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2013年11月27日水曜日

「ナザレのイエス」というが・・・、

 題:『ナザレのイエス』というが・・・、
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
 キリスト教聖職者は説教する。そして、以下の事を言う。
 『イエスは、イザヤ書を愛読し、そらんじていました』
・・・と。
 そして、例としてあげたキリスト教聖書の聖句は3つで
した。
 下記は、その聖職者のあげた聖句の1つ(「ルカによる
福音書」4・17)です。
 そして、その聖句を読んでみると・・・、
 (「ルカによる福音書」4・17)には、
 「(イエスへ)預言者イザヤの巻物が渡され、お開きに
なると、次のように書いてある個所が(イエスの)目に留
とまった」・・云々。
 ・・・そして、ここを読んで感じたことが下記の(注)
でした。
 (注):
 ここの聖書の文は、
 イエスが、生まれ故郷のガリラヤで伝道を始めようとし、
 ガリラヤでの伝道をする様子を描いたところの文で、
 イエスが、ある会堂で、人々を前にして、ユダヤ教の聖
書を朗読をしようとして立った時、
 誰かからイエスへ巻物が渡されたという、
 ただ、その情景を説明している文・内容だけなのだが、
 そして、
 イエスがユダヤ教の聖書をそらんじていたなどと、この
キリスト教聖職者は説教していますが、
 上記の記述のように、「ある個所に目が留まった」とい
うことで、イエスの頭には予定して無かったことに目が行
ったという意味。
 この様な感じで、イエスは人々の前で話をするという事、
 ユダヤ教の聖書を朗読するという事をしていたという事
が分かる。
 そして、イエスが、目に留まって読んだところは、
 「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告
げ知らせるために、主がわたしに油を注(そそ)がれたか
らである」・・・。
 ここの「わたし」は、「イザヤのことを示している」。
 イエスのことではない。
 つまり、イエスは、『イザヤ書』を人々の前で読んだ。
 主人公は、『イザヤ』である。
 そして、そのイエスが読んだ中味は、
 「キリスト教の神が、イザヤのところに居る。
 そして、キリスト教の神は、イザヤに福音を知らせるた
めに、イザヤに油を注いで、『その行為をするのは、イザ
ヤ、お前だよ』と、キリスト教の神が言った」・・・とい
う箇所を、イエスは人々の前で読んだということ。
 つまり、イエスは、『自分がメシア(救世主)であると
いう意識より、伝道者である、福音を伝える聖職者である
という意識の元に人々の前に居て、イザヤ書を朗読したと
いう事。
 イエスには微塵にも自分がメシア・救世主という意識は
なく人々に聖職者・ラビとして立っている。
 (イエスは、弟子たちから、ユダヤ教の聖職者の事を示
す『ラビ』という聖職者の呼称で呼ばれていた)。
 そして、イエスは朗読した、聴衆に聞かせた「イザヤが
油を神から注がれたメシア(救世主)である」という事を。
 これは、イエスが、聖書を読んで聞かせて、イエスも納
得しているという事。
 ここではっきりしている事は、イエスには『救世主意識』
はなかったという事。イザヤなんだという文を朗読したと
いう事。
 因(ちな)みに、「油を注ぐ」という行為は、
 インドから、キリスト教の発生の地・イスラエル・パレ
スチナの地へ伝わっていったこと。
 キリスト教は、プロパガンダ(嘘宣伝)で、「一神教の
壁があるから、インドの多神教はイスラエルの地には伝わ
っていない」という嘘を言っているが・・、
 そして、油を注がれたもの=救世主という概念そのもの
も、インドから伝わっていったもので、インドの宗教儀式
のものだった。
 そして、何と、インドの「この概念をもつ宗教派閥の人
々」が、パレスチナの地へ移住をしている。
 「ナザレのイエス」と言うが、
 ナザレという名は、パレスチナの地にはなかったが、そ
の後、ナザレという町の名が出て来るが、この移住者たち
の町の名なのです。
 キリスト教はプロパガンダ(嘘宣伝)をしないこと、嘘
は言わないこと。
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   (詳しくは、以下のブログへ)
URL: http://www.youtube.com/watch?v=1gWbIHhGUx8
      http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009 /

非常に優れた書評

 題:非常に優れた書評
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
 書評:「捨ててこそ空也」
           梓澤要著、新潮社、2000円、
 評執筆:橋本五郎氏(本社特別編集委員)
             (読売新聞2013・11・10)
  非常に優れた書評であるので、書かせて戴いた。
 副題:全存在かけて人々救う
  梓澤要氏、略歴:(あずさわ・かなめ)、
  1953年生まれ。
  1993年、「喜娘」で歴史文学賞を受賞してデビュー。
  著書に「阿修羅」など。
 [評の内容]:
 コーン、コーン、コーン、
 木枯らしの吹きすさぶ京の町辻を金鼓(こんく)の音が
流れていく。
 十一面観音像を乗せた荷車を弟子が引き、
 落ちくぼんだ眼窩(がんか)、削(そ)げた頬の空也が、
金鼓を打ち鳴らし、ひたすら念仏を唱えながら歩いている。
 「阿弥陀聖」「市聖(いちのひじり)」とも呼ばれた空
也上人。
 醍醐天皇の皇子に生まれながら、
 父に疎まれ、
 帝の寵愛(ちょうあい)を失って錯乱する母に、虐待さ
れ左肘が折れ曲がってしまう。
 行き倒れの死骸を、荼毘(だび)にふしている集団に出
会って衝撃を受け、身分を捨てることを決意する。
 天災、飢饉(ききん)、疫病が襲い、
 盗賊が跋扈(ばっこ)する平安の世。
 空也は、播磨国で孤独に耐えながら、
 一切教を耽読(たんどく)、
 自らが進むべき念仏の道を見出(みいだ)す。
 絶海の孤島で苦行を重ね、
 東国で布教の旅を続け、
 全存在をかけて苦しむ人を救おうとする。
 この小説は、
 数々の仏典を、実に、分かり易く説明しながら、
 空也の精神的遍歴をたどっていく。
 仏教への深い理解がなければ、決して書き得なかった作
品だろう。
 空也自身が、三井寺の千観(せんかん)という僧に答え
る場面がある。
 「道理、善悪、知識、それらはすべて我欲。
 往生を願う心も、悟りを求める心も、おのれを縛る執心
も捨てねば、
 おのれを捨てることなどできませぬ」。
 悟りとは「なにもかも、捨ててこそ」可能なのだ。
 私にとっては、空也が「捨ててこそ」にたどり着くまで
の道程とともに、印象深かったのは、
 40有余年行動をともにする頑魯(がんろ)の存在だ。
 少しばかり、知恵が足りないのか、動作も鈍く、誰から
も馬鹿にされている若者だった。
 しかし、その頑魯にこそ、
 山にも水にも空にも、仏を感じる心があることを、空也
は知るのである。
 真の「佛」とは、
 ひたすら、誰かのために生きるところにあるのかもしれ
ない・・と、思わずにいられなくなる。
 多くのことを教えてくれ、
 自らの日常を振り返らざるをえなくなる小説である。
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   (詳しくは、以下のブログへ)
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2013年11月25日月曜日

歓喜の宗教ではない。

 題:歓喜の宗教ではない。
...(真を求めて 皆様と共に幸せになりたい)
.
 青年エレミヤが、都・エルサレムに上って見たものは、
 救いようのない堕落した社会と、人々だった。
 モーゼの十戒は、あまりにも堕落した人々・低倫理の人々
に与えたものと言われているが、「姦淫するな」「人殺しを
するな」「盗むな」などなど、酷(ひど)い悪状態の人々へ
与えられたものと言われているが、
 このモーゼの十戒にしろ、各預言者たちの言葉は、この様
な、救いようのないぐらいの人々に対してであった。
 故に、今・現在、何ら、現代には参考とすべきものはない。
 預言者・エレミヤは嘆くのであった。
 「一人でも真実を求めるているのか?」・・と。
 キリスト教が出来た地は、「現代人が、想像できないくら
いの悪状態だった。最低レベルの倫理状態だった」。
 戦いも多く、悲惨だし・・。
 イエスの、半分諦(あきら)めの「汝の敵を愛せよ」は、
少し常識があれば、「誰でも言いたくなる環境」だった。
 イスラエルの民の国・南ユダ王国を滅ぼしたアッシリアは、
新興して来た国・バビロニアによって一挙に滅ぼされた。
 そして、バビロニアは、老大国・エジプトと戦う。
 この時、ヨシュアは戦死した。
 そして、申命記改革が無に帰していく。
 雑多な宗教にまみれる。
 エレミヤの口から呪いの言葉が漏れる。
 「私の生まれた日は呪われよ。母がわたしを産んだ日は
祝福を受けるな。わたしの父に「男の子が、生まれました」
と告げて、彼を大いに喜ばせた人は、呪われよ。その人は、
主の憐れみを受ける事なく、滅ぼされた町のようになれ。
・・以下略。いくら読んでもためにならないので略す。
 何しろ最後にエレミヤは言う「なにゆえにわたしは胎内を
出てきて、悩みと悲しみに会い、恥を受けて一生を過ごすの
か」である。歓喜の宗教ではないのである。全く生産的では
ない。出生の本懐に悩むエレミヤなのである。絶対に本物の
宗教ではない。参考:(「エレミヤ書」20・14~18)。
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 そして、もう一題・・秘密保護法案。、
.
 →やはり、日本には「秘密保護法案」が必要だと分かりまし
た。以前、投稿した文は削除させていただきます。
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   (詳しくは、以下のブログへ)
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正しい考え方・哲学・宗教でなければ、結果は悪しきものとなる。

 題:正しい考え方・哲学・宗教でなければ、結果は悪しきものとなる。
   イエスの十字架を待つまでもないとはっきり言える。
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
 イスラエルの民の国・南ユダ王国を滅ぼしたアッシリア
は、新興国・バビロニアに滅ぼされた。
 そのバビロニアは、紀元前605年に、大国・エジプトと、
シリア辺りで、大激戦をした。
 その結果、エジプトからこの地方の覇権を奪い取った。
 情勢判断がよかった預言者・エレミヤ(キリスト教預言
者)は、予言が当たった。
 エレミヤは、「災いが北から来る」と言っていた。
 キリスト教の預言者は、最初、占い者(先見者・ローエ
ーと呼ばれた)であったが、この様なもの、当たらぬも八
卦的なのである。
 また、何も世界的な事を言う訳ではない。
 自分が居住し、存在している時と周辺にだけに、興味を
持ち、その周辺の事情についてだけを言うだけ。
 それも、遠い昔の、ある特定の一地域の、一時期を。
 つまり、自分の生きている時だけの事。
 このキリスト教の預言者・エレミヤだって、多くの預言
者と同じだった。未来の事など言わないし、分からないの
だ。
 例え、言ったとしても、当たるも八卦的なのだ。
 こんな状況のエレミヤの預言を、人々は過激な話しに終
始した。
 そして、エジプトは、紀元前590年、懲りずに、バビロ
ニアに反逆した。
 エジプトの支配下にあったエルサレムは、バビロニアの
大軍に包囲された。
 エルサレム籠城(ろうじょう)である。
 エレミヤは、降伏することを勧めた。
 このエレミヤに対し、エルサレムの民は激怒した。
 エレミヤは捕(つか)まり、井戸に投げ込まれた。
 食事も与えられず餓死を待つばかりとなった。
 その時、王に仕えるエチオピア人(多分、黒人の方だろ
う)の取りなしで、エレミヤは危うい所で救い出された。
 そして、牢屋に入れられた。
 エルサレムは、バビロニア軍に包囲された籠城状態であ
ったが、とうとう食料が尽き、バビロニア軍に降伏した。
 紀元前587年の事だった。
 王は、捕えられた。
 そして、目をくり抜かれた。
 王子たちや、重臣、そして、家族たちは、王がまだ目を
くり抜かれる前、まだ目が見える時に、王の目の前で、全
員が殺された。
 そして、イスラエルの国民の主だった者たちと、目をく
り抜かれた王は、バビロニアに連れて行かれた。
 第二回のバビロニア捕囚だった。
 こんな悲惨なだけのキリスト教の聖書の話しは、
 何の役にも立たない。
 特に、子供には読ませたくない。
 害を与えるだけだ。
 エレミヤは、降伏を主張したので、バビロニアから「う
い者だ」と、『親バビロニアの者』という事で、釈放され
た。
 釈放された町は、エルサレムは、神殿もなく、焦土・焼
け野原だった。
 悲惨な歴史の展開の中に、年老いたエレミヤが居た。
 そして、日本の第二次世界大戦後の様な生活の中に、エ
レミヤは置かされた。
 人の心を豊かに導く、正しい考え方や哲学あったならば、
こんな不毛な展開に絶対ならなかっただろうに、
 こうならないための考え方や哲学・宗教が、この地には
存在しないとしか言えない。
 考え方・哲学・宗教が、この様な悲惨な姿にさせ得ない、
力がないから、こんな悲惨な事が、民に起きてしまうのだ。
 この様な、考え方・哲学・宗教に居る限り、民は幸せに、
絶対、なり得ないのだ。
 この実際起きた現実が、悲惨な現実が立証している。
 このままなら、改善されないだけでなく、同じ事が繰り
返され、
 民は、更なる、悪結果に陥(おちい)って行くだけだろ
う。
 エレミヤは、このエルサレムの陥落で、出エジプト記で
神とイスラエルの民との間で結ばれた契約、
 モーゼが山に登って神に会い、結んだ契約は、
 エルサレムの陥落と共に破棄されたと言い、
 これから新しい契約の結ばれる日が来ると言った。
 エレミヤの頭の中には、『モーゼの契約は破棄された』
しかなかった。
 「主は言われる、見よ、わたしがイスラエルの家とユダ
の家とに新しい契約を立てる日が来る。この契約はわたし
が彼らの先祖をその手をとってエジプトの地から導き出し
た日に立てたようなものではない」と。(「エレミヤ書」
31・27~34)は記している。
 モーゼの契約は、まったく、反故(ほご)にされ、馬鹿
にされ、過去のものと、すでに、されている。
 『イエスの十字架を待つまでもない』・・と、
 はっきり言っている。そして、はっきり言える。
.
 そして、もう一話・・・、
.
 題:アメリカを考える上での「もう一つのファクター」
   アメリカ白人保守層の反発。新しい州を!
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
 アメリカを考える上での「もう一つのファクター・要因」
は、アメリカ国民の人口構成の変化だ。
 今、アメリカ国民の人口構成で1番多いのは、「白人(非
ヒスパニック系)」で、約62~3%ぐらいだ。
 2番目が、ヒスパニック系で約17%ぐらい。
 3番目が、黒人で12%ぐらい。
 4番目が、アジア系で6%ぐらい。
 そして、その他である。
.
 この人口構成が、急激な変化をしている。
 ヒスパニック系の方たちの流入で、変化している。
 人口構成の変化は、白人の比率が、年々、減少し、
 2060年の予測では、白人45%ぐらいに減少してしまう(
約27%減)。
 そして、ヒスパニック系の方たちが35%ぐらいに増加とな
る。106%増加で、倍増以上である。
 今・現在でも、コロラド大学デンバー校のマイケル・カミ
ングス教授は、「人口構成の変化は、他の多くの州で起きて
おり、今後も続く。これは共和党には逆風であり、保守層の
不満は高まって行くだろう」と話す。
.
 農村部の白人保守層が、発言力の低下に危機感を抱いてい
る。
.
 コロラド州は、伝統的な農業地帯であったが、都市部の人
口増に伴って、農村部の人口の共和党支持層の割合が低下し、
その結果、政治的な影響力の低下にと、強い焦りを抱いてい
る。
 それ故、州から分離という政治手法を模索している。
.
 なぜならば、ヒスパニック系などのマイノリティーは、社
会保障の充実などを揚げる民主党を指示する傾向があるから
である。
 そして、予測では、ヒスパニック系などが、移民の増加や
高い出生律で人口を伸ばし、
 2050年頃には、白人(非ヒスパニック系)が、5割を切る
とされている。
 この様な、人口構成の変化に対する、白人保守層の危機感
で、白人保守層は、住民投票の行動に出たわけである。
 アメリカ西部のコロラド州の農村部にある11か所の群で、
11月5日、「州から分離して新しい州を作る」ことの是非を
問う住民投票が行なわれた。
 賛成票が、過半数に達する見通しとの事。
 そして、銃規制など、オバマ政権下で進む、リベラルな政
策に対し、
 共和党を指示する地方白人保守層の反発の強さが、浮き彫
りになっていると伝えている。
 この住民の多くの白人保守層は、共和党の大統領候補へ投
票している(約8割)。
 しかし、移民の増加などで、都市住民が増え、これまで共
和党が強かった州議会で、民主党が多数を握る様になったと
の事。(参考:読売新聞2013・11・7)
.
 (参考)リベラル【liberal】.[形動]1 政治的に穏健な
革新をめざす立場をとるさま。本来は個人の自由を重んじる
思想全般の意だが、主に1980年代の米国レーガン政権以降は、
保守主義の立場から、逆に個人の財産権などを軽視して福祉
を過度に重視する考えとして、革新派を批判的にいう場合が
多い。2 因習などにとらわれないさま。
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   (詳しくは、以下のブログへ)
URL: http://www.youtube.com/watch?v=1gWbIHhGUx8
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