ページビューの合計

2015年4月25日土曜日

(増補版)82C2/3:気になった事柄を集めた年表(1577年12月~1578年6月)

題:(増補版)82C2/3:気になった事柄を集めた年表(1577年12月~1578年6月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1578年頃、別の説:秀吉が、信長の4男・於次丸(於継丸で
 はない)を養子にもらう。
  この頃、秀吉は、信長に願い出て、信長の4男の於次丸
 (おつぎまる)を養子に貰い受けた。
  於次秀勝と言われる。
1578年1月、信長が、正二位に昇叙した。
1578年2月、播磨国(兵庫県南西部)三木城の別所長治が
 叛いた。
  別所長治は、東播磨8郡を治めるこの地域の最大の勢
 力であった。
  隣接する摂津(大阪)の三好家に対抗するため、いち
 早く信長に属した。
  信長の中国征伐でも先手を務めて、播磨一国を賜る心
 づもりでだった。
  しかし、この長治の思惑とは裏腹に、秀吉が、中国征
 伐の責任者として播磨に乗り込んで来た。
  このままでは、思っていた望みはかなうまいと思った。
  一方、毛利輝元に庇護されていた足利義明は、幕府崩
 壊後も地方の大名への依然として権力を保持しており、
 各地に檄を飛ばし、第三次信長包囲網を形成していた。
  長治は、その様な義昭の調略を受け、突然、毛利方へ
 寝返った。
  すると、長治が影響力を持っていた東播磨周辺の豪族
 も長治に同調し、東播磨の豪族が一斉に信長に叛旗を翻
 した。
1578年3月、信長の別所長治討伐命を受けた秀吉は、勝家と
 の意見が合わず、無断で戦線離脱した汚名を返上すべく、
 この命に取り組んだ。
  まず、長治の叔父・別所重棟を呼び、長治説得を命じ
 た。
  しかし、その説得も効が無く、秀吉は、三木譲攻撃を
 決定した。
  秀吉は、黒田官兵衛の進言を入れ、姫路城から書写山
 に本陣を写し、3月29日に、三木城を包囲し、攻撃を開始
 する。
  一方、毛利輝元も、長治寝返りを好機として、一気に
 播磨制圧をしようと、陸路と海路の両面から、播磨へと
 侵攻を開始した。
  そして、4月中旬から本格参戦した。そして、上月城を
 包囲した。
1578年3月13日、上杉謙信が没す(1530年~1578年)
  毛利の下に居る義昭は、1576年に、反信長勢力を糾合
 した。
  義昭の仲介で、1576年5月には、甲州・相模・越後の
 「甲相越一和」が試みられており、
  謙信は、信長との戦いで苦境に立たされていた本願寺
 と和睦した。
  これによって信長と謙信の和睦は、破綻した。
  謙信が七尾城(石川県七尾市)を攻めていた1577年、
 援軍要請を受けていた信長は、七尾城を救援する軍勢の
 派遣を決定し、謙信との戦いに踏み切った。
  信長の大軍が動いた。
  この軍は、途中、秀吉と、総大将の勝家との意見が合
 わないで、秀吉が引き上げるなどの足並みの乱れも生じ
 たりしていたが、謙信の大軍とのし烈な戦いも発生した
 りした。
  色々な城を巡っての戦いがあり、戦上手の謙信に、柴
 田勝家は撤退した。
  謙信軍は、撤退する勝家軍を追撃し、1577年11月3日に、
 織田軍を撃破した(手取川の戦い・石川県白山市の川)。
  そして、謙信は、約1ヶ月後の1577年12月18日に、春日
 山城(新潟県上越市)に帰還した。
  年が明けた頃の予定では、1578年3月15日に、遠征を開
 始する予定だったらしい。
  しかし、その出陣予定の6日前の3月9日に、謙信は、遠
 征準備中の春日山城で倒れた。
  そして、その4日後の3月13日、この日の未の刻(午後
 2時)に、急死した。49歳だった。
  遺骸は、鎧を着せ、太刀を帯びさせて、甕(かめ)の
 中へ納め、漆で密封した。
  この甕は、上杉家が、米沢に移った(1601年8月)後も、
 米沢城の本丸の一角に安置されたという。
  明治になって、歴代の藩主が、上杉家の御廟へ移され
 たという。
1578年4月、信長が、右大臣を辞した。
  信長が、右大臣と右近衛大将の両官を辞した。
  この様な官位は、もはや必要なしと見たのだろう。
  また、性格として貴族風にはなじめないとも感じたの
 だろう。
  また、官位に伴う煩わしい儀式や交際をつとめて避け
 ようとしたのだろう。
1578年6月21日、救援の秀吉が退陣し、信長方の上月城(兵
 庫県佐用郡作用町)が落城した(尼子氏が滅ぶ)。
  上月城を攻める毛利勢と、上月城を救援に駆け付けた
 秀吉勢が、上月城下で戦った。
  秀吉は敗れ、書写山(兵庫県姫路市)に陣を移すこと
 になった。
  後詰めの援軍によって助けられる見込みがなくなった
 上月城は、毛利氏に攻められ、簡単に攻め落とされてし
 まった。
  尼子勝久は自殺し、山中幸盛も捕らえられ、移送の途
 中に殺された。
  秀吉軍は、信長の命令によって三木城攻めに向かうた
 め撤退したのだという。
1578年6月29日、秀吉が、播州・三木城(兵庫県三木市)を
 攻めた。
  この年の初め、信長に味方していた三木城の別所長治
 が、毛利輝元と通じて、信長に反旗を翻(ひるがえ)し
 た。
  この日、秀吉は、三木城攻めを始めた。
  この戦いは予想以上に長引いた。
  1580年1月までかかった。
  別所長治以下、主だったものの切腹と引き換えに、城
 兵の命は助けるという条件で開城する事になった。
  城主・別所長治が、1580年2月2日に、切腹し、長かっ
 た三木城攻めの幕は閉じた。享年23歳。
   辞世は、
  「今はただ うらみもあらじ 諸人の いのちにかは
 る 我が身とおもへば」
 ..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009

2015年4月23日木曜日

(増補版)81C2/3:気になった事柄を集めた年表(1575年11月~1577年12月)

題:(増補版)81C2/3:気になった事柄を集めた年表(1575年11月~1577年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1575年11月28日、織田信長の長男・信忠が、信長から家督
 を譲られた。
  信長は、形式上は隠居の身となった。
  信長は42歳。「人生五十年」を意識していたのか?
  この信忠、信長の後継者としてしっかりやっていた。
  この家督を譲られてからの7年後の1582年6月2日に、本
 能寺の変に会う。
  信長と共に、備中高松城を包囲する羽柴秀吉への援軍
 に向かうべく、この日、京都の妙覚寺に滞在しており、
  光秀が、信長を強襲したと知るや救援に向かうが、信
 長自害の知らせを受け、光秀を迎え撃つべく諸将らと二
 条新御所に移動した。
  そして、わずかな軍兵と共に籠城し、善戦したが、そ
 の効なく、明智軍に攻め寄せられ、自害した。
1576年、大砲が伝来した。
  キリスト教宣教師から火縄銃や硝石などと共にフラン
 キ砲を輸入したのが、日本での最初の大砲と言われてい
 る。
  キリスト教宣教師は、武器の供給役だった(死の商人)。
  この時、買ったのはキリシタン大名と言われる大友宗
 麟。
  宗麟は、この武器頼みでキリシタン宣教師に近づいた。
1576年、織田信長が、租税を軽くし、民力を養った。
1576年、信長が、1569年以来続けてきた皇室領・廷臣量の
 調査を終えて領有を確認した。
  これにて皇室の財政は一応安定した。
  また、1571年以来続けてきた京都市民からの利米で、
 皇室財政を賄(まかな)う事は止めた。
1576年1月、この頃から丹波長秀を総普請奉行にして、安土
 築造工事が始められた。
  3年かかった(1579年5月、完成)。
1576年2月23日、信長が、安土城の築城のため、岐阜から移
 る。
  織田信長は、安土城を築くにあたって、西洋の法を参
 考にし、摂取した。
  そこで、諸国が模倣し、城制が大いに変わった。
  西洋諸国は専ら鉄砲で攻守する。
  それで、築城法が大変革した。
  吉田松陰は、信長を西洋式の軍事技術、特に、築城術
 の先駆的な採用者とみなしていた
  松陰は、信長を高く評価していた。
1576年~1579年、織田信長は、「天下布武(てんかふぶ)」
 を掲げた。
  そして、安土山(標高199メートル)に、安土城を天下
 取りの布石として築いた。
  しかし、本能寺の変(1582年)の後に焼け落ちた。
  昭和の干拓事業で、安土山から湖岸まで6キロほど離れ
 たが、当時は、周辺が湖に囲まれ、東山道などを押さえ
 る水陸の要衝だった。
  天守は、5層6階地下1階で、宣教師のルイス・フロイス
 は、「難攻不落の城をもった新市街を築き、自らのあら
 ゆる栄光を発揮せんとした」とある。
  税の免除や、自由交易を促す楽市楽座などの施策で、
 町は急速に発展した。
  また、フロイスは、「住民は気高く、その気高さは、
 他のあらゆる市(まち)を凌駕(りょうが)していた」
 と讃えた。
1576年2月、義昭が、備後へ移り、毛利へ呼び掛けた。
1576年4月、信長が、石山本願寺を攻撃(本願寺が再起)。
  信長が、明智光秀らに石山本願寺を攻撃させたところ、
 本願寺は、毛利氏からの兵糧などの支援を受け、木津川
 河口の戦いでは、織田水軍が毛利水軍に敗れた。
  ここでの戦いは、本願寺との戦いと言うより、対毛利
 に拡大され、秀吉は、信長から中国経略という大役を仰
 せつかり、「中国方面軍司令官」というポストに付けら
 れた。
1576年4月、安土の城壁と天守閣の造営。
  この月から安土の城壁と天守閣の造営が始められた。
  尾張・美濃・三河・越前・若狭・畿内諸国の侍、京都・
 奈良・堺の大工・職人が召し寄せられ、莫大な石材が集
 められた。
  近郷の村々は、家ごとに土木用具や塀のすさの材料ま
 で持って徴発使役された。
  こうして、「昼夜、山も谷も動くばかり」の大動員で
 あった。
1576年5月、信長が、謙信と和睦。
  信長と謙信の間を見抜いたからか、本願寺は、1575年
 半ば頃から、次第に謙信に近づき、1576年5月に、加賀一
 向一揆と共に謙信と和睦した。そして、出馬しての西上
 を求めた。
  加賀門徒との和解は、越中門徒との和解となり、年末、
 謙信は能登に入った。
1576年5月、信長が、毛利と絶縁。謙信は本願寺と結ぶ。
1576年7月、信長が、毛利水軍に破られた。
1576年7月15日、秀吉が、京に入る。
  この日に、秀吉は、長浜を出発して京に入っている。
  そして、得意の調略で姫路城の小寺孝高を寝返らせて
 いる。
  小寺孝高は、赤松氏の一族で、当時、播磨御着城(ご
 ちゃくじょう)の城主・小寺則職(のりもと)の重臣で、
 後の秀吉の懐刀と呼ばれた軍師・黒田官兵衛孝高(如水
 と号す)である。
1576年10月14日。秀吉の子・秀勝が死ぬ。
  秀吉の子・秀勝の死は、秀吉を大いに悲しがらせた。
  秀吉は、秀勝の死んだ日に、城下の徳勝寺と知善院に
 寺領30石を与えて、その菩提を弔(とむら)わせた。
  また、秀勝の墓のある妙法寺にも秀吉の朱印状が残る。
  秀勝という名が多いので、この子は、石松丸秀勝とい
 う。
1576年10月14日、信長からもらった養子・於継丸。
  秀吉は、我が子・秀勝の死での落胆が大きく、信長は、
 秀吉へ10歳の於継丸を養子としてあげる。
  秀吉は、この子に秀勝の名を付けさせた。
  秀吉は、この於継丸秀勝を、自らの後継者としようと
 した。
1576年11月、信長が、右近衛大将のまま正三位内大臣にな
 った。
  信長は、この月にはさらに、廷臣・門跡の所領を増し、
 また、山城・大和にある興福寺領を安堵した。
  こうして、信長は、単に、朝廷に取り入ったのではな
 く、朝廷や貴族・社寺の保護者になっていった。
1577年、南蛮寺が京都に建った。
1577年2月、信長が、紀伊雑賀一揆を討った。
1577年8月、秀吉の加賀攻め。
  秀吉は中国征討から呼び戻され、加賀攻めに加えられ
 た。
  この時、柴田勝家と意見が合わず、秀吉が戦線を離れ
 るという様な事もあった。
1577年8月、松永久秀が叛く。
1577年9月、上杉謙信が、加賀に柴田勝家を破る。
1577年9月、上杉謙信が、能登に凱旋。
  この月に、上杉謙信は、織田派と上杉派に分かれて内
 紛を続けていた七尾城を攻め落として、ほぼ能登を平定
 した。
  ついで、加賀に進んで、柴田勝家軍に相当な打撃を与
 えて能登に凱旋した。
  「(信長は)案外に手弱の様体(ようてい)」などと
 勝ち誇った。
  織田軍と最初の、そして、最後の衝突であった。
1577年10月、秀吉が、松永久秀攻め。
  秀吉は、信長の命を受けて大和信貴山城の松永久秀攻
 めに行く。
  この頃、信長は、四方に敵をかかえていた。
1577年10月、秀吉が播磨、明智光秀が丹波に入り、本格的
 に中国経略を始めた。
1577年11月、信長が、右近衛大将のまま従二位右大臣にな
 った。
  また、10月には、信長の長男・信忠もまた、従三位右
 近衛中将に叙任されて公卿に列した。
1577年12月3日、秀吉が、西播磨を平定した。
  秀吉は、松永久秀を滅ぼしたその足で、中国経略の拠
 点である姫路城に戻り、またたく間に、西播磨を平定す
 る事に成功した。
  ただ、上月城だけは容易に落ちなかった。
  そこで、自ら兵を率いて城を囲み、ついに、この日に
 落城させた。
  そして、ここに尼子勝久・山中鹿之介幸盛を入れた。
1577年、イギリスは、辺境は地の小国だった。
  その国が、海賊王フランシス・ドレークの掠奪した儲
 けから芽が出て来る。
  例えば、1577年に、海賊・フランシスは、イギリスを
 出航し、行く先々で強盗を働く、
  イギリスに、1580年に帰ってきた。
  その時、世界中から略奪して来た貨物の価は2億フラン
 に達した。
  エリザベス女王も分け前を貰って、大いに喜んだ。
  フランシス・ドレークに爵位を与えた。
  イギリス以前には、この様な同じやり方で稼いでいた
 ポルトガルやスペインだった。
  そして、この不埒(ふらち)な金を、さらに、キリス
 ト教が巻き上げていた。
  キリスト教会は、「来世は幸せになります」と来世の
 幸福を約束したり、「先祖が天国に行くことが出来ます
 ようにとりはからいます」と、先祖の天国行きの切符を
 売り言葉にして、この金を巻き上げた。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009

2015年4月22日水曜日

(増補版)80C2/3:気になった事柄を集めた年表(1573年9月~1575年11月)

題:(増補版)80C2/3:気になった事柄を集めた年表(1573年9月~1575年11月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1573年、小谷城の後日談。
  信長は、小谷城へ、何度も和睦の使者を出していた。
  そして、信長は、自身では小谷城を攻めることは出来
 なかったのか?小谷城攻めはいつも秀吉にさせていた。
  長政は、妻や子供のために和睦しても良いと考えてい
 たようだった。
  だが、父・久政は頑として聞き入れなかった。
  家の筋を通す父だった。
  義景の自刃を知った長政は、悟ったのか?「我らの3人
 の娘と共に生きてくれまいか。そして、我ら亡き後の浅
 井家の菩提を弔って欲しい」とお市を諭した。
  そして、長政自刃まであと1週間という8月25日に、長
 政は、お市の方へ「そなたは城を出て兄・信長の元に戻
 られよ」と妻の命の助かる道を思って言葉にした。
  和睦の勧めにも応じなかった小谷城、お市の方と子供
 たちが去った小谷城に、秀吉による熾烈な攻撃が始まっ
 た。
  秀吉軍は、険しい山を登り、あっという間に京極丸を
 占拠し、久政の居る小丸と、長政の居る本丸を分断した。
  お互いが連絡が取れず、孤立する中で、小谷城は落城
 した。
  また、秀吉の働きが目立った。
  この後、秀吉は城持ちの大名となる。
  秀吉は、山間地の城を嫌った。
  平地に城地を求め、琵琶湖畔の今浜に城を築いた。
  長浜城(別名:今浜城)、長浜と名付けたのは秀吉で
 あった。
  お市の方は、3人の娘と共に兄の信包(のぶかね)に預
 けられ。清州に住んだ。
1573年、秀吉が、信長から長浜をもらう。
  この地は、浅井氏の旧領である。
  お市の方は、秀吉を嫌ったという。仕方ない事である。
  当時、城下町は、敵の侵入を阻むため、カギの手や袋
 小路があったりして、道が入り組んで、分かりづらかっ
 たが、秀吉の長浜の城下町にはそんな複雑な道路はない。
  商業重視の街づくりをした。
  秀吉は、町の賑わいに主眼を置いていた。
  信長にとって、秀吉は良く働く武将であった。
  論功行賞として秀吉が貰った地は、すべて長政の旧領
 で、北近江の3郡を貰った。一国一城の主となった。
1573年、信長が、大船をつくる。(7月3日か?)
  信長が、鍛冶・大工・きこりを集め、長さ33間(約60
 メートル)、幅7間(約13メートル)、ろ100挺、ともに
 矢蔵を備えた大船を造り上げた。
  これは、湖上交通を確保するためのものだった。
1573年7月20日、羽柴藤吉郎と署名した文書の初見。
  この日の日付の、羽柴藤吉郎の初見文書のがある。
  柴田勝家の柴と、丹羽長秀の羽を貰った。
1573年7月23日、信長の望み通り「天正」と改元された。
  (20日説と28日説あり)
1573年9月、秀吉は、小谷城に一旦入ったが、今浜を長浜と
 改め、新しい城作りに着手した。
  その理由は、
  1、小谷城は、軍事的には良いが、領国経営の中心と
 しては好適ではない。
  2、長浜は、商品流通の面を重視していた土地だった。
  3、一向一揆対策のために良い地だった。
  4、国友の鉄砲鍛冶集団を直接傘下に治められた。
1573年9月、信長が、長島の一向一揆に破られた。
1573年12月、信長に、松永久秀が降りた。
1573年12月1日、沢庵が生まれた(1573年~1645年)
  吉田兼好ではないが、うたかたの様に江戸時代の初期
 に活躍する沢庵が生まれた。
1574年、書院造り:玄関・床の間・付け書院・違い棚・唐
 紙障子・欄間(らんま)・縁側などを備えた座敷などは、
 禅宗建築に伴って入ってきた書院造であるが、近世初頭、
 安土桃山時代に宮殿建築に取り入れられた。
1574年、秀吉が、近江長浜の大名になった。
1574年、豪姫が、生まれる。
  前田利家とまつ夫妻の3番目の子だが、子供の出来ない
 秀吉・おね夫妻は、生まれる前から性別を問わず、貰い
 受ける約束をしていた。
  産声を聞くと、秀吉はそのまま懐に抱きかかえて走り
 帰った。
  それだけに、豪姫に抱く秀吉の愛は、誠に真実の親の
 愛情であった。
  秀吉はこの豪姫を、あの岡山城の美しき人、おふくの
 子、宇喜多秀家の妻にした。
1574年1月、信長が、「洛中洛外図」を謙信に贈った。
  この時に、上杉謙信は、武田勢を討つため、上野に出
 陣したが、いくら催促しても信長・家康が、信濃・甲斐
 に進んで、武田を攻めるとの約束を守らないので、わざ
 わざ使いを出して、違約を責めた。
  信長は、それに答え、畿内・近江・越前の情勢が急で、
 約束を守れなかったが、来秋は必ず出兵しよう、本願寺
 には畿内の兵で当たり、東国へは近江・尾張・伊勢・三
 河・遠江の軍勢を差し向けようと言った。
  これは、弁解というようなものではない、謙信を馬鹿
 にしたというより言いようのないものであった。
  信長が、謙信に狩野永徳筆の「洛中洛外図」(上杉家
 に現存)と「源氏物語」の屏風を送ったのは、この間の
 折衝中の事だが、どういうつもりであったのだろうか?
 「洛中洛外」を掌握しているのを誇示したのであろうか?
1574年2月、越前が、一向一揆の領国となった。
1574年3月18日、信長が、公家に列した。
  この日に、信長が、従三位参議に叙任されて公卿に列
 した。
  この後、廷臣との往来がしきりとなる。
1574年4月、本願寺が挙兵した。
1574年7月12日、信長は、慎重に準備を整え、この日、長男・
 信忠、弟・信包以下諸将を率いて岐阜をたち、尾張津島
 に入った。
1574年9月29日、信長が、長島一向一揆を平定。
  追い詰められた門徒は、長島・屋長島・中江の3か所に
 立てこもったが、厳しい包囲と兵糧攻めに餓死する者も
 多く出て、この日、ついに長島の門徒は降伏した。
1574年12月、信長が、領国内の道路修築を始めた。
  信長が、分国中に道普請を指令した。
  川には舟橋をかけ、悪い道は平かに、石を取り除き、
 道幅3間(約6メートル)、両側に松・柳を植え、沿道の
 村民に水撒き掃除をさせた。
1575年、信長が、4人の奉行を使い、諸国の道路を改善した。
  江戸時代以前の主な社会資本整備とされている。
1575年、信長が、堤防の毎年修理を指示した。
  信長は、かねて築造を命じていた中島郡「道根・横野
 堤」の完成を厳命し、各所の堤防を毎年修理する様に指
 示した。
  農業の進歩は、平野のような地形では、特に、治水の
 技術に関わっていた。
1575年、信長と毛利との対立が次第に目立つようになる。
  謙信は、本願寺に接近した。
1575年3月、信長が、今川氏真に会う。
  信長が、上洛して相国寺に泊まった。
  すると、今川氏真が訪ねて来て、信長に香炉などを送
 り、公卿たちと蹴鞠(けまり)をして見せた。
  かつて、信長は、尾張桶狭間で塗り輿(ぬりごし、表
 面を漆塗りにした輿、公方・長老などの乗り物)で逃げ
 る今川義元を討ち果たしたが、その子・氏真が、京都に
 流れ着き、父の敵(かたき)の自分にこんな風にするの
 を、信長はどんな気持ちで眺めたのであろうか?(馬に
 乗り換えて逃げたという話もある)
1575年5月21日、長篠の戦い。
  信長包囲網を打ち破った後、信長や家康は、甲斐の武
 田氏に対しても反抗を強めており、また、武田方からも
 織田・徳川領への再侵攻を繰り返していた。
  4月に、勝頼より離反し、徳川氏の家臣となった奥平貞
 昌を討つため、1万5000の軍勢を率いて貞昌の居城・長篠
 城に攻め寄せた。
  しかし、奥平勢の善戦により、武田軍は長篠城の攻略
 に手間取った。
  5月12日に至って、信長は、3万の大軍を率いて岐阜か
 ら出陣した。
  そして、5月17日に、徳川軍8000と三河国の野田で合流
 した。
  3万8000に増大した織田・徳川連合軍は、5月18日に、
 設楽原に陣を敷いた。
  そして5月21日に、織田・徳川連合軍と武田軍の戦いが
 始まった(長篠の戦い)
  信長は、5人の奉行に1000挺余りの鉄砲隊による射撃を
 行わせた。武田軍に圧勝した。
1575年8月12日、信長が、越前の一向一揆を平定した。
  信長は、越前を目指して岐阜を発った。
  若狭・丹後の水軍までも加えた大軍は、越前に入って
 敦賀に陣した。
  一揆平定後、越前八郡を柴田勝家に与えた。
1575年10月、信長に、本願寺が降りた。
1575年11月4日、信長が、権大納言兼右近衛大将(征夷大将
 軍に匹敵する官職)となり、その拝賀式で天皇から盃を
 与えられ、信長からも献上物が出され、廷臣にも分けら
 れた。
  これで、朝廷より「天下人」であることを、事実上、
 公認された。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009

2015年4月21日火曜日

(増補版)79C2/3:気になった事柄を集めた年表(1572年11月~1573年9月)

題:(増補版)79C2/3:気になった事柄を集めた年表(1572年11月~1573年9月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1572年12月、信長が、小谷城の『水攻め』の準備をする。
  信長が、小谷城の水攻め準備をするが、これは必要だ
 ったのか? 信長の本心は・・?
  信長は、小谷城の周りを少しづつ攻略し、そして、各
 地の諸将を、信長側に降ろして来た。
  そして、あちこちに砦を築き、小谷城の『必敗の姿』
 を見せてきた。
  ここに、「小谷城よ!降りよ!」の本心があったと感
 じられる。
  あの比叡山を、一気に駆け上がり、すべてを焼き払っ
 たのは・・、
  小谷城に、この様な姿に、やればできるのだと、見せ
 ていた、知らせていたのだろう。
  妹がいる、そして、甥や姪もいる、幸せな生活をして
 いる小谷城なのだがあった・・、
  信長は、この様に小谷城を見ていたのだろう、感じて
 いたのだろう。
  小谷城・城主・浅井長政の頼りとしている朝倉義景は、
 義景の着陣後、義景の重臣の前波吉継(まえばよしつぐ)
 父子が、そして、その他の将が、次々と信長に降りていた。
  その様な状況から、朝倉義景は、この12月、越前へ引
 き上げてしまった。
  義景に、「信長は一揆で疲弊している、討つなら今だ」
 と書状を送っていた強気の浅井長政、降りればいいのだ
 が・・、
  それでもなお、信長は、なおゆっくりと、慎重に、横
 山と虎姫山の間の八相山・宮部に要害を構え、
  そして、虎姫山と宮部間に、幅三間の道を高く作り、
 それにそって小谷城側に高さ1丈(3メートル強)、延長
 50町(1町が1200メートル、故に、60キロメートル)と
 いう超長い築地(ついじ、土だけを突き固めた土手や土塀)
 を作り、水攻めの準備をした。
  何故?信長が、こんな大変な事をしているのか? 
  手間もかかり、時間もかかることをしているのか?
  待っていたのだろう。
  妹婿・・降りろと、降りてくれと、
1572年12月22日、三方ヶ原の戦い。
  武田信玄は、この時、遠江・三方ヶ原に徳川・織田軍
 を破った。
  徳川・織田軍の敗け方はひどかった。
  武田軍2万7000~4万3000、徳川・織田軍1万1000~2万
 8000、武田軍は1.5倍~2.5倍の軍勢だった。
  信玄の西上作戦の途上の(スタートの)戦い。
  (西上作戦は、1572年9月に、信玄の重臣に三河へ先攻
 させ、信玄は10月に出陣したのがスタートだった。最初は
 出城などを落としていた。そして、三方ヶ原に至った)。
  将軍・義昭は、1571年に、信長討伐令を出し、第二次
 信長包囲網を敷いた。
  信玄は、この翌年の1572年に、この将軍の令に応える形
 で信長側の徳川領国である遠江国・三河国の侵攻を行った
 のであった。
1573年4月12日、武田信玄が没する(1521年~1573年)。
  三方ヶ原の戦いの首実検の時に喀血。
  当然、進撃は、突然、停止する。
  軍が甲斐へ引き返す途上、4月12日に、没した。53歳。
  歴史は、信長に流れていた。
1573年7月18日、義昭、降伏。
  義昭軍が、この日に、信長軍に降伏した。
  そして、この後、信長は、将軍・義昭を追放した。
  信長包囲網を築くこともしたが、追い詰めもしたが、
 この時、京都から追われ、備後の国に逃れた。室町幕府は
 滅んだ。
  晩年、義昭は、豊臣秀吉の時代になって、山城填島1万
 石を与えられ大名として過ごしている。
  この年・1573年に何があったかというと・・、
  この年の正月、信長は、義昭に折れている。
  あの信長が、義昭を将軍として立てた。
  この正月、信長は、自分の子供を人質として義昭に入
 れ、和睦を申し入れている。
  しかし、義昭は、これが信じられなかったのか、この話
 を一蹴した。
  そして、義昭は、近江の今堅田城と石山城に、幕府の軍
 勢を入れ、はっきりと『反信長の旗』を示した。
  義昭は、武田軍が来ることを頼りにしていた。
  しかし、信長軍の攻撃を受けると、この義昭の両城は、
 あっけなく陥落した。
  京に陣を張っていた信長には降りる武将(細川藤孝や
 荒木村重)らがいた。
  状況判断が出来ている武将たちだった。
  しかし、それが出来ず、また、義昭は、信玄の死を知
 らないため抵抗を続けた。
  将軍を立てる信長は、再度の和睦を要請した。
  しかし、義昭は拒否。
  信長は、威嚇の行動をして、義昭に圧力を掛けた。
  そこに、優しさがにじむ信長が居た。
  そして、朝廷に和睦の工作を奏上した。
  天皇の勅命によって、4月5日に、講和は成立した。
  しかし、それから3ヶ月ののちに・・、
  義昭は、7月3日に至って、一方的に講和を破棄した。
  そして、南山城の要害・填島城(山城国)に移って、
 挙兵した。
  この城は、信長軍・7万の軍勢によって包囲され、7月
 18日に信長軍に攻撃を開始されると崩れ、義昭は家臣に
 促(うなが)されて、しぶしぶ降伏した。
  そして、填島城を、義昭は出た。
   この戦いにしたって、温かい信長だった。ヨーロッパ
 の様な卑劣な殺戮はしていない。
  信長は、この戦いの後、足利将軍の後継者として立て
 ると義昭に約束し、足利義尋を手元に置いている。
1573年8月8日、信長と朝倉義景の戦い。
  信長が、3万の兵を率いて近江に侵攻した。
  これに対し、義景も朝倉軍を率いて出陣しようとするが、
 それまで色々な失態をしてきた義景は家臣の信頼を失い
 つつあった。
  出陣命令を拒否する重臣・朝倉景鏡や魚住景固らが出る
 という始末だった。
  それでも、義景は、2万の軍を率いて出陣した。
  激突した結果は、朝倉軍の大敗だった。
  信長軍の追撃は、厳しかった。
  その結果、朝倉軍は壊滅的な状態となった。
  義景は、有力な武将の多くを失った。
  最後は、10人程度の側近が義景を守るという状態とな
 った。
  それでも、義景は、一乗谷に留守を守る兵の所へ帰還
 した。
  ところが、悲しいかな、義景の壊滅を知った留守を守る
 将兵の大半が逃走した後だった。
  総てを失ったと悟った義景は、自害をしようとしたが、
 近臣に止められた。
  8月16日から、義景は逃れる行軍が始まる。
  その道々、援軍の要請をするが応じてくれるものはなか
 った。
  防備に不安ありという事でまた逃れるという状態であ
 った。
  そして、8月18日、織田軍の柴田勝家の先鋒が一乗谷に
 攻め込み、これによって、朝倉家100年の栄華は終わった。
1573年8月20日、そして、8月20日の早朝、朝倉の家臣が、織
 田軍に通じて裏切り、この家臣の襲撃によって、ここに至
 って義景は自害した。41歳だった。
1573年9月1日、小谷城の戦い・・浅井長政が滅びる。
  小谷城の戦いは、8月8日に始まり、この日・9月1日に、
 終結している。信長の辛い決着をつける日だった。
  この8月8日、浅井長政の重臣の山本山城の城主・阿閉
 貞征が織田方へ寝返った。
  これを機に、織田軍の侵攻は開始された。
  朝倉軍は、小谷城の北方近くまで進出して来た。
  しかし、朝倉軍は前哨戦で敗北し、織田軍に追撃され、
 壊滅的敗北を被(こうむ)った。そして、義景自害へ至る。
  こうして越前を制圧した信長は、小谷城へ引き返し、8
 月26日に、虎御前山の本陣に帰還した、そして、時を移
 さず、全軍に小谷城の総攻撃の命令が下した。
  水攻めはなされなかった。
  織田軍の厳しい攻撃が加えられた。
  長政は、嫡男万福丸を家臣を付けて城外に逃がした。
  さらに、お市の方と3人の娘と共に、織田軍に引き渡し
 た。
  そして、9月1日、長政は自害し、小谷城は落城した。
 浅井氏は3代で滅亡した。
  桶狭間の戦いの1560年、この奇襲戦に今川義元を討っ
 た後、天下を治める夢を見た信長は、上洛への道筋にある
 北近江の雄・朝倉氏の懐柔に乗り出した。
  そして、浅井長政とお市の婚約が整ったのだった。
  そして、永禄10年、お市21歳は、2つ年長の長政に岐阜
 から嫁いだ。
  織田家は、美男美女の血筋で、お市も目鼻立ちがきり
 りとしていて美しかった。 
  浅井氏は、南に接する六角氏との戦いでは常に敗れ、
 越前の朝倉氏の援助を受け続けて来た。
  家臣は、六角氏の傘下に甘んじ、軍事的手腕に欠ける
 父・久政を嫌って引退を強要し、長政は、16歳で浅井氏の
 跡目を継いだ。
  この長政とお市の結婚には、父・久政は賛成ではなか
 った。しかし、長政は信長との同盟を選んだ。
  六角氏を共に攻め、希望ならば美濃の国もやろう、また、
 朝倉・浅井両氏は、昔からの深いかかわりもあるから、
 無断で朝倉氏を攻めたりはしないとの誓紙まで信長が入れ
 て来た。
  信長の誠実さを感じた長政は、それで、お市を城に迎
 えたのであった。
  長政とお市の結婚生活は6年間に過ぎない。
  お市には、3人の娘と2人の息子が居る(嫡男の万福丸は
 お市の子ではないという・信長公記)。
  しかし、信長が、悪かった。
  信長と長政の仲がおかしくなったのは、誓紙に背いて
 信長が、浅井の領内を通って、越前の朝倉を攻めに向か
 ったことに始まる。
  お市が嫁いで、3年目の事だった。
  長政は、信長に理解を示していた。信長がこれに甘えた
 のか?
  朝倉氏との同盟を重視する父・久政との間に立った長政。
  長政も、筋の通らない信長をかばい切れなくなったのだ
 ろう。
  次第に、小谷城は、信長との対立を深めて行った。
   そして、浅井氏は、信長が命からがら逃げる様な戦さ
 を信長に行った。
  これは決定的だった。
  この後から、信長の厳しい振る舞いの話が出て来るよう
 になる。
   浅井長政が没した(1545年~1573年)28歳だった。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009

2015年4月20日月曜日

(増補版)78C2/3:気になった事柄を集めた年表(1571年5月~1572年11月)

題:(増補版)78C2/3:気になった事柄を集めた年表(1571年5月~1572年11月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1571年8月18日、織田信長の、再度の小谷城(おたにじょ
 う、浅井氏の城)進攻への布石。
  妹の嫁いでいる小谷城。
  何故、信長はゆっくりと攻めているのか? 
  妹の存在が・・そこにあったのだろう。
  信長は、小谷城の周りの村々に手を付けた。
  そして、それだけで、横山城に引き上げた。
  そして、小谷城は置いといて、そこから延暦寺を目指
 し、中山道を進んだ。
1571年9月1日、信長は、この日、新崎郡の新村城と小川城
 を降ろした。
  この方面の一揆を掃討した。
  ついで、野洲郡の金ヶ森(一向一揆の中心地)を攻め
 落とした。
  信長が目指すのは、あくまでも延暦寺で、
  一向一揆を攻めたのは坂本への通路を確保したいため
 だった。
1571年9月12日、比叡山の焼き打ち。
  信長は、一挙に坂本へ進み、比叡山に攻め上った。
  延暦寺と、坂本の日吉社を、一屋あまさず焼き払った。
  徹底的さがこの時にはあった。
  1569年10月の寺領還付要求の時や、1570年12月の朝倉
 との和睦の時の信長とは、まったく違っていた。
  何が、信長をこの様にしたのか?
  これで、近江経略(攻めて、支配する事)は一段と進
 んだ。
  滋賀・高島の両郡が、新たに信長の下に降った。
  近江国人の降りるものが、一段と多くなった。
  この頃、浅井の武将で、姉川の北岸の宮部城を守って
 いた宮部継潤(けいじゅん)が秀吉に降っている。
1572年3月、将軍・義昭が、信長の執奏(しっそう、取り次
 いで奏上する事)する改元を妨げた。
  朝廷から、幕府と信長へ改元の命があったが、幕府が
 改元の費用を出さない行為をした。
  改元は、本来、天皇の大権だが、実際上の責任は幕府
 にあった。義昭は、そこをすんなり事を運ばなかった。
  信長への抵抗であった。
1572年4月、信長が、大徳寺に、あらためて徳政で免除した。
1572年7月1日、信長が、近江に攻め入った。
  織田信長が、今度は直接小谷城を攻めるべく、近江(
 滋賀県)へ進み、浅井長政との戦いが起きた(前哨戦)。
  信長は、意を決した。
  しかし、本格討伐はこの後に来る、この時は前哨戦。
  松永久秀と南近江の「国衆中(くにしゅう、領民のこ
 と)」にあて、7月1日に、小谷を攻撃するにつき、老若
 を問わず鋤(すき)や鍬(くわ)を持って砦を作れと言
 った。
  そして、小谷の城下町を攻めた。
  そしてさらに、北近江の各地へ、前も増して徹底した
 攻撃を仕掛けた。本格城攻めはしていない。
  苦しい信長が居たのだろう。
1572年7月29日、信長は、小谷城攻撃の用意を、一層進める
 ため、7月末、虎姫山砦の築造に取り掛かった。
  浅井長政は、朝倉義景に対し、「信長は、尾張・伊勢
 の一揆に弱っている」との書状を出している。
  そして、「今が、信長打倒の時だ」と言っていた。
1572年9月、信長が、将軍・義昭に意見書を呈した。
  信長は、義昭に出した「意見17ヶ条」で、この年の3月
 の事を取り上げて、「天下」の希望と、「禁中(きんち
 ゅう、宮中)」の命令に反するものだとして非難した。
  反信長勢力と結託して、信長に敵対行動をとる将軍・
 足利義昭に対しての信長の耳の痛い話の具申(意見を申
 し述べる)。
  その内容の1部は・・、
  ・「宮中への参内を怠らない様に申し上げたのに近年
 怠っているのは遺憾である」
  ・「幕府へよく奉公し、怠りなく忠節を尽くす者に相
 応の恩賞を与えず、新参者でそれほどの事をしていない
 ものを厚遇するのはよくない」
  ・「信長に友好的な者に対し、女性方(女房衆)にま
 で不当な扱いをしているが、どういうことなのか」
  ・「よく奉公して、何の落ち度もない者たちが昇給(
 扶持の加給)がないと、信長に泣きついて来たので、将
 軍に取り次いだにもかかわらず、何も聞き入れらないの
 はどういうことか?」・・など
1572年9月~1573年4月、武田信玄が、西上する(甲斐武田
 氏の遠征)
  北条氏政は、1571年末に、上杉謙信の態度がはっきり
 しないのに業を煮やし、武田信玄と和睦した。
  そこで、信玄は、いよいよ本腰を入れた西上を考えた。
  各地の信長に対抗していた派は、この信玄に期待し、
 活気づいた。
  信玄をはじめ、将軍・義昭、石山本願寺、各地の組織
 された一向宗徒、朝倉義景、浅井長政、三好一党、松永
 久秀から六角承禎、
  そして、久秀のもとに居候をしていた土岐頼芸に至る
 までが、互いに呼びかけ会い、直接的に、また、間接的
 に結んだ。
1572年10月3日、信長が、遠江(静岡県西部)に進撃した。
  信長が、本格的に遠江に進撃を開始した。
  ここで、信長は、信玄と絶縁し、謙信との同盟に踏み
 切らざるを得なくなった。
  謙信は、信長に誓紙を送り、また、信長の子を養子(
 実は人質であろう)にしたいと申し入れ、信長も承諾し
 た。
1572年11月20日、信長が、謙信と結ぶ。
  信長が、謙信に長い手紙を書いた。ここで、はっきり
 と信玄と戦うという決意を表明している。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009

2015年4月19日日曜日

(増補版)77C2/3:気になった事柄を集めた年表(1570年11月~1571年5月)

題:(増補版)77C2/3:気になった事柄を集めた年表(1570年11月~1571年5月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.

1570年、スペインがマニラ(ルソン)を占領した。
  マニラは、既に、国際都市だった。
  中国は誠実な貿易をしていた。
  生糸や絹織物、そして陶磁器などの商品をもたらして
 いた。(イギリスはアヘン・麻薬を運んだ)。
  マニラには中国人居留区もあった。日本人もいた。
  豊かに交易でにぎわう都市・マニラ、この都市にスペ
 イン人は目を付けた。やはり、欲しいという欲からの行
 為だった。
  そして、この年に、スペインは、マルティン・デ・ゴ
 イティ率いる遠征隊を送り込んだ。
  そして、武力で占領し、植民地とした。
  やはり、キリスト教国・スペインは武力で奪い取った。
  スペインは、同じく、武力で奪い取ったメキシコの地
 の銀(レアル銀貨)を使って、この交易の利益を享受し
 た。
  マニラは、中国の利益を得る拠点として絶好だった。
  この時代の後になって、やはり、中国の利益を得たい
 利権を得たいというアメリカは、スペインからこの中国
 への拠点・フィリピンをまったく卑劣な戦争(米西戦争)
 で、勝と分かっている戦争で奪い取っている。
1570年、多くの地図を集めて編集されたオルテリウス(現・
 ベルギーの人))の「地球の舞台」が作られた。
  日本地図が、1595年に追加され、この地図がヨーロッ
 パにおける最初の日本地図とされている。
1571年、レパントの海戦。
  オスマン帝国と、教皇・スペイン・ヴェネツィア連合
 国との戦い。
  戦力:オスマン帝国300隻強、連合国300隻強、ほぼ同
 数。
  双方のガレー船の櫂手は奴隷によって漕がされていた
  (キリスト教の教皇だって奴隷を使った)
  オスマン帝国(テュルク系・・後のトルコ人のオスマ
 ン家出身の皇帝をいただく多民族帝国)の海軍を、
  この年のこの海戦で、スペイン連合艦隊が破り、世界
 最強を誇るに至った。
  この戦いで、スペイン王国は、支配下のジェノバや、
 イタリアの諸都市、教皇(領)、マルタ騎士団などから
 最大限の戦力を集めた。
  この時期、キリスト教は、世俗の王を廃したり、世俗
 の欲に関与する事しきりだった(世俗の欲を貪り、そし
 て紛れるキリスト教だった)。何度も、戦争までしてい
 る。
1571年、有馬晴信が、兄の義純が早世したため、家督を継
 承した(4歳)。肥前日野江藩の初代藩主。
  この頃の有馬氏は、龍造寺隆信や、龍造寺の支援を受けた
 西郷純堯・深堀純賢兄弟の圧迫を受け、大変な状態だっ
 た。
  晴信は、最初はキリシタンと対抗していたが、キリス
 ト教宣教師から武器・弾薬の支援を受け(劣勢だっだの
 で受けざるを得なかった)、また、食糧までも支援を受
 けて、かろうじて国を保っている状態だった。
  そこまでして、龍造寺隆信から必死の防戦をするとい
 う状態だった。
  キリスト教宣教師からの物資が頼みの晴信だった。
  1580年、晴信は、この年に洗礼を受けている(13歳)
 が、晴信にとって、強力な敵対関係にある龍造寺氏から
 の攻撃を防ぐため、キリシタン宣教師からの武器・弾薬
 に頼った。
  また、宣教師の要請で、領内の多数の神社仏閣の破壊
 をさせているが、晴信は、1600年の関ヶ原の戦いの時、
 キリシタン大名の小西行長に攻め込んでいる。
  晴信にとってキリスト教よりお家がすべてだった。
  晴信は、マカオで晴信の貿易船がポルトガル船とトラ
 ブルを起こした事件の復讐している。
  ポルトガル船が長崎に来た時に爆沈させている。
  「目には目を」という事でやったのだろうが、この件
 で、晴信は甲斐に追放され、死罪となっている(まった
 く日本的な形で、切腹した後、首を切り落とされた)。
  晴信もそうだが、キリシタン大名の子や孫の代は、キ
 リシタン大名を止めている。
  また、晴信の貿易において、宣教師が絡んだ南蛮貿易
 で、日本人を奴隷にして拉致して行ったが(特に、女性
 方))、晴信の貿易もこれに手を汚している。
1571年、北条氏康が没した(1515年~1571年)
1571年、毛利元就が没した(1497年~1571年)
1571年、信長が、目標を延暦寺に置いた。
  講和の後、信長は、作戦の目標を延暦寺に置いた。
  その為、まず、浅井氏を押さえておきたいと動き出し
 た。
  湖東の交通路を確保すべく、浅井被官の国人を個々に
 誘降し、浅井を孤立させる方策に出た。
  この年、早々に、まず、佐和山城の磯野員昌を狙った。
  それは、先に員昌がもっとも頑強に抵抗したからでな
 く、佐和山が中山道と北陸道の分岐点に位置する要衝だ
 ったからだった。
  また、秀吉に命じて、越前と大阪間を往来する商人(
 朝倉や一向宗徒と本願寺の連絡に当たっていたのだろう)
 を、姉川と朝妻の間で押えさせた(連絡遮断)。
1571年2月、信長が、浅井の将・磯野員昌を誘降した。
  磯野員昌が降りた。その後に、丹波長秀を入れた。
  ついで、朝妻城の新庄直頼を降伏させ、太尾城を開城
 させた。
  こうして、岐阜路は格段に安全になった。
1571年5月12日、浅井の将・磯野員昌が降り、佐和山城が開
 城して後、信長は岐阜に引き上げた。
  浅井への戦いは急がない信長だった。
  浅井の事は、一応、横山城に居る秀吉に任せた。
  そして、この日(5月12日)、伊勢長島の一揆を討つべ
 く、信長は自ら出陣した。
  しかし、しかし、戦況は思わしくなく退却となった。
 信長が敗れたのである。
  木曽川・長良川と西の丘陵にはさまれた低湿地帯で、
 信長軍の大集団の行動には不利だった。
  作戦行動がままならず、この様な状況に慣れている門
 徒のゲリラに追撃される始末だった。
  柴田勝家が負傷し、氏家卜全は戦死するという始末だ
 った。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009