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2014年7月26日土曜日

出自(しゅつじ)の違いから・・、

 題:出自(しゅつじ)の違いから・・、
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
 インドの王族の生まれの・・、
 慈悲を説いた釈迦(紀元前463~383年)が・・
 創始した佛教と・・、
 パレスチナ、現イスラエルの地のナザレの街で・・
 大工を営む人の下に生まれたイエスが・・関係して、
 そして、トルコの町に生まれた・・庶民の息子のパウロ
が創始したキリスト教・・、
 この両宗教には・・、
 この「出自(しゅつじ」の違いが・・大きく影響してい
る。
 キリスト教の聖書をよく読めば・・実感する。
 釈尊は・・、
 司祭階級(バラモン)のすべてを否定し・・、
 人間の大切さを説き・・、
 人間そのものの価値を重視する・・
 その行動を・・80年間の生涯を掛けて行い・・、
 人間が抱えている苦を・・死滅させ・・、
 正しく浄く生きるための真理を明かした。
 そして、行き着いた悟りの中で・・西洋研究者が理解不
能のことがあった・・、
 それは・・「あるのだけれど、見えない」境地について、
 特に、キリスト教的理解の中に居た西洋の研究者には・・
理解できなかった・・。
 また、一切のものが、無数の・・、
 そして、直接であろうと、間接であろうと・・、
 原因し、縁して起きている・・などなどと、悟しました。
.
 (参考)しゅつ‐じ【出自】.1 人の、生まれ。事物の出
   どころなどにもいう。「蕪村の―を尋ねる」2 文化
   人類学で、個人が出生と同時に組み込まれる、特定
   の祖先を共通にする集団を決定する原理。 (類語):生
   まれ(うまれ) 出身(しゅっしん) 出(で)  ⇒類語辞書
   で詳しい使い方を調べる 。(関連語):出所(しゅっ
   しょ) お里(おさと)
.
 そして、次の話・・、
 キリスト教のイエス・・、
 イエスの子供の頃は・・不明・・、
 どんな子供だったかは・・分かっていない・・
 キリスト教の聖書は、イエスが、洗礼者ヨハネの所に
来たところから・・急に始まっている・・、
 その様に、子供の頃の記載は・・まったく完全に無い・・、
 キリスト教学者は、それまでのイエスは、生まれ育った
と言われるナザレで、父親の職業と同じ、大工をしていた
のだと予測している。
 学校などへ通うイエスを予測する人もいるでしょうが・・、
 その様な生活の下(もと)には・・無かった様だ・・、
 古代の庶民なら・・、
 また、洗礼者ヨハネの所に来てからは・・洗礼者ヨハネ
と共に・・、
 というより・・洗礼者ヨハネの下で・・荒れ野での修行
をした・・、
 そして、その頃によくあった・・預言者の『逮捕と死刑
執行』があったが・・、洗礼者ヨハネが、やはり、逮捕さ
れ、獄死するということが起きた。
 イエスより先に、洗礼者ヨハネが逮捕され・・、
 獄死するということから・・、
 逮捕する側の・・官憲側は・・洗礼者ヨハネが、イエス
より逮捕する事が『より重要だ』と考え、主要者と見てい
たと・・はっきり言える。
 イエスが、洗礼者ヨハネの下に居たということが、この
ことが、はっきり示している。
 洗礼者ヨハネは、イエスを立てる様な性格の人であった
が・・イエスは、洗礼者ヨハネと共にいたということだけ
で、洗礼者ヨハネの活動が・・主要であったと言える。
 たから・・洗礼者ヨハネだけが逮捕となったのだとも言
える。イエスに、逮捕される様な、特筆すべきことはなか
った。
 イエスは、洗礼者ヨハネが死刑で居なくなってから、行
動を起こし始めた。
 イエスは、洗礼者ヨハネの師と言える人が、居なくなっ
たことによって、自分自身の頭で考える道へ踏み出した。
 路線は、洗礼者ヨハネとまったく同じ、洗礼者ヨハネの
言う路線で・・神の国の到来を述べ伝える事であった。
 洗礼者ヨハネは、イエスの従兄弟とも言われている。
 そして、これが、イエスのスタート時だった。30歳とい
う歳が過ぎていた。
 そして、イエスの活動期間は、わずかに1年か、2年と研
究者は言う。
 そして、参考に・・、
 釈尊の説いたものは・・
 縁が起き、成り行く始めに・・、
 無知(無明)から始まる・・ということを説き・・、
 その縁の成り行く中に・・
 妄執・もうしゅう(愛)などを説き・・、
 苦の生起を説いた・・などなど・・。
..
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2014年7月25日金曜日

結局、教会にとって都合がよいことが良い事なのだ・・

 題:結局、教会にとって都合がよいことが良い事なのだ・・
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
 キリスト教は言う・・、
 「キリスト教会は・・聖霊によって成り立つ・・、
 聖霊を受けて人が、その本来の在り方に至らしめられる」
・・と。
 これはパウロが言ったことである。
 キリスト教を作った人である「パウロ」が言ったが・・、
 そして、今、キリスト教は、そのパウロの路線を進む「
パウロ・キリスト教」だが・・、
 だから、パウロは、実質、教祖であるのだが・・教祖と
いう言葉は避け、使わない様にしているキリスト教・・、
 しかし、実質的にパウロは教祖の何ものでもない。
 イエスの死後に、その立場を作って、教祖となった。
 標記のパウロの言葉は、はっきり、このパウロの生きた
時代を反映している。
 パウロは、聖霊を持ち出した。
 後に、この様な事もあって、キリスト教は、聖霊を無視
できなくなった。
 キリスト教は、焼き捨てた論理・教義・書籍類が多かっ
たが、都合の悪い書籍は・・何しろ焼き捨てた。
 整合しないもの、都合の悪いもの(当時のキリスト教聖
職者の判断で、都合が悪いと判断したもの)は、焼いたり
して、膨大な量を捨て去った。愚かなことである。
 ・・が、このパウロの言葉は残った。
 そして、パウロの死後、何百年も経て、キリスト教の公
会議という最高の会議で、すったもんだの挙句に、聖霊は
キリスト教の神となった。反対者は異端として放逐された。
 キリスト教の神は、始め・・多神教だった。
 この多神教の時代が、長く続いた。
 一神と言うようになっても、色々な一神が登場した。
 あちこちで、また、時代時代で、一神という神が、各舞
台に登場した。
 例えば、それは、あたかも「山田という一神の神」「佐
藤という一神の神」「鈴木という一神の神」の如くの一神
を自称する神々だった。
 そして、標記のパウロの言葉などからも、キリスト教は
聖霊を神とせざるを得ない窮地(きゅうち)に陥(おちい)
った。
 聖霊に、ここまでの役があるなら・・神だろう・・と。
 パウロは、聖霊と言わずに神と言えばよかったのだが、
 例えば、標記の文の聖霊を神に書き換えて見ると・・
「キリスト教会は・・神によって成り立つ・・、
 その神を受けて人が、その本来の在り方に至らしめられ
る」・・と、
 まったく丸く収(おさ)まる。
(だから、逆に言えば、神のお出ましは、教会において無
いのだ)
 だがしかし、パウロは「神」と言わずに、「聖霊」と言
った。
 だからまた、新たに聖霊と言う名の神がキリスト教の神
として誕生するということになった。
 そして、標記のパウロの言葉も筋が通る様になった。
 ・・が、しかし、賢明なる方なら、この決定で、他に不
都合が、新たに出来た事をお気づきでしょう。 
 キリスト教は、その様な宗教なのです。
 しかし、標記のパウロの言葉は、キリスト教会の顔をひ
たすら立てたい「パウロの個人的好み」がよく出ている。
 イエスの言葉や、イエスの行動を棄てたパウロは、ここ
でもイエスを無視している。
 そして、パウロの、ズーッとズーット後に出来た三位一
体神を、パウロが知る由(よし)も無いので、三位一体神
が出て来る訳は、ここではない。
 キリスト教は、この様な事例でも分かる様に、時の流れ
の中でも、よりどうしようもない領域に入り込み、より複
雑に、よりシッ茶かメッチャカになって来ている。
 キリスト教は、結局、この様な分かった様で、実は、解
決にもなって無い、そして、解決不可能な領域に入り、そ
して、解決しようするが「まったく分からない空理空論の
世界」に遊び、そして、舞っている。
 可哀想なのが、それを信じなければならないキリスト教
徒の方々・・、複雑怪奇(ふくざつかいき)の中に住み、
心を痛め、その時が続き、心が蝕(むしば)まれて行く。
 理解不可能領域のキリスト教から、早く離れなさい。
 皆が皆、理解不可能領域にいる宗教なのです。
 パウロの・・この教会を持ち上げてくれる論理は、教会
にとって都合が良かった。ただ、それだけなのだ。
 教会にとって、キリスト教は、いつの時代もそうなのだ
が、自分の都合のよい、利のある事しかして来なかった。
 その中で、魔女の教会論理と実行は悲惨極まりなかった。
 教会にとって都合がよいことが・・良い事なのだ。
..
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2014年7月24日木曜日

キリスト教のプロパガンダ(嘘宣伝)の片棒を担ぐ放送大学

 題:キリスト教のプロパガンダ(嘘宣伝)の片棒を担ぐ放送大学
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
 放送大学は、キリスト教に偏する放送をよくやる。
 「キリスト教に偏する」ということは、放送大学が、放
送法という法律の違反行為をしているという事である。
 その放送大学の放送の1事例で・・、
 キリスト教系大学の教授が講師となって話していた。
 その話しは、キリスト教の擁護の話が続いた・・、
 そして、話が、ヨーロッパ中世とルネッサンスの話にな
り・・、
 『キリスト教の影響で、中世ヨーロッパが暗黒状態にな
ったという話」に至った時・・、
 このキリスト教擁護の話をしていたこのキリスト教系大
学の教授は・・、ここで、明らかな言い澱(よど)みの状
態になった。擁護などできない状況を、十分、知っている
からである。
 また、ルネッサンスの事も・・、
 キリスト教の圧迫から、「人間性を回復したい」という
運動であるこのルネッサンス運動を・・、
 このキリスト教系の大学教授は、キリスト教の悪からの
脱却の動きを、「偏見だ」と評した。
 しかし、話が、具体的事例の話を持ち出した様に見える
が、よく聞くと、まったくの逆の話に至る事になった。
 放送大学も視聴者を戸惑わせる放送をしている。
 その話は・・、
 ある修道院の女性たちが、「修道院の決まりから脱却し
た」という事例に話しが至った。
 色々と話したが、この修道女の方たちは、キリスト教か
ら『異端』とされ焚刑となった。結局、魔女である。
 つまり、この大学教授が持ち出した、キリスト教擁護の
様に見える話も、ある修道女の活動がルネッサンス的に見
えるが、結局、キリスト教は、この修道女たちを「異端だ」
と判断し、殺してしまったという話である。
 中世ヨーロッパで、キリスト教は、多くの女性の方々を、
魔女として、キリスト教会内に設けた裁判所で(キリスト
教裁判所)、キリスト教聖職者が、自ら、裁判官となって、
庶民の方々を、殺しに殺した、簡単に殺戮した。
 方法は、広場での見せしめの焚刑である。
 薪代までキリスト教会は請求するという悪辣さであった。
 また、当然のごとくに、その多くの殺された女性方の財
産を没収した。
 キリスト教会は、この金(かね)目当てに殺しに殺した。
 ヨーロッパの空が、あたかも曇り空の様に、どこも煙(
けむ)ったと言われている。
 こんな暗黒状態を、キリスト教は、言い逃れをしようと
している。
 放送大学も片棒を担いで、公共のものである電波を使っ
て、嘘放送をしている。
 キリスト教聖職者の話しは、美しく美しく、黒のものも
白と言うが、さすが大学教授は嘘は言えないし、また、隠
す事も出来ないのに、ここまでの話となった。
 そして、目立たないように気を使って話もしたが・・、
 キリスト教系の人でも、キリスト教の悪行為はこの様な
事なのだ。白日の下に聞いたら、聞いて居れないくらいな
のだ。
 この様に、キリスト教に偏する「黒を白と言う動き」が
あるから注意したい。放送大学には注意をしたい。
 キリスト教の魔女裁判と見せしめの焚刑、ユダヤ人の追
放運動と虐殺に至る卑劣な行為、南米などのアメリカ大陸
のインディオの方々や、そして、米国先住民インディアン
の方々や、オーストラリアのアボリジニの方々や、アフリ
カの方々などなど、民族征服と略奪と虐殺・全滅な卑劣行
為などが消せる訳が無い。やったのはヨーロッパのキリス
ト教とキリスト教徒。
 暗黒状態が明るくなる訳がない。
 キリスト教は、深く懺悔し、二度と過ちはしないと常に
祈れ。放送大学も祈れ。
 そして、再発防止策を行え!
 キリスト教の教義を変えよ!
 懺悔と悔い改めを行え!
 放送大学、猛反省せよ!
 キリスト教の数々の悪行が消えて無くなる訳がない。
 悟れ!
.
 (追伸)上記を放送大学へ送信し、返事を戴きたいとした。
..
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2014年7月23日水曜日

つい、出てしまう・・、

 題:つい、出てしまう・・、
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
 キリスト教徒の方たちは心に思っていても・・、口に出
しては言いにくいでしょうが・・、イエスは短気の性分で
した。
 このイエスの性分が・・聖書のアチコチに記してある。
 そしてまた、素直ではないとも言える・・また、ひねく
れているという面もある。
 もっと、誠実に、素直に、対応してあげればな・・と、
思うところが多い。
 特に、未来ある青年に対するとき・・、そしてまた、弱
者の方に対するとき・・。
 この様な方々に対してでも、イエスの性分が、つい、出
てしまう場合が多い。
 イエスの所に教えを求めて来た青年が、青年らしく・・
「永遠の生命」などについて質問をした。
 教えを乞うていた。
 「永遠の生命」、これは、イエスが言う「神の国」にも
関係する事なので、素直な、良い質問だった。
 この時こそ、素直に、イエスは、自分の主張するところ
を、『良い質問をしたね』と、笑顔で、説くべきところだ
った。
 しかし、何かが・・??・・、イエスの気に障(さわ)
ったのか・・、
 気持ちが置きどころが・・悪かったのか・・、
 いつもの性分が出た・・短気で性悪な・・。
 また、イエスは、この青年が、裕福な生まれの青年だと
知っていた。
 その生まれからも、この青年は、素直な青年に育ったの
でしょう。
 イエスは、モーゼの十戒を信じていたので、この青年に
モーゼの十戒の隣人愛などについて話す。
 すると青年は、裕福な家庭だからなのでしょう、
 そしてまた、裕福だからこそ、その教育も、行きとどい
ていたからでしょう、その青年は言います・・、
 「それらの事は、みな、小さいときから守っています」
・・と。
 ユダヤ人の中で、裕福で、しっかり教育の行き届いた家
庭では、当然のことだったのです。
 その青年の、生まれ育ちの良さが出たところだったので
す。
 当時のユダヤ社会では、当然の答、当然のことだったの
です。
 しかし、可哀想な事に、ここでイエスの性分が出てしま
います。
 本当に、この様なイエスの性分を可哀想と思います。
 落ち着いて話して聞かす・・説いて聞かすという状況と
は変わってきました。
 そして、まっすぐに答える・・ということができないと
いうイエスの性分も・・出て来てしまいます。
 性悪な心が顔を出してしまいます。
 もう、事を正しく説かれないという状況の中に、未来あ
る青年は置かれてしまいます。
 本当に、イエスが損をしているところです。
 丁寧に、親切に、ゆっくり、噛(か)んで含める様に、
教え導かねばならないところを・・、
 この青年は、彼なりに・・真面目に・・神の国の教えを
求めていたのに・・。
 一歩・・一歩・・若い人だからこそ・・一歩一歩・・、
教え導くべきところなのです。
 大切な所なのです。
 上気して、イエスは、この青年に言った・・、
 「家に帰って、持っているものをみな売り払って、貧し
い人々に施しなさい」・・と。
 つまり、これは・・、
 お前は、これは「やってないだろう」という指摘です、
 ある意味、糾弾(きゅうだん)です。
 ここには、明らかに・・、
 この青年を救おうという・・「愛」や、「熱意」や、「
責任感」などは何処かに行ってしまっています、ありませ
ん。
 完全に、イエスは、青年の教えを求める心を・・打ち砕
いています。
 イエスの生まれ故郷のナザレの人は・・、
 イエスの生まれ育っている姿を見ている人は・・、
 イエスに言った、
 「予言者とは、うまいことをやっているな」・・と羨む
言葉を投げ掛けた。
 その様な、生活をしているイエスが・・言えることなの
か・・、立場なのだろうか?
 自分はどうなのでしょうか?
 キリスト教が、必死に、プロパガンダ(嘘宣伝)して、
イエスのイメージが変えられていますが・・、事実は、こ
の様なイエスだったのです
 エルサレムの人々が、「大酒のみ」とか、「大飯、食ら
い」とかと揶揄(やゆ)するような、羨(うらやむ)むよ
うな生活にいたイエス・・、
 キリスト教研究者が言う・・、
 よくあるイエス像の・・痩せた姿のイエスではなく、
実際は、太っていた・・と、指摘するようなイエス・・自
分では、ぜいたくな生活をしていたイエスが・・。
 そして、イエス自身も言う・・、
 「神のものは神へ、王様(俗の社会)のものは王様へ」
・・と・・俗の社会の財を認めているイエスが・・、
 持っているものを全部、売り払ってしまえとは・・感情
に行き過ぎた発言です。
 何しろこの青年は、真面目に生きて来た青年です、だか
ら、道を求めているのです。
 どこか少しの点が気に障(さわ)ったといって、感情的
になって、若い青年の芽を摘むべきではない。
 全財産放棄の要求をし、指摘・糾弾するイエスの言葉に
・・、
 イエスの、指導者としての資質に・・、疑問が・・、大
いに沸く。
 そしてまた、イエス自身の、自分の発言にも・・、
 矛盾が生じている。
 この青年は、顔を曇らせ、悲しみながら立ち去ったとい
う。可哀想な事だ。
 何が愛の宗教というのだ。
 どこに愛があるのか?
 キリスト教から離れなさい。あなたがたは幸せにはなれ
ません。この宗教からは救いは生まれません。
 また、次世代に伝えて行ってはいけない宗教です。
 果たして、勝ち誇った様な顔をしたイエスが・・
 そこにいたのか・・??
.
 (参考)噛(か)んで含(ふく)・める :よく理解できるよう
   に丁寧に言い聞かせる。「―・めるような説明」 [
   補説]について、文化庁が発表した平成20年度「国
   語に関する世論...
 (参考)きゅうだん【糾弾】 ★欠点、悪い点、過ちなど
   を責め、とがめること。[英] criticism
..
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2014年7月22日火曜日

『日本の政治を讃える』記事があった・・が・・

 題:『日本の政治を讃える』記事があった・・が・・
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
 (読売新聞2014・7・10)に、『日本の政治を讃える』記
事があった。
 日本人の一人として嬉しい気持ちになった。
 送信した方は駐日の欧州連合(EU)大使のハンス・ディ
ートマール・シュワイスゲート氏である。
 ハンス・ディートマール・シュワイスゲート氏の略歴は
 :1977年、オーストラリア外務省入省、同国の駐日大使、
駐中国大使などを経て、2011年1月から駐日欧州連合(EU)
大使とある。
 載った記事欄は、読売新聞『論点』である。
 そして、この記事の標題は:『日欧EPA双方に利益』
とある。
 今、アメリカが、ごり押しで、TPPの経済連携協定を、
日本と締結したいとしているが、先日の日本のTPP担当
大臣もよく頑張って戴いたと思う。
 本ブログにも、米国が紳士的に欧州とEPAを締結した
様に、日米の二国間でも、TPPからEPAの交渉に切り
替えるべきだと書かせて戴いた。
 そして、このブログの後段には、外務省の官僚だった岡
崎久彦氏の記事で、米国が、日本を『利益の草刈り場にし
ている』ところを記述させて戴いている。
 ハンス・ディートマール・シュワイスゲート氏の投稿内
容:
 欧州連合(EU)が日本に代表部を開設して・・、今月で
40年になる。
 当時は、欧州共同体(EC)と呼ばれ、駐日代表部の仕事
は経済関係が中心だった。
 2009年のリスボン条約により、駐日代表部はEUの外交
部門である欧州対外行動庁の一部となり、権限は格段に大
きくなった。
 現在では、経済・通商政策はもちろん、外交・安全保障
政策、気候変動やエネルギー安全保障といった・・国際的
課題などにも取り組んでいる。
 欧州が、外交活動を強化しているのと同時期に、日本も
また、国際的責務に取り組み、責任を負う準備をしようと
している。
 安倍晋三首相は、2012年12月の就任以来、すでに4回も
欧州を訪問した。
 中でも、今年の4月下旬から10日間にわたる訪欧は、日
本の首相の外遊としては、近年では最も長いものだった。
 首相は、通商・経済分野だけでなく、安全保障や防衛を
含めて、地球規模の問題に取り組んでいる。
 日本は、今まで以上に、欧州に対して戦略的に対応して
いる。
 日本の積極的な欧州外交には、誠に勇気づけられる。
 EUも、現在、包括的なアジア戦略を構築しつつある。
 日本が、中心的位置を占めるのは・・間違いない。
 EUと日本の関係は、地球的規模の新段階に入っている。
 ウクライナ問題では、EUと日本は、ウクライナの領土
保全、主権維持に共通の立場を表明している。
 EUは、危機の平和的解決が重要と考え、ウクライナ国民
の意思を尊重する形での交渉による解決を目指している。
 日本が、この問題に対し、明確な立場を取っていること
を歓迎する。
 おりしも、EUと日本の間では、二つの重要な協定の交渉
が行われている。
 新時代の関係に確固たる基礎を与えるため、両協定の早
期締結が望まれる。
 一つは、経済連携協定(EPA)である。
 6月下旬に、EU加盟国から交渉継続の了承を得た。
 1年を経た交渉で、食品や自動車分野における日本側の
提案には勇気づけられるものがある。
 EUは、包括的かつ野心的な合意という目標に向け、交渉
を加速させる決意である。
 協定が締結されれば、市場アクセスが劇的に改善され、
双方で構造改革が進む。
 日本は、EUにとって、中国に次いでアジア第2の貿易相
手国であり、野心的なEPAが締結されれば、欧州の域内
総生産(GDP)は0.8%増加し、
 対日輸出は、32.7%伸びるとの試算がある。
 日本の対EU輸出は、23.5%増加しうる。
 日本経済には、自信に満ちた空気が広がりつつある。
 EUは、日本政府の成長戦略や構造改革が、欧州企業にも
利益をもたらす事を強く期待している。(後略)・とある。
 そして、また、同じく読売新聞の2014・7・1の記事の
・・「時代の証言者」の「日本外交とともに」の標題の、
岡崎久彦氏の記事には・・、
 ・・・冷戦が崩壊し、日米経済摩擦のまっただ中。
 米国の有力者の中にも・・、
 「日米安全保障条約はもういらない。
 日米中露の4カ国協議条約に変えよう」・・という提案
もあった。
 安保条約を止める、と脅して、日本との経済交渉をしろ、
という議論もあったぐらいです・・とある。
 その様な岡崎氏が、心配していた事は・・、
 もし湾岸戦争に、中国が参戦していたら、アジアでの米
国のパートナーは、日本ではなく中国になってしまう・・
と、恐れていたという。
 そして、こういう路線で進むことは、過去に日英同盟を
廃棄して、日本が第二次大戦へと向かった悪夢を恐れた・
・という記述もあった。
..
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2014年7月21日月曜日

差別されるサマリア人には何ら悪いところはありません。

 題:差別されるサマリア人には何ら悪いところはありません。
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
 差別は、当然、差別する人が悪い・・差別する側が悪い。
 だから、当然のことであるが、差別される人は、何ら、
悪い所はないし、悪いこともない。
 キリスト教の聖書には差別の状況が多い・・
 差別をする団体や、人は、当然、悪いが・・、
 1例として・・、
 差別を意識しているが・・、
 差別をすることは悪いことだと・・意識をしているから、
差別をしないという人はどうだろうか?
 これで、良いと思う人も多いのだろう・・、
 そして、もう一つ、考えて戴きたいことは・・、
 その差別について、そんなことがあったんだと・・、
 差別の存在自体も知らなかったし・・、当然・・、
 差別の存在も知らない人なので、・・また当然、
 差別をしないという人はどうか?
 これが、本当なのではないだろうか?
 本来の、一番の・・人は、そんな差別なんて存在してい
たの?・・と、差別そのものの存在も知らなければ・・、
 知らないくらいなので、差別観をも持たず・・そして思
わず、・・当然、差別行為もしない・・という人。
 イエスと言う人は、この様な人ではなかった・・この一
番の人ではなかった。
 イエスが、よく言う言葉・・、
 「そんな事、サマリア人だってやるではないか」・・と。
 このイエスの言葉は、『差別語』だ、『差別行為』だ。
 イエスの言葉として、キリスト教聖書の中の、あちこち
に書かれ・・、そして、世界中に広められ・・、当然、日
本にも知らしめ・・、知れ渡っている。
 ある意味、差別観を・・世界中に振りまいているいる行
為であり・・、
 知らなくてもよい差別を、差別観を・・作っているとい
う言葉だ。
 何も知らなければ・・似た様なこともまた・・差別も起
きないのに・・と思う。
 キリスト教聖書は、この点でも・・『悪書』だ。
 古くて、知らなくても良い差別観を、じくじくと掘り起
こして・・人に知らしめ・・洗脳する。
 特に、キリスト教徒の方々の心に・・植え付けし洗脳し、
マインド・コントロールする。
 そんなこと、サマリア人だってやっているではないかと
いうこの1例の言葉、イエスの言葉は・・、
 明らかに・・サマリア人を見下している。
 キリスト教は、口を閉ざしているが・・。
 この、イエスの言葉を、詳しく言えば、
 「サマリア人だって(と、見下した感情を秘めて言って)
 ・・やるのだから、
 (サマリア人以上のお前が)やれない訳はないだろうに」
・・となる。
 キリスト教聖職者の解説も・・「サマリア人ですら・・
云々」・・と解説する。
 キリスト教特有の・・サマリア人への偏見の言葉を言っ
ている。差別宗教=キリスト教となっている。
 キリスト教は、聖書で・・、あちこちで・・この様な、
サマリア人蔑視を記述しているが・・、
 今・現代、サマリア人は、この地球上に現存しているが、
非常にわずかな数になっているという。
 キリスト教が影響していて、この様な状況になっている
という。
 そして、さらに悲しいことに、他民族との結婚が、混血
が、やはりキリスト教の差別の影響によって、蔑視の影響
によって出来ずに・・、
 その数が非常に少なくなり・・、
 また、他民族の血との混血をしないために・・、
 劣性遺伝が起き・・続き・・、
 民族存続の力が衰えているという。
 また、その『劣性遺伝の悲劇』が非常に多いという。
 生まれつきの、体に異常をきたす出生が多いという。
 差別宗教キリスト教。何が愛の宗教だというのだ。
 プロパガンダ(嘘宣伝)は止めよ。
 次世代に伝えて行ってはいけない宗教なのだ。
 皆様も幸せになれません。人類の救済も当然できません。
 差別されるサマリア人には何ら悪いところはありません。
..
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2014年7月20日日曜日

今・現在のキリスト教にも当てはまらないイエスだった。

 題:今・現在のキリスト教にも当てはまらないイエスだった。
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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 キリスト教聖職者が書いた本を読んでいて、「おや」っ
と思う記述があった。
 それは、聖書の(「マタイによる福音書』5・39)に、
 イエスの言葉だと言われている・・、
 「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬も向けな
さい」・・とあるが・・、
 また、(「マタイによる福音書』5・44)に、
 「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」・
・とある
 ・・が・・、
 この本の著者のキリスト教聖職者は、正直に、心の内を
話していた・・、
 このイエスの言葉とされる言葉を、『手放しでの全面肯
定』をしていなかった。
 キリスト教聖職者としても、珍しいことを言う人である
が、部分的であるが、『イエス批判』となっている。
 このキリスト教聖職者が言うには・・、
 『これは、相手を攻撃するという態度ではなく、相手を
受け入れる態度を教えている。しかし、こうした態度をと
っていれば、すべてが解決するかどうかは、明らかではな
い』・・と、はっきり言った。
 『しかし、少なくとも受け入れの方が、社会を築いて行
くに違いない』・・とも。
 そして、『我々は罰する行為をまずする事ではない』・
・と。
 キリスト教の宗教に固定された『お定まりの回答の規制
枠』の箍(たが)から飛び出ている意見だった。
 だから故、イエスの言葉の危険性、リスクにも触れ、漂
(ただよ)わせた意見となっている。
 『意見の多様性に触れる自由がキリスト教にない』のが
リスクなのだが、この点を改善している意見だった。
 これなのだ、キリスト教の考えの枠の危険性を自覚し、
緩和している。
 しかし、キリスト教には危険な思想の「同罪報復」の教
義がある。
 この古代の思想が、まだ現代の『今にも』、キリスト教
内では生きている。
 これも唾棄すべきキリスト教教義であるのだが・・、
 この事例は、キリスト教のこの「同罪報復」の教義の否
定にもなっている。
 そしてまた、十字軍の行動批判にも通じている。
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 そして、次の話。
 キリスト教のイエスのこと・・、
 エルサレム神殿の前の店を仲間といっしょに大暴れをし
て壊したイエスたち・・、
 その、イエスとその仲間たちの罪は・・どうなのか?
 イエスだけが無罪で・・イエスの仲間たちが・・有罪な
のか? 
 または、全員が、イエス及び仲間たち全員が、有罪なの
か? または、逆に、全員が無罪なのか?
 そして、イエスが有罪で、仲間たちは無罪なのか?
 判断を・・ユダヤ教の法律的に考えれば・・明らかに全
員が有罪だろう。その様な悪いことをしたのだ。
 だが、しかし・・考える点を、宗教的な面に置けば・・
 無罪とする根拠を、キリスト教的な神か否かに・・置け
ば・・、
 仲間たちは・・明らかに神ではないから・・有罪となる。
 そこで、イエスはどうなのか・・と、考えれば・・、
 キリスト教の公会議でも、もめた様に・・、イエスは、
この数回の公会議でも決まらず、やっと・・神になれたの
だから・・でも・・
 イエスが神なのだ・・とすれば、イエスは無罪となる。
 しかし、イエスは、いつ、神になれたのかを、もう少し
考えれば、キリスト教はこうも言う・・、
 『イエスが、十字架刑になった時に、神になったのだ』
・・と言う、そして、この時に、神と契約をしたのだと・
・新約なのだと・・この考え方が根幹なのだと・・。
 この事から考えれば、イエスは、この神殿前での大暴れ
の時は、まだ神になっていないとなる・・、
 ・・と、すれば・・、イエスも有罪となる。
 このことはすべてに言える事となる・・
 これは大変な事になる、その十字架刑以前には・・すで
に・・イエスは、神の様な振る舞いをたくさんしている。
 すると、姦淫の女を・・イエスが赦した時はどうかと見
てみると・・、
 イエスは言った、「あなた方の中で(いままで)罪を犯
した事が無い者が、この女に石を投げて(罪が問える)」
・・と、まるで、神の様な振る舞いで裁く・・、
 『裁くな』というキリスト教なのに・・、神以前のイエ
スが・・。
 すると皆は、帰って行ったという。そして、イエスも・
・、「私もあなたを罰しない」と言ったという。
 つまり、イエスも、『帰った人と同じ行動をする』と言
ったという。
 神以前の自分を自覚していたとも言え・・また、同じ様
な人間だと思っていたとも言える。
 決して、イエスは、『神だとは思っていなかった』・・
とも、言える。
 神となる十字架刑以前のイエスだから・・。
 しかし、イエスは、「中風の男に『あなたの罪は赦され
た」と言った様に、神以前のイエスが、人を赦して、神の
振る舞いをしていた。
 神以前の人の立場で、『裁くな』というキリスト教の教
義も、何も、あったものではない・・。
 ここでは、人の罪をとやかく言うという『裁く行為はす
るな』というキリスト教の教義は、あったもんではないと
なっている。
 この時に、ユダヤ人の方がイエスに言ったという・・「
何故、人の罪をとやかく言う事が出来るのか?(神以前の
イエスが)」・・と。
 「(神の様な事をして)神を犯し、汚(けが)している」
・・と。
 本当は・・このユダヤ人の方のほうが・・正しいのだ。
 イエスは、何しろ、やりたい放題だった。
 今・現在のキリスト教にも当てはまらないイエスだった。
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