ページビューの合計

2016年9月24日土曜日

(増補版)423E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1886年4月~1886年4月)

題:(増補版)423E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1886年4月~1886年4月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1886年4月28日、帝国大学が、詰襟洋服を制服とし、菱形帽
 を制帽と決定した。
1886年4月28日、農商務省の兵庫造船所を、川崎正蔵に貸下
 げた。
  造船王と言われるまでになる。
  川崎 正蔵(かわさき しょうぞう、1836年8月10日(天
 保7年7月10日)~大正元年(1912年)12月2日)、
  日本の実業家、政治家。神戸川崎財閥の創設者。
  川崎造船所(後の川崎重工業)創業者、貴族院議員。
 男爵。従五位。
  1836年、鹿児島の小さな商家・町人の家・長男に生れ、
  独学で国学や英語を学ぶ、
  巨大海商の山木屋へ就職し、鹿児島と長崎で海運、貿
 易、造船に従事した。
  大阪での小売商をへて、
  1853年(17歳)で、長崎へ出て、貿易企業に従事する。
  そして、異人商会相手の商売を身につけ、薩摩藩の経
 済官僚となる。
  1863年(27歳)のとき、大阪へ出て、物産店を開業、
 鹿児島との雑貨の交易を業とした。
  この間、二度、乗船が遭難し、そのときの経験から西
 洋船舶に強い信頼を抱くと同時に、その建造に乗り出す
 意思を固めたといわれる。
  明治維新の動乱に際し勤王志士を助け、
  1871年(35歳)上京、大蔵省から琉球特産品の調査を
 依頼される。その縁から、
  1873年(37歳)郵便蒸気船会社の副頭取となる。
  副頭取として、琉球航路の開設に成功した。
  同社が、三菱(みつびし)会社に合併されると、彼は、
 一時、三菱に属した。
  大久保利通、前島密らの知遇を得た、
  1877年(41歳)には、琉球(りゅうきゅう)官糖取扱店
 を開き、
  さらに、海運業も営むなど、多角的に事業を経営し、
 この利益は、創業当初の造船業を支えた。
  1878年(42歳)5月、東京京橋区築地に川崎造船所を創
 業(この創業は、大蔵省から官有地と、3万円を借用し、
 また、諸戸清六や森村市左衛門の融資を得たのだった)
  そして、創業後は、五代友厚から初期の運転資金の援
 助を受けた。
  1880年(44歳)沖縄県貢糖の特権的販売人に任命され
 て多額の手数料を得た。
  また、海運業や川崎紡績所の経営で資本を蓄積した。
  1881年(45歳)さらに兵庫造船所を建設して開設。
  1886年(50歳)4月、官営兵庫造船所の貸下げを申請し
 て認められ、貸し下げを受け、経営の合理化を行った上
 で、
  1887年7月(51歳)払い下げが許可され、1割利引計算
 法によって約6万円を即納し、
  私営の川崎造船所としてスタートした。
  「商戦は最初の5分間」「大厦の材は一丘の木にあらず」
 を経営のモットーとし、市場の拡大のために奔走して造
 船所を拡大した。しかし、
  1896年(60歳)10月に、施設の拡充を遂行するため同
 所を株式会社に改組し、この株式会社に組織変更したと
 きに松方幸次郎を社長に就任させ、
  自らは、病気のため顧問に退いた。
  新会社の2万株の大株主として死去するまでに187万円
 の莫大な配当を得た。
  これで、多数の株式と土地を購入し、
  1898年(62歳)に、神戸新聞社、
  1905年(69歳)に、神戸川崎銀行、
  1906年(70歳)に、朝鮮に川崎開成社という小作農場
 を設立した。
  美術品の収集家としても知られ、神戸布引の本邸内に
 長春閣という美術館を設けて、政財界人と交歓した。
  人脈作りの才能を持ち、大久保利通、松方正義、五代
 友厚らと熱い交友を持ち、関係者や友人に愛された。
1886年4月29日、師範学校令に基づき「高等師範学校」とし
 て改編・設立した。
  中等学校と小学校の教員養成をあわせ行なってきた従
 来の制度を改め、尋常師範学校教員の養成を中心とする
 機関とし、
  また、附属体操伝習所を廃止し、体操専修科を設置し
 た。
1886年4月29日、商船学校、高等師範学校などの官制交付
  高等師範学校・高等中学校・東京商業学校の各官制の
 公布。
  また、東京大学予備門を第一高等中学校に、大阪大学
 分校を第三高等中学校に、東京師範学校を高等師範学校
 と改組した。
.
  (今日の言葉)
.
  題:サンフランシスコ講和条約にからむ話で・・、
    何とも・・滑稽(こっけい)な話が・・
.
  日本が、第二次世界大戦に敗けて・・、
  1951年の、サンフランシスコ講和条約で、再び、独立
 を果たした・・が・・、
.
1951年(昭和26年)7月9日、ダレス国務長官補は、韓国大
 使との会談で、「韓国は、日本と戦争状態にあったこと
 はなく、連合国共同宣言にも署名していない」ことを理
 由に、韓国は講和条約署名国となれないことを、再度、
 正式に通知した。
  この韓国の嫌になるくらいの粘り強さを、学ばなけれ
 ばならない。
.
1951年8月10日、韓国の要求に対して、アメリカは、ラスク
 書簡で要求を拒否した。
  韓国側は、日本の在朝鮮半島資産の韓国政府、および、
 アメリカ軍政庁への移管、竹島・波浪島の韓国領編入、
 マッカーサー・ラインの継続などを記した要望書を提出
 したうえで「十分な信頼と信任により平和を愛する世界
 の国々との機構への日本人の受け入れに反対する」と、
  日本を国際社会に復帰させようとする対日講和条約締
 結に反対した。
  これに対し、アメリカは、1951年8月10日に、ラスク書
 簡で最終回答を行い、
  在朝鮮半島の日本資産の移管についてのみ認め、韓国
 のほかの要求を拒否した。
  この韓国の嫌になるくらいの粘り強さを、学ばなけれ
 ばならない。
.
1951年8月22日、韓国の要求に対して、アメリカは、ラスク
 書簡で、再度、要求を拒否した。
  通知後も韓国は、「署名国」としての地位の要求を継
 続した。
  これに対してダレスは、1951年(昭和26年)8月22日に、
 韓国大使の署名要求を、再度、拒否するとともに、
  講和会議へのオブザーバー資格での参加も拒否した。
  ただ「非公式の参加は可能」と回答した。
  この韓国の嫌になるくらいの粘り強さを、学ばなけれ
 ばならない。
.
1951年9月8日、この日に、サンフランシスコ条約が締結さ
 れたが、韓国は、日本と日韓併合で一体となっていたの
 で、当然、国として認められず、署名国として招請(し
 ょうせい、招き迎えること)されていなかった。
  それに対し・・
  韓国は、「署名国」としての参加を度々表明し、一時
 は署名国リストにも掲載されていたが、
  当時の大韓帝国は、日本に併合され、
  また、大韓民国臨時政府を承認した国も存在せず、
  また、他の亡命政府のような「大韓民国臨時政府」の
 指揮下にある軍も存在しておらず、日本と交戦していな
 かったため招請されなかった。
  当然である。
  この韓国の嫌になるくらいの粘り強さを、学ばなけれ
 ばならない。
.
1951年(昭和26年)9月8日、サンフランシスコ講和条約が
 結ばれた(署名された)。
  日本は独立した。
  アメリカの主導する占領から解放された。
  国際社会に、独立国として、堂々と復帰した。
  しかし、この時、締結した「サンフランシスコ講和条
 約の条項」に、卑劣にも書かれた条項を、日本は、守ら
 なくてはならなかった。
  それは、「日本は、東京裁判(極東国際軍事裁判)の
 判決を受諾し・・刑を執行する・・」「裁判によって言
 い渡された判決」を受け入れるという事だった。
  日本の軍人を、日本の兵士を(日韓併合で日本国だっ
 た、そして、日本人だった韓国の兵士も判決を受けてい
 た)東京裁判で判決し、殺したりしたが、受け入れよと
 言うものだった。
  東京裁判で死刑判決になった人がいたが、これも、ま
 ったく卑劣に決められた。
  日本が敗れると分かっていたころ、東京で裁判が行わ
 れる以前に、すでに、連合国は、誰を死刑にするかを決
 めていた。
  公正な裁判が行われて、その結果、死刑になったとい
 う事ではなかった。
  裁判をして、公正に死刑になりましたという風に、世
 界へ演技をして見せかけただけだった。
  アメリカなどの連合国は、すでに死刑にしたい人間を
 決めていて、裁判をするという演技をしていた。
  卑劣である。
  アメリカは、「東条英機を死刑にしたい」と打ち合わ
 せで言った。
  中国国民政府(今の中国共産党政権の国ではない、日
 本と戦争をしてない国ではない)は、「板垣、土肥原、
 松井・・」と言い、
  ソ連は、「広田弘毅・・云々」と言い、
  各国が、好きに、裁判の判決もないのに言いたい放題
 だった。
  リンチ(私刑)の見本のような下劣な事をやった。
  そして、東京裁判の演技裁判が行われて、日本の軍人
 (兵士)たちは責任を取らされた。
  これが、サンフランシスコ講和条約に書かれて、「受
 け入れよ」とされていた。
  まったく卑劣に、連合国の国際的取引のまな板の上で、
 日本の兵士の命がやり取りされていた。
  また、この条約は、英語・フランス語・スペイン語が、
 正式の正本とされ、日本語は正本とされなかった。
  つまり、下記の日本語の条約は、サンフランシスコ講
 和条約の正式な条文ではない。
  下記の日本語の条文に、間違いが無ければ問題はない
 が、下記の条文には間違いがある。
  正本との違いがある。
  それが、肝心かなめな間違いであるから、問題は大き
 いのである。
  つまり、日本は、「東京裁判の結果を受け入れよ」と
 言われたのではなく、
  「東京裁判の判決の結果を受け入れよ」と言われてい
 たのであった。
  「判決の結果だけを受け入れるのと」「裁判の全体を
 意味する裁判を受け入れよ」とは大きな違いがある。
  翻訳のミスがあったのだ。
  戦後、東京裁判史観があるが・・?、
  こんな単純ミスから、日本人は、律義に・正直に・誠
 実に、『東京裁判の全体』を受け入れ、
  自虐史観に陥(おちい)っているのが?
  なんとも滑稽な話」となっている。
.
  (参考)
  サンフランシスコ講和条約:第十一条
  日本国は、極東国際軍事裁判所、並びに、日本国内、
 及び、国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾し、
  且つ、日本国で拘禁されている日本国民に、これらの
 法廷が課した刑を執行するものとする。
  これらの拘禁されている者を赦免し、減刑し、及び、
 仮出獄させる権限は、各事件について、刑を課した一又
 は二以上の政府の決定、及び、日本国の勧告に基く場合
 の外、行使することができない。
  極東国際軍事裁判所が刑を宣告した者については、こ
 の権限は、裁判所に代表者を出した政府の過半数の決定、
 及び、日本国の勧告に基く場合の外、行使することがで
 きない。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
 

2016年9月23日金曜日

(増補版)422E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1886年2月~1886年4月)

題:(増補版)422E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1886年2月~1886年4月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1886年2月24日、法律命令の格式を制定(公文式)
  公文式が公布された。
  公文式(こうぶんしき:法律・命令の公布方法を規定
 した日本の旧法令(明治19年勅令第1号)。
  法律から各官庁規則までの形式を定めたもの。
1886年2月26日、主要各省の官制を公布
  各大臣の職務を規定、
1886年2月27日、各省官制通則を公布
  職種・指揮命令系統を定める。
  外務省、内務省、陸軍省、海軍省、司法省、文部省、
 農商務省、逓信省の通則と各省官制が公布される。
  内務省には衛生局が置かれ、局内に衛生課と医療課が
 置かれた。
1886年2月28日、六鎮台を廃し、師団とした(東京・仙台・
 名古屋・大阪・広島・熊本)
1886年2月、最初の修学旅行
  東京師範学校(後の東京高等師範学校、東京教育大学)
 が、11泊12日の日程で実施した、東京と千葉県銚子(ちょ
 うし)の間を徒歩で往復する長途遠足に始まるのが最初と
 いう。
  心身の鍛錬と、規律正しい集団行動を目ざす兵式訓練
 的要素と、
  その当時、流行だった直観教授の主張、すなわち、実
 物に触れることを重視する教育理論に基づく校外学習の
 要素、
  親睦(しんぼく)の要素で実施された。
  今日の修学旅行の原型。
  修学旅行という用語は、1888年の「尋常師範学校設備
 準則」に初めて使われた。
  修学旅行は、1900年代に入ると、小学校の高学年に行
 なう例が普及した。
  1899年に、当時の日本鉄道会社が、50人以上の団体に
 対して割引料金制度を導入したことによる促進もされた。
1886年3月1日、名古屋~武豊間に鉄道が開通した。
  武豊駅~熱田駅間が開業(武豊線・たけとよせん)
1886年3月1日、東京教育博物館から東京図書館が分離独立
 した。
1886年3月1日、帝国大学の創立記念日(帝国大学発足)
  帝国大学令の制定にともなって記念日と定めた。
  官立東京大学は、帝国大学と改組改称された。
  法・医・工・文・理の5分科大学から成る総合大学。
  東京大学発足
  公布は翌日2日。
1886年3月2日、帝国大学令の公布
  森有礼文相が、帝国大学令を公布し施行した。
  学校令とは、、この時に、諸種の学校を総合規定して
 いた教育令が廃止されて、
  同年・1886年3月~4月に公布された帝国大学令、師範
 学校令、小学校令、中学校令、諸学校通則の5単行勅令を
 さす教義の学校令で・・、
  広義には、それ以降、1947年3月の学校教育法により、
 再び、大学から幼稚園までの諸学校が総合規定されるま
 での間に公布された、学校種別単行勅令の総称をいう。
  そして、日本の帝国大学制度は、1880年代に入って、
 憲法の制定作業に入った伊藤博文(当時、参議)らによっ
 て構想された。
  プロイセン・ドイツやオーストリアの国法学者たちから
 大学の国家経営が重要であることを学んできた伊藤は、
  1885年、内閣を組織するとともに、初代文相・森有礼
 とはかって、帝国を代表する政府直轄の大学の設立に入
 り、
  翌・1886年、帝国大学令を制定した。
  それは、分科大学と大学院から成る総合大学で、
  〈国家ノ須要ニ応スル〉(帝国大学令1条)専門教育と学
 術研究を進める機関とされ、学位審査権も与えられた。
  日本の先達の方たちは、誠実に、他国に学んで、日本
 を良くしようと燃えていた・・、
1886年3月3日、各省に次官を置いた。
  この時に、各省官制が制定され、次官職が誕生した。
  直後には、次官を含む局長級以上の勅任官は、文官任
 用令には何も規定がなかった。
1886年3月9日、初代東京府知事(兼東京市長)に議官・高
 崎五六(たかさきごろく)が任命された。
  高崎 五六(1836年4月4日(天保7年2月19日)~1896年
 (明治29年)5月6日)、江戸時代末期の薩摩藩士、
  安政末期、水戸藩有志とともに井伊直弼襲撃を策謀し
 た。
  維新後、大久保利通に用いられて、元老院議官。
1886年3月18日、参謀本部条例を改正した。
  陸軍部と海軍部に分けられた。
  長は参謀本部長で、次長が2名置かれた。
1886年3月18日、名古屋に株式取引所が設立された。
  東京株式取引所設立から8年後に設立された。
1886年3月21日、物集高見(もずめたかみ、国学者)が、
 「言文一致」を発表して、口語体文章を主張した。
  この年の3月、帝国大学教授に任ぜられ、さらに、東京
 師範学校(東京教育大学、筑波大学の前身)や文部省参
 事官を兼任した。
  この当時、三遊亭円朝の講談速記がもてはやされ、
  また、文章の方面でも、この年に、矢野文雄の「日本
 文体文字新論」、末松謙澄の「日本文章論」が出たりし
 た。
  文芸の上でも、坪内逍遥の「小説真髄」など新思潮の
 動きが活発だった。
  これらの情勢から言文一致体の小説が生まれて来た。
1886年3月22日、東京・本郷に共立女子職業学校(現=共立
 女子大学)が開校した。
  宮川保全、那珂通世などによって設立された。
1886年3月22日、海軍軍事部が廃止された。
1886年3月23日、帝国大学大学院規程が制定された。
1886年3月26日、税関官制が公布された。
1886年3月29日、郵便汽船三菱が、三菱社と改名した。
1886年3月31日、井上馨外相が 、日清修好条規改正を清国
 政府へ提議するよう、公使・塩田三郎に指示した。
  日清修好条規(にっしんしゅうこうじょうき)は・・、
  1871年9月13日(明治4年7月29日)に、天津で、日本と
 清の間で初めて結ばれた対等条約で・・内容には・・、
  ・両国は、互いの「邦土」への「侵越」を控える(第1
   条)
  ・外交使節の交換、および、双方に領事を駐在させる
   (第4条、第8条)
  ・両国の交渉には漢文を用い、和文を用いるときには
   漢文を添える(第6条)
  ・制限的な領事裁判権をお互いに認める(第8条、第9
   条、第13条)
  ・両国の開港場では刀剣の携帯を禁じる(第11条)
  ・通商関係については、欧米列強に準ずる待遇(最恵
   国待遇・協定関税率)をお互いに認め合う
   ・・など、といった内容であった。
  この条約は、欧米列強から軍事同盟の密約の疑惑を持
 たれるなどしていた。
  また、領事裁判権の存在などに対する反対論があった。
  そのため、批准が遅れるという事情があった。
  そして、この相互治外法権が、最恵国待遇条項のため、
 欧米諸国から余計な非難を受け、欧米列強と日本との治
 外法権を撤廃をさせる足かせとなっていた。
  しかし、清国は、相互治外法権の撤廃という改正に応
 じようとしなかった。
  日本としては、国の近代化のために、この欧米との不
 平等な条約を改正することが急務だった。
  日本は、諸外国との条約改正会議を、1886年5月1日に
 開催して、1887年7月まで続け、努力する。
  因みに、朝鮮を自主独立の国と認めたのは、日本とア
 メリカだけだった。
1886年3月31日、大木喬任・民法編纂局総裁が、民法第2、
 第3草案を内閣に提出した。
  民法編纂局は廃止され、民法起草業務が司法省へ移っ
 た。
  日本の明治前半期の最重要課題は、諸外国の従属的な
 国と民族とを完全に独立させることだった。
  日本は、形の上では独立国だったが、列強の思うがま
 まの条約に於いて従属国であった。
  不平等で片務的な条約を対等な条約に改正することが
 最重要課題であった、そして、その為にも、国内の法典
 の編纂と整備が急務だった。
  当初は、「『フランス』民法を以って日本民法と為さ
 んとす」とされた。
  そして、「誤訳も亦妨げず、唯速訳せよ」と江藤新平
 は箕作麟祥に命じた。
  今思えば、フランス民法が、即、日本民法となって、
 問題ないと言えば無理な相談だった・・が、その様な日
 本だった。
  富国強兵、殖産興業を急がねば、日本は危ういという
 意識が根底にあった・・、
  日本の明治政府は、1873年に、ボワソナードを招聘し
 た。
  しかし、ボワソナードは、大木喬任から民法典起草を
 付託されたが、完全なる法学者でもなかった。
  そして、日本はこれから生みの苦しみをして行く・・、
  民法典編纂局における編纂作業、
  1886年の民法編纂局の閉局と、民法典草案の内閣への
 上申、
  元老院への下付と、返上・・、
  委員長を山田顕義とする法律取調委員会の設置と、
  1887年の法律取調委員会の移管、
  1888年の法律取調委員会案の内閣への上申、
  元老院での審議、
  枢密院での審議、
  1890年の閣議決定と公布・・と・・、
  (参考:中央学院大学、大久保輝氏の論文より)
1886年、体育会が設立された。
  帝国大学運動会が組織された。
  これは、日本の学校での体育会・校友会組織の最初の
 もの。
1886年4月3日、改進党大会で地方自治・言論集会の自由の
 2件を政府に建議することを決議した(4月4日説あり)
1886年4月4日、東洋絵画共進会が開催された。
  (於:上野公園)
1886年4月、帝国大学の制服と制帽を定めた。
1886年4月10日、学校令、師範学校令・小学校令・中学校令、
 諸学校通則を公布する(4月9日説あり)
  教科書の採用は認可制を改め、小学校令・中学校令に
 より検定制となった。
1886年4月16日、メートル法が公布された(4月20日説あり)
  日本でメートル条約が公布され、前年のメートル条約
 への加盟による。
  しかし、日本に定着せず、尺貫法が広く用いられた。
  1891年(明治24年)3月24日、度量衡法(明治24年法律
 第3号)が制定された。
  尺・貫をそれぞれ定義しメートル法の計量も認める間
 接的なメートル法採用体系で、尺貫法という言葉ができ
 た。
1886年4月17日、会計検査院官制が公布された。
  造幣局、印刷局と共に、会計検査院の官制が公布され
 た。
  因みに、会計検査院は、1869年(明治2年)に、太政官
 (内閣の前身)のうちの会計官(財務省の前身)の一部
 局として設けられた監督司を前身として、
  その後、検査寮、検査局と名称の変遷を経て、
  1880年(明治13年)に、太政官に直属する財政監督機
 関として誕生した。
  そして、1889年(明治22年)、大日本帝国憲法が発布
 されるとともに、会計検査院は、憲法に定められた機関
 となった。
  以後60年間、天皇陛下に直属する独立の官庁として財
 政監督を行って来た。
1886年4月20日、外務大臣の井上馨が、青木周蔵を条約改正
 全権委員に任命した。
  第一次伊藤内閣の井上馨外務大臣は、外務次官として
 青木周蔵を任命した。
  そして、井上馨と青木周蔵は、条約改正全権委員に任
 命された。
  やっと、条約改正への動きが活発化する。
  青木周蔵は、1887年まで、井上外交を支えた。
  列強各国は、明治になって20年になんなんとするこの
 時まで、列強の立場を享受していた。
  進んで公正に、そして、公平にしようという気は、さ
 らさらなかった。
1886年4月22日、海軍条例が制定される(4月26日説あり)
  海軍条例が公布され、5海軍区と鎮守府が設置された。
  全国が、5つの「海軍区」を定められて、
  横須賀鎮守府は、第一海軍区として「陸中陸奥国界ヨ
 リ紀伊国南牟婁東牟婁郡界ニ至ノ海岸海面及小笠原島ノ
 海岸海面」を所管した。
  また、「鎮守府官制」により、鎮守府の組織として参
 謀部・軍医部・主計部・造船部・兵器部・建築部・軍法
 会議・監獄署などが置かれた。
1886年4月27日、ドイツ人建築家のベックマンが来日した。
  ヴィルヘルム・ベックマン(1832年1月29日~1902年10
 月22日)、ドイツの建築家は、
  この時、ジェームス・ホープレヒト、バウマイスター
 のR・フォークトらと来日した。
  東京を、近代国家の首都として整備しようとした明治
 政府に招聘された。
  2か月の間に、東京の地形などを調査し、都市計画案、
 議事堂・司法省・裁判所の概略案を作成し、帰国した。
  ベックマンの都市計画案は、パリやベルリンに匹敵す
 るような壮大なバロック都市計画であった。
  しかし、財政上困難であり、まもなく計画は縮小され
 た。
  1887年になり、ベルリンでまとめられた議事堂などの
 設計案を持ってエンデが来日した。
  しかし、エンデ帰国の直後に外務大臣・井上馨が辞任
 したことで、官庁集中計画そのものが頓挫することにな
 った。
  議事堂・司法省・裁判所の設計は続けられたが、
  1890年、エンデ・ベックマンとの契約も解除された。
.
  (今日の言葉)
.
  題:アメリカのブッシュ大統領が靖国神社に参拝したいと言った・・、
.
2002年2月、アメリカのブッシュ大統領が、靖国神社に参拝
 したいと言った。
  訪日の際、日本の首相と一緒に参拝したいという希望
 を、日本は申し込まれた。
  日本の外務省は、「近隣諸国への配慮」という理由か
 ら、「変更して欲しい」と、願い出た。
  結局、明治天皇陛下が祀られている明治神宮になり、
  アメリカのブッシュ大統領は、日本の首相と一緒に、
 明治神宮を参拝した。
  アメリカは、アメリカのマッカーサーが主導したGH
 Qが発令した「神道指令」が、すでに、まったく関係な
 いものに、なっていることを示した。
  中国がとやかく言う話は、「過去の話」「済んだ話」
 になったという事を示した。
  そして・・、
  2002年5月には、在日するアメリカ軍が、靖国神社へ集
 団で参拝した。
  アメリカ軍の将校クラスが、「自分たちを同じ、命を
 かけて国を守ろうという使命感を持った軍人たちに、敬
 意を表して参拝するのは当然である」・・と、その理由
 を示した。
  そして、大きな花輪を献花した。
  中国共産党政権が、戦勝国でも何でもない国が、戦勝
 国のように振る舞うのは・・何ともおかしい。
  そして、この靖国神社への参拝について、とやかく言
 うのはおかしい。
  今、各国の武官(大使館付軍人)は、靖国神社へ、普
 通に、そして、常に、靖国神社へ詣でて、参拝している、
  その行為をし続けている。
  なんだかんだと言うのは中国共産党政権だけである。
  何が、権利があって言うのか?
  今や、国際社会は、靖国神社を、日本という国におけ
 る、敬意を表すべき第一の「本来の戦没者慰霊施設」と
 している。
  中国共産党政権は・・おかしい。
.
  そして、次の話・・
.
2002年6月、靖国神社へ慰霊・参拝するとしても、「政教分
 離してない」という批判は・・間違い。
  アメリカで定着している考え方を示すと・・、
  2002年6月、アメリカで、宗教と国家をめぐる裁判の事
 例がある。
  アメリカの公立学校では、毎朝、子供たちが「アメリ
 カ国旗に対する忠誠を誓う」という宣誓の言葉を唱和し
 ている。
  日本でもしてもらいたい行為である・・、
  そして、このアメリカで、子供たちがしている唱和の
 言葉の中に「神のもとに」という宗教的な表現がある。
  この事が・・裁判となって争われた。
  「憲法に謳われた宗教の自由、あるいは、政教分離を
 侵している」と訴えられた・・、
  そして・・、裁判の判決は、この訴えを認めた・・、
  この訴えを・・支持した。
  「違憲だ」・・と、訴えが肯定された。
  ところが・・、
  アメリカ全土から、この判決に対する抗議が起きた・・
 沸き起こった。
  アメリカ議会も、急遽、この問題を取り上げ・・、
  そして、圧倒的多数で、この判決が否認された・・
  そして、決議された。
  アメリカの国民の方々、および、議会が持っている考
 え方は、当然、信教の自由と、政教分離という大原則は
 肯定している・・しかし、より深い解釈をしたのである・・
  当然、その様な大原則は・・持ちながらも・・、
  国家のアイデンティティの拠り所を崩してはいけない
 という・・考え方であった。
  この考え方が、アメリカでは定着している・・
  日本も、当然、同様である・・
  今、日本の状況において・・、
  公共放送と言う立場のNHKは、日本の国旗・日の丸
 を、
  そして、日本の国歌・君が代を・・、
  非常に蔑ろ(ないがしろ、厳然とあるのに、無いかの
 ように軽んずること)にしている。
  日本は、この件についてはおとなしいが・・
  この件の、このNHKの行為は、アメリカでは、「裁
 判で、敗訴する行為である」・・、
  NHKは、日本の、日本人の大切なアイデンティティ
 を崩壊させようとしている。
  また、日教組が、NHKと同様な行動をしている。
  教科書に掲載されているのに・・、
  子供たちへの教育を怠る(おこたる、しなければいけ
 ない行為を、なまける)行為をしている。
  また、キリスト教も、国旗掲揚と国歌斉唱に反対して
 いる。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
 

2016年9月21日水曜日

(増補版)421E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1886年1月~1886年2月)

題:(増補版)421E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1886年1月~1886年2月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1886年1月1日、正貨兌換を開始する(銀本位制) 
  1886年を政府紙幣の銀兌換開始と書いてある史料が多
 いのですが、
  (注) 何と!・・
  日本銀行金融研究所貨幣博物館のホームページには、
 1885年(明治18年)、日本銀行券(兌換銀券)の発行開
 始→銀本位制度確立へ・・と書かれている。
  そして、説明文に・・、
  1885 年(明治18年)5月、最初の日本銀行券が発行さ
 れ、これにより中央銀行としての日本銀行の基礎が整っ
 た。
  日本銀行券は、『兌換銀行券条例』により、銀貨兌換
 を行う兌換銀券とされ、また、銀行券発行高に対し、相
 当の銀貨を置き引換え準備に充てることが求められた。
  日本銀行券は、広く受け入れられ、その流通高は、順
 調に増加していき、紙幣に対する信用は回復した。
  そして、日本銀行券による紙幣統一へと向かい、また、
 銀本位制も確立し、
  幕末以来の貨幣制度の混乱に終止符が打たれることに
 なった・・とある。
1886年1月1日、定期券の発売
  新橋~横浜間の鉄道定期乗車券が初めて発行(発売)
 された。
  日本における鉄道定期乗車券の発行は・・、
  1873年(明治6年)5月、新橋~横浜間の上等車旅客に
 対し、3か月(のちに90日)の「常乗切手」を120円(この
 区間の片道運賃は1円12銭5厘)で発行することを計画し
 たのが最初だった。
  そして、この計画は、1873年6月5日、太政大臣から正
 式に認可も受けたが、実施前になぜか中止となって実際
 には発行されなかった。
  次いで、1874年(明治7年)7月、大阪~神戸間の上等、
 および、中等旅客に対して3、6、9、12か月の「期限切
 手」が計画され、
  1874年7月18日に、伊藤工部卿から認可されたが、こ
 ちらも実施には至らなかった。
  実際に、定期乗車券が発売されたのは、1886年(明治
 19年)1月1日、「定期乗車券発行規約」の実施により、
 上等、および、中等の旅客に対し、1、3、6、12か月の
 4種類を新橋~横浜間の特定の駅間(全部の駅間相互では
 ない)で発売された。
  1890年(明治23年)7月には、新橋、および、横浜を中
 心に発売範囲が拡大された。
1886年1月9日、修史館を廃し、内閣に臨時修史局を設置し
 た。
  明治の新政府によって、正史(国家史)の編纂事業が
 行われた。
  1869年(明治2年)、新政府は「修史の詔」を発した。
  そして、『六国史』を継ぐ正史編纂事業の開始を声明
 した。
  1876年には、修史局の編纂による『明治史要』第1冊が
 刊行された。
  しかし・・、
  1877年に、財政難のため修史局は廃止され、代わって
 太政官修史館が設置された。
  また、この際、『大日本史』(神武天皇から南北朝統
 一までを対象とする)を、準勅撰史書と定め、
  編纂対象も、南北朝以降の時代に変更された。
  この修史事業に携わっていたのは、「修史の詔」が、
 漢文による正史編纂を標榜していたように、基本的に漢
 学者であった。
  1875年以降、修史局の幹部であった重野安繹は、
  1880年、『東京学士会院雑誌』に「国史編纂の方法を
 論ず」を発表し、
  清代考証学の伝統を引く実証的方法論を主張した。
  しかし、このような方法論をめぐって、修史館内部に
 意見の相違があり、
  1881年の機構改革に際し、川田剛・依田学海が、修史
 館を去った。
  背景には、彼らと、重野・久米邦武・星野恒との間に
 編纂方針をめぐる対立があった。
  以後、修史事業は、重野・久米・星野を中心に行われ、
  1882年に、漢文体編年修史『大日本編年史』の編纂事
 業が開始された。
  重野らは、『太平記』の史料的価値の否定、ひいては、
 『太平記』に依拠する『大日本史』の批判を行うように
 なった。
  (『太平記』で活躍する忠臣・児島高徳の実在を否定
 したことで、重野は「抹殺博士」と揶揄された)
  その急進的な主張は、修史事業において、非主流派の
 位置に追いやられた国学系・水戸学系歴史家との対立を
 激化させた。
  この間、修史館は、いくつかの改編を経て(1886年:
 修史館を改組し、内閣に臨時修史局を設置)。
  1891年、帝国大学(東京帝国大学の前身)に移管、最
 終的には同大学の史誌編纂掛となり、
  また、1889年に、修史事業の柱の1つと目されていた
 『復古記』(王政復古関係史料集)が完成した。
1886年1月11日、政治学者で、法律学者の小野梓(おのあづ
 さ) が没した(35歳)
  東京専門学校(後の早稲田大学)の創立に参画した。
  著作に「国憲汎論」などがある。
1886年1月16日、機構改変に伴って、佐渡・生野・三池の鉱
 山事務を大蔵省へ移管した。
  明治維新で官行(政府が国費で行う)が決定された三
 池炭鉱、佐渡鉱山、生野鉱山は、海外からの近代的技術
 を導入して再活性化した。
  この3山以外で官行であった鉱山は、1885年末の工部省
 の廃省の直前に払い下げられた小坂、阿仁、釜石だった。
  この経過で残った3山は、工部省廃省以後、農商務省
 を経て、この時・1886年1月、大蔵省の所管となって、官
 行が続行となった。
  その後、1888年に、三池炭坑の払下げが決まったが、
 生野、佐渡は存続が決まった。
  1889年、佐渡とともに皇室財産に編入され、宮内庁御
 料局の所管となり生野支庁と改称された。
  (参考:桃山学院大学、世界遺産の予備調査研究論文)
1886年1月26日、北海道の3県を廃止し、北海道庁を開設し
 た(長官は岩村通俊)
  1882年2月8日の開拓使廃止に伴い、函館県(はこだて
 けん)・札幌県(さっぽろけん)・根室県(ねむろけん)
 が設置された。
  また、北海道には、この3県のほか、北海道事業管理局
 (農商務省の一部局)が設置されていた。
  3県と事業管理局は、この時・1886年1月26日の北海道
 庁設置に伴って廃止された。
  3県、及び、北海道事業管理局を統廃合して、内務省管
 轄の北海道庁に移行することになり、
  3県はその役目を終えた。
  なお、旧函館県、及び、根室県の組織は、そのまま北
 海道庁函館支庁、及び、根室支庁として・・
  1890年11月5日の支庁制移行まで継続される事になった。
  (札幌に本庁、凾館と根室が支庁)
  尚、1893年(明治26年) に、郡司成忠や白瀬矗以下の開
 拓事業団千島報效義会が、北千島の占守島、および、幌
 筵島、捨子古丹島、越渇磨島に越冬部隊を送っている(
 日本固有の領土である)
1886年1月28日、ハワイとの間に渡航条約が調印された。
  日本は、ハワイ王国を国として接していた。
  この条約は、日本とハワイ王国間の条約であり、
 通称・略称は、日布移民条約、日布移住民条約と言う。
  そして、この条約は、ハワイに労働移民した日本人の
 人権を守ることを目的として、国としてのハワイ王国へ、
 お願いし、約束したものだった。
  裁判における通訳の用意や、日本医師の雇い入れなど
 も書かれていた。
  ハワイへの移民は、急増するサトウキビ畑や、製糖工
 場での労働であり、1830年頃より始められていた。
  そして、1876年には関税が撤廃され、移民する人も増
 え始めた。
  移民は、中国、ポルトガル、ドイツ、ノルウェー、ス
 コットランド、プエルトリコなど様々だったが、
  日本人の移民が最も多かった。
  日本からの移民は、1868年から開始されていて、
  1902年には、サトウキビ労働者の70%が、日本人移民だ
 った。
  卑劣な事に、1924年に、アメリカは排日移民法を成立
 させた。
  (ハワイは、1898年に、アメリカの手に落ちていた)
  このアメリカ時代に作られた卑劣な差別主義の排日移
 民法の成立で、日本人移民が停止させられる時までに、
 約22万人の日本人移民がハワイへ渡っていた。
  日本は、すでに、1860年(万延元年)に、日本の遣米
 使節団がハワイに寄港した時、ハワイ王国の王であるカ
 メハメハ4世から、労働者供給を請願する親書を信託され
 ていた。
  そして、さらに続いて、ハワイ王国のカメハメハ5世は、
 在日ハワイ領事を置いていて・・、
  (日本は、ハワイ王国を立派に成立している国として
 認め、領事まで置かれていた)
  領事として横浜に滞在していたユージン・ヴァン・リ
 ードに、日本人労働者の招致について、日本政府と交渉
 するよう指示した。
  ヴァン・リードは、徳川幕府と交渉し、出稼ぎ300人分
 の渡航印章の下附を受けた。
  そして、公式のハワイ王国への移民が始まった。
  国と国との立派な行為がなされていた。
  ハワイ王国の領事ヴァン・リードが、1868年(明治元
 年)に、サイオト号で、153名の日本人をホノルルへ送り
 出した。
  このハワイ王国との公式の初の日本人移民は、『元年
 者』と呼ばれた。
  日本とハワイ王国とは、この様に、古くから立派に成
 立する国交を開いていた。
  ハワイ王国は立派に成立した国だった。
  そして、何故か?・・
  この様に、立派に国として活動していたハワイ王国が、
  このハワイ王国の国民・原住民の方々が、アメリカの
 統治になった後に、伝染病が流行し、原住民の方々は激
 減した。
1886年1月31日、日本政府は、朝鮮政府と、絶影島地所借入
 約書を調印した。
  絶影島(ぜつえいとう)は、韓国の南端、釜山港の湾
 口にある島で・・、
  日本人の荒木嘉作は、所有地を持っていた。
  日本は、この島に貯炭庫を設けるため絶影島地所借入
 約書を結んだ。
  (今、北海道や、対馬や、沖縄や、その他にある外国
 に買われた地に・・外国が、国として・・何をするのか? 
 何が起きるか?)
  因みに、1898年1月21日に、ロシア軍艦が、この島に
 入港し・・、
  絶影島にある日本人・荒木嘉作の所有地に、勝手に、
 松や杉などの苗を植え付け、
  さらに、貯炭庫を設置しようとして・・問題が起きた
 (絶影島問題、または、絶影島貯炭庫設置問題という)
  この時、日本との契約が立派に存在していたが・・、
 大韓帝国の外務大臣であった露国派の閔種默は、独断で、
 ロシアに借入を許容した。
1886年2月5日、宮内省官制が公布された。
  宮内庁は、天皇陛下に近侍した古代からの官職をその
 淵源(えんげん、物事の起こり基づくところ)とするも
 ので・・、
  日本最古の歴史書とされる『日本書紀』の680年(白鳳
 9年)の条に、「宮内卿」「宮内官大夫」の官職が記述さ
 れている。
  また、686年(朱鳥元年)の条には、天武天皇の葬送に
 際して「宮内事」を誄(しのびごと、死者の生前の功徳
 をたたえて哀悼の意を述べる言葉)したとあり、
  天武天皇の時代には、原型となる官職が形成されたと
 考えられている。
  そして、この時・1886年に、この公布によって、2課5
 職6寮4局の組織が定まった。
1886年2月9日、松本大火。
  放火による大火だという。
  1100戸が焼失した。
  まだ明けやらぬ、午前3時、北深志鍛冶町の山辺小路か
 ら出火した炎は、折からの南の強風に乗ってたちまちの
 内に風下に燃え広がった。
  まず、餌差町から上横田町、下横田町へと延び、
  観音小路、東町、和泉町、出居番町、捨堀町、安原町
 をひと舐めにして、
  天白町から下町、下々町、上下丁、東ノ丁、西ノ丁な
 ど、北深志の大半を灰にして・・午前7時鎮火した。
  焼失面積は、東西5丁(545m)、南北15丁(1635m)の890
 平方km。
  民家999戸、そのほか松本座、正行寺、奮惠光院、妙光
 寺、天白稲荷が焼失した。
1886年2月10日、平塚らいてう、生誕
  大正・昭和期の評論家で、婦人運動家。
  東京都麹町の生まれで、本名は、奥村明(はる)
  筆名は、雷鳥をかな書きしたもの。
  1903年(17歳)日本女子大学校(→日本女子大学)入
 学し、哲学書に親しみ、参禅し、自我を追求する。
  1906年(20歳)、卒業。
  1908年(22歳)、文学講座を通じて知り合った作家の
 森田草平と心中未遂事件を起こし、物議をかもし、夏目
 漱石に衝撃を与えた(森田草平と事実婚?)
  1911年9月(25歳)女性文芸誌「青鞜」を創刊する。
  創刊の辞に「元始、女性は太陽だった」は、今日に繋
 ぐ女権宣言となった。
  以後『青鞜』は、女性解放思想の拠点となった。
  そして、女性の解放と新しい女の生き方を示した。
  1914年(28歳)、5歳年下の画学生・奥村博史と、法律
 によらない自由な結婚を実践、1男1女をもうけた。
  エレン・ケイの『恋愛と結婚』翻訳を契機に、その思
 想に共鳴し、育児を社会的仕事と位置づけ、母性の尊重
 を主張した。
  1918年(大正7年)(32歳)与謝野晶子、山川菊栄らと
 『婦人公論』誌上で、母性保護論争を展開した。
  第1次世界大戦後の1920年(1919年?)(34歳)市川
 房枝・奥むめおらと、女性の地位向上を目ざす新婦人協
 会を結成し、婦人参政権運動を展開した。
  1925年の昭和初期のころ(≒39歳)アナーキズムに接
 近するなどした・・、
  1930年(昭和5年)(44歳)高群逸枝らの無産婦人芸術
 連盟に参加、『婦人戦線』に関与した。
  また、協同自治社会の理想をめざして、成城に消費組
 合を設立した。
  第2次大戦後は、再軍備反対の声明発表など、反戦・平
 和運動に尽力した。
  婦人団体連合会初代会長、新日本婦人の会代表委員な
 ども歴任し・・、
  終焉まで、女性解放運動の先頭に立った。
  1971年5月24日、没する(85歳)
  著作に、「平塚らいてう著作集」全7巻・補1、「円窓
 (まるまど)より」「わたくしの歩いた道」など。
  自伝「元始、女性は太陽であった」
  漱石の「三四郎」に登場する美禰子のモデルとも言わ
 れた。
  (参考)アナーキズム(anarchism):一切の政治的、
    社会的権力を否定して、個人の完全な自由と独立
    を望む考え方。無政府主義。
1886年、2月20日、 石川啄木が生誕した。
  石川一(啄木、いしかわたくぼく) が生まれた(~1912
 年4月13日)歌人、詩人。
  岩手県南岩手郡日戸(ひのと)村(現在の盛岡市日戸)
 に、曹洞宗日照山常光寺住職の父・石川一禎(いってい)
 と母・カツの長男として生まれた。
  1887年(明治20年)3月、1歳の時に、父が渋民村(現
 在の盛岡市渋民)にある宝徳寺住職に転任したのにとも
 なって一家で渋民村へ移住する。
  1898年(明治31年)(12歳)岩手県盛岡尋常中学校で
 学んだ。
  3年先輩に、金田一京助が居た。
  また、10年後輩には、宮沢賢治が入学する。
  中学時代に、のちに妻となる堀合節子や、親友の金田
 一京助らと知り合う。
  『明星』を読んで、与謝野晶子らの短歌に傾倒し、
  また、上級生の野村胡堂らの影響を受け、文学への志
 を抱いた。
  短歌の会「白羊会」を結成したのも・・この頃、
  1901年(明治34年)12月(15歳)から翌年にかけ、友
 人とともに『岩手日報』に短歌を発表し、
  啄木の作品も、「翠江」の筆名で掲載され、
  これが初めて活字となった啄木の短歌だった。
  1905年5月3日(19歳)出版費用を自分でも集めた第一
 詩集『あこがれ』を、小田島書房より出版した。
  上田敏による序詩と、与謝野鉄幹の跋文(ばつぶん、
 書物の本文の後ろに添える文章)が寄せられた。
  1905年5月12日(19歳)啄木は不在だったが、堀合節子
 との婚姻届を、父親が盛岡市役所に出す。
  この時、啄木は親戚が集まった結婚式に出席しなかっ
 た(形式的だからという?)
  1906年(明治39年)3月4日(20歳)妻と母を連れて渋
 民村に戻った。
  1906年4月14日、渋民尋常高等小学校に代用教員として
 勤務。
  1906年4月21日、徴兵検査。筋骨薄弱で、徴集が免除
 された。
  1906年6月、小説を書き始める。
  1906年12月29日、長女・京子が生まれる。
  1907年(明治40年)4月1日(21歳)、新生活を北海道
 で開こうとし、教職を離れることを決意し、退職する。
  1907年8月25日の函館大火により、勤務先の小学校・新
 聞社がともに焼失する。
  1908年4月28日より東京・千駄ヶ谷の新詩社に暫く滞在。
  1908年5月2日(22歳)、与謝野鉄幹に連れられ森鴎外
 宅での観潮楼歌会に出席する(参会者は8名)。
  1908年5月4日、中学で一学年上(3年?)だった金田一
 京助の援助もあり本郷区菊坂町赤心館に止宿、
  生計のため、小説を売り込むが、成功せず。
  逼迫した生活。
  1908年6月23日~25日にかけて、「東海の小島…」「
 たはむれに母を背負ひて…」など、後に広く知れ渡る歌
 を作り、続いて作った246首とともに翌月の『明星』に
 発表する。
  金田一は、自身が結婚するまで、友人として啄木に金
 銭を含むさまざまな支援をしている。
  1908年11月、『東京毎日新聞』に小説「鳥影」を連載。
 『明星』は終刊するも、続けて『スバル』の創刊準備に
 あたる。
  1909年6月16日(23歳)、函館から妻子と母が来て、本
 郷区本郷弓町の床屋「喜之床」の二階に移った。
  啄木の幸せな時は、この『一瞬の様な数年』だったと
 感じる。
  1909年12月に、父も同居するようになる。
  1910年9月15日(24歳)『朝日新聞』紙上に「朝日歌壇」
 が作られ、その選者となる。
  1910年10月4日、長男・真一が誕生したが、27日に病死
 する。
  1910年12月、第一歌集『一握の砂』を、東雲堂より出
 版する。
  1911年9月(25歳)宮崎郁雨(みやざきいくう)が、
 節子に送った無記名の手紙に「君一人の写真を撮って送
 ってくれ」とあったのを読み、
  これを妻の不貞と採った啄木は、節子に離縁を申し渡
 すと共に、
  郁雨と絶交することを告げた。
  1911年9月16日付の啄木の妹・光子宛の葉書では、こ
 の事件を「不愉快な事件」と記している。
  1912年(明治45年)3月7日、母・カツ死去。
  1912年4月13日午前9時30分頃、小石川区久堅町にて肺
 結核のため死去。
  妻、父、友人の若山牧水に看取られている。享年26歳。
  (参考)宮崎 郁雨(みやざき いくう、1885年4月5日
    ~1962年3月29日)、日本の歌人。
    本名は、大四郎(だいしろう)
    石川啄木夫人・節子の妹の夫。
    啄木の生前から啄木一家を物心両面にわたって支
   え、啄木の死後も墓碑建立、「啄木を語る会」を発
   足させるなどの実績がある。
    啄木を函館日日新聞社に紹介し、遊軍記者として
   勤めさせているが、在籍期間は8月18日〜25日の8日
   間であった。
    1908年4月、啄木が上京するにあたって、郁雨は、
   啄木の家族を託され面倒を見る。
    そして、この年、郁雨は正八位に叙せられている。
    1909年10月26日、啄木夫人・節子の妹・堀合ふき
   と結婚、啄木とは義理の兄弟の関係となる。
    金額的に、一番、この郁雨が、啄木を支えていた。
    1913年4月13日の啄木一周忌に、函館図書館長の岡
   田健蔵と、啄木追悼会を開き、函館の立待岬に墓碑
   「石川啄木一族の墓」を建て遺骨を移す。
    節子未亡人の依頼もあり、啄木の遺品を納め、函
   館図書館啄木文庫を作った。
    1927年6月、郁雨は、弘文社より『啄木書翰集』
   (石川啄木著)を編集、刊行した。
    1940年(55歳)功により勲六等瑞宝章を授与され
   た。
    1956年(71歳)函館の郷土雑誌「海峡」に啄木関
   係の記事の執筆を始める。
    1958年(73歳)函館市文化賞を受賞。函館図書館
   に「啄木を語る会」を発足させ、毎回出席し講演す
   る。
    1961年(76歳)啄木50回忌記念として森屋より『
   函館と啄木』を阿部たつを、田畑幸三郎との共編で
   刊行する。
    1962年3月29日午前0時10分に生涯を閉じた。
   享年78(満76歳没)
    宮崎家の墓は、函館の立待岬の「啄木一族の墓」
   に寄り添うよう建てられている。
.
  (今日の言葉)
.
  題:アメリカ、中国、韓国は・・プロパガンダする。
.
1876年(明治9年)、日朝修好条規が結ばれた。
  明治となった日本は・・、すぐ隣の国=朝鮮と国交を
 結ぼうとした。
  実際、江戸時代には、日本と朝鮮は、良好な関係にあ
 ったからだった。
  しかし、中国・清朝の朝貢(ちょうこう)をしていた
 朝鮮は、外交関係を結ぶ事を拒絶した。
  しかし、この年・1876年に、日朝修好条規が結ばれた。
  その第1条に、「朝鮮国は自主の国」であるというた
 った。
  そして、「日本と平等の権利を有する国家と認める」
 とうたった。
  朝鮮にとって清朝は恐ろしい国だった。
  しかし、それ以上に恐ろしい大国は、不凍港が欲しい
 というロシアだった。
  ロシアは、1891年に、シベリア鉄道の建設に着手し、
 その脅威は朝鮮半島に迫っていた。
  東方へ領土を拡大しつつあるロシアだった。
  条規がととった朝鮮は、日本にならって近代化の道を
 歩み始めた。
  朝鮮からも日本へ視察団が訪れた。
  明治維新の日本の成果を学んだ。
  朝鮮は、他国から犯されないように軍制改革にも取り
 組み始めた。
  種々の改革に、日本は朝鮮を援助した。
.
  そして、この国交が整ってから、時が下って・・
.
1910年、日韓の併合がなされた。
  色々と悪くプロパガンダされる日韓併合だが・・、
  下記のブログが真実を伝える史料だと思います・・、
  http://www2.biglobe.ne.jp/remnant/rekishi02.htm
  申し訳ないですが、当時の朝鮮の方々は、ひどい貧困
 にあえいで居られました。
  当時を語る朝鮮のご老人が・・
 「日本人はとても親切な人たちだった」と言われる。
  『生活者の日本統治時代』(三交社)という本にも、
 写真と共に朝鮮の庶民の方々の言葉が残されている。
  プロパガンダされて無い真実の言葉が残されている。
  今、アメリカや、韓国・中国が、盛んにプロパガンダ
 しているが・・、
  結局、結びの言葉は・・
  「朝鮮人と日本人は仲良く生きていた」・・だった。
  そして・・、
  韓国の加耶大学(かやだいがく)客員教授・崔基鎬(
 チェケイホ)氏の本「日韓併合」によれば・・、
  教授が、1910年の日韓併合に至るまでの経緯を研究し
 て来て、
  色々、おかしな洗脳(プロパガンダ)が韓国で行われ
 ているという・・、
  現在の韓国の教科書が教えている事と、日本の統治時
 代の実態とは、あまりにもかけ離れている・・と言う。
  そして、韓国の歴史観は、歪曲が甚だしいと言う。
  独りよがりで、被害者意識に凝り固まり、事実をとら
 えようとはしていない・・と言う。
  そして、教授は、また言う、
  「この様な発言をすると・・、韓国で、日本の統治時
 代の日本の統治について、肯定的にとらえようとするの
 は相当の覚悟がいる」と言う。
  そしてまた、「極端な話、身の危険も覚悟しなければ
 ならない」・・と言う。
  そして、教授は、また言う、
  「作家の李光洙氏が言うように・・、
  韓国の民族の最大の欠点は『嘘つきで、人をだますこ
 と』だと言う。
  そして、この様なことが、「歴史の歪曲、身勝手な解
 釈は、韓民族の宿痾(しゅくあ、長い間治らない病気)
 であり、
  これがもとで、幾度、実態を見誤り、国を滅ぼしてき
 たかしれない。
  感情に流される事なく、歴史に何があったかを正しく
 見つめ、
  そこから教訓をすくい取るという事が、この国(韓国)
 にはあまりにも欠けている。
  簡潔に言えば、李朝に、500年にわたって支配されて来
 た併合前の朝鮮半島の実態を、(韓国を含む朝鮮半島の
 人々は)、余りにも知らなすぎる。
  最も分かりやすい例で言えば、21世紀のこの時代にあ
 って、当時の大多数の国民が飢餓に苦しむ、専制独裁国
 家を思い起こすと良い。
  (今の)北朝鮮は、李氏朝鮮のまさにクローンである。
  戦後、日本時代の遺産をすべて壊し、元の姿に戻った
 に過ぎない。
  仮に今、日本が、北朝鮮を併合して統治するとなれば、
 金一族を除く北朝鮮国民は、随喜の涙(ずいきのなみだ、
 うれしさのあまり、あふれ出る涙)を流すに違いない。
  その北朝鮮に同情を示し、呼応して、「反日・反米」
 を叫んでいるのが韓国であり、
  近年、その傾向は強まる一方だ。
  何が本当で、何が嘘か、誰が見方で、誰が敵か、
  嘘で固めた歴史観では、正当な判断力が養われる訳が
 ない。
  これは、歴史で何度も繰り返された亡国のパターンで
 あり、
  私は早くから『このままでは韓国はつぶれる』と唱え
 て来たが、
  その危機がいよいよ近づいてきたことを感じずにはお
 られない。
  いかにして、真実を究明するかの理由がここにある・・
 と、崔基鎬教授は言う。
  因みに、加耶大学は、慶尚南道金海市に本部を置く大
 韓民国の私立大学。
.
1910年、日本の朝鮮(大韓帝国)への財政負担
  1910年:2500万円
  日本人は本当に優しい国民性を持っている。
  この様な大金を、毎年、朝鮮へ与えた。
  財政的に厳しい明治政府が、日本人の血税から分け与
 えた。
  日教組は、日本は侵略国家だと言い、子供たちに擦り
 込み教育をして洗脳しているが、全く事実は違う。
  そして、この金額がいかに大金かは、朝鮮の税収入の
 倍の金額だと言われればお分かりと思います。
  日本は、朝鮮の国の税の収入の2倍のお金を渡していた。
  日本が完全に支えていた。
.
  そして・・、
.
1910年、韓国の加耶大学の崔基鎬(チェ・キホ)教授は自
 著に以下のように書く・・、
  題:『総督府による治山治水事業』・・、
  (日本の作った)朝鮮総督府は、土地調査事業が終わ
 ると、続いて米穀および雑穀・綿花など、立ち遅れた朝
 鮮の農村を、日本の農村並みに振興させるために、昼夜
 を分かたぬ努力を傾注した。
  その最大のものが治水事業である。
  当時の朝鮮は、禿(はげ)山ばかりで、赤土だけが山
 の表面を覆い、雨が降れば保水能力はなく、河川の下流
 域は、すぐに洪水に見舞われた。
  ソウル市内も、今のソウル駅近くの葛月洞(カルウオ
 ルドン)まで、漢江の水があふれ、四方は海と化した。
  山野の草木は、すべて燃料のために刈り取られ、
  植林はほとんどなされず、
  森林が残ったところは、鴨緑江と豆満江(とまんこう)
 流域のみで、人間の通れない原生林と墳墓周辺を除くと、
 荒涼たるはげ山ばかりであった。
  朝鮮半島の日本海側は、豆満江を除いて、河川の流路
 は短く、東シナ海に注(そそ)ぐ河川は大河が多い。
  だが、600年以上、治山も治水も本格的に行われたこと
 がなく、ほとんどが自然のまま放置されていた。
  歴史的には、新羅時代(1500年前)の「碧骨堤」とい
 う大堰堤(えんてい、全長1800歩)が作られ、
  その後、修築もあったが、李朝末期になると、国土が
 荒廃し、以前の堰堤も、遺跡しか残っていないという状
 況であった。
  李朝の歴史記録には、堰堤・堤防の施設は、朝鮮半島
 で2万4000ヶ所以上といわれているが「万石堤」という貯
 水池以外、実態は何も見えない。
  農業用の灌漑(かんがい)施設は、大かた、腕力によ
 る流水のくみ上げしかなく、
  足踏み水車すらほとんど見る事が出来なかったから、
 一般には「天水水田」といって雨水に頼り、極めて原始
 的な農業が行われていた。
  道路・河川・林野・港湾が、自然のまま放置されてい
 たのは、李朝末期の財政破たん、国政紊乱(びんらん、
 秩序・風紀などが乱れること)によるものである。
  朝鮮総督府は、治山治水のための砂防工事、山林復活、
 農作物増産のための技術改革に着手し、
  1915年からは治水調査システムをスタートさせ、気象・
 水位流量・修改築予定区域の実測調査も施行した。
  土地の所有権、地価、地質、地形、土地の模様などの
 正確な調査の結果、多くの『隠し田』が発見され、耕地
 面積は倍増し、したがって課税額も倍増となった。
  近代国家建設に不可欠の事業であったが、これが「隠
 結=脱税」という長年の因習に慣れた両班層にとっては、
 不平の種なったことはいうまでもない。
  (参考)両班:りょうはん、高麗・李氏朝鮮王朝時代
    の官僚機構・支配機構を担った身分階級。
  何しろ李朝下では、住民から徴収する税金額の9割は途
 中でなくなるのが普通だった。
  例えば、住民から3000万円の税金を徴収したら、国に
 納める納税額は300万円が相場だった。
  それでも、官僚の責任が追及されなかったのは、その
 上の王族と族戚政権が売官買職に狂奔(きょうほん)し
 ていたからで、
  彼らに任命された官僚たちによる横領ぐらいの事は、
 問題にされるはずもなかった。
.
  1910年の朝鮮の米穀生産高は、1040万6000石であった
 が、
  1918年には、1529万4000石(47%増)、
  1931年は1587万3000石(53%増)と、年々増産の一途
 をたどっている(驚くべき増収である)。
  朝鮮総督府の産米増産計画(1920年~1934年)は、当
 時の日本・朝鮮の人口急増に伴う食糧問題を解決するた
 めの国策事業であったが、
  日本が、「働かざる者、食うべからず」という勤労精
 神を植え付けたことは、李朝500余年、不労所得層が農民
 を支配し、労働とは最も軽蔑するものと教え込まれてき
 た朝鮮住民にとって、精神的な大革命であり、ルネッサ
 ンスでもあった。
  大部分の住民たちは、この様な日本の農工業振興策、
 及び、金融政策に共鳴し、感謝の心で積極的に協力した
 ことは、勿論である。
  この期間に植え付けられた正しい勤労精神によって、
 今日の韓国という経済先進国を建設する事もできたのは、
 まぎれもない事実であった。
  何しろ李朝では、両班に属し、科挙試験に合格した官
 僚たちが、生産的勤労には絶対に就かないばかりか、空
 理空論を振りかざすばかりで、
  毎日の享楽生活を保証する王朝への恩義など、まった
 く感ずることもなく、批判するばかりであったのだから。
  李朝518年と、その後の日韓合邦期を通じても、この
 「ゾンビ」は生き残り、空理空論にふける習性は、今日
 でも変わっていない。
  第二次大戦後、再び、この連中が甘言利説を尽くして
 政権を取るようになると、
  祖国近代化に献身的に尽力し、祖国の工業、商業、政
 治、経済発展に貢献した真の愛国者を民族反逆者とみな
 し、
  自分は何も仕事をしないで他人を法網にかけたり、前
 科物を愛国者だと褒(ほ)め称(たた)えたりして今日
 に至っている。
  国のためにはなにもした事もなく、法に違反した前科
 者だけが、愛国者として待遇されるのが韓国の実態であ
 ることは、周知の事実である。
  ・・崔基鎬(チェ・キホ)教授は、上記の様な事を、
 自著に書かれている。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
 

2016年9月19日月曜日

(増補版)420E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1885年12月~1886年1月)

題:(増補版)420E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1885年12月~1886年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1886年、出来事:
・内閣総理大臣・伊藤博文、在任:1885年(明治18年)12
 月22日~1888年(明治21年)4月30日
  伊藤 博文(いとう ひろぶみ/ひろふみ、天保12年9月
 2日(1841年10月16日)~明治42年(1909年)10月26日)
 は、日本の武士(長州藩士)、政治家。
  初代・第5代・第7代・第10代の内閣総理大臣、
  および、初代枢密院議長、初代貴族院議長、初代韓国
 統監を歴任した。
  位階勲等爵位は、従一位大勲位公爵。
・北海道庁に統一された(北海道庁設置)。
  1869年7月8日、開拓使を設置した。
  1869年8月15日、それまで和人地、及び、蝦夷地と呼称
   されていた地域名を、北海道と改め、
   域内に11箇国86郡を設置した。
  1870年2月13日、樺太開拓使の設置に伴い、北海道開拓
   使と改称した。
  1871年8月7日、樺太開拓使を統合し、再び、開拓使に
   復した。
  1882年2月8日、北海道開拓使を廃止し、函館県・札幌
   県・根室県の3県を置いた(廃使置県)
  1886年1月26日、3県を廃止し、北海道庁を設置した。
   札幌に本庁が、函館と根室に支庁(後年のものとは
   別組織)が置かれた(廃県置庁)
・鎮守府、軍港を置く。
  この年の海軍条例制定に伴って、日本の海岸・海面を
 五海軍区に分かち、
  それぞれに、軍港と鎮守府を設置する方針が出された。
  その結果、1889年7月、呉(くれ)(第二海軍区)、佐世
 保(させぼ)(第三海軍区)に、鎮守府が開庁された。
・標準時が始まる。
  標準時の制定は、1884年、アメリカのワシントンで開
 催された「本初子午線并(ならびに)計時法万国公会」で
 決議された。
  その結果、日本においては、1886年(明治19年)7月12
 日勅令第51号をもって、「本初子午線経度計算方及標準
 時」が公布された。
1886年、データ
・人口 38,151,217人
・世帯数 7,727,610戸
  1871年(明治4年)、戸籍法が公布され、
  各地より提出された戸籍(壬申戸籍)に基づき、内務
 省により、明治5年1月29日(太陽暦では1872年3月8日)
 付で『日本全国戸籍表』が編纂された。
  翌年・1873年(明治6年)~1886年(明治19年)までは、
 毎年1月1日現在、
  1886年~1897年(明治30年)までは、12月31日現在で
 の戸籍上現存する人口によって作成した戸籍表を提出さ
 せ、
  これを集計して、毎年の全国の『日本全国戸籍表』(明
 治6年1月1日~明治9年1月1日調)、
  『日本全国戸口表』(明治10年1月1日~明治11年1月1日
 調)、
  『日本全国郡区分人口表』(明治12年1月1日調)、
  『日本人口統計表』(明治13年1月1日、明治14年1月1日
 調)、
  『日本全国戸口表』(明治15年1月1日~明治18年1月1日
 調)、
  『日本全国民籍戸口表』(明治19年1月1日調)、
  『日本帝国民籍戸口表』(明治19年12月31日調~明治31
 年12月31日調)が編纂された。
  (明治19年は1月1日調と12月31日調の二種類作成された)
・紡績工場の数:20、
1886年、物価
・氷1貫目・6銭~7銭、
1886年、経済・金融・貿易:
・初めて、アメリカ綿を輸入した。
  アメリカ綿の最初の出会いは、1862年、日本からアメ
 リカへの綿花輸出だった。
  アメリカは、当時、世界最大の綿花生産国だったが、
 南北戦争によって、綿花生産がストップした。
  その為、日本から、日本綿16.4トンがアメリカへ送ら
 れた。
  そして、アメリカ綿が、日本に輸入され始めたのは、
 その輸出から24年後の1886年(明治19年)だった。
  試験的に、1俵のアメリカ綿が輸入された。
  これが輸入の皮切りだった。
  以後、徐々に増えて行き、1932年(昭和7年)には、
 229万俵を記録した。
  (参考:日本綿業振興会ホームページ)
1886年、産業:
・1886年頃、この頃から、日本に、鉄道や紡績などの様々
 な分野で会社設立のブームが起こった。
  機械技術を本格的に導入する産業革命が始まった。
・神戸に曳船廻漕会社設立
1886年、衣:
・帝国大学が、制服・制帽を定めた。
  この年に定められた帝国大学令の制定によって、1877
 年に創立の東京大学が改められて帝国大学となった。
  そして、制服と制帽が定められた。
  因みに、1897年に、京都帝大(京都大学)が設立され、
 後、1939年までに、東北(東北大学)、九州(九州大学)、
 北海道(北海道大学)、京城、台北、大阪(大阪大学)、
 名古屋(名古屋大学)の各帝大が設立された。
  ここで注目なのが、朝鮮と台湾も、なんら差別するこ
 となく日本と平等に、日本は教育を行なった。
  逆に、朝鮮や台湾の学校の方の施設を立派に作る日本
 だった。
  何ら、韓国が言うような酷(ひど)いことは日本はし
 ていない。
  日本は教育に熱心な国だった。
  それを、差別なく行った。
  プロイセン・ドイツやオーストリアの国法学者たちから
 『大学の国家経営が重要である』ことを学んできた伊藤
 は、1885年に、内閣を組織するとともに、
  初代文相・森有礼とはかって、帝国を代表する政府直
 轄の大学の設立に入り、
  翌年・1886年、帝国大学令を制定した(差別なくこの
 令に朝鮮・台湾も入れた)。
  そして、この様に優秀な政治家の伊藤博文を、優秀で
 あるからこそ初代の韓国総督府の総監に赴かせた。
  その伊藤博文を韓国は暗殺をする、そして、暗殺行為
 者を英雄扱いしている。
  「恩を仇で返す」ことをしている。
・時計の輸入37,000余個
  外国商館が、服部時計店に優先的に新しいモデルを卸
 してくれるようになり、
  服部時計店は、比較的短い期間にめざましい躍進をと
 げた。
  そして、1886年(明治19年)の好景気時から、創業者・
 服部金太郎は、舶来時計の卸・販売に集中していくこと
 になった。
  (参考:セイコーミュージアムホームページ)
・「フロックコート」
  フロックコートは、男子用の昼間の礼服で、
  上着丈はひざまであり、ダブルで、襟には黒絹をかぶ
 せ、縞のズボンと組み合わせて着る。
  現在は、モーニングコートが主に用いられている。
  また、フロックコート風の衣装を「タキシード」と呼
 ぶが、
  因みに、この年の1886年に、ニューヨークのタキシー
 ド・パーク倶楽部の正装舞踏会で、
  全員が燕尾服を着ている中で、グリスウォルド・ロリ
 ラードという人物が、
  燕尾服に着替えるのを忘れ、真っ赤なスモーキングジ
 ャケットを着用したままパーティーに参加したことが、
 アメリカにおける始まりと言われている。
・「吾妻下駄」
  吾妻下駄(あずまげた)は、台に畳表を張った樫 (か
 し) の薄歯の女性用の下駄で、
  江戸初期に吾妻という遊女が履いたので名づけられた
 と言われている。
  江戸末期に流行したという記事もある。
1886年、食:
・瓶詰めの酒が発売された。
・アイスクリームが発売開始された。
・三田育種場『舶来穀菜要覧』を刊行、農家で栽培法を会
 得するものあり。
・コレラ流行に際し、ラムネの宣伝功を奏し東京市民一般
 ラムネの存在をしる。
1886年、住:
・ドイツ建築技師ビョクマンの好意により、日本の建築技
 師、及び、職人20名がドイツに建築を学ぶため出発する。
・東京電燈会社が、電球の製造に着手した。
1886年、報道:
・不便な地方では、官報のとどくのがおそくて、法令の成
 立日とずれが生じる(東京日日新聞)
1886年、論・文学・本:
・「龍門雑誌」 創刊
・ 「信濃教育雑誌」 創刊
・ 「包丁塩梅」(料理雑誌) 創刊
・大槻文彦が『日本辞書言海』の再訂を終えて提出(3月
 23日)
・徳富蘇峰 「将来之日本」
・山田美妙著『新体詩選』刊(8月)
・君論(著:マキャヴェリ/訳:永井修平)
・矢野文雄 「日本文体文学新論」
・福澤諭吉 「男女交際論」
・鈴木金次郎 「新編明治毒婦論」
・山川一声 「英船ノルマントン号沈没事件審判始末」
・高田早苗 「当世処世気質の批評」
・ 二葉亭四迷) 「小説総論」
・末廣鐡腸 「二十三年未来記」
・末廣鐡腸 「雪中梅」
・ジキル博士とハイド氏(スティーブンソン)[英]
1886年、教育:
・建築学が始まる。
・小学校制度が変更された。
 尋常小学4年、高等小学4年の計8年。
・共立女子職業学校が設立された。
・共立病院内に、看護婦教育所が設立された。
1886年、歌・流行・世相:
・世相 「こっくりさん」
・民権数え歌などが流行した。
1886年、演劇:
・演劇改良會が設立された。
・黙阿弥 「月白刃梵字彫物」が初演された。
1886年、発明:
・カール・ベンツが、ガソリン自動車を発明した。
  ドイツのマンハイム通りを走る。
1886年、医・衛生:
・薬局方が公布された。
・コレラ、腸チフス、天然痘が猛威を振るう。
 コレラの死者:10万8405人
 天然痘の死者:1万8678人
 腸チフスの死者:1万3807人
1886年、事件:
・ノルマントン号事件が起こった。
・(氷川清話)明治19年には静岡事件(箱根離宮襲撃計画)
  自由民権運動関係の静岡事件。
・(氷川清話)長崎事件(清国水兵の殺傷事件)
・吉松寿太郎ら、天皇陛下の暗殺を計画する。
1886年、その他:
・大阪で18歳未満の人力車夫を禁じ車夫服装を定める規則
 を公布。
・若松港に筑豊?業組合設立
・甲府の製糸工場で日本初のストライキ。
.
  (今日の言葉)
.
  題:この事によって、何人の方々が、愛する方々のもとから、
   帰らぬところへと、旅たって行ったことだろうか・・、 
.
1917年11月2日、石井・ランシング協定が締結された。
  石井・ランシング協定(いしい・ランシングきょうて
 い)は、1917年11月2日、アメリカ合衆国ワシントンD.C.
 で日本の特命全権大使・石井菊次郎とアメリカ合衆国国
 務長官ロバート・ランシングとの間で締結された、中国
 での特殊権益に関する協定である。
 
  権力を持つ者が、権力を持つが故に・・、
  その権力を持つ者に許された「権力の行使手段」を
  「行使する権利」が与えられる。
  途方もなく巨大な権利を、自由に使える状況に置かれ
 る。
  権力を持つ者は、その超巨大な権力を行使する手段を
 持っていることを・・常に・・意識して・・日常を送る。
  彼の頭に・・何とかしなければならない存在が居ると
 感じた時・・思った時・・、
  その様な・・何とかしなければならない様な『存在』
 が居た場合・・、
  常に・・その存在を何とかしなければならないと・・、
  その立場ゆえに・・常に考えている。
  ある時は、「取り込もう」と考える。
  (アメリカのルーズベルトは、一時は、日本を『取り
 込もう』と考えた)
  そして、だから、その時は、その「取り込みの条約」
 を締結する様にと、部下たちに命じた。
  取り込みの条約は、締結された・・
  立派に・・国際的にも遜色(そんしょく、見劣りする)
 するところの無い、立派な条約となって締結された(石
 井・ランシング協定)
  問題は解決したと思えた・・平和が訪れたと思えた。
  そして、この後に、彼=権力を持った者の頭に浮かん
 で来たことが、取り込んで握手はしたが・・、
  世界に平穏をもたらしたと・・思った一方・・、
  取り込みんでうまくいったと思った一方・・別の一面
 が頭を一杯にして来た。
  取り込んで妥協した点が気になった・・、
  妥協したという点が、その大きさが、だんだんと大き
 くなって来る。
  取り込んで握手をしたのが・・「ある意味の敗北だ」
 の様に見えて来る。
  この考えが・・浮かんだところが分岐点だった。
  また、この権力を持つ者は、非常に強い、熱心なキリ
 スト教を信じる人だった。
  そして、妥協した相手の者が有色人種だった。
  この権力を持った者は、この有色人種と妥協した点が
 引っ掛かった。
  キリスト教の「有色人種蔑視」の意識が、頭に湧き出
 して来てしまった。
  その時、その権力を持った者の地も、キリスト教の「
 有色人種蔑視」の行為が盛んに行なわれている地だった。
  また、この様な考え方は、世界中のキリスト教の白人
 社会は持っていた。
  悲しい点はここだった。
  初めて有色人種が、白人社会の大国を戦争で破った時
 は、有色人種の社会は、皆、喜んだ。
  世界中の有色人種の方々は喜んだ。
  白人社会のキリスト教の「有色人種蔑視の教義・観念」
 は、その行為がなされている側・・行われている有色人
 種側にも、逆の意味で・・その観念の逆の、反対の状態
 で生まれてしまっていた。
  キリスト教の逆の観念が、悲しいかな世界中に、また、
 伝播してしまっていた。
  白人社会と有色人種社会が、二つの社会に二分されて
 しまって居た。
  悲しい事である。
  白人のキリスト教のアクションの反動によって、さら
 に、世界は分断されてしまって居た。
  この強いキリスト教観念を持った権力を持った者=ル
 ーズベルトは、ここで手のひらを返した。
  悲しいかな、平和のために取り込んで妥協した事が、
 敗北のように思えて来てしまうい、有色人種と妥協した
 点が引っ掛かってしまい、その点が気になり、大きくな
 って来てしまって、手のひらは返された。
  次の会議で手のひらが返され、「ワシントン体制」へ
 持って行かれた・・ワシントン体制へのスタートが切ら
 れた。
  その権力を持った者は、世界最大の大国・アメリカで
 あるが故に、他の白人のキリスト教国は同調し、ワシン
 トン体制は、着々と築き上げられ、
  逆の体制である・・包囲網の体制が築かれて行った。
  中国では色々と策謀がなされ、入植していた人々が殺
 されたり、
  その有色人種国の軍人が、スパイをしたと捕まり、秘
 密裏に殺され、
  その抗議にも誠実に答えず、逆に、その国へ言い返す
 始末で、事が収まるどころか、火に油を注ぐがごとくだ
 った。
  そして、第二次世界大戦へ続く行為が起きてしまう。
  大国に支援された中国は強気だった。
  アメリカは、自分の目的が達せられる代理戦争の形で
 あるので、都合はよかった。
  金と武器は、ふんだんに、どんどんと供給された。
  そのうち、アメリカ大統領に命令された正規の部隊ま
 でが派遣された。
  卑怯な事にこの事も秘密にされた。
  アメリカの国民の方々は、まったく知らない事だった。
  戦後、何年も経って、この事がばれると、卑怯な事に、
 「ボランティアだ」と嘘の屋上屋を重ねた。
  卑怯の極みであった。
  アメリカ国民の方々が知らされたのは、何と!!70年
 も後の事だった。
  卑劣である。
  何も知らされない状態に、この様な長い間、置かされ
 た。
  卑劣極まりない状態に置かれた。
  この事によって、何人の方々が、尊い命を、愛する方々
 のもとから去って行ったことだろう。
  そのあまりにも多い命の数に言葉も詰まる。
 (アメリカは、日本の権益・満州と東部内蒙古を、一旦は
  認めていたが、この様な事態となってしまった)
  (参考)旅立つ:たびたつ、旅に出かける、また、死
    ぬことを婉曲(えんきょく)に言う。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive