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2014年11月6日木曜日

気になった事柄を集めた年表 [1931年~1940年]

 題:気になった事柄を集めた年表 [1931年~1940年]
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1931年、満州事変が起きた。
 そして、日本は、ドイツと組む道を選ぶ。
 その道へ進まねばならない理由に、アメリカの日本孤立
策があった。
 アメリカは、日本が黄色人種の代表の位置につかせない
ために画策した。
 そして、自らの中国政策を推し進めた。
 日中離間策を強引に進めた。
 蒋介石(しょうかいせき)と日本政府との間の対立を画
策し、軍事物資その他で全力をあげて中国政府をアメリカ
は支えた。
 日本は、アメリカの武器を相手に戦わなければならなか
った。
 膨大な中国兵の人数と、果てしなく供給されるアメリカ
の武器。
 泥沼に入って行く原因だった。→2年
1933年、第32代大統領フランクリン・ルーズベルト(在
 任期間1933年~1945年)は、
 日本人が凶暴なのは頭蓋骨の形が違うからと本気で信じ
ていた。→1年
1934年、日本が「アジアの平和に責任を負おう」という
考えを、
 外務省情報部長の天羽英二(あもうえいじ)氏が言う。
 当時、イギリス海軍が中南米を防衛するという事をして
いた。
 日本は世界の5つの大きな大国の一つになっていた。
 「アジアのモンロー宣言」と呼ばれた。→4年
1937年、日本は、アメリカの様な人種差別・人種偏見は
無かった。
 アメリカの黒人知識人W・E・B・デュボイスは、
 この年、旅行し、
 「ピッツバーグ・クリア」誌のコラム欄に次の報告文を
書いた:
 「日本の旅行中、東京の帝国ホテルで勘定の支払いをし
ている時、
 『いかにも口うるさそうな、典型的アメリカ白人女性』
が、さも当然であるかのようにデュボイスの前に割り込ん
だ。
 ホテルのフロント係は、女性の方を『振り向きもせずに』、
デュボイスへの対応を続けた。
 勘定がすべて終わると、彼はデュボイスに向かって深々
とお辞儀(じぎ)をし、
 それからやっとその厚かましい『アメリカ様』の方を向
いたのだった。
 このフロント係の毅然とした態度は、
 これまでの白人支配の世界とは違った、
 新しい世界の幕開けの予感をさせた」と。→1年
1938年、アメリカで蛍光灯が実用化した。→1年
1939年、ナスカの地上絵をアメリカ人考古学者が発見し
 た。
 地上絵は、ペルー南部のナスカ大地にある。→0年
1939年9月1日、ドイツ軍がポーランドへ侵攻し、第二次
 世界大戦がはじまる。→1年
1940年7月、ドイツ占領下のポーランドから、
 リトアニアに逃がれて来た多くのユダヤ系難民などが、
 各国の領事館・大使館からビザの取得をしようとしてい
た。
 各国領事館・大使館はソ連が閉鎖を求めたため(リトア
ニアはソ連が占領していたため)、
 まだ業務を続けていた日本領事館に名目上の行き先への
通過ビザを求めて殺到した。
 日本は、旅費や滞在費の有する者などの発給条件があっ
たもののビザ発給をしないということではなかった。
  杉浦千畝(ちうね)氏が、ビザ発給を禁止する日本政
府の意思に反してユダヤの方々を救ったというのは正確で
はない。
 当時、日本政府は、ナチスドイツの人種差別政策に賛成
しない強い意志があった。
 当時の日本の外交は独自の政策を取っていた。
 確かに杉浦氏は、ビザ発給をしたが、日本政府の命令を
反してまでしたというのは間違い。
 日本政府は、ビザ発給に反対はしていなかった。
 キリスト教徒の杉浦氏は、キリスト教のプロパガンダ(
嘘宣伝)で作り上げられている。
 日本政府はユダヤの方々にビザ発給をよしとしていた。
..
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矛盾・食い違いのデパート状態に・・、

 題:矛盾・食い違いのデパート状態に・・、
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
 キリスト教のイエスが、『愛敵』を説いたという・・が、
 しかし、その精神の現れの言葉の一つといわれている
 「剣を取る者は皆、剣で滅びる」は・・、
 イエスの言葉ではないと・・言われている。
 この言葉は、「マタイによる福音書」にだけに書かれて
いる。
 他の福音書の・・この文の並行する個所には・・、
 この文は『全く出て来ない』、書かれていないのである。
 この言葉が出て来る福音書を、「マタイ」が書こうとし
た頃・・、
 ユダヤの民が、ローマ帝国に対して、「剣」によって解
放戦争を、ちょうど、した頃であった。
 しかし、悲しいかな、ユダヤの民は・・、
 ローマ帝国の「剣」によって・・滅ぼされてしまった。
 つくづく、マタイは悲しみ、そして悲嘆にくれ、「剣」
による結果のむごたらしさを悔いただろう。
 研究者は、この言葉を・・「マタイの言葉だ」と断定し
ている。「マタイの創作だ」・・としている。
 また、マタイが、福音書を書くころ、ユダヤの民のすべ
ての人が、この気持だっただろう。
 それ故に、マタイは、それを書いたのだ。
 「マタイによる福音書」は、ユダヤの民のその心を代弁
し、受け入れられたい意味もあって、書き込まれた。
 その文をマタイが創作し、書いたことによって、ユダヤ
の民から受容されただろう。
 また、イエスの言葉に、有名な「汝の敵を愛せよ」とい
う言葉があるが・・、
 これも、「マタイによる福音書」に書かれている。
 (「マタイによる福音書」5・43~45)参照。
 キリスト教の聖書の「申命記」には、1例であるが・・、
「(キリスト教の)神の義があれば、人を誅しても良い」
という教えを説いている。卑劣な教えである。
 キリスト教の聖書の全編が、この教えである。
 多民族が錯綜(さくそう)する狭い地域の、それも砂漠
の地で、民族が生き抜くには、その様な教えで無ければ、
民族は絶滅してしまうだろう。しかし、こんな卑劣な教義
は、現代には、まったく、そぐわない。
 古代の、この地の、この時なら、やむを得なかっただろ
うとも思えるが・・戦争に次ぐ戦争の世界が展開した。
 キリスト教の神が、率先して叫ぶ、「戦え、戦え」「○
○人は皆殺しにせよ」「△△人は、男だけを殺せ」・・、
 「生娘は生かしておけ」「奴隷にせよ、奴隷にせよ」・
・と。まったく、軽蔑すべき教えとなっている。
(しかし、現代でも、キリスト教の聖書に書かれている)
 民族の生き残りのためとはいえ、生きる糧(かて)を戦
い、殺し、奪った。
 キリスト教は、その様な教えの宗教だ。
 生きるために生娘は民族の子孫、生き残りの民族の民が
増えるためのものだ(それこそ性奴隷だ)。
 キリスト教の精神には、この様なモラル・精神が流れ、
キリスト教徒は、知らず・知らずに洗脳されている。
 他民族のすべてを・・しゃぶりつくす卑劣さが洗脳され
る、そして、何とも思わなくなる。恐ろしいことだ。
 キリスト教は、奴隷という家畜的な人の使用の思想を・・
宗教ゆえに消えずに、長い年月、伝えられ・・、
 この、キリスト教によって・・後の時代には、アフリカ
の方々が、あまりにも多くの方々が、奴隷にされて・・、
 そして、そのキリスト教の思想によって、多くのアフリ
カの方々が亡くなった。
 そして、世界中へ、キリスト教徒とキリスト教聖職者た
ちが、出て行って・・、
 インディオスの方々、アボリジニの方々・・を、あたか
も、狩りをする様に、また、ゲームをする如く・・、
 遊び半分で・・インディオスの方々を並べて立たせて、
何人を槍で突き通せるか・・などということなどをする。
 赤ん坊を岩に叩きつけたり・・、
 キリスト教は、「人間ではない」という見解を、出先の
人非人達へ伝えた。
 またこれも、あまりにも多くの方々が、キリスト教によ
って殺された。
 この他にも、ユダヤの方々、アメリカ・インディアンの
方々など・・など・・など・・
 卑劣・悲惨・酷(むご)い事が・・満ち溢れている・・
キリスト教。
 本当に軽蔑し、この宗教を怨(うら)む。
 戦争も、あまりにも多い。
 悲惨な歴史に満ちている。
 私だって、「汝の敵を愛せよ」と、何十回も、何百回も、
永遠に・・・卑劣なキリスト教の教えに対し訴えたい、叫
び続けたい。
 イエスは、この言葉を、もっと、『言い続けなければ』
ならなかった。
 イエスは、「この様な言葉も言いました」的な事しかし
ていない。
 これではダメだ。
 1回だか、2回だか・・これでは少ない。
 この大切な言葉を・・もっともっと言うべきだった。
 イエスは、神の国は、何回も言ったようだが・・、
 戦争を無くす大事な発言、『何回も言い続けよ』とイエ
スへ言いたい。
 それも、山上で1回、言ったきりでは・・駄目だ。
 聞いていた弟子たちだって、これを聞いて、何をしたと
言うのか?
 何もしていない。
 ただ、イエスが言いましたで終わっている。
 そして、そのキリスト教が・・、このイエスの言葉を
「まったく無視」して、肝心なお膝元(ひざもと)のキリ
スト教自体が・・、
 このイエスの言葉を「完全、まったく無視」して、
 人ばかり殺している。バカ垂れと言いたい。
 また、「言った、言った」と、キリスト教が、声高に言
う『愛敵』の言葉は・・、
 「山上の垂訓」というところで、イエスが言ったという
言葉にあるが、
 そして、その言葉が6つあるが、その6つの6番目に言っ
たとされている。
 大切な言葉は、最初に言われるものだが、そうではない。
 最初に言って、大切だから、また、最後に言うという事
でもない。
 本当に、重要なものと思っていたのか?・・と思う。
 それも、「女を見たら、女を犯す事と、同じだ」なんて、
いう言葉の後だ。
 何だ?という言葉の後ろだというのだから疑問だ。
 また、「女に離縁状を出したら姦通と同じだ」なんても
のの後にもなっている。
 キリスト教では、この「山上の垂訓」が、イエスの一番
大切な言葉だとしているが・・?
 キリスト教は、本当に、時代経過の中で、劣化しきって
いる。
 そして、キリスト教を、事実上、作ったというパウロは、
キリスト教は、「律法は捨てる」とした、
 一切合財、キリスト教には、不用だとした。
 イエスの言葉や(愛敵を含め)、イエスの人となりを、
無視した。
 「イエスの十字架状の血」と、「イエスの復活」だけで
良いのだとした。
 今、キリスト教は、この「パウロ・キリスト教」となっ
ている。
 イエスの「山上の垂訓」もあったもんじゃないとなって
いる。
 何しろ、キリスト教は、シッ茶かメッチャカになってい
る。
 あらゆる人が、あらゆることを言い、また、他の宗教か
ら「これはいい」と、あらゆるものを持って来て、天使も
持って来て、『ごった煮』になっている。
 だから、矛盾・食い違いのデパート状態になっている。
..
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2014年11月4日火曜日

野放し状態だった・・、

 題:野放し状態だった・・、
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
 キリスト教のイエスと言えば、今でこそ、知って
いる人が多いが・・?、
 しかし、肝心のイエスが生きていた当時・・、
 イエスを知る人は・・狭く・・限られた状態だっ
た。
 イエスが、エルサレムに行ったって、聖書は、大
げさに嘘を書くが・・、
 その後の記述などを見ると・・どうもそれは・・
嘘記述だと・・、信用だけが失墜する記述だと・・
分かる。
 神殿で暴れることができたのも・・、
 イエスがその様な人だと、知れ渡っていれば、官
憲も、事前に、動くだろうし・・、
 人々もそれなりに予防措置をしたりと、対応した
だろう。
 イエスが、その様な人ではなかったからこそ、出
来た。
 あのように暴れれば、今の時代だったら、すぐ逮
捕されるだろうが・・、
 見も知らない人間であったため・・、無事にその
日が過ごせたのだ。
 そして、その次の日の動きも、出来たのだ。
 2日目は、また神殿前に来る。
 また来たのでと、逮捕をされるのかと思えば、そ
の様な動きも無く・・、
 イエスは、神殿前でアジ演説ができた。
 「ローマの税金について」の話だった。
 その様な人騒がせな行動でも、逮捕されるという
状況とはほど遠かった。
 イエスの「初犯的な行為」でもあったのだ。
 好き勝手な動きが続いている。
 一面、無視されている状況とも言える。
 また、当時、予言者がたくさんいるエルサレム、
イエスの様な事をする人間は、多かったと言える。
 祭司や律法学者とのぶつかり合いも、起きて来る。
 でも、最初は見逃されている。
 ぶつかり合いがあったって、逮捕なんて起きない。
 その日も無事に済んでいる。
 3日目になって、やっと、不穏な雰囲気が出て来る。
 イエスは、ここで、家に、ガリラヤに帰れば・・、
刑死なんて事は起きなかった。
 キリスト教は、美化するために必死に嘘宣伝、プ
ロパガンダで、イエスの話を作り上げているが、
 キリスト教の話と、実際は、まったく違うのだ。
 「イエスなんて」という状況だったのだ。
 イエスなんて捕まえて、刑に掛けようなんて、公
権力は、まったく考えていなかったのだ。
 この時点では、まだ、ユダは公権力に密告もして
ないし、密告しようとも思ってもいない。
 イエスが、自ら、この先に踏み込んだから、不幸
な事態が起きてしまったのだ。
 また次の日も、イエスは、やりたいことをやり出
した。
 当時の権力を持っている祭司や律法学者のお偉い
さんの批判をアジ演説した。
 神殿なんか崩れ去ってしまうと、その過激さは増
していった。
 当時、エルサレムの町に充満していた終末論、こ
れを、イエスも話したが、別に目新しさはなく・・、
『そうだね』ぐらいで済んでいた・・、さして問題
には、ならなかっただろうが・・、
 お偉いさん批判は、公権力も「むっと」しただろ
う。
 しかし、この3日目も、無事に何もなかった。
 そして、4日目も、似たような1日で過ぎて行った。
 公権力は、よく我慢していると思う。
 または、無視か? 目にもとまらなかったのか?
そんなものだった。イエスの好きにさせていた。
 しかし、この次の日の5日目に、イエスグループの
内部崩壊が起きる。
 グループの自滅行為である。
 結局、これが事の引き金を引いた。
 黙認・無視していたイエスを・・、「ならば」と、
 公権力が動いたのである。
 この5日目、いつものようにエルサレムの町で、
言いたいことは言えたのだが・・、
 夜になって、「最後の晩餐」と称されている会食
の席で、イエスは、仲間のこれからの行動の予想を
話す、それは批判でもあった。
 だからだろう、この会食後、ユダは、公権力に
「おおそれながら」と訴え出る。
 ユダは、前からイエスを、そうしようとは思って
いなかった。
 ・・が、しかし、この会食のイエスの言葉がきっ
かけにして、公権力に訴え出た。
 口は災いのもと・・イエスは口で失敗した。
 口の良くなかったイエスが、公権力を動かしたと
も言える。
 このグループの会食後、イエスは、ゲッセマネの
園で祈る。
 しかし、イエスと弟子たちとの意見が合わず、
 イエスが、「一緒に祈ってくれ」とたのむのに、
弟子たちは眠っていた。
 イエスは、弟子たちを怒る。
 これは、弟子たちのふて寝だろう、
 イエスと弟子たちの意見が合わなかったのが原因
の・・、
 そして、イエスは、ユダが道案内して、連れて来
た公権力に逮捕された。
 完全に、公権力は、イエスをマークしていなかっ
た。
 ユダが道案内して、『この人です』と言わなけれ
ば、逮捕者が分からない様な状態、野放し状態だっ
た。
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排日移民法のころの・・話

 題:排日移民法のころの・・話
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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 1924年7月1日、アメリカで『排日移民法』が成立した。
 この法律で、日本人は、アメリカへ渡航できなくなった
 が・・、
 この時まで、アメリカへ移民できた日本人は、20世紀初
頭から、同じ時期に、アメリカへ渡ったヨーロッパ人の人
数の1ヶ月分にもおよばないという僅(わず)かな数だった。
 日本人は、2世の方々を入れても、アメリカの総人口の
0.1%という僅かな人数だった。
 しかし、アメリカの排日論者たちは、日本人が、大群と
なってやって来たと騒ぎ、西海岸を支配し、白人を追い出
すと叫んだ。
 新聞は、センセーショナルな日本叩きを行った。
 アメリカ議会の上院では、新聞社主のマクラーチーが、
日本からの移民を禁止しないと、アメリカは、日本のある
一つの州にされてしまうと、大げさな、偏向演説をした。
 また、日系人の「倹約と努力」が批判された。
 キリスト教に偏するNHKが「頑張るな」のキリスト教
徒の鎌田實氏を常に使って、キャンペーン放送をし続けた
が、このアメリカの嫌悪反応と同じ行為・放送をした。
 また、当時、キリスト教徒の新渡戸稲造は、この不法な
アメリカの移民排斥法に対して、アメリカの「肩を持ち」、
 「日本自身が改善しなければならない」と言った。
 日本の・・どこが悪いのだろか?
 新渡戸は、アメリカのウィルソン大統領と同級生だった。
 また、キリスト教国は素晴らしいという先入観の持ち主
でもあった、その様な、洗脳された意識の持ち主だった。
 ウィルソンを人道主義の闘士という理想化したどうしよ
うもない意識と、アメリカは、理想社会なのだの盲信意識
であった。
 また、日本は未発達なのだからの劣等意識でもあった。
 アメリカの文明は素晴らしいの盲信、そして、「悪いの
は日本人自身だ。自己反省すべきだ」と言った。
 識者は、「自虐的で、どうしようもないものの見えなさ
だ」と批判した。
 日本人労働者の労働の質の高さがあった。
 しかし、移民の方々は、「だらしない格好」だとか、「
みっともない姿」をしているから賤民(せんみん)あつか
いされるのだ・・の、自虐的な自国民蔑視だった。
 アメリカ人の排日論者の汚ない発言の口移し(くちうつ
し)でもあった。
 文明の光が、アメリカとヨーロッパにあるという見方だ
った。
 キリスト教に偏するNHKも、「世界遺産」という名前
の番組を良く放送したが、世界遺産なんて名前ばかりで、
ヨーロッパのキリスト教国ばかりを放送した。
 番組名を「キリスト教国遺産」と変えたほうが良いくら
いのキリスト教に偏した放送で、教会の場面が多く、何だ
かんだとキリスト教に偏した放送だった。
 反動の、日本への自己劣等視と無視となっている。
 日本には、1例をあげれば、坂本竜馬を生んだ地には、
 江戸時代に、既に、民主主義が根付いた社会があった。
 この環境が、竜馬を生んでいた。
 日本には、明治維新以前から、既に、民主主義を経験す
る社会が・・存在していた。
 民主主義は、何も、明治維新になって、欧米から学んだ
目新しい思想ではなかった。
 また、東洋には、紀元以前から、とうの昔から、民主主
義社会が存在していた。
 インドのブッダが民主主義国のヴァッジ国が好きだった
という史実もある。
.
 (参考):ヴァッジ国について、「ヴァッジ・サンガ」
  と呼ばれた代表議会の議長を持ち、また、各地方から
  の代表者から成り、国政を取り仕切っていた・・と、
  そして、サンターガーラと呼ばれる集会堂(議事堂)
  を中心とした政治体制は仏教徒の賞賛するところであ
  ったという説明文も見られる。
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2014年11月3日月曜日

気になった事柄を集めた年表 [五]:(2014・11・3 改訂)

 題:気になった事柄を集めた年表 [五]:(2014・11・3 改訂)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1897年、新渡戸稲造が、札幌農学校を辞職し、アメリカ
 西海岸で療養生活に入った。稲造は、重症の神経衰弱と
 診断され、休養を取るよう申し渡されていた。→1年
1898年、アメリカが、フィリピン・ハワイ諸島・ジョンス
 トン島・グァム島を新領土の植民地として手に入れた。
1899年、アメリカによるフィリピン征服戦争が起きた。
 ~1902年。マッカーサーの父親が参戦している。また、
 この父親はインディアン掃討戦もしている。→0年
1899年、アメリカが、ウェーク島・米領サモアを新領土
 の植民地として手に入れた。→0年
1899年11月、新渡戸稲造の「武士道」がアメリカで出版
 された。「日本人の魂」という副題が付けられた。日本
 での出版は、この翌年。稲造は書く、その武士道の淵源
 を仏教と神道と儒教に見い出される・・と。そしてまた、
 書く、「危険や災害に直面した場合の禁欲主義的沈着さ
 は、仏教から来る」・・と、説明している。
19世紀末~20世紀初頭、外国勢力による中国分割が進んだ。
 満州(ロシア)、山東省(ドイツ)、華北・揚子江流域・
 香港(イギリス)、雲南省(フランス)・・、→0年
1900年、新渡戸稲造が、ヨーロッパへ行き、植民政策の
 勉強をし、その後、台湾へ赴(おも)いた。→0年
1900年、ロシアが、中国(清)で発生した義和団の乱の
 混乱収拾という名目で満州へ侵攻した。ロシアは、満州
 を植民地化することを既定事実化しようとした。日英米
 の抗議によりロシアは撤兵を約束した。しかし、約束を
 守らず、逆に兵を増やした。そして、朝鮮半島への影響
 力をロシアは増していた。利権を手掛かりにした。鉱山
 採掘権や森林伐採権や関税権の国家基盤の権利などを取
 得し影響力を増した。日本は、これらを買い戻して回復
 させた。そして、日本は、外交的に衝突を避けようとし
 たが、ロシアは、軍事力で日本への圧力を増していった。
 中国への外国勢力の進出に対する中国の反発。13カ国が
 出兵した。日本も出兵した。ロシアとドイツは、日本の
 3~4倍の賠償金を要求し、取った。ロシアは、兵を撤兵
 させず、朝鮮国境に砲台を建設したり、シベリア鉄道の
 軍の輸送を開始した。脅威が増した。→1年
1901年、第26代大統領セオドア・ルーズベルト(在任期
 間1901年~1909年)は、アメリカインディアンの事実
 上の絶滅を指示すると公言した。→1年
1902年、日英同盟。ロシアの南下に自国の権益を守りたい
 という英国は日本と同盟した。英国はボーア戦争で国力
 が弱ってもいたため。→2年
1904年2月8日、日露戦争が開戦した。日本のキリスト教
 は、戦争に協力するとした。そして、これをきっかけに、
 キリスト教は、国家体制への癒着(ゆちゃく)を強めて
 行った。→0年
1904年、アメリカが、陸海軍の統合会議で『世界戦略の研
 究をする』ということを決めた。様々な戦争のシュミレ
 ーションがなされた。この中の対日戦略と対独戦略が仮
 想敵国の意識の中に長く残って行く。日本海軍はどのよ
 うに動くかなど、日本がフィリピンや南洋諸島を進攻す
 ることは算定されていた。毎年、研究が積み重ねられた。
 この計画と全く同じに大東亜戦争(太平洋戦争)の時に、
 アメリカは反抗作戦を実施した。→1年
1905年9月5日、日露戦争が終結した。この日に、ポーツ
 マス条約により講和した。「坂の上の雲」を歌われた
 森麻季さんの歌をお聞きください。
https://www.youtube.com/watch?v=3yoROVD-3KQ&index=3&list=RDnC9-40wKDfM
 また、この歌にコメントしたjungoroさんの言葉:この
 音楽を聴くと先人たちの血を吐くような苦労を思い浮か
 べ落涙してしまう。将に西欧に飲み込まれんとしていた
 日本を滅亡の際から救った方々。それほどの事業にも関
 わらず現在の学校では日清・日露戦争は国費を浪費した
 だけの戦争としか教えられない。国を滅亡≒植民地化か
 ら救った日本史史上最大の出来事にも拘らず!あの世へ
 行ってから偉大な先祖たちに合わせる顔がない。なぜだ
 ろう。この曲がそうした先人たちの思いを表している、
 と思うのは考えすぎであろうか。
1905年9月5日、日露戦争の日本の勝利は、朝鮮のロシア
 化から守った。また、アジアの植民地の方々へ勇気を与
 えた。例えば、インドのガンジーやネルーは、心が揺さ
 ぶられたとの話を吐露している。また、日本に好意を感
 じていたインドネシアの方々は、巨大なロシアのバルチ
 ック艦隊が、狭い海峡を通って行く姿を見て、立ち上が
 って来た日本の終焉を予測し、涙を流して見たそうであ
 る。が、しかし、その後の結果に沸き立ったという。ア
 メリカの黒人の方々も勇気づけられたという。そして、
 考えるきっかけを作ってくれたという。ある公民権運動
 家は、日本が白人優位の人種偏見神話を崩してくれたと、
 全米を演説してまわった。しかし、逆に、白人社会へは
 衝撃とパニックを与えていた。これが深刻な問題につな
 がって行った。その一つが、アメリカの排日運動である。
 また、それまで中国の方々へ向けられていた「黄禍論」
 が、日本へも向けられ、世界に流れて行った。その先に
 は、悲しい第二次世界大戦への影があった・・、
1905年、日本とアメリカは、朝鮮の支配とフィリピンの
 支配について、相互承認の覚書を交わした。→0年
1905年、日本とイギリスは、日英同盟を更新した。その折
 に、イギリスは、日本の朝鮮支配を承認した。また、そ
 の代わりに、日本へインド防衛の同盟義務を負わせた。
1906年、サンフランシスコの教育委員会が、日本人の学童
 を公立の小学校から隔離(かくり)する事を決定した。
 『日本人学童は東洋人学校に通わせよ』という決議を採
 択したのだ。この問題を契機にして、日本とアメリカの
 間に戦争が起きるという『開戦説』が燃え上がった。新
 聞は、日露戦争の後に除隊した日本の兵士が大挙してア
 メリカの太平洋側に押し寄せて来ることは確実だ、など
 と書きたてた。アメリカ首脳陣の中にも、この様な危機
 感があった。ルーズベルト大統領の発言に「日本が中国
 を改造するのに成功すれば、白色人種に関する限り、世
 界の勢力均衡に大変動をきたすはずだ」と言った。つま
 り、日本の支配の下に中国の資源と中国人のマンパワー
 で白人世界が確実に挑戦を受けるという考えが沸き起こ
 った。発展する日本と中国との連合の恐怖が、西洋の歴
 史によくある人種間の対立のイメージとなった。→0年
1906年、日本人の移民の真実は、日本人移民などわずか
 で、たかがしれた人数だった。その真実は、1日に3000
 人の割合で、アメリカに上陸してくるヨーロッパ系白人
 の移民だった。しかし、その脅威が日本へ向けられたの
 だった。→1年
1907年、日本とロシアの間で、日露協商が成立した。これ
 によって、日本の朝鮮半島と南満州の勢力範囲が合意さ
 れ、また、ロシアの外モンゴルと北満州の勢力範囲が合
 意された。これで、南下するロシアとの摩擦は一段落し
 た。→1年
1908年3月、アメリカの大西洋の大艦隊が太平洋に回航し、
 日本へ来た。これは対日の威嚇行動であった。日本の2
 倍の艦隊規模だった。日本は驚愕した。日露戦争の日本
 の勝利に、アメリカだけでなく、カナダやオーストラリ
 アも排日の共同戦線を張った。強い日本が、逆に、脅威
 に変わったのである。特に、アメリカは興奮し、日本を
 仮想敵国扱いにした。世界にはいつの間にか日米戦争の
 熱が広がっていた。その日本への威圧行動だった。日本
 は、日露戦争の疲労困憊の時期、何かをする様な余力な
 ど無い状態だったのに。→2年
1910年、日韓併合。→1年
1911年、日本とイギリスの同盟関係の条約である日英同盟
 が更新された。→1年
1912年、アメリカが、パルミラ島を新領土の植民地として
 手に入れた。→0年
1912年、内村鑑三の愛娘(まなむすめ)ルツ子が亡くなる。
 18歳。病名不明。これによって、鑑三が、再臨信仰にな
 る。終末の時、真のキリストが顕(あらわ)れるという
 信仰。愛娘の死とともに、第一次世界大戦にキリスト教
 国のアメリカが参戦に踏み切ったことに対する絶望があ
 った。鑑三には、現実の地上での希望が絶望し行き詰っ
 た。自分の力で何とかなると思うのは間違いだったと思
 い、また、何とかなると思うのは愚(おろ)かだったと
 いう考えだ。後に、鑑三は、この考えは、『再臨待望者』
 や『再臨狂』を生むことになりかねないと言った。→1年
1913年、アメリカが、『外国人土地法』によって、日本人
 の移民は土地を所有してはならないとした。日本人移民
 の土地所有権を剥奪した。これは、日本人を狙い撃つ立
 法だった。日本人移民1世は、既に、アメリカ市民権を
 取得できないとの差別を受けていた。がさらに、この法
 律は、土地所有権も奪われるという非人道的な法律だっ
 た。勿論、ヨーロッパ系移民には適用されないという不
 平等なものだった。アメリカ大統領は、ウィルソン大統
 領だった。日本政府は強硬な抗議をした。しかし、日本
 は、戦争を予定しているのでは無いかと言われ、アメリ
 カは、さながら開戦前夜の様な対応の仕方をし、緊張し
 た空気に包まれて行った。海軍作戦部長のブラッド・リ
 ーフィスク少将は、日本がこの法律を絶好の開戦理由と
 して、フィリピンとハワイを奇襲するといい、対日戦争
 は十分に起こる事と言った。そして、軍艦を派遣すべき
 だと言った。この日米危機は最終的には回避されたが・
 ・、日本の人種差別に対する正義の抗議に対し、この様
 な対応がなされるという状況だった。→1年
1914年6月28日、オーストリアの皇太子がサラエボで暗
 殺された。これをきっかけに、7月28日に宣戦布告がな
 され、戦争に参戦する国々が増え、第一次世界大戦へと
 なった。日本は日英同盟の関係から8月15日に最後通牒
 をドイツに勧告し、8月23日に宣戦を布告した。→3年
1917年、ロシア革命が起きる。→1年
1918年11月11日、第一次世界大戦が終戦した。休戦協定
 が結ばれた。→1年
1919年1月18日~、パリ講和会議が開かれた。この会議に
 おいて日本は、人種平等に関する提案を行った。この提
 案の背景には、度重なるアメリカの人種差別・偏見があ
 るからだった。また、この時の日本の視点は、いち日本
 人移民に止(とど)まるものではなかった。有色人種に
 対する差別と闘(たたか)っていた。レジナルド・カー
 ニーは書く(その概要):世界の秩序を取り戻そうとの
 パリ講和会議。この会議で、世界は、日本とアメリカの
 発言に耳を傾ける姿勢になっていた。アメリカ大統領の
 ウィルソンは、パリに乗り込んで14の提案を行った。
 日本は、そのウィルソン大統領が提案できなかった15番
 目の提案を行った。それは『人種平等』の提案だった。
 日本とアメリカの差は、この人種平等の提案ができるか、
 出来ないかの差だった(アメリカで差別を受けていた黒
 人の方々は、日本に人種差別と偏見をなくすように尽力
 してほしいという嘆願書を提出してる状況でもあった。
 国際連盟でなく日本へ提出していた)。日本は、世界で
 最も輝かしい、有色人種の国家の世界の列強入りが熱望
 されていた。全米黒人新聞教会は、次のようなコメント
 をした、「われわれ黒人は、次の会議の席上で、人種問
 題について激しい議論を戦わせている日本に、最大の敬
 意を払うものである」「全米1200万の黒人が息をのん
 で、会議のなり行きを見守っている」と。会議の採決で、
 日本の人種差別撤廃の提案は、賛成17、反対11で採択
 された。しかし、委員長を務めていたアメリカのウィル
 ソン代大統領は、「かような重要案件は、全会一致でな
 ければいけない」と言って、採決をひっくり返してしま
 った。そして、不採決宣言を行ってしまった。この会議
 の様子は、如実に、アメリカに生活する黒人の方々の姿、
 迫害・偏見・差別を映し出していた。→5年
1924年、アメリカで『排日移民法』が成立した。この法律
 で日本人は、アメリカへ渡航できなくなったが、この時
 まで、アメリカへ移民できた日本人は、20世紀初頭から、
 同じ時期に、アメリカへ渡ったヨーロッパ人の人数の1ヶ
 月分にもおよばないという僅かな数だった。日本人は、
 2世の方々を入れても、アメリカの総人口の0.1%という
 僅かな人数だった。しかし、アメリカの排日論者たちは、
 日本人が、大群となってやって来たと騒ぎ、西海岸を支
 配し、白人を追い出すと叫んだ。新聞は、センセーショ
 ナルな日本叩きを行った。アメリカ議会の上院では、新
 聞社主のマクラーチーが、日本からの移民を禁止しない
 と、アメリカは、日本のある一つの州にされてしまうと、
 大げさな、偏向演説をした。また、日系人の「倹約と努
 力」が批判された。キリスト教に偏するNHKが「頑張
 るな」のキリスト教との鎌田實氏を常に使ってキャンペ
 ーン放送をし続けたが、このアメリカの嫌悪簿反応と同
 じ行為をした。→5年
1929年、バチカンとイタリアの間にラテラーノ協定が締
 結され、バチカン市国となった。→4年
1933年、第32代大統領フランクリン・ルーズベルト(在
 任期間1933年~1945年)は、日本人が凶暴なのは頭蓋
 骨の形が違うからと本気で信じていた。→1年
1934年、日本が「アジアの平和に責任を負おう」という
 考えを、外務省情報部長の天羽英二(あもうえいじ)氏
 が言う。当時、イギリス海軍が中南米を防衛するという
 事をしていた。日本は世界の5つの大きな大国の一つに
 なっていた。「アジアのモンロー宣言」と呼ばれた。
 →4年
..
 (詳しくは、以下のブログへ)
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2014年11月2日日曜日

気になった事柄を集めた年表 [4]:(2014・11・2 改訂)

 題:気になった事柄を集めた年表 [4]:(2014・11・2 改訂)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1900年、ロシアが、中国(清)で発生した義和団の乱の
 混乱収拾という名目で満州へ侵攻した。ロシアは、満州
 を植民地化することを既定事実化しようとした。日英米
 の抗議によりロシアは撤兵を約束した。しかし、約束を
 守らず、逆に兵を増やした。そして、朝鮮半島への影響
 力をロシアは増していた。利権を手掛かりにした。鉱山
 採掘権や森林伐採権や関税権の国家基盤の権利などを取
 得し影響力を増した。日本は、これらを買い戻して回復
 させた。そして、日本は、外交的に衝突を避けようとし
 たが、ロシアは、軍事力で日本への圧力を増していった。
 中国への外国勢力の進出に対する中国の反発。13カ国が
 出兵した。日本も出兵した。ロシアとドイツは、日本の
 3~4倍の賠償金を要求し、取った。ロシアは、兵を撤兵
 させず、朝鮮国境に砲台を建設したり、シベリア鉄道の
 軍の輸送を開始した。脅威が増した。→1年
1901年、第26代大統領セオドア・ルーズベルト(在任期
 間1901年~1909年)は、アメリカインディアンの事実
 上の絶滅を指示すると公言した。→1年
1902年、日英同盟。ロシアの南下に自国の権益を守りたい
 という英国は日本と同盟した。英国はボーア戦争で国力
 が弱ってもいたため。→2年
1904年2月8日、日露戦争が開戦した。日本のキリスト教
 は、戦争に協力するとした。そして、これをきっかけに、
 キリスト教は、国家体制への癒着(ゆちゃく)を強めて
 行った。→0年
1904年、アメリカが、陸海軍の統合会議で『世界戦略の研
 究をする』ということを決めた。様々な戦争のシュミレ
 ーションがなされた。この中の対日戦略と対独戦略が仮
 想敵国の意識の中に長く残って行く。日本海軍はどのよ
 うに動くかなど、日本がフィリピンや南洋諸島を進攻す
 ることは算定されていた。毎年、研究が積み重ねられた。
 この計画と全く同じに大東亜戦争(太平洋戦争)の時に、
 アメリカは反抗作戦を実施した。→1年
1905年9月5日、日露戦争が終結した。この日に、ポーツ
 マス条約により講和した。「坂の上の雲」を歌われた
 森麻季さんの歌をお聞きください。
https://www.youtube.com/watch?v=3yoROVD-3KQ&index=3&list=RDnC9-40wKDfM
 また、この歌にコメントしたjungoroさんの言葉:この
 音楽を聴くと先人たちの血を吐くような苦労を思い浮か
 べ落涙してしまう。将に西欧に飲み込まれんとしていた
 日本を滅亡の際から救った方々。それほどの事業にも関
 わらず現在の学校では日清・日露戦争は国費を浪費した
 だけの戦争としか教えられない。国を滅亡≒植民地化か
 ら救った日本史史上最大の出来事にも拘らず!あの世へ
 行ってから偉大な先祖たちに合わせる顔がない。なぜだ
 ろう。この曲がそうした先人たちの思いを表している、
 と思うのは考えすぎであろうか。
1905年9月5日、日露戦争の日本の勝利は、朝鮮のロシア
 化から守った。また、アジアの植民地の方々へ勇気を与
 えた。例えば、インドのガンジーやネルーは、心が揺さ
 ぶられたとの話を吐露している。また、日本に好意を感
 じていたインドネシアの方々は、巨大なロシアのバルチ
 ック艦隊が、狭い海峡を通って行く姿を見て、立ち上が
 って来た日本の終焉を予測し、涙を流して見たそうであ
 る。が、しかし、その後の結果に沸き立ったという。ア
 メリカの黒人の方々も勇気づけられたという。そして、
 考えるきっかけを作ってくれたという。ある公民権運動
 家は、日本が白人優位の人種偏見神話を崩してくれたと、
 全米を演説してまわった。しかし、逆に、白人社会へは
 衝撃とパニックを与えていた。これが深刻な問題につな
 がって行った。その一つが、アメリカの排日運動である。
 また、それまで中国の方々へ向けられていた「黄禍論」
 が、日本へも向けられ、世界に流れて行った。その先に
 は、悲しい第二次世界大戦への影があった・・、
1905年、日本とアメリカは、朝鮮の支配とフィリピンの
 支配について、相互承認の覚書を交わした。→0年
1905年、日本とイギリスは、日英同盟を更新した。その折
 に、イギリスは、日本の朝鮮支配を承認した。また、そ
 の代わりに、日本へインド防衛の同盟義務を負わせた。
1906年、サンフランシスコの教育委員会が、日本人の学童
 を公立の小学校から隔離(かくり)する事を決定した。
 『日本人学童は東洋人学校に通わせよ』という決議を採
 択したのだ。この問題を契機にして、日本とアメリカの
 間に戦争が起きるという『開戦説』が燃え上がった。新
 聞は、日露戦争の後に除隊した日本の兵士が大挙してア
 メリカの太平洋側に押し寄せて来ることは確実だ、など
 と書きたてた。アメリカ首脳陣の中にも、この様な危機
 感があった。ルーズベルト大統領の発言に「日本が中国
 を改造するのに成功すれば、白色人種に関する限り、世
 界の勢力均衡に大変動をきたすはずだ」と言った。つま
 り、日本の支配の下に中国の資源と中国人のマンパワー
 で白人世界が確実に挑戦を受けるという考えが沸き起こ
 った。発展する日本と中国との連合の恐怖が、西洋の歴
 史によくある人種間の対立のイメージとなった。→0年
1906年、日本人の移民の真実は、日本人移民などわずか
 で、たかがしれた人数だった。その真実は、1日に3000
 人の割合で、アメリカに上陸してくるヨーロッパ系白人
 の移民だった。しかし、その脅威が日本へ向けられたの
 だった。→1年
1907年、日本とロシアの間で、日露協商が成立した。これ
 によって、日本の朝鮮半島と南満州の勢力範囲が合意さ
 れ、また、ロシアの外モンゴルと北満州の勢力範囲が合
 意された。これで、南下するロシアとの摩擦は一段落し
 た。→1年
1908年3月、アメリカの大西洋の大艦隊が太平洋に回航し、
 日本へ来た。これは対日の威嚇行動であった。日本の2
 倍の艦隊規模だった。日本は驚愕した。日露戦争の日本
 の勝利に、アメリカだけでなく、カナダやオーストラリ
 アも排日の共同戦線を張った。強い日本が、逆に、脅威
 に変わったのである。特に、アメリカは興奮し、日本を
 仮想敵国扱いにした。世界にはいつの間にか日米戦争の
 熱が広がっていた。その日本への威圧行動だった。日本
 は、日露戦争の疲労困憊の時期、何かをする様な余力な
 ど無い状態だったのに。→2年
1910年、日韓併合。→1年
1911年、日本とイギリスの同盟関係の条約である日英同盟
 が更新された。→1年
1912年、アメリカが、パルミラ島を新領土の植民地として
 手に入れた。→0年
1912年、内村鑑三の愛娘(まなむすめ)ルツ子が亡くなる。
 18歳。病名不明。これによって、鑑三が、再臨信仰にな
 る。終末の時、真のキリストが顕(あらわ)れるという
 信仰。愛娘の死とともに、第一次世界大戦にキリスト教
 国のアメリカが参戦に踏み切ったことに対する絶望があ
 った。鑑三には、現実の地上での希望が絶望し行き詰っ
 た。自分の力で何とかなると思うのは間違いだったと思
 い、また、何とかなると思うのは愚(おろ)かだったと
 いう考えだ。後に、鑑三は、この考えは、『再臨待望者』
 や『再臨狂』を生むことになりかねないと言った。→1年
1913年、アメリカが、『外国人土地法』によって、日本人
 の移民は土地を所有してはならないとした。日本人移民
 の土地所有権を剥奪した。→4年
1917年、ロシア革命が起きる。→7年
1924年、アメリカで『排日移民法』が成立した。この法律
 で日本人は、アメリカへ渡航できなくなったが、この時
 まで、アメリカへ移民できた日本人は、20世紀初頭から、
 同じ時期に、アメリカへ渡ったヨーロッパ人の人数の1ヶ
 月分にもおよばないという僅かな数だった。日本人は、
 2世の方々を入れても、アメリカの総人口の0.1%という
 僅かな人数だった。しかし、アメリカの排日論者たちは、
 日本人が、大群となってやって来たと騒ぎ、西海岸を支
 配し、白人を追い出すと叫んだ。新聞は、センセーショ
 ナルな日本叩きを行った。アメリカ議会の上院では、新
 聞社主のマクラーチーが、日本からの移民を禁止しない
 と、アメリカは、日本のある一つの州にされてしまうと、
 大げさな、偏向演説をした。→5年
1929年、バチカンとイタリアの間にラテラーノ協定が締
 結され、バチカン市国となった。→4年
1933年、第32代大統領フランクリン・ルーズベルト(在
 任期間1933年~1945年)は、日本人が凶暴なのは頭蓋
 骨の形が違うからと本気で信じていた。→1年
1934年、日本が「アジアの平和に責任を負おう」という
 考えを、外務省情報部長の天羽英二(あもうえいじ)氏
 が言う。当時、イギリス海軍が中南米を防衛するという
 事をしていた。日本は世界の5つの大きな大国の一つに
 なっていた。「アジアのモンロー宣言」と呼ばれた。
 →4年
1938年、アメリカで蛍光灯が実用化した。→1年
1939年、ナスカの地上絵をアメリカ人考古学者が発見し
 た。地上絵は、ペルー南部のナスカ大地にある。→0年
1939年9月1日、ドイツ軍がポーランドへ侵攻し、第二次
 世界大戦がはじまる。→2年
1941年8月9日~8月14日、アメリカのルーズベルト大統
 領とイギリスのチャーチル首相が、海に浮かぶ戦艦上で
 会談した。アメリカの参戦への要請と、対日戦争の協議
 が主な議題だった。ルーズベルトは、アメリカの国民世
 論が戦争反対であったため、国民へはイギリスと何も約
 束はしていないと言った。しかし、1942年1月27日に、
 チャーチルは、イギリス下院の演説で、会談内容を暴露
 した。ルーズベルトの嘘が、アメリカ国民の知るところ
 となった。日本の近衛文麿首相が、開戦の危機打開に努
 力していたが、会談がうまく行くはずもなかった。ヨー
 ロッパ戦線でイギリスはドイツに負けそうになっていた
 ので、ルーズベルトは参戦したいと考えていた。→0年
1941年12月8日、日本が、アメリカのハワイ真珠湾を攻撃
 して大東亜戦争(太平洋戦争)がはじまったと言われて
 いるが、実際は、アメリカの軍艦が、日本の先行してい
 た潜水艦へ、機雷攻撃をして、すでに戦端は開かれいた。
 また、このアメリカ軍艦は、この交戦事実をアメリカ司
 令部へ送信し、知らせている。日本の真珠湾攻撃は、こ
 の様な確定した事実により奇襲ではなく、すでにアメリ
 カの知るところの交戦中にあった。アメリカは国民の世
 論操作目的から、日本の奇襲をデッチアゲたかった。
 →4年
1945年8月15日、大東亜戦争(太平洋戦争)が終わる。
1945年8月30日、アメリカの最高司令官のマッカーサーが、
 神奈川県厚木の日本海軍飛行場に来た。マッカーサーは、
 靖国神社を焼き払えと言った、また、すべての神社も焼
 き払えと言った。そして、アメリカ占領軍は、日本へ慰
 安所を作れと命令した。→0年
1945年9月27日、昭和天皇とアメリカの最高司令官のマッ
 カーサーの会談が行なわれた。昭和天皇が、敗戦国の国
 家元首として、マッカーサーの滞在するアメリカ大使館
 へ出向き、会談が行なわれた。当時、戦勝国は、天皇を
 「戦犯リスト」の筆頭にしていた。しかし、マッカーサ
 ーは、天皇をもし処刑した場合の方向に進む時の不安定
 な占領統治になることなどの危惧もしていた。マッカー
 サーは、会談で「天皇が、敗戦国の君主がそうするよう
 に、戦争犯罪者として起訴されないよう訴えるのではな
 いか」と思っていた。しかし、昭和天皇は、命乞いをす
 るどころか、「戦争の全責任は私にある。私は死刑も覚
 悟しており、私の命のすべてを司令部に委ねる。どうか
 国民が生活に困らぬよう連合国にお願いしたい」と述べ
 たと語っている。マッカーサーは、天皇が自らに帰すべ
 きではない責任をも引き受けようとする勇気と誠実な態
 度に「骨の髄まで」感動し、「日本の最上の紳士」であ
 ると敬服した。マッカーサーは玄関まで出ないつもりだ
 ったが、会談が終わった時には昭和天皇を車まで見送り、
 慌てて戻ったといわれる。後にも「あんな誠実な人間は
 見たことがない」と発言している。→3年
1948年、イスラエルが建国される。新イスラエル国家誕
 生まで流浪の民となっていた。→3年
1951年7月、大東亜戦争(第二次世界大戦)の終戦を知ら
 ぬまま、南海の孤島「アナタハン島」(サイパン島の北、
 北マリアナ諸島)に取り残されていた日本兵の20人が発
 見され、帰国した。この日本兵の一部の人の妻が、日本
 兵の夫が戦死したものと思い、夫の兄弟などと再婚して
 いたなどの悲劇も起きた。この妻の一人が、読売新聞の
 人生案内に相談した。相談を受けた方は羽田空港まで帰
 還兵を出迎え、帰還した夫に「過去を一切水に流して奥
 さんを大切にしてあげて下さい」と励ました。当時の混
 乱した世相について、当時の識者は「日本人女性を連れ
 た米兵への反感」などを述べている。多くの日本女性が、
 無責任な米兵の行為に泣いていた。米兵との間に生まれ、
 孤児となった子供たちを育てる施設なども出来た。それ
 までと違って日本の男女のモラルは大きく破壊されてい
 た。→2年
1953年、GHQ(日本占領軍)最高司令官のマッカーサー
 が、日本をキリスト教化したいと、国際基督教大学を、
 この年に開学する。キリスト教長老派。→20年
1973年4月1日、アメリカ軍のベトナム全面撤退。→3年
1976年、教皇パウルス6世は、サン・ピエトロ大聖堂の墓
 で、ペトロの墓を発見したと発表した。→10年
1986年4月15日、リビア爆撃が行なわれる。→2年
1988年、第二次世界大戦の頃、日本人を『JAP』と呼び、
 帰化不能外国人としたり、土地所有が出来なくしたり、
 「裏から忍び寄るJAPの広告」をしたりの、ひどい人種
 偏見があったことをアメリカは認めた。→1年
1989年、日本の赤崎勇氏と天野浩氏が、青色LEDを開発
 した。LED照明が実現した。照明の大革命。→14年
2003年、核放棄あり得る。アフリカの地・リビアの革命
 指導者カダフィ。2011年に発生したリビア内戦によっ
 て、その独裁政権は崩壊し、反カダフィ派の部隊によっ
 てカダフィは殺害されたが、そのカダフィが、1986年
 4月15日に、アメリカ軍およびイギリス軍によって攻撃
 された。その背景だと言われている事は、テログループ
 支援、複数の空港爆破事件の背後にいる、西ベルリンの
 爆破事件などと言われている。この時、レーザー誘導
 爆弾が使われ、ピンポイント攻撃がなされた。カダフィ
 は不在だったが、カダフィは子供が亡くなったと主張し
 た(カダフィの死後、生存が確認された)。カダフィは、
 2003年に核放棄宣言し、査察団の受け入れもしている。
 →11年
2014年10月24日、この日の読売新聞によると、キリスト
 教の神父が少なくなったという理由で、キリスト教イエ
 ズス会系(カトリック)の上智大学などを運営する「上
 智学院」は、運営する学校を合併するための協議に入っ
 たと発表した。
今・2014年
..
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