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2017年12月27日水曜日

(増補版)570E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年12月~1892年12月)

題:(増補版)570E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年12月~1892年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1892年12月1日、甲武鉄道会社が、中等および上等の賃率を
 低減した。
1892年12月3日、皇族方の肖像の販売が黙許(もっきょ、
 無言の内に許すこと)される。
  京都大学の研究によると、従来の「御真影」の研究で
 は、
  天皇陛下を「現御神」とする国体イデオロギーを民衆
 に植え付けて行った「イコン」としてとらえられていた。
  だが、そうした「御写真」のすべてが、そうした儀礼
 の対象となっていなかったと説明する。
  この様な「御写真」は、全体から見ればごく少数に過
 ぎないと説明する。
  明治以来、皇室の御写真の大多数は、学校や官庁など
 の公共空間ではなく、各家庭の内部に持ち込まれていた。
  明治期より、市中で手に入れることが出来、新聞や雑
 誌にも掲載されていた。
  雑誌界は、1890年代の頃より、皇室グラビアを読者獲
 得のための貴重な品として、重用していた。
  また、新聞は、1920年代のころには、皇室写真が紙面
 に載らなかった日を探すのが難しいほど、新聞社は、天
 皇陛下の御一家の方々の写真を用いる様になっていた。
  今、NHKや一部マスコミが、国家イデオロギーの話
 をして・・悪のイメージを作ろうとしているが・・
  「国体イデオロギー形成だ」のイメージを植え付け、
 そして、洗脳しようとする国を貶めるプロパガンダだ。
1892年12月4日、関西鉄道会社が、鉄道局との間に連絡運輸
 の契約を締結した。
  12月15日から、会社線各駅と官設鉄道大阪・京都・馬
 場の3駅相互間で連絡乗車券を発売した。
1892年12月9日、東京湾北部でM6.2クラスの地震が発生した。
  (6月3日説あり)
1892年12月12日、坪井航三(49歳)が、海軍兵学校の校長
 となる。
  坪井航三は、周防国三田尻(現 山口県防府市)の出身。
  1843年4月、医師・原顕道の二男として生まれ、藩医・
   坪井信道の養子となった。
  1863年(20歳)庚申丸(長州藩で建造された西洋式帆
   船)に乗り、外国船の砲撃に参加した。
   遊撃隊士として戊辰戦争に従軍。
   日本海軍の発足後は、甲鉄艦副長を務めた。
  1871年(28歳)アメリカ海軍アジア艦隊の司令長官ジ
   ョン・ロジャーズの下で、旗艦コロラドで乗艦実習
   をした。
  1872年(29歳)離任し帰国するロジェーズ少将に従い
   渡米し、ワシントンD.C.にあるコロンビアン・カレ
   ッジ付属中学校(現在のジョージ・ワシントン大学)
   に学んだ。
  1873年(30歳)12月、官費海外留学生の一斉帰国命令
   に従い・・、
  1874年(31歳)7月、帰国した。
   帰国後、第一丁卯艦長となる。
  1894年(51歳)日清戦争時、第一遊撃隊司令官を務め
   る。
   単縦陣戦法を唱え、豊島沖海戦、黄海海戦に勝利。
   特に、黄海海戦では単縦陣の先頭に立って指揮し、
   優速を利して北洋艦隊の背後に回りこみ、海戦の主
   導権を握ることに成功する。
   日清戦争が始まるまで、日本海軍は、連日、単縦陣
   と横陣の二手に分け模擬海戦を行ったが、坪井の主
   張する単縦陣がいつも勝った。
   しかし、当時、横陣を有利とする主張も強く、単縦
   陣で実戦に挑むのは勇気がいることだった。
   彼は、単縦陣にこだわり、率いる第一遊撃隊は戦闘
   のみでなく偵察、航行の時も単縦陣の陣系を崩さな
   かった。
   黄海海戦で、清国海軍の軍艦に乗り日本海軍の動き
   を見たフィロ・マクギフィン米海軍少佐は・・、
   「日本海軍は終始整然と単縦陣を守り、快速を利し
   て有利なる形において攻撃を反復したのは驚嘆に値
   する」と、日本海軍の単縦陣を高く評価した。
   以後、単縦陣は海戦のセオリー(理論。学説)とな
   った。
1892年12月13日、第1回鉄道会議を招集して、議員より広軌
 道建議案を提出した。
  1869年11月、明治政府は、廟議で、東京~京都間の幹
 線鉄道、東京~横浜間、京都~大阪~神戸間、琵琶湖近
 傍~敦賀間の支線を敷設することを決定した。
  この鉄道網を実現するためには、まず軌間(ゲージ)
 を決定しなければならなかった。
  日本の鉄道の軌間は、当時、イギリスの植民地であっ
 たオーストラリアやニュージーランドと同じ3フィート
 6インチ(1067ミリメートル)の狭軌で敷設された。
  そのプロセスの詳細は不明である。
  しかし、当時、民部兼大蔵大輔であった大隈重信の回
 顧では・・、
  1870年4月、建築師長のお雇い英国人エドモンド・モレ
 ルと会見したとき、軌間の説明を受け・・、
  「元来が貧乏な国であるから、軌幅は、狭い方が宜か
 らう」と答えたという。
  当時、イギリスでは、ゲージ論争が活発に行われてい
 て、経済発展が遅れている地域では、4フィート8イン
 チ半の広軌道よりも、狭軌道の方が適しているという議
 論が優勢であった。
  そうしたなかで、井上も、「多少欧人の諸論を研究」
 したが、「我国の如き山河多く、又、屈折甚しき地形に
 在りては、三呎六吋ケージを適当とす」と判断した。
  すなわち、イギリスなどで採用されている4フィート
 8インチ半のゲージでは、「過大に失して不経済」であ
 り、
  「殊に、当時の勢にては、広軌にて百哩を造らんより
 は、寧ろ、狭軌にて百三十哩を造らんこと国利最も多か
 らん」と考え、狭軌を採用するよう大隈に進言した。
  その結果、廟議も、3フィート6インチの狭軌道を採
 用するにいたった。
  1892年に、銀行条例が改正され、第十五銀行が積立金
 を株主に割り戻すと、
  華族は、大金を得た。
  雨宮は、かねて、「日本の鉄道を広軌に改築せねばな
 らぬ」と考えていたので・・、
  500万円で1000マイルの全鉄道を広軌に改築するという
 計画を立て、華族に、出資を促すと多くの賛同を得た。
  そこで、参謀次長であった陸軍の川上操六を動かして
 補給利子を得ることにし、さらに、井上勝にも同意を求
 めたが、「豈に図らんや、井上は、頑として応ぜなかっ
 た」。
  井上の軌制論は、次第に動揺した。
  1900年5月、鉄道時報社の記者のインタビューで、鉄道
 が、「今日の如く発達するなれば、無論、欧米の通り広
 軌道が適当だ」と・・広軌改築をほのめかした。
  しかしながら、井上は、なお・・、
  「今日でも、鉄道を速成するには、矢張、現行のゲー
 ヂが或る意味に於ては適当ならん」と・・、
  鉄道をさらに延長するには、狭軌道の方がよいとも述
 べている。
  その後、日露戦争を経て・・
  1906年3月、鉄道国有法が公布されると、井上は、はっ
 きりと広軌改築を主張するようになった。
  井上は、駕籠を主要な乗り物としていた時代に、狭軌
 道を採用したのはやむを得なかった。
  むしろ、狭軌道を批判するほど経済が発展したことを
 喜ぶべきであると強弁しているが・・、
  一方で、3000マイルの路線を、一昼夜のうちに、広軌
 に改造したというアメリカの事例をひきながら、日本で
 も、「広軌改造」を実行すべきであるとした。
  1909年5月の、それから3年後、井上は・・、
  「只慙愧(ざんき)に堪へない事が一つある、夫れは、
 我国に鉄道が出来てから四十年になる、其時、なぜ、ゲ
 ージを四呎八吋の広軌にして置かなかつたのか、
  日清戦役には、彼の様に勝ち、日露戦役にも彼の様に
 勝ち、露国を満洲より追ひ払ふやうな進歩を我国に予期
 して居たならば、マサカ、狭軌にしては置かなかつたに
 と、余は、全く先見の明がなかつたのを頗る(すこぶる、
 大いに)愧(は)ぢて居る次第だ」と、鉄道創業期に、
 狭軌鉄道を採用したことを心から悔いた。
  (2013年、釧路公立大学で講演された老川慶喜氏の論
 文を参考にした)
.
  (今日の言葉)
.
  題:今、オーストラリアの農場が、中国人にどんどん買われ、
    逆に、そこで働く労働者が、オーストラリア人になっているという。
    日本の北海道も中国化しているという・・、
.
815年、嵯峨天皇が、近江へ行幸された時、梵釈寺(ぼんし
 ゃくじ)の僧・永忠(えいちゅう)より茶を献じられた。
  後に、嵯峨天皇は、茶の栽培を命じられた。
  信楽焼で有名な滋賀県甲賀市信楽町は、その様な地。
  俳人・小林一茶は・・、
  「しがらきや 大僧正も 茶摘み唄」と詠んでいる。
.
16世紀、スペインについて、本は次の様に記述する・・、
  「16世紀まで、西欧諸国に大きな支配力をふるったこ
 の国は、いま国民総生産(GDP)は低くても、国土の
 いたる所に珠玉の様な文化遺産を残している」・・と・・
  しかし、この文化遺産と言ったって、南米・中米・北
 米の先住民の方々、インディオの方々から奪った金で作
 ったもの・・
  インディオの方々は、今、そのほとんどが絶滅させら
 れている。
  わずかに残った種族の方々が、存在はしては居るが・・、
  このスペインのキリスト教徒とキリスト教聖職者たち
 が、人類史上で最悪の事を、長年に渡ってしでかし、全
 滅させた。
  キリスト教の考え方・教義から「この卑劣な行動とな
 った」。
  わずかに生き残ったインディオの方々は、この殺戮者
 から逃げることが習慣となっていて、今でも山の中を走
 り回っている・・留まることを村のタブーとしている・・
 この可哀想な習慣・性(さが)となっている・・
  山の中で走る行動が・・悲しい習性となって続けられ
 ている・・
  また、別の地域のある村では、男性が総べて殺されて、
 このスペインのキリスト教徒とキリスト教聖職者たちの
 強姦によって・・その村人のすべてが混血の人となって
 しまった・・
  この様な悪行の状況の結果が、今のスペインにある。
  キリスト教に偏向するNHKは、日本を貶める放送だ
 けをしていて・・この様な放送はしないというNHKと
 なっている。
.
1758年、今も、中国の地で苦しむウィグルの方々・・
  ジュンガルは、17世紀に有力になったモンゴル人の部
 族の方々の事で・・オイラト系である。
  族長ガルダンはチベットのダライ=ラマと結び、内モ
 ンゴルのハルハ地方に進出した。
  康煕帝は、内モンゴルに2度出兵してガルダンを攻め、
 ガルダンを自殺させた。
  ジュンガルは、なおもチベットに入り、抵抗を続けた
 ので、康煕帝は、皇子をチベットに派遣しジュンガルの
 勢力を排除し、チベットを支配下においた。
  ジュンガルは、その後も、タリム盆地を拠点に清朝へ
 の抵抗を続けたが、雍正帝に続いて、乾隆帝時代にも激
 しい清側の攻勢を受け、1758年に滅亡した。
  その支配領域は、清朝の藩部の一つ、「新疆(新疆ウ
 イグル自治区)」となった。
  (参考)オイラト:モンゴル民族の中の有力部族で、
     チンギス=ハン一族と婚姻関係を持ち、モンゴ
     ル帝国解体後も、モンゴル高原西部を中心に活
     動していた。
      15世紀に強大化し、一時、その族長エセンが、
     全モンゴルを統一し、エセン=ハンを称した。
      エセンは、明に侵攻し、1449年には、土木堡
     (現在の河北省張家口市)で明の皇帝正統帝(
     英宗)を捕虜としている(土木の変)。
      その後、モンゴル高原東部のモンゴル人、い
     わゆる韃靼(タタール)のダヤン、ついでアル
     タンに討たれ、衰えた。
      17世紀に、再び、中央アジアに勢いを盛り返
     し、ジュンガルとして知られるが、1757年、清
     に討たれ滅亡した。
  そして、中国の資源は、『人』。
  チベットやウィグル自治区へ、この地域へ、中国の人
 (漢民族)を、多量に、多数を、送り込んでいる。
  チベットの方々が多く住む地や、ウィグルの方々が多
 く住むから自治区とされたこの地は、今や、一番多く住
 んで居るのは『漢民族となってしまった』。
  民族の多さで自治区となっていたその国は、今、おぼ
 ろげに・・人為的になされている。
  だから・・東京なんて・・1300万人が住んでいるなん
 て、中国の人口を考えれば『笑い話』・・少数の小民族
 なのだ。
  日本の10倍以上の中国の『人口大国』が・・やろうと
 思えば、日本人なんて少数民族となってしまう・・明日
 のチベットや、ウィグルや、モンゴルの如く・・そして、
 消された満州族の如くになる・・
  今、チベットやウィグルや内モンゴクルが「消されつ
 つあることを思え!」。
  満州人が多いので、日本が、かつて、建国を助けてあ
 げた満州国は、中国は、その後、一生懸命、漢民族を送
 り込んだ・・そして、今、満州国は消滅している・・
  そして、今、その満州人はどこに行ってしまったのか?・・
 殺されたのか?・・その満州人は居ないという・・
  満州国は、今は、完全に過去の話、おとぎ話の様にな
 っている・・
  沖縄なども、中国には、中国のものだという声もある
 というが、何でも言う中国なのだが・・??
  NHKが、中国に媚(こび)を売っているのが、なん
 とも気持ちが悪い・・??
.
1854年2月、アメリカのペリーが神奈川に上陸した。
  そして、約500名の兵士も上陸した。
  ペリーの『日本遠征記』には、下記の記述がある・・
  「(日本人には)読み書きが普及しており、見聞を得
 ることに熱心である。
  ・・彼らは自国についてばかりか、他国の地理や物質
 的進歩、当代の歴史についてもなにがしかの知識を持っ
 ており、我々も多くの質問を受けた」
  「日本人が、ひとたび文明世界の過去・現在の技術を
 有したならば、機械工業の成功を目指す強力なライバル
 となるであろう」
  「日本人は一生懸命に働くが、時々の祭日をもって埋
 め合わせをし、また、夕方や暇なときには勝負事や娯楽
 に興じる」
  「若い娘は姿よく、美しく、立ち居振る舞いは大変に
 活発で自発的である。
  それは、彼女たちが比較的高い尊敬を受けているため
 に生じる、品位の自覚から来るものである」
.
1856年8月21日、日米和親条約に基づき、この日、下田に
 着任したアメリカ総領事ハリスは・・、
  日本とあめりかが、貿易を開始するために、新たに
 通商条約を結びたいと要求した。
  幕府は、朝廷の許可を得てから条約を結ぼうとした。
  政治の権限を、朝廷から与えられていた幕府が、この
 様な手順を踏んで、「朝廷の許可を得ることをするのは
 前例のない事だった」。
  アメリカを撃退する「攘夷をするか?」・・「通商条
 約を結んで開国するか?」・・
  この問題は、国論を二分する大問題となった。
  京都の朝廷は、にわかに国政の中心舞台となった。
.
1863年6月25日、下関戦争
  孝明天皇の強い要望により、将軍・徳川家茂は、文久
 3年5月10日(1863年6月25日)をもって攘夷実行を約束し
 た。
  長州藩は、馬関海峡(現:関門海峡)を通過する外国
 船への砲撃を実施した。
  しかし、逆に、米仏の報復に逢い惨敗した。
  高杉晋作は、下関の防衛を任せられ、この6月に、廻船
 問屋の白石正一郎邸において、身分に因らない志願兵に
 よる奇兵隊を結成した。
  そして、阿弥陀寺(赤間神宮の隣)を本拠とした。
  しかし、1863年9月に、教法寺事件(8月16日、奇兵隊
 と他の隊とのトラブル)の責任を問われ総監を罷免され
 た。
  京都では、薩摩藩と会津藩が結託したクーデターであ
 る八月十八日の政変(1863年9月30日)で長州藩は追放さ
 れた。
  1864年1月、晋作は、脱藩して京都へ潜伏した。
  桂小五郎の説得で、2月には、帰郷するが、脱藩の罪で
 野山獄に投獄され、
  1864年6月に、出所して謹慎処分となる。
  1864年8月20日、長州藩は、「禁門の変」で敗北して朝
 敵となった。久坂玄瑞は自害した。
  8月に、イギリス、フランス、アメリカ、オランダの4
 カ国連合艦隊が下関を砲撃、砲台が占拠された。
  この事によって、晋作は、赦免されて和議交渉を任さ
 れた。
  24歳の晋作は、交渉の席で(通訳を務めた伊藤博文の
 後年の回想では)講和会議で、連合国は数多の条件とと
 もに「彦島の租借」を要求してきた。
  晋作は、ほぼ全ての提示条件を受け入れたが、この「
 領土の租借」についてのみ「頑として受け入れようとは
 しなかった」。
  結局、取り下げさせることに成功した。
  (古事記を暗誦して有耶無耶にしたと言われる)
  これは、清国の見聞を知っていた晋作が、「領土の期
 限付租借」の意味するところは、「日本の植民地化であ
 る」と深く見抜いていたからだった。
  もし、この要求を受け入れていれば、日本の歴史は大
 きく変わっていたと伊藤は自伝で記した。
  幕府による第一次長州征伐が迫る中、長州藩は、幕府
 への恭順は止むなしとする保守派が台頭した。
  1864年10月、晋作は福岡へ逃れ、平尾山荘に匿われた。
  しかし、晋作と同じ派の家老の処刑を聞いて、再び、
 下関へ帰還した。
  1864年12月15日夜半、伊藤俊輔(博文)率いる力士隊、
 石川小五郎率いる遊撃隊ら長州藩諸隊を率いて功山寺で
 挙兵した。
  後になって、奇兵隊ら諸隊も加わった。
  そして、元治2年(1865年)3月、晋作は、俗論派の首
 魁・椋梨藤太らを排斥して藩の実権を握った。
  そして、この月、晋作は、海外渡航を試みたいと長崎
 でイギリス商人グラバーと接触するが、反対された。
  1865年4月、晋作は、下関開港を推し進めたことにより、
 攘夷・俗論両派に命を狙われた。
  そこで、愛妾・おうの(後の梅処尼)とともに四国へ
 逃れ、日柳燕石を頼った。
  1865年6月、桂小五郎の斡旋により帰郷。
  元治2年(1865年)1月11日付で、晋作は、高杉家を廃
 嫡されて「育(はぐくみ)」扱いとされ、
  1865年年9月29日、藩命により谷潜蔵と改名する。
  慶応3年(1867年)3月29日、新地100石が与えられ、谷
 家を創設して初代当主となる。
  (明治20年、晋作の遺児・谷梅之進が高杉東一と改名
 し現在に至る)。
  高杉本家は義兄の春棋が継いだ。
  再度の長州征討に備え晋作は、防衛態勢の強化を進め
 た。
  慶応2年(1866年)1月21日(一説には1月22日)、彼が
 桂小五郎・井上聞多・伊藤俊輔たちと共に進めていた薩
 長盟約が、土佐藩の坂本龍馬・中岡慎太郎・土方久元の
 仲介によって京都薩摩藩邸で結ばれた。
  1866年5月、伊藤俊輔と共に薩摩行きを命じられ、その
 途次、長崎で、蒸気船「丙寅丸」(オテントサマ丸)を
 購入した。
  慶応2年(1866年)6月7日、第二次長州征伐(四境戦争)
 では、晋作は、海軍総督として「丙寅丸」に乗船し、戦
 闘指揮を執った。
  周防大島沖で、幕府艦隊を夜襲してこれを退け、林半
 七が率いる第二奇兵隊等と連絡して周防大島を奪還した。
  小倉方面では、艦砲射撃の援護のもと奇兵隊・報国隊
 を門司・田ノ浦に上陸させて幕府軍を敗走させた。
  その後、小倉城近くまで進撃したものの肥後藩・細川
 家の軍勢に撃退され戦況は停滞した。
  しかし、7月20日、将軍・徳川家茂が死去すると、7月
 30日に、肥後藩・久留米藩・柳川藩・唐津藩・中津藩が
 撤兵した。
  幕府軍総督・小笠原長行も、海路で小倉から離脱した。
  残された小倉藩が、8月1日、小倉城に火を放ち逃走し
 た・・このため幕府軍の敗北が決定的となった。
  幕府の権威は大きく失墜した。
  これは、翌年の慶応3年(1867年)11月の大政奉還へと
 つながった。
  その後、晋作は、肺結核を桜山で療養するが、慶応3年
 4月14日(1867年5月17日)に死去した。享年29(満27歳)
 だった。
  臨終には、父・母・妻と息子がかけつけ、野村望東尼・
 山県狂介・田中顕助が立ち会ったという。
  奇兵隊は、長州藩の正規兵とは別に創設された軍隊で、
 長州藩の正規兵は、武士で構成されていたが、武士階級
 は全体の1割に過ぎず、この武士だけでは戦えないと判断
 した高杉晋作が、農民であれ商人であれ志があれば入隊
 を認めるという規則を設けて創設した。
  身分制度にうるさい当時の封建社会では画期的な軍隊
 だった。
  全体の構成は、武士が半分、農民四割、商人その他一
 割だった。
  この奇兵隊に習い、身分を問わない軍隊が、次々に長
 州で創設された。
  それらを総称して「諸隊」と呼ばれた。
  諸隊は、最も多い時期で400隊を数え、一大兵力として
 長州を支えた。
  奇兵隊は、1864年の禁門の変以降、四カ国聯合艦隊と
 の対決、第二次長州征伐(四境戦争)、戊辰戦争と主要
 な戰場で活躍し、その存在感を増した。
  地元の下関では・・次のような声もある・・
  「奇兵隊などというのは、どこにも行き場のない、荒
 れくれ者の集まりだった。
  仕方がないから、奇兵隊にでも入るか、という感じじ
 ゃった。
  やれ、あの家の鼻つまみ者が奇兵隊に入ったとか、町
 の者は噂した」との声もある・・また・・
  奇兵隊隊士・金子文輔の日記には、隊士数人で、俵山
 温泉(現:長門市)に湯治に行ったら・・、
  「余輩入浴すれば他の浴客皆去る」(文久三年九月四
 日の条)・・とある。
  奇兵隊は、身分を問わず入隊できた。
  そして、入隊希望者は、諸隊に入れば武士として取り
 立ててもらえるという噂があった。
  しかし、実際、赤根武人が、士気高揚のために藩へ願
 い出たが、「却下された」。
  入隊は、原則的に「志ある希望者」となっていたが、
 実際は・・「半ば強制的に入隊させていた」こともあっ
 たという。
  農民の記録では、「命(めい)により入隊」させられ
 た者も多く・・、
  「自分たちこそが明治維新の原動力」という自負があ
 りながら、充分な論功行賞も行われないまま「使い捨て」
 となった。
  家に戻っても、次男・三男は、養子にも行けず、
  耕す田畑もなく・・嫁も貰えない。
  冷や飯を食わされるだけの余生という状況は、彼らに
 とって受け入れられなかった。
  このこともあって、高杉晋作が、萩で評価されたのは
 ずっと後の時代になってからだった。
  しかし、やはり・・日本の気概(きがい、困難にも屈
 しない強い意気。気骨)を見せ、イギリスに、その様な
 日本人の姿を見せ、植民地化を封じた晋作は、「これだ
 けでも、大きな仕事をした偉人だった」。
.
1867年11月15日、坂本龍馬、暗殺される。
.
1868年4月6日、五箇条の御誓文
  明治天皇陛下が、新しい国づくりの大方針を明らかに
 し、明治政府の基本方針を示された。
  一、広ク会議ヲ興シ、万機公論二決スへシ
  (会議を開いて、広くみんなの意見を出し合い、すべ
   ての政治は世論に従って決めるべきである)
  一、上下心ヲ一ニシテ、盛二経綸ヲ行フヘシ
  (身分の違いをこえて、みんなの気持ちを一つにし、
   国を治める施策をしっかり進めるべきである)
  一、官武一途庶民二至ル迄、各其志ヲ遂ゲ、人心ヲシ
   テ倦マサラシメンコトヲ要ス
  (公家と武家が一体となり、一般の庶民でもその望み
   がかなうようにし、人々の気持ちが飽きて嫌になる
   様なことがないようにする必要がある)
  一、旧来ノ陋習ヲ破リ、天地ノ公道に基クヘシ
  (古くからの悪い習慣をやめて、世界に通用する正し
   い道理に従うべきである)
  一、智識ヲ世界二求メ、大二皇基ヲ振起スヘシ
  (智識を広く世界に求めて、大いに天皇陛下が国を治
   める事業の基礎をふるいおこすべきである)
.
1868年(明治元年)、政府は、農民が、田畑に何を作付け
 するかは自由であるとし、田畑の売買も認めるとした。
  さらに、政府は、全国の地価(土地の金価格)を定め、
 土地所有者を確定して、『地券』を公布した。
  地券には、所有者・面積・地価・地租(税金)などが
 記されていて・・
  この地券を元に、1873年、政府は、地租改正に着手し
 た。
  地価の3%にあたる地租を、貨幣で納める制度に改めた。
  これにより、政府の歳入は安定した。
  土地所有者に、納税の義務を課し、財政基盤は固めら
 れた(江戸時代は米を物納した)
.
1871年8月29日、廃藩置県
  日本の2回目の無血革命。
  大久保利通らの新政府の指導者たちは、全国の藩を一
 挙に廃止した。
  薩摩・長州・土佐の各藩から集められた天皇陛下直属
 の約1万の御親兵を背景に・・、
  1871年7月、東京に滞在していた元藩主たちを皇居(元
 の江戸城)に集め、天皇陛下の名において廃藩置県の布
 告を言い渡した。
  廃藩置県は、分権的な制度である藩を廃止して、中央
 集権制の下での地方組織である県を置くことで、藩に残
 されていた「軍事と徴税の権限」をも新政府のものとし
 た。
  これによって、農民から集められた年貢は、藩ではな
 く、新政府の管理下に入ることになった。
  武士は失業したが、武士の禄は、その後しばらく、新
 政府が肩代わりして給付した。
  新政府は、反乱を恐れていたが、大きな混乱はなかっ
 た。
  新たに置かれた県には、新政府から派遣された県令(
 県知事)が治めることになり・・、
  日本は、統一された中央集権国家となり、中央政府の
 権力が高まった。
  1871年7月、全国に、3府(東京府、京都府、大阪府)
 302件が置かれ、半年後には3府72県となり・・、
  1888年に、ほぼ現在の区分となった。
.
1872年、学制が発布された。
  「必ス邑二不学ノ戸ナク家二不学ノ人ナカラシメン事
 ヲ期ス
  (カナラズムラニフガクノコナクイエニフガクノヒト
 ナカラシメンコトヲキス)
  「学事奨励二関スル仰セ出サレ書(ガクジショウレイ
 ニカンスルオオセイダサレショ)」より・・
.
1873年、徴兵制が公布された。
  20歳に達した男子は、士族・平民の区別なく、すべて
 兵役に服することになった。
  今、日本も、体験入隊者には「特別な栄誉を与える制
 度」を設けるべきだ。
  今、中国からの人が自衛隊に多く入隊しているという。
  この逆が・・果たして「あるのだろうか」??
.
1941年12月1日頃、日本が、ハワイの真珠湾を攻撃する1週
 間から10日ぐらい前のこの頃、ハワイの新聞に、「日本
 が攻めて来る」という記事が掲載された。
  それも、大々的に大きな字による報道だった。
  また、ルーズベルト大統領の言葉に、「私は戦争を作
 った」という言葉がある。
  また、この新たな事実・・ハワイの新聞報道による事
 実がある様に・・、
  アメリカは「奇襲だ」「奇襲だ」と言うが、これは完
 全な嘘という事が、歴史が、また、明らかにした。
.
1961年、アメリカは、ベトナムで卑劣な「枯葉剤を撒く」
 ・・「汚い・卑怯な手」を使った。
  この枯葉剤を撒くことを、何と、1975年までの15年間
 も続けた。
  この事によって、多くの死産が起き、また、奇形児が
 生まれた。
  戦争が終わった後でも、長くベトナムの方々を苦しめ・・
 影響の大きい悪の行為、卑劣な行為をアメリカは行った。
  これは、ベトナム戦争で、敵のベトコンの秘密ルート
 を見つけるためで・・、
  密林の樹木の葉が茂る事で、ベトコンの動きが見つけ
 られないために、この樹木の葉を枯らす「魔の薬剤」を、
 盛んに、アメリカは撒き続けた。
  この場所は、日中戦争の時に、日本の敵の中国・蒋介
 石軍へアメリカが、武器弾薬を与え、そして、支援した
 「援蒋ルート」の一つだった。
  (援蒋ルートは何本もあった)
  アメリカは、また、ベトコンの敵が、ベトナム住民の
 人々の家へ隠れるため、ベトナム住民の方々の家を焼い
 た。
  その住民の方々と共に、「ベトコンの敵を殺戮するの
 だ」として、住民の方も、もろとも、焼いた。
  村全体を「一気に焼いてしまう事」も行なった荒っぽ
 い卑劣なアメリカだった。
  女性も子供もお構いなく、この様な攻撃をするアメリ
 カだった。
  延々と長い期間に渡って、この攻撃は行われ続けた。
  ナパーム弾という燃焼性の高い薬剤を使った爆弾を投
 下して、無差別に、すべてを焼き殺した。
  大変多くの、言葉では言い尽くされないほど多くの方々
 が、ベトナムの方々が、一般住民の方々が・・焼き殺さ
 れた。
  日本軍は、いつの時でもしっかり軍服を身に着けて戦
 い、戦わない方々へ危害が及ばない様にしたが・・南京
 攻略戦の時も、中国軍はこの様な卑劣な事をした・・軍
 服を脱いで一般住民の中に隠れた。
  日本は、この住民の中に隠れた中国兵と戦ったが、一
 般住民の方々へ向かって爆弾などは、当然、投下する様
 な卑劣な事はしなかった。
  このベトナムのような、アメリカ軍の様な、卑劣な戦
 い方はしなかった。
  まったく、ベトナムでの、アメリカ軍の戦い方は、卑
 劣で荒っぽかった。
  非人道的な・・忌(い)むべき、蔑(さげす)むべき
 戦い方のアメリカだった。
  一般住民の方々が、何人、無為に殺されたというのか・・
  この事こそ、東京裁判ではないが、「ベトナム裁判を
 開催して、アメリカを糾弾すべきである」。
.
1962年9月30日、こんなに近代になっても、アメリカは、ま
 だ、あちこちで人種差別をしていた。
  人種差別国=アメリカは、黒人の方々を差別し、事件
 も多発していた。
  この日、ミシシッピ州のオックスフォードにあるミシ
 シッピ大学で、かつて、朝鮮戦争で戦功をあげた戦士の
 黒人の方ジェームズ・H・メレディス氏の入学を巡って、
 卑劣な人種差別の妨害行為が発生した。
  あまりにも卑劣なので詳細は記さないが、死者が2人出
 て、
  また、多くの方々が重軽傷を負った。
  非常に大規模な抵抗・騒ぎだった(アメリカ白人たち
 は人種暴動を言った)
  大統領は、ジョン・F・ケネディだった。
  内戦のような状況だった。
  南北戦争を思わせる人種抑圧社会のアメリカだった。
  この中心に卑劣な「根っからの白人優越主義者」の知
 事ロス・R・バーネットが居た。
  結論を先に言えば「この黒人学生・メレディス氏は、
 入学を勝ち取った」。
  成績優秀で、翌年の1963年8月に、このミシシッピ大学
 を見事に卒業した。
  メレディス氏は、この後、公民権運動の熱心な活動家
 になった。
  まだまだ、人種差別国=アメリカは、公民権運動をし
 なければならないという状況の人種差別国の状態を続け
 る。
  アメリカ各地に、黒人の方々を奴隷として虐げ、そし
 て、その後も、延々と続く人種差別の虐げ行為、アメリ
 カ各地に懺悔の銅像を立てよ。
  これから、まだまだ、公民権運動が展開されねばなら
 なかった。
.
1974年1月15日、西沙諸島(パラセル諸島)の戦い(~1974
 年1月20日)
  西沙諸島(パラセル諸島)の領有権を巡って、中国(
 中華人民共和国)とベトナム共和国(以下、南ベトナム)
 が武力衝突し、交戦した。
  海戦によって、中国艦隊が、南ベトナム軍艦1隻を撃沈
 した。
  そして、南ベトナムが支配していた島嶼(とうしょ、
 島。島々)に部隊を上陸させて・・占領した。
  中国政府は、この戦いで、島々を占領した後、中国人
 を移住させて住まわせたり、中国人民解放軍を駐屯させ
 たりして、支配を強化した。
  この南シナ海にある既存の島での建設や、埋め立てに
 よる人工島の建設は、主に、ベトナムとフィリピンが何
 十年も行って来ていた。
  ベトナムは21島、フィリピンは8島の領有権を主張して
 いる。
  台湾とフィリピンは、領有権を主張する島の一部に軍
 を駐留させているが、ベトナムはUNCLOSの規則に
 従って島には軍を置いていない。
  (参考)UNCLOS:通称・略称は国連海洋法条約
     で、17部320条の本文などで構成されている。
  中国は、南シナ海での建設に出遅れたが、これまでに
 ない規模で、今、建設を進めている。
  過去1年半の間で、中国は、これまでのどの国よりも
 多くの建設を行った。
  また、中国は、他の国が行ってない事をしている・・
 それは、兵器を配備する事をしている。
  アメリカは、東南アジア諸国による建設行為には反応
 を示さなかったが、中国の動きに対しては、積極的に反
 対姿勢をとっている。
  南シナ海で、アメリカ海軍は、第二次世界大戦以降、
 継続的に活動している。
  カーター国防長官は、今後も活動を続ける確固たる意
 志があると表明している。
  アメリカは、南シナ海は公海であり、同海域での領有
 権は、「海洋法に関する国際連合条約(UNCLOS)」
 によって決められるべきだとしている。
  この南シナ海問題で、中国は、大きな読み間違い・錯
 誤をしている。
  中国の姿勢の根底には「大国意識」がある。
  南シナ海問題で、「ベトナムとの問題が大きくなって
 も、簡単に解決できる」と思っていた。
  中国の大国が、ベトナムとの二国間交渉によって、大
 国の圧力を見せながら「解決できる」と見ていた。
  しかし、「そのように事が運ばない世界」となってい
 る。
  このベトナムに、インドなどが接近し、「ベトナムが、
 ロシアから潜水艦を買うと、訓練施設の提供をした」。
  潜水艦の要員の養成には、シュミレーターが必要だが、
 この様な施設での養成の協力を行なう事になった。
  (インドは、ロシアから、すでに、同型の潜水艦を購
 入している)
  インドのベトナムを助ける介入となり、日本もこのベ
 トナムやフィリピンの沿岸警備隊に巡視艇を供与した。
  また、ベトナムは、オーストラリアとの戦略対話とイ
 ンテリジェンスの共有を始め、有益情報が受けられるよ
 うになった。
  中国の思惑通りにいかなくなっている。
  中国の台頭は、周辺国の協力関係を強固にした。
  二国間で、大国の思惑で、解決できると考えても、そ
 の様な「大国のエゴが通る世界ではなくなっている」。
  しかし、南ベトナム軍は、この西沙諸島の戦いで、哨
 戒艇ヌータオが撃沈され、
  哨戒艦リ・トン・キェトも大破したほか、残る2隻も損
 傷し、人的損害も多数の死傷者が出たほか、49人が捕虜
 となり、うち1人はアメリカ人の軍事顧問だった。
  因みに、中国軍は、掃海艇「389号」が大破したほか、
 駆潜艇「274号」も損傷した。
  人的損害は、中国側によると戦死18人、負傷者67人で
 あった。
  中国海軍の勝因は、速力や武装、特に、近接戦に有利
 な速射砲の数において中国艦が優っていた。
  ベトナム艦は、船体こそ大型でも速力が遅くて武装も
 大口径砲が少数しかなく、より小型の中国艦に圧倒され
 た。
  また、戦術面でも、ベトナム側は、速力のばらつきが
 大きいためもあって、陣形を組んでおらず、しかも不利
 な接近戦を自ら挑むなどの問題があった。
  この戦いの結果、西沙諸島から南ベトナムの勢力は追
 い出され、完全に中国の実効支配下に置かれることとな
 った。
  中国軍は、永興島に4階建ての建物やヘリポートを整備
 し、戦車部隊やミサイル艇を駐留させるなど要塞化を進
 めた。
  今まで、ベトナム戦争終結後から、ベトナム統一を遂
 げたベトナム社会主義共和国(旧・北ベトナム)政府が、
 中国に対して西沙諸島の領有権を主張して、外交交渉を
 求めたが、中国政府は応じて来なかった。
  1988年には、中国は、2600m級の本格的な滑走路を有す
 る飛行場まで完成させ、南シナ海支配の戦略拠点として
 いる。
  1988年、中国軍は、ベトナム支配下にある南沙諸島(
 スプラトリー諸島)にも侵攻すると、ベトナム軍を撃破
 して、ここも勢力下においた(南沙諸島海戦)。
.
1991年11月26日、アメリカが、フィリピンのスービック軍
 港(スービック海軍基地)から撤退した。
  アメリカは、10年間の使用期限延長を望んだが、フィ
 リピン上院は拒絶し、1991年11月26日に、返還された
  遡(あかのぼ)ること19世紀、アメリカは、フィリピ
 ンを植民地にした。
  まったく卑劣な事をした。
  この事により、今、フィリピンの方々は、完全にアメ
 リカを嫌っている。
  フィリピンの方々は、1898年の米西戦争(アメリカと
 スペインの戦争)以来、アメリカが、スペインに代わっ
 ての卑劣な侵略以来、フィリピンの方々は、アメリカに
 怒りを感じていた。
  そして、20世紀の1991年11月26日、フィリピンの方々
 は、アメリカをスービック海軍基地から追い出した。
  アメリカ兵による、フィリピン女性への強姦などにも
 その心底に怒りがあった。
  第二次世界大戦の時にも、アメリカ兵が、フランスの
 パリへ入った時、パリの町の至る所で、あからさまにア
 メリカ兵は、パリの女性(パリジェンヌ)を犯し、強姦
 した。
  あまりにも目にあまる状況だったので、パリ市長が、
 アメリカ軍上層部へのクレームを申し入れるような酷(
 ひど)い状況だった。
  やはり、このフィリピンにおいても、同じ卑劣な行為
 をアメリカ軍兵士はした。
  この事にも、フィリピンの方々は怒りを感じていた。
  フィリピンの上院は、16対17の票決でフィリピンから
 のアメリカ軍の撤退を決定した。
  この時、フィリピンの方々は、喜び浮かれた。
  これほどアメリカ軍は、フィリピンの方々を抑圧して
 いた。
  アメリカは、どの国へ侵攻、進駐しても、その国の女
 性の方々を犠牲にしていた。
  何の改善も見られず、同じ破廉恥を続けていた・・ア
 メリカはこの事から逃げていた・・まったく無責任状態
 だった。
  日本は、第二次世界大戦後、「慰安所を作れ」と、ア
 メリカから言われ・・日本は言われた様に作ったが・・
 卑劣な事件は、後を断たなった。
  アメリカ兵が銃を持って病院を襲い、看護婦をはじめ、
 妊婦の方々まで犯した・・この様な事件が多発していた。
  また、通学中の小学生が襲われ犯されたり・・あまり
 の多さに、アメリカは、『その様な新聞報道はするな』
 と命じるくらい、報道規制をかけるくらい酷いアメリカ
 だった。
  サンフランシスコにこの銅像を立てよ!
  フィリピンの方々の喜びは、この様なアメリカ軍を追
 い出した喜びだった。
.
2017年、今、オーストラリアの農場が、中国人にどんどん
 買われ、逆に、そこで働く労働者が、オーストラリア人
 になっているという。
  日本の北海道も中国化しているという・・、
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

2017年12月21日木曜日

(増補版)569E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年11月~1892年12月)

題:(増補版)569E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年11月~1892年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1892年11月5日、東洋自由党に日本労働協会が設立される。
  東洋自由党は、この日に、大井憲太郎を中心とする自
 由民権運動の左派が組織した。
  これに先立って大井は、大阪事件の関係者ら急進勢力
 とともに、院外活動組織である東洋倶楽部を結成した。
  そして、自由党の反動化に抗していたが・・、
  1892年6月に、自由党を脱党して、小久保喜七、新井章
 吾らの大阪事件に連座した人々と新党を結成した。
  その政綱は、「皇室の尊栄」「民権の拡張」「国権の
 発揚」を説いたもので・・、
  対外強硬策を軸とした反政府活動に特徴があった。
  機関紙として『新東洋』を発行した。
  そして、さらに、政綱実現のための機関として普通選
 挙期成同盟会、日本労働協会、小作条例調査会をおいて、
 労働者や貧民の政治的経済的地位の向上を期した。
  第4議会と第5議会において、4人の代議士を出したが、
 その過激な政策のため、議会主義と相いれず、1年あまり
 の活動ののち、翌年・1893年12月に解散した。
  大井らは、その後、国民協会、熊本国権党などの国家
 主義政党とともに、大日本協会派として活動を続けた。
1892年11月8日、第27回アメリカ大統領選挙が行われた。
  第24代アメリカ大統領グロバー・クリーブランド(任
 期:1893年3月4日~1897年3月4日)が選出され、返り咲
 いた。
  この大統領の1期目は、旱魃(かんばつ、長い間雨が降
 らないで、田畑などが乾いてしまうこと)に苦しむテキ
 サスに、穀物種子を支給するための特別支出金を「認め
 なかった」。
  そして、インディアンの方々から不法に借り受けてい
 た牧草地の契約を「無効にした」。
  インディアンの方々の生活を苦しめ大統領だった。
  この頃、鉄道網の行き過ぎた拡大の問題があった。
  1893年から深刻な恐慌が始まった。
  ストライキが頻発した。
  この大統領は、ストライキを鎮圧するため、連邦正規
 軍を派遣して、抑圧した。
  また、ストライキ指導者を投獄するように要求した。
  労働者の不満の中に、やむなくストライキは収まった。
  この頃、アメリカは西部の開拓も終わり、次の目標で
 ある「海外の領土」に食指を伸ばす論議が活発だった。
  (他国の領土を侵略して行こうという侵略主義が花盛
 りのアメリカだった)
  この大統領は、キューバの砂糖算出を注目した。
  また、この地は、戦略的に重要な場所だとした。
  ハワイなども注目されていた。
  (アメリカの太平洋・大西洋の領土漁りの時代が始ま
 った)
  イギリスとギアナとベネズエラとの取り合いの紛争も
 始まっていた(1895年~1896年)
  この大統領は、1908年に死去し、国葬が行われた。
1892年11月29日、第4回帝國議會が開かれた(~1893年2月
 28日)(通常会)
1892年11月、(氷川清話)勝海舟が、日光に保晃会(ほこ
 うかい)の碑を建てた。
  保晃会は、二社一寺(二荒山神社、東照宮、輪王寺)
 の社寺長職を中心として、社寺修繕に協賛した会で・・、
 1879年(明治12年)に設立された。
  日光の社寺は、江戸時代には、幕府によって、定期的
 な修理が、日光の町に常駐した職人集団によって行われ
 ていた。
  それは、その時代時代の最高の技術水準でもって行わ
 れていたが・・
  明治となって・・幕府からの援助が絶たれ、また、
 1871年に政府によって発せられた神仏分離令が影響して、
 荒廃した。
  そこで、この会は、この二社一寺の修理修繕を行なう
 善行に乗り出した。
  初代会長には松平容保が就かれた。
  碑は、勝海舟が、石碑を石巻から特別な東北本線の汽
 車で運び、字も文も勝海舟が書いた。
  碑の大きさは、高さ約6m、幅3m、石の厚さ30cm、
  しかし、1897年(明治30年)に、日本政府は、「古社
 寺保存法」を制定し、文化財の保護に乗り出した。
  日光には、「日光社寺修繕事務所」が設置され、政府
 及び二荒山神社、東照宮、輪王寺によって組織された。
  そして、社寺の修理を担当した。
  専任の技師を置き、その指導・監督のもとに、破損の
 著しい建物から順次、根本的な修理が行われた。
  そして、1929年には「国宝保存法」が制定され、
  さらに、1950年には「文化財保護法」が制定され、
  「日光の社寺」の建造物は、それぞれ「国宝」ならび
 に「重要文化財」に指定された。
  1998年には、世界遺産に推薦された区域が「史跡」に
 指定された。
  現在、建造物の修理工事は、専門技術者のいる(財)
 日光社寺文化財保存会(旧日光社寺修繕事務所)が各所
 有者から工事を受託して行なっている。
  修理方法は、破損の程度によって、根本的な修理(解
 体修理・半解体修理)と維持的な修理(屋根葺替・部分
 修理・塗装修理)とに分けらる。
  修理の際、専門技術者が詳細な調査・設計・管理にあ
 たり、修理完了後は修理の記録を取りまとめた修理工事
 報告書を作成している(長く技術が保存される)
  建造物彩色技術は、「文化財保護法」で定められてい
 る「選定保存技術」として(財)日光社寺文化財保存会
 が技術保持団体として認定されている。
  また、修理技術者の実務研修も実施されていて技術の
 向上を図っている。
  1999年に、世界遺産に「日光の社寺」という登録名で
 登録された。
  登録範囲:日光東照宮
       日光二荒山神社(別宮・本宮を含む)
       日光山輪王寺(大猷院霊廟も含む)
  登録対象物:国宝9棟、重要文化財94棟、合計:103棟
       および「日光山の景観」
  登録理由:人間の創造的才能を表現する傑作
       人類の歴史上重要な時代を例証する建築様
      式、建築物群、技術の集積または景観の優れ
      た例。
       顕著で普遍的な意義を有する出来事、現存
      する伝統、思想、信仰または芸術的、文学的
      作品と直接にまたは明白に関連するもの。
      (以上の登録基準をクリアした)
1892年12月1日 正岡子規(25歳)が、新聞「日本」に入社
 した。
  1880年(13歳)旧制松山中学(現・松山東高)に入学
   した。
  1883年(16歳)同校を中退して上京。
   受験勉強のために共立学校(現・開成高)に入学。
  1884年(17歳)旧藩主家(松山藩)の給費生となり、
   東大予備門(のち一高、現・東大教養学部)に入学
   した・・そして、常盤会寄宿舎に入った。
  1890年(23歳)帝国大学哲学科に進学した。
   しかし、文学に興味を持つ。
  1891年(24歳)国文科に転科した。
   この頃から「子規」と号して句作を行った。
  松山中、共立学校で同級だった秋山真之(あきやまさ
 ねゆき、海軍軍人、日露戦争時に東郷司令長官の下で作
 戦担当参謀)と、松山在住時からの友人であり、
  また、共通の友人として勝田主計(しょうだかずえ、
 大蔵官僚、政治家、大蔵大臣、文部大臣)がいる。
  東大予備門では、夏目漱石・南方熊楠・山田美妙らと
 同窓だった。
  大学中退後、叔父・加藤拓川の紹介で・・
  1892年(25歳)新聞『日本』の記者となり、家族を呼
   び寄せ、そこを文芸活動の拠点とした。
  1893年(26歳)「獺祭書屋俳話(だっさいしょおくは
   いわ)」を連載し、俳句の革新運動を開始した。
  1894年(27歳)夏、日清戦争が勃発する。
  1895年4月(28歳)近衛師団つきの従軍記者として遼東
   半島に渡った。
   上陸した2日後に、下関条約が調印されたため、
  1895年5月(28歳)第2軍兵站部軍医部長の森林太郎(
   鴎外)等に挨拶をして、帰国の途についた。
    その船中で喀血して重態に陥り、神戸病院に入院。
  1895年7月(28歳)須磨保養院で療養したのち、松山に
    帰郷。
  喀血した(血を吐いた)ことから、「鳴いて血を吐く」
 と言われているホトトギスと自分を重ね合わせ、ホトト
 ギスの漢字表記の「子規」を自分の俳号とした。
  1897年(30歳)俳句雑誌『ホトトギス』(ほとゝぎす)
   を創刊し、俳句分類や与謝蕪村などを研究し、俳句
   の世界に大きく貢献した。
   漱石の下宿に同宿して過ごし、俳句会などを開いた。
  1900年8月(33歳)大量の喀血
  1902年9月(35歳)死去。満34歳。
   東京都北区田端の大龍寺に眠る。
  辞世の句:糸瓜咲て痰のつまりし仏かな
       痰一斗糸瓜の水も間にあはず
       をとゝひのへちまの水も取らざりき
.
  (今日の言葉)
.
  題:ロシアは、膨大な武力を誇示して、この地を奪った。
    武力のない状況の中で、領土を奪われ続けた日本があった。
.
1552年1月29日、日本に来たザビエルは、宣教師の派遣先に
 「どうか、もっと優れた人を日本に派遣してください」
 と手紙を書いている。
  そして、「どうか適当でない人物は、派遣しないでほ
 しい」とクレームを言っている。
  キリスト教宣教師のレベルが低かったことを愚痴ると
 ともに、キリスト教宣教師を超越する、日本のレベルの
 高さがあり、このザビエルの言葉となった。
  ザビエルは、1549年に日本に来ているから、日本に来
 て3年間を経て、つくづく、このことを感じたのだろう。
  また、ザビエルは、日本人を、「これは、今までに発
 見された中で最も優れた国民です」と言っている。
  また、「日本人に勝る国民は見当たらないのだろうと
 思います」とも言っている。
.
1564年、家康が、この年に、『徳川』に改姓した。
  キリスト教のシャロームは、平和を意味するというが?
 このキリスト教の言うヘブライ語のシャロームには、「
 戦って異教徒が居なくなった地の平和」の意味していた。
  キリスト教は、戦争を否定する宗教ではなく・・、
  キリスト教の基本的考え方に、「(キリスト教の)神
 の義によれば、人を誅しても良い」がある。
  キリスト教は、一事が万事、この考え方であるから、
 民族が飢えに窮した時、「(キリスト教の)神の義があ
 るから」と、隣国の富を奪いに行った(この様な戦いの
 多くの記述が聖書にはある)
  その行為を許すキリスト教という宗教だった。
  朱子学では、主君を説く・・、
  その主君に、二種類の主君があると説く・・、
  その一つが「王者」であり、もう一つが「覇者」であ
 ると・・、
  そして、絶対的な忠誠を尽くすべき相手は、覇者では
 なく「王者だ」と説く。
  それは、「覇者」は、力で相手を倒して天下を取った
 者の事だが・・、
  「王者」は、「徳」で天下を治める人を意味する。
  家康は、この事を知っていた・・それで、元々の姓で
 あった「松平」を「徳川」に改めた。
  また、家康の改姓の意見として以下の説明もある・・
  改姓には2つの理由あり・・、
  1つが、1564年(永禄7年)、家康は、三河の国を事実
 上、支配下に置いた事で、朝廷に三河の領主である事を
 認めてもらい、それに相応しい官位を求めた。
  しかし、松平家は土豪であり、官位は名門しか貰う事
 が出来なかった。
  そのため、松平姓のままでは官位を得る事は難しく、
 近衛前久に間に入ってもらって、神祇官の吉田兼右に、
 家康の希望に沿う姓を探してもらった。
  その結果、「徳川」という姓が、家康の希望に適うも
 のとなり・・
  改姓の勅許を得て、同時に、従五位下・三河守に叙任
 された。
  三河守は、かつて、三河を領有していた今川義元と同
 じ官職であり、これによって、名実共に三河の領主であ
 ることが示された。
  2つ目が、徳川に改姓する事で、松平姓との家格の違
 いを表した。
  家康が、徳川に改姓した当時の松平氏は、14~16家に
 分かれていた。
  そして、一門衆的な同盟関係で結ばれていた。
  家康が、徳川に改姓する事で、他の松平一族との家格
 の違いを示した。
  そして、松平一族との関係をそれまでの同盟関係から
 徳川と松平との主従関係へと変えようとした。
  元康から家康への改名については・・、
  家康は、8歳から12年間を今川家の人質として駿府で過
 ごした。
  元康の「元」は、今川義元から一字拝領したもので、
 それは、松平家が今川家の支配下にある事を示していた。
  1560年(永禄3年)、今川義元が桶狭間で織田信長に討
 たれた時、家康は、義元の子・氏真に「義元の弔い合戦
 をするように」と進言したが、氏真は動かなかった。
  氏真が、いっこうに動かないので、家康は家臣からの
 進言もあって、今川家と断交した。
  そして、織田信長と和睦し、同盟を結ぶ道を選んだ。
  そのため、家康の元康から家康への改名は、今川家と
 の決別を意味していた。
  尚、家康は「源義家」を尊敬していたので、「家」の
 字はその「義家」から採ったものという。
.
1590年6月23日、八王子城の戦い
  小田原城の落城の10日前、八王子城で激しい戦いがあ
 った。
  八王子市は、東京都内で最多の人口56万人を要するが、
  豊臣秀吉が、日本を制覇する直前、この八王子の地は、
 戦国大名の北条氏が治めていた。
  山梨方面からの敵に備えるため、北条氏照は、1582年
 頃、この地・八王子の深沢山(標高460m、因みに、この
 近くに有名な高尾山・標高600メートルがある)の中に城
 を築いた。
  安土城を模したと言われている。
  しかし、城の命運は短かった。
  1590年6月、築城されてから8年後、豊臣秀吉の家臣だ
 った前田利家や上杉景勝らの軍勢が、当時、超一級の軍
 勢が押し寄せた。
  これから始まる小田原城攻めの前哨戦として、攻めて
 の軍勢ははやっていた。
  八王子城は、わずか半日で落城した。
  小田原城の落城の10日前のこの戦いを知る人は少ない
 が、そして、戦いは半日と短いが、その戦いは激烈を極
 めた。
  豊臣側の犠牲も大きかった。
  事実上、この戦いで、日本の戦国時代の幕が降ろされ
 たと言える。
  後に、日本を手中に収めた徳川家康は、この地を重要
 視し、天領とし、軍事・交通の要衝とした。
  宿場町「八王子宿」として栄え、また、八王子は、「
 桑都(そうと、八王子の異称。養蚕業や絹織物の生産が
 盛んであったことから)」として栄えた。
  また、八王子織物として発展した。
  ピークは、1965年に迎え、発展は続いていた。
  ネクタイは、全国の6割~7割が、八王子産と言われた。
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1808年、北方の地を探検していた間宮林蔵が、江戸幕府の
 命により、松田伝十郎に従って樺太を探索した。
  間宮林蔵は、樺太を探検し、その全貌を確認した。
  樺太が、島である事も確認した。
  この時以来、この地に日本人が居住した。
  当然、アングロサクソンなら、この地を我が領土・日
 本の領土と主張する・・その様にしていた。
  だから、この時、この地は同様に、我が日本の領土と
 なった。
  時が経て、後になって、ロシア人がこの地に来た。
  また、時が経て、ロシア人がドンドン来るようになっ
 た。
  先住して居た日本人は、江戸幕府へ、この樺太の地へ
 もっと日本人を送ってもらいたいと要請した。
  そのうち、ロシア人は主張した・・「ロシアは、樺太
 が、日本人とロシア人の『雑居の地』と認めて貰いたい」
 と言って来た。
  日本は、時の経過の中で、ロシアに、この様に言われ
 るようになってしまった。
  そして、「樺太が、ロシアの言う様に、日本人とロシ
 ア人の雑居地だと認めさせられた」。
  しかし、先住である日本人と、後から来たロシア人と
 の間で、度々、紛争が起きる様になった。
  このような時、イギリスは、日本とロシアが戦争をす
 れば、樺太はおろか北海道まで奪われるだろうと言って
 来た。
  この時、日本は時代が変わって、明治政府になってい
 た。
  ロシアは、膨大な武力を誇示して、この地を奪った。
  日本は、ロシアとの戦争・衝突を避けるために、1875
 年、ロシアと「樺太・千島交換条約」を結んだ。
  樺太をロシアに渡し、その代わり千島列島が日本の領
 土であるという事にしたのだった・・が・・
  領土なんて、こんな形で、簡単に奪われてしまうもの
 なのだ・・
  今、あなたが居る地も・・あなたの子供たちの時代に
 は、どこかの国のものになっているかもしれません。
  今、「国防」と「戦争」をごちゃ混ぜにして、「大切
 な国防の必要性」を否定する人が多い状態の現状がある。
.
1818年、フレデリック・ダグラスが生まれた(~1895年)
  黒人のフレデリック・ダグラスが、本当の「奴隷解放
 の父」である。
  アメリカのWASP(W:白人、AS:アングロサク
 ソン、P:キリスト教プロテスタント)たちが、嘘で作
 り上げた「リンカーンの奴隷解放の父」は偽物(にせも
 の)である。
  リンカーンは奴隷解放の父ではない、逆に、「有色人
 種への蔑視観を持った弾圧者」であった。
  特に、インディアンの方々への「虐殺命令」はその極
 みである。
.
1827年、最初の黒人新聞「フリータイムズ・ジャーナル」
 が、ニューヨークで創刊された。
.
1829年、デビッド・ウォーカーが、「アピール(訴え)」
 をボストンで公刊した。
.
1830年、全国黒人集会が、アメリカのフィラデルフィアで
 開催された(大規模な「黒人集会運動」の始まり)
.
1831年、アメリカのバージニア州で、ナット・ターナーら
 の奴隷たちの反抗行動が起きた。
  アメリカの白人たちは卑劣にも暴動と称した。
.
1831年、ウィリアム・L・ガリソンが、「リベレーター(
 解放者)」をボストンで発行した。
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1832年、ニューイングランド奴隷制反対協会が設立された。
.
1833年、アメリカ奴隷制反対協会が設立された。
.
1840年、アメリカで奴隷制廃止を掲げる自由党が、黒人の
 方々の努力で結成された。
.
1840年、世界反奴隷制大会が、一番多く奴隷貿易をしたイ
 ギリスのロンドンで開催された。
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1845年、アメリカが、傲慢な汚い手を使って、メキシコの
 地・テキサスを併合した。
.
1846年、メキシコ戦争(~1948年)
  アメリカが、汚い方法でメキシコの領土を奪って行く、
 戦争となった。
.
1862年、アメリカの首都・ワシントンで奴隷制度有償廃止。
  黒人の黒人奴隷制廃止主義者のダグラスらは、自由党
 に入党し、
  1844年、ジェイムズ・バーニーを大統領選挙に出馬さ
 せた。
  そして、その自由党の綱領には、すでに、「首都ワシ
 ントンの奴隷制廃止」の要求が掲げられていて、たとえ
 如何なるところでも奴隷制度は自然権に反すると表明し
 ていた(首都ワシントンでさえ、この様な状態)
  黒人の方々は、この約20年も前にすでに、この要求を
 掲げていた。
.
1863年、黒人の黒人奴隷解放運動家のフレデリック・ダグ
 ラスが、黒人奴隷の解放や黒人の立場の改善について、
 リンカーン大統領と協議した。
  しかし、南北戦争が終わってもアメリカ社会の改善は
 見られなかった。
  そして、黒人の方々は失望し、白人たちと平等になる
 という夢を捨て、アメリカのある地域で黒人の方々だけ
 で社会を作ろうという運動をして行った。
  ダグラスは『あきらめるな』と説いた。
  そして・・最近になって、ようやく、アメリカで黒人
 の方々の歴史に、日が当たって来た。
  今まで、黒人の方々の歴史は、白人アメリカ人たちに
 よって隠されて来ていた(このダグラスの活動なども・・)
  「アメリカの民主主義」とアメリカが言ったって、ア
 メリカ民主主義の「民」には、黒人の方々の『民』が抜
 け落ちているという軽蔑すべき状況にあった。
  不当なアメリカの地で、不滅の偉業を成し遂げている
 黒人の黒人奴隷解放運動家も、忘却の彼方へ消し去られ
 ようとしていた。
  アメリカは、黒人の方々を、白人と平等の立場に置く
 ことを頑(かたく)なに拒絶した。
  「不利な条件の下で黒人の方々が、どれほど偉大な事
 を成し遂げようとも、アメリカは、卑劣にもそれを抹殺
 した」。
  20世紀のダクラスと言うべきW・E・Bデュボイスは、
 「白人世界で黒人であることは、単に、個人としての侮
 辱や機会喪失だけを意味するものではない」と・・「偉
 大な功績までも抹殺される」と嘆いた。
  そして、ダグラスを発掘し研究したフィリップ・S・
 フォーナーは、「偉大なフレデリック・ダグラスの名前
 は、リンカーンの名前と並び置かれるべきだ」と言った。
  この事は世界記憶遺産に登録すべきだ。
.
1865年3月、アメリカの解放民局(難民、解放民および放棄
 地対策局)の『期限延長と権限拡大』を、黒人の方々は
 勝ち取った。
  黒人の方々の必死の闘いの勝利だった。
  しかし、この後、アメリカには、『奴隷解放の反動』
 の嵐が吹き荒れて、解放民局は活動を停止した。
  アメリカは、奴隷解放を行なう解放民局を停止させた。
.
1865年、アメリカ合衆国憲法の「憲法修正第13条(奴隷制
 度の廃止)」が制定され・・『卑劣な奴隷制度を決めて
 いたアメリカ合衆国憲法』が、やっと、修正された。
  しかし、まだ、黒人奴隷の方々が、奴隷という卑劣な
 身分から解放されるという訳ではなかった。
.
1865年、アメリカで、クー・クラックス・クラン(KKK)
 が、テネシー州で結成された。
  卑劣な事に、この黒人の方々を殺戮する白人集団は、
 全米に急速に拡大されて行った。
  何と、400万人が所属したという記録がある。
.
1866年、公民権法が成立。
.
1868年、憲法修正第14条(黒人の公民権付与)成立。
.
1869年、版籍奉還
  新政府の中心となっていた薩摩藩、長州藩、土佐藩、
 肥前藩の4藩は、藩主が願い出て、その藩の領土(版)と
 人民(籍)を天皇陛下に返還した。
  他の藩も相次いでこの行動を模範にして整然と従った。
  完全な無血革命であった。
.
1871年、日清修交条規
  第1条:日清両国は友好を深め、互いに領土を尊重し合
     う。
  第2条:もし他国からの不当な干渉があれば、両国は相
     互に援助し合う(一部要約)
.
1876年、小笠原諸島を日本の領土とした。
  各国の承認を得た。
  英国船が、英国旗を、すでに、立てる事をしていたが、
 アメリカが反対して日本の領土と確定した。
  日本は、すでに、江戸時代に幕府がこの地を調査し日
 本の領土としている(日本は、碑を建てている)
  日本人が居ないという状態で、無人島で、国旗を掲げ
 たら、「自分の領土だ」と主張できるとしたら・・その
 国の領土になるのだとしたら、世界中が紛争だらけにな
 る。
  アボリジニの方々が、既に、先住し生活をしているの
 に、英国に奪われたという例もある。
  はたして、この逆が成立するのか・・
  アボリジニの方々が、英国へ行って、アボリジニの旗
 を立てたら、イギリスはアボリジニの方々の国になるの
 か・・
.
1890年、カール・ベンツが、この年に、四輪自動車ビクト
 リアを完成させ、時速32キロメートルで走った。
.
1936年10月、スペインのトレドを奪いとったフランコ将軍
 らの反乱軍は、マドリードのスペインの首都を目の前に
 しながら、それから2年6ヶ月、マドリードに入ることが
 出来なかった。
  世界中から、スペイン人民戦線政府の危急を聞いて駆
 け付けた義勇兵による国際旅団が、このマドリード防衛
 のために戦い、フランコ軍の占領を防いだ。
.
1945年7月28日、B-25爆撃機がニューヨークのエンパイアス
 テートビルディングに衝突した、14名の死者。
.
1945年8月6日、午前8時15分、アメリカが広島に原爆を落と
 し、また、長崎に原爆を落したのは・・、それも非常に
 多くの人々が、その一発の原爆で死ぬと分かっているの
 に・・、
  自国の、アメリカの実験場で確かめているのに・・、
  その悲惨さを「まざまざと見て知っている」のに・・、
 広島に落とし、また、二日後に、その卑劣な兵器・原爆
 を長崎に落とす・・この様な最悪な卑劣な事をしたアメ
 リカ・・、
  日本は、すでに、滅茶苦茶にすべてが破壊されて・・、
  反撃が出来ない状態であったのに・・、
  その様な日本に・・アメリカは原爆を落した。
  その必要性は・・「完全になかった」・・
  なのに・・原爆を落としたアメリカだった。
  総べて、100%アメリカの勝利で、すべてが支配下にあ
 る状態の中で、「原爆など落す必要の無い日本」・・
  日本の敗戦は決定的だった・・その様な所に・・、
  アメリカという国は・・原爆と言う最悪の卑劣な兵器
 を使った。
  石油という国の活動の大本(おおもと)を断って・・、
  日本の国の活動の血液の石油を断ったアメリカ、
  日本をその様な状態にしたアメリカ、
  その様なことまでしたアメリカが、終戦の直前の日本
 は、その「石油さえまったくない状態」の日本、
  さらに、すべての工場などの生産手段がすべて破壊さ
 れている日本、
  この日本が、アメリカに立ち向かえる状況は『皆無』
 という状況の中に・・
  原爆を落す必然性はまったく無いのに・・落した、
  アメリカが言う「落す理由の屁理屈な論理」は、「ア
 メリカの兵士を救った」という理由で・・「まったく成
 立する理由ではなかった・・論理ではなかった」。
  石油がどうなっていたかだけでも考えれば、その確実
 なその先(落す必要ない)が明確に見え・・、
  そして、アメリカの論理が屁理屈である事も明確に見
 える。
  アメリカは、次の展開する社会を見ていた・・まった
 くの自分だけの利益で・・論理性が無いのにやった・・、
  まったくの新しい兵器を手に入れた状況の中のアメリ
 カが居た。
  脅威の破壊力のある新兵器・原爆、その威力を『実際
 に』使ってみたかった。
  そのアメリカの『卑劣な心の犠牲』となった広島・長
 崎の方々だった。
  心から怒りが湧く・・「実施してみたい・・その誘惑
 に負けたアメリカ」があった。
  真珠湾のアメリカの卑劣な嘘も「歴史が、明確にアメ
 リカの嘘を立証している」・・そんなことは言えないよ
 と・・、
  本当にアメリカは嘘を言い続けて歴史を歩んで来た。
  インディアンの方々のこと、黒人の方々のこと、隣国
 の領土を奪ったメキシコのこと、ハワイ諸島など太平洋
 の島々を奪ったこと、フィリピンの大統領が怒った様に、
 フィリピンでやったこと、中国・蒋介石と隠れてやった
 卑劣なことごとなど・・キリスト教国・アメリカの歴史
 はこの事々が連なっている。
.
1947年6月8日、日本教職員組合が設立された。
  日教組と略称されるこの組織は・・左派と呼ばれるグ
 ループに牛耳られた。
  その活動の結果、『左派系諸国と親密』となっている。
  日教組の委員長が北朝鮮へ何度も挨拶に行くという活
 動などをしている。
  そして、日教組の「平和学習」は、洗脳学習となって
 いる。
  未熟な子供たちが繰られている。
  戦争の恐怖ばかりで脅す教育法を採っている。
  冷静に考えるという教育方法ではない。
  平和とどう守るべきかの肝心な教育はされていない。
  どうしたら戦争は起きないのだろうという肝心な教育
 もなされていない。
  日教組の平和学習のパターンは・・
 ☆戦争は悪い⇒戦争はしたくない⇒憲法に戦争しないと
  書いてあるから⇒憲法は改正しない・・、
 ☆戦争は怖い⇒戦争に関係ない人も死ぬ⇒戦争は怖い事
  ばかりだ・・、
 ☆戦争に賛成する人は家族が死んでもいいと思っている
  人⇒家族が死んででも戦争に勝ちたいと思っている人・・、
 ☆憲法が戦争しない様にしている⇒憲法がなくなれば戦
  争が起きる⇒戦争が起きれば家族が死ぬ⇒私は生きて
  いたい・・、
 ☆戦争はしたくない⇒戦争で死ぬのは残酷⇒憲法を守り
  たい・・。
  戦争の恐怖を植え付けて、憲法改正は悪だと「政治的
 イデオロギー」を子供たちに洗脳している。
  常に、このパターンの結論に子供たちを導く「マイン
 ド・コントロール」になっている。
  日教組の平和学習は、「いかに平和を守るか?」や、
 「いかにして戦争を抑止するか?」の肝心な教えなけれ
 ばならない点、学ばねばならない点が、完全に欠落して
 いる、欠けている。
  まだ、精神的に未熟な子供を「いいように繰る」。
  これこそ思想教育となっている。
  日教組はそのことに口をつぐんでいる。
.
1953年3月11日、アメリカの卑劣な人種差別行為の「ジム・
 クロウ」に対抗する黒人の方たちが、バスの座り方を自
 由にした・・当然の主張だった。
  卑劣な「ジム・クロウ」が横行するアメリカ。
  公園・公衆トイレ・駅の待合室・水飲み場などの公共
 施設などにおいて、どこでも『黒人の方々は差別された』。
  また、民間施設でも、レストランの室内のトイレは、
 白人専用」で、レストランの脇の外に、ペンキで殴り書
 きで乱雑に『ブラック』と書かれた粗雑なトイレが、黒
 人の方々のトイレだった。
  それでも、レストランに入れるのは良い方で、映画館・
 ホテル・キリスト教会・喫茶店などで、黒人の方々の利
 用は排除された。
  バスの座席は、前が白人専用で、黒人の方々は、バス
 の後部へ追いやられた。
  黒人席が満席になっても、白人席に空席があって、座
 ることができても、そこに、黒人の方々は座ることは出
 来ず、後部に立ったままに居るしかなかった。
  この様な時、1953年、黒人の方々の抵抗の抗議を発す
 る行動が起きた。
  ルイジアナ州の州都バトンルージュで、黒人指導者が、
 当然の主張「誰でも空いている席には座ることが出来る」
 を市条例で制定をすることを強く求めた。
  しかし、こんなことも市は決める事は出来なかった。
  市は、「黒人は後部座席から席を占め、白人は前部座
 席から席を占める」と決めた。
  これは、卑劣な差別の追認だった。
  市は、これで要望に応えたとした屁理屈を言った。
  黒人の方々は、この条例が、施行された1953年3月11日、
 バスの前から座り始めた。
  バスの運転手には、黒人の方は居なくて、全員が白人
 だったが、このバスの運転手がこの黒人の方々の行動に
 抗議した。
  白人のバス運転手のストライキにまで発展した。
  州司法長官の採択が必要な事態まで大きくなり、市条
 例は、州法違反とされた。
  まったく卑劣な事態が起きるアメリカだった。
.
1955年12月1日、人種差別行為を懲りなく続ける「人種差別
 国=アメリカ」のアラバマ州の州都モントゴメリーで、
 また、卑劣な事件が起きた。
  仕事に就かれた黒人女性のローザ・パークス女史は、
 バスに乗って帰宅の途についた。
  長い立ったままの仕事で、体はくたくたに疲れていた。
  バスの前部の白人専用席のすぐ後ろの席に座った。
  ある停留所で白人たちが乗って来た。
  バスの白人の運転手は、ローザと共に居た3人の黒人乗
 客に席を譲る様に命じた。
  他の3人の黒人の乗客は、すぐ運転手の命令に応じたが、
 ローザ・パークス女史は、静かに、そして、はっきりと
 「ノー」と拒絶した。
  彼女は、警察に逮捕された。
  これが、始まりだった。
  これには、『人間の尊厳と自由を否定するアメリカ』
 の軽蔑すべき様相が示されていた。
  当時のモントゴメリーの人口は、白人75000人、黒人の
 方々45000人だった。
  バスの利用者の3分の2は黒人の方々だった。
  黒人の方々は結束して「バス乗車拒否運動」を始めた。
  この運動を指導したのが、弱冠26歳のマーティン・ル
 ーサー・キング師だった。
  キング師は、インドのヒンズー教の指導者のガンジー
 師を敬愛していて・・、
  キング師は、このガンジー師と同様の「非暴力的抵抗
 行動」を展開した。
  1955年12月5日から、「バス乗車拒否運動」は開始され
 た。
  卑劣な事に、アメリカの権力を持つ政治家や、経済的
 権力を持つ白人銀行家や、白人の実業家、白人判事とい
 う社会の権力を持つ者たちが、アメリカ社会の高い社会
 的、経済的な階層からも弾圧が加えられた。
  アメリカの中軸に居る人でさえ、黒人の方々へ人種差
 別した。
  また、暴力行為を行うKKKの白人集団も加わった。
  卑劣な事に、立場を利用して、社会的地位のある者た
 ちは、警察権力を動かした。
  この抵抗運動の黒人の指導者たち・100人以上を逮捕さ
 せた。
  そして、留置所に拘留させた・・そして、告訴までさ
 せた。
  卑劣な白人たちのアメリカ社会だった。
  白人たちの暴力集団・KKKは、黒人の方々へ暴力を
 働き続けた。
  この輩たちは、逮捕されることはなかった。
  白人キリスト教会の差別に耐えられずに作った黒人の
 方々の教会が爆破された。
  指導者の黒人のキング師にも危害が加えられた。
  キング師の家には爆弾が投げ込まれた。
  しかし、黒人の方々の結束は固かった。
  弾圧や暴力にインドのガンジー師の無抵抗主義で耐え
 た。
  バスの乗車拒否運動のために、自家用車の相乗り組織
 もできた。
  遠い道を歩いて通う黒人の方々も多かった。
  白人たちは、この様な卑劣な行為を1年間も続けた。
  1956年11月13日、連邦最高裁判所は、「バスの人種隔
 離は違憲」との判決をやっと下した・・当たり前の判決
 だった。
  それによる命令が、モントゴメリー市へ、1956年12月
 20日に下された。
  正義の通らない、卑劣な社会のアメリカの、まだ、最
 近の事件だった。
  アメリカ社会は、まだ、未熟な遅れた社会にある。
  それは、遅れた宗教=キリスト教の教義「有色人種蔑
 視観」に影響されている。
  この事件は、黒人の方々の輝かしい結束が証明された
 事件だった。
  黒人の方々の『栄光の史実』がまた一つ増えた事件だ
 った。
.
1957年1月20日、ドワイト・D・アイゼンハワー、第34代ア
 メリカ大統領の二期目の任期が始まった(~1961年1月20
 日)
  この再選される前、前年の秋の大統領選に、再選され
 ることを狙っていたアイゼンハワー大統領は、黒人の方々
 を虐げるアメリカについての発言を避けていた・・ダン
 マリを決め込んでいた。
  この様に、アメリカは、まったく卑劣な状況にあった。
  黒人のルーシーという女学生が、勉学に就くことに対
 し、差別をしていた。
  アメリカ中が・・国全体がこの事で揺れていた。
  しかし、アメリカ大統領のアイゼンハワーは、大統領
 選に再選されたいために、何も言わない作戦を取った・・
 大統領の地位にあるのに、国が大揺れに揺れているのに、
 何も必要な措置を取らないという態度を決め込んだ。
  「国民感情に関わる問題では、法の実施にあせりは禁
 物で性急に事を運べはかえって禍を招く」と言い訳を言
 った。
  そして、さらに、人種差別主義者の行動を弁護する発
 言さえした。
  アイゼンハワーは再選された。
  この様な、同じ問題が、また、アメリカのアーカンソ
 ー州のリトルロックで起きた。
  1957年8月29日に、知事がやはり、再選されたいために
 人種差別をした。
  9人の優秀な黒人の学生を、入学させようと決定してい
 たリトルロック・セントラル高校。
  入学決定の裁判所の命令が、既に、判決されていたに
 もかかわらず、新学期が迫ったこの時、三選を目指して
 いた州知事(オーベル・E・フォーバス)は、選挙戦を
 有利にしようと、新学期が始まる前日の9月2日に、「も
 しも、明日、(黒人との)人種共学が強制的に実施され
 るなら、私はこの地域の平和と秩序を維持する事は出来
 ない」と声明した。
  そして、突然、250人の武装した州兵を、リトルロック
 高校へ出動させた。
  そして、学校を包囲する強硬手段をとった。
  卑劣な事に、表向きは「平和と秩序を維持する」であ
 ったが、実際に与えられた任務は、「黒人生徒の登校を
 武力によって阻止する」ということだった。
  この州兵以外にも、この事に刺激された大勢の白人群
 衆も集まった。
  彼らは、罵声と暴力的威嚇をした。
  黒人学生は、やむなく登校をあきらめた。
  だが、連絡の取れなかった一人の黒人の女学生が、一
 人で登校して来た。
  この女学生(エリザベス・エックスフォードさん)は、
 たちまち、これ等の白人暴徒たちに取り囲まれ、「黒ん
 坊(ニガー)を殺せ」などの叫びと怒号を浴びせられ、
 やはり、登校は出来なかった。
  こんなことが延々と続くアメリカ・・黒人の方々は虐
 げられている・・卑劣なアメリカ・・これ以下は、軽蔑
 を込めて略す・・、
  リンカーンの話は「まったくの絵空事」のアメリカ・・
.
1971年、色川大吉氏は、東京経済大学の名誉教授だが、著
 書「ユーラシア大陸思索行」で言う・・、
  異質なもの、人々、文化、環境を見て歩き(1971年)、
 そのユーラシア大陸における都市構造の様々な方と、文
 明の諸類型を発見し、それによって、日本の社会の人間
 関係のあり方の特質や文化的位置を、一層、際立たせる
 事に役立つと考えた・・と・・、
  つまり、異質さの中に、自分たちとの、その異質さに
 自分たちをより分かり、また、分かることによって自分
 たちをより際立たせることに役立つと、
  自分たちの発展のためには、異質さこそ必要だと。
  多様さの中に、異質もあって、自らの発展も実現でき
 る・・と。
  キリスト教は、異質をこの様には、まったく見ない、
 見れなかった。
  また、その様に『見るな』と、マインド・コントロー
 ルし、洗脳した。
  異質を異端と捉(とら)え、異質排除・異端排除のキ
 リスト教の教義によって「異端は、殺された」・・異端
 審問・・
  「異教徒は殺せ」のキリスト教教義・考え方だった。
.
1990年9月、日本の地価が、ピークに達した。
  数字上、東京都の地価が、米国全土の地価と同等にな
 った。
.
1995年、移民で壊れて行くイギリス。
  経済での復活の可能性が無くなったイギリス。
  また、グローバル化の風潮が、国柄(くにがら、その
 国の特質・持ち味)を破壊し、薄めさせ、国の影がかす
 れて行く。
  イギリスが熔けて無くなって行く。
  企業経営者・作家の河添恵子氏のYouTubeを御覧くださ
 い。
  https://www.youtube.com/watch?v=-Bg24EOmQzk
  この20年、ヨーロッパ全体も壊れて来ている・・と・・、
.
2005年2月、日本とアメリカの外務大臣と防衛大臣が、中国
 への関与政策などを話し合った。
  (日米間の緊密化の努力、東アジアへの対応などに、
 日本の能動的な地域政策の構築が、今後、より必要)
  日米両国の外務、防衛大臣で構成される「日米安全保
 障協議委員会(2+2、ツー、プラス、ツー)」は・・、
 2005年2月に、両国の共通目標を確認した。
  国際テロの根絶、民主化の推進、開発支援、地域協力、
 中国への関与政策のすべてが、共通戦略目標に中に入っ
 ている。
  従って、地域と国際社会の平和、安定、繁栄のために
 共通戦略目標の実現のための日米間の協力を緊密化する
 努力とともに、米国の東アジアへの関心に対応するため
 にも、日本も能動的な地域政策の構築が求められている
 ・・と・・、
.
2007年9月10日、アメリカの雑誌・タイム(TIME)が
 名誉棄損をした・・名誉棄損裁判で負けた。
  インドネシアの最高裁判所は、ジャカルタ地方裁判所
 と控訴院の判断を覆し、インドネシアのスハルト元大統
 領に対する『タイム・アジア』の名誉毀損を認定した。
  損害賠償1兆ルピアの支払いを命じた。
  訴えの対象となったのは、スハルト大統領が270億米ド
 ル以上(320億ドル)の金を海外に移したとする記事。
.
2016年1月1日、ヒットラーの「我が闘争」が、この日から、
 再出版された。
  著作権が切れたためで、今までは規制されて来た(イ
 ンターネットでは読めたが・・)
  戦後この様な時間が流れたのに、相変わらずの「情報
 管理社会」の今がある。
.
2016年2月29日、アメリカの人種差別
  (読売新聞、2016・2・29)の記事に・・、
  アメリカ合衆国が白人偏重だとある・・、
  キリスト教の考え方に影響されたアメリカ合衆国が、
 白人偏重だと批判されている。
  その1例となっているのが・・『アカデミー賞』。
  騒動の発端は、2016年1月のアカデミー賞候補者の発表。
  男優、女優の計20人が、2年連続で「全員白人」と判明
 した。
  「旧態依然の白人至上主義だ」と批判に火が付いた。
  こんな人種差別は、「ノーベル賞」でも行われている。
  白人キリスト教社会がしている人種差別は、今・現代
 でも延々と行われている。
.
2017年12月8日、蒋介石の弾圧、究明推進
  この日の読売新聞に標記の記事がある・・
  そしてまた、「台湾で法案可決」「銅像など撤去か」
 の表題もある・・
  日中戦争の時、アメリカが隠れて支援した蒋介石、そ
 して、日中戦争にアメリカは参戦して、蒋介石と一緒に
 なって日本と戦った・・真珠湾のはるか前にアメリカは
 日本と戦っていた・・アメリカは『それはボランティア
 だ』と言ったが、大統領の命令書が見つかって、アメリ
 カのウソがばれた・・
  この標記の件の記事を抜粋して書くと・・
  「台湾で国民党の独裁政権を率いた蒋介石、蒋経国父
 子時代の政治弾圧の真相究明などを推進する法案が5日に
 可決された。
  独裁下で弾圧された民主化活動家を中心に結成された
 与党・民進党による『歴史清算』の一環。
  台湾メディアは蒋介石の銅像が一掃される可能性を伝
 えている。
  台湾では日本による統治が1945年8月15日に終わった。
  その後、国民党支配が始まり、同党が中国大陸で共産
 党との内戦に敗れ、台湾に移った後は権威主義的な統治
 が強化された。
  1947年2月には、煙草(たばこ)を売っていた台湾出身
 女性を役人が殴打したことをきっかけに住民の国民党へ
 の不満が爆発。
  全土に広がった抗議行動を国民党が武力弾圧した「2・
 28事件」が起きた。
  国民党が敷いた戒厳令が全土で解除された1992年11月
 までの間には、共産主義者や国民党独裁に反対する台湾
 独立派を弾圧する「白色テロ」も行われ、被害は20万人
 に上るとも言われる。
  中国から来た外省人と戦前から台湾に住む本省人との
 分断は、今も傷痕を残す。
  今回可決した法律は、こうした人権侵害などをただす
 事が目的で、行政院(政府に相当)に設置される専門委
 員会が真相究明と被害者の名誉回復を進める。
  蔡英文総裁は6日、「目的は和解であり闘争ではない。
  (この過程を経て)違う台湾に生まれ変わる日が来る
 事を望む」と述べた。
  法律には「公の施設や場所にある権威主義統治社会の
 象徴」を撤去、改名するという条文がある。
  蒋介石をたたえ、巨大な銅像を展示する中正記念堂が
 「最初の対象」(聯合報・れんごうほう、台湾の日刊紙)
 になるとの報道もある。
  名称に蒋の別名「中正」を付けた約200の道路、約30の
 学校、蒋介石の肖像画をデザインした貨幣や紙幣が対象
 になる可能性も指摘され、行政院が否定する一幕もあっ
 た。
  (参考)白色テロ:為政者や権力者、反革命側(君主
     国家の為政者あるいは保守派)によって政治的
     敵対勢力に対して行われる暴力的な直接行動の
     こと。
  (参考)行政院(ぎょうせいいん):中華民国におけ
     る「国家の最高行政機関」(中華民国憲法53条)。
      内閣と各省庁を併せたものに相当する。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

2017年12月12日火曜日

(増補版)568E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年11月~1892年11月)

題:(増補版)568E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年11月~1892年11月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1892年11月23日、ピエール・ド・クーベルタンがオリンピ
 ックを提唱した。
  クーベルタンは男爵で、1863年生まれのフランスの教
 育者。
  古代オリンピックを復興させ、「近代オリンピックの
 創立者」と言われている。
  歴史書のオリンピアの祭典の記述に感銘を受け、古代
 オリンピックの復興を演説し、近代オリンピックを提唱
 した。
  そして、賛同者によって国際オリンピック委員会が設
 立されて・・、
  1894年6月23日、パリで、スポーツ競技者連合の会議が
 開催された時、その席上で、古代オリンピックにならっ
 た近代オリンピックの開催と、その為の国際オリンピッ
 ク委員会(IOC)の設立が決定された・・そして・・
  1896年のアテネ・オリンピックの開催につながった。
  この時、オリンピック讃歌が演奏された。
  この讃歌は、この第1回の大会のために、ギリシャの詩
 人パラマが詩を書き、同じく、ギリシャのオペラ作曲家
 スピロス・サマラスが作曲した。
  この後、この曲は忘れられていたが・・
  1958年、東京で、IOC総会が開催される間際、日本
 のIOC委員である東竜太郎へ、ギリシャのIOC委員
 から「第1回アテネ大会のオリンピック讃歌の譜面が見つ
 かった」と連絡が来た。
  その古い楽譜を、日本人が編曲し、また、訳詩して、
 62年ぶりに復活させた・・そして、集まったIOC委
 員の前で演奏した。
  集まった委員たちは感動し、以後、この曲を正式なオ
 リンピック讃歌とすると決定がなされた。
  因みに、東京オリンピックの開催は、1964年。
  五輪のマークも、クーベルタンが考案し、1920年のア
 ントワープ大会以降、開会式で使われている。
  彼は、第2代の国際オリンピック委員会の会長となって
 いる。
  しかし、「オリンピックは、勝つことではなく参加す
 ることにこそ意義がある」は、彼の言葉ではない・・他
 人の言葉を引用しただけ・・、
  また、クーベルタンは、社会進化論の信奉者で、「優
 れた人種は、劣等人種に社会的恩典を与えなくてもよい」
 と考えていた。
  1936年のナチス・ドイツのヒットラーの主催するベル
 リン大会を、クーベルタンは非常に喜んだ。
1892年11月24日、民法・商法の施行延期法を公布した。
  1890年に公布された旧民法は、1893年1月から実施され
 ることになっていた。
  しかし、1889年の東京大学法学士会の「民法は天賦人
 権論に基づき社会の人倫を破壊するもの」との反対意見
 の発表から論争が起こった。
  穂積八束(ほづみやつか、東京帝国大学法科大学長、
 衆議院議員、法典調査会査定委員)などは、国情にそぐ
 わないなどの意見を述べた。
  穂積の言葉である「法出デテ忠孝亡ブ」は非常に有名
 となった。
  因みに、氏は、日本法律学校(現在の日本大学)の設
 立に参画している。
  また、この翌年の1890年に公布された民法典、および、
 商法典の実施可否を巡って、延期派と断行派に国論を二
 分するはげしい論争が起こった(民法典論争)
  1880年以来、本格的な編纂が開始された民法は・・、
  1890年4月に、フランス人ボアソナードの起草になる財
 産法の部分が、同年・1890年10月に、日本人委員の起草
 になる身分法の部分が、いずれも元老院・枢密院の審議、
 修正を経て公布され、1893年1月1日から施行されること
 になっていた。
1892年11月25日、第四通常議会が召集された。
  第4回帝国議会の開催、1892年11月29日開会~1893年2
 月28日閉会 (通常会)
1892年11月27日 伊藤博文が、交通事故に遭遇した。
  伊藤博文の人力車が馬車と衝突し、伊藤首相は、しば
 らく意識不明の重体となった。
  井上馨内務相が、この日に臨時首相代理となり、1993
 年2月27日までの約2ヶ月間を務めた。
  この頃の道路は、今・現代の様では、当然、無く・・、
 非舗装で、雨が降れば水が溜まるところもあった。
  この頃は、自動車が表れる直前の頃で、人力車や馬車
 が一般的な乗り物だった。
  現代の自動車の様に、多くの台数が道を往来していた
 訳ではないが、けっこう事故は多かった・・、
  因みに、自動車は、1907年頃から利用され始める。
  また、自動車の出初めには、自動車を避ける方法を人々
 が慣れていなくて・・上手ではなく事故が多くなった。
  危険を感じ・・くもの巣を散らす様に逃げ惑ったとい
 う・・そのため、かえって車に轢(ひ)かれたという。
  運転手側、歩行者側、共に、双葉マークだった。
  多いのが馬車との接触事故、車におどろく馬の暴走に
 伴う事故が頻発した。
1892年11月28日、讃岐鉄道会社が、旅客運賃を改定した。
  讃岐鉄道は、香川県にあった会社線で、高松から琴平
 まで・・金刀比羅宮へ向かう参拝客の輸送を目的に設立
 された。
  この会社は、1890年に、女子の出札社員の募集をした
 が、成功しなかった。
1892年11月30日、千島艦事件(11月25日説あり)
  愛媛・松山沖で、日本の軍艦の水雷砲艦「千島」が、
 イギリス船と衝突し、沈没した。
  乗組員70人余が溺死した。
  沈没補償を巡って、日英両国間で係争事件となった。
  フランスで建造され、フランスから神戸へ回航中の日
 本の軍艦・水雷砲艦「千島」が、イギリス商船・ラヴェ
 ンナ号と、愛媛県堀江沖で衝突し、千島が沈没し、74名
 の乗務員が溺死した。
  日本政府は、ラベンナ号に不当航行の過失があったと
 して、翌年・1893年5月に、その所属会社P&O(ピーア
 ンドオー)汽船会社を相手取って、85万円の損害賠償を
 請求して、横浜のイギリス領事法廷に出訴した。
  これに対し、会社側は、逆に、10万円の損害賠償を求
 めて反訴した。
  第一審は、会社側の要求が不当だとされて、反訴が却
 下された。
  会社側は、その判決を受け、上海(シャンハイ)の領事
 法廷に控訴した。
  1893年10月、裁判長は第一審判決を破棄して、会社側
 を支持した。
  そのため、日本の世論は、その不当性と日本政府の処
 置を非難し、湧きたった。
  野党の反政府諸派が、議会内外でこれを利用して、第
 二次伊藤博文内閣が推進する条約改正交渉に反対する運
 動を展開した。
  1893年12月、衆議院は解散となった。
  日本政府は、さらに、ロンドンのイギリス枢密院に上
 告した。
  1895年7月、枢密院は、上海領事法廷の判決を破棄して、
 横浜の領事判決を復活した。
  本訴は、ふたたび横浜領事庁で争われることになった。
  1895年9月、和解となって、和解が成立した。
  会社側は、訴訟費用のほか、英貨1万ポンド(邦貨9万
 余円)を支払う事となり、事件は落着した。
1892年11月30日 伝染病研究所が設立された。
  (北里柴三郎・福澤諭吉・森村市左衛門らによる大日
 本私立衛生会伝染病研究所・・)
  北里柴三郎博士によって、最初の伝染病研究所が東京
 の芝公園内に建設され、設置された。
  福沢諭吉師が、北里博士に協力し、無償で別邸を貸与
 した。
  土地は福沢の所有で、研究資材は森村市左衛門の寄付
 によった。
  (参考)森村市左衛門:武具商・陶磁器業などを営ん
     だ森村財閥の当主。
      遠江国森村(現:静岡県菊川市)出身で、旗
     本屋敷などに出入りする武具商。
      日米修好通商条約で横浜が開港されると、横
     浜で外国人から洋服・靴・鉄砲・懐中時計など
     を仕入れ、土佐藩・中津藩などに販売を始めた。
      この頃、中津藩の福沢諭吉と知り合った。
  ここは、後に、大日本私立衛生会の所属となり、研究
 所を国へ寄付し、内務省の管轄となった。
  1914年(大正3年)12月、 私立伝染病研究所(現・東
 京大学医科学研究所)が内務省から文部省に移管され、
 東京大学に合併される時、
  初代所長・北里柴三郎は、移管に反対して所長を辞任
 した。
  この時、志賀潔を始めとする研究所の職員全員が一斉
 に辞表を提出し、総辞職となった(伝研騒動といわれる)
  本来の目標の遂行に懸念を抱いた北里柴三郎は・・、
  1914年11月5日に、新たに私費を投じて、私立・北里研
 究所を設立・創立して、信念を貫いた。
  1918年、北里研究所が社団法人として認可された。
.
  (今日の言葉)
.
  題:200発~300発の北朝鮮のミサイルが、日本に向かったら・・
    それを防ぐことは不可能という現在の日本がある。
.
1223年、運慶(うんけい)が没した。
  運慶の生年は不祥である。
  運慶は、仏師であり、南都(現:奈良県)を拠点とし
 た奈良仏師の流れを引いている。
  宇治の平等院(京都府)の阿弥陀如来坐像(国宝)は
 定朝(じょうちょう)が造立した。
  運慶は、この流れを汲む。
  定朝以後、仏師は三つの派に分かれた。
  それが、「院派」「円派」「慶派」で、運慶は慶派で、
 運慶の父・康慶には、この「運慶」の他に「快慶」「定
 慶」らがいる。
.
1598年、キリシタン大名が武器の供給を受ける。
  キリスト教は、日本で弾圧を受けたと一方的に言うが、
 これは嘘、いつものキリスト教のプロパガンダ(嘘宣伝)
 である。
  キリスト教から、武器や弾薬の供給を受けた九州の弱
 小の不利な状態の大名は、そのキリスト教宣教師からの
 武器・弾薬の供給をあてにした・・そして、キリシタン
 大名となった・・背に腹は代えられずで、信仰上でキリ
 シタン大名になったのではなかった・・それ故、息子や
 孫の代ではキリシタン大名ではなくなっている。
  この大名たちは、武器・弾薬供給者のキリスト教宣教
 師たちに頭が上がらなくて・・キリスト教宣教師たちの
 やりたいことを好きにやらさせた。
  キリスト教宣教師たちは、信徒を煽(あお)って、信
 徒と共に、仏教寺院や神社などを破壊し打毀(うちこわ)
 した・・弾圧した。
  この様な最中(さなか)、長崎県曙町(あけぼのまち)
 にある、悟眞寺は開かれた・・抵抗・弾圧の中に開いた。
  この長崎県のキリスト教勢力の強い状態の中、浄土宗
 を布教しようと、厳しい弾圧を受けながら、僧・玄故(
 げんこ)上人は弾圧に立ち向かった。
  日本は、キリスト教を弾圧したと言うのはキリスト教
 の嘘宣伝であって・・
  また、例えば、長崎出島のオランダ商館が、キリスト
 教式の埋葬の仕方で、埋葬を行いたいと江戸幕府に願い
 出れば・・、
  1654年に、幕府は、その許可を出し・・そして・・
 出島近くの墓地で、希望のとおりに埋葬が行なわれた。
.
1871年12月23日、岩倉使節団が出発した(~1873年9月13日)
  この岩倉使節団が、欧米に2年間近く派遣された時、
 伊藤博文は、大使の岩倉具視に次ぐ副使となった。
  到着して、英語が話せる伊藤は、使節団を代表して演
 説した。
  その中で、伊藤は、数百年続いた我が国の古い制度は、
 「1個の弾丸も放たれず、一滴の血も流されず、撤廃され
 た」(廃藩置県の事を言っている)と述べた。
  そして、日本の国旗にある赤い丸は、「今まさに洋上
 に上ろうとする太陽を象徴し、我が日本が欧米文化のた
 だ中に向けて躍進するしるしであります」と述べた。
  これを聞いた聴衆は、万雷の拍手をした。
  この演説は「日の丸演説」と言われて有名。
.
1874年、殖産興業に関する「大久保利通の建白書」・・
  「そもそも国の強弱は、人民の貧富によるものであり、
 人民の貧富は物産の多少とかかわりがある。
  そして、物産の多少は、人民が工業に励むかどうかに
 根差すが、そのおおもとは、何処の国でも政府の指導奨
 励によるのである」。
  国の中心に居た大久保利通は、外国の機械を購入し、
 また、外国の知識人を招聘した。
  惜しまず資金をこの面に投入した。
  そして、速やかな技術の日本への定着を狙って、製糸
 や紡績などの官営工場を建設した。
  そして、その要点を掴(つか)んで来ると、その工場
 を民間に払い下げ、進んだ外国技術の広範な国内定着を
 して行った。
  江戸時代に、すでに、日本にあった近代的工業生産の
 意識が、この時、大きく花開いて行った。
  それを支えたのが、日本の高い教育水準にあった人た
 ちだった。
  日本に、すでにあった土台の上に、導入した西洋技術
 がより成熟して行った。
.
1877年(明治10年)5月、幕末の志士・桂小五郎(木戸孝允、
 鞍馬天狗のモデルとも言われている)が死去した。
  そして、この年、東京大学が、最初の総合大学として
 設立された。
  そしてまた、民間でも慶應義塾、同志社、東京専門学
 校(早稲田大学の前身)が設立され、日本に西洋の学問
 が定着して行った。
  それにつれて、医学や物理学、そして、化学などのあ
 らゆる分野で、日本人による本格的研究が始まり、そし
 て、世界的な業績を残す人々が出始めた。
  世界的な発明や発見が、相次いで生まれて行った。
  その主な方々だけでも・・、
 ・北里柴三郎(破傷風血清療法の発見)、
 ・志賀潔(赤痢菌の発見)、
 ・野口英世(黄熱病の研究)、
 ・鈴木梅太郎(ビタミンB1の発見)、
 ・高峰譲吉(ジアスターゼの創薬)、
 ・木村栄(緯度変化の研究)、
 ・大森房吉(地震計の発明)、
 ・長岡半太郎(原子模型の研究)らの方々だった。
  また、文化・芸術に関する方面でも日本人の優秀さが
 示されて行った。
  文学者としては・・、
 ・写実主義の坪内逍遥(小説神髄)、二葉亭四迷(浮雲)、
 ・ロマン主義の島崎藤村(若菜集)(詩集)、与謝野晶
  子(みだれ髪)(歌集)・・そして・・、
 ・ロマン主義から自然主義への動きの中に国木田独歩(
  武蔵野)、田山花袋(布団)、石川啄木(一握の砂)
  (歌集)、森鴎外(舞姫)(高瀬舟)、夏目漱石(吾
  輩は猫である)(こころ)・・など・・、
  新しい日本の文学の出発点には、坪内逍遥が居た。
  そして、日清戦争の前後に、人間の自由な感情を重視
 するロマン主義が起き、島崎藤村らが活躍した。
  日露戦争の頃には、人生や社会の現実をありのままに
 描く自然主義文学が盛んになって、田山花袋らが注目さ
 れた。
  森鴎外は、ヨーロッパ文学を紹介し、晩年には歴史小
 説を書いた。
  また、明治時代の芸術面では、西洋の近代芸術が、堰
 (せき)を切ったように押し寄せて来る中で、日本の伝
 統文化とは何かを深く考えた時代だった。
  文明開化の頃、日本の古い仏像や美術は価値のないも
 のとする欧米崇拝の風潮となった。
  これによって多くの仏像や寺が壊され、捨てられた・・
 また、貴重な芸術作品が海外へ流出した。
  これを救ったのが東京大学の外国人教師であったフェ
 ノロサだった、また、岡倉天心だった。
  伝統芸術を保存する事と復興する事に努めた。
  日本の芸術作品の価値が再評価された。
  狩野芳崖らは新しい日本画のあり方を模索した。
  洋画では、高橋由一や浅井忠らが写実的な油絵を描い
 た。
  また、彫刻では高村光雲らが活躍した。
  音楽では滝廉太郎らが活躍した。
.
1884年12月4日、朝鮮で甲申事(こうしんじへん)変が起
 きた。
  金玉均(きんぎょくきん、1851年~1894年)が、朝鮮
 で政変(クーデター)=甲申事変を起こした。
  しかし、中国・清国軍が介入して3日で失敗した。
  この頃、朝鮮は、清国の冊封国として、属国化してい
 た。
  しかし、その清国との関係は、崩壊の危機にあり、国
 を守るにはこれに依拠するより、この従属関係を打破し
 て、独立近代国家の形成を図らなければならないとして
 いた(金玉均らの急進改革派の独立党の考え)
  この朝鮮の急進改革派は、日本との連携を強化したい
 とした。
  しかし、事変は失敗し、金玉均は日本に逃れた。
  金玉均は、後になって、中国に渡り、上海で暗殺され
 た。
  金玉均らの急進改革派は、明治維新後の日本のように
 自主独立の国を目指し、また、明治政府の進める殖産興
 業政策の様に新しい朝鮮を生み出し、近代化したいとし
 ていた。
  ここには、この8年前の1876年の日清修好条規によって、
 朝鮮を開国に踏み切り、独立国家として見る内容・姿に
 目が開かせられていた。
  また、清国の様な見方「朝鮮を冊封国として利益を収
 奪する対象の属国」としては、日本は、まったく見なく
 て、朝鮮を「開国した独立の国家としたい」としていた。
  その日本の考え方に、金玉均らは、朝鮮の開化を目指
 した。
  そして、1870年代の後半より、日本に接近していた。
  金玉均は、近代技術の導入と軍事力強化のために洋務
 開花論を唱えた朴珪寿の影響を強く受けた。
  また、1879年、開化派の李東仁を、金玉均らは、日本
 に密入国させた。
  そして、福沢諭吉や後藤象二郎などの日本の先人らと
 接触させ、交流も深めていた・・
  金玉均らの開化論は、一朝一夕で出来た開花論ではな
 かった。
.
1891年6月、川上音二郎一座が、東京で初めて、壮士芝居を
 開演した。
  満都の人気を集めて大当たりした。
  1891年2月、自由党の壮士であった川上音二郎は、角藤
 の芝居に刺激されて、書生芝居の一座を起こした。
  そして、「板垣君遭難実記」等をもって、大阪堺の卯
 の日座で旗揚げをした。
  川上は、企画性にすぐれ、また、事業家でもあった。
  また、妻の川上貞奴のひきで後継者にめぐまれ、やが
 て宿願の東上ができることとなった。
  1891年6月、「板垣君遭難実記」と「監獄写真鏡」を東
 京・鳥越の中村座で上演し、大評判となった。
  この川上の成功は、「壮士芝居」の元祖・角藤定憲の
 あとをついで「壮士芝居」発展の道を開き、さらには「
 新派」発生への糸口になった。
.
1894年7月25日、日清戦争が始まった(~1895年11月30日)
  日清戦争の時、日本は、徹底的に、『兵士に国際法を
 教えた』。
  日本本土から、わざわざ教える係の者を派遣をしても
 教えた。
  アメリカやヨーロッパでもやらないことをした。
  逆に、アメリカは、卑劣な事をした。
  敵から情報を得るために、「罪を問わないから白状せ
 よ」と、白状を誘惑した。
  この様な事から、戦場では、国際法を遵守する精神が
 無くなって来た。
  国際法違反をしても許されるという心が働いた・・そ
 の様なことをアメリカは行なっていた。
  自国の兵の国際法違反を、厳然と罰しないアメリカ。
  兵士が、まず、「第一に守らなければならない国際法」
 を、ないがしろにする様なアメリカだった。
  だから、国際法で守られるはずの戦場の日本の病院が
 襲撃された。
  この様な風潮を、アメリカは生まれさせた。
  この様な事例をNHKは放送しない・・日本を貶める
 事例ばかりをNHKは放送している。
  不公正な卑劣な放送姿勢のNHKとなっている。
  日本の貶める番組ばかり製作して放送するNHK。
.
1894年9月17日、黄海海戦(清との海戦))
  清国は、目ざましく軍備を増強して行った。
  例えば、海軍力は、1881年(この海戦の13年前)には、
 清国と日本は、所有する軍艦は共に3隻であったが、清国
 は大型艦で、日本の艦艇は貧弱だった。
  しかし、清国は、その後も大型艦をどんどん作り・・、
  1887年には、清国10隻、日本は4隻と、圧倒的な清国の
 海軍力となった(2017年の中国と日本との差の様に)。
  日本も中国の脅威に、1888年(この海戦の6年前)から、
 艦船数を増やす努力をして行った。
  また、大型艦を増やして行ったが、中国・清に追い着
 くことは、しばらく出来なかった。
  しかし、1892年(海戦の2年前)には、ほぼ対等の状態
 にたどり着くようになった。
  この様な中で、1894年9月17日に、黄海海戦を、日清
 両国は戦った。
  日清戦争は、中国で戦われたと思われ勝だが、朝鮮半
 島でその多くが戦われた。
  清国軍が威海衛から渡海し、朝鮮のソウル(当時の漢
 城)近くに上陸し、日本と交戦したりした。
  また、平城近くでも戦っている。
  日本軍は、九州や沖縄から出撃して行った。
  この黄海海戦は、日本海軍・連合艦隊と清国海軍・北
 洋艦隊の間で戦われた海戦で・・、
  『近代的な鉄甲蒸気船同士で行われた世界史上初の大
 規模な海戦』だった。
  この海戦の結果、日本は勝利をおさめた。
  清国海軍は、大幅に戦力を低下させ、黄海と渤海の制
 海権を失った。
  日本の連合艦隊司令長官は、伊東祐亨(いとうすけゆ
 き)海軍中将だった。
  清国の損害5隻喪失、大中破で、日本の喪失は無し、
 大破4隻だった。
  海戦の場所は、黄海、鴨緑江沖。
  1894年午前10時過ぎ、両艦隊がお互いの煤煙を確認し
 た。
  連合艦隊は、直ちに、戦闘態勢を取って急接近した。
  北洋艦隊も、日本艦隊を迎え撃つ体制にした。
  連合艦隊は12隻で、第一遊撃隊4隻、そして、司令長
 官の率いる本隊6隻、そして、本隊後方に2隻だった。
  北洋艦隊は14隻で、連合艦隊より2隻多く、本隊10隻、
 そして、4隻が続いた。
  12時18分、連合艦隊司令長官は、攻撃開始の国際信号
 旗・旗旒信号(きりゅうしんごう)を発した。
  北洋艦隊は、楔形の横列陣で、連合艦隊に直進して来
 た。
  12時52分、本隊の旗艦「松島」が距離3500mで砲撃を
 開始した。
  12時55分、第一遊撃隊も、北洋艦隊右翼に回り込み距
 離3000mに近づき砲撃を開始した・・速射砲で猛烈な砲
 火だった。
  北洋艦隊は、連合艦隊に突進して、衝角戦(しょうか
 くせん、体当たり攻撃で、船復を破り大浸水を起こす)
 にしようとした・・そして、双方、砲火を交わし被弾。
  13時5分、北洋艦隊の艦が火を噴く、30分後に沈没。
  そして、北洋艦隊のもう1隻も多数被弾し、火を噴き
 戦闘不能となる。
  日本側も第一遊撃隊「吉野」が被弾し、弾薬が誘爆し
 て火災が発生した。
  この様な戦いが延々と続いた。
  日本側に、幸運な命中弾などもあり「赤城」は危機を
 脱したりした。
  また、連合艦隊の「西京丸」が、魚雷3本を発射された
 が喫水が浅いのが幸いして、その1本が船底の下を通過し、
 命中を免れ、九死に一生を得た。
  15時10分、連合艦隊第一遊撃隊、距離3700mで、本隊
 と共に北洋艦隊へ十字砲火を発射した。
  15時15分、北洋艦隊は大打撃を受け、3隻で火災が発生。
  北洋艦隊に戦線離脱する艦も現れる(敵前逃亡で、海
 戦後に斬首の刑に処された)
  つられて、逃亡を途中まで試みる北洋艦隊の2艦があり。
  北洋艦隊が集中砲火を浴び・・1隻沈没。
  15時30分、北洋艦隊の30.5㎝砲弾が、連合艦隊「松島」
 に命中、大破し炎上する。
  16時7分、「松島」、鎮火するも被害甚大、舵が不調。
  北洋艦隊も味方の火災、逃亡、沈没が続いて、四分五
 裂となる・・2隻を残して、4隻が戦線離脱体制となる・・
 他の2隻も退却を始める・・連合艦隊の第一遊撃隊が追撃
 態勢に移る。
  16時45分、司令長官が、交戦する本隊の各艦に進撃を
 中止し、旗艦「松島」に集結信号を出す。
  16時48分、第一遊撃隊が逃走する北洋艦隊の1隻に追い
 付き、攻撃開始し、命中度が高く、艦首から沈没した。
  17時40分、再集結した連合艦隊本隊は、順次、南方へ
 後退する。
  それを見た、残った北洋艦隊2隻も退却を開始した。
  17時45分、第一遊撃隊が敵艦を追おうとしたが、司令
 長官からの「合流せよ」の信号が発せられ引き返す。
  20時、伊東司令長官は、旗艦を「橋立」に変更して移
 乗、大破した「松島」は呉軍港へ帰還させる。
  翌日・18日1時15分、「西京丸」、朝鮮半島の日本海軍
 根拠地に帰還。
  3時30分、北洋艦隊の1隻が帰還中に被弾による舵の不
 調から座礁し、放棄された。
  5時50分、連合艦隊の1隻が根拠地に帰投。
  18日12時から連合艦隊司令部は、帰投した北洋艦隊を
 再補足の目的で発進したが・・発見できず。
  その後、日本海軍の水雷部隊が、帰投した北洋艦隊を
 発見し、威海衛の戦いをする。
  2隻撃沈、1隻大破・座礁、その後自沈、4隻は鹵獲(ろ
 かく、戦いで得る・ぶんどる)して日本海軍に編入。
  これによって北洋艦隊は降伏。
.
1904年2月8日、日露戦争がこの日に始まるが・・、
  日露戦争の開戦前・・、ロシア帝国は、満州から兵力
 を引かず・・、
  逆に、シベリア鉄道によって兵力を増強し続けた。
  日本とロシアの兵力差は、完全にロシア有利だった。
  ロシア:日本の兵力差は・・、
  歩兵・・1740:156大隊、
  騎兵・・1085:54個中隊、
  火砲・・12000:636門、
  総兵力・・207万人:20万人、
  戦艦・・11:6、
  装甲巡洋艦・・12:6、
  巡洋艦・・10:12、
  総トン数・・45:26万トン。
  ロシアは、圧倒的な大国だった。
  そして、満州は、ロシア兵だらけだった。
  また、ウラジオストクと大連が、ロシアの軍港で、完
 全に日本はロシアの脅威に囲まれていた。
  そして、ロシアは、1900年に起きた義和団事件を口実
 に、満州へ2万の兵を送り込んで来た。
  そして、そのまま居座った。
  そして、朝鮮半島の国境を越えようとしていた。
  この時、外交官の小村寿太郎の意見が、『日英同盟を
 結ぶべき』の意見だった。
  この意見が政府を動かし、政府の方針となった。
  1902年、日英同盟は締結された。
  因みに、義和団は、郷村(ごうそん)の自衛組織を基
 盤とした「中国の伝統宗教の流れをくむ組織」で、外国
 人を排斥し、殺害行為をし・・、
  そして、北京の各国公使館を包囲した。
  その為、日本やイギリス、アメリカ、ロシアなどの8ケ
 国が連合軍を送り、鎮圧した。
  日英同盟において、イギリスは、東アジアに勢力を拡
 大するロシアを押さえたいとしていた。
  ロシア勢力拡大への懸念から日英同盟を結びたいとし
 ていた。
  ロシアは、日本の10倍の国家予算を持つ、また、軍事
 力も10倍以上だった。
  そして、満州の兵力を増強し続け、朝鮮国境をついに
 越えた。
  そして、朝鮮北部に軍事基地を建設し始めた。
  この勢いは止まる気配はなく、放置すればロシアの強
 大な勢力圏が構築され、領域は不安定な状況となること
 がはっきりしていた。
  日本は、手遅れになることを恐れた。
  ロシアの強硬な進出が原因だった。
  朝鮮は、ロシアの支配下に入りつつあった。
  イギリスやアメリカは、朝鮮半島が、ロシアの支配下
 になることを望まなかった。
.
1904年2月8日、日露戦争
  日露戦争は、日本の生き残りをかけた、安全保障上の
 戦いだった。
  当時、世界最大の陸軍大国だったロシア。
  日露戦争は、何処の国も日本が敗けるだろう、日本が
 勝利することは無いだろうと見ていた。
  巨人に挑(いど)む小さな日本の漫画をフランスの新
 聞が掲載しているが、世界中の見方は、まさに、この漫
 画のごとくだった。
  しかし、世界中の予測に反し、日本の勝利で終わった。
  これは、植民地にされていた人々へ希望を与えた。
  将来の民族の独立の夢を描かせた。
  ヨーロッパで、この結果を、特に、喜んだ国は、長年、
 ロシア帝国に抑圧されていたフィンランド、ポーランド、
 トルコの人々だった。
  この国々の人々は、日本の勝利を熱烈に歓迎した。
  しかし、有色人種への蔑視観がある白人キリスト教国、
 特に、アメリカに、将来、白人社会を脅かす有色人種と、
 日本は見做され、「警戒すべき黄色人種」という黄禍論
 が巻き起こった・・これが、世界大戦へつながっていく。
 ☆中国革命の父・孫文の言葉・・、
  「日本がロシアに勝った結果、アジア民族が独立に対
 する大いなる希望を抱くに至ったのです」。
 ☆インドの独立運動家で、後の首相ネルーの言葉・・、
  「もし、日本が、最も巨大なヨーロッパの国に対して
 よく勝利を博したとするならば、どうしてそれをインド
 が成し得ないと言えるだろう?」。
 ☆イランの詩人・シーラーズイーの言葉・・、
  「立憲制によってこそ日本は偉大になった。
  その結果、かくも強き敵に打ち勝つことが出来るのだ」。
 ☆エジプト民族運動の指導者ムスタファー・カミールの
 言葉・・、
  「日本人こそは、ヨーロッパに身の程をわきまえさせ
 てやった唯一の東洋人である」。
.
1905年9月5日、日露戦争が終わる。
  日露戦争で、隠れた逸話となっている話が・・、
  「陸軍大将の乃木希典は、日露戦争の後、敗れたロシ
 アの将軍の助命に奔走した。
  助命のための様々な努力をした」。
  大東亜戦争(第二次世界大戦)において、アメリカは、
  日本の将兵を罪に落とす法律を後から作ってまでして、
 日本の将軍を殺したが・・、
  まったくの正反対の不正義な行為をしたアメリカだっ
 た。
  この卑怯な卑劣な、後から法律まで作って罪に落して
 殺す不正義な行為は、長く歴史に書き留められることに
 なる。
.
1928年2月、初めての普通選挙。
  有権者の数が、人口の約20%で、それまでの4倍近くに
 増えた。
  この選挙の結果、政友会が第一党になった。
  1925年に普通選挙法が成立し、納税額にかかわらず25
 歳以上の男子全員が選挙権を得た。
.
1937年12月17日、南京に入城し、式典を行った。
  日本の中世において、日本の武士は、正々堂々とお互
 いが名乗りを上げて戦った。
  自分が、敵に対して戦う者であると『明示』し(どこ
 の誰だかを言った)、そして、戦った。
  また、武具をはっきり付け、身を固めているので戦う
 者いだと「敵にもはっきり分かった」。
  これは、戦わない者に類が及ばない様にという、戦う
 者の「配慮でもあった」。
  戦わない者が死ぬ様なことが無いようにという「心配
 り」だった。
  それが武士であり、武士道であり、日本人の優しさだ
 った。
  しかし、近代になると、この戦わない者を逆に狙うと
 いう「ならず者的な輩」が出て来た。
  「軍需工場を狙います」とアメリカ国内で了解を得て
 いた原子爆弾を、広島・長崎の町の真ん中に、一般市民、
 女性や子どもたち、赤ん坊も居る人たちが生活する真上
 に、アメリカは原爆を落した。
  中国兵も、いつの時代も、「敵の裏をかく・卑怯な事
 を常にする」という歴史にあるが・・、
  中国兵は、軍服を脱いで、逆に、一般庶民の中に隠れ
 た。
  一番「やってはいけないこと」をやった。
  軍服を脱いで、一般庶民の姿をして、一般庶民の中に
 隠れて、日本兵を狙い撃ちにした。
  一般市民に類が及ぶと分かっていても、中国兵は、こ
 のやってはいけない、一番否定されている「軍人の卑劣
 行為」を南京で行った。
  一般市民に類がおよぶと分かっていても、中国兵は、
 この卑怯な事をした。
  やむなく、一般市民に混じる中国兵と戦う羽目に陥(
 おちい)った。
  蒋介石の司令部は、自分たちの兵士を置いて、先に逃
 げるという、これも一番やってはいけない最悪な卑劣な
 事をして逃げた。
  アメリカが、この司令部を一般の兵士より先に連れ出
 すというハレンチな事をやって、日中戦争に参戦した。
.
1996年12月、日本版NSCへの一歩・・
  日本に、いざという事が起きた時・・国民の命を守る
 ために・・
  緊急事態が起きた時、迅速な対応が図れるため、内閣
 総理大臣の判断によって、自衛隊の部隊が迅速対処でき
 るようになった。
  安保会議、及び、閣議で決定された「我が国の領海、
 及び、内水で潜没航行する外国潜水艦への対処について」
 により、自衛隊の部隊が、わが国の領海、及び、内水で
 潜没航行する潜水艦に対して浮上・掲旗要求、退去要求
 を行うにあたり、あらかじめ閣議において、その基本方
 針と手順を決定しておいた。
  これにより個々の事案発生時に、改めて個別の閣議決
 定を経ることなく、内閣総理大臣の判断により、自衛隊
 の部隊が迅速に対処し得るようになった。
  「日本版NSC」を機能させるために、こうした手法
 を検討する余地があるかもしれない・・と、政府は説明
 している。
  朝日新聞など、日本を何かと正視していないメディア
 のアンケート調査は、「まゆつば」である。
  アンケート調査なのだから正しいのだというが、これ
 が、「データで嘘を言う方法」という本もある如く、嘘
 が作られている。
  メディアは言う、「国民に調査をすると、第一位に経
 済対策をしてくれ」と答えている。
  「北朝鮮などの脅威に対する対策への要望は、その後
 だ」となっている・・と。
  これは、「今日そして明日、まず、女房・子供が、飯
 を食わせられるようにしてくれ」という国民の声であっ
 て、差し迫っている飢餓を回避したいという要望なので
 ある。
  そして、結局、広島・長崎の方々の様に、「火だるま」
 になることから、愛する人々を救いたいという要望の先
 に来ている結果なのである。
  アンケートの取り方に「仕掛けがある」のである。
  一つを選べとなっている。
  現政権への最重要課題となっている。
  ならば、「まず、飢えないようにしてくれ」が第一位
 の声になる・・
  メディアは、この様な仕方で嘘をついている。
  「実験計画法」という学問があるが、実験結果におい
 ても、非常に微妙な差によって結果が大きく違って来る
 ことは常識なのである。
  実験をした人の違いによっても、同じ実験をしている
 のに結果が違ってしまうとか・・、
  実験した日時の違いによっても結果が違ってしまうと
 か・・
  実験なんかは、同じことをすれば、同じ結果になるか
 と言えば、「そう簡単にはならない」のである。
  ましてや、色々な想念が頭を巡っている人間に対する
 アンケートにおいて、その設問の仕方などで大きく変わ
 って来るのは当たり前なのである。
  アンケートを受けた時、アンケートを取るメディアが
 自分たちの考えている理想としている結果に導こうとし
 ている質問側のアンケートの取り方に遭遇した事がある・・、
  この様なことで、国の大切な問題である国防に関する
 ことが・・、
  戦後・70年以上すぎているのに、疎かにされて来て・・
  そして、このアンケートの様な日本の今がある。
  200発~300発の北朝鮮のミサイルが、日本に向かった
 ら・・それを防ぐことは不可能という現在の日本がある
 のにである。
  それでも、国防論を後回しにするのか・・
  今日・明日の食べる事が大切なのか・・
1996年(平成8年)、皇后宮(きさいのみや)陛下御歌
  海陸(うみくが)のいづへを知らず姿なき
  あまたの御霊(みたま)国護(まも)るらむ
  (歌意)
  この日本の國の海も山河も平野も總べて國の爲に生命
 を捧げた數多の英霊の御魂によって護られてゐます。
  皇后陛下のお言葉
  慰霊の旅では、戦争の被害の最も大きかった四地域を
 訪れましたが、この訪問に重ね、戦争で亡くなった全て
 の人々の鎮魂を祈りました。
  戦争により、非命に倒れた人々、遺族として長い悲し
 みをよぎなくされた人々、更に戦争という状況の中で、
 運命をたがえた多くの人々の上を思い、平和への思いを
 新たにいたしました。
.
2005年12月9日、「男女共同参画基本計画改定にあたっての
 要望書」
  自由民主党が、過激な性教育・ジェンダーフリー教育
 がなされている状況を調査するための「実態調査プロジ
 ェクトチーム」を結成した。
  そして、内閣府に於いて検討されている首記の件につ
 いて、過激な性教育・ジェンダーフリー教育実態調査プ
 ロヘクトチームは、2005年3月に発足以来、10ヶ月間にわ
 たり、実態調査したりして、教育の正常化を目指すため
 論議を重ねて来た。
  そのための全国的な実態調査も行い、寄せられた3500
 もの実例を調査・分析した。
  その結果、「ジェンダーフリー」という名のもと、過
 激な性教育が行われ、また、「家族の否定教育」が行な
 われていることが分かった。
  同時に、教育現場でこの様な暴挙が堂々と行われてい
 る根拠が、男女共同参画基本計画を恣意的(しいてき、
 論理的な必然性なく、思うまま)に解釈し、組合組織の
 活動方針としていることなども現場での調査で確認され
 た。
  文献にも、以下のような記述がある・・、
  日教組は、「ジェンダー・フリー」を推進した。
  ジェンダー・フリーには、ひな祭りなどの伝統文化を
 否定する。
  「球技を男女一緒させる」という話もある。
  その場合、女性を保護する意味もあって「(一緒に)
 球技をさせると、男子と女子の差がある」と質問しただ
 けで、「それは男女差なのか?」という言葉が返って来
 る。
  偏頗(へんぱ、片寄って不公平なこと)な性差イデオ
 ロギーで押し切る日教組である。
  女性の良さの話をしようと「女らしさ」と、男という
 「男らしさ」を話に出したら、それを頭から否定する。
  これでは、逆に、日教組は、「女性を虐げている」こ
 とになる。
  日教組は、「中性」が良いという。
  「男性」と「女性」を否定している。
  世に存在している「男性も駄目」「女性も駄目」と主
 張している。
  こんな立場で、教育ができる訳がない。
  こんな変な考え方から発展して、「専業主婦」という
 言葉すら使うなという。
  そして、この教育を子供たちにする。
  日教組は、「性に捉われないのが良い」と悦に入って
 (えつにいる、満足して喜ぶ)いる。
  女性の良さを美化し、逆に、男性の良さは美化できな
 い日教組の組織。
  古い封建的観念を否定的に持っている、また、まった
 くの封建的観念に浸っているという日教組。
  こんな組織で明日ある教育ができる訳が無い。
  また、日教組は言う、「男らしさ、女らしさを否定し
 ない、しかし、それにとらわれないものを大切にする」
 と。
  しかし、これは、詭弁(きべん、道理に合わない、言
 いくるめの議論、ごまかしの議論)なのだ。
  女らしさ、男らしさを否定しないと言いながら、「女
 らしさ」という事を否定している。
  「とらわれない」ために、女らしさを言い、男らしさ
 も言うのが正解なのが分からない。
  その様な封建的観念の論者となっている。
  広く封建的観念から脱却できない日教組となっている。
  また、文献に、下記の様な記述もある・・、
  日教組に感化された教師たちが、性教育という錦御旗
 を立てて・・教室で何をしでかしていたのかは、子供た
 ちにした、その詳細は分からないが・・その教師の話が、
 何であったかを、家に帰って来た子供の行動で分かる。
  その母親が仰天したのは、何も知らなかった子が、妹
 の上にまたがって腰を振っているのを見て、母親は、卒
 倒しかけたという。
  教師が、こんなことまで実演した。
  日教組に感化された教師が、教室でやったことは、い
 たずらに興味を持たせ、焚き付け行為をしたということ
 だった。
.
2011年3月11日、東日本大震災(M9.0)、日本海溝で起き
 た巨大地震と津波・・
  宮城県東南東沖などの一帯を震源地とする未曾有の大
 震災。
  1000年に1度と言われた規模。
  死者は、2万名を越える残念な災害が起きた。
  震災直後、混乱の中、決してパニックになることなく、
  当然のごとく暴動や掠奪も起きず、整然とした行動が
 とられ、ボランティアの方たちと、その後の行動をした。
  世界中は、震災報道もしたが、日本人のその後のこの
 様子も、称賛の中で報道した。
  日本の民度の高さを称賛した。
  公共心や道徳心に驚嘆した。
  その根を支える性善説の宗教心に驚嘆した。
  長く日本人の心にあったものは失われていなかった。
  少子高齢化とか、長いデフレなどで、社会は縮小して
 いると言われ、マイナス・マインドが洗脳され、マイン
 ド・コントロールされているが、何ら日本人の特質は、
 失われていず、
  逆に、その特質は磨きがかかり、高い資質になってい
 ると言える。
  何しろ前向きに性善説的に物事をとらえ、日本の長い
 歴史で蓄積した潜在能力を引き出して行くことが、肝心
 なのである。
.
2017年11月27日、日英が地位協定の協議へ
  (読売新聞、2017年11月27日)に表記の表題の記事が
 載った。
  これは、日本とイギリスの両政府が、自衛隊とイギリ
 ス軍が、互いの国で円滑に活動できるようにするため、
 法的な立場を明確にする「協定を締結しよう」との方針
 を決めた。
  今後、協議を重ねて行くが、協定の名は「訪問部隊地
 位協定(VFA)」。
  昨年・2016年、イギリス空軍が来日し、初の2国間訓練
 が実現した。
  来年・2018年には、イギリス海軍の最新空母を日本近
 海に展開して、海上自衛隊と訓練を行うほかに・・、
  陸上自衛隊とイギリス陸軍との共同訓練も実施する方
 向で検討中。
  防衛省幹部は、「日英間の信頼関係をアピールし、ア
 ジア太平洋の抑止力につなげる狙いもある」と。
  日英は、12月の2プラス2で、新型空対空ミサイルの試
 作についても合意する。
  試作品は、2023年度頃の完成を目指す方針。
  イギリスなど6カ国が共同開発した中距離空対空ミサイ
 ル「ミーティア」に、日本製の高性能センサーを組み合
 わせて命中精度を向上させるという内容。
  装備品の共同開発が実現すれば、同盟国のアメリカ以
 外では初めてとなる。
  日英の安保協力は、すでに、安倍内閣の下で推進され
 て来ていて・・、
  2013年7月に、装備品の共同開発を進める協定を結んで
 いる。
  そして、2014年度から、ミサイル技術の共同研究も始
 めている。
  また、今年・2017年1月には、自衛隊とイギリス軍が、
 弾薬などを融通し合える物品役務相互提供協定(ACS
 A)を締結している。
  また、今年・2017年8月~9月には、メイ英首相が来日
 して国家安全保障会議(NSC)に出席し、「日英の安
 保協力をさらなる高みに引き上げる」ことを確認してい
 る。
  (参考)訪問部隊地位協定:共同訓練や災害救援など
     で一時的に国内で活動する外国軍の法的地位を
     定める協定。
      長期駐留を前提にした日米地位協定と異なり、
     事件・事故の裁判権などは含まないケースもあ
     る。
      日本では2014年に協議入りしたオーストラリ
     アとのVFAが近く合意に達する見通し。
.
2017年、今、ドイツは、アメリカとの関係が、安全保障上、
 国の命運を握るという死活的だった時代は、今・現代、
 去っている。
  ドイツは、グローバル化が正しいのだとの風潮に煽(
 あお)られ、その流れの中で移民も受け入れて来た。
  15年間続けた移民も、100万人を越えた。
  移民は、「ドイツに同化するより」ドイツの文化を破
 壊し、過去のものとした。
  ある地域からは、すっかりドイツ文化が消えた。
  その移民は、難民として人道的面もあったが、あまり
 の流入数、その多さ・・その異質の文化や習慣も、その
 数と共に一緒に入って来て、過去からの「いつものドイ
 ツの日常」は消え去った。
  今、また、その「移民の家族」を呼び寄せる問題が起
 きている。
  移民・難民は、ドイツの生活レベルの高さから、その
 ほとんどがドイツに定住している。
  そして、その地域と周辺ドイツとの格差問題も生まれ
 ている。
  (新しくドイツ人となった元移民・難民の人々と、ド
 イツに居た人々との格差問題)
  グローバル化が正しいとしたアメリカは、主に、経済
 的理由から、アメリカのエスタブリッシュのグローバル
 企業の論理から「その正しさが唱(とな)えられた」が、
  建国からの移民の流入で、「人種のるつぼ」とアメリ
 カは化したが、その人種間の異質文化を乗り越えること
 が出来ずに、人種差別行為に明け暮れている。
  異質な人々を、中世のヨーロッパで、特に、ユダヤの
 方々がその対象とされ、「ゲットー」という特定地域を
 決められて押し込められた・・
  この如く、今・現代において、アメリカで、黒人の方々
 をゲットーに押し込めている(ニューヨークの黒人街な
 ど)
  結局、グローバル主義の行き先に、いつの時代になっ
 ても乗り越えられない人種問題が横たわっている。
  人間の本質を尊重する、その個性を尊重する、その違
 いを尊重する・・が正しいが・・それを乗り越えること
 が出来ないのが実態となっている。
  「グローバルだ」と無理に混ぜ、軋轢(あつれき)を
 乗り越えろと命じるが、結局、非人道的行為を引き起こ
 す事態・始末になっている。
.
2017年12月1日、ロシアが、千島に対艦ミサイル
  標記の表題で(読売新聞、2017年12月1日)が報じる・・、
  また、その表題は、「配備計画、北方領射程、米に対
 抗か」とある。
  ・・以下に、それを参考に記すと・・
  ロシア紙イズベスチヤ(29日付)は、ロシア軍が千島
 列島マトゥア島(日本名:松輪島)とパラムシル島(日
 本名:幌筵島・ほろむしるとう)に基地を建設し、地対
 艦ミサイルを配備する計画を進めていると報じた。
  アジア太平洋地域で活発に展開するアメリカ軍に対抗
 する狙いとみられる。
  ロシア軍は来年(2018年)、マトゥア島とパラムシル
 島で、最新型地対艦ミサイル「バル」(最大射程120キロ)
 と「バスチオン」(同600キロ)の配備に取り掛かると
 いう。
  専門家が派遣され、基地建設のための調査やミサイル
 の配備場所の選定に入っているという。
  ロシア軍は昨年(2016年)11月に国後島に「バル」を、
 択捉島に「バスチオン」を配備し、両島に計3500人の兵
 力を駐留させている。マトゥア島に地対艦ミサイルが配
 備されれば、カムチャッカ半島から北方領土の択捉島ま
 で射程に入るといい、同紙は「オホーツク海を押さえ、
 沿海地方とサハリン州を敵の攻撃から守ることができる」
 としている。
  マトゥア島とパラムシル島は第二次世界大戦中、日本
 軍が対米防衛の拠点として重視し、滑走路や港湾を整備
 し兵力を配置していた。
  軍事専門家のアレクサンドル・モズガボイ氏は同紙に
 「(当時の)日本人は両島の戦略的な重要性を理解して
 いた。
  現在の国際情勢を考慮すれば、ロシアの軍事力の配備
 は理に適っている」と指摘した。・・以上・・
  アメリカのルーズベルト大統領が、第二次世界大戦(
 大東亜戦争)の時、ソ連のスターリンをそそのかして、
 日本を攻める武器・弾薬までも、ソ連にまで運んで、日
 本と戦えと言った・・
  そしてまた、日本の領土を取っても、アメリカは何も
 言わないという「うまい話」でそそのかして、日本を攻
 めさせ(国際法違反で成立しない戦いまでして)日本か
 ら奪った地に、今度は、日本やアメリカを攻撃するミサ
 イルが配備された・・と、報じたニュースだった。
  こんなことを、アメリカのルーズベルト大統領がして
 いなければ、この地に、日米安保のミサイルが配備でき
 ていたであろう。
  この様な事から、北方領土・千島列島・南樺太は、日
 本に返還がなされる可能性は完全に薄い(ロシアの国際
 法違反のままの状態となる)
  また、トランプ大統領の行動が、この様な形で、事態
 が展開して来て・・、一(いち)・・北朝鮮だけではな
 く、ロシアが敏感に反応し・・ますます、高性能な武器
 に囲まれた地となった。。
  事態はますます、日本が孤立する状態となった。
  丸腰状態の日本が居る状態となっている・・防衛に責
 任を持て!
  (戦争は嫌だ・・戦争反対だと叫んでいるだけで・・
 女性や子供たちを・・家族たちが守れるなら・・戦争が
 起きないのなら・・苦労はいらない)
  その世論を繰っている・・恐怖心を起こさせているだ
 けのNHKの罪は重い!!
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

2017年12月1日金曜日

(増補版)567E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年11月~1892年11月)

題:(増補版)567E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年11月~1892年11月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1892年11月12日、官吏の勤務時間を、夏期を除き、退庁時
 間を1時間延長した。
  これによって、拘束8時間制となった(閣令第6号) (
 11月22日説あり)
  因みに、江戸時代の幕藩体制の頃の武士の執務時間は
 6時間だった。
1892年11月14日、高等官官等俸給令公布(勅令第96号)
  この法令によって、親任官以外の高等官が9等分され、
 親任官・一等官・二等官が勅任官、三等官から九等官まで
 が奏任官と定められた。
  (参考)官庁に勤める者を、官吏と管吏でない者(嘱
     託・雇員など)に分け、
      官吏は、高等官と判任官にわけた。
      また、高等官は、親任官と勅任官と奏任官に
     分けられた。
      親任官は、天皇陛下の親任式を経て任命され、
      勅任官は、高等官一等と二等を言い、
      奏任官は、高等官三等~九等を呼んだ。
1892年11月14日 山田顕義が死去した。
  山田顕義(やまだあきよし、1844年~1892年)陸軍軍
 人・政治家。
  1844年10月9日、山口県(長州長門・萩藩士)に生まれ
 た・・藩の海軍頭を務めた山田顕行の長男。
  吉田松陰の松下村塾に学び、京都を中心に尊王攘夷に
 活躍し、蛤御門の変に敗れ、品川弥次郎らと御楯隊(み
 たてたい)を結成、四国連合艦隊とも戦った。さらに、
 元治(げんじ)の内戦にも活躍。
  1864年8月20日(20歳)の禁門の変に参加した。
  1864年(20歳)の江戸幕府の長州征討では高杉晋作の
 下で「丙寅丸」の砲隊長として幕府艦を撃破した。
  1868年(24歳)の戊辰戦争では東征大総督参謀として、
 越後、東北、箱館・五稜郭と奮戦し功をたてた。
  明治維新後となって・・
  1869年(25歳)兵部省に出仕し、兵部大輔・大村益次
 郎の下で兵部大丞(ひょうぶだいじょう)を務めた。
  大村の死後は、遺志を継いで兵制の確立に力を注いだ。
  1871年(27歳)陸軍少将、そして・・、
  1871年12月23日(27歳)岩倉遣外使節に理事官として
 随行して随行し、フランスをはじめ、欧米の兵制を視察
 した。
  1873年(29歳)帰国して東京鎮台司令長官となった。
 また、清国特命全権公使を拝命した。
  1874年(30歳)佐賀の乱が勃発し、司法大輔(しほう
 たいふ)を兼任して、その鎮圧に当った。
  1874年(30歳)台湾出兵の閣議決定に反対を唱えた。
  1877年(33歳)西南戦争の際は、別働の征討第2旅団司
 令長官として活躍した。
  1878年(34歳)陸軍中将(西南戦争の功による)
  1878年(34歳)刑法草案審査委員となり、法典編纂事
 業に寄与する一方、元老院技官を兼任・・そして・・
  1879年(35歳)参議に就任、内務卿、工部卿を兼任し
 て歴任。
  1882年(38歳)皇典講究所の設置に関与する。
  1883年(39歳)司法卿になる。
  1884年(40歳)伯爵を授けられる。
  1885年(41歳)内閣制度創設以後も、第一次伊藤博文
 内閣の司法相に入閣し務めた。
  1887年(43歳)この年から法律取調委員長を務め「法
 典伯」の異名をとるほどの熱意で、刑法はじめ法典編纂
 に尽力し、法典の整備をした。
  1889年(45歳)大隈重信外相の条約改正案に「大審院
 に外国人判事を任用する」という譲歩的事項が含まれて
 いたことが「憲法違反」として世論の攻撃にさらされる
 と、帰化法の制定を閣議に提案し、外国人判事の採用を
 可能にしようとした。
  1889年(45歳)皇典講究所の所長に就任し、また、日
 本法律学校(のちの日本大学)、国学院を創立した。
  1890年(46歳)民法はフランス人ボアソナード、商法
 はドイツ人レースラーの原案起草を得て、共にこの年の
 公布にこぎつけた。
  しかし、フランスに範をとる民法が、日本の国情に合
 わないという法典論争の議論が起こった。
  山田は早期施行を主張したが、結局、両法ともに施行
 されなかった。
  1891年(47歳)大津事件では、担当大臣として大逆罪
 適用を主張した。
  1891年5月(47歳)大津事件が無期徒刑の判決直後に辞
 任、病気のためだった。
  第一次伊藤内閣の司法相、黒田・第一次山県・第二次
 松方の各内閣でも司法相を歴任(1891年・47歳まで)
  1892年(48歳)枢密顧問官となったが・・
  1892年11月11日、死去、49歳。
.
  (今日の言葉)
.
  題:アメリカ軍は、日本の本土防衛のために駐留しているのではない・・
    アレクシス・ジョンソン国務次官から、ニクソン大統領に提出されたメモ
.
1676年、ナサニエル・ベイコンの反乱。
  アメリカ・バージニアで起き、黒人の方々の抵抗・反
 乱として初めてのものだった。
  弾圧による不満の極致にあった黒人奴隷の方々が立ち
 上がった。
  これに不満を抱いていた開拓者も加わった。
  この年に、メリーランドでも反乱が起きた。
  1739年9月9日、サウスカロライナでカトーの黒人奴隷
   の反抗。
   これは最大の蜂起と言われている。
   捕まった奴隷の方々は、そのほとんどが処刑された。
   生き残った少数は、西インド諸島の市場に売却され
   た。
   サウスカロライナ州議会は法律を作って、黒人奴隷
   の方々の移動を制限し、また、教育も制限し、組合
   結成も制限した。
  1770年3月5日、自由黒人クリスバス・アタックスが、
   「ボストンの虐殺」で軍の銃弾に倒れた。
   イギリスの締め付けが厳しい事で反抗した。
  1773年1月6日、「フェリックス」、解放を求める奴隷
   の請願書
  1773年4月20日、ピーター・ベステスと他の奴隷、解放
   を求める請願書 
  1773年6月、マサチューセッツのハッチンソン総督・オ
   リヴァー副総督の本国あて私信が暴露される。
   植民地人の自由を制限することを主張していた。
   マサチューセッツの黒人が、議会に自由を求める請
   願書を提出。
  1775年、イギリス軍に参加する奴隷には自由を与える
   という、破廉恥な方法で兵士を集める「バージニア
   総督・ダンモア卿の布告」
  1776年、独立宣言が行われる年になって、やっと、ア
   メリカ軍が自由黒人の軍隊参加を承認した。
   後追いの処置となっている。
   黒人嫌いのリンカーン大統領は、黒人の軍隊参加を
   渋っていた。
   黒人の方々は、何度、頼んでも許可しないリンカー
   ンを軽蔑し、すでに、軍隊へ飛び込んで参戦してい
   た。
.
1789年、アメリカ合衆国憲法が制定された。
  「3/5条項」や奴隷貿易存続などを承認したことにより、
 このアメリカ憲法が奴隷制度を容認する状態となる。
.
1790年、フランス領ハイチで奴隷革命が起きた。
  そして、1803年に黒人共和国が成立した。
  アメリカの黒人奴隷の方々は、これに大いに勇気づけ
 られた。
.
1793年、アメリカで逃亡奴隷取締法が成立した。
  この年、イーライ・ホイットニーが、綿繰機を発明し
 た。
  これが綿花栽培の発展の契機となる。
  そして、この綿畑に黒人奴隷の方々が、大勢、連れて
 来られる。
.
1794年、アメリカ白人のキリスト教教会が、黒人差別をす
 ることに対して、黒人のリチャード・アレンが、最初の
 黒人の教会をフィラデルフィアに設立した。
  この年には、奴隷制反対協会の全国大会が、フィラデ
 ルフィアで開催されている。
.
1896年、アメリカというキリスト教国が、『黒人差別をし
 ても良い』という判決を出した。
  まったく破廉恥な軽蔑すべき判決で・・、
  施設などが平等であれば、黒人を白人から隔離しても
 その行為は憲法違反にはならない・・という連邦最高裁
 判所の判決で・・、
  アメリカの下級裁判所ではなく、最高裁判所が出した
 という卑劣な判断だった。
  こんなにはっきりした明確な人種差別行為を、アメリ
 カ特有な屁理屈で「人種差別ではない」として人種差別
 を行なった。
  この判決が、アメリカの基本的考え方として適用され、
 どこでも、アメリカ中で、堂々と、黒人の方々を差別す
 るという行為が行われた。
  アメリカという国の怖い所は、宗教的な偏見で、明ら
 かに筋が通っていない事でも、アメリカ特有の屁理屈か
 ら「不正義」を「正義」としてしまう。
  これは、黒人の方々のみならず「非白人」の「有色人
 種全般」に適用された。
  このアメリカという国の「人種関係全般を支える法的
 原理」になった。
  これから「バス」で、「学校」で、「教会」で、あら
 ゆるところで人種差別が堂々とアメリカ中で行われる。
.
1900年6月20日、義和団事件(~1901年9月7日)
  この事件で、中国は、列強各国に賠償金を支払う事に
 された。
  アメリカは、この金を、キリスト教関係へ流した。
  そして、中国でのキリスト教の布教活動を活発化させ
 た。
  キリスト教系の学校が、多数、創設された。
  また、多数のキリスト教宣教師が中国へ渡った。
  アメリカでの募金活動も広がった。
  そして、キリスト教系の人と莫大な金が中国へ流れた。
  (しかし、結果的にキリスト教信徒は増えなかった)
  1927年、一地方軍閥にすぎない蒋介石が、北京に政府
 樹立の宣言をするや、アメリカは承認して中央政府とし
 た。
  キリスト教宣教師は蒋介石と連合した。
  この動きの中にアメリカ雑誌の「タイム(TIME)」
 「ライフ(LIFE)」創立者のヘンリー・ルースが居
 た。
  しかし、信徒が増えないという状況で、募金打ち切り
 と宣教師の引き上げが検討されるようになった。
  そこで、キリスト教宣教師たちが使った手が、日本を
 貶(おとし)めて、アメリカにおいて、再び、中国に関
 心を向けさせるという手だった。
  キリスト教牧師のマギーは、南京市民を撮影して、ア
 メリカの政府関係者や、新聞記者に見せて、反日を煽っ
 た・・中国への同情と関心を喚起した。
  この例の様なキリスト教関係者の反日行動があちこち
 でなされた。
  上海のボイントン宣教師は、新聞記者や外交官へ、テ
 ィンパーリィ記者(オーストラリア人記者、実は、中国
 国民党宣伝機関のイギリス支部責任者)が金で依頼され
 て執筆した南京事件などを吹聴した。
  この様な色々な行動の中で、アメリカにおける反日感
 情が作り出されて行った。
  1937年に至って、ルーズベルト大統領の「日本を疫病
 患者に見立てた卑劣な批難演説」となる。
  そして、日本が戦争に負けて、東京裁判に於いて、キ
 リスト教聖職者のマギーは、証言で、見てもいない日本
 のありもしない卑劣な行為を言い続けた。
  反対尋問に於いて、マギーは、見ても居ないことを、
 延々と色々、言っていることが一つ一つ嘘だと暴露され
 た。
  特に、キリスト教宣教師たちの語ったその言葉の嘘・
 悪口・雑言はその極致にある(エスピー報告)
  当時の日本側の馬淵逸雄中佐(上海派遣軍報道部)も
 以下の様に指摘している・・
  「それ(南京の外人記者)にもまして悪影響の種をま
 いたのは、アメリカ宣教師たちの悪質デマ通信であった。
  あたかも入城した日本軍が鬼畜の行動をしたかのごと
 く通信をし、世界の対日感情を悪化させた・・(中略)
  首都・南京の占領も、この二つの事件(パネー号事件、
 および、レディバード号事件)とキリスト教宣教師のデ
 マ宣伝とによって、その対外的価値を半減した」・・と。
  今でも、キリスト教は日本を貶めている。
  そして、日本のシンボルである「国旗」と「国歌」に
 対しての貶め行為は酷いものである。
  この貶め行為が、日本に定着して来ると「表から消え
 る」というキリスト教である。
  キリスト教に偏するNHKは、盛んにその肩代わりを
 している。
  そして、そのNHKの息のかかる「放送大学」も、N
 HKにゴマを摺っているのか、盛んに日本を貶めている、
 また、キリスト教の「巧妙なる伝道行為」をしている。
.
1901年、官営の八幡製鉄所が開業して、鉄鋼の国産が開始
 された。
  それに伴い、造船業も発展を遂げた。
  日露戦争の後には1万トン以上の造船も可能となった。
  『日本の産業革命』と言われる時代が始まった。
  日本のこの目ざましい近代産業の発展は、江戸時代以
 来の民間の高い教育水準がそこにはあった。
  また、国民の勤勉さがあった。
  四民平等の施策によって、国民に自分の努力と工夫に
 よって人生が切り開かれる社会体制があり・・、
  また、渋沢栄一(埼玉県深谷の豪農の生まれ)の様な
 有能な民間の実業家が、多数、登場した。
  また、日本の施策が優秀で、日本の発展のための的確
 な施策がなされて行った。
  重点的になされた「交通網の拡充」も最適切だった。
  産業の発展を支えた。
  1889年には、東海道線の新橋~神戸間が全線開通した。
  そして、全国の鉄道網が拡大して行った。
  また、馬車などの通行が可能なように、道路も整備さ
 れて行った。
  地方の都市や農村にも鉄道が通って、それまでの街道
 筋に変わって、駅周辺が新たに発展した。
  農村も様々な副業が試みられ、生活水準も向上した。
  米食が普及し、人口も着実に増加して行った。
  子女を製糸工場に出稼ぎに出したり、都市に移住して
 工場の労働者になる人々も、多数、出る状況にあった。
.
1905年9月5日、日露戦争が、日本勝利で終わった。
  日露戦争の後、ロシアは、東アジアでの動きを止めた。
  南下政策もあきらめた。
  そして、活動拠点を、再び、ヨーロッパへ移し、進出
 を模索した。
  ヨーロッパの情勢は、そのため、緊迫するものとなっ
 た。
  ドイツは、すでに、1882年に、オーストリアとイタリ
 アとで三国同盟を結んでいた。
  そして、海軍力を強め、海外へ進出をした。
  これを恐れたイギリスは、ロシアとフランスに接近し
 た。
  ロシアは、1891年に、フランスと露仏同盟を結び、ま
 た、1907年には、イギリスと英露協商を結んだ。
  また、1904年には、英仏協商が結ばれている。
  そこで、この三国(イギリス、ロシア、フランス)は、
 1907年に、三国協商を結びドイツを包囲し、ドイツなど
 の三国同盟と対峙(たいじ、にらみ合って対立すること)
 した。
  これによってヨーロッパは、緊張が高まって行った。
  この時、日本は、1902年に、日英同盟を結び、1905年
 の日露戦争の戦勝の後、1907年には、ロシアと日露協約
 を、また、フランスと日仏協約を結んだ。
  日本は、三国協商の三国とのつながりを強めた。
  この頃、バルカン半島に緊張が高まった。
  民族の独立を目指す運動が高まった。
  この地域に利害を持つイギリスをはじめとする三国協
 商の列強諸国と、ドイツをはじめとする三国同盟の列強
 諸国は、この独立運動を利用して勢力を伸ばそうとした。
  そのため、バルカン半島は、「ヨーロッパの火薬庫」
 と呼ばれた。
  一触即発の緊張状態となり、この状態が続いた。
  これは、東アジアの中国の軍閥が割拠する頃の状況と
 同じ様な緊張状態だった。
  バルカン半島で、ヨーロッパ列強各国がうごめくこと
 が良くて、「満州ではダメ」なんて言えない状態だった。
  こんなことをしでかして来たヨーロッパ各国が、満州
 で日本をとやかく言うような事が出来るのか・・?
  そして、結局、1914年、オーストラリア皇太子夫妻が、
 ボスニアのサラエボで、親ロシアのセルビア青年に殺さ
 れると(サラエボ事件)、これを切っ掛けとして第一次
 世界大戦を起こしてしまった。
  他人(ひと)の事をとやかく言えない状況をやってい
 た。
.
1905年、日清戦争後、中国から、日本の近代化に学ぼうと
 して、多数の留学生が日本に来て・・そして・・
  1905年、孫文は、東京で留学生を中心に中国同盟会を
 結成した。
  そして、三民主義を掲げて、清朝を打倒する運動を開
 始した。
  1911年、中国では、民衆の反政府運動と軍の反乱が結
 び付いて、多くの省が清朝からの独立を宣言して、辛亥
 革命(しんがいかくめい)が起きた。
  1911年、そして、この年、南京に革命派の代表が集ま
 って孫文を臨時大総統に選びんだ。
  1912年の翌年に、中華民国の成立を宣言した。
  首都は、南京に置かれた。
  清朝政府の実力者だった袁世凱(えんせいがい)は、
 この革命派と結び、皇帝を退位させて清朝を滅ぼした。
  そして、その引き換えに孫文から大総統の地位を譲り
 受けた。
  しかし、袁世凱は、大総統に就任してから、自己の権
 力強化を図った。
  袁世凱は革命派を弾圧し始めた。
  その後、中国は、統一性を失って行った。
  権力を持つ地方政権である大小の軍閥が発生すること
 によって、各地方がバラバラに支配されるようになった。
  この一地方軍閥が蒋介石。
.
1917年2月23日、2月革命(~1917年2月27日)
  ロシアの崩壊はこの日のデモが切っ掛けだった。
  日本と衝突した日露戦争の際の1905年の第1次ロシア
 革命、
  第一次世界大戦中の第2次ロシア革命は、いずれも民
 衆の暴動から始まった。
  その中から1917年に世界最初の社会主義政権ソヴィエ
 ト=ロシアが誕生し、最後の皇帝ニコライ2世は処刑さ
 れ、ロマノフ朝は終わりを告げた。
  1917年2月23日、ペトログラードで国際婦人デーにあわ
 せてヴィボルグ地区の女性労働者がストライキに入り、
 デモを行った。
  食糧不足への不満を背景とした「パンをよこせ」とい
 う要求が中心となっていた。
  他の労働者もこのデモに呼応し、数日のうちにデモと
 ストは全市に広がった。
  要求も「戦争反対」や「専制打倒」へと拡大した。
  ロシアは、ドイツとの戦争が長引いて、庶民は食糧難
 にあえいでいた。
  そして、都市の市民に暴動がおこり、これに兵士が加
 わった。
  これを契機としてロマノフ王朝が倒れた。
  国外に逃亡して革命の機会を待って居たレーニンは、
 直ちに、この機会を利用した。
  レーニン派は、武装蜂起し、兵士と労働者を中心にし
 て、代表者会議(ソビエト)を拠点とする政府を作った。
  そして、他の党派を武力で削除し、共産党の一党独裁
 体制を築いた。
  ソビエト政府は、ドイツとの戦争をやめ、革命に反対
 する国内の勢力との内戦に没頭した。
  ロマノフ王朝の皇帝一族を処刑し、また、共産党が敵
 とみなす資本家、キリスト教聖職者、地主、貴族、知識
 人らの多数を処刑した(ロシア革命)。
.
1917年12月、日本の軍艦の艦隊が編成されてヨーロッパへ
 派遣された。
  1902年に日英同盟が結ばれ、また、1907年には日仏協
 約や日露協約を結んだ日本は、第一次世界大戦において、
 この三国協商の側について、ドイツなどの三国同盟側と
 戦った。
  ドイツの潜水艦が、イギリス・フランスなどの協商側
 の商船を警告もなく無制限に攻撃する作戦をしている事
 から、日本は軍艦を地中海へ派遣して(イギリスの要請)、
 マルタ島を基地として、三国協商の輸送船団を、ドイツ
 の潜水艦から守った。
  また、ドイツの租借地であった中国の山東半島の青島
 (チンタオ)を攻撃した(この近くに有名な租借地・威
 海衛はイギリスの租借地がある)。
  また、日本は、太平洋の赤道以北のドイツ領の島々を
 攻撃した(赤道以南はオーストラリアおよびニュージラ
 ンドが統治)。
  また、遼東半島の関東州などのドイツ租借地を攻撃し
 た(因みに、ドイツやイギリスは、中国のあちこちに広
 大な租借地を持っている)
.
1918年、シヘリア出兵
  アメリカやヨーロッパ諸国は、ソビエト政府の共産主
 義に強い警戒心を抱いていた。
  長年、シベリアを勢力圏におさめ、南下するロシア及
 びソ連の脅威を、日本も受けていた。
  このアメリカ・ヨーロッパ諸国・日本は、ロシア領内
 で孤立したチェコスロバキア部隊の救出と、革命阻止と、
 シベリアへの影響力を持つことを目的に、共同して出兵
 した。
.
1921年、第二回全黒人地位改善協会大会が開かれた。
  アメリカは、とことん黒人の方々を虐(しいた)げる
 国だった・・軽蔑すべき国だった。
  アメリカの自国だけでなく西インド諸島やアフリカの
 新大陸にまでその魔の爪先を伸ばして・・虐げた。
  黒人の方々は、リンチや人種的抑圧、その他さまざま
 な差別を激しく非難した。
  そして、抵抗行動として「税金の不払い」「黒人差別
 法の無視」「暴力には『手段を選ばぬ』自己防衛」をと
 った。
  1921年に、ニューヨークで開かれた第二回全黒人地位
 改善協会大会は、アメリカの全地域から集まっただけで
 なく、西インド諸島や南アメリカ、アフリカからも多く
 の黒人の方々が集まった。
  この黒人指導者のガーウェイは、「アフリカ帝国」の
 樹立を宣言し、自らその臨時大統領に就任した。
  黒、赤、緑の三色の国旗も制定した。
  このガーウェイの行動の重要な所は、この後に、アメ
 リカ全土を席巻する「公民権獲得運動」への発展して行
 くところだった。
.
1923年3月3日、タイム(TIME、雑誌)が、ヘンリー・
 ルースによって創刊された。
  アメリカにおける初の週刊ニュース雑誌だった。
  2009年の発行部数は340万部。
  また、ヘンリー・ルースは、1936年11月23日、アメリ
 カで写真を中心としたグラフ雑誌の「ライフ(LIFE)」
 を創刊している。
  この雑誌は、1967年~1970年頃に850万部の最盛期の
 最高発行部数を記録した(1972年12月29日の1862号で休
 刊した・・1978年に復刊したが、2000年に再び休刊)
  このヘンリー・ルースは、中国の山東省に生まれた。
  父は、北京で布教活動に従事していた医師だった。
  そして、この父親は、中国で、燕京大学(えんきょう
 だいがく)をはじめとするミッション系大学を設立に貢
 献した。
  (因みに、この燕京大学は、1952年、中国政府によっ
 て解体されている)
  そして、このヘンリー・ルースは成長して、アメリカ
 に戻ると、上記した様にニュース週刊誌『タイム』と、
 写真週刊誌『ライフ』を創刊した。
  ヘンリー・ルースは、『タイム』の表紙に蒋介石を使
 った。
  そして、『ライフ』には、日本軍の爆撃にあったとい
 う赤ん坊の嘘のデッチアゲ写真を載せた。
  中国への同情を掻き立てるためであり、募金を募って
 蒋介石を支援した。
  メディアの媒体を使って日本を貶(おとし)め行為を
 盛んにした。
  アメリカの国民の方々の反日感情を掻き立てた。
  「ライフ」も「タイム」も反日で、親中国の宣伝誌だ
 った。
  (今・現在も、アメリカでは、巨大な中国資本で、日
 本の悪宣伝が行われている。
  サンフランシスコでは、韓国の慰安婦像の建立を中国
 が支援している)
  また、キリスト教宣教師の父を持つ、このヘンリー・
 ルースは、宣伝媒体・映画も使った。
  ニュース映画『マーチ・オブ・タイム』を製作して、
 野蛮な日本を掻き立てた。
  そして、その日本と戦うけなげな中国というイメージ
 を盛んに宣伝した。
  2018年(来年)、日本のキリスト教は、これと似た方
 法で日本を貶める映画を公開する予定だという。
  遠藤周作の「沈黙」の原作を改作して、嘘でデッチ上
 げて作り直し、キリスト教を美化して、日本を貶める映
 画を公開する予定だという。
.
1923年、日英同盟がワシントン会議で失効した。
  当時のイギリス外相のバルフォアは・・、
  「20年も維持し、その間、二回の大戦に耐えた日英同
 盟を破棄することは、たとえそれが不要の物になったと
 しても忍び難いものがある。
  だが、これを存続すればアメリカから誤解を受け、こ
 れを破棄すれば日本から誤解を受ける。
  この進退困難を切り抜けるには、太平洋に関係のある
 大国全てを含んだ協定に代えるしかなかった」・・と。
.
1928年、老将軍の張作霖は、この年まで満州を支配下に置
 いていた。
  張作霖は、北京の「中央政府」に権力を得たこともあ
 ったが、満州の地の地方的軍閥で・・張作霖は、満州を
 自分の私領と思っていた。
  そして、二度、満州の独立を宣言した。
  1928年、張作霖が爆死すると、息子の張学良が、父の
 領地と軍を引き継いだ。
  張学良は、親イギリス的で、統率力は父ほどではなく
 低かった。
  その為、「共産系匪賊(ひぞく、集団を成して略奪な
 どを行なう賊)」に荒らし回られた。
  住民の心は、張学良の政治を悪政と感じ、張学良から
 離れていて、独立を求める気運の中にあった。
  中国情勢は混沌(こんとん、区別が立たず物事が入り
 混じっている状態)としていた。
.
1937年8月13日、中国の南京で起きたこと・・この日、蒋介
 石軍が、突然、上海の日本租界を攻撃を始めた(第二次
 上海事変)
  この攻撃から南京事件につながる日中戦争が始まった。
  この頃、日本は、軍を引き上げようとしていた。
  日本政府は、1937年7月28日、揚子江沿岸に在留してい
 た日本人約29,230名の引き揚げを訓令した・・そして・・
  1937年8月9日までに上海への引き揚げを完了していた。
  また、軍も引き上げようとしていた。
  そして、アメリカは、中国の数々の軍閥の中で、中国・
 蒋介石軍を支援した。
  まだ、中国国内のあちこちに、色々な軍閥が割拠して
 いるのに・・、
  1928年6月、この蒋介石が、北京で政府を作ったと宣言
 したからというのがその理由だった。
  ただそれだけの理由だった。
  そして、アメリカは、この蒋介石へ、武器・弾薬を与
 えた。
  日本の消耗を狙った消耗戦があった。
  日本が消耗したら、今度は、自分が出て行くつもりだ
 った。
  アメリカは、後になってベトナム戦争の時もこの作戦
 を使った。
  そして、イギリスは、中国で膨大な権益を持っていた。
  そのため、日本と連合して、時には治安行動を行なう
 という事もあった。
  (1902年~1923年、日英同盟を結んでいた・・特に、
 第二次日英同盟の時に攻守同盟を結んだ・・そして、第
 三次日英同盟の時に、日本は、第一次世界大戦を連合国
 として参戦した)
  1937年のこの時に、上海に居た日本軍は、日本に戻ろ
 うとしていた。
  この様な時、アメリカの支援を受けた蒋介石軍は、多
 くのその支援物資とともに、屈指の精鋭部隊である3万人
 の大部隊で、上海の国際共同租界の日本人区域を包囲し
 た・・ここから日中戦争が始まった。
  そして、1937年8月13日、攻撃を仕掛けた。
  この時、上海に居た日本軍は少数であった。
  日本軍の内訳は、上海陸戦隊2200、日本に引き揚げよ
 うと漢口から引き揚げてきた特別陸戦隊300など4000人だ
 った。
  日本に戻ろうとしていた日本軍は、日本へ戻ることが
 出来なくなった。
  当然、その戦闘を行なうという状態となった。
  日本領事は、国際委員会を招集して、中国軍の撤退を
 要求した。
  しかし、中国軍は攻撃されたからだと真っ赤な嘘を主
 張した。
  そして、また言った「中国軍は攻撃されない限りは攻
 撃しない」と・・まったくの嘘の話を主張した・・中国
 は、中国側の責任を全く認めなかった。
  日本は、やむなく派兵を要請した。
  戦いは拡大して行った。
  この戦いの詳細は・・1937年8月13日午前10時半、中国・
 蒋介石軍は、日本軍陣地に対して機関銃による射撃を、
 突然開始する事から始まった。
  物資の豊富な蒋介石軍は強力だった。
  午後5時頃には、中国軍はあちこちの橋を爆破した。
  砲撃も激しかった・・日本軍は応戦した。
  そして、5時頃、戦いが収まりそうにないと判断した日
 本の司令官は、全軍の戦闘配置を指令し、激烈な戦闘が
 開始された。
  長谷川清海軍中将(海軍上海特別陸戦隊及び第三艦隊
 司令長官)は、戦争回避をしたいと考えていた・・、
  長谷川中将は、1937年7月から、華北での戦火拡大から
 考え、中国軍はすでに開戦を意図していると察していた。
  日本への攻撃を意図した蒋介石は、中国・蒋介石軍を、
 無錫や蘇州に20万人以上の大部隊を待機させ、戦争の準
 備を整えていた。
  戦いが始まって、日本は、この様な状況も察知し、こ
 の部隊への爆撃命令が出された。
  日本艦艇も蒋介石軍機によって空襲された。
  この蒋介石軍の空襲で、フランス租界や国際共同租界
 も爆撃された。
  路上にいた729人が即死し、861人が負傷した。
  また、避難所も蒋介石軍に空襲され1012人が死亡、1007
 人が負傷し、民間人の多数が犠牲となった。
  これも、中国・蒋介石軍は、日本軍機によるものだと
 嘘を承知で誤った内容を発表した。
  日本の爆撃も、九州から渡洋爆撃をするなど拡大した。
  この様な戦闘の結果、1937年11月中旬頃、日本は、や
 っと、その蒋介石軍を退けることが出来た(3ヶ月間の戦
 いだった)
  蒋介石軍は、南京へ退却して行った。
  ここで、日本軍は、日本に凱旋できるはずだった。
  「上海戦を制すれば、ただちに軍事行動を停止し、欣
 然(きんぜん、よろこんで)日支の友交をおさむるに吝
 (やぶさ)かならず(軍令部第一部甲部員/支那事変処理)」
 ・・喜んで日支の友好に努める・・だった・・
  退却する蒋介石軍を追撃するか否かの時に、日本のマ
 スコミ(NHKを初めとする日本のマス・メディア)は
 報道で煽った・・そして、参謀本部から11月19日に追撃
 命令が出た。
  日本には、追撃することに対しての反対意見もあった。
  報道の煽(あお)りでこの意見が封じられた。
  南京に入場するときに、日本では「ちょうちん行列」
 で祝った(1937年12月13日)が、この様に、日本国民を煽
 ったNHKをはじめ日本のマスコミは、大きく軍の行動
 の判断を狂わし、動かした。
  南京へ向かう日本軍を、NHKはじめマスコミは、そ
 の都度、詳細に報道し、その報道に日本国民は煽られた。
  「南京城に日章旗が翻(ひるがえ)るまで」とNHK
 はじめマスコミは報道合戦を繰り広げた。
  1937年12月7日、南京に・・日本軍が迫ると、アメリカ
 は、蒋介石や蒋介石軍の司令部の者たちを、アメリカ軍
 の2機の飛行機やパイロットまで出して連れ去った。
  アメリカは、『救出』と言いたいのだろうが、これは、
 完全に日本軍と蒋介石軍との戦いへの介入だった。
  アメリカの参戦だった。
  ここで起きた悲劇は、多くの蒋介石軍の兵士が置き去
 りにされたことだった。
  この事から悲劇が始まった。
  アメリカによって、中国・蒋介石軍の指揮・命令系統
 が無くなされた。
  指揮・命令系統のない中国・蒋介石軍の兵士が戦場に
 残された・・卑劣な状態である。
  可哀想なのが中国の一般の方々・民衆の方々だった。
  指揮・命令系統のない蒋介石軍兵士は、一般の中国民
 衆を守れる状態ではなくなった。
  逃げ惑う中国・蒋介石軍兵士となった。
  その逃げる兵士を、蒋介石軍の下級将兵が、自軍の兵
 士へ向かって「逃げるな」と銃撃した。
  この様な「乱れに乱れた南京の状況」が現出した。
  降参して来る右の蒋介石軍兵士が、左から、やはり、
 降参して白旗を上げて来る蒋介石軍兵士が騙して銃撃す
 るという事もあって、右の兵士も左の蒋介石軍兵士とも、
 再び、銃撃戦になるという事も起きた。
  また、中国軍艦が、白旗を上げて降参しているので、
 日本の軍艦が近づいて行くと魚雷を発射して逃げるとい
 う中国軍艦のやり方・・、
  中国は、騙したってなんだって勝てばよいという考え
 方のやり方を昔からやって来た。
  騙される方が悪いという、国際法もあったもんじゃな
 いという中国だった。
  三国志(歴史書)を読めば分かる。
  日本の様に正々堂々と戦うのを良しとするのではなく、
 騙し合いの中国・世界である。
  卑怯なことだってなんだってやるという国だった。
  また、最悪なのが・・中国の民間人に隠れて、民間人
 の服に着替えて(軍服を脱いで)、そして、日本兵を狙
 撃して殺すという卑劣な卑怯な方法を多用した。
  こんなことをしては、中国の民間人に類が及ぶ(るい
 がおよぶ、他人の非が降りかかり、巻き添えを食う)の
 を分かっていてもやるという中国兵だった。
  まともな兵士なら、絶対、やってはいけない卑怯な行
 為だった。
  (日本を貶める事ばかり放送するNHKは、この様な
 事をまったく放送しない。日本を貶めてばかりいる)
  中国の庶民の方々を守る責任のあるものを奪い去った
 アメリカは、その指揮系統を無くしたアメリカの罪は非
 常に重かった。
  上海で・・攻撃を開始された日本は、アメリカが沖縄
 を攻めて来たように、南京まで攻めて行ったのであって、
 当然、侵略ではない。
.
1940年7月、アメリカの予備選で、黒人の方が排除されると
 いう事態が起きた。
  黒人の方々が投票することが出来ないという事が起き
 たのである。
  まったく卑劣な事がテキサス州で起きた。
  この事は、最高裁まで争われるという裁判になった。
  しかし、何と! テキサス州の最高裁判所は、その黒
 人の方への排除は適法だったと判決した。
  裁判所は、「政党の私的行為だから」とその判決理由
 を述べた。
  選挙には、すべて政党はつきものである・・この判決
 は、アメリカ特有の屁理屈だと言いたい。
  アメリカ大統領につながる予備選が私的行為である訳
 がない。
  この原告の黒人の方の投票できなかった事に関しての
 この屁理屈判決は、連邦最高裁判所まで持ち込まれた。
  ここでやっと、この4年後の1944年4月に、先の判決が
 ひっくり返り、「黒人の方の主張が認められた」。
  アメリカという国は、最近まで、この様に低劣な人種
 差別が激しい国だった。
  今・現在においても、完全に、この卑劣な人種差別が
 無くなっているとは言えない国である。
  「歴史のないアメリカ」は、まだまだ未熟な国なので
 ある。
.
1950年、卑劣な人種差別国・アメリカは、朝鮮戦争(1950
 年)の頃になって、やっと、アメリカ史上、初めて、「
 黒人の方々が、差別を受けず、白人と隔離なき統合され
 た軍隊」として動員された。
  リンカーンの奴隷解放なんてどこにあるのかというア
 メリカだった。
  1945年になって、やっと、アメリカ大統領が、大統領
 行政命令で連邦レベルで黒人差別を否定したことによる
 結果で、州法が制定される実施例が出た。
  この年に、ニュージャージー州とニューヨーク州に、
 雇用における人種差別を禁止する法令を州法によって制
 定した。
  (アメリカ北部の州も、やっと、この様な法令を制定
 した。
  アメリカ北部は人種差別をしていないなんて言うのは、
 完全なアメリカのプロパガンダ・嘘宣伝である)
  人種で雇用を差別することが、やっと、禁止された。
  肌の色や出身国や信条で、就業機会の差別をしてはい
 けないとされた。
  就業を妨げたりしてはいけないとされた。
  まったく遅いアメリカの法令化だった。
  しかし、まだまだ、卑劣な事に、州内の色々な公共施
 設における人種差別に関しては、そのままとされた。
  黒人の方々が、白人と同じ『市民的権利』を持つとす
 ることが出来ないアメリカだった。
  (トイレの差別など、乗り物の差別など・・などなど)
  この後、長くアメリカは、あらゆるところで『この差
 別を続けた』、今でもあるとさえ言える軽蔑すべき状態
 にある(この銅像を建てなさい・・)
  まったく差別のない日本とは大きく違う劣悪な人種差
 別国アメリカである。
.
1964年、アメリカに公民権法が、やっと、成立した。
  黒人の方々への差別を無くす法律がやっと成立した。
  (差別行為者はWASP)
  黒人の方々の大変な苦労がやっと実った。
  そこに、何と多くの黒人の方々の血が流された事であ
 ろうか・・
  そこには、白人・アメリカ人の悍ましい(おぞましい、
 身震いするほど嫌な感じ)人種差別の行為があった・・
 厳しく糾弾されるべき行為があった。
  黒人の方々の長い絶えざる広範な闘いが、そこに必要
 だった。
  (この闘いの指導者である黒人のキング師は暗殺され
 た)
  リンカーンの奴隷解放宣言は何だったのだろうか・・?
  何ら生かされていないというアメリカだった。
  キリスト教国・アメリカのWASP(W:白人、AS:
 アングロサクソン、P:キリスト教プロテスタント)の
 差別行為・圧迫行為は酷(ひど)かった。
  しかし、この卑劣な差別は、まだまだ、アメリカで続
 いている。
  キリスト教の教義「有色人種蔑視観」の洗脳により根
 深くアメリカに根付いてしまっている。
.
1971年8月24日、『核の傘」は幻影・・
  アメリカは日本を守らない。
  アメリカの「対日政策の見直し」により、核の傘は日
 本防衛の為ではないと明記された。
  アメリカの核の傘で守られているというのは幻想。
  本「仮面の日米同盟」の52頁などに、以下のような意
 味の記述がある・・、
  在日しているアメリカ軍は、日本防衛のために在日し
 ているのではない
  アメリカ軍の日本を防衛するコストはゼロである。
  「国家安全保障検討メモ(NSSM)122号」における
 「対日政策の見直し」の指示を受け、国務省が1971年8月
 24日付けでキッシンジャーに提出した文書ちょり・・
  「日本を協力的にとどめることを確保するコストには
 次のようなものが含まれる。
  核の傘の維持と米抑止力の信頼性。
  核の傘は、いずれにしても米国が自国の防衛のために
 疑いなく維持するので、核の傘の提供によって、日本の
 防衛に対する直接的なコストはかかっていない。
  日本国内、および、その周辺に配備されたアメリカ軍
 部隊は、アジアにおける米国の他の防衛公約を満たすの
 が第一の目的であり、日本防衛の為ではない」
.
1971年12月29日、アメリカ軍の駐留は、日本防衛ではない。
  日本は、目を覚まさねばならない。
  日本は、日本防衛のために立ち上がらなければならな
 い。
  アメリカ軍は、日本の本土防衛のために駐留している
 のではない・・
  アレクシス・ジョンソン国務次官から、ニクソン大統
 領に提出されたメモより・・、
  「在日アメリカ軍は、日本本土を防衛するために駐留
 している訳ではなく(それは日本自身の責任である)、
 韓国、台湾、及び、東南アジアの戦略的防衛の為に駐留
 している。
  北大西洋条約機構(NATO)と違って、日本とは、
 統合司令部に関する取り決めがなく、何らかの種類の統
 合計画もない・・
  このように、在日、及び、在沖縄米軍基地は、ほとん
 どすべてがアメリカ軍の兵站の目的のためにあり、戦略
 的な広い意味においてのみ日本防衛に務める。
  こうしたより大きい立場からの安全保障の思考は、日
 本自身の安全保障を直接的に損ねる、と我々は感じるか
 もしれないが、この見解は、多くの、多分ほとんどの日
 本人には共有されていない。
  日本人の多くは、アメリカ軍の存在は脅威とみなして
 おり、アメリカ軍の使用によって、日本自身が作り出し
 たわけではない紛争に日本を巻き込む恐れがあるとみて
 いる」。
  春名幹男氏著「仮面の日米同盟」(47頁~48頁)
  https://www.youtube.com/watch?v=RUtjdMpJZdk
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
 

2017年11月22日水曜日

(増補版)566E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年10月~1892年11月)

題:(増補版)566E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年10月~1892年11月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1892年10月、神戸工場で、汽車監督リチャード・フランシ
 ス・トレビシックの指導のもとに、1B1形タンク機関車の
 製作を開始した。
  リチャード・フランシス・トレビシック(1845年~1913
 年)は、イギリスの鉄道技術者で、蒸気機関車の発明者
 の一人であるリチャード・トレビシックの孫。
  リチャード・フランシスは、1888年に来日し、お雇い
 外国人として、主に官設鉄道・神戸工場の汽車監察方な
 どを務めた。
  1904年まで、勤務している。
  日本初の国産蒸気機関車となった860形蒸気機関車の製
 作を指導し、その後も、独特な様式を持った機関車を数
 種類製作した。
  弟のフランシス・ヘンリー・トレビシックも、鉄道技
 術者で、兄よりも早く1876年に来日した。
  そして、官設鉄道新橋工場の汽車監察方などを歴任し
 た。
  兄弟ともに、日本の機関車技術の向上と定着に大きな
 役割を果たした。
1892年11月1日、黒岩涙香が新聞「万朝報」を創刊した。
  万朝報(よろずちょうほう)朝報社、社主:黒岩涙香。
  小型4ページの日刊新聞で、「一に簡単、二に明瞭、三
 に痛快」の編集方針のもとに社会正義に根ざした。
  相馬事件や〈蓄妾の実例〉などの上流社会のスキャン
 ダル記事や娯楽記事、社会記事や多様な雑報記事、涙香
 の翻案探偵小説などを載せて発展し、江戸っ子の人気を
 博した。
  1893年に、山田藤吉郎の経営していた再刊の《絵入自
 由新聞》を合併した。
  1900年頃から、内村鑑三、幸徳秋水、堺利彦らの論客
 を迎え、社会批判を展開し、進歩的色彩の強い言論新聞
 となった。
  日露開戦前には、一時、非戦論を主張したが・・、
  日露戦争を前にして黒岩が主戦論に転じたため、非戦
 論の内村、幸徳らは退社した。
  また、報道体制の確立にもおくれをとったため、新聞
 界の主流から次第に離れ、大正期憲政擁護運動で一時的
 に人気を回復したが、
  1920年、黒岩の死後衰退、
  1940年9月、『東京毎夕新聞』 (1910年:創刊、1941年:
 廃刊) に吸収合併された。
  なお、社会事件を表現する「三面記事」は、この万朝
 報の4ページ立ての3面に記載されたことに由来する。
1892年11月1日、北海道炭礦鉄道会社線の追分駅~夕張駅間
 (42.8km)が開業した。
  沿線の炭鉱から産出される石炭を積出港に運搬する役
 目を担った。
1892年11月1日、旅客運賃を改正し、下等100マイル未満は
 1マイル1銭2厘、100マイル以上220マイル未満は1銭、
  220マイル以上は8厘とし、中等は下等の5割増し、上等
 は下等の2倍半となる。
  また、全線にわたり、小荷物配達扱を開始し、配達作
 業を内国通運に請けおわした。
  (東京では日本橋から2里以内、地方では駅から1里半以
 内が配達区域だった)
1892年11月6日 大井憲太郎が、東洋自由党を結党した(11
 月5日説あり)
  大井憲太郎、樽井藤吉らを中心とする自由民権運動の
 左派が組織したが・・、
  これに先立って、大井は、大阪事件の関係者ら急進勢
 力とともに、院外活動組織である東洋倶楽部を結成して、
 自由党の反動化に抗していたが・・、
  1892年6月に、自由党を脱党、小久保喜七、新井章吾ら
 大阪事件に連座した人々と新党を結成するに至った。
  その政綱は、「皇室の尊栄」「民権の拡張」「国権の
 発揚」を説いたもので、対外強硬策を軸とした反政府活
 動に特徴があった。
  機関紙として『新東洋』を発行、
  さらに、政綱実現のための機関として普通選挙期成同
 盟会、日本労働協会、小作条例調査会をおき、労働者、
 貧民の政治的経済的地位の向上を期した。
  第4、5議会において、4人の代議士を出したが、その過
 激な政策のため議会主義と相いれず、1年あまりの活動の
 のち、翌年・1893年12月に解散した。
  大井らはその後、国民協会、熊本国権党などの国家主
 義政党とともに、大日本協会派として活動を続けた。
1892年11月6日、ホームズ彗星が発見された。
  この年、エドウィン・ホームズが発見した。
  2007年10月24日~25日未明(日本時間)にかけて、ペ
 ルセウス座の付近にあったホームズ彗星は2日足らずの間
 に17等星から2等星台にまで(約40万倍)明るくなった。
  明るく黄色い“星”として肉眼でも容易に見ることが
 できるようになった。
  この様な急激な増光(アウトバースト)は、彗星から
 大量のガス、または、チリが突然放出されたことによる
 ものと説明されている。
  なお、この彗星は、1892年に、発見された時も同様の
 アウトバーストを起こしていた。
1892年11月8日、米国大統領選挙でグロバー・クリーブラン
 ドが勝利し(返り咲き)第24代大統領となる(在任期間:
 1893年3月4日~1897年3月4日)
  ニューヨーク州のグロバー・クリーブランドが、現職
 の大統領ベンジャミン・ハリソンを破って復帰し、アメ
 リカ史の中で唯一返り咲きを果たした大統領となった。
  クリーブランドは、1888年の大統領選挙では、一般投
 票でハリソンに勝っていたが大統領となれず・・、
  1892年では、一般投票、選挙人投票共に勝利した。
1892年11月10日、東京下谷に市村座が開場した。
  市村座は、江戸三座の一つで、江戸時代中期から後期
 にかけて江戸町奉行所によって歌舞伎興行を許された芝
 居小屋だった。
  これを、官許三座とか、公許三座と言った。
  市村座は、1663年頃、興行権を村山座から譲り受けた
 名義1世市村羽(宇)左衛門(3世市村羽左衛門)が創
 設したのに始まる。
  そして、この年に、下谷二長町(にちょうまち、現在
 の台東1丁目)に 三階建煉瓦造の新劇場を建てて移転し
 た(開場式:11月12日)
1892年11月11日、国民新聞、「最暗黒の東京」を連載開始。
  国民新聞に、松原岩五郎の貧民街の様子を取材した「
 最暗黒之東京」の連載が始まった。
  今の日本は、夢のような良い社会になったが・・この
 当時は、まだまだ日本は貧しかった・・この様な社会が
 あった。
  この新聞は、1890年2月1日に、徳富蘇峰が創刊した日
 刊紙で・・、
  記者の松原岩五郎は、スラムに入り込んで、残飯屋の
 様子などを『最暗黒の東京』にまとめた。
  松原は1日3回、士官学校に行って、ひとザル(およそ
 15貫目=約56㎏)50銭で残飯を引き取り、これを1貫目
 およそ5〜6銭ほどで販売した。
  ・・以下、その一節・・
  タクアンの切れ端から食パンの屑、魚の骸(あら)や
 焦げ飯など、膨大な量を荷車で運んだ。
  《この残物を買う者如何(いかん)と見渡せば、皆そ
 の界隈貧窟の人々にして、これを珍重する事、実に熊掌
 鳳髄(ゆうしょうほうずい=珍味中の珍味)もただならず
 というべく。
  我らが荷車をひきて往来を通れば、彼らは実に乗輿(
 じょうよ)を拝するが如く、老幼男女の貧人ら皆々手ご
 とに笊(ざる)、面桶(めんつう=1人盛りの食器)、重
 箱、飯櫃(めしびつ)、小桶(こおけ)、あるいは丼、
 岡持(おかもち)などいえる手頃(てごろ)の器什(う
 つわ)を用意しつつ路(みち)の両側に待設けて、今退
 (ひけ)たり、今日は沢山にあるべし、早く往(ゆ)か
 ばやなどと銘々にささやきつつ荷車の後を尾(おい)て
 来るかと思えば、店前(みせさき)には黒山の如く待構
 えて、車の影を見ると等しくサザメキ立ちて、さながら
 福島中佐(シベリア単独横断した英雄)の歓迎とも言う
 べく颯(さっ)と道を拓(ひら)きて通すや否や、我れ
 先(さ)きにと笊、岡持を差し出し、2銭下さい、3銭お
 くれ、これに1貫目、ここへも500目(1目は1匁)と肩越
 に面桶(めんつう)を出し腋下より銭を投ぐる様は何に
 譬(たと)えん、大根河岸、魚河岸の朝市に似て、残物
 屋に似て、その混雑なお一層奇態の光景を呈せり。
  そのお菜(かず)の如き漬物の如き、煮シメ、沢庵等
 は皆手攫(てつか)みにて売り、汁は濁醪(どぶろく)
 の如く桶より汲みて与え、飯は秤量(はかり)に掛くる
 なれど、もし面倒なる時はおのおの目分量と手加減を以
 てす》
  ある日、士官学校からの出物が止まり、「飢饉」状態
 が3日続きました。
  松原は厨房に頼み込んで、豚エサの餡殻、肥料用のジ
 ャガイモ、洗った釜底のご飯などを持って帰ると、人々
 は大喜びで我先にカネを出し始めました。
  松原は、豚のエサに値段をつけて売る自分の姿を見て、
 「世の中で語られる道徳や、行われる慈善は、必ずしも
 本当の道徳や慈善ではない」と痛恨の叫びをあげるので
 した。
.
  (今日の言葉)
.
  題:擬制とされた事で、押し通した・・
.
紀元1世紀~2世紀、日本で、この時、既に、字が用いられ
 ていたらしいという証拠が発見された。
  (読売新聞、2017・11・15)によると、福岡県筑前町
 の薬師の上遺跡(弥生時代中期~後期)から完全な形の
 硯(すずり)が出土した。
  専門家は、「弥生時代に、日本で文字が書かれていた
 可能性を示す発見」とした。
  硯は、長さ15.3センチ、幅6.3センチ、厚さ0.9センチ。
  薄い墨の痕跡が数か所あることが分かった。
  現代のような墨だまりはない。
  朝鮮半島で出土した硯と同じ砂質頁岩(けつがん、粘
 土で固まってできた水成岩で、板状でやわらかく、薄く
 てはがれやすい)製・・、
  そして、形も似ている事から硯だと判断された。
  一緒に出土した土器から1世紀~2世紀とされた。
  これまで弥生時代の硯は、福岡県糸島市の三雲・井原
 遺跡や松江市の田和山遺跡などで破片が見つかっていた。
.
626年、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ、後の天智天皇)
 が生まれた。
  中大兄皇子の和歌に次のものがある・・、
  妹(いも)が家も 継ぎて見ましを
  大和(やまと)なる 大島の嶺(ね)に
  家もあらましを
  万葉集(日本最古の和歌集、巻二・九一)
  〔訳〕愛する君よ、君を、いつも身近に目にしていた
    いのにそれができなくてもどかしい。
     君の家が、大和の大島の嶺(みね)の頂(いた
    だき)に在(あ)って欲しいものだ。
     そうすれば、いつも君のことを目にしていられ
     るのに。
  都(みやこ)が飛鳥(あすか)から難波(なにわ)に
 遷(うつ)って大化の改新(たいかのかいしん)と呼ば
 れる新政が行われていた時のこと・・、
  若き皇太子の中大兄(なかのおおえ、後の天智天皇・
 てんじてんのう)には旧都飛鳥(あすか)に残してきた
 恋人がいました。
  鏡王女(かがみのおうきみ)です。
  いつもその人を身近に感じていたいために、家が山の
 頂上に在ればいいのに・・と、恋人たちは思いもよらな
 いことを思っていた。
  そして、この恋歌を受けとった鏡王女の返歌は・・、
  秋山の 木(こ)の下隠り(したがくり)
  行(ゆ)く水の 我こそ増(ま)さめ
  思(おも)ほすよりは
  万葉集(巻二・九二)
  〔訳〕秋の山々の落葉の下を流れ行く水のように、皇
    子(みこ)をお慕い申し上げるわたくしの心は、
    皇子が、わたくしをお思いくださる御心よりも深
    うございましょう。
     お逢いしとうございます、わたくしも。
  秋の山々の落葉を伝い、流れゆく木の下蔭(したかげ)
 の水は、目には見えませんが、実は大量の水を湛(たた)
 えています。
  王女の歌はその水に、中大兄のへの愛を託したもので、
 黄葉(もみじ)した秋の山々を背景に、深い愛情がつつ
 ましく語られています。
  鏡王女については、近年の発掘調査などにより、舒明
 (じょめい)天皇の皇女で、中大兄の異母妹ではないか
 と言われています。
  王女の御陵(ごりょう)を訪ねた時、遅咲きの満開の
 桜に包まれた王女は千年の眠りについていました。
  (国文学者・石丸晶子氏の文があまりにも美しいので
  参考にさせて戴きました)
.
1866年、アメリカのこの年の南北戦争の後、アメリカが奪
 った新領土と植民地・・、
  アメリカは、本当に、侵略国家だった。
  ミッドウェー諸島(1867年)、
  アリューシャン列島(1867年)、
  アラスカ(1867年)、
  フィリピン(1898年)、
  ハワイ諸島(1898年)、
  グアム島(1898年)、
  ジョンストン島(1898年)、
  ウェーク島(1899年)、
  米領サモア(1899年)、
  パルミア島(1912年)、
  そして、中国の利権獲得へ
.
1905年、ベンガル分割令が出された。
  これは、イギリスのカーソン(インド総督)が出した
 命令で、インドの方々の反イギリス闘争の分裂を狙った。
  しかし、逆に、インドの方々の自治要求運動が激化し
 た。
  しかし、イギリスは、さらに強くベンガル分割令反対
 運動を抑えつけた。
  帝国主義の植民地支配が強まる中で、インドの民族運
 動・反イギリス闘争も力による強い抵抗となって行った。
  イギリスのインド総督を狙ったテロ事件などが起こっ
 た。
  第一次世界大戦が始まると、反イギリス闘争を進めて
 いた革命家は、好機と考えて、武装蜂起を計画するグル
 ープも現れた。
  1915年には、ラホール事件の武装蜂起が鎮圧されて。
  逮捕者が4000人、処刑された方が800人・・という犠牲
 者を出してしまった。
  この時の英雄的な行為者の一人ラース=ビハリー=ボ
 ース氏は、日本に助けを求めた、そして、亡命した。
  これらの過激な反イギリス闘争は、「ガダル(反乱の
 意味)」と呼れた。
  (アメリカの黒人の方々の反抗を、「暴動」と呼ばさ
 れて、悪の印象操作をされたプロパガンダ・嘘宣伝を思
 い出す)
  イギリス当局は、1915年に、インド防衛法を制定し、
 インド人の方々の政治活動の自由を制限した。
  そして、危険人物を予防拘束するという卑劣な事を行
 なってまでして取り締まった。
  インドの方々の抵抗運動が功を奏し、イギリスのイン
 ド担当相のモンタギューは、1917年に、第一次世界大戦
 の後に、インドへ自治権を与えることを約束し、宣言し
 た・・しかし・・
  卑劣にも・・その約束を無視して、イギリスは、一転
 してインド支配の強化に乗り出した。
  1918年には、ローラット法を制定し、翌年、施行して
 弾圧を強化した。
  インドの方々は、反イギリス闘争を激化させた。
  第一次世界大戦(1914年~1918年)の後、民族自決の
 気運が、さらに、高まった。
  新たに国民会議派の指導者となったガンジーによって、
 1919年~1922年に、第1次非暴力・不服従運動(サティヤ
 ーグラハ運動)が盛り上がった。
  1919年4月6日、ガンジーの指導の下に、全国的なハル
 タール(同盟休業)が行われた。
  インド最初の組織的な民族運動が展開された。
  イギリスは必死に弾圧した。
  一部のインドの方々は暴徒化し、アムリットサール事
 件が起きた。
  非暴力主義の指導者ガンジーやネルーは、約束されて
 いたインドの自治権の返還をイギリスへ要求した。
.
1908年3月、アメリカの大艦隊が日本に来た。
  日本を威圧する目的だった(脅し行動)
  また、大艦隊の威勢を世界に誇示する目的だった。
  日本の戦艦が7隻しかない時に、このアメリカの艦隊は
 16隻だった。
  戦艦は白く塗られていた。
  幕末の「黒船」に対して、「白船」と呼ばれた。
  日本は、国をあげて歓迎した。
  横浜に入港した日には、日本の人たちは、小旗を振っ
 て歓迎し、万歳を連呼した。
  アメリカ海軍兵たちは、パーティ攻めにあった。
  また、アメリカ兵たちを乗せた列車が駅に着くと、1000
 人もの小学生が、アメリカ国家を歌って迎えた。
.
1914年、全黒人地位改善協会(世界黒人開発協会アフリカ
 社会連合:UNIA-ACL)が設立された。
  黒人解放指導者の黒人のマーカス・ガーベイは、1887
 年にジャマイカで生まれた。
  アメリカの様な卑劣な黒人差別の無いジャマイカで育
 った。
  1912年(25歳)イギリスのロンドンに向かった。
  1914年(27歳)ジャマイカに帰国。
    ガーベイは、アフリカから来た幾人かの黒人から、
   つぶさに白人のアフリカ侵略の話を聞いた。
    その白人の卑劣な植民地主義と、人種的抑圧に強
   い憤(いきどお)りが沸いた。
    このことから全黒人地位改善協会を設立した。
  1916年(29歳)3月23日、アメリカに渡った。
    黒人のための職業訓練校を、ジャマイカに建設す
   る資金を集めるためだった。
  1916年(29歳)5月9日、ニューヨーク市で最初の講演
   を行った。
    全黒人地位改善協会の本部をニューヨークに移転
   させた。
    そして、機関誌を発行した。
    機関誌名は、「黒人世界(ニグロ・ワールド)」
   と言った。
    彼の運動は、たちまち、多くの黒人の方々の支持
   を集めた。
  1919年(32歳)までに、各地に30の支部を持ち、機関
   誌の「黒人世界」は、たちまち有名になった。
  1922年(35歳)会員数は、アメリカだけで200万人、全
   世界で400万人となった。
   (1920年8月、アメリカで400万人の記述もある)
    しかし、ガーベイの最後は悲惨だった。
    アメリカ合衆国の政治的意図があったと言われて
   いる事だが・・、
  1925年(38歳)ガーベイが投獄された・・そして・・、
  1927年(40歳)釈放され、ジャマイカへ強制送還され
   た。
  1929年(42歳)ジャマイカで初の政党を設立した。
  1935年(48歳)イギリス(ロンドン)へ行く。
  1940年(53歳)6月10日、死去した。
  ・・それから24年後・・
  1964年11月、ジャマイカ政府は、ガーベイを、ジャマ
   イカの国民的英雄に選出した。
.
1917年7月17日、白鹿丸(はくしかまる、11,000載貨重量ト
 ン)が進水した。
  浅野造船所(後の日本鋼管鶴見)で建造された大型貨
 物船。
  この頃、日本で建造された汽船の中で最大の白鹿丸が、
 この日に進水した。
  この頃、日本の造船業界は、空前の好景気の中にあっ
 た。
  第一次世界大戦という景気刺激があった。
  軍需品の輸出も急増していた。
  重工業も急速に発展した。
  また、三井、三菱、住友などの財閥は、金融や貿易、
 造船などの多角経営で急速に力を伸ばした。
  戦争の形態が、国家を挙げての総力戦で行う形になっ
 ていて、これが、この様に関係する世界となった。
.
1919年(大正8年)1月14日、パリに到着した日本全権団は、
 『人種差別撤廃』提案成立のため、各国と交渉を開始し
 た。
.
1919年1月18日、パリ講和会議が開かれた。
  この会議で、日本は、「国際連盟規約に、人種差別撤
 廃条項を盛り込む決議」を提案した。
  (あまりにも、白人社会に、有色人種の差別が多く、
 卑劣で、レベルの低い社会が現出していたので、日本は、
 その様な行為を無くそうとして提案した)
  この提案に対して、「白人の移民しか許さないという
 白豪主義のオーストラリア」は、強硬に反対した。
  また、アメリカは、自国の西部諸州が、「勤勉で優秀
 な日本人移民を排斥する運動」を起こしたりしていて、
 有色人種差別をしているという社会情勢からも反対した。
  しかし、日本の正義の提案は、世界の有色人種国家か
 ら賛意を集め、また、注目も集めていた。
  そして、当然、投票の結果は11対5で、日本の提案は多
 数意見となった・・賛成多数だった・・そして、議決さ
 れる予定だったが・・
  しかし、議長役のアメリカのウィルソン大統領が、重
 要な議題は「満場一致を要する」と独断で決定し・・、
  そして、「否決だ」と宣言した。
  日本の当然の正義の提案は、世界から多大な共感を得
 ていたが、「世界の意見とはならなかった」。
  公正な『正義の社会を築く』ことに棹(さお)をさす
 アメリカだった。
.
1919年1月18日、パリ講和会議
  第一次世界大戦の戦後処理のため、パリで講和会議が
 開かれ、そして、ベルサイユ条約が結ばれたが・・、
  日本は、戦勝した五大国(アメリカ、イギリス、フラ
 ンス、日本、イタリア)の一国として出席した。
  戦勝国は、アメリカの参戦で勝つことが出来たので、
 アメリカのイニシアティブによって進められ、最後には、
 アメリカの提案を受け入れた。
  アメリカの代表は、アメリカの最高責任者である大統
 領のウィルソンだった。
  ウィルソンは、14カ条の提案をした・・、
  ・保護貿易の廃止。
  ・軍備の縮小。
  ・民族自決に基づく植民地問題の公平な解決。
  ・あらゆる国家の政治的独立と領土保全を目的とした
   連盟の設立・・など。
  そして、1920年、アメリカの提案どおり国際連盟が発
 足した。
  しかし、アメリカは、提案者でありながら、国内の意
 見統一が図れないという理由で、アメリカは、国際連盟
 に参加しなかった。
  また、苛酷な賠償金の返済を、敗戦国のドイツへ課し
 たため、ドイツは卑劣な巨額のその賠償金の返済に喘(
 あえ)いだ。
  結局、この解決を求めた行為が、まったく無駄となっ
 て、逆に、第二次世界大戦の誘発の原因を作った。
  アメリカの「他の国の意見をあまりにも聞かない独裁
 的な、また、独断的な行動」が、何ら解決を与えた事に
 はならななかった。
  第二次世界大戦の悲劇が、また、生まれる事になった。
  また、卑劣にも、アメリカは提案しておきながら、国
 際的な解決の場である国際連盟に参加しないという状況
 に居つづけた。
.
1921年12月~1922年2月、ワシントン会議、
  この会議で、日本は、不利で、不公正な、海軍主力艦
 の保有率に決められた。
  アメリカ・イギリスの4割も少ない艦船しか持てなくさ
 れた。
  (アメリカとイギリスが連合軍を組めば、日本は、そ
 の30%の主力艦しか持てないという状態に、大幅に制限
 された)。
  だが、日本は、まじめに、よくこの約束を守った。
  また、アメリカの差し金(さしがね、陰から人をそそ
 のかして、あやつること)で、日英同盟が、この時に解
 約させられた。
  また、中国の山東半島を返還させられた。
  日本は、条約や、第一次世界大戦の勝利国としての功
 績として、正式に条約によって得ていたが、返還の圧力
 がかけられ、返還するに至った。
  何故だか、日本だけに、不利な条件が押し付けられた。
.
1927年4月18日、南京国民政府が樹立された。
  1927年4月、上海クーデターを起こした共産党勢力や
 労働組合を、蒋介石は粛正を行なった・・そして・・、
  1927年4月18日、南京に南京国民政府を樹立した。
  (参考)上海クーデター:1927年4月12日、中国におい
     て、北伐に呼応して第三次上海暴動を引き起こ
     していた労働者を、右派国民革命軍(司令官:
     蒋介石)が、武装解除の命令に応じないで抵抗
     したため、デモを行っていた労働者・市民に対
     して発砲し、虐殺した。
  アメリカやイギリスは、この蒋介石が、南京を首都と
 して「南京政府を樹立する」と、これが、中国の中央政
 府だとして承認した。
  この蒋介石の様な軍閥は、中国のあちこちに居たのに
 である。
  何ら蒋介石が中央政府とされる理由も無いのに、アメ
 リカ・イギリスは、南京政府を中央政府だとした。
  まったくのお好み決定だった。
  リットン調査報告でさえ、「中華民国」を「中央政府
 だ」という考え方は、「法的擬制(ほうてきぎせい)」
 に過ぎないとしていた。
  (参考)擬制:ぎせい、実質は異なっているものを、
     法的取扱いにおいては同一のものとみなす。
      そして、同一の効果を与える。
      そして、この擬制は反対の事実の主張を許さ
     ない。
      つまり、この事例では、蒋介石の政府は、実
     質的にも中央政府ではないが・・、
      法的取扱いに於いて、中央政府だとみなし、
     反論は許さない。
  だから、南京政府は、たまたま、外国勢力から中央政
 府だとみなしてもらって、認められているだけだった。
  ならば、満州に居た人たちが、満州国を建国したこと
 と「どこが違うのだ・・?」
  アメリカは、後から、違うと言い出したが・・?
.
1932年3月1日、満州国が建国された(建国宣言)
  中国は、今現在(2017年)、漢民族が政権を取ってい
 る・・毛沢東も漢民族である。
  過去の中国の歴史には、色々な民族が、中国の政権を
 取って来た。
  この中国の地・領域には、種々の民族が政権を形成し
 て来た歴史にあった。
  そして、中国の領域には、昔から今でも、色々な民族
 の方々が居る・・生活している。
  そして、問題は、アメリカ・イギリスが、漢民族の蒋
 介石政権を「中央政府だ」と承認したところから始まっ
 た・・
  (1928年11月に、アメリカが、そして、1928年12月に
 は、イギリスとフランスが・・漢民族の蒋介石を、中央
 政府だとすると都合が良いとして決めた・・漢民族に、
 この領域を与えたこととなった)
  そして、さらに、問題を深刻化しているのは・・この
 アメリカなどの決定に端を発している事なのだが・・
  今・現在の中国の政権の中華人民共和国(中共)の漢
 民族の政治指導者は・・その地に生活し生存している種々
 の方々・民族の独立権を奪っているところにある。
  中国領とされた新疆ウイグル自治区は、この先、ウイ
 グルの「ウ」の字も無くなって中華人民共和国(中共)
 の領土そのものだと主張されるだろう。
  「チベット自治区」もそうだ・・このチベットの「チ」
 の字も無くなるだろう。
  このチベットの地に・・どんどん漢民族が流入してい
 る・・させている。
  人口比が逆転して来ている・・チベット人は排除され
 ている・・殺されてもいる・・どこもかしこも、こんな
 調子である。
  内モンゴル自治区は影が薄くなっている。
  この地域は、大幅な行政区画の変更が行われて中国名
 の省の名が付けられてしまった。
  内モンゴル人民共和国は、一時、可哀想な事に、歴史
 に名を止(とど)めるだけの地位に落され、置かれた。
  かつて、立派な独立国を形成したことがあるこの民族
 の地であるのにである(今は中共に組み込まれてしまっ
 ている)。
  南シナ海も、急に、我が領域だと中共は主張し、国連
 の主要機関である国際司法裁判所が中共の領域ではあり
 ませんよと言ったって、「関係ない」の態度をとってい
 る・・中共とは、このような国なのだ。
  かつて、中国は、万里の長城を築いたが・・その万里
 の長城の先は、「化外の地」で「関係ない地」で、我々・
 中国とは関係ありませんよとした。
  その様な地の・・万里の長城のはるか北の「中国が化
 外の地とした満州」に、「満州人の居住する地」に、日
 本は、手助けをして「満州国を建国した」。
  今・現代、中共は、この歴史に懲(こ)りたのか?
  この地から満州人の方々を追い出した。
  今・現代、チベットで、中共が、チベットの方々を追
 い出し、どんどんと漢民族を送り込んでいるように。
  結局、今・現代、かつての満州国があった地は、今・
 現代、漢民族が多く住む漢民族の中共という国になって
 いる・・ほとんど満州人は居ないという。
  中共は、沖縄も、「俺のものだという声」を発してい
 る声が聞こえるが、時の経過とともに、この様なやり方
 で、今・現代の沖縄の方々は追い出され、漢民族が住む
 沖縄となる可能性は・・否定できない。
  日本の「満州人の方々の満州国を建国した行動」は・・、
  日本は、当時、一番多かった満州人の方たちの国とし
 て独立の手助けをしたが・・「満州人の方たちだけの国
 では無いという理念」を掲(かか)げた。
  「満州人の方たちと共に五族協和の理念」を掲げた。
  「満・蒙・漢・韓・和の五民族が協調して暮らせる国」
 を目指した。
  この理念ゆえに、ユダヤの方々が逃れて来た時も大き
 く手を広げて受け入れた。
  この満州の中に漢民族も入っていて、排除は、当然、
 していない。
  その建国の手続きにおいても、それまで、アメリカや
 イギリスなどの米欧列強の国がやって来た事と同じにや
 り、また、「法と秩序に最大限配慮」してやった。
  アメリカも国連も、最初、何も問題にしなかったごと
 くである。
  日本は、アメリカなどの米欧列強に学んだ様にして手
 助けした・・法を守る努力をした。
  終始、アメリカや米欧列強の様にやった。
  日本は、アメリカなどの米欧列強に対する責務である
 とさえしていた。
  日本は、漢民族を追い出してはいない。
  しかし、群雄割拠して、あちこちに出来ていた中国の
 一つである軍閥(張学良)に対してだけは、秩序を保つ
 警察行動を行なった・・責任を果たした。
  中国の蒋介石の国民政府が、国連に提訴し、問題とな
 ったが、この中国の一地方の軍閥の蒋介石が、国連に提
 訴して、問題となった(アメリカ・イギリスが提訴した
 のではない)
  そして、アメリカや国連は、当初の態度と違えて、こ
 の段階から、一方的に自分たちが根拠なく承認していた
 国民政府(蒋介石)側に立った。
  問題は、まったくないのにである。
  問題は、国際事件となった・・仕立てられた。
  満州人の居るこの領域が、歴史的に、漢民族の統治す
 る地となったことが無いという「化外の地としている地」
 を、アメリカなどの米欧列強は、その状況を変えようと
 した。
  しかし、アメリカなどの米欧列強は、中共の前政権の
 清国と条約を結んだ・・そして、その清国は、満州人の
 政権だから、満州王朝だから、満州の領域まで、外国に
 付与された特権が及ぶのだと言った。
  だからと・・ここからアメリカなどの米欧列強の屁理
 屈が始まった・・、
  「だから、(漢民族の)国民政府に、満州まで主権を
 及ばせる権利がある」・・と。
  前記の()部分を、アメリカなどの米欧列強は擬制(
 ぎせい)している。
  (参考)擬制:ぎせい、実質は違うのに、そう見なす
     (見せかける)こと。法律で、異なるものを法
     律上同じと見なして、同じ効果を与えること。
  結局、アメリカなどの米欧列強は、この擬制で押し切
 った・・筋が通らぬ無理を通した。
  自分たちの利益のために。
  中国(国民政府)は、筋が通らない事が分かっていた
 ので、この主権を主張する事は出来なかった。
  アメリカなどの米欧列強の世界史なんて、どこを見て
 も、その底を掘り下げて行くとどこもかしこも、皆、こ
 んなもの・・無理を押し通す・・
  その基本には、キリスト教の「有色人種への蔑視観」
 と、その裏返しの「白人の優越観」がある(見下し観)。
  これが、すべてを狂わせている・・素直な正義が通ら
 ない世界となっている。
.
1947年7月21日、オランダが、再び、インドネシアを植民地
 にしようと、インドネシアに侵略した。
  このオランダを含む連合国が、第二次世界大戦後の東
 京裁判で、日本を「侵略の罪」で裁いている最中に・・、
  その日本を侵略したと裁く・原告側に立っていたオラ
 ンダは、インドネシアに「露骨な侵略」をしていた、そ
 して、インドネシアの方々を殺戮していた。
.
1965年9月30日、9月30日事件が起きた。
  インドネシアの方々の、その近代の歴史は、オランダ
 の植民地支配の苦痛の歴史だった。
  その苦痛から逃れ出られたのは、インドネシアの初代
 大統領になった国民的英雄・スカルノ氏らの功績だった。
  旧日本軍は、このインドネシアに残り、この推移に大
 いに貢献し、アジア解放の目的の一つを果たした。 
  1000人の日本兵は、日本に帰らず、インドネシアの独
 立戦争を助けた・・、
  国の代表となったスカルノ氏は、当然のこととして、
 オランダの植民地体制を壊した。
  また、アメリカなどの外国企業の資産を接収し、外資
 の排除も図った。
  また、オランダの手先になっていた華人の影響も排除
 し、地場産業の振興を図った。
  自立経済の樹立を目指した。
  アメリカとスカルノ政権は険悪となった。
  アメリカのCIAが、スカルノ政権の転覆をはかって
 いるという「うわさ」も流れた。
  この様な状況の中、イギリスの肝いりでマレーシアが
 建国されると、この国との関係も厳しくなり・・、
  インドネシアは、国連も脱退をせざるを得ない状態に
 なった(国際的孤立化)。
  そして、インドネシア国内の一体化も崩れて行った・・
 アメリカの工作か??
  その様な国内状況から、今でも不明部分が多いが9・30
 事件が起きた。
  この日、大統領親衛隊第一大隊長の率いる部隊が、軍
 事行動を開始した。
  翌日までに、陸軍の高級将校6名を殺害し、国営ラジオ
 局を占拠し、「9月30日運動司令部」と名乗って、「イン
 ドネシア革命評議会」の設置を宣言した。
  この様な経緯の中で、スカルノ氏からスハルト氏への
 権限移譲が行なわれた。
  そして、この9月30日事件の翌年・1966年2月、インド
 ネシア軍の指導的立場となったアリ・ムルトポ准将が来
 日した。
  そして、佐藤栄作首相、福田赳夫外相と会談した。
  ムルトポ氏は、次のように訴えた・・、
  「東南アジアは、これまで、アメリカ・ソ連・中国の
 代理戦争をして来ました。
  このアメリカ・ソ連・中国を入れないようにASEA
 N(東南アジア諸国連合)という垣根を作ります。
  1967年に、その構想を発表します。
  中国、ソ連、ベトナムに対抗する政治連合です。
  共産国の出方次第では、軍事連合にするかもしれませ
 ん。
  しかし、我々が、政治団体とか軍事団体を結成すると
 言えば、アメリカに壊されてしまうので、当分の間は、
 文化、観光、経済の団体という形の覆面をするつもりで
 す。
  日本にぜひ協力して戴きたい」・・と。
  日本の気付かない新たな動き・・9月30日事件以降の
 インドネシアやマレーシア、シンガポールなど東南アジ
 アのリーダーたちの思いは・・、
  「もうこれ以上、巨大な諸国・・象の様に(アメリカ、
 ソ連、中国)に、我々の士地を荒らされてはかなわない」
 と考え、ピースゾーン(平和地域)としてのASEAN
 建設に一致して動いていた。
  日本は、スハルト大統領体制が発足すると、直ちに、
 大規模なODA(政府開発援助)を供与して、インドネ
 シア政府を支援した。
  1967年、ムルトポ准将の言葉通り、タイ、フィリピン、
 マレーシア、インドネシア、シンガポールと反共を国是
 とする5カ国でASEANが誕生した。
  1976年、総理大臣に就任した福田赳夫は、
 翌年・1977年、東南アジア諸国を歴訪し、マニラで、A
 SEANを全面的に支援する事を約束した。
  この演説は、「福田ドクトリン」として、ASEAN
 諸国から、今でも高く評価されている。
.
1981年1月20日、アメリカと中国は、一体的な軍事関係が
 樹立されている。
  この時に、ロナルド・レーガンが、第40代アメリカ大
 統領になった(~1989年1月20日)・・が・・、
  このレーガン政権時代、マイケル・ビルズベリーは、
 政策計画のための防衛補佐官を務め、「レーガン・ドク
 トリン」と呼ばれる秘密援助プログラムの実施を担当し
 た。
  1975年~1976年に、アメリカが、中国との情報と軍事
 関係を樹立することを勧告する外交政策と国際安全保障
 に関する記事を発表されたが・・、
  このロナルド・レーガンや 、 ヘンリー・キッシンジ
 ャー 、 ジェームズ・シュレシンガーが公式に推薦した
 この提案は・・、
  カーター・レーガン政権時代のアメリカの政策となっ
 た。
  そして、このマイケル・ピルズベリー(米国防総省顧
 問)の言葉・・、
  「かつてアメリカは、日本に黙って中国軍を支援して
 来た」・・と語った。
  (参考)マイケル・ピルズベリー:
  1945年、米カリフォルニア生まれ。
    米スタンフォード大学卒業(専攻は歴史学)後、
   米コロンビア大学にて博士課程を修了。
  1969年~1970年、国連本部勤務を経て、
  1973年~1977年、ランド研究所社会科学部門アナリス
   ト、
  1978年、ハーバード大学科学・国際問題センターのリ
   サーチフェロー、
  1981年、国務省軍備管理軍縮庁のディレクター代行、
  1984年、国防総省政策企画局長補佐、
  1986年~1990年、議会上院アフガン問題タスクフォー
   ス・コーディネーター、
  1992年~1993年、国防総省総合評価局特別補佐官、
  1998年~2000年、国防総省特別公務員(米国国防科学
   委員会)、
  1997年~2000年、米国防大学客員研究フェロー、
  2001年~2003年、国防総省政策諮問グループメンバー、
  2003年~2004年、米中経済・安全保障検討委員会シニ
   ア調査アドバイザー、
  2004年以降、現在も国防総省顧問を続けながら、ハド
   ソン研究所中国戦略センター所長を務める。
     米外交問題評議会と米シンクタンクの国際戦略
   研究所(CSIS)のメンバーでもある。
   著書:『Chinese Views of Future Warfare』『China
 Debates the Future Security Environment』などがある。
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