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2016年9月30日金曜日

(増補版)426E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1886年5月~1886年6月)

題:(増補版)426E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1886年5月~1886年6月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1886年5月30日、秋田市の大火(約3400戸焼失)(4月30日
 説あり)
  1886. 4.30 秋田町大火(俵屋火事3,474戸焼失、死傷
 204)
  鱗勝院山門:『明治19年(1886年)4月30日、
 俵屋火事で当寺もことごとく焼失しました。
  この門は、その後佐竹家より拝領した久保田城の裏門
 で、二ノ丸から本丸に至る裏御門坂にあったものです』
1886年5月31日、日清修好条規の改正交渉が開始された。
1886年5月、田中館愛橘(たなかだてあいきつ、帝国大学教
 授)が、ヘボン式ローマ字に反対し、日本式ローマ字を
 提唱した。
  日本式ローマ字は、音韻学の立場から理にかなったも
 のであることが判明・・とある。
1886年6月3日、静岡事件(6月11日説あり、また、6月12日
 説あり)
  自由党員の箱根離宮竣工式襲撃の陰謀が発覚した。
1886年6月5日、万国赤十字条約に加盟した。
  博愛社は、1883年(明治14年)5月に、ベルリンで開催
 された衛生、及び、救難法の博覧会に際し、
  政府から派遣された内務省御用掛の柴田承桂に、欧州
 に於ける赤十字事業と、ジュネーヴ条約加入手続きの調
 査を依頼し、
  当時ベルリンに住んでいた兄のアレキサンダー・シー
 ボルトにも協力を依頼した。
  そして、日本が加入手続きを開始すると、井上馨外務
 卿はアレキサンダー・シーボルトの協力を求め、
  モワニエへの働きかけに尽力した。
  このシーボルト兄弟は、博愛社の社員であり、博愛社
 規則の草案作りにも協力している。
  一方、西郷隆盛とは親戚関係にあり、1870年(明治3年)
 から1873年(明治6年)にかけて、ジュネーブに留学し、
 西南戦争時には政府軍の指揮官、その後陸軍卿となって
 いた大山巌は、
  3度フランスに渡り、各国兵制を研究する傍ら、同行し
 た橋本綱常・陸軍軍医監と共に、ジュネーヴ条約への加
 入手続きを調査した。
  この橋本綱常は、1883年(明治16年)、陸軍卿・大山巌
 の随行員として、欧州で万国赤十字条約加盟のために奔
 走した第一人者だった。
  橋本は、熊本藩の横井小楠らと交流があり、不平等条
 約に抗議し、安政の大獄で没した福井藩士・橋本佐内の
 実弟である。
  1884年(明治17年)9月に、ジュネーヴで開催された第
 3回赤十字国際会議には、日本のオブザーバー参加が認め
 られ、
  会議への招待状は、大山巌と博愛社社員のアレキサン
 ダー・シーボルトに宛てられていたが、
  大山の代理として橋本綱常が出席した。
  その後、陸軍大臣となった大山巌と、1885年(明治18
 年)に、軍医総監、陸軍省医務局長に就任した橋本綱常は、
  1886年(明治19年)6月、日本のジュネーヴ条約加入を
 実現させた。
  そして、博愛社社員だったアレキサンダー・シーボル
 トの協力を得て、条約の注釈書である『赤十字条約解釈』
 を作成した。
  そして、それを全将兵に配布して普及に努めた。
  ジュネーブ条約という国際条約への加盟は、単に、陸
 軍の衛生部隊だけの問題ではなく、
  日本の軍隊、引いては、日本が欧州列強から対等に扱
 われることを意味した。
  日本国として恥ずかしい真似はできなかった。
  軍備や衛生設備の充実だけでなく、国際的な人道的任
 務の理解も、
  軍人だけでなく、国民にも浸透させなければならなか
 った。
  ちなみに、1887年(明治20年)4月23日付の陸軍訓令と
 して出された、『赤十字条約解釈』の冒頭に掲げられた
 大山陸軍相の訓示は・・、
  『赤十字条約ノ儀ハ軍人軍属ニ在テ最緊要ノモノニ付、
 解釈ヲ容易ナラシムル為メ注釈ヲ加ヘ別冊頒布候条、遍
 ク熟読格守ス可シ』であった。
  (日本赤十字社・熊本県支部ホームページを参考にし
 た)
1886年6月9日、 長崎県喜々津村の大火。1000戸焼失。
1886年6月10日、伊藤博文宮内相が、帝室典則等皇族関係
 法律案を提出した。
1886年6月12日、甲府・雨宮製糸工場がストライキをした。
  (6月14日~16日説あり)
  山梨県甲府の雨宮製糸工場(あめみやせいし)で、過
 酷な労働に反発した女子工員がストライキをする。
  1886年6月 14~16日に、甲府の雨宮製糸で発生した日
 本最初の工場労働者の争議で、
  甲府は、開港以来、早くから、急速に製糸業が発達し
 た地域で、労働力不足に加えて、工女の多くが近郊の農
 村からの通勤工であったため、
  好条件を求めて工場を移動する者も少なくなく、業者
 の女子工員争奪が激しかった。
  このことから、製糸業者は連合し、
  同年・1886年、同業組合を結成し、
  女子工員取締り、引抜き防止協定(工女の移動禁止)、
 労働時間の延長、賃金切り下げなどの規約を決定し、実
 施していた。
  これに対し、雨宮製糸の工女100余名が就業を拒否した。
  そして、近くの寺に立てこもった。
  製糸業者側の歩み寄り・譲歩で解決した。
1886年6月12日、自由党員が、箱根離宮落成式襲撃計画を立
 てていたことが発覚し、逮捕された(静岡事件)。
1886年6月14日、内務省が、街路・乗合馬車・営業人力車・
 宿屋各取締規則標準を定めた。
  諸車取締規則と標準化・・、 
  明治期には、ほとんどの輸送手段の行動範囲は、地域
 的にとどまっていたので、各府県の取締規則の内容もま
 ちまちであった。
  そこで、内務省は、陸運関係取締規則制定の参考とし
 て、1886年(明治19年)6月、「街路・人力車・乗合馬車・
 宿屋取締規則標準」(訓令第7号)を定めた。
  同省は、この標準を示すに当たり・・、
  「人民の貧富、または、開明の程度、市街地と田舎に
 よって寛厳の差があってしかるべき」として、
  必ずしも全国画一の規則制定は求めてはいなかった。
  各府県は、この標準に沿って、取締規則の制定をすす
 めた。
  東京府の場合は、「人力車営業取締規則」(明治22年
 4月26日警察令第19号、53カ条)、「乗合馬車営業取締
 規則」(同22年10月8日警察令第30号、60カ条)などを
 制定しているが・・、
  その経緯について・・、
  「是ヨリ先キ、内務省訓示スルニ人力車取締ノ標準ヲ
 以テシ、漸次、之ニ拠テ取締ノ方法ヲ設定セシム。
  是レ此規則ヲ定ムル所以ナリ」・・と、
  『警視庁史稿 巻之一』に記述している(乗合馬車の
 場合も同様)。
  荷車のうち、荷馬車は、馬車取締規則の適用を受けて
 いたが、
  その後、保有台数の増加によって独立した取締規則が
 必要となってきたので、警視庁では、1891年(明治24年)
 1月21日、「荷車取締規則」(警察令第1号、25カ条)を
 制定した。
1886年6月15日、第六回条約改正会議
  この会議で、イギリス・ドイツ両公使が、日本案を実
 行不可能だとして、両国合同の条約改正案を提出した。
  内容は、通商条約案・裁判管轄条約案などだった。
  日本側もこれを良しとし、会議を、この英独案をたた
 き台として進めた。
  その骨子は、領事裁判権を撤廃し、関税率を5パーセン
 トから11パーセントに引き上げることを了承する代わり
 に、
  (1)条約実施後2年以内に、日本は、内地を開放し、
    外国人に居住権・営業権を与え、
     2年以後は、内地居住外国人は、日本裁判所の管
    轄に属すること。
  (2)条約実施2年以内に、日本は、「泰西ノ主義ニ従
    ヒ」、すなわち、西洋を範にとった刑法・民法・
    商法等法典の整備を行い、
     施行16ヶ月前に、その英文を諸外国政府に通知
    すること。
  (3)外国籍の判事・検事を任用すること。
  (4)外国人が、原告もしくは被告となった事件につい
   ては、直接控訴院(第二審)に提訴することができ
   る。
    その際、控訴院、および、大審院の判事は、過半
   数を外国人とし、公用語として英語を認めること。
 ・・を、日本側が受け容れるというものであった。
  法典の整備や、裁判制度の確立については、
  国内における合意形成や、法律を運用する法曹の育成
 などに一定の時間を要することから、
  当面は、日本がその方向に向かっていることを、諸外
 国に納得させて、
  改正への合意を引き出すよりほかになかった。
  この間、日本の方向性を納得させる説得材料として機
 能したのが鹿鳴館外交・欧化政策だった。
  井上の結論は・・、
  「条約改正には、兵力によるか、西欧諸国に、日本の
 開化を実感させて、治外法権を撤廃してもよいという感
 情を抱かせるかのどちらかしかないが、
  兵力による方法が不可能である以上、欧化政策を進め
 るよりほかに道がない」・・というものであった。
.
  (今日の言葉)
.
  題:1943年のこと・・、
    アメリカのルーズベルトは・・、
   中国(蒋介石)とソ連を繰るが・・その読みは浅かった。
    結局、中国は共産化し・・ソ連は離反して、冷戦へ・・、
.
1943年2月2日、スターリングラード攻防戦(1942年6月28日
 ~1943年2月2日)で、この日、ドイツ軍が大敗北した。
  この日・2月2日、トラクター工場を中心に抵抗を続け
 ていたカール・シュトレッカー将軍の第11軍団が投降し、
 ドイツ第6軍の抗戦は終わった。
  ソ連赤軍は、勝利宣言を行い、ここにスターリングラ
 ード攻防戦は終結した。
  モスクワでは、クレムリンから祝砲が轟いた。
  しかし、ドイツでは、ラジオが「彼らは死んだ。ドイ
 ツが生きていくために」と、第6軍の将兵が全員戦死した
 と報じ、ベートーヴェンの交響曲第5番『運命』を放送し
 た。
  ゲッベルスは、3日間の服喪を発表した。
  こうした欺瞞に満ちたドイツのプロパガンダを、ソ連
 は、逆用した。
  膨大な数の捕虜がいて、生きていることを海外放送で
 発信した。
  また、モスクワ駐在の外国人記者の前に、パウルス(
 ドイツ第6軍司令官)と、将軍たちを引き出して撮影させ、
 さらには、捕虜に、家族宛ての書簡を書かせた。
  また、ドイツ軍陣地に散布した。
  当然、ドイツ司令部は、それらの回収と、焼却に奔走
 した。
  また、ドイツで帰りを待っている家族へ、ドイツ将兵
 たちが、現時点で生存していることを知らせようと、投
 函した将兵も少なくなかった。
.
  そして、次の話・・、
.
1943年11月22日、カイロ会談が開かれた。
  アメリカ大統領のルーズベルトは、ソ連が、スターリ
 ングラードでドイツ軍を破る大勝利をすると(1943年2月
 2日)、
  欧州戦線は、目途(めど、物事の見通し、目指すとこ
 ろ)がついたと見た。
  残るは、太平洋方面における、対日戦線だと見た。
  その為にも、ソ連の対日戦への参戦をより強く促すた
 め、
  ルーズベルトは、ソ連と蒋介石・中国を引き合わせる
 必要性を痛感した。
  ソ連をより積極的にする必要があった。
  しかし、ソ連のスターリンは、蒋介石と公式に会う事
 を拒否し、また、蒋介石も渋っていた。
  米・英は共同して、この状態を打開すべく、1943年11
 月22日、カイロで米・英・中の会談を持った(カイロ会
 談)
  さらに、同様に、その6日後の11月28日に、米・英・ソ
 の『テヘラン会談』が持たれた。
  これが、米・英・中・ソの四か国会談が成立する前段
 の話で・・、
  そして、カイロ会談の、米・英・中の会談の2日目の
 11月23日に、ルーズベルトと蒋介石は・・、
  キザのピラミッドが見えるカイロのメナ・ホテルで、
 膝(ひざ)を突き合わせて話し合った。
  通訳は、蒋介石夫人の宋美齢(そうびれい)だった。
  他に誰も居なかった。
  そして、遼東半島の大連と旅順を、アメリカと中国の
 共同管理にする事にした。
  そして、ルーズベルトは、中国(蒋介石)の国民政府
 軍が、さらに強くなる支援を言った・・、
  90個師団を作り、アメリカが軍事訓練をすると言った。
  蒋介石は、中国・共産党を政府に招くと言い、そして、
 戦いが終わった後は、民主化をすると言った。
  ルーズベルトは、アメリカが後ろ盾(うしろだて)と
 なって「強い中国」となる「戦後の中国の形」を言った
 (米・英・中・ソの形へ持って行きたかった)。
  しかし、蒋介石の頭には、国民党と共産党が、その様
 に、順調に、簡単に、収(おさ)まるとは思っていなか
 った。
  国民党と共産党による内戦が、確実視された。
  また、一方、蒋介石は、大国のソ連や英国の内政干渉
 が始まる事を恐れていた。
  今・現在、アメリカが、国連を絡めて、盛んに日本に
 内政干渉をしているが・・、例えば、「皇室はこうしろ」
 とかと・・、
  蒋介石は、この様な内政干渉を恐れていた。
  フランスは、この時点では、お呼びのかからない埒外
 (らちがい)に置かれていた。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
 

2016年9月27日火曜日

(増補版)425E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1886年5月~1886年5月)

題:(増補版)425E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1886年5月~1886年5月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1886年5月6日、農商務省が、漁業組合準則を公布した。
  農商務省令7号によって、漁業組合が、この漁業組合準
 則によって漁場の調整、漁場占有利用関係の規制を目的
 に作られた。
  漁業は、内水面、沿岸から海外漁場までを操業範囲と
 しているが、自由勝手に操業しているのではなく、
  漁業法を基本にした規則・規約等によって、一定の秩序
 と規制のもとに操業している。
  漁業法を基礎としたこの秩序と規制の体系を漁業制度
 というが・・、
  日本の漁業制度は、この漁協組合準則や、1901年の旧
 漁業法を経て成立して来た。
  そして、1910年の明治漁業法によって確立された。
1886年5月10日、教科書検定条例が制定された。
  教科書検定条例が公布し、教科書検定が始まった。
  国定教科書制度が成立する。
  小学校の教科書は、1886年(明治十九年)の小学校令
 の施行とともに検定制度が実施され、
  その後は、文部省の検定を経た教科書の中から選定し
 て使用することとなった。
  小学校の教科書については、すでに十年代(1877年以
 降)から統制が強化され、制度化が進められており、
  1883年(十六年)からは認可制度となっていた。
  すなわち、文部省に伺い出て認可を受け なければ使用
 できないこととなっていた。
  また、文部省では、早くから検定制度の実施を意図し
 て検討していた模様・・、
  このような状況を背景として、1886年(十九年)の森
 文相による学制改革に際して、検定制度が実現された。
  検定制度の実施については、1886年4月(十九年四月)
 に公布された小学校令中に・・、
  「小学校ノ教科書ハ文部大臣ノ検定シタルモノニ限ル
 ヘシ」(第一三条)・・と規定しており、
  1886年5月(同年五月)「教科用図書検定条例」が定め
 られた。
  1887年5月(二十年五月)には、これを改正して「教科
 用図書検定規則」が定められ、
  その後は、これに基づいて、検定制度が運営された。
  教科書の検定制度は、小学校のみでなく、師範学校・
 中学校等の教科書についても実施されたが、
  小学校教科書については、特に、詳細な規定が設けら
 れ厳格に行なわれた。
  教科書の採択方法については、1887年3月(二十年三月)
 「公私立小学校教科用図書採定方法」を定め、
  地方長官が審査委員を任命して採択を決定することと
 した。
  審査委員の構成は、その後しばしば変更されているが、
 地方の教育関係の首脳に位置する人々が参与した。
  しかし、府県一律採択のこの制度が審査委員と教科書
 会社との間に贈収賄事件を引き起こし、いわゆる教科書
 疑獄事件が発生して、検定制度そのものを崩壊させる原
 因となった。
  検定教科書の内容は、小学校令、および、これに基づく
 学科課程に関する法令によって統一され、
 時期を画して展開している。
  すなわち、第一期は、1886年(十九年)の小学校令、
 および、「小学校ノ学科及其程度」以後、
  第二期は、1890年(二十三年)の小学校令、および、
 小学校教則大綱以後、
  第三期は、1900年(三十三年)の改定小学校令、およ
 び、小学校令施行規則以後の時期で、
  また、1890年(二十三年)の教育勅語は、修身教科書
 をはじめ教科書の内容に大きな影響を与えた。
  検定教科書を形態の上から見ると、学年段階に応じて
 編集された教科書が一般化して、
  すなわち、検定制度は、古い型の教科書を一掃して近
 代教科書を普及させ る役割を果たした。
  検定教科書の形態、および、内容に著しい影響を及ぼ
 したものは、1891年12月(二十四年十二月)の「小学校
 修身教科用図書検定標準」でだった。
  これは、修身書をほかの教科書よりも厳格な基準によ
 って検定する趣旨のもとに定められたが、
  その内容は、教科書一般に共通する点が多く、他の教
 科書の編集の上にも大きな影響を与えた。
  つまり、児童用と教師用を区分して編集すること、学
 年段階に応じて程度を高めることなどはすべての教科書
 に通ずるものだった。
  (文部科学省のホームページを参考にした)
1886年5月19日、 川崎正蔵に貸下げられた兵庫造船所を、
 川崎造船所と改名した。
1886年5月19日、東京・京橋の風月堂が、新聞にアイスクリ
 ームの売り出し広告を出した。
  日本人が、初めてアイスクリームを食べたのは、江戸
 時代末期で・・、
  1860年、日米修好通商条約の批准書交換のため、徳川
 幕府が派遣した使節団一行が、
  訪問先のアメリカで、アイスクリームを食べたのが最
 初だったという・・、
  一行は、ホワイトハウスでの歓迎会でアイスクリーム
 の味に、大変感銘を受けたと・・、
  1869年(明治2年)、渡米経験のあった町田房蔵が、横
 浜の馬車道通りにアイスクリームの店「氷水屋」を開店、
  日本国内での最初のアイスクリーム製造販売となる。
  このアイスクリームは「あいすくりん」という商品名
 で販売され、
  原料は、牛乳、砂糖、卵黄と、基本的なものだったが、
 値段が当時の通貨で2分(現在の約8000円)と高額だった。
  そのため、外国人や一部の富裕層にしか売れなかった。
  一般に定着せず・・、
  その後、銀座に「開新堂」「風月堂」「函館館」など
 がアイスクリームの販売を開始した・・、
  次いで「資生堂」が、アイスクリームとアイスソーダ
 を発売、
  また、鹿鳴館で、晩餐会にアイスクリームが欠かせな
 いデザートとなり、文明開化のシンボル的な存在となる。
 (アイスクリームワールドを参考にした)
1886年5月20日、東京・浅草公園、開園祝賀会が行われた。
  我が国初の遊園地は、植物園を前身として、1886 年に
 開園した浅草花屋敷だと言われる。
  利用者は、主に上流階級であったが、徐々に、庶民向
 けの動物や見世物の展示、遊戯機器の設置を行うように
 なった。
  また、我が国初の近代動物園は、内国勧業博覧会を機
 に開園した大日本帝国農商務省博物館付属動物園(現:
 上野動物園)であった。
  続いて、京都、大阪、名古屋において、京都市動物園、
 天王寺動物園、鶴舞公園附属動物園(後に移転し東山動
 物園となる)が、それぞれ開園した。
  これら公立の動物園は、近代都市における社会教育施
 設として建設されたが、
  外国産動物の展示により大きく人気を集めたことによ
 り、次第に遊園地の一種として見なされるようになった。
  明治の末期以降には、遊園地や動物園の盛況ぶりに着
 目した電鉄資本が、
  沿線の顧客開拓の一環として、競い合うように子供や
 家族をターゲットにした遊園地や動物園が一体化した大
 衆娯楽的な行楽施設を各地に開設していった。
  (経済産業省資料を参考にした)
1886年5月21日、各地の中牛馬会社を合同し、東京下谷に
 共同中牛馬会社を設立した。
  日本陸運業の近代化の一翼を担うこととなる中牛馬会
 社の存在は、歴史学的な実証研究が手薄だった。
  国内の市場経済化とともに急速に発展・拡大した陸上
 運輸業全体の展開プロセスは、日本における交通運輸業
 の近代化の第一歩として無視することの出来ない重要な
 意味を持つ。
  明治前期に、あれほど活動的であった陸運企業が、牛
 馬背運送から鉄道運送へという交通技術上の転換によっ
 て衰退したわけではなかった事実に気づかされる。
  牛馬、馬車、鉄道は、いずれも陸運会社の輸送手段と
 して複合的に用いられたのである。
  地域間の貨物運送を行う業務にたずさわったのは、「
 内国通運会社」や「中牛馬会社」といった陸運企業経営
 体であった。
  特に、中牛馬会社は、日本の産業革命期の主役であっ
 た諏訪製糸業の勃興に際し、
  横浜への輸出生糸の運送を請負う陸運企業として重要
 な役割を果たした一例がある。
  (東北大学・王慧子氏の論文を、抜書き構成し参考に
 した)
1886年5月28日、尋常師範卒業生服務規則が公布された。
  (明治十九年五月二十八日文部省令第十一号)
  勅令第十三号師範学校令第八条ニ基キ尋常師範学校卒
 業生服務規則ヲ定ムルコト左ノ如シ
  尋常師範学校卒業生服務規則
  第一条:尋常師範学校卒業生ノ服務年限ハ卒業証書受
    得ノ日ヨリ十箇年トシ其間教職ニ従事スルノ義務
    ヲ有スルモノトス
  第二条:尋常師範学校卒業生ハ卒業証書受得ノ日ヨリ
    五箇年間其府知事県令指定ノ学校ニ奉職スルノ義
    務ヲ有スルモノトス
     但郡区長ノ薦挙ニ係ル生徒ハ卒業証書受得ノ日
    ヨリ五箇年間其郡区長指定ノ小学校ニ奉職スルノ
    義務ヲ有スルモノトス
  第三条:第一条第二条ノ義務ヲ尽ス能ハサルノ事故ア
    ルモノハ其理由ヲ具シテ府知事県令ノ指揮ヲ請フ
    ヘシ
  第四条:第一条第二条ノ義務ヲ終ヘタルモノハ其経歴
    書ヲ具シテ其府県庁ニ届出ヘシ
  第五条:謂ハレナク第一条第二条ノ義務ヲ尽ササルモ
    ノ或ハ服務年限内ニ於テ品行不正ニシテ其職務ヲ
    免シタルモノアルトキハ其都度府知事県令之ヲ文
    部大臣ニ具申スヘシ
  第六条:府知事県令ハ服務規則ニ関スル細則ヲ定ムル
    コトヲ得
.
  (今日の言葉)
.
  題:今度は、ソ連のスターリンが、手のひらを返した・・
   そして、米ソの雌雄を決する対決が始まる・・冷戦がはじまる・・
.
1946年3月、鉄のカーテン
  イギリスの元首相のチャーチルが演説で・・、
  「鉄のカーテン」・・と、米ソ冷戦の緊張状態を表す
 言葉として言った。
  第二次世界大戦が終結して、まだ、わずか『7か月』し
 か経ていなかった。
  鉄のカーテン(てつのカーテン)は・・、
  冷戦時代のヨーロッパにおいて、東西両陣営の緊張状
 態を表すために用いられた比喩のことで・・、
  イギリスのウィンストン・チャーチルが・・、
  第61代首相を退任後の1946年3月、アメリカ合衆国大統
 領ハリー・S・トルーマンに招かれて訪米し、
  ミズーリ州フルトンのウェストミンスター大学で行っ
 た演説の中でこう述べた。
  因みに、アメリカの大統領は・・、
  政治信条や、政策や、深い思想哲学に裏付けられて、
 選ばれて来るのではない・・と、知識人たちに言われて
 いる。
  マスコミによって、容易に動かされる大衆が、その好
 み、「好きだとか、嫌いだとか」によって選んでいるの
 だ・・と、言われている。
  また、第一次大戦までは・・、
  ヨーロッパの国々は・・アメリカのこの様な政治シス
 テムを、ほとんど信頼していなかった・・という。
  そして、アメリカという国を、むしろ厄介者だと考え
 ているくらいであった・・という。
  ヨーロッパの国々から見れば・・、
  アメリカという国は・・、
  ヨーロッパの国から、イギリスから・・しょせんは独
 立した新興国に過ぎない・・と・・感じていた・・と。
  第二次世界大戦に至る時ぐらいまでの百数十年間は、
  世界の二流国ぐらいに・・考えられていた。
  それが、第二次世界大戦を勝利に導き・・、
  世界を動かすようになったのだった。
  そして、その戦いののち、戦後に、「鉄のカーテン」
 とたとえられる時が来るのだが、
  第二次世界大戦の・・戦争中までは、互いに話し合う
 スターリンとアメリカ大統領のルーズベルトだったが、
  そして、日本の領土を餌に・・ソ連のスターリンへ、
 『日本への参戦を誘う』というアメリカの大統領のルー
 ズベルトだったが、
  この関係が・・、スターリンが戦後に、勝者となって
 の後に、国内の独裁体制を築き・・推し進め・・そして、
 かためたいと・・考えた所から、手のひらが返された。
  ソ連の、ソビエト圏の閉鎖が進んで行く・・、
  ここでチャーチルの「鉄のカーテンが下りて来た」の
 言葉が飛び出した。
  ソ連のスターリンは、勝者側の一方へ・・ソ連に対峙
 するその一方へ・・戦いを挑んで来たのである。
  その時に、冷戦が始まった。
  アメリカにとっては予想のしていなかったことで・・、
  その対応・応戦には、一時は戸惑った。
  そして、その後、この冷戦は、とめどなく、戦いは続
 けられて行く。
  科学の力を駆使し、持てる経済力のすべてを投入し、
 ぎりぎりの戦いが展開されて行く。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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2016年9月26日月曜日

(増補版)424E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1886年4月~1886年5月)

題:(増補版)424E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1886年4月~1886年5月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1886年4月29日、日米犯罪人引渡条約に調印した。
  この日に、東京において調印された。
  1886年10月6日に、公布された。
  日本皇帝陛下及亞米利加合衆國大統領ハ、兩國內竝ニ
 其管轄內ニ於テ、司法事務ヲ益周到ナラシメ及ヒ犯罪ヲ
 防止セムカ爲メ、下ニ揭ル犯罪ニ付有罪ノ宣告若クハ告
 訴、告發ヲ受ケ未タ處分ヲ經スシテ逃亡スル者ハ、其情
 狀ニ據リ互ニ之ヲ引渡スノ便宜ナルヲ認メ、之レカ爲メ
 條約ヲ締結スルコトニ決シ、日本國皇帝陛下ハ外務大臣
 伯爵井上馨ヲ亞米利加合衆國大統領ハ日本駐劄特命全權
 公使「リチャード、ビー、ハッバード」ヲ各其全權委員
 ニ命セリ、因テ雙方全權委員ハ互ニ其委任狀ヲ示シ誠實
 適式ナルヲ認メ左ノ條條ヲ議定ス
  第一條
  締約國一方ノ管轄內ニ於テ第二條ニ揭ル犯罪ニ付有罪
 ノ宣告若クハ告訴、告發ヲ受ケタル者他ノ一方ノ管轄內
 ニ於テ發見セラレタルトキハ、締約兩國政府ハ本條約ニ
 開列スル情狀及ヒ制限ニ遵ヒ互ニ之ヲ引渡スヘシ
  第二條
  引渡スヘキ犯罪人ノ罪名・・云々
1886年4月30日、判任官等俸給令を公布した。
1886年4月30日、秋田で大火、焼失3500戸。
1886年4月、大学予備門が第一高等中学と改称した。
  第一高等学校(だいいちこうとうがっこう)は、現在
 の東京大学教養学部、および、千葉大学医学部、同薬学
 部の前身となった旧制高等学校であり、「旧制一高」と
 も呼ばれた。
  旧制一高は、旧制高等学校の中でも早い時期に創設さ
 れたナンバースクールの先駆けであり、
  1886年(明治19年)に、日本の近代国家建設のため必
 要な人材の育成を目的として第一高等中学校として創設
 された。
  校名が、第一高等学校に改称された1894年(明治27年)
 以降、一高の修学期間は3年となり、
  帝国大学の予科と位置づけられた。
  一部は、法学・政治学・文学、
  二部は、工学・理学・農学・薬学、
  三部は、医学であった。
  また、1921年以降は、文科甲/乙/丙類、理科甲/乙類と
 いう分類となった。
  一高の卒業生の多くは、東京帝国大学へ進学した。
1886年5月1日、東京横濱毎日新聞が毎日新聞に改称した。
  1871年1月28日(明治3年12月8日)に、横浜で創刊され
 た日本最初の日本語の日刊新聞で、
  横浜活版舎(のち横浜毎日新聞社)が発行した。
  当時の神奈川県令(県知事)・井関盛艮(いぜき・も
 りとめ)が、近代新聞の必要性を横浜の貿易商達に説き、
 印刷業者の本木昌造・陽其二の協力の下に、創刊にこぎ
 つけた。
  編集者は、横浜税関の翻訳官:子安峻(こやす・たか
 し)だった。
  そして、この日に、毎日新聞に改称した。
1886年5月1日、第1回 條約改正會議(~翌年4月)
  外務大臣・井上馨は、各国公使と第一回条約改正会議
 を、外務省にて開いた。
  そして、正式に、改正条約案を提出した。
  列国共同会議とも言った。
  (第1回条約改正列国会議)
  井上馨は、この条約改正では、以前の個別交渉方式を
 捨てて、列国会議方式をとって法権回復を優先させよう
 とした。
  普通、条約は、有効期間が来れば、または、廃棄の方
 法を規定して、期限がくると自動的に失効するか、
  または、一方が申出をして廃棄できるのが普通である
 のだが、
  日本の結んだ通商条約は、日本が鎖国へ戻ることを警
 戒して、
  1年前の予告を条件にして、1872年(明治5年)7月以降に
 改正交渉ができるという条項だけだった。
  そこで、明治維新後に、明治政府は、主権国家の名実
 を得るために、不平等条項の改正交渉を行ったが、
  アメリカなどの外国は、既得権の放棄を欲しなかった。
  列国は、交渉に応じなかった。
  法権回復(領事裁判権の回復)は日清戦争後の1899年
 になった。
  また、関税自主権の回復は、日露戦争後の1911年にな
 るという状況だった。
  (参考)領事裁判権:りょうじさいばんけん、不平等
    条約によって定められた治外法権のひとつで、
     在留外国人が起こした事件を、本国の領事が、
    本国法に則り裁判する権利をいう。
1886年5月2日、国産の鉛筆工場が、初めて東京・四谷に設
 置され、佐賀県人・真崎仁六により起業・・とあるが?
  鉛筆組合史年表によると・・違う?
  確かに、「日本鉛筆史・明治時代鉛筆製造業者一覧」
 の1887年(明治20年)に、
  真崎仁六、真崎鉛筆製造所、四谷内藤新宿、現:三菱
 鉛筆とあるが、最初ではない。
  この表では、1874年(明治7年)小池鉛筆製造所(小池
 卯八郎〉銀座3丁目が、最初だとある。
  そして、以下が、この鉛筆組合史年表の説明(一読の
 価値があるので転載させて戴く、一部読みやすくした)・・、
  わが国による鉛筆づくりは、明治時代初期に始まる。
  この頃の鉛筆づくりの形態は「手工業」で、「産業」
 と呼ぶには至っていなかった。
  維新を経て、多くの若者が特使として渡欧し、政治、
 法律、徴兵制等の近代国家のしくみを勉強していた際、
 都市にあったさまざまな西洋文物を我が国に持ち帰った。
  なかでも、鉛筆、石鹸、マッチ等の日常生活用品、つ
 まり、今日でいう中小工業的商品類の製造法に関しては、
 明治10年代~明治20年代に、日本と欧州との間に、積極
 的な人材の往来があり、製法の研究・伝授は大いに進ん
 だ。
  1872年(明治5年)学制がしかれて、寺子屋に代わる欧
   米式の学校が、各地に新設され鉛筆の需要は高まっ
   た。
  1873年(明治6年)藤山種廣、井口直樹が、ウィーンか
   ら鉛筆製法を伝えた。
    井口は、ドイツ・ヒツトワイス鉛筆製作所の製造
   機械の図解を模写、さらに、黒鉛を携えて帰国した。
    藤山は、ボヘミア州ハルトムートの製造所で、製
   法を学び帰国した。
    両者は、欧州工業の見聞の記録を小池卯八郎に伝
   えた。 
  1877年(明治10年)小池卯八郎は、第1回内国勧業博覧
   会(東京上野)に国産初の鉛筆を出品した。
  1880年~1881年(明治13年~14年)頃、河原徳右衛門
   は、苦心して黒芯鉛筆を製造、小石川第六天に工場
   をもち、百人近い職工を使った。
    そして、1881年、開催の第2回内国勧業博覧会(東
   京上野)で二等賞を受けた。
  1882年(明治15年)河原は事業に失敗するが、多くの
   鉛筆職人を輩出した。
    井上吉兵衛、藍田貞三郎、大久保桂次郎、杉江鉦
   三郎、永谷健三郎、他。
  1884年(明治17年)杉江鉦三郎は、下谷区竹町に杉江
   蜻蛉社を設立し、
    1899年(明治32年)田端に日本鉛筆株式会社設立。
  1885年(明治18年)鉛筆が文房具としてわが国に輸入
   されたのは、1877年(明治10年)頃といわれている
   が、公式には1885年(明治18年)、輸入品目に鉛筆
   が計上されているのが最初。
    故に、それ以前の輸入は、おそらく見本程度の数
   量に過ぎず、ようやく、この頃から、鉛筆が商品と
   して扱われるようになったものと考えられる。
    この頃の輸入鉛筆には、イースタン・レッド・シダ
   ーが使われていた。
  1885年(明治18年)公立小学校上級生に英語の授業が
   行なわれるようになり、鉛筆の需要は急速に高まっ
   た。
  1887年(明治20年)眞崎仁六が、眞崎鉛筆製造所を内
   藤新宿1番地に興した。
   「鉛筆製造界に一異彩あるは眞崎鉛筆製造所なり」
   と言われた。
  1889年(明治22年)鉛筆の輸入は96,039グロス、当時
   の輸入鉛筆は、アメリカ、イーグル社製の黒軸銀文
   字入り、デックソン社製の銀軸文字入りなどであっ
   たが、1890年(明治23年)には、横浜アンバリウス
   商会がイーグル社の140番ゴム付鉛筆を輸入ヒットさ
   せた。
  鉛筆の価格・・
  1887年(明治20年)鉛筆1厘、そば1銭、風呂代1銭3厘。
  1907年(明治40年)鉛筆2厘、そば3銭、風呂代3銭。
   (参考)眞崎仁六の眞崎鉛筆製造所が、現在の三菱鉛
    筆株式会社に、
     また、河原徳石衛門の門下生の杉江鉦三郎と共
    に鉛筆づくりを始めた小川作太郎が、現在の株式
    会社トンボ鉛筆になっている。
1886年5月5日、裁判所官制を公布し、治安裁判所、始審裁
 判所、重罪裁判所、控訴院、高等法院、大審院の裁判所
 制度が定められた。
  明治政府が、1885年以降、太政官制を廃止して、官制
 の大改革をするが、これも三権の一つで重要であった。
  この官制で、裁判官の身分保障の法定などが盛り込ま
 れたが・・、
  裁判所官制は,日本の司法制度が制度・機構の両面にお
 いて近代的性格を有するに至ったことを示すものであっ
 た。
  そして、この内容は、ほとんど変更されることなく1890
 年の裁判所構成法に引き継がれた。
1886年5月4日、第2海軍区鎮守府を呉、第3海軍区鎮守府を
 佐世保と定めた(4月21日説、5月5日説あり)
  1886年4月22日、「海軍条例」において、全国に五つの
 海軍区を定め、各区の軍港に鎮守府を置くこととし、
  1886年5月4日に、第二海軍区(範囲「紀伊国南牟婁郡
 界ヨリ石見長門国界ニ至リ筑前遠賀宗像郡ヨリ九州東海
 岸ニ沿ヒ日向大隅国界ニ至ルノ海岸海面及四国ノ海面並
 内海」)を所管する鎮守府は、呉港に置くことが定めら
 れた。
  また、1886年(明治19年)4月21日、鎮守府官制が制定
 され、佐世保に「第三海軍区鎮守府」を置くことが決定
 した。
  九州を始めとする西日本地域一帯の防衛と朝鮮・中国
 等東アジアへの進出の根拠地として、
  九州の西岸に海軍の軍港を置くことになった。
  本来は、長崎だったが、市民から商港機能を阻害され
 ると猛反対され、土地買収費用の問題もあって断念され
 た。
.
  (今日の言葉)
.
  題:あまりにも貧乏くじを引いた・・オバマ大統領
   そして、似たような状況を脱した・・ルーズベルト
.
2009年1月20日、オバマ大統領が就任した。
  アメリカのバラク・フセイン・オバマ2世(1961年8月
 4日生まれ~)が、この日に、第44代アメリカ合衆国大統
 領に就任した。
  2009年10月には、ノーベル平和賞を受賞した。
  実父のバラク・オバマ・シニアは、ケニアのニャンゴ
 マ・コゲロ出身である。
  そして、父は、奨学金を受給していた外国人留学生で、
 ハーバード大学を卒業した。
  母親は白人で、ハワイには母親の両親が居る。
  そして、オバマの両親は、ハワイ大学で知り合い、
  1961年2月2日に結婚した。
  しかし、両親は1964年(3歳の時)に離婚、オバマは、
 母親のもとで暮らした。
  父はケニアへ帰国し、この父とは1971年(10歳)に再
 開したが、父は、1982年(21歳)自動車事故で逝去した
 (46歳だった)
  母は、離婚後人類学者となり、ハワイ大学で知り合っ
 たインドネシア人留学生と再婚した。
  1967年(6歳)インドネシアが、クーデターでスハルト
 政権になると、ハワイからインドネシアに呼び戻され、
  オバマは、両親と共に、ジャカルタに移住した。
  オバマは、1967年の6歳から10歳まで、ジャカルタの公
 立小学校へ通った。
  そして、1971年(10歳)になると、オバマは、ハワイ
 のホノルルの祖父母のもとへ行った。
  地元の有名私立小中高一貫の学校へ入った。
  青年時代のオバマは、ハワイで母親と母親方の祖父母
 〈白人〉の下で成長した。
  1991年(30歳)法務博士の学位を取得して、シカゴ大
 学の法学フェローとなった。
  ハーバード大学ロー・スクール終了後、弁護士として
 法律事務所に勤務した。
  1992年(31歳)結婚する。
  1992年(31歳)から、シカゴ大学ロースクールの講師
 となる。
  1995年(34歳)母親が、癌で亡くなる。
  1996年(35歳)イリノイ州のイリノイ州議会上院議員に当選した。
  2004年11月(43歳)イリノイ州選出のアメリカ合衆国上院議員に初当
 選した。
  アフリカ系上院議員としては史上5人目(この時点では
 オバマだけ)。
  2004年7月27日(43歳)のアメリカ大統領選挙の基調
 演説が有名である。
  オバマは、ケニア人の父、そして、カンザス州出身の
 母がハワイで出逢い自分が生まれたこと、
  次いで、「すべての人は生まれながらにして平等であ
 り、自由、そして、幸福の追求する権利を持つ」と言う
 独立宣言を行なった国、アメリカ合衆国だからこそ、
  自分の様な人生があり得たのだ・・と、述べた。
  そして、
  「リベラルのアメリカも保守のアメリカもなく、ただ、
 『アメリカ合衆国』があるだけだ。
  ブラックのアメリカもホワイトのアメリカも、ラティ
 ーノ(ラテンアメリカ出身者)のアメリカもエイジアン
 (アジア人)のアメリカもなく、
  ただ『アメリカ合衆国』があるだけだ」「イラク戦争
 に反対した愛国者も、支持した愛国者も、みな同じアメ
 リカに忠誠を誓う『アメリカ人』なのだ」・・と語り、
  その模様が、広く全米に中継された。
  長年の人種によるコミュニティの分断に加え、
  2000年大統領選挙の開票やイラク戦争を巡って先鋭化
 した保守とリベラルの対立を憂慮するアメリカ人により
 この演説は高い評価を受けた。
  2008年(47歳)11月4日に行われたアメリカ大統領選で
 オバマは勝利した。
  しかし、オバマが、アメリカ大統領になった時は、ア
 メリカは大変だった。
  前のブッシュ(子、任期:2001年1月20日~2009年1月
 20日)が始めたイラク戦争(2003年3月20日開戦)の結末
 を付けなければならなかったし、
  また、2007年4月に、ニュー・センチュリー・ファイナ
 ンシャル(アメリカの住宅ローン会社)の倒産(連邦倒
 産法第11章の適用申請)が発端とし、波及し、サブプラ
 イム融資によって世界中に、前任のブッシュ大統領が、
 不良債権をまき散らかしていて、その不良債権を、オバ
 マ政権は買い取らなければならなかった。
  また、2009年、ゼネラルモーターズが破綻(はたん、
 オバマ大統領も苦労するが、もだえながら、2009年2月20
 日に経営破綻)した様に、
  長年の怠慢から、デトロイトの自動車産業は、技術的
 に遅れ劣ってしまって、オバマ政権が金を注入して、国
 際競争力を回復させなければならない企業になってしま
 っていたし、
  しかし、金を注入したって、デトロイトの自動車産業
 が破産状態から立ち直るのは望み薄だった。
  また、ブッシュがやったサブプライムローンの不良債
 権のかたまりの住宅は、1000万戸もあったし(べらぼう
 な戸数だ)、
  世界の金融業界は大混乱に陥らせてしまっていたし、
  まだまだ書けば書ける事があるというアメリカの最悪
 状態に就任した・・オバマ大統領だった。
  第二次世界大戦を、1941年に始めたアメリカの第32代
 大統領のフランクリン・ルーズベルト(任期:1933年3月4
 日~1945年4月12日)も、世界が大恐慌の真っ最中に大統
 領に就任した。
  オバマ大統領の様に、最悪の時に大統領になった。
  世界恐慌は・・、
  1929年10月24日、ゼネラルモーターズの株価が暴落し
 たのがきっかけで、株式市場は、11時頃には、売り一色
 の大暴落となった。
  そして、「暗黒の木曜日」と言われるこれがきっかけで、
 世界大恐慌は始まった。
  1930年代になっても、この世界恐慌は、規模と影響範
 囲が絶大で、手が付けられなかった。
  自律的な回復のめどが立たないほど困難だった。
  この様な、経済の最悪状態の時に、ルーズベルトは大
 統領になった。
  ルーズベルトは、最悪状態を抜け出すために、脱出す
 るために日本と戦争したいと考えた。
  結果的に、日本と戦争をはじめ、そして、経済はV字
 回復した。
  軍需産業は、フル回転し始めた・・、
  デトロイトの自動車産業にも依頼して・・タンクや大
 砲を造った(この産業界のプッシュもあったのか?)。
  また、日本をこのままにしておくと、アメリカがじり
 貧に陥(おちい)ると考えていた。
  アメリカの権益が減り、また、得られなくなり、更に、
 困った状況になると考えていた。
  ルーズベルトは、あらゆる策略を弄(ろう)して日本
 と戦争を始めようとした、
  そして、「勝てば官軍」の勝った者が正義だの論理で
 戦争を始めた。
  日本は追い詰められて、ルーズベルトの思惑にはまっ
 て行った。
  精神的にも戦争に駆り立てられて行った。
  アメリカでは、大きな戦争をして勝って(アメリカは、
 超大国、敗ける事はない)、その大統領は、尊敬を受け
 るというパターンが、それまでに多くの事例があった、
 ルーズベルトも、この軽蔑すべきパターンに入った。
  アメリカが、「戦争の好きな国」と言われる起因は、
 こんなところにも原因があった。
..
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