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2016年8月20日土曜日

(増補版)404E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1884年12月~1885年1月)

題:(増補版)404E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1884年12月~1885年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1885年、出来事:
・明治天皇陛下が、山陽道を御訪問された。
  明治天皇陛下は、山陽道巡幸で・・、
  1885年(明治18年)8月3日、広島国泰寺高校の前身で
 ある広島中学校へ立ち寄られた。また・・、
  1885年(明治18年)8月7日、明治天皇陛下は、山陽道
 御巡幸の折、吉井川磧にて休憩され田植えの様子を御覧
 になられた。また・・、
  1885年(明治18年)8月8日、明治天皇陛下は、山陽道
 巡幸の途中、船坂村梨ヶ原の瀧川武平宅にて休憩された。
  因みに、明治天皇陛下の地方巡幸は、すべてで97件(
 うち、即日還幸37件)に達する。
  6大巡幸が・・、
  (1)1872年(明治5)5月23日~7月12日、近畿・中国・
      九州地方、
  (2)1876年6月2日~7月21日、東北地方(函館を含む)、
  (3)1878年8月30日~11月9日、北陸・東海道地方、
  (4)1880年6月16日~7月23日、中央道地方、
  (5)1881年7月30日~10月11日、東北・北海道地方、
  (6)1885年7月26日~8月12日、山陽道地方・・
・初代内閣総理大臣、伊藤博文、第1次伊藤内閣:1885年
 (明治18年)12月22日~1888年(明治21年)4月30日
1885年、経済・金融・貿易:
・日本銀行券(兌換銀行券)の発行が開始された。
・この年、綿布の国内生産額が、輸入額を上回った。
1885年、産業:
・秋田の阿仁鉱山が開業した。
  阿仁鉱山(あにこうざん)は、秋田県北秋田市にあっ
 た鉱山で、金、銀、銅が採掘され、
  特に、銀鉱、銅鉱の産出が多く、
  1716年(享保元年)には、産銅日本一となり、長崎輸
 出銅の主要部分を占めた。
  明治初年に、官営鉱山となったのち、
  1885年(明治18年)に、古河市兵衛に払い下げられた。
・日本郵船会社が設立された。
  日本郵船株式会社(にっぽんゆうせん)は、1885年(
 明治18年)9月29日に、創立された。
  三菱商事とともに、三菱財閥(現・三菱グループ)の
 源流企業で、
  1893年(明治26年)12月15日に、株式会社になる。
  日本の3大海運会社の一つ。
・三菱社で鉄製の浚渫船が竣工した。
  幕府直営の長崎製鉄所は、明治維新で、官営の長崎製
 鉄所となり、
  1871年(明治4年)に、工部省所管の長崎造船所と名称
 を改称した。
  この頃、三菱社は、自家造船所経営の必要に迫られ、
  政府が、民間に経営を委ねる方針を出した時、機を逸
 せず長崎造船所の貸与を願い出た。
  1884年(明治17年)7月に、三菱経営となり、積極的な
 経営で、本格的な造船所として発展した。
  1885年(明治18年)には、早くも鉄製の浚渫船を竣工
 させ、
  続いて、長崎造船所で建造した最初の鉄製汽船「夕顔
 丸」を竣工させた。
1885年、交通:
・山手線(品川~赤羽間)が開通した(2月)
  山手線は、もともと日本鉄道が、現在の東北本線、及
 び、東海道本線を連絡するために、品川駅~赤羽駅間の
 山の手に敷設した線路。
  そして、東京市街地の拡大に伴い、市街を巡る大都市
 の基幹交通路線に性格を変えていく。
  電車が、運行を開始したのは1909年。
  そして、1925年に、現在のように、環状運転が実施さ
 れるようになった。
  日本鉄道品川線と呼ばれたこの路線は、港があった品
 川・横浜方面と、東京の北側を結ぶ日本鉄道第一区線の
 一部として計画された。
  しかし、起伏地の山の手に、線路を敷くには、技術的
 にも資金的にも困難であったことから、
  まずは、日本鉄道第一区線の開業を優先し、
  1883年(明治16年)7月28日に、江戸下町の北部にあた
 る現在の上野駅の地を起点として開業した。
  そして、その後の1885年(明治18年)3月1日に、当初
 の計画に準じ、日本鉄道第一区線と、官設鉄道(現在の
 東海道本線)とを連絡する品川駅~赤羽駅間(現在の山
 手線品川駅~池袋駅間と赤羽線池袋駅~赤羽駅間)が開
 業した。
・阪堺鉄道が開通した。
  阪堺鉄道(はんかいてつどう)は、南海電気鉄道の前
 身となる鉄道事業者で、
  現在の南海本線難波駅~堺駅間を開業させた。
  日本鉄道と東京馬車鉄道に次ぎ、日本で3番目の民営鉄
 道事業者(私鉄)である。
  そして、1885年(明治18年)12月27日に、開業式を挙
 行し、
  同年・1885年12月29日に、難波駅を起点にして、天下
 茶屋、住吉を経て、大和川北岸(大和川駅)に至る区間
 の営業を開始した。
1885年、衣:
・東京女子師範制服を洋服とした(10月)
  東京女子師範学校(とうきょうじょししはんがっこう)
 は、1874年に設立された官立師範学校で、
  1885年の東京師範学校への統合を経て、
  1890年に、「女子高等師範学校」として分離・改組し、
  1908年、東京女子高等師範学校に改称された。
  現在のお茶の水女子大学の旧制前身校。
・婦人束髪会発会し、束髪多くなり、リボンが流行し始め
  た。
  水油には、ツバキ油、クルミ油、ナタネ油、サザンカ
 油、ゴマ油などの不乾性ないし半乾性植物油で、酸価の
 低いものが使われた。
  しかし、1885年に結成された婦人束髪会は、それまで
 の髪油を多用した髪形は、不便、不潔、不経済であると
 宣伝したこともあって、日本髪に代わって束髪が流行し
 た。
・兵営にバリカン献納を出願するものあり。
・東京神田に、セルロイドで、櫛の製造をなすものあり。
  セルロイドは、世界最初の人工プラスチック(合成樹脂)。
  1865年、イギリス人のA・パークスが、硝酸セルロー
 スと、樟脳の固溶体について特許を取得した。
  その後、1868年に、アメリカ人のJ・W・ハイヤット
 がセルロイドを発明し、
  自らのセルロイド製造会社において企業化した。
  当時、欧米で大流行していたビリヤードの象牙球が、
 高価だったので、ビリヤードボール製造業者が、安価な
 代替品の開発を懸賞金付きで募集した。
  これに応募したことがきっかけだった。
  日本では、1877年(明治10年)に、ドイツから神戸の
 外国人居留地22番のフランス商館に、赤色板状の一片の
 セルロイド生地見本が初めて輸入され、
  大阪の西川伊兵衛が買い取った。
  これが、日本におけるセルロイド史の最初となった。
  1885年(明治18年)に、横浜ドイツ商館に、ドイツ製
 セルロイド「擬珊瑚珠」が入荷し、
  この擬珊瑚珠は、「ゴム球」または「あずま球」と称
 され、櫛(くし)、簪(かんざし)、根掛(ねがけ)な
 どとしての需要を喚起した。
  因みに、根掛は、日本髪の髷の根元に巻きつけて用い
 る紐状の飾り物。
・婦人用洋式日傘流行する。
・インド産天然藍の輸入が盛んになる。
  インドの今までの状況・・イギリスの経済的繁栄を築
 きあげた基盤である「産業革命」は、
  インドの富が流入することによってのみ可能であった。
  このことは、色々と指摘され明らとなっている。
  この借り入れではなく、無利子で持ち去られた流入資
 本がなければ、支配的な立場にあって、大量生産に必要
 な蒸気機関や機械設備は、利用されていないままだった。
  イギリスの利得は、インドの損失であった。
  この損失は、インド工業の欠乏と、農業発展の遅滞の
 大きな原因となった。
  どれだけ富や資源を持っていようとも、この様な流出
 にインドは耐えた。
  インドの富は広範囲に搾取された。
  イギリスは、輸入税、関税、消費税など、税関系から
 も利益を搾取した。
  インドの藍生産は、18世紀の末に始まった。
  そして、50年間において、藍産業は急速に成長し、そ
 の生産は増大した。
  重要な輸出品となった。
  ドイツの科学者が、合成染料の試みに成功していたが、
 このインドの藍生産と発展は止められなかった。
  そのインドから、天然の藍が盛んに輸入された。
.
  (今日の言葉)
.
  題:本当に、腹だたしい事である・・
.
  以下の文献は一例である。
  この様な事が誠に多かった。
  占領軍の事である。
.
1946年、特殊慰安施設協会
  特殊慰安施設協会という施設がある。
  これは、アメリカ軍兵士を相手にする慰安婦(売春婦)
 が居た慰安所である。
  「浦安ハウスに集まる米国将兵たち}との説明文が付
 いた写真があるが、存在は事実である。
  英語では Recreation and Amusement Association と
 言い、RAA の頭字語で知られた。
  直訳は「余暇・娯楽協会」であり、
 日本語の名称との間で意味が大きく異なる。
  このRAAとは別に、米軍の女性兵士用の「慰安夫」の施
 設も存在した。
  (これまで用意せよとアメリカから言われた)
  この設立の背景には、ヨーロッパの戦場で、アメリカ
 軍によるレイプの被害者が14,000人(内、ドイツ人女性
 が11,040人)いた事である。
  フランスにおいて、アメリカ軍のフランス女性に対す
 るレイプが多発したため、
  また、アメリカ兵のみだらな行為(町中での性交)を
 行っている姿を見ないで街を歩くことが出来なほどの乱
 れた酷い状態に、ル・アーヴル市長が、慰安所の設置を
 アメリカ軍に懇願したぐらいだった。
  日本の場合の沖縄においても、アメリカ軍上陸後、強
 姦が多発した(どこでも酷いアメリカだった)。
  アメリカ軍兵士により強姦された女性数は、10,000人
 との見解がある。
  アメリカ軍の日本に進駐した際にも・・、
  最初の10日間だけで、また、神奈川県だけで、1,336件
 の強姦事件が発生している。
  アメリカ軍上陸後1ヶ月で、3,500人以上の女性が被害
 を受けたという調査結果もある。
  また、横須賀の慰安所を閉鎖した後、強姦がまた多発
 したので、再度、慰安所を開いたという話もある。
  あまりにひどい状況に、日本の女性を守るため、アメ
 リカ軍基地が集中する神奈川地域の大森海岸の「小町園」
 を慰安所第一号にした。
  この後、日本各地につくられたが、熱海の旅館は、そ
 れ用として「日本人お断り」となっていた。
  作家の高見順が、その事を公言している。
  1945年12月時点で、アメリカ軍主体の在日連合軍は、
 43万287人が駐屯していた。
  問題を何とかしなければならない人数であった。
  それでなくても多くの問題が『多発』した。
  アメリカ軍側からの積極的な『要請』もあった。
  1945年9月28日、占領軍の軍医総監と、公衆衛生福祉
 局長・サムス大佐が、
  東京都衛生局防疫課長に対し、
  具体的な都内の売春街等の話を出しながら、占領軍用
 の女性を世話をしてくれと要求した。
  そして、『将校用』『白人兵士用』『黒人兵士用』に
 仕分けしてくれとの要求もあったので、その要求に応ぜ
 ざるを得なかった。
  戦後、都政が発令した条例の第一号が、この占領軍相
 手の女性に関係するの条例であった。
  性病予防規則など。
  RAA廃止後に、赤線経営を残したが、占領軍による強姦
 が急増した。
  RAAがある時の強姦・婦女暴行が、1日平均40件であっ
 たのが、
  RAAが無くなった1946年前半の強姦・婦女暴行数は、
 1日平均330件と、8倍以上に急増した。
  進駐軍による横須賀や、横浜をはじめ、民家に侵入し
 日本人女性を強姦する事件が『多発』した。
  1945年8月28日には、マシンガンで武装したアメリカ軍
 兵士たちが乗り込み、すべての慰安婦たちを強姦した事
 件などが多発した。
  横浜の慰安所では、100名を超える武装したアメリカ兵
 が、開業前日の慰安所に乗り込み、慰安婦14名を強姦し
 た。
  さらに翌日、抵抗した慰安婦を、アメリカ兵が絞殺す
 るという事件も起きた、
  精神を患う慰安婦や、自殺する慰安婦も少なくなかっ
 た・・などなど。
  あまりに多い事件に、占領軍は、『新聞報道をするな』
 と口封じ命令を出した。
  武蔵野市では、小学生が集団強姦され、
  大森では、病院に200人~300人の米兵が侵入し、妊婦
 や看護婦らが強姦され・・、
  あまりに多いので・・以下を略す。
  まったく悲惨だ、そのすべてをユネスコの世界記憶遺
 産に登録すべきだ。
  日本政府のこの進駐軍の不法行為の調査資料も米軍は
 没収した。
  30年近くも経てから(1973年)この資料は返されたが、
 何ら役に立たない頃の返還だった。
  世界で、アメリカが一番ひどい。
  韓国は、中国の冊封(さくふう)によって従属状態と
 なり、頭を下げていた国だ、アメリカや中国には何も言
 えない。
  自分の国の酷さを棚に上げて、おとなしく対応してく
 れる日本ばかりを「うっぷん晴らし」の対象にする。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
 

2016年8月18日木曜日

(増補版)403E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1884年12月~1884年12月)

題:(増補版)403E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1884年12月~1884年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1884年12月17日、大隈重信、河野敏鎌が、立憲改進党を離
 党した。
  総理の大隈と副総理の河野が仲間割れで離党した。
  この仲間割れは、大隈の求心力低下が原因だった。
  直接的には、1884年になると、組織改革を巡る紛糾が
 強まって、解党論まで出てくる始末だった。
  首脳部の離党があったが、慶應義塾系と嚶鳴社系を中
 心とする集団指導体制で、辛うじて解党は防がれた。
  しかし、ほとんど活動は、不可能状態となった。
  過激な事件があちこちで起き、政府の取締りも厳しく
 なり、また、自由党も、1884年10月29日に、解散し、
  この後の1884年11月頃より、立憲改進党内に解党論が
 出てきた。
  そして、この総理と副総理や、めぼしいメンバーの離
 党が起きた。
  党内には大きな動揺が走った。
  しかし、規約を改正して集団指導体制を取って、党は
 維持された。
  大隈は、脱党したとはいえ、その後も影響力は強かっ
 た。
1884年12月20日、華族就学規則が制定された。
  華族の方たちの多くは、明治の新政府の新しいポスト
 には就かなかった(就けなかった)が、
  政府は、こうした華族の方たちに、国会開設の際には、
 上院議員として政府の一翼を担っていただこうと期待し
 ていた。
  この事もあり、幕末に志士として活躍した優秀な士族
 の方たちにも爵位を授与していた。
  また、華族の資産が、日本の資本主義経済の成立や、
 発展に、大きくかかわっていたことが、経済史の視点か
 ら、学究の徒により研究され、確認されている。
  華族制度は、過去の事象ではなく、現代社会において
 も大切な意味を持っている。
  失われつつある社会集団の民族史的研究など、研究す
 る意義が深いと言われている。
  庶民文化の研究の必要性と同等に、エリート層文化へ
 の理解を深める必要性はあり、そして、高い重要度があ
 ると指摘されている。
1884年12月23日、院内鉱山が、古河に払下げ許可となる。
  院内鉱山は、院内銀山とも言い、
  秋田県雄勝郡院内町(現在の湯沢市)にあった鉱山で、
 「東洋一」の大銀山とうたわれ、
  年間の銀の産出量は、日本一を何度も記録した。
  明治期に、鉱山王であった古河市兵衛が働いていた小
 野組が経営権を握った。
  そして、その小野組が解散した後の1884年のこの日に、
 工部省から古河市兵衛へ払い下げられた。
  古河は、払い下げられた最新式掘削機器に加え、
  同時に買収した日本国内の他の鉱山から、西洋で学ん
 だ技術者を連れて来て、近代的な鉱山経営を行った。
  これにより、ますます銀の産出量は増え、
  古河は、院内のほか、阿仁鉱山など、東北地方を中心
 に多くの鉱山の経営を行った。
  その利益を元手に、日本最大の鉱山であった足尾銅山
 を買収し、古河財閥を作り上げた。
  明治時代、院内は、日本4位の銀山だった。
1884年12月24日、外務卿・井上馨を朝鮮に遣して談判
  井上は、1884年12月4日に起きた甲申事変で、朝鮮の宗
 主国だと清が介入するため渡海した。
  そして、翌年・1885年1月9日に、李氏朝鮮と漢城条約
 (かんじょうじょうやく/ハンソンチョヤク)を締結し
 て危機を脱した。
  朝鮮側の全権大臣は金弘集であった。
  また、1885年4月には、伊藤が、清と天津条約を締結し
 ている。
  漢城条約締結時に、日本が朝鮮王宮に入ったことが問
 題となったが、
  日本は、朝鮮国王の親筆書があることと、また、朝鮮
 国王の玉璽の捺された詔書があることを示し、要請によ
 って入城したことをはっきり示した。
  このようなやりとりから、解決は平行線を辿った。
  ここで、井上馨は大局的判断をして、両国関係の速や
 かなる修復こそが肝要だとし、
  「朝鮮国内で日本人が害されたこと」「日本公使館が
 焼失したこと」という明白な事実のみを対象に、交渉を
 早期妥結することを提案し、その他の事は棚上げとした。
  この提案は、最終的に朝鮮側の同意を得て、条約への
 進捗を見た。
  この交渉の中、清国が話し合いに介入する一幕があっ
 たが、第三国の容喙(ようかい、横から差し出ぐちをす
 ること)をきっぱり許さず、条約の締結がなされた。
  締結された条約の内容・・、
  第一款:朝鮮国は国書をもって日本国に謝罪を表明す
    ること。
  第二款:日本国民の被害者遺族並びに負傷者に対する
    見舞金、及び、暴徒に略奪された商人の貨物の補
    填として、朝鮮国より11万円を支給すること。
  第三款:磯林大尉を殺害した犯人を捜査・逮捕し、正
    しく処罰すること。
  第四款:日本公使館を再建する必要があるので、朝鮮
    国が代替の土地と建物を交付しそれに充てること。
     また、修繕・改築費用として、朝鮮国は2万円を
    支給し、工費に充てること。
  (当初は再建費用4万円を要求していたが、朝鮮側が減
   額を望んだので、井上が既存の建物を改修して用い
   るという修正案に改めた)
  第五款:公使館護衛兵用の兵営は新しい公使館に相応
    しい場所に移動し、その建設と修繕は済物浦条約
    第五款の通り朝鮮政府が施行すること。
1884年12月25日、海軍省軍事部を廃止した。
  1884年2月に、海軍省達丙第21号により、海軍省軍務局
 を廃して、海軍省の外局組織として軍事部(軍令専掌機
 関)が設置され、初めて軍令をつかさどった。
  (参考)軍令:ぐんれい、明治憲法下で、作戦・用兵
    に関する統帥事務。
1884年12月26日、判事登用規則が定められた(太政官達第
 102号)
  司法官任用のための試験。
  「判事ニ登用スルハ法学士代言人及ヒ試験ヲ行ヒ及第
 シタル者ニ限ル」
  これ以前は、自由任用、または、司法省法学校(正則
 科及び速成科)の卒業生からの任用が行われていた。
  判事登用規則による試験は、1885年から1887年まで、
 計5回行われ、
  合計682名の合格者を出した。
  これには、裁判所内の判事補・検事補・書記を対象と
 した部内試験合格者518名と、
  司法省法学校速成科卒業者101名も含まれており、
  私立法律学校卒業者は63名であった。
1884年12月27日、火薬取締規則が制定された。
  同時に、爆発物取締罰則も布告された(太政官布告第
 32号)
  治安を妨げ、人の身体・財産を侵害する目的による爆
 発物の使用等を処罰することを規定する太政官布告であ
 った。
  施行は、翌年の1885年1月15日。
  この頃の社会情勢において、自由民権運動の急進派に
 よる暴動事件が続発していた時期で、
  警察官に対する爆発物の使用なども行われたという背
 景もあった。
  また、この頃、ヨーロッパでも同種の立法の動きがあ
 った。
1884年12月27日、往復ハガキの発行が始まった(1885年1月
 1日説、1885年3月説あり)
1884年6月、清仏戦争(~1885年6月)
  ベトナムの領有・植民地化を目指すフランスと、
  清国は、ベトナムの宗主権を主張し
  ベトナム藩属国(宗主国の清国に対して、下位の意味
 を込めて藩属という)として、その宗主権があるとし、
  その清(中国) とフランスの戦争(フランスの領土的
 野心の戦争、1840年代からくすぶっている)。
  アジアにおける植民地獲得競争で、イギリスにインド
 から締め出されたフランスは、
  ナポレオン3世(在位:1852年~1870年))の治世以来、
 積極的なインドシナ政策を推し進め、
  その橋頭堡としてベトナムの支配に乗り出した。
  フランスのインドシナ進出は、19世紀後半のナポレオ
 ン3世時代に積極化した。
  1862年以降、フランスは南部ベトナムを占領し、植民
 地化し、第1次サイゴン条約(1862年、ベトナム王朝と締
 結)をした、ついで、
  1874年にベトナム王朝と結んだ第2次サイゴン条約によ
 って、フランスがベトナムを実質上保護領化すると、
  清は宗主権を主張してフランスに抗議した。
  1882年、フランスは、北部利権の確保を目的として、
 H・リビエールを派遣して、ハノイを占領した。
  1883年、清国の劉永福(りゅうえいふく)に率いられた
 黒旗軍はリビエールを倒し、フランス軍を駆逐した(1883
 年5月19日、ハノイ攻防戦にてリビエール戦死)
  フランスの第2次フェリー内閣は、成立後に活発となり、
 強硬政策に転じ、
  フエ(ユエ)に派兵してアルマン条約(1883年8月25日、
 フランスとベトナム間で調印された)を強制し、
  フランス保護権の設定、黒旗軍の否認、駆逐を約束さ
 せ、ベトナムをフランスの保護国とした。
  ベトナムの宗主国の清国(中国)は、これに対し、黒
 旗軍の指導者・劉永福を、越南東京(トンキン)(ベトナ
 ム北部)経略大臣とする一方、大兵を北部に派遣した。
  清・ベトナム国境付近のバクレでの両軍衝突を口実に
 フランスは武力を行使し、
  フランス軍はこれを駆逐して、北部一帯を占拠したた
 め、
  李鴻章(りこうしょう)は、1884年5月、天津(てんしん)
 協定を結んで北部からの撤兵を約束した。
  しかし6月、中越国境に近いバクレで、清軍はフランス
 軍を大敗させた。
  フランスは、これを口実に、8月、クールベ提督をして
 福州の清国南洋艦隊を壊滅させ、さらに台湾を封鎖した。
  清は、宣戦に踏み切り、次第に劣勢をばん回した。
  清軍は、中越国境でフランス軍占拠地を奪回し、善戦
 を繰り返した。
  しかし、清国は、戦いに敗れて行った・・、また、
  1885年3月、クレマンソー内閣の成立とともに和議が進
 み、
  1885年6月9日、李鴻章とパトノートル間に清仏天津条
 約が締結された。
  これにより、清は、ベトナムに対する宗主権を放棄し、
 ベトナムのフランスの保護国化・保護権を認め、ベトナ
 ムはフランスの保護領となった。
  また、雲南を開放した。
  しかし、ベトナムの民族派官人は、これに対し、咸宜
 (かんぎ)帝(ハムギ帝)を擁して、1888年まで、抵抗を
 続けた。
  清仏戦争は、フランス帝国主義政策の端緒をなしたと
 ともに、
  清の無力を暴露、民衆レベルの反帝国主義闘争を活発
 化させる因をつくった。
1884年10月、グリニッジ子午線の設定
  アメリカのワシントンで、国際子午線会議が開催され、
  ロンドンのグリニッジ天文台を通る子午線が「経度0度」
 に決められた。  標準時制定(1886年)
  アメリカで、万国子午線会議が開催。
  グリニッジ子午線を国際的な本初子午線に制定する。
  1886年7月13日、東経135度の兵庫県明石市の時刻を、
 日本の標準時とすると、勅令が公布された。
  明治十九年勅令第五十一号(本初子午線経度計算方及
 標準時ノ件)
  東経135度の子午線を、太陽が通過する時刻が、正午と
 なり、明石市の正午が日本全国の正午に。
  グリニッジから整数の時間差で、自国の標準時を決定
 する。
  経度が15度毎に、時差は1時間。
  明石市は9時間進む位置に。
  (万国子午線会議)が行われるまでは、本初子午線は
 国によってまちまちであった。
  しかし、遠洋航海が活発化するにつれ、それでは不都
 合が生じることがわかり、本初子午線を統一する事にな
 った。
  25ヶ国の代表が集まり決定した場所が、ロンドンのグ
 リニッジ天文台。
  ここは、イギリスの経線測定の拠点だった。
  この決定の背景には、イギリスが経線測定に力を注ぎ、
 クロノメーターによる測定法を確立したという実績と、
 当時、イギリスが世界の海を制覇していたことがあった。
  しかし、これに反対した国があった。
  それはフランスで、今でもフランスは、この決定に不
 満で、国内図に関しては決定以前のとおり、パリに本初
 子午線を設けている。
  プライドの高い国である。
1884年、イギリス:第三次選挙法改正(農民らに選挙権)
1884年11月15日、アフリカ分割が討議されたベルリン会議
 (~1885年2月26日)
  ヨーロッパ各国は、帝国主義的侵略の国で、アフリカ
 を餌食として、取り合っていた。
  人類史上最悪の欲のある西洋列強の姿だった。
  その調整の場が、1884年から1885年のベルリン会議で
 あった。
  各国は、アフリカ固有の民族、文化などの差異をまっ
 たく無視し、恣意的(しいてき、気ままで自分勝手に)
 に国境線を引き、領土を決めた。
  この帝国主義分割によって、全大陸の9割がヨーロッパ
 列強の支配下に置かれた。
  1884年から1985年にかけて、中央アフリカを分割する
 コンゴ盆地条約が結ばれるが、国境線は直線によって分
 割された。
  この様に、アフリカの国境線は直線が多い。
.
  (今日の言葉)
.
  題:慰安婦のこと・・、今度は韓国が謝罪する番だ。
   まず、ベトナムから・・次は・・、そうそう、自国
   の女性の方々へも・・朝鮮戦争の時もひどかった・・
   ・・アメリカと一緒になって・・
.
1945年、イギリス人記者のH・S・ストークス氏は、戦争
 における慰安婦の歴史は世界のどこにもある・・と言う。
  また、ストークス氏は・・
  日本は、兵士の性処理にあたって秩序を保って対応し
 た。
  現地の女性の人権が蹂躙されることがないように、「
 慰安所」を設置した。
  慰安所の存在が、一般女性への強姦を防ぐことにもな
 った。
  日本は、女性の人権に、他国よりもはるかに配慮して
 いた・・と書く。
  そう言えば、アメリカが、第二次大戦後に日本に進駐
 した時、アメリカ軍の駐留地の近くの日本女性が、強姦
 される数が、非常にと書くほど非常に多かった。
  アメリカ兵が、集団で強姦をし続けている状況が起き
 た。
  病院が襲われ、そこの看護婦さんたちが被害を受けた
 という事件もあった。
  こんな事件ばかりだった。
  何らこの事で、アメリカは糾弾されることはないが、
 その様な事が起きていた。
  銅像を建てたら・・銅像だらけになる状況だった。
  まったくひどいことが起きていた。
  そして、イギリス人記者H・S・ストークス氏は、以
 下の様に自著に書く・・、
  現代病としての戦争は、ナポレオンから広まり、社会
 全体に塗炭(とたん)の苦しみを与える様になった。
  ナポレオンによって戦争の在り方が変わり、国全体を
 巻き込むようになった。
  この過程で、兵士相手の売春も拡大した。
  かつて戦場に伴われた女性は、トロイ戦争のヘレンの
 様な王族だけだったが・・
  (注):キリスト教十字軍は、一般兵士の為の慰安婦
    を同行させていた・・ストークス氏のこの記述は
    この事例などを見落としている・・ほかにも事例
    は色々ある)
  今日ではシリア、レバノンなどの戦争地帯は、パリ、
 ロンドン、ニューヨークと並んで世界屈指の売春地帯と
 なっている。
  売春はビッグ・ビジネスだ。
  商魂たくましい女衒(ぜげん、女性を遊女屋などに売
 ることを業とする人)は、チャンスを見逃さない。
  売春は世界で最古の商売であり、売春を世の中から根
 絶させる事は、戦争をこの世から消滅させるぐらいに難
 しい。
  女性や子供は、誰よりも保護されるべき存在だが、戦
 争における人権の蹂躙は女性に限らない。
  歴史を振り返れば、日本は兵士の性処理にあたって、
 おおむね秩序を保って対応した。
  戦場のどこであっても、現地の女性の人権が蹂躙され
 ることが無いように、「慰安所」を設置した。
  (日本の事例ではないが・・)性病が蔓延して、軍と
 して機能しなくなった歴史の教訓がある。
  慰安所の存在が、一般女性への強姦を防ぐことにもな
 った。
  日本は女性の人権に、他国よりもはるかかに配慮して
 いた。
  慰安婦の問題は、今後も戦争のたびに論議されよう。
  私もベトナムでその現実を目にした(韓国やアメリカ
 がひどかった)。
  こんにちのホーチミン市にアラルサイゴンには、売春
 婦がたむろしていた。
  韓国も、他国の事を批判できるような立場にはない。
  アメリカも日本を占領したときに、真っ先に要求した
 のが、アメリカ兵のために売春施設を設ける事だった。
  (中略)
  今日のマカオの賭博場での最高のサービスは、セック
 スだ。
  一般の社会でも、慰安婦が厳然と存在している。
  性サービスが終焉する日が来るだろうか。
  答えはノーだ。
  それどころか拡大している。
  (アメリカの)ペリーは大勢の男たちを引き連れて、
 アフリカから喜望峰(きぼうほう)を回って、日本まで
 やって来た。
  黒船艦隊に乗っていた男たちの夢は、東洋(日本)の
 女性と性交をしまくることだった。
  現代では、売春は違法として取り締まられているが・・、
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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2016年8月17日水曜日

(増補版)402E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1884年11月~1884年12月)

題:(増補版)402E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1884年11月~1884年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1884年11月16日、猿若座が、浅草西鳥越町に移り、新築開
 場式を挙行した。
  これは、後の、中村座で、
  1624年(寛永元年)に、猿若座(さるわかざ)という
 名前で作られたのが始まりの、江戸で最も権威のある芝
 居小屋だった。
1884年11月20日、産業教育が始まった。
  JR八高線の児玉駅から 南西に約300メートル。
  児玉公民館の前に 「産業教育 発祥之地」の碑が建つ。
  この地は もと埼玉県立児玉農工高等学校があった場所
 で、さらに、その起源をたどると、
  1884年(明治17)年に、「競進社養蚕伝習所」が開設さ
 れ、養蚕技術の教育が行われた場所であり、
  その歴史によって 産業教育発祥の地とされている。
  副碑には・・、
  明治17年(1884年)、 木村九蔵は この地に競進社養蚕
 伝習所を開設、養蚕技術の研究と普及に務めた。
  これが、本県(埼玉県)における産業教育の始まりと
 されている。
  さらに、この競進社養蚕伝習所は、明治32年(1899年)
 競進社養蚕学校として発足した。
  これは、本県最初の農学校の誕生であった。
  その後、競進社養蚕学校は、競進社実業学校、児玉農
 学校、学校法人児玉農業高等学校と校名を改め、
  昭和47年(1972年)、 県に移管され、埼玉県立児玉農工
 高等学校となり、
  昭和49年(1974年) 児玉町金屋へ移転した。
  同校の創立90周年を機会に、この地を、本県の蚕業教
 育発祥の地として、地域社会、地域住民の誇りをこめ、
 この記念碑を建立するものである・・とある。
1884年11月28日、朝鮮問題対策において乙案を採用した。
  壬午事変(じんごじへん、1882年)にかかわった朝鮮
 の開明派の金玉均は、アメリカ公使フートと、イギリス
 領事アストンと頻繁に接触した。
  情況や意向を伝えたが、フートもアストンも、朝鮮独
 立と改革への意志を評価しながらも、『時期尚早』との
 態度を示した。
  そして、アメリカもイギリスも、自国が直接支援に動
 かないと否定した。
  日本は、1884年11月2日に、朝鮮の竹添公使が、朝鮮王
 の高宗王に謁見し、村田銃16丁などを献納して、壬午軍
 乱の賠償金の残り40万円を日本が放棄することを伝えた。
  この頃、案が2つあった。
  甲案は、金玉均は「日本が支援してくれれば、開明派
 は、すぐ行動を起こす」と言っていた路線で、朝鮮国王
 の依頼から王宮を守衛する案だった。
  乙案は、清国と事を構える事を避け、経過を見て行く
 という案だった。
  そして、この日に、乙案が採用された。
  しかし、1884年12月4日に、甲申政変が発生する。
1184年11月29日、小学校の教科に、はじめて英語が登場し
 た。
  明治期を通じて、小学校から英語教育が排除されたの
 は、1879年(明治12年)の「教育令」から、1884年(明
 治17年)の「小学校教則網領」の間のみであった。
  因みに、明治期の小学校は、1886年(明治19年)より
 尋常科と高等科に分かれ、
  その尋常科、高等科ともに4年間であったが、義務教育
 は尋常科の4年間だけで・・、
  小学校に制度としての「英語科」が設けられたのは、
 高等科(10~14歳)の方で、それも随意科目(選択科目)
 としてだった。
  以上の様に・・、
  1872年(明治5年)学制頒布。
  「小学」の規定に「外国語学ノ一二」とあることから
 外国語は状況によっては教えてもよい科目となった。
  1879年(明治12年)「教育令」によって、小学校の教
 科目から外国語が除外された。
  1884年(明治17年)「小学校教則網領」で、土着の状
 況によって英語を加えることができる・・となった。
  1886年(明治19年)小学校令の改正により、小学校が
 尋常小学校(4年間)と、高等小学校(4年間)に分かれ、
 尋常小学校の4年間が義務教育期間とされ、
  英語は、高等小学校で教えられた。
  1907年(明治40年)尋常小学校が6年間、高等小学校が
 2年間となった。
  英語は、それまでより2年遅れてスタートすることにな
 った。
  1911年(明治44年)小学校の英語は、「商業」の授業
 に含められることとなった。
1884年11月29日、同業組合準則を制定した。
  当時の事業者団体の主目的は、職工争奪の防止などで
 あり、同業者の協調にあった。
  しかし、1892年に、紡績連合会が、生産制限を実施し
 た。
  これは、カルテル(市場支配などの目的の企業連合)
 活動だった。
  法的整備では・・、
  この年の1884年に、同業組合準則、
  1890年に、産業組合法の制定で、これにより、中小企
 業者の組織化が図られ、
  同年・1890年の商業会議所条例、
  1897年の重要輸出品同業組合法の制定によって、大企
 業者の組織化が図られ、
  その後、第一次世界大戦後の恐慌のもとで、生産制限
 の色彩が濃い重要産業統制法が、1931年に制定された。
1884年11月、築地訓盲院を訓盲亞院と拡大した。
  盲人の方だけでなく、聾唖者の教育も行なうという観
 点から聾唖者を受け入れることとなった。
  また、そのため、訓盲唖院と改称した。
1884年11月、フランス人ルルーが来日した。
  シャルル・エドゥアール・ガブリエル・ルルーは、フ
 ランス生まれの音楽家、作曲家、フランス陸軍大尉。
  軍楽の指導を通じて、日本への近代音楽の普及発展に
 貢献した。
  その作品『扶桑歌』『抜刀隊』の二つを編曲した『陸
 軍分列行進曲』は、現在も、陸上自衛隊、及び、日本警
 察の観閲式などで行進曲として使用されている。
  勲四等瑞宝章、勲五等旭日章、レジオン・ド=ヌール(
 シュバリエ)勲章を授賞されている。
  この年・1884年に、第3次フランス軍事顧問団の一員と
 して来日し、
  前任のギュスターブ・シャルル・ダグロンの後を受け
 て、草創期の日本陸軍軍楽隊の指導にあたった。
1884年12月1日、横浜正金銀行ロンドン支店が開業した。
1884年12月4日、甲申事変(こうしんじへん、甲申政変とも)
  この甲申の年に、朝鮮のソウルで、改革を目的として
 閔(びん)氏政権を打倒し、国王親政の下に、国政を改革
 しようとした政変が起きた。
  その改革を目ざした派を、「開化派」と言った。
  1882年の壬午(じんご)軍乱以後、朝鮮の対外的危機が
 切迫していた。
  その朝鮮の悪い状況を、支配層内部でも、実学の流れ
 をくむ洪英植(こうえいしょく/ホンヨンシク)、金玉均
 (きんぎょくきん/キムオクキュン)、朴泳孝(ぼくえいこ
 う/パクヨンヒョ)らを中心とする開化派は、
  日本の明治維新をモデルに、朝鮮も近代化を図りたい
 とした。
  留学生の派遣や、『漢城旬報』の発刊などに努めてい
 た。
  一方、朝鮮王の高宗(こうそう)とも連絡を密に取り、
 啓蒙(けいもう)にも努力した。
  しかし、当時、清(しん)国と結んだ守旧派が、政権を
 握っていて、この改革を阻んでいた。
  1884年には、中国の清とフランスが、ベトナムの領有
 を巡って戦った。
  その清仏(しんふつ)戦争で、清国が敗れたのを機会に、
 開化派は、日本の援助を得て、守旧派を排除したいとし
 て、打倒の行動をとった。
  12月4日に、郵政局の落成式典に守旧派の大官を招待し、
 隣家に放火し、逃れる閔泳翊(びんえいよく/ミンヨンイ
 ク)らを殺傷した。
  そして、王宮に居る高宗を保護・掌握した(国王は、
 日本へ協力を求めた)。
  この行動は、一時的には成功し、開化派は、新政府を
 樹立した。
  1884年12月6日には、14か条からなる新政綱を発表した。
  内容は、門閥の廃止、人材の登用、地租法の改革、特
 権商人の廃止、軍制の改革など、諸制度を近代的に改革
 し、
  冊封されていた中国(清国)に対しては、自主外交を
 実行するという綱領を発布した。
  これは、市民革命の志向を反映していた。
  しかし、6日、清国が軍を介入した。
  そのため、新政権は三日天下に終わった。
  洪英植らは殺され、金玉均、朴泳孝は、日本に亡命し
 た。
  日本公使館は焼かれ、日本の公使・竹添進一郎は、仁
 川(じんせん/インチョン)に逃れ、
  ふたたび、守旧派の政権が樹立された。
  北朝鮮では、反封建・反侵略を目ざすブルジョア革命
 と評価しているが、
  支配層内の政権争奪戦とも言われている。
  (氷川清話)朝鮮の変、日清の駐兵互いに撤す。
1884年12月4日、飯田事件(12月6日説あり)
  名古屋鎮台や監獄襲撃の計画が発覚した。
  愛知県と長野県の自由党員らが、名古屋鎮台襲撃計画
 を立てていることが発覚し、村松愛蔵らが逮捕された。
1884年12月6日、朝鮮王国の閔妃らに要請された清国軍が、
 漢城王宮を奪回した。
  (京城にて、清国・袁世凱の兵2,000と、王宮の内外で
 衝突した)
  日本軍は撤収し、日本公使館なども放火され、開明派
 の行動は失敗に終わった。
  朝鮮の各派は、清国に応援を求めたり、日本へ応援を
 求めたりしている状態だった。
1884年12月12日、司法省法学校正則科を、文部省に移管し、
 東京法学校と改称した。
  1884年(明治17年)7月、第二期生卒業。
  入学生104名中、卒業生は37名(法律学士33名、成業4
 名)だった。
  同年・1884年10月、第四期生75名が入学した。
  同年・1884年12月に、文部省に移管されて東京法学校
 となった。
1884年12月14日、阪堺鉄道会社が設立された。
  阪堺鉄道(はんかいてつどう)は、南海電気鉄道の前
 身となる鉄道事業者。
  現在の南海本線難波駅~堺駅間を開業した。
  日本鉄道と東京馬車鉄道に次ぎ、日本で3番目の民営鉄
 道事業者(私鉄)であるという。
  また、日本鉄道は、政府の関係が強い半官半民会社、
 東京馬車鉄道は名前の通り市街交通としての馬車鉄道を
 運営していた会社であったことから、
  この阪堺鉄道会社を、日本最初の私鉄としているもの
 もある。
1884年12月15日、横須賀に鎮守府の開設を布告した。
  横須賀鎮守府(日本海軍の鎮守府)
  東海鎮守府を横須賀に移転し「横須賀鎮守府」と改称
 した。
  横須賀鎮守府とは、神奈川県横須賀市にあった旧日本
 海軍の鎮守府。
  1884年に、東海鎮守府が、横浜から横須賀に移転され
 るとともに、横須賀鎮守府と改称された。
  また、鎮守府条例が制定された。
  1886年4月22日、「海軍条例」において、全国に5つの
 「海軍区」を定め、横須賀鎮守府は、第一海軍区を所管
 した。
  所管は・・、
  「陸中陸奥国界ヨリ紀伊国南牟婁東牟婁郡界ニ至ノ海
 岸海面及小笠原島ノ海岸海面」とされた。
  また「鎮守府官制」により、鎮守府の組織として、参
 謀部・軍医部・主計部・造船部・兵器部・建築部・軍法
 会議・監獄署などを置いた。
.
  (今日の言葉)
.
  題:そのすべてが不法だった。
.
1946年5月3日~1948年11月12日、東京裁判が行われた。
  イギリス人記者H・S・ストークス氏は、自著に、以
 下の様に書く・・、
  私は、市ヶ谷の防衛省内にある、かつて東京裁判が行
 われた講堂を、何度も訪れた・・・
  東京裁判の法廷を訪ねた。
  そこで行われた裁判は、悪意(イーヴィル)なものだ
 った。
  犯罪行為だった。
  戦勝国が、一方的に敗戦国を裁くことは、許されない。
  戦勝国が、敗戦国を裁いて、
  一方の将兵のみを、戦争犯罪人として処刑するのは、
 復讐であり、犯罪である。
  東京裁判を覆(おお)った空気について、多くの関係
 者から聞いたことがある。
  法廷の空気は、とても邪悪(イーヴル evil)で、毒気
 (ポイズン・イン・ジ・エアー)が漂っていた。
  残忍(ナスティーネス)さが渦巻き、検察側には悪意
 が感じられた。
  このため法廷には、恐ろしい(ホリファイイング)気
 配が充満していた。
  東京裁判は数年に及んだ。
  そのすべてが不法だった。
..
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(増補版)401E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1884年10月~1884年11月)

題:(増補版)401E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1884年10月~1884年11月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1884年10月10日、東京湾要塞・相州観音崎の砲台が成った。
  今、史跡として観音崎砲台跡・北門第二砲台跡
  (第二砲台・通称:だんだん砲台)・・がある。
  1980年(明治13年)起工し、
  1884年(明治17年)竣工し、
  1925年(大正14年)除籍された。
  「北門第二砲台は、6門の砲座からなり、
  24センチ口径のカノン砲が、6門設置され、
  左3砲座は、第三海堡との間の海面を射撃して、敵艦の
 交通を途絶、
  右3砲座は、第1砲台と同じく、海門の通過を企てる敵
 艦に対して、予め、なし得る妨害を与えることを任務と
 していた」
  ・・と、説明されている。
  東京湾要塞は、東京湾周辺の防衛を目的に設置された
 要塞で、
  東京湾の砲台、及び、海堡等の建築物を、東京湾要塞
 司令部が管理していた。
  大東亜戦争(第二次世界大戦)時は、第12方面軍の東
 京湾兵団に属した。
  明治時代の建設に始まり、逐次、設備を増やしつつ、
 大東亜戦争の終了時まで運用された。
  最初は、清国北洋水師に対しての・・、
  次に、ロシア太平洋艦隊の来攻を想定しての施設だっ
 た。
  1894年に、臨時東京湾守備隊司令部が置かれ、
  翌年・1895年に、東京湾要塞司令部が横須賀市上町に
 置かれた。
1884年10月13日、グリニッジの世界標準時(GMT)が定ま
 った。
  ワシントンD.C.で開催された国際子午線会議で、
  グリニッジ子午線が、本初子午線として採択された。
  そして、陸域でも、ほとんどの国の時刻帯は、
  このGMTを基準とし、それから数時間だけ進んだ(また
 は遅れた)時刻を標準時として採用した。
1884年10月17日、学生ボート競漕、隅田川吾妻橋付近に催
 される(最初のボートレース)(1883年説あり)
  東京大学走舸組が、隅田川で競漕会を開催した。
  しかし、以下の記述もある・・、
  日本で、ボート競技が、はじめて行われたのは、
  1869年に、横浜寄港中のイギリス軍艦乗組員と 在留外
 国人によって開催され、
  その後、1883年に、現在の東京大学と、筑波大学によ
 る対抗レースが 日本人によるボートレースの始まりと言
 われている。
  このレースをきっかけに、関東の大学を中心にボート競
 技は普及した・・と。
  日本ボートの略史
  1869年、横浜でボートレース開催(イギリス軍艦乗組員)
  1883年、東京大学、筑波大学対抗レース開催
  1887年、東京大学、一橋大学対抗レース開催
  1901年、第1回全国中等学校端艇競漕大会開催(滋賀県
     琵琶湖)
  1905年、第1回早慶レガッタ開催
1884年10月22日、東京薬舗学校を東京薬学校と改称する(
 1883年説あり)
  1869年(明治2年)、明治政府は、近代化のため、学問
 をおこし、教育制度を整えることを重要な政策課題とし、
  この年に、プロイセン医学の採用を決定した。
  翌年・1870年に、プロイセンと医学教師派遣の契約を
 交換した。
  1871年(明治4年)に、陸軍軍医レオポルド・ミュルレ
 ルと、海軍軍医テオドール・ホフマンが来日した。
  日本の医学は、ドイツが主流となり、薬学もこの影響
 を受けた。
  日本の衛生行政の祖と言われている長与専斎が、欧州
 の医学・衛生制度の視察を終えて、帰国した。
  医制で、西洋医の重要性を示した。
  西洋医にとって大きな問題は、洋薬をいかに入手する
 かであり、
  商人の中には、西洋薬の流行と、その取扱い(規則)
 が無い事に目を付け、安い薬品を注文する。
  外商は、贋造粗製の廉物を、輸入し納入した。
  とくに、需要が多く、価格の高いキニーネ、ヨーカリ
 などは、品質の悪いものが出回った。
  この真贋良否を鑑定できる人はいなかった。
  1873年(明治6年)、文部省は、ホフマンらの答申を受
 け、28項目よりなる「薬剤取調之方法」の施行を具申し
 た。
  1873年7月25日、文部省令104号「製薬学科設置の件」
 を告示した。
  1875年(明治8年)薬舗主を速成する目的で、製薬学科
 に通学生教場の設置を決定し、
  翌年・1876年より、邦人教師による、2年制の通学生制
 度が付設された。
  1877年(明治10年)第一回生が入学した。
  1879年(明治12年)23人が卒業した。
  1881年(明治14年)より、1887年(明治20年)に廃止
 されるまでに、208人の卒業生を世に送り出した。
  1882年(明治15年)「薬学校通則」を公布し、薬学教
 育・薬剤師養成の普及を目指した。
  修業年限は、甲種3年、乙種2年。
  1883年(明治16年)7月、東京薬舗学校の新校舎が落成・
 移転を期に、東京薬学校と改称した。
  1883年7月23日に、東京薬舗学校の最後の卒業生を送り
 出す卒業式を行い、
  同時に、東京薬学校の開校式を実施した。
  これが、のちの東京薬科大学。
1884年10月26日、秩父困民党が、埼玉県下吉田村粟野山会
 議で、11月1日の蜂起を決定した。
  ある意味、活動の形が変質して来た自由民権派系の人
 たちに、
  生活苦をタネに、騒動を煽られていたところがあった。
1884年10月28日、会計年度を改正し、1886年以降は4月1日
 を決算日と決定した。
  松方正義により、紙幣整理が推し進められた(松方デ
 フレ)。
  政府も「緊縮財政」を実施するが、松方デフレの影響
 で税収は減少した。
  政府は、対策として、煙草税や酒造税や醤油税などの
 増税をし、
  また、官営模範工場の払い下げも行った。
  また、その一方で、1882年(明治15年)に壬午事変が
 あり、
  翌年・1883年から、大日本帝国海軍の拡充計画を進め
 た。
  そのため、財政赤字の穴埋めの必要があり、明治18年
 度(1885年度)の酒造税を、明治17年度(1884年度)に
 繰り入れしてしまった。
  翌年度の税収を繰り入れてしまったこの状況を改善す
 るには、明治19年度(1886年度)より酒造税の納期(第
 1期が4月)に合わせて年度変更するほかに方法がないこ
 ととなった。
  そして、明治17年(1884年)10月に、「4月~3月制」
 の導入が決定され、
  明治19年(1886年)4月から実施された。
  「4月~3月制」は、明治22年(1889年)の会計法制定
 により法制化され、市制および町村制の施行に合わせて
 同年4月より市町村でも実施され、翌年5月より道府県(
 後に都も)も実施した。
1884年10月29日、自由党が解党
  自由党が、大阪大会で解党を決定した。
1884年10月31日、秩父事件が起こる 。
  国民党が一斉に蜂起、(10月30日説、11月1日説あり)
  埼玉県秩父郡の農民が、政府に対して武装蜂起を起こ
 す。
  蜂起の目的は、暴力行為を行なわず、高利貸や役所の
 帳簿を滅失し、租税の軽減等につき政府に請願すること、、
  下吉田(旧吉田町)の集結地・椋神社において、決起
 集会が行なわれ、蜂起が開始された。
  11月1日に至り、秩父郡内を制圧して、小鹿野村の警察
 分署、高利貸を襲撃し、役所等の書類を破棄した。
  一部には、指導に従わず暴力行為や焼き討ち等を行な
 った者もいた。
  電信で、いち早く蜂起を知った政府は、汽車も利用し、
 警察隊・憲兵隊等を送り込んだ。
  抵抗が激しかったが、最終的に、東京鎮台の鎮台兵を
 送り、取り締まった。
  11月4日になり、秩父困民党指導部は、事実上、崩壊し、
 鎮圧された。
  急進派の一部が、長野県北相木村出身の菊池貫平を筆
 頭に、農民を駆り出して、十石峠経由で信州方面へ進出
 した。
  11月9日に、一隊は、佐久郡東馬流で鎮台兵の攻撃を受
 け、長野県の野辺山高原で壊滅した。
  この後、主だった指導者と参加者は、各地で、次々と
 捕縛された。
  事件後、約1万4千人が処罰された。
  最大規模の事件だった。
1884年10月、名古屋事件
  名古屋の自由党員が蜂起し、資金調達のための強盗殺
 人容疑で逮捕される。
1884年11月1日、第1回秋期競馬会の開催
  明治天皇陛下が、不忍池畔の競馬場へ臨幸された。
1884年11月3日、鹿鳴館で大規模舞踏會が開催された。
  天長節(11月3日、明治天皇陛下の誕生日)の祝賀会
 行事だった。
1884年11月6日、内村鑑三が離婚をし、アメリカへ向かった。
1884年11月9日、朝鮮政府と済物浦条約による壬午(じんご)
 事変の賠償金一部返還に関する日・朝往復文書が成立し
 た。
  済物浦条約(さいもっぽじょうやく)は、1882年8月30
 日に、日本と李氏朝鮮の間で締結された条約で、
  済物浦は、朝鮮語読みで「チェムルポ」、仁川の旧称。
  壬午軍乱(壬午事変)での日本公使館焼き討ち事件の
 事後処理の為に結ばれた。
  主な内容は、日本公使館が襲撃された事件の犯人の逮
 捕と処罰、日本の被害者遺族・負傷者への見舞金5万円、
 損害賠償50万円、公使館を護衛するための漢城での軍隊
 駐留、兵営設置費と修理費の負担、謝罪使の派遣などで
 あった。
  また、同時に、日朝修好条規続約(追加条項)を結ぶ、
  新たな居留地と市場の追加、公使館員の朝鮮内地遊歴
 を自由にできるようにだった。
  当初は、巨済島(きょさいとう)または鬱陵島(うつ
 りょうとう)の割譲を要求していたが、
  軍艦4隻と寺内正毅大隊長が率いる兵1500人が到着す
 る6日前に、既に、清国の介入があり、反乱が鎮圧され、
  清国が、主導権を握っていた。
  そして、アメリカも介入して、軍艦を派遣してきた。
  アメリカも威圧をかけてきた。
  その事から、交渉担当の花房義質李氏朝鮮公使は、方
 針を変更した。
  馬建忠(朝鮮駐在の清国軍の隊長・李鴻章の外交秘書)
 の仲介を得て、上記の内容となった。
  宗主権を主張する清国をけん制する意味と、暴動の再
 発防止のため、軍隊の駐留は必要だった。
  これは、1885年(明治18年)7月18日に、高平臨時代理
 公使の知照(口頭で知らせ、通知すること)によって、
 以降も条約の有効性は確認済。
  賠償金は50万であったが、そのうち40万円は、朝鮮内
 政への配慮から(内政使用を目的)に、返却した。
  その上、日本は、汽艇1漕と山砲2門を朝鮮へ送った。
  以上の様に、日本には、朝鮮侵略の意図はまったく無
 かった。
  条約の名の通りの修好(しゅうこう、親しく交わるこ
 と)で、特に、国家と国家のレベルで親しく交流する事
 であった。
  賠償金を返還したり、無償で武器を提供する日本であ
 った。
1884年11月16日、人類学会の設立
  坪井正五郎や白井光太郎らが、人類学会を設立した。
  日本人類学会が、明治17年(1884年)に、当時、東京大
 学理学部学生であった坪井正五郎ら10名により結成され
 た。
  「じんるいがくのとも」という団体に端を発した。
  明治19年に、機関誌の第1号を出版し、同時に、会の
 名称を「東京人類学会」とした。
.
  (今日の言葉)
.
  題:欺瞞の東京裁判・・復讐劇の東京裁判
.
1946年5月3日、東京裁判が始まった(開廷)(~1948年11
 月12日)
  尚、極東国際軍事裁判という。
  下記の様に、イギリス人記者は「復讐劇だ」と言う。
  そして、キリスト教の二元論において「正義か?不正
 義か?」の思考の下では・・「日本は、正義ではない」
 としないと、「自分たち・連合国側が不正義となる」と
 いう思考の下に支配されていた・・と言う。
  だから、日本が悪くされた・・という・・、
  イギリス人記者のヘンリー・S・ストークスは、自著
 に書く・・、
  (日本はアジアに植民地など持ってなんかいないし、
 また、日本は、アジアを開放したのだが)、
  (たとえ)日本が、アジア植民地を侵略した(したと
 したって)のは、悪いことだったろうか?
  (この日本の)侵略が悪い事なら、世界史で、アジア、
 アフリカ、オーストラリア、北米、南米を侵略して来た
 のは、西洋(ヨーロッパ、アメリカもやっているが)諸
 国だ。
  しかし、今日まで、西洋諸国が、(アメリカが)そう
 した侵略を謝罪したことはない。
  どうして、日本だけが、欧米(アメリカやヨーロッパ
 諸国)の植民地を侵略したことを、謝罪しなければなら
 ないのか?
  東京裁判では、「世界で侵略戦争をしたのは、どちら
 だったか」という事に目をつむって、日本を裁いた。
  それは、侵略戦争が悪いからではなく、『有色人種(
 日本)が、白人様(アメリカ、イギリスなど)の領地を
 侵略した』からだった。
  白人が、有色人種を侵略するのは『文明化(シビライ
 ゼーション)』で、
  劣っている有色人種が、白人を侵略するのは『犯罪(
 クライム)』であり、神の意向(ゴッズ・ウイル)に逆
 らう『罪(シン)』であると、正当化(ジャスティファ
 イ)した。
  日本には『喧嘩両成敗(けんかりょうせいばい)』と
 いう便利な考え方もあって柔軟だが、
  欧米人は、ディベート(良いか悪いかだけの論理)思
 考で、白か黒か判定を付ける。
  もし日本が正しいなら、間違っているのは欧米側(ア
 メリカとヨーロッパ)となる。
  だから、あらゆる手を使って、正義は自分の側にある
 と、正当化(ジャスティファイ)しようとした。
  東京裁判は復讐劇であり、日本の正当化を認めること
 など、最初からあり得ない事だった。
  認めれば、自分たちの誤りを認める事になってしまう。
  広島、長崎に原爆を投下をし、東京大空襲をはじめ(
 日本中の)全国の主要都市を(アメリカは)空爆して、
 民間人を大量虐殺した「罪」だけでなく、
  もっと言えば、世界で侵略を繰り返してきたその正義
 の「誤謬(ごびゅう、まちがえること)」が、明らかに
 されることがあっては、決して、ならなかった。
  それが、連合国(アメリカ、イギリスなど)の立場だ
 った」・・。
..
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2016年8月15日月曜日

(増補版)400E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1884年8月~1884年10月)

題:(増補版)400E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1884年8月~1884年10月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1884年8月25日、中国・四国地方に暴風雨。
  堤防決壊。
1884年8月、儒学者の元田永孚(もとだながさね)が、「
 国教論」を起草した。
  福沢諭吉の「徳育如何(1882年)」から始まった道徳
 教育のあり方をめぐる論争が始まった。
  1890年(明治23年)の「教育勅語」発布に至るまで、
 徳育の混乱時代で、多くの識者の意見が発表された。
  代表的な意見は、12編ある。
  明治維新以降の日本は、制度面では、西洋を手本に、
 それなりの成果をあげることができたが、
  他方、道徳では、古いものに代わる新しいものを見出
 せず、空白状態にあった。
  儒教の復興を説く者もいたが、
  福沢諭吉は、社会の「公議輿論」こそ道徳の基本であ
 ると主張した。
  因みに、
  福沢の「徳育如何」の諸言に・・
  「方今、世に教育論者あり。
  少年子弟の政治論に熱心なるを見て、軽躁不遜(けい
 そうふそん)なりと称し、
  その罪を今の教育法に帰せんと欲するが如し。
  福沢先生、その誣罔(ふもう、作り事を言って人をそ
 しること)を弁じ、大いに論者の蒙を啓ひらかんとて、
  教育論一篇を立案せられ、中上川(なかみがわ)先生
 これを筆記して、
  『時事新報』の社説に載録せられたるが、今、これを
 重刊して一小冊子となし、学者の便覧に供すという。
         明治一五年一一月」
  また、この頃の主な代表的意見は・・、
  加藤弘之は、1887年(明治20年)に「徳育方法案」を
 出版し、
  「道徳の大主・・旨とするは愛他心」であるとして、
 宗教の必要性を説いた。
  小崎弘道は、加藤の意見に賛成し、
  「道徳は到底宗教に依らざれば実行す可らざること」
 を「六合雑誌」に掲載した論文で再三繰り返した。
  杉浦重剛は、「日本教育原論」(1887年)で、
  「理学」こそが道徳の向上に寄与すると説いた。
  さらに、山崎彦八の「日本道徳案」(1889年)は、
  「鍛錬主義」を主張し、慣習の力をもって道徳を教え
 ることが肝要だとした。
  そのほか、道徳教育の方法をめぐってさまざまな意見
 が出され、西村茂樹の「日本道徳論」(1887年)もその
 一つである。
  この論争は「教育勅語」発布によって終焉した。
  近代日本の「内部の開化」をめぐる論争だった。
1884年8月、外務卿・井上馨が、条約改正に関する覚書を、
 各国公使へ送付した。
  「内地開放は、領事裁判権の全廃と同時に行う」とし
 た。
  領事裁判権は、不平等条約によって定められた治外法
 権の一つだった。
  日本での外国人の事件が、日本人が裁くことが出来な
 いという条項だった。
  在留外国人が起こした事件を、本国の領事が本国法に
 則り裁判するという権利で、日本は裁判権を失っていた。
1884年9月1日、1883年10月に発生したマーシャル・ラエ島
 の日本人虐殺事件の調査に、二人を派遣した。
1884年9月5日、宇品港(広島港)の築港に着手した。
  県令・千田貞暁が、県下の良港開削を計画し、土地の
 興行に資するため、どんな大船でも出入出来るようにと、
 築港費18万円の予算を立てた。
  しかし、地元の宇品沿岸一帯の農民は、漁場を奪うも
 のだとして、猛烈に反対した。
  続いて、巨額の築港費に伴う増税を恐れた人達が、こ
 れに相呼応して反対した。
  千田県令は、説明して回り、必要性を説いた。
  築港が、海運業にもたらす大きな良い効果、また、国
 際的発展の門戸として、重要な役目を果たす事などを説
 き、築港の急務を叫んだ。
  そして、工事に着手した。
  しかし、工事が始まると反対論者は、以前に倍加して
 攻撃した。
  特に、築港費が予算を超過したのを理由として、遂に
 県令は、同県を追われた。
  新潟県への転任の止むなきに至った。
  そして、やっと1889年(明治22年)に、築港工事が完
 成した。
  この宇品港は、この後、日本の大切な港として発展し
 て行った。
  千田県令の先見の明が、今更の如く認められ、その功
 に依って勲二等が叙された。
  また、瑞宝章も授けられた。
  また、広島県の代表者が、遠く宮崎県に赴き、当時・
 同県知事たる千田氏へ、感謝の意を述べたという逸話も
 ある。
  築港のため追われた者が、そのため賞せられて、後に
 男爵にさえ列せられた。
  港に面する広場には、長くその遺徳を表彰する銅像が
 建立された。
1884年9月16日、竹久夢二(たけひさゆめじ、画家、詩人)
 が、生誕した。
  岡山県邑久郡本庄村(現・岡山県瀬戸内市邑久町本庄)
 に、代々酒造業を営む家に、次男として生まれた。
1884年9月22日、星亨(ほしとおる)が、官吏侮辱罪で逮捕
 された。
  新潟県での、専制的な政府を批判する演説会だった。
  演説会に立ち会った新潟県警の警察を言論で侮辱した。
  そのために、「官吏侮辱罪」に問われ、6ヶ月の禁固と
 40円の罰金刑を受けた。
  尚、服役中、自由党解党にあい、獄中から反対した。
  演説内容は・・、
  「ロシアに国会なく、ドイツに国会はないに等しい。
 両国は国民の義務として徴兵をしているが好ましくない。
  宗教、教育に干渉し、人間に等級を設けている。
  私が、政治を行なえばその様なことは行わない」・・
 などだった。
1884年9月23日、加波山事件(かばさんじけん)
  茨城県下で、自由党の加波山事件が起きた。
  河野広躰ら自由党員16人が、茨城県加波山に立て籠も
 り挙兵檄文をまいた後、下妻警察署町屋分署を襲撃した。
  自由民権運動は、激化して来ていた・・
  そして、政府の対抗する圧力に狂暴化して行った。
  1884年9月に、宇都宮で行われる栃木県庁の落成式に
 出席予定の太政大臣・三条実美(さねとみ)以下の顕官暗
 殺を計画し、
  茨城自由党員・富松正安(とまつまさやす)らを同志に
 引き入れた。
  彼らは、落成式が9月15日に行われるという情報を得て、
 計画実行のために、一方では、河野らが東京・神田神保
 (じんぼう)町の質屋に強盗に押し入って、資金を得よう
 として失敗し、
  他方では、鯉沼が、爆裂弾の製造中に誤って重傷を負
 った。
  その上、落成式は延期された。
  官憲は、強盗に押し入った河野、横山信六(しんろく)
 らを追い、下館有為館(しもだてゆういかん)に潜伏して
 いることをつきとめ、事態は急迫して行った。
  栃木・茨城・福島の自由党員16人は、1884年初めには、
 県令・三島通庸(みしまみちつね)らの暗殺を計画してい
 た。
  1883年末には、政府転覆を目指して爆弾の製造を開始
 していた。
  また、政府転覆を企てていた栃木県党員・鯉沼九八郎
 らと結び、大臣顕官の暗殺を計画した、しかし、失敗し
 ていた。
  これら自由党員が、茨城県の加波山に集まって「革命
 挙兵の檄」を発表し、挙兵した。
  警官隊と交戦(衝突)し、数日で鎮圧された。
1884年9月25日、夕刊紙の今日新聞が創刊した。
  小西義敬によって、日本初の本格的夕刊紙として東京
 で創刊された。
  後の都新聞、そして、東京新聞。
  主筆は、仮名垣魯文
1884年9月26日、加波山事件の14人が解散して逃亡するが、
 後、全員逮捕された。
1884年9月、秩父地方の農村で、自由党員・井上伝蔵に指導
 された秩父困民党が結成された。
1884年9月、荻野吟子(おぎのぎんこ)が、試験に合格し、
 女医第1号となる。
  日本人女性初の国家資格を持った医師であるが、医術
 開業試験制度がなかった時代から、榎本住(1816年~1893
 年)ほか何人かの女性医師が開業していた。
  西洋医学を学んだ女性医師としては、シーボルトの娘・
 楠本イネ(1827年~1903年)がいる。
  荻野吟子は・・、
  1870年(明治3年)に、夫からうつされた淋病がもとで
 離婚した。
  上京し、順天堂医院に入院。婦人科治療をうけるが、
 そのとき治療にあたった医師がすべて男性で、
  男性医師に下半身を晒して診察される屈辱的な体験か
 ら、女医となって同じ羞恥に苦しむ女性たちを救いたい
 という決意により、女医を志した。
  1875年(明治8年)に、東京女子師範学校(お茶の水女
 子大学の前身)の一期生として入学し、
  1879年(明治12年)に、首席で卒業した。
  1884年(明治17年)9月に、医術開業試験前期試験を他
 の女性3人と受験し、
  吟子1人のみが、合格して、資格を得た(翌年の後期
 試験も合格し、開業した。
  新聞や雑誌が「女医第一号」として大きく扱った)
1884年10月1日、帽子商・小山梅吉が、国産の蝶ネクタイ
 第1号を造った。
1884年10月1日、海軍艦隊編成例が、制定された。
  日本海軍における最初の艦隊編成を定めた単独法令で、
 「聯合艦隊」の名称が、初めて登場した。
  「二艦隊以上ヲ集合シテ聯合艦隊ヲ編成スルコトアリ」
  1894年(明治27年)7月19日に、聯合艦隊が、初めて
 実質的に編成された。
  警備艦隊が、沿岸警備充実を目的とし「金剛」「赤城」
 ほかの砲艦で、同年・1894年7月13日に編成された。
  ・・が、西海艦隊へと改称されると共に、常備艦隊と
 西海艦隊によって「艦隊規定例」による最初の聯合艦隊
 が編成され、
  司令長官には、常備艦隊司令長官の伊東祐亨中将が、
 兼務する事になった。
1884年10月1日、古河市兵衛が、本所鎔銅所を開業した。
  古河鉱業本所溶銅所伸銅所(現:東京市麹町区八重洲
 町一丁目)
  同社は、元と古河鉱業事務所と称し、
  明治八年(1875年)古河市兵衛氏の創立に係るものな
 り。
  同氏は、眇たる一行商より身を起して遂に天下の富豪
 となり、
  銅山王の名を天下に轟かしゝもの、蓋し堅忍不撓幾多
 の辛酸を嘗めて其経営に力を致しゝに由らずんばあらず
 ・・と、渋沢栄一記念財団のホームページにあるが、
  以下の記述もある・・、
  日本の銅は、ほとんどが海外に輸出されていたが、産
 出された粗銅は品質が不安定で、
  海外での評価はまだまだ低かった。
  市兵衛は、その解決のために精銅事業への進出を決意、
  1884年、東京の本所に、本所溶銅所を開設した。
  溶銅所の開設には、もうひとつ狙いがあった。
  銅加工品の生産である。
  精銅品質を向上させることで輸出市場を開拓し、銅加
 工品の生産によって国内市場を広げていく。
  これが市兵衛の狙いだった。
  銅を中心とする多角経営への第一歩だった。
  操業2年目の1885年には、本所溶銅所の精銅高は、日本
 の産銅の約3分の1に達し、
  日本を代表する精銅所の地位を確立した。
  しかし、古川市兵衛の経歴には、1883年とある・・、
  1832年、古河市兵衛、京都の没落した庄屋の子として
     生まれる。
  1844年、御手山稼ぎを廃止する。銅山は休山状態にな
     る。
  1868年、足尾銅山は、明治新政府に没収され、真岡県
     が管轄する。
  1869年、管轄が日光県に移り、県営銅山となる。
       古河市兵衛、小野組別家に取立てられ、関東・
     東北の事業を任され、鉱山業にも進出する。
  1872年、栃木県が足尾銅山の資金援助を政府に要請、
     鉱山寮技師長ゴットフリーが調査して民営移管
     を示唆、野田彦蔵に足尾銅山を払下げる。
  1874年、政府の政策変更で小野組瓦解、古河市兵衛は
     裸1貫で再起を図る。
  1875年、古河市兵衛、相馬家の支援を得て草倉銅山の
     経営を開始、成功を収める。
  1877年、古河市兵衛、相馬家の支援を得て足尾銅山を
     買収する。半年間妨害のため事業に着手できず、
     木村長七らの間歩調査が行われ再建策まとまる。
  1878年、本口坑などで古河直轄の直営開鑿を決定。
  1880年、渋沢栄一が足尾銅山の経営に参加。
      銅山不振がつづき四代坑長に古河市兵衛の甥・
     木村長兵衛を起用、背水の陣を布く。鷹之巣坑
     開鑿を開始。
       古河は商標をとし、鉱業専業を宣言する。
  1881年、鷹之巣坑で神保の直利を補捉、足尾銅山好転
     に向かう。
  1882年、本口坑開坑で横間歩大直利を補捉、月産銅量
     が前年の年産を突破する。
  1883年、足尾産銅量が発展、日本の首位になる。
     直利橋製錬分局、本山病院、東京・本所熔銅所
     をそれぞれ創設。
     足尾町内の道路大改修を開始する。
.
  (今日の言葉)
.
  題:正確な情報を惑わすもの・・
   特ダネ意識・キリスト教教義による偏見・国の規模によるプロパガンダ
.
1945年2月、第二次世界大戦のヤルタ会談の直後、
  戦後のドイツ・日本を決める会議が開かれた。
  一般市民の方々が知らないこと、また、知らされない
 事々が多い中、
  今、それらの情報が、真実が公開されて来ている。
  その一方・・
  また、「朝日新聞が始めた慰安婦の虚偽報道」のよう
 に、
  特ダネを書きたいと「嘘が書かれた」という事態もあ
 る。
  この朝日新聞の虚偽報道で、日本が、どれほど大きな
 被害を受けたことか、本当に計り知れない大被害を受け
 た。
  (この様な行為で、真実を知るのに大きな回り道を、
 人々は強いられている)
  また、大東亜戦争(第二次世界大戦)の早期終結を妨
 げた、中国による、アメリカに於いてのキャンペーン。
  それによる、早期終結への攻撃の被害による歴史のね
 じ曲げ、
  そして、ルーズベルト大統領のキリスト教教義「シャ
 ローム」から来る「無条件降伏要求(完全破壊思想)」、
  そして、同じキリスト教教義から来る「有色人種蔑視」
 の「ルーズベルトの日本人嫌悪」。
  これら諸々の事から、「原爆投下に至る不幸へ道」を
 伴った経過の中・・、
  そこへ至る1945年2月に・・ヤルタ会談の直後に、
  ルーズベルトは、自分が考える「ドイツの工業力剥奪」
 や、「ドイツに対する賠償」を打ち合わせる会議(連合
 軍委員会)に、
  ルーズベルトは、この自分の考えと同じ考えであるイ
 ザドア・ルービンを、アメリカ代表として任命した。
  ドイツへの厳しい賠償要求後、戦後占領は避けられな
 いと見られていた。
  そして、その頃に出された日本に対する報告書には、
 「日本経済の最低限度を維持するに必要のないものは、
 すべて没収する」・・とあった。
  この最低限度とは、「日本が占領した諸国の生活水準
 以下の生活水準レベル」という意味だと規定されていた。
  「軍需産業関連の機器はすべて破壊する」、
  「賠償取立ての対象となる工場と機械」が指定され、
  「航空機工場はすべて没収」「陸海軍工廠(こうしょ
 う、旧陸海軍に所属し、兵器・弾薬などの軍需品を製造・
 修理した工場)もすべて没収」「年間150万トン以上の鋼
 材を賠償対象として没収」など、
  日本が二度と一級の工業力を持たないようにとされて
 いた。
  ルーズベルトの頭の中は、戦争に至るものを排除した
 後は、平和国家として復興し、元に戻すなどという甘い
 考えはなかった。
  アメリカ大統領のルーズベルトの頭の中は、「永久に
 他のアジアの国々以下の工業力しか与えず、二度と戦争
 に至る様な工業力は持たせない」という考え方にあった。
  主要な重工業は勿論、完全に、すべて持たせないなど
 だった。
..
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2016年8月14日日曜日

(増補版)399E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1884年7月~1884年8月)

題:(増補版)399E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1884年7月~1884年8月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1884年7月28日、京都二条城が離宮に定められた。
  宮内省の所管となり、「二条離宮」と改称した。
  「廃城令」とか、「城郭取壊令」とか、または、「存
 城廃城令」とかと略される令・・1873年1月14日に出さ
 れた全国城郭存廃ノ処分並兵営地等撰定方(ぜんこくじ
 ょうかくそんぱいのしょぶんならびにへいえいちとうせ
 んていかた)によって、廃城がいっぱい出た・・、
  二条城が廃城にならなかったのは・・、
  この「二条離宮」への動きがあって、宮内省の所管に
 なる動きのため・・、
1884年7月、文部省に、図画教育調査会が設置された。
  1880年代半ば頃、日本では、「国粋保存」の思潮や、
 日本美術・日本画復興の機運が高まりを見せた。
  その一方で・・、
  1883年(明治16年)、工部美術学校が廃校になるなど、
 西欧風美術教育は後退しつつあった。
  こうした状況を背景に・・、
  1884年(明治17年)に、文部省内に設置された「図画
 教育調査会」の決議に従って、
  1885年、文部省の専門学務局内に、図画取調掛(ずが
 とりしらべがかり)が設置された。
  同掛は、濱尾新を委員長にして、岡倉覚三(天心)・
 フェノロサ・狩野友信を委員に、西欧の図画教育の実態
 調査を委嘱され、
  翌年・1886年に、岡倉とフェノロサは、欧州の調査旅
 行に出発した。
  因みに、図画取調掛は、文部省内に設置された部局で、
 東京美術学校の直接の前身となった。
1884年7月、東洋絵画会の結成を決定した。
  この前身の竜池会は、1879年(明治12年)に設立され
 た美術愛好家の団体だった。
  佐野常民(さのつねたみ、日本赤十字社の創始者)や、
 河瀬秀治、山高信離といった人たちが、東京・上野の不
 忍池にある弁天社の境内に集まって、古書画の展示会を
 開いたのが発端だった。
  これらの人々は、いずれも、明治政府の官僚であった。
  しかし、維新後の極端な欧化政策の中で、わが国の伝
 統美術が衰微していく情況に、危機意識をもった人たち
 だった。
  また、欧米讃美で、国内で顧みられなくなった日本の
 美術品が、海外に大量に流出していた。
  その影響もあって、ヨーロッパでは、その日本美術の
 素晴らしさで『ジャポニズムの風潮』が生まれていた。
  このメンバーのこれら官僚らは、この風潮を利用した
 美術工芸品の輸出、
  すなわち、殖産興業に結びつけようという意図もあっ
 た。
  こうした行動は、政府の施策にも反映した。
  日本画(東洋画)の保護奨励を目的とした政府主催の
 絵画共進会が開催されるに至った。
  この様な中、東洋絵画会は、竜池会からの呼びかけに
 応えて結成された。
  画家サイドの団体であった。
  画家サイドの団体とはいうものの、会長には品川弥二
 郎(当時は農商務大輔、そして、政治家、子爵)が就任
 した。
  1887年(明治20年)、竜池会は拡大・改組され、日本
 美術協会が設立された。 
  この時、東洋絵画会も、この日本美術協会に合流した。 
1884年8月10日、自由党の有一館が設立された。
  自由党が、文武研究所として有一館を開館した。
  群馬事件などの過激な事件の発生は、関東にあって、
  自由党の党勢は、関東において、大いにふるっていた。
  関西は沈滞し、あるいは、脱落傾向のみが強くあらわ
 れていた。
  自由党首脳部は、6月5日に、大阪で関西有志懇親会を
 開き、同志の団結をはかった。
  そして、先に解党した旧立志政党員の自由党への入党
 を呼びかけた。
  また、相輝館を新設して、活動の便宜をはかった。
  この様な、地方懇親会が、いたるところで聞かれた。
  そして、結合の強化がはかられた。
  さらに、6月下旬には、有一館がほぼ竣工し、
  8月10日に至って、開館式が行われた。
  この様に、党首脳部の党維持の努力は、続けられたが・・、
  ついに、9月には、自由党が解散に追い込まれる事件・
 加波山事件がおきた。
1884年8月10日、武州御殿峠に困民党が蜂起した。
  明治10年代後半、特に、1883年(明治16年)~1885年
 (明治18年)にかけて、
  神奈川県は、激しい経済的混乱に陥(おちい)った。
  繭や生糸の値が大暴落し、職人や人力車夫の手間賃も
 急落を続けた。
  1881年(明治14年)と1884年(明治17年)の物価や、
 手間賃の統計をみると、30%~50%のひどい落ち込みが
 見られる。
  松方デフレ下の農村は・・悲惨だった・・、
  対応策が図られていたが、農民たちは、困民党を組織
 して、状況の積極的打開をはかろうとした。
  しかし、その運動が一頓挫(とんざ)をきたし、新たな
 運動を組織しはじめた。
  その様な、時期に、非常に大きな問題をかかえていた。
  松方デフレの影響を、営業・生産活動の停滞や、生活
 の破壊の形で、
  まともに背負うことを余儀なくされた底辺の民衆は、
 困民党を組織し、当面する敵対者であった高利貸資本に
 対し激しい闘いをいどんで行く。
  神奈川県下の底辺の民衆の多くは、地租や地方税負担
 の重さにくらべ、問題にならないほど多くの負債をかか
 えて、呻吟(しんぎん、苦しんでうめくこと)していた。
  神奈川県の民衆は、過重な負債の負担軽減をもとめて
 1884年(明治17年)3月以降、組織的な行動を開始した。
  大衆集会を開いて、債主に対し示威行動を展開すると
 いう形をとった。
  それを最初に行なったのが、神奈川県の南西部地域(
 大住郡・淘綾郡・足柄上郡などで、現在の平塚・大磯・
 秦野の周辺地域)の人々であった。
  1884年7月終わりになると、南西部地域の困民党にかわ
 って、武州と相州の国境付近の民衆が、新たな運動のに
 ない手として登場した。
  相州高座郡上鶴間・下鶴間・磯部・鵜野森村(鶴間組
 困民党)、武州南多摩郡木曽・根岸・高ケ坂・鶴間村(
 木曽・小川組困民党)、同じ南多摩郡の南大沢・松木・
 宇津貫村(柚木組困民党)などで、
  1884年7月31日に、高座郡上鶴間村谷口の鹿島神社に、
 最初の大衆集会を開いた以後、各地で集会・総代会議を
 開いた。
  そして、ついに、1884年8月10日に・・、
  八王子の町を眼下に見おろすことのできる御殿峠に、
 数千人の困民を集結させ、打ちこわし前夜のたかまりを
 見せた。
  そして、1884年8月10日の夕刻から、御殿峠は、高座郡・
 南多摩郡・都筑郡などの村々から集まって来る農民たち
 で喧噪(けんそう)をきわめた。
  彼らは、蓑笠に身をかため、筵(むしろ)や竹槍を用意
 し、太鼓を打ちならして、八王子の町へ押し出ようとし
 ていた。
  掲げた要求は、借金の五年据置き、五十か年賦だった。
  要求が入れられなければ、実力行使も辞さない・・と
 いう激しいものだった。
  この運動は、1884年(明治17年)を中心に、武相の山
 野に一年以上にわたって繰り広げられた。
  負債問題をいかに解決するかをめぐる争いのため、簡
 単には解決に至らなかった。
  多くの人が負債で難儀しているとき、困難打開のため、
 なんらかの配慮がおこなわれて当然、と思っている人と、
  契約どおりに借金を返すのは負債人の当然の義務、と
 考えている人・・、
  その争いは、簡単に解決できるような対立ではなかっ
 た。
  この運動は、民権運動の「旦那衆」に対して、困民党
 の担い手は、「底辺民衆」だった。
  その意味で、民権運動の出来ない領域の、民権運動の
 限界をこえる運動だった。
1884年8月19日、秋田小坂鉱山の払下げ許可が藤田組に下り
 た。
1884年8月24日、森鴎外が、ドイツ留学のため横浜を出発し
 た。
  1862年1月19日、島根県津和野で、御典医の家柄に生ま
 れた(長男)。
  小説家、評論家、翻訳家、軍医で、本名:林太郎とい
 う。
  1869年(7歳)藩校養老館で漢学を学ぶ、また、父に
 ついてオランダ文典も学ぶ。
  1872年(10歳)旧藩主亀井氏に従って、父とともに上
 京。
  親戚の西周(にしあまね)邸に奇遇(きぐう)し、本
 郷の進文学舎に通い、ドイツ語を学ぶ。
  1874年(12歳)東京医学校予科に入学
  1877年(15歳)東京大学医学部本科生となる。
  1881年(19歳)7月、東京大学医学部を卒業。
  しばらく、当時、千住(せんじゅ)で開業していた父
 の医療を手伝う。
  1881年(19歳)12月、陸軍省に入り、陸軍軍医となる。
  1884年(22歳)~1888年(26歳)9月、多年の念願が
 かなって、ドイツへ留学(4年間)、ライプツィヒ大学の
 ホフマン教授、ミュンヘン大学のM・ペッテンコーファ
 ー教授、ベルリン大学のコッホ教授らについて衛生学を
 学んだ。
  その一方、多くの文学書に親しみ、
  また、日本の評価をめぐって、新聞紙上で、日本弁護
 の論陣をはり、地質学者ナウマンと論争するなどの活躍
 をした。
  また、K・ハルトマンの美学に傾倒した。
  1888年9月、帰国後の・・
  1888年(27歳)10月、この頃、鴎外の後を追って、来
 日した「舞姫」のモデルの女性を説得して帰国させた・・
 との甘い話がある。
  1889年(27歳)1月、「東京医事新誌」の主筆に就任
  1889年(27歳)3月、啓蒙誌「衛生新誌」を創刊、
  1889年(27歳)3月、赤松則良(のりよし)男爵の長女・
 登志子と結婚したが、約1年半で離別した。
  1889年(27歳)9月、帰国後、陸軍軍医学舎の教官に任
 じられたが、
  その職務のかたわらジャーナリズム活動を開始した。
  1889年(27歳)10月、「文学評論しがらみ草紙」創刊、
 きわめて闘争的と言われるジャーナリズム活動をした。
  1889年(27歳)11月、ゆえあって「東京医事新誌」を
 去ると、
  1889年12月に「医事新論」を創刊した。
  1890年(28歳)9月、両誌を統合して「衛生寮病志」
  1890年(28歳)「舞姫」を発表し、文壇に登場。
  1891年(29歳)~1892年(30歳)坪内逍遥との「没理
 想論争」が注目された。
  1893年(31歳)~1894年(32歳)医学界中枢と対峙(
 たいじ)した「傍観機関」論争、
  1896年(34歳)「めさまし草」を創刊、
  1897年(35歳)「公衆医事」を創刊、
  1900年(38歳)近衛師団軍医部長兼軍医学校長から、
 小倉の第12師団軍医部長へ転勤(1899年説あり)、
  これは、文学活動が災いしたか?と言われている。
  1902年(40歳)第一師団軍医部長として帰京。
  これまでの間、問題となっていた創作はしなかった。
  フランス語の学習、唯識論の沈潜、クラウゼヴィッツ
 の「戦争論」の訳述など・・勉強の日々を送る(文学活
 動再開は1909年)
  1902年(40歳)荒木志げを妻に向かえる。
  1902年(40歳)3月、第一師団軍医部長に任じられ帰京、
 帰京後、「めさまし草」にかえて、「万年艸(まんねん
 ぐさ)を創刊、
  この頃、新歌舞伎や長詩の詩作が注目された。
  1904年(42歳)日露戦争に第二軍軍医部長として出征、
  軍陣の余暇に詩歌の創作に努め、後に「うた日記」と
 してまとめられた。
  1906年(44歳)山形有朋を囲む歌会常磐会(ときわか
 い)をもつ。
  1907年(45歳)短歌諸派の興隆を企図して、自宅で観
 潮桜歌会を始める。
  1907年(45歳)11月、陸軍省医務局長に就任、
  1907年以降は、陸軍のボス山形有朋の後援を受ける。
  一方、諮問に応じて、インフレ対策論や、国家社会主
 義に近い社会改革論を献策したり、
  行動範囲は広範・・、
  1909年(47歳)~1916年(54歳)、反自然主義文学の
 立場で執筆活動を全面的に再開させ、
  文壇を盛況にした。
  作品:翻訳「於母影(おもかげ)」「即興詩人」「フ
 ァウスト」、
  小説「舞姫」「青年」「雁(がん)」「ヰタ・セク
 スアリス」「阿部一族」「高瀬舟」「渋江抽斎(1916年)」
  ・・「半日」「妄想(もうぞう)」「興津弥五右衛門
 の遺書(1912年)」など多岐にわたり執筆し、大きな業
 績を残す。
  1916年(54歳)軍医総監医務局長を辞任する。
  1917年末(55歳)帝室博物館総長兼図書頭(ずしょの
 かみ)として宮内省に入る。
  1919年(57歳)帝国美術院初代院長に就任、
  1921年(59歳)図書寮の仕事として、「帝諡考(ていし
 こう)」を完成し出版する。
  1922年7月9日、委縮腎と肺結核で没す(60歳)
  墓所:東京・三鷹市の禅林寺
  生家は、津和野町で保存されている。
  1892年以降の住居、文京区千駄木(せんだぎ)の観潮
 桜跡には鴎外記念本郷図書館が建つ。
.
  (今日の言葉)
.
  題:終わるべき戦争も、終わらない事態が現出していた。
.
1945年5月28日、アメリカの国務長官代行のジョセフ・グル
 ーが、トルーマン大統領を訪れ、
  第二次世界大戦を終わらせるための打ち合わせを行な
 った。
  ルーズベルトの死から1ヶ月半が経っていた。
  また、ナチス・ドイツは崩壊していた。
  日本との戦いは、沖縄戦が展開されていて、最終的な
 局面を迎えていた。
  このグルーは、日米が開戦するまで、日本の大使をし
 ていて、
  日本の事情に良く精通していた。
  グルーは、天皇陛下に戦争責任はないと考えていた。
  そして、天皇制の維持を約束する事が、「早期に、戦
 争を終結する事になる」と考えていた。
  ルーズベルトの「日本人に対する異常な嫌悪感」、そ
 して、「無条件降伏の押し付け」という考えではなかっ
 た。
  トルーマンは、その話を聞き、自分になかった見聞と
 考え方・判断を聞き、感謝し、同意した。
  そして、トルーマン大統領は言った・・、
  「異論はない。ただ、軍の指導層がどう考えるかだ」
 ・・と。
  そして、その翌日、開かれた会談にグルーは出席し、
 協議がなされた。
  陸軍長官のスティムソンは、グルーの考えに賛意を表
 明した。
  しかし、その他のメンバーは、今、沖縄で戦いが展開
 されているからと、理由にならない理由で、協議の決定
 を先延ばしにした、
  決定にはには至らなかった。
  死闘を繰り広げられている中で、今までの条件を緩(
 ゆる)めるのは良くないという、理由にならない理由だ
 った。
  日本としての、日本の皇統が維持されるなら、早期に
 戦争を終結しようという考えには、思いが及ばなかった。
  ここに、中国の異常なプロパガンダがあった。
  「天皇制への攻撃」の中国のプロパガンダが影響して
 いた。
  これは、すでに、アメリカで広く知られ、天皇の戦争
 責任が、「間違って喧伝されていた」。
  今、現在の中国・韓国の慰安婦のプロパガンダの様な
 事が、この時もなされていた。
  終わるべき戦争も、終わらない事態が、現出していた。
  尚、今・最近、中国は、金の力で「アメリカの新聞社」
 を買っている(シカゴの新聞社)。
  急に論調が、中国寄りとなった。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive