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2016年12月3日土曜日

(増補版)465E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1888年6月~1888年7月)

題:(増補版)465E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1888年6月~1888年7月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1888年7月4日、千住製絨所(せんじゅせいじゅうしょ)官
 制公布(農商務省から陸軍省へ移管) 
  千作製絨所官制を公布し、農商務省から陸軍へ移管し
 て、軍用絨品の生産に切り替えた。
  東京都荒川区南千住にあったこの官営の工場は、明治
 新政府によって設立され、被服生地を製造していた。
  それまでの、明治維新から暫(しばら)くの間は、新
 政府の軍服・制服は輸入により賄われていたが、
  外貨減少を抑えるため、その国産化が必要であると、
 1875年(明治8年)9月、千葉県に牧羊場が設けられ、羊
 毛の生産が開始された。
  同年・1875年中に、被服製造技術を学ぶためドイツに
 派遣されていた旧長州藩士・井上省三の帰朝をもって、
  1879年(明治12年)9月27日、東京・南千住にあった、
 ただ葦が茂り人家がぽつりとあるだけの広い荒地(現・
 荒川区南千住6丁目)に千住製絨所が完成させ、操業を開
 始した。
  1883年、火災で主要設備を失ったが・・、
  この年・1888年(明治21年)、陸軍省の管轄となって
 工場を拡張し、
  陸軍所要の布地類、毛糸等を生産・管理した。
  他官庁や民間から製造、研究の依頼、さらに、技術指
 導や技術者養成の依頼があったときは、陸軍大臣の認可
 をもってこれらに応ずることとされていたため、
  国内繊維・被服産業の発展に大いに貢献した。
1888年7月5日、後藤象二郎が、信越と東北での大同団結運
 動展開のため出発した。
1888年7月10日、 「東京朝日新聞」 が創刊された。
  自由党の星亨の「めさ(ざ)まし新聞」を村山龍平が
 買収し、改名されて発刊した。
  それまでは、大阪から1日遅れで配られていた。
  因みに、朝日新聞の創刊は、1879年1月25日で、大阪で
 創刊第1号が出された。
  紙面は小型4ページ、総ふりがな・絵入りで定価1銭、
 1日平均部数は約1,000部。
1888年7月13日、大蔵省が、市町村制における直接税と間接
 税を分類区別し告示する。
  日本は、富国強兵の実現のために、1887年に、所得税
 法を導入した。
  当初、政府は酒税や煙草税などの間接税の増税によっ
 捻出しようとしたが、増税策は失敗した。
  一方、松方デフレの影響は深刻化していた。
  農村は疲弊していた。
  各省も予算が拡大傾向にあった。
  1881年(明治19年)の土木費の国庫補助廃止して以降、
 地方税の改革が模索されてきていた。
  予算も拡大化して来ていた。
  所得税の立案方針が模索され、賦課方式がイギリス型
 からプロシア型へ転換し、明治20年(1887年)度におけ
 る新税導入による予算拡大を不可避とした。
  1887年1月、プロシア型の所得税法案が成立した。
  成立した所得税は、収入見積もりを下回る税収に終わ
 った。
  大蔵省の内部では、所得税の修正や資本税の導入、地
 租軽減の代替財源としての増税など、所得税に関わる改
 正の動きが出た。
  日本の優しい所は、この様な議論の中で、所得の少な
 い民の税負担の軽減を真剣に議論しているところである。
  どこかの国の様に、弱者であるがゆえに、弱者をいい
 ことに、その方々の土地を奪うなどという様な考え方は
 毛頭ない。
  この様な議論の中で、税の改善がなされて行った。
1888年7月13日、枢密院が、憲法草案審議を終了した。
1888年7月14日、海軍大学校官制が公布された。
  海軍大臣の直轄と定めた。
  海軍大学校(かいぐんだいがっこう)は、日本海軍の
 上級将校教育機関。
  1888年(明治21年)7月14日、勅令第55号により海軍大
 学校官制制定。
  同年・1888年8月28日、東京・築地旧海軍兵学校生徒館
 に開校。
  初代校長は、海軍省軍務局長・井上良馨が兼任した。
  同年・1888年11月26日、授業開始。
1888年7月15日、磐梯山が大爆発した。
  会津磐梯山が、千年ぶりに噴火し、山体が崩壊した。
  発生した泥流などによって、461名(477名の説あり)
 が犠牲となった。
  午前7時に雷鳴が始まり、
  45分後に、大爆発が起った。
  磐梯山系の小磐梯山が爆発して消滅した。
  (発生した爆風と、岩屑なだれにより北麓の集落が埋
 没するなどの被害を受け、477人の死者が出た)
  山の上半分を噴き飛ばしていた、あとに大きな火口を
 残した。
  爆発物で長瀬川が埋没し、檜原湖などの湖沼群ができ
 た。
  大量の泥流が、麓の3か村を襲い一帯は全滅した。
  (噴火時に小磐梯が麓から湧き出していた温泉によっ
 て風化したのが原因で山体崩壊を起こしたという)
  下流の河川をせき止めた所に、100以上の湖沼が生まれ
 た(後に、長瀬川とその支流がせき止められ、桧原湖、
 小野川湖、秋元湖、五色沼など・・大小さまざまな湖沼
 が形成された)
  同日、皇室は、罹災金3000円の下賜を決定した他、新
 聞社15社が義捐金を募った。
1888年7月18日、海水浴場での混永が禁止された。
  神奈川県の海水浴場の男女混泳が区分けされた。
1888年7月19日、山岡鐡舟が死去した(53歳)
  山岡鉄舟(やまおかてっしゅう)、幕臣・幕末の三舟
 の一人、幕末・明治前期の剣客、政治家、子爵、高橋泥
 舟の義弟(1836年7月23日~1888年7月19日)
  1836年、600石の旗本・小野朝右衛門の長男として、江
   戸本所大河端に生まれた。
  1846歳、10歳のとき飛騨の郡代となった父とともに飛
   騨高山に行き、17歳まで、ここに過ごす。この間、
   儒学、書、剣を学び成長した。
   鉄舟は、若くして両親を亡くした。
   苦労しながら、幼弟5人を養育した。
  1855年(安政2年)19歳、槍(やり)の師(刃心流山岡
   静山)に学び、山岡家を継ぐ、静山の妹・英子(ふ
   さこ)と結婚、妻に向かえる。
   また、千葉周作に剣(北辰一刀流)を学び、
   のち、一刀正伝無刀流を案出し、春風館を設立し、
   門弟を教えた。
  1856年(安政3年)20歳、幕府講武所で剣術世話心得と
   なる、
  1862年(文久2年)26歳、清川八郎らと浪士組(新選組
   の前身)取締役を拝命、隊士を率いて上洛、
  1868年(明治1年)32歳、精鋭隊頭となり徳川慶喜の警
   護に当たる。
  同年・1868年3月、直々の命(勝海舟の使者))により、
   東征軍参謀・西郷隆盛を、駿府の大総督府に訪い、
   勝海舟との会談を周旋、
    徳川家救済と、江戸城の無血開城に力を尽くした。
    彰義隊にも新政府への恭順を説いたが容れられな
   かった。
    維新後は、静岡藩権大参事、伊万里県知事などを
   歴任。
  1869年(明治2年)9月、33歳、静岡藩権大参事(ごん
   だいさんじ)
  1871年(明治4年)35歳、茨城県参事を経て、
  1872年(明治5年)6月、36歳、明治天皇陛下の侍従に
   就任、ついで、宮内少丞(しょうじょう)・大丞と
   進み、、
  1881年(明治14年)45歳、宮内少輔(しょうゆう)に
   進む。
  1888年、53歳で病没、東京谷中に自ら創建した禅寺全
   生庵に眠る。
   剣客との名がある通り武骨ではあるが、将軍慶喜、
   明治天皇のいずれに対しても、意気に感じて誠実を
   もって応えた人。
    勝、高橋と共に幕末三舟と称される。
    <著作>『鉄舟随筆』(安部正人編)
.
  (今日の言葉)
.
  題:ルーズベルトは、『人種差別をする大統領』だった・・、
.
1935年9月27日、アメリカ大統領のルーズベルトと、黒人の
 地位向上運動家の代表が会談した。
  ルーズベルト大統領は、人種差別をする大統領だった。
  リンカーンも、「奴隷解放した」という事から、人種
 差別をしない大統領だと言われているが・・?
  これは、プロパガンダ(嘘宣伝)だ。
  リンカーンは、はっきりと黒人の方々を差別する発言
 を何度も演説で言っている。
  リンカーン擁護派は、政治家として「奴隷解放反対者
 に説明するためだ」とかと擁護するが、それは嘘だ。
  政治家なら、いかなる状況においても、自分の主義・
 主張と相容れない発言をしてはならない。
  また、当然、自分の主義・主張と「違う発言」をして
 はならない。
  このルーズベルトの場合も、はっきりした黒人の方々
 を虐げる大統領だった。
  ルーズベルトは、1935年春以来、第二期のニューディ
 ール政策を進めていたが、黒人の方々の地位向上は行わ
 なかった。
  1935年9月27日、黒人の「黒人の地位向上に取組む黒人
 運動家」が、この日、ルーズベルトに会い、
  「黒人の地位向上」を訴えた。
  レコードの録音盤が残っている。
  「戦争の危機が高まる今こそ、愛国的な黒人にも平等
 の地位を・・」と、訴える。
  当時、アメリカ陸軍は、人種分離政策をとっていて、
 黒人の方々の部隊は、分離され、白人と分けさせられて
 いた。
  そして、アメリカ海軍の場合・・、
  艦船上の分離が不可能という事から、黒人の方々は排
 除されていた。
  「奴隷解放したから黒人の方々を差別してない」と嘘
 宣伝(プロパガンダ)されているリンカーンも、黒人の
 方々を排除した。
  何度も、何度も、黒人のリーダーが、リンカーンへ訴
 えたが、黒人の方々の参戦を許可しなかった。
  やむを得ず、黒人の方々は、自主的に南北戦争に参戦
 し、忠誠を示した。
  ルーズベルトも、このリンカーンと同じだった。
  この会見の12日後、ルーズベルト(ホワイトハウス)
 は発表した・・、
  「大統領と黒人指導者は、アメリカ軍の(人種隔離)
 政策を、今後も継続する事で合意した」・・と、
  これは、まったく酷(ひど)い嘘だった。
  こんな合意はまったくしていない。
  この黒人指導者の名は、「ランドルフ」と言ったが・・、
  ランドルフは、これを知って、びっくりした。
  ルーズベルトは、ランドルフの訴えた差別の存在を認
 識し、意識し、
  ルーズベルトは、その改善の道の具体的1例を口にした。
  例えば、艦船の食事担当などの可能性を言っていた。
  このルーズベルト(ホワイトハウス)の発表は、その
 会談の論調は、まったく消えている。
  リンカーンと同じく、まったく黒人の方々への理解を
 示さないルーズベルトだった。
  ランドルフは、抗議の手紙を、ルーズベルトへ出した。
  しかし、ルーズベルト(ホワイトハウス)からは、何
 の説明も、返事もなかった。
  ルーズベルト時代も、リンカーン時代と同じ「黒人の
 方々を差別する時代・考え方」だった。
  ルーズベルトが尊敬した、理想の大統領としていたウ
 ッドロー・ウィルソンもまた、人種差別の「がちがちの
 大統領」だった。
  第一次世界大戦の後、ウィルソンは、十四カ条の要求
 を示して進歩的だったが・・?
  「黒人の地位向上は、させるべきではない」とはっき
 り発言し、主張していた。
  強く黒人の方々を差別する政策をとる人種隔離政策の
 大統領だった。
  ルーズベルトは、このウィルソン政権のアメリカ海軍
 次官補として・・、
  アメリカ海軍の黒人差別の規則「人種隔離規則」を明
 文化することを担当し、働いていた。
  お粗末の話である。
  まったく憤りが湧く。
  アメリカは、日本の内政干渉をする前に、自国のこの
 様な『時代遅れの酷(ひど)い差別』を無くすことをし
 なさい。
  また、これを、ユネスコの世界記憶遺産に登録しなさ
 い!
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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2016年11月30日水曜日

(増補版)464E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1888年6月~1888年6月)

題:(増補版)464E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1888年6月~1888年6月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1888年6月6日、御歌所設置(所長に高崎正風)
  宮内省御歌掛を廃止し、御歌所を設置した。
  御歌所(おうたどころ)は、天皇陛下や、皇族方の御
 歌や御歌会に関する事務を扱った所で、明治21年(1888
 年)創設され、昭和21年(1946年)廃止されている。
1888年6月7日、2回目の博士号が25人に授与された。
1888年6月10日、乃木希典が、ドイツ留学より帰朝した。
  乃木希典(のぎまれすけ)が、約1年半のドイツ留学を
 終え帰国した。
  しかし、帰国してからというものは、昔の磊落(らい
 らく、度量が広く、小事にこだわらないこと)な振る舞
 いが一転し、
  古武士の風格を尊ぶような謹厳そのものに変貌し、乃
 木を知る人々を驚かせた。
  性格一変して、謹厳そのものとなったという。
  その性格が一転して変ったの理由には、一つは、ドイ
 ツ留学中に、ドイツ国の偉大な所が、軍人が節制を守り、
 規律に服し、軍人の面目は死を以て守るにあると観て、
  さらには、ウィルヘルム二世の崩御に際し、国民挙げ
 て謹慎哀悼の状を表するを見て、痛くこれに感じ入り、
 顧みて近年の日本人は、一身の利を求めて国家を忘れる
 者多きことを嘆き、乃木は、山鹿素行を私淑し、常に、
 武士道の振る舞いをすることで、その模範を広く示そう
 とした。
18886月13日、市町村統合が始まった。
1888年6月15日、皇室典範草案の審議が終了する。
1888年6月18日、枢密院会議が開かれた。
  枢密院が、大日本帝国憲法草案の審議を開始した。
  明治天皇陛下が御臨席なされ、また、伊藤博文を議長
 として憲法議事の第一回が開かれた。
  枢密院は、明治憲法のもとの天皇陛下の最高諮問機関
 で、
  この年に、大日本帝国憲法草案審議のために設置され、
 議長・副議長・顧問官により組織した、内閣から独立さ
 れた機関だった。
  1947年(昭和22年)日本国憲法施行によって廃止とな
 った。
1888年6月18日、雑誌『日本人』が、高島炭鉱の批判報道を
 開始する。
  坑夫になりすました記者の記事が掲載された。
  長崎の高島炭鉱の、厳しい労働が記事となり、社会が
 沸騰した。
  当時の女性方も男性と同等に頑張っていた。
  今・現在、当時のことを、女性方は明るく思い出して
 話すが・・
  当時の日本人は、皆、列強諸国の圧迫に抗すことの出
 来る日本を作ろうと頑張っていた。
  NHKは、恵まれた今・現在から見ると、落差の大き
 い当時のことを、悲惨な当時の事を、状態を、何でも「
 ことさらに大きく、酷(ひど)く」「日本を貶(おとし)
 めて」放送する放送局だが・・、
  ある意味、正しい・正確な報道をしていない放送局と
 なっている。
  そして、日本の国民の方々をプロパガンダ(嘘宣伝)
 し、偏頗(へんぱ、かたよっていて不公平なこと)な方
 向へ導こうとする放送局となっている。
1888年6月18日、整理公債条例が追加公布された。
  紙幣整理による物価安定を図り、
  また、幣制(へいせい、貨幣の発行や流通などについ
 ての制度)を統一して、
  新しい国家体制を確立していきたいという意図の中だ
 った。
  富国強兵の国家の方針の中で、伊藤博文内閣は、税収
 不足で立ち遅れた海軍の造船計画を実施するために、海軍公債
 を起債した。
  1886年(明治19年)6月に、海軍公債証書条例を公布した。
  応募は3倍を突破するという状況だった。
  これから、毎年、起債された。
  不換紙幣のせいろを終えた松方正義大蔵大臣は、国債
 整理への取り組みを積極化させ、
  1886年9月に、整理公債条例を公布した。
  目的は、発行済みの高金利の国債を、市中金利の低下
 に合わせて低利借り換えし、利払い費の節約を図りたい
 とした。
  また、国債法規の統一を図ることにあった。
  日本銀行に整理公債事務を命じ、繰り上げ償還などを
 行なって行った。
  整理公債は、交換発行、普通募集、特別発行という3つ
 の方法で発行した。
  交換発行は、満期を迎えた国債の償還元金の代わりに
 整理公債を公布するなどして発行された。
  普通募集は、中山道鉄道公債の発行以降採用された価
 格競争入札によって行われた。
  1892年までに、5回の募集が行われ、入札はすべて成功
 した。
  特別発行は、1888年のこの年に、整理公債条例6条に
 「市場の時価に準し整理公債証書の価格を定め臨時之を
 発行して日本銀行に公布する事を得」との一項を追加す
 ることによって、始まった。
  大蔵省預金局向けに、この年の1888年から1897年まで
 に8回、発行された。
1888年6月19日、日本赤十字社に資金が下賜された。
  1877年2月、日本赤十字社の前身の博愛社が、元老院
 議員である佐野常民(さのつねたみ)と大給恒(おぎゅ
 うゆずる)によって設立された。
  1887年、日本赤十字社と改称された、昭憲皇太后陛下
 が積極的に活動されていた。
  正式紋章は、昭憲皇太后陛下の王冠のデザインを似て
 使わせて戴いている。
  家族の方々が指導的立場に就いていた。
  昭憲皇太后陛下は、1888年7月15日に、会津磐梯山の
 噴火で甚大な被害が出た福島での被災者救護に当るよう
 に、日本赤十字社に対して命じられている(日本赤十字
 社の初の災害救護活動)。
  以後、日本赤十字社は天災救護活動を本格化させた。
1888年6月21日、皇城内に初めて電燈が点火した。
  東京電燈は、1883年(明治16年)2月に、設立が認可さ
 れ、
  矢嶋作郎が初代社長に、大倉喜八郎が取締役に就任し
 た。
  資本金は20万円だった。
  1887年(明治20年)から電気の供給を開始した。
  エジソンが世界で始めて、ニューヨークのパール街に
 火力発電所をつくり、付近の需要家に白熱電灯で電気を
 供給し始めてから、5年後だった。
  麹町区麹町と日本橋区南茅場町、京橋区新肴町、神田
 区錦町、北豊島郡千束村(後の浅草区千束)の5カ所に火
 力発電所を建設して、その周辺へ電気を供給した。
  当初、電気料金は、16燭光の半夜灯で1ヶ月1円50銭だ
 った。
  当時、盛りソバが8厘から1銭、牛メシが1銭だった。
  今、駅の立ち食いモリソバが400円とすると、1ヶ月の
 電気代が6万円に相当する。
  庶民の手の届くものではなかった。
  それでも東京電燈の電灯契約数は、開業時の138から、
 4年後には1万を超えた。
  そして、10年後には3万7千以上にもなった。
  電灯は、東京市内に爆発的に広がった。
  東京電燈株式会社による電気供給事業が、1887年(明
 治20年)に始まったのに続き、
  翌年・1888年に、神戸電燈、
  翌々年・1889年に、大阪電燈、京都電燈、名古屋電燈
 が開業し、
  1890年(明治23年)には、横浜共同電燈と深川電燈が、
  1891年(明治24年)には、熊本電燈、北海道電燈など
 が開業し、
  電燈の電気を供給する事業が全国に広がっていった。
  1897年(明治30年)末には、全国で電気を供給する会
 社は39社にも達した。
  東京電燈の設立を計画し、初代社長に就任し、
  神戸電燈、京都電燈の設立にも参画したのが、
  幕末時では、長州藩の志士だった矢嶋作郎であり、
  矢嶋作郎は、わが国の電気事業の創始者といえる。
  (電気事業起業家と九電力体制、志村嘉一郎氏の論文
 を参考にした)
1888年6月27日、九州鉄道会社が設立された。
  九州鉄道(きゅうしゅうてつどう)は、九州の私設鉄
 道会社で、九州初の鉄道路線を開通した会社。
  1887年(明治20年)松田和七郎、藤金作、伊丹文右エ
 門、渋谷清六、白木為直、嘉悦氏房の6名が、会社設立発
 起者総代となり、福岡・熊本・佐賀の各県令に呼びかけ
 て創立した。
  この年・1888年、政府に設立認可され、初代社長に高
 橋新吉が就任し、
  初の路線は、1889年に、開通した博多駅~千歳川仮停
 車場間であり、後に鹿児島本線の一部となった。
  北九州市門司区に旧本社の建物が残存し、2003年から
 九州鉄道記念館として利用されている。
.
2012年、  (今日の言葉)
.
  題:日本は、近隣諸国の方々から、『本当に好きだ』と言われている国である・・、
.
  武田邦彦教授が、下記のことをYouTubeで発表されて
 いる。
  題:武田邦彦:意外?世界の反日国家一覧
  https://www.youtube.com/watch?v=AbRqzQxHk4o
  以下は、その調査結果である。
  日本が「大好き+好き」が、韓国・中国は60%ぐらい
 であるが、
  他のアジアの国々の方々は、90%から100%近い方々が、
 日本を、「大好き」もしくは「好き」と言われている。
.
...........大好き・好き・嫌い・大嫌い・大好き+好き
韓国:........11%、47%、22%、20%、....(58%)
中国:........21、..45、..16、..18、......(66)
台湾:........44、..45、...2、...9、......(89)
香港:........31、..51、...8、..10、......(82)
タイ:........55、..42、...2、...1、......(97)
マレーシア:..51、..43、...5、...1、......(94)
シンガポール:59、..36、...4、...1、......(95)
インドネシア:45、..49、...5、...1、......(94)
ベトナム:....64、..33、...1、...2、......(97)
フィリピン:..50、..45、...1、...4、......(95)
.
  また、『日本が一番頼りになる国だ』と言われている。
.
§頼りになる国(2012年)
  世界に良い影響を与えると思う
1、日本.....58%
2、ドイツ...56%
3、カナダ...53%
4、イギリス.51%
5、中国.....50%
6、フランス.48%
6、EU.......48%
8、アメリカ.47%
9、ロシア...31%
.
  そして、「やはり」と言うのか、「そうだろうな」と
 言うのか、
  『ロシアが、一番、世界に悪い影響を与えている国だ』
 と言っている。
  因みに、『アメリカ合衆国が、二番目に、世界に悪い
 影響を与える国』になっている。
  アメリカも、ロシアと一緒に反省しなさい。
.
  世界に悪い影響を与えると思う(2012年)
9、ロシア...36%
8、アメリカ.33%
7、中国.....31%
6、EU.......25%
5、フランス.22%
4、日本.....21%
3、イギリス.20%
2、ドイツ...16%
1、カナダ...14%
..
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2016年11月27日日曜日

(増補版)463E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1888年5月~1888年6月)

題:(増補版)463E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1888年5月~1888年6月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1888年(明治22年)5月21日、鐘淵紡績所の設立が許可さ
 れた。
  東京の繰綿(くりわた、綿繰り車にかけ、種の部分を
 取り去っただけの、まだ精製していない綿)問屋5店は、
  1886年、東京綿商社の設立を決議した。
  翌・1887年、認可され隅田川の鐘淵に紡績所(工場)
 を建設した、
  資本金100万円、錘(すい)数3万錘で出発。
  しかし経営不振で、
  1888年に、綿売買を廃止し、鐘淵紡績会社と改称した
 (渋沢栄一は顧問)。
  1892年の苦境期に、三井銀行が再建・支援に乗り出し、
  1894年、兵庫工場を建設し、続いて・・
  1899年に、上海紡績など7社を合併、
  1905年には、織布部門、
  1908年には、絹糸部門、
  1922年には、絹布、絹製品、
  1934年には、毛糸、化学繊維、麻製品に進出、多くの
   紡績会社を吸収し、
   さらに鉱業、化学、農牧畜を兼業し、
  1938年には、これ等を分離して鐘淵実業を設立、
   その後、鐘淵実業は、製鉄、航空機製造などに事業
   拡張、また、中国各地に直営事業を経営し、また、
   投資し、重化学工業へも進出した。
  1944年の第二次大戦中に、鐘淵紡績と、繊維以外の事
   業を行なっていた鐘淵実業が合併して鐘淵工業(株)
   が発足した。
  1946年の第二次大戦後は、繊維事業中心に転換し、鐘
   淵紡績(株)と社名復帰し、化粧品・食品等の事業に
   も次々進出、
   また、持ち株会社に指定され、
  1948年に、過度経済力集中排除法が適用され、
  1949年に、非繊維部門を鐘淵化学工業(現:カネカ)
   として分離した。
   朝鮮戦争による特需景気で繊維部門を再建した。
  1971年、鐘紡(株)となる。
  2004年に、債務超過などの理由から、産業再生機構に
   支援を申請、支援が決定した。
  2004年の同年に、化粧品部門をカネボウ化粧品として
   分離。
  2005年の翌年6月に、有価証券報告書の虚偽記載を行っ
   ていたことにより『上場廃止』となった。
  2006年に、産業再生機構による支援が終了し、
   投資会社3社に主要事業を譲渡。
   カネボウは、その他事業の運営、清算業務等を行っ
   たのち、
  2007年に、解散、社名を海岸ベルマネジメントに変更
   し、清算業務だけを行った。
  2008年に、海岸ベルマネジメントは、投資会社3社出資
   の買収受取会社であるトリニティ・インベストメン
   トに吸収合併された。
   なお、カネボウが譲渡した主要事業会社は、2006年
   に、カネボウ・トリニティ・ホールディングス(現:
   クラシエホールディングス)を統括会社として再出
   発、2007年には、社名、商標名を「Kanebo」から「
   Kracie(クラシエ)」に変更した。
  アメリカとの「繊維摩擦」で、この会社も、苦労し、
 虐げられた。
  (鐘紡百年史、及び、その他史料などを参考にした)
1888年5月25日、憲法草案会が開かれた。
1888年5月29日、麒麟(キリン)ビール発売
  日本麦酒醸造会社が、麒麟ビールを発売した。
1888年5月、米津風月堂が、アイスクリームと、アイスキャ
 ンディーを発売した。
1888年5月、電気学会が創立された。
  一般社団法人・電気学会(いっぱんしゃだんほうじん
 でんきがっかい)は、電気学術の調査・研究と広報・普
 及を目的に創立された学会で、
  初代会長は榎本武揚(52歳)が就任し、会員数は約二
 万四千人、元文部科学省所管・・と説明がある。
1888年6月1日、東京天文台が、麻布に新設された。
  帝国大学付属として、東京天文台が東京港区麻布飯倉
 に設立され、
  帝国大学理科大学天象台(学生用観象台)と、海軍省
 海軍水路部観象台と、内務省地理局が統合された。
  初めは、1878年に創設された東京大学付属の天文台で、
 創設当初は、観象台と称して文京区の東大構内にあった
 が、
  この年に、港区麻布に移って東京天文台と改称 し、
  1924年(大正13年)に、都下三鷹市に移った。
   日本は、第二次世界大戦後、各種の観測を進めてい
   くために各地に観測所を設立してきた。
  1949年(昭和24年)に、乗鞍(のりくら)コロナ観測所
   (岐阜・長野県境乗鞍岳)、
  1960年(昭和35年)に、岡山天体物理観測所(岡山県
   鴨方(かもがた)町)、
  1962年(昭和37年)に、埼玉県都幾川(ときがわ)村(
   現ときがわ町)に堂平(どうだいら)観測所(2000年
   3月、観測環境の悪化等により閉所)、
  1969年(昭和44年)に、野辺山(のべやま)太陽電波観
   測所(長野県南牧(みなみまき)村)、
  1974年(昭和49年)に、長野県三岳(みたけ)村(現:
   木曽町)に木曽(きそ)観測所、
  1978年(昭和53年)に、野辺山宇宙電波観測所が建設
   され、
  主な観測器械としては・・、
   188センチメートル反射望遠鏡(岡山)、
   105センチメートルシュミット・カメラ(木曽)、
   65センチメートル屈折望遠鏡(三鷹)、
   25センチメートルコロナグラフ(乗鞍)、
   45メートル電波望遠鏡(野辺山)・・など世界の水
  準に匹敵する装置を保有し、
   位置天文学から天体物理学までの広い範囲の研究と
  ともに、
   宇宙科学研究所(現:宇宙航空研究開発機構)の研
  究にも参加し、
   また、時刻の測定・保持、暦の編纂(へんさん)など
  も行った。
  1988年(昭和63年)に、東京天文台は、東京大学から
   独立して、
   文部省水沢(みずさわ)緯度観測所(現:国立天文台
   水沢観測センター)、名古屋大学空電研究所の一部
   と統合し、
   文部省(現文部科学省)直轄の研究機関「国立天文
   台」になった。
1888年6月1日、後藤象二郎が、機関紙「政論」を創刊した。
  主宰・後藤象二郎が、大同団結運動の機関紙「政論」
 を発行した。
  後藤象二郎(ごとうしょうじろう)は、
  1838年(天保9年)3月19日生まれの土佐高知藩士。
   土佐藩政の最高責任者・参政を務め、そして、明治
   期の政治家。
   公武合体運動に活躍し、また、
  1867年(慶応3年)1月(29歳)、脱藩者の坂本龍馬と、
   長崎の清風亭で会談したことが、
   土佐藩が、大政奉還に向けて動き出す契機となった。
   坂本龍馬は、姉の乙女らへの手紙で、後藤について、
   「実ニ同志ニて人のたましいも志も、土佐国中で外
   ニハあるまいと存候(ぞんじそうろう)」・・と評し
   ている。
   公議政体論を唱え、前藩主・山内豊信に大政奉還を
   建白させ、
   江戸幕府末期の徳川慶喜の大政奉還運動に活躍した。
   明治維新後は、新政府に参与、参議を歴任して仕え
   たが、
  1873年(明治6年)(35歳)征韓論に敗れ、西郷隆盛、
   板垣退助とともに下野した(明治六年の政変)
  1874年(明治7年)1月12日(36歳)に、板垣・江藤新
   平・副島種臣らと愛国公党を組織し、民撰議院設立
   建白書の提出に参画した。
  1874年(36歳)に、実業界へ転身して商社「蓬菜社」
   を設立。
   政府から高島炭鉱の払い下げを受けて経営するが、
   2年後に放漫経営のために破たんした。
   三菱の岩崎弥太郎へ売却している。
  1881年(43歳)に、自由党の結成に際し、板垣に次ぐ
   副党首格で参加した。
   自由民権運動末期の大同団結運動を提唱し、大きな
   役割を果したが、後に、政府への協力に転じる。
  1887年(49歳)、進歩党の結成に尽力し、黒田内閣や、
   第1次松方内閣で逓信大臣(1889年~1892年)、
   第2次伊藤内閣では農商務大臣(1892年~1894年)を
   歴任した。
  1894年5月(56歳)、商取引所の開設にまつわる収賄事
   件の責任をとって大臣を辞任した。
  1896年夏頃(58歳)、心臓病となり、箱根で療養につ
   とめたが、
  1897年8月4日(59歳)没した。
.
  (今日の言葉)
.
  題:弱小の民族を助ける・・日本
   勿論、日本は、ユダヤの方々を助けていました。
   嘘つき新聞となった・・読売新聞・・
.
1938年、日本は、世界の会議で、「民族の平等」を訴えて
 来ていた、
  そして、この年、日本は、ユダヤ人難民を救出するた
 め、当時、日本と関係のあった満州国の住民とする河豚
 計画(ふぐけいかく)が進められた。
  だから、勿論、日本は、ユダヤ人の方々の入国拒否は
 しておりません。
  逆に、日本は、ユダヤ人の方々を助けていました。
  河豚計画(ふぐけいかく)とは、1930年代に、日本で
 進められた、ユダヤ難民を助けるための移住計画のこと。
  日本には、立派に、ユダヤの方々を助ける運動を続け
 て来ていた。
  日本は、欧米列強(アメリやかヨーロッパの武力にも
 のを言わす「しいたげ行」為)のアジアの方々を苦しめ、
 そして、虐(しいた)げる状況を、江戸時代から、「常
 に、苦々(にがにが)しく」思って来ました。
  明治という時代になって、早く、「豊かになろう」、
 そして「強くなろう」と努めたのは、その表(あら)れ
 でした。
  だから、ユダヤの方々を、日本が差別するようなこと
 が、絶対に、あるわけがありません。
  なのに??
  読売新聞に・・何のかかわりがあるのか?
  読売新聞が、杉原千畝の『嘘のデッチアゲ話し』の片
 棒を担(かつ)いでいる。
  本当に、新聞という『真実を伝えない媒体』として、
 信用を落す行為をしている。
  バカじゃないか?・・と言いたい。
  杉原千畝の嘘のデッチアゲの映画の後援をしている。
  杉原千畝の嘘のデッチアゲ話の宣伝をしている。
  読売新聞の社歴を『汚す行為』をしている。
  読売新聞の歴史に『汚点を残そうと』している。
  立派な読売新聞の社歴が『台無しになる』。
  日本は、ユダヤ人の方々を差別していなかった。
  ドイツのナチスから言われても、頭を縦に振らずに、
 ドイツのナチスに、その点は「同調できない」ときっぱ
 り断っていた。
  日本人は、ユダヤ人の方々を決して差別してはいない。
  ユダヤの方々の入国を、「ずーっと」認めていた。
  こんなはっきりした事を、読売新聞は「日本がユダヤ
 人の入国を拒否していたという嘘の記述をした」。
  杉原千畝の嘘話の筋書きに乗っかってしまっていた。
  そして、その筋書きの映画の後援までし始め、
  そして、その嘘話の記事を読売新聞に掲載することま
 で始めた。
  ユダヤの方々が、満州に逃げて来た時、満州にいた軍
 のトップだった東条英機は、当然、日本の方針通り、「
  ユダヤ人の方々の満州国への入国を認めて、満州国へ
 ユダヤ人の方々は入国できている」。
  勿論、船で、日本に逃れて来たユダヤ人の方々も、日
 本に入国できている。
  こんな、杉原千畝の嘘のデッチアゲを、読売新聞は、
 何故(なぜ)に?乗る様な事をするのか?
  この杉原千畝の嘘話は、キリスト教がデッチアゲタ。
  杉原千畝がキリスト教だという事で、キリスト教がデ
 ッチアゲタ。
  逃げて来たユダヤ人の方々へ、日本の方針を無視して
 ビザを出したと・・美しく仕立てた嘘の話をデッチアゲ
 タ。
  この当時、外国の日本国大使をされていた馬淵睦夫氏
 らも、呆(あき)れられている。
  馬淵大使らは、「日本は、ユダヤの方々の入国を認め
 ていたから、どこの大使館でも、ユダヤの方々へビザを
 発給していました」とはっきりと言われている。
  そして、杉原千畝の話は呆れた話で嘘の話だと言われ
 ている。
  何故?こんなはっきりした話に・・日本を貶めるキリ
 スト教の活動方針の話に、読売新聞は乗っかっているの
 か?
  因みに、杉原千畝だけを、キリスト教徒だという事で、
 キリスト教が大きくでっち上げるが、
  杉原千畝以前に、日本は、『日本という国として、ユ
 ダヤの方々を助ける計画を進めていた』、
  そして、また・・、
  1939年6月には、駐ベルリン満州国公使館書記官・王替
 夫氏が、難民にビザ発給し、杉原千畝の倍以上のユダヤ
 人の方々へビザの発給をしてもいた。
  (1940年5月まで、ユダヤ難民含む合計12,000人以上)
  杉原千畝だけを、キリスト教が行なう美化行為は、で
 っち上げのプロパガンダ(嘘宣伝)だ。
  (参考)史料:
  関東軍のハルピン特務機関長であった樋口季一郎少将
 は、部下とともに、ナチスドイツの激しい反発を受けな
 がらも、東条英機関東軍参謀(後の首相)の許可の下に、
 なんと1万人ものユダヤの方々を、この年(1938年)に救
 っていたという事実がある。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive