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2015年3月13日金曜日

(増補版)40B:気になった事柄を集めた年表(1225年~1232年)

 題:(増補版)40B:気になった事柄を集めた年表(1225年~1232年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
  天変地異が続く世の中となっている。大飢饉も起こる。
1225年10月29日、朝廷、新制36条を下す。民の事を思う
 徳政の意味を含んだ宣旨だった。
1225年12月2日、北条時村(ときむら、武将)が没した。
  歌人としても才が深く、新勅撰和歌集などに詠歌が収
 められている。
1225年12月21日、幕府(北条泰時)が評定衆を置く。
  執権とともに政所に列し、諸般の政務を合議・採決し
 た幕府の最高機関。その数は、11人~15人くらい。
  評定衆には、北条一門のほか、大江・中原・三善・二
 階堂・三浦・千葉・結城など法律に詳しいものと豪族層
 から選ばれた。
  これは、執権独裁を防ぎ、御家人、特に、豪族層(民
 に近い層)の利益を守るためにも必要として行われた。
  独裁防止のために、この様な機関を自ら創設したとい
 う日本人の素晴らしさがここにもある。
  最高の地位にある執権の同席する前で合議し、採決す
 るという議会制である。
  ヨーロッパなどには見られない政治体制で、ヨーロッ
 パの独裁的流れと対比し、その差が際立つ。
1225年12月21日、六波羅・鎮西両探題にも設置された。
1226年1月27日、九条兼実の孫(道家)の子・頼経を将軍
 とする(第4代将軍の将軍宣下)→将軍の有名無実化(宮
 将軍・みやしょうぐん、皇族将軍、親王将軍とも称される)、
  しかし、朝廷への尊重や親和が深まった、また、幕府
 存続の正当化もあった。第4代将軍・九条頼経(1226・
 1・27~1244・4・28 1256年没)
1226年、彫刻:鞍馬寺聖観音像(京都、定慶作)
1226年7月、鎌倉に、7月だというのに霜が降った。
1226年8月26日、太政官文殿、焼失する。
  文殿(ふみどの):太政官や院庁において、公文書や
 典籍の管理が行われた場所。
  この焼失のあと、官務文庫にその役目が移されている。
1227年、北条時頼が生まれた(1227年~1263年)、第5
 代執権となる。
1227年1月、正月、道元が肥後河尻に帰国し、曹洞宗を伝
 えた(1228年説がある)。
  禅宗が、急速に武士の間に広まった。
1227年4月22日、内裏、焼失。
1227年、西夏が、チンギス・カンに滅ぼされた。
  西夏は、中国・宋の北西に位置し、古代より居た羌(
 きょう)族のタングート族の国。宋の支配下にあった。
  独自の文字である西夏文字を持っていた。
  皇帝が、1038年に、国を建て、国号を大夏にした。
  後に、中国の金に服属し、北宋が滅びると広大な領土
 となった。
  そして、モンゴルが強大になるとモンゴル族に依存す
 る政策を採用した。
  しかし、軍事行動が国を疲弊させ、飢饉などで貧困が
 続くと民衆の心が離反、そして、政治腐敗や、皇帝が民
 を顧みないことなどがあり、
  モンゴルが、1205年に、西夏侵攻を開始し、何度かの
 戦いの後、1211年に、宮廷クーデター発生したりし、毒
 殺も横行し、滅亡に至った。
  因みに、西夏文字は、長い間、解読できなかったが、
 日本人の西田龍雄氏によって解読がなされた。
1227年8月18日、チンギス・カンが没した(1167年頃~
 1227年)。
  中国・満州あたりの回鶻(かいこつ、テュルク系遊牧
 民族国家)を起源とし、この国が解体の後に、バイカル
 湖方面へ南下し、モンゴル高原の北東部に広がり、11世
 紀には君主を頂き、有力な集団に成長した遊牧の民の国
 となった。
  チンギス・カンは、この民のモンゴル部に生まれた。
  西夏遠征や、金領の一部への侵攻が、最後の遠征とな
 った。
  1227年8月18日、チンギス・カンは陣中で倒れ、死去
 した。そして、モンゴル高原に葬られた。
  その後、その遺骸は故郷へと帰ったが、その葬られた
 場所は、重要機密とされた。
  「東方見聞録」によれば、その遺体を運ぶ隊列を見た
 者は、機密保持のために、そのすべての人が殺されたと
 いう。
  また、埋葬地の痕跡を消すために、1000頭の馬を走ら
 せ、あたり一帯の地面を完全に分からないようにし、
  また、この様な事で、チンギスの死が敵国に知られれ
 ば攻められる恐れがあると考え、固く公表はしないよう
 にとされた。
1227年、チンギス・カンの死後も侵略の嵐はやまず・・、
  ポーランド・ハンガリーなどの東ヨーロッパ諸国、
  そして、イランより地中海東岸トルコに至る・・広大
 な地域を手中に収めた。
  キリスト教の甘い蜜の滴る国、乳の流れる国とある理
 想の国とされた地・カナン(イスラエル)も、この東ア
 ジアの国の軍門に下った。同時に、この東アジアの国の
 文化や宗教もこの地に流入し、東アジアの血も入った。
1228年、道元が、28歳の時、曹洞宗を開いた。
1228年7月、大風雨により京都の鴨川が氾濫するなどの天
 災が続いた。
1230年6月18日、北条時氏(ときうじ、泰時の長男)が、
 没する。
1230年7月16日、諸国に霜が降り、「ほとんど冬天のごと
 し」の記録がある。
  また、天候不順による大凶作が全国を襲った。
1231年、四条天皇が生まれた(1231年~1242年、87代)
1231年春、大飢饉が起きた。餓死者が続出した。鎌倉時代
 を通じて最大規模と言われている。
  また、この頃、武家と領家との間に土地の所領問題な
 どの係争が全国的に続出した。
1231年8月、蒙古の高麗への侵入が始まった(第1次高麗
 侵入)。高麗は首都を移してまでして戦った(約40年間、
 1231年~1273年)。
  朝鮮半島を統治していた高麗王朝へ、モンゴル帝国は、
 繰り返して戦争を仕掛けた。高麗の国土は荒廃した。
  この後、80年間にわたり、高麗はモンゴル(元朝)の
 支配下に置かれた。
1231年10月11日、土御門上皇、阿波に崩ず(1195年~
 1231年)
1231年11月3日、朝廷、新制42条を下す、寛喜新制(かん
 ぎしんせい)という。
  前年から始まった寛喜の飢饉に伴う社会の危機・不安
 に対し、後堀川天皇が、朝議を重ねて制定した。
  徳政の推進や、治安の維持に配慮したもの。
1232年、親鸞が、関東を発し京都へ向かった。
1232年5月14日、北条泰時を中心にして御成敗式目(貞永
 式が51条)を制定された。北条氏の政治が固まった。
  これは、幕府の法治主義(法律に基づいて国を治める
 こと)のもと、敬神崇仏、所領、罪科、決罰など、訴訟
 裁判に関する51ヶ条を制定したもの。武家法の確立を図
 るものであった、また中で、女性を尊重している所が素
 晴らしい。
  日本は、この様に、早い時代から女性の地位をしっか
 り確認していた。ないがしろにはしていなかった。
  また、北条泰時から、1225年に命を受けた三好康連
 (やすつら)が、御成敗式目の中心人物の一人として携
 わった。
  泰時・執権在位18年→御家人の帰伏。
  連署の設置:執権を補佐し公文書に書名。
  評定衆設置:重要政務、訴訟裁判(11人)
  制定の目的・幕政と訴訟裁判の基準、習慣の成文化→
 後に武家家法の範となる。
  内容:所領・土地訴訟についての規定、守護・地頭の
 職分と義務の規定、女性地位の尊重(女地頭、女子の相
 続権)。
  対象:当初は関東御家人→のちに全国的。
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2015年3月12日木曜日

(増補版)39B:気になった事柄を集めた年表(1212年~1225年)

 題:(増補版)39B:気になった事柄を集めた年表(1212年~1225年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1212年、鴨長明が「方丈記」を記したとされる。
  書き出しの以下の文は有名、
  「ゆく川の流れは絶えずして、しかももとの水に非ず。
 よどみに浮かぶうたかたは、且つ消え且つ結びて、久し
 くとどまりたるためしなし」。
  隠棲文学とか、無常観の文学と言われているが、卓見
 して見通しているとも言える。大きく歴史を見て、その
 中の人間を見れば、真実を言い当てているとも言えるだ
 ろう。
  この記述の中で、1177年の都の火災、1180年に都で発
 生した竜巻、そして、その直後の福原京遷都、そして、
 1181年から1182年の飢饉、1185年の都の大地震と、実
 に多くの天変地異が起きている。
  この年代は、以下にも多くの天変地異を記しているが、
 その様な事が多かった時代の様だ。
1221年5月、後鳥羽上皇が討幕の挙兵をすると山田重忠(
 やまだしげただ、宮方の武将)は、水野髙康(みずのたか
 やす、尾張国の豪族)ら一族とともに、院宣に応じて朝廷
 方として起ち、参じた。
1221年5月15日、尼将軍と言われた北条政子が御家人たち
 に対し檄(げき)と飛ばしている。
  「皆、心を一つにして奉るべし、これ、最後の詞なり。
 政大将軍(頼朝)の朝敵を征服し、関東(幕府)を草創
 して以降・・中略・・その恩すでに山岳よりも高く、溟
 渤(海)よりも深し」と。
  そして、宣旨は「ただ、相手を論じて非難していること
 に過ぎない」という事を話している。
1221年6月、朝廷方は幕府軍を美濃と尾張の国境の尾張川
 で迎え撃つことになり、重忠は墨俣に陣を置いた。
  しかし、朝廷側の武将の作戦・戦い方に齟齬(そご、物
 事がうまくかみ合わない事)が生まれる。
1221年6月15日、幕府軍が京に入り、承久の乱が集結する。
1221年7月13日、後鳥羽法皇を隠岐へ配流する。
  金槐集に以下の歌がある・・
  世のなかは つねにもがもな 渚こぐ あまの小舟の
 綱手かなしも     
  歌意:この世は無常だが、やはり常の世であってほしい。
  今まで波風もない好天に恵まれて、気の向くがままに漕
 ぎ進んでいた天の小舟(後鳥羽)は、(鎌倉幕府によって)
 阿摩の渚に繋ぎ止められ、悲歎の日々を送っている。
1221年7月21日、順徳上皇を佐渡国へ配流する。
1221年8月7日、幕府、京方公卿と武士の所領を没収し、勲
 功の将士にに付与する。
1222年2月16日、日蓮が生まれる(1222年~1282年)
1222年4月26日、幕府、承久の乱以後の守護地頭の処務(
 しょむ、処理すべきこと)を定める。
1222年5月28日、幕府、六波羅に命じて代官を派遣し、諸
 国守護地頭の濫妨(らんぼう、暴力で奪い取ること)を
 糾明させる。
1222年7月、鎌倉、大地震。
1222年、蒙古、アジア全域に勢力を広める。
1223年、運慶が没した(1151年頃~1223年)
1223年、承久の変の2年後のこの年に、幕府に敵対した公
 卿方の荘園に朝廷の宣旨によって補任された「新補地頭」
 に対し、その収入の率が定められた。新補率法(しんぽり
 っぽう):早く言えば、新しく地頭になった人たちの給料
 を定めた事。
  鎌倉幕府は最初の武家政権であるが、幕府には、優秀
 な人材が居た様だ。色々な法律などを定められる事が行
 き届いている感がする。
1223年1月23日、北条政子が、承久の乱以後に新補された
 守護地頭らの処務非違(ひい、検非違使の略)の注進(
 ちゅうしん、上申すること)を命令する。尼将軍が何か
 あったらすぐ言えと言っている。
1223年2月、僧明全・道元、入宋。加藤景正、これに随行
 する。
1223年5月、幕府、土御門上皇を阿波に遠流。
1223年5月14日、後高倉法皇、崩御する。
1223年5月22日、倭寇が、金州(かつてあった中国大連の
 近くの州)を侵略した。
1223年6月15日、新補地頭の得分の率法を制定する。
1224年、親鸞が、浄土真宗を開く(1225年?)。
1224年1月、親鸞が、「教行信証」を著す(草稿本)(完
 成は、1247年とされている)。
1224年6月13日、三上皇を配流させた北条義時が急死した。
  「吾妻鏡」には衝心脚気とある、衝心脚気は、脚気に
 伴う心臓機能不全で、呼吸困難となり、苦悶して死に至
 ること多しとある。
  しかし、異説があり、近習に殺されたという事件が起
 きたのだという。
  その子の泰時が執権を継いだ(6月28日)。
1224年6月28日、北条政子が、北条泰時と時房を将軍の後
 見とした(宮将軍がいる)。幕府の実質的支配者は北条氏。
  第3代執権・北条泰時(1224・6・28~1242・6・15
  1242没)
1225年5月22日、この頃、季節外れの大雪、洪水、隕石な
 どの天変地夭が続いた。
1224年6月10日、承久の乱の幕府方の軍師であった大江広
 元(おおえのひろもと)が死去した。
  初めは、朝廷につかえる下級貴族だったが、鎌倉に下っ
 て頼朝の側近となり活躍した。
1225年7月11日、源頼朝の妻(正室)の北条(平)政子が
 死去した(1157年~1225年)。
  伊豆国の豪族の北条時政の長女。
  流人であった頼朝は時政が監視役であった(北条氏は
 平氏系であった)。政子は、その頼朝と恋仲になってし
 まう。
  義経と静御前の件で頼朝が憤慨したとき、政子は、頼朝
 をなだめて、「(私は)闇夜をさ迷い、雨をしのいで貴方
 の所にまいりました」と言ったという。
  時政も、この二人を認めたのだろう。そして、すぐ長
 女・大姫が生まれたという。時政も頼朝の重要な後援者と
 なった。
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2015年3月11日水曜日

(増補版)38B:気になった事柄を集めた年表(1214年~1221年)

 題:(増補版)38B:気になった事柄を集めた年表(1214年~1221年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1215年1月、北条時政が没した(1138年~1215年)
1215年6月、マグナ・カルタがイギリスで制定された。
  ジョン国王が、家臣たちに強制的に署名させられた。
  国王が、教会勢力を抑えたり、諸侯の勢力を抑えたり
 してきたが失敗した。
  新たな課税は貴族らの同意を必要とすることを国王に
 認めさせた。
  また、第1条は、キリスト教会は国王から自由である
 (国王は教会に干渉するな)・・とある。
  このジョン王に続くヘンリー3世の時代には、聖職者・
 貴族・州騎士・都市代表が国政を議すようになる。
1215年、栄西が没した(1141年~1215年)
1215年、フビライが生まれた(1215年~1294年)。
  モンゴル帝国創始者のチンギス・ハンの孫。
  首都を、1271年に、北京の地に移し、首都名を「大都
 」とした。
1215年、彫刻:興福寺龍燈鬼像・天燈鬼像(奈良、康弁作)
1219年1月27日、源氏が滅んだ。
  源実朝(3代将軍)が、右大臣拝賀式で、鶴岡八幡宮で
 公暁(くぎょう、2代将軍・頼家の次男)に襲われて落命
 した(1192年~1219年、27歳)。
  実朝は、政治に希望を無くし、風雅の道に生きた(虚位)。
  吹く風は 涼しくもあるか おのづから、山の蝉鳴き
 て 秋は来にけり、『金槐和歌集(きんかいわかしゅう)
 』所収。
  実朝は、鶴岡八幡宮に詣でた帰途、公暁に暗殺されたが、
 北条氏の傀儡(かいらい)同然だった。
  憂鬱(ゆううつ)な貴公子は、和歌に熱中し、少年の
 ころ献上された「新古今集」に多くを学んだ。
  上の歌は、新古今の藤原清輔(きよすけ)作「おのづ
 から 涼しくもあるか 夏衣 ひもゆふぐれの 雨の名
 残り」に学んでいるだろうが、較べてみれば実に素朴な
 歌。「蝉のなくをきて」とある。ひぐらしだろう。(朝
 日新聞、平成11年8月10日)
  実朝亡き後、後鳥羽上皇は、幕府内の政争を契機とし
 て、朝廷の勢力挽回を目指して、幕府の持つ地頭の任免
 権に対し、これを左右する院の権力を承認させようとした。
  しかし、上皇の期待に反し、北条義時は、これを手ひ
 どくはねつけ、逆に、弟の北条時房を兵1000と共に上洛
 させ、武威を持って拒否すると共に、再度に渡って、上
 皇の皇子の鎌倉将軍着任を強要した(宮将軍)。
  しかし、上皇はこれに応ぜず、承久の変の遠因となった。
1219年、チンギス・カンが西征を開始した。
  この1219年から1223年の、5年の間に、飛躍的に領
 土を広げた。1225年に帰還した。
1221年、後堀川天皇(在位、1221年~1232年)
1221年5月14日、後鳥羽上皇が、倒幕の兵を集める。
  承久の変につながる公武の対立:
  (1)幕府による荘園の拡大→旧勢力の不満が激化。
  (2)幕府の内紛→朝廷側の王朝国家再現企画。
  (3)後鳥羽上皇の討幕計画・北面の武士の他に西面
    の武士の新設、大社寺との提携(熊野・比叡山)
1221年5月15日、承久の乱。 
  朝廷側・後鳥羽上皇は、5月15日に、北条義時追討の
 院宣を下した。
  ここに古代貴族政権より中世・武士政権への変動の象
 徴的事件ともいうべき「承久の乱」が起こった。
  しかしながら、総勢19万余という圧倒的に優位な鎌倉
 の幕府方(御家人の安泰)の軍勢の前には、上皇軍・1万
 (在京・近国の武士)はもはや敵ではなく、戦いはわず
 か1ヶ月をもってあっけなく、幕府軍の勝利に終わった。
  変後の処理:仲恭天皇を廃し、後堀川天皇即位、三上
 皇の配流、院側所領3000ヶ所の没収。
  政治の革新:新補地頭の設置(戦功の恩賞→新補率法・
 11町に1町の免田・段別5升の加徴米)・六波羅探題の設
 置(京都の警備、朝廷の監視、三河以西の諸国御家人の
 総括)・太田文(守護に命じ諸国の土地台帳作成)。
  この戦いを伝える「承久記」には、京に乱入し、戦勝
 の勢いに乗じた関東武士たちの略奪・放火・殺戮・暴行
 は、さながら地獄の様相を呈したと記されている。
  乱後、義時は、後鳥羽上皇を隠岐に、順徳上皇を佐渡
 に、土御門上皇を土佐に配流し、倒幕派の主な公卿・武
 家は斬首の刑に処すという下剋上の様相を呈した。
  また、3000か所と言われる皇室領の荘園を没収し、御
 家人を新たに地頭に補任し、ここに幕府による全国支配
 が確立した。
  京都守護・伊賀光季を殺し、北条義時追討の宣旨・院
 宣を諸国に下した。
  新補地頭:承久の乱の結果、置かれた地頭をいう。
  北条氏は、後鳥羽上皇方の公卿・武士の所領3000か所
 を没収し、そこに御家人を地頭として新規に任命した。
  彼らは、管理地11町ごとに1町の免田と段別5升の加徴
 米の徴集が認められ、山野河海の税は領家と2分する事と
 なった。
  こうして、地頭の土地と農民に対する支配力は著しく
 強まった。
  六波羅探題:幕府は、成立当初、京都守護を設置した
 が、承久の変後、朝廷対策と京都の警護を重視し、六波
 羅探題を設けた。初代は北条泰時・時房である。
  以後、探題は北条一門から任じた。職掌も増加し、三
 河以西の国々の政務を担当したが元寇後、鎮西探題の設
 置(1293年)によって九州は管轄外となった。
  執権に次ぐ重職であった。
  氷川清話(勝海舟)には以下の様に記されている・・、
  「承久の変(朝廷が、自ら武力によって幕府の討滅を
 企てた)が起きた。承久の乱の時には、北条泰時が、単
 騎で西に馳せ向かえば、行くこと3日で10万騎が集まった
 とは、当時の兵站(へいたん)や募兵の事は、羨ましい
 ほど整っていたらしい。これは、平生、経済の事に注意
 していたからのこと。陪臣であっても9代も続き、しかも
 国は富み、民服したのは、もっともの次第だ。北条氏の
 栄えたのは、つまり倹のためで、その滅びたのは、おご
 りのためだ」・・と、
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2015年3月10日火曜日

(増補版)37B:気になった事柄を集めた年表(1200年~1214年)

 題:(増補版)37B:気になった事柄を集めた年表(1200年~1214年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1200年、道元が生まれた(1200年~1253年)。28歳の時、
  曹洞宗を開く。
1200年、幕府が、念仏宗を禁止した。
1200年、朱子が没した(1130年~1200年)
12世紀末~13世紀初頭、モンゴル帝国:チンギス・ハンが
 モンゴルを統一した。
13世紀、日本の家系で、13世紀と16世紀の2世紀を貫いて
 古代以来、信用しうる系図を持っているのは、皇室と宮
 廷貴族以外は、極めてまれである。
  近世以降の名家の系図は、この2世紀以前には、容易に
 辿れない。
  古代の名族に結び付く系図を持ってはいても、たいて
 いは、近世に、その家が興隆して後、作り上げたもので
 ある。
  例えば、徳川家が、清和源氏に結び付いているのも、
 1566年、家康が松平を徳川に改めた頃から、1603年、
 征夷大将軍の間にかけて作り上げて行ったものである。
  つまり、13世紀から16世紀は、容易に結びつかない
 のである。
  この2世紀の混乱の中で、古代以来の文物は滅び、あ
 るいは土着し、風俗化して、かろうじて命脈を保った。
1200年頃、彫刻:興福寺金剛力士像(奈良、定慶作)
13世紀初め、彫刻:東大寺俊乗堂重源上人像(奈良)
13世紀前半、彫刻:六波羅蜜寺空也上人像(京都、康勝作)
13世紀初め、クメール帝国(カンボジア):続いて13世紀
 の初め、クメール帝国の繁栄が絶頂に達したときに、今
 日に残る1辺約3キロの正方形をした第4次アンコール・
 トムが造営された。
13世紀前半、この50年間に、ヨーロッパで、70も の大学
 が設立された。
1201年1月、城長茂(じょうながもち、越後国の武将)・
 資盛、叛す。
1201年10月、源通親(みなもとのみちちか、公卿)死す。
1201年、彫刻:東大寺八幡殿僧形八幡像(奈良、快慶作)
1202年7月22日、頼家が、従二位に叙され、征夷大将軍に
 宣下される(将軍になる)(1202・7・22~1203・9・
 7、1204年没)
1203年8月、頼家の病気を理由に、関東28ヶ国の地頭職、
 および、総守護職を子一幡に、また、西国38ヶ国の地頭
 職を弟千幡(実朝)に譲らされた。
1203年9月2日、北条時政が、比企氏を滅ぼす。
  比企能員(よしかず)は、源頼家とはかって北条氏を
 滅ぼそうとした。
  北条時政は、能員を自宅に呼び出して謀殺した。
  頼家の将軍位を廃して、伊豆国修善寺へ追放した(比
 企能員の変)
  それを、比企能員から見れば、「頼家が、急病になっ
 たのを理由に、一幡と千幡に譲らせた時政に対して憤っ
 ていたので、病回復した頼家と時政追放を相談していた」。
  これが時政に漏れた。
  頼家に嫁した能員の娘が一幡を産んだので、北条氏は、
 比企氏の勢力増大を恐れていた。
  能員謀殺の後、一族も滅ぼされた。
  北条氏による頼家の長子一幡(いちまん)とその外祖
 父比企能員(ひきよしかず)の暗殺。
1203年9月7日、源実朝が将軍となる。
  第3代将軍・源実朝(1203・9・7~1219・1・27、
 1219年没)。
  頼家の幽閉により、その弟千幡(せんまん・実朝)が、
 将軍就任。第1代執権・北条時政(1203・9~1205・7・
 9、1215年没)
1204年7月、2代将軍・源頼家(1182年~1204年)が、
 修善寺にて暗殺された。
1204年、キリスト教の十字軍(第4回)が、コンスタンテ
 ィノーブルを占領した。多くの略奪品を奪った。
  その略奪品は、ベネチアに運び込まれた。
  香料・宝石・織物などは、莫大な利益をベネチアにも
 たらした。略奪品の商売の都と化した。
  キリスト教に偏するNHKは、このベネチアをただた
 だ讃美するだけで、この様な実態は、まったく放送しな
 い。
  そして、この十字軍のコンスタンティノーブル占領の
 影響で、コンスタンティノーブルの人々は、西のローマ・
 カトリックが、異端の地とみなしたことに驚き、敵対の
 関係となった。
  コンスタンティノーブルの目は東に向いた。
  そして、スラブ人の教化が進み、キエフ公国のキリス
 ト教化、そして、ロシアに至った。
  ロシアは、ギリシャ正教を国教とした(ロシア正教、
 1547年)。
1205年、畠山重忠(はたけやましげただ、武蔵国二俣川、
 現神奈川県の有力御家人)が殺された。
  北条氏による政敵打倒。(畠山重忠の乱)
1205年、北条義時(ほうじょうよしとき、武将、伊豆国の
 豪族、北条時政の次男)が政所別当(執権)となった。
  北条氏は、執権職として政権を得て、事実上の最高権
 力者となった。
  次第に、御家人による荘園の支配を強め、幕府の実勢
 力を拡大していった。
  このため、朝廷方が支配していた土地は、段々と幕府
 に奪われ、経済的基盤を削減されていった。
  これは、皇室を中心とする貴族階級の人々の生活を支
 えた最大の財源が皇室領の荘園群であった。
1206年、アイバクが北インドを統一した。最初のトルコ系
 イスラーム王朝(マムルーク・スルターン朝)。
1206年、蒙古で、ジンギス・カンが即位した(在位、
 1206年~1227年)
  ジンギス・カンが、全蒙古を統一して帝国の皇帝とな
 り、直ちに大規模な侵略を開始した。
  モンゴル帝国:1206年に、クリルタイという会議で
 チンギス・ハンという称号を贈られた。
  以後、世界征服に乗り出し、チンギス・ハン以後も続
 けられ、ユーラシア大陸に、空前の大帝国が建設された。
  その後、モンゴルと中国本土以外は、オゴタイ(西北
 モンゴル)、チャガタイ(中央アジア)、イル(イラン
 地方)、キプチャック(南ロシア地方)の4つの汗国に
 分けられた。
  5代皇帝フビライ・ハンの時、中国に元朝を建て、以後、
 モンゴル帝国は分裂状態となった。
1207年~1210年、建築:興福寺北円堂(奈良)
1208年頃、彫刻:興福寺北円堂無著像・世親像(奈良、運
 慶作)
1211年夏、この年の夏は、大雨が降り続き、被害が相次い
 だ。
  鎌倉幕府の3代将軍・源実朝は、持仏堂の本尊に祈っ
 て、一首をしたためた。
  「時により すぐれば民の なげきなり 八大龍王(
 りゅうおう) やめたまへ」
  降りすぎると人々は悲嘆にくれます。雨をつかさどる
 龍王よ、おやめください。
1212年、法然が没する(1133年~1212年)
1212年、後堀川天皇が生まれた(1212年~1234年、86代)
1212年、方丈記が書かれた(鴨長明)
1213年5月、北条氏が、和田氏を滅ぼす。
  和田合戦が起きた(和田義盛が敗れて、鎌倉由比ヶ浜
 で滅ぼされた。執権確立)。
  有力御家人の三浦氏の一族の和田氏が、共謀して北条
 泰時を打倒するために反乱を起こした。
  この戦いに勝った北条氏は、執権権力を確立した。
1214年7月、ブービーヌの戦いが起きた。
  フランス王国と連合軍(イングランド王国、ヴェルフ
 家など)の戦い。
  結果は、フランスの勝利、王権を確実なものにした。
  イングランド王は、大陸の領土を、連合軍を作って戦
 い、回復したかったが、失敗に終わった。
  キリスト教の司教が指揮官になって戦いに絡んでいた
 り、連合軍とローマ教皇が手を結んだり、
  キリスト教が戦いに大いに絡んでいた。
  フランスの勝利によって、約1世紀に渡り、大陸のフ
 ランスの優位が続いた。
  イングランド王は、大陸領土の回復失敗だけでなく、
 本国の信頼を失い、本国の諸侯の反乱に合い、それに屈
 してマグナ・カルタを認める事となる。
  マグナ・カルタは、イングランド国王の権限の制限を
 内容としている。
  しかし、ローマ教皇は、イングランド国王は神と教会
 以外の約束に縛られるものではないと、マグナ・カルタ
 の廃棄を命じた。
  戦いの火は収まらず、翌年、フランス王国は、ロンド
 ンへ侵攻した(第一次バロン戦争)。
  マグナ・カルタは、イングランド王が再確認した。
  しかし、イングランド王は守らなかった。
  キリスト教会は国王から自由だ。王の決定で税金は集
 める事が出来ない・・など。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009

2015年3月9日月曜日

(増補版)36B:気になった事柄を集めた年表(1193年~1200年)

 題:(増補版)36B:気になった事柄を集めた年表(1193年~1200年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1193年、前回、この年の、北方十字軍(バルト十字軍)で
 書き終えたが、十字軍は、1096年から始まっているが、
  この十字軍には、大規模な慰安婦部隊が組織され、従
 軍していた。従軍慰安婦です。
  この頃、農村経済の崩壊などが多発し、生活困難に陥
 った農村の可哀想な女子を売春婦にしていた。
1194年、建築:石山寺多宝塔(滋賀、和様)。
  源頼朝の寄進と伝わる、日本最古の多宝塔で、国宝に
 指定されている。
1194年8月、安田義定が謀反の疑いで殺された。
1195年、土御門上皇が生まれた(1195年~1231年)
1195年2月14日、源頼朝が、東大寺再建供養に出席するた
 め、政子と頼家・大姫らの妻子を伴って、再びの上洛の
 ため、鎌倉を出発した。
1195年3月4日、源頼朝らが、入京した。
1195年3月12日、源頼朝が、東大寺再建供養に臨んだ。
  奈良・東大寺大仏殿が平安時代末期に焼失した後、運
 慶、快慶らの手で1196年に造られた四天王像は、後世の
 範となった像だった。
  戦国時代に焼失したが、南大門の金剛力士像(像高8
 メートル40)をもしのぐ13メートルの巨像で、同じポー
 ズの「大仏殿様四天王像」が各地に現存する。
1195年6月25日、源頼朝が、帰東のため出京。
1195年7月8日、源頼朝が、鎌倉帰着。
1196年11月、九条兼実が、関白を罷免され、失脚した。
  近衛基通が、関白になった。基通は反鎌倉派。
  事案に絡む荘園の取り消しの措置に関する件、頼朝の
 長女・大姫の入内も絡んでいた(大姫が頼朝と京へ行っ
 たのはそのためか?)、兼実と法皇の間もうまく行って
 いなかった、源通親の謀略とも(建久七年の政変)。
1197年7月、頼朝の長女・大姫、死す(20歳)。
  頼朝の入内運動も挫折した。
1197年10月、藤原(一条)能保(よしやす)が、死す。
  頼朝から全幅の信頼を寄せられていた。
  頼朝にとっては、存命の同母兄弟姉妹は、この能保の
 妻である坊門姫だけだった。
  能保は、頼朝の威光を背景に異例の栄進をした。
  能保は、後白河法皇に仕え、重用されてもいた。
  また、能保の妻や娘は、後鳥羽天皇の乳母を務めても
 いる。
  朝廷と幕府の太い人脈を形成し、パイプとなっていた。
  しかし、1191年には失敗し、検非違使別当職を辞任し
 ている。また、急激な昇進に公卿の反感も買っていた。
  1194年には病に倒れ、出家した。
1198年1月、源通親(みなもとのみちちか、公卿)後院別
 当となる。
  後院(ごいん)とは、天皇が在位中に、あらかじめ定
 めた譲位後の御座所。村上源氏の嫡流の生まれ。平教盛
 の娘を二人目の妻としている。1185年に頼朝から議奏公
 卿に選ばれている。1195年には、道親の養女・在子が皇
 子(後の土御門天皇)を産んだ事で一気に地歩を固めた。
1198年1月、後鳥羽天皇(第82代天皇)は、源通親の外孫
 にあたる皇子(土御門天皇Z)に譲位して、院政を始めた。
  1221年までの3代23年間に亘り上皇として院政に携わ
 った。
  上皇になると、土御門(源)通親も排し、殿上人も整
 理し、院政機構の改革も行って、積極的政策を採った。
  頼朝の死後も台頭する鎌倉幕府に対しても強硬な路線
 をとった。
1198年1月、近衛基通(もとみち、公卿)が、関白を止め、
 摂政が宣下された。
  土御門天皇の践祚(せんそ、天子の位を受け継ぐこと)
 と共に摂政に任じられた。
1198年2月、平維盛の子・六代を斬る。
  伊勢平家の初代・平正盛から数えて六代になるので幼
 名は六代丸と言った。
  斬られた年の説は色々な説がある。
  平氏滅亡のとき12歳であったが、母や妹と共に隠れて
 いたが、北条時政に捕らえられ、千本松原で斬られると
 ころを、文覚上人(僧侶)の尽力よって助命された。
  その後、出家し、高尾の奥で修行。
  しかし、諸説あるが、頼朝の死の後、再び捕らえられ
 て処刑されたとする。
  この死をもって、平氏の完全な滅亡とする(平家物語
 など)。
1198年12月、源頼朝が、相模川の橋供養に臨み、その帰路
 に落馬する。
  橋供養とは、橋が出来上がって、渡り初めの前に橋上
 で行う供養のこと。
  武蔵国稲毛(川崎市)を領していた稲毛重成が、亡き
 妻の供養のため、相模川に橋を架けた。
  その落成式に頼朝も参列した。
  重成の妻は、頼朝の妻・政子の妹。
  「吾妻鏡」には、この時の怪我が原因で、翌年、頼朝
 は亡くなったと記している。
1199年1月13日、源頼朝が没した、急死(1147年~1199
 年)
1199年1月20日、源頼家が、左中将となり、次いで、
1199年1月26日、源頼家が、家督を相続した。第2代鎌倉
 殿となる。時に18歳であった。
  しかし、若年ゆえか、従来からの行為を無視し、独裁
 的判断で事を行った。
  御家人たちの反発を買った。
  これが合議制への移行の遠因ともなった。
  そして、合議制成立の3年後に、頼家が重病に陥ると、
 頼家の後ろ盾であった比企氏と、弟の実朝を担ぐ北条氏
 との対立が起こる。
  →将軍権力の弱体により諸将間の争い激化→北条時政
 が、政所別当となり執権と称す。
1199年4月、元老13人の合議制になる。
  頼家の訴訟独裁を停め、時政以下の合議制とす。
1199年6月、源頼朝の次女・乙姫が、死す。
1199年10月、諸将が、梶原景時を弾劾す。
  源頼朝の死後に、腹心であった梶原景時が、御家人66
 名による連判状によって幕府から追放され、一族が滅ぼ
 された。
  梶原景時は、自分の立場をいいことに、また、侍所別
 当として厳しく御家人の行動に目を光らせ、勤務評定や
 取り締まりに当たった。
  頼朝の専制政治にとっては、忠実な役割を担った忠臣
 であった。
  これが、頼朝死後、その鬱積した不満が爆発した。
  この爆発も、ちょっとした事からだった。
  それほど、景時は、まじめ過ぎたとも言える。
1200年1月20日、梶原景時が暗殺される。
  北条氏による政敵打倒。
  この日、景時は、一族とともに京都へ上る道中で、東
 海道の駿河国清見関(静岡市清水区)近くで、偶然居合
 わせた吉川氏ら在地の武士たちらに発見されて、襲撃を
 受け、合戦となる。
  子ら5名が、その場で討たれが、景時らは、山へ逃げた
 ・・が討たれた。
  一族33名の首は、路上に懸けられた。
  京都では、忠臣の景時を死なせた頼家は、大失策をし
 たと評されたという。
..
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