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2016年5月14日土曜日

(増補版)352E1/3:気になった事柄を集めた年表(1878年3月~1878年6月)

題:(増補版)352E1/3:気になった事柄を集めた年表(1878年3月~1878年6月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1878年3月、西道仙(にしどうせん、ジャーナリスト、教育
 家、医者)が東京へ旅行し、
  連日、三条実美、勝海舟など朝野の名士等30余人を歴
 訪した。
1878年4月1日、新聞囲碁欄の始まり(『郵便報知』)
1878年4月5日、板垣退助らが、愛国社の再興趣意書を発表
 した。
  この時、立志社が中心となり、愛国社の再建を決定す
 る。
  そして、1878年9月に、石川、愛知、和歌山、愛媛、香
 川、高知、岡山、鳥取、福岡、佐賀、大分、熊本各県か
 ら13社の代表が大阪に集まり、愛国社再興会議を開催し
 た。
  翌・1879年11月に開催された第3回大会で、国会開設実
 現を目標とする全国規模の請願運動を組織することを決
 定し、
  こうして愛国社は、全国的な国会開設運動の中心とな
 って行く。
  また、国会開設を目標とする全国運動は、それまで士
 族中心だったが、新たに豪農・豪商を出身とする者らも
 加わった運動へと転換して行った。
1878年4月10日、第2回 地方官會議
  第2回地方官会議開催、議長は伊藤博文(5.3まで)
  三新法(さんしんぽう)は、明治政府による最初の統
 一的地方制度で、
  「郡区町村編制法」「府県会規則」「地方税規則」の
 総称。
  この三新法は、この1878年の第2回地方官会議・元老
 院の審議を経て施行された。
  それまでの大区・小区制を廃して、町村の自治体的性
 格を認め、府県会を設置し、豪農・豪商層の把握(はあく)
 を策した。
  そして、従前の府県税・民費を、それぞれ地方税・協
 議費に分割し、地方税財源を明確化する等、府県の行政
 能力強化を目的とした。 
1878年4月、兵隊を甲乙に分けて対抗運動会をした。
1878年4月、川崎築地造船所の開設(川崎重工業の創業)
  東京・築地に、川崎正蔵が造船所(後の川崎造船所)
 を設立した。
  川崎重工業株式会社の創立は、1896年(明治29年)10
 月だが、造船業の歴史はこれより古い。
  それより18年前、創業者の川崎正蔵が、1878年(明治
 11年)、東京・築地に、川崎築地造船所を開設したのが
 始まり。
  川崎正蔵は、1837年(天保8年)、鹿児島の呉服商人の
 子として生まれ、
  17歳(嘉永6年)の時、当時、唯一の西洋文明への窓口
 だった長崎に出た、
  そして、貿易商の修行を積んだ。
  27歳(文久3年)の時、大阪に移り、海運業を始める。
  この時、持船が暴風雨で遭難し、積荷もろとも海没し
 た。
  事業は失敗した。
  その後、1869年(明治2年)に、薩摩藩士が設立した琉
 球糖を扱う会社に就職し、
  1873年(明治6年)に、大蔵省から委嘱されて琉球糖や
 琉球航路の調査を行く。
  翌年・1874年に、日本国郵便蒸汽船会社の副頭取に就
 任する。
  そして、琉球航路を開設し、砂糖の内地輸送事業を成
 功させた。
  この時も、運命を左右するような海難事故に何度も遭
 遇した正蔵は、
  自らの苦い体験を通して、江戸時代の大和型船に比べ、
 船内スペースが広く、速度も速く、安定性のある西洋型
 船への信頼を深めた。
  そして、同時に、近代的造船業に強い関心を抱いた。
  1878年(明治11年)、時の大蔵大輔(現在の次官)で
 あり同郷の先輩でもあった松方正義などの援助も得て、
 東京・築地南飯田町(現在の中央区築地7丁目)の隅田川
 沿いの官有地を借り、川崎築地造船所を開設した。
  そして、造船業への第一歩を踏み出した。
1878年5月3日、日本赤十字社の前進「博愛社」設立のため
 願書提出(西南の役傷病者救済の博愛社誕生)
  博愛社は、1877年2月に発生した西南戦争の時、
  佐野常民(さのつねたみ)と、大給恒(おぎゅうゆず
 る)の両元老院議官によって、救護目的の団体として設
 立された。
  西南戦争では、政府軍と薩摩軍の激しい戦闘が繰り広
 げられ、両軍ともに多数の死傷者を出したが・・、
  この悲惨な状況に、佐野・大給の二人は、救護団体に
 よる戦争・紛争時の傷病兵の救護の必要性を痛感した。
  そして、ヨーロッパにある赤十字と同様の救護団体を
 作ろうと思った。
  1877年(明治10年)、佐野と大給を発起人として、政
 府に対し、救護団体・博愛社の設立を願い出た。
  しかし、願いは認められなかった。
  理由は、
  (1)現地には、救護に必要な医師等は派遣していて、
    医療が足りていること。
  (2)故に、今、新しい組織を作って戦地に送れば、
    混乱が起きる。
  (3)平和な時に十分、時間をかけて検討したい。
  ・・だった。
  しかし、西南戦争の戦場では、負傷兵が手当てをされ
 ずにいる事があり、
  博愛社の必要性を感じた佐野は、征討総督・有栖川宮
 熾仁親王(ありすがわのみや・たるひとしんのう)に直
 接、博愛社設立の趣意書提出を決意し、
  1877年5月、熊本の司令部に願い出た。
  そして、有栖川宮熾仁親王の英断をもって、この博愛
 社の活動が許可された。
  許可を得た博愛社は、直ちに現地に急行し、官薩両軍
 の傷病者の救護にあたった。
1878年5月4日、株式取引所条例を制定
  条令の制定とともに東京・大阪・横浜の三地に取引所
 が設置されていく。
1878年5月8日、東京~横浜間の鉄道が複線化し、全通した。
1878年5月10日、渋沢栄一ら、資本金20万円にて東京兜町に
 株取引所設立を出願し許された。
1878年5月14日、大久保利通・・暗殺
  内務卿・大久保利通、刺殺される(紀尾井坂の変)
  西郷が果て、それから僅か8ヶ月後に、大久保利通も
 紀尾井坂で凶刃に倒れた。
  (氷川清話)大久保利通、暗殺さる。
  参議兼内務卿の大久保利通(49歳)が・・、
  東京・三年町3番地(現=千代田区霞が関)の私邸を
 出て、
  赤坂の仮皇居(現=迎賓館)に向かう出勤途上、
  麹町の紀尾井坂(東京府麹町区麹町紀尾井町清水谷、
 現在の東京都千代田区紀尾井町清水谷)で、
  石川県士族6人によって刺殺された。
  斬奸状(ざんかんじょう、理由を書いた文書)には・・、
  (1)国を思う志士を排斥して、内乱を引き起こした。
  (2)国会も憲法も開設せず、民権を抑圧している。
  (3)外国との条約改正を遂行せず、国威を貶(おとし)
    めている。
  (4)法令の朝令暮改が激しく、また、官吏の登用に情
    実・コネが使われている。
  (5)不要な土木事業・建築により、国費を無駄使いし
    ている。
1878年5月15日、『朝野新聞』が、大久保利通暗殺の島田ら
 の斬奸状を掲げ・・7日間の発行停止に・・、
1878年5月22日、東郷平八郎(とうごうへいはちろう)が、
 イギリス留学より帰朝。
  東郷平八郎は、海軍軍人で、鹿児島県生まれ、日露戦
 争では、連合艦隊司令長官として、日本海海戦を指揮し
 た。
1878年5月24日、日本初の公立盲あ学校開校として京都府立
 盲あ院開校する。
1878年5月27日、金銀複本位制
  この時、大蔵卿・大隈重信の建議を受け、正式に金銀
 複本位制を採用した。
  そして、これまで開港場のみで通用を許していた1円銀
 貨、及び、貿易銀を、
  日本国内でも強制通用力のある貨幣として扱い、その
 無制限使用を許した。
  これによって、銀貨も事実上の本位貨幣となった。
  しかし、西南戦争に伴う不換紙幣増発によって生じた
 インフレーションで、
  金貨・銀貨ともに国外への流出や退蔵が深刻化した。
  そして、本位貨幣としては名目上の存在となってしま
 った。
  これを憂慮した大蔵卿・松方正義は、一時的な銀本位
 制導入による通貨安定を模索し、
  1885年(明治18年)に、銀本位制に基づく兌換紙幣で
 ある日本銀行券を発行して、日本は一時的に銀本位制と
 なった。
  その後、1897年(明治30年)の貨幣法によって金本位
 制への復帰を果たした。
1878年5月27日、大久保利通の国葬
  日本初の国葬。
  事件の翌日・5月15日に、大久保に正二位右大臣が追贈
 され、
  大久保および御者の中村の慰霊式が行われ、
  17日に、両者の葬儀が行われた。
  大久保の葬儀は、大久保邸に会する者1,200名近く、費
 用は4,500円余りという近代日本史上最初の国葬級葬儀と
 なった。
  警察の捜査は、厳重を極め、
  斬奸状を起草した陸や、
  島田に頼まれ、斬奸状を各新聞社に投稿した者など30
 名が逮捕された。
  『贈右大臣正二位大久保利通葬送略記・乾』によると、
 大久保は、全身に16箇所の傷を受けていた。
  そのうちの半数は、頭部に集中していた。
  事件直後に駆けつけて遺体を見た前島密は・・、
  「肉飛び骨砕け、又頭蓋裂けて脳の猶微動するを見る」
 と表現している(死んだ直後だったので、脳が動いてい
 たという)。
  島田らは、刀を捨てて、同日、大久保の罪五事と、他
 の政府高官(木戸孝允、岩倉具視、大隈重信、伊藤博文、
 黒田清隆、川路利良)の罪を挙げた斬奸状を手に自首し
 た。
  7月27日に、6名は、判決を言い渡され、即日、斬罪と
 なった。
  斬奸状を起草した陸は、終身禁錮刑に処せられたが、
 1889年(明治22年)に、大日本帝国憲法発布により特赦
 を受けて釈放された。
  また、この事件を機に、政府高官の移動の際は、数人
 の近衛兵らによる護衛が付くようになった。
  尚、•斬奸状には、大久保が、公金を私財の肥やしにし
 たと指摘されていたが、
  大久保は、実際は、金銭に対しては潔白な政治家で、
  必要な公共事業を、私財をなげうって行うなどしてい
 た。
  そのため、大久保の死後は、8,000円もの借金が残った
 くらいだった。
1878年6月1日、万国郵便連合条約、パリで調印。
  郵便物の交換のために単一の郵便境域を形成し、郵便
 業務での国際協力の増進をはかることなどを目的とする。
  1874年に締結:スイスのベルンで22ヵ国によって創設
 され、
  翌・1875年に発効した国際郵便条約によって一般郵便
 連合が設立され、
  日本は、1877年(明治10年)に加盟し、
  1878年に、条約を改正し、
  1947年には、国連の専門機関の一つとなった。
1878年6月1日、東京株式取引所が開業した。
  日本最初の証券取引所である東京株式取引所が開かれ
 た。
1878年6月5日、春季皇霊祭(春分日)・秋季皇霊祭(秋分
 日)を定めた。
  旧制の大祭の一つで、毎年、春分の日に、宮中の皇霊
 殿で、天皇陛下が、歴代の天皇・皇后の両陛下と皇親の
 霊を祭る儀式が行なわれた。
  現在、この日を「春分の日」として国民の祝日。
  同様に、秋季皇霊祭も、秋分の日に、天皇陛下が、皇
 霊殿で、歴代の天皇・皇后両陛下と皇親の霊をまつる儀
 式行なわれ、旧制の大祭日の一つで、現在の国民の祝日
 「秋分の日」。
1878年6月7日、東京の大劇場・新富座の竣工開場(6月8日
 説あり)
  ガス灯などを配備した近代劇場を新設し、大々的な洋
 風開場式を行った。
  太政大臣・三条実美をはじめ、各外国公使らも貴賓と
 して開場式に招待された。
  西洋劇場に倣って、日本で初めて夜芝居興行を行う。
  リットンの戯曲『Money』を翻訳した『人間万事金世中』
 (1879年3月)や、ウエルノン一座を招いて『漂流奇談西
 洋劇』(1879年9月)を上演、九代目市川團十郎による活
 歴(かつれき)が行われるなど、明治時代中期の演劇改
 良運動の場となった。
  活歴は、歌舞伎で、在来の時代物の荒唐無稽(こうとう
 むけい)を排し、史実を重んじて歴史上の風俗を再現しよ
 うとする演出様式。
  明治初期から中期にかけて、9世市川団十郎らが主唱
 した。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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2016年5月12日木曜日

(増補版)351E1/3:気になった事柄を集めた年表(1878年2月~1878年3月)

題:(増補版)351E1/3:気になった事柄を集めた年表(1878年2月~1878年3月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1878年2月14日、廣田弘毅(ひろたこうき)が、福岡に生ま
 れた。
  戦争の回避に全力を尽くした人・・
  しかし、アメリカに主導され、戦後に開設された東京
 裁判で、「A級戦犯」にされ、死刑に処せられた。
  絞首刑だった。
  廣田は、軍人ではなかった。
  理由は、東アジア、太平洋、インド洋などを支配しよ
 うと、共同謀議を一貫してした・・だった。
  オランダの判事が「廣田は軍人ではなく、文官政府は
 軍部に対しほとんど無力なのだ」という弁護を言った。
  そして、また、「その限られた枠の中で廣田は、十分
 努力していた」と弁護した。
  そして、何と、キーナン首席検事でさえ驚き・・、
  その判決に対し・・
  「なんという馬鹿げた判決なのだ。
  絞首刑は不当だ。
  どんな重い刑罰を考えても、終身刑までではないか」
 ・・と言った。
  非人道的な東京裁判だった。
  戦勝国の無反省の中で、相手ばかりに非を求める、
  そして、自分勝手な判断によって、吊るし首が横行し
 た西部劇の乱暴狼藉の様な世界が、戦後のこの時に、ま
 かり通っていた。
  裁くべき法のない中で、無理に裁く『演技』をした。
  興奮し、上気した中で、常識の世界ではまったくない
 リンチ(私刑)がまかり通っていた。
  ひどいことをするものだ・・、
1878年2月、春陽堂(しゅんようどう)書店の創業(文芸書
 出版、春陽堂文庫などを刊行)
  神田和泉町での、本の小売商売に始まる。
  岐阜県出身の創業者の和田篤太郎は、西南の役から帰
 還した後に、本を背負っての行商を初め、
  やがて、芝・新桜田町に小さな書店を開き、
  1882年(明治15年)頃から出版に手を伸ばす。
  当初は、開化期の実用本や明治合巻本、滝沢馬琴や鶴
 屋南北の復刊などへと手を広げ、
  1884年(明治17年)、京橋区南伝馬町に移転し、
  明治期の文学出版をリードするようになる。
  大正期にかけて、夏目漱石、芥川龍之介などの文豪の
 作品を出版し、
  明治30年代から大正にかけては、『中央文学』や『新
 小説』などの定期雑誌も刊行した。
  幸田露伴、森鴎外ら多くの文壇人に頁を提供した。
  種田山頭火、尾崎放哉、金子みすゞなど、詩歌関連書
 も発行している。
1878年3月6日、大久保利通が、一般殖産の建議をする。
  大久保は、1874年5月に、「殖産興業に関する建議書」
 を提出し、
  また、この時・1878年3月には、「一般殖産及華士族授
 産ノ儀ニ付伺」を提出した。
  この基本方針実現の財政計画として、参議兼大蔵卿の
 大隈重信は、「内国債募集ノ儀」につき上申を行った。
  積極財政を前提とした殖産興業政策が、ようやく実現
 へ、大きく発進しはじめた。
  そして、同年・1878年5月1日、「起業公債証書発行条
 例」が発布された。
  募集総額1,250万円(募集実額1,000万円)、年利6分、
 元金は2年据置、3年目より23カ年間にわたり抽籤償還。
  取扱事務は、国立第一銀行、三井銀行に委託し、
  政府は、新たに「起業基金部」を設けてその処置を行
 った。
  起業公債の公募は、全般的な財政散超と改正国立銀行
 の簇生(そうせい、群がって生えること)という金融状
 況の軟調に支えられて、
  予定額の2倍以上の応募を見るなど、順調に消化されて
 行った。
  公債資金は、大久保=大隈建議に言うところに遵(し
 たが)い、
  一半は、交通運輸機構の整備を中心とする社会資本の
 充実にあてられ、
  他の一半は、士族授産のための勧業資金の貸付にあて
 られた。
  因みに、大久保は、西南戦争において、西郷の死亡の
 報せを聞くと号泣した。
  そして、時々、鴨居に頭をぶつけながらも
  家の中をグルグル歩き回って(この際、「おはんの死
 と共に、新しか日本が生まれる。強か日本が・・」と呟
 いたという。
  また、西南戦争終了後に、「自分ほど西郷を知ってい
 る者はいない」と言って、西郷の伝記の執筆を重野安繹
 に頼んでいたりしていた。
  また、大久保が暗殺された時に、生前の西郷から送ら
 れた手紙を持っていたと高島鞆之助(たかしまもとのす
 け、西南戦争に別働第1旅団司令長官として出征、その後
 熊本鎮台司令長官)は語っている。
1878年3月11日、鉄道局が、下等客車内での広告掲示を許可
 した。初の車内広告。
1878年3月12日、東京商法會議所の設立
  東京商工会議所の設立認可。
  日本における商工会議所の源流は、鎌倉時代の「座」
 や、江戸時代の「株仲間」といった我が国古来の制度に
 さかのぼる。
  その後、「江戸町会所」「東京営繕会議所」「東京会
 議所」の過程を経て、
  欧米先進諸国の「商業会議所」の組織機構を取り入れ
 ながら、
  商工会議所の基礎を築いた。
  制度の誕生は、明治維新後、日本の経済社会が資本主
 義制度へ移行して行く中で、時代の要請に基づいた。
  明治政府は、欧米諸国に遅れた国力を増進するため、
 富国強兵、殖産興業、文明開化を国策の中心に掲げた。
  その中で、外国貿易振興のための商工業者の機関を必
 要とした。
  一方、自主独立や殖産興業を阻む不平等条約改正の取
 組みの中で、日本に、「商工業の世論を結集する代表機
 関がなく、世論を論拠とした明治政府の主張が虚構とな
 る恐れ」を感じた。
  そこで、伊藤博文・大隈重信が、渋沢栄一に商工業者
 の世論機関の設立を働きかけた。
  これらの背景から、1878年(明治11年)3月、現在の商
 工会議所の前身である東京商法会議所が設立された。
1878年3月14日、東京上野博物館の建設が起工した。
  1877年(明治10年)、上野の寛永寺本坊跡地(後に東
 京国立博物館の敷地となる)で、第1回内国勧業博覧会が
 開催された。
  これは当時の「富国強兵・殖産興業」の国策に沿って
 開催されたもので、
  この博覧会の展示館の1つである「美術館」は、日本で
 最初に「美術館」と称した建物。
  この「美術館」は、博覧会終了後も使用することを前
 提として煉瓦造で建設された。
  初代館長の町田久成は、内山下町の博物館は手狭であ
 り、火災等の危険も大きいとして、博物館の上野公園へ
 の移転を陳情していたが、
  この1877年、太政官より上野移転の裁可を得た。
  コンドル設計の旧東京帝室博物館。
1878年3月17日、神田の大火
  東京・神田黒門町より出火。
  焼失家屋4562戸。
1878年3月24日、『団々珍聞』、黒田清隆の醜聞を風刺して
 発行停止になる。
1878年3月25日、日本で初めて電燈(アーク灯)が点灯した。
  日本初の電灯。
  電信事業がスタートしたのを記念して、東京・虎ノ門
 の工部大学校(現:東大工学部)の講堂で開業記念式典
 が行われた。
  その席上50個のフランス製アーク灯(弧光燈と呼ばれ
 た)が15分間点灯された。
  公式の席上で、電気点灯が行われたのは日本で初めて。
1878年3月25日、電信中央局が開業
  全国の電信局の元締めとなる電信中央局が、東京木挽
 町に新築された。
  開設の祝賀会が、東京虎ノ門の工部大学校講堂で、夕
 方から開催された。
  参会者は、大臣や参議をはじめとする高官、外国公使
 など150人に、
  英国人教師・エアトンは、伊藤博文工部卿から会場を
 電気灯で照らすよう命じられた。
  50個のグローブ電池を用い講堂の天井に吊るされたア
 ーク灯を点灯するため、助手の電信科学生藤岡市助らと
 調整した。
  午後6時、エアトンの合図で、目もくらむような光が
 周囲にほとばしった。
  講堂内をくまなく照らし出した。
  満場の人は「不夜城に遊ぶ思い」をした。
  この時のアーク灯は、1855年(安政2年)に、フラン
 スで発明されたデュボスク式アーク灯だった。
  電源は、1839年(天保10年)に、英国人のグローブが
 発明したグローブ電池だった。
1878年3月25日、電報の開始
  東京・木挽町十丁目に、工部省電信中央局が開業した。
  全国主要都市、および、国際電報の受け付けが開始さ
 れ、日本の電信事業が本格的にスタートした。
1878年3月29日、印刷局において、製紙の原料に初めて稲藁
 を用いて成功した。
  印刷局抄紙部が、初めて、稲わらを原料としてパルプ
 を試製する。
  紙幣寮抄紙部を印刷局抄紙部と改称し、初代局長・得
 能良介(とくのうりょうすけ)が、紙幣用紙を三椏(み
 つまた、ジンチョウゲ科ミツマタ属)に確定した。
  また、擬革紙製造にも着手した。
  印刷特性・明瞭な透かしなど
  パリ万博出品の局紙は好評だった。
  模造紙のもととなる。
  稲科の原料は、墨・インクののりがよい「稲わらパル
 プ」。
  1878年(明治11年)のパリ万国博覧会に、大蔵省印刷
 局が三椏(みつまた)を主原料とした高級特製和紙であ
 る「局紙」(きょくし)を出品。
  なお、局紙は、溜め漉き法により、1877年(明治10年)
 に誕生し、その名称は、大蔵省印刷局で作った紙の意か
 ら来ている。
  局紙は、ジャパニーズ・ベラムと名付けられ、おもに
 ヨーロッパへ輸出されるようになったが、その品質は美
 しく、丈夫で、光沢があり、緻密な印刷ができると好評
 だった。
  しかし、高価格だった。
  そのため、1898年(明治31年)に、オーストリアの製
 紙会社が、亜硫酸パルプの原料で、機械抄きの、局紙に
 似せた風合の紙(洋紙)を造り、
  シミリー・ジャパニーズ・ベラム(日本の局紙の模造
 品)という名前で売り出した。
  日本の局紙が「模造」された。
  ヨーロッパ製のこの「模造紙」は、局紙とは比較になら
 ないくらい品質は劣っていた。
  しかし、安価なうえに、印刷、筆記、包装など広範な
 用途に使えた・・ので、
  逆に、日本に輸入され、評判は良かった。
  1913年(大正2年)に、九州製紙(株)がそれを真似た
 うえ、さらに改良し、亜硫酸パルプを使いスーパーカレ
 ンダー処理を行って、光沢があり、表面が平滑な、紙の
 国産化を行った。
  九州製紙が開発した技術で、他のメーカーも次々生産
 に参加し、ヨーロッパの模造紙を駆逐して行く。
  これが、今日のわが国での「模造紙」の始まり。
..
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(増補版)350E1/3:気になった事柄を集めた年表(1878年1月~1878年2月)

題:(増補版)350E1/3:気になった事柄を集めた年表(1878年1月~1878年2月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1878年、住・生活: 
・銀座通りの煉瓦街が完成した。
・電信中央局の開業祝賀会に、初めて、弧光燈の電気燈が
 点火された。
・ジョセフ・スワンが、木綿糸を炭化したフィラメントを
 使用して長寿命(約13.5時間)の白熱電灯を作った。
・新富座が、ガス燈をつけて、夜間興行をした。
・神戸のマッチが、上海へ輸出され始めた。
  1869年(明治2年)に、金沢藩の藩費でパリに留学した
 清水誠は、1873年(明治6年)に、文部省留学生となり、
 フランスの工芸大学に入学した。
  1874年(明治7年)に、外遊中の宮内次官・吉井友実と
 パリのホテルで会談した際、吉井卿が、卓上のマッチを
 指さして「このようなマッチまで輸入に頼っているが、
 外貨不足の際、これを日本で作れないだろうか」と言わ
 れて、清水誠は、マッチを日本で製造する決心をした。
  同年・1874年、留学生の制度が廃止になり帰国。
  清水誠は、官費留学生であったことから、1875年(明
 治8年)に海軍造船官として横須賀造船所に勤務した。
  その傍ら、暇ある毎に、東京に出て三田四国町にある
 吉井友実の別邸を仮工場としてマッチの製造を始め、試
 売した。
  従って日本におけるマッチを工業的に製造を始めたの
 は、1875年(明治8年)。
  公務の傍ら、マッチの製造では仕事がはかどらなかっ
 たが、時に内務卿・大久保利通に招かれ、「造船も大事
 だが何とかなる」「マッチに専念してはどうか」と勧告
 され退官。
  本格的にマッチ製造に集中することとなった。
  この年・1875年、清水誠は、マッチを製造するために
 軸木となる原木を求めて、日光山中に白楊(はくよう、
 別名:ヤマナラシ、ヤナギ科、落葉高木、上位分類:ポ
 プラ)を発見した。
  次いで、信州諏訪方面でも白楊を発見した。
  同年・1875年、大阪でも小野久兵衛と小杉又三郎が協
 同してマッチ工場(後の昌燧社)をつくり生産している。
  1876年(明治9年)9月、清水誠は、本所柳原町に一大
 工場を新築し、「新燧社」(しんすいしゃ)と名づけ、
 本格的な工場生産を開始した。
  新燧社の代表的な商標に、桜印がある。
  1877年(明治10年)に開催された第1回内国勧業博覧
 会で、新燧社はマッチを出品し、鳳紋賞牌(ほうもんし
 ょうはい)が授与された。
  この受賞は、新燧社のマッチの品質が優れていたこと
 を実証している。
  1877年(明治10年)3月に、神戸市山手通で堀という人
 が燐寸工場を新設したが小規模であった。
  これが神戸マッチ製造の先駆けだった。
  函館の玉林治右衛門は、服役中であったが、不自由な
 環境下で、独力でマッチの製法を研究し、1877年(明治
 10年)に試作に成功した。
  清水誠から優秀なマッチと品質保証を得た。
  玉林は、1880年(明治13年)、函館燐寸製造所を設立
 した。
  清水誠は、士族授産、産業振興の見地からマッチ製造
 法を公開した。
  そして、各地にマッチ工場の建設が企画された。
  その主なものは、葆光社(盛岡)、慈恵社(尼崎)、
 就光社(姫路)、積善社(膳所)、有恒社(岡山)、徳
 潤社(徳島)、百做社(土佐)、共勉社(高松) 真燧社
 (名古屋)、葎律社(金沢)・・、
  また、1878年(明治11年)に、長岡で燦盛舎が設立さ
 れた。
  そして、下津燐寸株式会社の前進である蜂蟻社(ほう
 ぎしゃ)(高松)が、1879年(明治12年)に設立された。
  1878年(明治11年)に、初めて清国上海にマッチを輸
 出した。
  これ以来、マッチが日本の重要な輸出商品の一つとな
 った。 
・東京の楓川に、国産初の鉄橋、元弾正橋(もとだんじょ
 うばし)が架設された。
  橋長15.2米、橋幅3.0米のウィップル形トラス鉄橋
  この橋は、国の威信をかけて架設された。菊の御紋が
 付けられた。
  また、このタイプの橋は多く架けられ、伊藤博文とか、
 山形有朋とか、大隈重信とかの要人の名前が付けられて
 いる。
1878年、その他・もろもろ:
・鉛筆が国産化。
  輸入も減るだろう・・と(朝野新聞)
  1877年(明治10年)に、東京・上野で開催された第一
 回内国勧業博覧会の「教育ノ器具」部門に鉛筆が出品さ
 れた。
  また、三菱鉛筆の創業者である眞崎仁六(まさきにろく)
 は、1878年のパリ万国博覧会を訪れた際、外国製のさま
 ざまな鉛筆にであい、その素晴らしさを感じ、独学で鉛
 筆製造に取り組み、国産化が本格的にスタートした。
  眞崎は、最初に三つ叉(また)になった軸の先に芯を
 はさむ「はさみ鉛筆」を作り、
  そして、1901年(明治34年)には「削り鉛筆」(現在の
 普通の鉛筆 ) を逓信省に納入するようになった。
・フェノロサ(アメリカ人)が来日した。
・大蔵省が、西洋式複式簿記の講習会を開いた。
・宮内省と工部省に、電話が通じた(朝野新聞)
・電話機の国産化に成功した人あり。
  舶来品に劣らず・・と(東京曙新聞)
・コッホが、破傷風菌を発見した。
  破傷風菌は、世界中の土壌や汚泥に芽胞として存在し
 ていて、破傷風毒素の毒性は極めて強く、
  破傷風毒素(テタノスパスミン)によって死に至る怖
 い病気。
  1889年に、日本の「細菌学の父・北里柴三郎」とエミ
 ール・フォン・ベーリングが初めて純粋培養に成功した。
  診断は、基本的に、症状から推測するしかないが、
  発症したときには、外傷が治癒してわからなくなって
 いることがあるため、外傷がないからといって破傷風の
 可能性を除外しないことが肝要で、非常に大切である。
  治療は、早期の診断が大切で、
  速やかに破傷風免疫グロブリン(TIG)を筋肉注射して、
 毒素を中和する。
  早期診断・治療が、非常に重要である。
1878年1月11日、伊豆七島が、静岡県から東京府に移管され
 た。
  大久保利通の採決で移管されたが、伊豆諸島の住民の
 希望に沿った形だった。
  伊豆諸島は、名前の通り、伊豆半島(静岡県)と同じ
 「伊豆国」に属していた。
  江戸時代は、徳川幕府の直轄領の天領で、
  明治維新後に、伊豆半島などの旧幕府領と共に「韮山
 県」となった。
  そして、1871年(明治4年)に、神奈川県西部と静岡県
 の伊豆半島を管轄していた「足柄県」(県庁は小田原)
 に属することになった。
  1876年(明治9年)に、足柄県は、東部が神奈川県に、
 西部が静岡県に分割統合され、消滅した。
  この時、伊豆諸島は、「伊豆国」である伊豆半島と共
 に静岡県の一部となった。
  しかし、そのわずか2年後の1878年(明治1年1)に、内
 務卿・大久保利通の裁決で、伊豆諸島は、東京府に移管
 されて、現在に至っている。
  この理由は、伊豆諸島の裁判事務が東京裁判所に帰属
 することになったからで(大久保から太政大臣・三条実
 美への上申書に記載されている)、
  これは、島民が、司法・行政の要請で出頭するとき、
 静岡ではなく、東京に出ないといけなかったからだった。
  米の穫れない伊豆諸島は、島民は、海産物や黄八丈な
 どの特産品を江戸の「島方会所」に送って売り捌いてい
 た。
  東京とつながりの強い中で、その代金を得て、生活の
 糧を得ていた。
  本土との航路は、伊豆半島の港以上に、江戸との往来
 が中心だった。
  明治になっても、伊豆諸島は、東京に経済的に強く依
 存し、変化なく続いていた。
  江戸=東京との間の航路が絶対的な生命線だった。
  伊豆諸島以南の島々は、日本国が太平洋上の権益を確
 保する上で、非常に重要な領土で、
  伊豆諸島が、東京以外の他の県の管轄における繋がり
 を維持する政治的配慮と予算は、東京とのつながりが最
 適だった。
  住民サイドからも、島民や商人からも、静岡県から東
 京府への移管を求める嘆願書が政府に提出されていた。
  手厚い支援の中に自立する島々、それ故、財政力も比
 較的潤沢な東京府へとの判断が、明治政府の判断だった。
  静岡県も、財政的な面からも、負担が大きい伊豆諸島
 の帰属を望んでいなかった。
  また、1876年(明治9年)に、日本の領土として国際的
 に承認された小笠原諸島の存在がある。
  小笠原諸島は、日本領と確定した直後に、内務省直轄
 地となった。
  「本土」として扱い、どこかの府県の管理を考えた時
 に、
  本土からは八丈島や青ヶ島よりさらに2倍~3倍の距離
 がある小笠原諸島管理を、東京府にした。
  東京は、首都として、他の府県以上に、中央政府の強
 い管理下にあった。
  当時、東京府知事は、政府が任命した役人が務めた。
  警察も、東京府だけは、府県の管轄ではなく、内務省
 直属の組織だった。
  そこで、小笠原諸島を、中央政府の影響が強い東京府
 の管理下においた。
  伊豆諸島も含めて、離島管理を東京府に一元化した。
  この様にして、伊豆諸島は、1878年に、小笠原諸島は
 1880年に、東京府の所管となった。
1878年1月24日、東京府・駒場農学校の開校式
  農事改良のため、欧米の学理と技術とを修得すべく、
 内務省勧農局所管の駒場農学校(こまばのうがっこう)
 が開校した。
  (氷川清話)駒場農学校、陸軍士官学校、工部大学成
 る。
  イギリスから5人の農学教師を招いて、駒場野に校舎を
 新築し、1878年1月に、開校した。
  しかし、イギリス・ドイツのいずれもが大農経営を前
 提とし、日本農業の実情に沿わず、
  「農学さかえて農業おとろえる」の観があった。
  そして、1881年、農商務省へ移管。
  1886年7月、東京山林学校と合併し、現在の東京大学
 農学部の前身である東京農林学校となった。
1878年2月5日、東京警視本署が、相撲・行事取締規則、興
 行取締規則を布達。
  東京の相撲を統合一本化した。
  明治十一年二月五日警視庁御本署甲第拾一号を以て、
 相撲並びに行司取締規則御布達により、東京府下相撲合
 併一卜組と相成候に付、協議の上更に左之通り内規則相
 定め候事。
  第 一 条
  春冬両度大相撲興行の際、其損益金精算之義は、桟敷、
 土間、新桟敷、小間々に至る迄取締年番に及び歩持年寄
 並びに願人差添両大関とも出会の上差引精算可相立事、
 但し府下に於て修業相撲興行之際精算之義も本文同様た
 るべき事。
  そして、東京大角力協会申合規則、明治22年1月改正
  条 一 条
  当協会は東京大角力協会と称し東京市本所区元町十七
 番地に其事務所を設置す。
  条 二 条
  東京大角力は古来の習慣に随ひ一組合となし之を分離
 せざるものとす。
  条 三 条
  当協会は東京大角力取締上に関する諸般の事を処理し
 且つ風儀の改良技芸の上達を図る為設くるものとす。
1878年2月10日、横濱英國領事裁判所が、アヘンを密輸した
 イギリス商人のハルトレーに無罪判決した。
 (アヘン戦争の最悪行為の日本版・・それに無罪判決)
  正義なんてあったもんじゃない・・、
  日本における英国の商業活動が盛んになると、第一審
 を上海の高等領事裁判所が行うのは不便ということなり、
  横浜居留地に、第一審を行うための横浜領事裁判所が
 設立された。
  横浜領事裁判所の判事は、当然のごとく、イギリス人
 だった。
  このイギリス人が、自国人を無罪にした。
  英国高等領事裁判所は、中国、日本、及び、朝鮮で発
 生した英国民に対する訴訟及び領事裁判の上告を処理す
 るために、1865年に、上海共同租界に設立された上級裁
 判所で・・、
  アヘン戦争に勝利した英国は、1842年に清と南京条約
 を締結し、さらに翌年の虎門寨追加条約で治外法権を獲
 得した。
  アロー戦争後の1858年に締結された天津条約で英国の
 権利はさらに拡大された。
  日本において、1858年に締結された日英修好通商条約
 により、英国は、日本においても領事裁判権を獲得した。
  この侮蔑的な不平等条約によって、麻薬犯が無罪とな
 ったりしていた。
  イギリスは、当然のごとくの様に、この様なハレンチ
 な事をしていた。
  明治政府による条約改正交渉により、日英通商航海条
 約が、やっと1894年に締結され、締結より5年後の1899年
 に、英国は、日本における領事裁判権を失った。
.
(今日の言葉)
三木谷君、私腹を肥やすのは、いい加減にしなさい。
  ちゃんと税金を払いなさい。
  納税の義務を果たしなさい。
  守銭奴にはなりなさんな。
  パナマ文書でわかった「税金逃れの輩」。
  「楽天なんかは負けてくれ」と思う。
  貴方の納税を待っている弱者の方が大勢います。
  「正直な者だけに納税させておけばいいのだ」という
 「貧乏人の心から抜け出しなさい」。
  この様な根性が気に入らない。
  「納税逃れではない」と強弁しているのも、気に入ら
 ない。
ーー報道事例ーー
パナマ文書の衝撃
楽天・三木谷会長の名も 10日に一部公表
楽天の三木谷浩史会長兼社長
  国際調査報道ジャーナリスト連合(ICIJ)に参加
 する共同通信のパナマ文書分析で8日、インターネット
 通販大手楽天の三木谷浩史会長兼社長がタックスヘイブ
 ン(租税回避地)法人の株主となっていたことが分かっ
 た。
  ICIJは日本時間10日午前3時にホームページで
 文書の一部情報を公表する。
  多くの目でチェックしてもらうことで、より分析を深
 めたい考えで、「調査に値するものを見つけた場合」に
 は情報を提供するよう呼び掛けている。
 文書によると、三木谷氏は1995年に英領バージン諸
 島に設立された法人の株主になっていた。
  株の取得は楽天起業前で、同社は三木谷氏の話として、
 パーティーか友人の紹介で知り合った外国人から投資を
 持ちかけられ、80万円程度を出したが一部しか戻って
 こなかったと説明。
  三木谷氏は「租税回避の認識はなく、全くやましいと
 ころはない」と話しているという。(共同)
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
 

2016年5月10日火曜日

(増補版)349E1/3:気になった事柄を集めた年表(1877年12月~1878年1月)

題:(増補版)349E1/3:気になった事柄を集めた年表(1877年12月~1878年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1877年8月、インディアンの方々の人権蹂躙をするアメリカ
  (自由を奪う行為をするアメリカ)
  アメリカ・インディアンの『ジェロニモ』という族長
 は、何も悪いことはしていないが、追い詰められて、彼
 の部隊は殺戮され、そして、降伏した。
  彼は、捕虜となった。
  そして、収容所送りとなった。
  そこは、体(てい)のいい監獄だった。
  自由が剥奪されて、拘束された監獄である、
  収容所と言うが・・、アメリカ合衆国は領土を奪い、
 その土地に生活していたアメリカ・インディアンの方々
 を、収容所という檻(おり)に入れてしまった。
  ジェロニモは、死ぬまでそこから出る事が出来なかっ
 た。
  終身刑を受けた様なものだった。
  ジェロニモは、アメリカ合衆国の大統領に
  「生まれ故郷に帰してくれ」
  「生まれた国に戻してくれ」・・と叫んだ。
  許可を乞うた、
  しかし、彼の願いが叶う事はなかった。
  何十年もの間、彼は囚人の身分にされていた。
1877年、カナダも・・ていよく・・先住民の方々の国を奪
 った。
  だましである。
  この年に、ブラックフィート族のスポークスマン(政
 府や団体の意見などを発表する担当者)であるクロウフ
 ットが、
  5万平方マイル(約13万平方キロ)の平原をカナダ政
 府に譲り渡した・・という。
  「その様な譲り渡しがあった」と、カナダは主張して
 いる。
  そして、ここから、また悪辣な行為が始まる。
  自分の土地なのだからと、その土地に居るバッファロ
 ーを殺して行った。
  この約束(条約)が、結果として、バッファローの激
 減を招いた。
  その結果、ブラックフィート族などのインディアンの
 方々は、食糧としていたバッファローを得られなくなっ
 た。
  民族が絶滅に瀕した、また、絶滅した・・
  自分の土地なのだから、自分の土地に居るバッファロ
 ーは殺していいのだ・・という論理は・・、
  全くの詭弁(きべん、道理に合わないことを強引に正
 当化しようとする弁論)である。
  この13万平方キロが、あたかもカナダのすべての広さ
 の様に・・カナダ政府は言っている。
  それは・・まったく違う。
  広そうに見えるその数字は、カナダの『ほんの一部』
 でしかない。
  それほど、カナダの地は広いのである。
  カナダの広さは1709平方キロメートルである。
  つまり、その0.76パーセントが13万平方キロである。
  1%にも満たないのである。
  それで、すべてを手に入れたという詭弁を言った。
  カナダのインディアンの方々は、カナダの領土の99%
 以上は、まだ、カナダ政府に譲り渡していないのである。
  カナダ政府が、カナダの領土のすべてを得たから、カ
 ナダの地のバッファローをすべて狩る権利が発生したよ
 うに言うのはペテンである。
  インディアンの方々が食糧としていたバッファローの
 すべてを狩って、インディアンの方々の絶滅を狙った悪
 巧みである。
  卑劣な行為である。
  こんな悪辣なことした。
  また、このスポークスマンのクロウフットが・・、
  多くの種族がカナダの地に居るインディアンのすべて
 の種族の全権ではないことは明らかで、
  その条約が・・成立する訳はない。
  カナダ政府の締結した条約は、『何ら、効力はない』。
  その条約があるからというのも、カナダ政府の『ペテ
 ンの話』である。
  ある一つの種族の、その一担当者が、その様な権利が、
 全権が・・ある訳がない。
  子供だましのペテン話で、世界に嘘を言っている。
  この件についての責任を取るべきである。
1877年1月、インド帝國の成立(英領インドの成立)
  イギリスのビクトリア女王が、インド皇帝の地位があ
 るという状態は、そのままにして、インド帝国の成立が
 宣言された(1877年~1947年)
  イギリスが、インドに、イギリス領インド帝国を成立
 させたが、事実上はイギリス植民地で・・、
  イギリスは、自身は、表面的に隠れて植民地を作った。
  この様な形態の国(植民地)を、巧妙に作るような事
 をよくするイギリスだった。
1877年4月24日 ロシアが、トルコに宣戦布告(露土戦争)
  バルカン半島に在住するオスマン帝国領下のスラヴ系
 諸民族が、トルコ人の支配に対して反乱し、
  それを支援するかたちで、ロシアが介入して起こった。
  この日、ロシア帝国は、オスマン帝国に宣戦布告し、
 バルカン半島と、アナトリア半島東部が戦場となる・・
  露土の間の戦端が開かれた。
  バルカン半島では、露土戦争の引き金となったセルビ
 アが、戦争再開をめぐる国内対立の末に、戦線に復帰し
 た。
  地中海への通路を確保しようとするロシアの意図があ
 り、不凍港獲得を目指す南下政策の一環としての側面を
 持った戦争でもあった。
  ロシア帝国の勝利で終わった(1877年~1878年)
  1878年3月に、サン・ステファノ条約が結ばれた。
  この条約によって、セルビア、モンテネグロ、ルーマ
 ニアの各公国が、オスマン帝国から独立した。
  また、ロシアの影響を強く受けた広大な自治領「大ブ
 ルガリア公国」が成立した。
  多くの人々が、ブルガリアやコーカサスで難民となっ
 た。
  そして、オスマン帝国へと逃れて行き、また、シリア
 やヨルダンへと向かった。
  ロシアの勢力拡大に対して、欧州各国の警戒感が広が
 り、また、強まった。
  弱肉強食「まる出し」の、そして、弱い人々が泣く世
 界だった。
1878年、出来事:
・自由民権運動盛ん。
・明治天皇陛下が、北陸・東海道を御訪問された。
  (氷川清話)天皇陛下、北陸巡幸。
・郡区町村編成法・地方税規則などが公布された。
・商工会議所が開設された。
・伊藤博文が内務卿になった。
  伊藤博文が、明治維新後、木戸孝允と大久保利通に信
 頼されて、外交・財政・民政に才腕をふるい、
  そして、彼らの死後、大久保の跡を継いで内務卿とな
 り、やがて、政府の最高指導者となる。
・帝国陸軍が、熊本鎮台から対馬に対馬分遣隊を派遣した。
  そして、1886年(明治19年)12月3日、対馬分遣隊を改
 編して、「対馬警備隊」が置き、
  1903年(明治36年)4月14日、「対馬警備隊司令部条例」
 を制定し、
  司令部が、長崎県対馬国下県郡鶏知村に置かれた。
  また、1920年(大正9年)8月に、対馬要塞司令部が設
 置された。
・榎本武揚が、シベリアを馬車で横断した。
 この時、彼は、車中で克明な「シベリア日記」を付けた。
1878年、流行:
・在日外国人の入浴客が増加した。
  雲仙に、新湯温泉が開かれ、旅館を洋風にし、新たに
 宿泊施設を改善した。
  また、ベッドを採用し好評を得た、滞在客が増えた。
  日本人浴槽の他に、洋人風呂と称する1人のみが入浴
 する箱風呂を作り、混浴を避けた。
1878年、出版・本・論:
・「米欧回覧実記」(久米邦武編集)全100巻刊行。 <岩
 倉使節団の報告書>  岩倉使節団出発(1871年)
・時局風刺雑誌の「驥尾団子」創刊。
・「通俗民権論」(福澤諭吉)
・ 「自由交易日本経済論」(田口卯吉)
・「開明新論」(植木枝盛)
・「男女同権論」(著:ミル、訳:深間内基)
・ 「代議政体論」(著:スペンサー、訳:鈴木義宗)
・ 「亡友帖」(勝海舟)
  (氷川清話)勝海舟、金谷開墾方の隊中に書を送る。
・ 「断腸の記」(勝海舟)
  (氷川清話)勝海舟、「断腸の記」を記す、明治21年
 10月印行。
・ 「特命全権大使米欧回覧実記」(久米邦武編)
・ 「開化新題歌集」(大久保忠保編)
・「日本西教史」(太政官翻訳係訳)
・ 「Art and art industries in Japan(日本の美術と美術
 産業)」刊行(オールコック)
1878年、流行:
・唄 「梅ヶ枝節」
・河鹿(かじか、カジカカエル)の飼育
・日本髪にお高祖頭巾(おこそずきん)をかぶること
・毒婦(どくふ)小説、毒婦:人をだましたり、陥(おと
 しい)れたりする根性の悪い女のこと
1878年、衣:
・少女のシャツを着る姿が現われた。
・島田十郎兵衛が、麦わら帽子を作り、売り出した。
・亜鉛白粉が発売される。白粉:おしろい、
・海軍兵学校、洋服自給のため裁縫工場をもつ
・国産フランネル・紋羽二重綾木綿の無税輸出が許可され
 た。
・オーストラリアの羊1500余頭が、下総牧場に移された。
1878年、食:
・東京の両国若松町の風月堂が、日本で初めてチョコレー
 トを加工・販売した。
  チョコレートを、わが国において最初に商品として加
 工製造・販売をしたのは、東京両国若松町の米津風月堂
 といわれている。
  1871年(明治4年)、安政の不平等条約改正の予備交渉
 と、近代的な制度・文物摂取のため、岩倉具視を全権大
 使に、伊藤博文、大久保利通、木戸孝允、山口尚芳らの
 一行が欧米諸国に派遣された。
  その際、パリに赴いた一行は、チョコレート工場を視
 察している。
  彼らは、そのチョコレートが、後世のお菓子の世界で
 なくてはならないものになるとは想像もしなかったであ
 ろう。
  しかし、米津松造は、これらの情報をしっかりキャッ
 チして、いち早く研究をはじめ、商品化に取り組んだ。
  米津松造が、チョコレートの製造をはじめたことは、
 1878年(明治11年)12月21日の『郵便報知新聞』に、
 「菓子舗、若松町の風月堂にては、かつて西洋菓子を製出
 し、
  江湖(こうこ=世間、世の中)に賞美せられしより一層
 勉励してなお、この度、ショコラートを新製せるが、一
 種の雅味ありと。これも大評判」と報じている。
  ショコラートは、チョコレートのこと。
  この記事を受けて、その直後の12月24日付けの『かな
 よみ新聞』(明治8年創刊・仮名読売新聞改)に、
  「貯古齢糖・洋酒入ボンボン」の項目を掲げ広告を掲
 載した。
  さらに、1878年(明治11年)12月24日発行の『かなよみ
 新聞』と、翌25日発行の『郵便報知新聞』、
  さらに、翌12年1月6日の『東京日日新聞』に次のよう
 な広告が掲載された。
「西洋菓子製所 鳳紋 賞牌
 ○西洋菓子各種
 ○新発明ボンボン 祝日用・飾り菓子・西洋酒入り      
    数種 種々効能あり
 ○新製・猪口令糖 菓物味入り
 ○機械製・有平糖 
 ○桃子糖漬
 ○柑子糖漬
 ○仏手柑糖漬   各缶詰
 ○新年辻占パピヨ 此品は、西洋各国にて新年宴会の折、
 戯むれに供するものにて至極面白きものなり。
  文化、日に開らけ、百事、洋風に依らざる無きに独り
 “西洋菓子(ケイキ)”の製法のみ我国に有るを聞かず。
  日頃、該製造に思いを焦がす折節、昨年、内国勧業博
 覧会の挙あるに際し、
  西洋人の良工を雇いて洋菓の数種を精製せしめ該場へ
 出品せしに殊の外、諸彦の愛顧を蒙り、
  忝なくも鳳紋賞牌を付与せらるるに至れり。
  弊舗深く、感謝にたえず。
  依て尚一層、勉励新製数種調進候間、従来販売する菓
 子と共に御賞翫あらん事を是祈る。
   東京日本橋若松町、西洋菓子製造本舗 両国風月堂、
 米津松造」
  このときの米津風月堂のチョコレートは、輸入したチ
 ョコレート原料を加工したもので、
  また、もともとチョコレートとは飲み物であったが、
 食べるチョコレートが生まれたのがヴィクトリア王朝時
 代の1840年頃で、
  米津風月堂が、その製造に関してトップを走っていた
 のが分かる。
  さらにその後、喫茶においても飲むチョコレートを販
 売していたことも広告されている。
  続いて、京橋木挽町・精養軒、新橋壷屋が、自家特製
 加工品を使用し、明治30年代に、主として輸入製品とし
 て、東京銀座亀屋、明治屋、函館屋、本郷赤門通り・青
 木屋などによって売られ、
  その後、森永製菓も、カカオ豆からチョコレート一貫
 製造をはじめる。
・飲料水の取締規則が出来て、井戸水検査が始まる。
・開拓使が、鮭の缶詰をイギリス・フランス・アメリカに
 試売した。
・勧農局が、紅茶伝習所を各地に設けた。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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2016年5月8日日曜日

(増補版)348E1/3:気になった事柄を集めた年表(1877年9月~1877年12月)

題:(増補版)348E1/3:気になった事柄を集めた年表(1877年9月~1877年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1877年10月1日、日本最初の鉄道死亡事故
  東海道線西ノ宮列車正面衝突事故
  東海道線・住吉駅~西ノ宮駅(現:西宮駅)間で上り
 旅客列車と、下り回送列車が正面衝突した。
  上下列車は、本来西ノ宮駅で行き違う予定だったが、
 上り旅客列車の直前に臨時列車が設定され、下り回送列
 車の機関方(機関士)が、臨時列車の到着後、旅客列車
 を待たずに発車したのが事故の原因。
  上り旅客列車と正面衝突し、乗務員3人が死亡した。
1877年10月4日、山田顕義少将、野津鎮雄少将、大山巌少将
 らが、東京に凱旋した。
1877年10月10日 征討総督・有栖川宮熾仁親王、参軍・川村
 純義、伊藤祐磨少将らが、東京に凱旋した。
  同日、書を岩村県令に贈り、戦後、大いに窮迫せる士
 族に授産の途を講ぜしむ。
1877年10月10日、長崎県令の北島秀朝(きたじまひでとも)
 が、長崎市内にコレラが流行し、制止されたが避病院(
 ひびょういん、伝染病専門病院)に、コレラ患者を見舞・
 慰問し、本人もコレラに感染し、在職中に死亡した、享
 年36歳。
1877年10月12日、『東京毎夕新聞(とうきょうまいゆうし
 んぶん)』が創刊した(夕刊紙の始まり)
1877年10月17日、学習院が開校した。
  私立の華族学校開業式、天皇・皇后の両陛下が親臨(
 しんりん、天子や貴人が、その場所にみずから出向くこ
 と)、勅諭・令旨を賜わる。
  あらためて「学習院」の勅額を下賜される(神田錦町)
  学習院開校(氷川清話)
  1884年(明治17年)4月、宮内省所轄の官立学校となる。
  初代院長は、旧三池藩第8代藩主で子爵の立花種恭。
  華族の子弟教育を目的とし華族会館が経営。
1877年10月26日、車駕(天子)、上野公園に幸し、内国勧
 業博覧会に臨まれる。
 (注)車駕(しゃが)天子が行幸の際に乗られるくるま。
1877年10月、新町屑糸紡績所(しんまちくずいとぼうせき
 じょ)が開業した。 
  新町屑糸紡績所は、明治新政府によって群馬県新町(
 現・高崎市)に設立された官営模範工場で、内務卿・木
 戸孝允(たかよし)の設立伺(うかがい)などを経て、この
 年に開業した。
  1887年に、三井に払い下げられ新町三越紡績所となり、
 新町は、昭和初期まで製糸業の町として発展した。
  また、紡績所は、1911年に、鐘淵紡績新町工場となり、
 近年まで生糸をつくっていた。
1877年11月2日、科学博物館ができた。
  1872年に、湯島聖堂内に博物館を設立したことに起源
 をもち、
  創立は、1877年に、教育博物館が設置されたときとし
 ているが、その後、高等師範学校の附属となり、
  博物館としては、活動が停滞していた時期もある。
  大正時代に、科学博物館設立の機運が高まったことを
 受けて、1930年に、上野公園内に新館(現在、日本館と
 呼ばれている建物)が建てられ、
  その翌年・1931年には、東京科学博物館と改称され、
 東京市の施設となった。
  そして、1949年に、国に移管され、現在の国立科学博
 物館となった。
1877年11月20日、京都~大阪間の鉄道貨物運輸が開始され
 た(12月1日説あり)。
  因みに、1873年(明治6年)9月15日に、新橋~横浜間
 の貨物営業、および、小荷物の受託を開始した(取扱駅
 は新橋・横浜)
  また、1874年(明治7年)12月1日に、大阪~神戸間の
 貨物営業が開始された。
1877年12月6日、京都仙洞御所にて、軽気球を上げる。
 (かなよみ11・22/大阪日報12・8、明治11年1・6)
  「来月六日には西京旧仙洞御所内にて大小二ツの軽気
 球が登るに付て、是を見るは通券(きつて)一枚三銭宛
 で、西京新聞の配達人が持てゐるから夫を買て中へ這入
 ので、外に売捌處も何も御座なくと、該社の新聞に見え
 ましたから、同府の看客(おきやく)さまへお取次」(
 かなよみ)
 「一昨六日の西京招魂祭の時、仙洞御所に気毬の飛び上
 るを見ん為めに、各校の生徒が教師を隊長とし美々敷扮
 立(いでたち)、幟を押立て、続々と進みしは、肥境に
 出でし薩軍の景況なり」(大阪日報12・8)
  「(前略)昨十二月の招魂際に西京の旧仙洞御所の御
 庭に揚がるは、西京軽気球会社にて製する物を飛すは、
 観客都を傾け、切符の売れ高四万枚なりとぞ。
  然れば京童のみならず大津、伏見、淀、鳥羽、桂、嵯
 峨や小室の人々、丹波、丹後の山奥からも出て来たに相
 違なし。(後略)」(大阪日報・明治11年1・6)
 〈編者註〉この京都仙洞御所の軽気球は、京都府知事槇
 村正直の肝煎りで、学務課の原田千之助が立案し、島津
 源蔵と三崎吉兵衛が制作したもので、いわば初めての民
 間飛行、初めて木戸銭をとって見せた軽気球である。
 (山崎)寅吉が搭乗した気球は見事に飛揚し、入場料一
 人三銭(生徒半額)の切符が48,800枚売れ、売上高1,000
 円余を計上したという(『気球の歴史』)。
  大成功といっていい。
  早速この軽気球を買いに来た者があり、翌年正月、大
 阪城外の馬場にての興行が決定した。
1877年12月6日、蓄音機が発明された。
  トーマス・エジソンが、蓄音機の試作品によって、
 "Mary had a little lam..." (メリーさんの羊)と録音
 し、その再生に成功した。
1877年12月12日、「清輝艦」(国産の軍艦)が発航(はっ
 こう、船舶が港を出発して航海に出ること)した。
  日本艦船として初めてのヨーロッパへ遠征だった。
1877年12月19日、東京大学、第一回卒業証書授与式
  東京大学の第1回卒業式は、この日に行われたが、この
 時、卒業証書を授与された理学部化学科の3名は、すでに、
 同年・1877年7月に、卒業していた。
  しかし、「卒業式の方法等に関し議論ありし結果」数
 ヶ月を経てからの式となった。
  「午後一時に文部大輔綜理同補其ほかハ高座に着れ卒
 業生徒ハ高座の下に並び雇教師教授其ほかとも着席が定
 まると」、
  濱尾大学総理補が学事報告を行い、加藤大学総理が証
 書を授与した。
  「加藤総理,中村正直学監モルレー交々起ちて演述す
 るところありて」2時間ほどで式を終えた。
  その後、祝宴が開かれた。
  (讀賣新聞,1877.12.20、および、『東京帝国大学 五
 十年史』上冊,1932,pp.484-486)。
  濱尾総理補の報告は、「学校創立以来今日まで沿革の
 大略」であり、
  この学事報告と証書授与、加えて学内の要職にある者
 や来賓の演述という三つの要素からなるのが、
  初期卒業式の最も簡潔な手順であった。
  最初の卒業式において、総代以外の卒業生は、証書を
 受け取り、話を拝聴するのみの受動的な立場だったが、
  1878年(明治11年)3月29日の医学部第1回卒業式では、
 池田総理の奨励の辞に対し卒業生総代が答辞を述べ、
  さらに、製薬学本科卒業生9名全員が各自の研究につい
 て演述を行った。
  『東京 帝国大学五十年史』上冊,1932,pp.488-489
1877年12月21日、電話の開通の最初
  東京工部省電信局より宮内省間に、2回線の電話線を架
 設し、通話を始め、開通した(実用電話最初の記録)
  当時、伝話機と呼んだ。
  工部省は、民部省に所属していた灯台・電信・その他
 の部局と、民部省に付置されていた修技校を引き継いだ。
  そして、当時の工業の殆どすべての部門を管理するこ
 とになった。
  そして、工部省のやり方は、そっくりそのまま西洋の
 やり方を模倣するというやり方だった。
  そうして、一挙に西洋の技術を日本に移そうとした、
 また、西洋式の工業を、日本に興そうとした。
  工部省の事業はしだいに拡張された。
  そして、1875年~1876年頃に、その最盛期を迎えた。
  それ故に、電話の場合も、この様なやり方だった。
1877年12月25日、刑法草案審査局を設けた(伊藤博文を総
 裁とした)
  日本は、総てにおいて、着々を体制を整えて行った。
  この刑法における努力も頭が下がる行為だった。
  この様な先人の蓄積・努力によって今の日本がある。
   1875年(明治8年)9月に、司法省に刑法草案取調掛が
 設置された。
  これによって刑法の編纂が始まった。
  先ず、総則部分が編纂され、「日本帝国刑法初案」(
 第Ⅰ編82条)として、1876年(明治9年)4月に、司法省
 から正院に上呈された。
  それはさらに、「改正刑法名例案」として、元老院に
 送 られたが、不完全であるという理由で、審議を経ずに
 返された。
  そこで、司法省では、1876年(明治9年)5月、新たに
 ボワソナード起草の草案を原案として編纂作業を開始し
 た。
  この作業は、1877年(明治10年)11月に終了し、編纂
 委員から司法卿・大木喬任に「日本刑法草 案」(Ⅳ編
 478条)として提出された。
  そして、さらに、司法省から太政官に上呈された。
  太政官では、1877年(明治10年)12月に、刑法草案審
 査局を設置した。
  そして、そこで司法省草案の審査作業が開始された。
  審査局の審査は、1879年(明治12年)6月に終了した。
  そして、「刑法審査修正案」(Ⅳ 編430条)として、
 太政大臣に上申された。
  翌・1880年(明治13年)3月、「刑法審査修正案」は、
 元老院に送られた。
  そして、同年・1880年4月16日に、審議を終了して、
 翌日これを上奏した。
  「元老院修正案」は、内閣で承認された。
  そして、1880年(明治13年)7月17日に、太政官布告
 第36号刑法(4編430条)として公布された。
  そして、1882年(明治15年)1月1日から施行された。
  西洋流の近代的な内容だった。
1877年12月25日、地方長官に国産愛用を諭告 
1877年12月26日、西南戦争の凱旋巡査、東京に整列式 
  吹上御庭にて先頃凱旋になりし警視隊の整列式を天覧
 在せられ、石井権中警視その他三間、田辺の両少警視も
 出張せられ・・、
1877年12月26日、勝海舟、帰朝す(氷川清話)
1877年12月27日、新紙幣2700万円を発行し、西南戦争の戦
 債を補う。
  大蔵卿としての大隈は、殖産興業政策を主唱する大久
 保と意見を同じくしていたが、
  同時に、財政支出のむだ(官庁建築の制限、剰余金の
 「回産復生」資本への流用、官庁の輸入品使用制限、秩
 禄処分)を省き、かつ不換紙幣を銷却し、準備金を充実
 することを提唱していた。
  大隈といえども、財政の均衡や紙幣整理の必要を重視
 していなかったのではなく、経済発展と財政均衡・紙幣
 整理を両立せしめようとする企図が強かった。
  以後の財政政策史上にくりかえしあらわれるこの発想
 を積極主義と言うのならば、大隈はその創始者である。
  ともあれ、1876年(明治9年)、韓国との緊張が緩和し
 たのを機として、政府は最終的な秩禄処分を行い、懸案
 の一つを解決した。
  それは、殖産興業政策に本格的に乗り出すためにも、
 不可欠な処置だった。
  しかし、このためには巨額の金禄公債の発行が避けら
 れなく、
  1890年(明治23年)までの同公債の発行額が1億7,385
 万円に達した。
  その価格が暴落するのは目に見えていた。
  その対策として考えられたのが、国立銀行条例を改正
 して、同公債を資本金として国立銀行を成立させ、
  正貨兌換をあきらめて、金融の疏通をはかり、士族の
 生業の道をひらくことだった。
  公債を抵当に国立銀行券の交付をうけて営業を行わせ、
 準備率も資本金の2割でよいとした。
  これ以後、国立銀行設立が急に盛んになり、1879年(
 明治12年)までに、既設4行を含めて153行が設立の許可
 をうけた。
  その仲に、旧大名華族の資本を集めた最大の第十五国
 立銀行(資本金1,783万円)もあった。
  同行は、はじめ、鉄道建設資金の供給を意図していた
 が、1877年(明治10年)の西南戦争勃発に際し、設立を
 いそぎ、政府に戦費1,500万円を年利5分、期限20年で貸
 付けた。
  国立銀行全体の活動も活発で、その銀行券発行高は、
 1880年(明治13年)の年末には3,443万円と、許可限度一
 杯に達した。
  それは、西南戦費調達のために、好都合であったとは
 いえ、重大な通貨増発を惹きおこすことになった。
  1871年(明治4年)以降、各年末の現金通貨ストック量
 を見ると、1873年(明治6年)以降、発行を抑制されてき
 た現金通貨が、この年と翌年に一挙に増発された。
  この増発は、もちろん西南戦争の戦費調達のためであ
 った。
  政府紙幣も、この1年間に2,700万円の予備紙幣を発行
 し、
  戦費総額の4,157万円の大部分は、傭給費、運送費、
 旅費等であって、
  物件費は、軍器費、粮食費等で、全体の2割程度にすぎ
 なかった。
  したがって、軍需のために物資の需給が急に逼迫して
 物価が上昇することはなかったが、関係者の所得増加が
 生じ、やがて社会的需要の増大をもたらしたと考えられ
 る。
  西南戦争後のインフレーションが、1880年~1881年を
 ピークに激化した理由はこの点にあった。
1877年12月、東京株式取引所設立の許可。
1877年12月、勝海舟、「亡友帖」成る。翌年出版す(氷川
 清話)
1877年、朝鮮の人口が減少
  逆に言えば、日韓併合とともに朝鮮の人口は、驚異的
 に増加した。
  韓国の加耶大学の崔基鎬(チェ・キホ)教授は、自著
 で以下の様に記す・・、
  「日韓併合とともに朝鮮の人口は、驚異的に増加した。
  例えば、韓国の教師用国定歴史(国史)教科書による
 と、1777年、総人口は1804万人であったが、100年後の
 1877年には、1689万人で6.8%減少した。
  さらに、1910年には、1313万人となった。
  そして、日韓併合され、それが、32年後の1942年の人
 口は2553万人で倍近くに大きく増加している。
  この事は、李朝518年の統治が如何にひどいものであっ
 たかを如実に証明している。
  日韓併合によって、韓民族が享受(きょうじゅ、気持
 ちよく楽しいこと)した社会の改善点を上げると、主な
 所で以下の様になる。
  1)両班・常民・賤民などの階級制で、少数の支配者
   が住民の大部分を服従させる悪弊が払拭(ふっしょ
   く、好ましくない者を払い除くこと)された。
  2)法治制度の下に公正な裁判が行なわれるようにな
   り、賄賂(わいろ)の慣習が一掃された。
  3)私有財産制度の確立・処分・移動・職業選択と居
   住の自由と経済秩序の確立。
  4)鉄道・道路・橋梁などの交通機関の整備により、
   経済が活性化し、李朝での飢餓問題も解決された。
  5)教育が普及し、医療制度も近代化して予防制度が
   確立した。
  文教部発行の国定歴史(国史)教科書の日本に対する
 記述には、
  「彼らの国家利益を増やすために、朝鮮を開発し、日
 帝の侵略政策で、民族の経済活動は大幅に委縮し、民族
 産業も、その発展が抑えられ、沈滞せざるを得なくなっ
 た」と、まったくでたらめな記述をしている。
  この様な教え方では、卑屈な考え方を青少年に植え付
 けるに過ぎない。
  我々は、併合時代以前の歴史を顧(かえり)み、日本
 によって他力本願でありながら、近代的産業開発を学び、
 教育によって経済活動にも先進することが出来たのであ
 る。
  一方的に享受する側であるから、初めのうちは屈辱感
 があっても当然だが、日本の援助を受け入れ、誠意を尽
 くして実力を養えば、日本と同等、または、日本以上に
 も発展する事も可能であった。
  今日の韓国と台湾は、日本によって育成された史実を
 認めるべきである。
  台湾の李登輝前総裁は、日本時代にこそ、今日の台湾
 の経済発展の基礎が培(つちか)われたと言い切ってい
 る。
  その姿勢から、韓国・朝鮮の指導者たちは素直に学ぶ
 べきである」と。
  そして、また、韓国の加耶大学の崔基鎬(チェ・キホ)
 教授は書く・・、
  「19世紀末から20世紀にかけて、世界史上、最も驚異
 的な現象がアジアの極東において、新しい光として輝き
 出した。
  それは、極東の小さな島国と考えられた日本が、旭日
 昇天の発展を示した事である。
  中国(朝鮮も)が斜陽に傾く中、明治維新後の日本は、
 当時の世界の強国・眠れる獅子「清」と戦って勝ち、
  その10年後には、三国干渉以来の仇敵(きゅうてき)
 でもあった「帝政ロシア」と日露戦争を戦い、これを勝
 利に導いた。
  600余年前、自主独立の国であった高麗は、明に戦争で
 勝つ成算と、民族の故地である東北部(旧満州)を取り
 戻す見込みがあったにもかかわらず、李成桂の裏切りに
 よって敵国であった明に臣従し、その属国に成り下がっ
 た。
  そうして建国された李氏朝鮮は、スタートから血で血
 を洗う骨肉の争いと、つまらない権力維持のために、百
 姓の生殺与奪をほしいままにし、
  明の腐敗した儒教を国教とし、住民を四階級に区分し
 た。
  既存の産業を潰(つぶ)し、インフラ整備を完全に遮
 断させたまま、百姓を生屍(いきかばね、民草)に取り
 扱ったために、開化と近代化を志向した志士たちは容赦
 なく処断された。
  悪辣(あくらつ)極まりない李朝の統治下で500年を経
 過した朝鮮に隣接し、この生屍に等しい百姓を再生させ
 たのが、日本であり、日韓併合であった事は歴史が証明
 している。
  だが終戦とともに、北朝鮮では金日成集団が中心とな
 って、再び以前の李朝のコピーと成り下がり、数千万の
 百姓を餓死か、それ寸前の境遇に落として、いじめ尽く
 し、自由と財産を強奪する圧政を続けている。
  北朝鮮の暴力集団を、同胞だとか、まともな国家と見
 なすとは、非常識も甚だしい。
  国連による制裁もない今日、北朝鮮住民の明日への希
 望はまったく見えない。
  国家には、領土・人民・主権の三要素と、国民の生命・
 財産を守る任務があるとされるが、李朝518年間と20世紀
 の北朝鮮では、まったく顧(かえりみ)られていない。
  スターリンによって送り込まれた金日成が北朝鮮で、
 まず着手したのが、日韓合邦時代の北朝鮮住民の生命と
 財産の掠奪(りゃくだつ)であった。
  そして繰り返し、「革命」を合唱した。
  「革命」とは、実力のある有為の人達を殺す事であっ
 た。
  そうして1000万の離散家族を発生させ、数百万人を虐
 殺し、餓死させた」。
..
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