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2015年6月12日金曜日

(増補版)130D1/3:気になった事柄を集めた年表(1680年~1681年)

題:(増補版)130D1/3:気になった事柄を集めた年表(1680年~1681年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1681年1月、評定所規則を制定する。
1681年、人事:堀田正俊を大老にし、牧野成貞(まきのな
 りさだ)を側用人にした。
  牧野成貞は、徳川綱吉が館林藩主の時、家老となって
 いた。そして、綱吉が将軍になると、側用人に取り立て
 られ1万3000石を賜わって大名に列した。
  性格が、篤実(とくじつ、情が深く誠実なこと)な人
 だったという。
1681年、関東・関西が飢饉
1681年、経済政策:穀物在庫調査
  江戸市中の穀物在庫を調査した。
1681年、経済政策:米穀買い占めを禁ず。
  幕府が、江戸市中の米穀を調べ、買い置き・占売り(
 買い占め)を禁じた。
1681年、世情:一揆多し
  この頃、年貢諸役の過重を訴える一揆が多発し、多く
 の藩主の処分を勝ち取る。
  飢饉に苦しむ農民が、年貢の減免や市場価格の抑制を
 求めて起こした。
1681年、大名支配:越後高田藩・松平光長を改易
  徳川綱吉が、越後騒動を再審し、松平光長を改易した。
  この再審議は異例であった、また、異例の将軍直裁に
 て断を下した。
  光長は伊予松山藩へ配流され、藩士にも大量の処分者
 を出した。
  また、親戚であり騒動の処理に関わっていた出雲広瀬
 藩主の松平近栄(3万石から1万5000石へ)
  また、播磨姫路藩主の松平直矩(15万石から7万石へ)
 連座して処分された。
  光長は、1684年、に赦免されている。
1681年11月、大名支配:上野沼田藩主・真田信利が改易さ
 れた。
  石高を多く見積もったり(百姓から多く年貢を貰いた
 いため)、城を贅沢に豪奢な造りに改装したりして、領
 民に重税を課した。
  領民の杉木茂左衛門が、重税に反対して江戸で直訴を
 敢行し、
  この時の11月に、幕府から治世不良などを問われ、藩
 主の真田信利は改易させられた。
1681年、文学:井上通女(いのうえつうじょ、歌人)の「
 東海紀行」が記された。
  井上通女は、讃岐丸亀生まれ、丸亀藩士の娘、父に和
 漢書を学び、林鵞峰に漢詩を学ぶ、才媛、諸侯が招請し
 たいとした。
  東海紀行は、この年、作者22歳の時、讃岐丸亀藩主の
 母に召されて、父と江戸に向かった折の道中記である。
  時間的・精神的に余裕がある旅の様で、多くの和歌・
 漢詩を読んでいて、博識の中から昔人の故君を偲んだ事
 などが記されている。
  また、関所が怖かったと様子が記されていて、当時の
 情景が思い浮かぶ書となっている。
1681年、アウラングゼーブが、デカン高原制圧戦を開始。
  アウラングゼーブは、北インドのムガル帝国の第6代
 君主。
1681年、清が、海禁を解いて、海外との貿易を奨励した。
  清には、大量の銀貨が流入した。
  茶の輸出で栄えた、輸出超過であった(イギリスの輸
 入超過)。
  権力も安定し、経済も発展したが・・(イギリスの悪
 巧みへ・・麻薬輸出)
1681年、アメリカのペンシルヴァニア(イギリス植民地)
 建設に乗り出した(ウィリアム・ペン)。
  インディアンは、「土地の権利を金銭と交換する」と
 いう発想が無い中で、話は進められた。
  相手が十分に理解していない中で行われた取引は不成
 立である。契約は、成立していない。法的に正当ではな
 い。
  当然なことに、後に、インディアンの方々と軋轢(あ
 つれき)が生まれた。
  そして、「強制移住」という銃火にものを言わせて、
 力にものを言わせて、インディアンの方々を都合よく移
 動させた。
  また、「年金支給」というシステムを伴って「インデ
 ィアン移住法」という自分たちだけに都合のよい法律を
 作って、法律があるから正しいのだと、金を渡すからい
 いだろうと、だから正義なのだとと、正義でも正しくも
 ない事を行った。
  インディアンの方々、部族は、骨抜きにされて行った。
  白人たちは、インディアンの方々を奴隷としても使っ
 た。卑劣な事をした。この様な破廉恥な事もした。
  奴隷の処遇を向上させるんだとの運動をしたから良い
 のだという話がある。・・が、そんな問題ではない、奴
 隷制度それ自体が悪行為なのだ。
  キリスト教の聖書に、異民族を「奴隷にせよ」とキリ
 スト教の神が叫んでいるが、
  奴隷にしてはいけません。
  人が、他の人たちを、「人家畜」にしてはいけません。
  「奴隷にせよ」は間違っています。
..
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2015年6月11日木曜日

(増補版)129D1/3:気になった事柄を集めた年表(1677年~1680年)

題:(増補版)129D1/3:気になった事柄を集めた年表(1677年~1680年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1678年、朝鮮の釜山倭館の建物が、この年に、新築され竣
 工した。
  これは、朝鮮が対馬と断交した時に閉鎖されていたの
 が再開されたのだった(街道をゆく2)
1678年、農業:各地に特産品が登場
  この頃から、農村における商品作物の栽培が盛んとな
 り、各地に特産品が登場してくる。
  例えば、都市近郊の野菜、果樹(マクワウリやミカン)、
 東海や瀬戸内地方の木綿、東北や中部のクワ、瀬戸内の
 ナタネ、阿波の藍、東北の紅花など。
  他の名産品に西陣織、久留米絣(かすり)、有田焼、
 清水焼、九谷焼、南部塗、輪島塗、灘の酒、野田や銚子
 の醤油など。
1678年、東福門院・徳川和子が没した(1607年~1678年)
  徳川秀忠の娘(五女)、後水尾天皇の中宮、母は、秀
 忠の正室・江(崇源院)、
  1620年に入内し、1623年に皇女(後の明正天皇)が誕
 生、1624年に中宮となった。2男5女に恵まれた。
1678年、演芸:藤田藤十郎
  初代・藤田藤十郎が、大阪で好評を得た。
1678年、演芸:市川團十郎
  この頃、江戸で荒事を創始して上方の坂田と並び称せ
 られる。
1678年、総検地
  この年前後、畿内および近国の幕領の総検地を行なっ
 た。
1678年、政治:川舟極印奉行を置いた。
  勘合に川舟極印奉行を3人置いた。
  農民の商品生産が発展して来たのを受け、関東諸河川
 の、その農民の生産物の運送を担う商船も、活発に行き
 交って来た。
  川舟の登録のために打たれる極印の制度が定着化して
 行き、船年貢や役銀の税の徴収の強化をした。
  勘合:照らし合わせて真偽を確かめること、
1679年10月、農作奨励を令する。
1679年、土屋数直・久世広之が没して、代わって土井利房・
 堀田正俊が老中になった。
1679年、事件:越後騒動
  越後松平家の藩である越後高田藩で起こったお家騒動。
  藩政を執っていた主席家老と、これに敵対する一族重
 臣の争いに、将軍綱吉の裁定で両派に厳しい処分が下り
 た。高田藩は改易となった。
  財政立て直しのため、藩士の禄を地方知行制から蔵米
 制に改めたのが、藩士にとって減収となったのが恨まれ
 ていたことと、他の要因がからまり問題が大きくなって
 行った(藩主の贅沢癖、諸事業の費用ねん出)。
1679年、人身保護法(イギリス、キリスト教会などの権限
 が過剰に強くなったため)
  フランスに亡命していたチャールズ1世の子が、1660年
 に帰国し、チャールズ2世として、この年に即位した(王
 政復古)際、カトリックを保護し、絶対王政を掲げ、清
 教徒派を逮捕し、弾圧した。
  議会は、1673年に、官吏と議員を国教徒に限る審査法
 律を制定した。
  そして、1679年に、人身保護法を改正し、国民を不当
 に逮捕しないことを定めた。
  キリスト教会や地方の諸侯などの権限が、過剰に強く
 なって、住民の権利が不当に侵害されるようになってい
 た。
1679年頃、アウラングセーブ(インド、1618年~1707年)
  アウラングセーブは、北インドのムガル帝国の第6代
 君主。
  この君主の治世は49年の長きに渡り、その治世は、曽
 祖父アクバル以来の繁栄が続いた。
  1679年に、ジズヤ(人頭税)を復活した。これが帝国
 崩壊へつながった。
1680年、後水尾天皇(ごみずのおてんのう、第108代天皇)
 が崩御された(1596年~1680年)、泉湧寺に葬られた。
  中宮は、徳川和子(東福門院)
  日光東照宮には、陽明門をはじめ各所に後水尾天皇の
 御真筆とされる額が掲げられていて、
  後に、薩摩藩が、日光東照宮の焼き討ちを要求した時
 に、板垣退助が強硬に、後水尾天皇の御真筆をもって説
 得した。
1680年5月、4代将軍の徳川家綱の病状が悪化し、綱吉を継
 嗣とし、家綱は没した。
  堀田正盛の子の正信が殉死した。
1680年8月、徳川綱吉が5代将軍となった(1646年~1709年、
 将軍期間:1680年~1709年)。
  綱吉は、将軍に就任してほどなく、1680年8月に、通常
 の政務は月番制で処理し、大事は列座の合議制によると
 いう従来の慣例を破って、信任する老中・堀田正俊に財
 政・民政専管を命じた。
1680年8月、酒井忠清が罷免された。
  翌年、堀田正俊を大老とし、幕政の刷新に立ち向かう。
1680年、天災:風水害:諸国に風水害が起きる。
1680年、天災:大凶作となる。
1680年、芸術: 琴
  筝曲(そうきょく、筝は琴の事)は、元禄よりやや前、
 八橋検校(1614年~1685年)が、かつて九州に伝えられ
 た筑紫琴を基として、新曲を作って京都に広めたのに始
 まるという。
  これが、江戸に伝わり、宝永年間、生田流、寛政年間
 に山田流が開かれ、この2流によって今日の筝曲が成り
 立っている。
1680年、松尾芭蕉が、江戸深川の芭蕉庵に入った。
  芭蕉の経済的庇護者は、杉山杉風(さんぷう)という。
  杉風は、1647年に日本橋で生まれ、幕府御用の魚問屋
 を営み(屋号は鯉屋)、豊かな経済力だった。
  本邸は日本橋小田原町であったが、深川に多くの土地
 を持っていた。
  ここに、芭蕉は江戸市中より移り住んだ。
  最初の芭蕉の庵は、杉風所有の生簀(いけす)の番小
 屋だったという。
1680年、文治政治が本格的となった。
  家康から3代家光までを武断政治、4代家綱から7代家継
 までを文治政治(ぶんちせいじ)という。
  幕藩支配体制の安定期となり、儒教的徳治主義の政治
 に転換した。
  徳治主義(とくちしゅぎ)は、道徳により民を治める
 政治を目指した。
1680年、魔女旋風が、17世紀末にその余波を新大陸・アメ
 リカに伸ばした。
1680年、キリスト教徒とキリスト教聖職者たちが、南米な
 どでインディオの方々を殺戮し、奪った黄金が、ヨーロ
 ッパに持ち込まれ、この頃、この黄金でヨーロッパは潤
 った。
  1550年から1680年くらいまでの130年間、キリスト教美
 術や宮廷美術、そして、文学の全盛期を迎えた。
  しかし、その陰に、南米の人々の、そして、世界各国
 の人々の悲惨な涙と、消えた多くの命があった。
1680年、イギリスは、この頃、インドを失ったら三等国に
 なると言われていた。
  それほど、莫大な利益をインドから得ていた。
  また、その金儲けのつる・権益を守るためにあらゆる
 ことをした。卑劣な事をしても守った。
  本国のイギリス人でさえ信じられない莫大な額の利益
 が、イギリスに流れ込んだ。
  インドは、それほど搾取されていた。
  また、金が、莫大に満ちたイギリスは、賄賂が横行す
 る社会となった。
  また、その利益を享受する人々が、限られた一部の特
 権層だけだった。
  そのため、一般市民の不満が爆発し、暴動が起きた。
  ホイッグ党は、1680年頃に作られたイギリスの政党で
 あるが、ホイッグという名前は、スコットランドの暴徒
 をさす蔑みの言葉・蔑称であった。
  インド人同士を反目させて、漁夫の利を得るイギリス。
  本国も守銭奴の社会となっていた。
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2015年6月10日水曜日

(増補版)128D1/3:気になった事柄を集めた年表(1673年~1677年)

題:(増補版)128D1/3:気になった事柄を集めた年表(1673年~1677年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1674年、交通政策:江戸伝馬町と五街道の宿駅の救済のた
 め、幕府は、約14万貫を貸与した。
1674年、交通:人馬賃銭を改定した。
1674年、経済:両替比率
  寛永通宝4貫=金1両の比価を守る事を命じた。
1674年、江戸市中の非人を改めた。
1674年、この年から延宝4年にかけて、淀川と大和川の下流
 部に大水害が起きた。
1674年、西山宗因(にしやまそういん、連歌師・俳人)が、
 「蚊柱百句(かばしらのひゃっく)」を刊行し、
  貞門(ていもん、松永貞徳を師とする俳諧の一派)が
 論難書「しぶうちわ」を出し、これを論難した。
  宗因の門下に井原西鶴が居る。
1674年、出版:関孝和が、「発微算法(はつびさんぽう、
 代数の書)」を刊行した。
  孝和は、算木を使う方法を止めて、紙に文字係数の連
 立多元高次方程式を書き表す方法を工夫し、それを使っ
 て、遺題の解答法を示したのが本書。
  未知数を消去して、一元高次方程式に導き、解答を得
 る方法を示した。
  孝和は、和算の歴史の中に居る先達の遺題の解答集を
 作って来ていた。
  この本によって、孝和は世に知られるようになった。
  孝和が、これによって和算を高等数学へと高めて行っ
 た(高等数学への第一歩)。
1674年11月4日、狩野探幽(かのうたんゆう、絵師)が没し
 た(1602年~1674年)。(10月説あり)
  狩野孝信(狩野永徳の次男)の長男として京都に生ま
 れた。
  雪舟に学んだ。
  1612年に、駿府で徳川家康に謁見し、幕府の御用絵師
 になる(1617年)。
  江戸城・二条城・名古屋城などの公儀の絵画制作に携
 わったほか、
  大徳寺・妙心寺などの寺院の障壁画も制作した。
  探幽の作品に、重要文化財は多数あるが、国宝は見当
 たらない。
1675年、阿部忠秋(あべただあき、老中)が没した(1602
 年~1675年)。
  知恵伊豆と言われたこの人の逸話の一つに・・、
  「石を投げて鴨を飛び立たせてみよ」と家光の言葉に、
 小姓たちは、そばに石が無かったので、魚屋の蛤をもっ
 て石の代わりにした。
  その話を聞いた忠秋は、「代金は支払ったのか」と聞
 いた。
  支払ってない事を知った忠秋は、「魚屋は、上様のお
 役に立てたことで満足であろうが、また、名誉を感じた
 だろうが、商人は僅かな稼ぎで家族を養っている。
  町人に損失を与えては御政道の名折れである」と諭し、
 代金を魚屋の所へ持って行かせたという。
1675年3月、関東に令して鉄砲の私蔵を禁止した。
1675年、開発:小笠原諸島
  幕府が、小笠原諸島の開発を計画した。
  そして、長崎の人・嶋谷市左衛門に命じて、本島を巡
 航させた。
  因みに、小笠原諸島は、1876年(明治9年)に、国際的
 に日本領土と認められている。
1675年、前年に引き続き、諸国が飢饉となる。
1675年、福祉:飢民に救米
  大和・摂津・河内の飢民に救米を給付した。
1675年、令:永年季(譜代)を許す。
  飢饉につき、奉公人の永年季・譜代を許した。
1675年、芸術:俳諧
  この頃、西山宗因の談林派俳諧が盛ん。
1675年、レーマー(デンマーク)が、光の速度。(1676年
 説あり)
1676年、諸国堤防決潰地の巡察使
  幕府が、諸国の堤防決損地を巡視した。
1677年、大岡忠相(おおおかただすけ)が生まれた(1677
 年~1751年)(1752年に没した説がある)
  役職:江戸幕府書院番→目付→山田奉行→普請奉行→
 江戸南町奉行→寺社奉行兼奏者番
  奏者番(そうしゃばん)は、大名や旗本が年始・五節
 句などに将軍に謁見するとき、その姓名の言上、進物の
 披露、将軍からの下賜品の伝達などをつかさどった役。
1677年2月、金貨鋳造する。
1677年、郡上騒動(ぐじょうそうどう)
  美濃郡士藩と農民が、年貢増徴反対の一揆を起こした。
  美濃国(岐阜県)郡上藩に起きた、家中対立に絡む、
 農民騒動。
  藩主は幼少で、家中が2派に分かれた。
  藩財政立て直しをするための年貢増徴派の政策に、農
 民が、江戸の藩主に直訴した。
  訴えを入れようとする国家老らの反増徴派との対立が
 深刻化した。
  1679年正月に、増徴派による国家老暗殺計画を知った
 数百人の農民が集結。
  この対立は、1683年まで続き、処罰者を61名出し、喧
 嘩両成敗で終わった。
1677年、大久保忠朝(おおくぼただとも)が、老中となる
 (1632年~1712年)。
1677年、井原西鶴が、大阪生玉本覚寺で、一昼夜に俳句を
 1600句を作った。
1677年、出版:菱川師宣(ひしかわもろのぶ、最初の浮世
 絵師)(1618年~1694年)
  菱川師宣画の絵本「江戸雀(えどすずめ)」が刊行さ
 れた。
  地方から江戸へ出て来た人のための実用的な「江戸見
 物の案内書」、詳細な道順まで記してある。
  当時の風俗を知る上で貴重な資料となる、また、江戸
 の最も古い地史としても重要。
1677年、幕府領の総検地
  畿内・近国の幕領の総検地を始めた。
1677年、ロシア・トルコ戦争が起きた(露土戦争、ろとせ
 んそう)。
  16世紀後半から19世紀にかけて、ロシアとオスマン・
トルコ帝国との間で、11回、戦われた。
  最初は、1552年~1556年に、戦われ。
  2回目が、1677年~1681年に戦われた、、ロシアの南下
 策は、一時、止まっていたが、 17世紀後半になると、戦
 争が、また、始まった。
  この時、ロシアは、ポーランドと組んで戦い、ウクラ
 イナ地方からトルコ勢力を一掃した。
  11回目の最後の戦争は、1877年~1878年に戦われ、こ
 の戦いで敗れたトルコは、1878年に、サン・ステファノ
 条約を締結して講和した。
  しかし、この条約に、イギリス、オーストリアが反対
 した。火種は残り、イギリス、フランスの帝国主義的な
 利益獲得の欲にかき回されて行く、そして、第一次世界
 大戦の一因となって行く。
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2015年6月9日火曜日

(増補版)127D1/3:気になった事柄を集めた年表(1671年~1673年)

題:(増補版)127D1/3:気になった事柄を集めた年表(1671年~1673年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1672年3月、京都・大坂・堺の商人に金銀両替の制を敷いた。
  主として、金銀を取り扱う「本両替(ほんりょうがえ)」
 があった。
  資力の大きな両替商がなった。
  これに対し、銭(ぜに)両替があった。
1672年、令:長崎市法が制定された。
  長崎奉行によって制定された「貨物市法」が出来た。
1672年、繁盛する長崎貿易
  長崎貿易で相対売買を禁じられ、市法売買が命じられ
 た。
  特に、東南アジア各地からの、ジャンクと呼ばれた唐
 船の入港が急増する長崎貿易だった。
  また、朱印船の中心的な発着港としても栄えていた。
  代官の末次平蔵は、自ら朱印船貿易を営む大商人だっ
 た。
  幕府は、輸入品の価格を引き下げて、金銀の流出を防
 ぎたかった。そのため、
  この年の1672年に、市法(しほう)売買とよばれる貿
 易統制を行った。
  これは、オランダ・中国のもたらした品物を、五か所
 (長崎・京都・堺・大坂・江戸)の商人の目利き(めき
 き、鑑定人)が評価し、
  これに基づいて、長崎奉行所が、決定した価格を通知
 した上で取引を行うもの。
  利益が出たので、長崎の諸役人の給料にし、また、町
 にも配分した。
  この制度は長崎の町に多くの利益をもたらした。
1672年、物流:江戸・大坂をターミナルとする全国の年貢
 や特産物の流通が活発化した。
1672年頃、樽廻船就航
  この頃に、南海航路(大阪→江戸航路)に船足の早い
 樽廻船が就航した。
1672年、河村瑞賢が調査して、出羽~江戸間の西廻り航路
 を整備・開発した。
1672年3月2日、事件:市ヶ谷浄瑠璃仇討
  宇都宮藩の前藩主・奥平忠昌の旧臣(宇都宮藩を脱藩
 した)奥平源八が、一族40人とともに、江戸市ヶ谷浄瑠
 璃坂の元藩士の奥平隼人邸を襲い、父の仇敵の隼人を殺
 害した。
  原因は、前藩主の法要での口論だった。
1672年~1674年、第三次英蘭戦争。
  イギリスのチャールズ2世は、1672年から1674年にかけ
 てのフランスの始めたオランダ侵略戦争に予定通り協力
 した。
  そして、局地戦の形で第三次英蘭戦争を開始した。
  海戦が多かった。
  イギリスは、オランダ海軍との海戦で敗北した。
 そのため、イギリスのオランダへの侵攻は不可能となっ
 た。
  フランスとの連携が出来なくなった。
  イギリス議会では、オランダがフランス側に付くと経
 済的にまずいという声が高まった。
  親仏路線撤回へと動いて行く。
  そして、2年後の1674年には、オランダと和睦した。
  イギリス王のジェームズ2世は娘・メアリーを、1677
 年に、オランダ王へ嫁がせ、同盟を結んだ。
  この三度のイギリスの無謀な戦争で、オランダは大打
 撃を受けた。
  1688年のイギリスに起きた名誉革命は、このオランダ
 から王を迎える事となる、が・・しかし・・
  この懲(こ)りない両国は・・第四次の英蘭戦争
 (1780年~1784年)をする・・何が名誉なのか?
1673年2月、保科正之(ほしなまさゆき)が没した(1611年
 ~1673年)、
  熱烈なる朱子学の徒であった。
  これによる政治を行った。
1673年、隠元(いんげん、明から渡来した僧)が没する。
  (1592年~1673年)黄檗宗の開祖。
1673年、演芸:歌舞伎を開く
  初代・市川團十郎が、江戸中村座で荒事を演じ好評を
 得る。
  荒事(あらごと)は、歌舞伎で、武士や鬼神などの荒
 々しさを誇張して演じることを言う。
1673年、経済:越後屋呉服店が創業した(三越)。
  伊勢松坂の三井高利が、江戸と京都に越後屋呉服店を
 開き、後に、「現金掛値なし」の商法で繁盛した。
  また、幕府払方御納戸(おなんど)呉服御用達(ごよ
 うたし)を勤めた。両替店も兼営した。
  1691年に、大阪御金蔵銀御為替(おかねぐらぎんおか
 わせ)御用達の地位を得て、最大の御用商人となった。
1673年、阿部正能(あべまさよし、1627年~1685年))が、
 老中となる。
  1652年に、阿部忠秋の養子となっている。
1673年、令:田畑分割が制限(分地制限令の公布)
  農民の分割相続を禁止する分地制限令が発布された。
  そして、田畑の分割が制限された。
  農地の零細化による貢租(こうそ、年貢)収入の減少
 を防ぐのが目的だった。
  この令が、この年に出されるまで、幕府の方針は、小
 農民経営の増大と維持にあった。そのため分割相続も公
 認してきた。
  この令によって、従来の農民政策の転換をした。
  また、この頃以降から、小農の田畑質入れによって、
 地主~小作(質地小作)関係が広く成立して行った。
  そして、商品作物の生産が発展することによって、水
 飲み百姓の年季奉公に基礎を置く、大規模な「地主手作」
 経営が発達した。
  地主手作とは、貸付地を所有する者が、人を雇ってみ
 ずから耕作を行なう事。
1673年、文学:山鹿素行が「武家事記(ぶけじき)」を著
 (あらわ)した。
  歴史書・武家故実書で読者層を武家に想定している。
  武家に必要な語句などの詳細な解説が記されている。
  故実(こじつ):昔の儀式・法制・作法などの決まり
 や習わし。先例となる事例。
1673年、文学:北村季吟(きぎん)が、「湖月抄(こげつ
 しょう)」を著した。源氏物語注釈書、
1673年、社会資本整備:椿海干拓(つばきうみかんたく)
  下総の椿海が干拓された。
  1661年~1773年に、江戸の町人の白井次郎右衛門が、
 江戸幕府に出願した。
  しかし、代官の伊奈半十郎の検分を受けたが不許可に
 なった。
  (不許可理由は、砂地で水の供給が覚束ないだった。
  また、こちらに水を回すと、他の田が被害を受けるだ
 った、この判断は正しいと今現在でも言われている)
  白井は、幕府大工棟梁の辻内刑部左衛門と、再出願し、
 許可され、普請奉行の任命を経て工事が着手された。
  以上の話を、もう少し詳しくすると・・
  辻内棟梁は、京都二条城の工事で、幕府に功績を認め
 られる、幕府の信頼の深い人物だった。
  この人物が、干拓の話に乗り出してくれたのだった。
  辻内の人脈がモノを言った。
   幕府の中心の人たちが動いた。
  そういう動きの中で、再検分が行われた。
  この時には、幕府内では、開発しようという方針にな
 っていたようだった。
  故に、この検分も、干拓の可否ではなく、具体的に排
 水路をどの様に設けるかの、実施の可能性に対しての検
 分だった。
  幕府の偉い所は、上から目線ではなく、地元の農民の
 意見をよく聞いている所だった。
  水源の調整が、話し合われている。
  既存のすでにある農村が、用水で困らないかを打ち合
 わせている。
  当然、農家の方たちは、水さえ確保されれば反対理由
 はないと答えている。
  用水の確保さえ得られば、既存の農民の方々の反対は
 ないとみた幕府は、排水計画の具体的測量に入った。
  しかし、ここで、この排水によって、田畑が潰される
 ことを知った農村の方々は反対し始めた。
  「農家260軒、1550石の本田が失われる」と訴えた。
  幕府の調査団の団長の妻木彦左衛門頼能は、計画を変
 更した。
  これが、現在の三河堀の排水路線となっている。
  話しは丸くおさまり、椿海干拓は正式に決定された。
1673年、出版の認可制
  この年には、軍書・歌書・暦・噂事・人之善悪・好色
 本を対象に、珍しいことを新板に印刷するときには、町
 奉行の指示を受けよ・・という令が出た。
  書籍出版が、社会的にかなり影響力を持つ存在となっ
 て来た事を物語っていた。
1673年、イギリス船が通商の復活を求めた。
  インドでうまい汁を吸うからいいやと言って、日本は
 遠い国である上に、利益の効率の低い日本との交易を止
 めて、去って行ったイギリスが、この年に来て通商を求
 めたが、幕府に拒絶された。
1673年、この、イギリス船が、追い払われたこと・・、
  イギリス船のリターン号が、長崎港に現れて、そして、
 追い払われたのは、
  日本が、通商をオランダに限っていたからではなく、
 イギリス王チャールズ2世が、ポルトガル女王と結婚し、
 日本がイギリスを恐るべきカトリックの協力者と見て、
 また、敵性国とみなした事が、主な原因だった。
  キリスト教に、日本を自分の領土にしたいという意思
 があることを知っていた(イギリス人のウィリアム・ア
 ダムスなどからも聞いたりして、すべてを知っている幕
 府だった)。
  同じ頃、日本は、タイ国王の申し出に応えて、40年間、
 絶えていた関係を再開しているから、日本の外交が、外
 の世界を、一切、拒否し、接触を絶とうとしていたとい
 う証拠にはならない。
  それどころではなく、徳川幕府は、17世紀から18世紀
 にかけて、朝鮮の李王朝と琉球王朝とを手なずけ、東ア
 ジアに日本中心の外交秩序を作ろうとしていた。
..
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2015年6月8日月曜日

(増補版)126D1/3:気になった事柄を集めた年表(1668年~1671年)

題:(増補版)126D1/3:気になった事柄を集めた年表(1668年~1671年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1669年頃、建設:江戸小石川の後楽園(水戸候別邸の庭園、
 特別史跡・特別名勝)が完成した。
  徳川光圀が、朱舜水の意見を取り入れて、この頃、完
 成した。
  神田上水を利用した築山(つきやま)泉水庭。
  第二次世界大戦で焼失し、一部が残存している。
1669年、指示:淀川工事費を四国大名らに課した。
  幕府は、淀川の浚渫(しゅんせつ)の費用をつくるた
 め、西国・中国・四国の大名らへの課役銀を賦課した。
1669年、北海道の全域でアイヌの諸部族の統合が進んだ。
  しかし、松前藩の交易独占の動きがあり、また、交換
 レートに反対して反乱が起きた(シャクシャインの乱)、
  松前藩の交換レートが不平等が原因だった。
  幕府は、東北諸藩も応援させて治めた。
1669年、コーヒーのパーティー
  この年、パリでトルコ大使のソリマン・アガーが、新
 しい飲み物、コーヒーのデモンストレーション・パーテ
 ィーをベルサイユ宮殿で開いた。
  これが評判を呼び、コーヒーは上流社会に流行して行
 った。
1669年、オスマン帝国が、クレタ島を併合。
  クレタ島、地中海に浮かぶギリシャ南方沖の島。
  古代にもミノア文明が栄えたこの地を、1645年~1699
 年にかけて、ベネチアとオスマン帝国が戦った(クレタ
 戦争、54年間の戦い)。
  ベネチア領だったクレタ島がオスマン=トルコの手に
 落ちた。
  エーゲ海からベネチアの勢力圏を排除し、制海権を得
 た中で地中海貿易がしたかったと考えられる。
  クレタ戦争は、はっきりした史実だが、世界史小辞典
 にも解説されていない何か不明な戦争。
1670年、私塾:林雅邦の「本朝通鑑」が完成した。
  「本朝通鑑」完成のために、幕府は、95人扶持の費用
 を給した。
  支給開始は寛文4年、その支給金は、寛文10年に完成し
 たからと、給付中止をする訳ではなく、幕府は給付し続
 けた。
  そして、その給付金でもって書生教育をしなさいと言
 った。
  この頃から、林家の私塾が、だんだんと幕府の官学的
 色彩を帯びるようになった。
  朱子学が、幕府の官学、つまり、近世儒学の正統とし
 て定着して来ていた。また、ほぼ同じこの頃、それを批
 判する古学も勃興して来た。
  思想・哲学探求に熱心に取り組む幕府だった。
1670年、藩校:閑谷学校の設立
  岡山藩主の池田光政が設立した。(1668年説あり)
1670年、経済:十人両替が成立
  大阪十人両替が成立した。
  十人両替とは、江戸幕府が、大阪の本両替仲間の内か
 ら、仲間の取締りと同時に、公金の取り扱い、米の買い
 上げ、御用金の調達などの公用を務めさせるために選任
 した10人の御用両替商のこと。
  鴻池屋・天王寺屋・泉屋らの10人がそろったのは1670
 年だった。
1670年3月14日、江戸城の刃傷(にんじょう、刃物で人を傷
 つけること)、
  元禄赤穂事件(げんろくあこうじけん、忠臣蔵)
  浅野長矩(浅野内匠頭)が、江戸城殿中(松之大廊下)
 で吉良義央(吉良上野介)を傷つけた。
  浅野内匠頭は、「この間の遺恨」と言って斬りかかっ
 たという。
  その遺恨は、どのような遺恨かの記録はない(忠臣蔵
 ではいろいろ言うが?)。
  浅野内匠頭は、即日、切腹となった。
  そして、浅野内匠頭は播磨国赤穂藩主であったため、
 赤穂藩はお取り潰しとなった。
  赤穂城も明け渡しとなった。
  吉良には何のお咎めもなかった。
  浅野内匠頭が斬り付けた時、吉良が抜刀しなかったの
 で喧嘩ではないとして(浅野内匠頭の一方的な違法行為
 として)「喧嘩両成敗」にならなかった。
  ここから筆頭家老・大石良雄(内蔵助)の話が始まる。
1670年3月、八丈島・・発見、
  幕府が、長崎代官の末次平蔵に命じて建造させた唐船
 造御船が、この時に、竣工した(長さ30メートル、1500
 石船だった)。
  3月25日に、長崎を出航し、4月10日に、江戸に着いた。、
  この船は、1673年1月に、志州(志摩国)安乗沖で、海
 難により沈没した。
  2隻目が幕命を受け、1673年2月に建造された。
  1674年に、この2隻目の船で、無人島調査を密命で行
 った、
  それは、紀州のみかん船が遭難し、江戸の南方・母島
 に漂着し、生還した。
  そして、「八丈島はるか南方洋上に無人島群あり」と
 驚くべき発見を、幕府に報告していたからだった。
  2隻目の船は、1675年6月22日に、苦難の末、その無人
 島を発見し、父島湊内に錨をおろした。
  翌日、調査を開始し、父島・母島に神社を建立し、日
 本領土の明示の標柱を建てた。
1670年、令:酒造を禁じた、凶作による令だった。
1670年、事件:江戸城内で、口論から切腹
  右筆の水野伊兵衛が、江戸城右筆部屋で大橋重政と口
 論し、水野が脇差を抜いたため、4日後に切腹を命じられ
 た。
1670年、社会資本整備:箱根用水
  箱根用水が完成した。
  友野与右衛門らが、箱根用水を掘削し、芦ノ湖の水を
 トンネル水路を通して引いた。
1670年、出版:「新版江戸大絵図」(寛文5枚図)が出版
 された。
1671年、日本の領土・竹島
  家綱が、この年に、巡検使を引見し、関東各地の政治・
 民情を下問した。
  巡検使は、幕命を受けて諸国を巡回し、政情・民情や
 作物の豊凶を視察した臨時の職のことで・・、
  竹島の事で、綱吉のお目見えにあづかった大谷家があ
 った。
  また、この年に、大谷九右衛門は家綱の御目見得にあ
 づかっていた。
  ・・というのは、大谷家と将軍家とのつながりの中に
 竹島の事があった。
  大谷家は、1617年に、竹島に漂着して、島に豊富な物
 資(海産物など)がある事を発見した。
  そして、その物資を日本に持って来て、商う事業を始
 めた。
  そのため、島へはよく渡っていた。
  幕府に対しても、事情をよく説明し、渡海許可を受け
 ていた。
  その様な事もあり、大谷家は、幕府へ海産物などを献
 上していた。
  例えば、公方様と老中様へのお礼に、竹島の干しあわ
 び500個入り1折り、
  側用人様、若年寄様、寺社奉行様へは、300個入り1折
 りなどを献上した・・
  この様な記録が残っている。
  そして、この1671年に、将軍様のお目見えにあづかっ
 ていたのだった。
1671年、阿部忠秋(あべただあき)が官職を退く(隠居)。
1671年、幕領諸代官に宗門人別改帖を作らせた。
1671年1月、有名な事件:伊達騒動(だてそうどう)
  伊達宗重(むねしげ、通称:安芸、涌谷伊達氏当主)
 の訴えによって、この年に、幕府の法廷に仙台伊達家の
 両派の抗争が持ち出された(江戸出府の命が幕府から出
 て、仙台より江戸に立つ)。
  仙台藩の藩主・伊達綱宗の放蕩が原因で、諌めても直
 らなかったので、幕命によって強制隠居させられた。
  そして、わずか2歳の伊達綱村が藩主となった。
  事件はこれで終わらず、先の件は序章だった。
  そして、これから起きる騒動が、一般に伊達騒動と言
 われている事件で、「寛文事件」という。
  幼い藩主を支える大叔父・伊達宗勝は、権力を自分に
 集中させ、実権を掌握した。
  そして、協力する家臣たちと前事件の処理をした。
  断絶した家も出たりした。
  また、悪い時に悪いことが起きるもので、伊達家内で
 所領のいざこざが起きた(所領紛争)。
  その境界の争いの処理案について、専横があるとか、
 ないとかの問題で、幕府に上訴する問題が起きた。
  江戸の審議が、またすんなり行かなく、同じ藩で、家
 なのに、互いに深く傷つく争いが続いた。
  幕府の裁断にも不満の思いが出た。
  証言の違いのいざこざ、処分のない家への妬み、問題
 がすっきりと解決して行かなくて、審問は続いた。
  それだけ、根が、深い問題となっていた。
  幕府も大変だっただろう。
  場所を移して審問したりした。
  メンバーも変わったりしての審問。
  その様な中で、審問控室で、原田は宗重を惨殺した。
  そして、老中の居る部屋に向かって突入した。
  驚いた柴田は、原田と斬り合いとなった。
  加勢したものも出る。
  原田は即死、酒井家家臣の3人が斬られ、柴田は翌日に
 死亡した。
  問題を起こした家は処罰され、宗勝は、後見人の責任
 を問われ、一関藩は改易となった。
  ただ、幼い藩主には責任がないと、お構いなしとなっ
 た。
  この事件を後世に伝える記録は多い。
  そしてそして、この寛文事件後に、この事件の後遺症
 の事件が、また、起きる・・が、割愛。
  1697年に、そして、1703年に、幕府の手を煩わせるこ
 とが、また起きた(綱村隠居事件)。
1671年、社会資本整備:釜無川
  甲州・釜無川の右岸に徳島堰が開削された。
1671年、流通:航路開発
  河村瑞賢が、奥州と江戸間の航路(東回り航路)を開
 発した。
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2015年6月7日日曜日

(増補版)125D1/3:気になった事柄を集めた年表(1666年~1668年)

題:(増補版)125D1/3:気になった事柄を集めた年表(1666年~1668年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1667年、鴻池善右衛門(こうのいけぜんえもん、大阪の両替
 商)が生まれた(1667年~1736年)
  鴻池財閥を形成した。
  11代目は、日本生命保険の初代社長に就任した。
1667年2月、幕府が、本田畑での煙草の栽培を禁止した。
  諸藩は、経済・産業政策の上から木綿・煙草・菜種な
 どの商品作物を栽培したかった。
  また、この頃、各地で米の生産量が増えて米価が低迷
 してきていたので、より高価な商品性のある作物を作り
 たかった。。
  つまり、米を生産しないで商品作物を作り、その売却
 益で年貢米を購入した方が良いというパターンが出て来
 ていて、その様な事をする行為が出始めていた。
  諸藩として、商品作物の栽培を奨励し、農家の収入を
 増加させ、納税先の藩の財政を安定させるのが良かった。
  幕府は、あくまで石高制を採用しているので、米主体
 の経済政策の基本の米の生産を多くしたいだった。
1667年、令:城米廻船取締規則が、公布された。
  幕府の廻米(かいまい)は御城米(ごじょうまい)と
 言った。
  御城米は、御城米船により、諸藩の蔵米は廻米船によ
 り、民間米は買積(かいづみ)船により輸送された。
  この御城米船の場合、幕府から公布された取締規則に
 よって、厳格な廻船雇用・運航が義務付けられていた。
1667年、社会資本整備:小貝川
  幕府代官頭の伊奈忠次が、小貝川に豊田堰を築造する。
  周辺地域の農業用水の確保、灌漑を目的とした。
  水量維持の重要な役割を持った。
  農業利水の関東三大堰と言われている。
1667年、番士の具足(ぐそく、武具)改めを命じた。
1667年7月31日、ブレダの和約。
  第二次英蘭戦争をしていたこの二国が、この条約によ
 って講和した。
  オランダは、現在のニューヨークのニューアムステル
 ダムを含む北アメリカ植民地をイギリスへ割譲した。
  しかし、この間、オランダは、ギアナなどの領土を得
 ていた(南米の北岸の領土獲得)。
1668年、令:倹約令
  幕府は、厳しい倹約令を上下各階層に発した。
  この倹約令は、社会の全体層を対象とし、諸藩政へも
 強く反映させたりして、前後に比を見ぬほど厳しく、また、
 大名や諸役人への監察強化も厳しかった。
  そのうち、旗本・町人に対する条文において、
 「長押(なげし)、杉戸、付け書院、櫛形彫り物、組み
 物、床縁、桟、塗り、唐紙張付」を禁じている。
  この厳しさは、1666年に大老職へ就任した酒井忠清へ
 批判は向けられて行った。
1668年、長崎の輸入を制限する。銀輸出禁止令。
  インドは、可哀想な事にイギリスなどに国益が、富が
 好きなように持ち出され、吸われていた。
  日本も、一時は、日本の銀が世界の流通量の半分を占
 めるくらいに持ち出されていた。
  幕府も生糸に糸割符法を適用して、無制限な流出を締
 め、止めていたが、生糸価格操作などをされたりした。
  幕府は、1655年に、糸割符を廃止した。
  しかし、自由貿易に移行して行われたのだが、銀は大
 量に流出するという状態となった。
  幕府は、禁止していた金の輸出を、1664年に、許可し
 たりしたが、この金の流出も急増し、日本の輸出の半分
 が金という状態となった。
  幕府は、この年の1668年に、銀輸出禁止令を出し、輸
 出入の品目を制限した。
  日本は、ただ、しゃぶられるだけの国ではなかった。
  政府がしっかりと令を出し、国の叡智が、国益の維持・
 確保に頭を使っていた。
  節操なく、自分さえよければ良いのだと、無制限にし
 ゃぶり続けるヨーロッパの集団と対峙していた。
  可哀想なのはインド・インドネシアなどだった、
  巨利を得たいのだのイギリス・オランダ・フランスな
 どが暗躍していた。
  この後・1715年に、日本は、海舶互市新例(正徳長崎
 新令)を再び定めて貿易量を制限している(大幅な輸入
 超過で、金銀流出が過大だったため、国内流通量も減り、
 経済・景気を圧迫したからだった)。
  イギリスは、中国との貿易の時、イギリスの銀の支払
 いが過大になったので、中国へアヘンと言う麻薬を売り
 込んだ。
  そして、銀の支払いを押さえた。
  この様な卑劣な汚いことをした。
  アヘン戦争となった。
1668年、教育:足利学校
  足利学校大成殿が造営され、日本最古の孔子廟となっ
 ている。
  中国の明代の聖廟を模したものと伝えられている。
1668年、教育:郷学閑谷学校(しずたにがっこう)
  岡山藩主・池田光政が、郷学閑谷学校を開設した。
  郷学(ごうがく)とは、教育機関の一つで、藩校に準
 じた藩士の子弟を対象としたものと、庶民を対象とした
 ものとの2種があった。
  庶民まで分け隔てなく、教育に心配りした日本の教育
 だった。
1668年、経済政策:寛永通宝
  寛永通宝が、以前より大量に鋳造され、流通させた。
  この事によって、銭貨の流通は平静円滑になった。
  経済の回転、景気の回復。
1668年、諸国の特産物・津留および枡を調査する。
  津留(つどめ)は、領主が自領内の港・関所での物資
 の移出入を禁止または制限したこと。
  港で行ったのでこの名がある。
1668年、検地:この年前後、関東幕領の総検地を行なう(
 寛文の総検地)
1668年、江戸大火のその後
  大火のための復興費用と、幕領の金銀の採掘量が減少
 した事が相まって、幕府の財政の窮乏は深刻化した。
1668年、農業:綿花栽培
  近畿・東海地方で、綿花の栽培が隆盛に向かい、灯火
 (とうか)用の油では綿実油と菜種油との競争が激化し
 た。
1668年、農業:金肥(きんぴ/かねごえ、購入肥料)
  金肥として油粕・干鰯の使用も盛んになる。
1668年、処罰:殉死したので減封
  宇都宮城主の奥平忠昌が没し、家臣の杉浦右衛門兵衛
 が禁制を破り殉死した。
  そのため、幕府は、忠昌の子の昌能を2万石減封の上、
 山形に移封し、また、杉浦の2子を斬罪に処した。
  これ以後、殉死の風習は激減した。
1668年、処罰:苛政なので改易
  政治に熱心でない島原城主の高力高長(こうりきたか
 なが)が、領民の訴えで苛政を理由に改易された。
  その後、嫡男は下総国の匝瑳郡(そうさぐん)を与え
 られ、家督を継ぎ、子孫は旗本として存続した。
1668年、第三次英蘭戦争へ続く事態が起きた。
  初め、フランスのオランダへの侵略の意図が明らかに
 なると、
  オランダの指導者ヨハン・デ・ウィットは、1668年に、
 英仏蘭の間で三国同盟(1668年)を結んだ。
  しかし、フランスのルイ14世は、オランダの妨害を根
 に持つと、絶世の美女ルイーズ・ケルアイユをイギリス
 のチャールズ2世へ与えて籠絡した。
  そして、イギリスを味方につけた。
  チャールズ2世は、フランスのルイ14世と「ドーバーの
 密約」を結んだ。
  するとこの密約がばれ、発覚し、三国同盟が破綻した。
  すると、1672年に、フランスとスウェーデンの軍事同
 盟(仏瑞同盟)が結ばれた。
  そして、その年1672年に、フランス軍はオランダに侵
 攻した。
  フランスは、オランダの国土の大部分を占領した。
  オランダ側は、堤防を決壊してオランダを水浸しにし
 た。
  この事によって、フランス軍によるアムステルダム占
 領を防ぐことはできた。
  オランダは、オーストリアとスペインと同盟を結んで
 フランスを包囲した。
  フランス軍は撤退した。
..
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