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2016年3月12日土曜日

(増補版)310E1/3:気になった事柄を集めた年表(1873年3月~1873年4月)

題:(増補版)310E1/3:気になった事柄を集めた年表(1873年3月~1873年4月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1873年3月25日(2月27日)外務卿・副島種臣が、特命全権
 として清国に派遣された。
  朝鮮、及び、台湾の清国干渉の絆を絶たしむ。
  体面(たいめん、せけんにたいしてもっている誇りや
 面目)にこだわる清国、欧米各国もこれにてこずった。
  しかし、日本の特命全権大使・副島は、日本の尊厳を
 失わずしっかりした外交を行なった。
  帰国後の日本の副島に対する評価も良かった。
  この辺のいきさつについて・・、
  副島は、1873年、北京に滞在中、中国の儀礼に従わず、
 三揖の礼で皇帝に謁見した。
  日本側では、副島の対清外交は、国威を発揚し、成功
 であったと評価された。
  今までの外国使節の謁見礼節を振り返ってみれば、
  副島のとった態度が、中国の「天朝上国」思想への大
 きな挑戦と言ってもいい。
  副島は、中国の主権、伝統制度を通常の状況で解釈し、
 謁見の際、自分の考え方が通らなかった時、「帰国」を
 理由にして清政府を揺さぶった。
  さらに、副島は、台湾の「民ニ生熟兩種有リ、從前 我
 カ王化ニ服シタルヲ熟蕃ト謂ヒ、府縣ヲ置テ 之ヲ治ム、
 其未タ服セ不ルヲ生蕃ト謂フテ、之ヲ化外ニ置キ」[『
 大日本外交文書』:6巻178]という情報を、清国総理大
 臣から得た。
  これは、台湾出兵の理由となった。
  そもそも、清国は、琉球に対し「我カ藩属(属国)」
 と意識していた。
  そのため、清国側は、琉球難民事件が、台湾出兵の口
 実となるとは思いもしなかった。
  副島は、清国の礼節に従わなくて、通常に通しただけ
 ではなく、別の面で、台湾出兵の正当性を考えていた。
  故に、中国の歴史学界では、この時期の副島に対して
 は、「凶横」(凶悪,横暴)「跋扈(ばっこ、ほしいま
 まに振る舞うこと)」 [王]、「陰鷙」(陰険で残酷で
 ある)[曹]などと悪の評価を与えている。
  しかし、謁見問題を考えるとき、副島の行なった行為
 は、腐敗した清国の体制に衝撃を与えた。
  そして、「天朝上国」、「大中華思想」を固守してい
 た中国官僚たちに対し、保守的な思想から脱却させる役
 割も果 たした。
  「天朝上国」:もとは古代中国の自称、褒(ほ)めの
 吹聴(ふいちょう、言いふらし)。今は自嘲的な呼び方。
1873年3月(2月)年齢を満計算にした。
1873年3月30日(3月3日)琉球国・王尚泰を「琉球藩王」と
 定める命を受けた使節が、那覇港に到着した。
1873年3月30日(3月3日)皇太后・皇后、黛・鉄漿の廃止
  皇后、鉄漿(かね、おはぐろ)を剥ぎ、黛(まゆずみ)
 を落として旧来の風習を改めた。
1873年4月初、西郷が、鹿児島より帰京。
1873年4月3日(3月7日)神武天皇即位日を紀元節とした。
  1873年2月26日(1月29日)の説もある。
1873年4月7日(3月11日)岩倉使節団が、ビスマルクと会見
 した。
  岩倉具視、大久保利通、伊藤博文、木戸孝允、山口尚
 芳などの使節団。
  欧米を巡察しベルリンに到着したのが、1873年4月5日
 (3月9日)だった。
  そして、翌々日の1873年4月7日(3月11日)に、ウイル
 ヘルム皇帝に謁見し、鉄血宰相ビスマルクの招待を受け、
 大饗応に預かった。
  席上ビスマルクは、熱弁をふるって言った・・、
  「宰相ビスマルク! 東洋における貴国日本も、欧州
 における我国ドイツも、
  共に、領土は狭小な一小国に過ぎないが、
  また、しかも、他国の侮り(あなどり、軽蔑、さげす
 み)を受けず、日に月に、興隆の歩を進めつつある。
  宜しく国民の愛国心を高揚して軍備を進め、正義に訴
 えて堂々と猛進すべきである。
  即ち、我国こそは何の野心も無く、
  貴国と相提携するに決して吝(やぶさ)かではない・・」。
1873年4月8日(3月12日)台湾問題に就いて清国と談判のた
 め、特命全権大使・副島種臣が横浜を出港。
  1873年3月25日(2月27日)説、および、2月28日説もあ
 り。
1873年4月10日(3月14日)外人との結婚を許可。
  外国人との結婚解禁。
  この日、日本で外国人との結婚が公式に認可された。
  明治政府は、太政官布告・第103号(内外人民婚姻条規)
 の発令により、日本で、最初の国際結婚に関する規則を
 定め、外国人との婚姻を許可した。
  「太政官布告第103号(内外人民婚姻条規」について、
 「東京日日新聞」に、以下の様に記されている。
  自今外国人民と婚姻差許し、左の通り条規相定め候条、
 この旨相心得べき事。
  一、日本人、外国人と婚嫁せんとするものは、日本政
   府の認許を受くべし。
  一、外国人に嫁したる日本の女は、日本人たるの分限
   を失うべし、もし故あって再び日本人たるの分限に
   複せん事を願う者は免許を得あたうべし。
  一、日本人に嫁したる外国の女は、日本の国法に従い
   日本人たるの分限を得べし。
  一、外国人に嫁する日本の女は、その身に属したる者
   といえども、日本の不動産を所有する事を許さず。
   ただし、日本の国法並びに日本政府にて定めたる規
   則に違背する事なくば、金銀動産を持携するは妨げ
   なしとす。
  一、日本の女外国人を婿養子となす者もまた日本政府
   の認許を受くべし。(後略)
1873年4月13日(3月17日)最初の海底電信が馬関海峡に開
 通する。
  因みに、馬関海峡は下関と門司の間にある海峡。
  下関の前田から、門司の雨ヶ窪の間に布設され、その
 長さ1.2キロ、深さ10~18メートル。
  この日、海底電信が布設されたので、諸船舶に対し、
 投錨を禁ずるという布令が発せられた。
  これによって、東京から長崎の電信敷設が整った。
  そして、1871年(明治4年)に、デンマークの大北電信
 会社が敷設した長崎~上海の国際線とも結ばれた。
  これで、東京が、西欧と結ばれた事になった。
  世界最初の海底電信布設は、1850年に、イギリスのドー
 バーとフランスのカレーとの間のドーバー海峡海底電線
  日本の海底電線敷設の大事業は、1906年(明治39年)
 に、太平洋横断布設をしている。
1873年4月16日(3月20日)明治天皇陛下が、率先して断髪
 をなされた。
  天皇陛下、断髪。皇后陛下、お歯黒・眉墨を中止。
1873年4月19日、後藤象二郎・江藤新平・大木喬任(たかと
 う)を参議に任命した。
1873年4月21日(3月25日)太政官布達によって、最初の公
 園に上野、浅草、深川、飛鳥山、芝の五公園が決定した。
1873年4月23日、島津久光の示威行動(じいこうどう)
  島津久光が、鹿児島士族250人を率いて上京した。
  示威行動とは、一定の主張をもつ者が、集団的になん
 らかの行動を起して、
  その団結力、闘争意欲、統制力を誇示し、反対者に対
 し、心理的圧迫を加えるとともに支持者、参加者の士気
 を高め、
  さらには、中立者の共感を獲得しようとする行動。
  大蔵大輔の井上馨は、陸軍省の1,000万円要求に対し、
 比較的早期に、800万円を認めて妥協したが、
  文部省の200万円要求には100万円、
  そして、司法省の96万円要求には45万円を固執して、
 少しも譲歩するところがなかった。
  たまたま、当時、陸軍省の御用商人・山城屋和助(元
 長州奇兵隊士)の陸軍省公金65万円費消事件が発覚し、
 陸軍大輔の山縣有朋は、不正への関与を疑われて、非難
 攻撃の的となっていただけに、
  江藤、大木らは憤激し、井上は、専ら、長州派の利を
 計っていると攻撃された。
  当時の政情は、廃藩置県以降の、打続く政府の激烈で
 猛烈な改革に対する不満が、所々で噴出していた。
  とりわけ、政府首脳部を最も悩ませたのは従二位・島
 津久光(1817年~1887年、鹿児島藩の実権者)が、政府
 の施策に対し、ことごとに、極度の不満を抱き、遠く鹿
 児島から政府首脳を非難攻撃してやまなかった。
  さすがの西郷も、
  「副城の着発弾には、何とも力及ばず大よわりにて御
 座候」と嘆声を発した。
  それだけに、政府も、久光慰撫のためにあらゆる手立
 てをつくしていた。
  天皇陛下の西日本御巡幸(1872年5月~7月、西郷扈従)、
 西郷の再度の帰郷と、久光への弁疏(同年11月~翌年4月、
 べんそ、言い訳をすること)と、
  宮内少輔・吉井友実(1829~1891年、薩摩)の帰郷斡
 旋、海軍大輔・勝安芳(1823年~1899年、幕臣)らを勅
 使として差遣(3月)等々を行なった。
  ここに至って、久光も、遂に、聖旨を奉戴し(天子の
 考えを謹んで戴くこと)、鹿児島士族250人をひきい、
 勅使に随い上京し、4月23日に着京した。
  こうした、久光慰撫工作は、苦境にある井上にとって
 著しく不利に作用した。
  政府首脳は、久光慰撫に忙殺されるのあまりに、井上
 をめぐる軋轢抗争をよく調停しえなかったし、
  大蔵省御用掛を兼ねて、井上をバックアップするはず
 の西郷は、井上にとってもっとも重要だった時期に不在
 であった。
  そのために、抗争は、激化するばかりで、
  「井上大輔は十月下旬より閉居、一事を不視..大輔
 にも今一月中旬より居合出省仕候様相成る処、又山尾工
 部大輔等、追々引入、亦正院の御扱にて出省の運びと相
 成りしに、江藤司法卿続て引入、又正院の御手数にて説
 諭など有し由なれど、昨今司法省は、大少丞に至るまで
 不残引入申候、是亦追々出省の運びは申上迄も無御坐候
 共、文明開化の世には失体の事夥多の様相見へ申候」の
 有様であった。
  たまらず、政府は、1月19目に、岩倉使節団の木戸孝允
 (1833年~1877年、長州)と大久保利通に帰朝を命じた。
  4月に入って、久光は、勅使に随って上京の途に上った
 し、
  西郷も、久々に帰京したから、政府は、大蔵省と諸省
 と衝突常に止まず、
  ややもすれば、廟議紛々破裂せんとするの形勢となる
 のを、なんとか調停、沈静させて、久光を東京に迎える
 態勢を固めるべき段取りとなった。
  その第1着手として、まず4月19日には、後藤象二郎(
 1838年~1897年、土佐)、大木、江藤を参議に任命した。
  後日、大隈の語るところによれば、これは「内閣直接
 に施政の責任を執らすして之を各省に分担せしめ、
  内閣は、僅に、三五人を以て之を組織するかこときも、
 亦是等衝突?争の一因たらすんはあらす。
  それならば、其組織を改正して各省の長官(即ち卿)
 を内閣に入れ、其行懸り若くは意地に任して極端の紛争
 を為す様のことなからしめ、いわゆる談笑の間に互に譲
 歩して事を弁せしむるも亦当時の急務なり」という狙い
 であり、
  「十二月より一月に渉る定例の休暇中に之を更定した」
 とある。
  しかし、井上1人を蚊帳の外におく組織改正と人事をも
 って「談笑の間に互に譲歩して事を弁せしむる」とは最
 初からできないことだった。
  当然、政府首脳もこれに気付いていた。
  気付いて、敢てこの挙に出たについて、大隈と大久保
 との内外共謀によるものだと言われている。
  すなわち、「五月下旬に大蔵卿・大久保が帰ると知ら
 るるに、上旬に其の代理なる井上の辞職を余儀なくせる
 は、大隈一人の行為として大胆に過ぐ。
  一応、肥前人が権力を握れるが如くして、薩州側にて
 之を利用し、井上を放逐せしめたる跡なきに非ず。
  大久保は、遠く隔たりて、一々与かり知るべくもなけ
 れど、大隈及び其他より報告し、井上側より報告し、全
 く知らざる筈なし。
  ・・大久保の帰朝を待たず、其の前に井上の辞職を迫
 りたるは、迫りたるに非ず、井上が癇癪にて断然辞退せ
 るなりとせんも、大久保の帰朝までに獻立を整ふるの必
 要あり、寧ろ、大久保の指金に出でざるべきや」と考え
 られた。
  岩倉使節団の歓送の宴で、西郷が、井上に「三井の番
 頭さん」と呼びかけて盃をさしたという話は有名だし、
 また、大久保在世中に、井上は、二度と政府に帰っては
 こなかったという事実もあるので、薩派陰謀説が有力と
 考えられている。
  しかし、この際、同じ薩摩め島津久光の上京という背
 景にも注目すべき・・、
  別のシナリオは、政府の激烈な諸改革に発した予算を
 めぐる内紛が、上京した久光の眼にでもとまろうものな
 ら、久光は、諸改革を不満としていただけに、それは、
 久光に政府攻撃の格好の口実を与えることになる。
  これは、政府として避けたいところで、政府内部の一
 連の抗争は、久光の着京前に収拾したいところだった。
  この際,時間に追われる政府にとって、参議省卿兼任
 制は、時に当っての妙手であり、西郷の帰京を待ってこ
 れを極力推進しただろう。
  そこでは、要ともいうべき井上の処遇も、当然、検討
 された。
  ところが、ここで事件が突発した。
  前々から山城屋事件にまつわる疑惑で、薩派軍人の集
 中攻撃にさらされていた山県が、ついに、耐えかねて4月
 18日に、辞表を提出した。
  陸軍は、もともと薩長両派のバランスの上にからくも
 統制を保っていた。
  加えて1月の徴兵令は、部内にしこりを残していたとこ
 ろであった。
  それ故、山県の辞任は、陸軍の分裂動揺を意味した。
  久光が、兵をひきいての示威上京に対抗しうるものは
 軍のみであった。
  その軍が、分裂動揺するとあっては一大事だった。
  ここにおいて、山県辞任問題を、まず、優先して処理
 しなければならない事になってしまった。
  そこで、井上が、まだ、大輔の地位にとどまっていた
 ため、未決着のまま留保されていた井上の処遇の件は、
 さらに、今後の調整に待つとして棚上げし、すでに、合
 意のできていた後藤、大木、江藤の参議任命の件だけを
 とりあえず実施した。
  そうして、急務の山県辞任事件の方は、
  「陸軍元帥兼参議の西郷隆盛・参議の大隈重信・大蔵
 大輔の井上馨等、陸軍省の瓦解せんととを慮りて、斡旋
 する所あり、二十九日、更に、有朋に命ずるに陸軍省御
 用掛を以てし、陸軍卿代理たらしむ」ということで、収
 拾された。
  23日には、すでに久光は着京しており、その間、政府
 首脳は、薄氷を踏む思いをした。
  そして、井上の番であるが・・、
  しかし、太政官の処置はどうしたことか、山県の場合
 とはまさに逆だった。
  井上をして辞任を余儀なからしめるものであった。
  5月2日、太政官の職制と事務章程が改定され、太政大
 臣の地位と権限を強化し、その調整能力を高め、左右両
 院ならびに各省の権限を制限し、太政官に参議のみから
 なる内閣を設けた。
  この改定の狙いは、大蔵省の「権限を減じてこれを正
 院に割取し、正院で財政策の枢軸を握り、各省の要求を
 調節塩梅」するにあったから、
  井上には、最早、抵抗の術もなく、
  翌3日、井上は、憤然辞表を呈して下野した。
  この間、裏面に、薩摩派の謀略も考えられている。
  また、井上ともっとも鋭く対立していた江藤の策動も
 関係していたか?
  しかし、外遊中の木戸と伊藤を欠き、山県は、事件の
 渦中にあって、
  そのため、弱体化していた長州派の悲哀があった。
  そして、同日、久光への示威の意味を兼ねた陸軍の演
 習から御帰還なされた陛下は、「午後二時山里御苑に出
 御、従二位・島津久光を御茶屋に召見し、太政大臣・三
 條実美をして去歳六月建言の各条に就きて質さしめたま
 ふ」とにもかくにも、燃え上がる内紛の鎮火を成し得た
 政府は、最大の難物・久光に立ち向うをえたのであった。
  ここで、一人貧乏くじを引かされた井上は、癇癪の余
 りに建言書を上呈、
  それでもおさまらず、さらに、公費を投じて
  これを、新聞に発表し、
  「今全国歳入ノ総額ヲ概算スレバ、四千万円ヲ得ルニ
 過ギズシテ、予ジメ本年ノ経費ヲ推計スルニ一変故ナカ
 ラシムルモ、尚五千万円ニ及ブベシ。
  然ラバ則チ一歳ノ出入ヲ比較シテ、既ニ壱千万円ノ不
 足ヲ生ズ」・・と、財政破綻を暴露した。
  これによって、内外の政府に対する信用の失墜するこ
 とをおそれた政府は、大蔵省事務総裁兼務(5月9日発令)
 の大隈をして、6月9日、「歳入出見込会計表」を公表さ
 せ、
  1873(明治6)年の歳入4,873万円、歳出4,659万円で、
 歳入超過が、214万円にのぼることを内外に示し、井上に
 反論した。
  これが、予算表公表の反論だった。
  財政制度が、未整備の時のことゆえ、井上のものにせ
 よ、大隈のものにせよ、歳入見積りは、確たる根拠に乏
 しく、
  後に至って判明した1873年の歳入実績は、予想外の実
 に8,550万円に達した。
  もっとも、その中には、予算外の外債募集繰入れ1,083
 万円が入っている。
  これを控除した7,467万円を比較の対象とすべきだった。
  この修正実績を100として、大隈の見積りは65、井上の
 それは54にすぎないとなる。
  井上の悪戦苦闘は一体なんだったのか?
  大隈は、この井上辞任事件から少なくとも二つの重大
 な教訓を学びとった。
  それは、問題となりがちな大蔵省の卿として予算問題
 で閣内に孤立することの政治的帰結と、
  そして、財政制度の全般に亘る改革の重要性だった。
  そして、これは、後に、大隈財政の基本方針になった。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
 

2016年3月10日木曜日

(増補版)309E1/3:気になった事柄を集めた年表(1872年12月~1873年3月)

題:(増補版)309E1/3:気になった事柄を集めた年表(1872年12月~1873年3月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1872年12月(明治5年11月)横浜に共同便所が設置された(
 1月説あり)
  横浜港の開港後の外国人が、日本人の立小便に苦情を
 言い、その対策として、1871年に、板囲いで88箇所の簡
 単なものを設け、これが始まりだという説がある。
  日本政府も、「立ち小便をした者には銭100文の罰金刑」
 と布告し、必死に誠実に対応している。
  1872年に、東京において条例が公布された。
  その第49条は、「市中往来筋において、便所にあらざ
 る場所へ小便するもの 違反したら鞭罪とか拘留とす」。
  また、この便所は、四斗樽を地面に埋め、横囲いをし
 ただけで、簡単なものだった故、この辻便所式は、道に
 あふれ出る場合もあった。
  それで、住吉町で薪炭商・実業家の浅野総一郎が、神
 奈川県令の許可を得て、2000円の補助金を得て改善を進
 めた。
  1879年(明治12年)に、63か所を完成させた。
  また、この浅野総一郎は、屎尿(しにょう)を肥料と
 して販売したという。
  1872年2月17日の横浜毎日新聞の報道は、「仮名垣魯文、
 立ち小便で科料とられる」とある。
  また、1872年3月3日(明治5年1月24日)英国公使館か
 らの苦情に対し、
  日本の外務省は、「西欧諸国から軽蔑されるきっかけ
 になる、止むを得ず昼間糞尿を運ぶ時は肥桶に必ず蓋を
 するように・・」と、通達している。
  尚、東京府達で出された条例は、1872年11月8日の「東
 京違式註違条例(いしきかいいじょうれい)」と言い、
  この条例は、軽微な犯罪を取り締まる刑罰法だった。
1872年、大阪で、渋谷庄三郎が、「渋谷ビール」を設立し、
 日本人として初めて、本格的ビールの醸造・販売をした。
  その後、1874年に、甲府で野口正章が「三ツ鱗ビール」
 を設立し、
  また、1876年には、官営ビール事業として、北海道で
 北海道開拓使札幌麦酒醸造所が、中川清兵衛を中心に設
 立され、翌年の1877年に、「札幌ビール」を発売した。
  こうして一時は、100社前後のビール会社が設立され、
 文明開花の流れの下で、ハイカラ族がビールを好んで飲
 んだ。
1872年(明治5年)長崎製作所と改称
  長崎造船所が長崎製作所と改称した。
  また、1873年(明治6年)長崎造船局と改称した。
1872年、琉球処分(りゅうきゅうしょぶん)と尖閣諸島
  琉球処分は、1872年~1879年にかけ、旧来琉球諸島の
 施政を委任してきた中山王府を廃して、県を置いた施策
 のこと。
  明治政府が、王国体制のまま存続し続ける琉球王国を、
 日本近代国家に組み入れた政治過程であって、
  1872年の琉球藩設置から1879年の廃藩置県まで一連の
 施策がなされた。
  そして、琉球へ、清への冊封関係の廃止を明確に求め
 た。
  この琉球処分後に、内務省地理局発行の『大日本府県
 管轄図』に魚釣島が記載されるなど、
  日本国内で発行される地図には、尖閣諸島は、明確に
 琉球諸島に含められて記載されている。
  また、1874年に、明治政府は、先に台湾に漂着して殺
 害された琉球人に対する措置として、台湾への出兵を行
 った。
  琉球が、自国の版図であることを明確に中国側に示し
 た。
1872年、6尺5寸を6尺とす(尺貫法)
1872年、子ども芝居始まる。
  江戸の芝居は、大きく大芝居と小芝居に分けられてい
 た。
  大芝居の役者たちは、伝統的な世襲の上に成り立って
 おり、小芝居の役者は、例えば、技量が優れていても大
 芝居に出る事は出来なかった。
  大芝居のスターが、小芝居の劇場に上がることも無か
 った。
  一方、上方では、大芝居・中芝居・子供芝居の三層構
 造になっており、役者の格付けが劇場の大小にも関わっ
 ていた。
  中芝居のスターが大芝居に出る事があったり、大芝居
 の役者が中芝居に出演する事もあり、役者が互いに往来
 可能な開放的な組織となっていた。
  例えば、三代目中村歌右衛門は、子供芝居から中芝居
 へ、そして、大芝居へと出世していった典型的な役者だ
 った。
1872年、日本の機械製紙の始まりは、東京・日本橋の有恒
 社において始まった。
1872年2月6日(12月28日)イタリア人アントニオ・メンチ
 ェィ、電話機を発明し特許をとる(グラハム・ベルの発
 明より5年前のこと)
1872年、チャレンジャー号探検航海(チャレンジャーごう
 たんけんこうかい)
  世界一周海洋調査(~1876年)。
  127,580Kmの航海で、1606日にわたり、海底や海洋生物、
 海水温などを調査し、海洋学の基礎を作った。
  スコットランド人の海洋学者ジョン・マレーが報告書
 の出版を監修した。
1872年12月30日、初のサッカーの公式国際試合が行われた。
  イングランド対スコットランドの初の国際サッカー試
 合が、グラスゴーで開催された。
1873年(明治5年~明治6年)、出来事:
  ・新政府が、仇討ちを禁じ、切腹を廃止した。
  ・第一国立銀行が開業した。
  ・野球が初輸入された。
  ・ウィーンで第一回の国際気象会議が開かれた。
  ・ウィーン万国博覧会に参加出品した。
  ・レンガ造りの建物が出来た。
  ・東京の上野公園、大阪の住吉公園などが公開された。
  ・巻煙草が発売された。
1873年1月1日(明治5年12月3日)太陽暦が実施された。
1873年1月19日、大久保・木戸に召還勅命。
  岩倉具視を大使とする米欧遣外使節団に同行している
 この二人。
  江戸時代に結ばれた不平等条約が期限を迎える。
  その条約の改定の商議を行うことが目的だった。
  また、その条約改正にからむ制度・法律の理論と実際、
 理財・会計に関する法規と方法及び現状、各国の教育の
 諸法規と実情の調査が視察の対象となった。
  予定は10ヶ月余りの期間。
  参議の西郷隆盛・板垣退助らが留守政府となった。
  留守政府の統制のために、12条にわたる約束が取り交
 わさた。
  新しいことや、改正することは期間中に行わないこと
 が約束された。
  しかし、この約束は守られなかった。
  留守政府は、兵部省を廃止して、陸軍・海軍二省を設
 置したり、神祇省を廃止して教部省を設置したりした。
  その行動の背景には、政府内の暗闘と反目があった。
  木戸孝允・大隈重信・伊藤博文・井上馨・岩倉具視・
 大久保利通・副島種臣・広沢真臣・三条実美・岩倉具視・
 西郷隆盛・板垣退助・江藤新平・大木喬任(たかとう)
 ・・らが、対立したりしていた。
  予算削減を巡る対立など・・が、
  一方、使節団側にも、対米交渉を行ったが、日本側の
 希望する関税自主権・領事裁判権や居留地問題などに対
 し厚い壁があったりした。
  事態は打開されなく、対米交渉は打ち切りとなった。
  この様な展開のなかに時代は動いていた。
  各国要人とも謁見したり、会見したり・・、
  そして、この様な中、内政・外交とも急迫を告げ、留
 守政府は、木戸・大久保に帰国を命じた。
  しかし、木戸は帰国を延ばした。
  木戸と大久保の間で意見の衝突があった。
  木戸は、大分遅れて、4月16日に帰国の途についた。
1873年1月24日、江藤司法卿が、大蔵省の予算削減に抗議し
 て辞表を提出した(2月5日、却下)
  緊縮財政の方針と、予算制度確立を図ったが、文部省
 が学制頒布、司法省が司法改革などで、高い定額(じょ
 うがく、きまった額)を要求すると拒絶して予算を削っ
 たことが江藤らの怒りを買った。
1873年1月29日(明治6年1月1日)太陽暦実施(陰陽暦の廃
 止)
  太陰暦を太陽暦に改む(氷川清話)
1873年2月4日(1月7日)官庁の年末・年始の休暇決まる。
1873年2月6日(1月9日)全国鎮台配置を改めて東京、仙台、
 名古屋、大阪、広島、熊本に置く。
1873年2月7日(1月10日)徴兵令発布
  前年公布された徴兵令発令、常備軍制度確立(20歳か
 ら、徴兵開始)
  制定された徴兵令に基づく徴兵は、鎮台にのみ配備さ
 れることとなり、近衛の壮兵制は維持された。
  国民の義務として、国民皆兵を目指す徴兵令は、後に
 兵役法となった。
  大日本帝国憲法にも・・、
  「日本臣民ハ法律ノ定ムル所ニ従ヒ兵役ノ義務ヲ有ス」
 ・・と、兵役の義務が盛り込まれた(第20条)。
  徴兵反対の一揆が起きた。
1873年2月12日(1月15日)公園設立の布告が初めて出た。
  太政官布達により、上野、浅草、深川、飛鳥山、芝の
 5カ所が、日本で最初の公園として指定され、公園造成の
 さきがけとなった。
1873年2月12日(1月15日)東京師範学校に、附属小学校を
 設立した。
  旧国立大学の東京教育大学の前身は、1872年に東京の
 湯島昌平黌に師範学校として創立され、
  英米の教授法を導入して小学校教員の模範的養成にあ
 たった。
  1873年に東京師範学校、1886年に高等師範学校となり、
 1902年に東京高等師範学校となった。
  そして、色々変遷し、1974年に筑波大学となった。
  1873年に、小学校教授法の経験練習の施設として、付
 属小学校を設置し,東京師範学校と改称した。
1873年2月19日(1月22日)華族士族と平民の相互養子縁組
 が許される。
1873年2月26日(1月29日)紀元節祝日の始(後に2月11日と
 改める)
  紀元節(きげんせつ)は、古事記や日本書紀で、日本
 の初代天皇とされる神武天皇が即位した日をもって定め
 た祭日。
1873年2月28日(1月31日)イタリア及びオランダの全権大
 使に佐野常民(さのつねたみ)が任命される。
1873年3月3日、勝海舟、御用あり長崎表差遣和される。特
 に内命あり(氷川清話)
1873年3月5日(2月7日)仇討ち禁止。
  明治政府が、仇討ちの事一切禁止じる。
  司法卿の江藤新平らによる司法制度の整備が行なわれ、
 明治政府は、第37号布告で「復讐ヲ嚴禁ス(敵討禁止令)」
 を発布し、仇討を禁止した。
1873年3月5日(2月7日)ロシアに初めて公使を置く(初代
 公使は澤宣嘉・さわのぶよし)
1873年3月7日(2月9日)大蔵少輔・井上馨が、造幣寮(現
 在の造幣局)の全職員の丁髷(ちょんまげ)を切り、洋
 服を着させる通達を出す。
1873年3月13日、清国派遣全権大使が出発。
1873年3月14日、勝海舟、14日出発。鹿児島に至る(氷川清
 話)
  鹿児島県鹿児島市の南州墓地に、勝海舟歌碑がある。
  この年、朝鮮への使節派遣の問題で、新政府を去った
 西郷隆盛は、鹿児島に戻り、青年の教育のため私学校を
 設立した。
  ところが、明治10年・1877年に、この私学校の生徒が、
 西郷の意思に反して暴走し、西南戦争を引き起こした。
  この勝海舟の歌は、幕末以来、西郷と親交の深かった
 海舟が、愛する私学校生徒に身を委ね、生涯を閉じた亡
 き友のために詠んだ。
   隣に、常夜燈(じょうやとう)が立つ。
  西郷と勝海舟との会談により、江戸城が無血開城され、
 江戸100万市民が兵火を免れたことへの感謝のため、昭和
 14年5月、当時の東京市によって建立されたもの。
   歌碑は、この常夜燈と同じ花棚石(けだないし)で
 できている。
  海舟、この年、50歳。
1873年3月15日(2月17日)証券印紙が、初めて発行された。
  日本初の収入印紙は、「証券印紙」という名称で、こ
 の年に発行が始まった。
  20円券は、その最高額券であり、1874年に、発行され
 たが、現存数は極めて少ない状態。
  紙幣寮(現・国立印刷局)に、近代的な印刷技術が導
 入される前のもので、政府から依頼された民間の職人が
 腐食凹版[ふしょくおうはん](エッチング)の技法で、
 原版製作した「手彫印紙」で、この同時代の「手彫切手」
 に似ているが、
  印紙は、切手よりも額面金額が高く、高額券には偽造
 防止のため、地紋印刷が使われている。
  他の手彫り製品には見られない珍しいもので、米粒に
 模様を彫刻するような細密画線には高度な職人技が必要。
1873年3月22日(2月24日)キリスト教の解禁。
  切支丹(キリシタン)禁制の高札を撤去
  キリスト教は、この日まで、キリスト教徒は、迫害が
 続いたというが、これは、キリスト教によくあるオーバ
 ーな言い方で、虚言である。
  研究者は、「17世紀には、幕府はすでに黙認している」
 と言っている。
  日本は、ほんの一時期の取り締まりだけだった。
  刑場の柵の一部を開けて、逃げることもできる様にし
 てもいた。
  「日本人の穏健さ・温厚さ」があった。
  キリスト教が言う「259年も迫害が続いた」と言うのは、
 言い過ぎで、まったくの嘘となっている。
1873年3月25日(2月27日)、副島種臣を清国派遣全権大使に
 任命した。
  この時の、副島大使の行動が、かつての「日いずる国」
 的な行動であったため、中国で問題となった。
  数千年にわたって、中国は、周辺にある国、民族と交
 流を維持していた。
  それらの国、民族は、大国である中国の政治、経済、
 文化などの面に 憧れ、中国に朝貢し、自ら「臣」と名乗
 った。
  16、17世紀に至り、ポルトガル、スペイン、オランダ
 などの国々は、貿易利益のため、中国に渡来したとき、
 持ってくるものを「貢物」だと認め、
  自分も皇帝に「三跪九叩」の礼を行った。
  中国の統治者は、自尊自大の意識をもち、自国の富裕
 を誇示するため、朝貢国への贈り物が「貢物」よりも多
 いという現象も珍しくはなかった。
  中国側は、外国との関係を結ぶとき「天朝上国」「大
 中華思想」という視点から出発したのであった。
  中国は、もとより儀礼を重んずる国である。
  と りわけ、中国の最後の封建王朝の清朝に至り、外国
 使臣の謁見に関する儀礼作法も体系化され、複雑さを極
 めた。
  しかし、複雑な国際情勢、国内情況により、清国政府
 は謁見問題を思うとおりに処理することができなかった。
  特に、清朝末期(同治帝,光緒帝の時代)に至り、謁
 見の儀礼に関する争いは終始絶えなかった。
  1873年、日本の外務卿・副島種臣は、特命全権大使に
 任命され、北京に赴いた。
  彼は、北京で謁見 問題をめぐり、空前の波瀾を起した。
  今回の謁見は、何千年の中国史上、初めて正式に立礼
 で皇帝に謁見を済ませるという、画期的な出来事であっ
 た。
  副島の謁見順位も英・米などの大国を おさえ、第一番
 目であった。
  この結果は、明治維新後の日本の姿が、その様に映し
 出されていて、輝かしい出来事であった。
  従って、日本の研究では、従来、副島の対清外交に重
 点を置き、彼は、いかに「国権外交」を実現させたのか
 を論じている。
  一方、中国側の研究では、副島に対し批判的な見方が
 多く、清国側は、いかに副島に屈服したのかという過程
 が 注目されている。
  副島の、この様な形の謁見の理由として、副島の個人
 の役割を強調し、他の使節に先駆け、一人で、三揖の礼
 (他の使節は五鞠躬)で謁見を済ませた。
..
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2016年3月8日火曜日

(増補版)308E1/3:気になった事柄を集めた年表(1872年10月~1872年12月)

題:(増補版)308E1/3:気になった事柄を集めた年表(1872年10月~1872年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1872年10月17日(明治5年9月15日)文部省教科書編成掛を
 置き、編集に着手した。
  「学制」布達後のこの時・1872年10月17日に、文部省
 に教科書編成掛 を置いたが、同年・1872年11月、師範学
 校に編輯局(へんしゅうきょく)を設け、各教科用図書
 を編纂して行った。
  例えば、小学算術書において、1872年当時、文部省編
 成掛に山本信実がおり、師範学校の算術担当者にM.M.
 Scottがいた。
  諸葛信澄校長は、山本信実とScottと共に編纂した。
  Scottが、アメリカから取り寄せた算術書を参考にした。
  また、東京師範学校余科(予科2年制)の1873年6月、
 教科課程の数学の標準にH.N.Robinsonの算術・代数、
 B.Marks の幾何を挙げた。
  この様に、お抱え外国人とその母国の教科書を参考に
 編集は進められた。
1872年11月7日(明治5年10月7日)司法省達第22号
  マリア・ルース号事件を契機に、この年・1872年の「娼
 妓解放令」によって公娼制は廃止された。
  しかし、たちまち当人の望みにより渡世(とせい、稼
 業)する娼妓と貸座敷として復活した。
  これに対して婦人矯風会などの団体が廃娼をとなえた。
  司法省達第22号では・・、
  「娼妓芸妓ハ人身ノ権利ヲ失フ者ニテ牛馬ニ異ナラス」
 として、過去の借金を返すよう求めることはできないと
 定めた。
1872年11月10日(10月10日)北海道居住者奨勧(かんしょ
 う、そのことをするようすすめ励ますこと)に、10年間
 の免税とす。
1872年11月23日(10月23日)日本橋釘店の林秋造が、新聞
 「新聞雑誌」に、日本初の尋ね人広告を掲載した。
  音信のない伊藤逸之助の住所、足取りを求め、当時、
 話題となった。
  「・・4~5年前より絶て音信なく、当時何の目的の
 地に住居せるや其従跡を知る者あらば、私店へ報知あら
 ん事を希ふ」。
  この広告の目的が達したかは不明・・、
1872年12月4日(11月4日)蚕種原紙、大蔵省にて制定
  生糸は、明治から昭和にかけて日本の代表的な輸出品
 で、日本を支えた。
  これを支えたのが「養蚕原紙」だった。
  養蚕には、様々な紙製品が使われている。
  日本の養蚕は、ヨーロッパで蚕の伝染病が蔓延し、壊
 滅的打撃を受けたことと、日本の製紙技術も、和紙とし
 てお得意技術だったことから、
  日本の養蚕紙は盛んに輸出された。
  明治初期のこの頃には、輸出商談が活発となって、価
 格は急騰した。
  この時、ケシの種を貼り付けて、売り捌(さば)く悪
 徳業者も現れた。
  このため、取り締りと品質維持のためにも、この年・
 明治5年に、蚕種原紙規則が制定され、
  手漉業者を免許制とし、
  長野県上田、埼玉県深谷、福島県福島に、売捌所(う
 りさばきじょ)が設立された。
  明治の中頃には、伝染病対策のために、種紙をマス目
 に区切って番号をつけ、1匹ずつ産卵させ、
  病原菌の有無を顕微鏡で調べ、品質管理した。
  明治8年には、機械による洋紙生産が始まり、
  明治中頃には、紙の原料が、ボロ布から木材へと変わ
 り、また、この頃から、蚕種原紙は手漉紙から機械抄き
 に変わった。
  (注:養蚕原紙と言っても紙を売っているのではなく、
   その紙に付いている蚕の卵を売っているのである)
1872年12月5日(11月5日)イギリスで岩倉具視らが、ビク
 トリア女王に謁見した(11月4日説あり)
1872年12月9日(11月9日)太陰暦を廃止して太陽暦を採用
 するとの布告が出された。
1872年12月10日(11月10日)西郷が、鹿児島に帰省した。
1872年12月12日(11月12日)大礼服の制定と、通常礼服が
 制定された(旧暦11月5日説あり)
  「爾今礼服ニハ洋服ヲ採用ス」という太政官布告373号
 が出された。
  それまでの公家風・武家風の和服礼装(裃や束帯)が
 廃止、
  軍人や警官につづき、文官の礼服にも洋式が採用され、
 政府役人に大礼服、通常礼服の着用が義務づけられた。
  この太政官布告では、男性の礼服が洋装とされのみ
  1886年(明治19年)女官服にも、洋服が採用された。
1872年12月15日(11月15日)国立銀行条例の制定
  国立銀行条例を定め、銀行の設立の許可。
  維新政府は、対外対抗のために民間資本の結集を図っ
 た。
  そして、会社制度の導入を推進した。
  3年前の1869年(明治2)には、通商会社・為替会社の設立
 を指導し、1871年には、渋沢栄一著「立会略則」や福地
 源一郎著「会社弁」を大蔵省から刊行して会社知識の普
 及を図っていた。
  そして、1872年には、国立銀行条例を制定して国立銀
 行の設立を促した。
1872年12月15日(11月15日)紀元元年の制定
  神武天皇即位の年を、紀元元年と制定した。
  古事記や日本書紀で、日本の初代天皇とされる神武天
 皇は、日本書紀によれば紀元前660年1月1日 (旧暦)に即
 位したとされている。
  この即位年を、神武天皇即位紀元の元年と制定した。
1872年12月19日(11月19日)各国公使に太陽暦採用を通告
 した。
1872年12月23日(11月23日)司法卿・江藤新平と、司法大
 輔・福岡孝悌の両人が、「妾廃止」の建議案を提出した。
1872年12月23日(11月23日)大相撲の女性の見物が許可さ
 れた。
1872年12月28日(11月28日)税関が始まる。
  運上所が、税関と改称され、税関が正式に発足した。
  長崎・神奈川・箱館(函館)に設けられていた「運上
 所」が「税関」と改称された。
1872年12月28日(11月28日)大阪税関の前身である運上所
 が、税関と改称された。
  1867年9月(慶応3年8月)税関前身の運上事務(税関の
 仕事)、及び、外交事務を取り扱うため、現在の西区川
 口に開設された川口運上所ができ、
  翌年の1868年9月(明治元年7月)に、大阪港の開港と
 同時に、大坂運上所と改称され、
  1872年12月(明治5年11月)に、運上所を「税関」とし
 て呼称統一された。
  そしてまた、翌年の1873年(明治6年1月4日)に、大阪
 税関と改められた。
1872年12月28日(11月28日)徴兵の詔書が出された(徴兵
 告諭)(12月1日説あり)。
  徴兵令(氷川清話)
  全国徴兵の詔書と徴兵告諭(こくゆ、言い聞かせる事)。
  国民皆兵に関する詔勅下る。
  徴兵の詔が発布された。兵部省を廃し、陸軍省・海軍
 賞を置いた。近衛兵を置いた。
  軍役制・俸禄制・石高制などの制度は、1872年の地券
 公布、徴兵令、続いて石高制廃止から秩禄処分に至る一
 連の施策まで存続した。
1872年12月28日(11月28日)地方官の不法について裁判所
 への出訴を承認した。
1872年12月29日(11月29日)山城屋事件
  山城屋和助が自殺。
  この年・1872年に、陸軍省の御用商人・山城屋和助が、
 陸軍省から無担保で借り受けた公金を返済できず、自殺
 した事件。
  山城屋の借り出した公金は、総額約65万円、
  当時の国家歳入の1%という途方もない額であった。
  山城屋和助は、政府要人と同じ長州藩出身という縁故
 で兵部省御用商人となった。
  軍需品の納入などにたずさわっていた。
  まもなく、陸軍省の公金15万ドルを借用して、生糸相
 場に手を出した。
  この借金の背景には、陸軍省保管の現銀が、価格低落
 を被っていたことがあった。
  陸軍省は、資金運用を理由として公金貸し付けを行っ
 た。
  ところが、ヨーロッパでの生糸相場の暴落にあって投
 機は失敗。
  山城屋は、陸軍省から更に金を借り出し、フランスの
 商人と直接取引をしようとフランスに渡った。
  そのうちに、一人の日本人が、フランスで豪遊してい
 るという情報が、フランス駐在中弁務使・鮫島尚信や、
 イギリス駐在大弁務使・寺島宗則の耳に入り、
  日本本国の外務省・副島種臣外務卿へ連絡された。
  この頃、山縣有朋は、近衛都督として近衛兵を統括す
 る立場にあったが、
  近衛兵内部の薩摩系軍人には、長州人である山縣を近
 衛都督としていただくことを不服とする空気が強かった。
  そこに、山城屋の一件を聞いた陸軍省会計監督・種田
 政明が密かに調査を始めて、
  「一品の抵当もなしに」多額の陸軍省公金が貸し付け
 られていたことが発覚、
  桐野利秋ら薩摩系陸軍人の激しく追及するところとな
 った。
  同年7月、山縣は、陸軍中将・近衛都督を辞任すること
 になった。
  翌1872年(明治5年)、江藤新平の率いる司法省による
 本格的な調査が始まろうとした同年11月、山縣から至急
 の返済を求められた山城屋は、公金返済が不可能であっ
 たため、陸軍省内部で割腹自殺した。
  その際、関係する帳簿と長州系軍人の借金証文類も焼
 き払われたため、事件の真相は解明されることなく、陸
 軍省会計監督長船越衛の処分をもって収束する。
  一説によると、事件が大きく取り上げられた背景には、
 徴兵令を推進する山縣と、
  これに反発する桐野を代表する薩摩系を中心とした保
 守的な軍人の対立があったという。
  しかも、後者から山縣の抑制に期待をかけられていた
 西郷隆盛が、かえって山縣を評価して弟の従道とともに
 徴兵令の実施を支援したことも、山縣への嫉妬を招いて
 敵意を強めたのではないかと推測された。
  事実、西郷は、最後まで、山縣の辞任には反対してお
 り、
  辞任後、岩倉使節団の一員として洋行中の大久保利通
 に対して、山縣を擁護出来なかったことを詫びる手紙を
 送っている。
  また、司法省の権限強化を目指した江藤新平の追及も
 この事件に大きな影響を与えている。
  江藤は、薩摩系軍人が、山城屋の事務所封鎖を計画し
 ているのを知って、これを抑え、司法省が直接捜査に乗
 り出すよう指示を出している。
  山縣有朋が、明治6年3月付で、在パリの鮫島弁理公使
 に書いた書簡には、「(和助は)帰国後、商法種々手違
 之故をもって旧臘(きゅうろう、去年の12月)自刃にお
 よび相果て、自首致候手代とも即今裁判所にて取糺中(
 とりただしちゅう)にこれあり」とあって、山城屋の死
 後も司法省によって事件が追及されていたことがわかる。
12月31日(旧12月2日)、改暦により年が終わり、翌日の旧
 12月3日が1873年1月1日となった。
1872年12月(明治5年11月)東京に、新聞縦覧所(しんぶん
 じゅうらんしょ)の開設が多し。
  日本の新聞の揺籃期に全国各地に作られた新聞の読書
 施設。
  有料のもの、無料のもの、飲食物や解説などのサービ
 スが付くもの、図書や雑誌なども提供するものなど、そ
 の経営形態は多様であった。
  1870年代から設立が始まり、当初は、官営のものも存
 在したが、次第に、民営のものが主流を占めるようにな
 った。
  民営のものには、自由民権派を中心に、政党などが自
 らの主張を伝える場として設けたものや、営利目的のも
 のなどがあった。
  新聞の普及とともに次第に衰退し、明治後期には、風
 俗営業主体のものなども出現したが、一部は大正初期ま
 で存続した。
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2016年3月7日月曜日

(増補版)307E1/3:気になった事柄を集めた年表(1872年7月~1872年11月)

題:(増補版)307E1/3:気になった事柄を集めた年表(1872年7月~1872年11月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1872年7月19日(6月14日)明治天皇陛下が御巡幸され、長
 崎港に入港した。
  7月19日(6月14日)の夕方、西国巡幸の明治天皇お召
 艦「竜驤」が、長崎に入港した。
  駐伯所には、広運館に近い島原町の旧町年寄・高木邸
 があてられた。
  西役所跡には官立学校広運館、立山役所跡には県庁が
 あったが、建物は老朽なため、大波止の新桟橋から上陸
 された。
  天皇陛下は、西郷隆盛陸軍大将、徳大寺実則宮内卿、
 河瀬真孝侍従長らを従えて、行在所まで行進され、
  本五島町の脇山啓次郎ら5人の少年が高木邸で給仕役
 をつとめた。
  脇山啓次郎は、脇山勘助長崎電軌社長の父、のち長崎
 商業会議所会頭。
  7月20日(6月15日)、東京出発以来の西国巡幸は、ず
 っと炎暑続き。
  でも、この日、朝から雷雨、涼風が流れる。
  天皇陛下は、外出なさらず、行在所で、県内の産物や
 県民所蔵の古い書画、珍器類を御覧になられた。
  午後から、ふたたび強い日が照りつける天気だった。
  縁先から、近くの本下町、今下町の町民有志があげる
 長崎名物ハタあげを御覧になられた。
  旅館上野屋に泊まっていた西郷隆盛が、近衛兵を連れ
 て来て、庭先の空き地で調練をはじめ、
  天皇陛下は、縁先の椅子から御覧になられた。
  7月21日(6月16日)、宮川権令の先導で立山の県庁へ。
  役人たちの執務の状況を御覧になる。
  そして、大波止からお召艇に乗り、工部省所管の小菅
 の修船所(ソロバンドッグ)へ
  汽船・感通丸の船架引き揚げ作業を御覧になる。
  小菅から飽の浦へわたり、造船所の各機械場や工作所
 を御視察される。
  7月22日(6月17日)、御出発の日。
  大波止までの沿道をうめた官民による奉送の列の中を
 天皇陛下の行列が進み、
  御召艦「竜驤」は、長崎を離れ、熊本へ向けて出帆し
 た。
1872年7月20日(6月15日)鉄道停車場内で、新聞紙の販売
 が許可された。
  日本で初めて、新聞販売契約が締結された。
  以後、新聞発行部数は増加して行き、新聞販売業界も
 発展した。
  1872年(明治5年6月)「郵便報知新聞」として創刊さ
 れた。
  初期は、大隈重信の改進党に近い政論紙として大きな
 影響力を持った
1872年7月26日(6月21日)山内容堂(やまうちようどう、
  豊信、土佐藩主)没する(1827年~1872年)
  山内容堂逝去(氷川清話)
  近代日本へ導いた要人の一人。
  幕末の四賢侯の一人として評価される。
  門閥・旧臣による藩政を嫌い、革新派グループの中心
 人物の吉田東洋らを登用し、藩政改革を断行。
  黒船来航を契機に藩政改革に乗り出し、
  将軍継嗣問題にあたり、大老に就いた井伊直弼と将軍
 継嗣問題で真っ向から対立した。
  容堂は、松平慶永や島津斉彬らと一橋慶喜の擁立に尽
 力。
  しかし、ことは成らず、安政の大獄の強圧のなかで、
 隠居願いを幕府に提出し隠退したが、謹慎を命ぜられた。
  忍堂と号した。
  しかし、水戸藩の藤田東湖の薦めで容堂と改めた。
  1862年(文久2年)、勅使東下のなかで活動を再開し、将
 軍後見職一橋慶喜らに朝幕間の調和を説き、公武合体を
 はかり、公武合体運動を進めた。
  1867年6月(慶応3年5月)、薩摩藩主導で設置された四
 侯会議に参加するが、幕府権力の削減を図る薩摩藩の主
 導を嫌い欠席を続ける。
  結局、この会議は短期間で崩壊。
  1867年11月9日(慶応3年10月14日)に、将軍・慶喜に
 大政奉還を建白、公議政体論による幕府権力の温存を計
 った。
1872年7月27日(6月22日)明治天皇陛下が、鹿児島に御到
 着された。
1872年7月29日(6月24日)学制発布
  学制の趣旨を明記した太政官布告とともに学制が公布
 され、日本の近代学校制度が成立した。
   1872年8月5日(7月2日)の説あり。
  下等小学4年、上等小学4年の「4・4制」。
  文部卿・大木喬任により、教育行政方針九箇条が、太
 政官布告で領布された。
  この太政官布告で、学校の系統、組織に関する 教育行
 政組織を規定した学制が発布された。
  これによって日本の教育が、日本という国家の教育行
 政の下に行われることになった。
1872年7月29日(6月24日)北海道・手宮港を小樽(おたる)
 と改称された。
  近世は小樽内と言っていた、アイヌ語の「オタルナイ」
 (砂だらけの沢、砂浜のなかの川)に由来する。
  1870年に、小樽仮役所が設けられ、1871年には、開拓
 使小樽出張所となり、
  1872年に、戸長役場が設置された。
  日本は、1872年5月15日(4月9日)に、庄屋・名主・年
 寄などの称を廃止して戸長をおいていた。
  戸長役場(こちょうやくば)とは、明治時代初期に、
 戸長が、戸籍事務などを行った役所のことで、現在の町
 村役場の前身にあたる。
1872年8月4日(7月1日)全国に郵便施行
  (1871年1月24日、郵便法布告、東京―京都―大阪間で
 開始)
  1872年8月に、前島がイギリスより帰京すると、郵便役
 所は、さらに、横浜、神戸、長崎、函館、新潟と、全国
 展開が図られ、
  江戸時代に地域のまとめ役だった名主に、自宅を郵便
 取扱所とする旨を要請、
  1873年(明治6年)に、全国約1100箇所の名主が、郵便
 取扱所を快諾したことから、郵便制度は全国に拡大した。
1872年8月4日(7月1日)副島種臣外務卿が、大江卓にマリ
 ア・ルズ号の取調べを命じた。
1872年8月7日(7月4日)すべての土地に地券を交付。
1872年8月7日(7月4日)西郷兄弟、丸亀より帰京へ(西郷
 隆盛が近衛都督に就任した)。
1872年8月15日(7月12日)明治天皇陛下、御帰京。
1872年8月17日(7月14日)最初の求人広告が出る(乳母の
 雇い入れの広告)
  1872年2月に創刊された東京日日新聞に広告記事が出た。
  広告の内容は、
  「乳母雇入度ニ付心当りの者ハ呉服橋内元丹波守邸内
 天野氏へ御尋可被下候。本乳にして乳さへ宜しく候へば
 給金ハ世上より高く進ずべし」とい4行の広告。
  現代文に訳すと、
  「乳母を雇い入れたいので心あたりの方は(中略)御
 尋ねください。本乳にして乳さえよく出るならば給金は、
 世間並みのところより高く差し上げます」という内容。
  因みに、この日の記事は、大蔵卿井上馨の「官書公報」、
 二番手が「司法省より文部省へ御達ニ相成候書面ノ写」
 で、
  最下段には、郵便の出し方「宛名はしっかりと」とい
 った駅逓寮(のちの郵便局)布告があり、官報の趣が残
 っている。
1872年8月22日(7月19日)参議・西郷隆盛が、陸軍元帥と
 なり、近衛都督(このえととく、日本陸軍の近衛部隊の
 名称)を兼任する。
1872年8月(明治5年7月)本木昌造が、神田に印刷工場を創
 立した(1869年6年、長崎活版伝習所設立)
1872年8月(明治5年7月)ウサギを飼うことが流行した。
  1872年10月7日(9月5日)ウサギ市場を禁止した。
  今は、愛玩動物として、普通に飼われている兎だが、
 もともと日本には飼いウサギは居なかった。
  (野兎は居たが・・)、
  明治時代になって、海外から舶来品として輸入された
 飼いウサギに人々は熱中した。
  その内、珍しい品種に、高価な値段が付けられ、投機
 の対象となった。
  あちこちで兎会が開かれた。
  兎の価格はバブル状態となった。
  なかには、わざと兎に色を染めて、珍種として売りつ
 けるという詐欺事件も発生した。
  公的機関も、対策に乗り出した。
  大阪府は、1872年(明治5年)、「兎売買ノ市立・集会
 禁止」に関する布令を出した。
  そして、取締りを始めた。
  東京府は、重税が府達された。
  この達府後、急速に兎バブルは収束した。
  兎を、多数、養兎していた人が、破産に追い込まれた。
  その様な破産者が多数現れた。
  高騰していた兎が、5銭という超安値で叩き売られた。
  それでも処分できない兎が、多数、居た。
  別史料に・・、
  1873年(明治6年)、税法が、東京府により府達された。
  1876年(明治9年)に、兎取締規則に改正され、
  1879年(明治12年)に、廃止に至る。
  内容:
  ・飼育しているウサギの届出を義務化
  ・ウサギ飼育1匹に対して、月1円の税の徴収
  ・無届でウサギを飼育した場合、1匹につき2円の罰
   金。
  ・ウサギの兎会の催し禁止、及び、競売の禁止
  因みに、この頃の1円は、米30kgが購入できる額で、
  かなりの重税が課せられた。
1872年9月2日(7月30日)井上馨、人身売買の廃止を正院に
 建白し、同時に、人権の自由を説いた。
1872年9月3日(8月1日)わが国初の官立図書館「書籍館(
 しょじゃくかん)が、湯島聖堂内に開館した。
  1874年に、浅草文庫(浅草)となり、
  1875年に、元に戻り東京書籍館と改称し、
  1877年に、(図書を東京府に移管し)東京府書籍館と
 なり、
  1880年に、(文部省所管になり)東京図書館と改称し、
  1885年に、(湯島から上野公園へ移転し)
  1896年に、帝国図書館に昇格して、唯一の国立図書館
 になり、
  戦後の1949年に、国立国会図書館支部上野図書館にな
 り、
  2002年5月5日に、子ども向けを充実し「国立国会図書
 館支部上野図書館・国際子ども図書館」となった。
1872年9月4日(8月2日)、学制が公布される(学制発布)
  文部省が、国民の皆学を目指し、全国に学制を発布し
 た(9月5日説あり)
  近代教育発程の第一歩たる「学制」を制定(学区制と
 就学奨励)
  学制は、全国を大学区、中学区、小学区に区分し学区
 制によって小学校、中学校、大学校を設置した。
  小学校制度も決定し、下等小学4年、上等小学4年の計
 8年。
  長崎県は、九州でも重要視され第6大学区本部となっ
 た。
  中学区は、諌早・北高来郡第1中学区となり長崎の広
 運館を第1番中学校にした。
1872年9月5日(8月3日)司法職務定制を制定。
  この司法職務定制によって、検察官にあたるものとし
 て検事が置かれた。
  そして、刑事裁判の請求、及び、立会いに従事するも
 のとされた。
  初めは、検事が公訴権を独占していなくて、裁判所が、
 職権で審理を開始する場合も認められていた。
  しかし、数次の司法職務定制改正や、検察制度の理解
 の深化に伴って、不告不理の原則が確立され、検事が刑
 事訴追を行う専門機関として認知されて行った。
  不告不理の原則(ふこくふりのげんそく)とは、刑事
 訴訟法上、検察官の公訴の提起がないかぎり、裁判所は
 事件について審判を行わないという原則。
1872年9月7日(8月5日)府県裁判所(ふけんさいばんしょ)
 の設置開始(旧暦8月3日説あり)。
  府県裁判所は、1872年9月5日(明治5年8月3日)司法省
 によって定められた5種 (司法省臨時、司法省、出張、府
 県、区) の裁判所中の1つ。
  本裁判所が民事を始審し、刑事の懲役以下の判決をす
 る任務をもち、
  本裁判所をもたない府県では、地方官が裁判官を代行
 することなどが明示された。
1872年9月7日(8月5日)水戸に鎮台分営を設けた。
1872年9月12日(8月10日)天保山、及び、和田岬燈台が竣
 工した。
1872年9月28日(8月26日)開拓使・函館支庁の福士成豊(
 ふくしなりとよ、船大工、通訳、測量技師、気象観測者)
 が、プラキストンの観測機器を譲り受けて、自宅に設置
 し、気象観測をはじめた。
  函館気象測量所は、我が国の気象観測所における気象
 観測のはじまり。
  日本で最初の気象台となった。
  気温、気圧、曇天日数、雨雪日数、湿度、水蒸気張力、
 雨量、雪の溶解水容積などを測量した。
  後に、統計表は、航海術にも農業にも大いに役立つこ
 とになった。
  1939年1月11日(昭和14年)国営に移管、中央気象台函
 館測候所と改称した。
  ・東京、1875年6月1日、開設。
   東京府第2大区(赤坂区)溜池葵町内務省地理寮構
   内にて気象業務を開始。
   1887年1月1日、中央気象台として発足する。
   管轄は内務省
  ・札幌、1876年9月1日、開設。
   開拓使雇のウイリアム・ホィラーが、石狩国札幌区
   東創成通り教師舘内で観測を開始した。
   1879年10月28日、国営へ移管し、文部省所管となり、
   中央気象台札幌支台へ改称した。
  ・長崎、1878年7月1日、開設。
   内務省地理局長崎測候所が、初の国費により設置し
   た。
  ・広島、1879年1月1日、開設。
   明治政府に、国営で整備する余裕がなく、広島県が、
   広島測候所を設置した。
   1939年11月1日に、国営に移管した。
   中央気象台広島測候所となった。
1872年9月14日(8月12日)貢租米の金納が許可される。
1872年10月2日(8月30日)農民間の身分制を禁じ、職業の
 自由が許可された。
  家抱・水呑百姓解散と農民職業自由許可。
1872年10月2日(8月30日)上田虎之助が、新橋駅停車場構
 内で西洋食物店の営業をはじめた。
  駅を利用する乗降客や見送り、出迎えの客などのニー
 ズに応えて作られた(6月30日?)
1872年10月9日(9月7日)東京~大阪間の電信が開通した
 (1872年4月説あり)
  1869年(明治2年)には、東京~横浜間で電信(公衆電
 報)業務が開始され、
  これによって、国内初となる電気通信事業が始まった。
  以後、官用通信や新聞報道、あるいは、相場などの金
 融商業通信が増加の一途をたどった。
  そこで、通信設備の充実と電信線の拡充とが急務にな
 った。
  しかし、当時、通信設備の日本における電信技術は、
 欧米に比べると圧倒的に劣っており、
  電信機についても、高額な輸入品に依存せざるをえな
 かった。
  このため、明治政府は、工部省に製機掛(後に製機所)
 を設置した。
  そして、電信機の国産化を目指した(1879年に至り10
 台が製作され、1906年に302台が製作された)。
  電信線についても、明治政府は、驚異的なスピードで、
 建設工事を進めていった。
  政府が工事を急いだのは、短い区間では電信のメリッ
 トを十分に享受することができないこと、
  そして、政府機構の国家の基盤を確立するために、通
 信網を整備する必要があった。
  それ故、1971年8月に、新たに創設された工部省は、ま
 ず、東京~長崎間の電信線の架設に着手した。
  この時のお雇い外国人は、、イギリス人監督長エドガ
 ー・ジョージだった。
  全区間を6分して着工したが、工事は困難を極め、その
 過程で、電柱の転倒や、電線の切断などの民衆の妨害に
 も遭遇した。
  1872年4月に、京都~大阪間が開通した。
  そして、1873年2月に、神戸~長崎間が開通し、東京~
 長崎の全線が結ばれた。
1872年10月14日(9月12日)新橋~横浜間の鉄道の開業式が
 行われた(鉄道記念日)
  新橋~横浜間で鉄道営業がスタート。
  横浜~新橋間に鉄道が開業した。
  京浜鉄道成る(氷川清話)
  日本の鉄道が、品川=横浜(現在の桜木町)間の29キ
 ロの仮営業で開始された。
  新橋~横浜間の日本で初めての鉄道が仮営業から正式
 開業
  開業の式典が催され、明治天皇陛下のお召列車が横浜
 まで往復した。
  10月15日(9月13日)鶴見駅が開業し、旅客営業が開始
 された。
1872年10月15日(9月13日)マリア・ルズ号の清国人労働者
 を清国使節に引き渡す。
1872年10月16日(9月14日)尚 泰王(しょう たいおう)が、
 琉球藩主に封ぜられた。
  (在位:1872年10月16日 ~ 1879年4月4日)、
  琉球は、薩摩藩の附庸国、かつ、清の朝貢国として一
 定の独自性を保っていたが、
  他府県の廃藩置県も済んだ1872年に、琉球国王尚泰を
 琉球藩王に封じて華族とし、東京に藩邸を構えた。
  附庸:(ふよう)宗主国に従属してその保護と支配を
 受けている。
  琉球王を華族に列す(氷川清話)
1872年10月18日(9月16日)釜山草梁倭館を外務省に接収し
 て大日本公館と改称した。
1872年10月26日(9月24日)横浜に、ガス灯が灯る。
  日本最初のガス燈が、横浜に点火された(旧暦9月29日
 説あり)
  ドイツの商会が、神奈川県のガス会社建設の申請をし
 たため、外国に権益を奪われることを憂い、
  「日本社中」が結成された。
  そして、高島嘉右衛門は、ガス会社建設の権利を得て、
 フランス人技師を招き、1872年に、ガス工場(横浜瓦斯
 会社)を建設した。
  1872年10月31日(明治5年9月29日)夕刻、横浜の地:
 横浜の大江橋(桜木町駅近く現在の国道16号橋)から馬
 車道・本町通界隈に設置されたガス灯を灯した。
  翌年の1873年には、銀座にもガス灯が建設された。
  因みに、高島嘉右衛門は、横浜港の埋め立て事業を手掛け、
 この事により横浜の発展に寄与した事から、「横浜の父」
 といわれている。
  彼の業績により「高島町」という地名が残っている。
  別史料には・・(本件は食い違いが多い)、
  1872年10月31日、横浜に、我が国の初のガス灯が点灯
 した。
  1870年(明治3年)、高島嘉右衛門によって中区花咲
 町のこの地に、ガス会社が設立された。 
  高島は、フランス人技師アンリ・プレグランを招いて、
  1872年10月31日(明治5年9月29日)、神奈川県庁付近
 および大江橋から馬車道本町通りまでの間にガス街灯十
 数基を点灯した。 
  これがわが国ガス事業の発祥である。 
  1874年、銀座通りにガス灯が点灯した。
  1885年10月、東京府から東京瓦斯局の払い下げを受け、
 渋沢栄一らによって東京瓦斯会社として創立された。
  1944年11月、横浜市瓦斯局と合併した。
1872年10月26日(9月24日)メートル原器が制定された。
1872年11月2日(10月2日)芸娼妓解放令
  娼妓年季奉公廃止令、
  娼妓解放令(しょうぎかいほうれい)
  人身売買禁止と娼妓・年季奉公人解放、遊女・飯盛女
 解放、
  人身売買ヲ禁シ諸奉公人年限ヲ定メ芸娼妓ヲ開放シ之
 ニ付テノ貸借訴訟ハ取上ケスノ件
  人身売買を禁じた太政官達第295号。
  1872年(明治5)10月2日布告。
  年季奉公等の名目で売買同様のことが行われてきたの
 を禁じ、奉公は年限を定め、娼妓芸妓等を解放するよう
 命じた。
  続いて出された司法省達第22号では〈娼妓芸妓ハ人身
 ノ権利ヲ失フ者ニテ牛馬ニ異ナラス〉として、過去の借
 金を返すよう求めることはできないと定めた。
1872年11月3日(10月3日)新橋~横浜間の鉄道専用の電信
 が開設された。
1872年11月4日(10月4日)官営の富岡製糸場が開業した。
  富岡製糸場が、操業を開始した。
  (「富国強兵」の旗印、模範官営工場スタート)
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
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2016年3月6日日曜日

臨時ブログ:キリスト教が、『平和主義的』であったなら、既に絶命しているか、弱小セクトに留まっていただろう

 臨時ブログ:キリスト教が、『平和主義的』であったなら、既に絶命しているか、弱小セクトに留まっていただろう
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
 .
  キリスト教の歴史は、戦争と殺戮ばかりだった。
  キリスト教のために、本当に多くの方々が亡くなった。
  しかし、キリスト教は、「シャローム」という言葉が
 好きだ。
  シャロームというヘブライ語は、キリスト教は「平和」
 を意味していると言っている、そう思っている。
  キリスト教系幼稚園の名前にしているくらいだ。
  しかし、このシャロームという言葉は、「戦いで勝つ
 ことで得られた『平和』を意味している」。
  戦いを前提としている平和の意味なのである。
  武力によって、異教徒たちを殺戮し、その異教徒の方々
 が居なくなった「平和」を意味しているのである。
  まったく「キリスト教的な平和」なのである。
  また、キリスト教は、「隣人愛」で愛を説いていると
 言うが、
  この言葉もまったく都合よく使われている。
  このキリスト教の隣人愛は、「同じ宗教を信じ」「同
 じ地域に住み」「同じ民族の人」に対しての愛が、キリ
 スト教のこの隣人愛なのである。
  平和でも何でもなく、また、愛と言ってもごく狭い愛
 を意味している。
  愛を説いているという代物ではない。
  キリスト教の新約聖書には、戦争を否定する記述は、
 まったくない。
  この事は、後述する同志社大学の学長も言われている。
  キリスト教は、戦争肯定の立場ではないか?と疑われ
 る宗教であり、また、聖書(書物)である。
  その所をはっきりと説明した研究者が居る。
  同志社大学の学長・村田晃嗣氏は・・、
  聖書の事を「恣意的(しいてき、何の論理的な必然性
 が無く)に聖書の記述を選択し、個人の主張を正当化す
 るための書物だ」と言う。
  この氏の言葉は、早く言えば、「気休めの書物だ」と
 言っている様なものである。
  だから、示唆を与えるような書物ではないと言外に否
 定している。
  個人が、勝手に好きなキリスト教聖書の記述を読み、
 そして、勝手に自分を正当化するために聖書はあるのだ
 と言う。
  また、氏は、本「キリスト教と戦争」(石川暁人著)
 を紹介し、
  この本の筆者が、「キリスト教が、『平和主義的』で
 あったなら、既に絶命しているか、弱小セクトに留まっ
 ていただろう」という著者の記述を紹介している。
  その通りであろう。
  イギリスは、キリスト教の記述通りに、世界中を殺戮
 し、「(キリスト教の)神の義があれば、人を誅しても
 良い」のキリスト教の考え方・論理・教義を、蛮行を行
 なった。
  そして、同志社大学長の村田氏は言う・・、
  「キリスト教が真理であるから、世界に広まったと言
 うのは傲慢だ」・・と。
  そして、広めるために平和を説いていると強調せざる
 を得ない宗教としてのやむを得ない所があった・・と言
 う。
   (読売新聞、2016・2・28)の書評より。
  明治期のキリスト教に引かれた人たちは、キリスト教
 の情報不足で完全に見誤っている。
  この様な明治期の新島襄が、見誤りのキリスト教の立
 場から創立した同志社大学。
  その学長が、今・現代、この様な書評を書く時代、書
 かざるを得ない時代になったかという感である。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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または
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