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2016年6月18日土曜日

(増補版)368E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1881年10月~1881年12月)

題:(増補版)368E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1881年10月~1881年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1881年10月21日、陸軍・大山巌と、海軍・川村純義を参議
 兼任に任命した。
  (参考)大山巌(おおやまいわお)1842年~1916年、
  薩摩(鹿児島)藩士の生まれ、西郷隆盛の従弟。
  陸軍軍人、元帥・陸軍大将、公爵、元老、
  1862年(20歳)に、大坂に出て倒幕運動に参加。
  薩英戦争でイギリス艦の大砲の威力を認識し、戦後、
 江戸の江川塾で砲術を学ぶ。
  1868年(26歳)の戊辰戦争では、薩摩藩兵の砲隊長。
  維新後の1869年(27歳)に、欧州に派遣され、砲術を
 研究する。
  そして、普仏戦争で勝利したプロシア軍に従ってパリ
 入城をする。
  1871年(29歳)再び渡欧、
  パリ・スイスに住んでフランス語・砲術を学ぶ。
  1877年(35歳)の西南戦争では、旅団司令官として西
 郷軍とたたかう。
  1880年(38歳)、陸軍卿となって、以後は陸軍内部の
 薩摩閥の首領の地位を占め、長州の山県有朋とともに陸
 軍を2分した。
  陸相・参謀総長を務め、日本陸軍の創設にあたった。
  1884年(42歳)には、陸軍の俊秀をひきいて渡欧し、
 各国の兵制を視察し、帰国後、陸軍大臣として軍制改革
 を行った。
  1894年(52歳)日清戦争では第二軍司令官、
  1904年(62歳)日露戦争では満州軍総司令官をつとめ
 た。陸軍大将、元帥、
  因みに、イギリス軍楽隊長のJ・W・フェントンが国歌
 の必要を説いたとき、
  大山巌が、薩摩琵琶歌の「蓬莱山」から「君が代」を
 歌詞として選定したという。
  (参考)川村純義(かわむらすみよし)1836~1904、
  薩摩(鹿児島)藩士の家に生れる。
  軍人、参議兼海軍卿、海軍大将、伯爵、枢密顧問官、
 日本海軍の創設者の一人。
  戊辰(ぼしん)戦争で活躍。
  1877年(41歳)西南の役征討に軍艦を行動させて参軍
 し、活躍。
  1878年(42歳)参議兼海軍卿。勝海舟の後任の海軍卿
 となる。
  薩摩勢力を海軍部内にのばした。以後、海軍充実に尽
 力した。
  上記の大山巌の普仏戦争の観戦について・・、
  1870年8月15日、大山巌(28歳)らは、普仏戦争観戦を
 命ぜられ、8月28日、横浜から米飛脚船クレド・ハフリッ
 ク号で出発した。
  太平洋を横断し、サンフランシスコからニューヨーク
 経由で大西洋を渡り、
  10月23日に、ロンドン到着、
  閏10月23日に、ベルリン着、
  11月11日(西暦1871年1月1日)以後、普仏戦争を観戦
 した。
  フランス政府が、プロシヤに降伏後、大山はパリに入
 り、3月19日に、マルセーユから日本への帰途についた。
  5月5日(明治4年3月16日)横浜に帰着した。
  すでに、1870年12月の勅使・岩倉具視らが鹿児島を訪
 問したとき、
  藩主の依頼により鹿児島県大参事の職にあった西郷隆
 盛は、岩倉に提出した改革意見二十五箇条の中で、
  明治新政府の軍事力を世襲の士族軍隊を中核とするこ
 とを主張していた。
  翌年・1871年2月13日に、政府は、薩長土3藩の兵を徴
 して御親兵の編成を命令した。
  そして、4月25日に、大山巌は、その御親兵を統括する
 兵部省の役職兵部権大丞に任命された。
1881年10月28日、日本語速記術の発明
  田鎖綱紀(たくさりこうき)が、日本語の速記術を発
 明し、講習会を開いた。
  大学南校(政府所轄の洋学校)で鉱山学を学ぶかたわ
 ら、グラハム式の英語速記法をもとに日本語速記法を発
 明した。
1881年10月29日、自由党の結党式
  東京にて、板垣退助を総裁とする急進主義の自由党が
 結成された。
  我が国最初の組織政党として全国の農村に根を張るこ
 とになる。
1881年11月11日、最初の私鉄・日本鉄道会社が設立された。
  日本最初の民間資本による鉄道会社である日本鉄道が
 設立された。
  代表は岩倉具視。 上野~熊谷間開通(1883年)
  運行期間:1883年~1906年
  今のJR東日本の路線の多くを建設し、運営した。
  横浜の実業家の高島嘉右衛門(たかしまかえもん)が、
 1872年5月、東京から青森に至り、北海道開拓を支える鉄
 道の建設を政府に建言し、却下されるも、高島は、政府
 要人の岩倉具視を説き、
  鍋島直大、蜂須賀茂韶をして、明治天皇陛下および当
 時の政府に、
  『華族と士族が家財をもって会社を建て、東京と青森、
 あるいは、東京と越後新潟に鉄路を敷き蒸気機関車を走
 らせることを補す』ことを建言させた。
  こうした経緯を経た1881年8月1日、岩倉具視をはじめ
 とする華族などが参加して私立鉄道会社「日本鉄道」の
 創立が決定し、
  同年・1881年11月11日、設立特許条約書が下付され、
 初代社長に吉井友実を選出し、会社が設立された。
1881年11月、 日本初の官製唱歌集『小学唱歌集』が刊行さ
 れた。
  君が代・蝶々・蛍(蛍の光)などを収めた『小学唱歌
 集(しょうがくしょうかしゅう)』初編を刊行した。
  文部省音楽取調掛が編集した日本最初の音楽教科書。
  明治14年に初編、~明治17年(1881年~1884年)刊。
  初編に「蝶々」「蛍の光」、
  第二偏に「霞か雲か」、
  第三編に「仰げば尊し」「庭の千草」などを収録。
1881年12月7日、紅綬・緑綬・藍綬の褒章が定められた。
  太政官布告第63号の褒章条例(1881年)で定められ、
  初めは、紅綬褒章、緑綬褒章、藍綬褒章の3種で、
  紅綬褒章:自分の危険を顧みず人命救助をした人に、
  緑綬褒章:孝子(孝行な子)・節婦(節操堅固な婦人)・
 徳行卓絶なる人や、実業に精励して一般人の模範たるべ
 き人に、
  藍綬褒章:教育、衛生事業、学校・病院建設、道路・橋
 梁などの修築、田野の開墾、森林の栽培、水産の繁殖、
 実業の発達などに貢献した人に与えることとした。
  1918年に、公益のために私財を寄付した人に授与する
 紺綬褒章が加わり、
  1955年、政令により、条例の一部が改正され、業務に
 精励し衆民の模範である人を緑綬褒章から切り離して黄
 綬褒章の対象に、
  また、従来は藍綬褒章に含まれていた学術・芸術・発
 明などの顕著な功績に対し新たに紫綬褒章の各褒章がで
 き、6種となった。
  勲章が、国家に功績ある者に与えられるのに対して、
 社会や公共のため尽くした人々に与えられる栄典だった。
1881年、アメリカの野心を訴えるハワイ王国の国王
  原因に・・そこには・・巧妙に「ハワイ」を手に入れ
 ようとするアメリカ合衆国があった。
  ハワイには「ちゃんとした政府があって」「チャント
 統合する国があって」「チャント統合する王が居て」「
 ちゃんとその王国・政府に従う人々が幸せに生活してい
 る」というのに・・、
  そこが弱者の国だと思うと・・自分のものにしたくな
 ったアメリカ合衆国だった。
  当然、そこに、何らの正義は無かった・・まったく、
 無かった。
  この年に、ハワイ王国のカラカウア王一行が来日した。
  予定の行事をこなしながらの或る日、王は、付き纏(
 つくろ)うアメリカ随行員の目をくらまして赤坂離宮を
 訪ね、明治天皇陛下(当時29歳)との極秘会談に及んだ。
  カラカウア王のこの行動は、外国の『国家元首』の最
 初の明治天皇陛下への訪問となった。
  王は、その場で、次のように訴えた。
  意訳概要:
  「我が国は、主権を持つ独立国家である。
  その我が国に対し、アメリカ合衆国が太平洋上の拠点
 にしようという野心を抱いている。
  今や列強諸国は利己主義に走り、相手国の立場を尊重
 する気持ちが微塵も無い。
  アジア諸国は列強の支配を受けながら、互いに孤立を
 深めている。
  この状況を抜け出すには、各国が一致団結して欧米列
 強諸国に対峙することが急務です。
  日本の進歩には実に驚くべきものであり、
  アジア連合を起こすとすれば、その盟主には日本以外
 には無い。
  また、天皇陛下こそが相応しい。
  日本は、今、列強諸国に治外法権(不平等条約の改正)
 を認めさせようとして苦労していると伺います。
  日本なら連合実現が、より容易にできるはずです。
  どうか協力してアジア諸国連合を結び、その盟主とな
 っていただきたい。
  そうなれば私は、陛下を支え、大いに力をお貸しさせ
 て戴きたいです。
  私は、その証として、姪であり皇位継承資格を持つカ
 イウラニ(Kaiulani)王女を差し出します。
  日本とハワイの絆の為、是非もらって戴きたい。
  私は、貴国の良い返事を待ち続けます」
  (「明治天皇紀」のカラカウア王の言葉)。
  そして、この後・・、
  「明治天皇陛下とカラカウア・ハワイ国王の極秘会談」
 は、直ちに外務卿・井上馨に伝えられた。
  井上馨は、伊藤博文を後継し、明治政府の重要な地位
 に居る人だった。
  ハワイ王国の国王による国王間直訴は・・その後・・、
  1882年(明治15年)3月22日になって、ハワイ国王・カ
 ラカウアによる日本との連合計画提案に対し、明治政府
 の回答がカラカウア王へ届けられた。
  「政府に、そこまでの余力はない」との内容だった。
  また、カイウラニ王女と日本の皇族の結婚に関しても
 最終的にはウヤムヤとなって行き・・幻となった。
  井上馨は・・、
  「カイウラニ王女の話はうまく運ぶだろう」という見
 解を示し、
  伏見宮邦家親王の第17王子の山階宮定麿親王(当時15
 歳、後に海軍兵学校卒業後、英国プレスト海軍兵学校留
 学、小松宮依仁親王となる))との「将来の御成婚」が、
 画策された。
  ・・が、しかし、懸念材料はアメリカだった。
  アメリカとの関係の悪化を懸念する意向が前面に出て、
 幻となって行った。
  かくて、「カラカウア王の望み(秘策)」は潰(つい)
 えてしまった。
  カイウラニ王女は・・その後・・、
  1889年に、カラカウア王の指示で、イギリスへ留学し
 た。
  そして、その留学中に、カラカウア王は死去されてし
 まった。
  カイウラニ王女は、叔母のリリウオカラニから王位継
 承権第1位に指名され、
  美貌の彼女は、ヨーロッパ社交界の教養を身につけ、
 英仏社交界の華になった・・が・・、
  アメリカの思惑(アメリカ帝国主義によるハワイの地
 の取得)がうごめくハワイの政変が続くハワイの事情か
 ら・・帰国が出来ず・・帰国が延び続けるという状況と
 なった。
  日本とハワイの連邦化を夢見ていたハワイ王国は・・
 消滅し・・そして、ハワイはアメリカ化し・・今、アメ
 リカ合衆国の州となっている。
1881年2月24日、イリ条約
  ロシアと中国(清国)との間で、1871年に起きた国境
 紛争事件(イリ事件)の条約が結ばれた。
  ロシアのイリ地方占拠を、清朝は左宗棠の働きで1875
 年から1877年にかけて排除した。
  しかし、1879年に、ロシアとのイリ返還を交渉した清
 朝の全権大使・満州貴族・嵩厚保がいったん領土を大幅
 に譲歩した条約を締結した。
  そのため、激怒した光緒帝が批准を拒み、改めて曽紀
 沢(曽国藩の子)が交渉に当たり、
  ようやく1881年に、イリ条約を成立させ、イリ地方は
 清に返還された。
  しかし、清朝もロシアに多額の賠償金を支払い、新疆
 全土を市場としてロシアに経済的に開放することを認め
 た。
1881年3月12日、ロシア皇帝アレクサンドル二世が暗殺され
 た(3月13日説あり)
  1867年、フランスを訪問中のアレクサンドル2世は、パ
 リで襲撃されたが、この時は難を逃れた。
  その後も、皇帝暗殺計画は再三にわたって企てられ、
  1880年2月には、アレクサンドル2世を狙った冬宮食堂
 爆破事件が起きて、多数の死傷者が出た。
  これをきっかけに、最高指揮委員会が設置され、下ヴ
 ォルガ臨時総督として暴動鎮圧に成果を収めたミハイル・
 ロリス=メリコフが委員長に任命された。
  政治を安定させ、内政の改革を進めることがテロや暴
 動の抑止になると考えたロリス=メリコフは、行政改革
 と財政改革を皇帝に進言し、
  これを受けて最高指揮委員会は解散され、ロリス=メ
 リコフが内務大臣となった。
  社会の不安を除くため、人々の怨嗟の的となっていた
 悪名高い秘密警察・皇帝官房第三部を廃止し、
  立憲制導入に向けてまず一種の「議会」導入を提案し、
 一般委員会や国家評議会にゼムストヴォの代表や大都市
 自治会の代表などを参加させようとした。
  1881年3月13日、アレクサンドル2世は、没落したシュ
 ラフタの家柄で「人民の意志」党員のポーランド人イグ
 ナツィ・フリニェヴィエツキの投じた爆弾(キバリチチ
 式手投げ爆弾)により、サンクトペテルブルク市内で暗
 殺された。
1881年5月、フランスが、チュニジアを保護国化した。
  1830年のフランスによるアルジェリア占領以後、
 フランスとイタリアによる植民地化の対象となった。
  ベクは、1867年立憲君主制憲法を制定し、トルコの力
 をかりて独立維持をはかった。
  1869年、チュニジアは財政破綻してイギリス・フラン
 ス・イタリアの管理下に置かれ、
  1873年~1877年の改革派官僚のハイルッディーンによ
 る改革が行われたが、宮廷内の保守派の反対で成果を上
 げることが出来なかった。
  普仏戦争でフランスが敗れるとイタリアがチュニジア
 に進出したのでフランスは危機感を強めた。
  1878年のベルリン会議では、イタリアとフランスが、
 チュニジアの鉄道敷設権を巡って対立したが、
  フランスは、チュニジアに於けるフランスの権利を認
 めさせ、
  最終的にイタリアが折れ、西欧列強によってチュニジ
 アにおけるフランスの優先権が確認された。
  フランスは、1881年に、軍隊を派遣し、首都チュニス
 を占領して、保護領とした。
1881年7月2日、アメリカ合衆国大統領の暗殺事件が起きた
  第20代大統領のガーフィルド大統領が暗殺された。
  ワシントンのボルティモア・ポトマック駅で大統領は
 銃撃され、9月19日に死亡した。
  暗殺犯のチャールズ・J・ギトーは、色々な職業に手を
 出して失敗していた。
  神学、法律実務、集金、オナイダ・コミュニティ(キ
 リストの再臨を信じる共同社会)だった。
  大統領は、就任から4か月の短期間だった。
1881年7月14日、ビリーザ・キッドが、満21歳で、射殺され、
 この日に死んだ。
  彼は、アメリカ西部開拓時代のアウトロー(犯罪など
 によって法の保護を受けられなくなった人)で、強盗な
 どを行なっていた(1859年~1881年)
  罪名:殺人と脱獄。
  職業:牧場手伝、ギャンブラー、牛泥棒、アウトロー。
  ニューヨークで生まれたらしい、西部のニューメキシ
 コ州で育った。
  偽名が多く、父親は良く分からない。
  12歳の時に、母親を侮辱した男を殺してアウトローに
 なったとされる。
  死ぬまでに21人を殺害したとするが、この人数の中に
 はインディアンの方々の人数は含まれてないとされる(
 有色人種への無視・軽視・蔑視)。
  アリゾナ、テキサス、メキシコ国境あたりをさすらっ
 たという。
  用心棒もした。この時、リンカーン郡戦争と呼ばれる
 騒動となった。この時、4人を射殺。
  1880年12月、友人でもあった保安官に、仲間と共に
 逮捕される。
  しかし、1881年4月18日に刑務所を脱走した。
  この事が、ニューヨーク・タイムズに報じられ有名に
 なる。
  1881年7月14日に、ニューメキシコ州フォートサムナー
 で、ギャレットに射殺された。
  鏡で銃を抜く敵を見て、振り返らずに撃ち殺したなど、
 嘘もあるだろうが・・彼の銃の腕前を示す話は多い。
  この様なアメリカ西部の様相の中で、西部は開拓され
 て行った。
  誠実に農地開拓をしている農夫の土地を、欲しがる牧
 場主が、プロの殺し屋を雇い、この正直な農夫を殺そう
 とする。
  その時、殺し屋は次の手を使う、
  町の酒場に農夫を呼び出し、この農夫に対して、あら
 んかぎりの嫌(いや)らしい事を言う。
  農夫は、愛する妻や子供も居るので我慢してその話を
 聞いているが、続けて、殺し屋は人格攻撃も含めて、い
 やらしい攻撃を続け、
  この続く人格攻撃などの中で、農夫は、やむを得ず腰
 のけん銃に手を掛ける。
  その途端、プロの殺し屋の銃が、いち早く火を噴く。
  可哀想に、この善良な農夫は殺される。
  キリスト教は、この様なこの行為を、この殺し屋の行
 為を悪くないとしている。
  だから、アメリカの西部では、この様に殺される人が
 多かった。
  キリスト教は、「(キリスト教の)神の義があれば、
 人を誅しても良い」と、神の義による殺人を是としてい
 る。
  この様な論理・教義で、隣国の富を奪いに行く。
  当然、戦争の頻発地となる。
  長い歴史、キリスト教の回りには多くの戦争の歴史が
 記録されている。
  キリスト教聖書に記されている「相手に警告を与えれ
 ば何をやっても良い」という教え・・、
  また、キリスト教の聖書記載の手順を踏めば、攻撃を
 加えて良いという教え・・
  「相手の町を包囲して、ぐるぐる回れば、何をやって
 も良い」とかと・・この様な記載が、色々多い。
  キリスト教には蛮行の実行につながる教義が多い。
  「目には目を」という教義は有名だが、「同罪報復を
 認める」教義である。
1881年9月、エジプトでアラービー=パシャの乱が起きた(~
 1882年)
  アフマド=ウラービー=パシャ・・エジプトの反イギ
 リス民族闘争の指導者は、
  1881年に、イギリス・フランスの支配に反発し、立憲
 政治実現を要求して革命を試みたが、イギリス軍によっ
 て鎮圧されてしまった。
  世界中で、武力によって、やりたいことをやっている
 イギリス、そして、ヨーロッパ列強のキリスト教国。
  パシャは尊称で、
  エジプト人の農民の子として生まれ
  軍人となり、
  ワターニューン(愛国者たちの意味、ワタン党ともい
 う)という秘密結社を組織して、
  ムハンマド=アリー朝を支え陸軍大臣にまで昇り、
  パシャの称号を認められ、ウラービー=パシャと言わ
 れた。
  19世紀中頃のエジプトが、イギリスとフランスの経済
 的支配を受けて、
  政治干渉も受けるという二国管理体制下におかれ、
  これに強く反発した(誰だって反発したくなるだろう
 よ)、
  エジプトの方々のエリート層や、高等教育を受けた
 方々は、ヨーロッパ人が、エジプト社会を牛耳ることに
 よって、
  自らの出世の道が閉ざされることも不安視した。
  また、農民は、課せられた重税に対して不平を募って
 いた。
  また、差別も存在した。
  エジプトは識字率も向上し、1870年代から188年代には、
 出版も盛んになり、新聞も発行されるようになった。
  人々は、社会の情勢・変化を知り、行動を起こした。
  1881年に、クーデターを起こして、エジプト王を退位
 させ、実権を握り、立憲政治の実現などの改革を進めよ
 うとした。
  しかし、イギリスが直ちにアレクサンドリアを砲撃、
 陸上からも攻撃し、革命を強烈な軍事力で抑えつけた。
  その結果、この出来事は〝反乱〟に終わった。
  ウラービー=パシャは捕らえられ、セイロンに流され
 た。
  彼が掲げた〝エジプト人のためのエジプト〟のスロー
 ガンは、
  その後のエジプト民族運動に受け継がれ、
  ウラービー運動といわれるようになった。
  → アラブ民族主義運動へ
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
 

2016年6月16日木曜日

(増補版)367E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1881年9月~1881年10月)

題:(増補版)367E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1881年9月~1881年10月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1811年10月1日、國會期成同盟 第3回大会
  第三回大会は自由党結党の会だった。
  1881年(明治14年)10月に開かれる予定の第3回国会期成
 同盟大会での重要議題は、各地で作成された「憲法私案
 の審議」であった。
  また、10月1日~10月2日の幹部相談会では、常務委員
 の林包明(はやしほうめい、自由民権運動家、自由党幹
 事となる)を中心として、
  大日本国会期成有志公会と自由党(準備会)を糾合して、
 新党を結成する相談がなされた。
  そうした中、開拓使官有物払下げ事件が明るみとなり、
 政府側を追求した。
  その結果、明治十四年の政変(1881年8月31日)が起こ
 った。
  大隈重信は、政府から追放された。
  ・・と同時に、政府は批判をかわすために・・、
  1881年(明治14年)10月12日に、『国会開設の詔を発
 布』し、
  1890年(明治23年)に、国会を開設することを決めた。
  国会開設の目的は達せられた。
  この様ないきさつから、目的達成と判断した自由民権
 運動家達は、大会での憲法私案の審議を見送った。
  そして、「政党を樹立すべき」との意見が、大勢を占
 めた。
  しかしなお、地方出身者層と都市出身者層との間で意
 見の相違は発生していた。
  そのため、嚶鳴社(おうめいしゃ、自由民権系の政治
 結社)の沼間守一らは、新党結成から離脱した。
  1881年10月18日に、東京の井生村楼(いぶむらろう、
 浅草にあった演説会場として利用された会場)に全国各
 地から代表78人が集まって大会が開かれた。
  大会では、議長に後藤象二郎、副議長に馬場辰猪が選
 ばれた。
  そして、翌日の1881年10月19日には、自由党盟約・規
 約が作成され、
  1881年10月29日には、総理(党首)に板垣退助を、副
 総理に中島信行が選び、自由党を発足させた。
1881年10月2日、大日本自由政党結成會を組織した。
1881年10月9日、黒田清隆が、大隈重信の「国会開設早急
 論」に反対し、そして、三条実美へ趣意書を提出した。
  『開拓使官有物払下げ事件』:
  北海道開拓使長官の黒田清隆は、1881年に、開拓使の
 廃止方針が決定したため、この開拓使の事業を継承させ
 るために、官有の施設・設備を安値で払い下げる事にし
 た。
  黒田は、その払下げ予定事業が赤字であったため、非
 常な安値で払い下げ価格を設定した。
  払下げの対象は、船舶・農園・炭鉱・ビール・砂糖工
 場などで、
  例えば、「1400万円の国費を投じたもの」を「38万円
 (無利息30年賦)」という破格の低価格だった。
  その払い下げを受けたのが、関西貿易商会(黒田と同
 郷の薩摩出身者・五代友厚ら)だった。
  破格の値段の払下げ先が同郷の薩摩だったので、薩閥
 政治への不満が高まって行った。
  当然の様に、この方針に、政府部内の薩長出身参議は
 賛成した。
  しかし、政府内でも批判の声が起こり、特に、払下げ
 の規則を作った前大蔵卿の大隈重信が反対した。
  この経緯(いきさつ)を新聞がすっぱ抜いた。
  この秘密をリーク(意図的に秘密や情報などを漏らす
 こと)したのが「大隈だろう」と疑われた。
  さらに、大隈が登用した大蔵官僚の間にも、払下げ中
 止を求める意見が出された事から、
  払下げ中止を目的として「大隈が仕掛けた」という話
 が広まった。
  この様な中、黒田清隆は、天皇陛下の裁許を戴いて払
 下げを決定してしまった。
  しかし、批判の声は、ますます高まった。
  そして、大隈が、東京を離れた間に、伊藤博文らは、
 収拾策の方針を決定し、天皇陛下に裁許を仰ぎ、大隈の
 追放、国会開設の詔勅(藩閥政治への不満への対応)、
 払下げ中止などを発表した(明治十四年の政変)。
  その後、黒田も開拓使長官を辞め、内閣顧問の閑職と
 なった。
  薩長閥でない大隈が退かされた、薩長閥主導の時代と
 なった。
  薩長閥の黒田は、問題視され無かった。
  民意を尊重する政治・・、
  日本には、明治以前から、早々と、民意を受けて、民
 意によって政治を司るという考え方はあった。
  そして、明治になって草々の1868年の「五箇条の御誓
 文」・・第一条「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ」
 と形となって・・議会開設の理念は示されていた。
  この様な流れから、大隈の「国会即時開設論」はその
 流れの中にあった。
  しかし、政府は漸近主義をとり、
  その中に、「イギリス型の議院内閣制か」、「ドイツ
 型の超然内閣の選択か」などの思考があった。
  大隈らはイギリス型案だった。
1881年10月11日、明治十四年の政変
  伊藤博文らが、大蔵卿参議・大隈重信を追放、罷免し
 た(10月12日説あり)
  自由民権運動の嵐が吹き荒れる世のなかで・・、
  また、その方向へ世の中が流れるなかで・・、
  憲法制定論議が高まり、政府内でも、君主大権を残す
 「ビスマルク憲法」か、「イギリス型の議院内閣制の憲
 法」とするか・・で争われていた。
  前者を支持する伊藤博文と井上馨が、後者を支持する
 大隈重信と、ブレーンの慶應義塾門下生らを、政府内か
 ら追放した。
  クーデター状態だった。
  明治10年代の政治は・・、
  大久保利通亡き後は・・、国会開設運動が興隆して行
 った。
  政府が、いつ立憲体制に移行するか・・という課題の
 ある・・問題が持ち上がっている時代だった。
  この様な時代の流れの中にあって・・、
  政府は、消極論者の右大臣・岩倉具視を擁しながら、
 漸進的な伊藤博文・井上馨(長州閥)と、
  やや急進的な大隈重信(参議・大蔵卿・肥前藩出身)
 を中心に運営されていた。
  この頃は、政治への介入工作などもあって、政情は不
 安定の中にあった。
  「薩長土肥」四藩の連合が変化し、「薩長」二藩至上
 主義的方向へ姿を変えて行った。
  そして、明治14年の政変は・・起きた。
1881年10月12日、国会開設の詔
  1890年(明治23年)に国会開設の詔勅。
  明治天皇陛下が、来る明治23年を期して、10年後(1890
 年)国会を開設する旨の詔書を下し給う。
  天皇陛下が、行幸から帰京された10月11日に、御前会
 議の裁許を得て、
  翌日・1881年10月12日のこの時、「国会開設の詔勅」
 などが公表された。
  また、大隈邸を、伊藤と西郷従道が訪れて、辞表の提
 出を促し、大隈は了承した。
  なお、この際に、
  「建国の本各源流を殊にす(とりわけ、格別)。彼れ
 を以て此れに移すべからず」という政府首脳間の合意が
 為された。
  そして、結果として、自由民権運動や大隈の唱えるフ
 ランス流やイギリス流を否定したものの、
  岩倉らの進めようとしたプロシア流についても、一旦
 は白紙撤回された。
  ドイツ憲法に傾いていくのは、岩倉が公家出身という
 立場も関係した。
  政変で下野した官僚:犬養毅、牛場卓蔵、大隈英麿、
 尾崎行雄、小野梓、河野敏鎌、島田三郎、津田純一、中
 野武営、中上川彦次郎、前島密、牟田口元学、森下岩楠、
 矢野文雄、
  (注)国会開設奏議、明治十四年十月十一日
  「国会開設ノ期限ヲ定ムル勅諭ノ事」 『岩倉公実記』
  日本憲政基礎史料:
  諸參議連署の立憲政體に關する建奏(明治十四年十月
 十一日):
  憲法を定める標準に至ては臣等竊に以為く建国の本各
 源流を殊にす。彼を以て此れに移すべからず。祖宗基を
 始め伝うるに神器を以てす。民と之を守る万世不易の道
 なり。陛下時期を照鑑し古今を変通し将に政権を分て之
 を衆庶に公にせんとす。蓋、実に祖宗の遺烈を掲げ懿訓
 を広むるに過ぎざるなり。今民間政談を為す者を視るに
 好で欧米詭激の説を主張し国体の何たるかを省みざる者、
 往々之れ有り。臣等、実に之を危む。竊に願くは憲法の
 成各国の長を採酌するも、而も我国体の美を失わず広く
 民議を興し公に衆思を集むるも而も我皇室の大権を墜さ
 ず乾綱を総攬し有極を建立し以て万世不抜の基を垂れん
 ことを。…
  以上陳ぶる所を総ぶるに、国会の開設の期を予定する
 は大政の向う所を公示する所以なり。憲法を定めるに国
 体を重んずるは篤く祖宗の遺業を守る所以なり。…
1881年10月18日、自由党、結成
  板垣退助らが、自由党(自由主義派)を結成した。
  初の政党(総理・板垣退助)。 
  この日・10月18日に、東京・浅草の井生村楼で自由党
 結成会議が開催された。
  10月29日に、板垣退助を総理に選び、副総理・中島信
 行(のぶゆき)以下の本部役員を選出し、盟約3章と規則15
 章を決定して正式に発足した。
  日本最初の近代的な政党。
  1881年8月以後に起草した植木枝盛の「東洋大日本国国
 憲按」(私擬憲法)が作成されていた。
1881年10月21日、参事院(さんじいん)が設置された。
  この日、太政官布達89号によって、官制改革太政官に
 参事院が設置された。
  初代の長は、参議・伊藤博文。
  1872年7月の太政官達で設けられた正院法制局を受継い
 だもの、
  尚、1885年12月22日に、内閣法制局発足とともに廃止
 された。
1881年10月21日、松方デフレの開始
  松方の前々任者の大隈重信は、1873年10月25日に大蔵
 卿に就任し、1880年2月28日まで務めた。
  そして、この大隈の後は、大隈と「同じ肥前閥」の佐
 野常民が、この1880年2月28日に就任し、1881年10月21日
 まで務めた。
  そして、この日・1881年10月21日に、閥が変わって、
 「薩摩閥」の松方正義が、参議兼大蔵卿に就任し(~
 1885年12月22日)、方針は転換された。
  大蔵卿に就任した松方正義は、薩摩閥の地で発生した
 西南戦争による戦費調達で生じたインフレーションを解
 消しようと、デフレーション誘導の財政政策を行なった。
  世はデフレ不況へ向かって行く・・、
  この松方財政(まつかたざいせい)の緊縮財政によっ
 て政府は、紙幣の回収を進めた。
  紙幣価値の安定と、正貨の蓄積を図る「松方財政」を
 推し進めた。
  松方正義は、また、欧州各国の中央銀行をモデルに、
 「一国の金融の心臓」として日本銀行の設立を提案し、
  紙幣発行権を、日本銀行に集中させ、兌換券の発行を
 目指した。
  1877年の西南戦争の戦費の大半を、紙幣増発でまかな
 ったことなどから、政府紙幣の整理の問題が焦点となっ
 ていたからだった。
  松方は、大隈が進める外債による政府紙幣の整理に真
 っ向から反対していたのだった。
  それによって、1年半まえの1880年2月28日には、松方
 正義は、伊藤博文の配慮によって、内務卿に転出する形
 で大蔵省を去っていたのだった。
  松方は、1877年(明治10年)には渡欧して、経済を勉
 強していた。
  1878年(明治11年)3月~12月には、第三共和制下のパ
 リを中心とするフランスに滞在し、
  フランス蔵相レオン・セイ(「セイの法則」で名高い、
 フランスの経済学者のジャン=バティスト・セイの孫)
 から3つの助言を得ていた。
  (1)日本は、発券を独占する「中央銀行」を持つべき、
  (2)その際、フランス銀行やイングランド銀行は、そ
    の古い伝統故に、モデルとならない、
  (3)従って最新のベルギー国立銀行を例として、これ
    を精査すること・・を、勧められた。
  1881年(明治14年)7月に、帰国した松方は、「日本帝
 国中央銀行・説立案」を含む政策案である「財政議」を
 政府に提出した。
  そして、政変によって大隈が失脚すると、
  参議兼大蔵卿として復帰し、日本に中央銀行である日
 本銀行を、ベルギーの中央銀行制度を原型にして創設し
 た(1882年10月10日)。
  この後の1883年(明治16年)に、松方は、明治天皇陛
 下に奏上して、恩になったレオン・セイに、勲一等旭日
 大綬章が贈られるように図っている。
  そして、1885年の内閣制度発足と同時に、大蔵大臣に
 就任し、兌換銀行券条例に基づき兌換券(銀貨兌換)を
 発行した、
  さらに、1886年に兌換を開始し、近代的信用制度の確
 立をはかった。
  松方は、財政家として、政府紙幣の全廃と、兌換紙幣
 である日本銀行券の発行による紙幣整理と、
  煙草税や酒造税や醤油税などの増税による歳入増や、、
  政府予算の圧縮策などの財政政策や、
  官営模範工場の払い下げなどによって、財政収支を大
 幅に改善させ、インフレーションも押さえて行った。
  ただ、これらの政策は、深刻なデフレーションを招い
 たために、「松方デフレ」と呼ばれ、世論の反感を買う
 こととになった。
  物価が急落し、そして、景気が、急速に下降し
 インフレを終息させることには成功したが、農民の方々
 の多数が土地を失うなど、
  農民の方々への被害が、特に、甚だしく大きかった。
  地主制の成立の促進の現象となった。
  農民層の分解が進み、資本主義的体制の基礎を作った
 という別の一面が語られた。
  明治新政府は金が無かった。
  不換紙幣を乱発して世はインフレとなり・・、
  地租を確保しようとしたら、世は一揆が一斉に起き、
  外債を発行して、海外へ資金を求める大隈政府だった。
  松方正義大蔵卿は、支出を削減しながら、官営事業を
 払い下げたりして・・金を作った。
  富岡製糸は、31万円で整備したが、三井への払下げの
 売却は12万円だった。
  院内・阿仁鉱山は、古川へ売却し、
  兵庫造船は、川崎に売却し、
  長崎造船は、三菱に売却したが、
  いずれも破格の値段で、格安払下げをし、政府の儲け
 はなかった。
  ただ唯一、三井炭鉱は、三井が競り落としたが、整備
 費の6倍となり、政府に金が入った。
  この様な中で、間接税である消費税の大増税を行なっ
 た。
  煙草も課税の対象にしたが、その他、醤油税、菓子税、
 酒造税などを行ない。
  酒税は、1875年に250万円の収入となり、1884年には
 1400万円と5~6倍となった。
  因みに、松方正義は、オックスフォード大学の名誉博
 士である。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
 

2016年6月15日水曜日

(増補版)366E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1881年3月~1881年9月)

題:(増補版)366E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1881年3月~1881年9月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
..
1881年4月5日、大日本農会が、東京に創立された。
  公益社団法人大日本農会(だいにほんのうかい)は、
 元農林水産省生産局所管の公益社団法人。
  主な目的は、農業の発展・農村振興など
1881年4月7日、農商務省が設置された。
  農林、商工行政を司る中央官庁の農商務省を置き、農
 林・水産・商業・工業・鉱業などの産業行政一切を担当
 した。
  明治政府は、日本の産業の資本主義的発展を達成する
 ために、殖産興業政策を、その課題として掲げた。
  そして、農・商・工の各分野で、行政指導を懇切丁寧
 に進めて行った。
  欧米の機械制工場制度の移植や、鉄道・電信の導入な
 どを促進した。所管する役所は工部省(1870設立)、
  そして、農政を所管した内務省(1873創設)、
  さらに、大蔵省が、当時の産業振興の重要な部門であ
 った。
  工部省中心の移植産業政策と、内務省中心の在来農業
 の資本主義化政策は、1870年代になると、めまぐるしく
 機構の改廃が行われた。
  また、その統合を重ねるという過程で、相互に補完し
 あいながら、資本主義育成策の重要な部分をなして来た。
  ただ、これまでの産業行政や殖産興業政策は、内務省・
 工部省・大蔵省などに分散していたことが、官業政策の
 限界と、殖産興業経費の過重が明らかとなって来た。
  そのために、政策の転換と、産業行政の一元化を図る
 ため、1880年に、工場払下概則を発令し、この年・1881
 年に、農商務省を設け、統合した。
  外務卿・河野敏鎌(こうのとがま)を農商務卿に任命
 した。
  因みに、この農商務省は、1925年に、農林省と商工省
 に分け、分離して、発展解消された。
  現在の農林水産省と通商産業省の前身。
1881年4月8日、三省堂書店(さんせいどうしょてん)が創
 業した。
  この日、亀井忠一・万喜子の母子が古書店として創業
 した。
  日本初の「日本百科大辞典」などを刊行した。
  三省堂書店は、書店ゼロの留萌に進出した。
  これは、「子供に必要」と地元の訴えに応えたもので、
 日本経済新聞が、2011年7月22日に報じた。
1881年4月25日、陸前・福島の大火(約1780戸焼失)
1881年4月26日、初めて、天皇陛下の主催で、吹上御苑で観
 桜御会が開かれた。
  皇族、大臣、参議、各国公使、来日中のシャム王族な
 どが招かれた。
  これは、不公正条約の条約改正を促進させる意図のも
 とに開かれた。
1881年4月、東京に、12か所の憲兵屯所が新設された。
  1881年3月には、フランスの憲兵制度を模範にして、憲
 兵条例が制定され、
  その第一条に、憲兵の役割を「陸軍大臣ノ管掌ニ属シ
 主トシテ軍事警察ヲ掌(つかさど)リ兼テ行政警察司法警
 察ヲ掌ル」と規定した。
1881年4月、自由・民権などを凧に託して凧揚げ大会が開か
 れた。
1881年5月4日、小学校教訓則領(しょうがっこうきょうそ
 くこうりょう)が定められ、初等・中等・高等に区分し
 た。
  初等科3年、中等科3年、高等科2年の計8年。
1881年5月8日、鶴見~横浜間が複線化した(5月7日説あり)
  鶴見~横浜間の鉄道の複線化工事が完成して、新橋~
 横浜間が複線運転になった。
  単線が複線化して、ますます鉄道ダイヤが密となり、
 使いやすくなり、だから人々も利用するという好循環で
 日本の鉄道は、急速に敷設距離数が伸びて行く。
  そして、今、鉄道技術は、日本の得意の技術・お家芸
 となっている。
1881年5月31日、勤王家・蒲生君平(がもうくんぺい、学者)
 に正四位を追贈。
1881年5月、五代友厚(ごだいともあつ、実業家)が、関西
 貿易会社を設立した(1835年~1885年)
  薩摩藩出身、長崎の海軍伝習所で航海や砲術を学び、
 勝海舟・榎本武揚・寺島宗則・佐野常民・高杉晋作らと
 交遊し、また、トーマス・グラヴァーとも親交を重ね、
 開明的知識を得た。
  1859年(24歳)の時、水夫として上海に行きドイツ汽
 船を購入した。
  1863年(28歳)の時、薩英戦争が起こると、寺島宗則
 と共に、イギリス艦隊と交渉し、戦い、捕虜となり、横
 浜に拉致された。
  釈放後、武州、長崎などで亡命生活を送ったが、帰藩
 を許され、
  1865年(30歳)の時に、薩摩藩留学生の引率者として
 ヨーロッパ(イギリス・ベルギー・フランス)を視察し、
 紡績機械や武器を購入、また、貿易商社設立契約や、万
 国博への出品委託を行なった。
  渡欧中、薩摩藩主へ富国強兵に関する18カ条の建言書
 を送った。
  1866年(31歳)に帰国して後、御用人席外国掛に任ぜ
 られ、外国貿易や鹿児島紡績所の建設・長崎小菅修船場
 の建設・薩長合弁商社設立の計画を行うなど、薩摩藩の
 殖産興業政策を推進した。
  そして、藩の開明派の指導者となり、藩の貿易発展に
 活躍した。
  明治維新後に、外国事務掛、外国官権判事、大阪府判
 事を歴任、大阪を中心として外交・貿易事務、造幣寮の
 建設にかかわるとともに、通商・為替会社設立などを契
 機に大阪経済界とも接触した。
  そして、1869年(34歳)の時、その官僚や外交官を経
 て、実業界・実業家(政商)へ転じた。
  大阪株取引所(現:大阪取引所)や大阪商工会議所(
 1878年)の創設などに力を注ぎ、
  また、製鋼・貿易・銀行・鉄道会社の設立し、事業を
 おこすことにも尽力した。
  その主なものは、金銀分析所、弘成館(鉱山経営)、朝
 陽館(製藍事業)、大阪活版所、大阪製銅会社、阪堺鉄道、
 大阪商船、神戸桟橋会社、堂島米会所、大阪株式取引所、
 大阪商法会議所(現在の商工会議所)、大阪商業講習所(大
 阪市立大学の前身)など。
1881年6月18日、小学校教員心得を制定(6月17日説あり)
  「小学校教員ノ良否ハ普通教育ノ弛張ニ関シ普通教育
 ノ弛張ハ国家ノ降盛ニ係ル其任タル重且大ナリト謂フヘ
 シ今夫小学教員其人ヲ得テ普通教育ノ目的ヲ達シ人々ヲ
 シテ身ヲ修メ業ニ就カシムルニアラスンハ何ニ由テカ尊
 王愛国ノ志気ヲ振起シ風俗ヲシテ淳美ナラシメ民生ヲシ
 テ富厚ナラシメ以テ国家ノ安寧福祉ヲ増進スルヲ得ンヤ
 小学教員タル者宜ク深ク此意ヲ体スヘキナリ因テ其恪守
 実践スヘキ要款ヲ左ニ掲示ス苟モ小学教員ノ職ニ在ル者
 夙夜黽勉服膺シテ忽忘スルコト勿レ」
  尚、約1ヶ月前の1881年5月4日には、「小學校教則綱
 領(しょうがっこうきょうそくこうりょう)」(明治14
 年文部省達第12号)が出されている。
  第一条:小学科ヲ分テ初等中等高等ノ三等トス
  第二条:小学初等科ハ修身、読書、習字、算術ノ初歩
     及唱歌、体操トス
      但唱歌ハ教授法等ノ整フヲ待テ之ヲ設クヘシ
  第三条:小学中等科ハ小学初等科ノ修身、読書、習字、
     算術ノ初歩及唱歌、体操ノ続ニ地理、歴史、図
     画、博物、物理ノ初歩ヲ加ヘ殊ニ女子ノ為ニハ
     裁縫等ヲ設クルモノトス
  第四条:小学高等科ハ小学中等科ノ修身、読書、習字、
     算術、地理、図画、博物ノ初歩及唱歌、体操、
     裁縫等ノ続ニ化学、生理、幾何、経済ノ初歩ヲ
     加ヘ殊ニ女子ノ為ニハ経済等ニ換ヘ家事経済ノ
     大意ヲ加フルモノトス
1881年6月、「海員掖済会」が東京府南品川の心海寺の一部
 を借り受け「海員寄宿所」を開設した。
  実質的な事業の開始となる。
  海員の寄宿と、乗船の斡旋事業を開始した。
  また、高等海員養成所を併設し、高等海員の養成に着
 手する。
  後に、横浜、大阪、神戸、長崎と相次いで海員寄宿所
 を設け、主要な港に配置し終える。
  1886年(明治19年)3月、有栖川宮威仁親王を本会総裁
 に迎え、会名を「日本海員掖済会」と改称した。
1881年7月2日、パストゥール予防注射に成功。
  フランスの化学者で細菌学者のパスツールは、1880年、
 狂犬病の研究を開始し、
  1881年に、弱毒性変異炭疽菌株によるヒツジの免疫実
 験の成功を発表した。
  続いて、プュイ・ル・フォルにおいて炭疽免疫公開実
 験を行って、完全に成功し、
  同年・1881年、ニワトリコレラと炭疽のすべての成績
 をロンドンの国際医学会で発表した。
1881年7月6日、天皇陛下へ、岩倉具視が、憲法制定意見を
 上奏した。
  岩倉具視の憲法構想とは・・、
  憲法について岩倉具視が、上奏した意見書を、箇条書
 きで記したもので、起草者は、井上毅と言われている。
  (1)欽定憲法(きんていけんぽう、君主によって制定
 された憲法。大日本帝国憲法など)たること、
  (2)漸進主義をとること、
  (3)プロシアをモデルとすること、
  (4)内閣組織は議院と距離を保つこと、
  (5)二院制の採用、
  (6)選挙のあり方(制限選挙)など、
  その内容の大半が、明治憲法に採り入れらた。
  そして、この時・1881年、これを基にした「大綱領」
 が天皇陛下に上奏された。
1881年7月9日、明治生命が開業した。
  福澤諭吉門下の阿部泰蔵らにより、東京・木挽町に、
 有限明治生命保険会社が創業した(日本最初の生命保険
 会社)。
  設立は7月8日。三菱財閥系。
1881年7月、北海道・札幌農学校の演武場(現=札幌市時計
 台)が、玄関正面部と鐘楼を取り壊し、骨組みを強化し
 て日本初の時計台を設置した。
  「3面の文字盤を持ち、鐘の鳴る装置を備えた機械」を
 米・ハワード時計会社に注文したが、到着した機械が、
 予想以上に大きかったため、
  玄関正面部と、鐘楼を取り壊し、骨組みを強化して設
 置した。改修費は1329円。
  8月12日に、初めて4km四方に鐘を響かせて時を告げた。  
  この演武場は、1878年に建築されていた。
  尚、これは、開拓長官の黒田清隆の発案による。
1881年7月21日、黒田清隆が、北海道開拓使官有物の払下げ
 計画を太政大臣に申請した。
1881年7月29日、「中學校教則大綱」(文部省達第二十八号)
 が公布された。
  第一条:中学校ハ高等ノ普通学科ヲ授クル所ニシテ中
    人以上ノ業務ニ就クカ為メ又ハ高等ノ学校ニ入ル
    カ為メニ必須ノ学科ヲ授クルモノトス
  第二条:中学科ヲ分テ初等高等ノ二等トス
  第三条:初等中学科ハ修身、和漢文、英語、算術、代
    数、幾何、地理、歴史、生物、動物、植物、物理、
    化学、経済、記簿、習字、図画及唱歌、体操トス
    第四条 高等中学科ハ初等中学科ノ修身、和漢文、
    英語、記簿、図画及唱歌、体操ノ続ニ三角法、金
    石、本邦法令ヲ加へ又更ニ物理、化学ヲ授クルモ
    ノトス
  第五条:中学校ニ於テハ土地ノ情況ニ因リ高等中学科
    ノ外若クハ高等中学科ヲ置カス普通文科、普通理
    科ヲ置キ又農業、工業、商業等ノ専修科ヲ置クコ
    トヲ得
  第六条:普通文科ハ高等中学科中ノ三角法、金石、物
    理、化学、図画等ノ其科ヲ除キ或ハ其程度ヲ減シ
    修身、和漢文、英語、本邦法令等某科ノ程度ヲ増
    シ又歴史、経済、論理、心理等ノ某科ヲ加フルモ
    ノトス
  第七条:普通理科ハ高等中等科中ノ和漢文、英語、本
    邦法令等ノ某科ヲ除キ又ハ其程度ヲ減シ金石、物
    理、化学、図画等某科ノ程度ヲ増シ又ハ代数、幾
    何、測量、地質、重学、天文等ノ某科ヲ加フルモ
    ノトス
  第八条:初等中学科卒業ノ者ハ高等中学科ハ勿論普通
    文科、普通理科其他師範学科、諸専門ノ学科等ヲ
    修ムルヲ得ヘシ
  第九条:高等中学科卒業ノ者ハ大学科、高等専門学科
    等ヲ修ムルヲ得ヘシ
     但大学科ヲ修メソトスル者ハ当分ノ内尚必須ノ
    外国語学ヲ修メソコトヲ要ス
1881年7月29日、北海道官有物を、関西貿易商会に払下げ決
 定した。
  しかし、世論の反対で10月12日に中止に至る。
  7月21日に、北海道開拓使官有諸施設払下げ問題が起こ
 り、
  民権派は、激しく政府を攻撃した。
  これに対して政府は、10月12日、10年後に国会を開設
 するという詔書を出すとともに、大隈参議を罷免した。
  民権派は、10月29日自由党を結成した。
1881年7月30日、明治天皇陛下が、東北、北海道巡幸御発輦
1881年8月1日、開拓使官有物払下げ事件が起こる。
  黒田清隆が、官有物を格安で払い下げた。
1881年8月2日、「学生」の称の始り
  東京大学本科生が学生と呼ばれるようになる。
1881年8月19日「師範学校教則大綱」(文部省達第二十九号)
 が公布された。
  第一条:師範学校ハ小学校教員タルニ必須ノ学科ヲ授
    クル所トス
  第二条 師範学科ヲ分テ初等中等高等ノ三等トス
  第三条 初等師範学科ハ修身、読書、習字、算術、地
    理、物理、教育学学校管理法、実地授業及唱歌、
    体操トス
     但唱歌ハ教授法等ノ整フヲ待テ之ヲ設クヘシ以
    下之ニ傚フ
  第四条 中等師範学科ハ修身、読書、習字、算術、地
    理、歴史、図画、生理、博物、物理、化学、幾何、
    記簿、教育学学校管理法、実地授業及唱歌、体操
    トス
  第五条 高等師範学科ハ修身、読書、習字、算術、地
    理、歴史、図画、生理、博物、物理、化学、幾可、
    代数、経済、記簿、本邦法令、心理、教育学学校
    管理法、実地授業及唱歌、体操トス
  第六条 師範学校ニ於テハ土地ノ情況ニ因リ某学科ノ
    程度ヲ斟酌シ農業、工業、商業等ヲ加フルヲ得殊
    ニ女子ノ為ニハ本邦法令、経済等ヲ除キ若クハ某
    学科ノ程度ヲ斟酌シテ裁縫、家事経済等ヲ加フヘ
    シ
  第七条 高等師範学科卒業ノ者ハ小学各等科ノ教員タ
    ルヲ得ヘク中等師範学科卒業ノ者ハ小学中等科及
    初等科ノ教員タルヲ得ヘク初等師範学科卒業ノ者
    ハ小学初等科ノ教員タルヲ得ヘキモノトス
  第八条 師範学科ヲ修メントスル生徒ハ品行端正、体
    質強健、年齢十七年以上ニシテ小学中等科卒業以
    上ノ学力アル者タルヘシ
     但年齢ハ土地ノ情況ニ因リ十五年以上トスルモ
    妨ケナシ又初等中等学科卒業ノ者ハ高等師範学科
    第四年級ニ入ルコトヲ得
  第九条 師範学校ノ修業年限ハ初等師範学科ヲ一箇年
    トシ中等師範学科ヲ二箇年半トシ高等師範学科ヲ
    四箇年トス
1881年8月20日、勅を奉じて編纂せる元田永孚(もとだなが
 ざね、漢学者)の修身教科書「幼学綱要(ようがくこう
 よう、幼童のための欽定教訓書)」刻本(こくほん、印
 刷した本)完成する。
1881年9月、横浜に、連合生糸荷預所(れんごうきいとにあ
 ずかりしょ)が設置された。
  生糸取引方法の改革を主張する「生糸売込問屋」らと、
  それを阻止しようとする「外国商館」との間で紛争が
 生じた。
  茂木惣兵衛、原善三郎、渋沢喜作らの横浜生糸売込問
 屋は、従来、外国商館が現物を引き込んで検査、計量を
 行っていた取引は、弊害が多いと批判した。
  そして、検査・計量を、連合生糸荷預所で行う見本品
 取引に改めた。
  また、同所を通じて輸出生糸流通を独占的に掌握しよ
 うとした。
  外国商館は、一致して取引を拒否しつつ、対抗した。
  9月下旬~11月中旬まで、約2ヵ月にわたり外国商館へ
 の生糸売込みは途絶した。
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