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2015年10月16日金曜日

(増補版)226D2/3:気になった事柄を集めた年表(1836年~1837年)

題:(増補版)226D2/3:気になった事柄を集めた年表(1836年~1837年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1837年3月(天保8年2月19日)、大塩平八郎の乱(おおしお
 へいはちろうのらん)、
  世の中は、1833年から始まった「天保の大飢饉」の真
 っ只中だった。
  その飢饉は、1835年からさらに極まって、2年が過ぎ、
 この年・1837年は、社会の疲弊も極度に達していた。そ
 の時・・、
  大阪町奉行所の元与力の大塩平八郎が、大阪で乱を起
 こした。
  民の疲弊に対する憤怒(ふんど、ふんぬ、酷く怒るこ
 と)と、公儀(江戸幕府)に対する抗議・反乱だった。
  各地で多発する百姓一揆、大阪でも米不足で、飢饉に
 よる死者が続出していた。
  平八郎は、奉行所へ民衆の救済を何度も提言したが拒
 否された。
  奉行所は上(幕府)ばかりを見ていた。
  そこで、平八郎は、自らの蔵書・5万冊のすべてを売却
 し、得た金で、民を救済した。
  しかし、その行為までもが、奉行所はまったく理解を
 示さず、売名行為ぐらいにしか見なかった。
  日頃から依頼していた民への救済の事は、まったく顧
 みもしかった。
  そして、この様な時に、民の窮状の最中に、逆に、豪
 商が利を求めていた。
  平八郎の怒りも募り頂点に達した、そして、武装蜂起
 を決断する。
  武装蜂起に備え、家財を売り、家族を離縁した。
  そして、大砲など火器・爆薬なども整えた。
  そして、自らの門下生と近郷の農民へ檄文を回し、参
 加を呼びかけた。当然、公儀も知った。
  また、平八郎は、大坂町奉行所の不正や、役人の汚職
 を江戸・幕閣へ送付する、通達した。
  平八郎にとって、これが、宣戦布告であった。
  それを行ない平八郎は、門弟の武士や、農民ら約300人
 を率い、「救民天誅」の旗を立て決起した。
  民を救い、天の下す罰だ・・、
  鎮圧に出た幕府勢と市街戦を繰り返した。
  平八郎には、当然、勝敗の結果は分かっていたと思う。
  急に、私費だけで、立ち上がったのだから、頭の良か
 った平八郎はその結果は分かっていた。だが、行動を起
 こした。起こすべきだったから・・、
  可哀想だが、大阪市中の5分の1は焼かれたという。
  しかし、「大丸屋は義商なり、犯すなかれ」と焼き打
 ちはまぬがれたとある。
  しかし、戦いは1日も持ちこたえなかった、そして、四
 散した。
  平八郎は、約40日後に、大坂市中の隠れ家で見つかり、
 隠れ家に放火し、自刃・自害した。
  この決起は、全国へ影響した。同じ気持ちの同志は多
 かった。
  「平八郎の乱」のような乱が、越後柏崎・生田万の乱、
 備後三原、摂津能勢などの乱や騒動が、この後、日本の
 各地で起きた。
1837年(天保8年3月27日)、大塩平八郎が没した(1793年
 ~1837年、44歳)とあるが・・、
  大塩平八郎を、民は支持していた。火の中で死んだ平
 八郎は、死体が確認できなかった、死んでないという希
 望が語られ、そして、持たれた・・らしい・・
  また、仕置きが翌年に言い渡されたともあり、
  また、まだ生存している・・という説もある。
1837年(天保8年4月)、板垣退助(いたがきたいすけ、土
 佐高知藩士、政治家)が生まれた。
  土佐の生まれ、
  幕末期に討幕派に投じ、
  1868年、31歳、戊辰戦争に参加し、
 総督府参謀を務めた。
  1871年(明治4年)34歳、明治維新政府の参議になる。
  1873年(明治6年)36歳、征韓論で大久保利通らと対立
 し、西郷隆盛らとともに辞職した。
  1874年(明治7年)37歳、民撰議院設立建白書を提出し
 た。帰郷して立志社を起こし、自由民権運動を指導した。
  政治は民のものだの精神である。
  1881年(明治14年)44歳、自由党を結成して総理とな
 り、
  1891年(明治24年)54歳、再結成された自由党総理を
 務めた。
  1896年(明治29年)59歳、第二次伊藤内閣の内相。
  1898年(明治31年)61歳、大隈重信と日本最初の政党
 内閣を組織し、内相となった、また、伯爵となった。
1837年(天保8年9月)、12代将軍・徳川家慶(とくがわい
 えよし)が将軍になった。
  生没年 :1793年~1853年
  将軍期間:1837年~1853年
  11代将軍・家斉(いえなり)の次男。
  11代将軍の家斉の没後、家斉の側近を排し、老中首座
 に任じた水野忠邦を重用して、天保の改革を断行した。
  忠邦の後は、阿部正弘を起用した。
  11代将軍・家斉は大御所政治であった。家慶は、1837
 年に将軍職に就いたが、
  大御所となった家斉と、その側近に幕政を牛耳られ、
 実権を握れなかった。
  それ故、家斉の死後は、その家斉の側近を排したのだ
 った。
  寛政の政治を手本にして、幕政の立て直しを図ったが、
 急激すぎ、また、厳格すぎて人心を失い、失敗したとさ
 れている。
1837年10月28日(天保8年9月)、15代将軍・徳川慶喜(と
 くがわよしのぶ)が生まれた。江戸幕府の最後の将軍。
  生没年:(1837年~1913年)
  将軍期間:1866年~1867年、
  水戸藩の徳川家は、後楽園小石川に藩邸があり、ここ
 で生まれた。
  徳川斉昭の第7子。一橋家を相続した。
  1857年(20歳)、将軍・家定の継嗣候補に推されたが、
 井伊直弼の大老就任で、井伊の推す紀州藩・慶福(よし
 とみ)が14代将軍(家茂)に決定した。
  1858年(21歳)、条約締結問題につき、井伊を詰問し
 たことから、隠居謹慎させられたが、
  井伊の横死後、幕府が公武合体に転換したのに伴い、
 許されて、
  1862年(25歳)、朝廷と島津久光の要請により、幕命
 により一橋家を再相続し、将軍・家茂の後見人となり、
 松平慶永(よしなが)とともに幕政改革に務め、
  1863年(26歳)、上京して尊王攘夷勢力と対抗し、
  1864年(27歳)からの長州征伐を指揮したが
  1866年(29歳)、家茂が死ぬと、長州藩と休戦し、
  1866年12月、将軍となった。
  就任後、フランス公使ロッシュの援助で、幕政の改新
 をはかったが、大勢には抗しえず、
  1867年(30歳)、薩長両藩に討幕の密勅が下ると、
  山内豊信の意見を入れ、ただちに将軍職を辞した(大
 政奉還)。
  しかし、倒幕派の慶喜に対する辞官納地要求で、
  1868年(31歳)、鳥羽伏見の戦いとなり、
  慶喜は江戸に帰り謹慎し、江戸開城の日、水戸に移っ
 たが、
  1869年(32歳)、罪は許された。
  1902年(65歳)、公爵に列せられた。
1837年4月、民主主義的精神の『天保庄屋同盟』
  「街道をゆく、8」によれば・・、
  天保8年に、「吾党の外へは、口外を制すべき最大の密
 事」として、52ヶ条の盟約書を作ったとされる。
  天保庄屋同盟は、主として土佐郡、吾川(あがわ)郡、
 長岡郡の三郡の庄屋のあいだで、極秘に結ばれたもので、
 結盟の動機そのものは他愛ないと言えば他愛ない。
  在来、かれら農村地帯の庄屋の方が、町方の町役(ま
 ちやく)より上座だったのが、
  江戸中期以後の商品経済の盛行で、
  町が実力を持ち始め、祭礼などのときに町役の方が郷
 庄屋より上座につきたがる傾向があった。
  郷庄屋どもがこれに憤慨したのが、直接の動機であっ
 たらしい。
  しかし、談合してみると、身分社会とは何かという事
 をはっきりさせるだけの思想が必要になり、
  しかも、彼らはその思想を十分持ち合わせていた。
  庄屋たちのほとんどが南学(土佐に根付いた一種の特
 徴を持つ朱子学)の教養人であるか、そうでなければ土
 佐国学の祖である鹿持雅澄(かもちまさずみ)の学徒で
 あったりした。
  天保庄屋同盟の基調になっている精神は、平等思想。
  彼らの上部の構造である将軍も大名も武士というもの
 が、一挙に霞み、封建的身分制が仮の姿に見えてくる。
  「およそ一天四海のうち棟梁は唯一にして」ここで棟
 梁とは朝廷の意味。
  「根本、朝廷より国々へ預けたまふ皇民の身体につき」
 と盟約では表現している。
  この思想が、龍馬につながって行く。
  龍馬を尊敬した同郷の中江兆民がルソーの徒になり、
 その兆民の弟子だった、同じく土佐中村の人・幸徳秋水
 も、そういう系列の中の人といっていい。
  龍馬の語録:「本朝の国風、天子を除くほか、其の世
 の名目なり」。
  また、土佐を特徴づけた自由民権運動も天保庄屋同盟
 と照応するであろう。
  思想の土俗体質といえる。
  (注)名目:みょうもく、表向きのただの名称、
1837年6月、生田万の乱(いくたよろずのらん)
  越後柏崎の一揆(柏崎陣屋襲撃)
  大塩平八郎の乱と並び称される乱。
  越後柏崎で本陣を襲撃した一揆。
  国学者の生田万が門弟や農民たちと決起した。
  前年も凶作で、その中で代官と米商人が結託して、米
 の買占めを行ない、農民の貧窮が甚だしかった。
  大塩平八郎と同じく、また、平八郎の義挙(ぎきょ、
 正義のために起こす行動)に影響された生田万も、下記
 の文の様に、農民の方々の窮状を見るに忍びなく決起し
 たのだった(この様な事が昭和にも起きた)。
  「此節(このせつ)は四斗四升入にて一両二朱に御座候、
 五十六里はなれし山方(やまがた)にては葛(くず)之根な
 どを喰(く)ひ、小児をば川へ流し申候、(中略)扨(さて)
 大塩平八郎の事御写し被下辱(くだされかたじけなく)、
 当方にても諸所の届書並(ならびに)大塩の四ヶ国への捨
 文等、逐一に写し御座候(下略)」
1837年7月、江戸品川などに救小屋を設けた(品川・板橋・
 千住・内藤新宿)。
1837年、モリソン号事件(もりそんごうじけん)
  6月という記述もあり、7月にマカオを出帆して来たと
 いう記述もある。
  アメリカ商船のモリソン号が、漂民7名を伴い浦賀に
 入港した。
  しかし、異国船打払い令(1825年発令)に基づいて浦
 賀奉行が砲撃した。
  そして、薩摩へ向かい、7月に、モリソン号は薩摩の山
 川港に入港したが、再び、薩摩藩主が砲撃した。
  このことについて、崋山らがこれを批判したため、幕
 府に弾圧された(蛮社の獄、1839年)、
1837年~1843年、天保金銀(てんぽうきんぎん)
  幕府が、1837年に、金銀貨を改鋳した。
  天保の大飢饉後の物価高騰や、幕府財政の破綻状況の
 ため、その財政補強のための改鋳。
  五両判・小判・一分金・丁銀・豆板銀・一分銀など
  文政の金銀より品質を改悪して、莫大な改鋳益金を出
 し、非常用に備蓄した。
  今は、ただの紙のお札。日本もそうだが、アメリカな
 どは、特に、世界の基軸通貨だと言って、どんどん刷っ
 て、世界にばらまいている。
1837年、「ノブレス・オブリージュ」という言葉があるが、
  この言葉は、19世紀のイギリスの女優であり著作家の
 ファニー・ケンブルという人が、この年に、手紙に使っ
 たのが最初と言われている。
  この言葉は、フランス語で、直訳すると「高貴さは強
 制する」と訳せる。
  つまり、「高貴なる者にともなう義務」と訳したりし
 ている。
  これは、キリスト教社会の完全なプロパガンダ(嘘宣
 伝)。
  欧米はキリスト教社会だからなどと説明している。
  この「施し」をする義務を負うというのはそういう状
 況ではない、
  事実は、「貴族が領土の民を豊かにしておかないと、
 動乱を起こされて、ひっくり返されてしまうから、適度
 に施しを与えておかなければいけない」という所から、
 発想から生まれていた。
  決して単純な善意でやっているのではない。
  そして、キリスト教の理解がない日本人は誤解して、
 「貧しい人には、見返りを求めずに助けてあげなければ」
 と言うが・・この意味ではない。
..
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2015年10月15日木曜日

(増補版)225D2/3:気になった事柄を集めた年表(1835年~1836年)

題:(増補版)225D2/3:気になった事柄を集めた年表(1835年~1836年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1836年1月、坂本龍馬(さかもとりょうま、志士、土佐藩
 郷士)が生まれる。
  (生没年:1836年1月3日~1867年12月10日)
  訂正:224D2/3で「1835年、坂本龍馬が生まれる」
 と記述したのは誤りです。
  薩長同盟など活躍する。
  この龍馬の生まれ育った地・土佐の商家(龍馬の家も
 才谷屋という裕福な商家だった)は、民主主義の考え方
 が根付いていた。
  この様な環境が、龍馬を育てたのだろう。
  日本人の気質・心根は、心優しいが故に民主主義が根
 付いている。
  明治維新になって西洋から学んだと言うのは日本を見
 誤っている。
  西洋を美化する人達の言うこと。
  また、日本は、古代から女性蔑視感もなく、平等の意
 識も古くからあった。
  そして、龍馬と同じ、この地の土佐出身の板垣退助が
 自由民権運動をして日本を導いたのも頷(うなづ)ける。
1836年(天保7年)、天保の大飢饉
  1835年から1837年にかけて起きていた大飢饉。
  全国的な飢饉で、神田にも御救い小屋が設置された。
  江戸・大坂では打ち壊しが起き、各地に百姓一揆が起
 こった(甲斐・三河・陸奥)
1836年7月、米価騰貴のため江戸への廻米は自由とした。
1837年7月、「江戸名所図絵(えどめいしょずえ)」が刊行し
 た。
  絵入りの江戸地誌で、「1834年~1836年に刊」との記
 述もある。
  江戸とその近郊の神社・仏閣・名所・旧跡の由来や故
 事が記されている。
  7巻20冊で、1834年に前半の10冊、1836年に後半の10冊
 を刊行したともある。
  実地調査によって記されていて、史料的価値は高いと
 いう。
  特に、風俗、行事、景観は実地の写生で精緻で、江戸
 生活資料として良いとある。
1836年、この頃、滑稽本・人情本が盛ん。
  文化文政の(1804年~1830年)を「化政文化(かせい
 ぶんか)」と言い、
  元禄文化が上方を中心に花開いたが、
  この化政文化は、江戸を中心とした町人文化で、上方
 落語が江戸に移植されたり、歌舞伎が盛んとなったり、
 俳諧・川柳、狂歌なども庶民層に盛んになった。
  読本として滝沢馬琴・山東京伝、滑稽本として十辺舎
 一九・式亭三馬、人情本として柳亭種彦・為永春水が盛
 んとなった。
1836年7月、ロシア船が、択捉(えとろふ)に渡来した(天
 保雑記)。
  このロシア船は、太平洋で遭難して、ハワイ・アラス
 カを経由してオホーツクに送られていた日本人漂流民を
 乗せていた。
  警備していた日本の兵(番所の守備兵)の砲撃の間隙
 をついて、その漂流民3名を上陸させたとある。
  この漂流船は、越後の五社丸だという。
1836年8月、甲斐の郡内騒動(ぐんないそうどう甲州一揆)
  甲斐国郡内地方:都留(つる)郡一帯で始まり、甲斐
 一国の全域に波及した百姓一揆。
  甲州天保騒動ともいう。
  1833年以来の凶作と米価高騰や、特産品の絹織物の価
 格の暴落が直接の原因。
  夜、都留郡の甲州道中の村々の農民たちが決起し、
  笹子峠を越え、甲府盆地の東部の米穀商や豪農を襲撃
 して始まった。
  甲府町方のほか国中地方の106ヵ村にわたる豪農・富商
 305軒を打毀し、甲斐国内が無政府状態と化した。
1836年3月6日、メキシコの領土だったアメリカ合衆国のニ
 ュー・メキシコ州やカリフォルニア州など・・、
  メキシコとの領土において、アメリカは、ここで、第
 二次世界大戦の時に日本へやった事と同じことをやった。
  アメリカは、メキシコに色々と悪いことをしていた。
  怒ったメキシコが、アメリカに攻め込んだら、正義は
 こちらにあるとメキシコを攻めた。
  西部劇でよくある「銃を抜いたのはあいつだと言って、
 早打ちのガンマンが、良心的な開拓者の農夫を撃ち殺す」
 という図だ。
  キリスト教にもこの教えがある。
  相手に警告さえすれば攻め殺して良いという教え・教
 義だ。
  このメキシコとの戦争もその図だった。
  アラモ砦の人々が玉砕したが、この玉砕が、あたかも
 キリスト教の生贄(いけにえ)の儀式の如くの役をした。
  アメリカ人は正義を掲げて怒り立ったというが?(ど
 っちが正義だったのか?)
  アメリカは、強大な力でメキシコに襲い掛かって、暴
 虐(ぼうぎゃく)な行為を用いた。
  この後(1853年)に、日本に来たペリーも、このアメ
 リカのメキシコ侵攻について、自己批判的な評価をして
 いる(アメリカは悪かったと、ペリーは正直だった)。
  アメリカが良くやる手で、ちょっかいを出して、テキ
 サスをメキシコから独立する動きをさせた。
  アメリカは、パナマ運河を手に入れる時も、このパナ
 マにちょっかいを出して独立の動きをさせている。
  結局、パナマは独立してアメリカのもの同然となった。
  それと同じだった。
  メキシコは、自分の領土のテキサスの独立を押さえよ
 うと軍隊を派遣した。
  その時、独立を叫ぶ市民189人と武装集団(義勇兵?)
 がアラモ教会(先住民のインディアンの方々をキリスト
 教に改宗させようとした教会)を砦として立てこもった。
  戦闘は1836年2月23日に始まった。
  3月6日に至り、最後の兵が倒れ戦闘は終結した。
  このアラモの教会(アラモ砦)の189名の市民と武装集
 団は全滅した。
  しかし、メキシコ軍も1500人の戦死者を出していた。
  この様な動きが、また、別の場所で、この46日後の4月
 21日に起きた。
  この時は、メキシコ軍は630人の戦死者と730人の捕虜
 を出すという大きな打撃を受け、メキシコ軍は崩壊した。
  そして、テキサスの独立に至った。
  そして、1845年に、テキサス共和国は、アメリカ合衆
 国に加盟した(アメリカの思惑通り)。
  デビッド・クロケットが活躍したという。
  また、アラモ砦の指揮官ウィリアム・バレット・トラ
 ビスと副指揮官ジェームズ・ボウの武勇伝は伝説となっ
 て美化されている。
  このメキシコが取られた失敗は、東部のアメリカ人に
 テキサスやカリフォルニアへの入植を許したことにあっ
 た。
  メキシコが出した入植条件がまずかった。
  それ故、このアメリカ合衆国東部からのアメリカ人(
 アングロサクソン系の白人のテキサス人で、元アメリカ
 人である)が独立を画策し、サンアントニオ市を占領し
 たりした。
  元アメリカ人の移入の地域に、当然のごとく、アメリ
 カの援助が来た。
  ディヴィド・クロケットも参加した。
  ニューオリンズからも来た。
  この順番で、メキシコは、自国領をアメリカに奪われ
 て行った。
  メキシコ軍が敗れたのも、独立を求めた地元の独立派
 の力ではなく、アメリカ南部から来たアメリカ軍に敗れ
 たのだった。
  完全にアメリカ軍が侵略戦争をしたのだった。
  それが、10年後に始まる。
  アメリカへ併合となる。
  日韓併合ではないが・・併合はもともといた国(アメ
 リカ)であるから抵抗なしで行われた。
  しかし、テキサス独立はやむを得ないが、併合となる
 とアメリカに取られた形になるので、メキシコは猛反対
 した。
  当然である。
  ここに1846年に、アメリカとメキシコの戦争が始まっ
 た(米墨戦争)。
  メキシコはアメリカの敵ではなかった。
  日本との差と同じ。
  メキシコは敗けた。
  アメリカは、メキシコ領を戦争に勝って奪い取った。
 1836年、イギリスのオーストラリアの不法占拠が始まって
 約50年が経たこの年・1836年に、
  オーストラリアのニューサウズウェールズ州の裁判所
 で、
  先住民のアボリジニーの方々の土地所有について、次
 の判決が下された。
  「人口の少なさと、
   政治組織の欠如ゆえに、
   アボリジニーは、自分たちの占有していた土地地域
 の所有を主張する自由で独立した部族集団の一員とは認
 めることは出来ない」・・と。
  だから、我々・イギリス人のものだと言う・・
  オーストラリアの土地は、イギリス人のものだと言う
 ・・?
  おかしいではないか・・?
  例えば、あなたの家に、全く見ず知らずの人が入って
 来て、
  この家に一人しか住んでいないので、
  この一人の人間は、この家の持ち主とは認める事が出
 来ない・・と言われたら、あなたはどうですか?
  ヨーロッパ人、特に、イギリス人やアメリカ人はよく
 このような事をする。
  自分に都合のよい法律を作って、
  法律に従ってやったまでだ、だから正しい行動なのだ、
 正義なのだ・・という主張をよくする。
  政治組織が無いから欠如状態だ、だから権利はない・・
 は、おかしい?
  所有権を主張できない子供が、その欠如状態を「不十
 分だから」として、その子供の所有しているものを奪っ
 て良いのか?
  このイギリスの行為はその様な行為だ、強盗行為だ。
  盗みをしておきながら平気でいたり、こちらが正しい 
 正義だと、相手の不備でない不備をあげつらうイギリス
 の行為は、歴史にあまりにも多い。
  キリスト教の教義的思考である。
  そして、イギリス人たちは、こんな形で、自分たちの
 正当性を確認すると、
  また、相手は劣っている、自分たちには優越性がある
 と確認すると、
  アボリジニーの方々との衝突や対立は何度も繰り返し
 ていたが、
  着実に、イギリス人たちは、奥地へと開拓地を拡大し
 て行った。
  そして、羊牧地の確保が行われて行った。
  そして、オーストラリア産のメリノ品種の羊毛が、品
 質・価格において、スペインやドイツ産の羊毛に劣らな
 いことが判明して、またまた、大きく進展した。
  そうして、オーストラリアが、イギリス産業の原料供
 給国になって行った。
  単なる流刑地と位置づけられていた地が、
  イギリス本国の経済利益と合致する存在となって行っ
 た。
  その様な、オーストラリアの土地の有効性が判明する
 と、その後の動きは、早く、そして、大きく展開した。
  この頃から、都市部では人口過密が問題となって来た。
  大量の入植者(侵略者)が、イギリス本国から移住し
 て来た。
  占領地は、オーストラリア南東部へと広がって行った。
  1860年代までには、北はクィンズランドの南部地域か
 ら、南は南オーストラリアまで開発された。
  羊は2000万頭となった。
  こうした急激な開拓地の拡大に、アボリジニーの方々
 の社会に幾多の大きな打撃が与えられた。
  アボリジニーの方々の生きるための土地が奪われた事
 は明白だった。
  アボリジニーの方々は食糧不足に直面した。
  また、貴重な水源をも奪われていた。
  アボリジニーの方々は、水を多く含む植物などの知恵
 でも水分供給をしていたが、
  この様な植物が、羊に食われて無くなるという、深刻
 な問題も生じた。
  羊たちは、飲料水も消費してしまった。
  アボリジニーの方々に食糧と水のない危機が起きた。
..
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2015年10月14日水曜日

(増補版)224D2/3:気になった事柄を集めた年表(1833年~1835年)

題:(増補版)224D2/3:気になった事柄を集めた年表(1833年~1835年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1834年(天保5年)、日本の総人口:27,064,000人
1834年、高島秋帆(たかしましゅうはん、兵学者、砲術家)
 が、歩兵銃25挺をオランダに注文した(生没年:1798年
 ~1866年))
  他の町年寄たちも、その都度、一緒に歩兵銃を注文し、
 秋帆の仕事に協力した。
  秋帆は、1835年にも、30挺注文し、また、1836年にも、
 80挺注文した。
  高島家は、長崎の町年寄の名家で、
  秋帆は、1798年に、高島四郎兵衛茂紀の三男として長
 崎に生まれた。
  そして、父に荻野流砲術を学び、オランダから銃砲や
 砲弾の鋳型を輸入した。
  そして、西洋式砲術の研究をした。
  1840年のアヘン戦争で、中国の清が、イギリスに敗退
 した時、その情報を受けた秋帆は、
  外国勢力に対処するため、海防等の備えと、西洋の軍
 事技術の導入を説いた(天保上書・てんぽうじょうしょ)、
  1841年には、武蔵国徳丸ヶ原・とくまるがはら(現在
 の東京都板橋区高島平)での西洋式訓練を実施した。
  しかし、一部の者のねたみから、1842年には、、無実
 の罪で捕えられた。
  1853年に釈放されると、直ぐ、開国の必要性を幕府に
 建議(けんぎ) した(嘉永上書・かえいじょうしょ)
  晩年は、幕府の砲術教授を務つとめたりして、軍制の
 改革に貢献した。
  そして、1866年に、江戸で没した(69歳)
  秋帆に限らず、日本はヨーロッパ諸国などが、何をし
 ているかを良く見ていた。
1834年2月、江戸大火(甲午火事)
  2月7日に、神田佐久間町より出火し、北西風に煽られ
 延焼した。
  2月13日までの間に、日本橋・小石川・駒込などから
 相次いで出火した。
  死者:4000人以上。
1834年3月、水野忠邦(みずのただくに)が老中になった。
  将軍・徳川家慶に信任された。
  天保の改革を行なう。
1834年7月、長崎に、注文したドンケルスクロク(または、
 イクルスコロックか?)という潜水器(泳気鐘、ケーソ
 ン)が到着した。
  しかし、これは、日の目を見ないまま出島の倉庫に眠
 り続けた。
  鋳鉄製で、重さは4.5トン、
  台船に吊り下げられて、中で2人位が腰掛けられる。
  ダイバーは、膝のあたりまで水に浸かりながら、海底
 の様子が調査できるという。
  上部の通気孔からポンプで空気を送り、
  また、上部のガラス製の円窓から採光しているという。
1834年10月9日、近藤勇が生まれた(1834年~1868年)
  武蔵国多摩郡(武州調布町上石原窪村)の百姓の宮川
 久次郎の三男として生まれた。
  旧制・宮川、幼名、勝太、昌宣(まさよし)、
  この地は、将軍直轄の地であり、伊豆韮山(にらやま)
 の代官・江川太郎左衛門の支配地であっただけに、尚武
 (しょうぶ、武道・武勇を重んじること)の気風が盛ん
 であった。
  父・久次郎は、天然理心流の達人・近藤周助に出稽古
 を頼む。
  天然理心流は、八王子を基盤としており、同地域から
 三多摩地方にかけて門人が多かった。
  近藤周助に剣を学んで、彼の養子になった。
  1863年に、将軍・家茂の上洛にあたり、その警備役に
 加わった。
  後に、京都に残って新選組を組織した(幕臣、新選組
 隊長)
  1864年に、池田屋事件など、尊王攘夷運動の弾圧にあ
 たった。
  王政復古(1867年12月9日、江戸幕府を廃絶し、同時に、
 新政府の樹立を宣言した政変)の後は、鳥羽伏見の戦い
 を経て、関東に下り、
  甲州勝沼、下総(しもうさ)流山で官軍と戦ったが、
 敗れて降伏し、
  板橋庚申塚(こうしんづか)で死刑になった。
1834年、江藤新平(えとうしんぺい)、政治家)が生まれ
 た(1834年~1874年)
  佐賀藩士の子に生まれ、尊王攘夷運動に携わった。
  維新後、政府に仕えた。
  江戸遷都を唱えた。
  1872年に、司法卿となり、フランスの刑法や民法を移
 植するのに功績をたてた。
  1873年に、参議になったが、征韓論を唱えて、入れら
 れず辞職した。
  1874年に、民選議院設立建白書の署名者の一人となっ
 たが、
  その直後、佐賀の不平士族におされて乱を起こし(佐
 賀の乱)、敗れて死刑となった。
1834年、ファラデー(イギリス)が、電気分解の法則を発
 見した。
1835年(天保6年)、松平容保(まつだいらかたもり、陸奥
 (むつ)会津藩藩主)が、生まれた(1835年~1893年)
  運命の京都守護職に任命された。
  幕府にとって、会津藩しかなかった。
  孝明天皇の信を得て、公武合体を推進した。
  幕府の影を担った藩だった。
  幕府の終末を担って会津で戦い、官軍に降伏した後は、
 因幡(いなば、鳥取県東部)に幽囚(ゆうしゅう、捕ら
 えられて、閉じ込められること)された。
  また後、和歌山藩にも永預(えいあずけ)となった。
  謹慎を解かれて後は、正三位に叙された。
  日光東照宮の宮司も勤められた。
  明治26年(1893年)まで存命された。
  ただ、59歳だった。
  「幾人の 涙は石に そそぐとも 
         その名は世々に 朽じとぞ思ふ」
    (会津戦争で戦死した藩士への追慕の歌)
1835年3月、美濃百姓一揆。
1835年6月5日、前島密(まえじまひそか、貴院議員、逓信
 次官)が生まれた(1835年~1919年)
  1870年(明治3年)に、飛脚に代わる郵便制度の調査の
 ため渡欧した、
  1871年(明治4年)に、帰国し、国営による近代的郵便
 制度の確立に尽くした。
1835年9月、天保通宝(てんぽうつうほう、天保銭)が発行
 された。額面が100文の銅銭。
  銭貨の不足と、藩札の整理を目的とした。
  1891年(明治24年)まで通用した。
  4億8480万枚が鋳造された。
  明治に入ってからは、約80文で通用していた。
  1871年(明治4年)に、1枚で8厘の通用とした。
1835年12月、幕府が、諸大名に国絵図(くにえず)の作成
 を命じた。
  徴税その他の治政上の必要から諸大名に命じて作成さ
 せた一国単位の行政用の地図(絵図)。
  江戸時代を通じて3回つくられ、この時の絵図を、天保
 国絵図(てんぽうくにえず)と呼ぶ。
  数年間を費やして、全国80余枚の地図を作った。
  良質の料紙を用いて、縮尺は2万1600分の1だった。
  狩野派の御用絵師が極彩色で細密に描いた。
  内容が正確で信頼性は高い。
  村名や石高を明示して財政地図の性質も持った。
1835年、坂本龍馬(さかもとりょうま、幕末の志士)が生
 まれた。
  訂正:坂本龍馬を1835年に生まれたとしたのは誤りで
 す。訂正いたします。
  正しい生没年は、(1836年1月3日~1867年12月10日)
 です。
  本名:直柔(なおなり)
  1853年に、江戸に出て尊王攘夷論者と交わった。
  1861年に、帰郷後、武市瑞山らの攘夷派に加わったが、
 この間、画家・河田小龍らから海外事情について知ると
 ころがあった。
  1862年に、脱藩し、江戸で勝海舟の門に入る。
  1863年8月18日、この日の政変以後、公武合体派の反動
 化で幕府への望みを断ち、
  勝の紹介で、西郷隆盛を知って薩摩藩へ接近し、
  同藩の援助のもとに、長崎に亀山社中を作り、海運貿
 易に従った。
  これから後、海援隊に発展した。
  1864年に、神戸海軍操練所設立に勝を助けた。
  1866年に、明治維新への導因となった薩長連合盟約の
 締結に、仲介の労をとった。
  1867年に、帰藩し、後藤象二郎とともに、前藩主の山
 内豊信(容堂)を説いて、大政奉還建白を実現させた。
  さらに、京都で奔走していたが、
  中岡慎太郎と会談中、刺客に襲われ、殺された。
1835年、福沢諭吉(ふくざわゆきち、思想家、教育家)が
 生まれた(1835年~1901年)
  啓蒙思想家、慶應義塾創設者、
  備前中津(現在の大分県中津市)下級藩士の子として、
 大坂蔵屋敷に生まれ、
 緒方洪庵の塾で蘭学を学ぶ。
  1858年に、藩命により出府し、
  1859年に、英学に転向、
  1860年~1867年に、幕府の翻訳方に勤め、また、
  1860年、1861年、1867年の3回、幕府使節に随行して洋
 行し、近代文明をつぶさに観察した。
  1868年に、塾を新銭座へ移して、慶應義塾と名付け(
 1871年に三田へ移転)
  以後、もっぱら民間で活発な著作活動を行なった。
  「西洋事情」「学問のすすめ」「文明論之概略」など
 はその代表作であり、
  その中で、近代文明を紹介するとともに、門閥制度に
 対する徹底的な憎悪を吐露し、官尊民卑を激しく攻撃し、
 儒教にかかる実学を主張し、「独立自尊」の4字に集約
 される国民の創出に努め、政府及び民衆に比類ない影響
 を与えた。
  一方、「演説」を創始し、明六社に参加し、さらに、
 家族道徳の革新には終生関心を持ち続けた。
  しかし、自由民権運動が起こると批判的態度をとり、
 国民主義に移行し、
  1882年に、「時事新報」を創刊して、官民調和を唱え、
 日清戦争を熱烈に支持した。
  また、日本を信じ、西洋に30年あれば追い着くと言っ
 た。
1835年、吉田松陰(5歳)が養子に出された。
1835年、アメリカ合衆国の先住民の方たちへの虐(いじ)
 めは続いた。
  有利な条約で、狡猾な条項を潜ませたりする卑劣なや
 り方で、先住民のアメリカ・インディアンの方々の土地
 を奪って行った。
  この年、アメリカ大統領のジャクソン大統領の提示し
 た条約を、アメリカ・インディアンのセミノール族のオ
 セオーラ族長は、公開の席上で、皆が見る前で、条約を
 書いた紙を引き裂いた。
..
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2015年10月12日月曜日

(増補版)223D2/3:気になった事柄を集めた年表(1832年~1833年)

題:(増補版)223D2/3:気になった事柄を集めた年表(1832年~1833年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1832(天保3)村田清風(むらたせいふう、長州藩士)が、
 長州藩に国政改革草案を上申した。
  長州藩の改革派の基盤を固め(窮迫した藩の財政再建
 に尽力し)、維新への原動力を築いた。
  天保の改革の立案・推進者となって、天保の改革は、
 1、江戸藩校・有備館(ゆうびんかん)の設立
 2、西洋式大操練(そうれん、兵士を実戦で役立つよう
  に訓練すること)の実施
 3、淫祠(いんし、いかがわしいものを神として祭ること)
  の解除
 4、農村の実態調査
 5、藩校・明倫館の改築と整備
 6、藩直営の会所の拡充
 7、藩専売制の強化・・など
  この頃から各藩の天保の改革始まった。
1832年、為永春水(ためながしゅんすい、人情本作者)が、
 「春色梅児誉美(しゅんしょくうめごよみ)」初編。
  ~1833年刊。
  美男子丹次郎とその許嫁(いいなずけ)お長の話。
1832年、イギリスの第一次選挙法改正
  産業ブルジョワジー(中産階級)に選挙権が拡大され
 ることになったが、
  依然として、納税額の多いものだけに選挙権が与えら
 れる「制限された選挙制度」であった。
  選挙権資格のない労働者階級の不満があった。
1833年(天保4年)6月26日、桂小五郎(かつらこごろう、
 政治家)、後の、木戸孝允(きどこういん、きどたかよ
 し)が、長州萩の呉服町江戸屋横丁で生まれた。
  8歳で90石の主になった。
  学問を明倫館で学び、
  17歳の時、当時、城外で松下村塾を営んでいた藩の軍
 学者・玉木文之進という20歳の青年を知った。(竜馬が
 ゆく・1)
  桂小五郎(木戸孝允)(1833年~1877年)
  吉田松陰の兵学門下だった桂小五郎は、医師の子とし
 て生まれ、
  近所に住んでいた長州藩士の末期養子として士籍を得
 た。
  藩校での成績もさほどのものでもなく、
  剣術の腕も特出していない。
  さほど優秀でもないので、父親の遺産を使い、私費で、
 小五郎は江戸に出た。
  しかし、練兵館で精励し、塾頭にまでのしあがった。
  その怜悧(れいり、賢いこと)で、開明的な資質を買
 われて、江戸藩邸での役職に就いた。
  そして更に、藩の中枢に累進し、急進派に属して倒幕
 運動に参加した。
  維新の三傑と言われるほどの人物となった。
  長州藩の抜擢人事で浮かび上がった才能の一人だった。
  桂小五郎:概説
  1867年:倒幕挙兵計画には長州藩の代表として活躍、
  西郷隆盛・大久保利通と並んで維新の三傑の一人、
  維新後は、直ちに、参議に就任した。
  思想は、大久保より急進であったため、しばしば大久
 保と衝突した。
  1877年:西南の役中に病死した。
1833年(天保4年)7月、江戸の米価高騰。
  全国的に冷夏で、そのために凶作へ、米価高騰や飢饉
 が発生した(天保飢饉)
  冷夏の影響は、郡内(ぐんない、山梨県東半分の古称)
 地方において深刻で、
  国中でも八代郡夏目原村(笛吹市御坂町)の百姓・夏
 目家の日記では、冷夏の影響を・・、
  「五十年以来無覚之凶作」とし、天保騒動で打ちこわ
 しの対象となる山梨郡万力筋熊野堂村の奥右衛門家では
 この頃既に打ちこわしの空気が発生しており、甲府町方
 でも世情不安が伝わり動揺が生じている・・とある。
1833年7月、一朱銀鋳造へ
  天保の大飢饉は、幕府の税制をさらに困窮させた。
  この財政難の解決策として出目(改鋳利益)獲得によ
 り幕府の蓄財を増強するために、
  天保8年(1837年)に、新たに一分銀を制定するなど、
 小判を含め貨幣の品位の低下を伴う貨幣の全面的な吹替
 えが行われた。
1833年8月-関東・奥羽、大風雨。
  江戸市中の米穀払底し、蔵米を払い下げた。
  (天保4年)、天保の飢饉(てんぽうのききん)
  1833年から1837年)にかけての全国的な大飢饉だった。
  江戸時代の三大飢饉の一つ。
  天保の大飢饉のとき、幕府は、上野広小路へ救小屋(
 すくいごや)を設けて貧民を救助した。
  また、幕府は浅草の米庫を開いて籾(もみ、外皮のあ
 る米、米が劣化しないように外皮を付けて貯蔵した)を、
 貧民に分けた。
  そのとき最も古いのは、60年前の籾で、その色が真っ
 赤だったよ。
  それより下がって50年前ぐらいのは、ずいぶんたくさ
 んあったけ。
  赤土一升を水に溶いて、これを布の上に厚く敷いて、
 天日にさらし、乾いてから、なまふの粉などを入れて団
 子を作り、
  また、松の樹の薄皮をはいで、スルメのようにして、
 食物にしたのもこのときだ。
  俺も、この土団子を食ってみたが、ずいぶん食えば食
 われたよ。
  しかし、余りたくさん食うと、黄疸のような顔色にな
 るという事だった。(氷川清話)
1833年、安藤広重(あんどうひろしげ、歌川広重、浮世絵
 師)の「東海道53次」が刊行した。
  前年の1832年に、東海道を初めて旅した後に作製した
 といわれている。
  1832年に、広重は、江戸から京都へと、御所に馬を納
 める『御馬献上』の公式派遣団の1人として、東海道の旅
 をした。
  御馬は、将軍から天皇への象徴的な贈り物であり、天
 皇を神として尊重し、毎年贈られていたとある。
  旅の風景は、広重に強い印象を残し、旅の途上でも、
 同じ道を戻った帰途でも、数多くのスケッチを描いた。
  家に帰りつくと、広重は、すぐに『東海道五十三次』
 の作製に取り掛かったという。
  そして、第1回目の版を出した。
  53枚の宿場と、出発地と到着地で55枚の刊行となった。
1833年12月、「ドゥーフ・ハルマ」が完成した。
  この著は、「蘭和対訳字書」であり、
  「御用紅毛辞典」とか、「ドーフ・ハルマ」「長崎ハ
 ルマ」と言われている。
  オランダ商館長のヘンドリック・ドゥーフが、祖国が
 フランスの支配下にあったために、帰国が叶わず、この
 商館長が書いたとされる。
  最初は、私的に作成していたが、
  後に、幕府からの要請を受けて、通詞の協力を得て編
 纂したという。
  幕府は、通詞の語学力の向上を目的としたという。
  別の資料には、1814年(文化11)に、長崎奉行所が、
 蘭館の生活窮乏を救うため、ドーフに、蘭和辞書の編さ
 んを命じ、通詞の協力を得て、事業に着手したとある。
   最大の編さん事業のひとつと言われ、蘭和対訳字書と
 しては空前の大字書と言われている。
1833年、オスマン帝国とロシアとが同盟した。
  (ウンキャル=スケレッシ条約)
  ギリシャ独立戦争中は、協力していたエジプトとオス
 マン帝国だったが、
  ギリシャ独立戦争が終結した頃になると、エジプトを
 実質的に支配していたムハンマド・アリーと、
  エジプトの宗主国であったオスマン帝国との間で紛争
 (エジプト・オスマン戦争 (1831年-1833年)が発生した
 (1831年)。
  フランスの援助によって、近代的で、よく訓練されて
 いたエジプト軍は、オスマン軍を圧倒し、
  オスマン帝国全域を制圧するかに見えた。
  この事態に際して、オスマン帝国を従属させる政策を
 とっていたロシアは、オスマン帝国に同盟を提案した。
  1833年に、両国間に ウンキャル・スケレッシ条約が結
 ばれ、
  ロシアは、オスマン帝国を外敵から保護する。
  そして、ロシアが交戦中の場合、オスマン帝国は、ダ
 ーダネルス海峡において全軍艦の通航を封鎖する・・こ
 とを約束した。
  このロシアの介入によって、1833年に、オスマン帝国
 とエジプトとの間に一時的な和約がなった。
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2015年10月11日日曜日

(増補版)222D2/3:気になった事柄を集めた年表(1830年~1832年)

題:(増補版)222D2/3:気になった事柄を集めた年表(1830年~1832年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1830年(天保元年)、7月革命(しちがつかくめい)
  フランスで、7月革命(市民革命)が起きた。
  1830年7月に、フランス王シャルル10世(在位1824年~
 1830年、ルイ18世の死によって王位継承した)の反動政
 治に対抗して、ブルジョアジー(市民階級)の指導によ
 って革命が行なわれた。
  シャルル10世はイギリスに亡命した。
  復古王制の国家基本法は、フランス王ルイ18世(在位
 1814年~1824年)の発布した憲法であるが、
  これは王権の神聖不可侵性・世襲制を定める一方、
  法の前の平等や、所有権の不可侵や、基本的人権をう
 たうものであったが、
  極端な制限選挙制度や、貴族院の優位を規定していた。
  また、1830年代の産業革命期に入ったフランスでは、
 新しい社会層が成長し、
  上層市民の寡頭支配(かとうしはい、少数者が権力を
 握って行う独裁的な政治形態)や、大土地所有者(土地
 貴族)に、政治は独占されていた。
  そして、極端な制限選挙に対して、批判は集中してい
 た。
  参政権の要求運動に対する政府の弾圧が、暴動を呼び、
 2日間の市街戦の結果、王政は倒れた。
  第2共和制が、1848年に、成立した。
  革命は、ドイツに波及し、
  ウィーン・ベルリンの3月暴動で、メッテルニヒは逃亡
 した(ドイツ3月革命・1848年)
  イタリア・ポーランド・ハンガリーにも、独立運動が
 発生した。
1830年、アルジェリア侵略
  フランスによるアルジェリア侵略は、1830年~1847年
 にかけて、復古王政下のフランスが、オスマン帝国領の
 アルジェリアを侵略した事件で、
  この年の1830年6月に、フランス軍が、アルジェリアに
 上陸を成功させた。
  この事件は、シャルル10世が、揺らぎ始めていた王政
 の威信を、外征の断行によって回復し、国民の不満を解
 決しようとした事によって起きた侵略行為だった。
  7月革命によって、シャルル10世が退位した後の政権に
 も、この行為は引き継がれ、
  フランスから移民がアルジェリアへ送り込まれた。
  (領土を奪おうとする行為はこれである。その土地に
 侵略し、武力などによって先住民を殺戮し、もしくは、
 移住などで先住民を排除し、先住民の居なくなった土地
 に、自国民をどんどん移住させる・・である。アメリカ・
 ヨーロッパ・オーストラリア・南米・アジアなどなどで、
 この行為は行われた)
  1834年に、アルジェリアは、フランスに併合された。
  フランスは、軍隊を増派し、占領統治の既成事実を作
 り上げて行った。
  一方、1832年からは、アブド・アルカーディル(アル
 ジェリア民族運動の父と言われる、フランスの植民地化
 に抵抗した)の武装抵抗が始まった。
1831(天保2)7~11月 長州天保大一揆(ちょうしゅうて
 んぽうだいいっき)が起こる。
  防州(周防、今の山口県東部)と長州(長門国、今の
 山口県北西部)の両国にわたり、藩府の専売制強化に反
 対して起こった農民の方々の大一揆。
  参加者は15万人~20万人と言われている。
  藩が、農民の商品作物を、藩の統制下に置こうという
 施策をとっていたが、藩は、1829年に、特権的な豪農商
 を御用達商人とし、
  1830年に至って、菜種と綿以外の一切の商品の他国か
 らの仕入れを禁止した。
  そして、農民の商品経済を、より厳重な藩の統制の下
 に置いた。
  1831年7月末になって、この産物政策にからんで、この
 特権商人と農民のいざこざが、紛争に発展したのが発端。
  7月の瀬戸内海沿岸地域から、9月には瀬戸内海沿岸の
 他の地域、中部の山間部、そして日本海沿岸地帯へと広
 く波及して行った。
  非常に大きな地域へ波及した一揆だった。
  藩内だけでも、741軒の各村の御内用方(庄屋・しょう
 や)宅の打ち毀しがあった。
  この年の末から首謀者の検挙となり、死罪10名、遠島
 24名となった。
1831年8月、武士の日傘の使用を禁止した。
  三都(江戸・京・大坂)で、武士が日傘をさすことが
 流行した。
  女性と医師以外に対して、何度も禁止令が出たが止ま
 ず、問いただすと暑いからと答えた・・、
  〔甲子夜話 八〕には以下の記述がある・・、
   大洲侯ニ邂逅セシトキ、國々ノ寒暑ノ談ニ及ビ、我
 平戸ノ氣候ヲカタリ、
  扨(※さて)豫州モ海近ケレバ、夏モ涼シカルベシト言
 シニ、
  侯ノ臣堀尾四郎次、其座ニアリテ曰ク、曾テシカラズ、
 暑至テ甚シ、
  盛暑ニ至リテハ、途行スルニ、炎氣黄白色ヲナシ、空
 中ニ散流シ、
  人目ヲ遮リ、前行十歩ナル人ハ殆ド見ヘ分タズ、其蒸
 熱堪ガタシ、
  如斯(※かくのごとき)ナレバ、途行スルモノ青傘─涼
 傘也、青傘ハ、豫州ノ方言、─ヲ用ザレバ凌ガタシ、
  然ルニ近頃青傘ヲサスコト停止セラレシカバ、暑行尤
 難儀ナリト語リヌ、
1831年8月、十辺舎一九(じっぺんしゃいっく)が没した
 (1765年~1831年)
  辞世:「この世をば どりゃお暇(いとま)に 線香の
      煙とともに 灰左様なら」
1831年(天保2年)、良寛(りょうかん、仏教の僧侶、歌人)
 が没した(1757年~1831年)
  越後の出雲崎の生まれ、大愚良寛と称した。
  書風は、天衣無縫で、高い評価を得ている。
  隠棲して、独自の枯淡な境地を、和歌・書・漢詩に表
 現した。
1831年、異国船攘夷に来る、松前藩兵を備う。(氷川清話)
1831年、勝海舟、奥向きを去って家に帰り読書通学を続く、
 或日、途上野犬にかまれ重傷を受く、生命危しと医師は
 診断したが、○所を縫い治療、70日で全治。(氷川清話)
1831年、安治川を○い天保山を築く。(氷川清話)
  これは、大阪町奉行の新見正路が、安治川河口を浚渫
 した土砂で、天保山を築いたことを言っている。
  大阪湾に流れ込む安治川が、土砂流入で浅くなり、洪
 水が起きやすくなっていたためと、
  流れ方を洪水の起きにくい状態にした。
  また、船舶の出入りに問題が生じていた(出入りしや
 すくした)。
1831年、九州の島原で、農村に対する耕作地の実態把握や
 寸志銀制度などが強化され、その為、疲弊困窮していた
 下層農民が、この年に、多比良一揆を起こした。
  この地域は、翌年の1832年にも、島原の有家という所
 で、小作人の暴動が起きている。
  また、さらに、島原の千々石では、1847年に、小作人
 が暴動を起こしている。
  この時は、藩が、備蓄米を放出して対策を講じている。
  そして、また、村方でも、救助策が考えられたりして
 いる。
  この様に、この地域は厳しい地域で、一揆が良く起き
 ている。
  この地域の乱で有名な、1637年の島原の乱も、これと
 同様な百姓一揆であった。
  それを、キリスト教に偏するNHKは、キリスト教の
 乱だと放送した。
  この様なキリスト教のプロパガンダ(嘘宣伝)に乗っ
 かった放送で、島原の乱はキリスト教の乱となった。
  キリスト教に偏するNHKは、更に、キリスト教徒が
 多く殉教したとでっち上げて放送した。
  キリスト教は、殉教する事を宗教的に美しいのだと教
 えているが・・、
  しかし、NHKが放送ででっち上げるこの乱の戦死者
 数は、幕府側も非常多くの戦死者数となっていて、ひた
 すら殉教だという根拠はまったくない。
  また、キリスト教徒は、この乱のほんの一部で、ほと
 んどが百姓と浪人で構成されている。
  キリスト教の反乱とは、とても言えるものではない。
 まったくのプロパガンダである。
  天草四郎にしたって実在はしていない。
  この乱が起きる以前、この地のキリスト教宣教師が言
 いふらした架空の人物であることが判明している。
  NHKは、キリスト教に偏する事から、この様に事実
 を曲げて放送をした。
  この様な放送事例は、非常に多く、NHKは、いかが
 わしい放送局となっている。
1831年、発明:マイケル・ファラディが、電磁コイルを発
 明した。
1832年(天保3年)、米の取れ高、3040万石。
1832年8月、鼠小僧次郎吉(ねずみこぞうじろきち)が、捕
 縛され、
  江戸市中引き回しの上、鈴ケ森刑場で打首獄門となっ
 た(1797年?~1832年)、35歳
  大名屋敷を中心に狙う盗賊で、人は、絶対に傷つけな
 いとして評判になり、
  いつしか義賊として人気になった。
  平戸藩主の松浦氏などの大名にまで人気があった。
  上野小幡藩(藩庁は群馬県)の松平家に入ったのが最
 後となり、ここで捕縛された。
  刑場での装束は、非常に派手だったという。
1832年9月、頼山陽(らいさんよう、儒者、勤王家)が、没
 した(1780年~1832年)
1832年10月、二朱金(にしゅきん)が鋳られた。
  一分金の2分の1で、一両の8分の1.
  初鋳は、1697年、また、1860年にも鋳造された。
  品位が劣悪なため広くは流通しなかった。
  二朱判金ともいう。
1832年11月、琉球の江戸上り。
  将軍・徳川家斉のとき、琉球の尚楷・豊見城王子朝春
 とある。
  また、往路に、鹿児島にて死去されたため、急遽、普
 天間親雲上朝典が、「替え玉」となって、豊見城王子役
 を務めたとある。
  また、この琉球の江戸上りについて書いた(朝日新聞、
 平成12年2月20日)には・・、
  江戸上りを見るための沿道の賑わいは大変なものだっ
 た。
  桟敷ができて、物売りも出た。
  人々が待ち構える中、行列がやって来た。
  ドラ、太鼓、ラッパなどを演奏しながら歩いた。
  管楽器、打楽器は耳に珍しかった。
  中国風の衣装を身に着け、異国情緒たっぷりに進んだ。
  ざっと、100人の長い行列だった。
  琉球から薩摩、瀬戸内を経て、東海道をたどって、江
 戸までというコースだった。
  名古屋では、寒天と浅草海苔で琉球使者をかたどった
 人形も売られた。
  上野では、行列の見物人が押し合いへしあいし、「堤
 防が壊れて水があふれ出たようだ」と書き残した人もい
 た。
  天保3年は、琉球ブームに沸いた。
  なぜか風邪がはやったが、人々は「琉球風邪」と呼ん
 だ。
  この時、何故、ブームになったかは、この頃、庶民は
 名所めぐりの旅、温泉への湯治遊び、納涼、花見など「
 行動文化」と呼ばれる時代に入っていたから。
  異国が珍しかったし、異国船が出没していた。
  実は、行列が、中国風の衣装を着ていたのは、薩摩藩
 の指示だった。
  言葉も琉球の言葉を使うように言われていた。
  「異国」を演出する事で、薩摩藩にとっても、幕府に
 とっても、「異国を支配する強い存在」を強調出来た。
1832年11月、北斎が「琉球八景」を描いた。
  これは、72歳の頃の作で、
  これを、フランスの印象派の画家のモネが愛蔵して、
 自宅に飾っていた。
  浮世絵は、封建社会で経済力をつけた町人たちが、主
 な購買層だった。
  そして、庶民の好みを映して大きくなり、版元は時代
 の動向を見ながら、売れるものを題材に選ぶという傾向
 があった。
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