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2013年7月31日水曜日

たとえ、言ったとしても・・。

 題: たとえ、言ったとしても・・。
...(真を求めて 皆様と共に幸せになりたい)
.
 キリスト教の聖書の(「マルコによる福音書」6・1~6)に、
 故郷のナザレに帰ったイエスに、故郷の人が、イエスについ
て言う、
 「この人は、大工ではないか、マリアの息子ではないか」と。
 多分、イエスが大工だと知ってて、母親のマリアの家族も知
っているので、近所の人なのだと思われる。
 イエスの父親のヨセフが、大工ということは、有名なので、
誰でも知っているだろうが、
 イエスも、父親と同じ大工だったという事が分かる。
 後を継いだのだろう。
 この発言をした人は、イエスを良く知っているので、近所の
人で、大工仕事を、イエスに発注し、頼んでいたかもしれない。
 イエスも、この人の様な人から、賃金を貰(もら)って、生
計(せいけい)をたてていたのだろう。
 ヨセフが、どうやら、早死(はやじ)にしている様なので、
マリアや兄弟・姉妹は、イエスの賃金をあてにしての生活だっ
たのだろう。
 マリアは、ユダヤ教の神殿のエルサレム神殿に、一番安い供
犠(くぎ)である鳩を持って、御参(おまい)りに行っている
ので、家計は楽な方ではなかったと考えられる。
 イエスは、長男で、兄弟・姉妹も多かったので、イエスの肩
には、この多くの家族の重責(じゅうせき)・責任がかかって
いた。
 しかし、イエスは、どうやら「仕事に精を出す」ような人で
はなかったようだ。
 イエスは、遊行(ゆうこう)する人と言われている。
 その分、母・マリアが、イエスの肩代わりをして、働かねば
ならない状態になっていたと考えられる。
 イエスの大工仕事は、現代の大工さんの仕事の様な「家を建
てる仕事」ではなく、
 イエスは、「家具や農具の製作や修理を生業(すぎわい)」
にしていた。
 イエスは、「托鉢(たくはつ)」はしていないので、この大
工仕事が、主な収入源だったようだ。
 しかし、毎日、仕事に精を出すということではなく、時折
(ときおり)、仕事をし、遊行するという身分であった。
 本当は、家族も困っていたのではないかと思われる。
 その所を、イエスは、しっかり語っていないので、ある意味、
うやむやなので、本当に家族に対する責任感があったのかは不
明、疑問は残る。
 多分、イエスの行動から判断すると、母親のマリアの肩に、
マリア一人に、一身に家計を支えるという重責が、掛かってし
まっていたのだろうと思える。
 この様な状態の中で、イエスと、「弟子」と言われたかは不
明だが、「現代では弟子と言われている」仲間たち(実態は、
弟子がイエスを叱ったりしてもいる)と、エルサレム神殿の前
でお店を開いている民の店を、壊(こわ)すという、大暴れを
演じている。
 イエスが、マリアの家の近所だったのだろう、その場所で
「病気癒しをしているところ」に、母・マリアや兄弟・姉妹が
駆けつけるという事態・事件が起きている。
 母に心配をかけるイエスという状態。
 少なくとも、イエスと「母・マリアや兄弟姉妹」との間は、
「意思の疎通(そつう)を欠く」状態だったと言える。
 少なくとも、イエスは、「家族の理解を得られない中の活動」
をしていると言える。
 家族が、「『逮捕』という言葉を使うような行動」を起こす
わけがない。
 イエスは、家計を心配し、責任を果たすべき長男であるが、
その「家計の責任は放り出し」ている。
 またそこも、誰へも納得させずにいるイエス。
 「筋の通った説明」をして、「そうしてから、活動をする」
ということを「してない」イエスだと言える。
 弟子達も、ある時、言う。イエスは、弟子たちから、「今ま
で、あなたに(従順に)従って来たのだから、わたしたちに、
何をしてくれますか?」などと聞かれている。
 何ら、イエスは、家族もそうだが、弟子達へも、しっかり理
解を得られるような行動をしていなかったと言える。
 例(たと)え、言ったとしても、「理解を得られるように話
すことが苦手(にがて)」なイエスだったと言える。
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(参考)く‐ぎ【供犠】 神に、いけにえを供える宗教的・呪術的
(じゅじゅつてき)儀式。また、そのいけにえ。きょうぎ。
(参考)じゅう‐せき【重責】 重大な責任。「―を果たす」
(参考)ゆう‐こう【遊行】 [名](スル) 1 遊び歩くこと。
「外国に―して一時歓娯を極むるに似たれども」〈織田訳・花
柳春話〉 2 さまようこと。
(参考)すぎ‐わい【生業】 生計のための職業。なりわい。
(参考)たく‐はつ【托鉢】 [名](スル)僧尼が修行のため、
経を唱えながら各戸の前に立ち、食物や金銭を鉢に受けて回る
こと。
(参考)とき‐おり【時折】 [副]ときどき。ときたま。
(参考)そ‐つう【疎通/疏通】 [名](スル)ふさがっている
ものがとどこおりなく通じること。また、筋道がよく通ること。
「意思の―を欠く」「意思が―する」
(参考)にが‐て【苦手】 [名・形動]  得意でないこと。また、
そのさま。不得手。
(参考)せいけい‐ひ【生計費】 生活を維持するために必要な
費用。生活費。
    (詳しくは、以下のブログへ)
URL: http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009 /
URL: http://32983602.at.webry.info/

2013年7月30日火曜日

行動の原点に・・・。

 題:行動の原点に・・・。
...(真を求めて 皆様と共に幸せになりたい)
.
 イスラエルの民に「選民思想」というものがある。
 「神に選ばれし民」という思想である。
  自民族を特権意識下に置く思想で、
 生まれて来る子供達も、否応なく、
 誰かれ構わず、特権意識に洗脳され、
 芽生えさせられ、世代を繰り返していく。
 そして、その特権意識は、一人歩きをして悪さを始める。
 そしてまた、この意識は、キリスト教と共に伝搬して行く。
 また、砂漠の地である飢餓の地で生まれたキリスト教が持っ
ていた「自民族存続のための思想」、
 隣国の富の奪い取りを『是』とする「特権思想」。
 この思想と相まって悪さは際限なく繰り返されていく。
 (キリスト教の)神の義だとして、正義とされた略奪行為の
「行動の原点」にある考え方。
 そして、キリスト教と共に、ヨーロッパへも伝搬して行く。
 ヨーロッパ人へ影響を与えたこの思想・考え方は、
 全世界の民を、『非選民の異教徒』と見て、
 異教徒とされた世界の民は、洗脳されたキリスト教徒から蛮
行を受ける。世界のあちこちで悲惨な歴史が展開する。
 自民族優先の考え方は、その逆の「異教徒は殺せ」のキリス
ト教の教義を元として生まれ、悪行為の元となっている。
 自分たちを選民だと思い込み、他民族を蔑(さげす)み、ま
た、他民族を利益を吸い取る・略奪するターゲットと見た。
 古い時代から、キリスト教聖職者が、黒人の方々を蔑んだ言
葉が記録に残っている。エチオピアの方々を、「人間ではない」
と無視し、蔑視している。それが、エチオピアでの行動の原点
となっている。
 また、南米・中米、そして、北米メキシコ、及び、それらの
離島でしでかした、キリスト教徒とそれに同行したキリスト教
聖職者たちの蛮行。何と1000万人におよぶかという悲惨な大虐
殺。
 この時も、キリスト教聖職者の「当時の言葉」が残っている。
 現地からの問い合わせに対し、聖職者は、現地の人々を「人
ではない」と、ここでもまた言っている。この言葉が行動の原
点。
 「選民の意識」と「キリスト教の教義」で、世界中で悪行を
して来たキリスト教。そして、その歴史。
 その悪行にまみれたキリスト教の思想は、今・現在も何一つ
変わらず、存在し続けている。そして、あちこちで悪さをして
いる。洗脳するキリスト教会の悪行為。
 イエスも特権意識を持っていた人。その意識から発言した。
 民を、さ迷う羊の如くに見て(何ら、権威ある人格とは見な
いキリスト教)、その意識下での行為が続いている。あたかも、
「肉と毛」を提供する『供犠の羊』と同じ位置付けにしている。
 そして、その様な意識下で接しられ続けている。
 権威づける儀礼の中で聖職者は、自分好みに説く、
 また、自ら特別な権威付けをあらゆるところでする、
 そして、特権がある、権威があると錯覚した存在で、誤解し
た存在で、今でも、悪行為をし続けている。  
     (詳しくは、以下のブログへ)
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2013年7月29日月曜日

民からの批判の声があがったらおしまい・・。

 題:民から批判の声があがったらおしまい・・。
...(真を求めて 皆様と共に幸せになりたい)
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 キリスト教は、非常に矛盾の多い宗教だ。
 それ故、人々に正しい示唆(しさ)を与え得ない宗教、与え
ることのできない宗教とも言える。
 その矛盾に気が付いているのか? 
 皆は目をつぶっているとしか言えない。
 気が付いているが、「黙っているという状態」。
 卑劣な事をしている。
 例えば、(「ルカによる福音書」19・1~10)に、イエスが
差別のない人だったと説く。
 「取税人という、ユダヤ社会で嫌われていた人に家に行った
りしていた」と、キリスト教聖書に記されている。
 取税人とは、重税に喘(あえ)いでいた民から、武力で統治
権をイスラエルから奪ったローマ帝国側に立って、代わって、
民から税金を取り立てた人。
 民は貧困に喘いでいる中で、取税人は、取り上げた金で、金
持ち状態だった。
 それは、取り立てれば、取り立てるほど、民を「絞れば、絞
るほど」、取税人・個人の金も増えるという形になっていた
ためだった。
 同じ民族の民から、取税人は、必死に、時にはアクドイ税の
取り立てをしていた。
 当然、「ローマ帝国という虎の衣を借る狐」の状態で、
 取税人は最も嫌われていた。
 それでなくても、民は『神殿税』など色々な税でで苦しめら
れていた。
 イエスは、この民を苦しめる取税人の、「苦しめ行為」を知
っているのか、知らないのか、知らない訳が無いのに、
 この取税人の家に上がり込んで、
 金に明かして、旨い汁を吸って得た金で、旨いものの用意が
されたのだろう。
 イエスは取税人の家に上がり込んで、飲み食いをした。
 民は、イエスを「大酒飲み」とか、「大飯食らい」と揶揄
(やゆ)った。
 これだけが、民のしがない抵抗の姿だった。
 しかし、キリスト教は、この様な状況や、民の気持ちを無視
して、イエスを美化した。
 ただ、盲目的としか言えない美化をした。
 「差別をしない」と美しくキリスト教は言うが、
 逆に、「弱い民をないがしろにする『差別』を、イエスはし
ていた」とも言え、この様な事に目をつぶるキリスト教だった。
 卑劣である。弱い者いじめとなっているのである。
 しかし、この(ルカによる福音書)に、イエスが、何故、こ
の様な事をするのかの、イエスの言葉がある。
 それは、取税人も同じ民族なのだからと言っている。
 そんなのは、当り前。
 同民族の仲間の中でどうするのかの話であるのに、ピントが
ずれた話をしている。
 キリスト教は、「(キリスト教の)神の義があれば、人を誅
しても良い」の教義があるが、
 その教義の考え方から、飢饉の地のイスラエルの民は、飢餓
状態からの脱出のために、隣国へ攻め込んで、隣国の人を殺し、
富を奪った。
 キリスト教の教義の体質にはこの考え方・思想が流れている
が、『イエスも、まったく、これと同じ』。
 「同民族だからいいのだ」である。ピントがずれている。
 同民族の一般大衆の声はどうするのだ???
 同民族なのだから・・と、言って家に上がり込んで、大酒を
飲み、重税に喘ぐ同民族の民の気持ちを逆なでする。
 何ら民の気持ちを汲んでやっていない。一般の人々・弱い民
のイジメである。人格的には失格者である。
 因(ちな)みに、「取税人は誰でもなれる訳ではなかった。
高い金を出して権利を買う。それが買えるという金持ちだけが、
なれる権益だった」。特権階級だった。強者なのである。
 この「強者の特権に取り入ったイエス」だったとも言える。
 甘い蜜をなめて暮らす人・取税人だった。そして、その取税
システムから、自分の腕力で取り立てる人だった。
 悪辣取り立ての記録がある。
 獲り放題の記録もある。
 『金に魂を売った人非人』。同民族を売った状態。
 民が非常に憎んだ人だった。
 この様な人種にとり入っていたイエス。
 もしかだが、「この鼻つまみにとり入ったイエスに、税金上
の特別扱いを受けていたという話・疑惑は否定できない」。
 その様にも考えたいくらいの、「イエスのいれ込みよう」だ
った。
 イエスの『異常な入れ込み』が評判になるくらいだった。太
鼓持ちイエス状態だった。
 民から悪い批判の声があがったら『おしまい』なのである。
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2013年7月28日日曜日

当時の、特殊事情の説明・話で構成されている

 題:当時の、特殊事情の説明・話で構成されている
...(真を求めて 皆様と共に幸せになりたい)
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 キリスト教の聖書は、「昔はこの様な状況でした」と説明す
るにすぎない本です。
 例えば、(「マルコによる福音書」2・1~12)には、中風の
病気の人が、イエスに癒(いや)されたという話があるが・・、
 これは、古代の当地では、何かその人が悪い事をした報(む
く)い、古代の当地で、決められていた律法を犯したことが、
そうした形で出て来たのだと思われていた。
 悪いことをしたから病気になるという、悪いことをした原因
の結果、病気になるという『因果律』の考え方だった。
 イエスも、この様な『因果律の考え方』を持ち、そう思って
いて、その『因果律の考え方の結果』から行動を起こす人だっ
た。
 また、当時、その人が悪い事をしてないと思っても、先祖の
人が、何か悪い事をしていれば、その結果が色々な病気などの
不幸となって現われてしまうのだ(報い・むくい)ともされて
いた。
 つまり、先祖の報(むく)いが子孫に仇(あだ)となって表
れたと考えられていた。
 このイエスの考え方は、原始の古代時代には良くある『古い
考え方』だった。
 ユダヤ教は明らかにその様に考え、ユダヤ教のイエスもその
様な宗教性に捉(とら)われ、染まっている人だった。
 故に、イエスは、この考え方に則(のっと)って行動をした。
 今・現代の考え方とは、まったく違う行動パターンだった。
 そして、人間が罪を犯しているかどうかの尺度として律法と
いうものがあった。
 一番重要な当時の守るべきものと考えられていた。
 イエスもこの考え方から「病気癒しの行為」をした。
 それは、神から与えられたものと考えられており、
 また、神の命令とも考えられていた。
 そして、神との約束とも考えられており、
 神と交わされた契約なのだとも考えられていた。
 その中には、神と人間との契約以外に、人間と人間との契約
も含まれているというおかしな所もあった。
 その様な考え方から、守らねばならない契約として古代人の
この頃の人は『この律法』を重要視した。
 故に、その中風の本人か、または、その中風の人の先祖の人
かが、律法を破っていると考えられいて、この様な病気になっ
たとされた。
 律法を破っている者は、神に喜ばれない者であるとされ、そ
して、そう考え、この様に、律法は非常に怖い報いがあり、だ
から、その怖さから逃れたい、報いを避けたいという気持ちか
ら、律法は守らねばならないもの、守るべきものとされていた。
 イエスの活動は、この様な、古代の観念の中で行なわれた。
 以上の様な、現代には無い、色々な細々(こまごま)とした
事情の説明を受けない限り、そのほとんどが理解できない、理
解不能な、当時だけの特殊な事情の下(もと)での話だった。
 キリスト教の聖書は、この様な、古代の特殊事情の説明・話
で構成されていて、だからその当時の古代は、「こうしました」
と、その説明があるという本なのである。
 現代とは、まったく、異質な次元の話で、
 その特殊な事情ゆえ、
 今・現在では、何ら得るべき様な所は無いといえる。
 結局、古代の、針の先で突(つつ)く様な特殊な事情のもと
で、イエスが、その特殊事情で「ああした」「こうした」とい
う話なのである。役に立つような所はない。 
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