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2015年11月7日土曜日

(増補版)240D3/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1853年~1854年)

題:(増補版)240D3/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1853年~1854年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1853年(嘉永6年)、クリミア戦争(~1856年)
  この戦いの報が入って、急ぎ、ロシアに帰って行った
 プチャーチンだった。
  このクリミア戦争の報を受けたからだった。
1853年、獣肉店がある世相
  ペリーが来たこの頃、
  『薬食い』と称したイノシシ鍋があった。
  また、豚肉もモモンジャ(獣肉店)で売られる様にな
 っていた。
  琉球から伝わって来て、イノシシ、鹿のほかに豚肉も
 扱われ始めていた。
  新しいもの好きの一橋慶喜も好きだった様だ。
1853年、この頃の、日本の有志たちの考え、そして、これ
 からの有志たちの考え、
  諸藩の青年たちも、ペリー来航のこの機に、政治青年
 と化した。
  藩邸内では、若い藩士たちの議論が沸騰した。
  知のある者、情報のある者は、単に武器の差以上の差・
 違いを知っていた(一例:オランダの法律概論での知識
 や、ジョン万次郎は土佐藩でも事情聴取を受けていた)
  制度の違いにも驚いた。
  また、その様な武力以外の差の違いに気づく日本の青
 年たちだった。
  その様な差の中に、戦いの結末を悟る者もいた。
  開国を説き、軍備を整え、海軍力を整えてからの説の
 者もいた。
  見通していた。
  諸外国と対等に早くなることが第一だと、
  そして、「今の幕府では危ない」という考えも存在し
 た。
  その様な志士たちが、各藩の有志たちが交わった。
  その中で、有志の青年たちは、日本の方向を探り、活
 動して行った。
  制度が、「危機の根本原因にある」と知る者もいた。
  だから、旧体制を崩す事という者もいた。
  勿論、佐幕(尊攘・倒幕に反対し、幕府を支持した)
 の者も居た。
  尊王攘夷、佐幕開国など意見に湧いた。
  吉田松陰は、「諸侯や公卿を当てにしていても駄目だ。
 下級の民衆が決起するしかない。その為に藩が潰れても
 やむを得ない」・・の意見だった。
  久坂玄瑞(くさかげんずい、長州藩士、松蔭と双璧と
 言われた人)も、松蔭の「藩意識を捨て、日本国そのも
 のの危機に立ち向かおう」とする意見に到達した。
  竜馬も、この意見に大いに影響された。
  武闘に走る者も出ていた。
  斬る・斬られるの話である。
  そして、俊英な志士たちは、京・大坂に集まった。
  自分の考えを実行しようと脱藩して、京・大坂へ向か
 った。
  勝海舟も、幕末の動きを左右する思想の士であった。
  海舟は、アメリカに行って、アメリカを知っていた。
  海舟は、幕臣であったが、日本という国家百年を考え
 る士だった。
  海舟の先見の明(せんけんのめい、事が起こる前にそ
 れを見抜く見識)は、海軍重視にもあった。
  大砲を船に積んで、敵国の沿岸に近づけて、攻撃でき
 るシステムを重視していた。
  海舟は、幕府に「戦艦、百数十隻からなる大々連合艦
 隊」を構想し、幕閣に提案していた。
  そして、海舟は、諸藩から優秀な有志を入所させた海
 軍操練所も、幕府に提案し設置し、その構想を実行に移
 した。
  そして、幕府だけでなく、全国の藩からも金を集めて
 実現を目指した。
  勝海舟に感銘した竜馬も、目的達成のための金もうけ
 のため、亀山社中を創り、仲間を募り、活動を開始した
 (今の三菱系につながって行く)
  そして、全国の優秀な知識人たちをブレーン(頭脳)
 とし、繋がりを持ち、見識を広めて行った。
  ここが竜馬の優れたところ、長所だった。
  日本に、この様な人材たちが湧き出し、そして、
  この様に、日本を良くしたいという夢の橋を渡って、
  明治という世になって行く日本だった。
  違う夢の下で、藩と藩も戦った時を経て、新しい時代
 へと向かっても行った・・が、
  しかし、そこには、「共に目指す目標・夢は同じでは
 ないか」・・が存在した。
  そして、そこに、素晴らしい人たちは、維新後の世を、
 すでにおぼろげながらでもすでに描いていた。
  維新後は、ほとんど、躊躇なく、国づくりが進められ
 て行った日本だった。
  「五箇条の御誓文」の下敷きは、すでにできていた。
1854年(嘉永7年、安政元年)1月3日《12/05》プチャーチ
 ンが、ロシア艦隊4隻を率いて2度目の長崎へ来航。
  通商条約、国境問題の交渉を求めた。
1854年1月6日《12/08》勘定奉行の川路左衛門尉が、露使応
 接掛として江戸より長崎に来た。
1854年1月7日《12/09》大目付格西丸留主居の筒井肥前守、
 儒者の古賀謹一郎が、露使応接掛として江戸より長崎に
 来た。
1854年1月7日、この日までに、6回にわたり国境、通商問
 題などの交渉が行なわれた。
  後に、パルライダ号上の最終会談で、日本が他国と通
 商条約を結んだ際、ロシアも同一条件を与える旨が保証
 された。
1854年1月8日《12/10》目付の荒尾土佐守が、露使応接掛と
 して江戸より長崎に来た。
1854年1月12日《12/14》江戸より長崎に来た幕府要人が、
 奉行大沢豊後守、水野筑後守とともに、西役所で、露使
 節と会見した。
   ロシア側は、プチャーチン、使節付副官兼蘭語通訳官
 の海軍少佐ポシェット、旗艦パルラダ号艦長の海軍大佐
 ウニコフスキー、秘書官ゴンチャロフの4人で、
   筒井、川路は、「殊更に高き高麗べりの二畳台」に座
 り高さを合わせ、大通詞の西吉平衛と森山栄之助が同席。
   三汁七菜と酒の昼食ののち、正式な挨拶が交わされた。
1854年1月15日《12/17》プチャーチンが、旗艦パルライダ
 号に、筒井、川路、古賀らの日本人使節団を招き、船内
 を見学させた。
  士官室のテーブル上に敷かれた円周軌道を走る蒸気機
 関車の模型を、川路聖謨や森山栄之助らが日本で初めて
 見た。
1854年1月16日、ペリーが、江戸湾に再来航した(1月14日説
 あり)
  昨年やって来たアメリカのペリー提督が、この日、再
 び艦隊を率いて再来し、先に幕府に呈上した通商開港に
 関する国書の返答を、厳しく要求し始めたため、
  諸藩の沿岸警備隊は、再び、臨戦状態に入った。
  幕府が、下田、箱館(函館)の両港を開くことに決定
 し、ペリーに回答したのは2月末になってからであった
 (竜馬がゆく・1)
1854年1月16日《12/18》幕府要人が、西役所で、露使節と
 会見し、国書に対する回答書を交付した。
  使節らに、幕府からの贈り物を贈呈した。
1854年1月18日《12/20》、西役所で国境、通商問題につい
 て協議を開始した。
  以後、しばしば会談した。
1854年1月20日《12/22》露使節が、国王の献上品を西役所
 に持参した。筒井らが受け取った。
1854年1月、坂本竜馬が、鍛冶橋の藩邸から、築地の藩邸に
 移された、詰めきりとなる。竜馬、二十歳。
1854年2月5日《嘉永07・01/08》ロシア艦隊が、長崎を出港
 した。
  樺太国境と和親通商交渉、妥協せず。
1854年2月、閣老、阿部伊勢守正弘辞表。(氷川清話)
1854年3月3日、日米和親条約調印。
  再来日して、3月3日に、「日米和親条約」を締結。
  結果、伊豆国下田湊が即刻開港される。
  下田・箱館の2港を開く(神奈川条約)
  そして、なお、相州沖にいるペリー。
  すでに、3月3日、横浜の会見所仮り館で、幕府に対し、
 2港開港を約束させる旨を約束させたが、どういう訳か、
 なお去らず、艦砲を陸上に向けたまま、無言の威圧を加
 えた。
  諸藩の陣地は、緊張し切っていた。
  国詰の藩士たちも江戸に下って来た。
  相州、特に、三浦半島は、江戸の喉首(のどくび)に
 あたる要地であり、
  幕府は、譜代大名筆頭の彦根井伊家に警備を命じてい
 た。
  そして、このたび、陣地替えが行われ、井伊を羽田・
 大森の沿岸に移し、
  長州藩をして相州を守らしめることになった。
  長州藩は、外様ながらも、幕府の信頼の厚さに、藩を
 あげて感激し、
  家老・益田越中を、陣地指揮の先手総奉行に任じ、藩
 士の中でも、特に、腕の立つもの1000人を選んで配置し、
  さらに、120人を厳選して、三浦半島南端の宮田村とい
 う漁村の本営に駐屯させた。
1854年3月、長州の吉田松陰は、この3月、下田港から漕ぎ
 出して
  小舟を、米艦の舷側につけ、国禁の海外渡航を企てて
 米艦のほうから断られ(幕府との外交上のトラブルを恐
 れて)そのため江戸傳馬町の獄に入れられた。
  松蔭は、その後、囚人として、国元の長州の獄に送ら
 れ、
  やがて、生家・杉家で自宅軟禁の身となり、
  安政5年の3年目となった。
  そして、その翌年(安政6年、1859年)に、江戸で刑死
 した。
  この間に、松下村塾で子弟を教えた。(参考:竜馬が
 ゆく・2)
1854年3月、坂本竜馬が、築地藩邸から品川藩邸に移され
 台場の警備を命ぜられた。
1854年4月、砲台を品川に築く(氷川清話)
1854年4月、軍制改正を令す(氷川清話)
1854年4月、鉄砲四季打ち稽古を許す(氷川清話)
1854年4月、日本船印、白地に日の丸と定む(氷川清話)
1854年4月、吉田虎次郎、佐久間象山、国禁を犯したとい
 うことで、各在所に於いて蟄居を中付けられる(氷川清
 話)
1854年4月、禁裏炎上(氷川清話)
1854年4月20日《03/23》プチャーチンが、ロシア艦隊3隻
 を率いて3度目の長崎に入港。
1854年4月26日《03/29》クリミア戦争勃発で、上海まで後
 退するが、執拗に長崎、樺太、函館に来航した。
1854年4月30日、日米和親条約締結を不満として、前水戸藩
 主の徳川斉昭が、海防参与を辞任した。
1854年5月25日、幕府が、日米和親条約付録協定を調印(下
 田条約)
1854年5月25日、幕府が、海防と、禁裏造営のため、江戸町
 民に献金を命じた(献金が29万6000両にのぼった)。
1854年6月1日、ペリーの黒船が香港へ去った。
  幕府批判と攘夷論で騒がしくなった。
  御政道が口に出る世になった(それまで、とやかく言
 えなかった)
1854年7月9日、幕府、日章旗をもって日本国総船印と制定
 した。
  薩摩藩主・島津斉彬の意見で、日本総船印として「白
 地日ノ丸幟」が定められた。
  日本総船印とは、白地に朱で日の丸を描いた船の幟(
 のぼり)で、縦長で御用などの文字も書き込まれた。
  外国船と区別するために定められ、日の丸が国旗とさ
 れる前提となった。
1854年閏7月15日、イギリスの東インド艦隊の司令長官スタ
 ーリングが、軍艦4隻を率いて長崎に入港した。
  4隻のうち、3隻が蒸気船で、露艦隊探索のため諸港
 の出入りを要求した。
1854年8月10日、イギリス艦乗組員に昼間、ねずみ島の上陸
 を許した。長崎近くのねずみ島、
1854年8月23日、日英和親条約を長崎で調印した。
  長崎と箱館の2港を開港した。
1854年8月29日、イギリスの東インド艦隊の司令長官スター
 リングが退去した。
1854年8月、オランダ東洋艦隊所属の軍艦スームビング号が
 長崎に来航し、
  艦長・ファビュス中佐は、幕府の求めに応じて、3か月
 間の海軍技術の指導を、旗本子弟に教えた。
  そして、オランダ政府は、このスームビング号を、国
 王・ウィルヘム3世の名において、日本政府に寄贈すると
 した。
  観光丸と呼ばれた、
  長さ29間(53M)、幅5間(9M)、砲6門、150馬力(氷
 川清話)
1854年9月2日、幕府が、オランダに下田と箱館を開港する。
  (氷川清話)には、下田、凾館、長崎を互市場とする
 仮条約を結ぶとある。
1854年10月、米船、下田、凾館に寄港する事を許す(氷川
 清話)
1854年10月、一朱銀を鋳る(氷川清話)
1854年10月、プチャーチンが再来した。
1854年10月、竜馬が、安政1回目の地震(寅の大変)直後に、
 江戸を発し帰国の途に着いた。
1854年11月27日、嘉永7年から安政1年に改元された(氷川
 清話)
1854年12月18日、勝海舟、次男四郎誕生(氷川清話)
1854年12月21日、幕府が、日露和親条約を、下田の長楽寺
 で調印した。
  下田・箱館・長崎を開港した。
  択捉とウルップ両島間を、日本とロシアの国境とした。
  そして、樺太は、日本とロシアの雑居地とした。
1854年12月23日、安政東海地震(巨大地震)(11月4日説 
 あり)早暁、大地震が東海、畿内を襲った。
  津波でディアナ号が遭難した。
  この年に、日露和親条約締結交渉のため、エフィム・
 プチャーチンの乗艦として、箱館・大坂を経て、下田を
 訪れた際、安政東海地震による津波で大破した、そして、
  宮島村(現、富士市)沖で沈没した。
  プチャーチンは、乗員の帰国のため、アレクサンドル・
 モジャイスキーらの指導で、日本の造船工により帆船「
 ヘダ号」を建造した。
  日本の造船工に、洋式造船技術が伝わるきっかけとな
 った。
1854年12月24日、安政南海地震(巨大地震)。
1854年12月26日、豊予海峡地震。
1854年、幕府、東海道各駅の人馬賃銭を5割値上げ。
1854年、井伊直弼が、この年の和親条約締結に尽力し、こ
 の年、京都守護を命じられた。
1854年、横浜の半農半漁の地は、約100戸の地だった。
  島原の乱を、キリスト教の作家(星野博美氏)が、読売
 新聞に、3万7000人の民が犠牲になったと根拠のない事
 を書いた。
  因みに、キリスト教に偏するNHKも、ふかして人数
 を放送したが、その人数は1万5000人だった。
  何で、キリスト教作家は、こんなにふかしたのか?
  島原の乱は、百姓一揆として起きた。
  横浜が100戸で、せいぜい500人くらいの人口。
  横浜より辺鄙(へんぴ)な島原で、かつ、200年以上前
 に、何で、37000人の数字が出るのか、NHKもおかしい。
  百姓一揆を起こしたとしても数100人の規模。
  そんな人数を、キリスト教は良くプロパガンダ(嘘宣
 伝)するが、人数のふやかし過ぎだ。
  すぐおかしいと分かる、判明する。
  周りから人が集まったとしたって、戦死をした人は数
 千人程度だ。
  このキリスト教作家も、NHKも嘘の言い過ぎである。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

2015年11月6日金曜日

(増補版)239D3/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1853年~1853年)

題:(増補版)239D3/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1853年~1853年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1853年(嘉永6年)7月、勝海舟、海防意見書提出。この頃、
 大久保忠寛(おおくぼただひろ)に知らる(氷川清話)
  大久保忠寛は、勝海舟と共に幕政の運営にあたった。
  忠寛(1817年~1888年)は、議会制を主張する先駆者
 だった。明治21年没(71歳)
1853年7月、船艦を和蘭より買う(氷川清話)
1853年7月、将軍家慶逝去(慎徳院)。家定将軍宣下(氷川
 清話)
  13代将軍・徳川家定が将軍になった。
  (将軍期間:1853年~1858年)
1853年7月18日、露国軍艦2隻、樺太境界確定請求書持参(
 氷川清話)
  ロシアは、日本とロシアの国境は樺太にあるとして、
 それを確定したいとして来た。
  来たのはロシアのプチャーチンで、4隻のロシア艦隊を
 率いて、長崎に来た。
  皇帝ニコライ1世の国書を捧持(ほうじ、ささげて持つ
 こと)していた。
  プチャーチンは、国使としての来日だった。
  当時、ロシアは、赤蝦夷と呼ばれた。
  先覚の師・林子平は、寛政年間(60年前)(1792年に
 「海国兵談」で罰せられている)に・・、
  「赤蝦夷には、在来、南へ勢力を伸ばそうという意思
 がある。将来、日本にとって恐るべき禍根になる」と公
 表していた。
  60年前に、「妖言(およずれごと、ようげん、根拠の
 ない、人を迷わせる言葉やうわさ)を言いふらす」と罰
 せられていた。
  プチャーチンは、震え上がっているだろう幕府へ、
  「ロシアと通商を開けば、日本は商業上の利益だけで
 なく、軍事上の利益もある。
  もしアメリカが、日本を侵略すれば、我々は、艦隊で
 陸兵を送って戦ってやる」と言った。
  ロシアの言い方は、アメリカと対照的な懐柔策だった。
  長崎奉行所の役人も、江戸表への報告書にも、「ロシ
 アは、アメリカと違ってたいそう平和的である」と、付
 言した。
  このため、幕閣や、江戸の論壇は、一時、親露論が圧
 倒的に強くなったのだった。
  幕閣の中の、外務省とも言うべき海防掛は、ロシアか
 ら軍艦や大砲を提供してもらって、
  アメリカの強圧を、「撥ね除こう」という意見を持っ
 た。
  しかし、実際は、この頃のロシアは、クリミア戦争の
 真っ最中で、セバストボール要塞の攻防戦を繰り広げて
 いた。
  しかも、ロシアの敗色が濃かった。
  日本のこの様なことに、関われる状況にはなかった。
1853年8月、水戸斉昭隔日登城、意見を提出す(氷川清話)
1853年8月、品海砲台築造を命ず(氷川清話)
1853年8月、用度を節しつとめて海防に用うべきを命ず(氷
 川清話)
1853年9月、大船製造を許す。幕府、オランダに軍艦・兵器
 を注文。
1853年9月21日《08/19》奉行の大沢豊後守が、西役所で使
 節と合う。
  プチャーチンからの国書を受け取り、すぐ幕府へ送る。
1853年10月、高島秋帆、一身の危険をかえりみず上書「嘉
 永上書」を書き上げた、
  「嘉永上書」には、交易通商を行ない、それにより利
 を得て国防を充実させることなどを詳しく述べた。
  (明治維新の政策はこの通りになった・・正論)。
1853年10月18日《09/16》、奉行所よりロシア艦へ、将軍・
 家慶の死を伝え、国書の回答が遅れることを告げた。
1853年10月20日《09/18》、ロシア使節は、書面をもって弔
 詞を述べた、
1853年10月27日、吉田松陰が、ふたたび長崎に、濱町に泊
 まる。
  そして、来泊中の露艦に乗り、密出国するのが目的だ
 としたが、果たせず。
  11月1日に、長崎を出発して熊本へ向かう。
1853年11月8日《10/08》、幕府派遣のロシア使節応接掛の
 人選が難航した。
   勘定奉行兼海防掛の川路聖謨と大目付格兼応接掛の筒
 井正憲らに決定し、上使として長崎に下向した。
1853年11月23日《10/23》、通商が拒否され、ロシア艦隊は、
 上海へ出帆した。
  プチャーチンは、回答を待つうち、ヨーロッパの風雲
 急(クリミア戦争の戦況)との報に、にわかに帰国する
 ことになった。
  再渡を約して出港した。
1853年、勝海舟、武術台覧を受け、巻物二を賜う。(氷川
 清話)
1853年11月、大量の大砲製造。
  ペリー来航をきっかけとして、幕府が公布した「洋式
 砲術令」によって、
  萩藩は、1853年11月に、郡司鋳造所を藩営の大砲鋳造
 所に指定した。
  そして、ここで、大量の青銅製大砲を鋳造した。
  また、ここで鋳造された大砲は、江戸湾防備のため三
 浦半島に設けられた萩藩の陣屋に運ばれた。
  そして、1863年の、下関海峡での外国船砲撃に使われ、
  また、1864年の、同海峡での英・仏・蘭・米連合艦隊
 との戦争(下関戦争)にも使用された。
  郡司鋳造所は、在来技術である「こしき炉」によって
 西洋式大砲を鋳造した。
  近代技術へと移行する過渡期を物語る産業遺構として
 貴重で、なかでも、西洋式の青銅大砲を鋳造し、一番深
 いところで4.5mある巨大な石組みの大砲鋳造遺構は日本
 で唯一。
1853年、この時、幕府は・・、
  このペリー来航時に、幕府が弱腰だったのは、財政難
 でもあったからだった。
  直参・旗本の戦備が関係していた。
  戦備を整えられる直参・旗本が心もとなかった。
  来航した4隻の艦名は、旗艦サスクェハナ以下、ミシシ
 ッピー、サブライ、カプリスで、
  ペリーは、この4艦をひきいて、「にわかに」と感じ
 られるぐらいに、突如として、江戸湾口の相州浦賀沖に
 あらわれた。
  そして、浦賀沖から鴨井村沖にかけて投錨し、
  浦賀奉行所役人を通じて、将軍へ、アメリカ大統領ウ
 ィルモアの親書を呈するため来航した旨を伝えた。
  浦賀奉行所の与力・中島三郎助らが、ペリーの副官・
 コンテー大尉に会う。そして、
  「日本の国法として、外国の事はすべて長崎で取り扱
 う事になっている。早々に長崎へまわられよ」と言うと、
  アメリカ側は、「本国の命令で、江戸に近い浦賀に来
 た」。
  「長崎にはまわらない」・・と、頑として聞かない。
  そればかりか、艦隊は、砲艦外交の情報通り、戦闘準
 備さえ整えた。
  そして、4隻の黒船が、にわかに浦賀沖で抜錨(ばつび
 ょう、船の錨を上げて出帆すること)し、
  江戸湾奥に向かって突進し始めた。
  そして、測量をし、そして、測量をしただけではなく、
  品川の見える辺りまで近づいて来て、
  脅すために轟然(ごうぜん、大きな音がとどろき響く
 さま)と、艦載砲を撃ち放った。
  この品川沖の数発の砲声は、効き目があった。
  幕府は、この時から、開国へと徐々に踏み切る決意を
 して行く。
  幕閣は震えあがったのだろう。
  この様な時に、守るべくして将軍のお膝元にいた8万
 騎の旗本、
  幕府は、黒船警備に大名の力を借りようとするばかり
 で、直参というこの直衛兵団を使わない。
  使えなかったのだった。
  幕府の旗本・御家人は、その日を食べるのが手一杯だ
 った。そのため・・、
  武具、馬具、家来を揃えて出陣できるような状態では
 なかった。
  クジラ目あてに日本近海に来て、日本をどうのこうの
 とする目的ではない。
  ちょっと走れば、燃料切れになる。
  日本の寄港地が、こういう事情から欲しかった。
  また、この軍艦が撃った弾がどうだったかの話は何も
 ない。
  撃った音に驚いたの話はあるが・・?
  その様な、その程度の破壊力だったのだ。がしかし・・、
1853年、この時、吉田松陰は・・、
  ペリーが来た時、チャンス到来とばかり、吉田松陰は、
 密出国しようとした。
  そして、行動を起こした。
  そして、幕府官吏に捕まった。
  松蔭は、下田に碇泊している黒船に舟で漕ぎ寄せて、
 乗船を乞うた。
  彼は、弟子の金子重輔と共に決行した、実行した。
  アメリカ側は、幕府との間で、外交問題に発展する事
 を恐れた。そして、拒絶した。
  松蔭は、下田の役人に逮捕された。
  そして、江戸の北町奉行所へ「唐丸籠(とうまるかご)」
 で護送された。
  唐丸=ニワトリを飼う籠に似ている所からこの名があ
 り、罪人を護送する籠で、上を網でおおった竹籠。
1853年、この時、井伊直弼は・・、
  井伊直弼は、この時、相模沿岸の警備にあたっていた。
  この頃から、開国和親の考えを持っていて、江戸城溜
 間詰の譜代大名らの保守派の代表となって、
  水戸の徳川斉昭らの強硬な攘夷論、幕政改革派とは、
 対立していた。
1853年、この時、長州藩は・・、
  ペリー来航の直後、長州藩は、軍艦建造など軍備の増
 強に力を入れ、戦う姿勢が盛んであった。
  この方針に反対する派は、乱費だとしたが、保守だと
 され、そして、罷免された。
  尊王攘夷の急進派が実権を握った。
  この路線で、長州藩は突っ走って行った。
  だから、高杉晋作らの松下門の過激派が暴走しても、
 彼らの行動は黙認された。
  逆に、庇(かば)われ、保護が与えられるという寛大
 さだった。
  しかし、長州藩も揺れた。
  俗論派とも、たびたび入れ替わった。
1853年、しかし、この時、全国は・・、
  品川沖の展開があっても、全国には、猛然と志士たち
 が立ち上がった。
  開国反対、外国人は打払うべしの攘夷論が、天下を覆
 い始めたのも、この時からだった。
 「泰平の眠りを覚ます蒸気船、たった4杯で夜も眠れず」
  日本の志士たちは立ち上がった。
1853年、この時、江戸っ子たちは・・、
  江戸市中には、この時、市中に落書が張り出された。
  上喜撰(じょうきせん)というのは、上質の銘茶で、
 これを蒸気船にかけ、詠ったのが・・
 「泰平の眠りを覚ます蒸気船、たった4杯で夜も眠れず」
 だった。
  上も下も、夜も眠れずに興奮していることを皮肉って
 いた。
  しかし、この騒ぎは、ほどなく、「何があったの?」
 という感じで静まったのだった。
1853年、この時、竜馬は・・、
  竜馬の家の身分は、武士と町人の中間に、曖昧(あい
 まい)に位置した。
  竜馬は、この封建身分制下の閉塞感を、特に、青年期
 にいる竜馬には、切実に感じ、意識していたようだ。
  身分的なコンプレックスはあったようだが、武士階級
 に憧れたという様子・気配はない。
  父や姉に勧められ、町道場の主になるつもりで、19歳
 の春に、江戸に剣術修行に出たのだった。
  入門先は、北辰一刀流の千葉定吉の道場で、二流の道
 場だった。
  当時の一流は、江戸の三大道場で(千葉周作の玄武館、
 桃井春蔵の士学館、斎藤弥九郎の練兵館)だった。
  竜馬は、世評に捉われないで、ただただ土佐藩邸から
 近いという理由だけで選んだ道場へ通った。
  竜馬の政治への目覚めは遅かった。
  しかし、この黒船の一件が、竜馬も、目覚めさせた。
  いっぺんに、竜馬を道場主の頭から、国士へと向かい
 始めさせたのだった。
 ..
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2015年11月5日木曜日

(増補版)238D3/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1851年~1853年)

題:(増補版)238D3/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1851年~1853年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1852年(嘉永5年)2月、徳川慶篤(とくがわよしあつ、常
 陸水戸藩主)が、「大日本史紀伝」を朝廷、幕府に献上
 した。
  徳川慶篤は徳川斉昭の長男。徳川慶喜の兄。
  1858年に、父と共に日米修好通商条約の無断違勅調印
 に抗議して、江戸城に不時登城(定式登城日以外の登城)
 して、登城停止の処分を受けた。
  1863年に、朝命により横浜鎖港に当たった。
  大日本史は紀伝体なのでこの名がある。
  紀伝体(きでんたい)とは、歴史記述の一形式で、本
 紀(ほんぎ、帝王の年代記)、列伝(臣下の伝記)、志
 (社会の現象)、表(年表や系譜など)から成るが、本
 紀と列伝が中心なのでこの名がある。
1852年5月、幕府が、彦根藩に西浦賀一帯の警備を命じた。
  西浦賀一帯が彦根井伊家の所管とし、浦賀奉行所は、
 外国人応接と浦賀港内警備に特化した。
1852年5月、幕府が、武州(武蔵)大森海岸の大砲演習場を
 完成し、旗本・諸藩士にその使用を許した。
1852年6月、オランダ商館長のクルチウスは、幕府に、東イ
 ンド総督の書簡(別段風説書)を渡し、
  明年(1853年)、アメリカ使節が来航し、開国を要求
 する事を予告(アメリカの極東における砲艦外交)した。 
  砲艦外交(ほうかんがいこう)は、海軍力を誇示する
 ことで、相手国に心理的圧力をかけ、交渉を有利に進め
 ようとする外交の戦略。結局、その手に乗り、その通り
 になった。
1852年6月24日、ロシア軍艦のメンチコフ号が、下田に来航
 し、漂流民を置いて去った。船長はリンデンベルグ。
  紀伊の漂流民だったが、下田代官所は受け入れを拒否
 した。
  漂流民は、伊豆中木村に置き去りにされた。
1852年7月、ジョン万次郎が、12年ぶりに故郷に帰った。
1852年8月、幕府が、溜詰(たまりづめ)諸侯に、アメリカ
 使節の来日予定の報を伝達した。
  溜詰は、大名が江戸城に登城した際、黒書院の溜の間
 に席を与えられた。
  親藩や譜代の重臣から選ばれ、老中と共に政務上の大
 事に参画した。 
1852年、五島各地に、疱瘡、コレラ(とんころりん)が蔓
 延した(~1853年まで)
  長崎に入ったコレラは、たちまち大阪まで広がって行
 った。
1853年(嘉永6年)2月、瀬川如皐(せがわじょこう、歌舞
 伎役者)の「与話情浮名横櫛(よわなさけうきなのよこ
 ぐし、切られ与三)」が初演された。
  世話物で、木更津の博徒の妾・お富と伊豆屋の若旦那
 与三郎の情話を描いたもの、
1853年3月11日、関東地震(嘉永小田原地震)
  マグニチュード6.5と推定され、
  小田原城の三の丸の藩校・集成館が倒壊した。
  箱根など341ヶ所で山崩れ、
  江戸城でも大手門の渡櫓内の壁がすべて落ちた。
  東海道は、道路や関所の被災で、1週間が通行不能。
  全壊1032戸、半壊2477戸、死者24人、
1853年5月、坂本竜馬(17歳)が、江戸に到着した。
  内桜田鍛冶橋の土佐藩下屋敷に草鞋をぬぐ。
  桶町の北辰一刀流・千葉貞吉道場(千葉周作の弟)に入
 門した。
1853年6月3日、黒船来航(くろふねらいこう)
  アメリカ東インド艦隊司令長官マッシュ・ペリーが、
 遣日国使として、軍艦4隻を率いて相模国浦賀沖に来航
 した。
  当初、久里浜に来航したが、当時、久里浜は砂浜で黒
 船が接岸できなかったことから、幕府は江戸湾浦賀に誘
 導した。
  アメリカ大統領・フィルモアの親書を、幕府応接掛の
 戸田氏栄に手交し、開国をせまった。
1853年6月9日、幕府は、久里浜で、アメリカ大統領フィル
 モアの国書を受領した(6月6日説あり)
1853年6月12日、ペリーは、国書の回答を明年に延期するこ
 とを認め、琉球へ去った。
1853年6月22日、第12代将軍・徳川家慶(とくがわいえよし)
 が、ペリー来航直後に没した(1793年~1853年)(61歳)
  阿部正弘を用いての海防問題対処の真っ最中での、病
 死であった。
  将軍のこの死もあって、幕府は、黒船対応に慌てた。
1853年7月、大名・旗本に開国是非の意見を聞く。
  これは異例の事態だった。
  前代未聞の事だった。。
  老中の阿部は、大名から旗本、さらには、庶民に至る
 まで、今まで幕政に加わらない人たちにまで、意見を求
 めた。
  これで、完全に幕府の権威は落ちて、且つ、堕ちる事
 となった。
  幕末の混乱への道程・一里塚となった。
  こんな事で意見がまとまるわけがない。
  (老中の阿部はすがった、これからズーット、この「
 すがり」で行く、この老中は・・)。
  これは、別な意味で、幕末の志士、日本を憂える俊英・
 勇士たちの出る機会ともなった、端緒となって行ったと
 言える。
  そして、世は沸騰して行く。
  徳川斉昭が怒ったのが・・正解だったのだ。
  当時の性能の軍艦4隻で、大砲を撃ったとしたって、撃
 ち尽くせば、国にまで取りに帰らなければならないし、
  また、その時の、無防備な状態の時が、多くの武士の
 居る日本のチャンスなのだ、その時に攻めれば、軍艦4隻
 を奪う事さえできたのだ。
  薪・水を、年がら年中、貰わなければ動けない船だっ
 たのだ。
  老中・阿部を筆頭に怖気(おじけ)づき、「たった4
 杯で夜も眠れず」だった。
  この詩の様に、見抜いて、馬鹿にして、詠っていた人
 も居た。
1853年8月6日、幕府が、高島秋帆(56)の禁固を解く。
  国防に知識のある人材を、必要せずとして捕えられて、
 足かけ12年の捕縛だった。
  そして、後に、秋帆は、お香(50・妻)、浅五郎(33・
 息子)、太郎(11・孫)の4人で、江戸に住むようにな
 った。
  秋帆は、海防掛御用取扱いとして、江川太郎左衛門の
 下について、品川台場の建設に従事した。
1853年8月22日《07/18》、ロシア使節・海軍中将極東艦隊
 司令長官ワシリエビッチ・プチャーチンが、長崎に来航
 した。
   軍艦4隻を率い開国をせまった。
  (旗艦パルラダ号以下4隻の艦隊)。
  うち1隻は、日本最初の蒸汽船の来航だった(火船と
 称した)
  長崎入港目的は、アメリカにより通商の利の独占を恐
 れての行動で、
  遣使奉行所では、食糧を供するとともに、幕府の指示
 を求めた。
  来航目的は、千島、樺太の測量と、ロシア皇帝の通商
 を求める国書の手交(しゅこう、直接に相手に渡すこと)
 だった。
  日露修好条約原案は、シーボルトによって書かれたも
 のだった。
  艦隊の長崎停泊中の警備は、筑前、佐嘉、平戸、島原、
 唐津、大村の諸藩の兵1万7226人と、船734隻があたった。
1853年9月、幕府が、大船禁止令を解いた。
  そして、逆に、幕府は、諸藩に大船の建造を促した。
  この時は、幕府もそうだが、日本中の誰もが、度肝を
 抜かれた状態だった。
  見てもいないものを恐れていた。
  薪・水を求めて来る船、補充の利かない船なのに、こ
 んな弱点もある艦隊なのに・・、
  薪が無くなれば、動けなくなるのに畏れるのだった。
  そして、素直に諸藩は大船建造を競った。
  幕府も、浦賀で洋式船の模倣建造を始めた。
  この時、また、優秀な日本人が登場した、中島三郎助
 である。
  彼は、1853年7月に、ペリーが来航した時に、副奉行と
 称して、通詞の堀達之助を連れて、ペリー艦隊の旗艦「
 サスケハナ」に乗船した。
  そして、その後、浦賀奉行・戸田氏栄ら重役に代わっ
 て、香山栄左衛門とともに、アメリカ側使者の応対を務
 めている・・が、
  この時の、アメリカ側の記録では、船体構造・搭載砲
 (ペクサン砲およびダールグレン砲)・蒸気機関を入念
 に調査していた。
  ことから、密偵のようだと、アメリカ側の記録に書か
 れくらいだった。
  ペリーの帰国後、彼は、老中・阿部正弘に提出した意
 見書で、軍艦の建造を具申した。
  そしてまた、蒸気船を含む、艦隊を造るべきだと、艦
 隊編成を、艦隊設置を具申している。
  そして、何と、この計画を1854年に、完成している。
  この日本初の洋式軍艦は「鳳凰丸」と言った。
  彼は、製造掛の中心として活躍し、完成後は、その副
 将に任命された。
  驚くべき優秀な日本人だった。
  鉄砲の伝来の時も、直ぐに、自前で作ってしまう日本。
  そして、世界一の優秀な火器を所有する、揃えた国と
 なっていた。
  信長・秀吉・家康の頃の日本、この時も、そうだった。
..
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2015年11月3日火曜日

(増補版)237D3/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1850年~1851年)

題:(増補版)237D3/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1850年~1851年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1850年(嘉永3年)10月11日《09/06》長州藩士の吉田松陰(
 21歳)が、
  長崎へ来遊し、高島浅五郎(たかしまあざごろう、砲
 術家)を訪ねた。
  松蔭は、兵学師範の家を継いだので、
  長崎の警備の様子などの実際を見たかったのだろう。
  また、長崎には高島秋帆もそうだが、松蔭の様な先進
 的な人にも教授できる教養ある町年寄・通詞・町人など
 の多数が、
  存在する教養と文化のある都市だった。
  浅五郎は、高島秋帆の長男で、父に西洋砲術、および、
 荻野流砲術を学んだ。
  1841年には、父に従い、武蔵徳丸原で西洋砲術の演習
 を行なった。
  後に、幕府講武所の教授となり、大砲差図役になった。
1850年10月16日、松蔭が、平戸に向かった。
  松蔭の著の「西遊日記」に、山鹿流兵学の師の居住す
 る平戸藩に訪ねるの理由があった。
  唐人屋敷を見て、出島を訪れ、そして、
  オランダ船に乗り、船中で「酒と糠」でもてなされた。
  また、舟を雇って、西泊の番所や、石火矢台などを見
 て いる。
  平戸滞在は、10月19日《09/14》~12月9日《11/06》の
 51日間だった。
  平戸の学舎・葉山佐内(はやまさない、または、葉山
 高行、平戸藩武士)に学ぶ・・とある。
  12月11日《11/08》、平戸からの帰りに長崎に来遊した。
  松蔭には、1851年1月2日、出発して、茂木から天草の
 富岡に渡る・・ともある。
  そして、1853年10月27日、ふたたび長崎へ、濱町に泊
 まる・・とある。
  そして、来泊中の露艦に乗り、密出国しようとするが、
 果たせず・・ともある。
  11月1日、長崎を出発し熊本へ向かう。
1850年12月、幕府、相模観音崎砲台を改築する。
  そして、この年、幕府、佐渡海岸要地に台場を築く。
1850年12月、江川英竜が、伊豆韮山に反射炉を築く。
1850年12月、鉄砲の鋳造や、
  および、領内・江戸藩邸内での軍事教練を、幕府に願
 い出る大名が、多数に及ぶ。
1850年、高野長英、自刃す(46歳)(氷川清話)
1850年、孝明天皇は、7社7寺に勅を下し、外患攘夷を祈祷
 させた。
1850年、仏船、来る(氷川清話)
1850年、神島、佐渡相川に砲台を築く(氷川清話)
1850年、井伊直弼が、家督をついで掃部頭(かもんのかみ)
 と称し、藩政(近江彦根藩主)につとめた。
1850年頃、幕府の天領は、元々豊かな土地が選ばれていた
 が、
  その上、租税が安く、
  農家は、その為に、年々の生産に余剰を得て、
  その余剰分が、商品経済に関係して行ったりした。
  百姓屋敷なども、立派な場合が多い。
  奈良県は、大部分が天領であった。
  白壁屋敷が多いことなども、その要素を外しては考え
 にくい所となっている。
  天領の租税というのは4公6民という江戸初期の原則が、
 ほぼ貫かれていたようだった。
  幕末頃、紀州藩などは6公4民で、もしくは、もっとひ
 どくなるという惨状を呈した。
  紀州人は、今でも、紀州徳川家を懐かしむ所が薄い。
  天領であった倉敷(岡山県)の場合、「天領根性」と
 いう言葉が、今でも残っているくらいで、
  隣接する備前岡山藩(池田家)領の領民の貧しさを笑
 い、倉敷の豊かさを誇るところがあった。
1850年、アメリカの議会が、日本をクジラ捕りの基地にし
 ようと決議した。
  そして、ペリーの日本派遣となった。
  ヨーロッパの贅沢のために、この様な動きとなった。
  ヨーロッパは、アジアなどの植民地からの利益の収奪
 で潤い、豊かな生活となっていて、夜遅くまで贅沢に暮
 らすようになっていた。
  クジラの油は、その為に、大量に消費されるようにな
 っていた。
  クジラは油を取るだけで、その他のほとんどが捨てら
 れた。
  可哀想なクジラの利用率だった。
  日本は、捨てる所がないほどに、クジラを生かしてい
 る。
1851年(嘉永4)1月、アメリカ船が、漂流民の土佐漁民・
 中浜万次郎らを、琉球に送り、上陸する。
  薩摩侯は、これを長崎に送った。
1851年1月、幕府、武蔵大森に大砲演習場の築造を決める。
1851年2月、幕命により異国剣付銃50挺を浦賀に贈る
1851年2月、幕府、水野忠邦の蟄居を解く。忠邦、翌日死去。
1851年3月、幕府、下田の警備を江川英竜に命ずる。
1851年3月、株仲間の再興許可。
1851年6月、長崎で、寄合町の筑後屋、遊女深山がフレデレ
 キ・コルネリウス・ロ-セとの間に女児「ひろ」を生む。
  今町の「とき」を雇入れ、筑後屋の遊女の籍に入れ乳
 母遊女として出島に入れる
  後に、「ひろ」(4歳)は、驚風症(小児のひきつけで、
 急に、高熱を発して目が紅く、混迷してひきつける、内
 に鬱熱あり、外に風邪をさしはさみ、心家熱を受けて積
 みて驚す)で、残念なことに死去してしまった。
  遊女は、日本語、オランダ語、マレー語の3か国語の
 混合の言葉で、紅毛人と会話していた。
  また、出島の遊女の部屋は、秩序正しく綺麗であるの
 記録がある。
  紅毛人は、家事を遊女に任せているが、解雇権を持っ
 ており遊女は遠慮がちである、
  これらの遊女たちは、ヨーロッパの大都会で見受けら
 れるような淪落(りんらく、落ちぶれて身を持ち崩すこ
 と)した淫乱な女だとは思われていない、
  貧しい親が、娘を養えないときは、6才から8才で茶
 屋へ連れていく、
  そこでは、都びた日本風の教育と躾を受け、小間使い
 として年長の遊女に従う
  14才になると、遊女になり
  25才になると、自由に身となって、良い結婚をして立
 派な母となる。
  日本人は、事情があって遊女になったのだからと優し
 い心で許した。
1851年7月、オランダ船が、長崎に入港し、太平天国の乱な
 どを報ずる。 
1851年8月、島津斉彬が、精煉所を鹿児島に置く。
1851年12月、イギリス軍艦が、那覇に入港した、
  艦長は、首里城に入った。
1851年、暮、本木昌造が、長年の苦心の末、種字から鉛の
 字母を作り、鉛と錫とアンチモンの合金で、丈夫な活字
 を作り、
  そして、流し込みの鋳型を作り、一通り出来上がった。
  1869年(明治2年)6月、本木昌造が、唐通事会所跡に
 長崎製鉄所付属の長崎活版伝習所を設立した。
  唐通事会所跡は、興善町の(旧新興善小学校)の地。
  上海のミッションプレス美華書館の、活字技師・ガン
 ブルを招いた。
  中国文や欧文の活字を持ち込み、電胎法による母型の
 作り方を教授した。
  1870年(明治3年)3月、本木昌造が、日本活字を創製。
 新町に新町活版所を開き、活字鋳造と印刷事業を始める。
  日本の民間印刷所の始まり。
  1870年(明治3年)、大阪に、大阪活版所を開設。
  1873年(明治6年)、東京に、長崎の出張活版製造所
 (のち東京築地活版製作所)を開設。
1851年、アメリカの西部のララミーの砦に、スー族・シャ
 イアン族・アラパホ族などの有力部族が集まって、平和
 条約に調印した。
  それから4年後、ブラックフィート族が、調印して加わ
 り、アメリカ軍の領内の通過を認め、電信施設の設置を
 認めた。
  インディアンの人々は、金(ドル)を得て、食糧を買
 入れた。環境が全く変わり、そうせざるを得なかった。
  卑劣な事に、白人のアメリカ人は、インディアンの方
 々の食糧であるバッファローを、必要もないのに殺しま
 くった。
  それでも、1862年までの12年間、平和な状態が続いた。
  しかし、南北戦争が始まると、南軍も北軍もアメリカ
 軍は、インディアンの方々を味方にしようと工作して、
 その平和な状態は崩れた。
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2015年11月2日月曜日

(増補版)236D3/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1849年~1850年)

題:(増補版)236D3/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1849年~1850年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1849年(嘉永2年)1月18日、甲州街道日野宿に大火事があ
 った。
  新選組の副長になった土方歳三は、1835年5月に、武
 州多摩郡石田村(現在の日野市石田)に生まれた。
   この石田村は、多摩川と浅川の合流する近くにあり、
 水田の広がる15、6軒の小さな村だった。
  村は、すべてが、土方(ひじかた)の苗字で、
  区別がつかないので、それぞれの家は、家号つけた呼
 名で呼ばれていた。
   歳三の生まれた土方家は、村では「大尽」と呼ばれて
 いた。
   歳三は、この大尽の何代目かの隼人義諄の末っ子に生
 まれ、兄が3人、姉が2人いた。
  歳三の父は、歳三の生まれる数ヶ月前に病気で亡くな
 っており、母も、歳三が6歳のときに亡くなった。
  その為、歳三は、兄夫婦に育てられた。  
  歳三が、13歳の年の1846年6月、大雨が降り続き、
  歳三の家は、多摩川が洪水となったため、流されそう
 になった。
  そして、その後、江戸へ、丁稚として奉公に出された。
  しかし、歳三は、番頭と喧嘩をして帰ってきてしまっ
 た。
  そして、歳三は、18歳のとき、また、上野広小路にあ
 った伊藤松坂屋へ奉公に出た。
  が、これも長続きしなかった。
   歳三の生家・土方家は、農業の傍ら「打ち身や挫き」
 に効く「石田散薬」という薬を作って、売っていた。
  この薬は、土用の丑の日に、近くの多摩川や浅川に生
 えている「牛革草」という野草を採って、日影に干し、
 黒焼きにして、粉にしたものだった。
   この牛革草の採集には、村中の人が手伝いに来た。
  この大勢の人を指揮するのは、歳三が、一番上手だっ
 たと伝えられている。
  この頃の歳三は、家で作ったこの「石田散薬」を売り
 歩いたりしていた。
  また、遠縁にあたる谷保村(現在の国立市)の本田家
 へ「米庵流」という書道を習いに行ったりしていた。
  そしてまた、暇なときには、姉・のぶの嫁入り先であ
 る甲州街道の宿場だった日野宿の名主・佐藤彦五郎の家
 へ遊びに行ったりしていた。
   彦五郎は、歳三より九歳年上の従兄弟で、歳三を弟の
 ように可愛がっていた。
  1849年のこの日野宿の大火事で、佐藤家の近所から火
 事が起こったため、佐藤家も焼けてしまった。
  この火事の最中におこった事件で、佐藤彦五郎は、あ
 やうく斬られそうになった。
  この様なことがあってから、彦五郎は、自分の身を守
 り、また、黒船渡来後、騒がしい世の中から、宿場の治
 安を守るためもあって、「天然理心」の剣術師範・近藤
 周助を招いて、剣術を習い始めた。
  彦五郎は、しだいに剣術に熱中し、自宅の長屋門の一
 部を改造して道場を造り、宿の若い者たちを集めて剣術
 の稽古に励んだ。
  1858年の秋には、鎮守(現在の八坂神社)に剣術上達
 を祈願する額を奉納するまでになっていた。
  歳三も、佐藤家に遊びに行くうちに、次第に、剣術を
 習うようになり、非常に熱心に稽古したためみるみる上
 達した。
  この頃、剣術修行で知り合ったのが、近藤周助の養子・
 近藤勇、沖田総司、井上源三郎、山南敬助たちだった。
  後の、新選組同志たちだった。
1849年2月、眼科・外科のほか蘭方医術を禁ず
  官医に外科のほか蘭方を用いる事を禁ず(氷川清話)
1849年3月、将軍、小金原に鹿狩りす(氷川清話)
  将軍の家慶が、下総国小金原(今の千葉県松戸市)あ
 たりに狩りに行き、本郷奉行が、将軍よりイノシシを頂
 戴したという(これを記載した石碑が残されている)。
  この奉行は、何か良いことをしたらしく千石の旗本だ
 ったが、出世して若年寄を務め、1万石の大名までに取り
 立てられたという。
  祖父の代から何やらと将軍と関係のある家だった。
1849年3月、私に洋書を訳する事を禁ず(氷川清話)
1849年3月、英船、浦賀に来る(氷川清話)(閏4月説あり)
1849年3月、和蘭、初めて牛痘菌を伝う(氷川清話)
1849年4月、葛飾北斎(かつしかほくさい、浮世絵師)が没
 した(1760年~1849年)(89歳)
  狩野派・土佐派・住吉派・琳派(りんぱ)・洋風銅版
 画など、和漢洋の画法を広く取り入れた。
  画域も広く、日本の誇るべき絵師・画家。
  北斎の作品の一つである「北斎漫画」には、約3000余
 図が載せられており、
  絵の百科事典ともいえるもので、
  古くからヨーロッパにおいても「ホクサイスケッチ」
 と言われて、多大な影響を及ぼしている。
  ヨーロッパの後期印象派の発生に大きな影響を与えた
 人だった。
  富嶽三十六景は、北斎の才能が輝いている。
  北斎の言葉:
  九十歳よりは、又々画風をあらため、百歳の後に至り
 ては、此道を改革せんことをのみ願ふ(絵本彩色通)
1849年5月、異国船打払令復活の可否を諮問。
  幕府は、1844年~1853年の間に、異国船打払令の復活
 を三度も試みた。
  この年の5月 幕府は、三奉行・大小目付・海防掛・
 長崎・浦賀両奉行・江戸湾沿岸警備4藩などに、
  外国船打払令復活の可否を諮問した。
  会津藩主松平容敬、同令の復活不可を答えるなど・・、
  海防不十分を理由に否とされたが・・
  過去に、水戸藩の前藩主である徳川斉昭は、強硬論を
 唱えていた。
  斉昭が、老中の阿部正弘に出した書簡には・・嘆息い
 たし候(そうろう)と書かれている。
  下記は、1846年 2月 29 日付のその書翰・・、
  「異船に是迄漂流と申は承り及申さず候は、畢竟打払
 候を恐れ、日本近く船を寄申さざる故、漂流もこれ無き
 事と存じ候所(割注略)、打払止候えば、自ら日本海近
 くを乗廻し候わんも量られず候(中略)打払御止は、近
 来の大不出来と拙老(斉昭)は毎度歎息致候」
1849年6月、再種痘のため、モーニケが頼んだ注文の苗痂
 (牛痘痂)を蘭船が大切に積んで入港(長崎)した。
  江戸町の阿蘭陀通詞会所にて、蘭館医モーニケが、バ
 タビアから取り寄せた牛痘苗で種痘を行なう、
  わが国で牛痘苗での種痘が成功する
  モーニケは、楢林宗建と協議し、小児に接種すること
 を決め、
  モーニケが、江戸町の阿蘭陀通詞会所で、種痘を始め
 る。
  そして、吉雄圭斎・柴田方庵に種痘術を伝授。
  この年の12月27日までに、モーニケが種痘した者は、
 391人にのぼった。
1849年7月、幕府が、松前藩主の松前崇広や、福江藩主の五
 島盛政らに、海防強化のため新城築城を命じた。
  福江藩(五島藩ともいい、五島列島の藩)に、「城を
 築き、海岸防衛を厳重にせよ」と築城許可を与えた。
  五島氏の半世紀にわたる築城への願望が成就した。
  翌月の1849年8月に、着工した。
  幕府は、経費の2万両のうち、1万両を貸し付け、早
 急に完成するよう指示した。
  1863年に至り、約15年の歳月を費やして、石田陣屋の
 跡に石田城(福江城)が完成した。
  城郭は、東西160間(約291メートル)、周囲740間(約
 1346メートル)野面積みで、堅牢な石垣を持ち、城郭の
 三方を海に囲まれ、異国警備という使命を持った海城と
 なった。
  そして、城の完成後、藩主は、40歳以下の領民に、禁
 酒令を出すなど、藩の財政建て直しに懸命となった。
  明治になって、1872年(明治5年)、石田城は、新政府
 に収納された。
  城と備えつけの武器や馬具の一切が売り払われた。
  石田城の生命は、わずか10年足らずと短く、時代の変
 遷にふりまわされた。
  石田城は、江戸時代を通じて築城を許された例外であ
 り、わが国最後の築城となった。
1849年8月、楢林宗建が佐嘉藩内で種痘を実施する。
  佐賀藩は、肥前佐嘉郡佐賀の藩名とある。
1849年9月10日《07/24》、江戸町の阿蘭陀通詞会所に、伝
 習所兼種痘所がおかれ、
  モー二ケが、吉雄圭斎、柴田方庵に実地指導した。
   蘭医・楢林宗建は、自分の三男と2人の幼児を実験台
 として送った(ジェンナーと同じ)
  モー二ケは、幼児たちの両腕に新しい牛痘痂を接種し、
 大成功となった。
   以後、これを種として、次々と種痘が行われた。
1849年10月29日、勝海舟、次女孝子誕生、後、疋田氏に嫁
 す(氷川清話)
1849年12月、諸藩に海防の強化を命ず。
  幕府は、打払令復活を予告し、諸大名に防備の強化を
 命じ、四民には海防への協力を命じた。
  また、この年は、海防策についての意見書を幕府に提
 出する者が多数いた。 
1849年12月、外国船への薪水給与令を厳しくした。
1849年、吉田松陰(19歳)が、この年、家職の山鹿流軍学
 師範となった。
1849年、成島司直(なるしまもとなお、幕府奥儒者)らの
 『徳川実紀(とくがわじっき)』が成った(1778年~
 1862年)
  司直は、将軍の侍講となり、政治改革の上書を奉るな
 ど活躍したが、1843年に、免職謹慎と命じられていた。
  理由は不明となっている。
  徳川実紀は徳川家の歴史書、516巻、1809年に着手した。
  将軍の一代ごとに言行、逸事などを叙述している。
1850年(嘉永3年)、世界人口が、11億人になる(10億人の
 記述もあり)
1850年1月、佐藤信淵(さとうのぶひろ、経世家)が没し
 た。
  『混同秘策』と『垂統秘録』で、経済危機解消のため
 の統一国家の構想と、日本中心思想の上に立つ海外侵略
 方策を展開している。
1850年2月、幕府が、勘定奉行の石河政平らに、江戸近海の
 巡視を命じた。
1850年3月、各藩に海鼠(かいそ、ナマコのこと)などの密
 売を禁ず。
1850年4月、イギリス捕鯨船が、蝦夷地マヒルに漂着する。
1850年5月、幕府が、海防掛に機密の漏洩を禁じ、また、民
 間でみだりに海防について雑説を唱えることを禁じた。 
1850年6月、和蘭、再び欧州の形成を告ぐ(氷川清話)
  オランダ船が、長崎に入港し、米人の通商を求むる企
 てあるを告ぐ。
1850年9月、江戸市中での練兵を許可。
  幕府が、江戸市中における鉄砲の四季打を許し、旗本・
 諸藩士の修業を奨励した。
1850年9月、勝海舟、父小吉逝く、牛込赤城下の清隆寺(
 日蓮宗)に葬る(氷川清話)
1850年9月、勝海舟、私塾を開き蘭書を講じ、西洋兵式の講
 義を始む。杉純道(亨二)が塾長(氷川清話)
1850年9月、蘭書翻訳取締令(らんしょほんやくとりしまり
 れい)
  1849年から1850年にかけて、幕府が出した一連のオラ
 ンダ語などのヨーロッパの文献に対して行われた翻訳、
 及び、刊行に関する規制。
  18世紀後半から、蘭学が急速に広まって来たが、同時
 に、その思想的影響が幕藩体制に対して悪影響を与える
 という危惧する意見も高まった。
1850年10月、佐賀の反射炉成る。
  築地反射炉(ついじはんしゃろ)、佐賀県佐賀市にあ
 った反射炉。
  海防の必要性が高まったので、鉄製の洋式大砲を鋳造
 するため佐賀藩によって築造された。
  この年に、日本初の実用反射炉として完成した。
  翌年の1851年に、日本で初めて鉄製の大砲を鋳造した。
..
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2015年11月1日日曜日

(増補版)235D3/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1848年~1848年)

題:(増補版)235D3/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1848年~1848年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1848年(嘉永1)2月28日、弘化5年から嘉永1年に改元する
(氷川清話)、
1848年5月、米捕鯨船ラゴダ号が、西蝦夷地に漂着した。
  この船は、難破したとも言われ、また、脱走したとも
 言われた。
1848年8月、蝦夷に漂着した米捕鯨船乗組員15人を長崎に護
 送した。うち2人は死亡した。
1848年、秋、北海道沖で捕鯨船を降りた米国人ラナルド・
 マグドナルドが、ボートで利尻島に上陸した。
  密入国者として捕まり、長崎送りになった。
  長崎で幽閉され、
  マクドナルドは、幽閉期間中に牢の格子を通して、青
 年通詞の14人に、英語を教えるよう命じられた。
  英語を学んだ14人の通詞…本木昌左衛門、西与一郎、
 植村作七郎、森山栄之助、西慶太郎、中山兵馬、名村常
 之助、小川慶十郎、猪俣伝之助、志筑辰一郎、岩瀬弥四
 郎、茂鷹之助、塩谷種三郎、堀達之助
  それまでは、外国語は、和蘭語のみだった日本人が、
 直接、アメリカ人教師から初めて生きた英語を学んだ。
  授業は、生徒が、英単語を発音し、マクドナルドが正
 しい発音かどうかをうなずいたり、首を振ったりして伝
 えたという。
  翌年の1849年3月25日に、アメリカ軍艦プレブル号が、
 長崎に抑留中の捕鯨船乗組員13人とともに引き取った。
  マクドナルドは、「Soinara」(さよなら)という言葉
 を残して日本を去った。
1848年11月、滝沢馬琴(たきざわばきん、読本作者)が没
 した(1767年~1848年)(81歳)
  代表作:椿説(ちんせつ)弓張月、南総里見八犬伝
  旗本の用人の家(江戸・深川の主家の邸内)で生まれ、
  10歳で家を継ぎ、主君に仕えたが、その暗愚に耐え兼
 ねて、14歳で主家を出奔す。
  そして、野に放たれた馬琴は、作家としての才能を開
 花し出す。
  長兄に俳諧を学び、また、長兄の文学趣味を涵養した。
  涵養:(かんよう、水が自然に染み込むように、無理
 をしないでゆっくりと養い育てること)
1848年、村上英俊、仏蘭文を読む(氷川清話)
  むらかみひでとし、フランス学者、(1811年~1890年)
  松代藩の蘭学者で、スウェーデンの学者ベーセリウス
 の「化学提要」を注文したら、フランス語の原本が届い
 た。
  このところから、フランス語を独修し、「仏学事始の
 偉業」と言われる様な偉業を行なった(独修がすごい)。
  びっくりするほど翻訳が多数ある、
  フランスより、レジオン・ドヌール勲章を授けられた。
  この勲章は、ナボレオン・ボナパルトによって制定さ
 れたフランスの栄典制度であり、現在でもフランスの最
 高勲章として存在する。
  日本フランス学の始祖とも言われる人。
1848年、箕作阮甫、和蘭文典後編を刻す(氷川清話)
  刻す:(本を書き記す)の意、
  みつくりげんぽ、蘭方医、津山藩主の侍医、(1799年
 ~1863年)
  1839年に、幕府の天文方蕃書和解御用を命じられ、外
 交文書の翻訳にあたった。
  1853年に、露使のプチャーチンを長崎に応接する。
  また、1856年に、蕃書調所の教授となり、種痘所の開
 設に参画した。
  和蘭文典後編(おらんだぶんてんこうへん)は、蘭学
 を学ぼうとする者には、オランダ語の学習をいっそう容
 易なものにさせるとある。前編から徹底して暗記するこ
 とだという。
  当時は、「ガランマチカ」と呼ばれる文法書だった。
  緒方洪庵の適塾でも、会読のの前に塾生が使ったと福
 翁自伝にある。
1848年、西洋銃隊操練に発火する事を許す(氷川清話)
1848年、米国が漂民11人を送り還させる(氷川清話)
1848年、佐久間象山が洋式砲を造る(氷川清話)
1848年、佐久間象山が大砲(洋式野戦砲)を鋳造した。
1848年、砲台を浦賀に築く(氷川清話)
1848年、橋本左内(はしもとさない、経略家、志士)が、
 『啓発録』を著した。
  経略(けいりゃく)は、国家を統治すること、また、
 四方を攻め取り、天下を支配・統治すること・・とある。
  橋本佐内は、越前藩の藩医の子で、
  緒方洪庵の蘭学塾に学び、父の跡を継いで藩医になっ
 たが、
  ペリー来航で、国事多端という事で、江戸に出て、
  水戸・薩摩の諸藩士らと交わり、
  藩校・明道館の教授として、藩主の松平慶永の知遇を
 得て藩政に参画した。
  藩主・松平慶永を助けて、雄藩の大名主導の政府を樹
 立し、
  重商主義の富国強兵による全国規模の海防体制構築を
 構想した(開国貿易論を提唱)。
  将軍継嗣問題では、一橋慶喜擁立を、江戸や京都で推
 進し尽力した。
  井伊直弼らの南紀派と対立した。
  そして、失敗となり、安政の大獄で斬罪に処された。
  (1834年~1859年 26歳)
  「啓発録」は15歳の時の作で、
  内容は、自己規範・自己鞭撻の書。
  彼の思想や行動の根幹を成している。
  「稚とは すべて水くさき処ありて、
      物の熟して 旨き味のなきを申也」(啓発録)
1848年、勝海舟、和蘭字書ヅーフハルマ、去年より謄写し
 て是年二部成り、一部売却して紙筆の費用を償う(氷川
 清話)
  海舟は、知り合いの蘭方医から借りた辞典を、1年かけ
 て2部筆写した。
  ヅーフハルマは、蘭和辞典で、通称:「長崎ハルマ」
1848年、楢林宗建(ならばやしそうけん、蘭方医)が、佐
 賀藩内で牛痘接種を実施した。
  (オランダ商館の軍医のモーニッケの協力を得たとあ
 る)(1849年説あり)(1802年~1852年)
  バタビア(ジャカルタ)から、牛痘苗を取り寄せて接
 種に成功したとある。
  これを行なったのは、佐賀藩主の鍋島閑叟(かんそう)
 の命で行った。
  楢林宗建は、代々の佐賀藩医の家の子として生まれ、
 来日したシーボルトに、長崎市中の楢林医塾を提供し、
  兄とともに臨床教育に参加し、シーボルトに師事した。
  日本にジェンナー式の種痘を普及させるために大いに
 貢献した人。
1848年、本木昌造(もときしょうぞう、オランダ通詞、日
 本の活版印刷技術の先駆者、1824年~1875年)ら4人が、
 この年、オランダ船のもたらした西洋植字印刷機一式、
 および、鉛活字を購入して、
  流し込み活字製造を案出した、
  そして、蘭書の復刻を試みた。
  日本の活版印刷の創始者と言われている。
  1869年に、米国人技師のガンブルを招いて、金属活字
 の鋳造法を学び、そして、成功、
  1870年に、長崎に、民間で初めての活版所を開設した。
  また、1860年に、長崎製鉄所御用掛、のち、頭取とな
 っている。
1848年、上野俊之丞(うえのしゅんのじょう、御用商人)
 が、この年に、フランスのダゲールが発明した銀板写真
 機ダゲレオタイプ(銀板写真法)を、
  オランダ船で輸入し、
  後に、カメラが、薩摩藩の手に渡った、そして、
  1857年9月に、薩摩藩藩主・島津斉彬(しまづなりあき
 ら)を撮影した(天保12年6月・1841年説あり)
  日本人が、日本人を撮って成功した最初の唯一の銀板
 写真という。
1848年、共産党宣言が発表された(ドイツ)。
  マルクスとエンゲルスが、1847年に、共産主義者同盟
 の委託をうけて、共同で執筆し、
  1848年2月に、ロンドンで出版し、発表された「共産主
 義者同盟の綱領。
  ドイツ語で書かれた23頁の小冊子。
1848年、二月革命
  フランスに二月革命が起こった。
  ヨーロッパ各地に波及し、
  ウィーン反動体制を崩壊させた一連の革命運動となっ
 た。
  1830年代、産業革命期に入ったフランスでは、新しい
 社会層が成長し、
  上層市民の寡頭支配と、極端な制限選挙に対し批判が
 集中した。
  参政権要求運動に対する政府の弾圧が、暴動を呼び、
 2日間の市街戦の結果、王政は倒れ、
  第二共和政が成立した。
  革命は、ドイツに波及し、
  ウィーン・ベルリンの3月暴動で、メッテルニヒは逃亡
 した(ドイツ3月革命)。
  イタリア・ポーランド・ハンガリーにも、独立運動が
 発生した。
  フランス2月革命臨時政府に、二人の社会主義者が含ま
 れているのは、時代の反映であった。
  ちなみに、2月革命直前に、「共産党宣言」が発表され
 ている。
  ウィーン体制:ウィーン会議(1814年~1815年)から
 1848年の2月革命に至るヨーロッパの反動体制。
1848年1月24日、カリフォルニアの製材所で働くジェームズ・
 マーシャルが金を発見した。
  そして、一獲千金を夢みる男たちが殺到した。
  ゴールドラッシュになった。
  その後に、1年後に、カリフォルニアの人口は10万人
 を超えた。
  そして、1850年9月9日に、連邦議会で、公式に州に昇
 格し、合衆国31番目の1州となった。
  これが、歴史の教科書上で美しく書かれた事。
1848年1月、カリフォルニアが・・、
  アメリカ合衆国へと併合される契約となる対メキシコ
 戦争の終結のわずか1ヶ月前、
  サンフランシスコのサクラメント渓谷で、偶然、金が
 発見された。
  人々が押し寄せた、ゴールドラッシュである。
  人口が、3年間で50倍となった(10万人)。
  この人口増加は、多くのインディアンの方々への殺戮
 があった。
  これを、白人は、『民族の浄化だ』と美しく言ってい
 る、この考えはヒトラーに通じる、何が浄化だ、怒りが
 湧く。
  ヤナ族は、入植した白人・アメリカ人たちに絶滅させ
 られてしまった。
  そして、このゴールドラッシュは、ヨーロッパからも
 人々が押し寄せた。
  当時の記録には、キリスト教の牧師や乞食までもが一
 攫千金を夢見て渡った・・と、記録されている。
  日本人のジョン万次郎も・・この金に目がくらんで、
 渡米した唯一の日本人だったという。
1848年5月、アメリカとメキシコの戦争(米墨戦争、1846年
 ~1848年)が終結し、
  この時、グアダルーペ・イダルゴ条約が成立した。
  アメリカは、136平方キロメートルという広大な土地を、
 1500万ドルという超安値で譲渡させた。
  メキシコ割譲地:テキサス州、コロラド州、アリゾナ
 州、ニューメキシコ州、ワイオミング州、カリフォルニ
 ア州、ネバタ州、ユタ州。
  譲渡地域内のメキシコ人は、1年後にアメリカの市民権
 を自動的に得ることができる権利があったが、
  アメリカは、この条文を勝手に削除し、だました。
  また、譲渡地域内のメキシコ人及びスペイン人に対し
 て、彼らが居住している土地の無償払い下げを約束する
 という条文も、削除されて、騙された結果となった。
1848年、在任期間が、1848年~1856年のイギリスの総督・
 ダルフージは、
  悪名高き総督と言われている『最悪の総督』だった。
  イギリス本国からの指示(意向)によって、インドの
 土侯国を併合して行った。
  イギリスからは、この総督のもとに、植民地を増やせ
 の指示があった。
  この総督が強化させた併合政策は、直系の世継の居な
 い土侯領を「容赦なく没収」した。
  何の権利が、この他国のイギリスに、あると言うのか?
  『失権の原則』などという、イギリスだけに都合の良
 い原則・方針を作っていた。
  サーターラーや、ジャーンシーや、ナーグブルなどの
 諸地域を、次々に、イギリスのものにして行った。
  特に、イギリスは、1856年に、今までの条約などを一
 方的に無視して、アウド王国を強制的に、イギリスのも
 のにした。
  併合だと称した。
  また、「悪政をしていたから」と称した。
  これには、近隣の土侯国は、大きな不安と動揺に陥(
 おちい)った。
  何も悪いことをしていなくても、イギリスの「胸先三
 寸」で、何でも理由にされて、国は奪われると思った。
  イギリスと同盟関係を結んでいても、何ら意味ないも
 のと感じた。
  また、この悪辣なイギリス総督は、不動産の再調査を
 命じた。
  そして、「しかるべき資格はない」と、一方的に御託
 宣を通達して、その土地の権利を奪った。
  イギリスの植民地は、どんどん増えた。
  この時に、調査対象となった地主の数は、3万5000に達
 し、そして、その75パーセントの地主が土地を失った。
  こんな具合にして、一夜にして無一文になる地主が続
 出した。
  好きにイギリスは、インドの方々を蝕(むしば)んで
 行った。
  何しろ、この悪辣なイギリスの総督は、在任中に、「
 日本の国土の広さ以上」の地を、イギリスの植民地とし、
 イギリスの指示に応(こた)えた。
  その根本には、イギリスのインドの方々に対する蔑視
 があった。
  まったく、インドの方々を尊重しなかった。
  思い遣(や)らなかった。
  ただただ、インドの方たちを蔑(さげす)み、そして、
 その蔑視の中で、力で「言う事をきかせようと」した。
  これらの事は、みんな、ユネスコの世界記憶遺産に登
 録申請すべきだ。
..
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