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2016年4月22日金曜日

(増補版)338E1/3:気になった事柄を集めた年表(1869年~1876年10月)

題:(増補版)338E1/3:気になった事柄を集めた年表(1869年~1876年10月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1869年、ハリエット・タブマン氏(1820年または1821年~
 1913年3月10日)の半世紀『ハリエット・ダブマンの生涯
 の情景』が、この年・1869年に、出版された。
  そのハリエット・ダブマン氏が、アメリカの新20ドル
 札の肖像になった。
  (時事通信社)は・・、
  2016年4月20日に、アメリカ合衆国のルー米財務長官は、
 新20ドル札に奴隷解放運動家の黒人女性、ハリエット・
 タブマンの肖像を採用すると発表した。
  欧米メディアによると、米紙幣に黒人の肖像が採用さ
 れるのは初めて。
  女性は「1世紀余ぶり」(長官)で、マイノリティー
 (少数派)重視を掲げるオバマ大統領のレガシー(遺産)
 づくりとの見方もある。
  自身も奴隷だったタブマンは、1800年代半ばに地下運
 動で多数の奴隷を逃亡させて自由の身にしたほか、女性
 の参政権獲得にも尽力。
  ルー長官は「米国の価値観や民主主義を体現した」と
 讃(たた)えた。(時事通信社)
  また、(毎日新聞)は・・、
  米紙幣に黒人女性が採用されるのはこれが初めて。
  女性としても19世紀末以来、約120年ぶりとなる。
  (女性差別や女性蔑視などない日本は、すでに樋口一
 葉氏がお札の肖像となっている・・筆者記入)。
  女性の参政権を認めた憲法修正19条施行から100周年に
 なる2020年にデザインを確定し、発行する予定。
  奴隷だったタブマンさんは、19世紀半ばから奴隷解放
 運動に参加。
  黒人奴隷を米国南部諸州から北部各州に逃がす「地下
 鉄道」と呼ばれる秘密輸送ルートを構築した。
  昨年6月に財務省が紙幣のデザイン一新を図る考えを表
 明して以後、タブマンさんの採用を求める声が相次いで
 いた。
  ルー長官は「単なる歴史的な存在にとどまらず、模範
 的なリーダー」と採用の理由を説明した。
  現在の20ドル紙幣に使われているジャクソン大統領の
 肖像は、紙幣の裏面で引き続き使われる。
  米紙幣に女性の肖像が使われるのは、1891年~1896年
 に発行された1ドル銀兌換(だかん)紙幣の、初代大統
 領夫人マーサ・ワシントンさん以来(遠い昔の話・・筆
 者記入)。
  タブマンさんは3人目(毎日新聞)。
  ハリエット・タブマン氏は、アメリカ合衆国メリーラ
 ンド州ドーチェスター郡出身の奴隷だった。
  後に、奴隷解放運動家、また、女性解放運動家。
  特に、地下鉄道(アンダーグラウンド・レールロード。
 アメリカ北部やカナダへ黒人奴隷が逃亡するのを援助す
 る秘密結社)の女性指導者のひとりだった。
  メリーランド州で、黒人奴隷である両親から生まれた。
  5歳からメイド兼子守りとして働かされた。
  (奴隷の子は、『自由』を持って生まれて来たのでは
 なかった。
  何が『自由の国だ』なんて言うのだ・・アメリカ。
  アメリカは遅れた国で、普通の人間を、奴隷にして使
 役するという悪事を行なった上に、
  さらに、この様な、生まれて来た子供にまで『奴隷と
 いう運命』を背負わせた。
  そうする事によって、自分たちに利があるのでその様
 にした。
  そこには、悪意があるだけで、愛の存在する社会では
 ないし、あるのは、ただ『低俗なる倫理観』『我が利が
 得られれば』の欲の世界しかなかった。
  この様な事は、是非、世界記憶遺産に登録すべきで、
 また、銅像を建立するべきだ・・と思いたくなる)
  ハリエット婦人は、1844年ごろ、同じく奴隷であるジ
 ョン・タブマンと結婚し、長年の奴隷生活に堪え続けた。
  奴隷監督からの殴打などを含む虐待に耐え、
  さらに酷いことに、この奴隷監督から頭部に受けた殴
 打は、後遺症を残し、
  生涯ナルコレプシー(脳疾患・睡眠障害)とてんかん
 に悩まされることになった。
  奴隷国・アメリカ合衆国は、人権蹂躙(じんけんじゅ
 うりん)が酷く、低劣な厳しい状況だった。
  1847年、ハリエット婦人の奴隷主が死に、奴隷が売ら
 れことになった。
  この事を知ったハリエット婦人は、脱出を渋る夫を残
 して北部のフィラデルフィアへ逃亡した(夫は、射殺を
 恐れたのであろう)。
  逃亡の途上、奴隷解放運動主義者で非合法組織である
 地下鉄道を支援していた組織に助けられた。
  フィラデルフィアでは、レビ・コフィンやトーマス・
 ガレット、フレデリック・ダグラス、ジョン・ブラウン
 らの黒人奴隷解放運動家と交流を持ち、
  奴隷解放の地下鉄道の「車掌役」として、その奴隷解
 放の運行をはじめた。
  1850年~1860年の間に、約19回の南部との往復を繰り
 返し、300人余りの奴隷達の逃亡を助け、自由に導いた。
  ハリエット・タブマン婦人は、一度も捕えられず、「
 救助者・車掌」として成功をおさめた。
  そのためタブマン婦人に掛けられた賞金額は、合計4万
 ドルを超えた。
  (アメリカは、非人道的な国で、奴隷を射殺すること
 が許されていた、ダブマン氏は必死だったと思う)。
  南北戦争中は、コックおよび看護婦として働くととも
 に、
  北軍のためのスパイをも務めた。
  タブマン婦人へ、アメリカ政府は、恩給の支給をしな
 かった(卑劣な差別である)。
  ダブマン婦人の晩年は、ニューヨーク州に拠点を構え、
 身寄りのない元奴隷や、戦死した黒人兵の遺族への支援
 を続けた。
  1913年に、肺炎で死去された。93歳だった。
  アメリカ合衆国は、人種差別の国で、黒人奴隷解放家
 の運動内容や、その歴史、そして、その存在は、ひた隠
 しに隠した。
  それが、黒人の方々の努力によって、隠されて来た事
 実が、最近になって、徐々にその一端、その歴史が明る
 みに出て来た。
1876年9月1日、開拓使雇のウイリアム・ホィラーが、石狩
 国札幌区東創成通り教師舘内で気象観測を開始した(日
 本最初ではない)。
  後に、1879年10月28日(明治12年)に、国営へ移管し、
 文部省所管となり、中央気象台札幌支台へ改称した。
  因みに、日本最初の気象観測は、1872年で、
  函館地方気象台の前身である「函館気候測量所」が、
 日本で最初の気象観測をはじめた観測所。
  1872年(明治5年)から観測を開始している。
1876年9月6日、元老院に憲法起草を命じる詔勅
  明治天皇陛下は、元老院議長・熾仁親王を召され、国
 憲草案の起草を命じられた。
  この頃の、自由民権家は、皆、明治維新を闘った尊皇
 家で、天皇陛下の御存在に、国民の権利、国の利益の究
 極の擁護者の地位を仰ぎみていた。
  例えば、草の根の人権憲法として名高い千葉卓三郎ら
 の憲法草案(いわゆる五日市憲法)でも、
  天皇陛下による立法行政司法の総轄や、軍の統帥権、
 天皇陛下の神聖不可侵を定めている点などは、大日本帝
 国憲法と同様であった。
  この日・1876年9月6日(明治9年)、明治天皇陛下は、
 「元老院議長有栖川宮熾仁親王へ国憲起草を命ずるの勅
 語」を発っせられた。
  この勅語は・・、
  「朕、ここにわが建国の体に基づき、広く海外各国を
 成法を斟酌して、もって国憲を定めんとす。
  なんじら、これが草案を起創し、もってきこしめせよ。
  朕、まさにこれを撰ばんとす」
 ・・として、各国憲法を研究して憲法草案を起草せよと
 命じられた。
  元老院は、この諮問に応えて、憲法取調局を設置した。
1876年9月13日、府県裁判所(ふけんさいばんしょ)を地方
 裁判所と改称
  府県裁判所は、1872年9月5日(明治5年8月3日)司法省
 によって定められた5種 (司法省臨時、司法省、出張、府
 県、区) の裁判所中の1つで、
  1875年5月4日、府県裁判所職制章程が定められ、それ
 によって本裁判所が民事を始審し、刑事の懲役以下の判
 決をする任務を持ち、
  本裁判所をもたない府県では、地方官が裁判官を代行
 することなどが明示された。
  そして、この日・1876年9月13日、府県裁判所の廃止に
 伴い、府県裁判所は廃止され、新たに「地方裁判所」が
 開庁された。
1876年9月23日、国産ビール醸造、初めて工業化される(北
 海道札幌の開拓使麦酒醸造所の開業)
  札幌にビールの醸造所を開業。
  北海道開拓使に麦酒 (ビール) 醸造所が設立される。
  日本に初めてビールの醸造が工業化されたのは、1876
 年(明治9年)9月23日、札幌の開拓使麦酒醸造所開業を
 以て出発とされる。
1876年9月23日、儒者:安井息軒(やすいそっけん)が没する
 (78歳)。朱子学派の儒学者。
  日向(ひゅうが)(宮崎県)飫肥(おび)藩士で、江戸で昌
 平黌(しょうへいこう)に入り、また、松崎慊堂(こうどう)
 に古注学を学ぶ。
  飫肥(おび)藩校の助教、後、江戸に三計塾を開き、後
 に、昌平坂学問所の教授に抜擢される。
  考証にすぐれ、海防・軍備などの政策も論じた。
  「海防私議」「弁妄」など警世の論がある。
1876年9月25日、大阪堂島に米穀取引所(どうじまべいこく
 とりひきじょ)を開設した。
  1893年(明治26年)、大阪堂島に設立された米穀取引
 所は、江戸時代以来栄えた米市場の後身で・・、
  1876年(明治9年)に設立の大阪堂島米商会所が、改称
 されたもの。
  1939年(昭和14年)配給制度導入のため閉鎖した。
  さかのぼること明治2年(1869年)に、明治政府により
 廃止され、
  それに伴い堂島周辺の諸藩の大名蔵屋敷も没収された
 が、
  その後、明治4年(1871年)に、「堂島米会所」として
 復活した。
  そして、明治6年(1873年)に、油取引を加えて「堂島
 米油会所」となったが、
  明治9年(1876年)のこの時に、油取引を分離して「堂
 島米商会所」となった。
  明治26年(1893年)に、「大阪堂島米穀取引所」へと
 発展し、
  大正7年(1918年)には、過剰投機により米騒動を引き
 起こした。
  また、昭和14年(1939年)に、米穀配給統制法による
 日本米穀株式会社に吸収され・・幕を閉じた。
1876年10月2日、東京兜町に米商会所が開設された。
  日本で先物取引が開始されたのは、1730年(享保15年)
 のことで、「大坂堂島米会所」で行われた米取引が、最
 初とされる。
  一方、江戸でも間もなくして、日本橋小網町・小舟町
 周辺に米会所が開設され、取引が盛んに行われるように
 なった。
  明治時代に入っても、米の先物取引は活発で、その中
 心を担ったのが、1874年(明治7年)に、日本橋蛎殻町の
 西郷隆盛屋敷跡に開業した「中外商行会社」・・、
  現在、この地には、農産物を専門にする先物取引の市
 場「東京穀物商品取引所」が建っている。
  同取引所の起源に当たる「中外商行会社」は、1876年
 (明治9年)に、発布された米商会所条例により、同年、
 「蛎殻町米商会所」に再編された・・、
  さらに、1883年(明治16年)には、隣町で営業する「
 兜町米商会所」との協議の結果、
  互いの繁栄のため合併が最善という結論が出され、
  「東京米商会所」に改められた。
  その後も、1893年(明治26年)に、「東京米穀取引所」
 に、1908年(明治41年)には、「東京米穀商品取引所」
 へと、度々の再編が行われた。
1876年10月9日、秀英舎が開業した(後の大日本印刷)
  木版から活版印刷に
  秀英舎は、活版での印刷会社として東京・京橋の弥左
 衛門町に創立した。
  秀英舎は、主に新聞印刷や、中村正直の「西国立志編」
 の活版による再版などに代表する書物の印刷会社として
 発展した。
  その頃、活字の供給は、印刷局と築地活版のみが行っ
 ており、
  創立当初は、活字を購入していたが、
  1881年(明治14年)、保田の創案のもと、字母(父型)
 を購入し、活字の自家鋳造を開始した、
  更に、1882年(明治15年)、山下町に製文堂を設置、
 それを本格化させた。
  築地活版や、印刷局の書体を受け継ぐ五号系統と、筆
 跡新しい初号系統の2書体は、ここで形成された。
  明治30年代半ばのことである。
  後に、秀英体(秀英型とも。特に初号系統をいう)と
 呼ばれた書体群で、活版印刷減衰の後も、写植書体やデ
 ィジタル・タイプとして覆刻され、
  また、大日本印刷の書体としてポイント制活字、ベン
 トン母型を経ながらも使用され続けている。
1876年10月12日、賞勲事務局(賞勲局、しょうくんきょく)
 が設置された。
  賞勲局は、勲位・勲章・褒章など、栄典に関する事項
 をつかさどる内閣府の一部局で、
  この時・1876年(明治9年)に、太政官正院に設置され
 た。
  この年・1876年12月に、賞勲局に改称した。
  第二次大戦後、1949年に、総理府が設置されると、賞
 勲部に改組され、
  1964年(昭和39年)に、生存者叙勲の再開に伴って総
 理府が設置されると、総理府賞勲局に昇格となり、
  2001年(平成13年)以降は、中央省庁再編により、内
 閣府の管轄となった。
1876年10月24日、敬神党ノ乱(けいしんとうのらん、神風連
 ノ乱ともいう・・士族の反乱・反政府暴動)
  神風連の乱:熊本県士族の大田黒伴雄らが、熊本鎮台
 を襲撃し、また、県令・安岡良亮らを殺傷した。
  この神風連(じんぷうれん)の乱:夜11時、熊本県で
 旧守派の「敬神党」を結成する大田黒伴雄ら170人が、熊
 本鎮台(軍隊)の兵営などを襲撃し、火を放った。
  そして、司令官の種田政明少将を殺害した。
  政府の洋化政策に反発し、廃刀令がきっかけだった。
  この年に、金禄公債条例が発行され、士族の経済的な
 没落が、特に顕著となっていた。
  士族層の間に、明治新政府に対する不満はみなぎって
 いた。
  鎖国攘夷を依然主張する敬神党は、かねてから、新政
 府の洋化政策への激しい憤りを示そうといだいていたが、
  1876年3月の廃刀令の発布に端を発し・・て、
  同年・1876年10月に、党首領・太田黒伴雄らが決起し
 た。
  そして、百数十人に上る武装集団をもって、熊本鎮台
 司令長官・種田政明、県令安岡良亮らを斬殺した・・が、
  翌日、鎮台兵により鎮圧された。
1876年11月25日、福沢諭吉著の『学問のすすめ』が完結し
 た。17編刊、
  初版・重版を併せて・・25万部が出版された。
  一説には、最も売れた書籍で、最終的に300万部以上売
 れたという。
  その一文は・・、
  「されども今廣く此人間世界を見渡すにかしこき人あ
 りおろかなる人あり貧しきもあり冨めるもあり貴人もあ
 り下人もありて其有様雲と坭との相違あるに似たるは何
 ぞや」
  ・・と、記して・・
  「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと言わ
 れている__人は生まれながら貴賎上下の差別ない。けれ
 ども今広くこの人間世界を見渡すと、賢い人愚かな人貧
 乏な人金持ちの人身分の高い人低い人とある。その違い
 は何だろう?。それは甚だ明らかだ。賢人と愚人との別
 は学ぶと学ばざるとに由ってできるものなのだ。人は生
 まれながらにして貴賎上下の別はないけれどただ学問を
 勤めて物事をよく知るものは貴人となり富人となり、無
 学なる者は貧人となり下人となるのだ。」
  ・・と・・、
1876年10月25日、熊本に乱をなす神風連の叛徒・大田黒伴
 雄らが、翌日のこの日に、戦死(その他の者は自首、或
 は、逃走)
1876年10月27日、秋月の乱(あきづきのらん)(10月26日
 説あり)
  福岡県下の秋口で、旧秋月藩の不平士族らが、開明政
 策を掲げる新政府に対して、
  また、政府の対韓政策を批判して起した反乱で、
  主謀者の宮崎車之助(みやざきしゃのすけ)、磯淳ら
 二百数十人は、
  豊前豊津に進撃し、萩の乱の前原軍と合流しようとし、
  また、熊本の神風連(じんぷうれん)の乱に呼応し挙兵
 した。
  熊本神風連の乱に続いて、攘夷主義を旗印に蜂起し、
 萩の前原一誠と連絡をとりつつ、付近の士族に参加を呼
 びかけたが、進撃なかばにして 11月3日、豊前豊津で、
 小倉鎮台の政府軍により鎮圧され、一味は処刑された。
1876年10月27日、萩の乱(10月28日説あり)
  山口県萩で、長州藩士で、明治新政府参議、兵部大輔・
 前原一誠が、
  守旧主義の立場から 政府を去り、
  郷里の不平士族に擁立されて、
  1876年10月28日に、反政府の旗を掲げ、神風連の乱・
 秋月の乱に呼応して蜂起・・萩に迫った。
  しかし、しかし・・11月6日に鎮圧された。
  前原一誠は、1869年(明治2年)に参議、ついで、兵部大
 輔となったが、
  当時の開明的な政府の方針や、木戸孝允らと対立した、
  翌年・1870年に、辞職、郷里萩に帰っていた。
  そして、一誠らは、不満をつのらせて・・
  1876年10月28日、萩の旧藩校・明倫館(めいりんかん)
 に・・200人余を集めて・・蜂起(ほうき)した。
  しかし、期待した薩摩(さつま)の不平士族らの協力は
 得られず・・、
  広島鎮台司令長官・三浦梧楼(みうらごろう)らによっ
 て・・1週間余で鎮圧された。
  一誠は、島根県で捕らえられ、首謀者8人とともに12月
 斬首(ざんしゅ)された。
1876年10月29日、思案橋事件(しあんばしじけん)
  永岡久茂らの・・千葉県庁襲撃計画・・発覚
  萩(はぎ)の乱に呼応して、永岡久茂(ひさしげ)ら、十
 数名の士族が、
  千葉に兵をあげようとして、未然に・・鎮定された士
 族反乱未遂事件・・。
  永岡久茂(ながおかひさしげ)は、旧会津藩士、戊辰(ぼ
 しん)戦争では、松平容保(かたもり)を擁して、官軍と戦
 い・・そして、敗れ・・江戸に幽閉された・・が、
  1870年、陸奥(むつ)国斗南(となみ)藩権少参事(ごんし
 ょうさんじ)となり、
  ついで、青森県権大属(ごんのたいぞく)などを経て、
 1874年上京し、『評論新聞』の海老原穆(えびはらぼく)
 と親交を結び、萩の前原一誠(いっせい)と通じた。
  1876年10月、熊本で神風連(しんぷうれん)、秋月で宮
 崎車之助(しゃのすけ)らが反乱し、ついで、萩で前原ら
 が蜂起(ほうき)するに及び、
  呼応し・・そして、千葉県庁を襲撃しようとした。
  東京・日本橋の思案橋から船で、千葉に行こうとした。
  この永岡久茂らの会津士族らを、不審に感じた船頭が
 通報・・、
  駆けつけた巡査4人と斬り合いとなった、
  そして、逮捕された。
   計画では・・千葉県庁を襲い・・佐倉鎮台の兵を味方
 に引き入れ・・会津にはいり・・萩の前原と呼応し・・
 政府を転覆させるという・・計画だった。  
1876年10月、「小笠原諸島の領有宣言」
  日本が領有を宣言した当時、すでにイギリスが領有し、
 アメリカ人が入植していた。
  1543年に、スペイン船によって発見。
  1827年に、イギリスが領有宣言。
  1830年に、アメリカ人とハワイ人(当時、ハワイは独
 立国)が入植。
  1853年、ペリー寄港。
  1862年、外国奉行が測量。
  1876年、日本による領有を関係国に通知。
  小笠原に入植したアメリカ人の子孫は、日本に帰化し
 ている。
  小笠原諸島の住民は、日本の領有と統治に賛成し、
  日本の領有に異議を唱えた国もなく、
  日本の領有は国際的に認められて来て、経過し、そし
 て、今・現在に至っている。
  因みに、日本の領土である竹島は・・、
  1905年の110年以上も前のこと、日本は、竹島を島根県
 に含めるという日本の閣議決定をした。
  そして、日本人の役人が、竹島調査のため鬱陵島(う
 つりょうとう)に渡り朝鮮の鬱陵島郡守らに会う。
  鬱陵島にいた朝鮮の官吏らはすぐに、日本が竹島を島
 根県領としたことを朝鮮朝廷に報告した。
  しかし、朝鮮王府は、何の異議も唱えなかった。
  不満をこぼすこともなく、また、
  ただの1度も。全く。黙って、何もしなかった。
  当然のことと理解を示した。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
 

2016年4月21日木曜日

(増補版)337E1/3:気になった事柄を集めた年表(1876年1月~1876年8月)

題:(増補版)337E1/3:気になった事柄を集めた年表(1876年1月~1876年8月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1876年1月2日、第二次府県統合
  府県数:3府35県に統合した。
  現在は、1都1道2府43県で47の都道府県であるが、
 この時、3府35件の38の府県だった。
  因みに、1871年の時は3府302県の305に分かれていた。
  そして、1872年2月10日に、3府72県の75分割(第一次
 府県統合)になり、
  (古代の日本は68だったので、近づけたのかの推定意
 見がある)、
  そして、この時、1876年1月2日、3府35県(第二次府県
 統合)をした。
  因みに、四国は愛媛県と高知県だけだった。
  東京府は、ちっちゃい東京府がちょこんとある。
  その分、神奈川県が大きかった。
  1876年の第二次府県統合は二度行われた。
  ちょっとした変更を入れると十数回の変遷の後、
  1946年9月27日に、府県制改正により北海道庁を北海道
 に移行し、1都1道2府42県となり、
  1972年5月15日に、沖縄返還により沖縄県が復帰し、現
 在の1都1道2府43県となった。
1876年6月27日、鉄道桟橋が、初めて神戸港に竣工し、港
 湾と汽車運輸の連結が成った。
1876年7月1日、三井銀行が開業した。
  最初の民間普通銀行。
1876年7月5日、新聞雑誌発禁の制を布告(出版統制の最初)
  評論新聞を発禁、急進的な新聞の弾圧を強化、
  国安妨害記事を掲載した新聞・雑誌について内務省で
 発売禁止等を布告した。
1876年7月13日、警視庁に初めて電信を設けた。
  警視庁が、電信を初めて架設し、緊急連絡に活用する。
1876年7月20日、奥羽・北海道巡幸の明治天皇陛下が、軍艦
 ではない汽船「明治丸」で、青森から横浜に御帰着(海
 の日の始)
1876年7月26日、大阪~京都間の鉄道試運転を開始する。
  この年は・・、
  1876年6月12日、品川〜川崎間に大森停車場を設置
  1876年8月9日、大阪〜高槻間に吹田および茨木停車場
   を設置
  1876年9月5日、大阪〜京都仮営業開始
  1876年12月1日、新橋〜品川複線化完成、中間に田町仮
   駅を設置
1876年8月5日、金禄公債証書発行条例 (秩禄処分)
  特権であった家禄の支給を廃した。
  華族484人・士族40万8800人余へ家禄支給を廃し、代り
 に金禄公債支給の条例を制定した(太政官布告108号)。
  これによって、封建支配層としての領主・武士層は、
 消滅した。
  彼らは、すべて公債を所有する利子生活者となり、士
 族たちの特権が奪われた。
  秩禄処分(ちつろくしょぶん)は、明治政府が、1876
 年(明治9年)に実施した秩禄給与の全廃政策で、
  秩禄とは、華族や士族に与えられた家禄と、維新功労
 者に対して付与された賞典禄を合わせた呼称。
  金禄公債(きんろくこうさい)は、1876年、明治政府
 が金禄公債証書発行条例に基づいて発行した公債で、江
 戸幕府の家禄制度を廃止する代償として、旧士族に交付
 した。
  発行総額は、約1億7390万円だった。
  この措置は、1869年(明治2年)の版籍奉還と、
  1871年(明治4年)の廃藩置県とともに、
  封建的身分関係を崩壊させるものであった。
  歳出の約3割にも達っしていた秩禄支給の負担が軽減
 され、近代化を進める政府の財政を助けた。
  この公債は、窮乏した士族が、すぐ手離さないよう当
 初は売買が禁止されていたが、
  1878年9月に、この禁が解かれると、多くが商人らへ
 その権利が売られ、商人の手に渡った。
1876年9月22日(明治9年8月5日)政府の財政難から鉄道払
 下条約の契約が成立した。
  大蔵卿・大隈重信および工部卿・伊藤博文と華族組合・
 九条道孝ほか25人との間に、鉄道払下条約の契約が成立
 した(お金を持っていた華族層が購入した)。
  日本の鉄道政策は、1869年12月(明治2年11月)の三条
 邸におけるイギリス公使パークスと三条、岩倉、大隈、
 伊藤等の対談の日に始まった。
  この日に、誰が、どこに鉄道を建設し、経営するかが決
 められた。
  明治政府は、巨大な財力を持つ諸大名を統括し、産業を
 開発して、『富国強兵』を実現するための手段としての
 鉄道を、
  政府以外のものの手に委ねることは考えていなかった。
  また、パークスも、それを勧めた、それは、パークス
 は、建設費のための外債を引受けるつもりなので、政府
 でなければ信用できないからだった。
  かつ、イギリスでは、小規模の民営鉄道で発足したの
 で、いろいろの障害を生じたことも知っていた。
  明治の俊英たちは、イギリスを我が方につけ、商売を
 適宜(てきぎ、状況に合わせ、適当)させて、また、知
 識を、うまく出させていた。
  この時、東京~京都~神戸間と敦賀~琵琶湖岸間、それ
 に、すでに江戸幕府に出願があった東京~横浜間が計画
 された。
  高島嘉右衛門(たかしまかえもん、横浜の実業家、京浜
 間鉄道敷設の必要性を伊藤博文と大隈重信に説明してい
 た)は、
  1871年(明治4年)東京~青森間、1872年(明治5年)
 東京市内の外濠循環線を出願していた。
  江戸時代の我が国の交通は、道路と船によっていた。
  道路で、車を使用することは禁止され、駄馬、または、
 駕龍によるほかはなかった。
  道路は、東海道(江戸~桑名~京都)、中山道(江戸~
 薮原~京都)、中仙道(木曾街道)、奥州街道(江戸~
 白石~三厩)、日光街道(奥州街道、宇都宮~日光)、
 甲州街道(江戸~甲府~岩淵)の5街道をはじめとして、
 多数の脇街道もあり、
  蝦夷地(北海道)以外は、一応、道路網ができ上って
 いた。
  上記の鉄道敷設予定区間は、旧街道に沿って計画されて
 いるが、琵琶湖畔~敦賀間は別だった。
  汽船・汽車、すなわち船舶と鉄道は、いずれも近代化さ
 れた交通機関となっていたので、これを併用しようとし
 たのは当然だった。
  東京~青森間は、東京~兵庫間と同様の縦貫線である
 以上に、北海道との連絡を持つ重大な使命があった。
  明治政府は、未開発の各種資源に富む北海道に深い関
 心を特っていて、その開発のため“開拓使”という官庁
 を特設していた。
  高島は、岩倉具視に自分の意見を進言し、賛同を得た。
  1872年12月(明治5年11月)政府は、小野友五郎に予定
 線を踏査させた。
  また、1870年(明治3年)秋には、東京~京都間を引続
 いて踏査させた。
  1870年(明治3年)京都府は、敦賀~琵琶湖畔でなく、
 敦賀~京都間とするように建議し、政府の賛同を得た。
  海陸運の併用の方針によって、東京~兵車間の鉄道は、
 中山道経由と予定された。
  1874年8月(明治7年7月)技師長V・ボイルは、中山道
 線と、その途中から分れて、新潟に至る線路を踏査した。
  開拓使もまた、独自の立場から、1881年1月(明治13年
 12月)J・クロフォードに命じ、青森~東京間を再調査
 している。
  1881年2月(明治14年1月)日本鉄道設立に際し、岩倉は、
 これらのほか、九州の大里(現在の門司)から長崎に至
 る線と、
  その途中から分れて、肥後(現在の熊本県一円)に至
 る線を予定線として計上した。
  岩倉は、また、敦賀~富山、長浜~四日市間の東北鉄
 道も計画した。
  創立願には“而シテ海路ハ又、危険非常ニシテ”と日
 本海岸の冬季の航行難を理由の一つにしていた。
  井上は、坂井(現在の三国)・伏木の河港の間に線路
 を新設し、
  敦賀~坂井、伏木~北海道間は、船舶を利用するよう
 勧奨し、
  長浜~四日市間は、長浜~武豊間に変更して、鉄道局
 が建設することにした(海陸運併用の考え方の典型的な
 もの)。
  明治政府の財政状態は、鉄道を全部官設にすることは
 不可能だった。
  東京~横浜間鉄道でさえ、1876年9月22日(明治9年8月
 5日)のこの日、華族組合に年賦払下げを契約している。
  大隈は大蔵省、伊藤は工都省の最高責任者であり、
  契約にも政府側を代表して記名調印した。
  その世話は井上馨がやっていた。
  華族は、一般資本家とは異なったものという観念はあっ
 たが、金のない政府の財政状態を示していた。
  東京~高崎間の中山道線(京都へ結ぶ目的の線)も着
 工に至らなかった。
  (着工されたものの工期と工費が、当初の見込みを大
 幅に上回る事が判明したため、東京~京都を結ぶ幹線鉄
 道としての東海道線の建設を行なう事に方針が変更され
 た)。
  岩倉の推進していた日本鉄道の計画が、1880年7月15日
 (明治13年)に至り、やっと結実した。
  (1878年4月(明治11年)に、1000万円分の国債を発行
 して、このうち鉄道建設費に213万9914円を割り当て、
 京都~大津間と、米原~敦賀間をいよいよ着工すること
 になった。
  この段階では、まだ、東西連絡幹線の全区間に着工す
 ることはできず、とりあえず本州横断路線を建設するこ
 とになったのであった。
  京都から馬場(後の膳所)間は、1880年(明治13年)
 7月15日に全区間が開通し、
  それまでの建設工事と異なり、お雇い外国人の助けを
 借りることなく、養成に努めていた日本人技術者の手だ
 けで初めて開通する鉄道路線となり、
  当初の見積もりに比べて約2割の工費節約も実現した)
  政府の願いは、一日も早く鉄道を完成することが第一
 だった。
  日本鉄道の主な出資者は、華族だったが、
  民間の出資もあり、財政当局は、その経費が浮くこと
 になり、大いに賛成された。
  財政難で、東京~横浜間鉄道さえ手離そうとした。
  その為、こうした形でなければ1891年10月(明治24年
 9月)東京~青森間鉄道を全通させることは事実上、不可
 能だった。
  大阪~堺間の鉄道は、1872年(明治5年)から計画され、
 1882年6月(明治15年5月)出願したところ、監督官庁の
 工部省では、「単ニ大阪府内ニ止リ且其性質普通ノ鉄道
 ト異ル」ものとして、大阪府限りで処理するように指示
 した。
  軌間も838mmであり、一地方の交通のみを目的とするも
 のと判定されたからだった。
  この他、地方的なものとして馬車鉄道は、設備も簡単
 なので広く各地に敷設された。
  鉱山用の専用鉄道は、1869年(明治2年)から、土木工
 事用の仮設鉄道は1881年(明治14年)から敷設され、機
 関車を使用するものもあった。
  日本の発展の基盤づくりの一つ運輸が、確実に達成さ
 れて行った。
  日本人の誠実さと勤勉さによる努力が結実して行った。
1876年8月14日、札幌農学校が設立された。
  札幌学校が、札幌農学校と改称して開校式を挙行した。
  初代校長に調所広丈、教頭にマサチューセッツ農科大
 学学長のウィリアム・スミス・クラークが招かれた。
1876年8月19日、水夫の名称を改め水兵とした。
1976年8月26日(7月7日)明治天皇陛下が、奥羽巡幸
  盛岡の馬匹4500頭を御覧給い、畜産を奨励し給う。
  1876年7月22日(明治9年6月2日)明治天皇陛下は、奥
 州街道を北上して奥羽(おうう)巡幸へと向われた。
  49日間におよぶ巡幸となった。
  明治維新に際し、奥羽諸藩の多くは、新政府に最後ま
 で抵抗していたため、国内の安定という意味で、今回の
 巡幸は待望されていた。
  聖徳記念絵画館壁画「奥羽巡幸馬匹御覧(おううじゅ
 んこうばひつごらん)」の絵は、1976年8月26日(明治9
 年7月7日)、天皇陛下が、岩手県の盛岡八幡宮にお立ち
 寄りになり、境内(けいだい)に設けられた天覧(てん
 らん)所で県産の馬を御覧になっている様子であるが、
  4、5百頭もの馬の行列が続き、軍馬術や豊年踊りが
 披露された。
  当時、日常的にも、そして、農事や軍事的にも、馬は、
 重要な役割を果していた。
  そのため、天皇陛下は、馬事に御関心を持たれ、馬の
 改良を奨励された。
  そして、奥羽巡幸では、各地で産馬を御覧になった。
  天皇陛下の愛馬として特に知られているのが「金華山
 号(きんかさん)」という名の南部馬で、
  奥羽巡幸の道中、岩手県の水沢で買い上げになり、最
 も活躍し、愛情が注がれた御料馬(ごりょうば)だった。
   のる人の心をはやくしる駒は
     ものいふよりもあはれなりけり (明治35年)
  もの言わずとも背に乗る主の心の内を汲みとる馬のい
 じらしさ、かわいらしさを詠(よ)まれた御製。
  天皇陛下にとって、馬への愛着は格別だった。
1876年8月31日、海軍提督府を廃し、東海、西海両道に鎮守
 府を設置した。
  海軍提督府(かいぐんていとくふ)は、旧海軍の機関
 で、海軍の根拠地として艦隊の後方を統轄し、その前身
 は、1871年(明治4年)兵部省内に設置された。
  1875年に、日本周辺を東西の2海面に分け、東西両指揮
 官の指揮下に置くことになり、
  1876年に、東海、西海の両鎮守府を設置することにな
 った。
1876年8月31日、『柳橋新誌(りゅうきょうしんし)』(成
 島柳北)と『東京新繁昌記(とうきょうしんはんじょう
 き)』(服部誠一)が発売禁止になった。
  柳橋新誌は、漢文戯作体の随筆集で、1874年に刊行さ
 れ、1876年に三編が成ったが、発行停止(文部省から発
 行差し止め)となった。
  二編が、特に、柳橋の花柳街を舞台にして、江戸から
 明治への人情、風俗を描いているが、明治文明に対する
 見方が、物質万能の明治の文明開花だと見て、また、卑
 俗で浅薄だと見て、その側面を辛辣に批判した。
  表現は自由であるが、明治の偉人の努力や汗を、売ら
 んかなで批判した(よく欧米に追い付け、蹂躙されるな
 と努力する姿は見えなかった様だ)
  また、薩長の政府高官の無風流を低俗に揶揄(やゆ)
 した。
  東京新繁昌記は、随筆であるが、明治維新後の文明開
 化の波に洗われる東京の世相・風俗を、
  破格の漢文戯作体で書き綴ったコント風の記録となり、
 また、人情小説的に、著名人の艶聞や政治への諷刺批評
 を縦横に記し、大きな反響を得た。
  揚げ足取りの三文記事だった。
  努力する皆を横目で見て、批判を口すさんだ。
  今でも、テレビという絶大なる放送媒体を私物と化し、
 まったく、深い意味合いのない論理を展開し、我が物の
 様に使っている公共放送がある。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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2016年4月20日水曜日

(増補版)336E1/3:気になった事柄を集めた年表(1876年5月~1876年6月)

題:(増補版)336E1/3:気になった事柄を集めた年表(1876年5月~1876年6月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1876年5月17日(明治9年)小判切手と呼ばれる新デザイン
 の近代的な凸版印刷の切手が発行された。
  「大日本帝國郵便」「IMPERIAL JAPANESE POST」の和
 英両文の国名表示がそろっている。
  1892年までに30種類が発行され、中央部分に小判型の
 縁取りがあるため「小判切手」と称された。
  これは、同時代のヨーロッパの各国に於いて、お馴染
 実のデザインで、江戸時代の貨幣である大判、小判の様
 に高い金額(料金)であった。
  明治政府は、さまざまな教育・産業の分野で、西洋の
 近代的な技術を早く学び、手に入れようと、ヨーロッパ
 やアメリカから技術者を招き入れた。
  紙幣、および、切手製造においても、印刷産業の先進
 国ドイツの印刷会社から、この会社に勤めていたイタリ
 ア人のエドアルド・キヨッソーネ(1833年~1898年)が、
 指導者として招かれ、ヨーロッパの精密な印刷方式のエ
 ルヘート凸版(ハンダ盛り上げ電胎法凸版)による「小判
 切手」が誕生した。
1876年5月、クラーク博士が来日した。
  札幌農学校開校にクラーク博士が、北海道開拓使の黒
 田清隆の招きで、米マサチューセッツ農科大学の休暇を
 利用して来日した。
  7月に札幌農学校の初代教頭として赴任し、教育方針を
 マサチューセッツ農科大学を規範とした。  
  1876年8月14日、札幌農学校(北海道大学の前身)の開
 校式が行なわれた。
  北海道大学の前身で、近代技術を導入し北海道開拓の
 指導者を養成する目的で開校した。
  1876年8月17日、授業が開始された。
  1876年9月9日、「札幌農学校」という校名に正式に改
 められた。
  言葉:「青年よ大志を抱け」(1877年)
1876年6月2日、明治天皇陛下が東北訪問
  明治天皇陛下が、奥羽地方巡幸のため帝都を御発輦(
 はつれん、天皇陛下の御車が出発すること)。
  岩倉、木戸、大隈、徳大寺が供奉(ぐぶ、行幸や祭礼
 などの時にお供の行列に加わること)す。
  明治天皇陛下の東北地方訪問の旅に出発し、草加、宇
 都宮、白河、福島、仙台、水沢、盛岡、青森から函館に
 至った。
  岩倉具視、木戸孝允らが随行し、7月16日に、青森港浜
 町桟橋から日本初の鉄製蒸気船「明治丸」に御乗船し、
 函館を経て、7月20日に横浜港に御帰着された(海の日)。
1876年6月6日、ドイツの医師ベルツ博士が来日した。
  エルヴィン・フォン・ベルツ(ドイツ、1849年1月13日
 ~1913年8月31日)は、ドイツ帝国の医師で、明治時代に
 日本に招かれたお雇い外国人のひとり。
  27年にわたって医学を教え、医学界の発展に尽くした。
  滞日は29年に及んだ。
  1849年(0歳)、ヴュルテンベルク王国のビーティヒハ
   イム・ビッシンゲンで生まれる。
  1866年(17歳)、テュービンゲン大学医学部に入学。
  1869年(20歳)、ライプツィヒ大学医学部に転学、カ
   ール・アウグスト・ヴンダーリヒ教授の下で内科を
   修める。
  1870年(21歳)、軍医として普仏戦争に従軍。
  1872年(23歳)、ライプツィヒ大学医学部卒業。
  1875年(26歳)、ライプツィヒ大学病院に入院中の日
   本人留学生・相良玄貞を、たまたま治療することに
   なり、日本との縁が生まれる。
  1876年(明治9年、27歳)、お雇い外国人として東京医
   学校(現在の東京大学医学部)の教師に招かれる。
  1881年(明治14年、32歳)、東海道御油宿(愛知県豊
   川市御油町)戸田屋のハナコと結婚。
  1900年(明治33年、51歳)、勲一等瑞宝章を受章。
  1902年(明治35年、53歳)、東京帝国大学退官、宮内
   省侍医を務める。
  1905年(明治38年、56歳)、勲一等旭日大綬章を受章。
   夫人とともにドイツへ帰国。
   熱帯医学会会長、人類学会東洋部長などを務める。
  1908年(明治41年、59歳)、伊藤博文の要請で再度来
   日。
  1913年(64歳)、ドイツ帝国のシュトゥットガルトに
   て心臓病のため死去(64歳没)。
1876年6月8日、国道、県道、里道の制、初めて定められる
 (国道一等幅七間以下各種)
  国道の1等は幅7間(約13メートル)、
 県道は4、5間(約9メートル)とする。
  そして、国道とは、
  ・帝都である東京から各開港場に達するもの
  ・東京より伊勢神宮及び二府(京都・大阪)各師団に
   達するもの
  ・東京より各県庁に達するもの、及び、各県庁を連結
   するもの
  ・東京から各鎮守府に達するもの及び各鎮守府と各師
   団とを連結するもの
1876年6月12日、大森駅(東京)が開業した。
  官設鉄道の駅が開業。
  旅客営業のみの旅客駅。
  因みに、東京駅は、1889年(明治22年)に神戸まで全
 通した官設鉄道の新橋駅と、
  私鉄・日本鉄道の上野駅を結ぶ高架鉄道の建設が、東
 京市区改正計画によって立案され、
  1896年(明治29年)の第9回帝国議会でこの新線の途中
 に中央停車場を建設することが可決された。
  日清戦争とその後の日露戦争が終わった1908年(明治
 41年)から建設工事が本格化し、
  1914年(大正3年)12月20日に開業した。
  中央停車場は、皇居(宮城)の正面の原野に設定され、
  「東京駅」と名付けられた。
1876年6月21日、横須賀造船所にて初の国産軍艦「清輝」が
 竣工した。
  スループ型3本マストの木質艦で、排水量は897瓲。
 速力九節半(ノット)。
  15糎克砲1門、12糎克砲4門、6ポンド砲1門、1イ
 ンチ機砲3門を装備
  1878年(明治11年)年末、井上良馨が艦の艦長となり
 日本を出発、ヨーロッパ諸港を回航
  軍艦・清輝はヨーロッパ航海を最初に成し遂げた日本
 艦となる。
  因みに、速力九節半=9ノット=9×1.852=16.97km/時
       瓲=トン、糎=センチメートル
      6ポンド=6×0.453=2.72kg
      1インチ=2.54センチメートル
1876年6月25日、卑劣な武器使用。
  この時、1876年6月25日に、カーター将軍が、リトルビ
 ッグホーンの戦いで、アメリカ・インディアンの方々に
 敗けるた。
  アメリカ合衆国は、まさかの敗北にいきり立った。
  アメリカ合衆国政府は、大勢の兵士を繰り出し、また、
 機関銃や大砲という強力な武器を使って、卑劣な武器を
 使った復讐の怨念で、インディアンの方々を攻めて行っ
 た。
  卑怯な、卑劣な手を使い、勝つと分かっている戦争を
 した。
  そして、インディアンの方々を蹂躙し、そして、殺戮
 した。
  イギリスもアヘン戦争の時、悪いのはイギリスである
 のに、イギリスの外貨の流出を少なくしたいと、単純な
 経済的問題を解決しようと、やってはいけないアヘン(
 麻薬)を中国の方々へ売った。
  いくら禁止令を中国が出しても止めないイギリス。
  ほとほと、困った中国は、ファイトバックした、反抗
 した、当然の反抗をした。
  イギリスは、待ってましたとばかりに、勝つと分かっ
 た戦争・アヘン戦争を始めた。
  中国の方々を、「これでもか」と言うほど、やっつけ
 た。
  イギリスには少しも正義は無かった。
  正義の戦争でも何でもない戦争をイギリスはした。
  弱い者いじめをした。
  オーストラリアは、オーストラリアの土地を奪うため
 に、遠い昔から住んでいる方々=先住民のアボリジニー
 の方々を殺戮した。
  何ら抵抗する術(すべ)を持たないアボリジニーの方々
 を、動物の狩りでもするがごとくに殺戮した。
  「今日は○○人、殺した」というオーストラリアに来
 たイギリス人の日記が残っている。
  この様に、イギリス人の皆が、アボリジニーの方々を
 殺した。
  アメリカは、負けることが確実で、負けると分かって
 いる日本に・・、
  だから・・、日本が負けると分かっているからアメリ
 カは、日本へ「降伏しろ」とポツダム宣言を出した。
  それなのに・・、敗ける事が確実な日本へ、
  「原爆を落とした」。
  それも戦闘員ではない「一般の市民の方々」が、「非
 戦闘員の方々」が、「女性や子供やお年寄りの方々」が
 大勢死ぬと分かっているのに、
  その非人道的な、卑劣な、地獄の様な行為をした。
  当時、れっきと存在していた国際的な法律である国際
 法違反の行為で、「非戦闘員殺戮」をアメリカ合衆国は
 した。
  アメリカ合衆国が、何と言っても、国際法違反である
 ことは免れる事は出来ない。
  それも二発も、やってはいけないことを、二度もした。
  広島と長崎の原爆投下は、アメリカがやりたいことが
 あった。
  卑劣な実験としての地獄の行為だった。
  アメリカは、「ウラン型原爆」と「プルトニウム型原
 爆」の効果を知りたかったのだった。
  ただ、それだけの事で、広島と長崎に原爆を落とし、
 多くの方々を死に追いやった。
  まったく卑劣と言っても言い足りない。
  アンフェアなアメリカ、卑劣なアメリカだ。
  ヨーロッパの知識人たちが、「アメリカは、ドイツに
 落とさなかった」と言う、
  「ドイツには落す気は、なかった」と言う。
  「キリスト教の有色人種の蔑視」を言う。
  アメリカは、その為に、広島・長崎に、
  それまで、爆撃をして来なかった都市に、投下した。
  原爆投下の威力、その効果が分かるように・・、
  普通爆撃をしないという、実験の効果を知る適地を、
 最初から作っていたアメリカだった(計画的犯罪行為)。
  東京裁判と同様に、アメリカのこの行為も国際的に裁
 かれるべき国際法違反行為だ。
  相変わらず、自国の事になるとホッカムリするアンフ
 ェアなアメリカ。
..
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2016年4月19日火曜日

(増補版)335E1/3:気になった事柄を集めた年表(1876年3月~1876年5月)

題:(増補版)335E1/3:気になった事柄を集めた年表(1876年3月~1876年5月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1876年3月31日(明治9年)、私立銀行の誕生
  大蔵省が、三井銀行設立許可を東京府に指令した。
  私立銀行の始まり。
  そして、7月1日に三井銀行が開業した。
  三井グループの中核で日本最古の銀行。
  1872年(明治5年)、三井組は小野組と共同出資で三
 井小野組合銀行を設立した。
  1873年(明治6年)に、その後身の第一国立銀行の創立
 に資金を出資した。
  1876年(明治9年)、日本初の私立銀行として三井銀行
 が開業した。
  まだ、日本銀行が出来てない時で、日本銀行創業前に
 は政府の「為替方御用」を拝命していた。
  因みに、1943年(昭和18年)に第一銀行と合併し、帝
 国銀行が発足した。
1876年3月、自由民権運動に弾圧が激しくなる(言論弾圧)
  明治の自由主義運動において、福沢諭吉ら明六社系の
 啓蒙家による、ヨーロッパから紹介された自由・民権思
 想や、
  また、日本に既にあった自由民権思想の受け皿となる
 思想、
  例えば、「営業の自由を要求した国訴のような裁判闘
 争」、「百姓一揆」、「封建的支配を否定した世直し、
 「『天』の思想に基づく儒教の革新的解釈、天理教・金
 光教・丸山教などの民衆宗教で主張された神の前の人間
 平等観」など・・、
  ・・に基づいて、在野の旧士族と豪農、農民らが中心
 となって藩閥専制政治に反対した。
  そして、国会開設や憲法制定(立憲政体)、地租軽減、
 地方自治、不平等条約撤廃・・という五大要求を掲げ、
 要求した。
  1874年(明治7年)の板垣退助らが、民撰議院設立の要
 求に始まり、国会期成同盟を中心に全国的に広まって行
 った。
  運動は、1880年~1881年が高揚期で、
  1881年に、10年後の国会開設を約束する詔勅を引き出
 す事に成功した。
  自由党や立憲改進党などの政党結成へと進んだ。
  しかし、政府の弾圧強化と運動内部の対立が起き、
  1882年の福島事件や、1884年の加波山事件など、激化
 事件が相つぐなかで衰えて行った。
  しかし、国会開設が近づくと、旧自由党の星亨らは、
 1886年に、民権派の再結集を呼びかけ(大同団結運動)、
  1887年に、不平等条約の不十分な改正案反対を中心と
 する三大事件建白運動が起こり、全国から自由民権家が
 上京した。
  それに対し、政府は、保安条例を出して在京の民権派
 を東京から追放して、運動は鎮圧された。
  政府は、讒謗律(ざんぼうりつ)、新聞紙条例、出版条
 例改正(以上1875年)、集会条例(1880年)、集会条例
 改正追加(1882年)などで運動を弾圧した。
1876年3月、群馬商人が、初めて生糸をアメリカへ直輸出
 した。 
  新井領一郎(あらいりょういちろう)は、上野国勢多
 郡(現:群馬県桐生市)の農民であったが、
  明治初期に製糸業と生糸貿易の将来性に着目した兄の
 星野長太郎と連携して、日本製生糸の市場開拓のためニ
 ューヨークに渡った。
  直ちに顧客獲得に取り組み、日本初の生糸直輸出を実
 現した。
  有力絹織物業者などとの取引を通して、生糸輸出量の
 飛躍的拡大を図り、また、絶えず高い品質維持を目指し
 品質向上にも努めた。
  そのため、市場からの高い評価と信頼を勝ち取った。
  『ニューヨーク・タイムズ』紙は、「日米生糸貿易の
 創始者」と評した。
  また、やはり、群馬県の星野長太郎(ほしのちょうた
 ろう、実業家、政治家、衆議院議員)は、外国人居留地
 外商を介さず、日本初の日本人による生糸直輸出を実現
 した。
  産業組合結成などにも取り組み、明治期における日本
 製生糸の品質向上と、輸出の飛躍的拡大の先駆者である。
  星野は、群馬県初の日本人の手による民間洋式器械製
 糸所を開設したり、
  実弟をニューヨークへ派遣して、市場開拓・販路を確
 保するなどして生糸直輸出を実現した。
  また、生糸の品質改良を積極的に推進し、伝統的製法
 による改良座繰製糸の普及に努めたりもし、
  模範的製糸業者、また、生糸直輸出運動の指導者と名
 声を高めた。
  1904年(明治37年)に、衆議院議員となり、また、多
 くの公職も歴任し、全国を舞台に活躍し、生糸貿易と蚕
 糸業の発展に貢献した。
  製糸界の元勲ともいわれ、藍綬褒章も受章した。
1876年4月1日、男満20年を成年とする太政官布告 
  太政官布告第41号:「自今満弐拾年ヲ以テ丁年ト相定
 候」が出された。
  芸術家の岡本太郎の母の岡本かの子の小説『秋の夜が
 たり』にも書かれたが、男20歳にして丁年(ていねん、
 成年)となり、徴兵対象者となり、大方が戦線へ出て行
 って仕舞ひ、その上まもなく戦死した・・云々と書かれ
 ている様に、男尊女卑からの男満20年を成年とするとい
 意味はもうとう少しもなかった。
  逆に、女性の方々を守った日本という形だった・・女
 性の方々には、銃後の守りを宜しくという考え方だった。
  古来から、日本は女性方を大切にする国柄だった。
  日本国民の総氏神とされる天照大神(あまてらすおお
 みかみ)が、天岩戸に神隠れして日本中が真っ暗になっ
 たという話があるが、
  天照大神を、大日女尊(おおひるめのみこと)、大日
 女(おおひめ)とする神社があるごとく女性とも考えら
 れている。
  大切な女性が隠れて日本中が真っ暗になったという話
 にもなっている。
1876年4月4日、樋口一葉が、裕福で幸せな時・・
  一葉の父則義は、第4大区7小区本郷6丁目5番屋敷(旧
 7小区扱所の置かれた浄土宗法真寺の境内、現文京区本郷
 5丁目26番地)の土地家屋を高橋小四郎から買取り、
  明治14年7月までの5年間を居住。
  (1872年生まれの一葉が4歳~9歳の時で、一葉は、明
 治29年に24歳で没している)。
  一葉が、経済的に最も豊かな時代。
  宅地233坪、屋敷45坪。
  一葉の二階建てのこの建物は、大邸宅の回廊のように
 渡り廊下と縁側で結ばれている。
  二階の窓の障子を開けると、桜の大樹が築山の上に植
 えられている。
  一葉は晩年、幸せな時代を振り返り、その桜の木に因
 んで「桜木の宿」と名づけた。
  樋口家は、甲斐国山梨郡中萩原村重郎原(現:山梨県
 甲州市塩山)の長百姓で、祖父の八左衛門は、一葉が生
 まれる前年に没している。
  祖父は学問を好み、俳諧や狂歌、漢詩に親しんだ人物
 で、江戸の御家人・真下晩菘(専之丞)から江戸の情報
 を知り、横浜開港に際しては、生糸輸出の事業もしてい
 る。
  一葉は後に『にごりえ』で、八左衛門の教養や反骨精
 神を主人公お力の祖父に重ねて描いた。
  父の則義も農業より学問を好んだ。
  妻の多喜(一葉の母)との結婚を許されなかったため、
 駆け落ち同然で江戸に出た。
  則義は、蕃書調所勤番であった晩菘を頼って同所使用
 人となり、1867年(慶応3年)には同心株を買い、運良く
 幕府直参となり、明治維新後には下級役人として士族の
 身分を得て、東京府庁に勤めたが、
  1876年(明治9年)に免職。
  1877年(明治10年)には警視庁の雇となり、
  1880年(明治13年)には、勤めのかたわら闇金融、土
 地家屋の売買に力を入れた。
  職権などで入手した情報などをもとに、不動産の売買・
 斡旋などを副業に生計を立てた。
  一葉の少女時代は、読書好きの子で、上野元黒門町の
 私立青海学校の高等科第四級を首席で卒業した。
  しかし、母の考えから上級には進まなかった。
  父・則義は、娘の文才を見抜き、知人の和田重雄のも
 とで和歌を習わせた。
  1886年(明治19年)、父の旧幕時代の知人である医師
 の遠田澄庵の紹介で、中島歌子の歌塾「萩の舎」に入門
 した。
  ここで、和歌のほか千蔭流の書や古典文学を学び、
  源氏物語などの王朝文学が一葉の初期作品のモチーフ
 になった。
  萩の舎時代に、一葉は、親友の伊東夏子や田辺龍子と
 出会い、素養を積んでから、助手として講義も行った。
  萩の舎は、当時、公家や旧大名などの旧体制、明治政
 府の特権階級の政治家・軍人の夫人や令嬢らが通う歌塾
 だった。
  名家の令嬢であった田辺龍子(三宅花圃)は「思い出の
 人々」という自伝の中で、一葉を語っているが、この時、
 一葉15歳、龍子18歳で、
  後に2人は、萩の舎の二才媛と呼ばれた。
1876年4月、政府が、品川硝子製造所を開設した。
  近代ガラス工業の礎となった品川硝子製造所。
  1873年に、品川興業社・硝子製造所が開設されたこと
 に始まる。
  太政大臣・三条実美の家令(かれい、事務・会計を管
 理し、使用人の監督にあたった人)だった村井三四之助
 は、三条実美の支援により、イギリスから設備を輸入す
 ると共に、トーマス・ウォルトンを招聘し、国内のガラ
 ス職人を採用した。
  しかし、ガラス器の製造は困難で、1876年に、政府に
 買い上げを願い出る。
  品川硝子製造所は、政府の殖産興業政策を受けて、1876
 年に、工部省が興業社を買い上げ、官営の「品川硝子製
 造所」となり、工場の拡大も図った。
  1879年に、英国人ガラス技術者ジェームス・スピード
 らを雇い入れ、板ガラスの製造を目指したものの、これ
 を達成することは技術的に困難だった。
1876年5月9日、上野公園開園式 (明治天皇臨幸)
  東京・上野公園の開園式が行われ、明治天皇陛下も御
 出席された。
  掛け茶屋が取り払われて精養軒・八百善ができ、不忍
 池畔が整備され、桜が植えられた。
  上野公園は博物館所轄となった。
  1873年(明治6年)の太政官布告により日本初の公園に
 指定された。
  太政官布告第16号「三府ヲ始、人民輻輳ノ地ニシテ、
 古来ノ勝区名人ノ旧跡地等是迄群集遊覧ノ場所 東京ニ
 於テハ金龍山浅草寺、東叡山寛永寺境内ノ類、京都ニ於
 テハ八坂社、清水ノ境内、嵐山ノ類、総テ社寺境内除地
 域ハ公有地ノ類、従前高外除地ニ属セル分ハ永ク万人偕
 楽ノ地トシ、公園ト可被相定ニ付、府県ニ於テ右所ヲ択
 ヒ、其景況巨細取調、図面相添ヘ大蔵省ヘ可伺出来」
  ・・と定め、旧社寺地等を接収し、公園としたのが国
 営造物公園の始まり。
  1875年に、上野の寛永寺本坊跡に博物館を開設する方
 針が内定すると、
  博物局は、一帯の整備に着手し、「上野公園貸地条例」
 を定めるとともに、道路の修築拡張、休憩所の修繕、公
 園事務所の設置などを行った。
  そして、公園の整備が一段落した1876年5月9日に、明
 治天皇・皇后両陛下の行幸啓を仰ぎ、開園式が挙行され
 た。
1876年5月10日~11月10日、アメリカ(フィラデルフィア)
 万国博覧会に参加した。
  会場には、8万平方メートルの広大な面積を有する鋳鉄
 構造の本館と、木造の機械館があった。
  会場全体は、これらを含む7つの主要会場と日本館を含
 む250の各国館など、
  それまでに見ないほど多くのパビリオンが作られ、素
 晴らしい景観となって配置されていたが、本館などの建
 築は、開催直前まで完成せず、
  展示品も開催後に到着したものもあった。
  閉幕近くに、集客数は伸びたが、万博全体は大幅の赤
 字に終わった。
  日本の万国博参加は、1862年のロンドン万国博覧会ま
 では、日本を知る外国人の手により、日本の品々が紹介
 されて出品されていた。  
  1867年のパリ万国博覧会で、日本は初めて参加した。
  日本の品々が、日本人の手によって展示されたが、
  ここでは、幕府を中心に、薩摩藩、佐賀藩、そして、
 民間の商人も加わって出品した。
  そして、1873年のウィーン万国博覧会においては、
  明治政府として、一体となった参加がおこなわれた。
  「ジャポニスムのパリにおける盛行を促した大きな動
 因として、1867年のパリ万国博と、それからほぼ10年を
 経て開催された1878年のパリ万国博への日本の参加があ
 った。
  そして、これら二つのパリ万国博覧会は、ジャポニス
 ムにとって重要な意味を持った。
  これらの万国博覧会の間に開催された万国博が、ウィ
 ーン万国博覧会とフィラデルフィア万国博覧会であった。
  欧米の日本愛好家にとって注目に値する万国博覧会だ
 った。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
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2016年4月17日日曜日

(増補版)334E1/3:気になった事柄を集めた年表(1876年1月~1876年3月)

題:(増補版)334E1/3:気になった事柄を集めた年表(1876年1月~1876年3月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1876年1月14日、千島に占守郡(しゅむしゅぐん)などが設置
 され、千島国となった。
  因みに1878年8月に、占守島の千島アイヌ(首長アレキ
 サンドル・プリチンまたはチェルヌイ)が、日本国籍を
 取得した。
  そして、1879年9月9日(明治12年7月23日)に、郡区町
 村編制法の北海道での施行により、行政区画としての占
 守郡が発足した。
1876年1月23日(12月27日)明治天皇陛下が、雜司谷村に陸
 軍び御閲兵をされた。
1876年1月27日、警視庁が、売淫罰則を制定した(法令類纂・
 巻之63,法令全書)
  1872年に、娼妓解放令が出されていた。
  1876年のこの布達で罰則が決められた。
  (1872年明治5年太政官布告第295号)
  人身売買ヲ禁シ諸奉公人年限ヲ定メ芸娼妓ヲ解放シ之
 ニ付テノ貸借訴訟ハ取上トス 一 人身ヲ売買致シ終身又
 ハ年期ヲ限リ其主人ノ存意ニ任セ虐使致シ候ハ人倫ニ背
 キ有マシキ事ニ付古来制禁ノ処従来年期奉公等種々ノ名
 目ヲ以テ奉公住為致其実売買同様ノ所業ニ至リ以ノ外ノ
 事ニ付自今可為厳禁事
  (売淫罰則)
  警視庁第23号 1876年明治9年1月27日
  売淫罰則左ノ通相定候条此嘗各区ヘ可相達候事
  第一条 凡ソ許可ヲ得スシテ売淫ヲ為シ及ヒ媒号容止
    スル者初犯ハ拾円以内再犯以上ハ弐拾円以内窩主
    初犯ハ拾五円以内再犯以上ハ三拾円以内之罰金ヲ
    科ス
    但シ父母等ノ指令ヲナス者ハ其罰ヲ指令者ニ科ス
1876年、恤救規則(じゅっきゅうきそく、救貧法)論議盛ん
  明治新政権は、それまで幕府や藩などで実施していた
 救貧政策を、
  1874年(明治7年)に、明治政府の太政官達162号によ
 って布達された慈恵的(じけい、慈愛の心をもって他に
 恵みを施すこと)な貧民救済制度。
  済貧恤救は人民相互(共同体的性格による救済)の情
 誼によるべしとし、それで救済できない貧困者や70歳以
 上の労働不能の者、障害者、病人、13歳以下の児童等に
 一定の米代を支給することを定めた。
  「極貧ノ者独身ニテ廃疾ニ罹リ産業ヲ営ム能ハサル者」
 「独身ニテ七十年以上ノ者重病或ハ老衰シテ産業ヲ営ム
 能ハサル者」「独身ニテ疾病ニ罹リ産業ヲ営ム能ハサル
 者」「独身ニテ十三年以下ノ者」
  給付は現物(米)から現金給付(米代等)へ
  1931年(昭和6年)救護法制定とともに廃止。
  因みに、明治政府の要人(大久保)は、イギリスのマ
 ルサス主義な救貧法批判は知っていた(岩倉遣外使節と
 して学んで来ていた)。
  その論理は、パターナリズムに代表される貧困層への
 チャリティーの考えは効果がなく、膨大な貧困層の増加
 をもたらすだけであるとの推論から導かれており、
  1834年の新救貧法に体現される給付の縮小というホイ
 ッグ党の経済学の考え方に発展した。
  反対者たちは、「マルサスの法案は、貧困層が海外に
 移住し、低賃金で働き、粗末な種類の食物での生活を余
 儀なくするように考案された」と述べた。
  貧困層の暴動や放火を招いた。
1876年1月(12月)斉藤一諾斎(さいとういちだくさい62歳)
 が没した。
  武蔵国江戸出身。幕臣の家に生まれる。
  1818年(6歳)の頃、浅草今戸の潮江院にて出家。駒込
 吉祥寺の僧となり、甲斐国山梨郡など、各地の住職を歴
 任した。
  1868年3月に、甲陽鎮撫隊(新選組)が甲州へ訪れると、
 56歳にして入隊。
  甲州勝沼の戦いに敗れた後は、土方と共に宇都宮・会
 津への転戦し、仙台で新政府軍に降伏した。
  釈放後、多摩郡中野村(現、八王子市由木中野)に定
 住して学校を設立。
  土方家、近藤家、佐藤家と深い交流を持った。
1876年2月2日、大阪の大火(道頓堀芝居小屋より発火、16
 街道に延焼(「大西芝居の火事」)
1876年2月20日、大阪毎日新聞が創刊された。
1876年2月20日、東京府王子村(現、北区)に、最初の洋紙
 専門工場が建てられた(現在の王子製紙)
1876年2月26日、日朝修好條規(江華嶋條約)
  日朝修好条規(にっちょうしゅうこうじょうき)が調
 印され、効力が発生した。
  全12款からなり、日本と李氏朝鮮との間で締結された。
  朝鮮が清朝の冊封から独立した国家主権をもつ独立国
 だと明記した。
  李氏朝鮮が、それまで世界とは限定的な国交しか持た
 なかったが、開国する契機となった。
  この条約を契機にして、アメリカ・イギリス・ドイツ・
 フランス・ロシアと似たような内容の条約を締結した。
  これを契機に、李氏朝鮮は、世界の資本主義の中へ入
 って行った。
  この頃は、アメリカ・西欧列強が弱肉強食を旨として
 浸透してくる時期だった。
  1866年には、フランスが、キリスト教が関係する丙寅
 迫害の報復として、軍艦7隻・総兵力1000人で、朝鮮の江
 華島を攻撃・占領する丙寅洋擾が発生したり、
  1871年には、アメリカ合衆国が、ジェネラル・シャー
 マン号事件(1866年発生)の報復として、軍艦5隻・総兵
 力1200人・艦砲85門で、朝鮮の江華島に攻撃・占領を行
 なわれたり、いい様にやられていた(辛未洋擾)。
  日本との条約の主な内容は、外交使節の相互派遣、釜
 山などの2つの港の開港、開港場での日本領事の領事裁判
 権を規定。
  修好は、国家と国家とが親しく交流するという意。
  これを機に、朝鮮のエリート官僚が、次々と日本に来
 て、進展した日本を学んだ。
  また、日本の指導者たちも、朝鮮の独立の大切さと必
 要性を指導し、また、朝鮮近代化を説いた。
  加那大学の崔基鎬(チェケイホ)教授が、本「日韓併
 合」で以下の様な事を書いている。
  朝鮮の李朝成立後、484年が過ぎた1876年2月に結ばれ
 た「日朝修好条規」は全文12条からなる。
  この修好条規の第1条に「朝鮮国は自主の国」とあるこ
 とは、極めて重要な意義を持つ。
  1392年の李朝開国は、高麗の重臣であった李成桂(り
 せいけい)が、明との戦いで遼東(りょうとう)地方奪
 回に出陣し、秘かに敵と通じて、威化島(いかとう、鴨
 緑江・おうりょっこう下流の島)で軍を翻し(回軍)、
  逆に、時の高麗王(禑王・ぐおう)と上官の崔瑩(さ
 いえい、総理兼参謀総長)将軍を殺し、政権を簒奪(さ
 んだつ)した結果によるもので、
  敵国であった明の協力で打ち立てた国であるから、そ
 の後の李朝が明の隷属国家に転落したのは必然だった。
  国民は奴隷民族化され、私有財産も没収された。
  李朝は専制王権制度に体制を変え、朝鮮民族が古代か
 ら高麗に至るまで連綿と持ち続けた国際的自尊心を放棄
 させられ、明の属国としての堕落が始まった。
  この様な環境の中で、階級制度は固定化し、創意工夫
 の精神は圧殺された。
  こうして李朝は、搾取(さくしゅ)と虐政(ぎゃくせ
 い)の中にあり、国王は名ばかりで何ら政策も施さず、
 その政府には国家の予算案すら存在しないという無軌道
 ぶりだった。
  いわば民衆は無政府状態の置かれていたのだった。
  それを考えると、「日朝修好条規」第一条の「朝鮮国
 は自主の国」との言葉の持つ意味の重大さが分かってく
 る。
  だが、清と朝鮮との主従関係を断ち切ろうとした日本
 の狙いは、実際には実現にほど遠く、清の保護下にある
 李朝の専横は変わることなく、民衆は相も代わらず、塗
 炭の苦しみを味わい続けていた。
  近代化と自主独立の道を拒否し続ける李朝の存在は、
 東アジアの情勢に不穏な種を宿していた。
  李朝は1897年、国号を「大韓帝国」と改め、年号を「
 光武」とした。
  王を皇帝と称し、表面的には510余年ぶりに明・清の束
 縛を脱し、独立国家を形成したが、実態は変わるところ
 がなかった。
  1904年、日清戦争に次いで日露戦争を控えた日本は、
 こうした朝鮮の惨状を見かねて目賀田種太郎(めがたた
 ねたろう、1853年~1926年)を財政顧問として派遣し、
 日本からの財政支援をもとに、李朝をまともな国として
 立て直すという体制がようやく緒(ちょ)につくことに
 なった。
  目賀田政顧問と総監府は、朝鮮の歳入不足分を補てん
 するために、日本国民の税金から、大韓帝国政府に無利
 子、無期限の資金「立替え」を実施した。
  また、そのほか、直接支出で援助した。
  例えば、1907年度で、朝鮮の国家歳入は748万円しかな
 く、必要な歳出は3000万円以上であったから、その差額
 は全額日本が負担した。
  1908年度には、これがさらに増えて、合計3100万円と
 いう巨額の資金を日本は支出した。
1876年3月2日、新聞号外の始まり
  東京日日新聞社より、朝鮮問題談判の平和落着を急報
 のため号外が発行された。
1876年3月12日、土曜半休、日曜休日制を公官庁で実施
  太政官布告により、官庁や学校は1、6の休日を廃し、
 日曜が休み、土曜日が半休(半ドン)に決まった。
  (なお、振替休日は1973・4・6に立法化)
  1・6日制が改正され、欧米にならって、官公庁の"土
 曜日半日制"、"日曜休日制"に改正された。
  それまでは、"1の日"と、"6の日"を休日としていたが、
 これだと、外国との付き合いに不具合が生じるからと、
  "週休制"にして、"日曜日"が休みになり、土曜日が半
 休となった。
  土曜が半分休みになることを「半ドン」と言っていた
 が、これは、皇居で、今の時報のような時間を知らせる
 大砲「午砲(ごほう)」がドンと撃たれていて、これが、
 ちょうど"正午"を知らせるものだったことから、ドンと
 鳴ったら仕事も終り・・・と「半ドン」となった。
1876年3月15日、植木枝盛が、「民権自由論」などで専制政
 府を攻撃し、筆禍事件となり逮捕された。
1876年3月21日、水交社(すいこうしゃ)が、芝山内に創立
 された。
  旧日本海軍の将校の懇親、研究、共済団体。社団法人。
1876年3月25日、大阪に、書籍館(しょじゃくかん)が設置
 された。
  東京都文京区の湯島聖堂内にあった図書館。
1876年3月28日、「帯刀禁止令(廃刀令)」 公布
  大礼服着用者、軍人、警察官以外の帯刀を禁ずる法令。
  太政官布告第38号「大禮服竝ニ軍人警察官吏等制服著
 用ノ外帶刀禁止」
  廃藩置県の直後、政府は、散髪脱刀令(1871)を発し
 て礼式以外は脱刀してもよいとした。
  しかし、士族のなかでは帯刀する者も多く、
  徴兵令施行(1873年)以後、国家治安にとって士族の
 帯刀は不都合だとして、
  1875年に、陸軍卿(きょう)・山県有朋(やまがたありと
 も)は、軍人以外の帯刀禁止を政府に建言し、
  翌年・1876年に、帯刀禁止令発布となった
  これによって、士族の封建的諸特権はことごとく奪わ
 れ、神風連(しんぷうれん)の乱のような不平士族の反乱
 が起こる。
  アイデンティテーの否定であったが・・、
  アメリカ合衆国も、当然の事であるが、「銃社会から
 脱するべきである」(遅れた国アメリカ)
  100年を大きく超える以前に、日本はこの様に放棄した。、
  また、秀吉の「刀狩り」を入れれば、気が遠くなるほ
 どの以前に・・すでに・・
  『日本国民は、武器の所有を放棄していた』。
(追伸)射殺された日本の若者。
  今・現在においても、卑劣なことにアメリカで、
  日本の若者が、ハロウィンの日に、ハロウィンの服装
 をして、ある白人のアメリカ人の家を訪れた時、
  そうしたら、射殺されてしまった。
  全く卑劣な行為である。
  ハロウィンの日に、ハロウィンの服装で訪れるのは、
 当たり前でしょう? 普通でしょう?
  警告もなく、
  また、射殺する行為に対して、何等の罪悪感もなく、
 安易に、まったく安易に、日本の若者の命は奪われた。
  安易に銃が使われた。
 (また、この白人・アメリカ人の悪意は、足などを狙わ
 ずに、心臓を撃ち抜くところにあった)
  その後についても、よくある様に、いつもの様に、こ
 のアメリカの白人に対して、
  なんだかんだと、自分たちだけに都合の良い理屈が付
 けられて、何らの罪には・・問われなかった。
  よく黒人の方たちが、アメリカで、これと同じ様な「
 仕打ちを受けて」、抗議行動をしているが・・、
  まったく、この時も、白人・アメリカ人の罪は、何に
 も問われなかった。
  無罪だった。こんな事がある訳はない・・、
  殺された被害者が有色人種の場合、そして、行為者が
 白人の場合、いつもの様な無罪となった。
  残念ながら、こうなると予想した。
  「この様にならないでくれよ」と思いながらも、無罪
 となってしまった・・
  憤りが・・、今回もそうだったかと、心の湧いた。
  沖縄の場合でもそうだった。
  沖縄で起きた事件でも、まったくこれと同じような悔
 しさを味わわされて来た。
  今回のこの場合もそうなると予想されたが、まったく
 予想通りとなった。
  キリスト教の最高ポジションにいる人が、南米の現地
 から、先住民のインディオの方たちと遭遇した時、
  派遣された現地から、キリスト教の最高責任者へ、「
 この先住民をどのように扱えばよいか?」の問い合わせ
 が来た・・この問い合わせに対して、
  「人間ではない」・・と、このキリスト教の最高責任
 者は答えた。
  ひどい話ではないか。
  キリスト教の教義である「有色人種蔑視」。
  この問い合わせに対する返事から、この答えから、イ
 ンディオの方たちへの殺戮が始まった。
  50年にも及ぶ「大大殺戮(さつりく)」がスペイン・
 キリスト教国によって行われた。
  この行為は、この50年という超長期に、アメリカ新
 大陸の隅々にまで、この大悪事はおよび、行われた。
  このキリスト教の最高部署から出た「人間ではない」
 という殺戮指示によって、
  インディオの方々が、1000万人を超すという驚愕
 する様な多くの方々が・・殺されてしまった。
  一緒にこの殺戮行為に加わったキリスト教宣教師・・、
  また、インディオの方々の金銀・黄金の財貨を奪う行
 為も行なったキリスト教宣教師は、50年もの悪事をし
 てから後に、やっと気付く、
  「このままでは天に召されない」と。
  キリスト教宣教師は、50年もの悪事の後に、「このま
 までは天に召されない」と、本国に、この悪時の事を話
 に行く。
  キリスト教の教義による指示によって、今までやって
 来たことは間違いだと・・やっと気付いた。
  そもそも、この様な「隠れたキリスト教の悪教義」が
 あるキリスト教を信じ、そして、キリスト教のその教義
 による行為を行ったところに、
  「このままだと、天に召されない」という理由が、あ
 るのだ。
  自分だけが、天に、たとえ、召されたって、殺された、
 亡くなったインディオの方々は帰って来ない。
  「自分だけ良ければよい」のキリスト教の理念が、こ
 の話にも出ている。
  キリスト教は、このところを、「(キリスト教の)神
 の義があれば、良い」と言い、
  キリスト教信徒の方々を洗脳し、マインド・コントロ
 ールし、繰って来ている。
  「キリスト教を離れなさい」。
  知らず知らず、交わっていると・・、
  この点に、この様な恐ろしい点に気づかず、違和感を
 持たなくなってしまいます。
  キリスト教との関わりから離れなさい。
  今でも、キリスト教は、皆様の見えない形で、「こと」
 を行っていますが、
  目先の利益などで判断し、関わってしまうようなこと
 がないように・・、
..
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