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2015年10月24日土曜日

(増補版)231D3/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1841年~1842年)

題:(増補版)231D3/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1841年~1842年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1841年(天保12年)10月、伊藤博文(いとうひろぶみ、明治
 の政治家、初代の内閣総理大臣、公爵)が生まれた。
  (1841年~1909年)
  周防国(すおうのくに、山口県東南部)の農民の子に
 生まれ、父が長州藩士の養子となって下級の武士の身分
 を得た。
  吉田松陰の松下村塾に学び、京都の志士と交わり、
  1862年(21歳)、高杉晋作が上海視察から帰国した頃、
 長州藩の方針は、「公武合体」から「即今攘夷(そっこ
 んじょうい)」に転換していた。
  晋作は、直ちに行動を起こすべきとし、他藩の藩士た
 ちと外国人暗殺を計画するが、藩に漏れ、計画を押し止
 められた。
  晋作は、その後、、長州藩だけの尊王攘夷運動組織を
 立ち上げ、この時・1862年に、品川に建設中のイギリス
 公使館焼き討ちをする。博文は、これに、ともに参加す
 るなど尊王攘夷運動に従った。
  1863年(22歳)、藩の留学生として井上馨とともにイ
 ギリスへ行く(秘かに行ったという説もある)、
  博文がイギリスに行っている間の1863年と、帰国後の
 1864年の2回にわたって、攘夷思想に基づく武力衝突の
 下関戦争(馬関戦争、四国連合艦隊への砲撃)が起きる。
  1864年3月(23歳)、米英仏蘭の四国連合艦隊による
 長州藩攻撃が近いことを知ると、急ぎ帰国した、
  1864年6月(23歳)、横浜に帰着し、すぐ長州藩へ戻り
 博文は、戦争回避に奔走した。
  1864年8月(23歳)、英国公使などと会見などをし、交
 渉をしたが、効なく、この月に、四国連合艦隊の砲撃に
 よる下関事件が勃発した、
  長州藩の砲台は徹底的に破壊された。
  博文は、高杉晋作の通訳として、和平交渉にあたる。
  この時、攘夷派の暗殺計画を知り行方をくらます。
  1865年(24歳)、幕府の長州征伐には、高杉晋作の元
 へ一番に駆け付け、挙兵し、藩の主導権を握った。
  1865年(24歳)、藩の実権を握った桂(木戸孝允)に
 従い尊王攘夷運動をするが、この頃から、おとなしい博
 文となる。
  1868年(27歳)、世は明治となり、外国事務総督・東
 久世通禧(ひがしくぜみちとみ)に見いだされる。
  そして、神戸事件と堺事件の解決に奔走し、これが、
 博文の出世の足掛かりとなった。
  維新後の博文はこの名に改名し、長州閥の有力者とし
 て要職を得る。
  1871年(30歳)、岩倉遣欧使節団の全権副使となり欧
 米諸国を視察。
  帰国後、大久保利通らと共に内治優先を説き、西郷隆
 盛の朝鮮派遣(征韓論)に反対する。
  1873年10月(33歳)、西郷らが政府を退いた後、参議
 兼工部卿となり、大久保の片腕として国政の中枢に加わ
 った。
  木戸孝允と大久保利通に信頼されて外交、財政、民政
 に才腕をふるった。
  1878年(37歳)、大久保利通が暗殺され、その死後、
 後を継いで内務卿となり、
  明治政府の開明派として改革を進めた。
  博文は、漸進的(ゆっくり少しづつ)な国会開設論を
 唱え、早期国会開設の大隈重信と意見対立した(明治14
 年の政変の原因)
  1881年(40歳)、明治14年の政変で政府の実権を握り、
 内閣制度を創設し、
  1882年(41歳)~1883年、欧州(ドイツ、オーストリ
 ア、イギリス)に渡ってプロセインの憲法を研究し、
  1884年(43歳)、帰国後には宮内卿を兼任し、保守派
 の抵抗を排して宮中改革を推進、爵位制度を設け
  1885年(44歳)、近代的内閣制度を作って、初代の総
 理大臣となり(第一次伊藤内閣)、
  1886年(45歳)、憲法草案起草に着手する。
  1888年(47歳)、枢密院を置いて初代議長となり、大
 日本帝国憲法の草案の審議を司会し、
  1889年2月11日(48歳)、大日本帝国憲法を発布した。
  1890年(49歳)、議会開設後、初代貴族院議長をつと
 めたのち、
  1892年(51歳)、ふたたび内閣を組織し(第二次内閣)、
 陸奥宗光とのコンビで条約改正、日清戦争を遂行した。
  明治天皇の信任が厚く、詔勅によってしばしば政局の
 危機を乗り切ったが、やがて政党樹立の必要をさとり、
  1900年(59歳)、立憲政友会を組織し、創立し、総裁
 となった。
  1905年(64歳)、日露戦争後、韓国統監府の初代統監
 として日韓併合を推進したため、
  1909年10月(69歳)、韓国青年・安重根によってハル
 ピン駅頭で暗殺された。
  内閣を組織すること4度、従一位大勲位公爵となり、明
 治国家のもつ大きな政治家だった。
1841年12月、株仲間解散令(かぶなかまかいさんれい)
  幕府は、天保の改革の一環として、株仲間解散令を発
 した。
  江戸菱垣廻船積問屋をはじめとし、すべて問屋、仲間、
 組合などと唱える事をいっさい禁止した。
  天保の飢饉以来、物価が騰貴していた。
  天保の改革は、この物価騰貴を押え、引き下げること
 が重要課題の一つだった。
  幕府は、株仲間などの流通独占にあるとみて、この時
 に、令を発した。
  そして、自由な競争原理が働く商取引とした。
  そして、商品流通量も上がり、景気も刺激すると考え
 た。
  しかし、実際は、従来の流通機構が解体した結果、商
 品が江戸・大阪に集中しなくなり、意図した効果をあげ
 ることはできなかった。
1841年、この年から、翌々年にかけて、江戸歌舞伎三座を
 浅草に移転させた。
  中村、市村両座が火災になったのを機に、水野忠邦の
 緊縮政策により、翌年から翌々年にかけて、三座は、浅
 草猿若町に移転した。
1841年、勝海舟、去年より牛島弘福寺にゆき座禅を修める。
 (氷川清話)
1841年、渡辺崋山(わたなべかざん、蘭学者、画家、思想
 家)が没した(1793年~1841年)(48歳)
  三河田原藩士の子として生まれ、
  8歳で出仕、貧困とたたかいながら儒学や絵画を学んだ。
  高野長英らの蘭学者と交わり、西洋事情を研究し、古
 河藩家老の鷹見泉石(たかみせんせき)をはじめ広く交
 際をもって、開明的政策を行なった。
  幕政批判のため、蛮社の獄に連座し、国元の田原に蟄
 居を命じられた。
  「鷹見泉石像」国宝、
1841年、田中正造(たなかしょうぞう、第一回衆議院議員、
 足尾鉱毒事件の指導者)が生まれた(1841年~1913年)
  足尾銅山鉱毒問題において、政府と古河財閥を相手に
 し、被害者の農民・国民の側に立って、半生をかけて闘
 った。
  古河の生産第一主義的な経営は、煙害と製錬用薪炭材
 の乱伐によって、足尾の山林は、はげ山と化し荒廃した。
  また、その為に、山林の保水力はなくなり、大洪水を
 頻発させた。
  それとともに、大量の廃石排出や、鉱滓(こうさい)
 排出の問題もあった。
  それに含む有毒の重金属排出があり、さらに、酸性の
 排水であった。
  それらを無処理のまま垂れ流した。
  この様に、煙害による山林荒廃だけではなく、水系へ
 も多大な被害・害毒を与えた。
  流域河川は、その毒によって川魚が死滅するという、
 川魚大量死の問題が発生し、
  また、鮭の遡上も激減し、漁獲高激減という壊滅的な
 打撃となった。
  その鉱毒と酸性を帯びた排水を含む水は、それだけで
 はなく、流域の広大な農地と農作物へも鉱毒被害を与え、
 その被害は甚大で、しかも激化して行く一方だった。
  その様な、生産と、経営の感覚だった。
  この大問題に対峙した正造の活動は、日本の公害運動
 の原点となっている。
  1890年(明治23年)、洪水によって、鉱毒がさらに広
 範囲に撒かれ、被害は拡散、
  被害を受けた農家が激増し、反対運動が激化した。
  1891年(明治24年)、正造は、政府を含め、公的機関
 の無策を批判した。
  1896年(明治29年)、大洪水で被害が拡大、反対運動
 の組織の再組織化がなされた。
  1897年(明治30年)、被害農民の数千人が、大挙して
 上京、やっと、大きな社会問題化となった。
  政府は、鉱毒調査会を設置し、古河へ予防処置の命令
 を下した。
  被害農民への課税免除がなされていることになった。
  しかし、この後、正造と被害農民の苦労の闘いとなる。
  1901年(明治34年)12月、正造は代議士を辞し、天皇
 に直訴した。世論は沸騰した。
  政府は、第二次の調査会を設置。
  その後、正造は、栃木県南部の渡良瀬川沿いにあった
 谷中村の遊水地化にも反対した。
  1907年(明治40年)、谷中村を廃村として遊水地化を
 強行した。
  外貨獲得の産業としての存在を、政府は重視した。
  正造の晩年は治水事業に尽力した。
  この問題は現在でも尾を引いている。
  広大な遊水地は現存し、また、、1958年(昭和33年)
 には堆積場が決壊して、鉱毒被害が発生している。
  また、広大なはげ山と、鉱毒をふくんだ33平方キロメ
 ートルの渡良瀬遊水地の今後がある。
1842年(天保13年)4月、パンが全国的に広まって行く。
  伊豆韮山の代官で、軍学者の江川太郎左衛門英龍が、
 軍用携帯食糧として、日本人で初めてパン製造を行なっ
 た。
  江川太郎左衛門の師・高島秋帆の従者、作太郎を、伊
 豆韮山の江川宅に呼び寄せ、パン焼き窯を作った。
  作太郎は、長崎のオランダ屋敷に料理方として勤め、
 製パン技術を教えた、そして、記念すべき「兵糧パン」
 第1号を焼き上げた。
  その兵糧パンは、まあまあの評判を得た。
  後に、大規模な製パン所で、大量のパンが作られるよ
 うになった。
  パンは、保存食として、また、携帯食として重宝し、
 韮山塾の門人を通じて、全国に広まった。
1842年5月、幕府が、倹約令が出した。
  また、5月に、長崎奉行も倹約令を出した。
  長崎奉行・柳生伊勢守の質素倹約令
  1)市中の料理屋で宴会することを禁じる。
  2)町芸者を廃止する。
  3)遊女の外、女子が髪結いを雇うことを禁じる。
  4)衣服はもっぱら質素なものを用いること。
  5)婦女の髪飾りにちりめん類を用いることを禁じる。
  6)ひな人形、五月のぼりに大形のものを用いるのを
    禁じる。
  7)銀製の諸具を使用することを禁じる、など
  また、6月に、
  1)冠婚葬祭に見栄をはり過分のことをしないよう戒
    める
  2)市民がなまこ、あわびを食することを重ねて禁止
    する(唐貿易重要な輸出品のため)
  また、7月に至って、
  市中の取締り方の木下勇之助が、丸山の遣手(やりて、
 遊女などを監督するもの)15人が、絹地の帯を用いてい
 ることが発覚し、
  7月13日に、押込みを命じるが、時期が盆の掛銀集めの
 ため出向かねばならず、遊女屋から嘆願書をだされ、
  7月15日に、押込みを許された。
1842年6月、絵草紙などの出版を統制した(~1852年)
  一般的な「出版統制だった」が、特に、錦絵と合巻絵
 草紙を規制した。
1842年6月、高島秋帆が、砲術教授を許可された。
1842年7月、天保の異国船薪水給与令(いこくせんしんすい
 きゅうよれい)が出された(天保の緩和令)
  幕府が、「異国船打払い令」をやめ、「薪水給与令」
 を発し、薪水食料の給与を許した。
  1840年に開戦されたアヘン戦争の情報、および、同戦
 争の終結の後、イギリスが、日本へ艦隊を派遣するとの
 情報があり、危険性がさらに高まっていた。
  幕府は、対外紛争の回避のため、方針を変更した。
1842年7月、為永春水(ためながしゅんすい、人情本作者)
 が獄死した。
  風紀を乱したとして刑を受け、病没した。
1842年9月、幕府が、百姓が農業以外に従事する事を禁じた。
1842年10月、幕府は、諸大名の物産専売を禁止した。
1842年、この頃、マニュファクチュア(工場制手工業)が
  起こった。
..
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2015年10月21日水曜日

(増補版)230D3/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1840年~1841年)

題:(増補版)230D3/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1840年~1841年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1840年、中国・清は、鎖国していた時は、国内で総てが充
 足し、国の安定を得ていた。
  知的な発展もあった。
  文化も花開いていた。
  それはそれで、幸せを享受する時代だった。
  この様な中国に、イギリスが接近して来た。
  イギリスは、最初は、節度を持って中国茶や絹織物・
 陶磁器を交易し、エンジョイして居た。
  中国茶は、イギリスでは、上流の階級の人しか、飲む
 事が出来なかった。
  しかし、イギリスは、より多くを要望した。そして、
 要求した。
  貿易量は・・増えて行った。
  欲望におもむくイギリスの購入増大だった。
  その欲望の結果、増大した購入の支払いも、当然、増
 大した。
  イギリスには、これと言った輸出品は無かった。
  イギリスは、銀での支払するしかなく、その支払額は
 増大した。
  イギリスは狡猾だった、これを麻薬のアヘンで支払お
 うとした。
  麻薬を中国に運んだ(中東にあった麻薬を、植民地の
 インドで、安価に作らせ、中国へ運んだ)。
  中国の方々は、麻薬に中毒し、常習となり、廃人とな
 った。
  イギリスのやる麻薬密売行為は、年々、増大した。
  中国の富を収奪した。
  中国の事など、これっぽっちも思わないイギリス。
  戦争へ、当然のごとく至った、アヘン戦争に至らせた。
  イギリスが勝つと分かっている戦争・・だった。
  戦いになると、これ幸いと戦争をやり・・、戦争が起
 きない様にというアクションは、どこ吹く風だった。
  当然、イギリスが勝って、1842年に南京条約が結ばれ
 る。
  また、戦勝国・イギリスは、自分に有利な条約を取り
 決めさせた。
  敗戦国に不利な条約を、承知で押し付けた。
  どこが紳士の国だというのだ。
  イギリスは治外法権も認めさせた。
  中国の従属状態が始まる。
  今、日本も、敗戦国の延長として、相変わらずアメリ
 カに不公正な事を認めさせられている、独立国としての
 資質を損なわされている。
  強い立場を利用して、弱い国から利を得ようという考
 え自体が間違いだ。
  キリスト教の聖書の記述、「隣国の富を奪いに行って」
 「そこに神の義がある」は間違っている。
  強いからこそ、弱者を救済せねばならない。
  この時も、力で中国の鎖国をこじ開け、利を奪うイギ
 リスだった。
1840年、イギリスは、武力を背景に、アヘンを売り続けた。
  年々、アヘンが多く流入してくる中国、売るのはイギ
 リス。
  その中毒性の為に、「なけなしの金を払ってでも買う」
 という、地獄に落とされた中国だった。
  中国の銀は流出した、イギリスに吸い取られた。
  中国は、経済的破綻状態となった。
  国の破綻も酷かったが、大切な国民も破壊されていた。
  中国の軍隊までもが、アヘンの中毒患者が急増した。
  国の存続が危うくなった。
  中国は、何度も禁止令を出したが、効き目がなかった。
  買う中国側が悪いのか? 売るイギリス側が悪いのか?
  年々、日に日に、破壊されていく姿がそこにあった。
  何度も出すが禁止令は効果はない。
  売る側へ手を付けなければ解決しないと、売る側へ手
 を付けた。
  イギリスの公(おおやけ)の組織も、議会も、武力行
 使を容認した。
  儲かりたい・・だった。
  困る中国を知っていても、銀のイギリスへの流入の欲
 に敗けるイギリスだった。
  「武力では勝つ」というイギリスは、勝つことが当た
 り前の戦争を・・議会のお墨付きをもらって・・始めた。
  行為は・・卑劣の一語・・である。
  当然、この史実は、人類の歴史から『永久に』消え去
 らない。
1841年(天保12)閏1月、『御触書天保集成(おふれがき
 てんぽうしゅうせい)』。
  これは、幕府が出した御触書をまとめた法令集のこと
 で、評定所(ひょうじょうしょ)で編集したもの、
   この年に、天明8年(1788年)から天保8年(1837年)
 までの50年間6607通が追加された。
1841年閏1月、11代将軍・徳川家斉(とくがわいえなり)が
 没した(1773年~1841年)(68歳)
  松平定信を老中首座に任命して、寛政の改革を行なっ
 た。
  定信は、白河藩主の体験を生かし、また、深い学殖(
 がくしょく、深い学識)によって改革を推進した。
  倹約や、備荒貯蓄を奨励し、農業の復興、人足寄場の
 設置、異学の禁などを行なった。
  しかし、運悪く天明の飢饉の打撃によって農村の疲弊
 は進み、景気は沈滞し、町人らの不満を買った。
  家斉は、隠居後、大御所として政治の実権は握った。
  この時代には、華麗な文化・文政時代の町人文化が花
 開いた。
  江戸文化は爛熟して行った。
1841年閏1月、天保の改革が始まる(5月説あり)
  勝海舟は、氷川清話で、「水野越前守幕政を革新す」
 と書いた。(氷川清話)
  老中・水野忠邦を中心に「天保の改革」が始まる
 (1841年~1843年)
  この改革は、「享保・寛政の制にならうべきことを令
 す」とあるが・・、
  この改革でめぼしい所は、諸藩においても、藩債整理
 などによる財政改革や専売制などが行われた。
1841年閏1月、高島秋帆、西洋兵式を演ず。(氷川清話)
   別資料によると・・
   高島秋帆(44)が、異国筒の大砲4門、小銃50挺を携
 え、
  長男・浅五郎と門人ら25人を引き連れ、長崎を出発・・
   閣老の水野越前守は、秋帆の「西洋砲術意見書」につ
 いて、目付の鳥居耀蔵に諮問・・、
   鳥居は、はじめ秋帆の意見をけなし、火器を取り寄せ
 てみる方がよろしいと答申する、
  かくして、武州徳丸原洋式調練に向かう、晴れの出立
 になる、
  2月7日、江戸表に到着。
  御用の御筒類は、御在府御奉行所に納められる、
  5月9日、高島秋帆が、浅五郎以下の門人たちと、武州
 の徳丸が原にて、洋式銃隊の演練を行なう、
  大砲発射、騎兵の馬上銃射撃、銃隊及び野戦砲の発射。
  次に、部隊教練を実施、
   幕府は、訓練を賞して白銀200枚を下賜し、秋帆持参の
 銃は500両で買い上げる、
  幕命で、下曽根金三郎と、江川太郎左衛門(伊豆韮山
 の代官)の2人に、高島流の奥義を伝授、
  7月12日、江戸を出立、
  8月22日、長崎に帰着
  翌年、3月、高島秋帆が、江戸において諸組与力格とな
 り、長崎会所調役頭取に命ぜられる、
  その3月、徳川斉昭が大砲を鋳造させる、
  因みに、徳丸ヶ原(とくまるがはら)は、現在の東京
 都板橋区高島平及び三園、新河岸の幕府天領という。
  この地に、1956年に、日本住宅公団が、大規模団地・
 徳丸ヶ原ニュ-タウンを造り、
  後に、名を高島平団地を改称したが、
  また、この一帯を高島平とも改称しているが、この高
 島は、高島秋帆にちなんで改称された。
1841年6月、上野俊之丞(うえのしゅんのじょう、写真家)
 が、蘭船から入手した写真機で薩摩藩主の島津斉彬を撮
 影した。
  日本人が日本人を写した最初(1848年説あり)
  オランダ人から銀板写真のカメラを手に入れて、撮影
 法を研究し、そして、島津藩主の撮影に臨み、成功した。
1841年6月4日、中浜万次郎が漂流後、6ヶ月後のこの日、
 通りかかったアメリカ捕鯨船のジョン・ハウランド号に
 救助されハワイに連れて行ってもらった。
1841年7月、高島の火術を江川太郎左衛門、大曽根金三郎に
 伝授すべきを命ず。(氷川清話)
1841年、秋:豊作であったが米は安くならず。
  1升銭108文~112文
1841年10月、幕府直轄の昌平坂学問所(しゅへいざかがく
 もんじょ、昌平黌・しょうへいこう)が、庶民の聴講を
 許可した。
  「寛政異学の禁」の後、学舎が増設されて、御家人や
 旗本だけではなく、藩士・郷士・浪人らも聴講できるよ
 うになっていたが、庶民も聴講できるようになった。
  武士や庶民などの聴講者は、座り切れないほどであっ
 たという。
  また、各藩でも、昌平黌をモデルにして、庶民の聴講
 も許可されていた。
  藩から運営資金が出ていたため、学費の徴収もなかっ
 たという。
  医学院でも入学を希望すれば城下士(城下に住む城下
 士と、地方に住む郷士)のほかに、町人も許された。
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2015年10月20日火曜日

(増補版)229D3/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1840年~1840年)

題:(増補版)229D3/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1840年~1840年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1840年(天保11年)5月、売薬の看板に、オランダ文字の使
 用を禁止した。
1840年、幕府が、平田篤胤(ひらたあつたね、国学者)へ、
 著述禁止と、江戸退去を命じた(1841年説あり)。
  1776年、篤胤は、出羽(でわ)久保田藩(秋田県)藩
 士に生まれ、
  1795年(19歳)で、脱藩し、江戸に出た。
  1800年(24歳)備中(びっちゅう、岡山県)松山藩士
 へ養子となる。
  儒教を批判し、尊王思想をとなえた。
  篤胤の思想は、幕末の尊王攘夷運動や、思想界に大き
 な影響を与えた。
1840年9月、高島秋帆が、長崎奉行の田口加賀守を通じて、
 幕府へ「西洋砲術意見書」を提出した。
  阿片戦争を例にひいて、火砲の近代化や、わが国の兵
 制改革を進言した。
  長崎で、西洋砲術などを学んでいた高島秋帆は、幕府
 へ、西洋砲術を採用するよう意見書を提出した。
  幕府は、これを受けて、江戸に招いて西洋砲術の演習
 を実行させた。
1840年、長崎奉行・田口加賀守が、高島秋帆(たかしまし
 ゅうはん)とともに、オランダ船のバッテーラに乗り、
 帆を張って長崎港内を巡視した。
1840年、長州藩の村田清風の改革が始まった。
  長州藩が、藩政改革についての大会議を開催した。
  村田清風らが改革構想を提出した。
1840年、加賀の農民が、九州地方に出張して害虫の実態と
 対策を調査した。
1840年、日本に、この年に書れた道中日記帳がある。
  これは、甲斐国の豪農が、静岡の久能山東照宮の参詣
 したり、安倍川餅を食べたり、
  愛知の桶狭間の古戦場を見物して、今川義元公の墓参
 りをしたり、
  大津では、木曽義仲の墓などを見て、
  大阪では、人形浄瑠璃の芝居見物したり、
  岡山に周ったり・・と、
  地方の富裕層が、文化的な旅行を楽しんで、全国のあ
 ちこちを周り、
  四国の金毘羅さんにお参りをするのだが、
  江戸時代の後期のこの時期に、豪農豪商が、豪華旅行
 を始めていた。
1840年、アームストロング(イギリス)が、水力発電機を
 発明した。(1878年説があり)
1840年、ケラー(ドイツ)が、木材を砕いて、すりつぶし
 て、パルプ(紙の原料)を機械的に作る方法(砕木パル
 プ)を発明し、パルプ工業と製紙工業が盛んになった。
  19世紀後半に、化学パルプが発明される。
1840年代、アメリカによる捕鯨が盛んに行われる。
  この頃、アメリカの捕鯨船は、1200隻に及んだ。
  アメリカは、すでに、1711年に、マッコウクジラ漁を
 はじめ、クジラ漁をしているが、
  それが、19世紀に至ると、大西洋のクジラを捕り尽く
 した。
  それで、日本近海のクジラを取り出していた。
  ランプの油だけに使い、クジラのほとんどを捨てると
 いう、まったく可哀想な捕り方だった。
  これも、ヨーロッパが、植民地から奪い取った利益で
 潤い、生活が贅沢になり、
  また、夜、遅くまで起きているため、照明用のクジラ
 の油が大量に必要としたからだった。
1840年代、オーストラリアは、この年代に、先住民のアボ
 リジニーの方々を、大勢、殺した。
  以下は、この1840年代の、あるアボリジニーの方の回
 想。
  「わしらは、自分たちの土地から追っ払われ、弾に撃
 たれ、毒をもられた。
  娘たちや姉妹たち、それに妻たちは、白人が奪って行
 った。
  一体、何人の仲間が、キルコイ〈クィンズランド州、
 州都ブリスベンの近くの集落)で殺されたことか。
  白人たちは、わしらが生活していた土地を奪った。
  わしらが、腹のへったはずみで、小麦を少しばかり失
 敬したり、牛を殺したら、鉄砲の弾と毒がお返しに見舞
 ってきた。
  今じゃあ、わしらの奪われた土地の代わりに、白人が
 くれる物といやあ、1年に1枚の毛布ぐらいのものさ」。
  キリスト教徒のオーストラリア人の先住民の方々への
 弾圧は、まったく酷(ひど)い。
   また、1840年代末には、オーストラリアの先住のアボ
 リジニーの方々は、無菌状態の自然の中で自由に生活を
 していた。
  そこへ、イギリス人の占領者が入って来て、あらゆる
 病気をもたらした。
  その病気は、急速に蔓延した。
  その病気に対して、アボリジニーの方々には、一切、
 免疫はなかった。
  天然痘、結核、しょう紅熱、インフルエンザ、風邪、
 水疱瘡、気管支炎、ハシカ、性病など、あらゆる病気を、
 イギリス人の占領者たちは持って来た。
  その打撃は想像以上だった。
  ある一地域の例で、1840年代末には、梅毒患者は、170
 名のアボリジニーの方々の内、5名に過ぎなかったが、
  わずか10か月後には、成人の50パーセント以上になっ
 た。
  さらに、20か月後には、90パーセントとなった。
  白人のイギリス人入植者が、極端に男性に偏っていた
 ために、アボリジニーの女性が、頻繁に、性的な搾取の
 対象となった。
  食料を与えることとの交換として要求されたのが、ア
 ボリジニーの方々の間に、性病が蔓延した原因だった。
  また、承諾のない強姦も多くなされた。
  白人・キリスト教徒の小屋に、鎖でつながれ、閉じ込
 められている例も、多く見られた。
  また、イギリス人の間には、性病を若い女性に感染さ
 せれば治るという卑劣な迷信があった。
  このイギリス人の悪行為によっても、アボリジニーの
 方々の人口減少の大きな要因となった。
  また、白人との混血も多く生まれた。
  白人の占領地拡大と反比例に、アボリジニーの方々の
 人口の減少が起きて行った。
1840年、アヘン戦争。
  中国で、中国とイギリスの間で、アヘン戦争が起こっ
 た(~1842年)
  イギリスは、貿易の不均衡を解消するため、中国にア
 ヘン(麻薬)を輸出した。
  そのため、中国国内でアヘン中毒者が急増するにつれ
 て、中国の輸入超過が生じた。
  いたたまれず、欽差大臣の林則徐は、広州でアヘン禁
 止を断行した。
  これに対し、イギリスは、強権出動の手段を取り、イ
 ギリス艦隊を出動させた。
  清は、この戦争に屈した。
  そして、香港をイギリスに割譲し、また、五港を開港
 する南京条約(1842年8月)を結んだ。
  以後、中国は、列強によって半植民地化されて行った。
  1997年に、香港は、中国に返還された。
  アヘン戦争:詳述、
  1840年6月28日~1842年8月29日、
  イギリスと、中国・清国との間の戦争。
  アヘン(麻薬)の密輸が原因となった戦争。
  イギリスは、清国から茶や陶磁器、および、絹など大
 量に輸入していた。
  一方、イギリスからは、清国へ輸出するものが少なか
 った。
  わずかに、時計や望遠鏡などの金持ちしか買わないよ
 うなものしか輸出するものはなかった。
  当然、イギリスの大幅な輸入超過となった。
  イギリスの銀が流出した。
  イギリスは、アメリカとの戦争などの戦費の必要が迫
 られていて、銀などの国外流出を抑えたかった。
  そこで、卑劣にも、イギリスが考えたことは、インド
 の植民地で栽培したアヘンを、中国・清国へ密輸する事
 だった。
  それで、輸入超過分の赤字を埋めようとした。
  中国・清国は、1796年にアヘンの輸入を禁止していた。
  当然だった。
  しかし、アヘンの密輸入は止まらず、清国内に、アヘ
 ンの中毒患者が広まって行った(吸飲者急増)。
  また、そのアヘン購入のための清国の銀も多量に流出
 し、銀保有量が激減した。
  アヘンの吸飲を取り締まる清国に対し、イギリスは、
 イギリス人の保護という名目で、清国貿易監察官を派遣
 した(まったくの言いがかり)。
  そしてまた、東インド艦隊を、監察官協力の名目で、
 清国へ出動をさせた。
  この様な事態を招来させたら、当然、つばぜり合いは
 起きる。
  清国の取り締まり、そして、アヘン引き渡し要求に強
 権で対峙したイギリス。
  清国側にも、イギリス人側にも、傷付き、そして、殺
 害されるものが出た。
  この様ないざこざでの被害を口実に、イギリスは、
 1839年9月4日に、九竜沖砲撃戦を行なった。
  そして、11月3日に、川鼻海戦で、清国船団が壊滅した。
  本国のイギリスでは、「アヘンの密輸」という「不義
 (不正義)の戦争」という批判はあったが、
  清国への出兵予算案は、議会で可決され承認された。
  この議決を受けて、イギリス海軍は、正式にイギリス
 東洋艦隊を編成し、清国へ派遣した。
  1840年8月に、清国到着後、清国沿岸地域を占領し始め
 た。
  そして、砲台を陥落させたりして、北京へ迫った。
  イギリスは、インドのセポイ兵や、軍艦の増強をした
 りして、清国侵略を奥深くまで進めて行った。
  そして、1842年8月29日の南京条約調印に至った。
  イギリスは、卑劣な事に、第二次アヘン戦争と言われ
 るアロー戦争も、清国としている。
  骨の髄まで吸いつくされる清国だった。
  武力が進んでいるからと、弱い者いじめを、いやと言
 うほどするキリスト教国のイギリスだった。
   再度、検証:
  1840年6月28日、アヘン戦争が始まる。
  この前年に、支那は、国が滅びる状態を打開しようと、
 林則徐(愛国的官僚、民衆からも慕われていた)を広東
 へ派遣した。
  林則徐は、イギリス商人の持つ禁制品のアヘンを押収
 し、焼却処分にした。
  この時、イギリス人水夫に、清国人が殺される事件が
 起きた。
  林則徐は、イギリスへ犯人引き渡しを要求した。
  イギリスは拒絶した。
  林則徐は、最後通牒を発した。
  広東のイギリス人区域を攻撃すると・・。
  居留地域にいた外国人はマカオに避難した。
  しかし、イギリスは、これを「これ、幸い」とした。
  イギリスは、イギリスと清国との軍事力の差を良く知
 っていた。
  イギリスは、清国より遙かに優越していると・・。
  まったくの弱い者いじめだった。
  戦争は、イギリスから先に始めた。
  清国の軍艦へ、イギリスは砲撃を開始して、戦争は始
 まった。
  イギリスは、やすやすと支那軍を破って行った。
  イギリス軍は香港を奪い、舟山列島を奪い、そして、
 上海・寧波・鎮江などを占領して行った。
  揚子江も侵入され、1842年8月29日、南京で清国は、
 イギリスと講和条約を結ばざるを得なかった。
  極めて不平等なる条約が、全敗の清国に押し付けられ、
 清国は、そのイギリスの要求を飲まざるを得なかった。
  そして、アヘン貿易は、さらに盛んとなり、社会はシ
 ッチャカ、メッチャカに混乱した。
  この報を受け、これを知った江戸幕府は動揺した。
  幕府は、それまでの強硬な「異国船打払い令」を和ら
 げ、この年の1842年に「薪水給与令」を発した。
  1840年~1842年、この年のアヘン戦争に日本は、いち
 早く反応した。
  日本は「阿片(あへん)風説書」をいち早く出し、警
 戒心を強めた。
  しかし、朝鮮は、9ヶ月も経って、使節が、李王に報
 告書を出したが、内容が簡単で、その貧弱な内容の為、
 事態が急変している事に気が付かないという状態だった。
..
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2015年10月19日月曜日

(増補版)228D2/3:気になった事柄を集めた年表(1838年~1839年)

題:(増補版)228D2/3:気になった事柄を集めた年表(1838年~1839年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1839年(天保10年)1月、幕府が、国絵図作成功労者を褒章
 した。
1839年3月、江戸城西丸が修築され落成した。
1839年、4月10日、長崎で、密商の没収品を唐館前で焼き捨
 てた。
1839年5月、蛮社の獄で、渡辺崋山、高野長英らが捕えられ
 た。
  蘭学者への弾圧が始まった。
1839年8月、高杉晋作(たかすぎしんさく、長門(ながと)
 (山口県)萩(はぎ)藩の志士、尊王攘夷派)が生まれ
 た(1839年~1867年)
  吉田松陰の松下村塾に学び、久坂玄瑞と共に双璧と称
 されている。
  後に、江戸の昌平黌に学んだ。
  1857年(18歳)、藩校の明倫館に入学し、次いで、松
 下村塾に入る。
  1858年(19歳)、江戸に赴き昌平額に入学し、獄中の
 松蔭に金品を送った。
  1862年5月(23歳)に、藩命により幕府船千歳丸に乗船
 し、上海に渡航し、イギリスに虐(しいた)げられる植
 民地の状況をつぶさに観察して帰国し、後に尊王攘夷運
 動に参 加した。
  そして、この年・1862年11月に、江戸品川の御殿山に
 新築中ののイギリス公使館を焼き打ちにした(上海の悲
 惨な状況が頭に来ていたのだろう)
  1863年3月(24歳)、上洛、尊攘運動をいとい、いやだ
 と感じ、10年間の暇を乞うた(休暇願というところ)。
  「西へ行く人を慕ふて東行く 心の底ぞ神や知るらん」
 と、僧となり東行と号して萩に隠棲した。
  そして、長州藩は、外国船へ砲撃を断行し、報復攻撃
 にあって敗北していた。その直後の・・
  1863年6月(24歳)に、藩命によって下関防御の任に当
 たり奇兵隊を組織した。そして、その総監となった。
  「奇」は、正規軍の「正」に対する意味で、庶民も入
 隊ができるとした。
  8月18日の政変で、京を追われ、武力上洛論に反対し、
  1864年1月(25歳)、脱藩して上京、帰国して獄に入れ
 られる。
  出獄後、1864年8月(25歳)、四国連合艦隊の下関砲撃
 事件の前後処理を命じられ、正使として講和にあたった。
  第一次長州征伐にが進行すると、佐幕派の藩政府とな
 った。
  危機が迫ったので、九州に亡命して潜伏。
  そして、下関に帰り、1864年12月に、挙兵し、佐幕派
 藩政府を相手に勝利を収めたのちイギリス留学を希望す
 る。
  次いで脱藩し、讃岐の日柳燕石の元へ赴く。
  帰藩後、役を得て藩政を指導を担当。
  1866年6月(27歳)に、海軍総督となり、幕府との開戦
 直後、小倉方面の戦闘を指揮した。
  1866年10月、肺結核を重くして退職。
  1867年(慶応3年)4月に、下関で病歿した、29歳
1839年8月、長崎の諫早の本明川に掛けた眼鏡橋が完成した。
  諫早と北諫早をむすぶ唯一の橋として利用度も高く、
 毎年の洪水にも崩壊することなく耐えた。
1839年12月、水野忠邦が、老中首座となり、天保の改革が
 開始された。
1839年、蘭館医のリシュールが牛痘苗を移入した。
  シーボルトの門人の楢林宋建が実地に試みるが、腐敗
 していて、失敗に終わった。
1839年、三遊亭円朝(初代)(さんゆうていえんちょう、
 落語家)が、江戸に生まれた(1839年~1900年(明治33
 年)、名作と言われる落語を次々と創作した。
  二葉亭使命に影響を与えたという。
1839年、フランスが、アルジェリアで戦闘再開し、
  1842年に至って、征服した(1839年~1842年)
  復古王政下のフランスが、オスマン帝国領のアルジェ
 リアに侵略した。
  1830年6月、フランス軍のアルジェリア上陸を成功させ
 たフランス国王のシャルル10世の意図は、揺らぎ始めて
 いた王政の威信を外征の断行によって回復し、国民の不
 満を解決しようとした。
  しかし、1830年7月の7月革命で、シャルル10世は退位
 する。
  次の政権にも引き継がれて、アルジェリアへ、フラン
 スからの移民が送り込まれ行き、
  1834年、アルジェリアは、フランスに併合された。
  フランスは、軍を増派し、占領統治を強固にして行っ
 た。地方の有力部族と協定を締結して行った。
  しかし、その後、破棄する部族もあったりした。
  そして、1832年から、アルジェリア民族運動家(アブ
 ド・アルカーディル)の武装抵抗が始まった。
  1837年、フランスは、タフナ条約を結び、アブド・ア
 ルカーディルの支配する土地の主権を認めた。
  1839年、入植地の建設が進んで、ヨーロッパ系移民2万
 5000人が入植したが、フランスは、時間かせぎだった条
 約を破って、軍事行動を開始した、1839年から再び戦闘
 が始まり、1842年に至り、アルカーディルはその根拠地
 を失って行った。
  フランスは、焦土作戦など卑劣な作戦を使い、1842年
 に、降伏させた。
1839年、オスマン帝国が、タンジマート時代に入った。
  オスマン帝国が、「近代化」「西欧化」の改革政策の
 時代に入った(~1876年)。
  オスマン帝国は、15世紀~16世紀には、アジア・アフ
 リカ・ヨーロッパの三つの大陸に渡る広い大帝国を築い
 たが、
  18世紀に入ると、東西通商路の転換に伴って、経済力
 が衰退して来た。
  それに伴って、中央集権的政治機構も弱くなり、また、
 軍事力の衰微も著しかった。
  1768年や1787年の露土戦争に大敗したのが痛かった。
  それによって、地方勢力の伸長もあり、また、被支配
 諸民族の独立運動があり、ヨーロッパ諸国の軍事的・政
 治的侵略などが起き、
  国家は滅亡の危機に直面した。
 1839年、イギリスは、紅海の入り口の国・アデン(南イエ
 メンの首都)を占領し、自分のものにした。
  南イエメンを保護領にした。
  保護と名付けたのは名分(めいぶん、表向きの理由)、
 実際は、条約によって干渉し、特に、外交などはイギリ
 スが代わって行った。
  結局、帝国主義国家・イギリスが、植民地・イエメン
 を支配した。
 1839年、中国の清の官吏・林則徐が、イギリス船の広東入
 港を禁止した。
  林則徐は欽差大臣として、1838年から麻薬のアヘンに
 蝕(むしば)まれる国内の惨状から、アヘン没収や輸入
 禁止処置をとっていた。
  イギリス商人などから、何と、237万余斤(約1500トン)
 のアヘンを取り上げ、海岸で焼却していた・・など、
  しかし、イギリス船は、止めずに、密貿易でアヘンを
 運んで来ていた。
  イギリスは、自国の戦力が強いのをいいことに、好き
 に振る舞い、アヘン戦争へ至って行く。
..
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2015年10月18日日曜日

(増補版)227D2/3:気になった事柄を集めた年表(1837年~1838年)

題:(増補版)227D2/3:気になった事柄を集めた年表(1837年~1838年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1838年(天保9年)2月、大隈重信(おおくましげのぶ、明
 治の政治家)が生まれた(1838年~1922年)
  肥前国(佐賀藩)藩士の生まれ。初名は八太郎。
  1869年(明治2年)31歳、大蔵大輔として財政面に尽力。
  1877年(明治10年)39歳、この年に起きた西南戦争で、
 軍事輸送にあたった三菱と密接な関係を持つ。
  1881年(明治14年)43歳、政変で下野し、
  1882年(明治15年)44歳、立憲改進党を創立し、総理
 となり、自由民権運動の一翼を担った。
  また、この年、東京専門学校(現:早稲田大学)を創
 立し(早稲田大学創立者、早稲田大学総長)
  1888年(明治21年)50歳、第1次伊藤内閣、ついで黒田
 内閣の外相となり、条約改正にあたるが、反対派に爆弾
 を投げつけられ右足を失う。
  1898年(明治31年)60歳、伊藤内閣・松方内閣の外相
 となった後、板垣退助と共に憲政党を結成し、日本初の
 政党内閣を組織する。
  1914年(大正3年)76歳、再び首相となり、第一次世界
 大戦への参戦を決定。
  1915年(大正4年)77歳、対華21ヶ条要求を提出した。
  1922年(大正11年)歿した、84歳
1838年2月、薩摩藩が、萩野流砲術師範役の鳥井平八と平七
 兄弟を長崎に派遣し、高島秋帆に入門させた。
1838年3月、江戸城の西の丸が炎上し、焼失した。
1838年閏4月、この年から5年間の倹約令が下った。
  この初年度以外は、まったく効果が表れず、財政難は
 一層、深刻になった。
1838年、春、京都で「豊年踊り」が大流行した。
  庶民の豊年への希望・期待が流行となったのだろう。
1838年5月、一橋慶昌(ひとつばしよしまさ、初之丞君〉卒。
  (氷川清話)
  12代将軍・徳川家慶の5男、14歳で没、
1838年、勝海舟、この頃、男谷下総守の門に撃剣を始めた
 のは13・4歳の頃なり。
  また柔術の同門・島田虎之助(見山と号す中津藩士)
 が、当時、浅草新堀に剣術道場を開き生徒を教える、
  麟太郎、其塾に薪水の労をとり修行す。
  その時、見山が言うには「剣道は形を学ぶのみで真に
 この術を修めるには心肝の錬磨である」と。
  それから、寒中に木剣を持って王子現社内に行き、社
 前の礎石に座り、時々、木剣をふって全身に精気充ち、
  また、静座す。
  こうして、天明に至り、帰塾し、日課についたという。
  また、見山の忠告で、西洋兵法を学ぶ。
  或時、城中で、和蘭献納の大砲を見て、砲身に横文字
 あり、これが文字なら読めないわけはないと、大砲を使
 用するため、蘭書を学ぶ必要を感ずるという(氷川清話)
1838年5月、長崎の諫早(いさはや)の眼鏡橋が起工された。
  それまで、本明川には橋はひとつもなかった。
  利用頻度も高く、毎年の洪水にも崩壊することなかっ
 た。
  永久に流されない橋を作ろうとの願いから作られた。
  1839年(天保10年)8月に完成した。
1838年6月、大判改鋳。
  この年に天保大判が鋳造された。
1838年7月27日、勝海舟、家督す、父惟寅隠居し夢酔と号す。
 (氷川清話)
1838年10月、渡辺崋山(わたなべかざん)が「慎機論(し
 んきろん)」を、高野長英(たかのちょうえい)が「夢
 物語(ゆめものがたり)」を著した。
  幕府の批判をした。
1838年、緒方洪庵(おがたこうあん、蘭学者、蘭医、教育
 者)が、大阪・瓦(かわら)町に、適々斎塾(てきてき
 さいじゅく)を開いて、蘭学を教えた(元来は医家の塾)。
  「蘭書解説の研究所だ」と本人は言う。
  だから、医師に限らず、蘭学を志す者、技術・知識の
 学を求める者が集まった・・と。
  1843年に、船場過書(せんばかしょ)町に移転、大い
 に発展して、全国から多数の門人が参集した。
  その数は3000人を超えたという。
  大村益次郎・橋本佐内・大鳥圭介・福沢諭吉などの人
 材を輩出した。
1838年、蘭書翻訳は暦天文究理書のほか、みだりに流布す
 べからざる布告。(氷川清話)
 (1839年・天保10年の説あり)、幕府は公儀関係者以外
 の翻訳書流布を制限しようとしたが、事実上、無視され
 た・・と。
1838年、奥羽地方が飢饉になる。
  最も被害の激しかったのは奥羽地方とあり、また、盛
 岡藩(南部藩)が凶作とあり、「霖雨・早冷・霜害、収
 穫皆無の所多し」とある。
1838年、都都逸(どどいつ)が流行。
  俗曲の演奏家の都都逸坊扇歌(どどいつぼうせんか)
 が、この年に、牛込藁店(わらだな)の寄席で、「どど
 いつどどいつ」の囃子詞(はやしことば)をもつ「都都
 逸節」を流行させた。
1838年、大原幽学(おおはらゆうがく、農民指導者、農政
 学者)が、先祖株組合(せんぞかぶくみあい)を結成し
 た(1797年~1858年)
  これは、「子孫永永相続」という共有財産をつくって、
 農民の相互扶助を基とした。
  下総香取郡長部(ながべ)村に定着し、組合を4ヵ村
 に結成した。
  農業協同組合を世界で初めて創設し、先駆と言われて
 いる。
  幽学は、若いとき苦労し、仏教・儒教・神道を一体と
 とする独自の実践哲学を開いたという。
  そして、各地を訪れ、門人を増やし、1835年に、干拓
 地であった長部村に招かれ、農村振興に努力した。
  農業技術の指導や、耕地整理のほかに、質素倹約や道
 徳面、そして、子供の教育論などを指導・奨励した。
  教導所も設け、組織的にも行動した。
  長部村の領主・清水氏は、長部村の復興を称賛し、領
 内の他の村々にも模範とせよと触れている。
  しかし、反感を持つ勢力も出て、1852年に至り、勘定
 奉行に怪しまれ、取り調べられたのを切っ掛けに、解散
 を言い渡され、不成功に終わる。
  幽学の最後は切腹となっている。
1838年、アフガン戦争が起きた(~1919年)
  イギリスとアフガニスタンとの戦争。
  3回に渡って、戦われている。
  1919年に、ラワルピンディ条約で、アフガニスタンは、
 やっと独立ができた。
  イギリスは、ロシアに奪われる前に、奪ってしまおう
 と、1838年に、軍事行動を起こした。
  1878年に始められた第二次アフガン戦争によって、イ
 ギリスは、アフガニスタンを保護国とした。
  第三次アフガン戦争は、1919年の第一次世界大戦の直
 後に行われた戦争で、アフガニスタンは独立できた。
1838年、チャーチスト運動(労働者の普通選挙要求運動)
  イギリスの労働者は不満を抱えていた。その不満が、
 普通選挙の選挙権を得たいだった。
  しかし、その活動は、弾圧に会い、また、内部の対立
 もあり、1848年以後は衰え、1850年代に消滅した。
  特に、飢餓と貧困にいた貧しい労働者の方々が、政治
 的な民主主義を求めて、署名し、請願し、ストライキ活
 動などを行なった、しかし、弾圧で、目的は達成できな
 かった。
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