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2015年10月3日土曜日

(増補版)218D2/3:気になった事柄を集めた年表(1827年~1827年)

題:(増補版)218D2/3:気になった事柄を集めた年表(1827年~1827年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1827年(文政10年)10月、幕府が、江戸三座の座元・役者に
 衣装の華美禁止や、火の用心を申し渡した。
1827年11月、小林一茶(こばやしいっさ、俳人)が没した
 (1763年~1827年)(65歳)
1827年11月、加賀藩邸の赤門(現東京大学赤門)が完成し
 た(旧加賀藩上屋敷御守殿門)。
  将軍・徳川家斉の娘・溶姫(ようひめ)が前田家に嫁
 したときに造られ、この年・1827年(嫁す前年)に完成
 した。
  大名に嫁した将軍家の子女、あるいはその居住する奥
 御殿あるいは御住居(おすまい)と称し、その御殿の門
 を丹塗(にぬ)りにしたところから俗に赤門と呼ばれた。
  因みに、東京開成学校と東京医学校が合併して東京大
 学ができたのは1877年。
1827年12月、薩摩藩の財政改革が始まる。
  幕府は、大名管理から、よく氾濫する木曽川・長良川・
 揖斐川の3河川の治水工事を、薩摩藩に命じた(1754年)。
  財政窮乏状態の薩摩藩は、必死にこの工事を行った。
  文政年間の薩摩藩は、負債500万両、年間の利子の支払
 いが60万両という、途方もない額の借金だった。
  藩の年間収入総額が10数万両で、金利支払いにも遠く
 及ばない状態で、破産と背中合わせだった。
  ここに調所広郷(ずしょひろさと)が登場した。
  調所の身分は低かった。
  25代薩摩藩主・島津重豪(しまづしげひで)は、調所
 を取り立て、藩の財政改革を命じた。
  調所は、この年・1827年に財政改革主任となり、死力
 を尽くしての財政再建を始めた。
  税収向上のため、物産の確保に力を入れた。
  薩摩藩の名産・黒砂糖の専売強化を図るため、奄美三
 島(奄美大島、徳之島、喜界島)への管理を徹底し、
  次いで、琉球を通した清国との貿易を盛んにした。
  さらに米、菜種その他の国産品改良や密貿易などで利
 益をあげた。
  その一方、借金の棒引きを必死にやった。
  また、「250年の年賦返済、および無利子償還とする」
 などと勝手に決めて、商人に一方的に通達した。
  1840年に至り、財政再建をほぼ完了した。
  調所が改革に着手して以来、13年の後のことだった。
  天保年間の終わり(1844年頃)には、藩庫備蓄金50万
 両のほか、諸営繕費用が200万両余に達したという。
  財政改革の功により調所は家老となった。
  しかし、幕府より密貿易を問われ、1848年に急死した、
 自殺と言われている。
1827年、西郷隆盛(さいごうたかもり、薩摩藩士)が、鹿
 児島で生まれた(1827年~1877年)
  誕生年に1828年説あり。
  下級藩士・西郷吉兵衛隆盛の長男。
  幼名は小吉、通称は吉之介、号は南州(なんしゅう)
  出生地:薩摩国鹿児島城下下加治屋町山之口馬場
  青年時代に、地方役人を勤め、農民生活の悲惨な実態
 に触れ政治の改革を志した。
  1854年の27歳の時に、藩主・島津斉彬(しまずなりあ
 きら)に見い出されて秘書役を勤め、一橋慶喜の将軍擁
 立運動に奔走した。
  この時、各藩の志士と相知った。
  しかし、安政の大獄(1858年~1859年)が始まり、ま
 た、斉彬の死にあって、隆盛には困難な状況が続く。
  1858年の31歳の時に、同志の僧月照とともに、鹿児島
 湾に投身したがひとり助かって、奄美黄島に流された。
  1862年の35歳の時に、許されたが、斉彬死後の実権者・
 島津久光に嫌われ、また、沖永良部島に流された。
  1864年の37歳の時に、許され、第1次長州征伐の総参謀
 として長州藩を降伏させた。
  1866年の39歳の時、一転して薩長連合の盟約を結び、
 倒幕体制を整えた。
  1867年の40歳の時、大政復古への道を開いた。
  戊辰戦争には、官軍の東征大総督府参謀として、幕府
 の勝海舟と歴史的な会見を行い、江戸城を無血開城させ
 た。
  その後、政府の方針にあき足らず帰郷したが、引き出
 されて上京した。
  1871年の44歳の時、参議となった。
  1873年の46歳の時、征韓論を主唱し敗れて辞職した。
 帰郷して私学校を開き不平士族を集めた。
  1877年の50歳の時、不平士族に推されて、西南の役を
 起こし、敗走して城山で自殺した。
  因みに、隆盛が、父と同じであるが、王政復古の章典
 で、位階を授けられるとき、親友の吉井友実が誤って、
 父・吉兵衛の名を届けたため、それ以後は、父の名を名
 乗ったためだった。
1827年、中浜万次郎(なかはままんじろう、幕臣)が生ま
 れた(1827年~1898年)ジョン万次郎ともいう。
  土佐国中浜浦の漁師の次男として生まれた。
  1841年の13歳のとき、出漁中に台風に遭い、漂流し、
 鳥島に漂着した。
  アメリカの捕鯨船船に救われ、アメリカに渡った。
  アメリカで教育を受け、
  1850年に、メキシコを出発し、ハワイに居住していた
 仲間と共に、中国へ行くアメリカ船に乗った。
  1851年に、琉球の近海でボートに移乗し、琉球に上陸
 した。そして、薩摩に送られ、後に長崎に送られ、
  そして、1852年7月の25歳の時に、土佐に帰国した(
 1851年の帰国説あり)。
  1852年12月に、小型ではあるが、造船の技術があるこ
 とによって、最初、土佐藩の定小者として用いられるが、
  1853年に、幕府に用いられ、武士としての苗字・中浜
 を授けられた。
  ペリー来航時には、重用され、翻訳をした。
  そして、捕鯨の指導、軍艦繰練を教えた。
  1860年に、通訳として咸臨丸(かんりんまる)で再度、
 アメリカへ行った。
  1861年には、小笠原島の調査を勤め、
  1864年に、薩摩藩へ行き、軍艦操練や英語を教えた。
  維新後は、英語教育にあたった。
  ジョン万次郎は、井伏鱒二の小説に由来するもので特
 別の名ではない。
..
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2015年10月2日金曜日

臨時ブログ:岐阜県の八百津町が日本を貶(おとし)める行為をしようとしています。

臨時ブログ:岐阜県の八百津町が日本を貶(おとし)める行為をしようとしています。
 日本は、ユダヤの方々を迫害などしていません。
 逆に、手を差し伸べ、助ける行為をしていました。
  (真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑記)
拝 啓、
  岐阜県八百津町が、世界に誤解を与える行為をしよう
 としております。
  日本がユダヤの方々を迫害していたという論調です。
  それ故、杉浦千畝大使がユダヤの方々を救ったという
 論調です。
  その論調でユネスコの記憶遺産に登録しようとしてお
 ります。
  これは日本を貶める行為です。
  嘘の申請行為です。
  日本を貶めるこの嘘の行為で、また、日本がバッシン
 グに遭う危惧を持っております。
  是非、本行為を止まらせるためにお力をお貸しくださ
 い。
  下記は、八百津町へ送信した文です。
  是非、御一読賜わり、お力をお貸し戴きたく、お願い
 申し上げます。
                敬 具
追伸:キリスト教は、杉浦千畝がキリスト教徒という
 事でこの事をでっち上げました。
  この話は、キリスト教のプロパガンダ(嘘宣伝)
 です。
.
ーーー(岐阜県八百津町への送信文)ーーーー
岐阜県八百津町 町長殿
 拝 啓
  貴方は、第2次大戦中に、ビザを独自の判断で発給し、
 多くのユダヤ系避難民を救った外交官・杉原千畝関係の
 記録である「杉原リスト」で、ユネスコ記憶遺産の登録
 を得ようとの申請をなされました。
  しかし、これは、間違った申請です。
  また、嘘の申請です。
  デッチ上げと言われる申請となっています。
  公的機関としての貴市の行為として、正しくありませ
 ん。
  是非、すぐに、申請を取り下げて戴きたくお願い申し
 上げます。
  真実だという裏付けを持っていらっしゃるのでしょう
 か?
  公的機関として、この申請行為で被害を受けた方の
 万一の訴訟の提起でも、正しいのだとの証拠と論理をお
 持ちなのでしょうか?
  小生の得ている情報からの判断では、当時は、アメリ
 カもこの様なユダヤの方々へのビザの発給はしていまし
 たし、イギリスも行っていましたし、また、日本も行っ
 ていました。
  明らかに貴市の申請は間違っております。
  明らかに貴市の申請の前提は崩れて居ります。
  貴市の行為は、少なくとも一般大衆の方々への誤認混
 同を起こす不誠実な行為となっています。
  不誠実な行為を行なっています。
  ユーチューブでも、大使をなされていた方・馬淵睦夫
 さんが、当時は、日本はユダヤの方々にビザを発給する
 事を止めていた訳ではなく、
  また、杉浦千畝大使以外の大使の誰でもが、ユダヤの
 方々へのビザの発給はしていましたと言われています。
  杉浦千畝大使だけがしたという特別な行為ではありま
 せん。
  また、ナチスの迫害を受けていたユダヤの方々が、満
 州へ逃げて来た時に、日本はその逃避して来たユダヤの
 方々を、受け入れている史実があります。
  (当然、日本は、日本本土にユダヤの方々を受け入れ
 ております)
  また、日本がユダヤの方々の迫害をしていたという史
 実はありませんし、
  逆に、ユダヤの方々への迫害をしていなかったという
 史実は沢山あります。
  韓国などででっち上げられている戦時中の慰安婦の問
 題などと同じく、貴市の行為は、「日本がユダヤの方々
 を迫害していた」という事実と反する事になり、杉原千
 畝のことを美しく言う面とは逆の面が、その嘘の面が、
 世界に晒されることになります。
  日本を貶める行為はしないで戴きたくお願い申し上げ
 ます。
  公的な立場である貴市は、特に、この様な、嘘行為は
 止めて下さい。
  すぐに、申請は取り下げて下さい。
  貴市の行為は読売新聞(2015・9・25)で知りました。
                     敬 具
..
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2015年10月1日木曜日

(増補版)217D2/3:気になった事柄を集めた年表(1826年~1827年)

題:(増補版)217D2/3:気になった事柄を集めた年表(1826年~1827年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1826年(文政9年)2月、幕府が、古金銀の適用期限をさらに
  延長した。
1826年3月25日、ドイツ人医師シーボルトが、オランダ商館
 長の江戸参府(将軍謁見)に随行した。
  そして、シーボルトは、「江戸参府紀行」に下記の様
 に記した。
  「古湯の公衆浴場は、竹の生垣で囲まれたワラ葺き屋
 根の簡素な造り。見張所や休憩所を備える。浴槽は長さ
 6フィート(約183cm)、幅はその半分。湯の色は透明、
 臭いは弱いが硫黄を含み、湯温は90度超、卵が数分でゆ
 で上がった」・・と。
  この温泉は、長崎から江戸への途上の佐賀県の「嬉野
 温泉」だという。
  シーボルトたちは、長崎を2月10日ごろに発ち、約2ヶ
 月後の、4月10日に、江戸に着いているという記述もある。
  シーボルトは、江戸に約1ヶ月滞在している。
1826年4月9日、高橋景保(天文方)が、日本地図を持参し
 てシーボルトを訪問し、外国書との交換を約束した。
  地図は、禁制品であったが、シーボルトが依頼した。
  高橋景保は、シーボルトに写しを渡すことに同意した。
  シーボルトは、江戸へのこの旅行で、1000点以上の植
 物標本が収集できた。
  シーボルトは、間宮林蔵の蝦夷地で採集した標本も、
 手に入れたくて、
  間宮宛に丁重な手紙を書き、また、布地の贈物と共に
 送ったくらい、種々のものを収集したかった。
  このシーボルトから受け取った手紙が発端となり、高
 橋景保らが捕らえられる。
  シーボルト事件は、1828年9月に起きる。
  この事件で、幕府天文方・書物奉行の高橋景保ほか十
 数名が処分され、景保は獄死する事になる。
  シーボルトも処分された。
  シーボルトは、景保にクルーゼンシュテルンの「世界
 周航記」などを贈り、景保から伊能忠敬の「大日本沿海
 輿地全図」の縮図を貰っていた。
1826年5月、夜間、市中が物騒なため、幕府は、火付盗賊改
 めに、強盗・殺人見回りを強化するよう命じた。
1826年6月、武家屋敷地内町人貸与禁止
  幕府が、武士が武家屋敷を町人に貸して利益を得るこ
 とを禁止した。
1826年7月、幕府が、市中の夜間警備強化の扶持として、57
 カ町の居住地主・名主に、1,840両を交付した。
1826年7月、青地林宗(あおちりんそう、蘭学者)が、世界各
 国地誌の大要を翻訳した「輿地志略(よちしりゃく)」
 が完成した。
  輿地志略は、ヒューブナー(ドイツ人)のオランダ語
 訳の「一般地理学」を翻訳した書。
  世界各国の地誌を記したもの(7巻)。
1826年9月8日、大槻玄択が、杉田玄白らが出した解剖学書
 の「解体新書」を、改訳増補した「重訂解体新書(ちょ
 うていかいたいしんしょ)」が刊行された。
  解体新書は、初めての西洋語からの翻訳という事から、
 誤訳が多かったため、
  そして、蘭学も発展し、オランダ語の研究も進んだこ
 とから、
  杉田玄白は、高弟の大槻玄沢に「解体新書」を訳し直
 すように命じていた。
  これには、大槻玄沢以外の蘭学者も関わっていること
 が分かる。
  図などは、はるかに鮮明になっている。
1826年9月、幕府が、関東の無宿人・農民・町人が長脇差を
 携帯することを禁止した。
1826年10月、近藤守重(通称:重蔵、北方探検家)が、長
 男・富蔵の殺人事件に連座し、近江大溝藩に預けとなっ
 た。
  この事件は、土地争いで隣家の人を斬った。
1826年12月、尾張藩が江戸に米立会所を設立した。
1826年12月、岩垣松苗(いわなぎまつなえ、儒者、=岩垣
 東園)が編纂した、神代から1588年までの漢文編年体歴
 史書の「国史略(こくしりゃく)」が刊行された。
  史実記事と論評を付している。
1826年12月、藤田幽谷(ふじたゆうこく、儒学者、水戸藩
 士)が没した(1774年~1826年)
  商家の生まれであるが、15歳の時、彰考館生に抜擢さ
 れて、1791年の17歳の時に、士分となった。
  また、1807年び33歳の時に、彰考館総裁にもなった(
 門下に尊王攘夷派の志士が多く出た)。
  そして、「大日本史」の編集にあたった。
1826年~1866年、イギリスが、ビルマ(現:ミャンマー)
 を併合した。
  1824年に、イギリスは、ビルマへの攻撃を始めて、こ
 の年・1826年に、戦争に勝利し、ビルマを併合した(ヤ
 ンダボ条約)。
  日本は、朝鮮半島を話し合いで、戦争をしないで、話
 し合いの納得の上で併合した(韓国は色々言っているが?)。
  この後、このイギリスとビルマの2国は、二度も、戦争
 をする。
  何しろ、イギリスは、強力な武力で蹂躙して行った。
1826年、オスマン帝国が、イェニチェリ制を廃止した。
  イェニチェリは、14世紀から始められたオスマン帝国
 の常備歩兵軍団の事で、火器(火薬の力を利用して弾丸
 発射する兵器)で武装した最精鋭であった。
  銃が開発されると、いち早く銃を取り入れ、組織的に
 運用した。
  他国に先んじていた事は甚だしく、他国は16世紀後半
 に重要視されるようになった(200年以上を要した)。
  この点、日本は、銃が伝来すると、いち早く国内生産
 ができる様になり、そしてさらに、世界一の銃の保有国
 になるという、日本の明晰な判断力は優れていて素晴ら
 しい。
1826年、オームの法則。オーム(ドイツ)が発見した。
  しかし、この発見について、既に、1781年に、ヘンリ
 ー・キャヴェンディッシュ(イギリス)が、発見し、
  1879年に、マクスウェルが、電気学論文集を出版する
 まで未公表であったとして、オームは、再発見だという
 話がある。
  この様な話は、特許の上で、アメリカが良くやる手で、
 特許の場合、発明ノートなどを詳しく調べ、本当に、先
 発明をしていたかの調査を行なっている。
  (アメリカは、重要特許をこの手で奪う事を良くして
 いる。この類の話は注意すべきである)
  しかし、このマクスウェルの場合、その様な調査をし
 たかが不明で、発見があったのか(完成していたのか?)、
 または、発見一歩手前で未完成だったのか?など不明。
  安易な再発見説の採用は疑問。
  ヘンリー・キャヴェンディッシュは、寡黙で人間嫌い
 の性格だった(だから発表しなかった)などという話は
 後付け話か?
1827年(文政10年)1月、幕府が、市中の消防に備え、竜吐
 水(りゅうどすい)・独竜水(どくりゅうすい)・玄蕃
 桶(げんばおけ、2人で担ぐ大桶)・水鉄砲を備え付けさ
 せた。
1827年1月、岡山鳥(さんちょう)作・長谷川雪旦(せったん)
 画の「江戸名所花暦」が刊行された。
  19世紀の江戸の四季の花の名所を記した・・江戸の代
 表的な行楽案内書・・
  隅田川の雪:すみだ川水のうへにもふる雪のきえのこ
 るは都鳥かも・・
  春は鶯、梅、桜・・夏は蛍、納涼、蓮・・秋は萩、月、
 虫・・冬は寒梅、松、枯野、雪見・・など、四季折々の
 花鳥風月を計43項目に分類・・それぞれの名所・名木の
 解説、由来、場所・・
1827年3月、将軍・家斉が、太政大臣に任命された。
  征夷大将軍従一位左大臣源朝臣(徳川家斉、左近衛大
 将兼任)
  正二位行権大納言藤原朝臣家厚(花山院家厚、院執権
 兼帯)宣(の)る
  勅(みことのり)を奉(うけたまは)るに、件人(く
 だんのひと)宜しく太政大臣に任ぜしむべし者(てへり)
  文政10年2月16日
1827年3月、大槻玄沢(おおつきげんたく、蘭方医、蘭学者)
 が没した(71歳)
  江戸蘭学の興隆を導いた功労者の一人だった。
1827年3月、産業振興・官営商業・貿易展開を説いた佐藤信
 淵(さとうのぶひろ、農政学者)の経世論「経済要録(け
 いざいようろく)」ができた。
  総論・創業篇・開物篇・富国篇の4篇、全15卷からなり、
 「産業を興し、国を富ませて、人民を救済せよ」と説い
 ている。
1827年5月、頼山陽(らいさんよう、儒者、勤王家)が、
 江戸で「日本外史(にほんがいし)」を完成し、松平定
 信に贈呈した(2年後刊行)。
  頼山陽が20余年の歳月を費やして書いた。
  源平の両氏から徳川氏まで、政権が武門に帰した由来
 を、史論をはさみつつ書いている。
1827年5月、幕府が、衣服華美の禁を犯した芸妓らを処罰
 した。
1827年7月29日、幕府が、婦女と医師以外の日傘の使用を禁
 止した。
  女性には優しかった幕府、そして、日本。
1827年9月、前薩摩藩主の島津重豪(しまづしげひで)が、高
 輪の藩邸の蓬山園内に聚珍宝庫(博物館)を設置した。
  島津重豪は、38年間、藩主の地位にあったが、隠居後、
 自ら収集した多数の日本および海外の「奇物異産」を収
 める博物館と言うべきものを作った。
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2015年9月29日火曜日

(増補版)216D2/3:気になった事柄を集めた年表(1824年~1825年)

題:(増補版)216D2/3:気になった事柄を集めた年表(1824年~1825年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1824年、英蘭協約(えいらんきょうやく)が結ばれた。
  イギリスとオランダとの間で、アジアにおける両国の
 勢力範囲が確定された。
  1819年のイギリスのシンガポール占領をきっかけに、
 これに反対するオランダとの間に外交交渉が行われてい
 た。
  オランダは、インド、および、マレー半島の商館と領
 土を放棄し、
  また、イギリスも、スマトラ島にあった領土と商館を
 放棄し、
  マラッカ海峡を境界線として、両国の勢力範囲が決め
 られた。
  この条約によって、オランダの植民地は縮小し、イギ
 リスの世となった。
  オランダの地は、インドネシアのオランダ領東インド、
 オランダ領ギアナ、スリナム、日本の出島となった。
  列強が、アジアの地の、うまい汁を吸う所を獲りあっ
 って駆け引きしていた。
1824年、ビルマ戦争が起きた(~1886年)
  イギリスとビルマ(現・ミャンマー)との間に3回に渡
 って起きたイギリスの侵略戦争(~1886年)
  63年間もの長い間、収奪地の拡大を目的に行われたイ
 ギリスの横暴な武力誇示行為の戦争。
  第一次戦争は、1824年から1826年に渡って行なわれた。
  イギリスに反抗して、コンバウン朝(アラウンパヤー
 朝)は、東部ベンガル(今のバングラデシュ)地方のイ
 ギリス侵略行為に対してを戦った。
  イギリスは、絶え間なく19世紀の間、ビルマ戦争(18
 24年~1886年)を行なって、ビルマ侵略をし、植民地と
 した。
  イギリスは、この侵略戦争を謝罪していない。
1825年(文政8年)1月、初代の歌川豊国(うたがわとよくに、
 浮世絵師)が没した(57歳)
1825年2月、異国船打払令(いこくせんうちはらいれい)
  幕府が、諸大名に異国船打払令を出した(無二念打払
 令)。
   外国船が、しばしば来訪し、上陸や、暴行事件が起
 きたため、江戸幕府が発した。
  第11代将軍、徳川家斉(いえなり)の時である。
  19世紀初め、北太平洋で操業するアメリカ・イギリス
 の捕鯨船が、日本近海を航行し、水、食料を求めて頻繁
 に渡来し、諸藩は沿岸警備をし、苦慮していたが・・、
  1808年のフェートン号事件や、1824年の大津浜事件と
 宝島事件などを受けて発令された。
   無二念打払令・文政の打払令・外国船打払令ともいう。
  「異国船はこれを発見しだい、二念なく打ち払うべし」
 とあった。
  1842年に、廃止した。
1825年7月、4世・鶴屋南北(つるやなんぼく)作「東海道
 四谷怪談(とうかいどうよつやかいだん)」が、江戸中
 村座で初演された。
1825年7月、幕府が、新金銀の引き換えが進まないため、古
  金銀の通用期限を、文政10年1月まで延長した。
  1824年の触書では、1825年までの通用であったが、延
 期して1827年2月(文政10年1月末)までとした。
1825年11月、諸国が凶作のため、将軍・家斉の日光社参が、
 再度、延期された(または中止)。
1825年12月、幕府が、酒株(さけかぶ)を所有しない者、
 所有していても1807年以後、休株・無営業である者の酒
 造を禁止した(文政10年解除)。
1825年12月、青地林宗(あおちりんそう、医師、蘭学者)
 が、日本最初の物理学書「気海観瀾(きかいかんらん)」
 をまとめた(文政10年刊行)。
  幕府の天文台訳員となり外国文献を、多数、訳した。
  気海観瀾は、西洋の理科書を抄訳(ところどころを抜
 き出して翻訳すること)し、物質の定義や、力学や自然
 現象を図解して説明した。
  引力、温質、気性、気種、清気、燃気、硬気、吸気、
 光、色、音、エレキテル、気化、雲、雨、電雷、虹、水
 性、験水、潮汐などの40項目にわたり、
  19世紀初頭のヨーロッパの物理・化学の基礎的知識が、
 簡潔に記述されている。
1825年、滝沢馬琴の合巻「傾城水滸伝(けいせいすいこで
 ん)」初編が刊行された。
   当時、たいへんに人気を博したので、版木が摩耗して
 しまい、二度彫り直して3版まで出版されたという。
1825年、本居宣長(もとおりのりなが、国学者)の神道書
 「直毘霊(なおびのみたま)」が刊行された。
  宣長の古道論の精髄を示しているという。
  「日本古代にあったのは、したがうべき教義として意
 識されず、なんらの人智を加える必要もなかった〈物に
 ゆく道〉であるとする信念から、ただ神意にまかせる〈
 惟神(かんながら)〉の道を説く」とある。
1825年、化粧の流行
  この頃、江戸での女性の化粧が、上方風に襟首に白粉
 を厚く塗る女性の化粧が流行した。
1825年、雷電為右衛門が没した(1767年~1825年)
1825年、ジャワ戦争が起きた(~1830年)
  この戦争は、インドネシアで、ジャワ人が起こしたオ
 ランダに抵抗する戦争で・・、
  オランダの経済政策に対する不満が契機となった。
  オランダは、ナポレオン戦争で、本国の財政はひっ迫
 していた。
  その為、より強く植民地からの収奪を強めようとした。
  また、オランダの支持を受けた王位継承者がからんだ。
  ジャワ軍は、ジャワの人々は、必死にオランダ軍に対
 して果敢な抵抗を展開したが、近代的な軍備を整えたオ
 ランダ軍にはかなわなかった。
  結局、このオランダ軍にしろ、そして、イギリスにし
 ろ、進んだ武器によって、力によって、植民地の人々は
 押え込まれた、そして、利益の押え込みもされた。
  勝利したオランダは、さらに、1830年から強制栽培制
 度をジャワの方々へ課して、より収奪を強めて行く。
  オランダの都合の良い作物を、強制的に栽培させると
 いう横暴きわまる制度を行なった。
..
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2015年9月28日月曜日

(増補版)215D2/3:気になった事柄を集めた年表(1823年~1824年)

題:(増補版)215D2/3:気になった事柄を集めた年表(1823年~1824年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1823年(文政6年)、大旱魃(かんばつ)となる。
  藩財政が困窮した(豊後岡藩など)。
  農民の一揆なども起きた。
  田の水争いが起きた。
  京都神泉苑など各地で雨乞いをする。
  4月~6月に、関東地方は干害と風水害との記述もあり。
  岸和田藩主は、郷内の宿老を集め代参を立てて祈雨の
 祭典を修め・・の記述もある。
1823年、幕府が、中央に新たに「外国総奉行」を設置した。
  日本各地に役人を配置した。
  幕府が、日本人の海外渡航に関する規制を緩和した。
1823年、ロンドン気象学会が創立された。
  イギリス(王立)気象学会の前身。
1823年、ラクビーの始まり
  イギリスのラクビーの町で、フットボールの試合中、
 エリスという少年がいきなり球を抱えて走り出し、ここ
 にラクビーが始まった。
1824年(文政7年)2月、幕府が、南鐐二朱銀(なんりょうに
 しゅぎん)の改鋳を命じ(この年に発行の文政二朱銀の総
 称)、3月から通用を始めた。
  南鐐とは、銀の美しい良質の銀を意味している。
1824年3月、「近世職人尽絵詞(きんせいしょくにんづくし
 えことば)」などを描いた浮世絵師の鍬形蕙斎(くわがた
 けいさい、北尾政美・きたおまさよしともいう)が没し
 た(64歳)
  津山藩松平家の絵師だった。
  近世職人尽絵詞は、肉筆画の傑作と言われており、江
 戸における多種多様な職業に従事する人々を、軽妙かつ
 生き生きと描いている。
1824年5月、幕府が、一朱金(いっしゅきん)の新鋳を命じ
 (文政一朱金。江戸時代の金貨のうち最悪質なものと言
 われている)、 7月から通用を開始した。
  金品位は12%で不評だった。
  財政収入の増加を目的に発行したが、低品位の悪評で
 長く流通しなかった。
  1840年に、通用停止とした。
1824年5月、常陸・大津浜事件(おおつはまじけん)
  イギリス船2隻が、常陸に来て、イギリス捕鯨船員11
 名(12名の記述も)の常陸上陸事件が起き、水戸藩藩兵
 が捕らえ留置し、尋問した(密貿易の疑いもあった)。
  結局、水と野菜が欲しいという事で、幕府は、これら
 を与え、2か月足らずの後に釈放し、退去させた。
  徳川斉昭(とくがわなりあき)の水戸藩を中心に攘夷
 熱が高まった。
  また、イギリス船員が、薩摩・宝島(現:十島村)の
 牧牛を強奪しようとしたことから役人との間で銃撃戦と
 なり、イギリス人1名を射殺したとの記述もある。
  このイギリス船(捕鯨船)は、常陸沖で、日本の捕鯨
 船に対する海賊行為を行なったり、
  また、領海侵犯であったため幕府軍艦は拿捕した。
  外交問題となった。
  幕府は、国防の進展と日本近海の調査が促された。
  この後、薪水給与を停止して、異国船打払令が出され
 ていく。
1824年8月、諸国洪水。
  関東・東北大風雨による大洪水。
  江戸では、隅田川の出水で永代橋が破損し、本所・深
 川が浸水した。
  荒川出水、佐倉村方面洪水氾濫。田畑、山林、家屋な
 ど流失。
  8月14日より15日、終日、大風雨、洪水氾濫、阿武隈川
 土手破損。
  1824年8月17日、静岡、当日から約3日間、北から風雨
 激しく、大波や大水害を受ける。
  1824年8月15日、大洪水にて新町裏決壊す(白石市記録)
1824年閏8月、江戸西両国広小路にて、らくだ2頭が見世物
 となった。
  1日に観覧客が5000人を超える日があったという。
  歌川国安の絵にも描かれている(駱駝之図)。
  「甲子夜話」に「今年、駱駝、長崎よりこの都に来れ
 り」と、雄雌の一頭ずつが見世物になったとある。
1824年9月、平田篤胤(ひらたあつたね、国学者)の「古道
 大意(こどうたいい)」が刊行された。
  1811年に完成していた神道書。
  篤胤の講演を、門人が筆録した講義ノート。
  篤胤は、1809年の34歳頃より、江戸で広く、一般の人
 たちに対して、古道、儒道、仏教などの講説を始めた。
1824年、佐藤一斎(さとういっさい、儒学者)が、「言志
 四録」の1巻「言志録(げんしろく、倫理書)」を刊行し
 た。
  学問・修養の方法、哲学的思索、人生観について述べ
 ている。
1824年、中沢道二(なかざわどうに、心学者)の道話(心学)
 を編集した「道二翁道話(どうにおうどうわ)」が刊行
 された。
  人間の「本心」の究明のために、儒書・仏書はもちろ
 ん、広く和歌や文芸作品なども引用して、加えて庶民の
 多様な日常生活の体験を素材にし、分かりやすく説いた。
1824年頃、この頃、両国のすし職人の花屋与兵衛が、にぎ
 り鮨を創案した。
1824年、大村益次郎が生まれた(1824年~1869年)
  益次郎は、明治になって軍政の創始者となった。
  長州藩の医家に生まれ、
  初め、蘭学者の梅田幽斎や緒方洪庵に学んで医師にな
 った。
  長崎で学んだりし、また、父母を養うため帰郷して医
 を開業したが振るわず、宇和島藩に迎えられる。
  そして、西洋兵書を翻訳したり、軍艦製造などを指導
 した。
  欧州兵学の知識をもって、宇和島藩主の伊達宗城の推
 挙で、幕府の蕃書調所に仕え、講武所教授に就任。
  この間、ヘボンに英語を学ぶ、
  名声を聞いた長州藩に呼び戻され、帰藩して兵学を教
 え、
  長州藩の兵制改革に携わり、武器軍備を改良し、力量
 を発揮した。
  長州再征(1866年6月)には、総参謀として、優れた戦
 術で幕府軍を壊滅的に破った。
  戊辰(ぼしん)戦争(1868年1月~1869年)には、討幕
 軍として上洛、
  そして、江戸に出て、彰義隊攻撃の指揮官をつとめた。
  北越の平定作戦にも携わった。
  戦局を大局から、総合的な視点で捉え、軍略は戦う前
 から必勝の成算をうかがわせた。
  五稜郭の戦いの情勢判断においても、西郷隆盛より正
 確な情勢判断力があった。
  西郷は、大村に諌められ、その通りに戦局は推移した。
  西郷は、大村の卓見に感服し、「我誤てり面を合はす
 に恥づ」と、そのまま西郷は帰郷した。
  維新後、1869年(明治2年)に、兵部大輔となり、
  兵権の中央政府への統一をはかったが、その急進的な
 兵制改革は、守旧士族の反感を招き、
  神代直人らに、京都で襲われて、重傷を負い、大阪で
 没した。
  大村の意図は徴兵制度に結実した。
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