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2015年7月10日金曜日

(増補版)150D1/3:気になった事柄を集めた年表(1717年~1719年)

題:(増補版)150D1/3:気になった事柄を集めた年表(1717年~1719年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1718年、柄井川柳(からいせんりゅう)が生まれた(1718年
 ~1790年)
  「排風柳多留」が、1765年に、刊行されている。
  辞世の句は、
  「木枯らしや 跡で芽をふけ 川柳(かわやなぎ)」
1718年、経済政策:幕府御用達を免ず
  三井家が、幕府御用達を免じられた。
1718年、消防・町火消を制度化
  江戸の消防組織は、定(じょう)火消、大名火消、町
 火消があり、町火消の起源は明確ではないが、当初は、
 店(たな)火消と称し、1719年のこの年に、江戸町火消
 「いろは」の47組に組み分けされた。
  これは、荻生徂徠の進言により、大岡越前守が施策と
 して打ち出したのが「江戸の町は江戸の庶民の手で護ら
 せる」という、自衛・自治の考え方に根ざした町火消の
 創設で、本格的な町火消制度へと発足させた(1719年4月
 の説あり)。
  因みに、大阪は町火消のみ。京都は奉行所支配下に臨
 機各町から人足を出動させた。
1718年7月、バッサロヴィッツ条約(オスマン帝国は、セル
 ビアなどをオーストリアに割譲した)。
  トルコ・ベネチア戦争と墺土戦争(おうとせんそう)
 の終結による講和条約として締結された。
1718年、オスマン・トルコ(オスマン帝国)アフメット3
 世の時代、比較的戦乱のない1718年~1730年の13年間を
 チューリップの時代という。
  かつて、オスマン帝国から出て行ったチューリップが、
 改良されて逆輸入され、フランス文化も導入された。
  アフメト3世の時代は、宥和政策(ゆうわせいさく、
 温和な外交政策)がとられ、内政も泰平な唯美主義の時
 代だった。フランス宮廷との交換も頻繁に行われ、趣味
 や風潮・文化が導入された。
  オスマン各層に大きな影響を与え、絢爛たる文化が栄
 えた。
1719年、田沼意次(たぬまおきつぐ、老中)が生まれた(
 1719年~1788年)
  紀州藩士から旗本になった田沼意行の長男として江戸
 屋敷で生まれた。
  父は、足軽だったが、部屋住み時代の徳川吉宗の側近
 に登用され、吉宗が将軍就任になると、多くの紀州系家
 臣と共に幕臣となった。
  意次は、紀州系幕臣の第二世代であり、第9代将軍と
 なる徳川家重の小姓として抜擢され、1735年に、父の跡
 の600石を継いだ。
1719年1月、吉宗から松前矩広が10000石格の大名とされ、
 公式に松前(福山)藩が成立した。
  そして、蝦夷地の交易独占を許された。
  幕府は、この年に、蝦夷地の渡海と通常の条例を定め
 た。
  松前藩は家臣の知行地として、1754年に、国後島のほ
 か択捉島や得撫(うるっぷ)島を含むクナシリ場所が開
 かれ、国後島の泊には交易の拠点、および、藩の出先機
 関として運上屋が置かれていた。
  尚、松前(藩主)は、1715年に、江戸幕府に対し、
 「十州島、唐太、千島列島、勘察加」は松前領と報告し
 ている。
  そして、この地は、後に、近江商人に経営権を与え、
 請け負った商人は、出稼ぎの日本人と現地のアイヌ人と
 で漁業をした。
  鰊・鮭・昆布などの北方の海産物の生産は、大きく拡
 大して行った。
  これ以前からあった熊皮・鷹などの取引を圧する規模
 になった。
  ロシアはまだ来ていなかった。
  安房・紀州沖にロシア船が来るのは1739年で、厚岸(
 あっけし)にロシア船が来るのは1778年。
1719年、教育:庶民の聴講を許す
  この年には、林家以外の幕府の儒者に命じて、八代洲
 河岸(今の東京都庁付近)の高倉屋敷で講義させ、庶民
 の聴講を許した。
1719年、司法:金銀貸借訴訟を幕府法廷で受理せず。
  当事者間で解決するよう命ず(相対済令、~1729年)
  この事を、幕府は数度にわたって出している。
  金公事(かねくじ)とは、江戸幕府の訴訟取扱い上の
 区分で、担保物を伴わない利子付き金銭債権、ならびに、
 これに準ずるものをいい、
  幕府は、和解を強く指導した。
  幕府の考え方は、この種の訴訟は、本来、当事者の実
 意(じつい、言動の裏に隠されている本当の意図・真意・
 本心)により相対で解決すべきものであるとした。
1719年、政策:町並地(まつなみち)の貢租関係も町奉行
 支配下へ組み込まれた。
  貢租納入の連帯責任があった。
  江戸時代の町には、一般の人足役などの公役を負担す
 る町人の町と、鍛冶・大工などの技術労働を国役として
 負担する町人の町、そして、代官領であって後で開けて
 市街地となった地子銀を納める町(町並地)があった。
 その他・寺社領、寺社門前の町など・・、
  この町の中の町並地が、町奉行の支配下になった。
1719年、毛利氏の改革(1)
  萩藩第5代藩主・毛利吉元のとき(1719年)、人材育成
 の組織である「藩校・明倫館」を創設し、
  先駆的な学校教育を開始した。
  そして、登場する名君は、7代重就(しげたか)で、
 「御前仕組方(藩主直属の財政会議)」を新設し、
  本格的な財政改革が始められた。
  産物の増産を専門職とする「撫育方(1763年創設)」
 もあった。
  明治1年の時、幕府との対決に使った軍事費(撫育金と
 呼んだの残高は、100万両を越えた(プレジデント平成
 10年7月号)
  因みに、日本銀行金融検研究所貨幣博物館によると、
 元文期の賃金で見ると1両=30万円~40万円、そば代金で
 見ると1両=12万円~13万円、米では1両=約4万円に相当
 するという、故に、長州藩の100万両≒1000億円(1両=
 10万円として)となる。
1719年、人事:吉宗が、天文学者の西川如見(にしかわじ
 ょけん)を招いた。
  西川をして洋書を講義をさせた。
  世界の地理、そして、天文・暦学を深く理解した町人
 学者とある。
  また、儒学に通じ、町人・農民に道徳を平易に説いた
 という。
  また、長崎で得た知識をもとに、「増補華夷通称考」
 を書き、中国・西洋・南洋の風土や文化を国別にまとめ
 たという。
  また、この年に、西川如見が、「町人嚢(ちょうにん
 ぶくろ、教訓書)」を出版した。
  これは、町人としての心得を、学問・道徳・職業・処
 世などに分けて箇条書きにしたもの。
  封建的身分制を肯定した上で武士と異なる町人独自の
 生き方・心得が平易な文章で書かれている。
  「人間は根本の所に尊卑あるべき理(ことわり)なし」
 という四民平等を説いている。
  平等を謳った1787年のフランス革命より完全に早い時
 に、日本の一町人学者は、その概念を、日本の町の方々
 へ平易にすでに説いていた。
  歴史を探求すれば、日本人の先進性や素晴らしさが、
 あちこちに出て来る。
  平等観念などは、平等院もそうだが、遠い昔から日本
 人には根付いていた、当たり前の観念だった。
..
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2015年7月9日木曜日

(増補版)149D1/3:気になった事柄を集めた年表(1716年~1717年)

題:(増補版)149D1/3:気になった事柄を集めた年表(1716年~1717年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1716年、人事:吉宗は、出身藩の紀州藩士を起用し、新井
 白石らを罷免した(「側近政治」より「将軍親政」へ)。
  白石は、良質な「正徳金銀」を鋳造して、緊縮財政を
 行ったのだったが、その経済政策は、インフレ(物価上
 昇)をおさえたもののデフレ(物価下落と幕府の収入の
 減少)を引き起こすという弊害をもたらした。
  吉宗は、将軍に就任すると、新井白石や間部詮房を退
 けた。
  そして、出身の藩である元紀州藩士を起用する。
  そして、紀州藩主であった吉宗が、この藩主の時に、
 既に、自ら経験していた「藩政改革」を行った。
  その基本理念の「質素倹約」「緊縮財政(歳出削減)」
 「風紀紊乱(びんらん、風紀の乱れること)取締」を、
 幕政に持ち込んだ。
  吉宗がやったことは、白石らの「側近政治」から、「
 将軍親政」による幕政改革へと取り組んだ。
  この白石を罷免したこの1716年から、1745年に至るこ
 の吉宗の政治改革を、「享保の改革(きょうほうのかい
 かく)」と言った。
1716年、人事:小笠原胤次・有馬氏倫・加納久道を御用掛
 に任命した。
  小笠原胤次(おがさわらたねつぐ)、有馬氏倫(あり
 まうじのり)、加納久道(かのうひさみち)は、吉宗の
 紀州時代からの側近だった。
  そして、御用取次として登用し、将軍と老中の間を取
 り持ち、享保の改革を補佐させた。
  当初の名称は「御用掛(御用懸り)」や「御用掛(御
 用懸り)御側衆」であったが、1755年頃より「御側御用
 取次」となった。
1716年、鷹狩り復活
  徳川吉宗が、鷹狩りを復活させた。
1716年、世相:「享保世話(きょうほうせわ)」
  この頃の江戸市中に流れていた巷談を集めたもの(
 1722年~1725年の頃の説がある)
  旗本・親見正朝編の「近世風俗見聞集」に収められて
 いる。
  享保の吉宗の時代になると、旗本への給与の遅配が起
 きたという。
  「享保世話」は、この事などを批判し、皮肉っている。
  吉宗は、石高の1パーセントを幕府へ納める「上げ米
 令」を公布するにあたって、
  在府の大名の全員を江戸城の大広間に召集し、自ら頭
 を下げて、幕府の困窮した財政事情と再建策を詳細に説
 明し、協力を要請した。
  この様に、将軍以下幕閣たちは、非常な決意で享保の
 改革に取り組んでいた。
1716年、世相:百姓層が、『成長組』と『転落組』に二分
 されて行く。
  享保以降、近世後半期に入ると、
  土地を集積して地主へと成長して行く少数の家と、
  喪失して小作、水呑み百姓へと転落して行く多数の家
 と、方向がはっきり二分して行く。
  大高持(本百姓・ほんびゃくしょう)の家は、酒屋・
 質屋などを兼営し、商人としても致富を重ねて行く。
  また、町人資本の投下によって、町人の新田地主も増
 加して行く。
  領主が、農民から得た富の一部分は、その地主層が、
 その分け前にあずかった。
  こうして得た部分は、百姓=生産者の手に残ったので
 はなく、町人・地主の手に入って行った。
  三都(さんと、江戸・大坂・京都)の問屋・豪商など
 が、近代へとその経営を発展させたのと同様、
  農村における地主層も、着実に、その基盤を固め、
  日本の近代経済の支柱を形成して行った。
  経済面ばかりではなく、この様な近世社会の仕組みの
 中で成長して行った町人・地主層に、日本的な文化の形
 成の土壌があったと言える。
  幕藩領主が、石高制によって把握する事が出来た産業
 経済界が、公的な世界であったのに対して、
  その社会の仕組みから成長して行った世界は、私的な
 世界であった。
  公的世界では、商行為を賤視し、利益追求を悪とする
 のに対し、
  私的世界では、それを積極的に肯定する意識が生まれ
 ていた。
1716年、出版:康熙字典(こうきじてん)が成った。
  中国の漢字字典。
  編者は、張玉書、陳廷敬ら30名。
1717年2月、人事:大岡忠相(おおおかただすけ・越前守)
  伊勢山田奉行・大岡忠相を江戸南町奉行に登用した。
  大岡忠相は、山田奉行時代に、紀伊領と関係のあった
 問題を紀州藩に気兼ねせずに解決して、吉宗に認められ
 ていた。
  それで、吉宗が将軍に就任し、江戸町奉行の抜擢され
 たという。
  医師が吉宗に建議して出来た、貧民の救済救療施設の
 小石川養生所(医療施設)は、大岡町奉行の管理となっ
 た。
  また、小石川薬園内に、施薬局を設け、低所得の病人
 を救済し、また、介護者のいない者なども収容した。
  1722年にできた。
1717年7月、教育・講義を庶民に開放する。
  幕府の享保の改革において、まず、1717年に、湯島の
 聖堂の講義を庶民にまで開放した。
  湯島聖堂の「仰高門東舎」での講義聴講は、連日、武
 士・庶民が座り切れないほどだった。
1717年、外交:朝鮮使節の待遇
  朝鮮使節の待遇を白石以前の形態に復し、将軍の自称
 も「日本国大君」に返した。
1717年、人事:水野忠之(みずのただゆき、1669年~1731
 年)が、老中に就任した。
  1722年に、さらに改革の財政再建の最高責任者である
 「勝手掛老中(かってがかりろうじゅう」に任命され、
 年貢増徴や新田開発などの増収政策を積極的にすすめ、
 幕府を財政危機の窮地から救った。
  しかし、その政策は、社会に深刻な不況と米価の急落
 をもたらし、人々の不満、批判は忠之に集中した。
  「享保世話」に、「無理で人をこまらせる物、生酔(
 なまよい、酒に少し酔うこと)と水野和泉守」とある。
1717年、出版:荻生徂徠が、「弁道」「弁名」を著した。
  この二冊を「二弁」と呼ばれ、徂徠学の神髄と言われ
 ている。
1717年、広東省で、人頭税を廃止し、土地課税のみとする
 地丁銀(ちていぎん)が施行された。
  以後、各地に広まる。
  古来それぞれ独立していた丁銀(人頭税)と地銀(土
 地税)を一本化し、土地のみに課して徴収した。
  丁税を廃止した点が画期的改革だとされている。
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2015年7月7日火曜日

(増補版)148D1/3:気になった事柄を集めた年表(1714年~1716年)

題:(増補版)148D1/3:気になった事柄を集めた年表(1714年~1716年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1714年、ピョートル1世(ロシア皇帝)が、バルト海東岸
 地域を支配下に置いた。
  ピョートル1世の富国強兵策によってロシアは発展し、
 バルト海に出たいという希望が、スウェーデンよりバル
 ト海海域世界の覇権を奪取して叶った。
  そして、バルト海交易ルートを確保した。
  これまで、ピョートル1世は、権力を皇帝のもとに一元
 化して戦争をし、その戦争遂行をしやすくする為に行政
 改革し、海軍創設をしたりして来た。
1715年1月、施策:長崎貿易を制限
  長崎貿易を制限し、中国船30隻、オランダ船2隻が各々
 銀6000貫匁・3000貫匁の取引を行う事を認め、
  決済手段の半分は、銅によることを定める(正徳新令・
 海舶互市新令)。
1715年、経済政策:両替商と諸問屋仲間の組合設置
  新鋳金銀の通用促進のため、江戸に両替商と諸問屋仲
 間の組合が設置された。
1715年、芸能:近松門左衛門の「国性(姓)爺い合戦」の
 初演、大当たりをした。
1715年、新井白石の「西洋紀聞」が完成した。
1715年、稲生若水(いのうやくすい、本草学者、漢学者)
  稲生若水は、加賀藩前田候に仕えていが、加賀藩主の
 前田綱紀(まえだつなのり)の援助で「庶物類纂(しょ
 ぶつるいさん)」を編集・著述に着手したが、この年に、
 362巻(正編)までで病没した。
  庶物類纂は、正編と増補から成り、正編は中国の諸書
 から物産、博物の名称、形状、産地などが記されている。
1715年、東海道歩行飛脚が始まる
  江戸の若狭屋忠右衛門が、東海道歩行飛脚を始めた。
  歩行飛脚は、書状や荷物を運ぶ徒歩の飛脚のこと。
1715年、イギリスが、東インド会社を広東に商館設置した。
  この後、広東貿易に参入してアヘン戦争という卑劣な
 戦争をする。
  日本の場合、平戸に商館があるが、イギリスの国王の
 国書を携えた使節が来航して許可を得ているが、会社と
 いうが、国の行為そのもの。その国が、イギリスが、中
 国で卑劣な事をする。
1716年、第8代将軍に徳川吉宗が就任した(1684年~1751年)
(将軍期間、1716年~1745年)
  7代将軍の家継が没し、紀伊藩主の吉宗が8代将軍とな
 った。
  吉宗は、「元文の改鋳」をした。
  当時の「享保小判」を回収して、金の量が少ない「元
 文小判」を数多く発行した。
  その後は、約80年に渡り、物価は安定し、再び経済が
 繁栄した。
  当時は、地方の農民が、特産品を売るようになるなど、
 市場経済が各地に広がり、
  元文小判が、活発に使われた。
  現在の日本企業は、海外へ出て行き、外国で得た利益
 の為替変動の影響を避けるためなどから、その国の事業
 にその利益金を使う事が多く、日本の経済を成長させる
 力になってない。
1716年、与謝蕪村(よさぶそん、俳人、画家)が生まれた
 (1716年~1784年)
  摂津国の毛馬村(大阪市毛馬町)の生まれだが、それ
 以上の詳しいことが分からない人。
  敬い慕う松尾芭蕉の行脚生活にあこがれて、その足跡
 を辿り、また、僧の姿に身を変えて東北地方を巡った。
  絵を描いて宿代代わりに置いて行くという旅だった。
  その後、丹後、讃岐なども周遊し、42歳で京都に居を
 構えた。
  45歳で結婚し、一人娘を得た。68歳で生涯を閉じた。
  辞世の句は、
  「しら梅に 明(あく)る夜ばかりと なりにけり」
  蕪村に影響された俳人は多いという。正岡子規もその
 一人という。
  「蕪村忌に呉春が画きし蕪かな」正岡子規
  鳶鴉図(とびがらすず、重要文化財)がある。
1716年5月、出版:新井白石の自伝「折りたく柴の記(おり
 たくしばのき)」が執筆開始され、
  1716年5月ころに成ると言われる、また、随筆ともいわ
 れる。
  生家である新井家のことや、白石の政治的体験談など
 自伝的、政治的要素の濃い自伝的随筆と説明されている。
  6代将軍徳川家宣のあつい信任と恩恵に浴しつつ幕政に
 尽力した自分の立場を明確に子孫に語り残す事を主目的
 につづったものとも説明されている。
1716年、室鳩巣が吉宗の侍講になった。
  間部詮房・新井白石らが罷免されてとも説明され、ま
 た、白石におされて幕府に仕え、のち吉宗の侍講となっ
 たとも説明されている。
  ・・が、白石の推挙が正しいようだ、白石・室鳩巣と
 もに木下順庵の弟子であるし・・、白石と室鳩巣は並ん
 で英才の誉れが高かったという。
1716年、8代将軍・吉宗によって、享保の諸政策が遂行され
 ているとき、
  儒者・室鳩巣は、幕府の財政難を解決する方策として、
 京・大坂の富豪から御用金を徴収する事を献言した。
  しかし、吉宗は、この意見を退け、かかることは臨機・
 当座の措置であり、
  目下苦慮しているのは、根本的解決策であると述べた。
1716年、教育:寺子屋の著しい増加
  寺子屋の著しい増加の傾向は、享保以来の現象である。
  享保の頃、江戸には840人もの手習いの師匠がいた。
1716年、交通:雲助やごまのはい取締り
  幕府は、各宿場で雲助、ごまのはいなどを捕らえるよ
 う命じた。
1716年、交通施策:五街道の正式名
  五街道の正式名称が定まる。
  東海道はそのままで、中仙道は中山道に、甲州、日光、
 奥州は、各々、道中となる。
1716年頃、交通政策:六郷川の橋を廃止
  この頃、六郷川の橋を廃止し、舟渡しとする。
  江戸の防御の一環でもあったと考えられる。
  「1570年に、信玄が武蔵国へ乱入の時は、北条家の侍
 が焼き落とした、そして、甲州勢を止めた。その後、30
 余年、たえたりしを・・」という古文書がある。
  しかし、最初から橋があったのか?の論議もある。
1716年、人事:能吏(のうり、能力の優れた有能な官吏)
 を登用
  8代将軍・吉宗は、享保改革を行い、幕府の財政や直轄
 領行政を担当する勘定方役人に多くの能吏を登用した。
  彼らは、「地方巧者(じかたこうしゃ)」と言われ、
 農政や農業技術の練達の人たちだった。
  特に、享保以降は、民間からの登用が目立った。
  また、彼ら地方巧者は、地方書の著者で、地方の改革
 を実践する人、進める人たちだった。
  江戸時代を封建というが、この事例の様に、本当に、
 差別なく、四民平等で、民主的な行動をとっていた社会
 だと言える。
  明治維新以降に、日本は、西洋から民主主義を教えら
 れたというのは間違いで、西洋礼賛から来ている。
  日本人の心根の底には、優しさがあり、そこから発す
 る差別のない平等意識が根付いていて、
  この事例の様な政治にも、その事が反映している。
  坂本龍馬の育った高知にあった民主主義社会のつなが
 りの事例は有名で、竜馬出現の、世に出たことの必然さ
 が感じられる。
  下級武士社会から有能な志士があまた出現した。
  西洋ヨーロッパ社会は、殺戮の、家系存続、王位継承
 の争いの社会だった。
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(増補版)147D1/3:気になった事柄を集めた年表(1713年~1714年)

題:(増補版)147D1/3:気になった事柄を集めた年表(1713年~1714年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1713年、出版:貝原益軒
  貝原益軒が、「岐蘇路記(きそじのき)」を刊行した。
1713年、ユトレヒト条約が締結された。
  スペイン継承戦争参加国の講和(オーストリアを除く)
  この戦争は、イギリスの「一人勝ちである」と言うが、
 講和の内容は、まったく卑劣の一語に尽きる(例えば、
 奴隷貿易の利益の奪い合いがあるという様に、何しろ、
 餓鬼の欲得の世界である、軽蔑すべき我欲の世界に、う
 ごめいていたイギリスはじめ、キリスト教のヨーロッパ
 諸国だった)。
  内容:1、イギリスは、スペインの奴隷貿易に参入で
      きる。
  2、イギリスは、スペイン王国より、ジブラルタル及
   びメノルカ島を譲り受けることができる。
  3、イギリスは、フランス王国より、北アメリカのア
   カディアとニューファンドランド島、ハドソン湾地
   方を譲り受けることができる。
  そして、今後、フランスとスペインの合同をしないこ
 とを条件に、スペインの王位(フランスのルイ14世の孫
 のフェリペ5世)を認めた。
  しかし、フランスの王位継承権は、放棄させられた。
  王位が欲しいとか、王位を継続したいとかのヨーロッ
 パだった。そこには、民は、いなかった。
1713年、オーストリア皇帝カール6世が、国事詔書(プラグ
 マティッシェ・ザイクツィオン)を発布した。
  王位継承についての法。
  相続についてとか、帝位につくこととか、家領を残す
 ためとかの家憲についてとか・・と、
  王位についての、自分たちの特権についてだけの事。
  ここにも、民は、いなかった。
  ハンガリー女王であり、オーストリア女大公であり、
 ボヘミア女王であったマリア・テレジア(はるかヨルダ
 ン川でキリスト教の洗礼をしたという人)も承継戦争に
 関わってうごめいた。
1714年2月、施策:密貿易を厳禁とした。
  幕府が、抜荷(密貿易)を厳禁。
  翌年、長崎貿易を制限。
1714年5月、経済政策:金銀貨の品位を旧に復す。
  金銀貨を改鋳し、慶長金銀の品位へ旧に復した(正徳
 金銀)、
  すると、新金銀の通用以前の状態に銭貨は急騰した。
  そのため、7月には、幕府は、銭価の禁止する令を出し
 た。
1714年5月、事件:銀座不正摘発、銀座関係者を処罰した。
  幕府は、元勘定奉行の荻原重秀と結び、暴利をむさぼ
 っていた中村内蔵助ら銀座関係者10名に、遠島・追放・
 逼塞(ひっそく、門を閉ざし、昼間の出入りを許さない
 もの)などの刑を言い渡した。
  重秀は、長く勘定奉行の要職におり、銀座関係者らと
 結託して金貨・銀貨の質を落として貨幣を多く流通させ
 た。
  中村は、不正に得た利益で、京都の一等地に3600坪(
 12000㎡)の巨大邸宅を構えていたという。
1714年8月、菱川師宣(ひしかわもろのぶ、画家・浮世絵
 師)が没す。「見返り美人図」
  生年は、1618年または1630年、もしくは1631年と言わ
 れ、クエスチョンマークが付けられる場合もある。
  また、没年は、1694年とも言われる。
1714年8月、貝原益軒(かいばらえきけん、本草学者・儒学
 者)が没す(1630年~1714年)「養生訓」
  「心を平(たいらか)にして気を和(なごやか)にす
 る。これ身を養い徳を養う工夫なり」(養生訓)
1714年9月、浅草に鋳銭所を設置した。
1714年9月、竹本義太夫(たけもとぎだゆう、義太夫節浄瑠
 璃の創始者)が没す(1651年~1714年)
  大阪に竹本座を開設し、近松門左衛門を作者に迎えて
 繰り芝居(繰り人形を用いてする芝居)を興行し、人形
 浄瑠璃を大成した。
1714年、世相:デフレで経済混乱
  デフレで、新旧貨幣の交換に関する投機などで、経済
 混乱。
  1714年に行われた金貨の品位向上は、慶長金貨の品位
 を84%~87%までの引上げたのだった・・が、また、
  元禄・宝永小判二両に相当する品位84%の正徳小判を
 発行したのだが・・、
  しかし、正徳小判の品位は、慶長小判に劣るとの風評
 が立った。
  そこで、翌年の1715年に、さらに品位の高い改鋳を行
 った。
  慶長小判と同品位の享保小判(品位87%)を発行した。
  金銀貨の流通量は、減少傾向を強め、
  物価は、大きく下落した。
  デフレ経済に陥った。
  武士や民・百姓へ、深刻な影響を与えた。
1714年、事件:大奥老女の絵島(絵島・生島事件)
  幕府が、大奥老女の絵島(えじま)らを処罰した。
  当時、名代(なだい)の歌舞伎役者・生島新五郎(い
 くしましんごろう)との恋愛沙汰が露顕した・というも
 の・・しかし、
  この背後に、将軍の側近たちによる派閥に対する、譜
 代大名や旗本、および、先代将軍に仕えた者たちとの派
 閥争いがあったという。
  参詣帰りに芝居見物し、帰りが夕暮れになったことに
 端を発している。
  絵島は、死一等を減じ遠流とされ、月光院(将軍家継
 の生母)の願いによって、信州高遠(長野県伊那市)に
 高遠藩の預けとなった。
  絵島の兄は、死罪に処せられた。
  生島は、三宅島に流罪となった。
  その他、旗本、奥医師、陪臣、呉服師とその手代、座
 元、役者、商人などの連座したものが多数いた。
  また、大奥女中の67人が、親戚への預けとなった。
  この後、絵島は、高遠の囲屋敷で27年を過ごし、1741
 年に、61歳で生涯を閉じた。
  生島は、この翌年に赦され、江戸に帰れた。
1714年、出版:荻生徂徠の「蘐園随筆(けんえんずいひつ
 )」が刊行した。
  蘐園は、徂徠の別号。
  1709年に、門人の手で編集が開始された。
  古学の開創者・伊藤仁斎(じんさい)への景慕(けい
 ぼ、仰ぎしたうこと)が、一転して憎悪に変わったため
 仁斎の学問性への先駆を認めながらも厳しい批判の書と
 なっている。
  本書は、一躍、徂徠の文名(ぶんめい、作家としての
 名声)を高らしめた。
  後に、将軍・吉宗から、間接に、政治上の諮問を受け
 る様になった。
  この諮問に答えて、幕府政治の改革案を述べた著書が
 「政談」で、
  吉宗は、徂徠を、幕府に登用する意思があったと伝え
 られるが、徂徠が病死したために、実現には至らなかっ
 た。
1714年、ラシュタット条約が結ばれた。
  イギリス・オランダ・オーストリアの連合諸国と、フ
 ランスとの間で争われたスペイン承継戦争の、
  終結のための条約で、ユトレヒト条約を補足するもの。
  フランスとドイツ(オーストリア)の講和。
  スペインは王位を承認されたが、南ネーデルランドを
 オーストリアに譲渡が認められた。
  国交断絶とか、王位を認めたとか、戦争ばかりのヨー
 ロッパが延々と続く。民は度外視の世界。
1714年、イギリス、アン女王没し、スチュアート朝断絶、
 ハノーヴァー朝成立。
  1692年に成立したハノーファー公国の君主の家系であ
 ったが、この年に、スチュアート朝に代わってイギリス
 の王家となった。
  女子の継承を認めていなかったため、この家は、1837
 年に、ヴィクトリア女王のイギリス王即位をもって、イ
 ギリス王家から分枝する。
  合従連衡の世界だった。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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2015年7月5日日曜日

(増補版)146D1/3:気になった事柄を集めた年表(1712年~1713年)

題:(増補版)146D1/3:気になった事柄を集めた年表(1712年~1713年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1712年3月、経済政策:大阪銅座を廃した。
  幕府が、大阪銅座を廃し、銅吹屋仲間に貿易銅500万斤
 を長崎への回送を命じた(5月に、再命令)
1712年5月、経済政策:銅を回送。
  長崎貿易決済のため、銅を回送した。
  長崎貿易で、金銀の流出がおびただしかったため、金
 銀に替わる貿易決済手段としての銅だった。
  また、樟脳(しょうのう)や佐渡の干し鮑(あわび)
 も回送した。
  輸入量の超過状態を緩和したかった。
1712年、経済政策:大判金の通用を制限した。
1712年9月、経済政策:人事・勘定奉行の萩原重秀が罷免さ
 れた。
1712年11月、6代将軍の徳川家宣(いえのぶ)が没した(
 1662年~1712年)(将軍在任期間:1709年~1712年)
  慈悲深い将軍だったという。
  萩原重秀を、「才あるものは徳あらず。徳あるものは
 才あらず。真材誠に得がたし」と、批判を受ける萩原を
 死の直前まで盛り立て、重用し続けた。
  しかし、病没寸前の家宣は、白石からの度重なる弾劾
 に、ついに折れた。
1712年、出版:新井白石が、「読史余論(とくしよろん)」
 を著した。
  史論書。家宣に日本史を進講した際の講義案。
  文徳天皇に始まり、豊臣秀吉の天下統一までを14段階
 に分け、
  公家の衰退と武家政権の勃興・成立の必然性、
  そして、発展の過程を明らかにして、武家政治の擁護
 と江戸幕府の正統性を主張しようとした。
  歴史の発展段階の把握など、史論として評価が高く、
  近世以前の代表的史書の一つと言われる。
  師の木下順庵(きのしたじゅんあん)の「本朝通鑑(
 ほんちょうつがん)」の説を、大幅に取り入れている。
  随所に白石の独創的見解が示されている。
1712年、消防:『方角火消』を5方角5組に改編した。
  幕府が組織した火消しは、武士によって組織された武
 家火消(ぶけびけし)と、
  町人によって組織された町火消(まちびけし)に大別
 された。
  武家火消は、幕府直轄で、旗本が担当した定火消(じ
 ょうびけし)と、
  大名に課役として命じられた大名火消(だいみょうび
 けし)に分けて制度化された。
  そのため、合わせて3系統の消防組織が存在していた。
  方角火消(ほうがくびけし)は、1657年に始まり、
  明暦の大火直後に、大名12名を選び、桜田筋・山手筋・
 下谷筋の3組で編成した火消し役となった。
  そして、元禄年間に、東西南北の4組に改編され、方角
 火消と呼ばれるようになり、1712年に、5方角5組に改編
 された。
  これ以降、江戸の火消は、改編がなされながら発展し
 て行く。
  そして、大名屋敷内では、通常より高い「火の見櫓(
 ひのみやぐら)」が許されたりする。
1712年、ルソーが、スイスに生まれる(1712年~1778年)
  哲学者、政治哲学者、作曲家。
  1762年の50歳の時に「社会契約論」を書いている。
  また、この年に書いた小説形式の教育論「エミール」
 が、キリスト教に関係する「サヴォア人司祭の信仰告白」
 の部分が、宗教的な内容で断罪された。
  卑劣な事に、禁書にされてしまった。
  そして、逮捕状が出たため、
  また、キリスト教の異端審問所などで死刑になる事も
 考えられたので、スイスに亡命した。
  亡命中は、スイス内やイギリスなどを転々とした。
  キリスト教のため、卑劣な人生を送る羽目となった。
  そして、1770年になって、偽名でパリへ戻った。
  パリでは、亡命中から執筆していた自叙伝「告白」を
 完成させた。
  続いて、最後の著作である「孤独な散歩者の夢想」の
 執筆を開始したが、
  この作品の完成を見ることなく、パリ郊外で死去した。
  優秀な哲学者、政治哲学者が、キリスト教によって無
 残な人生にされてしまった。その一人だった。
  天才・ガリレオの晩年も可哀想だった。
  卑劣な宗教によって、人類の叡智の多くが埋没した。
  この、人類の大きな損失を憂える。
1713年、7代将軍。徳川家継(いえつぐ)が将軍になった
 (1709年~1716年)(将軍期間、1713年~1716年)
  家宣の4男。最も幼少で将軍になった人。
  家宣が病に倒れ、新井白石と間部詮房を呼び寄せられ、
  「次期将軍は尾張の徳川吉道にせよ。鍋松(家継の幼
 名)の処遇は吉道に任せよ」と、
  「鍋松を将軍にして、吉道を鍋松の世子として政務を
 代行せよ」の2案が遺言された。
  家宣が死去すると、白石は、
  「吉通公を将軍に迎えたら、尾張からやって来る家臣
 と、幕臣との間で争いが起こり、
  諸大名を巻き込んでの天下騒乱になりかねぬ。鍋松君
 を将軍として我らが後見すれば、少なくとも争いが起こ
 ることはない」として、鍋松の擁立を推進した。
  これに対して、幕閣の間では、
  「鍋松君は幼少であり、もし継嗣無く、亡くなられた
 らどうするおつもりか」という反対意見も出た。
  その時、白石は、
  「その時は、それこそ御三家の吉通公を迎えればよい」
 と説得したという。
  また、一説に家宣が、
  「鍋松の成長が見込めなかった場合は、吉通の子・五
 郎太か、徳川吉宗の嫡男・長福丸を養子として、吉通か、
 吉宗に後見させよ」と遺言したという。
  こうして家宣没後の1713年に、鍋松は家継と改名し、
 将軍宣下を受け、第7代将軍に就任した。
1713年3月、奢侈(しゃし)禁止令を出す。
  将軍の家継が幼少で、権力は母親の月光院にあった。
  華麗な衣装、特に加賀紋や伊達紋は人気があって、華
 美だった。その禁令。
  女性の衣服を決定した。
  装束の布は絹、紬に限られ、縫い鹿の子、金糸、金箔、
 輸入品と新しく派手な染物、織物の着用を禁止した。
  (5月説がある)
1713年、経済政策:清の丁賦の額を一定とした
  盛生滋生人丁(せいせいじせいじんてい)を定め、丁
 賦(ていふ、人頭税、各個人に対して一律に同額を課す
 る租税)の額を一定とした。(1712年の説あり)
  官僚などの特権乱用者や、裕福で多くの丁戸を持つ者
 のごまかしや、貧困な農民の未納者などが多く、混乱し
 たため、定額として固定した。
1713年、経済政策:蔵米の蔵出日限厳守を命ず
  大阪市中の米価が騰貴のため、蔵米の蔵出日限厳守を
 命じた。
1713年、経済政策:諸国産銅の廻送
  貿易支払銅不足のため、大阪銅吹屋へ諸国産銅を廻送
 した。
1713年、政策:江戸の町地
  深川など代官支配地を、この年に、街並地として町奉
 行支配下へ組み込まれた。
  江戸川学園江戸川大学に適切に解説されている・・(
 一部を読みやすくした)
  江戸には、今日の東京都に当たるような統一的な行政
 組織はなく、
  支配は、身分別に行われた。
  そのため、町地は町奉行支配、寺社地は寺社奉行支配、
 武家地は大目付、目付支配と別々であった。
  故に、行政的に江戸の範囲がどこであるかは明確では
 なかった。
  中でも一般に、江戸の範囲と理解されているのは、町奉
 行の支配範囲であるが、
  これも、市街地の拡大と共に、周辺の農地が組み入れ
 られていった。
  当初は、ほぼ外郭内の古町(こちょう)300町と呼ばれ
 る範囲だった。
  しかし、1662(寛文2)年に、芝、三田、飯倉から下谷、
 浅草に至る街道筋の代官支配の町300町が編入された。
  また、1713年には、本所、深川、浅草、小石川、牛込、
 市谷、四谷、赤坂、麻布辺りの代官支配で、町屋の成立
 した259町を編入した。
  併せて、この時に、933町となった。
  町並地の年貢の徴収は、代官が行っていたから、二重
 の支配構造だった。
  また、1719年に、本所、深川の開発に当たった本所奉
 行が廃止され、町奉行の支配となった。
  1745年には、寺社門前地440箇所、境内227町が移管さ
 れた。
  その結果、町奉行支配範囲は、下高輪、白金台町、目
 黒、白金、渋谷、千駄ヶ谷、巣鴨、駒込、谷中、坂本、
 箕輪、橋場、本所、小梅、深川猿江、永代新田、平野新
 田となった。
1713年頃、出版:寺島良安の「和漢三才図絵」
  大坂の医師の寺島良安が、図説百科事典の「和漢三才
 図絵(わかんさんずいえ)」を刊行した(1712年説あり)。
  中国の王圻(おうき)の「三才図会」を範としている。
  天文、人物、禽獣、草木、器物、地理などを80余に分
 類して、図入りで解説をし、考証も加えている。
  これは、編者の師の和気仲安の言葉・・、
  「医者たる者は、宇宙百般の事を明らむ必要あり」に
 従い、著述を計画したという。
  各事項は、広く国内を旅行して実地踏査し、
  種類、製法、用途、薬効などを明記して、
  客観的、合理的な解説を施した。
  図解は分析的。
  神社仏閣は、歴史よりも縁起をとり、
  公卿や有職は、伝承のままとしたという凡例が記され
 ている。
  明解で正確さによって、発行から約200年間の明治時代
 に至るまで実用された。
..
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