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2016年9月9日金曜日

(増補版)415E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1885年7月~1885年9月)

題:(増補版)415E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1885年7月~1885年9月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1885年7月、長崎区内でコレラが流行した。
  夏の時期で、患者833人、うち、死亡617人となった。
  長崎新聞に・・、
  再発見!近代化遺産 長崎市編・ししとき川
  児童の元気な声が響く長崎市立諏訪小(諏訪町)のす
 ぐそばに、
  銅座川の方向に延びる幅2メートルほどの「ししとき
 川」がある。
  明治中期に改修された当時の下水溝で、底と両脇に板
 石が敷かれている。
  長崎大の岡林隆敏名誉教授によると・・、
  改修の背景にはコレラの流行があった。
  検疫体制が確立していなかった幕末から明治初期にか
 け、
  コレラなどの疫病が、外国人居留地から爆発的に全国
 に広がった。
  コレラは、下水路から地中に浸透した汚染水が、井戸
 水に混じることで拡散する。
  長崎では、1885年の大流行を受け、第8代県令(県知事)
 の日下義雄が、下水溝改修を指示した。
  「ししとき川」は、1886年に整備された、総延長4.2
 キロに及ぶ6本の下水溝の一つだ。
  溝の内側の3方向に敷かれた板石の間を、石灰や砂な
 どを混ぜた「あまかわ」でふさぐことで、汚染水の地中
 への浸透を防いだ。
  現在は、下水は流れていない。
  岡林氏は、「近代的な公衆衛生を確立した貴重な構造」
 と強調。
  さらに「横浜や神戸などと違い、長崎は、居留地が都
 市部に隣接していたため、
  下水溝が、都市全体に整備されたことが画期的だった」
 と評価している。
1885年8月1日、 郵便汽船三菱と共同運輸の過当競争に、政
 府が勧告を行い、
  この日、三菱は両社合併の方針を表明した。
  そして、8月15日に、合併を決定した。
1885年8月12日、教育令が改正され、地方教育費の節減が進
 められる。
  教育令は、1879年9月に公布された総合的教育基本法令
 だった。
  1880年12月と、1885年8月に、2回にわたって改正され
 たが・・、
  1886年に、諸学校令の制定により廃止された。
  そのたび重なる改廃は、明治維新期の社会的激動の下
 での教育制度政策の不安定さが現れていた。
  1879年に、「学制」を廃して公布された第1次教育令は、
 自由民権運動の台頭を前に、画一的強制的な小学校制度
 建設方針だったのを改めて、
  地域の条件に即した教育の普及を図り、
  教育課程の編成を公選の学務委員にゆだね、
  また、地方行政単位である区町村を学校設置単位とし
 た。
1885年8月14日、初の特許7件が下りた。
  最初の専売特許が免許された。第1号は「錆止め塗料及
 び塗り法」。
1885年8月15日、土地賦課の区長村費は、明治19年以降地租
 の1/7以内とする(8月12日説あり)
  「土地ニ課スル区町村費ハ地租七分ノ一ヲ超過スルヲ
 得ス」
  1885年8月12日に改正された教育令(以下、第3次教育
 令という)は、
  研究史上、しばしば町村教育費節減を目的とするもの
 として把握され、
  普通教育政策史上の位置づけが十分明確にされてこな
 かった。
  もちろん、第2次教育令改正は、内務・大蔵両省の文
 部省にたいする町村教育費節減要求を直接の契機とする
 ものであったが、
  そのことと第3次教育令の意図とは同義ではない。
  文部省は、一方では、内務・大蔵両省の要求を「経済」
 面において受けいれつつも、
  他方では、「教育」面においてこれまでの教育政策、
 とりわけ、普通教育政策実現の好機とするという「一挙
 両全」の方策を打ち出した。
  第3次教育令は、森御用掛が主導する諸学校への転換
 準備という状況のもとで、事実上、実効を見るに至らな
 かったが、
  普通教育(政策)史という文脈のなかで見たとき、
  第3次教育令の制定はその後の普通教育政策上におい
 ても重要な方向を提示するものであった。
  (World of Common education 武田晃二のページより)
1885年8月19日、文部省が、府県町村立の学校の授業料徴収
 を通達した。
  文部省において、1885年は、教育令期から学校令期へ
 の移行時期である。
  この年、太政官布告第23号をもって、教育令は、再改
 正される。
  教育令再改正は、未曾有の経済不況のなかで、町村人
 民の教育費負担軽減を目的として実施されたものである。
  ・・、1885年になると、内務省や大蔵省から地方教育
 費の削減圧力が、文部省にかかることになる。
  こうしたなかで、教育令が2度目の改正を余儀なくさ
 れる。
  ・・、再改正教育令は、1886年に公布された文部大臣
 森有礼による諸学校令に、僅か約半年で、席を譲ること
 になる。
  しかし、この短い再改正教育令期に、授業料徴収原則
 の確立(達第7号「府県立学校ニ於テ授業料徴収ノ事」、
 達第8号「町村立学校ニ於テ授業料徴収ノ事」)、
  半年進級制から1年進級制への変更(達第16号「公立小
 学校修業期限一箇年ヲ以テ一学級トナスノ事」)、
  授業料を納めない簡易な小学校の設置(達第12号「小
 学教場及其設置ニ関スルノ事」)、
  尋常・高等の2階梯小学校構想への変更(大木喬任説
 示)、
  戸長管轄区域を学区とする学区改定(「学区校数指示
 方心得」)、
  自然科学教科の理科への統合(「小学科課程表」)な
 ど
  小学校令(勅令第14号))の時期に引き継がれる重要
 な改革が実施された。
  これらの改革は、ほとんどが1885年において、実施さ
 れたものである。
  (論文:初等教育施策を中心としてみた1885年の文部
 省、伊藤稔明氏より)
1885年8月27日、東京女子師範学校を東京師範学校と合併し、
 同校女子部とする。
1885年8月、尖閣諸島などの調査
  内務卿であった山県有朋は、この時に、沖縄県に対し
 て、魚釣島、大正島、久場島の尖閣諸島の三島への調査
 を命じた。
  1887年6月、軍艦「金剛」は水路部測量班長・加藤海軍
 大尉を乗船させ,那覇から先島群島(尖閣諸島方面)に
 向かい、魚釣島等の調査を行った。
  日本政府はそれ以降も、1890年に沖縄県属の塙忠雄に
 よる漁業状況聞取調査、
  1893年に、沖縄県八重山島取調書(野田正以下の提出
 資料他尖閣諸島に関する聞き取り調査)を行い、尖閣諸
 島における漁業者(糸満人)の活動実態を確認している。
  その後日本人が入植し、アホウドリの羽毛の採取や海
 鳥の剥製の製作、そして鰹節の製造などが行われた。
  特に鰹節の製造は島の基幹産業となり、最盛期、同島
 には99戸、248人もの日本人が暮らしていた。
1885年8月、ローマ教皇レオ13世の親書、オズーフ司教の手
 で天皇陛下に奉呈される。
  「明治天皇紀」第六は、1885年(明治18年)9月12日、
 「羅馬法王施設アルシノエ僧正ピー・エム・オスーフ参
 内、法王レオ十三世の親書を捧呈す」と記述する。
  これは法王が日本との交誼(親しい交わり)を求めて
 実現したもの。
  1885年8月22日に、横浜着し、
  1885年9月19日に、横浜を出帆した。
1885年8月、医師・松本良順が、大磯に海水浴場を開く。
  松本良順は、軍医・政治家で、大日本帝国陸軍の初代
 軍医総監を務めた。
  松本良順は、1857年、幕府の命を受け、長崎伝習所へ
 行く。
  長崎で、オランダ軍の軍医ポンペと出会い、助手とな
 り医学や蘭学を学ぶ、
  ポンペは、医療行為としての海水浴の効用に注目して
 いて、その助手となった松本は、ポンペから海水浴療法
 についても学んでいた。
1885年9月5日、学習院女子教科を廃止した。
1885年9月6日、束髪の大流行の騒ぎ
  この日の、東京日々新聞(後の毎日新聞、東京での最
 初の日刊紙)の記事、 明治18年9月6日号に・・、
  束髪について・・、
  「この節は、奥方連中までも束髪を採用せられ、一日
 も早く我が国婦人の結髪を改良せんとの奮発にて、
  女子師範学校は、率先して束髪となり、
  又、束髪会が起こり、追々、蔓延流行して、各小学女
 教師は、勿論、
  裏店の山の神も、束髪するに至りたるは、何より結構
 とは存ずれども、
  独り迷惑を受けたるは、小間物屋 まで同商人等は、転
 業せねばならぬと言ひ居るよしなり」・・とある。
1885年9月10日、英吉利法律学校が開校した。
  東京・神田に、英吉利法学校(現=中央大学)が開校
 した。
1885年9月17日、日本郵船が創立された(9月29日説あり)
  政府の仲介で、郵便汽船三菱会社と三井系国策会社で
 ある共同運輸会社が合併し、日本郵船会社を設立、競争
 を避けた。
1885年9月22日、東京外国語学校、同校高等商業学校、東京
 商業学校の3校を合併し、東京商業学校を新たに設立さ
 れた、後の、一橋大学。
  東京外国語学校と合併し、神田一ツ橋に移り、東京商
 業学校と称する。
  明治18(1885)年2月、語学部を廃止する。
    (一橋大学ホームページより)
1885年9月24日、違警罪即決令が制定された。
  違警罪(いけいざい)は、旧刑法で、拘留・科料にあ
 たる軽い罪の総称で、
  違警罪即決令(いけいざいそっけつれい)は、明治18
 年太政官布告31号。
  違警罪について、正式の裁判によらず警察署長などの
 官吏が、即決処分によって処罰することを認めた法令。
  被告人を呼出さず言い渡し書を送達するだけでよい場
 合が認められており、その場合は5日以内に被告人または
 その法定代理人、配偶者などから正式裁判の申立てがな
 いと、裁判は確定した。
1885年9月25日、五代友厚(ごだいともあつ、実業家)が没
 した。
  (1836年2月12日~1885年9月25日)満45歳没。
  薩摩(鹿児島)藩の儒者・五代直左衛門秀尭と、母・や
 すの次男として生まれる。
  幼名徳助、または、才助。
  少年時代には、藩の聖堂造士館で文武を学ぶ。
  1854年(18歳)父の死後、藩に出仕して郡方書役とな
 るが、
  1857年(21歳)藩命により、幕府の長崎海軍伝習所に
 遊学、
  以後、1868年(32歳)まで、主として長崎に居をかま
 え、勝海舟・榎本武揚・寺島宗則・本木昌造・佐野常民・
 高杉晋作らと交遊し、
  トーマス・グラヴァーとも親交を重ね、開明的知識を
 養う。
  1862年(26歳)、2度にわたって上海に渡り、薩摩藩の
 ために、汽船、武器を購入。
  1863年(27歳)薩英戦争が起こると寺島宗則(当時:松
 木弘安)と共に、英艦隊と交渉に当たるが、捕虜となり、
 横浜に拉致される。
  釈放後、武州、長崎などで亡命生活を送ったが、帰藩
 を許され、
  1865年(29歳)薩摩藩留学生の引率者としてイギリス
 に渡り、紡績機械、武器を購入し、
  また、ベルギー、フランスでは、貿易商社設立契約や
 万国博への出品委託を行った。
  渡欧中、薩摩藩主に、富国強兵に関する18カ条の建言
 書を送り、
  1866年(30歳)帰国後は、御用人席外国掛に任ぜられ
 て、
  外国貿易、鹿児島紡績所の建設、長崎小菅修船場の建
 設、薩長合弁商社設立の計画を行うなど、
  薩摩藩の殖産興業政策を推進するとともに、諸藩の志
 士と交わる。
  明治政府成立後、参与となり、外国事務掛、外国官権
 判事、大阪府判事を歴任、
  大阪を中心として外交・貿易事務、造幣寮の建設にか
 かわるとともに、
  通商・為替会社設立などを契機に、大阪経済界とも接
 触した。
  1869年(33歳)官を辞し、金銀分析所、弘成館(鉱山経
 営)、朝陽館(製藍事業)、大阪活版所、大阪製銅会社を設
 立。
  さらに、阪堺鉄道、大阪商船、神戸桟橋会社の設立に
 関係するなど実業界に入った。
  また、旧来からの大阪商人の力を結集して、堂島米会
 所の再興、大阪株式取引所の創設、大阪商法会議所(現在
 の商工会議所)の設立、
  大阪商業講習所(大阪市立大学の前身)の設置にリーダ
 ーシップをとり、
  商法会議所の初代会頭となるなど大阪財界の指導者と
 なった。
  「財政救治意見書」を建白するなど大久保利通の経済
 政策ブレーンとしても知られ、
  1875年(39歳)の大阪会議では根回し役を務めた。
  政界との関係深く、政府から多額の補助金を得、
  1881年(45歳)には、関西貿易会社を設立して、北海
 道開拓使官有物払い下げ事件、いわゆる、明治14年の政
 変を引き起こすなど、政商のイメージが刻印されている
 実業家であるが、
  沈滞気味であった明治初期の大阪経済界をリストラク
 チャリングさせた功績は大きい。
.
  (今日の言葉)
.
  題:アメリカは、中国支援を早い時期から始めていた。
    これが、日中戦争の泥沼化の大きな原因。
    だから、これは、日中戦争ではなく・・、
   影に隠れたアメリカが入っている『日・中米戦争』。
   第二次世界大戦は、既に、この時、開始されていた。
.
1937年、アメリカ大統領のルーズベルトは・・、
  日中戦争に、1937年に、大量の軍事物資を援蒋ルート
 を通じて、蒋介石が率いる国民党政権へ送り続けた。
  援蒋ルートとは、日中戦争(日・中米戦争)で、アメ
 リカが、中国の蒋介石軍を支援するために、軍事物資を
 輸送したルート。
  イギリス・ソ連も一部支援していた。
  ソ連は、日ソ中立条約があったため、すぐ取り止めた。
  イギリスは、1942年に、ビルマで日本に負けた後は、
 ほとんどできない状況となった。
  余談だが、イギリスは、インドから中国を侵略したと
 き、こんな広大な領土を持っている『中国は罪だ』と言
 い、自分の侵略を正当化した。
  何とでも言って、自分を正当化する論理だった。
  このアメリカなどの支援の目的は、徹底的に支援して、
 日本に対する『抗戦をさせるため』だった。
  日本と中国とアメリカの消耗戦であった。
  このルートは、第二次世界大戦まで続き、このルート
 と援助行為が続く限り、戦争は拡大こそすれ、終わるこ
 とはなかった。
  また、日本を潰したかったアメリカにとって、一種の
 代理戦争となっていて、「都合がよかった」。
  そしてまた、ちょっと、脇道にそれるが・・、
  日本は、この蒋介石の国民党軍と戦った訳で・・、
  今・現代、なんだかんだと言う共産党政権の中国と戦
 ったわけではない。
  つまり、共産党の中国政権が、日本と戦って勝ったと
 いう『戦勝国ではない』。
  さも、戦勝国の様に言うのは・・おかしな発言だ。
  そして、話を戻して・・、
  その約2年の後の1939年になって・・、
  アメリカは、日本の中国侵略に抗議するとして、1939
 年7月に、日米通商航海条約の廃棄を通告した。
  通告6か月後の1940年(昭和15年)1月26日に、同条約
 は失効した。
  そして、日米関係は無条約時代に入った。
  また、アメリカ軍人のクレア・リー・シェンノートが、
 中国・国民党に雇用されていて(実際はアメリカの派遣)、
  シェンノートの指揮のもとに組織されたアメリカの退
 役軍人(?)を中心としする義勇軍(?)「フライング・
 タイガース」を、1941年に、中華民国(国民党軍)へ派
 遣させるなどをした・・と言われているが(?)、
  これは、アメリカに配慮した「ごますり記述」である。
  クレア・リー・シェンノートは、中国名を持つ(れっ
 きとした)アメリカの正規の軍人で、
  アメリカ軍の中将までの階級を得た正規の軍人だった。
  生半可な軍人ではない。
  そして、れっきとしてアメリカが支援して、設立され
 た中華民国空軍の顧問として従事した。
  そして、ルーズベルトの(正式な)指示によってでき
 た「ワシントン中国援助グループ(オフィス)」の支援
 を受け、アメリカ合衆国軍(「義勇軍だ」とアメリカは
 言いたい)を設立し、
  アメリカ大統領が、正規に指示して、それが、例え、
 「義勇軍をつくれ」と、アメリカの正規の軍人と、正規
 の軍備を持って赴(おもむ)いたら、それは義勇軍か?
  違うだろう・・それは、義勇軍という名の「アメリカ
 の正規軍」だ。
  れっきとした、アメリカの介入で、真珠湾攻撃前に、
 アメリカと日本は、中国で戦端を開いていた。
  第二次世界大戦は、中国で、既に、開始されていた。
  アメリカは隠れて、日本を攻撃していた、奇襲である。
  アメリカの最新鋭の戦闘機100機と共に、
  また、精鋭のアメリカ人パイロットと、そして、、
  地上要員200名までそろえた『れっきとしたアメリカの
 正規軍部隊』を介入させた。
  アメリカのごますりマスコミが、日本の真珠湾攻撃の
 後だった等と、アメリカの顔を立てているが、れっきと
 した、早々と中国に介入して、日本と戦闘していた。
  なお、蒋介石は、1928年から、ドイツ軍事顧問団によ
 る指導を受けていた。
  中独合作、1910年~1940年との史料もある。
  中国は、日清戦争の敗北による反省から、ドイツを招
 聘したが・・、
  1938年に、ドイツの軍事顧問団は引き上げている。
  また、蒋介石の顧問に任命されていたオーウェン・ラ
 ティモアは・・
  この人は、アメリカのハーバード大学に学んだ太平洋
 問題調査会の中心的メンバーを長く務めた人で、
  アメリカの対中国政策の形成に関与し、影響を与えた
 人・・、
  日本軍の中国撤兵を要求する暫定協定に反対するよう
 蒋介石に助言した。
  このラティモアの考えは、ルーズベルトの考えと一緒。
  アメリカの目的は、徹底的に日本を潰すだった・・、
  また、このラティモアは、日本の天皇制の廃止を主張
 した男だった。
  天皇陛下と、天皇位継承の資格のあるすべての男子を
 中国に流して、抑留しろと主張した男だった。
  この様にはっきりした史料があるのに、日本のマスコ
 ミは、アメリカへの「ごますり報道」をよくする。
  例えば、読売新聞は、「中国に関与したのは、真珠湾
 攻撃の後だ」と、わざわざ取って付けた様な言葉を付け
 て記事とした。
  これは「嘘記述をしている記事だ」。
  朝日新聞の問題となった『慰安婦記事』の様な「嘘記
 事」だ。
  何故、読売新聞は、読者=日本国民=日本を貶(おと
 し)めるのだろうか?
  何で、アメリカを庇(かば)い、媚(こび)を売り、
 日本人読者に嘘記事を刷り込もうとするのか?
  今後、ニュースがもらえなくなるという、自分の利益
 を阻害する何かがあるのだろうか?
  この件について、アメリカは、最初、「アメリカが中
 国を支援していること」も否定していた。
  その後、その事、嘘がばれると・・、
  アメリカは「ボランティアだ」と、また、嘘を言った。
  「嘘の屋上屋を重ねた」。
  つまり、読売新聞の「真珠湾攻撃の後だ」などとの言
 い訳は、アメリカは、最初からズーット、一度も言って
 ない。
  読売新聞のこの様な記事は、読売新聞のつけたしの、
 作り物の記事だと言える。
  放送大学も、よくアメリカを庇(かば)った放送を、
 大学講義で正しいのだと思わせて、錯覚させた放送をよ
 くする。 
  嘘講義を、『よくする』。
  何度、抗議しても反省はしない、再発防止策は取られ
 ていない。
  相手が、アメリカだと、話はいつも美しくしている。、
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
 

2016年9月8日木曜日

臨時ブログ:アメリカは、黒人の方々を棄民した。

臨時ブログ:アメリカは、黒人の方々を棄民した。
  また、アメリカは、黒人の方々を奴隷として捕縛した。
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1847年7月26日、アフリカ最初の独立国・リベリアが独立
 した。
  アフリカのリベリア共和国が独立した。
  この年、ヨーロッパの植民地支配を受けていたアフリ
 カの国々のうち、
  いち早くリベリア共和国が独立した。
  アフリカで、次に独立するガーナは、110年後の1957年
 で、イギリスから独立した。
  この1957年のガーナの独立が、アフリカの国の初めて
 の独立などとされているが、最初に、リベリア共和国の
 独立があった。
  そして、その経緯(いきさつ)は・・、
  リベリアの独立のきっかけは、アメリカで起こった奴
 隷解放に関係していた。
  ジョージ・ワシントンの甥を会長とする「アメリカ植
 民協会」が、アフリカの土地の一部を購入し、そこに解
 放奴隷をアメリカから連れて行き町を作ろうとした。
 そして、作った。
  その後、同協会が、リベリア援助を続けられず、縮小
 する方針を打ち出したため、
  1847年に、独立という形にした。
  独立を宣言し、共和国憲法を採択した。
  アフリカ最初の共和国として誕生した。
  ・・と、美しく・・歴史には書かれているが・・?
  アメリカ大統領のリンカーンも、この件に関係した。
  実は、アメリカに居る黒人の方々の棄民だった。
  ブログの『子供たちの「リンカーンの伝記』は間違っ
 ています」にも書きましたが・・、
  リンカーン大統領は、「黒人奴隷を解放した」と言わ
 れていますが、間違いです。
  彼には、黒人奴隷を解放したいという意思や希望は、
 まったく有りませんでした。
  リンカーンの黒人奴隷解放の意思は、「事の成り行き
 から持った」という受け身的な奴隷解放の行動でした。
  逆に、奴隷解放どころか、その逆の言葉も多くリンカ
 ーンにはあります。
  その様な、リンカーンに都合の悪い言葉は隠され・・、
  美しく「奴隷解放の父」が作られています。
  奴隷解放の流れをつくったのは・・その様な方向へ仕
 向けたのは・・、
  黒人の黒人奴隷解放戦士『フレデリック・ダグラス』
 でした。
  本当に、この真の奴隷解放者は隠されています。
  黒人ゆえだからでしょうか?
  この様な事まで、白人は奪うのでしょうか?
  また、黒人の方々の・・その組織の働きかけがあった
 から、奴隷解放の方向に流れて行ったのです。
  そして、その流れの中に、リンカーンが居ただけなの
 です。
  これが、真実なのです。
  子供たちの伝記には間違いが書かれて居ります。
  正しい内容に書き換えられなければならないのです。
  キリスト教には「黒人は人ではない」として来た歴史
 が、古くからズーッとあります。
  この様な流れや、見方に影響された人々が、したこと
 は、黒人の奴隷解放に一旦ちょっぴり至っても、
  直ぐに、自分たちの利にとらわれて、元に戻ってしま
 うという状態だった。
  悲しいかな、黒人の方たちは・・、
  「人間ではない、奴隷という原罪」がある・・と、理
 由づけられた見方・考え方をされていました。
  特に、アメリカ南部は、現在も「バイブル・ベルト」
 と言われている様に「キリスト教徒が多い地帯」。
  ここの地に、黒人奴隷の悲しい歴史が刻まれました。
  奴隷制は、疑問なく容認する考え方の地でありました。
  キリスト教聖書に説かれている奴隷制、
  アメリカ南部の人達は、当然のごとく、奴隷制を容認
 し、黒人の方達を奴隷として虐げました。
  そして、この南部の奴隷制寡頭勢力は、(かとうせい、
 寡頭制:少数者が権力を握って行う独裁的な形態)、
  自分たちの利が脅(おびや)かされるに及んで、剣を
 引き抜き、南北戦争を起こした。
  自分の意に合わない者は、相手は、殺すという教義・・
 「異教徒は殺せ」のキリスト教の教義のままに、
  「考え方の違うものは滅ぼせ」の教義どおりの行動と
 なってしまった。
  その様なアメリカの中でも・・共和党は、アメリカ全
 土の奴隷制反対勢力が応援し、育て、そして、強固にし
 た党だった。
  (ちなみに、民主党は、奴隷制を容認した党でした)。
  くすぶりの中にあったアメリカで、この年に、南北戦
 争(1861年4月12日~1865年5月9日)が起き、
  リンカーンは、この年に大統領に就任した(任期:1861
 年3月4日~1865年4月15日)
  後代の歴史家が「南北戦争は奴隷解放戦争」と位置付
 けしていますが・・、
  リンカーンの大統領就任演説は、何と・・
  「奴隷財産を擁護する論理展開をするという演説」で
 した。
  リンカーン大統領は、「奴隷財産は守ります」という
 就任演説でした。
  何と愚かな演説でしょう。
  奴隷制について・・、
  「反対するか賛成するかわからない州が存在したから」
 と言い訳する人たち、リンカーンを擁護する人たちもい
 ますが・・?、
  リンカーンのその後の行動からみても・・??
  彼は、「奴隷解放の大統領とは言えません」。
  南北戦争の戦況は、リンカーンの奴隷解放への意思が
 なく、不決断もあって、
  また、軍の首脳部の腐敗もあって北部軍は、「敗北が
 続いた」。
  北部のシンボルである『首都=ワシントンが、陥落す
 る』危険にさらされる緊急事態にまでもなった。
  この状況を救ったのが、黒人の黒人奴隷解放戦士の『
 フレデリック・ダグラス』でした。
  奴隷解放に不決断だったリンカーンは、黒人の軍への
 参加をも『容認していません』でした。
  フレデリックは、ここで働いて、この戦争で働きを見
 せて、黒人の解放を勝ち取りたいとしていました。
  「黒人奴隷も、自由黒人も、黒人を軍務につかせよ」
 ・・と、訴えました。
  「奴隷に対する自由が、今こそ国会議事堂から全戦場
 の砲焔の空高く宣言されなければならない」・・と、叫
 びました。
  「黒人を軍務につかせよ、そして、黒人解放軍を組織
 せよ・・と、
  彼らは、南部に進軍し、奴隷たちの間に解放の旗を揚
 げるであろう」・・と、世論に訴えました。
  リンカーン大統領は、愚かにも、首都ワシントンが陥
 落の事態になっても、
  「黒人奴隷は漸進的に解放したい、一気に解放という
 事はしたくない」の言うのでした。
  また、リンカーンは、卑劣な事に・・
  「解放された黒人は、アフリカかどこかに植民させた
 い」と考えていた・・これが、リベリアです。
  黒人の方たちを捨てるということです。
  「棄民」の考えです。
  当然、黒人の方たちからは、強い反対の声が沸き起こ
 りました。
.
  そして、次の話・・後編・・、
.
1847年7月26日、アフリカ最初の国・リベリアが独立した。
  この国は、アメリカ大統領が思っていた『黒人の方々
 の棄民の国』だった。
  アメリカ合衆国の人種差別行為の行なわれた国だった。
  アメリカの北部から、リンカーン大統領を輩出した。
  南北戦争当時の北部出身の大統領のリンカーンだった。
  アメリカの北部軍が、この戦争に勝って・・、
  そして、今のアメリカ合衆国の政権は、この延長線の
 上にあり、
  リンカーンが始まりで、そして、その流れが続いてい
 ると言える。
  だからこそ、それ以後の北部系のアメリカ政権が、そ
 の始祖のリンカーン大統領を大切にするのは、そこに理
 由がある。
  リンカーンに記念堂があるのは、そこが理由だ。
  これに対し南部の人たちが、苦虫をかみ殺して居るの
 はこれが理由。
  南部にはリー将軍の記念日がある、誕生日を記念日に
 している。。
  だから、リンカーンと言えば「奴隷解放」と来るが、
 これが、クエスチョン(疑問)なのだ。
  これは、作られた話で、プロパガンダ(嘘宣伝)なの
 だ。
  アメリカの南部人に言わせれば、「北部でも、実際は、
 卑劣な黒人差別が行われていた」・・と言う。
  「北部人が、人種差別、人種偏見を非難するのは、政
 治上の駆け引きに過ぎない」・・と言う。
  アメリカの白人が、黒人の方々に対して、ある差異を
 感じているのは、北部も、南部も変わりがない。
  そして、アフリカの、リベリアという国の話し・・、
  この国は、1847年に独立した。
  アフリカで独立した一番最初の国。
  この国の独立の次にアフリカで独立する国は、長い期
 間、とぎれて、このリベリアの次ぎに独立する国は、ズ
 ーット後になる。
  だから、この国が最初のアフリカの独立国ではないと
 史実が消される本もある。
  アメリカへの「ごますり」で、史実を正しく書かない
 本さえあるから注意したい。
  では、何故、この国が、こんなに飛びぬけて早くアフ
 リカで独立できたかと言うと、既に述べた様に、リンカ
 ーンが関係している、
  そして、アメリカ合衆国が関係している。
  この国は、アメリカが土地を買って、アメリカにいる
 黒人の方々をここに住まわせようとした。
  つまり、「棄民」だ。
  リンカーンは、黒人奴隷の時代が終わりに近づいてい
 るので、連れて来たアフリカに返そうとした。
  黒人の方々の意思が優先された話ではない。
  リンカーン大統領は、『奴隷解放の大統領ではない』。
  「奴隷解放の父」と言う話はプロパガンダ(嘘話)。
  リベリアの歴史は・・、
  1816年 、アメリカ合衆国で設立されたアメリカ植民協
    会が、黒人解放奴隷のアフリカへの「帰還」を計
    画。
   (アメリカ合衆国の国内に居てもらいたくないとい
    う意思から、この行動が起こされた)。
  1820年1月、アメリカ植民協会、黒人のための「祖国
    再建運動」としてリベリア建国運動を開始。
     解放奴隷の88人を乗せた「エリザベス号」が、
    ニューヨーク港を出港し、西アフリカのシエラレ
    オネに向かう。
     「自由の女神像」も泣いていたであろう。
    利用されるだけ利用された黒人の方々が、アメリ
    カ社会で『自由な生活』を得ることが出来なくて、
    体(てい)のいい「棄民」をされた。
  1822年、初のグループがリベリアに上陸。
    再移住区を建設する。
  1824年、メスラド岬植民地が、リベリア植民地に改名
    される。
     同時に、アメリカが拿捕(だほ、捕らえること)
    したコンゴ系奴隷がニュージョージアに入植した。
     アメリカ自身が奴隷狩りをした。
     当初は「クリストポリス(キリストの都市)」
    と呼ばれていた首都の名前を、アメリカ合衆国の
    第5代大統領のジェームズ・モンローからとった
    モンロビア(現在、リベリア共和国の首都)に
    改名。
  1832年、ニューヨークで設立されたペンシルベニア州
    植民地社会がエディナ植民地 (Edina) と、
     12月には、ポートクレソン植民地 (Port Cresson)
    として入植した。
  1833年、再移住区をLiberty(自由)からとった「リベ
    リア連邦」と命名した。
  1834年、メリーランド州の植民地社会によりメリーラ
    ンド・アフリカ植民地 (Maryland-in-Africa) と
    して入植。
  1835年、ルイジアナ州の植民地社会がミシシッピ・ア
    フリカ植民地(Mississippi-in-Africa)として
    入植。
     6月、先住民部族バッサ族の攻撃により、ポート
     クレソンの植民地が破壊され、
     7月に、新たにバッサケーブ植民地 (Bassa Cove)
    を設立。
  1837年に、バッサケーブ植民地がエディナ植民地を統
    合する。
  1839年4月1日、ニュージョージア植民地とバッサケー
    ブ植民地がリベリア連邦に統合。
  1842年、ミシシッピ・アフリカ植民地もリベリア連邦
    に統合。
  1847年7月26日、アメリカ合衆国憲法を基本にした憲法
    を制定して独立を宣言した。
     初代リベリア大統領に、ジョセフ・ジェンキン
    ス・ロバーツ(任期1848年 - 1856年)が就任。
  1854年5月29日、メリーランド・アフリカ植民地がメリ
    ーランド共和国として独立を宣言するが、
  1857年3月18日、リベリア共和国に併合。
  1870年に、エドワード・J・ロイが大統領に就任するが
  1871年に、暗殺され、
  1872年~1876年の間は、初代のロバーツが第6代大統領
    を務める。
  1878年に、アンソニー・W・ガーディナーが大統領に
    就任。
  1896年には、ウィリアム・D・コールマンが1900年
    まで大統領に就任した。
  1903年には、アーサー・バークレーが大統領に選ばれ、
  1904年も、大統領に再選される。
  1915年、アメリコ・ライベリアンのリベリア政府に対
    して、先住民のクル族とグレボ族の反乱を起こす。
..
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2016年9月7日水曜日

(増補版)414E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1885年6月~1885年7月)

題:(増補版)414E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1885年6月~1885年7月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1885年6月3日、旅団条例制定
1885年6月6日、松方正義大蔵卿が、翌年からの兌換紙幣銀
 本位制を建議した。 
1885年6月、町村法取調委員会が、山県有朋へ町村法草案を
 提出する。
  内務卿・山田顕義(あきよし)の命を受けた内務省大
 書記官・村田保が、1884年(明治17年)5月に、町村法草
 案を作成したことに始まる。
  村田の転出後、同年・1884年12月に、内務省内に町村
 法調査委員会が設置され、
  1885年(明治18年)6月に、町村法草案が立案された。
  草案段階では、連合戸長役場方式による制度改正が志
 向されていたが、
  1886年(明治19年)7月に提出された御雇外国人アルベ
 ルト・モッセの意見書を契機として、
  町村合併による改革が図られることとなった。
  そして、1887年(明治20年)2月に、内閣に設置された
 地方制度編纂員会が、地方制度編纂綱領を策定し、
  同年・1887年9月17日に、市制・町村制法案を提出、
  最終的には、1888年(明治21年)4月1日に、市制・町村
 制が公布され、
  1889年(明治22年)4月1日に、施行された。
1885年6月、内村鑑三が、クリスチャンの女性と巡り合い
 結婚をする。
  しかし、わずか7か月で離婚し、
  6月のこの時に、鑑三はアメリカへ渡った。
  しかし、キリスト教国という期待のこのアメリカにも
 裏切られた。
  そのキリスト教国にあらざる状態、また、反人道的な
 人種差別のアメリカを、まざまざと見せられたからだっ
 た。
  鑑三は言う、
  「これがキリスト教宣教師により、キリスト教の他の
 宗教に勝(まさ)る証拠なりとして教えられし文明なり
 や」・・と。
  宣教師が言った「キリスト教は他の宗教より勝ってい
 る」というのは『嘘だった』と、実感し思う鑑三だった。
  鑑三は、新渡戸稲造から「高慢」とか、「利己的」と
 かと批判された。
  また、鑑三は、二人目の妻を迎えるが、この妻も23歳
 という若さで亡くなっている。
1885年7月1日、醤油税・菓子税が実施。
  日本には、菓子を課税対象とした菓子税があった。
  これは、「菓子税則」という法律で定められていて、
  この時に、「醤油税則」とともに公布された。
  「菓子税則」では、菓子業者は、免許鑑札料、営業税、
 及び、製造税を納付することと定められていた。
  実は、「菓子税則」の以前にも、菓子に対しては、各
 地で、「菓子屋税」、「菓子種商税」、「饅頭屋税」、
 「餡物商税」などの税が、課税されていた。
  この他にも、各地には、様々な税(雑税)があったが、
 1875年(明治8年)に行われた雑税整理の際に、整理され
 た。
  この時、菓子に対しては、府県が適宜、地方税として
 課税することができるとされたが、
  この10年後のこの時に、菓子税が国税として復活する
 ことになった。
  菓子税や醤油税が導入された背景には、前年に起きた
 甲申事変により、陸海軍の拡張が急務となり、
  それを賄う新税創設が必要となったことによる。
  菓子税創設の理由について、政府は、保護関税がかか
 らない外国からの輸入砂糖が大量に流通し、国内の砂糖
 産業が大きく圧迫されていた状況の打破にあると説明し
 たが、
  実際には、外国産と同様に、国内産の砂糖も課税対象
 であり、国内産砂糖の保護には結びつかなかった。
  菓子税則法案の審議を行った元老院でも、同様の指摘
 がされた。
  元老院は、むしろ、砂糖を多量に消費する菓子を一種
 の「奢侈品」と位置付け、課税の根拠の一つとした。
  実際、元老院での審議では、醤油税については、元老
 院議官から導入反対の声が多くあがっているが、
  菓子税については、奢侈品とされ、若干、声は小さか
 った。
  このような経緯で、導入された菓子税だが、すぐに、
 廃止、もしくは、改正を求める運動が全国で起こった。
  運動の過程で、さまざまなパンフレット類が作成・配
 付された。
  その一つが、京都市にあった全国菓子商協議会が発行
 した『菓子税則廃止懇望意見書』で、
  この史料には・・、
  (1)租税とは、国民の所得額の多寡に応じて賦課する
 べきであり、
  多額の所得がある諸商業には課税せずに菓子業に課税
 するのは不当であること、
  (2)菓子商は、経営規模が小さい業者が多く高利を
 得られる業態でもないため、国税を負担させるべきでは
 ないこと、
  (3)そもそも菓子の定義があいまいであること、
  (4)菓子税の税収は、当時の内国税全体に占める割合
 が1%前後と低く、徴収コストと見合っていないこと等
 の理由をあげた。
  そして、廃止を求める内容となっていた。
  この史料の特徴として・・、
  『時事新報』や『東京経済雑誌』など、国内の新聞雑
 誌の掲載記事を引用するだけではなく・・、
  アダム・スミスや、ロッシ、ガルニエなど、海外の経
 済学者の租税論も引き合いに出すなど、
  さまざまな角度から菓子税廃止論を述べている。
  また、この史料は、非売品で、一般に頒布されたもの
 ではなく、
  その内容からも、ある程度の知識を持った人たちに向
 けて配ったものと考えられる。
      (参考:国税庁ホームページより)
1885年7月1日、特許法が実施された。
  (第1号特許は堀田瑞松届けの錆止め塗料で1885年8月
 14日に特許権が成立した)
1885年7月2日、明治十八年の淀川洪水
  関西地方に、豪雨が続き大洪水(特に、大阪市内の橋
 梁悉く流失し、死傷者多数)
  明治十八年の淀川洪水は、1885年(明治18年)6月中旬
 から7月にかけて続いた淀川の洪水のことで、
  「明治大洪水」とも言う。
  1885年(明治18年)6月は、上旬から二つの低気圧の影
 響により雨が降り続けた。
  6月17日、淀川左岸にある支流の天野川の堤防が決壊、
 次いで、枚方の三矢、伊加賀で、淀川本流の堤防が三十
 間(約182m)にも渡って決壊したのを皮切りに、
  以後、淀川左岸の堤防は、各所で決壊した。
  25日から始まった新たな暴風雨によって、水は、寝屋
 川に達し、
  その他の河川も、水が溢れ出した結果、
  江戸時代の干拓で消滅したはずの深野池と新開池以上
 の大きな湖、
  かつての河内湖が、地上に現れ出す始末であった。
  これにより、大阪府下の北河内郡・中河内郡、東成郡
 及び大阪市街(現代の地名では、北は枚方市から南は東
 大阪市と大阪市のうち住之江区、東住吉区、住吉区、平
 野区以外の淀川以南の区)の、約15269町歩(15142ha)、
  当時の大阪府全体の世帯数の約20%となる約71000戸が
 最大で約4mも浸水し、
  家屋流失約1600戸、同損壊約15000戸という甚大な被害
 が発生した。
  大阪市内では、大阪城~天王寺間の上町台地一帯を除
 くほとんどの低地部が、水害を受け、
  被災人口は約27万人。
  天満橋・天神橋・難波橋の浪華三大橋も流され、
  安治川橋に至っては、漂流物が橋に引っ掛かって川を
 堰き止める様子を見せたので急いで爆破した。
  こうして、八百八橋とうたわれた大阪の橋は30余りが
 次々に流失し、
  市内の交通のほぼ全てが寸断された。
1885年7月3日、朝鮮の事を思う日本
  駐清公使・榎本武揚が、井上馨外務卿の士道により、
 天津に李鴻章を訪問し、
  日清共同による朝鮮内政改革と、大院君の帰国を提議
 した。
1885年7月8日、500石以上の大型和船の建造を、1887年1月
 以降禁止する。
  明治政府は、国内海運の近代化を意図して、大型和船
 のかわりに、洋式帆船を主用しようとしたが、成功しな
 かった。
  そこで、1887年(明治20)以後は、500石積み以上の和
 船の建造禁止に踏み切った。
  しかし、現実には、和船に洋式帆船の技術を取り入れ
 た折衷式の合の子船の全盛時代を現出し、
  これが、昭和初期の機帆船時代へと移行した。
  他方、小型和船は、制約外のため沿岸漁船として近年
 まで全国的に使用され、
  どうにか和船の姿をとどめていたが、
  これも、主流は、合成樹脂使用のFRP船(プラスチック
 船)にとってかわられ、
  今日では、ほぼ滅亡に近い状況となっている。
1885年7月13日、大阪中学校を大学分校に改称された。
1885年7月16日、日本鉄道の大宮~宇都宮間が開通、営業
 をはじめる。
  同時に、宇都宮市伝馬町で、日本鉄道の嘱託を受けた
 旅館「白木屋」(旧脇本)を経営する斉藤嘉平が、
  鉄道会社の依頼で、「日本初の駅弁」を宇都宮駅ホー
 ムで売り出した。
  弁当の内容は、黒ゴマをまぶした梅干し入りのおにぎ
 り2個と、たくあん2切れを、竹の皮で包んだ質素なも
 のだった。
  駅弁1個5銭という高額であったため、不評だった。
  この日本鉄道東北線の内、大宮~宇都宮が、利根川橋
 梁を除いて開通して、
  これにともなって、旧街道宿場の店が、宇都宮駅で駅
 弁販売を開始したという事だった。
  上野~宇都宮間の開通に伴って上野駅が完成し、
  日本鉄道の路線が、大宮から宇都宮まで延び、上野~
 宇都宮間の開通となった。
  利根川の橋梁は未完成ため、渡し船で渡った(完成は
 1886年)。
  完成した上野駅は、煉瓦造り駅舎だった。
1885年7月17日、海底電信万国条約に加盟する。
  参考:1884年4月12日、海底電信線保護万国連合条約に
 加入した。
  仏蘭西共和政府大統領閣下普魯西兼独逸皇帝陛下亜爾
 惹丁連邦大統領閣下澳地利兼洪牙利皇帝陛下白耳義皇帝
 陛下伯西爾皇帝陛下哥斯太利加共和政府大統領閣下丁抹
 皇帝陛下度美尼哥共和政府大統領閣下西班牙皇帝陛下北
 米合衆国大統領閣下哥倫比亜合衆国大統領閣下大不列顛
 愛爾蘭兼印度皇帝陛下牙徳麻刺共和政府大統領閣下希臘
 皇帝陛下伊太利皇帝陛下土耳其皇帝陛下荷蘭兼盧森堡皇
 帝陛下波斯皇帝陛下葡萄牙亜爾珈揮皇帝陛下羅瑪尼皇帝
 陛下全露西亜皇帝陛下薩爾波度児共和政府大統領閣下摂
 児比亜皇帝陛下瑞典兼諾威皇帝陛下烏拉芸東部共和政府
 大統領閣下ハ海底線ヲ経過スル電気通信ヲ保護スルコト
 ヲ冀望シ夫レカ為メニ条約ヲ締結セント欲シ各其全権委
 員トシテ左ノ人々ヲ任命ス
  参考:万国電信条約(ばんこくでんしんじょうやく):
  1865年、電信料金・取扱方法等を国際的に統一するため、
 パリで結成された万国電信連合の加盟国が締結した国際
 条約で、
  1879年に、日本は加盟し、電信において国際社会の一
 員となった。
  1932年に、万国電信連合は、国際電気通信連合(略称ITU)
 となり、1947年に、国連の専門機関となった。
  因みに、この年(1885年)に、政府は、国内の全ての
 主要都市を結ぶ電信網の建設を決定し、国内均一料金制
 度を導入した。
1885年7月20日、「女学雑誌」が創刊した。
  近藤賢三が編集し、万春堂が発行した。
  女性の「めざめ」と、社会的地位の向上をめざした雑
 誌として登場した。
  後の文学界に、大きな影響を与えた。
  この雑誌から、1893年1月に『文学界』が誕生した。
1885年7月、岩本善治(いわもとよしはる)が「婦人大学」
 を創刊した。
  巌本 善治は、女性教育家で、評論家、事業家だった。
1885年7月26日、明治天皇陛下が、山陽巡幸御発輦
1885年7月31日、農商務省が、郵便線路規定を定め、3線路
 段階を決定した。
  日本の郵便制度は、1880年(明治13年)から1885年(
 明治18年)にかけて大きな転換点を迎える。
  日本全国を網羅する郵便ネットワークが完成した明治
 16年(1883年)には、通常郵便物の引き受け数が1億通
 を突破し、郵便局数も5,651局とピークに達した。
  1883年(明治16年)の「郵便条例の制定」は画期的な
 ことだった。
  「特別地方郵便制度」の契約によって、駅逓局は、各
 府県の公用通信網を郵便に取り込むことに成功していた。
  これによって、郵便の政府専掌を完全なものとした。
  そして、全国を網羅する郵便逓送ルートと、郵便集配
 網を完成させた駅逓局は、
  さらに、「均一料金制」の完全実施を目指して、郵便
 条例の制定に力を注いだ。
  これは、前島郵便の集大成の行動だった。
  すでに、1882年(明治15年)4月に、農商務省伺は、郵
 便条例制定の経緯と、主な、改正内容が記し、
  上記改正を実行するためには・・、
  「均一料金としての通常郵便物の料金を2銭5厘とし、
 郵便はがきを1銭5厘とする料金値上げを行わなくては
 ならない」として、
  1880年(明治13年)の郵便物数に基づいた詳細な積算
 により説明を行なっていた。
  (参考:日本郵政株式会社郵政資料館 資料専門員・
 井上卓朗氏の論文)
1885年7月、渡辺鼎・石川映作が、婦人束髪会を設立した。
  女性の髪型「束髪(そくはつ)」 が流行した。
  束髪は、髪を束 (たば) ねて結ぶ事こと・結んだ状
 態になる。
  この時、婦人束髪会と云う組織を作り、和風結い髪か
 ら西洋風結い髪がファションとなった。
  和風結い髪に比べて、簡便なため、急に流行となった。
  髪型デザインは、揚げ巻 ・下げ巻 ・イギリス(英吉
 利)巻など、後には色々なバリエーションが作られた。
.
  (今日の言葉)
.
  題:戦争についての罪悪感を、日本人の心に植えつけ
   るための宣伝計画
    アメリカ主導による、連合国軍最高司令官総司令部
  (GHQ)による、日本占領政策として行われた。
.
1948年2月6日、アメリカ主導のGHQの『日本の教育』や、
 『日本のマスコミ』に対する方針は・・、
  「日本人の再教育」と称して行われることと並行して
 ・・
  「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム
 (WGIP)」という計画に基づいて行なわれた。
  この計画は・・、
  日本人に、『自虐史観を植え付けよう』という目的を
 持っていた。
  そして、結果的に・・、
  日本人に『自虐史観』の植え付ける結果となった。
  「日本が行なったことは悪い事だった」という洗脳、
 罪悪観念を植え付けることが目的とされた。
  その結果・・、
  日本人が、日本を悪く言うようになった。
  (今でも、NHKの「日本の貶(おとし)め行為など、
 ひどいものだ・・
  その他・朝日新聞や、日本のマスコミなどなど・・)
  この様な結果となったのは・・、
  アメリカを主導とするGHQの一連の政策を遂行する
 事によってだった。
  GHQは、NHKに、「真相はこうだ」というラジオ
 番組を企画させ、放送させた。
  このNHKの放送は・・、
  「日本国民は軍に騙されていた」
  「日本軍は大陸で残虐なことをした」・・と、主張し
 続ける放送内容だった。
  結果的に・・、
  日本人は洗脳され、刷り込まれ、
  新聞紙上でも、『日本軍の蛮行』という『捏造記事(
 ねつぞうきじ、事実でないことを事実の様にこしらえた
 記事)が連載された。
  そして、世は、国際法にもない法規によって東京裁判
 が行われていた。
  (酷いことだ・・国際法にない法規を作ってまでして
 日本を裁いた・・)
  二度と日本が戦争する事が無いような『弱体化した国
 家としたい』とした。
  そして、日本人の精神面に於いても、『日本の国民精
 神を衰退させたい』としていた。
  日本が、主権を回復した後も・・、
  革命思想を持った人たちが、教育界やマスコミに入り
 込み、
  日本を破壊して、共産主義革命を起こすためにもと、
 続けて洗脳した。
  そして、近年は、中国や韓国などの日本崩壊を目論む
 国が、
  それを利用して、日本をプロパガンダ攻撃している。
  そして、この洗脳行為であるGHQの歴史教育による
 影響は、外交にも及んでいる。
  (頭の柔らかいうちにと・・自虐史観で書かれた教科
 書によって教育されたり・・盛んに洗脳された・・
  今・現代でも、その傾向は多く残されている・・)
  その教育の刷り込みの影響から・・、世界を相手にす
 る現役のある外務省幹部は・・、
  「相手国の外交官と議論をする時、日本は、お互いの
 歴史認識がテーマになると、決まって負けてしまう」と
 述べている。
  外交交渉上も、無用な譲歩や謝罪をさせられ、この歴
 史認識問題は、大きな外交敗北の原因となっている。
  そして、ウォー・ギルト・インフォメーション・プロ
 グラム(略称:WGIP)について・・、
  これは、文芸評論家の江藤淳氏が、その存在を証明し
 た。
  太平洋戦争(大東亜戦争)終結後の・・、
  アメリカ主導による連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)
 による、日本占領政策の一環として行われた「戦争につ
 いての罪悪感を日本人の心に植えつけるための宣伝計画」
 だった。
  江藤氏は、「ウォー・ギルト・インフォメーション・
 プログラム」(戦争についての罪悪感を日本人の心に植
 え付けるための宣伝計画)という名称が・・、
  GHQの内部文書に基づくものであると説明し・・、
  高橋史朗氏、藤岡信勝氏、小林よしのり氏、櫻井よし
 こ氏、保阪正康氏、西尾幹二氏、勝岡寛次氏、『産経新
 聞』などが同じ行動をとっている。
  1979年より、ウィルソン・センターで、米軍占領下の
 検閲事情を調査していた江藤氏は・・、
  アマースト大学の史学教授レイ・ムーア氏より、
  「Draft of c/n, Subject : War Guilt Information
 Program,From : CIE, To : G-2 (CIS), :Date : 6 February
 1948」・・と、表題された文書のコピーを提供された。
  江藤氏は、この文書について・・、
  1948年(昭和23年)2月6日付で・・、
  CI&E(民間情報教育局)からG-2(CIS・参謀第2部民間
 諜報局)宛てに発せられたGHQの内部文書であると説
 明されている。
  そして、「コピーには特段のスタンプは無いが・・、
  The National Record Center, Suitland, Marylandで、
  ムーア教授が、GHQ文書を閲覧中に発見したものと
 考えられている。
..
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2016年9月6日火曜日

臨時ブログ:国を売るNHK

臨時ブログ:国を売るNHK
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
  題:国を売るNHK
.
  拝 啓 
  御公務、ありがとうございます。
  NHKの日本を売る売国行為は酷いです。
  何とかならないのでしょうか?
  海外放送局にまで、日本を貶(おとし)める番組を送
 っているという事です。
  この事をネットで知り、大変、驚いております。
  この様な売国行為は何とかならないのでしょうか。
  よろしくお願い申し上げます。
           敬 具
.
  以下は、その事を記したものです。
..
2012年9月8日、売国するNHK
  酷いNHKの売国行為・・、
  日本を売る行為を、日本の方々が知らない所で、日本
 のマスコミが日本を売っているという。
  以下の例は、NHKであるが、あまりにもひどい。
  何とかならないのだろうか・・?
  敦子カローさんは、フランスに住まわれているが、
  日本の公共放送NHKが、海外放送局に貸し出した映
 像が、偽造された映像で、嘘の映像で、「売国行為をす
 るNHK」となっていると言われる。
  日本を売ることを良くやるNHKであったが、海外放
 送局に日本を売る行為までしているのかと思い、驚いた。
  それも、悪意に満ちた映像を、わざわざ作ってまでし
 て番組を作っているという。
  以下そのブログ・・、
  http://blog.goo.ne.jp/mao777cocoro/e/a72f53628cc695515951cb6475a0d520
  NHKが関与した恐るべき「黙示録」
  正論12月号より引用
  http://www.sankei.co.jp/seiron/wnews/0912/ronbun3-1.html
  【略歴】敦子カローさん
  昭和32(1957)年、大阪市生まれ。金蘭短期大学英語
 科卒。
  青年海外協力隊の任地で知り合ったフランス人男性と
 知り合い結婚、
  パリ郊外のムードンで暮らす。
  日本の公共放送が海外のテレビ局に 貸し出した映像は
 どう“利用”されているのか。
  フランス在住邦人 敦子カロー
  ■黙って見過ごせない内容
  その番組のタイトルは「Apocalypse(黙示録)」とい
 う。
  FRANCE2というテレビ局が、近現代史をテーマ
 に制作した全六回のシリーズで、
  私が暮らすフランスにおいて、大好評を博したドキュ
 メンタリー番組である。
  息子(高校生)の学校の先生が「いい番組だ」と推薦
 したこともあって、
  わが家では九月十五日に放映された四回目を観ること
 になった。
  その回のテーマは「第二次世界大戦勃発の真相」。
  冒頭のテロップにさり気なく映った「NHK」の三文
 字に、
  「こんなところでわが国の公共放送局が一役かってい
 るのか」と感心した。
  ところが、その内容は、なんと言ったらいいか、
  私は自分が軽い神経症になるのではないかと心配する
 ほど惨いものであった。
  フランス人の亭主も一緒に観ていたが、
  私が番組を観ながら殺気だってゆくのを悟ったのか、
 いきなり立ち上がり、テレビの脇にあるCDプレイヤー
 をティッシュで ガサツに音を立てて拭きはじめた。
  亭主は「あー、埃だらけ。汚いなあ。こんなに汚れて
 る」とぼやきながら、
  中腰になってテレビの画面を遮ったのだ。
  私の気をテレビから逸らすつもりだったのだろうが、
  逆にイラつきが更に募ってしまった。
  「こんなもの、まともに観れるかいな」と思う半面、
  「これは証言者にならなければいけない」という義務
 感が沸いてきて、
  静かに注意深く観たいと思ったからだ。
  日本人である私はフランス語を聞くときは、通常のフ
 ランス人ほどは聞き取れない。
  「何をやってるの? うるさいんだけど!」と注意し
 て、 テレビのナレーションに耳を集中させた。
  番組が終わるや、「これは黙って見過ごせない」と、
  感情がホットなうちに話を聞いてくれそうな人三、四
 人にメールを送った。
  その中には昭和史研究の権威である中村粲先生も含ま
 れていた。
  私がこうして原稿を書いているのは、 中村先生の「N
 HKウオッチング」を担当する「正論」の 編集者から執
 筆依頼があったからだ。
  そこで私は執筆の準備のために、番組のHPを読み、
  番組終了直後に出たDVDを入手し、
  番組のチーフプロデューサーにメールで質問状を送っ
 たのである。
  ■残忍非道に描かれた日本人
  さて、問題の番組の内容を紹介したい。
  観ていて一番ショックを受けた箇所は、中国大陸で、
 日本の軍人が住民と思われる女子供を縛って、生きたま
 ま土に埋めてゆく場面である。
  それも再現フィルムとは思えない古い白黒の ドキュメ
 ントフィルム仕立てであった。
  「仕立て」とあえて言うのは、役者の質のせいか、ど
 ことなく臨場感が薄かったからだ。
  私は冷や汗をかきながら、ご近所や知り合いのフラン
 ス人がこの番組を観ていないことを強く願った。
  他にも惨い描写が満載。
  フィリピンのバターン半島で捕虜を飢餓状態のまま 百
 キロ行進させたと言われる「バターン死の行進」の再現
 映像では、倒れた捕虜を日本兵が刀で脅す描写があった。
  日本兵の形相は、安直な映画に出てくる未開の人食い
 人種さながらであった。
  この番組では、欧州やロシアを扱うときには基本的に
 記録映像を使うのだが、
  記録映像が少ないためだろうか、
  日本を扱うときは再現フィルムという作り物が多く混
 ぜられていた。
  近所に住むフランス人女性は
  「自分の父親は、かつての仏領インドシナで日本軍の
 捕虜になったけれども、
  辱めを受けることなくまっとうに扱われたと話してい
 た」 と私に語ってくれた。
  連合国側に住んでいながら、
  人種的に卑屈になることなく暮らしてゆけるのは、
  昔の日本の兵隊さんが真面目に任務を遂行してくれた
 おかげなのだ。
  それなのに、なんだ、この番組は!
  レイシズムではないか!と血が逆流する思いであった
 が、
  日本を貶めるこれらの映像がNHKから提供されたと
 いうことは、
  その時点ではまだ確認できていなかった。
  ナレーションにもあきれ果てた。
  「パプアニューギニアでは苦戦を強いられた。
  蚊、赤蟻、蛇、日本人(日本軍ではなくて、日本人で
 すよ!)が厄介だった」
 と蚊や蛇と日本人を同列に並べる。
  日本の子供たちが無邪気にチャンバラをしている場面
 を映して、
  「ガキの頃から殺し殺される遊びを通じ、
 命を賭して戦うブシドーの精神を学んでゆく」とくる。
  さらには、軍人が畏まって整列しているところに、
 昭和天皇が騎乗で現れる映像や、皇居の前で土下座する
 日本人の映像に
  「当時は現人神であったエンペラーに、
  日本国民は自らの命を投げ出すのも厭わなかった」と
 いうナレーションを重ねる。
  パリ近郊のムードンという日本人が自分しかいない地
 域に暮らす私にとって、
  テレビでこんな場面を次々と流されては穏やかでいら
 れるはずもなかった。
  番組の冒頭もひどいものだった。
  旭日旗が画面いっぱいにはためき、「予告なしの真珠
 湾攻撃」が始まる。
  ここで紹介されるのは、
  日本人パイロット三十人とアメリカ人二千五百人が、
 死亡したという捏造された数字。
  さばを読んで上増ししている数字にも一言もの申した
 いのだが、
  何よりもアメリカの一般市民が犠牲者となったような、
 つまり日本が無差別爆撃をしたような印象を与えるのは
 断じて不当である。
  さらに奇襲攻撃のフィルムを見せた後で、
 「米国は日本の石油供給源を止めました」とナレーター
 が言う。
  これでは時系列が逆ではないか。
  『日本悪玉論』は、こうして作られてゆくのである。
  そうそう、日本の戦闘機がアメリカに追撃されて
 何機も海に沈む映像のバックに尺八の音楽が流れるのも、
 どこか日本を侮蔑している印象を受けた。
  この音楽の担当者は誰かと、
 DVDのクレジットを見ると「Kenji Kawai」とあった。
 カワイさん、
  これ、あなたの嗜好ですか?一つ一つあげていけば本
 当にきりがない。
  冒頭にも書いたが、
  そもそもは、愚息の学校の先生から推薦されたから観
 たわけだが、
  何人のよい子がこれで「教養」を身につけるのだろう。
  卑劣な日本人の残虐非道な映像を、
  先生のお墨付きで観せられたのだからたまったもので
 はない。
  高校を転入してまもない愚息は
  まだクラスメートとも馴染んでないだろうに、大丈夫
 だろうか。
  翌日は、登校するわが子の心細げな後ろ姿を、
  ため息交じりに見送るしかなかった。
  ■資料映像はNHKから
  冒頭に目にした「NHK」の三文字は見間違いだった
 のか、
  最初は思い直したりもしてみた。
  なにしろ、膨大なアルファベットが川のせせらぎの如
 く
  画面の上から下に流れていたので、勘違いということ
 も大いにありえる。
  あるいは、別の組織の頭文字が偶然「NHK」であっ
 たのかもしれない、と。
  ただし、Kはおおよそフランス語では使われないから
 英語圏である。
  するとN=National? Native? H=Human?
  Huge? K=Knife? King? Kingkong?。
  ともあれ、このような「教養番組」を
  ゴールデンタイムに地上波で流されてしまったことへ
 の
  心のダメージは大きく、思い切って日本大使館にも手
 紙を書いた。
  今年六月には、飯村豊大使に代わって斉藤泰雄大使が
 着任している。
  斉藤大使は、鈴木宗男氏が辻元清美氏に
  「疑惑の総合商社」と因縁を付けられた頃、ロシア大
 使の席にあり、
  国会証人喚問で巷にデビューした人物である。
  私は全国放映されたその映像を見ていないが、
  フランススクールなのにロシア大使になって大変だっ
 たということを、
  確か佐藤優氏の書かれた文章で読んだ記憶があった。
  つまり、ここフランスでは水を得た魚のように
  大活躍してくださるであろう期待の大使であったわけ
 だ。
  ところが、「残念」と頭を垂れざるを得ない。
  私の「何とかしてメール」への返信はいまだにない。
  今年の七月には、独仏中の共同で製作された
  南京虐殺映画「リーベの日記」に対して、
  「事実と異なるから検証して抗議してほしい」
 と手紙を書いて大使館に届けたが、このときも無反応で
 あった。
  生来、粘着質の私は、愚息に頼んで番組に関するサイ
 トを検索させたら、
 「Apocalypse」のサイトが存在した。
http://programmes.france2.fr/apocalypse-seconde-guerre-mondiale/
  最初に登場する世界地図の画面の日本の所をクリック
 すると動画が出てくる。
  その下の説明文に、
  《皇軍は、北京入場前に南京で三十万人虐殺…》と書
 かれてある。
  別の画面に入ると、共同制作者が列挙され、NHKも
 その名を連ねている。
  以下
  http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-521.html
  日本のマスコミは日本人の知らないところで、
  世界に捏造をばら撒き、さらに
  本当のことは日本人に何も伝えてこなかった。
  いつまでも、お人よしではいられない。。。
..
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2016年9月4日日曜日

(増補版)413E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1885年5月~1885年6月)

題:(増補版)413E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1885年5月~1885年6月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1885年5月16日、シェークスピア『ヴェニスの商人』、大阪
 の戎座(えびすざ)で本邦初演。
  大阪戎座での中村宗十郎一座による《ベニスの商人》
 の宇田川文海による翻案《何桜彼桜銭世中(さくらどき
 ぜにのよのなか)》が最初。
  その後いくつかのシェークスピア作品が、
  いずれも部分的に、翻案によって上演された。
  1883年のC.ラム《シェークスピア物語》に依拠した井
 上勤の翻訳《人肉質入裁判》がある。
  因みに、日本の法律では、「肉は切り取っても良いが、
 契約書にない血を1滴でも流せば、契約違反として全財産
 を没収する」という理屈は成立しない。
  人間(肉)に血液が付随する事は必然であるため、民
 法第87条の1の規定によって血液は肉の従物とみなされ、
 2の規定によって、肉を切り取るという契約がなされた以
 上は当然ながら血が流れるから。
  また、「借りた金を返すことが出来なければ、肉1ポン
 ドを与えなければいけない」という契約は、民法第90条
 の「公の秩序又は善良の風俗に反する事項を目的とする
 法律行為は、無効とする」との規定に基づいて、成立し
 ない。
1885年5月18日、監軍部条例(東部、中部、西部とする)
 鎮台条例を改正する。
  監軍本部条例を廃止し、監軍部条例を制定する。
  監軍部(かんぐんぶ)は、日本陸軍の組織。
  二つの同名称の組織があり、第一次は師団司令部の前
 身といえるもの、
  第二次は教育総監部の前身。
1885年5月19日、品川硝子製作所を貸下げていた稲葉正邦、
 西村勝三へ払下げる(2月21日説あり)
1885年5月20日、各鎮台の歩兵連隊を旅団に編成する。
  歩兵連隊(ほへいれんたい)とは、歩兵を主とする連
 隊。
  1882年の軍備拡張方針が決定すると、軍隊編制の改編
 が進められて、旅団・師団の常備兵備化と編成が目指さ
 れた。
  そして、1885年の監軍本部条例と鎮台条例、および、
 参謀本部条例の改正における出師準備・出師計画の職務・
 業務を中心に改正された。
  そして、さらに、1884年の夏以降の出師準備管理体制
 の萌芽を経て、
  また、以上の監軍・鎮台・参謀本部の三つの官衙の整
 備をふまえて、
  1886年の鎮台出師準備書関係の仮制定や陸軍召集条例
 の制定などによって、最初の第一次的な出師準備管理体
 制が成立して行った。
  (参考)官衙:かんが、役所、官庁。
      出師:すいし、軍隊を繰り出すこと。出兵。
      兵備:へいび、万一の大切な防衛などの戦い
       に備えて兵員・兵器などを備えておくこと。
1885年5月21日、東京・浅草公園内に花屋敷が開園した。
  東京都台東区の浅草公園にある遊園地。
  江戸後期に植木屋森田六三郎が開いた草花の陳列場に
 始まり、明治中期から遊園地となった。
1885年5月23日、内務省達で、政府は、新聞が、他の新聞
 (欧文を除く)に掲載されている論説を、10日以内に転
 載する時は、必ず原新聞の持主、または、社主の承認を
 要する旨を通達した。
1885年5月30日、 預金規則を制定
  大蔵省に初めて預金局を設置する(国家経済の運用と
 利殖を計る)
  1869年(明治2年)に、大蔵省において、紙幣、及び、
 公債証書の回収準備のために、
  不用品売却代金・その他雑収入による一種の積立金が
 創設された。
  1872年、「準備金規則」を定め、準備金と改称され、
  1876年、大蔵省国債局は、官庁その他からの受け入れ
 現金を、預金として整理した。
  郵便貯金は、当初、民間銀行に預託されていたが、郵
 便預金が預金部の中心的な資金であった。
  1878年から、郵便貯金は、大蔵省国債局に預けられ、
 運用されることになり、
  これによって、預金部が事実上創設された。
  駅逓局預金の他、社寺積立金、印刷局積立金、米国政
 府返還下関金、シーボルト恩賜金の特殊預金もあったが、
 いずれも特別の根拠法規はなかった。
  預金利率については、駅逓局預金では、預金利率より
 低い利率だった。
  その他の預金では、個別に規定された。
  一方、運用については、当初は、公債、金銀銅地金、
 官庁銀行などへの貸付けなどであったが、
  1882年以降、原則として公債のみであった。
  1885年、預金規則の制定により、預金の根拠を与え、
 範囲を明確化し、
  駅逓局預金、特別会計の余裕金、積立金を預金部に集
 中させた。
  預金部の原資について、郵便貯金が低調であった1890
 年頃を除き、6割~8割は郵便貯金であった。
  (高橋洋一氏、財投改革の経済学より)
1885年5月31日、富山市の大火(ほとんど全滅)
  6000戸が焼失(600戸説あり)
  富山市街大火、5,900 戸余焼失の記述もあり。
1885年5月、伊藤博文が、官制改革を主張し、三条実美太政
 大臣らと協議する。
  この頃、この年の12月に予定されている内閣制度への
 移行が意識の中にあった。
  そして、初代内閣総理大臣としては、三条実美と伊藤
 博文が有力だった。
  大久保の死後、伊藤博文は、事実上の宰相(さいしょ
 う、総理大臣)として明治政府を切り回し、内閣制度を
 作り上げていた。
1885年5月、佐賀県で奇病が流行した。
  後に、肝臓ジストマと判明した。
  肝臓ジストマは古い呼び名で、肝吸虫(かんきゅうち
 ゅう)という。
  この肝吸虫が、人を含む、幅広い哺乳類を終宿主とし
 て、肝臓内の胆管に寄生する(吸虫の1種)。
  肝臓内の胆管に寄生している成虫は、平たい柳の葉の
 ような形をしており、
  体長10〜20mm、体幅3〜5mmで、雌雄同体。
  糞便とともに外界に出た卵は、水中に流出しても孵化
 せず、
  湖沼や低湿地に生息する微小な巻貝の1種・マメタニシ
 に摂食され(第一中間宿主)、
  ここで、体内で変態し、幼生となり成長する。
  幼生は、体外に出て、水中に泳ぎだす。
  そして、第二中間宿主の淡水魚に達し、鱗の間から体
 内に入る。
  淡水魚は、コイ科を中心にモツゴ、ホンモロコなど80
 種。
  コイ科以外のワカサギの報告もある。
  こうした魚を、人、犬、猫、ねずみなどが生で摂食す
 ると、小腸で幼虫となる。
  そして、胆管に入り、肝臓内の胆管枝に定着する。
  23日~26日かけて成虫となり、産卵を開始する。
  成虫の寿命は、20年以上に達する。
  症状としては、肝吸虫の成虫が、寄生する胆管枝を塞
 栓してしまうため、
  多数個体が寄生すると、胆汁の鬱滞と、虫体の刺激に
 よって胆管壁と周囲に慢性炎症をきたす。
  さらに、肝組織の間質の増殖、肝細胞の変性、萎縮、
 壊死が進行し、肝硬変へと至る。
  そのため、食欲不振、全身倦怠、下痢、腹部膨満、肝
 腫大をきたし、
  やがて、腹水、浮腫、黄疸、貧血を起こすようになる。
  ただし、少数個体のみの寄生では無症状に近い。
  診断・検査は、胆管の拡張、肥厚が起こるため、逆行
 性膵胆管造影、CT、エコーなどで診断すると、肝内胆管
 の拡張像、異常が認められる。
  確実な診断には、虫卵の確認が必要であるため、糞便
 検査(ホルマリン・エーテル法やAMSIII法などの沈澱集
 卵法を利用)や十二指腸ゾンデ検査が行われる。
  芸術家にして美食家の北大路魯山人の死因はこれと言
 う説がある。
  タニシを食べるときは十分火を通して食べるべき・・、
1885年6月2日、京都で、琵琶湖疎水の起工式
  琵琶湖の湖水を京都市へ流すために作られた水路(疏
 水)、国の史跡。
  日本の伝統が脈々と流れる、大事な京の町を守る水の
 流れである。
  第一疎水は、1890年に完成し、
  第二疎水は、1912年(明治45年)に完成している。
  水道水(54.8%)、その他(水力発電、灌漑、工業用
 水)
  水力発電の電気で、京都電気鉄道(京都市電)が走っ
 た。
  そして、この水は、伏見・宇治川へと結ばれている。
  インクラインなどを駆使して、日本の明治の技術者は、
 運輸・運行の役も果たさせた。
  インクラインで、船が線路の上の台車に載せられ運ば
 れた。
  優秀な技術で成就したこの水は、京都の貴重な文化遺
 産の防火用水となり、
  また、名園・庭園の池にも引き入れられた。
  禁門の変において、京の町の大半が焼け落ち、また、
 東京遷都もあって、京都は衰退した。
  第三代京都府知事の北垣国道氏が、多目的に利便性の
 ある疎水を計画した。
  そして、若き技術者、工部大学校を卒業したばかりの
 田辺朔郎に任じて、設計計画させ、
  そして、工事における監督にもあたらせた。
  第一疎水が完成し、1890年4月9日に、明治天皇陛下、
 昭憲皇太后陛下の御臨幸を仰ぎ、竣工式が挙行された。
  水力発電は、当初なかったが、田辺らのアイデアだっ
 た。
  日本初の営業用水力発電となった。
  取水量は、23.65立法メートル/秒
  現在、この琵琶湖疎水を通して年間・2億トンの湖水を
 得ている。
  この感謝金が、京都市から「疎水感謝金」として、年
 間2億2000万円が、滋賀県へ支払われている。
  滋賀県は、この感謝金を、「山の植林・間伐・林道整
 備など、水源地となる山の保護事業」に支出している。
  この美しい貴重な京都・人類の遺産であるの町へ、ア
 メリカは原爆を投下しようとしていた。
1885年6月2日、文部省東京図書館、東京教育博物館と合併
 し上野へ移る。
  東京書籍館は、蔵書は文部省から交付された約1万冊を
 基礎として、
  日本で初めての納本図書館として、すべての国内出版
 物を蔵書に受け入れた。
  閲覧は、再発足時から無料となるが、西南戦争の影響
 による財政難から1877年に廃止が決定され、
  東京府に移管されて、学務課が管轄する東京府書籍館
 となった。
  しかし、東京府も財政難で運営困難となり、
  1880年7月には、文部省に再度復帰し、名称を東京図書
 館に変更した。
  そして、東京図書館は、1885年6月に、東京教育博物館
 (国立科学博物館の前身)と合併して、上野に移転した。「
.
  (今日の言葉)
.
  題:日本は、「戦争不拡大」が方針だった。
.
1932年(昭和7年)1月28日、第一次上海事変(だいいちじ
 シャンハイじへん)が起きた。
  中華民国の上海の共同租界周辺で、日本と中国の両軍
 が衝突した。(~1932年3月3日)
  当時、中国は国民政府の中華民国で、
  この国(政府)は、1971年まで、国際連合安全保障理
 事官常任理事国であった。
  そして、この上海共同租界の旗には、数カ国が描かれ
 (イギリス、アメリカ、オランダ、ドイツ、ロシア、デ
 ンマーク、イタリア、ポルトガル、スエーデン、オース
 トリア、スペイン、フランス)ている。
  そして、ラテン語で「全て(の国)が一つの仲間に」
 と記されている。
  しかしこの国際共同租界には日本も居た。
  旗の様に、日本は「つまはじき」されていた・・、
  (アメリカが主導する、日本をなんだかんだと潰そう
 としていた)
  第二次世界大戦のころ、日本は「ABCD包囲網」でバッ
 シングを受けたが(A:アメリカ、B:イギリス、C:中国、
 D:オランダ)、
  すでに、この頃から日本包囲網は出来ていた。
  この中華民国へ、アメリカは、武器支援をしている、
 資金援助もしている。
  因みに、この共同租界は、1842年の南京条約にもとづ
 いて出来ていた。
  また、この地域周辺には、約2万7000人の日本人が在住
 していた。
  各国は、居留民の警護を目的として軍を駐留させてい
 て、
  日本も、1000人を駐留させていた(そして、その後、
 険悪状況によって人数は増えて行く)
  日本と各国との関係は「すこぶる良好にして・・」と、
 表現される様に平穏であった・・が・・、
  そして、「各国人も、支那側の横暴なることを熟知し、
 日本に対し同情セリ」という情報もある様に・・、
  そして、この様な状況の中で、1932年になって、上海
 市郊外に、十九路軍(国民党軍)が表れた(アメリカの
 支援を受けていた軍だ)。
  十九路軍は、3個師団で3万の兵力だった。
  共同租界の市参事会は、5年前の上海クーデターの国民
 党軍の強暴なる状況を思い起こさせた。
  前年の満州事変(1931年9月)以後、反日感情があった。
  租界には、抗日ポスターが貼られていた。
  その抗日行動が、だんだんと大きくなって行った。
  排日貨運動も起きた。
  これ等は、すべて国民党のプロパガンダだった。
  この国民党の背後にはアメリカが居た。
  軍事顧問のアメリカ司令官も居た。
  日本への抗日攻撃に対し、日本政府は、国民政府に抗
 議をしたが事態は改善されなかった。
  日本政府は、居留民に引き上げを勧告し、女性や子供
 たちが一時帰国し、帰国人数も増加した。
  マスメディアが使われ、加わって、日本への攻撃に激
 しさが加わった。
  中国の人々も、プロパガンダに煽(あお)られた。
  托鉢していた日本人僧侶や、日本人が襲撃されたりし
 た事件も起き出した。
  日本人が経営するタオル工場が、50人~60人の中国人
 に襲撃されたりし出した。
  つい最近も、煽られた中国の人が、中国にある日本の
 百貨店などを襲ったが・・その様なことが起きた。
  この様に、民間人レベルの事件が拡大して行った。
  そして、軍事衝突へと行き着いて行く、発展する。
  1932年1月28日、小競り合い的な、日本と中国との間
 で、軍事摩擦・軍事衝突が起きる。
  そして、この共同租界周辺で、この事変は起きた。
  日本は受け身だった、自衛だった。
  白川義則大将は租界にいた日本の上海派遣軍で守った。
  中国の国民党軍(十九路軍)が攻撃して来たが、白川
 大将は、撃退した。
  しかし、深追いはしなかった。
  そして、停戦した。
  この行動は、国際連盟でも評価された(国際的評価の
 下の行動)。
  これは、平和主義の昭和天皇陛下が、白川大将へ事件
 の不拡大を言われており、
  また、「国際連盟との衝突にならない様に」と伝えら
 れていた戒めを守ったからだった・・(これが後に明ら
 かとなった)。
  しかし、この後、国民政府軍(蒋介石軍)は、1936年
 12月の西安事件の後に、第二次国共合作によって、一丸
 となって、大々的に、日本攻撃を準備し、
  この時、日本は、条約を順守して、わずかな兵士しか
 上海にいなかった。
  しかし、中国軍は、このわずかな2500人の日本の上海
 駐留軍へ、十数万の大軍で、先制攻撃を仕掛けて来た。
  この為、日本も対応し、自衛し、上海の戦闘は泥沼と
 なった。
  最終的に、4万もの日本兵が死傷するという大きな死傷
 者を出した。
  これによって、戦争は拡大方向へ進むようになった。
  南京へも拡大して行く、南京進撃の因となった。
  陰で、アメリカが中国へ兵器の供給をしていた。
  条約で決められたとおりにしているこの日本の租界へ、
 アメリカに支援されて、恵まれた準備を整えた大軍・12
 万の兵で、圧倒的兵力差で攻めて来た。
  上海の日本は、自衛の戦いを、苦しい戦いを強いられ
 た。
  なお、この中国の大軍の背後には、さらに、アメリカ
 に支援された30万の兵の包囲網が形成されていた。
  中国の泥沼的に続く戦いは、この無限に続くアメリカ
 の武器支援により形成された。
  ルーズベルトが、「第二次世界大戦を作った」と言っ
 たが、
  アメリカは、それより以前から、この上海の戦いの様
 に、武器支援をしたりして、戦争へ行く方向へ行動を行
 なっていた。
  アメリカは、日本人のアメリカへの移民も不法だとい
 う法律を作って、日本を、そして、日本人を差別してい
 た。
  この様な人種差別の行為も、戦争の大きな原因だった。
  当然、日本は、その逆で、その様な法律は作っていな
 い。
  その様な卑劣な事はしていない。
  本当に卑劣な事を、色々やるアメリカだった。
  アメリカが、背後で武器支援して始められた、この支
 那事変が、日中全面戦争となり、
  そして、第二次世界大戦へとつながって行った。
  当時、日本には、戦争を拡大しようという考えは、毛
 頭なかった。
  西欧諸国も租界に兵を置いたが、この上海の日本の租
 界が、アメリカの支援を受けた中国軍が攻めて来た事か
 ら始まった。
  国際連盟でも評価された様に、日本は戦争が始まった
 としても「戦争不拡大」が方針だった。
  ニューヨークタイムズの記者が・・、
  「(日本の悪口のルーズベルトの)隔離声明以来、
  ルーズベルト大統領は、日本の敵意を煽り、枢軸側へ
 追いやるために、あらゆる手段を駆使している」・・の、
 報道の通りの行動だった。
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