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2017年8月25日金曜日

(増補版)548E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年1月~1892年1月)

題:(増補版)548E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年1月~1892年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1892年、災害・防災:
・4月10日:東京・神田で大火、1万5000戸が焼失した。
  (4000戸の焼失・・説あり)
 4月9日(大火が起きた前日)午後9時頃から、東京に激し
 い北西風が吹き始める。
  夜中(4月10日、午前0時半頃)、神田区(現・千代田区)
 猿楽町一番地の飲食店・宮本周蔵の物置から出火、母屋
 をひとなめにした。
  その炎は消えず・・一つは小川町通りを、一つは表神
 保町通りを、一つは錦町通りを、
  たちまち、三方に分かれ急速に東南へ向け燃え広がる。
  火元の猿楽町をはじめ、同一丁目、裏神保町、小川町、
 表神保町、錦町一、二、三丁目が、あっという間もなく
 全焼した。
  炎は、さらに、錦町一丁目から美土代町一、二、三丁
 目へ、また、三河町一、二、三丁目へと・・、
  神田を灰にした炎は、鎌倉河岸を飛び、堀割沿いに本
 石町通りを東へ進み、鎌倉町、松下町と灰にした。
  朝の午前8時には、今川橋先の堀割も超え、ついに、日
 本橋区(現・中央区)本銀町へ飛んで、本石町二丁目の大
 半を焼失。
  午前9時半になって、また、残り火が烈風にあおられた。
  そして、ふたたび襲いかかり、皆川町、旭町、ろうそ
 く町、関口町も猛火の中で灰と・・、
  その後も、炎は、東へ進み、永富町、新石町、竪大工
 町、上白壁町と、次々と進んだが、一つは、今川町の堀
 割で止まった。
  そして、一つは、鍛冶町の大通りで止まった。
  神田区と日本橋区の一部、約33か町4620戸が焼失。
  小川町警察署、神田区役所をはじめ、
  万世橋直間税分署、東京法学院(現・中央大学)、東京
 英語学校(現・日本学園中、高等学校)、錦城学校(現・錦
 城学園高等学校)、松茂小学校、三省堂、熊田活版所、東
 京電灯会社第四電灯局、パノラマ館・・などの主要な建
 物が全焼した。
  中でも、死亡者24人の内、その大半を出した小川町勧
 工場(ショッピングセンター)洽集館(こうしゅうかん)で
 は、出火と聞いて店の商品を持ち出そうとしたが、
  出口が表と裏の2か所しかなく、18人が逃げ遅れて死亡
 した。
  (参考:東京の消防百年記念行事推進委員会編「東京の
 消防百年の歩み」)
・足尾鉱毒事件について、田中正造が、衆議院に質問書を
 出した(栃木)
  田中正造は、1890年、第1回衆議院議員総選挙に栃木3
 区から出馬し、初当選した・・そして・・
  1891年、鉱毒の害を視察し、
  1892年6月3日、第2回帝国議会で、鉱毒問題に関して質
 問を行った。
  毎日新聞(6月5日)によると・・、
  本会明治25年5月9日河野広中君、及び工藤行幹君は、
 北海道殖民開拓に関する施政方針、北海道官有物払下、
 北海道勧業委托金処分、札幌製糖会社及び札幌製麻会社、
 北海道土地貸付、炭鉱鉄道線路変更の件に付、
  同月11日塩田奥造君、新井啓一郎君及び箕輪勝人君、
 同鉄道始末に対する件に付、
  同月23日加藤淳造君、同北海道炭鉱鉄道会社に関する
 件に付き、
  同月同日、田中正造君は、足尾銅山鉱毒加害の件、及
 び、北海道幌内郁春別鉄道会社命令書違反、神戸造船所、
 釜石鉱山、阿仁及び院内鉄山、小坂銀山に関する件に付
 き以上の質問書を提出したるに、
  政府は、未だ何等の答弁をもなさず。
   議院法第49条には、
  「質問主意書は議長之を政府に転送し、国務大臣は直
 ちに答弁を為し、又は、答弁すべき期日を定め、若し答
 弁を為さざる時は、其の理由を明示すべし」・・とあり、
  黙るに政府は上記数件の質問に対し、未だこれが答弁
 をなさず、
  又答弁すべき期日を定めざる理由如何、若し政府に於
 て答弁能はずとせば、何故にその理由を明示せざるや。
  以上、議院法第48条により提出す、国務大臣はその責
 任を負ひ直ちに明答あらんことを望む。
   明治25年6月3日 質問者 田中正造
           賛成者 塩田奥三 他2名 
・7月25日:徳島県下に津波・山崩れ・大洪水が起こり大災
 害となる。
  (1)、1892年7月25日午後2時頃、保勢山の中腹が幅
 300m、長さ800mにわたり崩壊して、海部川を堰き止め
 た。
  崩壊により北岸の山麓にあった3家族11人、及び、山稼
 ぎ36人は、家屋とともに生き埋めになった。
  田畑4町歩も埋没した。
  海部川を堰き止めていた土砂は26日午後7時頃に崩れ、
 下流は大災害となった。
  平井には保瀬大崩壊の碑が建っている。
  (2)、1892年7月25日、台風に伴う集中豪雨により、
 海部川中流右岸の保勢(保瀬)で大規模崩壊が起こり、
 4戸が埋没し、住民11人と山稼ぎ人36人が生き埋めとな
 った。
  崩壊土砂は河道を閉塞し、巨大な天然ダムを形成した
 ため、湛水によって8戸が流出し、9人が水死した。
  さらに天然ダムの決壊により、下流域で流出2戸、半壊
 11戸の被害が出たが、高潮被害と重なり、天然ダム決壊
 による被害のみを分離することは難しい。
  天然ダム決壊の恐れは事前に下流に知らされ、決壊時
 には鉄砲、大砲、狼煙などで伝達された。
  (3)、1892年7月25日、豪雨が海部川上流や那賀川上
 流を襲ったため、保瀬で大崩壊(土量約200万立米)が起
 こり、海部川の水を堰き止めた。
  このため、寒が瀬一帯は濁流に没し、4戸埋没、8戸流
 失、死者47人に被害を出し、上流一里半の樫谷の大杉の
 鞘が水に隠れ、さらに上流の轟神社の扁額が半分水に浸
 かった。(「海部郡誌」による)
  堰き止められた水が一斉に流下して大氾濫を起こすか
 も知れないという情報は上流から下流に伝えられたため、
 下流部では人的被害はなかった。(「海南町史上巻」に
 よる)
  (4)、1892年7月25日の豪雨時に、保瀬で崩壊が発生
 し(崩壊土量200万立米)、天然ダム(湛水量1,400万立
 米)が形成され29時間後に決壊したが、事前に避難。
  (四国災害アーカイブスより)
.
1892年、その他:
・久六島鮑(あわび)岩の帰属問題で青森・秋田の漁民が
 争った。
  青森県西部、艫作(へなし)崎の西方約30キロメートル
 の日本海上にある無人島で、上の島、下の島、ジブの島
 と呼ばれる三つの岩礁からなる(青森県西津軽郡深浦町)
  島名は、難破船から救助された水夫の名によるとか、
 漁夫の名によるとかいう。
  付近は、ホッケ・アワビ、海藻などの漁場。
  16世紀末より、アワビ・サザエ・イカなどの漁場とし
 てきていて、1786年に、船問屋が発見したとも伝えられ
 る。
  好漁場であるため、青森・秋田両県で、50年にわたり
 帰属をめぐり争っていたが、
  1953年、青森県深浦町に帰属、秋田県に入会(いりあい)
 権が認められた。
  津軽国定公園に含まれ、1959年に、光達距離12.5カイ
 リの無人灯台が建てられた。
  (伝説)明治時代、久六島に、島を発見した九六が、
 この島に漁に出かけようとして遭難したという伝説が残
 っていて、
  西津軽郡の人々で、探検を企てようとする人はいなか
 った。
  ただ、男鹿半島の漁民が、時々、偶然に風の都合で久
 六島に流され、そこで、たまたま多くの漁獲を得る程度
 であった。
  1890年、福島県から新しい漁具(潜水具など)と漁夫を
 率いて能代で水産業を営んでいた新妻助左衛門は、久六
 島探検を決意し、7月22日、能代を出航した。
  23日、西風に流されて艫作に上陸、そこで、新妻は、
 久六島の伝説と方向や位置を漁民から聞き、
  午後6時に、艫作を再出航して、久六島に到着し、27日
 にわたって大いに漁獲を得た。
  新妻は、午後6時に、能代に向けて出航したものの、風
 に流されて深浦村に上陸、そこで、久六島の魚影の豊富
 さを村人に話した。
  以後、村人たちも因習を改め、以後、秋田や青森の漁
 民が久六島を訪れるようになった。
  一旦、明治時代に、青森県が、単独で久六島の漁業権
 を得るものの、抗議を受けてそれが取り消される事件も
 あった。
  明治以来、秋田、青森両県の間でその帰属に関して紛
 争が続いたが、
  1953年、自治省の告示で青森県深浦町への地籍編入が
 決定した。
・衆議院議員総選挙で、高岡郡斗賀野で国民派と破壊派壮
 士500名が乱闘をおこした(高知)
  高知県下に保安条例が施行された。
・7月6日:アメリカでホームステッド・ストライキ(暴動)
  カーネギーの製鋼所で暴動が起きた。
  アメリカのカーネギー製鋼会社、ホームステッド製鋼
 工場における組合弾圧により、ペンシルバニア州ホーム
 ステッドで争議が起った。
  労働組合に反感をいだいていた H.フリックは、同社の
 社長に就任するとともに労働組合の破壊を決意し、賃金
 の引下げを計画した。
  300人の会社防衛隊が雇われ、ホームステッドで労使は
 対決し、70人以上の死傷者が出た。
  会社は、8000人の民兵の出動を州知事に要請、
  軍隊の出動によって、労働組合は壊滅し、他の製鋼会
 社もその労働協約を破棄するにいたった。
.
  (今日の言葉)
.
  題:中国の長期的な戦略目標は・・、
   「東アジア地域から、アメリカ軍を追い出し・・」、
   「台湾、日本、朝鮮半島を中国の勢力圏にする・・」
.
1894年、懐中時計の製作に成功(服部時計店)
  服部金太郎は、1884以降、横浜の外国人商館から洋時
 計を仕入れるようになり、品揃えを豊富にしたことが斬
 新な品揃えとして、評判が立つようになった。
  当初は、輸入に頼り、仕入れた時計は飛ぶように売れ
 た。
  国産時計は、1892年に、服部金太郎が作った精工舎で
 始められ、3年後には、輸出も行われるようになった。
  「服部時計店社長・服部金太郎氏の創立に係る、同氏
 は、夙(しゅく、早い時期から)に、時計製造の如き精
 密工業が、最も我国民に適し、他日、必ず、日本の重要
 工業の 一として成功すべきことを確信し、其の創立を
 決意すると共に、現顧問・吉川鶴彦氏を技師長として招
 聘し、
  明治二十五年(1892年)五月、東京市本所区石原町に
 仮工場を設け、始めて掛時計の製造に着手せり・・」
  1894年、精工舎は、創業二年半にして、最初の懐中時
 計である22型タイムキーパー製造にも成功させ、
  清国(中国)に少量ながら輸入も始めた。
  「明治二十九年(1896年)には、懐中時計機械の製作
 を創む、當時の懐中時計は、二十二型 シリン式にして
 之を現時流行品たる八形九形の如き小型の時計と比すれ
 ば全く隔世の感なくんはあらす」
.
1945年8月9日、対ソ防衛戦
  アメリカと戦っている日本に、ソ連が突如として攻め
 て来た。
  満州国において、1945年(昭和20年)8月9日未明に開
 始された日本の関東軍と極東ソビエト連邦軍との間で行
 われた満州・北朝鮮における一連の作戦・戦闘と・・、
  日本の第五方面軍と、ソ連の極東ソビエト連邦軍との
 間で行われた南樺太・千島列島における一連の作戦・戦
 闘。
  この戦闘の勃発により、日本の降伏を決定付ける事と
 なった。
  日本の防衛省防衛研究所戦史部では、この一連の戦闘
 を「対ソ防衛戦」と呼んでいる。
  このソ連の終戦間際に行った行為は、結論から言えば、
 論理的に『正当性は成立しない』。
  日ソ間には、「日ソ中立条約」が結ばれている状態で
 ある。
  そして、「日本は、事実上、敗戦が決定していて、戦
 争は終結している状態」である。
  例えば、イラク戦争で、アメリカとイラクが戦争をし
 て、イラクが負けたが、
  そのイラク戦争で、イラクが負ける直前に、第三国が、
 イラクに宣戦布告をして、イラクの首都のバクダッドを
 占領したら・・、
  バクダッドは、その第三国の占領物・占領した領域と
 なるのか?
  なる訳はない。
  それは、強盗行為である。
  犯罪である。
  また、隣の家に強盗が入って、その家の人が、強盗と
 やり合っている時に、第三者が入って行って、その家の
 物を盗る・・その行為を正統化できるか?
  出来る訳がない。
  盗みの行為である。
  犯罪である。
  だから故に、先に記したソ連の「南樺太、千島列島、
 北方四島」の日本の領土へのソ連の侵略は成立しない。
  強盗行為なのである。
  今・現在の現状は、不法行為の結果なのである・・不
 法占拠なのである。
.
1953年、アメリカが、民主主義を実行していたイランで、
 CIAの工作によるクーデターを起こして、独裁制を押
 し付けた。
  これは、アメリカによる、イスラム教徒の不必要な迫
 害・抑圧であり、イスラム教世界と「文明の衝突」現象
 を作り出してしまった。
  アメリカは、この様な行為を色々している。
.
2003年3月20日、イラク戦争
  アメリカが、レバノン侵略(1982年)を盲目的に支援
 し、虚偽の口実を捏造して、イラクを侵略・占領した。
  アメリカは、この様な、イスラム教諸国と数々の紛争
 を起こし、「文明の衝突」現象を作り出した。
  アメリカは、この様な行為を色々している。
.
2010年、中国の実質経済規模が・・世界一となった。
  アメリカは、2位に転落した。
  米ソ冷戦(東西冷戦)は、日本の貢献度大で、アメリ
 カが勝利し、1991年に、ソ連は崩壊した。
  ソ連の統制経済の社会主義体制と社会主義経済圏が崩
 壊した。
  そして、ロシアが誕生したが・・一極体制とはいうも
 のの・・「借金だらけのアメリカ」という『あだ花』が
 咲いた・・
  そして、資本主義経済・市場経済のグロバリゼーショ
 ンの進行を見たが・・が、しかし・・、
  結局、経済競争は、2010年頃には、日本が『中国』に
 抜かれ、そして、『アメリカも』、中国に抜かれた。
  ただ、「抜かれた、ああ、そうか」では、この話は終
 わらない。
  1996年~1997年に、アジア諸国とロシアは経済危機に
 おちいった。
  この時、IMFを支配するアメリカは、これら諸国に
 対して強大な権力を行使する事が出来た。
  (アメリカの御機嫌を損なったら、IMFから融資を
 受けられない・・というシステム)
  しかし、IMFの投票権は、参加国の実質経済規模に
 比例して割り当てられている。
  故に、アメリカの実質経済規模が、世界一の座を下落
 したアメリカは、IMFの拒否権行使の権利を喪失した
 ことになった。
  中国の世界一は、堂々としている。
  「食料と鉱物資源とエネルギーの消費量」が世界一、
  そして、中国は、「金属産業」の規模も世界一である。
  同様に、「化学産業」の規模も世界一で、「住宅産業」
 も世界一、
  そして、「家電産業」も世界一、「運輸産業」も、「
 造船業」も、
  そして、「流通業」も、そして、「自動車市場規模」
 も世界一。
  そして、世界の「鉄生産」の48%を、中国一国で消費
 している。
  そして、「外貨保有量」と、毎年の国内の「純貯蓄額」
 (資本蓄積量)も世界一・・、
  アメリカ政府の国際通商委員会のチーフ・エコノミス
 トであったピーター・モリシ(メリーランド大学教授)
 は・・、
  「(世界一の借金国)アメリカは、中国に国債(米財
 務省証券)を買ってもらわないと財政破綻(はたん、物
 事が、ほころびて、つくろえないというように、立て直
 しも手詰まりになること)してしまう」・・と言った。
  そして、また、「アメリカ大統領は、中国の前で、(
 国債を買ってください)と頭を下げないと、経済運営が
 できない」・・と言った。
  中国の発言権を、アメリカは無視できない立場にいる。
  そして、この格差は・・広がるばかりなのである。
  そして、世界の叡智は予測する・・
  『アメリカは、今後、破綻(はたん、物事が修復しよ
 うがないほどうまく行かなくなること)する。
  2016年~2025年頃に、財務危機、通貨危機を引き起こ
 す可能性が高い』・・と・・、
.
2017年、アメリカを抜いて、世界一の経済大国になった中
 国は、北朝鮮を支援して、核ミサイルを持たせた。
  今まで、世界一だったアメリカは、「日本には、絶対、
 核は持たせない」とやって来た。
  そして、今・現在、『核とミサイルを持った北朝鮮』
 は、アメリカ領グァム島の周辺海域に、ミサイルを飛ば
 す計画だと言った。
  中国と北朝鮮の両国は、「核とミサイル」を持ってい
 る。
  日本は、「刀狩り」と言って、すでに、400年以上も昔
 に庶民から武器を取り上げた。
  アメリカは、今・現在でも、銃を取り上げられないで
 いる・・銃を無くせないでいる。
  アメリカの社会の中には、銃があふれている。
  銃を無くそうと言っているが、どうしても、社会から
 銃を無くせないでいる。
  そして、今、地球は、どうやら、核だらけの地球にな
 る気配・・、
  アメリカで、銃が無くせない様に、地球から核兵器が
 無くせない・・様だ・・、
  アメリカでは、時々、忌(い)まわしい銃の乱射事件
 が起きて、殺される人、亡くなられる方々が出るが・・、
  今後、地球上に・・この様に増えた核ででも、その銃
 の事件の様な、突然の『忌まわしい出来事』が起きるだ
 ろう。
  銃の場合の様な、一人とか二人とか、10人とかという
 話ではなく・・核の場合は・・、
.
2017年、中国は、完全に・・『経済的にも』、アメリカを
 凌駕(りょうが、他のものを越えてそれ以上になること)
 した。
  あらゆる面で、中国は、アメリカの真似をして来た。
  その真似をして来た中国が、アメリカを追い抜いた。
  また、中国は、軍事的にもアメリカを越した。
  今までアメリカは、自国の主張をして来る国だった。
  中国も、この点まで、アメリカの真似をするだろう。
  アメリカは、「守ってやるよ」「はい、お願いします」
 と、世界に自国の軍を展開して来たが、これも、中国は
 真似するだろう。
  すでに、中国は、世界のあちこちに軍事拠点を作って
 いる。
  アメリカと中国の「二重の軍事カバー領域」が重なる
 地球・世界となる。
  かつてのソ連とアメリカは、領域は接しても、重なる
 ことはなかったが・・ ・・、
.
2017年、「異教徒は殺せ」というキリスト教の考え方が、
 今の、現時点の、状況を作っている。
  「相手の生存を認めない」というキリスト教のこの教
 義。
  この考え方は、完全に間違っている。
  だが、キリスト教徒は、マインド・コントロールされ
 て、洗脳されて、その間違いに気づかない。
  逆に、正しい行為と思う所が『恐ろしい』。
  キリスト教に強く洗脳させられたブッシュは、この考
 え方で、イラクを滅亡させ、トップのフセインを殺した。
  アメリカのブッシュ大統領は、「現代の十字軍だ」と、
 言ってイラクを攻めた・・キリスト教に洗脳されて、そ
 の様に行動をしているという事を示した。
  そして、このキリスト教に洗脳されたアメリカのブッ
 シュ大統領は、北朝鮮も、この滅んだイラクとフセイン
 と同じ「テロ国家だ」と言った。
  次に、イラクのように、北朝鮮を攻める意味を示した。
  北朝鮮は震え上がった。
  異教徒の生存を認めないその考え方・言葉に震え上が
 った。
  生き残る道を考えた。
  相手は、キリスト教に染まった「異教徒の生きる道を
 認めない考え方の者たち」、
  生き残るにはどうすればよいか?・・と・・、
  ミサイルが成功し、核実験が成功し、その時に喜びの
 放送が流れた。
  「将軍様、ありがとう」という言葉だった。
  それは、「助かった」という安堵(あんど、物事がう
 まく行って安心すること)の言葉だった・・のだろう。
.
2017年、アメリカは、養われている国である。
  アメリカ国債を買ってもらって帳尻を合わせている国
 である。
  普通なら自己破産で、存在しえない状況なのだが・・
  その様な国が、何故、出来てしまったのか?
  それは、心底での国を思う気持ちが希薄だからである。
  グローバリズムだなんて言って筋を通しているようだ
 が、結局は、グローバリズム優先で、国を疎(おろそ)
 かにしている。
  その様な国が、何故、存在していられるのか?
.
2020年、今から3年後・・アメリカ経済の実質規模が、『
 17兆ドル』程度と予想されている。
  これに対し、この時の・・中国の実質経済は、2020年
 には『30兆ドル』以上と・・、
  アメリカの1.7倍という『2倍』に手が届くぐらいに、
 拡大していると予測されている。
  『圧倒的な中国優位』の状況となっていると・・、
  アメリカの成長が見込まれない理由・問題点は・・、
   1、戦後生まれのベビーブーマの大量引退。
   2、医療費の重荷・・医療費の過大化。
   3、人口のヒスパニック化。
   4、アメリカ国民の6割が貯蓄をしない無貯金状態。
  アメリカは、軍事費に予算を廻せない状況となる。
  中国との競争が出来ないアメリカとなる。
  今、トランプ下ろしをやっている時ではないのである。
  そして、アメリカのトランプ下ろしの陰には、この「
 中国のマネー」がある・・??
  そして、中国の長期的な戦略目標は・・、
  「東アジア地域から、アメリカ軍を追い出し・・」、
  「台湾、日本、朝鮮半島を中国の勢力圏にする・・」
  実際、「アメリカが、東アジアから撤退する」ことを
 予測するアメリカの学者は・・大勢いる・・
  ハンティントン、ミアシャイマー、フリードバーグ(
 プリンストン大学)、レイン(テキサスA&M大学)、
 ペイプ、マンデルバウム(ジョンズ・ホプキンス大学)、
 カプチャン(ジョージタウン大学)・・などは・・
  「アメリカは、いずれ、東アジア地域の支配権をあき
 らめ、ギブ・アップせざるを得なくなるだろう」・・と・・
  キッシンジャーやブレジンスキー・・も・・
  「中国が、アジアの覇権国となることは、もう避けら
 れない」。
  「アメリカ政府は、中国の覇権を認めて、対中国融和
 政策を採るべきだ」と言っている。
  日本は、加計学園問題なんかに、いつまでも関わって
 なんかいないで・・、
  「日本の立ち位置の検討」・・、
  「自分の国は自分で守る」ことに・・
  真剣に 討議せよ!
  イギリスの様に・・原潜と核は必要!!
.
2025年、中国の経済規模が、世界の『30%』を占める・・
 また、インドの経済規模も、『15%』を占める。
  アメリカ政府の情報機関が、2008年末に公開した「国
 際政治の予測レポート『グローバル・トレンド2025』」
 に・・、
  そして、国際構造は「多極化」していく。
  今後、20年間の国際関係に最大の影響を及ぼす国は、
 中国であろう。
  今から200年前、中国の中国の経済規模は世界経済の30
 %、インドの経済規模は15%だった。
  中国とインドは、以前の経済的な地位を回復する過程
 にある・・と・・、
  因みに、600年代~1830年までの1200年間、中国の経済
 規模は世界最大だった。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
 

2017年8月22日火曜日

(増補版)547E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年1月~1892年1月)

題:(増補版)547E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年1月~1892年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1892年、発明:
・5月22日:歯磨きチューブが発明された。
  ワシントン・シェフィールド(アメリカ人、歯科医)
・9月:下瀬火薬が発明された。
 大日本帝国海軍技師・下瀬雅允が実用化した爆薬(炸薬
 として砲弾、魚雷、機雷、爆雷に用いた)で、日露戦争
 当時の日本海軍にも採用され、日露戦争(日清戦争には
 間に合わなかった)には大いに活躍し、大戦果の一因と
 なった。
 1905年5月27日の日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を
 粉砕した一因は。この火薬の成果。
 因みに、フランスに派遣された富岡定恭は、「フランス
 で新型火薬と言われる火薬」のサンプルの微量を、爪の
 中にすり込んで日本に持ち帰った。
 この微量のサンプルを分析した結果、この下瀬火薬と同
 様のピクリン酸であると判明した・・下瀬火薬の発明が
 先んじていた。
・10月4日:乾電池の発明
 屋井先蔵(やいさきぞう)が、世界で初めて、完全な乾
 電池を完成させ、特許を出願した。
 発明時期は不明。
 屋井乾電池は、乾電池を用いる製品そのものが普及して
 いなかったこともあって、しばらくは売れなかった。
 1894年に日清戦争が勃発し、満州で使用されていた軍用
 の乾電池の大成功に関する号外記事が掲載された。
 従来の湿電池では、液が凍結したため、満州では使用で
 きなかったが、屋井の乾電池だけは使用できた。
 1910年に、合資会社・屋井乾電池を設立した。
 神田区錦町に販売部を新築し、浅草神吉町に、乾電池の
 製造工場を設けた。
 そして、乾電池の本格量産にとりかかった。
 筒型の金属ケースを用い、現在の乾電池のスタイルを確
 立した。
 屋井乾電池は、海外品との競争にも勝ち、日本国内乾電
 池界のシェアを掌握し、屋井は「乾電池王」と言われた。
.
1892年、医・衛生:
・2月:東京・牛込東五軒町に、東京慈愛病院が設立された。
・6月17日:東京・下渋谷(広尾)に、日本赤十字病院(本
 社病院)が新築され、開院した。
・天然痘が流行し、全国で1万人近くが死亡した。
・福沢諭吉の援助で伝染病研究所が出来、北里柴三郎がそ
 の所長となった。
.
  (今日の言葉)
.
  題:その重大な転機における課題に取り組んでいるトランプ大統領・・
    そのトランプ下ろしをやるアメリカは、現時点は・・、
    その様な時ではないという『深刻な事情』に目を向けるべきだ。
.
1895年4月23日、三国干渉
  急速に力を付けた日本・・明治28年の時である・・
  日清戦争の、まさかの日本の勝利だと世界は思った・・、
  そこで起きたのが・・
  列強各国の、弱小日本への三国干渉・・、
  三国干渉(さんごくかんしょう)は、1895年4月23日に、
 フランス、ドイツ帝国、ロシア帝国の三国が、日本に対
 して行った。
  自分たちがおいしい汁を吸っている中国の領分に入っ
 て来た新参者にいちゃもんを付けた。
  日本の勝利で終わった日清戦争。
  その、日本と清の間で結ばれ、合意された下関条約・・、
  その条約に基いて・・約定(やくじょう、約束して定
 めること)して・・日本に割譲された遼東半島を・・
 おい!それはよせよと・・くちばしを入れたのである。
  日本は、遼東半島を取らないで、取り上げないで、「
 清国へ返せよ」「返還しろよ」と言った・・そういう内
 容だった。
  そこには、ロシアの思惑があった・・ロシアは大きな
 欲をかいていた。
  ロシアは、満洲と中国北部の支配権を拡張したいと目
 論んでいた。
  また、それと並行して、欲張りに欲張って、朝鮮へも
 影響力を拡大したいと思って行動していた。
  ロシアとしての言い分は・・朝鮮は、ロシアのウラジ
 オストクに近いため、ここを他の列強に抑えられると、
 ロシアが圧迫されて怖いのだ・・という理屈・・そして、
 その可能性を防ぎたいと・・
  また、それは、逆に、今時点に例えれば、日本にとっ
 て、38度線が対馬海峡になる様なもの・・
  ロシアは・・日本という国が、朝鮮と対馬の両岸を抑
 える事態になれば、中国の旅順港とロシアのウラジオス
 トク港を結ぶシーレーンが危機に晒されるというロシア
 の論理が・・理屈があった。
  中国のおいしい汁を安心して運べないのだよ・・と・・
  だが、前記した様に、朝鮮半島をロシアが占領すれば、
 圧迫されるのは日本も同じだった。
  今の現時点で、「緊迫した38度線が、対馬海峡になる」
 と想像すれば・・その不安・・危険度・・それと話は同
 じだった。
  そして、この1895年の三国干渉の影響から、朝鮮政府
 は、『反日となり』また『親露となった』・・その様な
 勢力が台頭して行った。
  そして、また同様に、朝鮮国王の高宗が、ロシア軍の
 朝鮮進駐を希望するようになった・・そして、1896年2月
 には、ロシア大使館へ駆け込んだ。
  この様な中で、この状況を解決するために努力がなさ
 れた。
  そして、日本とロシアの間で、『山縣・ロバノフ協定』
 が締結された。
  日本とロシアは、対等の関係で朝鮮に接して行こうと
 いう旨が合意された。
  しかし、ロシアは強硬策に出た・・
  1897年、ロシアは、旅順・大連を占領した。
  当然、日本は、強硬行動をとるロシアが、この様な行
 道・・同様の行為を、朝鮮半島でも行なうだろうと恐れ
 た。
  実際、ロシアには、朝鮮半島への進出を本格化する恐
 れがあった。
  日本は提案した・・「朝鮮半島を日本が管轄し、満洲
 をロシアが管轄する」・・と・・
  しかし、ロシアからは相手にされなかった(満州はロ
 シア軍だらけだった)
  この頃、朝鮮半島に接する鴨緑江沿岸(朝鮮と中国東
 北部・満州の境を流れる川)では、アレクサンドル・ベ
 ゾブラーゾフらのロシア貴族が、
  朝鮮半島北部にロシアの橋頭保を築く目的で、伐採事
 業を開始していた。
  (朝鮮戦争の時も、共産中国軍は、朝鮮半島に流れ込
 もうとこの地域・鴨緑江沿岸に大部隊を集結した)
  ベゾブラーゾフは、ロシアは偉大な大国であるので強
 硬姿勢をとって当たり前であり、東洋人ごときに生意気
 を言われる筋合いはないという信念を持っており・・、
  蔵相ヴィッテの対日融和政策を毛嫌いし、
  「大臣たちは、皇帝陛下に正しい情報を提供せず、陛
 下に自分たちの考えを押し付けている」と批判した。
  これは、ニコライ2世にとっても耳に心地よい意見だっ
 た。
  ニコライ2世は、このベゾブラーゾフを強く信頼するよ
 うになり、対日強硬姿勢を強めて行った。
  因みに、ベラーゾフは、この翌年の1896年に、日本と
 の開戦の必要性を唱える嘆願書を、ロシア皇帝ニコライ
 2世へ提出している・・この様な人だった・・、
  また、ニコライ2世は、「黄色い猿」と日本を侮蔑する
 ような皇帝で、ロシアがどんなに強硬路線を取ろうと、
 「日本に、ロシアと戦争する勇気などあるばずがない」
 としていた。
  また、「ロシアが、自分が望まない限り、日露の戦争
 にはならない」と考えていた。
  また、「ロシアの強硬な圧力を受けて、日本が旅順か
 ら撤退した1895年を思い出す」などとも言ったり、
  「どっちにしても日本は野蛮な国だ」などとも言った。
  ベラーゾフは、強硬派で、イギリスの東インド会社の
 ような組織を設立して、『朝鮮半島と満州における権益』
 を確保して、それらを強制的に征服すべしとした。
.
1899年(明治32年)、義和団の乱
  宗教的秘密結社である義和団が、「扶清滅洋(清国を
 助け、西洋を滅ぼす)」というスローガンを掲げて、山
 東省で蜂起した。
  (1900年6月20日~1901年9月7日説あり)
  義和団とは、義和拳という武術をマスターすれば『鉄
 砲も刀も怖くない』という迷信を持った人々の集団で、
 山東省に始まった暴動は、清国全体に広まった。
  外国勢力に美味しい汁を吸われる民衆の鬱積(うっせ
 き)した不満が下地にあった。
  特に、この外国の武力を後ろ盾にしたキリスト教勢力
 (傲慢な宣教師など)の行動は反感を買い、排外的な機
 運が高まった。
  トラブルの解決に「武力による威嚇」が用いられる事
 が多く、キリスト教会側に有利に妥協させられ、処理さ
 れることが多かった。
  そのため義和団は、キリスト教会を焼き、キリスト教
 徒を殺すという『反キリスト教運動』を行なった。
  民衆の間には、外国人は、官僚より三等上という認識
 が広がっていた。
  民衆は、外国人に、ぺこぺこと平身低頭せざるを得な
 い自国の官僚への失望感が拡大していた。
  そして、義和団は、破産させられた農民と結び付き、
 急速に発展して行った。
  (「義和団事変」「拳匪の乱」「ボクサー・レベリオ
 ン」ともいう)
  1900年になると、反乱集団は、キリスト教徒を殺害し、
 キリスト教会、鉄道、電線など西洋伝来のものを破壊し、
 北京にまで至った。
  乱が、たちまちの内に全土に広がって、外国人にとっ
 て、さながら地獄図のような光景が眼前で繰り広げられ
 た。
  また、この列強の侵略は、中国支配層の中にも対立す
 る集団を作り出した。
  この対立は、守旧派と洋務派という構図で・・、
  守旧派は、従来からの支配者である西太后(せいたい
 こう)らの満州人貴族層が中心で、
  洋務派は、列強が懐柔して、力を伸ばした李鴻章らの
 漢人の大官僚たちであった。
  守旧派の清国政府は、乱の鎮圧がしきれないのを知り、
 逆に利用し、彼らを応援し、列強諸国や洋務派に対抗し
 た。
  義和団の勢いが良いと見るや、清国政府の実権を握っ
 ていた西大后は、義和団の味方をして、清国軍を派遣し、
 北京の公使館や天津の租界を攻撃した。
  また、農村の自衛組織を義和団に組み込んだ。
  短期間に河北全省、満州、蒙古(もうこ)に拡大し、
 キリスト教会を襲い、鉄道、電信を壊し、石油ランプ、
 マッチなどあらゆる外国製品を焼き払った。
  そして、清国は、北京に公使館を置く列強諸国に、1900
 年6月、宣戦布告を行なった。
  これにより、北京では、公使館のある区域が義和団に
 包囲され、そこにいた8ヶ国の人たちが皆殺しにされる危
 険が生じ、その危険が迫った。
  そこで、8ヶ国は団結して連合軍を作り、義和団の大軍
 に合同で立ち向かうことになった。
  8か国は、日本、アメリカ、イギリス、フランス、ドイ
 ツ、ロシア、イタリア、オーストリア・・、
  総司令官には、ドイツ人のガスリーが就任した。
  約2ヵ月後、8ヵ国の連合軍は、首都北京及び紫禁城
 を制圧し、乱を鎮圧した。
  西太后と光緒帝(こうしょてい)は西安に逃れ、失脚
 した。
  守旧派に代わって実権を握った洋務派は、8か国連合軍
 に協力姿勢を取った・・そして、義和団の残部を虐殺し
 た。
  日本は、たった25人の軍人しかいなかったが、柴五郎
 中佐が率いた軍は、規律正しい精悍な精鋭で、抜群の働
 きをした。
  他の国の兵士は怖がってなかなか戦わない状況でもあ
 った。
  日本は、各国から地理的に最も近いという理由で、本
 国から応援部隊を出すよう要請されたが、野心があると
 思われるのを避けるため、なかなか応じなかった。
  しかし、再三、イギリスなどから要請され、福島安正
 少将が、混成三個大隊を率いて天津に来た。
  そして、日本軍の活躍で、連合軍は天津を占領するこ
 とができた。
  その後、連合軍は、日本軍を主力として北京に進軍、
 8月14日に、北京の公使館を包囲していた義和団と清国兵
 を駆逐し、公使館区域の外交官や居留民を救出すること
 に成功した。
  その後、連合軍は、国ごとに分かれて北京を占領した。
  そして、ロシアは、義和団の乱が支那から満州にまで
 及んだときに、増派して、ついには、全満州を占領して
 しまった。
  この乱につけ込んで、ロシアは満州をロシア領にして
 しまった。
  しかし、清国は、ロシアを満州から取り返そう、追い
 払うという努力は一切しなかった。
 (満州からロシアの勢力を追い払ったのは、その後の日
 露戦争に勝利する日本だった)
  (このロシアが占領した満州を、日本は日露戦争でロ
 シアを駆逐し、満州の所有権の移譲を受けた。日本は満
 州を占領したのではない)
  もし、日本が日露戦争で勝利しなかったら・・、
  宣統帝溥儀の家庭教師だったレジナルド・ジョンスト
 ン(イギリスの中国学者)が言うように・・、
  遼東半島のみならず、満州全土も、その名前までも、
 ロシアの一部となっていたことは「まったく疑う余地は
 ない」。
  ※:ちなみに、北京を占領した連合軍は、各所で略奪
   を開始し、美しく綺麗な事で有名だった頤和園(い
   わえん)も略奪と破壊の対象とした。
    しかし、この卑劣な行動に、日本軍だけは、略奪
   に参加しなかった・・(この話は有名)・・、
    当時の戦争では軍隊が市民から略奪、強姦すると
   いう行為は普通に行われていた・・この時も・・
    当たり前の様に北京や上海でも列強各国による略
   奪が頻発していた。
    白人で一番まともなイギリス兵ですら、支那人か
   ら貴重品を取り上げ、かっぱらった。
    ロシアの占領地区では、ロシア兵が虐殺や放火、
   強姦をやり、日本の占領地区に逃げて来る支那人が
   大勢いた。
    北京から遠く離れた所でも、ロシアは大虐殺を行
   なっていた。
    しかし、日本軍だけは、その様な行為はしなかっ
   た。
    日本の占領地域だけは軍規厳正で、治安維持が特
   に優れていた。
    これを見たイギリスが、素晴らしい日本と同盟を
   結びたいと、この後に、日本に日英同盟を求めて来
   たくらいだった。
    日本には天皇陛下の兵隊という、「皇軍」という
   意識があって、卑劣な行為はしなかった。
    南京事件もでっち上げなのだ・・、
.
1963年11月22日、アメリカの第35代大統領ケネディが暗殺
 された。
  アメリカ合衆国テキサス州ダラスで暗殺された。
  ケネディ(1917年5月29日生、46歳)は、軍産複合体を
 追求したから暗殺された・・という話がある。
  1963年11月22日、翌年の大統領選挙キャンペーンとし
 てテキサス州を訪れ、
  この日、フォートワースからダラスに到着し、市内を
 オープンカーでパレード中に、多くの市民が見ている前
 で、何者かに狙撃され死亡した。
  43歳で大統領に就任してから、わずか2年10か月と2日
 の在任期間であった。
  ケネディとジャクリーン夫人は、この日、午前11時40
 分にテキサス州ダラス郊外のラブフィールド空港に到着
 し、
  その後、大統領専用車に乗ってコナリー州知事夫妻と
 ともに市内をパレードした。
  ヒューストン通りからエルム通りに左折して、デイリ
 ープラザに入った12時30分に、後方のテキサス教科書倉
 庫ビルから3発の銃弾が発射され、
  その内の2発がケネディに命中した。
  後の1発が、ケネディの後頭部に当たり、これが致命傷
 となった。
  急ぎパークランド病院に担ぎ込まれたものの瀕死の状
 態で、手当ての甲斐なく、午後1時に、死亡が確認された。
.
1968年、今(2017年)からは想像できないだろうが、この
 頃の若者人口は、非常と言ってよいくらい「非常に多か
 った」。
  この団塊の世代は、若者人口が多いため、小中高と進
 学するごとに、学校の教室が足りないなど社会問題にな
 った。
  大学進学でも激しい競争があり、その実感を「高石と
 もや」がコミカルに歌った「受験生ブルース」が、この
 年(1968年)にヒットした。
.
1977年、横田めぐみさんが、北朝鮮に拉致された。
  日本政府が、北朝鮮による日本人拉致の『容疑』を公
 式に発表したのは、それから20年以上も後の、1997年5月
 であった。
  また、日本政府が、拉致されている日本人の人数を17
 人としているが、警察は866人以上としている。
  残念な事に、日本政府は、長らく「日本人の拉致は存
 在しない」「起きていない」という態度をとってきた。
  そのことに触れることを「タブー」としてきた、情け
 ない事だが・・、
  今でも、拉致された日本人が北朝鮮に居て、日本へ帰
 る事ができていない。
  日本政府は、アメリカから北朝鮮の拉致行為を知らさ
 れていたのに、無視して、何もしなかった。
  国会で、拉致問題が取り上げられたのも、1988年と、
 国会も大変に遅く、国会の与党も野党も、国会のすべて
 が目をつぶった。
  国会議員のすべてが腐っていた。
  これは、日本の何かが壊れている?
  この問題に早期から携わり、真剣に取り組んで来られ
 たのが安倍晋三議員(現:首相)だった。
  横田夫妻から早期に相談を受けた安倍議員は、この問
 題に取り組まれた。
  小泉首相の時には、一緒になって拉致された方々のう
 ち、6名の方々の帰国・奪還を実現された。
  警察は、拉致被害者の数を866人としているが、他の情
 報では1000人を上回るとも言われている。
  日本の海上保安庁は、北朝鮮の工作船に対し、毅然た
 る態度を示して、領海侵犯した国籍不明船(後の調査で、
 予想通りの北朝鮮工作船だった)に、指示に従わず領海
 侵犯行為を続けたため、機銃掃射を行なった。
  工作船側は、証拠隠滅を図って自爆し、沈没した。
  後に、日本は、これを引き上げ、捜査し、北朝鮮工作
 船の証拠を得た。
  北朝鮮が、日本工作をするこの北朝鮮の工作船が・・
 何故か・・この北朝鮮工作船が、直接に、また、当然に、
 北朝鮮へ帰るわけだが・・何故か?・・この北朝鮮工作
 船が、中国に帰ることもあることを確認している(中国
 の工作船か?)
.
2011年2月14日、日本が3位に・・
  日本の内閣府が、14日発表した2010年の国内総生産
 (GDP)速報値で「中国に抜かれ、世界3位に」とある・・、
  今、『重大情報データが、捻じ曲げられている』。
  世界の人々が繰られている。
  上記した様に、2011年2月に発表されて、日本は・・
 GDPが世界3位に転落した・・その事が分かったと言う
 が・・?
  別のデーターもある。
  実は、『中国は、アメリカも抜いている』というので
 ある。
  「2010年のアメリカの実質経済規模は『約14兆ドル』
 であり、中国は『約15兆ドル』」というのである。
  中国が、アメリカを抜いているというのである。
  (参考)実質経済規模:名目的な為替レートではなく
     実際の購買力で計った経済規模のこと。
      つまり、実際に生産し消費している財とサー
     ビスの総量のこと。
  1990年代に、すでに、世界銀行は、中国の実質経済規
 模を為替レートで計った名目経済規模の『5倍~6倍』と
 計算していた。
  IMF(国際通貨基金)と、CIA(中央情報局)は
 『約4倍』と計算していた。
  そして、その後、2007年秋まで、世界銀行、IMF、
 CIAは「中国に実質経済規模は名目GDPの約3倍」
 と計算した(これが妥当と判断されていた)
  しかし、2007年12月に、新たに世界銀行の総裁になっ
 たロバート・ゼリックは、世界銀行とIMFに、「中国
 の実質経済規模を、名目GDPの『2倍』と計算せよ」と
 要求した。
  それは、それまでの『3倍』という計算方法を使ってい
 ると、3年後の2010年には、「中国の経済の実質規模が、
 アメリカ経済の実質規模を凌駕(りょうが、他のものを
 越えてそれ以上になること)してしまう」という理屈だ
 った。
  そうなると・・アメリカ外交の威信の低下と、影響力
 の低下と、そして、恫喝力の低下を恐れてのことだった。
  それ故に、実際の「実態が隠された」。
  相変わらず、世界の認識は、「アメリカが世界一」の
 経済大国であった。
  だから、世界一の軍事大国でもあるというイメージが
 世界中に維持された。
  しかし、この隠し事は、薄々、世界が分かる所となっ
 て来た。
  世界の中には、表立っては言わないけれど・・、
  「21世紀は、中国の世紀だ」と考えて、アメリカを今
 までよりも軽視し、中国になびくという国も・・という
 状況にある。
  そして、その現実が、実態が・・起こすこと、波及す
 る事は・・、
 「アメリカによるIMF支配体制が崩れる」ということ。
  アメリカのIMF体制は・・、
  「世界一の実質経済規模だからアメリカだけがIMF
 の拒否権を持つ」という何だか分からないシステムがあ
 る。
  アメリカは、これによって、だいぶ、得をした。
  外交的にも、脅迫的に使えるという道具ともして来た。
  中国には、「シルクロード経済ベルト」として活性化
 する事を目指す「一帯一路」構想(2014年11月、習近平
 総書記が提唱)があり、
  その前年の2013年に、中国が提唱し、主導する形で、
 アジアインフラ投資銀行(AIIB)が発足していた。
  そして、2015年に、国際機関として創設された。
  2016年1月16日に開業式典を行い、57ヶ国の創設メンバ
 ーとして発足した。
  そして、2017年3月には、日米が主導するアジア開発銀
 行の67ヶ国を上回る・・70ヶ国となった。
  そして、さらに85ヶ国~90ヶ国へ拡大が見込まれてい
 る。
  日本とアメリカは、参加を見送っている。
  創設時の資本金は1000億ドル。
  本部は、中国の北京市にある。
  イギリス、フランス、ドイツ、イタリア、韓国、ロシ
 ア、ブラジル、エジプト、スエーデン、フィリピン、デ
 ンマーク、クウェート、マレーシア、ポーランド、南ア
 フリカ、タイ、カナダ、ベルギー、香港、エチオピア、
 ペルー、ベネズエラ、バーレーン、ギリシャ、チリ、ボ
 リビア、ルーマニア、アルゼンチン、トンガ、マダガス
 カル・・などが加盟している。
  参加申請が拒絶された国:北朝鮮・中華民国(台湾)
  中国には、この他にも、2014年末に創設した「シルク
 ロード基金」というものがあり・・、
  これによって・・中国のアジアにおける影響力の強い
 経済圏を構築しようと目指している。
  2015年4月に決定された「パキスタンの水力発電所の建
 設事業」が第1号案件となった。
  ここから、中国の台頭と、アメリカ時代の終焉が見え
 る・・・・が・・
  2017年8月16日の読売新聞には・・
  アメリカは、「通商法301条」という法律の伝家の宝刀
 を、中国に対して抜こうとしている。
  この法律は、「貿易相手国の不公正な取引慣行に対し
 て当該国と協議することを義務づけ、問題が解決しない
 場合の制裁について定めた条項の強化版」で・・、
  この法律をちらつかされて、色々と、日本も、嫌とい
 うほど痛み付けられた。
  アメリカの対中国貿易赤字の削減は、トランプ大統領
 の公約の一つでもあるが、
  北朝鮮の貿易の9割を行なっている中国の、北朝鮮への
 対応が効いていないため、相変わらずの北朝鮮となって
 いることも、これに絡んでいる。
  中国からは「明らかに嫌がらせだ」との声や、「強硬
 対決だ」の声も出ている。
  何しろ、米中貿易総額は、57兆円規模である。
  今、中国は、6年連続して成長速度が減速し続けている。
  アメリカのかつての立場は明らかに変わっている・・
  その重大な転機における課題に取り組んでいるトラン
 プ大統領・・
  そのトランプ下ろしをやるアメリカは・・、
  現時点が・・その様な時ではないという『深刻な事情』
 に目を向けるべきだ。
.
2015年、存立危機事態:(そんりつきき‐じたい)
  日本が、集団的自衛権を行使する際の要件の一つで、
  「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が
 発生し、
  これにより、我が国の存立が脅かされ、
  国民の生命、自由、及び、幸福追求の権利が根底から
 覆される明白な危険がある事態」・・をいう。
  平成27年(2015年)に成立した平和安全法制で事態対
 処法に規定した。
.
2017年、かつて、世界の工場だったイギリスが、働かなく
 なって・・、
  「イギリス病」と世界から揶揄(やゆ、なぶる、嘲弄・
 ちょうろう)され、批難され、蔑(さげす)まれた。
  世界の工場の座を降り、金融という座わっているだけ
 で稼げる仕事をする国になった。
  今、アメリカが、その様な道にある。
  情報を操作して、世界のトップの様な顔をしているが、
 実際は、とうの昔に、中国に抜かれている。
  この基本中の基本のデータが繰られ、真実が伝わって
 いない。
  アメリカの時代はとうの昔に去っている。
  中国は、この陰の存在にいつまでも居ないだろう。
  アメリカも、キリスト教の様に、すでに終わった状態
 になっている。
.
2017年、中国の超急速な軍拡。
  2020年頃、アメリカは、中国に抜かれ、「米中逆転」
 が起きる事が確実視されている。
  中国の軍事予算は、何と、この20年間に二ケタの『超
 ハイ・ペース』で拡大して来た。
  その結果、米中逆転が確実視されているのである。
  2000年17%、2001年16%、2002年21%、2003年17%、
  2004年12.5%、2005年15%、2006年13.5%、
  2007年18.5%、2008年17%・・・、
  中国の実際の国防予算は、この公開されている数字の
 何と! 『2倍~3倍』と言われている。
  このパワー・バランスが逆転するという事は・・、
  米中が逆転するという事は・・、
  日本にとって「生きるか、死ぬか」という重大な問題
 なのである。
  軽く考えていてはいけないのである。
  加計学園問題などなんかに関わっていられない状態な
 のである。
  生き残る道を・・講じよ!
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
 

2017年8月20日日曜日

(増補版)546E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年1月~1892年1月)

題:(増補版)546E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年1月~)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1892年、出来事:
・内閣総理大臣:松方正義(第一次松方内閣)
  1891年5月6日~1892年8月8日
・(氷川清話)松方内閣第三会議
・内閣総理大臣:伊藤博文(第二次伊藤内閣)
  1892年8月8日~1896年8月31日
  伊藤博文が、再び、内閣を組織し、陸奥宗光とのコン
 ビで条約改正、日清戦争の遂行をした。
  明治天皇陛下の信任が厚く、詔勅によってしばしば政
 局の危機を乗り切った。
・(氷川清話)伊藤内閣第四会議。
・(氷川清話)品川内相、選挙干渉事件
・(氷川清話)予戒令
・陸軍省陸地測量部(日本陸軍参謀本部の外局)が、5万
 分の1地図の作成を開始した。
 この部は、1888年(明治21年)5月14日に、陸地測量部條
 例(明治21年5月勅令第25号)の公布とともに、参謀本部
 の一局であった位置付けから本部長直属の独立官庁とし
 て設置された(存続:1891年~1898年)
 5万分の1地形図は、1890年(明治23年)から整備が始ま
 り、1916年(大正5年)に全国整備が完了した。
.
1892年、データ:
・日本の総人口:40,508,000人
・紡績工場の数:39
・天然痘の死者:8409人
.
1892年、物価:
・氷1貫目:9銭~14銭
.
1892年、経済・金融・産業・貿易:
・上野不忍池畔で行なわれていた共同競馬会社が経営難の
 ため解散した。
 共同競馬会社主催で、不忍池を周回するコースで行われ
 ていた。
 馬券は発売されず、ギャンブルとしての開催ではなく、
 屋外の鹿鳴館ともいうべき祭典で明治天皇をはじめ華族、
 政府高官や財界人を含む多くの観衆を集め華やかに開催
 された。
 イギリスで競馬は貴族の社交の場であったことをそのま
 ま取り入れた。
 収入は、会費、入場料、天皇陛下からの下賜金、宮内省・
 農商務省・陸軍省からの支援に頼っていた。
 しかし、赤字で、1886年(明治19年)からは一場所二日の
 開催となり、賞金額も減っていった。
 経営難のため1892年の秋場所を最後に終了した。
・長崎半島の西沖合に位置する高島炭坑の南洋井坑が終掘
 した。
 1986年(昭和61年)11月27日、105年にわたる高島炭坑が
 幕を閉じた。
 日本の明治の産業革命の立役者だった。
 日本に、最初に、外国資本と蒸気機関を利用する外国技
 術が導入された最先端の海底炭田を掘る炭坑だった。
 欧米諸国の蒸気船にも石炭補給する拠点だった。
.
1892年、交通:
・碓氷峠でアプト式機関車の試運転をおこなう(群馬)
 横川駅~軽井沢駅間アプト式鉄道に使用するためドイツ
 からエスリンゲン社製C形ワルシャート弁装置付アプト式
 蒸気機関車4両を輸入した。
 東京~新潟間の全線開通を強く望まれる中、急こう配の
 峠越えの方法に難関があった。
 種々の方法が検討される中、視察したドイツのハルツ山
 鉄道を参考にしてアプト式を用いることが提案され、
 1891年2月、最短ルートの中尾線ルートをアプト式で建設
 することが決定された・・そして・・
 1891年3月24日に起工された。
 1892年12月22日、着工より1年9ヶ月という驚くべき短工
 期で、500人あまりの尊い人命が捧げられ、その犠牲者の
 お蔭で工事は完成した。
・日本郵船が、根室国花咲より択捉島への試航に成功した。
 千島航路は、天候の厳しい冬季間、航海途絶し、千島諸
 島の食糧欠乏するため、北海道庁は補助金を出し、試航
 者を募っていた。
 しかし、応募者は無かった・・そこで、日本郵船の創業
 時の会社・三菱会社に対し花咲港~択捉島単冠湾(ヒト
 カツプ)の冬季航海が交渉された。
 そこで、三菱会社は、損益にかかわらず就航したいとし、
 補助金1300円をもって、1892年(明治25年)2月、播磨丸
 (677トン)にて試航し、成功した。
 そして、引継き就航した。
 根室は、日本の領土のオホーツク沿岸地区、並びに、千
 島諸島の中心基地となり、海産物の一大集散地として大
 正末期頃まで釧路を凌いだ。
 また、日本郵船は、北海道より日本領土の樺太に渡る航
 路を開始した。
・大垣停車場構内に、機関車庫が設置された。
・横浜駅に貨物ホームが新設された。
.
1892年、衣:
・雪駄が芸人、洒落者の間に大流行し、また、女物のしゃ
 れた下駄も流行る。
・襟巻に毛糸製品が多くなる(年末から)
・ゴム細工の花かんざしが現る。
・大坂の森田利兵衛がカバン類の口金製造を始めた。
・アメリカからワニ革製品が輸入された。
.
1892年、食:
・アサヒビールが発売された(大阪麦酒会社)
 アサヒビールの創業は1889年。
 鳥井駒吉が大阪府大阪市で「大阪麦酒会社」設立。
 1891年、大阪府島下郡吹田村(現・吹田市)に「吹田村
 醸造所」竣工。
 そして、1892年、「アサヒビール」発売。
 設立当初は「朝日麦酒」ではなく「旭麦酒」と表記され
 ていた。
 1884年(明治17年)からビールを製造していた、小西儀
 助商店からブランド名を譲ってもらったとの説がある。
 大阪麦酒のブランド名「旭」は、1884年(明治17年)から
 大阪で朝日ビールを発売していた薬種問屋の小西儀助が、
 1888年(明治21年)に、鳥井駒吉らの計画を知ると、自
 らビール事業から手を引くことを決め、そのブランド「
 朝日」を設立予定の大阪麦酒に譲り、同社はこれを「旭」
 として引き継いだ、ともいわれている。
 また、小西儀助が大阪麦酒の役人に「もし御入用やった
 らうちの商標を使うておくれやす」と言ったという、大
 日本麦酒大阪支店の大森寅之進の聞書による記録もある。
・安価な支那卵の輸入が始り、内地養鶏は大打撃を受ける。
 支那(当時の中国)からの卵の輸入量は、1921年には、
 日本の国内消費量の32パーセントを占めるまでになった。
 日本政府は、「鶏卵自給増産計画」を立て、官民一体と
 なって取り組んだ。
 その結果、輸入はゼロとなり、国産卵の輸出ができるま
 でになった。
 今・現在は、液卵・粉卵の形で、アメリカ・オランダか
 ら輸入され、殻付き卵の換算で5%前後となっている。
 輸入関税は20%前後。
 (日本の鶏卵業者は善戦している・・しかし、関税がな
 くなれば??となる・・TPPは消えたようだが?)
.
1892年、住:
・東京浅草に陶器製の標札を考案、専売特許をとるものあ
 り、この年、陶器製標札発売。
・箱根電燈所が開業した。
 この年、関東地方初の水力発電所である湯本湯端発電所
 で運転を開始した。
 発電機は三吉電機製で、この発電所は、一時、三吉正一
 の個人所有であった。
 三吉 正一(みよし しょういち、 1853年12月(嘉永6年
 11月)~1906年(明治39年)3月24日)は、明治中期の日
 本の技術者で、日本初の電気機器製造会社である三吉電
 機工場を経営し、電気機器の国産化を図った。
.
1892年、報道:
・新聞創刊、萬朝報(11月1日)を黒岩涙香が創刊した。
 萬朝報(よろずちょうほう)は、明治・大正期の有力新
 聞で・・、
 紙名は「よろず重宝」のシャレから来ている。
 1892年(明治25年)11月1日、都新聞(後の東京新聞)を
 辞した黒岩涙香(るいこう)が東京で創刊した日刊紙。
 「簡単、明瞭(めいりょう)、痛快」をモットーに、黒岩
 の翻案小説、名士の私行摘発(蓄妾(ちくしょう、妾を囲
 っておくこと)実例暴露など)と、キャンペーン(相馬家
 の御家騒動、蓮門教攻撃など)で大衆の関心を集める、
 日本におけるゴシップ報道の先駆者・・、
 権力者のスキャンダルは執拗なまでに追及し、醜聞記事
 でも売り出した。
 「畜妾実例」では、権力者であろうと官吏であろうと妾
 を暴露し、実名年齢や妾の父親の実名職業まで記載した。
 第三面に煽情的な社会記事を取り上げたので「三面記事」
 という語を生んだ。
 低価格政策と相まって、東京第一の発行部数を獲得した。
 日露開戦の気運が高まると、内村鑑三、幸徳秋水、堺利
 彦らが非戦論を展開、注目を集めたが・・、
 1903年(明治36)秋になって、開戦気運が濃くなると「
 萬朝報」も開戦論に転向した、
 内村、幸徳、堺は10月9日社を去った(12日掲載の3名の
 「退社の辞」は有名)
 この頃から、黒岩は、「英文欄」を新設、趣味、文芸、
 科学、思想記事など豊富に掲載したため、学生間に人気
 を集め、読者を増やした。
 大正に入り、憲政擁護運動、シーメンス事件などで反藩
 閥の鋭い論調を張るが・・、
 1920年(大正9)10月、黒岩が亡くなり凋落の道へ、
 1923年9月の関東大震災で被災してから急速に勢威を失い、
 昭和に入ると経営者の交替、社内の分裂相次ぎ、
 1940年(昭和15年)10月、戦時新聞整備計画もあって廃
 刊された。
・議員たち、大臣や役所の悪口は言いたいほうだい。自分
 が言われると告訴とは、なんだ(東京日日)
・衆議院、侮辱する記事を掲載したと、東京日日新聞の告
 訴を決議する。
・政府、予戒令を公布。粗暴の言論、集会の妨害などを禁
 ず(官報)
・民党は、「民力休養・経費節減」を唱え、軍艦建造費な
 どを削除しようとした。
 政府は解散を命じた。
 しかし、この年・2月15日の第2回総選挙で、民党が過半
 数を占める結果となった。
 8月8日、第2次伊藤内閣が成立した。
.
1892年、歌・流行・世相:
・演劇:市村座が新築開場した。
 下谷二長町(にちょうまち)に移転した。
 1932年(昭和7年)5月、焼失して廃座となった。
 1634年(寛永11年)に、村山座として日本橋葺屋(ふき
 や)町に創立された歌舞伎劇場で江戸三座の一つ。
 この座が大道具や絵看板などを始めたと言われている。
 6世尾上菊五郎・初世中村吉右衛門らの若手が時代を掴ん
 だ。
・演劇:三遊亭円朝、「塩原多助一代記」初演
・演劇:三遊亭円朝、「怪談・牡丹灯籠」初演
 (さんゆうていえんちょう、1839年~1900年・明治33年)
 落語家。江戸生まれの江戸人。
 近代落語の祖と言われる。父は落語家の橘屋円太郎。
 師の円生の厳しいいじめが刺激となり、創作を志し、第
 1作「累ケ淵後日の怪談」を高座にかけた。
 1884年(明治17年)、速記術普及のため「怪談牡丹灯籠」
 を速記本として刊行し、以後、次々と円朝の口演したも
 のが活字となって普及し、多くの家庭で読まれ、言文一
 致体小説へ影響を与えた。
 最後は、芸境も高みに達したが、1891年(明治24年)、
 席亭の横暴に抗議して寄席より退いた。
 一時、復帰したが進行性麻痺と続発性脳髄炎のため・・
 61歳で明治33年・1900年に没す。
・帝國通信社が創立された。
 1892年5月に創立された、改進党系の通信社。
 この頃、群小通信社が乱立し、厳しい競争に晒された。
 1929年3月に破産宣告を受けた。
・読売新聞の美人読者投票(十六名媛)
 1892年3月18日、読者投票による「十六名媛」を発表した。
 村松志保子女史は選ばれた一人・・トップ当選だった。
 現在も誇るべき明治の自立した助産師だった。
 女学校・産婆学校を設立した。
 1856年(安政3年)沼田藩御殿医の長女として生まれ、
 男兄弟三人は幼くして亡くなり、女医になる決心をした。
 沼田藩別邸(墨田区)で、父に東洋医学を学び、針術を
 修め、医術の研鑽を深めた。
 安生堂産婆学校を設立し、豊かな教養を身につけた産婆
 育成に尽力し、
 また、安生堂医院では、貧困者に無料施療入院を実施し、
 母子のために保健福祉的な慈善活動を展開した。
・正岡子規、「獺祭書屋俳話」
 獺祭書屋俳話(だっさいしょおくはいわ)は、子規の俳句
 論で士気の俳句革新運動の端緒となった俳論・・先日、
 38年ぶりに対馬で日本カワウソが発見されたが、
 獺祭は、カワウソ(獺)が、捕らえた魚を供物に並べ先
 祖を祭る様を指し、カワウソは捕らえた魚を川岸に並べ
 る習性があり、これを祭儀になぞらえた。
  転じて多くの書物を調べ、引用する人の様を指し、子規
 の命日である9月19日を獺祭忌と呼ぶ。
・森鴎外・小金井喜美子、「美奈和集」
 森鴎外の作品集(森鷗外作・訳)。1892年刊。
 小説「うたかたの記」「舞姫」「文づかひ」の三部作の
 ほか、初期翻訳作品、付録に新声社訳「於母影」を収録
 している。
 後に改定して改訂版は「水沫(みなわ)集」と改題した。
 小金井喜美子(1870年~1956年)は、翻訳家・小説家で
 随筆家・歌人。
 島根県津和野の生まれ、本名はキミ。
 森鴎外の妹で、1881年、東京女子師範付属女学校卒業後、
 東大人類学教授・小金井良精(よしきよ)と結婚。
 翌年、鴎外らとともに訳詩集「於面影」を発表した。
 レールモントフの「浴泉記」の翻訳で知られ、著「森鴎
 外の系族」「鴎外の思ひ出」などがある。
・中江兆民、「四民の目ざまし」
 中江兆民(1847年~1901年)は、明治期の思想家で民権
 運動家だった。土佐藩の足軽の子として生まれ・・年少
 より学に親しみ・・、
 1865年(18歳)、藩給費生として長崎に留学した。ここ
 でフランス学に接し、土佐藩の坂本龍馬に私淑(ししゅ
 く、尊敬する人に直接には教えが受けられないが、その
 人を模範として慕い、学ぶこと)した。
 1867年(20歳)、江戸に遊学し、フランス学を習得した。
 1868年(21歳)、箕作麟祥の塾に学び、大学南校(東京大
 学)でフランス学を講義した。
 1871年(24歳)で、岩倉遣外使節団同行の司法省派遣留
 学生になり、岩倉使節団とともに渡欧し、フランス留学
 で哲学、文学、史学を学んだ。
 1874年(27歳)帰国し、東京番町に仏学塾を開く。
 1875年(28歳)東京外国語学校校長、まもなく辞職し、
 元老院権少(ごんのしょう)書記官をつとめるが、
 1877年(30歳)、元老院を辞した。
 以後、在野で活躍。
 1881年(34歳)、西園寺公望(きんもち)主宰の「東洋自
 由新聞」を創刊し、主筆となった(政府の干渉で廃刊)。
 1882年(35歳)、仏学塾より雑誌『政理叢談』を刊行し、
 西欧近代思想を紹介した。
 ルソー著『社会契約論』の翻訳し、また、注解した「民
 約訳解」の連載は政治青年層に大きな影響を与え、「東
 洋のルソー」と渾名(あだな)された。
 1886年(39歳)、大同団結運動に参加した。
 1887年(40歳)、『三酔人経綸問答』で鋭い政治分析、
 展望を試みた。
 三大事件建白運動に関与、封事を執筆、
 1887年12月(40歳)、保安条例で東京を追放され、大阪
 で『東雲(しののめ)新聞』を創刊して主筆。反政府、
 自由民権の論陣をはる。
 1890年7月(43歳)、第1回衆議院議員総選挙で当選し、
 衆議院議員となり、立憲自由党に加盟、『立憲自由党新
 聞』の主筆となる。
 第一議会の予算問題で、自由党土佐派が妥協したのを憤
 慨し議員を辞職(1891年・44歳)、雑誌『自由平等経綸』
 を創刊する。
 1891年7月(44歳)、小樽の『北門新報』に招かれ、北海
 道の小樽へ移り、小樽初の新聞である『北門新報』を創
 刊して主筆を務める。
 『北門新報』の社主は金子元三郎で、金子は日本へ亡命
 していた朝鮮人革命家・金玉均を介して兆民を紹介され
 たとする説もある。
 1892年(45歳)、『北門新報』は札幌へ進出しているが、
 兆民は『北門新報』を退社すると高知へ赴く。
 1892年1月17日(45歳)、母の柳が死去している。
 1892年2月15日(45歳)、衆議院が解散され、第2回衆議
 院議員総選挙となり、兆民は東京へ向かうと、仏学塾出
 身で長野県五区から立候補した小山久之助・長野県三区
 から立候補した堀内賢郎を応援するため長野県まで赴い
 ている。
 なお、第二回総選挙では小山・堀内両人とも落選した。
 1893年(46歳)、兆民は札幌で「高知屋」を開業する。
 1893年(46歳)大阪に戻り、実業に手を出すが・・結果
 的に実業は失敗した。
 1897年(50歳)、国民党を結成したが不調。
 1900年(53歳)、国民同盟会に参加。
 1901年(54歳)、食道がんを発病、病床で合理主義・唯
 物論の中江哲学の骨格を記した随想集『一年有半』『続
 一年有半』を執筆し、遺稿となった。
 1901年12月13日死去。55歳。
 <著作>『中江兆民全集』全18巻
 <参考文献>桑原武夫編『中江兆民の研究』
・竹越与三郎、「新日本史」
 (たかごしよさぶろう、1865年~1950年、85歳)政治家、
 歴史家。
 「国民新聞」などの記者として活躍。
 西園寺公望らに知られ、雑誌「世界之日本」主筆。
 1902年(37歳)以後、衆議院議員
 1923年(58歳)、貴族院議員
 1940年(75歳)、枢密顧問官と、政友会代議士・枢密顧
 問官などを歴任した。
 著「新日本史」「日本経済史」「二千五百年史」など。
・ 「即興詩人」(作:アンデルセン/訳:森鴎外)
 デンマークの作家・アンデルセンの長編小説。
 アンデルセンが、1833年~1834年のイタリア旅行中、そ
 の芸術と風景に触れ、情熱と市場を掻き立てられ、帰国
 してから書き上げられた(1835年刊)
 自伝的要素を多く持ち、ローマで生まれた主人公アント
 ニオが苦しい修業時代を経て詩人となる。
 即興詩を得意の芸として諸国を放浪する詩人の恋愛と友
 情と成功の物語。
 森鴎外による翻訳が《しからみ草紙》《めさまし草》に
 連載され(1892年~1901年)、その訳文自体が明治浪漫
 主義の代表作とされている。
・指原安三、「明治政史」
 (さしはら やすぞう、1850年~1903年、53歳)、新聞記者、
 評論家、漢学者。
 豊後国臼杵藩(大分県)藩士の子に生まれる。
 幼少時に父を失い、苦学する。
 大阪府巡査を経て上京し、二松学舎、同人社に学び、共
 立学舎幹事となり、漢文を教授。
 機関誌『保守新論』の編集長を務め、国権論を唱えた。
 「明治政史」を刊行した後には、陸軍幼年学校、陸軍学
 校教官を務めた。
・古在由直、「足尾銅山鉱毒研究」
 (こざいよしなお、1864年~1934年、70歳)農芸化学者
 京都出身の東京帝国大学農科大学教授で、後に、東京帝
 国大学総長となった。
 農芸化学的研究のほか、足尾鉱毒事件の学術的調査を行
 い、銅山の銅が土壌を侵していることを証明した。
 助教授時代からの足尾銅山の鉱毒の調査によって、被害
 の原因が銅山にあることを追及し続けた。
 足尾鉱毒事件の発生初期から、鉱毒被害農民の救済の懇
 願と依頼により、同僚の長岡宗好とともに、1890年(26
 歳)初めて、被害原因を科学的に分析し、河水中から銅
 の化合物を検出した。
 (結果は1892年・28歳「足尾銅山鉱毒研究」として「農学
 会会報」16号に発表した)
 1895年(31歳)、ドイツに留学し、牛乳腐敗菌の研究で
 ドイツ学界に名声を得た。
 1899年(35歳)、農学博士
 1900年(36歳)、帰国し、東京帝国大学農科大学教授と
 なる。
 発酵化学の研究で目ざましい業績を残した。
・流行歌:「敵は幾万ありとても」
 敵(てき)は幾万(いくまん)ありとても
 すべて烏合(うごう)の勢(せい)なるぞ
 烏合の勢にあらずとも
 味方(みかた)に正しき道理(どうり)あり
 邪(じゃ)はそれ正(せい)に勝(か)ちがたく
 直(ちょく)は曲(きょく)にぞ勝栗(かちぐり)の
 堅き心(こころ)の一徹(いってつ)は
 石(いし)に矢(や)の立(た)つためしあり
 石に立つ矢のためしあり
 などて恐(おそ)るる事(こと)やある
 などてたゆとう事やある
 小山作之助作曲、
 小山作之助は、1864年に、新潟県(越後潟町村)生まれ、
 1887年(明治20年、23歳)、音楽取調掛(東京芸大音楽学
 部)全科卒業。
 東京府伝習所、東京師範学校、東京盲唖学校などを歴任
 して
 1892年(明治25年、28歳)東京音楽学校助教授
 1897年(明治30年、33歳)から1905年(明治38年、41歳)
 同校教授。
 後、同声会理事長、日本音楽協会初代会長、日本楽器会
 社顧問、文部省検定図書調査委員を務め、後進への面倒
 見がよい先生だった。
 「夏は来ぬ」の作曲家でもある。
・流行歌:「元寇」
 一、(修猷健児)
 四百余州(しひゃくよしゅう)を挙(こぞ)る
 十万余騎の敵
 国難ここに見る
 弘安四年夏の頃
 なんぞ怖れんわれに
 修猷健児あり
 正義武断の名
 一喝して世に示す
 二、(多々良浜)
 多々良浜辺の戎夷(えみし)
 そは何 蒙古勢
 傲慢無礼もの
 倶(とも)に天を戴かず
 いでや進みて忠義に
 鍛えし我が腕(かいな)
 ここぞ国のため
 日本刀を試しみん
 ・・三番、四番は略す・・
 (参考)作詞者と作曲者:永井建子
     永井建子は、日本陸軍軍楽隊士官(男性)
・流行歌:「法界節」
 春風に、庭に綻ぶ梅の花。
 鶯、止まれや。
 あの枝に。
 ささ、ホーカイ。
 そちが囀りゃ、梅が物言う心地する。
 ホーカイ、ホーカイ
 (参考)法界節(ほうかいぶし)は、明治から昭和初期
   にかけて法界屋が門付で、月琴などを演奏しつつ歌
   った曲。
   明治20年代を代表する流行歌だった。
   「ホーカイ」の意味は不明。
   原曲「九連環」の歌詞(中国語)の「不開」という字
   句をふまえるという説もある。
   「法界」は当て字。
・流行歌:「チャクライ節」
 儘になるなら チャンカンポン
 儘になるなら チャンカンポン
 桜の花に レンポンポン
 松の操が チュクライシュ
 松の操が チュクライシュ
 ちょいと持たせたい バラバラボン・・以下、略・・
 (参考)添田唖蝉坊・チャクライ武士/ 土取利行(唄・
    演奏)YouTube
・流行・趣味:メジロ、チャボの飼育
・流行:芸人の雪駄 
 (参考)雪駄:せった、底に皮をはったぞうり。
   後部に鉄片を打ったものもある。席駄(せきだ)。
・流行:パナマ帽子が流行
 (参考)パナマ帽(ぱなまぼう)は、パナマソウの葉を
   細く裂いた紐で作られる、夏用のつば付の帽子。
   日本では戦前、紳士用の正装としてカンカン帽と共
   に夏に愛用されていた。
・流行・生活:美白化粧水、石鹸がバカ売れ
・流行語:菊五郎の「…でガンス」という言い回しが流行
・流行:女義太夫綾之助が人気
 「おんなぎだゆう」の太夫の竹本綾之助は、大阪生まれ
 で、本名石井園(その)。
 10歳で東京・文楽(ぶんらく)座に玉之助(たまのすけ)の
 名で出演。
 稚児髷(ちごまげ)に振袖(ふりそで)姿の愛くるしい容姿
 と達者な語り口で満都の人気を集めた。
 初世竹本綾瀬太夫に師事すると同時に綾之助と改名、女
 義太夫全盛時代のスターであった。
 1898年(明治31年)貿易商の石井健太と結婚、いったん
 引退したが、1908年(明治41年)にカムバック。
 1910年、女義太夫再検討を図って藤菱(ふじびし)会を組
 織したが、
 1927年(昭和2年)秋をもって演奏活動を中止した。
.
  (今日の言葉)
.
 題:池上彰は、巧妙な嘘を言うから、注意を要する・・
.
2世紀、キリスト教で、神が以前より意識され出した。
  そして、神との契約ということが意識され出した。
  そして、最近、キリスト教は、『旧約聖書』をユダヤ
 教の聖書だと言い出した。
  そこには、旧約聖書を積極的にキリスト教の聖書とい
 う言い方をしない・・という意識がある。
  あまりにも、キリスト教の旧約聖書が、近代の進んだ
 社会の理解に当てはまらない・・そぐわないからで・・
  そこで・・
  キリスト教の聖書は、『旧約聖書と新約聖書だ』と、
 かつて言っていた様に言わなくなった。
  旧約聖書が、「都合が悪い聖書」なので捨てようとし
 ている。
  そのうち、「新約聖書も都合が悪くなって捨てるだろ
 う」・・が・・、
  どっちみち、キリスト教は、どうあろうと、論理的に
 成立しない宗教なのだ・・、
  その根幹の宗教論理も、その様な類いなのだ。
  種々の解説書には、また、種々の解説欄には・・、
 「キリスト教の聖書は、旧約聖書と新約聖書からなる」
 と書かれているが、そのうち、この説明は変わることに
 なるだろう。 
  「『旧約』『新約』の『約』とは、神との契約のこと
 で、2世紀頃からキリスト教徒の間で呼ばれ始めた」と
 説明されているが、『旧約』は無くなるだろう。
.
1924年、杉原千畝が、ロシア人と結婚した。
  杉原千畝は、ユダヤ人の方々へビザを発給したと美化
 されているが、
  しかし、杉原千畝には、「ビザを発給する資格が無か
 った」。
  それと、日本は、杉原だけでなく、どこの国の日本大
 使館でも、「ユダヤ人の方々へ、ビザの発給をしていた」。
  何も、杉原千畝だけが、讃美される由縁はない。
  日本のすべてが、「亡国の民」としてユダヤ人の方々
 を強く保護した。
  また、日露戦争で恩義あるユダヤ人の方々へその恩返
 しをした。
  しかし、池上彰は、「日本は、杉原千畝にビザ発給す
 るなと言った」と、テレビで解説だと称して発言した。
  国が、「ビザ発給の資格のない杉原千畝」へ、その様
 な行為は、君には出来ない行為だと言うのは当たり前な
 のである。
  これをキリスト教も利用した。
  キリスト教は卑劣だった、「日本は、三国同盟をドイ
 ツとしていたから、日本は、ドイツと同様に、ビザ発給
 をしなかった」と『二重の嘘』を言った。
 (キリスト教は、杉原千畝がキリスト教徒だとして、嘘
 をついてまでして美化をしたかった)。
  日本は、ドイツのナチスから共同行動をとってくれと
 言われたが、「きっぱりと断り、否定して」、ユダヤ人
 の方々へ、ビザを発給して助けていた。
  池上彰は卑劣である、この様な状況をしっかり説明し
 ないで、日本を貶める言い方をした。
  資格のない杉原千畝の「個人的問題」なのである。
  また、杉原千畝は、ロシア女性と結婚して、このロシ
 ア女性の父親が、ロシア政府の要職に居たことから、情
 報を得ようとした、つまり、杉原千畝は日本のスパイで
 あった。
  杉原千畝は外交官ではない、スパイの職務を持った『
 外務省職員』だった。
  外務省職員で、外交官ではないからビザの発給は出来
 ない立場だった。
  ロシアは、後に、この杉原千畝の本性(スパイ)を知
 って、杉原千畝のロシア入国を拒否するようになった。
  そこで、任務地がリトアニアに代わったのである。
  池上彰は、国民の視聴者の方々へ、間違った発言をし、
 嘘の発言をして、誤解を与えた・・その発言は、テレビ
 で謝罪し、訂正せよ!
  因みに、杉原千畝のロシアでの妻は、杉原千畝にスパ
 イされていた立場ではなく・・、逆に、杉原千畝が、ス
 パイされていた・・という、二重スパイだと言われてい
 る。
.
1945年10月9日、朝日、毎日、読売、東京、日本産業新聞へ
 の事前検閲が開始された。
  これらのGHQによる卑劣な行為は、個人の手紙や電
 信電話にまでおよび・・、
  また、検閲は、隠匿され、日本国憲法施行下にあって
 も強力に実行された。
  卑劣なGHQで・・山本武利は、手紙に進駐軍に残虐
 行為を受けたと書いた人物が、密かにGHQに逮捕され、
 軍事裁判にかけられたという事実を明らかにしている。
 (ただし、検閲に協力した人々の証言がほとんどないた
 めその実態には未解明な部分も多い)
  郵政歴史年表の昭和27年(サンフランシスコ条約の発
 効に伴い日本が主権を回復した年)に、「連合軍による
 郵便物等の検閲廃止」という記載が残されている事から、
 卑劣にも、郵便物にまで検閲を受けていた事がわかる。
  また、江藤淳は、『閉された言語空間、占領軍の検閲
 と戦後日本』という本において、GHQの政策として、
 検閲とプロパガンダ(嘘宣伝)が並立されており、プロ
 パガンダの役割を民間情報教育局が担ったと指摘してい
 る。
.
2009年真夏、民主党は、衆議院議員選挙で地滑り的な勝利
 を収めた。
  そして、「コンクリートから人へ」という・・何か聞
 こえの良い、人当たりの良い、優しそうな・・、
  そして、何か心地のよさそうな「ワンフレーズ表題」
 を掲げて・・政権交代した・・ムードに酔わされた国民
 が居た。
  しかし、その結果を先に記せば、「民主党政権の3年間
 は苦痛の極みだった」・・、
  1年ごとに首相が変わり、わずか3年という短期に合計
 3人の首相の顔が登場した。
  苦しい長い3年間だった・・民主党政治は失敗だった。
  鳩山首相が訪米した時のことが思い出されるが、世界
 が注視するオバマ大統領との記者会見で・・、
  鳩山首相が、「トラスト・ミー Trust me(私を信じて
 くれ)」と言ったとき、オバマ大統領は、一瞬、凍りつ
 き、嫌な顔をし、きまづい雰囲気の両首脳の記者会見が、
 なお一層、程度の低い暗い状況にさらされた。
  世界の記者たちが居並ぶ、眼の前の壇上で、オバマ大
 統領と並ぶ日本の鳩山首相が、何か言いたそうに、もじ
 もじしたから、オバマ大統領も何か言いたいのだろうな
 と、身体を傾け、耳を鳩山首相に近づけた・・その時に
 出た鳩山首相の言葉だった・・「私を信じてくれ」・・。
  その時のオバマ大統領の呆(あき)れた顔が、世界の
 記者たちの目にする所となった・・人間的に完全に「ア
 ウト」の瞬間だった。
  民主党政権がやったことは、結局、財源もないのに無
 理に、「高校を無償化にする」とか、「就学支援金支給」
 とか、甘言の目白押しだった。
  しかし、この民主党の政権になる前の麻生政権は・・、
 2009年度の補正予算で、全国5000棟の小中学校の耐震化
 を目的に2800億円を計上していた。
  しかし、民主党政権に代わり・・この民主党政権は、
 「事業仕分け」なる名の下に、この麻生政権の政策を台
 無しにした、有名無実と化した。
  「コンクリートから人へ」のとばっちりを受けた。
  その結果は悲惨だった。
  それを表わす証拠が、つい先日の2017年8月6日の読売
 新聞が報じていた。
  「小中学校の6割が、避難所に使えない」と報じている。
  つまり、それは、『老朽化対策を実施するのが遅れた
 から』と指摘していた。
  民主党政権が、止めて・・やらなかったからである。
  記事は・・、
  「全国の公立小中学校の校舎や体育館の約6割が、今後
 15年間で、災害時の避難所としては使用できなくなる可
 能性があることが分かった。
  老朽化への対応が遅れているためだが、このところの
 地震や豪雨災害などで避難所の使用頻度は上がっており、
 政府や自治体の対応が急務になっている」・・と報じて
 いる。
  しかし、この民主党政権より強い緊縮政策をとるとい
 う石破氏・・
  景気は縮(ちぢ)んで・・景気が後退し・・不景気が
 来るだろう・・、
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive