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2017年3月4日土曜日

(増補版)503E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年12月~1889年12月)

題:(増補版)503E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年12月~1889年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1889年11月8日、アメリカでモンタナが41番目に州となった。
  陸地面積では全米第4位
  2010年国勢調査の人口は約99万人で、少ない方から第
 7位。
  人口密度では小さい方から第3位である
   白人        87.8%、
   インディアン 6.3%、
   ヒスパニック 2.9%、
   アジア系     0.6%、
   黒人         0.4%、
   混血         2.5%、
  英語95.4%、スペイン語1.4%、
  数千年前から様々なインディアン部族が住んでいた地。
  1860年代後半に、アメリカ陸軍が、一連の基地を設立
 した。
  インディアンの方々が、土地の支配を守ろうとした。
  そのことで、幾つかの戦闘が起きた。
  現在のハーディンの町近くで、リトルビッグホーンの
 戦いが行われた。
  1862年~1876年の金産出量は、1億4,400万ドルに達し
 た。
  当時の銀はさらに重要だった。
  最大の鉱山はビュート市にあるもので、重要な銀鉱脈
 と巨大な銅鉱脈であった。
  1940年以降、イエローストーン国立公園やグレイシャ
 ー国立公園が観光地となって、観光業は州内第3位の産業
 となった。
1889年11月11日、アメリカで、ワシントンが42番目に州と
 なった。
  人口(2010年)約672万人(全米第13位)
  面積:全米18位
  英語82.5%、スペイン語7.8%、中国語1.2%、
   白人        72.5%、
   ヒスパニック11.2%、
   アジア系     7.2%、
   黒人         3.6%、
   インディアン 1.5%、
   混血         4.7%、
  1770年代に流行した天然痘のために、インディアン方々
 の人口が急減した。
1889年11月14日、婦人記者のネリー・ブライが、80日間世
 界一周に出発した。
  (翌年1月25日に72日間余で帰着)
1889年11月23日、最初のジュークボックスが登場(サンフ
 ランシスコ)
  パシフィック・フォノグラム社の総支配人ルイス・グ
 ラスが、アメリカ・カリフォルニア州サンフランシスコ
 のパレ・ロワイヤル・サルーンに、ジュークボックスを
 初めて設置した記録が残る。
  このときの装置は、電動のエジソン蓄音機(蝋管式)
 に聴音管を4つ付けたもので、それぞれに硬貨投入口があ
 り、独立して動作するようになっていた。
1889年、トーマス・エジソンが映画撮影機を発明した。
  エジソン・ゼネラルエレクトリック社を設立し、動画
 撮影機キネトグラフを発明した。
1889年、ロンドンでウリッジ・フリー・フェリー(Woolwich
 Free Ferry) が開業した。
  蒸気船によるテムズ川の渡し船。
  現在は、1963年に、建造されたディーゼル船3隻によっ
 て運行されている。
1889年、アスピリンが発明された。
  日本薬局方で、アスピリンと正式名称で呼ばれるこの
 薬は、消炎・解熱・鎮痛作用や抗血小板作用の薬効を持
 つ。
  この薬は、サリチル酸を無水酢酸によりアセチル化し
 て得られる。
  アセチルサリチル酸は、代表的な消炎鎮痛剤のひとつ
 であり、非ステロイド性抗炎症薬の代名詞とも言うべき
 医薬品である。
  ドイツのバイエル社が名付けた商標名のアスピリンで
 よく知られた。
  発明者は?・・と言うと・・
  アスピリンは、すでに、紀元前にその源がある。
  紀元前400年ごろ、ヒポクラテスは、ヤナギの樹皮を熱
 や痛みを軽減するために用いている。
  ヤナギの葉を、分娩時の痛みを和らげるために使用し
 ていたという記録がある。
  ヤナギの鎮痛作用は、ギリシャ時代からよく知られて
 いた。
  また、古代ローマの「薬物誌」には・・、
  ヤナギは、腹痛、痛風、リウマチなどに対する鎮痛作
 用があると記され・・
  また、そのほかに、出血を止める作用、ウオノメやタ
 コをなおす作用があると記されている。
  中世では、薬草売りの女性たちが、ヤナギの樹液を煮
 て、その苦い煎じ湯を痛みを訴える人々に分け与えてい
 た。
  また、中世の庶民が頼(たよ)った助産婦も、この様
 な薬草を多く用い、世の女性方を救っていた。
  しかし、教勢を拡大したいキリスト教は、あらゆる権
 威を得ようとした・・欲しがった。
  この庶民に頼られていた助産婦や薬草売りの女性方た
 ちの持っている権威は、このキリスト教が排除したい、
 気になる存在だった。
  キリスト教は、夜、薬を煎じるこの女性の方たちを「
 魔女」に仕立てた。
  そして、世を繰ってこの女性の方たちを、「魔女」と
 して町の広場で焚刑・火アプリにした。
  魔女の惨劇は、長い長い時代、中世ヨーロッパを暗黒
 の空に染めた。
  「魔女裁判」と共に、キリスト教裁判所は「異端審問」
 も盛んに行ない、全滅する村も出るという酷さだった。
  ヨーロッパには、東洋の『漢方薬』と同じように立派
 な薬草学があった。
  しかし、このキリスト教の蛮行によって、ヨーロッパ
 の薬草学は滅びた。
  キリスト教は、その頃、始まっていた大学医学とくっ
 ついて、このジャンルの権威を得た。
  医療が、「十字架をマークとしている」のはこのため。
  そのマークの陰では、「可哀想な・・焚刑で焼かれた、
 大勢の女性の方たちが居られる」。
.
  (今日の言葉)
.
  題:アメリカを越える中国・・そして、台湾・・そして、沖縄・・そして・・
    (過去にはドイツが・・好きに・・  )
.
1923年、ドイツがハイパーインフレになった。
  貴方の月給が、翌月に倍になったら『うれしいですか?』
  その様にしなければ、世の中が収まらなかった『ハイ
 パーインフレ社会』が、この年に、起きた(1922年~
 1923年のドイツの事例)。
  ハイパーインフレーションとは、急激に進行するイン
 フレーションのことで・・、略して「ハイパーインフレ」
 とも言う、
  ハイパーインフレ・・過度のインフレで、物価が短期
 間に数倍~数十倍に跳ね上がった・・
  ・・が、しかし・・この時のドイツは・・さらに・・
 すさまじかった。
  ドイツのインフレは、最終的に物価が・・何と!『384
 億倍』にまで達した・・想像できない領域に入っていた
 ・・???
  このハイパーインフレによって、お金の価値は、当然、
 『紙くず同然』となった。
  同然というより・・『紙くず』となった。
  ドイツの方たちは・・紙幣を道端に捨てた!
  背景は・・、国土が戦場となったフランスは、第一次
 世界大戦後も、ドイツの強国化を恐れた。
  そのため・・フランスは、ドイツに課された賠償金不
 払いを厳しく追及した・・要求した。
  そして、ドイツの支払い不履行を理由に、1923年、石
 炭などの資源のあるルール地方の『占領を強行した』。
  これに対しドイツは、ルール占領には不服従運動で抵
 抗した。
  (第一次世界大戦で打ちのめされたドイツは、反抗す
 る手立てが無かった、反抗したくてもできなかった・・
 その様なドイツだった)
  その様な状況によって・・ドイツの生産は低下し、激
 しいインフレーションが進んだ。
  買い物に行くのに・・「お金をリヤカーで運ぶ人々」
 が居るくらいになった。
  お金の価値のあまりにもひどい下落に・・「街中に捨
 てられる市民の怒りの紙幣の山」が・・、
  何と!! ある保育園での「札束の山で遊ぶ子供たち」
 が写る写真がある。
  「刻一刻とマルクの価値が下がるため、食料品店に殺
 到する市民の長い列」・・社会は、シッチャカメッチャ
 カとなっていた。
  昨日まで、ハム・サンドイッチが、1万4000マルクだっ
 た同じ喫茶店で、今日はそのサンドイッチが2万4000マル
 クとなった
  お金(銀行券)は、1枚ほぼ1グラムなので、紙幣4000
 枚持ってレストランに行くとすると、約4kgの紙幣を運ぶ
 ことが必要だった。
  買い物の不便から100兆マルクが発行される事態となっ
 た。
  紙幣は、額面ではなく『重さ』で取引された。
  紙幣の印刷が間に合わず、片面しか印刷しなかった。
  喫茶店でコーヒーを飲むのに、トランク一杯分の紙幣
 が必要であった・・が・・、飲んでいる間に・・インフ
 レが進行した・・価格が・・トランク二杯分になった。
  昼と夜で・・レストランのメニューの値段が1桁違った。
  月給は、もらう頃には価値がなくなるので週給、日給
 へと変わって行った。
  薪を買いに行く代わりに・・札束を薪代わりにした。
  このインフレを鎮めたのは、11月15日に発行されたレ
 ンテンマルクの出現であった。
  新しい発券銀行としてレンテン銀行が設けられ、レン
 テンマルクとライヒスマルクの交換レートは・・、
  1レンテンマルク=1,000,000,000,000(1兆)ライヒ
 スマルクと決定された。
  このレンテンマルクの発行により・・ドイツのインフ
 レは沈静化した。
  このインフレの収束は、『レンテンマルクの奇跡』と
 呼ばれている。
  この原因を深く探ると・・、
  第一次世界大戦という戦争は、罪作りな大戦争だった。
  この戦争の後になっても・・人々を苦しめた。
  ドイツ経済は・・戦時体制と・・長らく続いたドイツ
 封鎖によって疲弊していた。
  そして、悲劇的な事に・・さらに、連合国のベルサイ
 ユ条約によって、『1320億金マルクの賠償金支払い』が
 課されていた。
  これは、ドイツの支払い能力を大きく上回っていた。
  そして、さらに苛酷な事に・・『外貨で支払う』こと
 が要求されていた。
  やむなく、賠償金の支払いは滞った。
  支払わないならばと・・1923年1月11日、フランスは、
 ドイツ屈指の工業地帯であり地下資源が豊富なルール地
 方を占領した(フランスは・・フランスで、フランスの
 地だ・・と言っていた)
  実力を行使されたドイツ・・その占領に対し、ドイツ
 政府は受動的な抵抗運動を呼びかけた。
  ストライキに参加した労働者の賃金は、ドイツ政府が
 保証した。
  既に、第一次世界大戦中よりドイツではインフレーシ
 ョンが進行していたが、抵抗運動に伴う財政破綻によっ
 て『致命的な状況』へと導かれた。
  ルール工業地帯の供給能力を失ったために、空前のハ
 イパーインフレが発生した。
  1923年6月までに、マネーサプライは、大戦前の2000倍
 に増加し、
  一般物価水準は25000倍を超えた。
  マルクは、1年間で対ドルレートで7ケタ以上も下落す
 るというインフレーションとなった(マネーの価値の超
 下落)。
  パン1個が1兆マルクとなるほどで、100兆マルク紙幣も
 発行されるほどだった。
  この時期のマルクは「パピエルマルク(紙屑のマルク)」
 と呼ばれた。
  アドルフ・ヒトラーらが、ミュンヘン一揆を起こした
 のもハイパーインフレの危機が収束するかしないかとい
 う時期であった(1923年11月8日)
  また、左派による地方政府掌握が発生するなど、混乱
 はドイツ中に広がって行った。
.
  そして・・第二次世界大戦が起きる・・
  そして・・その戦争に勝利したアメリカは・・?
.
1945年、第二次世界大戦を勝利したアメリカは、自国のグ
 ランド・ストラテジー(国策)を大きく変えた。
  アメリカは・・、
  「ユーラシア大陸の三つの重要地域(西ヨーロッパ、
 中東、東アジア)を、アメリカが支配する」・・と。
  これらのユーラシア大陸の最重要地域を支配する事に
 よって、アメリカは、『世界を支配する事が出来る』・・
 と・・、
  このアメリカのグランド・ストラテジーに、ソ連陣営
 が対抗した。
  『アメリカの一極覇権は実現させない』・・とした。
  米ソ間の冷戦という二極の対立の時代となった・・対
 立構造となった。
.
1947年2月28日、二・二八事件(台湾)勃発
  1947年2月 28日、台湾で起った大陸人(外省人)によ
 る支配・・
  そして、その強圧取締りに対する、台湾人(本省人)
 及び日本人の抗議行動の事件が起きた(日本人がまだ残
 っていた)
  同年・1947年2月27日夜、台北市で、大陸人官憲の闇た
 ばこ摘発隊が、台湾人老婆を殴打した。
  この事に対し、今までの鬱積が溜まっていた本省人(
 台湾人)が・・抗議に集った。
  その民衆に対して、大陸人官憲は発砲し、1名を死亡
 させた。
  翌28日、憤激して省行政長官兼警備総司令・陳儀の公
 舎に向った台北市民のデモ隊が・・
  何と! さらにひどい事に・・機銃掃射を浴びせられ
 た・・
  当然、その様な劣悪な武器によって・・死傷者は多数
 となった。
  国民へ向けて機関銃を討つという考えられない行為を
 した。
  この時、台湾は、国民党支配下にあった。
  その様な台湾にあって、外省人と本省人(台湾人)との
 衝突によって生じた大規模な流血事件だった。
  中国国民党政権の在台中国人を「外省人」と言ったが、
 この外省人が、本省人(台湾人、この時はまだ日本国籍
 を有していた人々)と、日本人に対して弾圧を行なった。
  後になって・・民主化が進む李登輝(リー・トンホイ)
 体制の下で、この事件の真相究明のための『再審査が行
 われた』。
  また、その後の1992年2月には、膨大な調査報告書が
 作成されて、李総統自らが遺族を弔った。
  さらに、詳細に検証すると・・、
  当時・1947年2月27日、台北市内の夜市で、複数の警官
 が、ヤミたばこ密売の女性を、横暴に摘発しようとして、
 市民との間に混乱が生じ、警官の横暴発砲が原因で1人
 の市民が死亡した。
  これに抗議するデモが、翌28日、台北、基隆を始め全
 国に拡大した。
  本省人は、多くの地域で、一時、実権を掌握し、回復
 した。
  しかし、国民党政府は、大陸から援軍を派遣し、武力
 によって、これを『徹底的に鎮圧した』。
  この約2年前・・1945年10月、台湾に進駐した陳儀ら
 『国民党政権台湾接収委員』(アメリカの指示)は、日
 本植民地当局から施政権を引き継いでいた。
  そして、この当時、この様な経緯で行政長官となった
 陳儀らは、この事件の抗議に立ち上がった市民を徹底的
 に弾圧した。
  そのため、2万人以上(2万9000人という証言あり)と
 される死者が発生した。
  外省人、特に、国民党指導層への台湾民衆の心理的反
 発は決定的となった。
  当時、台湾へ、大陸から蒋介石が率いる中国国民党政
 府の官僚や軍人が進駐し、行政を引き継いだという形を
 とった・・が・・日本統治時代とは・・「雲泥の差」が
 あった。
  台湾の方々は、彼らの腐敗の凄まじさに驚いた、
  そして、失望した。
  中国大陸から来た軍人・官僚は、当時の国共内戦の影
 響で、人格的にも、能力的にも劣悪で、卑劣な行為をす
 る輩たちだった。
  質が悪く・・強姦・強盗・殺人を犯す者も多かった。
  しかし、犯人が罰せられないということが頻繁(ひん
 ぱん)にあり、日常茶飯事となっていた。
  (戦後、日本に来たアメリカ兵も酷い強姦魔だった・・)
  罰せられたとしても、犯人の省籍をマスコミ等で報じ
 ることを、「厳しく禁じられた」。
  (上記ののアメリカも、あまりの酷さに、新聞報道を
 強引に抑え込まれた、日本は報道する自由を奪われた)
  また、台湾の資材が、中国人官僚らによって接収・横
 領された。
  そして、上海の国際市場で競売にかけられるに到り、
 物資不足に陥(おちい)った。
  そのため、台湾の物価は高騰した。
  台湾はインフレとなり、その中で、「企業の倒産」が
 相次いだ。
  そして、「失業も深刻化」していた。
  日本時代は、不正など勿論なく、そして、まったく東
 京と同じ生活水準の「良質な社会」だった。
  その落差を知っている台湾の方々は、それ故、不満は
 高まっていた。
  この時、台湾の方々に思い起こさせ、心を助けたのが、
 日本時代のことなどだった。
  台湾人の本省人の方々は、国民政府に占拠されている
 諸施設に向かって、大規模な抗議行動を展開した。
  その行動の時に、日本語や台湾語で話しかけた。
  そして、答えられない者を外省人と確認すると・・反
 抗手段をとった。
  そして、日本時代の教育を受けていた台湾人の本省人
 の方々は、「君が代」を国歌として全ての台湾人が歌え
 たため、本省人の方たちは、全台湾人共通の合言葉とし
 て「君が代」を歌った。
  「君が代」を歌って、行進した。
  歌えない者(外省人)を排除しつつ行進した。
  ラジオ放送局を占拠した。
  そして、軍艦マーチと共に、日本語で全台湾へ呼び掛
 け、放送した。
  「台湾人よ立ち上がれ!」・・と・・ここに独立の萌
 芽があった・・。
  今・現在でも・・台湾の方々は・・自分たちが・・自
 らの進む道を・・自ら決するという選択肢は、『当然、
 保持している』。
.
  そして、最近の・・2017年の・・新聞報道・・
.
2017年2月25日、中国の、『台湾侵攻』想定の演習実施の可
 能性があると、防衛省が発表した。
  この日の読売新聞によると・・、
  防衛省の防衛研究所は、24日・・、
  中国の軍事情勢などに関する報告書「中国安全保障レ
 ポート2017」を発表した。
  2016年5月に、台湾で、独立志向の強い蔡英文(ツァイ
 インウェン)政権が誕生したことを受け、
  中国が、『台湾侵攻』を想定した軍事演習や、大規模
 なサイバー攻撃を実施する可能性があると分析している。
  報告書は、蔡氏の総統就任後、中国が国際民間航空機
 関(ICAO)総会など国際会議への台湾代表の出席を
 妨害したほか、
  台湾の最大野党・国民党への接触を強めているとして、
 「今後も様々な圧力の行使や、切り崩しを図っていく」
 との見方を示した。
  また、東・南シナ海への進出を強める中国に対し、海
 上交通の要衝に位置する台湾の戦略的重要性が増してい
 ると指摘。
  「台湾が、防衛力を強化することは地域の安全に資す
 る」とした。
.
  そして、今後の将来予測・・は・・、
.
2020年代、アメリカを越える中国・・
  CIA(中央情報局:アメリカ合衆国の大統領直属の
 情報機関)と、
  ペンタゴン(アメリカ国防総省)と、
  アメリカ国務省は・・予測する・・、
  「今後、20年間の『中国』の経済成長率と軍事予算成
 長率は・・、
  アメリカの経済成長率と軍事予算成長率を、はるかに
 越えるだろう」・・と。
  そして、2020年代になると・・、
  東アジア地域における、米中の経済力と軍事力バラン
 スは逆転し、
  「アメリカは、いずれ、東アジアからの撤退を余儀な
 くされる」・・と・・、
  この予測通りだと、日本の「アメリカ追従政策の破綻
 (はたん)」が起きる事態となる。
  伊藤貫氏と日下公人氏の対談の本を参考にして記すと
 ・・、
  ニクソン大統領とフォード大統領の両政権で国務長官
 を務めたキッシンジャーは言う・・、
  「戦争に敗けて・・敵に占領された国には、二つの対
 応策しかない」・・と、
  その一つは、「占領軍に対して、長期間の徹底的な『
 ゲリラ戦』を実行する」、
  そして、その二つ目は・・、
  「眼先の利益と、安全を確保するため、占領軍に協力
 し、服従するコラボレーショニストになる」・・と・・
  「日本は、二つ目だ」とは明言していないが、そのニ
 ュアンスを込めた発言となっている。
  せっせと服従し、恭順の意を示していれば、そのうち、
 占領政策を緩めてくれるかもしれない。
  一つは、国家の「ディ・レジティマタイゼーション」
 で、国家がレジティマシー(正統性)を失うという意味。
  かつて戦争相手であった・・戦勝した敵の押し付けて
 来た憲法や法律、行政制度、教育制度、歴史解釈など、
  敗北した国は・・「道徳的に劣悪な国」であり、
  戦勝国は・・「道徳的に優越した正義の国」であると
 いう歴史解釈を押し付けられて・・使う。
  敗戦国家の国民は、「なんだ、自分の国は、占領軍の
 言いなりになっているだけの追従の似非(えせ:似て非
 なる・・正しいものに為り得ぬ)国家か・・?」・・と
 思うようになる。
  外見は「立派な独立国」で、「経済大国」のように見
 えたが・・???
  本音は、まったく違って、ただ・・ただ・・この国は、
 戦勝国に服従している・・「属国にすぎない」・・と。
  周りの国まで、口には出さないけれど・・その国を蔑
 (さげす)む。
  国家のクレディビリティ(信憑性、信頼性、確実性)
 や、正統性を・・半端にしか見ない。
  その点での尊敬など受けない。
  国家の「ディ・モラライゼーション、de-moralization、
 士気喪失」の弊害が起きる。
  国民が士気を失う。
  「モラール(士気、気概、競争心)」を失う。
  (参考)士気:しき、戦いに対する軍隊の意気込み。
     転じて、一般に、人が団結して物事を行う時の
     意気込み。
  「戦勝国の顔ばかりうかがう国」と、劣等意識を植え
 付けられる。
  国への忠誠心も阻害される。
  国のためより、自分のための・・国民になる。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

2017年3月2日木曜日

(増補版)502E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年12月~1889年12月)

題:(増補版)502E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年12月~1889年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1889年1月8日、パンチカードの特許
  アメリカで、ハーマン・ホレリスが、タビュレーティン
 グマシンの特許を取得した。
  因みに、タビュレーティングマシンは、日本で一般に
 「パンチカードシステム」と呼ぶもので、会計などの作
 表を補助する機械群。
  1890年、アメリカの国勢調査のデータ処理で、初めて
 使用された。
1889年3月4日、アメリカでベンジャミン・ハリソンが第23
 代大統領に就任した。
1889年3月23日、アメリカの大統領になりたてのハリソン大
 統領が、オクラホマ未割当地への白人入植を認可した(4
 月22日説あり)
  白人たちが未開地へ殺到する。
  ランドラッシュ (Land Rus)は、この時、アメリカ合
 衆国政府が入植を解禁したオクラホマへ、白人たちが、
 未開の土地を求めて殺到した現象。
  白人による北アメリカ大陸入植が本格化した。
  先住民である、そして、本来の土地の所有者であるイン
 ディアンの方たちは、そのアメリカ合衆国の白人たちに、
 武力で打倒され、強制的に移住させられ、土地は奪われた。
  チェロキー族など各地のインディアンの方々が、「涙
 の踏み分け道」と呼ばれる苛酷な旅程を経て、移住させ
 られた。
  多くの体の弱い幼児や、ご老人が亡くなった・・死んだ。
  それまでは・・アメリカ合衆国政府は、インディアンの
 方々との『約束を破ることになるため・・入植を許可しな
 かった』。
  ・・が、しかし、1886年の戦いを最後に、インディア
 ンとの戦いが終息すると・・アメリカは手のひらを返し
 た。
  インディアンの方たちとの『約束を無視して』・・ア
 メリカ合衆国政府は、オクラホマ入植を認めた。
  この日、正午を告げる号砲が鳴ると、競争するがごと
 くに、一斉にオクラホマへと乗り込んで行った。
  (大群衆の競馬だと思えばよい、その様な感じで、イン
 ディアンの方々の土地は奪われて行った)
  そして、アメリカ合衆国の白人たちは、土地を安値で
 手に入れた。
  (参考)1889年4月22日、米オクラホマで白人入植解禁
    (ランドラッシュ)
1889年4月、最初の食器洗い機がシカゴで販売された。
1889年5月30日、フランスで、エルミニー・カドルがブラジ
 ャーの原型を発明した。
1889年5月31日、アメリカのペンシルベニア州ジョーンズタ
 ウンで大洪水となる(死者2209名)
1889年6月6日、アメリカのシアトルで大火(25街区壊滅)
  木工細工職人が、接着剤をあたため、溶かしていたとこ
 ろへ誤って引火した。
  このとき、ビルを再建する際には、石材かレンガを使
 うこと、
  また、周辺が海抜ゼロメートル地帯で、昔から満潮に
 なると、度々、浸水の被害にあっていたことから、
  土地に勾配をつけて、高い位置に入り口を作ることなど
 が定められた。
1889年7月8日、ウォールストリート・ジャーナルが創刊し
 た。
  世界最大の発行部数を誇る経済新聞で、世界や全米各
 地の経済活動、金融に関するニュース記事を掲載してい
 る。
  現在は、アメリカ版、アジア版、ヨーロッパ版がそれ
 ぞれ発行され、長年にわたりアメリカ合衆国内での発行
 部数第1位を占めており、
  近年では、USAトゥデイ(211万部)に次ぐ第2位(
 208万部)であった。
1889年7月15日、第2インターナショナルがパリで結成され
 た。
  開かれた社会主義者・労働者の国際大会で創立した各
 国社会主義政党の連合組織。
  マルクス主義を支配的潮流とするドイツ社会民主党が
 中心で、欧米・アジア諸国社会主義政党の連合機関だっ
 た。
  第一次世界大戦で、各国の党がインターナショナリズ
 ムを放棄して、自国の戦争を支持するに至り、戦争に協
 力したため解体された。
  第1インターナショナルが、1872年に活動を停止してか
 ら、国際労働運動・社会主義運動の国際連帯の再建をめ
 ざす運動が続いていた。
  その間の世界的な工業化の進展により、労働者の数も
 増加し、資本主義の矛盾が高まった。
  そのことで、労働組合運動も活発となった。
  各国で、社会主義政党の結成も続いた。
  それらの動きを受けて、マルクスの死(1883年)後の
 社会主義運動を理論的に指導していたエンゲルスの肝い
 りで、
  1889年、ヨーロッパ・アメリカの19カ国の労働者代表
 によって第2インターナショナルが結成された。
   第2インターナショナルは、各国の社会主義政党の連帯
 組織という性格が強く、その中心は、ドイツ社会民主党
 であった。
  労働組合も参加したが、政党との関係に否定的な労働
 組合主義をとる組合は、別に労働組合インターナショナ
 ルを結成した。
  第1インターナショナルで、マルクス派と対立したアナ
 ーキズム勢力は排除された。
   第2インターナショナルは、帝国主義段階での資本主義
 の矛盾を、国家の枠を越えた社会主義政党と労働者階級
 の連帯によって克服し、
  労働者の解放を実現する社会主義社会を目指した。
  しかし、第1インターナショナルの段階と異なり、各国
 が、かかえる植民地支配の利害が対立するなか、植民地の
 解放については、各国の意見が対立するという問題を抱え
 るようになった。
  帝国主義間の戦争の危機が高まると、バルカン戦争な
 どでは、第2インターナショナルは、明確な戦争反対の立
 場をとり、
  第一次世界大戦の勃発に対しても、当初は、反対したが、
 戦争が長期化する中、インターナショナル各国支部の中に
 祖国防衛のためには戦争もやむなしというナショナリズム
 と戦争容認の声が強まり、統一的な国際組織として維持が
 できなくなり、
  1919年を最後に開催されて、なくなった。
  再度、書くが・・、1914年に、第一次世界大戦が勃発し、
 国家間の対立が鮮明になると、各国の社会主義政党もそれ
 ぞれ自国の戦争を肯定する側に回ったり(自国がかわいい)、
 戦争支持か反対かによって党が分裂し、
  第2インターナショナルは、1914年の開戦とともに機能
 不全に陥り、崩壊した
1889年10月、第1回 パン=アメリカ会議 (汎アメリカ会議)
  南北アメリカ大陸の独立国家のすべて、または、一部
 の代表間で開かれる、さまざまな会議。
  1826年~1889年に、国防や司法の共通問題を協議する
 ため米州諸国間で開催された一連の首脳会議が発端とな
 った。
  アメリカ合衆国を中心に、西半球における協力や交流
 を促進したり、この地域の問題の解決を図るために開か
 れた米州諸国の会議。
  1889年、アメリカのJ・ブレーン国務長官が、中南米諸
 国との通商拡大や、紛争の平和的処理法の協議のために
 ワシントンで、18カ国の代表が集まり、最初の会議を開
 催した。
  通商協定・仲裁裁判などで協定を結んだ。
  以後、数年おきに開催。
  その理念となったのは、アメリカ合衆国の指導のもと
 に、南北アメリカ諸国が政治的・経済的に緊密な関係を
 結ぼうというパン=アメリカ主義(汎アメリカ主義)。
  アメリカ合衆国にとっては、自国の工業化が進展した
 ことに伴い、原料・食糧の供給地として中南米地域を重
 視するようになっていた。
  (アメリカの国益となる経済圏の形成)
  南米大陸には、イギリスが、強い経済的関係を有して
 いた。
1889年11月2日、アメリカでノースダコタが39番目に、サウ
 スダコタが40番目に州となった。
  この日に、それまでのダコタ準州が南北に分割され、
 サウスダコタ州とともに、同時に州に昇格した。
  ・・が、ノースダコタ州が39番目、サウスダコタ州が
 40番目と認識された。
  ノースダコタ州の北側はカナダ国境であり、東側はミ
 ネソタ州との州境にレッド川が流れている。
  西側はモンタナ州に、南側はサウスダコタ州に接して
 いる。
  人口は70万人に満たず、全米50州の中で少ない方から
 3番目であり、面積は第19位なので、人口密度も4番目に
 小さい。
.
  (今日の言葉)
.
  題:誠実に歩む・・日本・・
.
紀元前447年、パルテノン神殿の建設が開始された。
  (~紀元前438年)
  建設に9年を要した。
  パルテノン神殿は、火薬庫に使われた。
  その時、砲弾が、命中して爆発して建物は吹き飛んだ。
.
紀元前427年、プラトンが生まれた。
  (参考)プラトン(紀元前427年~紀元前347年)は、
    古代ギリシアの哲学者。
     ソクラテスの弟子にして、アリストテレスの師
     に当たる。
      プラトンの思想は西洋哲学の主要な源流。
  そして、今・現在、アメリカの中間層は・・居なくな
 った。
  上層部の超富裕層の僅かな層が・・豊かさを独占し、中
 間層がその下の層に下落したからである。
  格差が広がるアメリカ社会となっている。
  そして、この2400年前のプラトンは言った・・
  「貧しすぎると、人間は賤(いや)しくなる。豊か過
 ぎると、人間はだらしなくなる」・・と・・、
  アメリカは格差が広がり・・プラトンが言う様に・・
 だらしない超富裕層が増えたのか? 
  欲だけが突っ張る層が・・?
.
17世紀後半、竹島の日本の領有権が、明確に確立した。
  「竹島」について(読売新聞、2017年2月22日)に記載
 されていた。
  島根県の第12回「竹島の日」記念式典が今日、松江市
 で開かれる。
  1905年に、日本が、竹島を島根県に正式編入した日だ。
  2005年に、県条例で竹島の日と定められた。
  ・・日本は、17世紀後半には、竹島の領有権を確立し
 た。
  第二次世界大戦後も、日本の領土として扱われて来た。
  しかし、1952年、韓国が、李承晩ラインを一方的に設定
 し、力による現状変更を行って以来・・不法占拠を続けて
 いる。
.
1932年3月1日、満州国が、建国宣言した。
  満州国が建国された。
  満州国の国づくりに協力した日本は、日本から日本の
 資本を持って行って、満州国へ資本投下し、国造りをし
 た。
  そして、また、同時に、日本の優秀な人的資源も満州国
 に入り、支援した。
  資金・資本とともに、『日本の優秀な頭脳』が満州国の
 国造りに援助し、参画した。
  そして、日本の敗戦とともに、その方たちは、日本に引
 き揚げて来たが・・、
  今度は、戦後の日本経済と、日本国家再興に寄与した。
  日本再建の中枢に・・多くのこの方々が居た。
  その方たちの根底には、しっかりした、また、大局的
 な国家論があった。
  世界から「奇跡の復興」と言われた日本の戦後復興を
 実現する大きな一翼を担った。
  しかし、今・現在、その様な人材は居るのか・・?
.
1941年12月10日、マレー沖海戦が起きた。
  日本海軍の陸上攻撃機と、イギリス海軍の東洋艦隊の
 間で行われた戦闘。
  今(2017年)、読売新聞で連載を書かれている松永真
 理氏の御祖父は、この時の海軍中将であった。
  (参考)松永 真理(1954年11月13日~)は、雑誌編集
    者、著作家。
  御祖父の海軍中将・松永貞市氏は、マレー沖海戦で、航
 空隊指揮官を務められていた。
  イギリスの戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」と「
 レパルス」を沈め、当時の日本は沸いた。
  動いている軍艦を飛行機で撃沈したのは初めてだった。
  出来ないと言われていたことを・・やった・・
  イギリスのチャーチル首相に「これ以上の衝撃は無か
 った」と言わしめた。
  それまでの世界の海軍は、艦艇同士の砲撃船で相手を
 撃沈しようとした。
  艦艇や主砲はどんどん巨大化し、「大艦巨砲主義」と
 言われる戦闘システムであった。
  航空機では無理だとされていた。
.
1944年(昭和19年)1月20日、オーストラリアの捕虜虐殺
  平成19年1月20日(土曜日)天候:雨 
  オーストラリア軍の不法行為について
  「オーストラリア軍の連中はもっとひどい。
  日本軍の捕虜を輸送機で南の方に送らねばならなくな
 った時の話を覚えているかね? 
  あるパイロットなど、僕にこう言ったものだ・・
  (日本兵)捕虜を、機上から山中に突き落とし、ジャッ
 プは途中でハラキリをやっちまったと報告しただけの話さ」
 (リンドバーグ日記八月六日)
  ブーゲンビル島トロキナでは、オーストラリア軍によ
 って、日本軍捕虜は、「死の行進」が課せられた。
  ナウル島とオーシャン諸島を占領していた日本軍は、
 一九四五年九月、オーストラリア陸軍の捕虜となった。
  同月二〇日にナウルの日本兵約二〇〇〇名が、トロキナ
 の仮収容所に移送されることとなったが、
  栄養失調と疫病で衰弱しきっているにもかかわらず、
 気温三五~三八度の中を一〇マイル行進させられた。
  (ろくな食事も与えられなかった)
  翌日、到着の一二五〇人も同様であった。
  豪州軍の警備兵は、行軍の速度をゆるめることを許さず、
 水もほとんど与えられなかった。
  死亡者が続出した。
  体験者の回想によれば・・、
  川を見つけた日本兵が、水を求めて駆け寄ると、川の両
 側に並んだ豪州軍将校たちが、水を飲ませまいと、足で
 水をかき混ぜて泥水にし、そのうえ銃を向けて威嚇した。
  一〇月八日に着いたナウルからの七〇〇人と、オーシャ
 ンからの五一三人も同じ扱いを受けた。
  くわえて、一〇月末にファウロ群島の常設収容所に移
 動させられた時には、マラリヤに多数が感染したが、豪
 州軍は予防薬を支給しなかった。
  捕虜のほとんど全員が感染、
  約七〇〇名が死亡したとみられる。
   以上「日本の反論」米田健三著 p一六五およびp一七一
 ~一七二よりの引用ですが、米田氏は、リンドバーグ日記
 および「軍事史学 第三五巻第二号」喜多義人論文より
 引用されています)
.
1944年4月14日、特別攻撃隊、
  日本が行った特別攻撃、
  第二次大戦末期に組織的な特攻が始まる以前より、自爆
 攻撃が、現場で行われることはあった。
  1944年(昭和19年)4月14日、アンダマン諸島へ向かう
 陸軍輸送船「松川丸」を護衛中の飛行第26戦隊の一式戦
 闘機「隼」(操縦:石川清雄曹長)が、
  アメリカ海軍の潜水艦が発射した魚雷3本を発見、機銃
 掃射しつつ魚雷目掛け海面に突入し戦死するも爆破に成
 功した。
  また、1944年8月20日、アメリカ陸軍航空軍のB-29爆撃
 機による八幡空襲において、迎撃に出た飛行第4戦隊の二
 式複座戦闘機「屠龍」(操縦:野辺重夫軍曹、後方射手:
 高木伝蔵伍長)が、第794爆撃飛行隊の「ガートルードC」
 号に対し体当たり攻撃を敢行し、「ガートルードC」号は
 空中爆発し、墜落した、
  また、その破片の直撃を受けた僚機の「カラミティ・
 スー」号も墜落した。
  「屠龍」は墜落し、野辺・高木共に戦死するも、1機で
 2機のB-29を撃墜した。
  特攻は、日本人以外の方々には理解されにくい行動だ
 った。
  若い方々が、国のためだとはいえ、あまりにもその一
 途な行動は理解されにくかった。
  しかし、今、戦後、時を経て・・国際的に、その行動
 が理解され、また、逆に、多くの方々に、尊敬され始め
 ている。
  終戦の調印が、日本とアメリカとの間で行われた、ア
 メリカ戦艦ミズーリー号にも、日本の特攻隊は突っ込ん
 ていた。
  ミズーリー号には、国を思いその任務を果たした若い
 日本軍人を顕彰(けんしょう、功績などを一般に知らせ、
 表彰すること)している。
  また、イギリスへ若い時に留学し、そして、今は、帰
 国して大学の教授になって居られる方は言われる、
  留学草々、下宿先のイギリス婦人が、日本からの留学生
 と知ると、
  「あなたの国(日本)には、立派な若人が居られました
 ね」と、
  早々に特攻隊の方々を褒め称えたという、
  その後も、勉強に立ち往生して、ちょっと気を抜いてい
 ると、特攻隊員の居る国なのにと、叱咤激励されたという。
  昔、以前は誤解されていた、また、プロパガンダされ、
 悪いイメージが作り上げられていた。
  ただただ、表面的にしか見られず、狂信的だと思い込
 まれていた見方は、今は、なくなりつつあり、変わって来
 ている。
  その若人たちが、特攻隊へと行くにあたって、ただた
 だ、単純に、狂信的に、任務に赴(おもむ)いたのでは
 ないという、深い理解が分かって来て戴いている、深い
 ところが理解されて来ている。
  特攻隊の若人の方々、一人一人の方々に、それぞれの
 苦悩があり、家族を想い、愛する人を想い、それぞれの
 心があり、郷土を想い、国を想い、その心があり、そして、
 行動があった。
  家族・郷土を守るため、国を守るために赴くという、
 命を賭して赴こうという心に至る道程が、一人一人の方々
 に苦悩を持ちながらあって、決断して赴いて行って戴い
 た、
  そこを、世界の方々は、理解して来て戴いている。
  極限になって行動された日本の特攻の若人の方々が、
 世界に理解されて来ている。
.
1944年10月20日、神風特別攻撃隊
  神風特別攻撃隊(かみかぜとくべつこうげきたい、し
 んぷうとくべつこうげきたい)は、第二次世界大戦末期
 に行われた大日本帝国海軍の航空機による特別攻撃隊。
  大日本帝国陸軍航空機による陸軍特別攻撃隊は含まれ
 ない。
  1944年10月20日に、最初の編成があり、1945年8月15日
 の終戦まで続けられた。
  『アンパンマン』の作者のやなせたかし氏の弟さんが、
 この神風特攻隊で戦死されていた。
  「いいね!ニュース」に次の記述があった。
  http://iinee-news.com/post-307/
  あなたは『アンパンマンの歌詞』の本当の意味を知っ
 てますか?・・と、題して書かれていた・・、
  大人から子供まで誰もが知っているアンパンマン。
  その主題歌『アンパンマンのマーチ』は、「愛と勇気
 だけが友達さ」などの歌詞から、なんだか寂しい歌のよ
 うに解釈されがちです。
  しかし、この歌の背景を知ると、実は、この曲が、子
 ども番組の主題歌と言うには、非常にもったいない程深
 い曲だという事がわかります。
  このアンパンマン、元々、大人向けの読み物で、アン
 パンマン自身も普通の人間だったのです。
  空腹の人たちの元へパン粉を届けるという点は現在と
 比較的共通していますが、
  アンパンマンを語る上で、最も知っておく必要がある
 のが、
  やなせたかしさんの弟の存在です。
  実は、やなせたかしさんの弟は海軍に志願し、特攻隊
 として戦場でその生涯を閉じました。
  更に、やなせたかしさん自身も、戦中・戦後の食糧危
 機に直面し、非常に辛い思いをしたそうです。
  その事を踏まえて、もう一度この歌の歌詞を読んでみ
 てください。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  『アンパンマンのマーチ』
  作詞 やなせたかし 作曲 三木たかし
  そうだ!嬉しいんだ生きる喜び
  たとえ胸の傷が痛んでも
  何の為に生まれて 何をして生きるのか
  答えられないなんて そんなのは嫌だ!
  今を生きることで 熱いこころ燃える
  だから君は行くんだ微笑んで。
  そうだ!嬉しいんだ生きる喜び
  たとえ胸の傷が痛んでも。
  嗚呼アンパンマン優しい君は
  行け!皆の夢守る為
  何が君の幸せ 何をして喜ぶ
  解らないまま終わる そんなのは嫌だ!
  忘れないで夢を 零さないで涙
  だから君は飛ぶんだ何処までも
  そうだ!恐れないでみんなの為に
  愛と勇気だけが友達さ
  嗚呼アンパンマン優しい君は
  行け!皆の夢守る為
  時は早く過ぎる 光る星は消える
  だから君は行くんだ微笑んで
  そうだ!嬉しいんだ生きる喜び
  たとえどんな敵が相手でも
  嗚呼アンパンマン優しい君は
  行け!皆の夢守る為
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  特攻隊として飛び立った彼は、自分が二度と母国の地
 を踏むことは無いと知り
  胸の痛みを感じつつも、生きている喜びを感じる。
  涙をこぼすことなく、恐れることなく彼は飛んだ。
  みんなの夢を守るために。
  戦いに行くのは自分一人だけでいい。
  愛と勇気だけを連れて行くから。
  幸せとは何か 
  何のために生きるのか
  その答えを知らずに生きるのは嫌だ。
  時は過ぎ
  彼は微笑みながら、特攻隊としての任務をこなした。
  まるで光る星が消え行くように。
  彼は微笑みながら飛んだ。
  みんなの夢を守るため。
 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
  あなたはこの歌の意味を知っていましたか?
  この歌にはこんなにも、深い意味が込められていたの
 ですね。
  きっとあなたの心に響いたはずです!
.
1945年1月2日、アメリカ軍の艦載機500機が台湾と沖縄を
 空襲した。
.
1945年3月17日、硫黄島が玉砕した。
.
1945年3月18日、アメリカ軍がベルリンを空襲した。
.
1945年3月26日、硫黄島で最後までアメリカ軍に抗戦してい
 た栗林中将配下の部隊が全滅した(硫黄島の戦い終結)。
.
1945年12月、上野の地下道で暮らす子供たちに行われた聞
 き取り調査。
.
  そして・・40年の時が流れ・・、
.
1985年、この年、日本が、半導体生産で、アメリカを抜い
 て世界一となった。
  この日本の台頭する前、世界の半導体市場は、もともと、
 アメリカのテキサス・インスツルメンツ、モトローラ、
 インテルなど専業メーカーの独壇場だった。
  そして、1970年代後半から、日立、NECのほか富士
 通、三菱電機、東芝などの日本勢が台頭した。
  1985年になって、日本の半導体生産は、アメリカを抜い
 て世界一になり・・日本が悪者になり・・貿易摩擦が起き
 た。
  (自分が一位の時は、何の配慮もなれていなかった)
  今(2017年)、日本の半導体は見る影もないが・・
  当時、『産業の米』と言われ、半導体は花形産業だった。
.
1980年代中頃、巨大な『双子の赤字』を抱えるアメリカ
  アメリカの赤字は双子となった・・、
  そのアメリカから、日本は、この年代の中頃から、ア
 メリカの猛烈な攻撃を受け始めた。
  この時のレーガン政権は、「双子の赤字」(巨額な財
 政赤字と経常赤字〉を抱える様になっていた。
  原因は、レーガンが『大減税』をして、しかも、財政
 支出を『どんどん増やし』、無責任なマクロ経済政策を
 していたからだった。
  (レーガンの無責任なポピュリズム政策が原因・・自分
 が悪い)
  そして、日本の貿易黒字が悪いのだと取り上げた・・攻
 撃した。
  貿易摩擦を発生させた。
  正々堂々と戦わずに・・『陰険な方策を取る』・・、
  アメリカの日本締め上げ策は『円を急激に切り上げて、
 日本の輸出産業を締め上げ』、
  また、大蔵省と日銀に、『猛烈な圧力』をかけて、金融
 を超緩和させる」のだった。
  ジャイアンの「のび太君いじめ」のごとくだった・・
.
1986年12月、日本が「バブル」となった(~1991年2月)
  (参考)バブル景気は、景気動向指数(CI)上は、
    1986年(昭和61年)12月~1991年(平成3年)2月
    までの51か月間に、日本で起こった資産価格の上
    昇と好景気、および、それに付随して起こった社
    会現象。
     情勢自体は、バブル経済と同一であり、平成景
    気や平成バブル景気とも呼ばれる。
  日本に「バブル・エコノミーが出現」し、「資産市場
 は急騰」し、そして、「急落」した。
  そして、「大量の不良債権が発生」し、「金融危機」
 となった。
  可哀想に・・「中小企業が、大量に倒産」した。
  これは、『日本のかじ取りが悪くてなったのではなく』、
  アメリカから、「日本は、貿易黒字をアメリカ相手に、
 せっせと稼いでいる」・・と、言われ、
  アメリカが「双子の赤字」を抱えるのは、日本が悪い
 からだ・・と、レーガン大統領に一方的に言われ・・、
  「円を急激に切り上げるという策を取らされ」、
  また、「日本の輸出を締め上げられ」・・、
  そして、「金融を超緩和させられた」・・その様な結
 果から起きた事だった。
  『まったく外的要因(アメリカ)からの発生』だった。
  日本の国内需要を『無理やり』人為的に膨張させられ
 た。
  日米の貿易差額を縮小できるから・・という政策だっ
 た。
  実際、これは間違いだった。
  アメリカの「税制」と「財政」を適正・健全化させる
 というアメリカ自分の足りないことに目をつむって、他に
 のみ原因を求めるという状況、アメリカの態度だった。
  この様に、アメリカは、「通商政策」に、そして、「
 金融政策」に、「外交政策」に、「国防政策」等に・・
 一方的にアメリカの圧力によって決めさせることをした。
  明治が、不平等条約で悩まされていたが・・相変わらず、
 日本は、アメリカの内政干渉を受けていた・・圧力を受け
 ていた。
  日本は『大きなダメージを受けた』。
  この後遺症から脱却するため「失われた二十年」とか、
 「失われた三十年」とかの・・四苦八苦をする羽目とな
 った。
  そして、この時、結果的に、ひどい事になるのだが・・、
  日本は、バブルに浮かれて、アメリカ資産を買いあさ
 った。
  例えば、1989年(平成元年)に、三菱地所が、約2200
 億円で買収したニューヨークのロックフェラーセンター。
  当時の日本企業による国外不動産の買い漁(あさ)り
 の象徴となった。
  しかし、バブル後に熾烈(しれつ)な状況となり、結
 局、日本の買い漁った資産は、アメリカに安く買い戻さ
 れて、日本は大きな損失を出し、アメリカに『大金を貢(
 みつ)ぐ』こととなった。
  アメリカは頭が良い・・
.
2013年10月13日、やなせたかし氏が逝去された。
  享年94歳。
  アニメ『アンパンマン』の生みの親。
  本名:本名:柳瀬 嵩(1919年〈大正8年〉2月6日~
 2013年〈平成25年〉10月13日)
  2013年8月に、体調を崩して入院し、
  2013年10月13日、午前3時8分、心不全のため、東京都
 文京区の順天堂大学医学部附属順天堂医院で死去された。
  死去の知らせは、一般には、翌々日の15日に公表された、
  出身地の新聞である高知新聞は号外をWebで公開した。
  テレビのニュースでは、2013年の6月に、「アンパンマ
 ン」のアニメ製作のスタッフらに、「来年までに俺は死
 ぬんだよね。朝起きるたびに少しずつ体が衰弱していく
 のが分かるんだよね」「まだ死にたくねぇよ。(ようや
 くアニメが)面白いところへ来たのに、俺はなんで死な
 なくちゃいけないんだよ」と発言するやなせ氏の姿が繰
 り返し放送された。
  同日、NHKも、夜のニュースで、アンパンマンのアニメ
 を暫らく流すなどして逝去を惜しんだ。
  やなせたかし氏には、1991年に、勲四等瑞宝章が贈られ、
 その功を讃えられている。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
 

2017年2月27日月曜日

(増補版)501E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年11月~1889年12月)

題:(増補版)501E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年11月~1889年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1889年11月29日、地租条例施行規則公布。
1889年11月30日、地租条例改正公布。
  地租改正条例公布される
  地租改正の際に行われた測量結果は地券に記され、こ
 の内容は地券台帳にまとめられた。
  地券は、土地所有を公証し、かつ、納税義務者を表示
 するものとされた。
  また、土地売買の法的手段であるとされたことから、
 土地の流通、および、土地金融はすべて地券により行わ
 れることとなった。
  1885年の登記法成立後は、登記簿が土地所有を公証す
 るものとされた。
  また、地券台帳自体も、1884年に、創設された土地台
 帳制度に引き継がれ、
  1889年に、事実上廃止されて、以後、地租の収税は、
 この土地台帳によって行われた。
1889年11月、東京~大阪間に自動電信が開始された(10月
 説あり)
  東京~大阪間で、ホイートストンモールス自動電信機
 の使用が開始された。
  (別史料)1899年、長距離通話始まる(東京~大阪間)
1889年11月、大日本帝国水難救済会が創立された。
  現在の公益社団法人日本水難救済会(にほんすいなん
 きゅうさいかい)で、公益社団法人である。
  海や海浜での遭難者や船舶等を救助するボランティア
 の団体の全国法人。
1889年12月1日、第十八国立銀行が移転。
  東濱町より築町の俵物役所跡のルネサンス様式で洋風
 煉瓦造2階建のモダンな新社屋に移転し、営業を開始し
 た。
  1890年に、国内外初の第1号支店として、朝鮮国仁川
 に支店を開設した。
1889年12月10日、閣議で、条約改正交渉の延期を決定した。
1889年12月11日、北海道炭鉱鉄道会社が開業した。
1889年12月13日、総理大臣の臨時代理である三条実美は、
 アメリカ・ドイツ・ロシアの駐在公使に、調印済新条約(
 調印した航海条約)の実施延期を請求するよう訓令した。
  1889年、大隈重信外相が、アメリカ・ドイツ・ロシア
 との間に新条約を調印したが、
  大審院に限り「外国人裁判官の任用を認めていた」の
 で、『新聞日本』を基盤に持つ東邦協会メンバーを皮切
 りに、国民協会を率いる保守派の品川弥二郎や鳥尾小弥
 太、民権派の星亨を中心として、再び、国内に反対運動
 が起きた。
  大隈は、玄洋社の活動家に、爆弾を投げつけられて負
 傷したため交渉は中止となって新条約は発効せず、
  また、その後も、青木周蔵外相の交渉が、1891年に訪
 日したロシア皇太子(ニコライ2世)が、大津で警護の警
 察官に襲われて負傷(大津事件)したことにより挫折す
 るなど、条約改正は難航して行く。
1889年12月14日、条約改正交渉の失敗を受けて、大隈重信
 が、辞表を提出した。
1889年12月17日、京都府画学校を市へ移管し、京都市画学
 校となる(現:京都市立芸術大学)
  1880年に創設された京都府の画学校(美術学部)が起
   源で、
  1880年6月、太政大臣・三条実美により、「日本最初京
   都画学校」と命名された。
  1880年7月、京都御苑内の旧准后里御殿仮校舎で開校式
   が行われた。
  背景は、東京遷都によってパトロンが喪失し、また、
 文明開化による伝統文化の冷遇があったことから、円山
 派・四条派といった京都画壇の諸派が危機に陥った。
  この美術を立て直すために、市民の間から、美術家養
 成機関としての近代的な「学校」を作ろうという声が高
 まり、創立された。
  また、同様に、文明開化で低迷していた京都の主力産
 業である伝統工芸の近代化を支援し、
  それに密接な関係がある美術界を盛んにする目的もあ
 った。
  画学校は、修業年限3年で、文人画や大和絵、狩野派な
 ど日本の美術の諸派を学んだ。
  また、殖産興業のために工芸品の意匠・デザインに関
 する教育も行った。
  そして、西洋画を導入したことは、当時としては画期
 的だった。
  西洋画は、当初、日本では、芸術文化の類というより
 は、建築などの図面を描く工業技術として、京都府画学
 校創立に先立つ、1876年、工部美術学校などで導入され
 ていた。
  工部美術学校が、アーネスト・フェノロサらによって
 西洋美術学習・研究の発展を妨害され、後発の東京美術
 学校もフェノロサや岡倉天心の意向により、ながらく西
 洋画科が置かれない事情があった。
  京都画壇の中心地で、また、京都の陶磁器、漆工芸、
 染織などの地場産業に多くの人材を供給し、活発化させ
 た。
  明治以来、多くの日本画家、洋画家、版画家、陶芸家、
 染織家、デザイナー、音楽家、現代美術作家を養成して
 きた。
  京都市の財政難から国立大学への移管もあったが、京
 都市民の熱望から窮状を救おうと、古くからの町衆や旧
 家などから存続のための多数の寄付を受け、音楽短大と
 統合し、現在に至る市立大学としてある。
1889年12月19日、板垣退助が、旧自由党員と協議して糾合
 し、大阪で愛国公党の結成を決定した。
  板垣退助は総理。
  大同協和会は、同日、独自の自由党再興を決定した。
1889年12月20日、大同倶楽部が、愛国公党不参加を決定し
 た。
1889年12月21日、九州鉄道の博多駅~千歳川駅間が開通し
 た(12月11日説あり)
  初代の博多駅は、九州で最初の鉄道である九州鉄道(
 初代)が、1889年12月11日に、博多~千歳川仮停車場(
 久留米駅の北側、筑後川の北岸)間に開通時に開業した。
1889年12月24日、大隈重信外相が、辞任した。
1889年12月24日、第一次・山県有朋内閣が成立した。
  そして、三条実美と大隈重信の免官が発令した。
  三条暫定内閣が総辞職して終了し、山県有朋が首相に
 任命され、第1次山県内閣が成立した。
  同日、内閣官制も公布され内閣制度も整う。
  山県内閣(氷川清話)
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  (今日の言葉)
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  題:マッカーサーは、日本の戦争は『自衛の戦争だった』と言った・・、
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紀元前11世紀後半、中国の周は、紀元前11世紀後半に成立
 した。
  そして、紀元前771年に滅亡した。
  今、金文(きんぶん、青銅器に彫られたもの)や、竹
 簡などの史料が発掘されて、その古代王朝の実像が、少
 しづつ明らかになって来た。
  2代の成王の時、周王朝の拡大は始まった。
  周王は、諸侯を統合する手段として、各地で諸侯らを
 参加させ、池水で「合同型儀礼」を行なった。
  これは、殷の狩猟・漁撈(ぎょろう)儀礼を引き継い
 だもので、宝貝などの賜与品が主君とのつながりを深め
 るために配られた。
  6代共王のあたりから、周王朝の軍事的な支配領域拡大
 が頭打ちとなり、儀礼も「冊命儀礼」(王が臣下に職務
 を任命)に変化する。
  10代の王は暴君として追放され、紀元前771年、12代幽
 王の時代に周は滅亡する。
  周の王族が洛陽に東遷して東周となり、500年生き延び
 るが、もはやリーダーとしての力は残っていなかった。
  そこで、諸侯の中の有力者(春秋5覇)が台頭した。
  乱世を嘆いた孔子は、礼制の再編を試みる。
  儒家は、西周の祀を復活させたと主張したが、実際は、
 当時の東周の礼制を元に、儒家が文献に散見される関連
 の記述をたよりに、西周時代の祀を修復、もしくは創造
 したものだった。
  (参考)祀:し、神や先祖を祀(まつ)る。祀り。
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1900年頃、大掃除の始まり。
  この年に制定された「汚物掃除法」(明治33年法律31
 号)は、家屋の大掃除を国民に義務付けた。
  同法は、1954年(昭和29年)7月1日まで施行され、
  その後、1971年(昭和46年)年9月24日までは、「清掃
 法」(昭和29年法律72号)が施行された。
  同法16条は、「建物の占有者は、建物内を全般にわた
 って清潔にするため、毎年一回以上、市町村長が定める
 計画に従い、大掃除を実施しなければならない」と規定
 していた。
  同法は、「廃棄物の処理及び清掃に関する法律」(昭
 和45年12月25日法律137号)の施行に伴い廃止され、
  現行法には、大掃除に関する規定はない。
  専門者は、自宅の大掃除をしなくなったことが、日本
 人の住宅に対する意識を変え、
  DIYの盛んな米国などと比べて、住宅の維持管理や
 リフォーム、さらには、既存住宅流通に対する消極的な
 傾向の一因にもなっていると言われている。
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1939年6月、日本のユダヤ人保護にならって、駐ベルリン
 満州国公使館書記官・王替夫が、ユダヤ人の方々を含む
 難民にビザ発給した。
  杉浦千畝の倍以上のユダヤ人の方々へビザの発給をし
 ていた。
  なお、杉原千畝より早くからやっている。
  (1940年5月まで、ユダヤ難民含む合計12,000人以上)
  杉原千畝は、1940年。
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1941年8月、アメリカが、第2次石油禁輸をして、対日輸出
 を全面停止とした。
  日露戦争以後・・、日本は、種々、痛めつけられてい
 た。
  そして、「日本からアメリカへの輸出も完全に止めら
 れた」。
  日本からの輸出は全面的に排除された。
  日本経済は、どん底となった。
  また、満州は、日露戦争でロシアから移譲されたもの
 で、侵略で得たものではないのに、
  そして、ヨーロッパ列強の様な、ただただ利を貪(む
 さぼ)る行為と違い、
  日本は、自らの日本の資本を持ち込んで、その資本を
 投下し、満州の国造りをした。
  また、満州族の方々の地なので「満州国の建国」の手
 助けをした。
  この満州について、アメリカは、国際連盟という名前
 を使って、注文を付けた。
  そして、アメリカの、自国のハルを国際連盟の調査団
 だとして行動を始めた。
  日本が投資して利益が上がるようになった努力も無駄
 になった。
  イギリスやアメリカは、ただ植民地経営で、収奪する
 だけだったが、日本は満州の方たちの為にもなる社会資
 本充実もした。
  また、満州において、日本の行なった正当な投資鉱山
 や鉄道などの経済活動にも、アメリカは注文を付けた。
  日本を潰したいアメリカは、日本が、資本投下して作
 った満州鉄道に並行して、アメリカは、鉄道を作るとい
 う行為をした。
  そして、中国を繰って「満州で日本人が土地を買えな
 い」という法律を作った、また、「借りることさえもで
 きなくされた」。
  さらに、「日本人が、鉱山開発をしては駄目」という
 法律も作った、
  日本は、大きな投資を鉱山にしていた。
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1945年10月22日、GHQマッカーサーによって、日本へ「
 教育4大指令」が出された(~1945年12月31日)
  「日本教育制度に対する管理政策」「教職追放令」「
 神道指令」「修身、日本歴史及び地理に関する件」であ
 った。
  GHQは、日本の教育の変革を大きな課題としていた。
  「日本教育制度に対する管理政策」で、「自由」や「
 人権」などの「民主教育」を教師・学生に指導する一方
 で、「軍国主義」「封建主義」などの国威発揚につなが
 る過去の教育内容を禁止した。
  「教職追放令」では、全国約45万人の教師のうち、11
 万5778人が自ら辞職し、また、約5200人が教職を追放さ
 せられた。
  「神道指令」において、「神道的なもの」を取り除こ
 うとした。
  「修身、日本歴史及び地理に関する件」では、明治以
 来の日本人が使ってきた過去の修身・地理・歴史教育の
 教科書、および、教師用参考書の再使用を「封建的制度」
 としたレッテルを貼って一切禁止した。
  この為、日本の地理や歴史が、子供たちに教えられな
 くなった。
  教育改革以降は、戦前の「国史」ではなく「日本史」
 と呼ばせて、GHQは検閲をした。
  「国のあゆみ」や「公民教科書」などが使わさせられ
 た。
  また、真実であっても、GHQにとって「不都合な真
 実」は、異なるものに書き換えられるか、墨で「黒塗り」
 させられた。
  例えば、それまで偉人として、戦前まで教えて来た「
 楠木正成」「吉田松陰」「東郷平八郎」の3人は、「豊田
 佐吉」「ガリレオ」「野口英世」に書き換えさせられた。
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1946年5月3日、極東国際軍事裁判所開廷
  東京裁判(~1948年11月12日)
  東京裁判で、日本は、「侵略戦争をした」と追及され
 たが、『アメリカなどは、侵略戦争と立証する事は出来
 なかった』。
  裁判でも確かめられたように、日本は侵略戦争をした
 のではない。
  そして、さらに、マッカーサーが、日本占領を終え、
 アメリカに帰国し、
  1951年(昭和26年)5月、アメリカ上院の軍事外交合同
 委員会で証言したように・・「日本の戦いは、自衛のた
 めの戦いであった」。
  ドイツの場合は、戦争の始まる前から、侵略の意図を
 持って、
  開戦の3年も前の1936年に、ヒトラーを中心にナチス指
 導者たちによる、明確な共同謀議の記録もある。
  日本には、当然、その様なものはない。
  そして、ナチスのその記録には、最初にチェコスロバ
 キアを侵略し、次にポーランド、そしてフランス、最後
 にソ連を植民地にする・・という侵略計画が記載されて
 いる。
  日本には、勿論、その様なものもなく、共同謀議の記
 録もない。
  アメリカなどの連合国側は、ドイツの様な「一貫した
 侵略の意図と侵略計画がある」としたが、立証する事は
 出来なかった。
  その様な意図や計画が無いのであるから当然である。
  しかし、マッカーサーは、戦後の占領政策の中で、必
 死に、日本人へ、「あの日本の戦争は、侵略戦争だった」
 と言い続けた。
  日本は侵略したのだとマインド・コントロールし、洗
 脳した。
  しかし、マッカーサー自身は、日本の占領統治を終わ
 って、アメリカに帰国し、アメリカ議会で証言に立ち、
 「(日本の戦争は侵略戦争ではなく)、日本は自衛のた
 めに戦った」と証言した。
  東京裁判の時は、侵略戦争だと追及したが・・、
  追求された日本の被告たちは・・、
  「その様な上等なものは、まったくありません」と、
 きっぱり否定した。
  また、日本は、法律を犯した殺戮は一切、一つもして
 いない。
  アメリカは、国際法違反の「一般市民の殺戮」をあち
 こちでやっている。・・が、少しも問われることもない。
  犯罪行為をした容疑者のままでいる・・、
  日本は、無実の罪だが、服役し終わっている状態だ・・、
  日本は、アメリカのルーズベルトの策にはまって行っ
 た。
  侵略の意図はない。
  戦争は、常に、収めたいという中にあった。
  日本は、最初から、アメリカとの戦争は勝つことはで
 きないという分析結果を持ち・・そして、その様に認識
 していた。
  日本から好んで戦争を仕掛ける事はしない。
  そうせざるを得ない悲惨な窮地に、アメリカのルーズ
 ベルトは、日本を追い込んで行った。
  「させられた戦争」を、「せざるを得なかった」。
  逆に、アメリカのルーズベルトには、1941年夏(昭和
 16年)に、日本を「戦争に徴発しよう」とした未遂事件
 がある。
  アメリカ巡洋艦を、日本の領海内に侵入させ、、日本
 の軍艦と衝突させようとした。
  一触即発の国どおし、こんな時に、こんな事が起きれ
 ば、戦争に至ることは必定(ひつじょう、そうなると決
 まっていること)だった。
  ルーズベルトという人間は、この様な事をしようとす
 る人間だった。
  そして、インドのパール判事が弁論したが・・、
  「こんな最後通牒の様な文書を出されたら、モナコで
 さえ武器を持って立つ」・・と・・、
  「日本政府が戦争したのは当然だ」と言った。
  それほど、アメリカは、強圧的な、上からの態度の内
 容の「ハル・ノート」だった。
  ことは、ルーズベルトの思惑通りに運ばされた。
  交通事故ではないが、一方が、完全に100パーセント悪
 いという事はない。
  しかし、アメリカは、うまく立ち回り、アメリカの責
 任、自分の責任はとろうとしない。
  アン・フェアなアメリカとなっている。
  日本は、種々、いじめられ、痛めつけられ耐えたが、
  その中でも・・大きく痛かった事項は、「日本からア
 メリカへの輸出を、すべて止められた」ことだった。
  日本からの輸出は、「全面的に排除」された。
  日本経済は、どん底となった。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive