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2015年11月20日金曜日

(増補版)246D3/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1857年12月~1858年12月)

題:(増補版)246D3/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1857年12月~1858年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1858年(安政5年)1月5日、老中・堀田正睦が、通商条約の
 調印の2ヶ月延期をハリスに要請した。
  (幕府、日米条約締結を決意)の説もあり。
1858年1月8日、幕府が、老中・堀田正睦に上洛を命じ、日
 米条約調印の勅許を請わしむ。
1858年1月12日、日米通商条約の交渉妥結。
  幕府とアメリカ人・ハリスとの通商条約の逐条協議の
 議定のすべてが終わった。
1858年1月21日、老中・堀田正睦が、上京の途につく。
  ハリスが、江戸会見を終え下田に帰参した。
1858年2月20日、幕府が、諸国に令して、楮(こうぞ)、茶
 などを植え、蝋、漆、紙、茶業の興産を計る。
1858年3月、朝廷が、勅許を許さず。
1858年3月24日~25日、江戸日本橋安政5年の大火 (約12万
 戸焼失)
1858年4月5日、堀田正睦が、上洛して、米国との条約締結
 勅許を仰ぎて成らず、空しく還る。
1858年4月9日、飛越地震。
1858年4月23日、彦根藩主・井伊直弼が、大老を命じられる。
  井伊直弼が、保守派におされて大老に就任すると、
  慶福(よしとみ、家茂)を、14代将軍と定め、
  勅許のないまま、安政条約を締結し、
  また、反対派を、徹底的に弾圧した(安政の大獄)、
  このため、水戸、薩摩両藩の志士らによって、1860年
 3月に、桜田門外の変が起き、直弼は暗殺された。
1858年4月24日、老中・堀田正睦が、ハリスを私邸に招き、
 日米条約調印の延期を要請した。
1858年4月27日、日米通商条約の調印が、3ヶ月間再延期に決
 定した。
1858年5月3日、オランダへ注文した軍艦エド号(後の朝陽
 艦、300トン、砲18門)が、長崎へ入港した。
1858年、勝海舟が、長崎に滞在。
  軍艦で九州を巡航、鹿児島に行く、島津斉彬に謁す。
 (氷川清話)
1858年5月7日、江戸に、種痘所が開設された、
  江戸の蘭学者の有志たちが、神田・お玉が池に種痘所
 を開設し、種痘をした。
  また、蘭方医学の研究拠点とした。
  伊藤玄朴等、医官となる。(氷川清話)
  内科に、はじめて蘭医を用う。(氷川清話)
  当時、府下の蘭家医80余名。(氷川清話)
1858年5月、長崎で、中国経由で入港していたアメリカ軍艦
 の乗組員にコレラ患者が発生し、
  長崎に上陸したため、長崎市民に感染した。
  767人の死者が出た。
  後に、猛威が、九州各地から広がり、
  大坂、京都へ行き、
  7月には、江戸が流行、西日本一帯に蔓延して行った。
  50日間で、4万人以上の死者数となった。
  薩摩藩の島津斉彬もコレラで没した。
1858年5月23日、幕府が、初めて、陪臣の蕃書調所への入学
 を許した。
1858年6月4日、三条実萬が、大老・井伊直弼へ意見書を送
 り、大いに時事を論ず。
1858年6月17日、米国使節・ハリスが、軍艦ポーハタンにて
 神奈川に来航し、日米通商条約を迫る。
  国内は、このハリスとの安政の仮条約締結問題と、14
 代将軍継嗣問題も絡んで、保守派と改革派は、深刻な対
 立関係になって行った。
1858年6月19日、幕府は、勅許を得ないまま、日米修好通商
 条約を調印した。
  江戸小柴沖停泊中の米艦上で、日米修好通商条約調印。
1858年6月23日、老中・堀田正睦、罷免。
1858年6月24日、前水戸藩主・徳川斉昭と、尾張藩主・徳川
 慶恕が、不時登城し、日米修好通商条約調印を巡って、
 伊井大老を面詰した。
1858年6月24日、松平春嶽が、日米通商条約を独断で調印し
 た井伊直弼を詰問した。
1858年6月25日、紀州藩主・徳川慶福(家茂)の将軍継嗣が、
 決定したことを発表した。
1858年、徳川慶喜が、条約締結問題について、井伊を詰問
 したことから、隠居謹慎させられた・・
  が、しかし、井伊の横死(1860年3月)後、幕府が、公
 武合体に転換したのに伴い、許されて、慶喜は、家茂の
 後見人となった。
  そして、松平慶永(よしなが)とともに、幕政改革を
 務めた。
1858年7月5日、徳川斉昭は謹慎に、また、徳川慶恕と松平慶
 永は隠居謹慎を命ぜられた。
1858年7月6日、将軍・家定が没した(35歳)。
  将軍家定逝去(温恭院)、(氷川清話)
1858年7月8日、八戸沖で地震。
1858年7月8日、海防掛に代わり外国奉行を置く。
  この日、イギリス使節エルギン、江戸湾に来航。
  イギリスの軍艦4隻が、日本との開港条約を迫って品川
 に来航した(7月5日説あり)
1858年7月、露英蘭の仮条約成る(氷川清話)、
  朝廷、調印に反対す。
1858年7月、江戸に出ていた松下村塾の門下生の中谷正亮
 (しょうすけ)から、松蔭にあてて、
  「幕府は、天皇を、井伊直弼の本拠地・彦根に、遷座
 幽閉しようとしているとの噂がある」と知らせて来た→
 噂に終わった。
1858年7月10日、日蘭修好通商条約調印(オランダ)。
1858年7月11日、日露修好通商条約調印(ロシア)。
1858年7月16日、薩摩藩主・島津斉彬没(コレラ)(1809年
 ~1858年)(49歳)。
  松平斉彬逝去(氷川清話)
1858年7月18日、日英修好通商条約調印(イギリス)。
1858年7月21日、徳川慶福、名を家茂と改む。
1858年7月29日、日米修好条約が締結された(アメリカ)。
  続いて仏(8月13日)、蘭(8月17日)、露(8月18日)、
 英(8月26日)、と五カ国条約。
  この日米修好通商条約が、神奈川で結ばれて、
  日本は、アメリカ、イギリス、ロシア、フランス、オ
 ランダと自由貿易をすることになった。
  この条約は、問題のある条約だった。
  不平等条約だった。
  治外法権(特定外国人に日本の法律が適用できない)、
  つまり、外国人が、日本で悪いことをしても、捕まえ
 る事が出来ないし、
  裁くこともできないという不平等を、日本は認めさせ
 られた(酷いことに、今・現在も存在している、独立国
 の立場なし)。
  また、関税自主権がなく、不平等を強いられた。
  これは、独立国が、その主権に基づいて、自主的に関
 税制度を定め、運営する権利が認められなかったという
 こと。
  これは、日本がどうなろうと、儲かればどんどん好き
 な貿易取引ができて、
  関税によって、その問題の動きに対し、国は調整する
 ことが、したくても出来ない・・という状態に置かれた。
  (これも、今のTPPがこれで、自分が強いのを良い
 ことに、関税は0(ゼロ)が良いのだと、関税によって
 自国産業を保護する手立てを奪う事が行われている。一
 方的な論理の下に・・、
  また、自分の弱点に対しては、35年という超長期のあ
 るか?なしか?・・の、条件にさせられている)。
  午後3時、横浜沖のアメリカ軍艦・ポーハタン号上で、
 井伊直弼大老の幕府と、アメリカ総領事のハリスとの間
 で、日米修好通商条約が調印された。
  21発の祝砲が、江戸湾に轟き渡った。
  大老に従った幕府側の有能な武士は、岩瀬忠震(ただ
 なり)、水野忠徳だった。
1858年7月29日、日米修好通商条約を結ぶにあたって、幕府
 が、天皇の勅許を求めた。
  そして、この事を、直接のきっかけとして、この天皇
 =朝廷が、一挙に政治の舞台に登場した。
  この天皇=朝廷の政治化とともに、政治の舞台の中心
 が京都に移った。
  また、孝明天皇は、特に、外国に対しての敏感な感覚
 (嫌悪感覚)を持っていた。
1858年7月、幕府は、アヘンの輸入禁止を、イギリス・アメ
 リカ・オランダ・ロシアと締結した。
  節操のない国もあるので重要な事だった。
1858年7月以降、長崎に端を発したコレラが、江戸に蔓延、
 死者3万余人を数えた。
1858年7月29日、アメリカとイギリス間の電信用の海底ケー
 ブルが敷設された(大西洋横断ケーブル)。
1858年8月8日、条約調印、及び、徳川斉昭らの処分に関す
 る勅諚(ちょくじょう、勅命)が、幕府と、水戸藩に下る。
  これは、処分の勅諚ではないという説がある。
  朝廷は、幕府よりもむしろ、御三家の一つの水戸家を
 信頼していて、
  この日に、密勅降下があったという。
  それは、事実上の井伊直弼の大老排斥の趣旨を含んだ
 もので、
  この密勅事件が、今後、起きる大獄の直接の原因・発
 火点だったという。
  そして、その井伊の強引な検察的態度に、京都も震え
 上がり、そして、水戸家も戦慄していた。
1858年8月17日、江戸でコレラ大流行(病死者681名)
  死者3万の説あり、
1858年、佐久間象山が、電磁石・ダニエル電池を制作した。
1858年9月3日、日仏修好通商条約調印(フランス)。
1858年9月5日、安政の大獄(10月11日説あり))
  岩瀬忠震、作事奉行へ左遷もあったが・・、
  この日、井伊大老が断を下した京都論壇と、水戸論壇
 に対する大検挙は、既に、浪人、儒者、藩士に始まって、
 公卿の家臣、そして、公卿に及んで行き、そして、大名
 にまで及ぼうとしていた。
  井伊大老の頭の中には、条約勅許問題と、将軍継嗣問
 題について、江戸と京都で暗躍した反井伊派の逮捕であ
 った。
  井伊はこれを命じた。
  これは、一斉検挙の形をとらず、この日から、翌年末
 まで続いた。
  大名・公卿に対しては、蟄居(ちっきょ、自宅謹慎)、
 差控(さしひかえ、出仕の禁止、自邸謹慎)、隠居(い
 んきょ、退職処分)だった。
  これ以下の、いわゆる志士に対しては、逮捕江戸送り、
 そして、投獄、死罪という厳しいものだった。
  藩主・山内豊信は、越前侯、宇和島侯などとともに井
 伊の大嫌いな水戸系の尖鋭大名ゆえに、この大獄では、
 とうてい無事では済まされそうになかった。
  山内家では、取り潰しになるかもしれないと思ってい
 たと「竜馬がゆく・2」には記されている。
  また、同誌には、京都西町奉行所の与力・渡辺金三郎
 は、「安政の大獄」で、志士の逮捕に活躍した鬼与力で、
  どれだけの志士が、この与力のために六角獄(ろっか
 くごく)に放り込まれ、死地へ送られたか。
  この与力・渡辺は、数年後、武市半平太の指揮による
 尊王攘夷派の剣客団のために、江州水口宿の近くの石部
 で暗殺された。 
  安政の大獄で六角獄舎につながれたものは、鷹司家で
 6人、青蓮院宮家(しょうれんいんみやけ)で2人、有栖
 川宮家(ありすがわみやけ)で1人、一条家で2人、久我
 家で1人、西園寺家(さいおんじけ)で1人、三条家で4人、
 梅田雲浜、橋本左内、頼三樹三郎(らいみきさぶろう)、
 他・・、
1858年9月7日、小浜藩浪士・梅田雲浜、京都で逮捕される
  (これより京都・江戸で尊皇攘夷派の逮捕しきり、安
 政の大獄始まる)
1858年9月10日、幕府の弾圧急となり西郷吉之助、有村新七
 等僧月照を伴い京都に逃る。
1858年9月15日、竜馬、江戸留学の期限が切れ、国元へ戻る
 べく江戸を出発。24歳。
1858年10月5日、若狭小浜安政5年の大火
1858年10月23日、橋本左内、江戸で逮捕。
1858年10月25日、徳川家茂、14代将軍となる(将軍在任:
 1858年~1866年))(生没年:1846年~1866年)
  家茂が上洛し・・、徳川家茂(紀州慶福・よしとみ)、
 征夷大将軍・内大臣に任ぜられた。
  これに対抗した、一橋慶喜を推す一派は、安政の大獄
 に連座した。
  勝海舟は、この家茂によって引き立てられた。
  咸臨丸渡航の功によって、天主番頭格(400石)になり、
 さらに、1862年の40歳の時に、軍艦奉行並(1000石)に
 昇進し、
  翌年の1863年4月に、将軍を順動丸に乗せて大阪湾を視
 察させ、いろいろ説明したり進言して将軍と近い関係に
 なった。
  そうして、将軍直々に神戸操練所を建設する許可を受
 ける。
  そして、同じ年の1863年12月に、江戸から大阪まで、
 翔鶴丸で将軍のお供をして、甲板上で地勢を説明したり、
 夜は将軍お手ずから目貫(めぬき)や小柄(こづか)を
 海舟に賜ったが、下田沖を通過するときは西風強く、側
 近達は将軍を陸路上坂させるべきを主張して船内は大い
 にもめた。
  ところが将軍は、「今さら陸で行く必要はない。海の
 事は軍艦奉行に任せてあるのだから」と言って海舟を庇
 (かば)った。
  「小臣涕泣して、上意の忝きに感激す」と海舟日記に
 書いている。
  涕泣(ていきゅう、涙を流して泣くこと。)
  忝き(かたじけなき、もったいない、恐れ多い、感謝
 の念でいっぱいであるさま)
  紀州沖では、夜の航海をすべきか否かで迷ったが、朝
 を待って出帆。
  その間、将軍よりお酒を賜わったり、酒がなくなって
 銀貨を賜わったり、海舟はすっかり家茂のお気に入りと
 なった。(氷川清話)
1858年11月8日、福沢諭吉(23歳)が、豊前中津藩の命によ
 って出府した。
  蘭学・洋学塾(慶応義塾)を開いた。
1858年11月16日、西郷吉之助(30歳)が、同志の僧月照と
 ともに薩摩潟(鹿児島湾)に投身したが一人助かって、
 奄美大島に流された。
  西郷は、二度に亘って島流しにあっている。
  島津斉彬の後の、島津久光は西郷を嫌った。
1858年11月17日、老中・間部詮勝が、米国との条約締結は、
 之を取消すこと不可能の旨奏上す。
1858年11月23日、伊達宗城が、隠居を命ぜられる。
1858年、仏人シャロン男爵、北斎漫画など美術・工芸品を
 購入して帰国。
  ウィーンのジャポニズムの動きなど日本美術の影響が
 ヨーロッパを刺激していく。
  浮世絵のマネや印象派への影響が有名。
  日本紹介の書物によって、この頃までに、日本への関
 心は高まっていたが、この関心が、芸術の面に反映して
 行った。
  開国して、外交官が日本を訪れる様になると、
  随行員として来た、このシャロンの様な美術好きな人
 が、購入して持ち帰った日本の美術品が、フランスへ日
 本芸術を伝えた。
  そして、後期印象派への影響も与え、版画、彫刻、工
 芸、建築、そして、写真などへも大きな影響を与えた。
  多岐に渡る日本芸術の影響が表れた。
  それは、単なる異国趣味のものではなく、正当な高い
 芸術性理解をもって、きわめて画期的な芸術現象として
 表れた。
1858年12月19日、江戸神田安政5年相生町の大火
  神田相生町から出火し、神田一帯を灰塵に帰した。
1858年12月26日、吉田松陰、再び、野山の獄に下さる。
  吉田松陰(28歳)が、幕府の安政の仮条約調印を怒り、
 攘夷倒幕を企てて、再び、下獄した。
  そして、江戸に送られ、安政の大獄で、1859年に、死
 刑に処せられた(29歳)。
1858年12月30日、西郷隆盛、奄美大島に流される。
1858年、外国奉行を置く。(氷川清話)
1858年、御木本幸吉が生まれた。
1858年、安藤広重が没した(1797年~1858年)
1858年、活字判摺立所で「日蘭条約書」、ポンペ著「種痘
 書」(蘭語)など出版
1858年、緒方洪庵著、『虎狼痢治準』が出版された。
  洪庵が、長崎から流行し始めたコレラが、江戸や洪庵
 の住む大阪で、大流行したため、
  こうした状況を打開しようと、急遽、対策書として世
 に出した。
  コレラについて、オランダ軍医ボンベが口授した内容
 を筆記し、
  更に、モスト、カンスタット、コンラジという3人の医
 師が書いたコレラについての書物を、訳して、まとめた
 もので、
  洪庵の今までの経験も交えながら、症状や治療法を、
 詳しく解説した。
  コレラの流行を、大きな社会問題として、いち早くと
 らえた洪庵だった。
  洪庵は、無料で、多くの医師に配布した。
  日本の医学の近代化に貢献した。
  まだ、コレラ菌が発見される以前の、日本だった。
  長崎出島のオランダ人医師のポンぺは、「コレラ患者
 にキニーネとアヘンを服用させ、温浴させる」という治
 療方法を行なったが、
  適塾の洪庵は、キニーネの使用については賛成ではな
 く、
  モストらのオランダ医学書からのコレラ対策を、この
 書に記し、対策方法を示した。
  因みに、キニーネは、キナの樹皮に含まれる主要なア
 ルカロイド。
  マラリア治療の特効薬として知られている・・とある。
1858年、ペリーが没した。
1858年、仏越戦争が起きた。
1858年、イギリスが、インドを併合した。
  イギリスが、ムガール帝国を滅亡させた。
  セポイの反乱を機に、東インド会社を解体し、イギリ
 ス女王が帝位について、イギリスの直轄とした。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

2015年11月17日火曜日

(増補版)245D3/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1857年5月10日~1859年)

題:(増補版)245D3/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1857年5月10日~1859年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1857年5月10日、セポイの反乱(~1859年)。
  イギリス人の虐政に対する抑え難き憤懣がインド兵の
 叛乱となって起きた。
  インドに「メーラトの反乱」が起きた。
  (注)メーラト:インド北部のウッタル・プラデーシ
 ュ州の都市で、首都のデリーの北東約60キロメートルに
 ある。
  この地のインドの大反乱「セポイの反乱」が発火点と
 なった。
  (注)セポイ:ウルドゥー語で「軍隊」「兵士」を意
 味したが、「インド亜大陸において、ヨーロッパ士官に
 訓練、指揮されたヨーロッパ風のインド人軍隊(傭兵)
 のこと。
  この日・5月10日に、メーラトの部隊が蜂起した、そし
 て、兵器庫を襲って武器・弾薬を奪い、民衆と共に兵営・
 住宅・キリスト教会などを襲った。
  イギリスの非人道的な行為に憤怒するインドの方々の
 行動だった。
  また、監獄も襲って、捕らえられていた人々を解放し
 た。
  そして、首都のデリーに向けて進撃した。
  19世紀の半ばまでは、インドの方々は、我慢に我慢を
 重ね堪えていた。
  しかし、インドの方々のあらゆる層に、イギリにの対
 する根深い反感と憎悪は広がっていた。
  この頃から、インドの方々に鬱積(うっせき)した怒
 りは、各地で、自然発生的に反乱や暴動となって現れた。
  北ベンガル一帯を襲った大飢饉を背景に、苦行僧の方
 々が立ち上がった。
  この動きに、多くの農民の方々も加わった。
  そして、この愛国運動は、後に、小説にもなり、作中
 の詩「母なる大地に敬礼」は、愛国歌にもなって、広く
 インドの方々が唄っている。
  19世紀の初めの『バレイリ・サハラーンプル・メラー
 ト』などの農民決起もある、
  1831年のベンガル地方に、たびたび、イギリス経営の
 藍耕作労働者に発生したストライキもある、
  1847年のケララの農民一揆も、
  1855年のサンタール族の壮烈な反乱などなど、いっぱ
 いある、それは切がないほどだった。
  しかし、悲しいかな、そのすべては、力で抑え込まれ
 て来た。
  しかし、この時、大きな反乱が起きた、この反イギリ
 ス感情は、インド人傭兵(セポイ)にもおよんだ。
  これまでも、各地の駐屯地でしばしば集団反抗が発生
 していた。
  1806年に、南インドのヴェッロールの連隊でも発生し
 ていた。
  また、宗教者のキリスト教の行なう差別が酷(ひど)
 く、虐げられ問題となった。
  これが、軍隊内にもおよび、キリスト教への改宗者へ
 の依怙贔屓(えこひいき)もひどく、特に、抜擢が露骨
 に行われ、差別された。
  そしてまた、日常でも、宗教的差別は酷く、セポイの
 方たちも、宗教的に過敏になっていた。
  宗教政策でも、差別的で、排他的な行為が露骨に行わ
 れた。
  また、ヒンドゥーへの配慮もなく無視された。
  イギリスは、無慈悲にも反乱行為の首謀者たちを絞首
 刑にしていた。
  また、参加兵士には、全員に、14年の重労働の判決な
 れた。
  しかし、イギリスは、この様な抵抗に対して、何ら配
 慮せず、自分たちだけに都合の良い法律を制定して対抗
 した(イギリスのいつものやり方)。
  5月10日は、インドの方々の大反抗の日となった。
  イギリスに、歯向かって行った。
  インドの地のほとんどを、奪い取ったイギリスへ。
  インドのその地だけでなく、インドの法までもが、イ
 ギリスに有利にされ〈立法権を奪取され)、
  また、検事の首を据え替たりして、裁判を繰られ(司
 法権を奪取され)、
  そして、イギリスに指示されて動く、出先のイギリス
 人総督の政治(行政権を奪取され)、
  そして、閉鎖的なイギリス人だけのコミュニケーショ
 ンを作って、インドの方々を蔑(さげす)み、インドの
 方々と溶け合おうとしないイギリス人たちだった。
  強力な軍隊を持って武力で従わせて、インドの方々を
 顧(かえり)みなかった。
  キリスト教の有色人種蔑視の考え方に洗脳され、また、
 キリスト教の教義の「異教徒は殺せ」に洗脳され、マイ
 ンドコントロールされたイギリス人の心によって、有色
 人種であり異教徒であるインドの方々は、安易に処理さ
 れた。
  ここに来て、インドの方々の耐え忍ぶ心も限界に達し
 た。
  インドの方々に、新しく開発された銃が手に入るよう
 になったのも要因だった。
  ベンガル軍に、エンフィールド銃が手に入るようにな
 った。
  エンフィールド銃は、ライフル式だった。
  射程距離は長く、命中率も高かった。
  また、インドの方々の正義の主張・蜂起・反逆・自主
 独立への希求の行動は、イギリスの卑劣な収奪・侵略・
 蔑み蔑視などにその起因はあったが、
  それと、大きな要因の一つとして、宗教的な要因があ
 った。
  インドの方々の宗教的尊重が損なわれる行為を、イギ
 リスは安易に行った。
  宗教的に、インドの方々をなぶった(弱い立場の者を、
 面白半分に苦しめたり、もてあそんだりした)。
  そして、インドの方々は言った、「イギリス人たちは、
 この国の宗教を滅ぼし、インドをキリスト教化するつも
 りだ」と。
  独立闘争の先頭に立ったアンニ・べザント夫人は言っ
 た、「インドにおける運動は、宗教的基盤に基づいて強
 いものとなる」と。
  「セポイ(インド人傭兵)の反乱・蜂起」が起きた。
  この蜂起は、偶発的に起きたものではなく、用意周到
 なる計画のもとに蜂起された。
  宗教のために立ち上がれと、仲間に叫ぶ者もあった。
  イギリス兵は、このセポイ(インド人傭兵)を捕らえ、
 処刑した。
  しかし、ある一人のこのインド兵士の英雄的行動は、
 ベンガル管区の全連隊に伝わり、セポイの兵士の方々の
 血を沸かせた。
  4月20日に、イギリス基地内で、セポイ兵に弾薬が手渡
 されたが、イギリスは、セポイ兵のインドの方々の宗教
 的意識を変革しようとしたのか、その弾薬には、インド
 の方々が宗教的に忌避する事がなされていた。
  少なくとも、その行為がなされていたと、セポイ兵の
 すべては知っていた。
  その弾薬が、手渡された時、セポイ兵のほとんどが、
 受け取り拒否の行動を起こした。
  その拒否したインド兵士は、軍法会議に掛けられた。
  そして、有罪とされ、イギリス人によって、10年の自
 由の拘束の刑とされた。
  足枷(あしかせ)がはめられるなどの、非人道的行為
 もなされ、屈辱も受けた。
  この様な、長い物心両面の様々な屈辱が、5月10日に至
 り、とうとう爆発した。
  インドの方々の一斉蜂起となった。「セポイたちの反
 乱」である。
  反乱した兵士たちは、真っ先に、監獄に駆け付けて、
 イギリスに捕らわれた仲間を救出した。
  それから、武器庫へ押し入って武器・弾薬を奪った。
  そして、キリスト教徒の如く「マロー・フイリンギー
 (異教徒を殺せ)」と叫び、イギリス兵に対峙して行っ
 た。
  セポイ兵士の蜂起が、インドの方々・市民に伝わると、
 インドの方々も歓声をあげて、手に手にこん棒や刃物を
 持って立ち上がった。
  たちまちにして群衆となったインドの方々は、イギリ
 ス人居住区へ向かった。
  蜂起の鎮圧に向かった警察官までもが、その群衆の行
 動に加わった。
  近くの村々からも、農民たちが駆け付けた。
  そして、日頃からインドの方々を差別していた、イギ
 リス兵舎を含め、徴税所・キリスト教会・郵便局を襲い、
 日頃の抑圧された鬱憤(うっぷん)もあって火が放たれ
 た。
1857年5月11日の、その翌日になると、立ち上がった人々は、
 デリーへと向かった。
  そして、到着するとデリーの方々も加わって、人々は
 たちまちにして、この町を占領した。
  そして、ムガル皇帝・バハードゥル=シャー2世(在位
 1837年~1858年)を擁立した。
  そして、有名無実にされていたムガル皇帝の統治の復
 活を宣言した。
  ムガル皇帝の名で、インド各地へ向けて、『抵抗のた
 めに立ち上がれ』との檄文が送られた。
  すると、たちまちインドの各地で、イギリスの過酷な
 圧迫に耐えていたインドの方々が立ち上がった。
  北インド全域におよぶ、大きな反駁の人々となった。
  イギリスのインド支配の終焉が起きてインドの方々の
 希望がかなうかに見えた。
  しかし、この方々には、統一された組織が無かった。
  イギリスは態勢を立て直し、また、多くの藩王(各地
 の王侯)を味方につけて反撃にうつった。
  事は鎮圧の方向へ向かっていった。
1857年9月の、その4か月後には、インドのメーラトの反抗
 は、イギリスの力で抑え付けられ、この月に、デリーは、
 イギリスの手に落ちた。
  ムガル皇帝は、イギリスの捕虜となった。
  ムガル皇帝の王子たちを、イギリスは処刑した。
  翌年(1858年3月)に、インドの方々の反抗のもう一つ
 の拠点だったラクナウも、イギリスの手に落ちた。
  その5か月後(1858年8月)には、イギリスはムガル皇
 帝を廃位とした。そして、イギリスは、ムガル皇帝をビ
 ルマに追放した。
  300年以上続いたムガル帝国(1526年~1858年)は、滅
 亡させられた。
  その翌年(1859年4月)に、インドの方々のイギリスの
 圧迫に抵抗した戦いも、そのほとんどが敗北で終わった。
  しかし、インドの方々は、デリーやラクナウの拠点を
 失った後でも、各地でゲリラで戦いを続けた。
  しかし、この年に、頑強に抵抗して来たアウドラの方々
 の反乱軍も鎮圧され、3年に及んだインドの方々の大反乱
 は、ほぼ完全に鎮圧されてしまった。
  インドの1857年~1859年のセポイの大反乱は、イギリ
 スに力で抑え付けられた。
  しかし、戦いが終わった後なのに、イギリスの酷い仕
 返しが始まる。
  (注)セポイは、イギリスの東インド会社のインド人
 傭兵のこと。
  [まとめ]:1857年、イギリスのあまりにも過酷な圧迫に
 耐えかねたインドの方々が反乱を起こした。
  良く、長い期間、我慢を重ねてきた。
  反乱は、インドのガンジス河の全流域に波及していっ
 た。
  しかし、イギリスの東インド会社から金を貰っていた
 インドの王侯貴族や上層階級は、これに関わらなかった
 ため、半年後には徹底的に鎮圧されてしまった。
  この翌年(1858年)、「インド統治法」ができ、イン
 ド統治の大権はイギリス国王が握った。
  インドの人々にあるべき権利が完全に奪われた。
  そして、イギリス女王ビクトリアが、1876年に、イン
 ド皇帝の座についた。
  ビクトリア女王が、インド皇帝の地位があるという状
 態はそのままにして、1877年に、インド帝国の成立が宣
 言された(1877年~1947年)
  [イギリスがインドの方々へ与えた恐怖の数々]:
  イギリスが送った東インド会社が行なった悪行為は、
 罪人から収賄することまでした。そして、無罪放免にす
 ることもできた。
  そして、その様な事を告訴(犯人の訴追を求める事)
 をしたインドの高僧を、公衆の面前で絞首刑にした。
  インドの方たちは、まさか絞首刑にはならないだろう
 と思っていた。
  そう思われた高僧さえ殺した。
  また、ジャット人とラージプト人を戦わせたり。
  そのジャット・ラージプト人をマラーター人と戦わせ
 たり、
  ロヒラ人をブンデラ人と戦わせたりした。
  イギリス人は、あらゆる策で、インドの方々が無益な
 闘争に疲れ果てるようにし、漁夫の利を占めた。
  また、条約を、藩王と結んでは、勝手にこれを破棄し、
 藩王を酒と女に溺れさせ、苛斂誅求(かれんちゅうきゅ
 う、情け容赦なく、税金などを取立てる事)をしないと
 財政が立ち行かぬように仕向け、人民と反目させた。
  そうして、一歩一歩、イギリス勢力をインドに確立し
 た。
  このイギリス人の虐政に対する抑えがたい憤懣(ふん
 まん)が1858年の反乱だった。
  この反乱中、並びに反乱鎮圧後のイギリス人の残忍酷
 薄も酷い。
  ケー・A・マレンソノの「印度反乱史」に書かれてい
 るが・・、
  「戒厳令は布(し)かれた。
  5月及び6月の立法会議によって制定された恐怖すべき
 条例が盛んに適用された。
  文官武官が等しく血なまぐさい巡回裁判を開き、
  あるいは、巡回裁判なしに土民(インドの方々)の老
 若男女を屠った(はふった、体などを切り裂く)。
  すでにして血に渇(かわ)ける欲はさらに強くなった。
  反乱に荷担した者のみならず、老人、女子、小児など
 も血祭りに上げられた。
  この事は、インド総督が本国に送れる書類の中の、イ
 ギリス議会の記録に収められている。
  彼らは、絞刑には処せられず、村々において焼殺され、
 または、銃殺された。
  イギリス人は、臆面もなくこれらの残忍を誇って、あ
 るいは一人の生者を余さずと言い、あるいは、黒ん坊ど
 もを方端から殴り飛ばすのは実に面白い遊戯だと言い、
 あるいは実に面白かったと言い、または書いている。
  権威ある学者の承認せる一著書には、三ヶ月の間、八
 輌の車が十字街または市場で殺された屍骸を運び去るた
 め、朝から晩まで往来したとあり、
  またこのようにして六千の生霊が屠られたとある・・
 以下、略す・・。
  キリスト教の魔女裁判所も、また、南米などもこの様
 に酷かった。
1857年、当時を見た報告書:「我が軍(イギリス軍)の将
 校は既に各種の罪人を捕らえ、あたかも獣を屠るがごと
 くこれを処刑に処していた。
  絞首台は列をなして建てられ、老者・壮者は言語に絶
 する残酷なる方法をもって絞首された。
  ある時のごときは、児童らがむじゃきに叛兵の用いし
 旗を押し立て、太鼓を打ちながら遊んでいるのを捕らえ
 て、ことごとくこれに死刑の宣告を与えた。
  裁判官の一人なりし将校は、これを見て長官の許(も
 と)に赴き、涙流してこれらの罪なき児童に加えられる
 極刑を軽減せられんことを嘆願したが、遂に聴かれなか
 った」。
   そして、反乱が収まっても・・
  反乱後の、イギリスの、インドの方たちへの蛮行。
  反乱がおさまっても、イギリス人は卑劣な鬱憤(うっ
 ぷん)ばらしをした。
  面白がってインドの方々を殺すイギリス人の蛮行の姿
 が白日の下になっている。
  「予(イギリス人)は面白い旅をした。
  我らは一門の大砲を乗せたる汽船に乗り込み、左右両
 岸に発砲しつつ航行した。
  反乱のあったところに着くと、船から上陸して盛んに
 小銃を発射した。
  予の二連銃はたちまち数人の黒ん坊(インドの方々)
 を殺した。
  予は実に復仇(ふっきゅう、かたきを討つこと)に渇
 していた。
  我らは右に左に小銃を発射した。
  天に向かって発射せる銃火は、微風に揺られて反逆者
 の上に復仇の日が来たことを示した。
  毎日我らは騒動の起こった村々を破壊し焼き打ちする
 ために出て歩いた。
  予は政府並びにイギリス人に抵抗する一切の土民を裁
 判する委員の主席に推された。
  日々我れらは八人乃至十人を屠った。
  生殺の権は我等の掌中にあった。
  そして、自分はこの権利を行うにいささかの容赦もな
 かったことを断言する。
  死刑を宣告された犯人は、首に縄をまいて、大木の下
 に置かれた馬車の上に立たされ、馬車が動けば犯人は吊
 り下がって息絶えるのである」。
  可哀想なインドの方々だった。
  怒りが心頭に達する。
  そして、最後に、イギリス人は言う、「インドはこの
 様にしてイギリスのものとなったのであります」と。
  イギリスは、有無を言わさず「イギリスに都合のよい
 法律を成立させた」。
  そして、言う。法律があるじゃないか・・と。
  私たちは不法な事はしていません・・と、
  インドの在来の農業制度も根底から潰された。
  インドの人々のつながりも破壊され、村々の社会、共
 同体も滅び去った。
  イギリスに都合よく作り直されていった。
  インド農村は、イギリス資本の支配の都合のよいもの
 になって行った。
  このイギリスの事を言う某知識人は、「予は誓って言
 う。大英帝国において、インド農民以上に悲惨なるもの
 はない・・と。
  彼は一切を絞り取られて、ただ骨のみを残している」
 と言った。
  インドの方々は、腹いっぱい食べる経験なしに死ぬの
 だと言われた。
  常に、精根を使い尽くしているので、病にかかればす
 ぐ倒れると言われていた。
  衣服をまとう余裕もないと・・言われていた。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
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2015年11月16日月曜日

(増補版)244D3/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1856年12月~1857年12月)

題:(増補版)244D3/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1856年12月~1857年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1857年(安政4年)2月1日、甲比丹(長崎のオランダ商館の
 館長)クルチウスが、前年10月のアロー号事件を、長崎
 奉行に知らせて、幕府の通商拒否の方針に警告をした。
  イギリスは、フランスと連合して、アロー号事件にお
 いて、清国を卑劣なやり方で破壊し、略奪し、殺戮した。
  これを、幕府は知った。
1857年4月11日、軍艦教授所を講武所中に置く(氷川清話)
  幕府は、長崎海軍伝習所の学生の一部を、蒸気船の「観
 光丸」で江戸に移動し、講武所内に軍艦教授所(軍艦操練
 所)を設置した。
   幕府は、江戸築地に海軍教授所を開設することにした
 (氷川清話)
   海軍伝習が軌道にり、永井岩之丞は、矢田堀景蔵らと
 観光丸で江戸に帰る。
  長崎の方は岡部駿河守が伝習を監督。勝ら数人は残留
 した。
1857年5月7日、下田奉行、ハリスと応接す。
1857年5月26日、下田協約
  ハリスと下田で条約調印がなされた(日米和親条約修
 補の条約)
  外国人の居住権・領事裁判権などの規定。
  これは、領事や専門の裁判官が駐在国で自国民の裁判
 が行なえるという制度で、治外法権である。
  つまり、幕府(日本)は、アメリカ人を裁けないとい
 う権利を認めた。
1857年6月、勝海舟、海軍伝習の勤労に付、金二枚時服二を
 賜う(氷川清話)
1857年6月17日、阿部伊勢守、卒す(氷川清話)
  老中・阿部正弘が、没すると、堀田正睦は直ちに松平忠
 固を老中に再任し、幕政は溜詰の意向を反映した堀田・
 松平の連立幕閣を形成した。
  さらに直弼は、第13代将軍・徳川家定の継嗣問題で紀
 伊藩主の徳川慶福を推挙し、一橋慶喜を推す一橋派の徳
 川斉昭との対立を深めた。
1857年6月、堀田閣老、貿易取調の命を受く(氷川清話)
1857年7月、堀田正睦が労流になり、開国を説く(氷川清話)
1857年7月、米使ハリス下田に来る。後柳営に引見す(氷川
 清話)
1857年7月8日、米国使節・ハリスが、下田奉行と下田に会
 見し、国書の要旨を求めて許されず
1857年7月、水戸斉昭、海防並びに軍制等のことを建言(氷
 川清話)
1857年7月、外交を許し、制度を変ずるを命ず(氷川清話)
1857年7月、蕃書調所に幕臣及び諸藩士の入学を許す(氷川
 清話)
1857年7月、伊東玄朴、戸塚静海、種痘館を建つ(氷川清話)
1857年7月、北海道の函館の五稜郭が起工された。
  1864年に、箱館奉行・小出秀実が旧奉行所から郭内の
 箱館御役所に移転し、業務を開始した。
  1866年に至って、すべての工事が終了した。
  幕末に、榎本武揚(えのもとたけあき)の幕府軍が立
 てこもった。
  このフランス式の築城技術で建設された城郭で戦った。
  因みに、榎本武揚は、「蝦夷共和国」を設立し、この
 五稜郭は行政府としても機能した。
1857年7月14日、駿河で地震(安政静岡地震)。
 マグニチュード6.0
1857年7月、長崎に製鉄所を設く(氷川清話)
  長崎奉行川村対馬守が、幕府に長崎港付州の埋立てと
 飽の浦に溶鉄所建設を上申した。
  11月に建設着工する、そして、自前の船が欲しい幕府
 は、船の建造へと向かう、
  何しろ、上申から着工が早い。
  これが、後の三菱重工業長崎造船所となる。
1857年7月、幕府が、長崎奉行を通じて、空地にハゼノキを
 植えよと命じた。
  これは、これと言った産業のなかった長崎に、積極的
 な灯油の資源の生産が生じるのを狙った。
  上杉鷹山の地・米沢藩の成功例などを伝えたのだろう。
1857年7月22日、一橋慶喜を将軍家の後継に推す。
1857年7月23日、徳川斉昭の幕政参事を免ず。
1857年、勝海舟、長崎滞在。(氷川清話)
  勝海舟、この年、教師および生徒新旧交代あり、万事
 を斡旋する。
  秋、ゴットル船航海を試み暴風雨にあう。九死に一生
 を得る。(氷川清話)
  勝海舟、咸臨丸で五島を航海し、対馬、釜山を巡視す
 る。(氷川清話)
1857年、吉田松陰(27歳)が、萩の自宅に松下村塾を開い
 た。
  多くの門下生あり。久坂玄瑞、高杉晋作、前原一誠、
 山形有朋、伊藤博文など。
1857年8月29日、日蘭追加条約調印。
  日本の開港した場所にて、オランダ人の妻子を居住さ
 せても差しつかえなしとなった。
1857年9月17日、薩摩藩の島津斉彬が、藩士に自分を写真を
 撮影をさせた。
  日本人による、日本人撮影の最初の成功例(銀板写真)
  この写真機は、上野俊之丞が、オランダ船から購入し
 たもので、
  その後、カメラは、薩摩藩の手に渡っていた。
  また、軍艦を作った斉彬は、外国の軍隊が攻めて来て
 も打ち払えるようにと、
  大きな大砲をつくるための設備を、島津家の別荘の裏
 の竹やぶに作った。
  そしてまた、島津家の別邸「仙巌園」の庭の石灯籠に
 ガス灯をひき、
  これを町中にまで普及させようと考えた。
  横浜の町にガス灯がついたのは、この15年後。
  そして、チャレンジャーの斉彬は、工場で製造された
 という糸を見て、これでは手工業の日本は負けると、
  水車を動力にした糸を紡ぐ機械(紡織機)を作った。
  斉彬は、色々な開発をし、工場も作ったが、その工場
 で働く人は1200人も居た。
  その集成館には、大砲を造る反射炉や、ガラス製造所
 などがあった。
  薩英戦争で自分の力を試すが、その差は大きかった。
  力の差を悟った斉彬は、イギリスへ留学生を送った。
1857年9月21日《08/04》幕府がオランダに発注した新建造
 軍艦ヤッパン号が長崎に入港。のちの咸臨丸
   艦長カッテンディケ海軍大尉を隊長とする第2次海軍
 伝習所教官隊一行の37人が乗船した。
   オランダ海軍2等軍医のポンペ・ファン・メーデルフ
 ォールト(28)や、オランダ海軍機関将校のヘンドリッ
 ク・ハルデスの姿もあった。
  そして、新たに伝習生として松本良順らが入所し、第
 2次の伝習が始まった。
  第1次の教官隊と交替した。
    陸上や海上での教育のほか、ポンペにより西洋医学
 の講義もなされた。
1857年9月21日《08/04》露使節プチャーチンが来航した。
   9月25日《08/08》退去した。
  10月11日《08/24》再来した。
  10月24日《09/07》日露追加条約を長崎で調印。長崎、
 箱館で通商許可
  10月27日《09/10》プチャーチンが退去した。
1857年9月26日、西役所で、ボンベによる西洋医学の講義が
 始まった。
  後に、伝習生が増えて、高島秋帆の邸内に移った(11
 月12日、大村町医学伝習所と呼ばれた)
  講義内容は、物理学、化学、包帯学、解剖学、組織学、
 生理学、治療学、調剤学、内科学、外科学、 眼科学
  いつの時代も、優秀な者が、頑張って世の中を支えな
 ければならない。
  「頑張るな」と叫ぶ、キリスト教の運動は間違ってい
 る。
  優秀な方たちの頑張りの中に、その努力の結果の恩恵
 を受けている事に感謝しなければならない。
  特に、ノーベル賞受賞者をはじめとする、尖端を切り
 開いている方々の努力・頑張りに感謝しなければならな
 い。
1857年10月7日、ハリス、江戸出府の為め下田発
1857年10月、ハリス、幕府に通商開始の必要を説く。
1857年、この頃、竜馬、北辰一刀流の最高位である大目録
 皆伝を得、千葉貞吉道場の塾頭になる。
1857年10月3日、江戸鍛冶橋の土佐藩邸に、諸流選り抜きの
 剣客104名が集まり、覇を競った。
  これは、寛永御前試合いらい200年このかた、江戸では
 諸流の剣術試合は絶えて無かった。
  土佐藩主・山内容堂の肝いりで行なわれた安政諸流試
 合だった。
  竜馬は、斉藤道場の島田逸作を破った。
1857年10月12日、伊予・安芸で地震(芸予地震)
1857年10月16日《8/29》日蘭追加条約を、長崎で調印した。
  事実上、初の通商条約となった。
  これ以後の列強の要求に対する基本の条約となった。
1857年10月頃、この頃の出島には、オランダ人のために、
  色々な家が建ってにぎやかになる。
  また、庭もなくなり、日本人の出入りも自由になった。
1857年10月14日、ハリス、将軍との会見が叶い、江戸に入
 った。
1857年10月21日、米国総領事・タウンセンド・ハリスが、江
 戸城に入り、将軍・徳川家定に謁見し、国書を呈した。
1857年10月26日、ハリスが、老中の堀田正睦を訪ね、会見し、
 日米通商の急務を論じた。
1857年10月25日、第14代将軍が就任し、名を「家茂」に改
 めた。
  徳川慶喜(20歳)は将軍になれず。
  慶喜は、将軍・家定の継嗣候補に推されたが、井伊直
 弼の大老就任で、井伊の推す紀州藩主・慶福(よしとみ)
 が14代将軍(家茂)に決定した。
1857年11月、幕府は、アメリカ人・ハリスの強談に屈し、
  この時から、通商条約の逐条協議を開始し、遂に、こ
 の正月12日、全部議定を終わった。
1857年11月12日、長崎に天然痘が蔓延し始めた。
  大村町医学伝習所で、ボンベが公開の種痘を行なった。
  また、後に、ボンベは、バタビア政庁を通じて痘苗を
 入手した。
  以後、日本人に種痘を行なって行き、天然痘の惨禍か
 ら救った。
1857年11月26日《10/10》幕府が、浦上村淵字飽の浦の9040
 坪の地に、
  「徳川幕府 長崎溶鉄所」の建設に着手し、起工した。
  この製鉄所の建設は、世界と肩を並べる行動だった。
  いずれ自前の船を建造するのが目標だった。
  総指揮は、9月21日《08/04》に来日した海軍伝習所教
 官の機関将校・ハルデスだった。
  煉瓦焼職人がいなかったために、この工場建設用の赤
 煉瓦を、長崎の瓦屋に焼かせた。
  また、ドンケルスクロクという潜水器(ケーソン、重
 さ4.5トン)で、台船に吊下げられ、その中にダイバーが
 入り、上部の通気孔からポンプで空気を送り、上部のガ
 ラス製円窓から採光し、
  ダイバーが膝のあたりまで水に浸かりながら海底の様
 子を調査したりして建設した(しっかり基礎を着底させ
 たかったのだろう)。
  竣工は、文久元年3月25日、落成28日。
1857年11月28日、毛利慶親、外交意見を呈す
1857年12月2日、老中・堀田正睦が、米国領事ハリスを招き
 両国の交易及び公使の江戸駐在を許した。
1857年12月3日、井上清直・岩瀬忠震の両人が、対米交渉の全
 権委員に任命された。
1857年12月12日、幕府が、米国総領事のタウセンド・ハリ
 スの意見書を各大名に示し評議した。
1857年12月20日、吉田松陰が、松下村塾を引き継いだ。
1857年12月25日、薩摩藩主・島津斉彬が、通商条約と将軍継
 嗣問題について、幕府に上書した。
1857年12月25日、日米通商条約の草案成る。
1857年、長崎奉行所が、横文諸書を蘭製鉛活字で印刷した。
1857年、凶作、米価騰貴。農民騒動頻発。
1857年、日本で初めて電信機の試作に成功した。
1857年、大奥の女性方の倹約(勝海舟の述懐)
  倹約、倹約とやかましくいう事は俺は大嫌いだ。
  幕府の末でも、あまり倹約・倹約というものだから、
 大奥では、毎日、箒(ほうき)が折れる、茶碗が割れる、
 布団が破れる、それは実に乱暴ばかりして係の役人に当
 たった。
  いつか細工物をなさると言うので、役人に布の注文が
 あったら、役人が寄せ切れか、何かを買ってあげたそう
 だ。
  すると皆が怒って、「こんな粗末な物を持ってくると
 は人を馬鹿にしている。こんなものが何になるか」と言
 って、大騒ぎになった。
  そこで役人は真っ青な顔をして、俺のところへ相談に
 来たから、俺はひどく叱って、直ぐ呉服屋に紅白の縮緬
 (ちりめん)十疋(ひき)ほど持って来させて、俺が自
 分でこれを抱えて大奥へ行って、「あなた方には実にお
 気の毒です。小役人という者は仕方がありません。あれ
 は今日限り免職に致しますから、どうぞご勘弁なさって、
 これをお用い下さい。お倉にはまだ何反でもありますか
 ら、御入用の時は何時でもそう仰せて下さい。あなた方
 のお世話は、今日から私が致します」と言った。
  ところがみんな顔を見合わせて、「こんな結構なもの
 はもったいない。またこんなにたくさん入りませぬ。役
 人を免職にするのもどうかよして下さい」と、今度は向
 こうから頼んで出た。
  それからというものは、乱暴がふっとやんで、大そう
 倹約になったよ。
  それで俺はたびたび大奥へ行って、「あなた方はなぜ
 そんなケチな事をなさいますか。私は御馳走が戴きとう
 ございます」という風に俺の方から催促するのだ。
  天璋院(てんしょういん)様(13代将軍・家定夫人)
 も一つ飯台(はんだい)で大勢の女中と一緒におあがん
 なさっていたが、後におれなども同じ部屋で御馳走にな
 ることもあった。
  すると酒でも三升徳利か何かに入れて、ああいうふう
 な処へ置いて、少しずつ出してお飲みになるから、「そ
 れは何というけち臭いことです。
  三つ割でもお取り寄せなさるが宜しい」と言って、俺
 が自分で立って行って注文するのさ。
  そうすると、お付きのものは、「勝様は気が大きい、
 気が大きい」と言って驚くし、天璋院様でも、やはり三
 升徳利の方がうまいと仰せられたそうだ。
  それからは、お菓子などでも箱を一々開けて紙に包ん
 で天井へ吊しておくと良いというような風に、万事倹約
 主義になって、大奥がむつかしいなどという事は決して
 なくなったよ。(氷川清話)
1857年、イギリスが、インドを直轄植民地化した。
  インド大反乱、セポイの反乱(1857年~1859年)に起
 こった。
  イギリス支配に対する反乱。
  1757年の小プラッシーの戦い以後1世紀間のイギリス支
 配に対する不満の大規模な爆発であると同時に、
  その後の民族運動の起点ともなった。
  反乱に、最初に立ち上がったのが東インド会社の傭兵
 だった。
  この傭兵によってセポイの反乱と言われた。
  反乱を鎮圧したイギリスは、反乱軍に擁立されたムガ
 ル皇帝を廃し、インドを東インド会社の植民地から直轄
 植民地に改めた。
19世紀後半、セポイのインド兵の反乱に至るまでのイギリ
 ス人社会は傲慢(ごうまん)だった。
  その、イギリスの傲慢な思い上がりのインド統治の組
 織、官僚機構は「鋼鉄の枠」と呼ばれた。
  イギリス人の総督ウェルズは、「インドの人々に対し
 て嫌悪感しか持たなかった」。
  また、人種的優越感を一つの支柱とする帝国主義政策
 を行なった。
  イギリス人官吏や軍人は、世界に比類ない高給を得た。
  各地に自分たちだけの特別住区や要塞を築いて、家族
 を隔離して守った。
  勤務後は、自分たちの「文明社会」に戻り、インド人
 の家族と往来するなど、およびもつかなかった。
  家族も、インドの方々を蔑(さげす)み毛嫌いした。
  また、キリスト教宣教師たちは、烈しくヒンドゥー教
 を批判し、攻撃した。
  宣教師は、インドの習慣などを封建的因習と蔑み、ヒ
 ンドゥー教の教義を迷信と蔑み、キリスト教の宗教的・
 道徳的優越性をひたすら声高に一方的に説き、ヒンドゥ
 ー教を露骨になじった。
  「あなたたちの神は、悪魔です」と、また、「悪魔以
 外の何者でもなく、偶像崇拝の極悪を証(あか)される
 ために、永遠の炎に焼かれ、地獄に落ちてゆくのです」
 となじった。
..
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2015年11月15日日曜日

臨時ブログ:杭打ちの問題:その後の話(報道機関のすり替え報道)

臨時ブログ:杭打ちの問題:その後の話(報道機関のすり替え報道)
 例えば、読売新聞の読者に誤認混同を起こさせる記事について
  (真を求めて、皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑記)
.
  報道機関の「すり替えの報道」がおかしいと感じてい
 る。
  何故、その様に感じているかと言うと・・、
  そもそも、この問題は、「マンションが、傾いている」
 という大問題から・・騒がれ始めた。
  これが、重要な大問題で、当たり前な事なのだが・・、
  しかし、報道機関の報道が、故意か、作為かは不明だ
 が、すり替え報道になっている・・と感じる。
  この問題の流れを左右している報道機関・・
  その報道機関が、今では、最初の問題点である、マン
 ションの傾きの一番重要な問題の解明についての報道を、
 『何ら』行なっていない。
  目下、報道機関が報道しているのは「杭データの流用」
 である。
  「杭データが、何故、流用だった」かは、杭の支持層
 への未到達を隠すためだったという事が最初に発覚した。
  しかし、旭化成建材は、「杭は支持層に到達している
 かもしれない」と発言している。
  これは、あり得る事なのである。
  だから、旭化成建材が、「杭データの流用した杭のボ
 ーリング調査をして、本当に、杭が支持層に未到達なの
 かを調査したい」と発言したら、
  三井住友建設は、「やりたければ、自分たちだけでや
 ればいい」と答えた。
  三井住友建設は、どんな検討をして、やらなくてよい
 と判断したかを、公(おおやけ)に明らかにしない。
  それなのに、旭化成建材が、「やりたければ、やれば
 いい」と言うのは、問題の解決に向けての前向きな答え・
 姿勢だとは思えない。
  ・・と、いうのは、杭のデータは、測定器の調子によ
 っては紙が詰まったりが起きて、データが得られなかっ
 たとか、
  電流系のスイッチの入れ忘れで、記録を得られなかっ
 たとか、
  降雨のため記録計の作動がうまく行かず、記録を得ら
 れなかったとかという事もあり得ることなのであり、
  実際の杭は、支持層に到達しているという事も考えら
 れる。
  それ故に、杭のデータ流用が判明した杭は、ボーリン
 グ調査をして、杭が支持層に到達して、機能しているか、
 どうかを調べようという、旭化成建材の主張は正しいの
 である。
  それを、三井住友建設は、その旭化成建材の話を語気
 鋭く否定した。
  この辺の報道機関の報道を見ると・・、読売新聞を例
 にすると・・例えば、読売新聞、2015年11月14日の1面
 には、
  表題に「旭化成建材、杭データ流用266件」とある。
  そして、今回の旭化成建材の首脳陣の謝罪している写
 真を掲載している。
  まさか、大分以前の旭化成建材の頭を下げる古い写真
 を掲載しているのではないと思うが・・?
  この下請けだけの謝罪の写真を見ると・・、最近にな
 って、やっと公式に謝罪した三井住友建設(11月11日に
 謝罪)についての記載は、『皆無』となっている。
  また、三井住友建設の謝罪写真も未掲載の様に感じる。
  報道に差を感じる。下請けいじめに感じる。
  元請けを隠し、下請けいじめになっている。
  この問題の発生は、三井住友建設が請け負って建設し
 たマンションが、異常に傾いた事だった。
  三井住友建設が、施工主から建設を請け負ったのであ
 る。
  本来なら、三井住友建設が、下請けに発注しなくて、
 三井住友建設が工事をしなくてはいけないのである。
  たまたま、その杭工事のジャンルに、杭工事の業者が
 居たので、三井住友建設のするべき仕事を、その下請け
 が代わりに行っただけなのである。
  だから、自分がやるのと同じように監理をしなければ
 ならない責任があるのである。
  その様な、代わりに工事をする様にと発注した工事が
 原因で、マンションが傾く結果となった。
  そして、今、その原因は、何だったのかが判明した。
  それは、11月11日に三井住友建設が公式謝罪したとき
 に判明した。
  それは、杭の支持層到達などの監理は「やって無かっ
 た」という事である。
  代行業者の下請けにやらせっぱなしになっていたとい
 う事である。
  その監理行為をしてないので、三井住友建設は、「ま
 ったく状況把握ができず」という状況の中で、旭化成建
 材が杭の工事をして、支持層へ到達してない杭を施工し
 ていた・・という事である。
  ここまでの話の中で、杭のデータの話は、まったく、
 出て来ないのである。
  つまり、読売新聞の報道は、読者に誤認混同を起こさ
 せていると言える。
  データ流用した旭化成建材が原因になっている・・と
 誤認混同を惹起している。
  これでは、読者に、正確な問題把握をさせていない。
  肝心な問題である、「問題を発生させた会社」を素通
 りしている。
  極端な言い方をすれば、「データがどの様に描かれ様
 が、杭が、しっかり支持層に到達して、杭の機能を発揮
 していれば、建物には問題が無いのである」。
  つまり、杭の支持層を施工主から請け負った(元請け)
 が、施工主への監理責任を果たして、杭の支持層確認を
 していれば、何も問題は、発生していなかったのである。
  非常識なほどに、三井住友建設の、非常に遅くなった
 公式謝罪の席で、「記者のこの点の質問」に対し、
  三井住友建設は、「(杭の支持層確認を当社の社員が
 確認したかを)調査しています」と言った。
  つまり、「調査する必要があること」と認識している
 と発言はした。
  三井住友建設は、「(杭の支持層到達を確認すべきだ
 った、だから、しっかりそこを自社の社員が監理してい
 たかを調査した。しかし、結果が、まだ、出ていな
 い)、調査中だ」と答えた。
  この答弁は、同じ三井住友建設が発言している「旭化
 成建材が、杭の支持層を確認すべきだ」の発言と明らか
 に食い違う。
  何故ならば、三井住友建設が、その杭の支持層到達の
 確認の行為を、「自分はするものではない」としている
 ならば、「その調査の必要は、当方にはない」と答え
 る訳だ。
  しかし、本当は、「三井住友建設が、杭の支持層到達
 の良否を確認するべきだった」と感じているから、
  「三井住友建設の自社の社員がその監理業務を、やっ
 ていたかを調査しています」と答え、
  「結果は、まだ調査中」と回答したのだ。
  この点について、反論があれば、公式の場で答えるべ
 きだ。
  故に、その報道をしている読売新聞は、その本質を、
 まったく報道せず、
  本来のマンションの傾く問題について、その問題に答
 える報道となっていない。
  杭のデータを流用していたって、マンションの傾き問
 題との間に必要十分条件とはなっていないのだ。
  ひたすら問題の本質から離れる方向へ捻じ曲げ、その
 本質の所に居るものを隠し、庇(かば)っている報道の
 様に感じる。
  つまり、再度言うが、データというものは、1例として、
  データー記録用紙が無くて、うまく記録できなかった等
 という問題でも発生し、
  また、記録紙が風で飛ばされて紛失したのでデーターが
 得られなかったとかがある。
  測定機械から出てくるその紙が重要なのではないのだ。
  その前に、肝心の杭が支持層に到達しているのか? 
 していないのか?・・なのである。
  その肝心の確認行為を行なわず、三井住友建設は、「
 旭化成建材がやるべきだ」と言い、
  自らの監理責任を放棄するのを正当化している・・報
 道機関は、この事を、明らかにすべきなのだ、これが、
 報道機関の役目なのだ。
  また、三井住友建設は、「自らの、監理責任の存在を
 認識しているから、その管理業務を怠ったかは、調査中」
 と答えたのだが、報道機関は、この点も明らかにすべき
 だ。
  この三井住友建設の社内調査の結果はどうだったかを、
 今後、追求すべきである。
  しかし、現時点では、この重要点を、報道機関は「報
 道放棄」している。
  データーを得られない理由は色々ある。
  それらの理由で、データを得られない時もある。
  そんなデータを、後に見て何ができると言うのだ、三
 井住友建設は、それを問題にするが・・、そして、報道
 機関は、三井住友建設の謝罪後に、まだ、データ云々を
 言っているが・・? クエスチョンだ。
  また、杭データ流用は、共謀ではないと公式に否定して
 いない三井住友建設である。
  こんなことも考えてしまう。
  何しろ、社会に対して、公(おおやけ)に対して、誠
 実でいてもらいたい。
..
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