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2016年1月9日土曜日

(増補版)270E1/3:気になった事柄を集めた年表(1867年1月~1867年6月)

題:(増補版)270E1/3:気になった事柄を集めた年表(1867年1月~1867年6月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1867年1月14日(慶応2年12月9日)、和宮親子内親王(かず
 のみや ちかこないしんのう)を静寛院とす。
  1861年5月18日に、皇女・和宮は、内親王宣言を受けて
 「親子(ちかこ)」の名を賜わり、諱(いみな)を親子
 内親王と改められた。
  そして、この時に、将軍・家茂の死去(1866年8月29日)
 により、剃髪(ていはつ)後の称として、静寛院宮(せい
 かんいんのみや)となられた。
  和宮は、孝明天皇の妹君。
1867年1月30日(慶応2年12月25日)、孝明天皇が、崩御さ
 れた(満35歳没)、在位21年、
  明治天皇の父・孝明天皇が崩御された。
  天皇崩御、孝明天皇と諡名す(氷川清話)
  諡(し、おくりな)、あるいは諡号(しごう)は、主
 に帝王・相国などの貴人の死後に奉る、生前の事績への
 評価に基づく名。
1867年、公武合体論の後退
  孝明天皇が崩御されると、公武合体論派は後退した。
1867年1月、第2次長州征伐による小倉藩と長州藩の和約が
 ようやく成立した。
1867年2月、パリ万国博覧会に参加。
1867年2月1日、後藤象二郎が、長崎の西濱町にて「土佐商
 会(長崎商会)」の業務を開始した。
  これで、土佐藩の長崎貿易が始まった。
1867年2月3日(慶応2年12月29日)、孝明天皇の大喪発せら
 れる。
1867年2月13日(慶応3年1月9日)、明治天皇御即位。
  睦仁親王(16歳)が、践祚して明治天皇となられた。
  明治天皇践祚(氷川清話)
1866年12月~ 、慶応の改革。
  ロッシュの意見を入れ、老中の総裁制度(職務明文化)
 を採用した。
1867年2月15日(慶応3年1月11日)、徳川昭武らが、パリ万
 博のため出発。
  遣欧特使・徳川昭武(とくがわあきたけ)らが、フラ
 ンスへ出発した。
  徳川民部大輔仏国に使す(氷川清話)
  使節団を率いての、約50日をかけての渡仏。
  使節団の中には、会計係として渋沢栄一、随行医とし
 て高松凌雲、通訳に山内堤雲がいた。
  ナポレオン3世に謁見し、パリ万国博覧会を訪問する。
  万博終了後に引き続き、幕府代表としてスイス、オラ
 ンダ、ベルギー、イタリア、イギリスなど欧州各国を歴
 訪する。
  その間に、オランダ王ウィレム3世、ベルギー王レオポ
 ルド2世、イタリア王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世、
 イギリス女王ヴィクトリアに謁見した。
  以後は、パリにて留学生活を送る。
1867年2月27日(慶応3年1月23日)福沢諭吉が、幕府の軍艦
 受取委員に従って渡米した。
  この時に使われた船が、幕府の軍艦「富士山(ふじや
 ま丸(コロラド号の説あり)」だった。
  福沢諭吉は、江戸時代に3度も欧米に渡った稀有な日本
 人だった。
  この時は、幕府の軍艦、兵器、書籍購入のため、小野
 友三郎、福沢諭吉らがアメリカへ出発。
  この渡米において、諭吉の言動が問題となった。
  諭吉は、帰国する船中で、「幕府は潰(つぶ)す以外
 にない」と言い、これが問題となり、帰国後、謹慎を命
 じられ、アメリカで買った本は没収された。
  帰国は、同年7月28日。
  謹慎は、大政奉還によって解除された。
  (謹慎理由として、同行者の小野と揉めたからという
 説もある)。
  (また、中島三郎助の働きかけですぐ謹慎は解けたと
 いう説もある)。
1867年2月、どうだ、もう九ヶ国は手に入ったか?
  慶応三年二月、西郷隆盛が、島津久光の使者として、
 土佐に山内容堂を訪ねた時、容堂はいきなり、
 「どうだ、もう九ヶ国は手に入ったか?」と切り出して、
 西郷を驚かした。
  つまり、島津が、徳川にとって代わる運動の手始めと
 して、九州ぐらいはもうおえたかという意味だった。
  西郷もやり返して、「四国はもうお手に入りましたか
 ?」と言ったという。
  こういう話が、土佐の古老の間に伝わっている(氷川
 清話)
1867年3月、勝海舟、この月より米国海軍伝習の事を執る
 (氷川清話)
1867年3月11日~12日、徳川慶喜が、大坂城でフランス公使
 のロッシュと会見(旧暦の2月7日、2月20日にも会見)
  公には、旧暦2月6日に、ロッシュが大阪城に登城し、
 徳川慶喜が、ロッシュを大阪城に引見し、幕府改革の意
 見を聴いた・・となっているが・・、
  これは、儀礼抜きの会見で・・、老中の板倉勝静が同
 席し、
  慶喜は、ロッシュに言った、「統治の全権は、天皇で
 はなく幕府・慶喜(自分)にある」と、
  また、老中・板倉は言う、「将軍が、長州との戦争を
 継続する事を、まったく放棄し、この撤退は一時的なも
 のではない。そして、将軍家と薩摩藩は良好な関係にあ
 る」・・と、
  ロッシュは、それに答えて、慶喜に、「フランスをモ
 デルとした内閣制など国政改革を・・」と提案した。
  1867年3月26日(2月20日)にも会見し、慶喜は、この
 時、ローズ提督を紹介されている。
1867年3月19日、豊田佐吉(とよださきち)が生まれた。
  日本の偉大な発明家。
  自動織機をはじめとして、生涯で発明・特許84件、外
 国特許13件、実用新案35件に及んだ。
  トヨタ自動車などのトヨタグループの創始者。
  豊田佐吉は、遠江国、浜名湖の西にある敷知郡山口村
 (現在の静岡県湖西市)で、
  父・伊吉、母・ゑいの長男として生まれた。
  豊田家は、伊吉が百姓のかたわら大工で生計を立てて
 いた。
  佐吉を頭に、3男1女の子供と両親の6人が、豊田家の
 家族だった。
  豊田家は裕福ではなかったが、極貧という事でもなく、
 佐吉は幼い頃、寺子屋へ通った。
  その寺子屋が下等小学校として開設されると、佐吉は
 4年間通学し、卒業した。
  まだ、学校に行けない子供の方が多い時代だった。
  佐吉の弟たちも小学校に通った。
  そして、豊田家では一人の子供も奉公に出なかった。
  当時の山口村の中では、少し余裕のある家庭であった。
  佐吉は、小学校を卒業した後、父について大工の修業
 を始めた。
  だが18歳の頃、「教育も金もない自分は、発明で社会
 に役立とう」と決心した。
  手近な手機織機の改良を始めた。
  心優しい佐吉は、いつも、母の機織り姿を見ていたが、
 この母の働く姿を楽にさせてあげたいという、やさしい
 気持ちが、発明を始める動機の一つでもあった。
  しかし、佐吉の苦労に苦労を重ねた発明も真似をされ、
 何ら利益がもたらされなかった。
  この事からも、日本の特許法である「専売特許条例」
 が生まれて行く。
  (努力する者が、報われる社会でなければならない)。
1867年、この年、日本の貿易額が輸入超過となった。
  それまでは、輸出の方が多かったが、逆転し、輸入超
 過となった。
  これは、1866年に締結された「改税約書」が原因だっ
 た。
  欧米列強の圧力により、輸入関税が20パーセントから
 5%に引き下げられ、産業的に弱小の日本の商品は、欧米
 列強の商品に食われた。
  今のTPPの様なもの・・また、東京や大阪の中小企
 業の倒産が増えることだろう。
  そしてまた、一層、一次産業が衰退するだろう。
  いざという時に、「飢える日本が現出するだろう」。
  今は、幸せの様に見えているが・・?
1867年3月25日、幕府の新造軍艦「開陽丸」、オランダより
 回航して横浜に入港した。
  就役は、1866年8月26日。
  この日、1867年3月25日に、横浜へ帰港した。
  最新鋭の主力艦として、外国勢力に対する抑止力とな
 ることが期待されたが、徳川の軍艦としてわずか1年数ヶ
 月、
  1868年(明治元年)11月15日、蝦夷・江差沖において
 暴風雨に遭い、座礁し、沈没した。
  因みに、1975年に、江差町教育委員会によって発掘・
 調査が行われ、大砲やシャフトなどの遺構から古文書な
 ど、3万点以上の遺留品が引き上げられた。
  江差町資料館には、開陽丸が復元されている。
1867年3月26日、榎本釜次郎(武揚)、軍艦・開陽丸で帰朝
 (氷川清話)
1867年3月28日、将軍・徳川慶喜が、英、仏、蘭の代表と大
 坂城で会見し、兵庫の開港実施を約した。
  5月24日、勅許を得て、開港と決定した。
  6月6日、幕府が、12月7日より兵庫を開港と布告した。
1867年3月28日(2月23日)イギリス代理公使ニール、江戸
 湾頭に進航し生麦事件の償金を要求。
1867年、江戸市中、白昼強盗横行す(氷川清話)
  これが、西郷隆盛が手配した輩の仕業と考えられる。
1867年4月3日、幕府が送った「パリ万国博覧会への使節」
 が、マルセイユに到着した。
  パリ万国博覧会開催に際し、慶喜の実弟・徳川民部昭
 武(あきたけ)が、将軍の名代で遣わされた。
  マルセイユに到着したのは1867年4月3日。
  ところが、現地では、薩摩藩による会場独立出品の動
 きや、反幕キャンペーン工作が繰り広げられていた。
  そこで信頼回復のための使節が出発する事になった(
 出発6月14日、旧暦5月12日)
1867年4月9日(3月5日)徳川慶喜、兵庫開港の勅許奏請。
1867年4月23日(3月19日)朝廷、兵庫開港の奏請を許さず。
1867年4月28日(3月24日)各大名、兵庫開港の可否建議。
1867年4月29日(3月25日)徳川慶喜が、英国公使らと会見
  徳川慶喜が、各国公使を謁見した(~29日)
  兵庫開港を確約し、各国公使の信頼を得る。
  この時、ハリー・パークス(第2代駐日イギリス大使)
 のみが、慶喜の敬称を「陛下」ではなく「殿下」とした。
  辞書に記す使い分けは・・以下、
 【1】「陛下」は、天皇、皇后、皇太后、太皇太后に対
   する敬称。
 【2】「殿下」は、天皇、皇后、皇太后、太皇太后以外
   の皇族に対する敬称。
    外国の王国、公国などの皇族についても用いる。
1867年5月15日(4月12日)、倒幕の意思が確定
  鹿児島の島津久光が、京都警備のため(として)兵・
 7000を率いて、この日に、京都に入った。
  久光の4回目の上京だった(3月25日鹿児島発、4月12日
 京都着)
  この時、京で、松平春嶽・山内容堂・伊達宗城ととも
 に四侯会議を開いた。
  議題は、開港予定の布告期限が迫っていた兵庫開港問
 題や、前年9月の再征の休戦(事実上の幕府の敗北)以来
 保留されたままの長州処分問題をめぐり、
  四侯連携のもとで将軍・慶喜と協議することを確認す
 る事だった。
  完全に、薩摩・越前・土佐・伊予宇和島の各藩に対す
 る幕府という、対抗・対立の図が、ここにあった。
  しかし、5月14、19、21日の二条城における慶喜との会
 談では、長州処分問題の先決を唱える四侯に対して、
  慶喜は、対外関係を理由に、兵庫開港問題の先決を主
 張した。
  同月23、24日の2日間に及んだ朝議の結果は、2問題を
 同時に勅許するというものだったが、
  慶喜の意向が強く反映され、長州処分の具体的内容は
 不明確であった。
  この事態を受けて、慶喜との政治的妥協の可能性を最
 終的に断念した久光だった。
  そして、久光の決断によって、薩摩藩指導部は武力倒
 幕路線を確定する。
1867年5月17日(4月14日)高杉晋作が没した。 
  近代日本への里程標に居る一人が没した。
  この高杉といい、竜馬といい(この時点では活躍中だ
 が)、明治の開明の直前の死だった。
  肺結核による死。享年29歳。
  辞世の歌・・、
  「おもしろきこともなき世におもしろく」
  「おもしろきこともなき世をおもしろく」
 の両説ある・・が・・、
  司馬遼太郎は、自著に「を」で記している。
1867年5月18日、フランス新外相ムスティエ、600万ドル借
 款を拒否。ロッシュ反論するが覆せず。
  小栗上野介の苦労も水の泡となった。借款を成約して
 いたが・・、
  日本の現状を知っていたのだろう、都合もあったが・・、
  そして、先方の世情の不安もあったが・・、
  日本には貸せないとなった・・、美しく言えば、フラ
 ンスの外交政策の変更・・となる。
1867年5月21日(4月18日)薩摩藩士・大山綱良(おおやま
 つなよし、大山格之助)が、兵30数名、砲3門を率いて
 大宰府に入り、三条実美以下五卿の動座に反対した。
1867年5月21日(4月18日)幕府が、英仏軍隊の横浜駐留を
 承認した。
1867年5月23日、坂本龍馬が、土佐藩の銃砲弾薬輸送のため
 「いろは丸(160瓲)」で長崎を出帆した。
  これが、海援隊の初航海であった、しかし・・、
1867年5月26日(4月23日)いろは丸事件(日本最初の蒸気
 船衝突事件)
  坂本龍馬の、この「いろは丸」は、讃州箱岬沖で、紀
 州藩の明光丸と衝突し、沈没してしまった。
1867年6月6日、四侯会議(松平慶永、島津久光、山内豊信、
 伊達宗城)
1867年6月10日(5月8日)幕府が、松平慶永以下、山内、伊
 達、島津の諸侯に登城を命ずるも応ぜず。
  意識では、完全に離反されている幕府だった。
1867年6月14日(5月12日)火薬製造機が、初めて輸入され
 た。
1867年6月14日(5月12日)幕府が、パリ万国博覧会へ、信
 頼回復のために使節出発と借金の申し込み・・、
  徳川幕府の信頼回復のための使節:駐日公使のレオン・
 ロッシュから、慶喜への進言もあり、
  使節のみならず徳川政権の国際的な信頼を回復させ、
 北海道の開発権を担保に、英・仏両国からの借款を引き
 出す使命を帯びて、親仏派の外国奉行の栗本鋤雲が、急
 遽、渡仏する事となった。
  (完全にロッシュの入れ知恵、下手をすると北海道が
 取られる)。
  鋤雲が、ナポレオン3世へ宛てた親書を持参して、横浜
 を出発したのは1867年6月14日(5月12日)とされるが、
  大阪で兵庫開港、長州処分の外交交渉に携わって後、
 1867年7月10日(6月9日)付、向山隼人正宛書簡ならびに
 辞令を持参しているから、1867年7月14日(6月13日)横
 浜発のフランス郵便ファーズ号の乗ったとすれば、神戸
 出航は14,5日ころとなろう。
  マルセイユ着は1867年9月8日(8月11日)
1867年6月16日(5月14日)山内容堂、島津久光、松平慶永、
 伊達宗城らの雄藩諸侯が、徳川慶喜に対し、王政復古の
 急務と開港の已むなきを論じた。
  山内容堂、王政復古の旨を建白す(氷川清話)
  諸藩連合体制を相手にする・・将軍・慶喜が居た・・、
  徳川慶喜は、早くから、土佐の山内容堂らと一緒にな
 って、「諸藩連合体制」を作ろうと考えていた・・が、
  大政奉還の際、長州側はびっくりする・・が、
  その先見の明が上手くいかないのは・・、西郷隆盛。
  また、西郷隆盛の命を受けた益満休之助が、江戸でゲ
 リラ戦を展開した・・その揚げ句・・、
  幕府は、薩摩藩邸に兵を出し、焼いてしまった。
  慶喜は、フランス公使のレオン・ロッシュなどから国
 際情勢をいろいろ聞いていた。
  もし、慶喜が、国際情勢に疎いタイプだったら、徹底
 して戦っていたかもしれない。
  また、幕府には、後進に席を譲る、国を滅ぼす事だけ
 はやるまいとの・・気があった。
  また、薩長にも・・あったと思われる。
  この頃、経済破綻を来した国内では・・百姓一揆が相
 次ぎ・・、
  国外では、アメリカは南北戦争、フランスは普仏戦争。
  一番、幕府側の目を開く原点になったのは・・イギリ
 スが起こした・・卑劣な戦争を展開したアヘン戦争の情
 報だった。
1867年6月23日(5月21日)高知藩士・板垣退助らが、鹿児
 島藩士・小松帯刀らと京都で会見し、倒幕挙兵を盟約し
 た。
1867年6月26日(5月24日)朝議決定し、長州藩処分を寛大
 にし、併せて兵庫開港の勅許下る。
  徳川慶喜が、四侯会議を制し、兵庫開港の勅許を得た。
  会議側の敗北を受け、薩摩藩は、武力倒幕の方針を固
 めた。
1867年6月29日(5月27日)中岡慎太郎、板垣退助、谷守部
 (干城)、小松帯刀、西郷隆盛ら倒幕同盟を結ぶ 。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

2016年1月8日金曜日

(増補版)269E1/3:気になった事柄を集めた年表(1866年8月~1867年1月)

題:(増補版)269E1/3:気になった事柄を集めた年表(1866年8月~1867年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1866年(慶応2年)8月26日、軍艦・開陽丸
  江戸幕府の軍艦・開陽丸が、就役(しゅうえき、仕事
 や任務に就くこと)した。
  以下、勝海舟の話・・、
  幕府から、開陽丸という軍艦を、オランダに注文した
 時に、榎本武楊や赤松大三郎などを、海軍伝習性として、
 オランダに派遣した。
  それが出来上がって、日本に回航してくる時分には、
 この伝習生らも、少しは海軍の様子が分かって来たもの
 だから、
  自分で開陽を乗り回して、日本へ帰って来た。
  その時、
  開陽には、幕府から雇い入れたオランダの海軍士官13
 名という者が、日本の海軍のお傭い教師として便乗して
 きた。
  ところが、これが外交上の一悶着となった。
  何故かというと、これより先、イギリスの海軍士官を、
 日本のお傭い教師として、かねて頼んでおいたので、オ
 ランダの士官の方が、まだ到着しない以前に、はや日本
 へ来ていた。
  そこへ重ねて、オランダからも雇い入れたという事だ
 から、オランダの士官も、イギリスの士官も、双方なが
 ら大怒りに怒ったのさ。
  オランダの士官は、「ぜんたい我々は、オランダ国王
 から勅命を持って、幕府に雇われて来たのだ。
  その雇われて来るのにも、無条件ではない。
  日本の海軍を、我々オランダの士官の一手で、教育し
 てもらいたいとお申し出によって来たのものである。
  それを何ぞや、我々を差しおいて、イギリスからも教
 師を頼むなどとは、実にもってのほかである」という。
  それからまた、イギリスの方で見ると、「ぜんたい幕
 府は、我々、イギリス海軍士官に日本の海軍を、一手に
 教育してくれとあるからして、はるばる、この極東まで
 やって来たものだ。
  しかるに、今更、無断でオランダの士官を雇い入れ、
 しかもそれに、海軍教育の全部を一任するなどという約
 束をするとは、我々の顔ヘドロを塗るものだ。
  こうなった上は、我々に対してお結びになった約束は、
 どうせられるお考えであるか」と理屈を言う。
  さあ、大変なことが持ち上がったというもので、幕府
 の外国奉行たちは、大狼狽にうろたえて、
  やれ今日も相談でござる、やれまた明日も相談でござ
 ると、
  毎日毎日、相談ばかりに日を暮らしたけれども、
  どう始末をつけてよいやら、とんとまとまりがつかな
 かった。
  そこで奉行たちから、俺の所へ、この始末をつけてく
 れと頼みに来た。
  俺は、この時分には、もはや外国語も使っているし、
 外国人にも、いくらか名前も知れているし、外国事情に
 も相応には通じていたから、
  それで是非にお頼み申すと泣きついてきたのだ。
  そこで、俺はすぐに、外国奉行らが額を集めての相談
 最中の席へまかり出て、
  「皆様方において、この度の一件の善後策を、勝にお
 頼みなさるという御事ならば、私は、あらかじめ、一応
 申し上げておかなければならない事がございます。
  それは、別儀ではない。
  もし、この事件に関する一切の全権を、私にお任せに
 相成るならば、私は、万事、お引き受け申して、幕府に
 は、少しもご迷惑を相かけないようお取り計らいいたし
 ましょうが、
  しかしながら、左様でなくて、ただ一部分のみをお任
 せになって、談判の進行中に、私を制約せられるような
 ことならば、私は、まっぴらごめんを蒙ります」と、こ
 う申し出た。
  そうしたところが、奉行たちも、この際、困り切って
 いる最中だったから、
  「なんじょう異存を申すべき、全権を任せて勝さんに
 お頼み申します」と言ったから、
  それではと、俺は、直ちに、開陽丸へ船でこぎつけて、
 まず、オランダの方から談判に着手した。
  オランダ公使にも、むろん立ち会わせておいて、
  さて、俺は、「幕府は、色々入り組んだ事情がござい
 まして、せっかく皆様が万里の波浪を破って、はるばる
 ここまで来てくださいましたけれども、
  とても今のところでは、この折り重なっている事情の
 ために、皆様をお頼み申しておくわけには参りません。
  その代わりに、皆様方の約束の報酬3年分は、ただいま
 一時に差し上げますから、ひとまず帰国してください」
 と言い出した。
  ぜんたい、この場合では、とにかく理由が無くって約
 束を破るのだから、中々やかましいのは、初めから覚悟
 をしていたのだが、
  しかし、向こうも俺の顔に免じて、思ったほどは、や
 かましい理屈も言わずに、とうとう俺の申し出の通りに
 承知してくれて、オランダ士官は、一同折り返して帰国
 する事となった。
  そこで、俺は、機転を利かして、一同を築地のホテル
 へ連れて来て、酒肴料として金を千両くれてやった。
  そうしたところが、大そう俺に礼を言って帰った。
  それから、まず一方の談判が落着したから、今度は、
 イギリスの方へ掛け合いをして、この方は、もう訳もな
 くうまくやりつけたが、
  この事件を片付けるために、俺は、あの時、早馬で3日
 の間、横浜へ通ったよ。
  この頃のイギリスの公使と言えば、かの有名なパーク
 スだが、今のサトウなどは、その頃の書記生で、確か、
 24歳くらいで、年の若いのに似合わないやり手であった
 よ(氷川清話)
1866年、福沢諭吉の「西洋事情」初編が刊行された。
  福沢諭吉は、江戸幕府の命によって1860年(万延元年)
 にアメリカに渡った。
  そして、1862年(文久2年)に、ヨーロッパに渡り、
  その後、1866年(慶応2年)に、「西洋事情」初編3冊
 を刊行した。
  翌年の1867年(慶応3年)、再びアメリカへ渡り、
  その後1868年(明治元年)に、外編3冊を、
  1870年(明治3年)2編4冊を刊行した。
  そして、その内容については・・、
  政治、税制度、国債、紙幣、会社、外交、軍事、科学
 技術、学校、図書館、新聞、文庫、病院、博物館、蒸気
 機関、電信機、ガス燈などに及んでいる。
  例えば、政治については、政体が君主政(君主制)、
 貴族政、共和政の三種類の政体に区別されて、
  イギリスでは、これらの政体を組み合わせていると記
 されている。
  文明国の六つの要訣(ようけつ、物事の最も大切なと
 ころ)については、
  法の下で自由が保障され、人々の宗教には介入せず、
 技術や文学を振興し、学校で人材を教育し、安定的な政
 治の下で産業を営み、病院や貧院等によって貧民を救済
 する・・と論じている。
  外交については、通商や婚姻によって君主間の関係を
 構築し、戦争を防止するために条約を締結し、条約に基
 づいて大使が相互に派遣される・・という外交の制度が
 紹介されている。
1867年1月10日(慶応3年)、徳川慶喜、15代将軍となる。
  1867年9月17日に、徳川宗家は相続したものの、将軍職
 の就任は拒み続けていた・・が、
  1867年12月30日に、将軍の宣下を受けて、ようやく将
 軍に就任した。
  徳川慶喜は、正二位権大納言に任ぜられ、
  徳川の最後の征夷大将軍となり、
  1913年(大正2年)11月22日、77歳で没した。
  (将軍在職1867年~1867年)
  就任後、フランス公使・ロッシュの援助で、幕政の改
 新を図ったが、大勢には抗しえなかった。
  徳川慶喜将軍宣下(氷川清話)
1867年、この頃、葛餅(くずもち)15文。
1867年1月12日、幕府が、デンマークと通商条約を締結した。
   (日丁修好通商条約調印)
  丁はデンマークのこと、読みは「にってい」。
1867年1月13日、フランス軍事顧問団が、横浜に到着した。
  翌日から、幕府陸軍の訓練を開始した。
  第一次フランス軍事顧問団(1867年~1868年)は、西
 洋式陸軍の訓練のために、日本に派遣された、最初の顧
 問団で、士官6人、下士官兵9人の15人だった。
  団長のシャルル・シャノワーヌ参謀大尉が率いた。
  後に、4人が追加派遣され、総勢19名となった。
  顧問団の一部は、明治政府成立後も、幕府側に加担し、
 戊辰戦争に参加した。
  横浜で、到着の翌日から訓練開始した軍事顧問団は、
 大田村陣屋(現在の港の見える丘公園付近)で、幕府の
 エリート部隊である伝習隊に対し、砲兵・騎兵・歩兵の
 三兵の軍事教練を開始した。
  伝習隊は、最新の装備は有していた。
  団長のシャノワーヌは大坂に赴き、ロッシュとともに、
 1867年5月2日および3日の二日間、将軍・徳川慶喜に謁見
 した。
  ここで、シャノワーヌは、幕府陸軍の大規模な改革の
 必要性などについて述べた。
  これに対し、慶喜は、江戸において、陸軍総裁・松平
 乗謨から承る(うけたまわる、謹んで拝聴する)こと、
 必要経費は勘定奉行より支給すると回答した。
  その後、幕府陸軍は、大幅な組織改革を行い、旧暦9月
 (10月)には、顧問団は、横浜から江戸に移り、教練を
 受ける兵員数も増加した。
  教練の成果に幕府も満足し、1867年10月20日には、陸
 軍奉行の石川総管と浅野氏祐の連名で、シャノワーヌに
 宛てて感謝状が送られた。
  しかしながら、1867年11月9日の大政奉還、1868年1月
 27日(慶応4年1月3日)の戊辰戦争勃発により、軍事顧問
 団の継続は不可能となり、訓練の期間は1年強に留まった。
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