1/3:気になった事柄を集めた年表(1868年12月~1869年2月)

題:(増補版)289E1/3:気になった事柄を集めた年表(1868年12月~1869年2月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1868年12月14日(明治元年11月1日)観音埼灯台(かんのん
 ざきとうだい、初の洋式灯台)が着工した。
  日本最古の洋式灯台として神奈川県横須賀市、三浦半
 島東端の観音崎に立っている。
  1869年2月11日に、完成し点灯した。
  1866年(慶応2年)、米英仏蘭と結んだ「改税条約」
 (江戸条約)によって建設を約束した8ヶ所の灯台(条約
 灯台)の1つ。
1868年12月16日(11月3日)、徳川民武大輔が、仏国より帰
 朝(氷川清話)
  徳川昭武(とくがわあきたけ)が、1868年10月18日(
 9月4日)に、マルセイユを出航し、
  12月16日(11月3日)神奈川に到着した。
  1869年には、水戸徳川家を相続し、藩主に就任した。
1868年12月17日(11月4日)東京遷都祝賀大会
1868年(11月9日)勝海舟、至急ご用あり、昼夜兼行出府
 仰せつけられる。
  行政官御達を受く。
  即日、駿府出発、11日東京着、これは、脱走軍艦処置
 の為(氷川清話)
1868年12月22日(11月9日)東京互市場を鉄砲洲に開き、外
 国事務局と称す(後の東京運上所)
  東京税関のホームページには、税関の前身として「運
 上所」が設けられ、運上事務及び外交事務を取り扱った
 と説明され、
  東京港における税関の歴史として慶応3年10月に、幕府
 によって、江戸築地鉄砲洲(現在の中央区明石町)に設
 けられたと書かれている。
  慶応3年10月は、1867年11月になる。
  また、中央区のホームページには、明治元年12月に、
 東京運上所として造られた建物・・云々と説明してあり、
 明治元年12月は、1869年1月となる。
1868年12月28日(11月15日) 開陽丸が、座礁し沈没す。
1868年12月31日(11月18日)新嘗祭奉拝の儀、東京城(江
 戸城)にて挙行された。
  新嘗祭(にいなめさい、しんじょうさい)は、、「新」
 は新穀を「嘗」はご馳走を意味し、新穀を得たことを神
 さまに感謝する。
  天皇陛下が、宮中で感謝を込めて新穀を神々に奉ると
 上もに、御自らも召し上がる。
  新嘗祭の起源は古く、『古事記』にも、天照大御神が
 新嘗祭を行ったことが記されている。
  命の糧を神さまからいただくための勤労を尊び、感謝
 をしあうことに由来している。
1868年、旧物打破の風潮が盛んになり、古美術が顧みられ
 ず。
  すべてが「ご一新」の風潮の中で、荒波が吹きまくっ
 た。
  旧物否定の風潮、仏教関係の建造物等の破壊となった。
  新物輸入が素晴らしいと、盲目の風潮の中にあった。
1868年、ヘボンが、日本最初の和英辞典を完成した(ヘボ
 ン式ローマ字の綴り)
1868年、アメリカのナバホ・インディアンは、
  西部開拓時代に、連邦政府と一族の命運をかけた戦い
 を繰り返すという悲惨な時代を過ごした。
  和平条約が結ばれたのは、1868年だった。
  以来、このアメリカの本当の所有者である先住民の方
 々は、アリゾナ州の北東部に与えられた自治区で細々と
 暮らす事を余儀なくされた。
1868年、カルロス・グリッテンが、タイプライターを発明
 した。
1868年、ロシアが、ブハラ・ハン国を保護国とした。
  ブハラ・ハン国は、中央アジアにあったウズベク人の
 国。
  ブハラを首都にイスラム教学と商業の中心地だった。
  18世紀末から、ロシアとの商業関係が深まるとともに
 国内統一が進展したが、ロシアの中央アジアの植民地化
 を目指す行動に敗れ、保護国になった。
  1920年に至り、ロシア革命と合流し、ブハラ人民ソビ
 エト共和国(1920年~1924年)の樹立となった。
1869年1月1日(明治元年11月19日)旧幕府軍追討令が出
 された。
1869年1月1日(11月19日)函館地方、占拠される。
1869年1月1日(11月19日)東京が開市する。
  築地に外国人居留地が設けられた。
  外国人を対象とした新島原遊郭ができる。
1869年1月1日(11月19日)新潟港開港
1869年1月1日(11月19日)燈明船、初めて横浜に設置。
1869年1月5日(11月23日)徳川昭武が、東京城で天皇陛下
 に御拝謁をした。
  徳川昭武が、パリからの帰国して「東京城」と名を改
 めた江戸城で、天皇陛下に御拝謁をした。
1869年1月6日(11月24日)徳川昭武に函館討伐を命ず。
1869年1月7日(11月25日)勝海舟、往復10日の御暇で帰藩
 (氷川清話)
1869年1月9日(11月27日)来月上旬には京都へ還幸すると
 の発表があったが、同時に、来春には東京へ再幸するこ
 とが発表された。
  この事は、明らかに、天皇陛下=政府が、京都よりも
 東京を重視しているという事を一般に印象づけるもので
 あった。
1869年1月16日、東京府知事・第2代の大木喬任(たことう)
 が就任した。
  この東京府知事の大木喬任(たことう)が、山の手の
 武家地・300万坪に桑やお茶を植えろと奨励した。
  武家屋敷地の荒廃であった。
  それは、江戸全体の7割を占める武家屋敷が、もういら
 なくなり、どんどん荒廃し、盗賊の住処になったりした
 からで、
  開城間もない頃の江戸城の写真を見ると、瓦は崩れ、
 壁がはげ、文字道り崩壊という感じがする。
  慶喜だって、在職中の2年数ヶ月の間、江戸城に入った
 ことはなく、
  天皇陛下の東幸時も、本丸の二の丸も、幕末に焼失し
 たままで、
  残った西ノ丸を皇居にしたぐらいであった。
  東京(江戸)の地は、願書を届け出さえすれば、土地
 は、桑や茶を開墾する人たちに貸し出された。
  また、あるいは、ただ同然に払い下げられた。
  南青山の土地が、千坪単位で売りに出されて15円、1坪
 1銭5厘だった。
1869年1月17日(12月5日)勝海舟、出府(氷川清話)
1869年1月18日、国是を決める大会議を開催
  この日、国是を決める大会議を開催するから、藩主・
 府県知事は、4月中旬まで東京に参集する様にと命ぜら
 れた。
  明治初年は、王政復古という事で、太政官の高官は平
 安時代の格好をしていた。また、平田派の廃仏稀釈運動
 があった。
1869年1月19日(12月7日)陸奥国を分って磐城、岩代、陸
 前、陸中、陸奥の五国とし、
  出羽国を分って羽前、羽後の二国に定む。
1869年1月20日(12月8日)明治天皇陛下、東京を発輦、京
 都へ還幸。
  旧暦12月22日に、京都に帰られた。
1869年1月23日(12月11日)徳川昭武が、新藩主として水戸
 へ下った。
1869年1月24日(12月12日)勝海舟、御用あり、滞京を仰せ
 つけられる。
  官命により幕臣の総員を調査し、併せて旗本8万騎の
 理由を述べる(氷川清話)
1869年1月27日(12月15日)蝦夷共和国の成立
  榎本武揚ら旧幕府軍が、蝦夷地を平定し、占領した。
  箱館政権を樹立し、蝦夷共和国が成立した。
  総裁が、入れ札(選挙)によって決められ、榎本武揚
 が総裁となった。
  榎本は、1869年1月13日(12月1日)に、蝦夷地の開拓
 を求める嘆願書を、イギリスおよびフランスの軍艦に託
 したが、両国公使から嘆願書を受領した右大臣・岩倉具
 視は、1869年1月26日(12月14日)、これを却下した。
1869年1月、徳川慶喜、罪を許される。
  徳川慶喜、謹慎を免ぜられ、1月、静寛院宮、京都に移
 られる(氷川清話)
1869年1月、公撰の法を設け、輔相、議定、参与登庸(氷川
 清話)
  公選というよりも互選で、官吏を選んだ。
  また、別史料には、
  「1869年(明治2)5月13日、天皇の詔(みことのり)に
 よって行われた官吏の選挙。
  三等官以上の上層官吏の公選によって、
  輔相(ほしょう)1名、議定(ぎじょう)4名、参与6名のほ
 か、神祇(じんぎ)、民部、会計、軍務、外国、刑法の六
 官知事・副知事と内廷職知事を決めた」とある。
1869年1月、太政官制定(氷川清話)
  太政官(だじょうかん)は、明治維新が開始された慶
 応4年/明治元年(1868年)、政体書によって設置された
 最高行政機関である。
  立法・行政・司法の機能を備えていた・・とある。
1869年2月1日(12月20日)沼津兵学校の開設
  沼津兵学校は、1868年(明治元年)、フランスに倣っ
 た軍隊を目指すという目標を掲げ、駿河国沼津の沼津城
 内の建物を使って徳川家によって開校された兵学校のこ
 と。
  受講資格は、徳川家の家臣である14歳から18歳という
 ことが原則ではあった。
  しかし、他藩からの留学生もいたといわれる。
  初代学長は西周であり、教師は優秀な幕臣の中から選
 ばれた。
  1870年(明治3年)に兵部省の管轄となった・・とある。
1869年2月3日(12月22日)明治天皇輦駕、京都に還幸
1869年2月3日(12月22日)歳末年始の官庁休暇制定
1869年2月4日(12月23日)渋沢栄一が、静岡で徳川慶喜に
 拝謁した。
  渋沢栄一は、パリから帰国し、この日、静岡で徳川慶
 喜に拝謁した。
  翌日、静岡藩勘定組頭に任じられた。
  新しい時代が始まった。
.
  付録:今日の言葉:
  「目視検査だけで点検するのは、『落ちるまで安全』
          と言っているようなもの」。
  解説:目視検査だけで「落ちる」「落ちない」の判断
   が、できる訳がない。
    国をはじめ公的機関は、目視検査だけで危険のチ
   ェックが、「できる」という考え方をして、検査基
   準を決めている。
    笹子トンネルの落下事故のゆるんだボルトが、目
   視検査で発見できなかった事を学んでいない。
    国民の命のリスクは減少していない。
..
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2016年2月3日水曜日

(増補版)288E1/3:気になった事柄を集めた年表(1868年12月~1868年12月)

題:(増補版)288E1/3:気になった事柄を集めた年表(1868年12月~1868年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1868年12月8日(10月25日)榎本武揚、大鳥圭介、荒井郁之
 助らが、函館の五稜郭に、陣を整えた。
  新政府側の箱館府知事の清水谷が、箱館を脱出した翌
 日・1868年12月9日(10月26日)に、
  榎本軍は、川汲峠側から進撃して来た一連隊を先頭に、
 五稜郭に無血入城した。
  峠下側の主力部隊が、峠下、七飯、大野で、箱館府軍
 と戦っていて、遅くなったためだった。
  箱館無血入城を聞いた榎本らは、直ちに、艦隊を箱館
 に回航した。
  箱館は、外国人が住んでいるため、それを考慮して発
 砲をせずそのまま入港した。
  その後、直ちに運上所(倉庫)を押さえた。
  1868年12月10日(10月27日)に、秋田藩の船である高
 雄丸(船将:田島圭蔵)が、箱館が、榎本軍に占領され
 ている事を知らずに入港して来た。
  榎本軍は、直ちに、この船を拿捕した。
  船は、榎本軍が接収したが、乗組員は、後日、無事に、
 本州へ帰した。
  榎本軍は、蝦夷地上陸後、わずか5日で、大きな損害
 も出さず、箱館を占拠した。
  榎本武揚の主旨は・・、
  義憤:ぎふん、辞書に、「道義に外れたこと、不公正
 な事に対するいきどおり」・・とある。
  新政府が、1868年7月13日(5月24日)に、決定した徳
 川家への処置は、駿河、遠江70万石への減封というもの
 であった。
  これにより、約8万人の幕臣を養うことは困難となり、
 多くの幕臣が、路頭に迷うことになった。
  これを憂いた海軍副総裁の榎本武揚は、蝦夷地に、旧
 幕臣を移住させ、北方の防備とともに、その地の開拓に
 あたらせようとした。
  榎本は、平潟口総督四条隆謌宛てに、『旧幕臣の救済
 のため蝦夷地を開拓する』という内容の嘆願書を提出し
 ていた。
1868年12月10日(10月27日)備前藩、津藩、久留米藩が、
 函館に出征した。(10月30日説あり)
1868年12月13日(10月30日)箱館占拠さるの報
  [新政府軍が集結する、そして、出征]: 旧幕府軍によ
 る箱館占拠の通報が東京に届き、
  新政府は、直ちに、津藩兵・岡山藩兵・久留米藩兵の
 計約1,000名を海路で青森に送った。
  その他、1868年12月19日(11月6日)、奥羽征討軍参謀
 であった山田顕義が、長州藩兵・徳山藩兵を率いて秋田
 から青森に入り、
  1868年12月22日(11月9日)に、青森口陸軍参謀に就任
 した。
 そして、1869年1月1日(11月19日)には、旧幕府軍追討
 令が出された。
  1869年1月9日(11月27日)、青森に避難していた箱館
 府知事・清水谷公考が、青森口総督を兼務することとな
 った。
  しかし、冬季作戦などの準備は全くないので、箱館征
 討は、翌年の雪解けを待って開始することとし、青森周
 辺に冬営した。
  [陸軍]: 陸軍は、1869年3月(明治2年2月)には、松
 前藩、弘前藩兵を中心に、約8,000名が青森に集結した。
  [海軍]: 海軍は、アメリカの局外中立撤廃を受けて、
 品川に係留されていた最新鋭の装甲軍艦甲鉄を、
  1869年3月(明治2年2月)に購入するとともに、
  増田虎之助を海軍参謀とし、諸藩から軍艦を集めて艦
 隊を編成した。
  1869年4月20日(3月9日)、新政府軍艦隊(甲鉄・春日・
 陽春・丁卯)の軍艦4隻と、豊安丸・戊辰丸・晨風丸・飛
 龍丸の運送船4隻は、甲鉄を旗艦として品川沖を青森に向
 け出帆した。
  [宮古湾海戦が起きた]: 旧幕府軍は、新政府軍艦隊が、
 宮古湾に入るとの情報を受け、甲鉄を奪取する作戦を立
 案した。
  1869年5月1日(3月20日)に、海軍奉行・荒井郁之助を
 指揮官として、
  陸軍奉行並・土方歳三以下100名の陸兵を乗せた回天と、
 蟠竜、箱館で拿捕した高雄の3艦は、宮古湾に向け出航し
 た。
  1869年5月4日(3月23日)に、暴風雨に遭遇した3艦は、
 統率が困難となり、集結地点である山田湾には、回天と
 高雄が到着したが、蟠竜は現れなかった。
  その上、高雄は、蒸気機関のトラブルで速力が半分に
 落ちており、このままだと勝機を逸してしまうため、回
 天だけで決行することとした。
  1869年5月6日(3月25日)早暁、回天は、宮古湾へ突入
 する。
  日章旗を揚げて、全速力で甲鉄へ向かった。
  奇襲は成功した。
  しかし、外輪船の回天は横付けできず、甲鉄の側面に
 艦首を突っ込ませて『丁字』の形という不利な体勢にな
 った事や、
  甲鉄より船高が3m高いこともあり、兵が、甲鉄へ乗り
 移りにくく、思うように戦えなかった。
  その上、回天の艦首から飛び降りる旧幕府兵は、甲鉄
 に装備されていたガトリング砲や小銃の絶好の的となり、
 次々と撃ち倒された。
  そして、戦闘準備を整えた宮古湾内の他の艦船の反撃
 が始まった。
  作戦は失敗に終わった。そして、宮古湾を離脱した。
  回天艦長・甲賀源吾や、旧新選組の野村利三郎など19
 名が戦死した。
  機関故障のため速力が出ない高雄も、新政府軍の春日
 に追撃された。
  そこで、田野畑村羅賀浜へ座礁させて、火を放ち、乗
 組員は、盛岡藩に投降した。
  [新政府軍が上陸した]: 宮古湾海戦に勝利した新政府
 艦隊は、1869年5月7日(3月26日)に、青森に到着した。
  兵員輸送用にイギリス船オーサカと、アメリカ船ヤン
 シーをチャーターし、1869年5月(4月初)には、渡海準
 備が完了した。
  海陸軍参謀の山田顕義が率いる新政府軍1,500名が、
 1869年5月17日(4月6日)に、青森を出発した、
 そして、1869年5月20日(4月9日)早朝、乙部に上陸した。
  旧幕府軍は、上陸を阻止すべく江差から一聯隊150名
 を派遣したが、上陸を終えていた新政府軍先鋒の松前兵
 によって撃退された。
  陸兵が、小競り合いを続けている間に、春日を中心と
 する新政府軍の軍艦5隻は、江差砲撃を開始した。
  江差の砲台は、反撃を試みるも、敵艦に砲弾は届かず、
  江差奉行・松岡四郎次郎ら旧幕府軍は、松前方面に後
 退した。
  新政府軍が江差を奪還すると、1869年5月23日(4月12
 日)には、陸軍参謀・黒田清隆が率いる2,800名が上陸し
 た。
  また、1869年5月27日(4月16日)にも、増援が江差へ
 上陸した。
  そして、松前口(海岸沿いに松前に向かう)、木古内
 口(山越えで木古内に向かう)、二股口(乙部から鶉・
 中山峠を抜け大野に向かう)、安野呂口(乙部から内浦
 湾に面する落部に向かう)の四つのルートから、箱館へ
 向けて進軍を開始した。
  一方、旧幕府軍では、1869年5月25日(4月14日)、仙
 台藩を脱藩した二関源治が率いる見国隊400名が、イギリ
 ス船で鷲ノ木近くの砂原に到着し、室蘭、及び、箱館防
 備に投入された。
  [松前の戦い]: 1869年5月22日(4月11日)、松前を守
 備していた伊庭八郎が率いる遊撃隊と、春日左衛門が率
 いる陸軍隊を中心とする部隊500名が、江差奪還のために
 出撃した。
  根武田(現・松前町)付近で、新政府軍の斥候を蹴散
 らし、翌日には、一気に茂草(現・松前町)まで進出し
 た。
  新政府軍は、江差まで退却した。
  このまま、江差奪還を目論んだが、新政府軍が後方の
 木古内に進出中との情報を受け、松前へ撤退した。
  1869年5月28日(4月17日)に、新政府軍は、松前を攻
 撃した。
  新政府軍の艦砲射撃に加えて、戦力差は歴然としてお
 り、40名以上の戦死者を出した旧幕府軍は、松前城を放
 棄し、知内まで敗走した。
  [木古内の戦い]: 木古内では、1869年5月23日(4月12
 日)に、陸軍奉行・大鳥圭介の指揮する伝習隊、額兵隊
 などが駆けつけ、同地を守っていた彰義隊などと合流し、
 500名が布陣した。
  新政府軍の斥候と小競り合いを繰り返していたが、松
 前から敗走してきた部隊を取り込み、木古内周辺の要所
 に部隊を配置した。
  1869年5月31日(4月20日)未明に、木古内口の新政府
 軍が総攻撃を開始すると、昼ごろまで、激戦が続いた。
  旧幕府軍は、額兵隊と遊撃隊などが、最後まで踏み止
 まっていたが、70名以上の死傷者を出して、泉沢(現・
 木古内町)まで後退した。
  その後、本多幸七郎率いる伝習隊などの援軍を加え、
 知内に孤立した彰義隊など300名を救うために、再び、木
 古内へ向かった。
  孤立していた部隊も、木古内突入を決め、挟撃を恐れ
 た新政府軍が撤退し、木古内の奪還に成功した。
  しかし、旧幕府軍は、木古内を放棄し、地形的に有利
 な矢不来(現・北斗市)まで後退し、砲台と胸壁を構築
 して布陣した。
  [矢不来の戦い]: 新政府軍は、木古内で木古内口と松
 前口の軍が合流した。
  その後、補給を整えた新政府軍は、1869年6月9日(4月
 29日)に、陸軍参謀・太田黒惟信が、1,600名を率いて
 本道、海岸、山上の三方から矢不来を攻撃した。
  旧幕府軍は、甲鉄・春日等による艦砲射撃で、衝鋒隊
 の大隊長・天野新太郎や、永井蠖伸斎など多数の死傷者
 を出し、総崩れとなった。
  大鳥圭介は、富川(現・北斗市)で、部隊の立て直し
 を図ったが果たせず、有川(現・北斗市)まで撤退した。
  有川では、榎本武揚自ら指揮を執るが、旧幕府軍は、
 完全に崩壊していた、箱館方面へ敗走を始めた。
  旧幕府軍は、この戦闘で、160名の戦死者を出した。
  [二股口の戦い]: 土方歳三の指揮で、衝鋒隊・伝習隊
 からなる300名は、1869年5月21日(4月10日)に、台場山
 (現・北斗市)に到着し、二日がかりで、16箇所に胸壁
 を構築し、新政府軍を待ち構えた。
  1869年5月24日(4月13日)正午過ぎ、700名の新政府軍
 が攻撃を開始し、対する土方軍は、胸壁を楯に小銃で防
 戦した。
  数で勝る新政府軍は、次々と兵を入替えて攻撃を繰り
 返すが、土方軍は雨の中、2小隊ずつが交代で小銃を撃ち
 続けた。
  翌5月25日(4月14日)早朝、新政府軍は、疲労困憊し、
 稲倉石まで撤退した。
  旧幕府軍が、撃った弾丸は、3万5千発に及び、16時間
 にわたる激闘であった。
  1869年6月2日(4月22日)に、新政府軍は、再度、攻撃
 を試みるが、土方軍は、これも撃退した。
  1869年6月3日(4月23日)午後、新政府軍は、正攻法を
 あきらめ、急峻な山をよじ登り、側面から小銃を打ち下
 ろした。
  そのまま、夜を徹しての大激戦となった。
  1869年6月4日(4月24日)未明には、瀧川充太郎が率い
 る伝習士官隊が、抜刀し、敵中に突進した。
  そして、混乱する新政府軍を敗走させた。
  それでも、新政府軍は、次々と新しい兵を投入し、旧
 幕府軍は、熱くなった銃身を水桶で冷やしながら、小銃
 で応戦し続けた。
  1869年6月5日(4月25日)未明、ついに新政府軍は、撤
 退した。
  これ以降、新政府軍は、二股口を迂回する道を山中に
 切り開き始めた。
  1869年6月9日(4月29日)に、矢不来が、新政府軍に突
 破されると、退路を断たれる危険があった土方軍は、五
 稜郭への撤退を余儀なくされた。
  [箱館総攻撃]: 1869年6月8日(4月28日)に、青森口
 総督・清水谷公考が、江差から上陸した。
  1869年6月10日(5月1日)以降、松前・木古内から進軍
 した東下軍と、二股から進軍した南下軍が、有川付近に
 集結し、箱館攻撃の態勢を整えた。
  敗色濃厚となったため、1869年6月11日(5月2日)、ブ
 リュネらフランス軍人は、フランス船で箱館を脱出した。
  旧幕府軍は、大鳥圭介らが、七重浜の新政府軍を数度
 に渡って夜襲したが、
  1869年6月17日(5月8日)に、榎本自ら出陣した大川
 (現・七飯町)への夜襲は、失敗に終わった。
  1869年6月20日(5月11日)に、新政府軍は、箱館総攻
 撃を開始し、海陸両方から箱館に迫った。
  [箱館湾海戦]: 旧幕府海軍は、自らのミスから新政府
 軍に千代田形を奪われていた。
  1869年6月12日(5月3日)夜、遊軍隊のスパイ・斎藤順
 三郎により弁天台場の大砲が使用不能にされ、急遽、箱
 館湾に綱を敷設したものの、
  1869年6月15日(5月6日)に、新政府軍により切断され、
 軍艦を箱館湾に進出された。
  1869年6月16日(5月7日)の海戦で、回天が蒸気機関を
 破壊され、意図的に浅瀬に乗り上げ、浮き砲台となった。
  1869年6月20日(5月11日)の海戦では、一隻残った蟠
 竜が、新政府軍の朝陽を撃沈し、旧幕府軍の士気は、大
 いに高まった・・が、
  砲弾を射ちつくした蟠竜も、座礁の上、乗組員は上陸
 して弁天台場に合流した。
  [四稜郭方面の戦闘]: 旧幕府軍では、大鳥圭介が、五
 稜郭北方の進入路にあたる亀田新道や、桔梗野などに伝
 習歩兵隊、遊撃隊、陸軍隊などを配置して、指揮を執っ
 ていた。
  1869年6月20日(5月11日)早暁、新政府軍4,000名が、
 大挙して押し寄せてきた。
  大鳥は、東西を奔走し、自らも大砲を撃って、力戦し
 たが、夜には五稜郭に撤退した。
  また、旧幕府軍が、五稜郭の北に急造した四稜郭では、
 松岡四郎次郎が率いる一聯隊が、防戦していた・・が、
  五稜郭との中間に位置する権現台場を、新政府軍に占
 領されると、退路を断たれることを恐れ、五稜郭へ敗走
 した。
  [背後への奇襲上陸・箱館市街の戦闘]: 一方、1869年
 6月20日(5月11日)未明、豊安丸と飛龍丸に分乗した陸
 軍参謀・黒田清隆率いる新政府軍700名が、夜陰に紛れて
 箱館山の裏側に上陸した。
  豊安丸の部隊は、西北側の山背泊から上陸し、弁天台
 場の背後を脅かした。
  黒田直率の飛龍丸の部隊は、西側の寒川付近に上陸し、
 絶壁をよじ登って、箱館山の山頂に到達した。
  山頂にいた旧幕府軍監視兵は、驚いて遁走し、夜明け
 までには箱館山が占領された。
  このとき、遊軍隊が、箱館山薬師堂で、奇襲部隊を迎
 え、山道の案内にあたった。
  新政府軍の奇襲上陸に対し、箱館奉行・永井尚志は、
 弁天台場に入り、守備を固め、瀧川充太郎が、新選組、
 伝習士官隊を率いて、箱館山へ向かった。
  しかし、山頂からの攻撃は、圧倒的で、大森浜沖の陽
 春からの艦砲射撃もあって、一本木関門付近まで退き、
 さらに、五稜郭まで後退した。
  午前11時ごろには、箱館市街は、制圧されたが、弁天
 台場の旧幕府兵が、材木屋に放火、瞬く間に火が広がり、
 872戸を焼失した。
  箱館市街を制圧した新政府軍は、一本木関門方面に進
 出する。
  これに対して、土方歳三は、孤立した弁天台場の救出
 に向かうが、一本木関門付近で、指揮中に狙撃され戦死
 した。
  さらに、副総裁・松平太郎が、箱館奪還を試みるが失
 敗し、五稜郭、弁天台場、千代ヶ岱陣屋のみが残るだけ
 となった。
  1869年6月21日(5月12日)には、五稜郭に対して箱館
 湾の甲鉄による艦砲射撃が始まり、古屋作久左衛門が重
 傷を負ったほか、死傷者が続出した。
  また、旧幕府軍では脱走兵が相次いだ。
  [戊辰戦争終結]: 1869年6月21日(5月12日)夜、新政
 府軍参謀・黒田清隆の命を受けた軍監・村橋久成、監軍・
 池田次郎兵衛が、箱館病院を往訪し、
  諏訪に降伏交渉の仲介を頼もうとするが瀕死のため、
 高松凌雲らと協議し、高松と病院事務長との連名で榎本
 に降伏を勧告した。
  榎本は、士官以上を集めた会議の結果、1869年6月23日
 (5月14日)、これを拒絶したが、
  灰塵に帰するには惜しいとして榎本がオランダ留学時
 に入手した、海事に関する国際法と外交に関する書物
 『海律全書』を黒田に届けさせた。
  1869年6月23日(5月14日)同日、榎本は、永井の口利
 きにより千代ヶ岱陣屋付近の家屋で、軍監・田島圭蔵ら
 と会見した。
  榎本は、降伏勧告を改めて拒絶するが、五稜郭にいる
 傷病者の後送を申し入れた。
  250人の傷病者は、その日のうちに湯の川へ送られた。
  弁天台場は、艦砲射撃と背後の上陸部隊の攻撃に持ち
 堪えていたが、
  艦を失った海軍兵を収容していたこともあり、兵糧が
 底をつき、1869年6月24日(5月15日)に、永井尚志以下
 240名が降伏した。
  1869年6月24日(5月15日)同日、榎本は、五稜郭に捕
 らわれていた新政府軍の捕虜11名を送り返した。
  [千代ヶ岱陣屋の陥落]: 五稜郭の前哨、千代ヶ岱陣屋
 にも、降伏勧告の使者が訪れていたが、箱館奉行並・中
 島三郎助は、これを拒否した。
  一方、小彰義隊長・渋沢成一郎が、隊士とともに湯の
 川に逃走した。
  1869年6月25日(5月16日)に、五稜郭からの撤退命令
 も拒否して、中島は、浦賀与力時代の部下らとともに最
 後の抵抗をした。
  1時間の戦闘で、守備隊は壊滅し、中島三郎助は、2人
 の息子とともに戦死した。
  これが、箱館戦争最後の戦闘となった。
  榎本は、同日の夕刻、榎本側から軍使を遣わし、翌朝
 7時までの休戦を願い出た。
  政府側は、それを了承し、五稜郭に対する総攻撃開始
 の日時を通告した。
  休戦の間、幕府軍首脳側は、合議の上、降伏し五稜郭
 開城を決定した。
  同夜、榎本は、敗戦の責任と、降伏する兵士の助命嘆
 願の為に、自刃しようとしたが、たまたま近くを通りか
 かった(介錯を頼む為、榎本が呼び止めたとも言われる)
 大塚霍之丞に制止された。
  翌1869年6月26日(5月17日)朝、総裁・榎本武揚、副
 総裁・松平太郎ら旧幕府軍幹部は、亀田の会見場に出頭
 した。
  陸軍参謀・黒田清隆、海軍参謀・増田虎之助らと会見
 し、幹部の服罪と引き換えに、兵士たちの寛典を嘆願し
 た。
  しかし、黒田は、幹部のみに責任を負わせると、榎本
 を始めとする有能な人材の助命が困難になると考え、こ
 れを認めなかった。
  これ以上の戦闘継続は困難であった榎本が折れ、無条
 件降伏に同意した。
  新政府軍が、降伏の手順を明らかにする実行箇条の提
 出を要求して、この会談は終了した。
  その後、榎本は、降伏の誓書を亀田八幡宮に奉納して、
 一旦、五稜郭へ戻り、夜には実行箇条を提出させた。
  1868年6月27日(5月18日)早朝、実行箇条に従い、榎
 本ら幹部は、亀田の屯所へ改めて出頭し、昼には、五稜
 郭が開城した。
  郭内にいた約1,000名が投降し、その日のうちに、武装
 解除も完了した。
  ここに、箱館戦争、及び、戊辰戦争は終結した。
  なお、室蘭の開拓と守備に当たっていた開拓奉行・澤
 太郎左衛門以下250名は、22日に投降した。
..
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2016年2月2日火曜日

(増補版)287E1/3:気になった事柄を集めた年表(1868年11月~1868年12月)

題:(増補版)287E1/3:気になった事柄を集めた年表(1868年11月~1869年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1868年11月19日(10月6日)鎮撫総督・四条隆謌(しじょう
 たかうた、華族、陸軍軍人、貴族院議員)が、仙台に入
 城した。
  戊辰戦争では、中国四国追討総督・大総督宮参謀・仙
 台追討総督・奥羽追討平潟口総督などを務めた。
1868年11月26日(10月13日) 明治天皇陛下が、江戸城に
 到着された。
  江戸城は、その日のうちに、東幸の皇居と定められ、
 東京城と改称され、事実上の遷都が完了した。
  行幸・遷都は、やはり大久保のリーダーシップにかか
 っていた。
  この後、天皇陛下は、12月22日に、京都に還幸(かん
 こう、天皇陛下が出先から帰ること)された。
  幕臣の日記:晴。主上今日御着と申事末沙汰にて、と
 不相知(明治天皇が本日江戸城入場というが知らせがな
 いのでしかとは分からない)
1868年11月28日(10月15日)万機御親裁の詔を下す (10月
 17日説あり)
  天皇陛下が、皇国一体・東西同視のもと、内外の政を
 自ら裁決することを宣言する詔(万機親裁の宣言)を発せ
 られた。
  そして、東京の市民(かつての江戸市民)は、この東
 幸を盛大に祝った。
1868年12月5日(10月22日) 榎本軍が、箱館府軍との間に
 戦闘を開始した。
  そして、1869年1月4日(11月22日)までに、蝦夷地を
 平定した。
  北海道(蝦夷地)での戦いは・・、
  榎本軍が鷲の木海岸に上陸し → 箱館に向けて各隊
 が出発し → 土方歳三も進軍し → 峠下の戦いが起
 き → 五稜郭に無血入城する・・と進んだ。
  1868年10月4日(8月19日)などの、新政府の旧徳川幕
 府への処分を不服とする榎本武揚は、
  旗艦・開陽丸をはじめとする8隻の艦隊を率いて、奥
 羽戦争の奥羽列藩同盟側Wの支援の為に、仙台へと向かっ
 た。
  途中、嵐のために咸臨丸、美架保丸を失い、開陽丸の
 他の船も損傷しながらも、仙台の東名浜に着いた。
  ・・が、やがて・・、1868年10月17日(9月2日)に、
 戦況の不利によって、仙台藩は、新政府への降伏を決定
 した。
  この結果を受け、榎本艦隊は、最終目的地である蝦夷
 地へ向かうための準備を始めた。
  その間に、北関東・東北各地で新政府と戦った大鳥圭介
 や、土方歳三が率いる伝習隊、また、
  古屋作佐衛門の衝峰隊、仙台藩の降伏を不服とする星
 恂太郎の額兵隊や、
  会津藩・松平容保公の弟で桑名藩藩主・松平定敬など
 が続々と榎本艦隊に終結した。
  1868年11月22日(10月9日)、榎本は、長崎丸・大江丸・
 鳳凰丸・回春丸を加えて蝦夷地へ出発した。
  途中、南部の宮古湾で補給した。
  1868年12月2日(10月19日)~1868年12月6日(10月23
 日)にかけ、順次、蝦夷の内浦湾(噴火湾)に面する鷲
 の木浜に集結した。
  榎本たちの目的地は、箱館だった。
  だが、当時、箱館は、貿易港だったため、諸外国の商
 船が、沢山、停泊していた。
  そこに、軍艦である開陽丸や回天丸などが入港しては、
 混乱を招く恐れがあるので、
  それを避けるため、箱館の裏側に当たる内浦湾に停泊
 した。
  そして、回天からの上陸者の約30名が、村会所を訪れ、
 村在住の箱館府の役人に、翌日からの兵の上陸を伝えた。
  また、宿泊所の手配を依頼した。
  予定通り翌・1868年12月3日(10月20日)から兵の上陸
 を開始した。
  しかし、波浪のため、上陸用のボートが転覆したり、
 船から海に落ちたりして、16名の犠牲者を出した。
  犠牲者は、海岸の近くの霊鷲院に葬られた。
  上陸した榎本らは、地元の有力者に、籾米を担保に軍
 資金(約250両)を借りた。
  そして、1868年12月4日(10月21日)に、遊撃隊の人見
 勝太郎、本田幸七郎(伝習隊)が率いる30余名が、箱館
 に向け出発した。
  これは、箱館府知事の清水谷公考(しみずたにきんな
 る)に嘆願書を渡すためであった。
  嘆願書の内容は・・、
  「蝦夷地の徳川家への借用の件はかねてから朝廷へ願
 い出ている通りである。
  ついては、それまでの間、そちら(箱館府)で我々の
 身柄を預かってもらいたい。
  万が一、それが許されない場合は、戦いも辞さないつ
 もりである」であった。
  榎本艦隊は、当時の最強艦隊であり、
  また、その兵は、戊辰戦争を戦った新撰組や彰義隊の
 精鋭であり、
  また、最新の装備を充実させた伝習隊や、額兵隊など
 総勢約3000名の兵力を持っていた。
  榎本軍は、このまま箱館府と戦っても、十分に勝てた。
  そして、蝦夷地の警備の兵力は、新政府に従ってない
 東北諸藩に委ねられ、孤立状態の蝦夷地になっていて、
 物資欠乏の恐れさえもあり、前途は困難だった。
  しかし、榎本も戦っては、完全に朝敵となってしまい、
 また、新政府との妥協の道が閉ざされてしまうところで
 もあった。
  そこで、交渉で解決を図ろうとした。
  この交渉隊とは別に、「戦」の構えとして、交渉隊が
 出発した翌日、大鳥圭介を隊長とする伝習隊、遊撃隊、
 新撰組、砲兵隊など750名を率いて、後続隊として出発
 させた。
  また、土方歳三を隊長にした額兵隊、陸軍隊400余名を
 駒ヶ岳を回りこむように、川汲峠経由で箱館に向けて出
 発させた。
  そしてまた、その後続として、古屋作久衛門率いる衝
 峰隊が出発した。
  戦いになった場合に主力となるであろう峠下方面の部
 隊には、白兵戦部隊として、実戦経験豊富な伝習隊、遊
 撃隊、新撰組を、
  そして、砲撃の専門部隊である砲兵隊を組合せた。
  また、川汲方面の迂回部隊は、当時の最新の洋式装備
 を備えている額兵隊を中心にして、
  また、榎本軍の中では屈指の指揮能力を有する土方歳
 三を隊長に据えた。
  後続は、信州などで新政府軍と戦ったことのある衝峰
 隊を当てた。
  こちらも戦争となった時、峠下方面の主力部隊と共に
 呼応して、箱館を攻撃することになっていた。
  その頃、鷲の木海岸からの伝令で、榎本軍が上陸した
 のを知った清水谷公孝が、榎本軍を迎え撃つために、
  津軽藩、備後福山藩、越前大野藩、松前藩の兵と、箱
 館府兵とを、峠下方面に向けて出発させていた。
  1868年12月5日(10月22日)の夜半、峠下村の宿に宿泊
 中の人見隊へ向けて、箱館府軍が砲撃した。
  ここに「箱館戦争」が始まった。
  当初は、不意を襲われ、混乱していた人見軍だが、す
 ぐ体制を立て直し、反撃に移った。
  さらに、後方の伝習隊と合流して総攻撃を開始した。
  箱館府軍は、わずかな時間、数時間で敗退した。
  これは、榎本軍に、蝦夷地が最終決戦の地という「背
 水の陣」の気があり、
  その士気の高さと、戊辰・奥羽の各地で戦った実戦の
 経験豊富な兵がそろっていたからだった。
  実戦経験のほとんど無い箱館府兵では、勝負は、はじ
 めから決まっていた。
  また、装備の面でも、その差は歴然だった。
  榎本軍は、元込め式の銃を使ってたの対し、箱館府軍
 は、先込め式の旧式銃だった。
  戦場での携帯食にもその差が現れた。
  当時の榎本軍は、すでに洋式の携帯食のカンパンをと
 り入れていた。
  一方の箱館兵は、普通の米の握り飯であった。
   旧暦10月(新暦11月)の北海道は、もはや冬であっ
 た。
  水分を含む握り飯は不利だった。
  この差からも、両軍の戦闘士気の差は広がった。
  峠下の戦いの後、榎本軍は、軍を立てなおし、箱館に
 向け進軍を開始した。
  これに対して箱館府軍は、大野、七重に陣を敷いた。
  七重方面の戦闘の指揮を取るのは、箱館府権判事・堀
 真五郎の長州人だった。
  榎本軍は、この両方を攻略すべく兵力を2つに分け、
  1868年12月7日(10月24日)午後に攻撃を開始した。
1868年12月7日(10月24日)大鳥圭介らの軍、函館に迫る。
  榎本軍は、この日の午後、攻撃を開始した。
  ここでも、箱館府軍は、士気と装備が劣勢で、やがて
 堀は負傷した。
  やむなく、守備陣地の戸切陣地を焼き払い、撤退した。
  しかし、劣勢の箱館府側にも勇敢な者達がいた。
  越前大野藩士・三宅友七(17)は、榎本軍の中に単身
 斬り込み、銃剣で一人を刺殺した。
  そして、その直後、榎本軍の銃弾に倒れた。
  また、備後福山藩の梅田小太郎(22)は、重傷を負い、
 その場で自害しようとしたが、手を怪我していて思うよ
 うに出来ず、
  仲間の兵に介錯を頼もうとしたが、敗退中で誰もして
 くれる者がいないので、仕方なく地面に刀を立て、刃を
 のどに当てて倒れこんで自害をした。
  また、備後福山藩の死者の中には、内藤金三郎(16)、
 松本喜多治(17)、千賀猪三郎(20)など、若い藩士の
 戦死が目立った。
  また、榎本軍も、この戦いで、新撰組の三好胖(17)
 という若者を失っている。
  彼は、徳川幕府の老中の小笠原長行の実弟であった。
  彼は、当初、戦場の後方いたが、戦いの勢いに、刃を
 振りかざして斬り込み、銃弾によって戦死してしまった。
  その戦いぶりは、後々まで語り継がれる事になった。
  この同じ日に、土方が率いる別働隊も、川汲峠で箱館
 府軍と対峙した。
  こちらも、榎本軍の奇襲によって、箱館府軍は、すぐ
 に敗退した。
  各地の敗戦を聞いた箱館府知事の清水谷は、五稜郭の
 放棄を決め、1868年12月8日(10月25日)に、プロシアの
 チャータ-船で青森へと脱出した。
..
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