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2015年2月21日土曜日

(増補版)24A:気になった事柄を集めた年表(894年~938年)

 題:(増補版)24A:気になった事柄を集めた年表(894年~938年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
894年、この頃、竹取物語が出来た。
  日本風の文化(国風文化)が起こった。
  因みに、紫式部の本名は不明であるが、『御堂関白記』
 の寛弘4年(1007年2月)の条において掌侍になったと
 される記事のあるが、この「藤原香子(かおりこ/たかこ
 /こうし)とする説がある。
  この説が発表されるとセンセーショナルな話題を呼ん
 だ。
897年、醍醐天皇(在位、897年~930年)
899年、菅原道真は、この年、醍醐天皇の時、右大臣にな
 った。この時、藤原時平は左大臣になった。
  学界出身の道真には異例の出世だった。
900年、メッカ:アラビア半島ヒジャーズ地方の都市。
  カーバ神殿のあるイスラムの聖地で、全世界から巡礼
 者を集めている。
  予言者・ムハンマド(マホメット、570年頃~632年)
 生誕の頃は、遠隔地通商によって栄え、クライシュ族(
 ムハンマドの出身部族)の大商人階級が支配する町であ
 った。
  メッカで伝道を始めたマホメットは、迫害を受けて、
 メディナに移住した(622年)。
  しかし後に、メッカはモハメットに降伏し、以後はメ
 ディナとともにイスラム教の2聖都として、イスラム世
 界の宗教と学問の中心となる。
  因みに、メッカの気温は、最高50℃で、平均の最低気
 温でも20℃を下回るのはほとんどない。
  年平均の最高気温記録49.8℃、年の平均気温30.7℃、
 年の平均最低気温24.6℃。
900年、ウマイヤ朝:アッパース朝の歴代カリフに保護さ
 れ、10世紀頃以降は、エジプトを支配した王朝の保護下
 に置かれることが多かった。
  20世紀に入って、メッカはサウジアラビア王国に属し、
 同王国の守護を受けている。
900年、中国の製紙法が、10世紀の初めにエジプトに伝わ
 った。
  そして、フランスに12世紀に伝わり、13世紀にイタリ
 ア、15世紀にイギリスという様にヨーロッパ中に広まっ
 た。
900年、マヤ文明:900年以降、トルテカ=マヤ文明がユ
 カタン半島北部に発展したが、都市間の抗争は絶えなか
 った。カカオ豆や塩などの公益で繁栄したが・・。
901年、菅原道真が左遷される。道真事件。
  藤原氏北家の台頭。醍醐天皇。藤原時平。
  菅原道真は、代々学者の家柄に生まれ、文章(もんじ
 ょう)博士となり、また、道真は学者で政治にも進出し、
 899年、醍醐天皇の時、右大臣にもなった。
  これをねたんだ藤原時平らは、天皇を廃してその娘婿・
 斎世(ときよ)親王を立てようと(陰謀)していると上
 奏(天皇に意見や事情を申し上げる事)した。
  その結果、道真は、大宰府の権師(大宰権師)に左遷
 される。
  九州に下る折り、庭の梅に「東風(こち)吹かば、匂
 ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」と詠っ
 た。
  道真は、903年、配所で死んだが、時平も909年病死し、
 皇室にも不幸が多かったため、道真の怨霊を恐れ、天満
 大自在天神として北野社に祀られ、北野天神として崇め
 るようになった。
  この事件は、宇多天皇が基経の死後、道真を抜擢して
 藤原時平に対抗させ、藤原氏の勢力を抑えようとしたこ
 とにある。
902年、初めて荘園整理の令を下した(荘園整理令)。
  諸臣の山川占有を禁止した。
  (未開の山野を不法に占拠する事の禁止)
  この延喜の荘園整理令を最後に、班田は廃絶した。
903年、菅原道真が没した(845年~903年)
905年、古今和歌集を作り始めた。
  紀貫之ら、勅撰集の初め。
905年、全国に荘園が広まった。
907年、唐が滅亡した。
  また、唐と冊封関係にあった渤海や新羅など周辺諸国
 も一斉に滅亡した。
  朱全忠(節度使)によって滅ぼされた。
  朱全忠は、皇帝だと称した(後梁太祖、これより五代)
908年、藤原師輔(もろすけ、908年~960年)が生まれた。
914年、三善清行(きよゆき)が、朝廷の求めに応じて、
 醍醐天皇に意見封事12カ条を上奏(提出)した。
  政治意見書である。
  偽籍が横行していた。
  また、浮浪や逃亡になった持ち主不在の土地が、有力
 者の荘園と化し、中央への租税納付へつながってなかった。
  このため、班田収授も行われなくなった。
918年、両班(やんばん):朝鮮の高麗・李朝時代にお
 ける特権的な官僚支配身分。科挙によりなったが・・。
  本来は文班と武班、すなわち文武の官僚を意味するが、
 次第に血縁的な身分として固定化され、租税の免除など
 特権を与えられた。
  経済的には地主として権力をふるっており、官吏採用
 試験である科挙は常民にも開かれていたが、実際には財
 産と時間に余裕のある彼らにしか受験の機会はなかった。
  日常生活でも一般の常民とは異なる格式を重視した。
  1894年の改革で、制度上は特権廃止された。
918年、高麗:この年に、王建が創始した。936年に、朝鮮
 半島を統一し、1392年まで続いた朝鮮の王朝。
  開城を都とする。
  新羅末期に台頭した各地の豪族を支配下に治め、科挙
 制度を実施して中央集権的な官僚国家を目指した。
  仏教を奨励し、陶磁器や印刷などでも優れた文化を発
 展させた。
  朝鮮半島では、8世紀から9世紀にかけて、王位継承な
 どが原因で戦争が起き、地方の有力な豪族たちは新羅を
 分裂させていた。
  そして、892年には後百済が建国されたり、901年には
 後高句麗(のちに泰封と改称)が建国したりしていた。
920年、渤海使が入貢した。(渤海使の終わり)
927年、延喜格式の撰上(藤原忠平など)。
  (注)撰上は、「書物を編集して天皇に奉(たてまつ)
 ったという意味。
  また、格式というのは、律令の補助法令のこと。
  今までの律令の施行細則を取捨し、集大成したもの。
 50巻。905年に醍醐天皇の勅によって藤原時平や忠平ら
 が編集し、927年に成立した。そして、967年に施行した。
  38か国からの鹿の皮・角・肉などをはじめ、イノシシ・
 鴨・鹿・熊・カワウソ・アシカ・狸などの野獣体、各種
 魚類・鳥類、牧畜品の牛・馬皮などの貢納物を記載され
 ている。
930年、朱雀天皇(在位 930年~945年)
930年、藤原忠平(摂政・関白、在位930年~945年)
930年、アイスランド:930年に全国集会の制度を始めた。
  これは、やがてヨーロッパ各地に成立する議会の先駆
 となった。
931年、宇多天皇が崩御した(867年~931年)
931年、倭名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)が編纂さ
 れた。これは辞書である。
  醍醐天皇の第5皇女の勤子内親王(きんしないしんのう/
 いそこないしんのう)の求めに応じて源順(みなもとの
 したごう)が編纂(へんさん)した。
  今日の国語辞典のほか、漢和辞典や百科事典の要素が
 含まれている。
  当時の社会・風俗・制度などを知る史料として重要な
 書物とされている。
  例1:動物を羽族・毛族・牛馬・竜魚・亀貝・虫豸の
 6部に分け、350近くの日本語動物名をあげている。
  例2:「屠児」を「餌取(えとり)」と訓じる。
935年、承平・天慶の乱(じょうへいてんぎょうのらん)
 が始まった(~941年)。
  関東での平将門の乱(たいらのまさかどのらん)と、
 瀬戸内海での藤原純友の乱(ふじわらのすみとものらん)
 の総称。
  平将門の乱は、親族間の争いの勝利して勢力を拡大し
 た平将門は、やがて地方の富豪層間の争いの調停などに
 介入し、これがこじれて争いが拡大し、結果的に、朝廷
 への反乱のような状態に至った。
  平将門は、2か月後に滅ぼされた。
  また、瀬戸内海で海賊の鎮圧をしていた藤原純友は、
 同じ目的で任官してきた勢力と対立し、
  結果的に、藤原純友が蜂起した形に至った。
  平将門の乱を収拾してから、この西国に軍事力を集中
 させた朝廷軍に滅ぼされた。
  武士政権に至る経過の中にある。
935年11月、新羅が滅亡した。
  朝鮮半島では、高麗と後百済との争いが続いていた。
  935年に、後百済の王が、四男に王位を継がせようと
 した。すると、後百済の第2代の王だった長男が、反乱
 を起こした。
  長男は、四男を捕らえ監禁し、王位を奪った。
  その様な中、935年6月に、四男は後百済から逃げ出し、
 高麗に亡命した。
  高麗の王は、四男を国賓として迎えた。
  また、この様な中、新羅の王が、君臣と共に高麗に帰
 順し、新羅は無くなった(滅亡した)。
  その後、936年に、高麗は、後百済を滅亡させ、朝鮮
 半島は高麗によって統一された。
936年、高麗が朝鮮半島を統一した。
938年、空也が念仏宗を始めた。
10世紀、この平安時代の前半の頃、日本の文化は成熟した。
  いわゆる国風文化である。
  10世紀から11世紀が中心とする文化の時代。詩歌・物
 語・日記・随筆・百科事典など
..
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2015年2月19日木曜日

(増補版)23A:気になった事柄を集めた年表(832年~894年)

 題:(増補版)23A:気になった事柄を集めた年表(832年~894年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
835年、空海が没した(774年~835年)
836年、藤原基経が生まれた(836年~891年)
836年、この年、慈覚大師円仁が東国巡教の祈りに清澄寺
 を訪れ、不動の像と12僧坊を造って中興したという。
  このため、この清澄寺は、慈覚大師の流れを汲む天台
 密教(台密)の寺院であった。
  そして、鎌倉時代には北条政子より宝塔や経蔵の寄進
 を受けるなど、隆盛を極めていた。
840年、淳和天皇が崩御した(786年~840年)
842年、嵯峨天皇が崩御した(786年~842年)
842年、承和の変が起きた。
  政争と藤原氏北家の台頭。藤原氏による他氏の排斥事
 件。仁明天皇。藤原良房。
842年、橘逸勢が、承和の変で本姓を剥奪され、「非人」
 の姓を与えられて、伊豆に流される。
842年、京都の内に、人を埋葬することは禁止されていた。
  人々は、京の町以外に埋葬地を求めなければならなか
 った。
  この年、左右京職が、悲田院に命じて鴨河原の人骨を
 焼かせて埋葬したという。埋葬地に困っていた民衆を助
 けた。その数が5500余だったという。
843年8月、ヴェルダン条約によりフランク王国三分割して
 相続された。
  カール1世(カール大帝)には、長男・ロタールと、
 次男・ピピンと三男・ルートヴィッヒの3人の息子がい
 たが、第2妃にカールという男子が生まれた。
  すると、領土分割の問題が起こった。
  この息子たちに領土争奪の争いが起こった。
  当時、領地は分割相続により継承されるとされていた
 (因みに、この分割相続の考え方は、ゲルマン民族から
 引き継いだ相続分割の原理)。
  第2妃の子・カールに渡せば、取り分が減るという問題
 である。
  キリスト教の聖職者たちは、ゴマをすって、3兄弟の
 方に付いた。
  3兄弟が反乱を企てた時も、キリスト教聖職者たちは、
 これを正当だとした。
  完全にキリスト教聖職者の政治への口出しであった。
  政教分離がなされてなかった。
  どろどろした卑劣な争いが続いた。
  後を継いだとされたピピンが死ぬと、余計、争いは激
 化した。
  841年にはフォントノワの戦いなどが起き、この兄弟
 の親族同士の争いで長男・ロタールは敗れた。
  王国のすべてを領有しようとしたロワールの野望は、
 崩れ去った。
  色々な事が起こったが、843年、この条約によって、
 ロタールは中部フランクとイタリア北部を、ルートヴィ
 ッヒは東フランク王国(後にルイ2世を名乗る)、カール
 は西フランク王国となった。
  これが、現在のドイツ・フランス・イタリアの原型。
  この様に、日本より、国の成り立ちの歴史は、全然、
 浅いのである。高々、1100年強の歴史しかないのである。
  因みに、日本は2600年を超えている。
845年、菅原道真が生まれた(845年~903年)
845年、山城国のニ郡で虻(あぶ)の大量発生した。
  牛や馬の被害が大きく、政府は牛の治療方法を民へ配
 り、祈祷した。
845年、ノルマン人が、東西フランクに侵入した、・・と
 歴史書に記されるが・・、
  ノルマン人とは、バイキング(海賊)のことである。
  襲われて、富を奪われる農民は貧しかった。
  ヨーロッパの土地は痩せていた。
  麦の収穫量は、種籾の2倍しか獲(と)れなかった。
  これを収穫倍率というが、現在、日本では50倍を超え
 ている。
  如何にヨーロッパが酷い状態だったかが分かる。
  この様に、能率は非常に悪かった。
  その富が奪われるのである。
  農民は、パンを食べることは出来なかった。
  オートミールの様な、流動食を口にするだけだった。
  中央に権力を持つものは、農民を守らなかった。守れ
 なかった。
  農民を守ったのは、地方で城塞を築いている地方の権
 力者だった。
  農民たちも近くの城主を頼りにした。
  城の周りに住まいを移した。
  地方の群小城主たちは自立して行った。
  反比例的に中央の権力は低下した。
  その様な領土の状態の中で、911年に、東フランク王
 国(だいたいドイツ)が、982年には、西フランク王国
 (だいたいフランス)が滅亡した。
850年、仁明天皇が崩御した(にんみょうてんのう、810年
 ~850年)
850年、文徳天皇(もんとくてんのう、在位850年~858年、
 55代)
850年、アッパース朝:9世紀半ば以降は、次第に軍人の
 勢力が台頭した。
850年、この頃(8世紀前半~9世紀前半)、インドネシア
 のジャワ島に仏教遺跡のボロブドゥールが成った。1814
 年に発見された。
850年、チベット:9世紀半ばに吐蕃が滅んだ。ラマ教の諸
 宗派と結びついた諸侯が並び立つ乱世に入った。
858年、文徳天皇が崩御した(827年~858年)
858年、清和天皇(在位858年~875年)
858年、藤原良房(804年~872年、在位858年~872年)
 が摂政になった。摂関政治。
862年、カール1世のフランク王国のドロドロとした争いの
 後、ヴェルダン条約でやっと事が治まった様に見えたが、
 周りの公国の王や貴族たちには、実は、不満が一杯あっ
 た。
  ここにまた問題が発生した。
  当然の様に戦いが発生した。
  この時は、カール1世の息子たちは団結して、この不満
 分子に対抗した。
  そして、不満分子たちは逃亡して行く。
  フランク側の追撃にその数を減らしながらも、エルフ
 の人たちとも一緒になり、講和して、この年に、東ヨー
 ロッパ平原にノヴゴロド公国の成立を宣言した。
  この後、この公国は、キエフ公国を経て、ロシア王国
 として成立していく。978年にウラジミール1世が即位し
 た。(ロシア最初の公がルーリック、ロシアの起源=伝
 承)
864年、富士山が噴火した。
866年頃、紀貫之が生まれた(866年頃~945年頃)
866年、応天門の変。応天門が放火され、政治事件に発展
 した。
  古代からの名族だった伴氏(大伴氏)は没落した。
  他氏排斥事件。藤原氏北家の台頭。清和天皇。藤原良
 房。
867年、宇多天皇が生まれた(867年~931年)
867年、京都に常平を置いた(穀物価格の調整)
870年、メルセン条約(フランク王国の領土の再画定を定
 めた条約)により、東フランク王国(だいたいドイツ)、
 西フランク王国(だいたいフランス)、イタリア王国、
 法王領の領域がおぼ確定する。
872年、藤原良房が没した(804年~872年)
872年、藤原基経が摂政となる(在位872年~887年)
876年、陽成天皇(在位876年~884年)
880年、アイスランド:9世紀後半、ノルウェーの自由農民
 がバイキングとして植民定住した。
880年、クメール帝国(カンボジア):9世紀末に第1次ア
 ンコール・トムが建設されたのが大建築の序曲。
884年、藤原基経が関白となった(888年?)
884年、光孝天皇(在位884年~887年)
885年、醍醐天皇が生まれた(885年~930年)
887年、宇多天皇(在位887年~897年)
887年、阿衡の変。藤原氏北家の台頭。宇多天皇。藤原基経。
887年、宇多天皇が即位すると、藤原基経が関白となった
 (関白の初め、888年? 在位887年~891年)
891年、藤原基経が没した(836年~891年)
893年、初めて、滝口武士を置いた。
894年、遣唐使廃止。
  遣唐使船が計画され、菅原道真が任命されたが、道真
 は、唐が衰え、また、国内が乱れ、また、航海が困難で、
 途中の賊もあり、身を滅ぼす者もあることを理由に、中
 止を建議した。
  その結果、遣唐使派遣は中止された。
  この後、日本には、豊かな日本独自の国風文化が興隆
 して来る。
  これに対し朝鮮の場合、朝鮮における中国、それはた
 だの隣国という言葉では済ませない状況があった。
  海を隔てたところにある日本と、中国との関係とは違
 っていた。
  例えば、儒教。
  日本では、単なる思想の一つとしてあるが、
  朝鮮においては、思想をも越えて、儀礼を含め、しっ
 かり社会に浸透して行った。
  族外婚制度(同姓同士の間で結婚は許されない制度)
 など日本にない制度が朝鮮社会にはある。
  日本は、中国文化を自由に取捨選択できたが、
  朝鮮は、それが許されなかった。
  これは、今・現代におても、この傾向がある。
  良いにつけ、悪いにつけ、中国と朝鮮は肉薄している
 のである、肉薄せざるを得ないのである。
..
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2015年2月18日水曜日

(増補版)22A:気になった事柄を集めた年表(800年~832年)

 題:(増補版)22A:気になった事柄を集めた年表(800年~832年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
800年、バイキング:9世紀~11世紀、250年間、西ヨーロ
 ッパ沿海部に侵略したスカンディナヴィア、バルト海沿
 岸地域の海賊。ノルマン人。
  カール1世の侵略と拡大を繰り返す行為に対抗していた。
  また、キリスト教を掲げるカール1世に、宗教的対立だ
 と説く研究者もいる。
  キリスト教徒による不平等な通商・貿易面で苦しんで
 いた深刻な対立点もあった。
  また、土地が貧しく生産性は極めて低かったこと、食
 糧不足が生じたことなど。
  ヴァイキングの航海技術が卓抜だったため、他の民族
 は対抗できなかった
800年、シーア派:預言者モハメッドの従弟で、娘婿でも
 ある第4代正統カリフ=アリーの血統のみに、イスラム
 共同体の最高主権者の地位を認める派。
  今日のイスラム教徒の約1割を占める。
  歴史上、多くの分派を生じたが、現在、シーア派の主
 流をなすのは、イランの国教となっている12イマーム派
 である。
  基本的な宗教儀礼そのものは、多数派のスンニ派と大
 きく違わないが、シーア派独特の祝祭や哀悼の行事があ
 る。
  思想面では、9世紀に姿を消し、現在なお「隠れてい
 る」イマームが、いつの日か救世主として再臨し、地上
 を正義と公正で満たすという「隠れメシア」思想を特徴
 とする。
  このイマームの「隠れ」の間は、イスラム法の法学者
 が、信者を指導する。
  イラン・イスラム革命の指導者・ホメイニ氏が提起し
 た「法学者の統治」もこれを指している。
800年、トルコ民族:ウイグル(744年に統一に成功して
 遊牧国家をつくった部族)の9世紀の西走は、中央アジア
 のトルコ化(トルキスタンの名称)をもたらし、
  イスラム教徒との接触を深めて、トルコ人のイスラー
 ム化をもたらした。
  トルコ人は、各地で傭兵(軍人)となり、やがて政権
 を握るものが出た。
  中国5代王朝の中の3王朝、西アジアのガズニ朝、イン
 ドの奴隷王朝(マムルークを奴隷と訳したのであるが適
 切ではない、イスラム世界では奴隷を解放することは善
 行とされ、それ故、奴隷解放が盛んに行われ、解放され
 た奴隷は忠実な家来となった)。
  エジプトのマムルーク朝はその例である。
801年、坂上田村麻呂が蝦夷の地を平定した。
801年、畿内の班田を12年に1度行うことに改めた。
9世紀初め、桓武天皇が、この頃、徳政相論を行わせた。
  徳政相論(徳政:徳のある政治、相論:互いに論じる
 事)で蝦夷征討と平安京造営が中止になった。
  今・現在の国会で議員の方たちが討議している形。
  民主主義は、西洋ヨーロッパから日本は学んだとマイ
 ンド・コントロールされているが、民主主義は昔から日
 本に根付いていた。
  また、坂本龍馬の生まれ育った高知の地には、商人の
 方たちの組織に、民主主義の形態が、既に、あったこと
 は有名。
802年、クメール帝国(カンボジア):8世紀まで、他国に
 征服されたりして、勢いがなかった。
  802年に、ジャバルマン2世が即位し、国の中心がアン
 コール地域に移って後、クメール帝国が栄える様になり、
 その繁栄が13世紀初頭まで続いた。
804年、藤原良房(よしふさ、804年~872年)が生まれた。
804年、牛の屠殺を禁止した。
804年11月3日、空海と最澄が、遣唐使として中国へ派遣さ
 れた。
  この後の遣唐使派遣は間遠になるが、
  この時の大使は、藤原葛野麻呂(かどのまろ)だった。
  この時、4200キロの行程を強行軍で行き、12月21日
 に長安に到着した。
  驚異的な速度で走破した。
  その理由は、正月元旦に開かれる元会議礼に参加する
 ためだった。
  日本国朝貢使が、この唐の元会議礼に参加する事の意
 味は極めて大きかった。
  元旦に先立つ12月24日に、藤原大使は供物を託して皇
 帝に進上し、皇帝からの懇(ねんご)ろな挨拶を伝達さ
 れた。
  大使一行は、内殿で目通りを果たした。
  日本国の朝貢使に対する唐王朝の待遇は、かなりのも
 のだった。
  こうして正月元旦、大使一行は、元会議礼に首尾よく
 参加した。
  含元殿は、高さ数十メートルの龍首原上に位置し、数
 千人の参列者が居並ぶ殿庭へは、長さ95メートルにおよ
 ぶ龍尾道が通じていた。
  元会の参列者が、玉座を仰(あお)ぎ見るに、天空の
 彼方(かなた)にあった。
  大使一行が、玉座にある皇帝の姿を確かめ得たかは、
 心もとない。
  「春秋左氏伝」という本にも、小国が大国からの侵略
 を免(まぬが)れるのは、使者を遣(つか)わせて礼物
 を献上するからであり、小国の君主が、大国に出向いて
 報告を行うからである。
  大国の方も、威儀を正し美辞によってこれをほめたた
 え、礼物の加増を行う。
  誅伐されて後、礼物を進上したとて取り返しはつかな
 い、と記述されている。
  中華秩序の中の朝貢外交のありさまである。
  この後、日本は、遣唐使の無益を説いた菅原道真の意
 見を入れて、『遣唐使派遣』を中止としている。
805年、参議・藤原緒嗣(おつぐ)の建議もあって、蝦夷
 征討が中止された。
805年、最澄が、唐から帰国し、天台宗を開いた(伝える)。
806年、桓武天皇が崩御した(737年~806年)
806年、平城天皇(へいぜいてんのう、在位806年~808年)
806年、畿内および諸道に観察使を設置し、地方行政の実態
 を調べさせた。
806年、空海(弘法大師)が唐から帰国し、真言宗を開い
 た(伝える)。
809年、嵯峨天皇(在位809年~823年、52代)
810年、平安時代は、死刑の無かった時代だった。
  嵯峨天皇(810年~823年)以来、死刑が、実際には
 廃止状態だった。
  後白河天皇の時代の保元の乱(1156年)の源為義など
 に対する処刑まで、346年間、実際上、死刑が執行され
 ることはなかった。
  仏教の影響である。
810年、仁明天皇が生まれた(にんみょうてんのう、810年
 ~850年)
810年、初めて、宮中に蔵人所(くろうどどころ)を置いた。
810年、薬子(くすこ)の乱が起きた。
  政争と藤原氏北家の台頭。嵯峨天皇。藤原冬嗣。
  この乱は、藤原薬子とその兄・藤原仲成(なかなり)
 が平城上皇の病を図って失敗した反乱で、この乱をきっ
 かけに藤原式家が衰えた。
  この乱の際、天皇側が機密保持のために蔵人所を設け
 た。
  初代蔵人頭に藤原冬嗣が任命された。
  冬嗣は藤原北家である。
814年、大和田泊(神戸港)を修築した。江戸時代以前の主な
 社会資本整備に数えられる。
814年、防鴨河使、防葛野河使が任命され、京都の治水が
 行われた。
816年、空海が高野山に金剛峯寺(こんごうぷじ)を建てた。
816年頃、この頃、検非違使を置いた。
818年、この頃、鷹狩が盛んで、「私の立場の鷹狩」の禁
 令がしばしば出された。
822年、最澄が没した(767年~822年)
822年、比叡山延暦寺は、伝教大師入寂後7日目の822年6
 月11日に、伝教大師出世の本懐たる戒壇建立の勅許が下
 りた。
823年、淳和天皇(じゅんなてんのう、在位823年~833年、
 53代)
823年2月、初授戒が行われ、勅号を得て、「比叡山延暦寺」
 と名を改めた。
824年、平城天皇が崩御した(へいぜいてんのう、774年~
 824年)
826年、藤原冬嗣が没した(775年~826年)
827年、文徳天皇が生まれた(もんとくてんのう、827年~
 858年)
828年、畿内に班田を行った(以後、50年間、班田が行わ
 れず)。
829年、9世紀の初頭に使徒のヤコブの遺骨が発見され、教
 皇のアルフォンソ2世が、この年に、ヤコブの墓の上に教
 会と修道院を建てた。
  これが聖地とされているサンティアゴ・デ・コンポス
 テラの始まり。
  そして、1478年に、教皇のシクストゥス4世が、サン
 ティアゴ・デ・コンポステラの巡礼は、エルサレムへの
 巡礼と同等の価値があると言ってから、この地への巡礼
 が増えた。
  因みに、ヤコブは「雷の子」と言われるほど気性の激
 しい人だった。
  イスラムの勢力が大きく、危険なイスラムの地を通っ
 てイスラエルの聖地巡礼が出来なかったからである。
832年、バイト・アルヒクマ(知恵の館):アッパース朝
 7代カリフ、アル・マームーンが832年にバクダッドに設
 けた研究機関。
  古代ギリシャ文明の遺産である哲学・自然科学の大量
 の文献を組織的にアラビア語に翻訳する事業により、イ
 スラム学術の発展に寄与した。
  ササン朝時代のジュンディーシャーブールにおけるギ
 リシャ語文献のシリア語への翻訳事業を引き継づもので
 あった。
  アラビア語に翻訳されたギリシャ語文献は、さらにラ
 テン語に訳され、中世後期以後、ヨーロッパ思想の発展
 に著しく貢献した。
  この恩義あるイスラム世界を、キリスト教世界は蔑(
 さげ)んだ。
  医学などを教えてもらって、どれほどの人々の命が救
 われたというのか。
  「イスラムは文明の遅れた国だ」と嘘や間違った情報
 によるマインド・コントロールをキリスト教は盛んにした。
  キリスト教には、この嘘つき体質が今・現代でもある。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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2015年2月17日火曜日

(増補版)21A:気になった事柄を集めた年表(770年~800年)

 題:(増補版)21A:気になった事柄を集めた年表(770年~800年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
771年、カール1世(カール大帝、シャルルマーニュ)が、
 全フランクを統一した。
  このカール帝をヨーロッパ、特に、ドイツとフランス
 は、大きく評価している。自賛している。
  カール1世は、翌年の772年に、ゲルマン人を降伏させ
 ようと、服属させようと、遠征を行っているが、この様
 に、彼は遠征ばかりをする、遠征を10回以上行った帝だ
 った。
  カールは、抵抗する指導者を、死刑や追放に処したり、
 まったく、愛など感じさせない領土拡大主義だった。
  彼は、キリスト教を信奉しているようだが、「異教徒
 は殺せ」のキリスト教の教義の通り、「ザクセン族」征
 服、「バイエルン族」征服、「スラブ人」討伐、「アヴ
 ァール:アジア系遊牧民」討伐などなど、討伐行為を繰
 り返した。
  自分たちさえ、自民族さえ、良ければ良いのだの行為
 だった。
  また、カールは、キリスト教の教義の「十分の一税」
 と言って、「収入の10分の1を教会へ納めよ」というキ
 リスト教の教義の支払いを徹底させた。
  カールは、王国維持にキリスト教を利用した。
  その為、キリスト教聖職者を養成した。
  その為、宮廷に、キリスト教聖職者を招き、「カロリ
 ング・ルネサンス」と称したラテン語勉強をした。
  到底、ルネサンスなどと言えるものではなかった。
  祭政一致政治であった。
772年、下野の民衆が課役を免れるため陸奥に逃れた。
772年、渤海使が入朝した。
772年、再び墾田の私有を許可した。
  開墾制限を止めた。
  農民を苦しませない様にという旨の太政官符が発布さ
 れた。光仁天皇の時。
772年、唐代の詩人の白居易(白楽天)が生まれた(772年
 ~846年)
773年、穀物騰貴のため常平法を定めた。
773年、渤海使を放還した。
774年、空海が生まれた(774年~835年)
774年、平城天皇が生まれた(774年~824年)
774年5月、河内国が飢饉となり、救済される。
774年9月、諸国に溝池の修造をさせ、五畿内の陂池(つつ
 みいけ)を修造した。
774年、大伴駿河麻呂(おおとものするがまろ、公卿)が
 蝦夷を討った。陸奥国遠山村まで行った。
774年、新羅使の無礼を責め放還した。
775年、藤原冬嗣(ふゆつぐ、775年~824年)が、生ま
 れた。
775年、天長節(天皇誕生日)が始まった。光仁天皇の時。
776年1月、税の調査の為、検税使を諸国に派遣した。
  1月は東海道、これは、すべての地域が、等しく実施
 されているかが命じられ、行われた。
777年、遣唐使の副使・小野石根が出発した(帰途、難船
 し石根ら死亡)
777年、渤海使が入貢した。
779年、唐使が来朝した。
7世紀後半頃~8世紀後半頃、この頃に編まれた「万葉集」
 が出来た。日本最古の和歌集。
780年、新羅使の朝貢を受けた。
780年、百姓より徴兵し、練達の者に武を習わしむ。
781年、光仁天皇が崩御した(709年~781年)
781年、桓武天皇が即位した(在位781年~805年)
783年6月、諸寺の田畑の買収を禁止した。
784年、桓武天皇が、長岡京(京都の南西・山背国)に都を
 移した。
  政治の立て直しがその意図。ただ、反対意見が強かっ
 たため、当時、副都として存在していた難波宮(なにわ
 のみや)に移転するという事で新都造営を進めて行き、
 穏やかな方法で長岡京遷都に至った。
785年、国司の正税の私有を禁止した。
  また、私的な林野の選挙や不当悔恨も禁止した。
785年、長岡京造宮使(造宮推進者)となった藤原種継が
 暗殺され、皇太弟の早良(さわら)親王が廃位された。
  長岡に都があった期間はわずか10年。
  長岡京遷都は、六国史の「日本後記」に記されている。
785年、最澄(弘法大師)が、19歳のこの年、はじめて比
 叡山に登り、一宇の草案を結んで修業を始めた時から起
 こったと伝えられる。
785年、大伴家持が没した(718年頃~785年)
786年、嵯峨天皇が生まれた(786年~842年)
785年、淳和天皇が生まれた(786年~840年)
789年、大きな軍勢を組織し、蝦夷討伐に向かったが、軍
 は多数の損害を出し、敗れて帰った。
8世紀末以前、万葉集が、この頃までに(8世紀末以前)成
 ったと言われている。
  「万葉集」に収録する歌には、鳥類17、獣類20、魚類
 14など、115種の動物が見える。
  ちなみに、ウマの声はイ、カラスの声はコロクなどと
 表現された。
790年、「三世一身の法」や「墾田永年私財法」と土地公
 有制の原則が、8世紀後半から9世紀にかけて大きく揺ら
 いだが、人々は、山林原野の開墾に励むようになり土地
 の私有地化が進み、自墾地系荘園が生まれた。
792年、辺要(へんよう、辺境の要害。国境の要地)以外の
 軍団を廃止し、郡司(ぐんじ、国司の下で郡を治めた地
 方官)の指定による「健児(こんでい、地方の軍事力とし
 て整備された軍団)の制」が創設された。
792年、渤海使の入貢年次を定めた。
794年~1185年、平安京へ遷都した。
  桓武天皇が平安京に都を定めた。平安時代の始まり。
  和気清麻呂の建議によって長岡京より遷都された。
  遷都により山背国は山城国にあらためられた。
  平安時代であるが、この時に築かれた出雲大社は、その
 高さが16丈(48メートル)もあった。
  倒壊した記録もあるが、木造で、当時の日本の技術は、
 世界に誇るものであったことを伝えている。
  中国にもない世界最高水準の業績の一つである。
794年頃、平安時代に入ると儒学は、宮廷貴族の特定の家の
 学問、すなわち家学として固定し、世襲された。
796年、東海道が開かれた。
796年、諸国に地図を作らせた。
797年、京中の凶穢を避けるため、山城国住民の住居のそば
 に死者を葬る習慣を止めさせる。
797年11月、坂上田村麻呂が征夷大将軍に就任した。
797年、勘解由使(かげゆし、国司などの官吏が交代すると
 き、新任者が無事に事務を引き継いだことを証明する解由
 状・げゆじょうの審査に当たった職)を置いた(806年、
 廃止)
797年、続日本紀が出来た(菅原道真?????など)
799年、和気清麻呂が没した(733年~799年)
800年、富士山が噴火した。
800年、カロリング朝フランク王国による西ローマ帝国の再建。
  カール大帝(カール1世、シャルルマーニュ・フランス
 語、チャールズ・ザ・グレート・英語)が、この年、西ロ
 ーマ皇帝として戴冠した。ピピン3世を継いだ。
  西ローマ皇帝を号したが、東ローマ帝国は認めなかった。
  そして、ヨーロッパの誕生、とは言うが・・。
  帝国と言っても、スペインや北アフリカは、イスラムの
 治世になっていた。
  また、南イタリアやベニスは、東ローマに制圧されてい
 た。
  そして、彼は、「リベリ」と称する自由民を創設し、
 軍役の義務を負わせようとするのだが、ほとんどが、失
 敗した。
  また、地方統治のために任命した臣下の公や伯たちは、
 たちまち、土着化した。
  そして、地方の諸侯として君臨し始めた。
  当然、彼の配下の官僚的な目的の性格は、まったく失
 って行った。
  彼が目指した中央集権の統治体制どころか、ローマの
 様な一定の首都をも持てないという状況だった。
  彼は、名ばかりの大帝で、帝国の統一はガタガタだった。
  カール帝は、とても腰を据えていられる状況ではなく、
 絶えずあちこちを巡遊して、各地で皇帝の威容を、直接、
 見せつけなければならないという状態だった。
  彼の帝国は、個人的努力で維持されるという、見せか
 けの組織体だった。
  しかし、彼は、わずか、その14年後の814年に死亡した。
  その後、ローマ系人種とゲルマン系人種の混じり合いの
 度合いに応じて、ドイツ人、フランス人、イタリア人とい
 った、一種の民族分化が進み、それが少しずつ固定化して、
 分割されていった。
  ある意味、中央の強圧によってのまとまりの崩壊は、
 地方に描かれ持たれているエネルギーに拠ったという事
 である。
..
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2015年2月16日月曜日

(増補版)20A:気になった事柄を集めた年表(755年~770年)

 題:(増補版)20A:気になった事柄を集めた年表(755年~770年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
756年6月、聖武法皇が崩御した(在位701年~756年)。
  光明皇太后は、聖武法皇の遺愛の遺品を、追善供養の
 ため東大寺へ奉献し、収蔵(正倉院御物の初め)した。
  正倉院が建立された時期は不明だが、大仏奉献に近い
 時期と見られている。
  正倉院宝物中にはラクダ・クジャク・インコなどを描
 いたものや、ゾウ・サイの角製品などがあり、遠い異国
 の珍獣や鳥類についての知識を裏付けられる。
756年、イスラム帝国(サラセン帝国)が東西に分裂した。
 後ウマイヤ朝が建国され、イスラム世界の統一は崩れた。
  因みに、サラセン帝国の呼称は、ヨーロッパ人から見
 た呼称で、近年、ヨーロッパを中心とする歴史解釈姿勢
 が好ましいものと見られなくなっている。
  イスラム帝国と呼ぶことが正当である。また、サラセ
 ン人の呼称も避けるべきである。
757年、養老律令が実施された。藤原仲麻呂が主導した。
  大宝律令と大きな相違点はないが、日本の実情に合わ
 せた改正をした。
757年、孝謙天皇の信任を得て、藤原仲麻呂が台頭した。
  藤原仲麻呂は、藤原不比等の孫で、藤原武智麻呂の子
 である。また、自らを唐風に恵美押勝(えみおしかつ)
 と名乗った。そして、唐風の官職である紫微中台(しび
 ちゅうだい)に就任した。
758年5月、藤原仲麻呂が推す大炊王(淳仁天皇、在位758
 年~763年)が立太子される。
758年6月、橘奈良麻呂が右大弁になる。
  藤原仲麻呂の専横に強い不満を持った。
  仲麻呂の排除を画策した。
  しかし、この密議は漏れる。
758年7月、橘奈良麻呂の乱。
  7月になり、奈良麻呂とその関係者は一斉に逮捕された。
  孝謙天皇は、逮捕された人々を本来は死罪に処すとこ
 ろ、死一等を減じて流罪に処すと詔した(橘奈良麻呂の
 乱)。
  この話に後日談がある、
  それは、奈良麻呂の死後に生まれた息子の娘が、嵯峨
 天皇の后となる。
  そして、その妃が、仁明天皇を生んだことから、847年
 に政敵の仲麻呂が、後になって謀反を起こして失う事とな
 った「正一位太政大臣」の位が、橘奈良麻呂に送られて
 いる。
758年、坂上田村麻呂が生まれた(758年~811年)。
  蝦夷討伐の田村麻呂だが、京都の清水寺を創建したとも
 伝えられている。
758年、吉備真備は、大宰府で唐の大乱(安禄山の乱)に
 備えるよう天皇からの勅(命令)を受け、備えを講じた。
  外国情勢にしっかりアンテナを張っている日本だった。
758年、陸奥桃生城(宮城県仙台近く)や出羽雄勝柵を築
 いた。
  律令国家の体制がしっかりした時代となった。
759年、諸国に常平倉(じょうへいそう)を置いた。目的
 は、穀物の価格変動を防ぐために、穀類貯蔵した官営の
 倉。
  豊作の安価の時に買入れ、凶作の高価の時に放出して
 価格の安定を図った。
759年、この頃、万葉集が成った。
  4500種以上が集められている。
  成立年は、759年以後と見られている。
759年、新羅征討の議が起こった。
  朝廷は、新羅の軍船がたびたび浅茅湾(あそうわん、
 長崎県対馬市)に侵入し、南対馬の北岸を荒らすために、
 朝廷は、新羅征討の議を起こした。
759年、渤海使が入朝した。
  渤海より日本へ来た渤海使は、728年から922年までの
 間に34回ある。
  因みに、日本から渤海へ行った遣渤海使は、728年から
 811年までの間に14回となっている。
  初期は軍事同盟であり、しかし、唐との融和が図られ
 る時代になると、軍事的意味合いは薄れ、文化交流と経
 済活動中心となる。
  朝貢貿易の形態だった。
  渤海に多大な利益をもたらした。
  後に、使節来朝を12年に1度にするなどの制限を加えた。
  渤海滅亡まで続いた。
  輸入品:獣皮、輸出品:繊維製品、金、水銀。
759年、唐招提寺の地があたえられ、金堂が創建された
 (鑑真)。
760年、新羅使を放還した。
  非礼と使人が軽微(想定より低い)だったのが理由。
760年、万年通宝(まんねんつうほう、銅貨、和同開珎に
 次いでの銅銭)、太平元宝(銀貨)や開基勝宝(金貨)
 を新しく鋳造した。
  因みに、和同開珎以前の貨幣に、「無文銀線」と「富
 本銭」がある。
761年、渤海に遣使した。(~762年)
761年~762年、凶作で餓死者が多く出た。
  因みに、女性より男性の方が早く餓死するという記録
 がある。
761年、この頃、食器の美化が進み、飲食物の改良も進んだ。
761年、東大寺の薬を病人に施した。
  日本には、すでに723年に光明皇后が、仏教の慈悲の実
 践として、悲田院や施薬院で病人の救済をしたとの記録
 があるが、東大寺も病人救済を行っていた。
762年、遣唐使を任命・発遣を中止した。
  唐は乱れている最中。
762年、李白が没した(701年~762年)
763年、鑑真が没した(688年~763年)
763年、新羅使を放還した。
763年、渤海使が入朝した。
764年、藤原仲麻呂が没した(706年~764年)
764年、称徳天皇(しょうとくてんのう、在位764年~769
 年)
764年、新羅征討の議を中止した。
764年、大和・河内・山城などに池を造らせた。
  日照りが続き、飢饉が続発したため、朝廷は、二年続
 けて田租の税金の免除をなされた。
  この時、米価は4,5倍にも跳ね上がった。
  この様な事から、764年には、灌漑用の池を掘削するた
 めの造池使が大和・河内・山背・近江・丹波・播磨・讃
 岐の諸国に派遣された。
764年、風説だが、恵美押勝は、孝謙上皇の信頼が道鏡に
 移ったため反乱を起こしたという・・。
  恵美押勝の乱の結果、淳仁天皇は淡路に流された。
765年、淳仁天皇が崩御した(733年~765年)
765年、道教が太政大臣となった。
765年、一切の墾田の私有を禁止した。
  道鏡は政権に着くと、墾田の過熱にブレーキをかける
 ため、
  私有耕地の拡大の行き過ぎを止めるため、
  政府として、一旦、墾田を禁止した。
  道鏡失脚とともに、772年、墾田私有を許可するという
 太政官符が発布された。
  これは、藤原氏や富豪の圧力によって許可したと考え
 られる。
765年、神巧開宝を新しく鋳造した。
765年、京畿内の踏歌(詞を歌いながら輪を作って練り歩く
 もの)を禁止した。
766年、道鏡が法王となった。
767年、最澄が生まれた(767年~822年)
769年、道教が、宇佐八幡宮神託(うさはちまんぐうしん
 たく)事件を起こした。
  この事件を阻止したのが和気清麻呂(わけのきよまろ)
 である。
769年、和気清麻呂を宇佐八幡宮に遣わした(大隅に配流)
770年、孝謙天皇が没した(718年~770年)
770年、阿倍仲麻呂が没した(698年~770年)
770年、光仁天皇(在位770年~780年)
770年、道鏡を栃木県へ追放した。和気清麻呂を召還した。
770年、新羅使が、藤原清河・阿倍仲麻呂の書をもたらした。
770年、杜甫が没した(712年~770年)
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2015年2月15日日曜日

(増補版)19A:気になった事柄を集めた年表(732年~755年)

 題:(増補版)19A:気になった事柄を集めた年表(732年~755年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
733年、山上憶良が没した(660年~733年、73歳)
733年、和気清麻呂が生まれた(733年~799年)
733年、淳仁天皇が生まれた(733年~765年)
733年、出羽柵(でわのき、いではのき、でわのさく、古
 代城柵)が秋田高清水岡に移された。
  はじめ庄内地方(山形県)付近に設置されていた。
  蝦夷政策の一環だった。
  民の出羽柵へ、全国各地からの移住なども行われたり
 した。
  尾張・上野・信濃・越後・越前・東海道・東山道・北
 陸道などの全国各地からの移住。
  総勢1300戸におよんだ。
  柵戸は公民の身分だった。
  蝦夷の教化もし、出羽国の開発・開拓を促進もした。
  城柵の兵士への供給も分担した。
  国府が、秋田へ移されたためと考えられている。
737年、桓武天皇が生まれた(737年~806年)
737年、藤原四兄弟が天然痘の流行によって相次いで死去
 した。
  代わって政治を担ったのは橘諸兄(たちばなのもろえ)。
  そして、唐から帰国した吉備真備と玄昉が重用される
 ようになり、藤原氏の勢力は大きく後退した。
740年、九州(西海道・さいかいどう)で藤原広嗣(ひろ
 つぐ)の乱が勃発した。
  この乱は、吉備真備、玄昉(げんぼう)の追放を求めて
 の反乱であった。
  藤原広嗣は、式家の藤原宇合の子であるが、太宰少弐
 に任じられ、九州に遠ざけられていた。
  乱は、大野東人(あずまひと)を大将軍にする征討軍
 により鎮圧された。
  聖武天皇は、乱の平城京への波及を恐れ山城国の恭仁
 京に遷都した。
  また、近江国紫香楽宮(しがらき)・難波宮(なにわ)
 など都を転々とした。
741年2月、民の牛馬の屠殺を禁じた。
  農耕に役立つ牛馬は塗擦するなの意味。
741年、国分寺、国分尼寺の建立の詔が出た。
  諸国に七重塔を建て、金光経と法華経を写経する事と
 ある。
  国分寺の建設が始まった。
743年、盧舎那仏(るしゃなぶつ、大仏)造立の詔が出た。
743年6月、墾田永久私有令(墾田永年私財法、こんでん
 えいねんしざいほう)が制定された。
  自分で新しく開墾した耕地の永年私財化を認める法令
 である。
  これによって荘園の発生の基礎となった。
  この時の政権担当者は橘諸兄で、大仏造立の詔と共に
 紫香楽(しがらき)宮で出された。
745年、東大寺盧舎那仏像(大仏)が、聖武天皇の発願で
 制作が開始された。
8世紀、この頃のローマ法王は、東ローマ帝国の皇帝から
 いかにして独立するかに腐心していた。
  また、イスラムの圧力から逃れる事に腐心し、脅威を
 感じ恐れていた。
749年、僧・行基が没した(668年~749年)
749年、孝謙天皇が即位した(在位749年~757年)
749年、陸奥国から金が献上された。
  この黄金算出を契機に年号を天平感宝に改元された。
750年、この年の遣唐使では藤原清河が大使だった。
8世紀半ば、唐朝:この頃、均田制が行き詰まり、広大な
 領土の維持は困難となり、辺境警備の節度使の反乱(安
 吏の乱)を契機に衰退した。
750年、アッパース朝:750年~1258年。
  イスラム教の開祖・ムハンマドの叔父・アッバースの
 子孫をカリフとしている。
  イラクを中心に、西アジアから北アフリカにかけて支
 配した王朝。
  首都は、一時期を除いて、バクダッド。
  アラビア・ペルシャ・ギリシャ・インド・中国などの
 諸文明の融合がなされ、学問が著しく発展した。
  近代科学にも多大な影響を与えている。
  イスラム文明は、ヨーロッパ文明の知識の源(みなも
 と)であり、母胎だった。
  キリスト教は、イスラム教の世界は遅れた国だとプロ
 パガンダ(嘘宣伝)した。
  実際は、医学でも何でもイスラム世界に学んだのに・・。
  支配領域は、時代が下がるにしたがって縮小し、アッ
 パース家のカリフに実権があったのも初めの2世紀間だ
 けだった。
  この王朝成立以前のイスラム世界の大勢は、事実上、
 アラブによる異民族統治であったため「アラブ帝国」と
 規定される。
  しかし、アッパース朝体制は、従来のアラブ至上主義
 を払拭(ふっしょく)し、国家と社会にイスラムの原理
 を確立したので、イスラム帝国と呼ばれる。
  中央集権的行政機構が発達し、経済的にも繁栄、東西
 通商や手工業も盛んであった。
  ハールーン・アッ=ラシード治世(786年~809年)が、
 アッパースの全盛期だった。
751年、カロリング朝成立。
  宮宰のピピン3世が、仕えていたメロヴィング朝を廃し
 て(倒して)成立させた。
  751年から987年まで続いた。
  因みに、ルイ3世(879年~884年)が居る。
  カロリング朝フランク王国は、キリスト教会としての
 フランク帝国とさえ言われた。
  それは、国家という観念が希薄で、キリスト教会その
 ものだった。
  アウグスチヌスの「神の国」そのものだった。
751年5月~751年9月、タラスの戦いが起きた。
  中央アジアのタラス地方(現在のキルギス領)で、唐
 とアッバース朝との間で、中央アジアの覇権をめぐって
 戦われた。天下分け目の戦闘だった。
  唐側は、被害が甚大で、
  この戦い以降、中央アジアに、イスラム勢力の安定し
 た支配が確立した。
  そして、イスラム教が広まって行った。
  唐の中央アジア支配は、後退していった。
  中国人捕虜の中に、製紙職人が居て、製紙法が、イス
 ラム世界、そして、ヨーロッパ西方域に伝播した。
752年、奈良の大仏が開眼供養会(かいげんくようえ、魂
 入れの儀式)が行われた。国宝。
  天平文化が栄えた。
  東大寺は、当時の世界最大の木造建築物だった。
  また、大仏も、金や銅を使ったこの様な彫像は、世界
 のどこにも存在しなかった。
  当時の世界最高水準のものだった。
  大仏鋳造に使った材料:銅444屯、錫7.6屯、水銀2.2
 屯、金390キログラム、炭1194立方メートル、働いた
 人の数:延217万9973人、かかった年数:9年。
753年、日本は、以前、遣隋使において、「天子の国書」
 を送った、その書において、「日本は、天子の国だ」と
 名乗った。唐の煬帝は怒った。
  また、年号に、日本の天皇号を使って、中国の皇帝と
 対等という事を示した。
  しかし、この様な事があったが、唐側の記録において、
 だから、日本を対等の国家として扱ったという記録は存
 在しない。
  むしろ、753年の朝賀において、日本が新羅より『席
 次が下だ』とされる事件があった。
  かつて昔、卑弥呼の時代などでは、日本は冊封を受け
 ていたが、
  遣唐使の時代には、日本の天皇は、唐王朝からの冊封
 (さくほう、爵位などを授けてもらう)を受けたりして
 いない。
754年、唐の僧・鑑真(がんじん)が、懇請されて日本に
 来た。
  鑑真は、日本への渡海の際に暴風雨に会うなど、渡海
 を5回も行うという、苦難の末の来日だった。
  鑑真は薬草の造詣も深く、日本にこの知識も伝えた。
  また、砂糖をもたらしたとの記録もある。
755年11月~763年、安禄山・史思明の乱(安禄山の乱・あんろ
 くざんのらん、安史の乱・あんしのらん)
  唐の節度使(当の軍職)の安禄山と部下の史思明によっ
 て引き起こされた大規模な反乱。
  安禄山は唐王朝に仕え、宰相の李林甫に近づき、唐の
 玄宗に信任されるようになった。
  そして、その信任も厚くなり、三つの節度使を兼任する
 くらいになった。
  しかし、李林甫が死ぬと、玄宗が寵愛していた楊貴妃の
 従兄弟の楊国忠との対立が激化した。
  安禄山は、危険がその身に迫ったため、755年11月、
 ついに挙兵した。
  安禄山は、唐の国軍のかなりの割合の兵力を玄宗から
 任されていた。
  安禄山の兵力は、親衛隊8000騎、兵10万~15万。
  安禄山は、1か月後、洛陽を陥落し、756年1月に聖武
 皇帝(大燕聖武皇帝)を名乗り、燕国の建国を宣言した。
  756年6月は、安禄山の軍に追われた唐の皇帝・玄宗は、
 蜀(現在の四川省)へ敗走する。
  その様な中、楊国忠は、安禄山の挙兵を招いたとして
 殺害された。
  そしてまた、皇帝を惑わせたとして楊貴妃も同罪だと
 絞殺された。
  この様な中、玄宗は失意の中に退位し、皇太子が粛宗
 として即位し、反乱鎮圧の指揮を執ることになる。
  756年9月に、粛宗は、ウイグル帝国に援軍を求めた。
  10月、ウイグルは要請に応じた。
  756年11月~12月、安禄山軍は粛宗を襲撃したりする。
  ウイグル軍と東軍は合流し、安禄山軍を撃破する。
  この頃、長安を奪った安禄山だったが、病に倒れ失明
 し、次第に狂暴化した。
  さらに、安禄山は、皇太子として立てた息子にまで廃
 嫡だと公然と口にするようになった。
  757年1月、安禄山は側近たちの反発を買って、暗殺さ
 れた。安慶緒が父の後を継いで皇帝となった。
  しかし、安禄山の盟友も、これに藩閥して離反してしま
 った。
  粛宗軍は、757年2月に、中国の現在の陝西省(せんせ
 いしょう)まで南下する。
  757年9月、唐・ウイグル帝国連合軍の15万は長安に
 迫った。この後、延々と戦いは続く(中略)・・、
  762年4月、玄宗が逝去。その直後に粛宗も逝去。しか
 し、戦乱は収まらず・・、
  唐王朝の国威は大きく傷つき、唐王朝は反乱軍の内部
 分裂をさせるために、反乱軍の有力将軍に節度使の職を
 濫発するなどした。
  しかし、これが、群雄割拠の原因を作った。
  以後、唐は、地方に割拠している節度使たちとの間で
 妥協と対立を繰り返しながら、衰退の道をたどった。
  その唐の弱体化とともに、ウイグル帝国とチベット(
 吐蕃)が台頭して行った。
  778年、ウイグル軍が唐に侵攻し、779年、吐蕃(チベ
 ット)軍は20万の大軍を持って、唐の成都(今の四川省
 の省都)を占領しようとした、が、これは撃退されたが
 786年は敦煌を占領した。まだまだ、戦いの時は続き(
 中略)、821年、ウイグル・チベット・唐の間で三国会
 盟(盟約)が締結された。まだまだ、きな臭い事態が続
 き(中略)、907年に唐が滅亡し、五代十国(唐の滅亡
 から北宋の成立までの53年間に黄河流域を中心とした華
 北の5つの王朝・五代と、華中・華南を支配した地方政
 権・十国が興亡した時代)の分裂時代になる。
..
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