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2013年7月26日金曜日

千変万化するのである・・。

 題: 千変万化するのである・・。
...(真を求めて 皆様と共に幸せになりたい)
.
 キリスト教は、聖職者を美化し、権威付け、その繰り返しが
続けられ、神と同等という人間まで生み出されたという『自画
自讃の宗教」。
 例えば、「マルコによる福音書」では、イエスの挙動不審を
心配した家族が、そのイエスの挙動不信行為が続くと、家族も
強くイエスに対して対応し、行動する様になる。
 聖書の原文には、「家族がイエスを逮捕しようと出掛けた」
とある。
 「逮捕」とは穏便な言葉ではない。
 そして、人々は「イエスが正気ではないと言っていたから」
と、家族のイエス逮捕に出掛ける理由を書いている。
 イエスも、この様に辿(たど)って来た経緯(いきさつ)に
快(こころよ)く思っていなかったのか、
 「ただ、イエスに『悪霊追出し』をして貰おうと、集まった
だけの人々」に対し、『私の兄弟、姉妹、また、母なのだ』と
言う。
 イエスの前にいる人々と言ったって、イエスの前に座ってい
るだけの人々、宗教的な事は何もしていない人々。
 ただ、イエスからの行為を期待して、集まっている人々なだ
け、特に何もしていないのに、イエスは、この人々を『神の御
心を行なう人』と讃える。
 そして、決して言ってはいけない事、イエスの母・マリアや
兄弟や姉妹を、『わたしの母、わたしの兄弟とは誰か(わたし
を逮捕に来るような人など、親でもなければ兄弟でもない)』
とまで言う。
 最愛の家族を、ここまで言う、最悪のイエス。
 ここを、「マタイによる福音書」は、まったく変えてしまっ
ている。「マルコによる福音書は」を参考にして書かれた「マ
タイによる福音書」であるが・・。
 「マルコによる福音書」のこの部分を完全に削除してしまっ
ている。
 そして、ここを、マルコはまったく違う態度に変更して、イ
エスを丁重に扱う形にしている。
 『母上と御兄弟たちが、お話したいと外に立っておられます』
としている。
 そして、さすが、何も宗教的行為も何もしていない、「ただ、
集まった人々」を、あなたたちが『親・兄弟以上の人たちだ』
とはしなかった。
 ここには「イエスの弟子たちを登場させた」。
 イエスが「弟子たちの方へ手差し伸べて」となっている。
 手を差し伸べる行為は、権威のある聖職者が、祝福を与える
時にする宗教的な典礼の態度の権威づけに変えた。
 弟子たちを宗教的・典礼的に祝福し、弟子たちを権威づけた
いのである。
 マルコの「イエスの前の群衆は完全に無視された」。
 そして、「マタイによる福音書」の50節では、
 『天の父の御心』という荘重な宗教的用語まで飛び出し、
 マルコと、まったく違う、「権威付けにせいを出している」。
 この方向は、『聖職者が聖職者を美化』し、『権威づける行
為』の習慣化へ向かった。
 『按手(あんしゅ)』というサクラメントなどの宗教的儀礼
の虚偽の行為による「使徒的権威」が、キリスト教は、虚(う
つ)ろに、もったいぶって伝えられて行く。
 この様な素人(しろうと)とダマシ的な、一見、厳(おごそ)
か的行為と観念が捏造(ねつぞう)され、最後は、虚飾をまと
って、『一切の過(あやま)ちから免(まぬが)れられる』・
・という、『途方もない盲想』が、キリスト教徒へ洗脳され、
あやつられ、繰(く)られて行く。
 頂点に居る教皇は、「無謬」、一切の誤りがない、誤りがあ
るわけないと、恐ろしい変質・変転への道を辿って行く。
 因(ちな)みに、「ルカによる福音書」の、ここのところは、
「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行なう人
たちの事である」と、手のひらを返すように、穏便に、
 また、母・マリアや兄弟たちの顔を立てている。
 キリスト教の聖書なんて、適当なものである。
 『右を書け』ば、『左も書く』、『どちらでもよい』と言っ
ている。どうにでも、千変万化するのである。
 この様なもので、人類が救済されるわけがない、皆様が幸せ
になるわけがない。
 (参考)せんぺん‐ばんか【千変万化】 [名](スル)さまざ
まに変化すること。
       (詳しくは、以下のブログに)
URL: http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
URL: http://moppo28.blog.so-net.ne.jp

2013年7月25日木曜日

サマリア人は、今でも・・。

題: サマリア人は、今でも・・・。
...(真を求めて 皆様と共に幸せになりたい)
.
 キリスト教の発生の地は、砂漠の地だった。
 飢餓に見舞われる地だった。
 飢える民は、耐えた。そして、さ迷った。
 民族の生き残りの希望から、
 『自民族さえ、生き残りたいとの宗教』が生まれた。
 故に、「神の義があるから」との免罪符の教義から、
 隣国の富・食糧を求め、奪いに攻め入った。
 その行為は、「神の義がある正義」とされた。
 今、恵まれた現代でも、キリスト教はこの教えのままでいる。
 聖書の記述は何ら変えていない。
 恵まれた環境にある現代の人々も、この考え・教義に洗脳さ
れ続けている。
 当時、あまりに悲惨な地の人々は救世主を求めた。
 その救世主を見ると・・・
 キリスト教聖書に記述されている救世主の系図。
 そこに記されている『ソロモン王』。
 キリスト教は美しく伝えているけれど・・・。
 実際は、酷(びど)い王であった。
 キリスト教の救世主にはこの様な酷い人間が多い。
 ソロモンは、王位に就(つ)くと、まず、反対派を粛清した。
 そして、エジプト王の娘と政略結婚した。
 そして、エルサレム神殿(第一神殿)を構築した。
 キリスト教の聖書の(サムエル後書 7章)には、
 神・ヤハウェの言葉として、
 「われはイスラエルの子らを、エジプトより導きだせし時よ
り、今日にいたるまで、家に住みしことなくして、
 ・・・われイスラエルの子らすべてとともに歩めるところに
て、汝ら何故にわれに香柏の家建てざるやと、
 ・・・一言だれにも語りしことあるや」・・とある。
 エルサレム神殿は、ヤハウェが居る所としてソロモンは建て
た。しかし、ソロモンの行動が、この様に聖書にはあるが、聖
書の教義を犯していた。
 ソロモンは、妃(きさき)が700人、妾が300人という女性
に関心を奪われた王だった。
 また、ソロモンは、異民族に対し、厳しく専制君主の振舞い
をし、奴隷にし、酷使した王だった。
 奴隷という「人家畜」の世界だった。
 自分たちさえ良ければ良いである。キリスト教の教義・精神
である。
 自分の出身部族のユダ族のみを優遇し、他の支族には粛清で
臨み、それで団結の鉄拳を振るった。キリスト教の説いた「異
教徒は殺せ」である。
 ソロモンの政治は派手で、大土木工事をし、民衆を圧迫した。
 民衆の怨嗟(えんさ)の声は巷に満ちていた。
 人手の挑発は、国民10人に1人という大挑発で、6~10人の
家族と考えれば、ほぼ1家族に1人が連れて行かれるという
「一家の働きがしらを奪う」という悲惨という言葉が当てはま
る悪状況だった。
 ソロモンが死ぬと民衆は不満を爆発させた。
 イスラエルの国は崩壊した。
 ダビデ王からわずか70年だった。
 以来、イスラエルは、兄弟が相憎み合うような愚かな状態が
続いた。何も輝かしい状態ではなかった。
 そして、いつ果てるともしれない猛烈な戦争の時が流れた。
 『自分さえよければ良いの考え・教義』の崩壊である。
 この愚かな種を撒(ま)いたのがソロモン王だった。
 国は急速に衰えて行った。
 漁夫の利を得る形で、周辺国が王国に侵入し始め、まず、エ
ジプトがユダ王国に、エルサレムが略奪され、
 ソロモンの貯めた財宝も奪われ、
 そして、アラム人に北王国が獲(と)られ、
 なのに、内戦をうち続けて国力を衰微させ、
 農村は荒廃し、借金の利息は最低でも25%になり、
 ますます貧富の差は開き、
 町には浮浪者が満ちた。
 国の連合の宗教は、結び付ける力が弱く、
 一旦、衰微し始めると抑えが効かない状態となった。
 イスラエル人が王位に就く王国支族も出る始末。
 世は乱れた。
 イスラエル北王国は、残虐なアッシリアによって、逐次、蚕
食(さんしょく)された。
 首都(サマリア)は、3年間、防戦したが陥落した。
 サマリアの残虐さは、王を捕えて目をつぶし、貴族を串刺し
にし、民衆を奴隷にして追放した(売り払った)。
 イスラエル十二支族中の十支族は、土地を完全に追われ、そ
の後、まったくどうなったかが分からないという状態。
 歴史の中に完全に消滅し、彼等がその後どうなったかは、誰
にも分からない状態。
 この切っ掛けがソロモンのあまりにも過酷な圧政であった。
 サマリアの地には、混合異民族が来た。
 それは、征服したアッシリアの政策だった。
 それは、サマリアに居た民は奴隷として連れ出し、その後、
異民族の移民をサマリアの地へ連れて来た。
 そうして民族意識を破壊し、抵抗の根を絶やそうとした。
 故に、サマリアは混合異民族の混血の民となった。
 故に、彼等は昔は連合の支族だったが、南方のユダ王国・支
族の民・ユダヤ人から、「サマリア人」と賤(いや)しく呼ば
れた。
 差別された。
 イエス・キリストさえ蔑(さげす)み賤しんだ。
 イエスの心底にはこの様なところが流れている。
 (マタイによる福音書、10章)に、
 イエスの言葉として、「異邦人のみちに行くな。またサマリ
ア人の町にはいるな」と。
 今でもサマリア人は生存している。しかし、・・・。
 キリスト教聖書に書かれたが故、悲惨な事に、今・現在でも、
サマリア人は虐げられ、ゲリジムの山の付近に居て、
 二千数百年間、
 自分たちの内部にだけ閉じこもっての生活だという。
 結婚も同部族だけの血族結婚の繰り返しとなってしまい、
 不具者が非常に多いという。
 イエスに虐(しいた)げられた事を言われ、
 そして、キリスト教に忌み嫌う教えを説かれ、
 キリスト教聖書にも虐げの言葉を刻(きざ)まれ、
 長年、虐げ続けて来たキリスト教の『悪行為の結果』である。
 差別である。
 キリスト教は卑劣な事をして来ている。
 今・現在もしているという卑劣な宗教だ。
 サマリア人の民族は、絶滅の日が近いと見られている。
 悲惨な事だ。
 キリスト教、何が、人類救済の宗教と言えるのだ。愛の宗教
と言えるのだ。
 (参考)えん‐さ【怨嗟】 [名](スル)うらみ嘆くこと。
 (参考)蚕食 cánshí [動] 蚕食(さん/しよく)する,じわじわ
侵略を重ねる。
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2013年7月24日水曜日

いくらかでも丁寧に読めば気が付くことなのだが・・。

題: いくらかでも丁寧に読めば気が付くことなのだが・・。
...(真を求めて 皆様と共に幸せになりたい)
.
 キリスト教の本の著者で、日本の大学で勉強し、そして更に、
外国の大学でキリスト教『神学』を学んだ博士(○○○○氏)
が言う、
 (キリスト教の聖書は、ある1つの宗教理念・哲学・宗教が、
書かれているものと思うが、そうではない)、
 新約聖書の各文書では、多くの場合、互いに相容れない立場
が主張されていると言った方が適切である。
 もちろん、ある程度は似たような立場の文書もある。
 しかし、対立している場合には、大変大きな立場の相違があ
る・・と。もう、口があんぐり開いた話である。
 こうなったら宗教ではない。よく信仰していられるなと思う。
 この言葉は、「キリスト教は、右でもいいし、左でもいい
という宗教です」と言われているのだ。
 また、「キリスト教は、右でも駄目、だからって、左でも駄
目という宗教です」とも言われている。こんなの宗教ではない。
 キリスト教の信徒へ『道が示せない宗教』ですと言われてい
る。宗教として存立していない。
 この言葉は、「宗教としての駄目通告」を受けた言葉である。
 この『事の重大さに気付かない』知識レベルの人たちだけが
残る宗教と言える。方向性を示しえない宗教=キリスト教。
 この研究者も言う、『なかなか、そこまで深く読む人はいな
い」・・と。
 また、『いくらかでも丁寧に読めば気が付くことなのだが」
・・と。
 また、「盲信が先にあるから」、
 また、(キリスト教会から)権威あるものと『先入観を植え
付けられているから』・・と言っている。
 そして次、もう1つの話。
 科学的知識も進み、
 また、倫理観に関する知識も発達した人々=現代人、
 これは、長い時の流れの中で得た知識である。
 過去の人たちの『積み重ね』の上にある。
 得難い特性を持つに至った現代人。
 この様な目で、キリスト教の聖書の言葉を見ると、
 種々、気になるところも出て来る。
 例えば、(「マタイによる福音書」12・9~14)に、
 「あなたたちのうち、だれか羊を1匹持っていて、それが安
息日(日曜日)に穴に落ちた場合、
 手で引き上げてやらない者がいるだろうか」。
 そして、(「ルカによる福音書」14・1~6)には、
 「あなたたちの中に、自分の息子か、牛が、井戸に落ちたら、
すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか」。
 この様な、誰でもわかる行動原理の話を、
 馬鹿馬鹿しい当り前の話を、
 くどくどと聖書という書物の中に記し、
 「神の言葉だ」と押し頂いて、
 何度も読むのが信仰が篤(あつ)いと讃(たた)えられる。
 この様な書を、何度も読む行為は正しいのだろうか?
 日曜日であっても「牛」や「羊」が穴や井戸に落ちたら、
 すぐ引き上げなさい。
 ましてや、愛する息子が井戸に落ちたら、何も考えずに、
愛息を引き上げなさい。死んでしまうではないか。
 キリスト教の聖書のことなど考えて「躊躇する事ではない」。
 この様な馬鹿馬鹿しい話を、キリスト教聖職者は、体面を保
つために、くどくどと話を、いらぬ話をするのだろうが、これ
に関し、すぐ「聖書は間違っています」「息子さんを助けてや
って下さい」と言ってやって下さい。
  (詳しくは、以下のブログに)
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2013年7月23日火曜日

分からせよう、悟らせようと・・・。

 題: 分からせよう、悟らせようと・・・。
...(真を求めて 皆様と共に幸せになりたい)
.
 英国のチャーチルの息子が、キリスト教の話を聞いたのち、
イエスの弟子たちを「まったく、豚野郎ではないか」、「スカ
タンではないか」と叫んだという。
 キリスト教の聖書の(「マルコによる福音書」4・1~20)を
見ると呆(あき)れる。
 「お前は偉(えら)くない」とかの話で、足の引っ張り合い
をする。そして、「偉い人におもねって、私も偉い」と主張し
たりしている世界となっている。
 この様な、悪さが生まれた原因の一端は、イエスにもある。
 イエスが12人の「使徒」を選んだが、この後で、イエスは言
う、「使徒に『秘伝』を授(さず)けた」と。
 ここで、知的で節度あるグループであるならば、その状態に
なっても節度は崩れずに、保たれるのであるが、
 このグループは違った。
 「特別な『権威』が生まれた」。
 『権威が好きなキリスト教』の芽がここにもある。
 面目躍如というところ。
 そしてまた、呆れることなのだが、その権威の『お取り巻き』
が、生まれる。
 使徒たちの権威に、おもねり、へつらい、寄りかかる連中が
生まれる。太鼓持ち連中。
 更に悪いことに、この様な連中が良くやること、『弱い者い
じめ』である。
 それ以外の人たちを、蔑(さげす)む行為を始める。
 それ以外の人たちを『外(そと)の人々』と呼び、蔑んだ。
 そして更に、キリスト教の旧約聖書を引用してまでして、「
外の人々を貶(おとし)めたりした」。
 マルコは怒って福音書に、「使徒と呼ばれる君たちこそ、何
も理解していないではないか(秘伝を授けられたなどと有頂天
になるな)」と書く。
 イエスも悪い、「秘伝を授けられた者たちは分かるが(理解
できるが)、それ以外の者たちには分からない」などと言った
りしている。
 そして、いやらしく、そっとイエスににじり寄って、ヒソヒ
ソとイエスに質問する弟子たち。いやらしく陰険なグループ。
 更にイエスは言う、
 「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、
あの人たちは許されていないからである」と。
 まったくの差別だ。
 自分のお気に入りの者たち・にじり寄る『可愛い者たちだけ』
を讃美する。
 仏教の、常に寄り添い、その人が分かるように、「分からせよ
う、悟らせよう」と導く姿勢を学ばせたい。
(参考)おもね・る【阿る】 [動ラ五(四)]人の気に入るよ
うに振る舞う。へつらう。
(参考)たいこ‐もち【太鼓持(ち)/幇間】  人にへつらって
気に入られようとする者。
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2013年7月22日月曜日

「使徒」とは?・・から、始まる話。

 題: 「使徒」とは?・・から、始まる話。
...(真を求めて 皆様と共に幸せになりたい)
.
 「使徒」とは?(「マルコによる福音書」3・7~19)で、
 「イエスが任命し、名付けた」と書かれている。
 また、「派遣して宣教させた」と書かれている様に
 「使い(宣教)に行く徒」の意味だけなのだ。
 そこを、後のキリスト教会が、もったいぶって威厳を付けた
り、格付けしたりと、格好良くした。
 「使いっぱしり」と言っては可哀想だが、そこまで言わなく
ても、その様なものだけだったのだ。
 キリスト教会は、何でもかんでも「権威、権威」の権威の
亡者だった。
 また、(「マタイによる福音書」1・37)で、
 イエスが、「みんなで行って・・宣教しよう」と書いている
様に、「イエスの、救世主との意味合いは、全くない」。
 この福音書の記述は、「イエスは、唯一のメシア(救世主)
キリスト」という主張はしていない。
 この主張は皆無、まったくない。
 生前のイエスを記しているのに「救世主・イエス」ではない。
 生前のイエスに接していて、行動しているのに、「救世主・
イエス」がまったくない、感じさせない。
 イエスは、さも、『使徒の一人』ぐらいに位置付けている。
 そして、この後に記されていることが、
 「(使徒たちに)悪霊追い出しの権能を持たせた」とある。
 イエスだけの能力なのではない。
 誰でもできることなのだ。
 そして、この「悪霊追い出し」をする行為を宣教と捉えてい
た。
 イエスたちは、「宣教した」と、そしてまた、「宣教した」
と、聖書にたびたび書かれているが、
 肝心の『宣教の宗教的理念』が、聖書にまったく書かれてい
ない。
 どんな理念の宣教かと、どうしたものかと思っていたが、
 そして、その宗教的理念が、どこを見ても、不明であったの
だが、
 イエスたちは、何ら「宗教的理念を持って、それも高い次元
の宗教性を説いているのかと思ったが、
 その様な理念を、高らかに、言葉を、その宗教理念を、述べ
伝えているわけではなかった」。
 ただ「悪霊追い出し行為」を、
 ただ「それだけを」しているだけだった。
 悪霊追い出しとは、悪霊を追い出したという達成感で、
 心療的効果を得る事で、それを『目玉にしていた行為』で、
 医療的行為であって、宗教的行為ではない。
 キリスト教は、あえてここを『宗教だ』『宗教だ』と言って
いる宗教。
 そして、イエスは「心療療法師」だ。
     (詳しくは、以下のブログに)
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