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2013年6月14日金曜日

曽野綾子さんの話の「つづき」・後編。

 題: 曽野綾子さんの話の「つづき」・後編。
...(真を求めて 皆様と共に幸せになりたい)
.
 キリスト教の教義の性悪説的に生きていると、厳しい言い方
ですが「人生がうまくいきません」。
 性悪説的な考え方・思考では、人生を躓(つまづ)かせます。
 曽野綾子さんの考え方・思考についての事例を書かせて戴き
ましたが、
 キリスト教の聖書の中にも、その事例がありますので、以下
に書きます。
 キリスト教の聖書は、誤記が多い状況です。
 「誤訳だらけのキリスト教聖書」と言えます。
 その1事例になります。
 日本語に訳されているキリスト教の聖書の(「ルカの福音書 」
6・31)を見ますと、
 新改訳聖書(日本聖書刊行会発行)のキリスト教の聖書には、
「自分にしてもらいたいと願う通り、人にもそのようにしなさ
い」と訳されています。
 また、新共同訳聖書(1987年初版の日本語訳の一つ)では、
「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」と訳さ
れています。
 また、口語訳聖書(日本聖書協会発行)では、
「人々にしてほしいと、あなたがたの望むことを、人々にもそ
のとおりにせよ」と訳されています。
 日本語に訳されている聖書の3種類とも、その相互の違いは
ありませんが、だからと言って「間違っていない訳なのだ」と
思ったら間違いです。
 つまり、この総べてが、誤訳なのです。間違いの訳なのです。
 つまり、日本語訳の聖書の3つとも、
「自分が人にしてもらいたい行為を、そのまま人に施す」とい
う意味に訳されていますが、
 「原典」の聖書は全く違う記述なのです。
 つまり、この日本語の聖書の翻訳者の方々は「性善説」の方々
なのです。
 本質は、性善説に思考する方々が、翻訳したので、この様に
なってしまったのです。
 つまり、日本語訳を吟味してみますと、
「すべての人々は性善であるので、勿論、あなたも性善である
ので、性善の人々がしてほしいと思うことは、性善の貴方がし
て貰いたいということなので、性善的に人にもそのようにして
差し上げなさい」という『性善説の論理の展開』になるのです。
 人々すべてが、善人です。それが当然なのですという、意味
です。
 つまり、キリスト教の「人には原罪がある」という前提では、
この様な展開は間違いです。この様にはなりません。
 そして、この様に解釈はされません。
 このキリスト教の「聖書に流れる本質」や話と矛盾するので
す。
 このキリスト教の原典は、ギリシャ語で書かれていますが、
その意味は、「人にされた事をそのままお返し、あるいは仕返
し出来るように神様に願え」という意味で書かれています。
 性悪説で世の中を見て、そして、そう捉(とら)えての記述
なのです。
 つまり、「人間は全て悪人であるから、人に悪を行なうと、
人が悪をお返ししてくれる」。
 つまり、「報復」の記述だったのです。
 『報復の警告』を、信徒の方々へ伝える記述だったのです。

曽野綾子さんの話の「つづき」・後編。

 題: 曽野綾子さんの話の「つづき」・後編。

...(真を求めて 皆様と共に幸せになりたい)

.

 キリスト教の教義の性悪説的に生きていると、厳しい言い方

ですが「人生がうまくいきません」。

 性悪説的な考え方・思考では、人生を躓(つまづ)かせます。

 曽野綾子さんの考え方・思考についての事例を書かせて戴き

ましたが

 キリスト教の聖書の中にも、その事例がありますので、以下

に書きます。

 キリスト教の聖書は、誤記が多い状況です。

 「誤訳だらけのキリスト教聖書」と言えます。

 その1事例になります。

 日本語に訳されているキリスト教の聖書の(「ルカの福音書 」

6・31)を見ますと、

 新改訳聖書(日本聖書刊行会発行)のキリスト教の聖書には、

「自分にしてもらいたいと願う通り、人にもそのようにしなさ

い」と訳されています。

 また、新共同訳聖書(1987年初版の日本語訳の一つ)では、

「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」と訳さ

れています。

 また、口語訳聖書(日本聖書協会発行)では、

「人々にしてほしいと、あなたがたの望むことを、人々にもそ

のとおりにせよ」と訳されています。

 日本語に訳されている聖書の3種類とも、その相互の違いは

ありませんが、だからと言って「間違っていない訳なのだ」と

思ったら間違いです。

 つまり、この総べてが、誤訳なのです。間違いの訳なのです。

 つまり、日本語訳の聖書の3つとも、

「自分が人にしてもらいたい行為を、そのまま人に施す」とい

う意味に訳されていますが、

 「原典」の聖書は全く違う記述なのです。

 つまり、この日本語の聖書の翻訳者の方々は「性善説」の方々

なのです。

 本質は、性善説に思考する方々が、翻訳したので、この様に

なってしまったのです。

 つまり、日本語訳を吟味してみますと、

「すべての人々は性善であるので、勿論、あなたも性善である

ので、性善の人々がしてほしいと思うことは、性善の貴方がし

て貰いたいということなので、性善的に人にもそのようにして

差し上げなさい」という『性善説の論理の展開』になるのです。

 人々すべてが、善人です。それが当然なのですという、意味

です。

 つまり、キリスト教の「人には原罪がある」という前提では、

この様な展開は間違いです。この様にはなりません。

 そして、この様に解釈はされません。

 このキリスト教の「聖書に流れる本質」や話と矛盾するので

す。

 このキリスト教の原典は、ギリシャ語で書かれていますが、

その意味は、「人にされた事をそのままお返し、あるいは仕返

し出来るように神様に願え」という意味で書かれています。

 性悪説で世の中を見て、そして、そう捉(とら)えての記述

なのです。

 つまり、「人間は全て悪人であるから、人に悪を行なうと、

人が悪をお返ししてくれる」。

 つまり、「報復」の記述だったのです。

 『報復の警告』を、信徒の方々へ伝える記述だったのです。

2013年6月13日木曜日

キリスト教聖書・・本当に、宗教的意味合いはあるのだろうか?

題:キリスト教聖書・・本当に、宗教的意味合いはあるのだろうか?
...(真を求めて 皆様と共に幸せになりたい)
.
 キリスト教の聖書にあるイエスの言葉:「皇帝のものは皇帝
に、神のものは神に返せ」は、「マルコによる福音書」の唯一
のイエスの「真正」な言葉とされている。
 何と「マルコによる福音書」には、イエスの言葉を書いたと
いうキリスト教聖書の、それも、最初に書かれたというこの福
音書に、イエスの言葉はこれしかない。
 これは聖書学が進んで来て、研究の結果、この様なことが分
かって来たのである。
 因みに、福音書は50あったと言われている。しかし、その多
くが、主義・思想が合わないと、当時のキリスト教徒の判断で
焼かれ、『焼却処分』されていた。
 そして今、4つの福音書だけが、「福音書はこれだけだ」と
思わせる様にして、取扱われている。(近年、何点かの福音書が
発見されているが・・)。
 当時のキリスト教徒の浅はかな焼却処分行動を、今現代でも、
糾弾したい。
 そして、「マルコによる福音書」のこの言葉は、学者たちの
研究の結果、この福音書の中にある、色々なイエスの言葉の内
で、イエスの真正な言葉だと言えるものは「この言葉しか無い」
と結論された。そして、聖書学者たちは、「これは、正に、イ
エスの代表的な言葉であると言える」と言っているが・・・、
「しかし」である。
 結論を先に言うと、この言葉は、唯一の真正なイエスの言葉
だとはいえ、「信仰とはまったく違う言葉」である。
 イエスの宗教観の披露などという話とは、ほど遠い代物だ。
 「解説を聞かないと、まったく理解できない」という聖書の
言葉の「代表的な事例」ともなっている。
 昔から、この言葉は、『議論百出』の問題の言葉であった。
 キリスト教の聖書は、皆、この類(たぐ)いで、直読しても
理解できないという代物が多い。説明も不十分という状況とな
っている。
 この「マルコによる福音書」の文は、「税金を支払うか、支
払わないかの問題」というだけの話で、何ら宗教的意味もなく、
深い意味もない。
 また、当時のユダヤ教の一派のファリサイ派が、イエスを引
っ掛けようとした言葉だと、キリスト教は説明しているが、そ
の様な引っ掛けの質問でもなかった。
 当時、ユダヤの民(イスラエルの民)は、重税に苦しんでい
た。税金の種類も多かった。課税者が、支配者のローマ帝国と、
宗教組織の2組織があった。
 民は、支配されているローマ帝国から、「人頭税」を支払わ
されていた。
 征服者のローマ帝国は、被支配民族のユダヤ人が、「支払い
能力があろうとなかろうと」「1人いくら払え」という人頭税
を課し、ユダヤ人の反感を買っていた。
 この過酷な税金の取り立て役(ローマ帝国の手先)が「取税
人」である。
 ユダヤ人は支配され、貧困にあえぎ・苦しんでいたが、この
取税人は「吸い上げた金」で豊かに暮らしていた。つまり、豊
かな金が手元に残ったのだ。
 取り立てが多ければ多いほど、取税人に金・カネが残るとい
う取税システムだった。そのため、取税人は同民族のユダヤの
民から税を必死に取り立てた。獅子身中の虫的な民衆の敵の
「取税人」は、当然、嫌われていた。
 しかし、イエスは、この取税人の家に上がり込んで、飲み食
いするのが好きだった。
 そして、話を元に戻すが、ユダヤ教のある派が、ローマ帝国
に支配され、民は「人頭税」を払わされているという苦境の時
に、このローマ帝国にゴマスリをした。それが、ファリサイ派
の「ヒレル派」だった。
 しかし、ファリサイ派にはもう一つ派があって、その「シャ
ンマイ派」は、アンチ税支払派で、税支払いには反対派だった。
 つまり、イエスに質問をした人は、このファリサイ派の人だ
った。イエスの態度が、どちらなのかを見定めたかったのであ
ろう。我々の派か?それとも・・と。
 故に、質問した人には、悪気はない。
 しかし、イエスには警戒心があった。ひねくれて話を受け取
るというイエスの性格もある。
 のっけから、イエスは、「私を試すのか?」と言った。
 そして、イエスが、この質問に対し、「支払うな」と言えば、
ローマ帝国に抵抗する過激派と同じと、イエスは見なされる危
険があった。
 また、「支払え」と答えれば、ローマ帝国に反感を持つ民衆
への「裏切り者」にされるという一面があった。
 そういう意味から、答え方は難しかった。
 また、民衆は、宗教組織が課す税金、宗教上の金「神殿税」
も支払わされていた。
 この様に、種々の税で、民衆は、税の重さに喘いでいた。
 そして、問われたイエスは、銀貨を持って来させる。
 その理由は、その銀貨の刻印が、皇帝の肖像だけではなく、
皇帝を『神格化』する文字・文言も、刻印されていた。
 その刻印文字には、「崇高な神の子、神聖なる皇帝ティベリ
ウス」と刻まれていた。
 イエスは持って来させて、それらの事を確認させた上で言っ
た。
 「皇帝のものは皇帝に、神のものは神へ返せ」・・と。
 この言葉は、イエスの得意な手法となっている。質問には、
直接答えないのである。
 この言葉は、『税金を支払え』と言っているのか、『支払う
な』と言っているのかは『はっきりしない』、不明なのである。
 銀貨に皇帝の肖像が描いてあるから、銀貨の金は皇帝のもの
として、皇帝へ税金を支払えと言っている様にも解釈できる。
 でも、直接的にはっきりとそう断定的に言っている訳ではな
いので、その様に判断することも躊躇される。
 また、上記の様に、皇帝のもののようにも見えて・聞こえる
が、皇帝が『神格化されてもいる言葉』もあるので、その後の
言葉の「神のものは神へ」にも絡(カラ)むのでは?となる。
 そして、「神殿税」の存在も問題を複雑化し、絡む様でもあ
る。
 また、解釈の仕方によれば、前の言葉が「人頭税」で、後の
言葉が「神殿税」で、イエスは、両方「スッキリと払いなさい」
と言っている様でもある。
 今、説明したように、その言葉の中に不確定な・あいまいな
面があり、「質問には答えていない」とも言えるのである。
 人頭税支払い反対で答えれば、民衆はやんやと喝采をしただ
ろう。そして、公権力からは、イエスは過激派の烙印を押され
ただろう。
 イエスは、ここを、明確に民衆の喝采する立場にも立たず、
あいまいな言葉を発したのである。結論的に言えば、逃げたの
である。
 今、教会で、この様な事は知らないだろうと、聖職者は「あ
る」「ない」を問わず、適当に脚色し、宗教的な粉をかけて、
キリスト教信徒の方々に話をするだろう。そして、キリスト教
信徒は「ふうん」と聞くのだろう、キリスト教聖書を読んだだ
けでは理解できない。ここまで説明してないので、理解はでき
ないから。
 しかし、(ここが大切なのだが)、知ったからと言って、何
ら宗教的な、含蓄のある意味や言葉になるという訳ではない。
 イエスが問題から逃げたという事が分かるだけだ。
 身の危険を感じ、身の保全を優先させて逃げた言葉を言った
だけなのだろうが、当時、預言者は「みな殺されて」いた。
 イエスも、当時、多く居た預言者の一人とみなされていた。
 また、イエスも、急に「最後の晩餐」になった訳ではなく、
危険を常に感じていただろう。公(おおやけ)の預言者でもな
かったし。

NHK、キリスト教に偏する。間違った放送をする。島原の乱を事例に・・。

 題: NHK、キリスト教に偏する。間違った放送をする。
                島原の乱を事例に・・。
...(真を求めて 皆様と共に幸せになりたい)
.
拝 啓、
 お仕事、有難うございます。
 NHKは、公共放送でありながら、間違った放送をしており
ます。
 それは、キリスト教に偏していることで、この事を原因とし
て、キリスト教を美化する放送をしております。
 下記は、本日(2013・6・12)、NHKへ送信した文
ですが、あまりにも、事実をまげて、また、
 事実を伝えないで、キリスト教を伝えているかを訴えた送信
文です。
 是非、善処していただきたくお願い申し上げます。 敬 具
.
ーーー(NHKへの送信文)---
 題:NHK、キリスト教に偏する。間違った放送をする。
 島原の乱は、キリスト教のプロパガンダ【嘘宣伝】です。
 この乱は、徳川幕府のキリスト教に対する弾圧だと嘘宣伝し
ています。
 真実は、島原城主の松倉氏の過酷な政治に起因する乱だった。
 圧政に耐えかねた人々の乱だった。
 寛永14年10月に、島原の農民が蜂起した。
 そして、松倉氏の藩兵を破り、反乱が広がったところに天草
の農民たちも一緒になって松原氏と戦った乱なのです。
 つまり、『農民一揆に過ぎなかった』のです。
 そして、残念で悲惨なことですが、乱に参加したキリシタン
は、乱に参加しなかったキリシタンを虐殺しています。
 つまり、強制されてのキリシタンの人達が乱に参加したので
す。
 参加しなければ殺されるという強制があったのです。
 幕府も派兵をしましたが、兵力12万4000人、費用3万8000
両、後に加わったキリシタン1万数千人がさらし首になりまし
た。
 キリスト教サイドのみが、殉教的に美しくキリスト教のプロ
パガンダ(嘘宣伝)しますが、
 キリスト教側と同じ様な犠牲者数が幕府側にも出ています。
 しかし、この幕府側の戦死者は全く無視されています。
 幕府側だけが行なった酷(むご)さを宣伝していますが、
 正しく実態を伝えていません。
 この様に、正しく事態を捉(とら)えられない状態にした
『キリスト教の団体』、及び、
 『キリスト教に偏するNHK』は、最もこの様な放送を繰り返
し繰り返し放送した局です。
 NHKは、この事例の様に、『事実を曲げてまでして、キリ
スト教を美化し偏する放送をします』。注意しましょう。
・・・以上を「放送して下さい」。
   以前の偏向している放送を正すために。

2013年6月11日火曜日

キリスト教徒の曽野綾子氏の言葉について思うこと・・。



題:キリスト教徒の曽野綾子氏の言葉について思うこと・・。
...(真を求めて 皆様と共に幸せになりたい)
.
曽野綾子氏の言葉:
((氏のこの言葉は、『性悪説のキリスト教徒は、この様に考え
る』というよい事例となっています。括弧の中は、『私の感想』
です))。
.
 曽野綾子氏は、1931年、東京都生まれ、80才、聖心女子大
英文科卒。キリスト教系幼稚園に通いキリスト教文化に親しむ。
右と左足首をそれぞれ1回骨折したが、克服して執筆・講演活
動した女丈夫である。
.
[言葉](抜粋)::
 カトリックの学校で育ったので、すべてにおいて、いい人な
どいないことを比較的若い時から分るようになりました。
.
((私の感想:氏は、キリスト教の教育を受けた結果、「いい
人」とか、「徳のある人」とか、「人類の幸せに貢献した人」
とか、「素晴らしい政治家」とか、「発明・発見をして人々の
幸せを実現した人」とか、などなど、私たちが「いい人」と感
じ、「いい人」と思い・言われ・慕っている人たちに対して、
曽野氏は「いい人などいない」と思い、分かる様になったとお
っしゃっています。これはあまりにも、人に対しての『悲しい
見方』に感じます。キリスト教の性悪説がここまで曽野氏の人
格へ、人の見方へ影響しているのかと驚きに感じました))。
.
 キリスト教は性悪説ですから、人間はそのままにしておけば、
人間の尊厳を失うほどに堕落することも簡単である。
 しかし信仰によって、或いはその人に内臓されている徳性に
よって、人間を超えた偉大な存在になれる、ということをきっ
ちりと教えられたのです。
.
((私の感想:キリスト教は性悪説とはっきり、曽野氏は、確
認の言葉を言われています。そして、人に徳性というものがあ
って、偉大な存在になれるということは教えられました・・と、
言われていますが、曽野氏は前項で言われた様に「いい人はい
ない」と思い、分かる様になったと言われています。「徳性が
ある人が偉大な存在になれる」ということは教わったが・・と
言われていますが、それは、例外的に捉(とら)えられている
ということで、それはイエス・キリストの事を言われていると
感じます。つまり、イエス・キリスト以外の人たちは、「いい
人などいない」と思い、分かっていますと言われています。結
局、人をキリスト教の性悪説で見て居られているということで
す。曽野氏が、そう思われるのも「それもそうだ」と思います。
それは、「人は、いい人もいる」と言った場合、キリスト教の
大根幹の教義である「人には原罪がある」という『性悪説』の
大根本の教義を否定することになるからです。こうなったら、
キリスト教は成立しません。この立場で、すべての教義が説か
れているからです。「人は、いい人もいる」の一部の限定であ
っても、「いい人を認める」と教義が崩れるため、「絶対に認
めることはできない」ということになります))。
.
 日本人の多くは、人は皆いい人という性善説が好きですが、
.
((私の感想:「好き」という言い方ではなくて、「日本人は
性善説が『正しいものの見方』と思い・心得ていると言って戴
きたいところです))。
.
 私のように性悪説だと、だれでも嘘をつくだろうと思ってい
ると、騙されなかったり、むしろ救ってもらったりする。
.
((私の感想:曽野さん、よかったですね。でもこれは、自分
の説に対する「勝手読み」ですね。誰でも嘘をつくものだから
と警戒的にしていると騙されなかったり、警戒していることを
憐(あわ)れんで手助けしてくれる、救ってくれると言われて
いるのだと思いますが、自分の考えの「いいところだけを見て
いる」状態です。これこそ、自分の説が正しいと「性善説的に
見ている」と言えます。無理な論理展開に陥(おちい)ってい
ると感じます。つまり、この論理の逆も成立するからです))。
.
そのとき、自分の性格の嫌らしさに苦しむことはあっても、い
い人に会えて良かったという喜びは大きい。
.
((私の感想:人を悪く見るという「後ろめたさを感じる」と
おっしゃっているのですね。そうだと思います。また、いい人
に会えた喜びと言うのは、「性悪説」だから会えたのではなく、
相手の方が「たじろいでいる曽野さんを見て、性善説的に救っ
て差し上げたい、お手伝いをして差し上げたいと思ったから会
えたというところも、一面ではあることを気付き、そして、そ
う見て戴きたいですね))。
.
 しかし最初から皆いい人で、社会は平和で安全で、正しいの
が普通だと信じこんでいると、あらゆることが不用心になって
よくて当たり前と感謝すらしなくなる。
.
((私の感想:これは偏頗(へんぱ)な言い方であり、見方で
すね。性善説だと、総べて、手放しでアホの様に物事をよい方
に見る人になってしまうのでしょうか?だから、『戦争もない
平和な世界なのだ』と見る人になってしまうのでしょうか?先
の大戦で、日本人は何と300万人の方々が無くなったのですよ。
広島・長崎の原爆で多くの市民の方々が亡くなったのです。そ
の様な知識もなく、何も感じない人に、性善説だとなってしま
うという見方こそ、曽野さんは、そうなるから性善説は怖い説
だと「性悪説的に見ているだけ」ではないですか?))。
.
 それだけでなく、自分以外の考え方を持つ人を想定する能力
にも欠けてきます。
.
((私の感想:これは、言い過ぎです。性善説の人たちが「自
分以外の人たちの考え方を想定する能力が欠ける」と断定され
ていますが、性善説の方々が、ある一つの説である性善説のみ
の意見のみを想定出来、その考え方以外の「性悪説の考えを持
つ方々を想定する能力に欠ける」とおっしゃっていますが、つ
まり、私は、性悪説の曽野さんの考え方を、この様に書いてい
る性善説の私なのですが、この様なことは、例外とおっしゃる
のでしょうか?例外ではありません。人には基本的立ち位置が
あるのです。その立ち位置が「性善説的か」「性悪説的か」の
違いだけであって、立ち位置が違ったら、違う立場は見えなく
なるという考え方は間違いです。そうであるなら、国会で議論
ができなくなります。立ち位置が違っても議員の皆さまは全体
を見れていて、御自分の理想に向かって議論を闘わせることが
できるのです))。
.
 私は誰もが信仰を持つべきだ、などと言う心算はありません。
 しかし人間の視点だけで、人間の世界が見通せるとはどうし
ても思えない。神の視点というものがあってこそ、初めて私た
ちは人間世界の全体像を理解できるような気がしてならないの
です。
.
((私の感想:これは、曽野さんの宗教観の「巧妙なる伝道行
為」です。各人が持つ宗教、及び、宗教観は自由ですが、神の
視点か、仏の視点かを比較して、その論理を展開して、考察し
たことを言った訳ではなく、この様な言い方で、早く言えば、
『個人の好みの披露』の様な言い方で、何ら論理的な所がない
言い方は変えて戴きたいと思います。ある意味、感情論となっ
ています。小生のブログには、その点を「真を求めて」という
立ち位置で、一生懸命、知ろう・知りたい、そして、皆様と共
に幸せになりたいと努力しております。ご覧いただきたいと思
います。そして、ご意見を承れればと思います))。
.
 少年期、青年期は体の発育期、壮年と老年は精神の完成期で
あり、とりわけ老年期の比重は重い。
 私は孤独と絶望こそ、人生の最後に充分味わうべき境地なの
だと思う時があります。この二つの究極の感情を体験しない人
は、多分人間として完成しない。
 孤独と絶望は、勇気ある老人に対して「最後にもう一段階、
立派な人間になって来いよ」といわれるに等しい、神の贈り物
なのだと思います。
.
((私の感想:これは、曽野さんの、現在のお気持ちであり、
感じていることなのでしょう。その披露という訳で、これはこ
れで良いと思います。賛同したという訳ではありません。例え
ば、人間の完成の仕方には非常に多くの完成の仕方があり、そ
の多様な仕方をすべて知りたいと努力をし、そして、知った部
分で、自分はこれだと自主的に選択し、行っていく、そして、
完成へと向かって行くのだと私は思っています。これは私の考
えです))。
(参考)へん‐ぱ【偏頗】 [名・形動]《「へんば」とも》かた
よっていて不公平なこと。また、そのさま。 

2013年6月10日月曜日

キリスト教の性悪説の子事のストレスを受け続けると心の病気になる。

 題:キリスト教の性悪説の心のストレスを受け続けると心の
病気になる。
...(真を求めて 皆様と共に幸せになりたい)
.
 キリスト教の性悪説の精神的ストレスを常に受けていると、
精神的な病状の状態になる。
 その病的な状態は、心と脳によって起きる。
 長期間の精神的ストレスによって海馬の神経細胞が破壊され、
海馬が萎縮する事から起きるという。
 その様なストレスがなくなれば(キリスト教の性悪説による
精神的ストレスがなくなれば)健全レベルになる。
(資料ー1):
 精神神経免疫学(せいしんしんけいめんえきがくPsychoneu
roimmunology:PNI)は、脳、行動、免疫系の相互作用を研究
する精神神経医学、心身医学の一分野である。
 この言葉はRobert Ader と Nicholas Cohen により1975年
にロチェスター大学(University of Rochester)で初めて用いら
れた。
 種々の外的ストレスが自律神経や内分泌系を介して免疫系の
調節していることも明らかになっており、
 精神的ストレスが内分泌系や交感神経を介して末梢の免疫細
胞の機能変化を誘導し、
 自己免疫の発症の誘因になることも明らかになっている。
 これら神経-免疫-内分泌系の研究も重要な課題である。
 プラシーボ効果や、心身症、精神腫瘍学などがこの分野に含
まれる。
(資料ー2):
 心身医学(しんしんいがく、英語:psychosomatic medici
ne)は、患者の身体面だけではなく心理・社会面を含めて、
 人間を統合的に診ていこうとする全人的医療を目指す医学の
一分野である。
 心身医学を実践している診療科が心療内科(しんりょうない
か)である。
(資料ー3):
 うつ病は、従来診断においては「こころの病気」である神経
症性のうつ病と、「脳の病気」である内因性うつ病と別々に分
類されてきたが、2010年現在多用されている操作的診断では
原因を問わないため、うつ病は脳と心の両面から起こるとされ
ている。
(資料ー4):
 「脳の病気」という面では、セロトニンやノルアドレナリン
の不足を原因とする仮説に基づく場合では、
 脳内に不足している脳内物質(セロトニン、ノルアドレナリ
ンなど)の分泌を促進させる薬物治療を行う。
 これが日本国内では心療内科や精神科におけるうつ病治療の
主流になっている。
(資料ー5):
 心理的ストレスを長期間受け続けるとコルチゾールの分泌に
より、海馬の神経細胞が破壊され、海馬が萎縮する。
 心的外傷後ストレス障害(PTSD)・うつ病の患者にはその
萎縮が確認される。
(資料ー6):
 脳内物質、脳内ペプチドとメンタルヘルス :セロトニン、
ドーパミン、βエンドルフィンなどの脳内ペプチド、または、
 脳内ホルモンと呼ばれる物質が、心の状態に関与しているこ
とはご存知の方も多いと思います。
 抗うつ剤は、脳内でこれらの物質のどれかを増やしたり、分
解されるのを遅らせたりして、心の症状を緩和しようとします。
(資料ー7):
 本当は心の状態が変われば、その結果として脳内ペプチドは
健全なレベルに戻るのです。

キリスト教の性悪説の心のストレスを受け続けると心の病気になる。

 題:キリスト教の性悪説の心のストレスを受け続けると心の
病気になる。

...(真を求めて 皆様と共に幸せになりたい)

.
 キリスト教の性悪説の精神的ストレスを常に受けていると、

精神的な病状の状態になる。

 その病的な状態は、心と脳によって起きる。

 長期間の精神的ストレスによって海馬の神経細胞が破壊され、

海馬が萎縮する事から起きるという。

 その様なストレスがなくなれば(キリスト教の性悪説による

精神的ストレスがなくなれば)健全レベルになる。
(資料ー1):

 精神神経免疫学(せいしんしんけいめんえきがくPsychoneu

roimmunology:PNI)は、脳、行動、免疫系の相互作用を研究

する精神神経医学、心身医学の一分野である。

 この言葉はRobert Ader と Nicholas Cohen により1975年

にロチェスター大学(University of Rochester)で初めて用いら

れた。
 種々の外的ストレスが自律神経や内分泌系を介して免疫系の
調節していることも明らかになっており、

 精神的ストレスが内分泌系や交感神経を介して末梢の免疫細

胞の機能変化を誘導し、
 自己免疫の発症の誘因になることも明らかになっている。

 これら神経-免疫-内分泌系の研究も重要な課題である。

 プラシーボ効果や、心身症、精神腫瘍学などがこの分野に含

まれる。
(資料ー2):

 心身医学(しんしんいがく、英語:psychosomatic medici

ne)は、患者の身体面だけではなく心理・社会面を含めて、

 人間を統合的に診ていこうとする全人的医療を目指す医学の

一分野である。

 心身医学を実践している診療科が心療内科(しんりょうない

か)である。
(資料ー3):

 うつ病は、従来診断においては「こころの病気」である神経

症性のうつ病と、「脳の病気」である内因性うつ病と別々に分

類されてきたが、2010年現在多用されている操作的診断では

原因を問わないため、うつ病は脳と心の両面から起こるとされ

ている。
(資料ー4):

 「脳の病気」という面では、セロトニンやノルアドレナリン

の不足を原因とする仮説に基づく場合では、

 脳内に不足している脳内物質(セロトニン、ノルアドレナリ

ンなど)の分泌を促進させる薬物治療を行う。

 これが日本国内では心療内科や精神科におけるうつ病治療の

主流になっている。
(資料ー5):

 心理的ストレスを長期間受け続けるとコルチゾールの分泌に

より、海馬の神経細胞が破壊され、海馬が萎縮する。

 心的外傷後ストレス障害(PTSD)・うつ病の患者にはその
萎縮が確認される。
(資料ー6):

 脳内物質、脳内ペプチドとメンタルヘルス :セロトニン、

ドーパミン、βエンドルフィンなどの脳内ペプチド、または、

 脳内ホルモンと呼ばれる物質が、心の状態に関与しているこ

とはご存知の方も多いと思います。

 抗うつ剤は、脳内でこれらの物質のどれかを増やしたり、分

解されるのを遅らせたりして、心の症状を緩和しようとします。
(資料ー7):

 本当は心の状態が変われば、その結果として脳内ペプチドは

健全なレベルに戻るのです。