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2013年7月5日金曜日

矛盾の数々が、キリスト教に・・・。

 題: 矛盾の数々が、キリスト教に・・。
   どうしようもない『矛盾』が存在するキリスト教
...(真を求めて 皆様と共に幸せになりたい)
.
 キリスト教は、「数々の矛盾の中にある宗教」と言える。
 それは、その成り立ちからその宿命を背負っている。
 キリスト教の発生地は、その環境の厳しさから、飢餓に晒(
さら)される地だった。
 そのため、民族が生存するための「マニュアル・忘備録」的
なものの必要性が存在した。
 その時々の、民族生存のための、時に応じての記述があった。
 その「マニュアル・忘備録」的なものが宗教性を帯びたので
ある。
 それ故に、当然、その書=聖書記述者が、大勢、存在すると
いう事になった。
 その経緯の中の記述者の多くの頭は、当然、様々な事を考え、
そして、記すために、『統一的見解』がある訳ではなく、
 また当然、矛盾の『論理』、『矛盾点』も多く生起した。
 民族の生存のための忘備録的な立場に留まっていれば、それ
はそれで機能した。
 しかし、そこに神が介在し、神と絡んで信仰の対象となって
行った時、宗教という名に変わった時、
 その数々の、幾通りに存在する論点は、『矛盾』としての問
題面をあらわにした。
 それは宗教としての存在の根幹を揺るがし、死命を制した。
 それ故、キリスト教の歴史は、それらの矛盾点を、何とか「
この様に考えて」とかと・・『つじつまを合わせ』という歴史
が展開し、連綿と続いて来た。
 宗教という形になって、当然、発生した信徒は、その矛盾に
よる、心の中の葛藤(かっとう)を、常に、受け、そして、処
理していなければならないという状況に置かれた。
 処理ができないことで、自分の立ち位置が、すぐに霞(かす)
んでしまうという宗教の形となった。
 その様なところを何も考えず、「ぼけーっ」としていれば別
だが・・・。
 矛盾処理が、心ででき得ない信徒には、心を悲しい状況にす
るという状況が生まれた。
 その様な、信徒を悩ますキリスト教の宗教論理の多くある矛
盾の1つが「律法」である。
 キリスト教の宗教企画をしたパウロ、キリスト教の骨格を作
ったパウロは、『律法を捨てた』。
 パウロは「律法不要論者」である。パウロは、律法は不要だ、
無用だ・・害があるのだの論理だ。
 パウロが、この論理に至ったのは、大きな宗教的思考から至
ったのではなく、大いに当時の社会情勢に左右され、律法無用
の立場に立っただけであった。
 故に、基本的にパウロが作った骨格の上にある現在のキリス
ト教は、このパウロの観念・論理の上に宗教教義を置いている。
 「パウロ・キリスト教」と言っていい立場である。
 故に、「律法は無用」としている。
 それに対し、イエスは、パウロの様な「律法完全否定ではな
い」。
 律法の『必要性を主張している』。
 ただ、無条件ではない。
 「正すべき面がある」の立場である。
 キリスト教学者が、「律法とは法律と同義である」と言って
いるが、
 現代社会では、『法律』は社会が成立する上で大切なもの・
根幹として存在している。
 そして、新しい法律ができたり、法律を修正したり(イエス
の言う正す行為)が行なわれている。
 故に、「パウロの論理」と「イエスの論理」は、
 現代社会の状況や、現代社会が採用している面からみれば、
パウロは間違っていて、イエスが正しいと言える。
 その間違ったパウロ論理の大根幹の上に、現在のキリスト教
は存在している。
 イエスの言葉に「私が来たのは正すために来たのだ」がある
が、
 また、イエスに「律法の解釈の仕方」を、この様に解釈しな
さいと主張している面もあり、「律法重視」の立場である。
 しかし、こと半(なか)ばで刑死したため、今、キリスト教
は、この面でも、イエスの不本意な状態の中で存在している。
 キリスト教の解説においても、
 一般論的な論点として、『律法を厳しく守ることが神の祝福
を受けるための条件』・・という考えが、明記されている。
 パウロは、当時の、「細かい律法はうんざりだ」的な、宗教
規定の忌避の当時の世の風潮に同調しただけなのだ。
 そこで、短絡的に「律法全面否定」で、すべての律法を捨て
たのである。
 「律法の律法主義的な理念的理解は正しくない」・・と、分
かった様な分からないことを言って、パウロ路線がさも正しい
様にキリスト教は言うが、
 そして、イエス路線は否定されているが、
 そしてまた、律法で馬鹿馬鹿しい律法も多く存在するが、
 その事例だけで、すべてを捨てる行為は正しくない。
 「他人の女性が台所に入ったら、その台所の鍋の料理は捨て
ろ」とか、「歯向かうかう息子は殺しても良い」とか、馬鹿馬
鹿しい律法も多いが・・。
 しかし、路線としては、イエスの路線の、「律法を正しなが
ら、律法の中の生活が大切」というイエスの考えは正解である。
 そして、この様な間違いをしている現在のパウロ路線のキリ
スト教は、教義の中でも、このたぐいの矛盾を平気でしている。
 それは、キリスト教は言う「キリスト教というものの中で、
祝福された状態の中に生き続ける。その為に、神は、民と契約
し、その生き方の指針として指針(取り決め・律法)を与えて
くれた」というのである。
 この神の指針こそ「律法なのである」。
 つまり、「律法否定」は、「神との契約において存在した契
約の、約束事の否定になる」。
 つまり、その契約の約束事が律法と言えるからだ。
 そして、キリスト教は言う
 「無条件で与えられた祝福のうちに、民が感謝を持って留(
とど)まるようにと発した指針なのです」と。
 つまり、パウロ路線の「律法否定論」は、キリスト教の大根
幹の「神との契約」の否定につながっていく。
 今、キリスト教は、「パウロ路線」で、「律法否定論」・「
律法無用論」であり、
 キリスト教の大根幹教義の「神との契約」との「大バッティ
ング」の中に、キリスト教は存在している。
 (「詩篇」19・8~11)では、
 「主の律法は、完全で、魂を生き返らせ、
  主の定めは真実で、無知な人に智慧を与える。・・」・・
とある。
 この矛盾する2論。
 正解は、法律=律法の必要論であるが、
 少なくとも、そのニ論のどちらかが間違っていると言え、い
ずれにしてもキリスト教の間違いの存在は確かなのである。
 キリスト教は、この問題・矛盾をどうしようもなく、ふらふ
らと、「ああ」と言えば「こう」と言い、「こう」と言えば「
ああ」と言うことで放置している。
 この様な宗教が、キリスト教なのであるが、可哀想な人々の
心を惑(まど)わせ、また、戦争などの悪さばかりをしている
キリスト教が存在している。
(参考)死命(しめい)を制・する 相手の運命を左右するような
急所を押さえる。
(参考)こっかく【骨格】 [共通する意味] ★物事を形作る基本
的な構造。[英] a framework[使い方]〔骨格〕▽計画の骨格がで
きあがる〔骨組み〕
(参考)どう‐ぎ【同義】意味が同じであること。同じ意義。
(参考)き‐ひ【忌避】 [名](スル) 1 きらって避けること。
「徴兵を―する」 2 訴訟事件に関して、裁判官や裁判所書記官
に不公正なことをされるおそれのある場合に、当事者の申し立
てにより、その者を事件の職務執行から排...
(参考)は‐むか・う【歯向(か)う/刃向(か)う】 [動ワ
五(ハ四)] 1 歯をむき出して向かっていく。また、刃物を持
って向かっていく。「野犬が―・ってくる」 2 反抗する。抵
抗する。「権力に真っ向から―・う」
        (詳しくは、以下のブログに)
URL: http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
URL: http://moppo28.blog.so-net.ne.jp

2013年7月2日火曜日

大学教授の言葉と、神のとりなし。

 題:大学教授の言葉と、神のとりなし。
...(真を求めて 皆様と共に幸せになりたい)
.
(副題ー1):大いなる無理を強いる宗教=キリスト教
 法政大学教授・高尾利数氏の言葉:
 「近代以降の歴史的・批判的研究を、きちんと踏まえたなら
ば、
 伝統的・正統的なキリスト教という宗教を、
 イエスが、作ろうとしたとは考えられないし、
 そもそも、イエスの十字架上の血が、
 あらゆる時代の、あらゆる人々の、罪を贖(あがな)うため
のものであったとか、
 そのイエスが、3日目に死人のうちから復活したという様な
ことが、歴史的事実として生起したなどということを、
 認める事は出来ない。
 そういうことを、「実体的・史実的事実だ」などと言うのは、
 端的に「迷信に過ぎない」と言えよう。
 近代プロテスタンティズムに発する長い探求を、
 まともに受け止めれば、
 そういう事は、当然の事である。
 そう言う認識は、あまりにも『当り前』の話であって、
 史実的事実としては、そういう事などあり得ないという事を、
 牧師であろうと、正直かつ明確に、承認すべきであると思う。
 それは、あまりにも「大いなる無理」なのであり、
 その事を、素直に認めることは、自らの精神衛生のためにも
健全なことで、
 まさに、つまらないこだわりから解放されるようになる。
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 (副題ー2):何が「神のとりなし」だ。
.
 彼・Aは、正直ものだった。
 何も不法を働かず、正直な生活をし、公正な民だった彼・A
を、
 キリスト教の神は、他の民・B(彼・A以外の民、この民もま
た、公正なる民たちだった)が、
 この他の民・Bたちが、背(そむ)いたからと、
 その善良なる彼・Aの一人をターゲットに、
 キリスト教の神は、手を掛け、イジメ抜き、殺す。
 これでは、学校で起きている『虐(いじ)め・イジメ』では
ないか。
 何の罪もない、善良な人、一人だけをターゲットにイジメ抜
く、そして、最後には命を奪う。
 この様な、『話の設定』が陰湿だ。
 キリスト教は、この様な話に満ち満ちている。
 本当に、必死にキリスト教の聖書を読むと、洗脳され、意地
悪な・陰湿な性格になってしまう。
 それにしても、この様な、キリスト教の神の、なんと、卑劣
なことか。
 また、この様な宗教設定の、何と貧困な想定だろうか?
 この『陰湿ないじめの設定』に憤(いきどおり)りが涌(わ)
く。
 殺された彼・Aは、「その口に偽(いつわ)りがなかった」
という。
 また、彼・Aは、「毛を切る者の前に、ものを言わない羊の
様に、彼は口を開けなかった」というではないか。
 この様な彼を捉え、そして、殺すとは? 卑劣な宗教設定だ。
 この様な話に、毎日、接していると、洗脳され、この不合理
に、まったく気付かない・鈍感な人間となり、
 逆に、ありがたさを感じる様な、曲がった・ひねくれた倫理
観となる。
 そして、『その神の義がある』からと、コントロールが利か
なくなった心で判断し、戦争をし、平気で人を殺す様な人とな
る。
 何が「神のとりなし」なのだ。この様な嘘で人々を錯覚させ
る。
 ただの、キリスト教の神を語った「戦争指令」「殺人指令」
なだけではないか。
 まやかし・いんちきの戦争指令で、こうやって洗脳して、人
を殺しに行くだけではないか。
 キリスト教に何と戦争の歴史が多いことか。
 教義を変えよ!
 現代社会でも、このトリックに引っ掛かった指導者がいた。
 そして、戦争をした。
 (参考)とり‐なし【取(り)成し/執(り)成し】 1 対立
する二者の間に入って、うまく折り合いをつけること。仲裁。
また、仲介。
 (参考)まやかし ごまかすこと。また、そのもの。いかさま。
いんちき。

今、キリスト教は『パウロ・キリスト教』を信仰している。

  題:今、キリスト教徒は『パウロ・キリスト教』を信仰している
...(真を求めて 皆様と共に幸せになりたい)
.
 古代社会に於いては、
 ユダヤ教徒だけではなく、
 多くの民族が、
 動物を犠牲として神々に捧げ、
 その血によって「罪が贖(あがな)われる」という観念が、
 広まっていた。
 古代人の誰の頭にも、その観念は頭の中にあった。
 キリスト教には、
 この古代人の巷(ちまた)の観念「動物の血を人の代わりの
血として、神々に捧(ささ)げれば、神々の怒りは治(おさ)
まり、人々への災いが降りかかる、災難から逃れられるという
観念・信仰」があった。
 キリスト教は、この古代人の持っていた観念を、
 化石の様に持ち続け、
 「現代社会ででも持っているという宗教」だ。
 そしてまた酷(ひど)いことに、
 キリスト教は、
 この古代人の迷信の「動物の血で厄災(やくさい)を免
 (まぬ)がれる事が出来る」とした事を、
 「イエスの血でもって厄災から逃れる」とした。
 あたかも、イエスは、
 「動物の代わりに使われてしまった」如(ごと)くのにした
宗教となった。
 パウロが、酷(ひど)い男なのだ。
 この様に企画し、設定したのは、パウロだった。
 だから、パウロは、「イエスの言葉や行動は必要ないのだ」
と言う。
 マルコは、怒ったのである。
 マルコは、「イエスの言葉や行動に立ち返らなければならな
いのだ」と言った。
 そして、「マルコによる福音書」を書いた。
 路線争いである。
 最初の福音書記述者・マルコは、マタイの次にされてしまっ
た。(キリスト教聖書を見て下さい。キリスト教聖書は「恥
(はじ)さらしな、恥(は)ずかしい事をしております)。
 パウロは、イエスを、『血の生け贄(いけにえ)の宗教設定』
に使ってしまえば、『イエスの言葉や行動は不用』。『必要無
いのだ』という考え。
 「コリントの信徒への手紙1」にも書いている、パウロは、
イエスの言葉や行動は不要だと。
 しかし、今、キリスト教徒たちは、このパウロによる、パウ
ロが宗教企画したキリスト教を信仰している。
 『パウロ・キリスト教』を信仰している。
 (参考)やく‐さい【厄災】 わざわい。災難。災厄。

2013年7月1日月曜日

キリスト教は、変遷に変遷をして行く宗教。

 題:キリスト教は、変遷に変遷をして行く宗教。
...(真を求めて 皆様と共に幸せになりたい)
.
 キリスト教は、変遷に変遷を重ねて行く宗教です。
 そうせざるを得ない宿命を持っています。
 その様な質なのです。
 イスラエルの人々は、昔から「ヤハウェの神」を信仰していた
のではありません。
 「ヤハウェ・ヤハウェ」と言うわりに、色々な神々が『信仰の
変遷』の中に居ました。今は、三位一体神。
 イスラエルの民も、結構、ふらふらと色々な信仰をしていたの
です。当然、今とは違う神々を信仰していました。
 「考える葦」。やはり人間のすることと言ってしまえば言えま
すが、イスラエルの民は、信仰の変遷の中にあった民族です。
 そこには、当然、「信仰の絶対性」は無いとしか言えません。
 しかし、その時どき、その時どきで、信仰の絶対性を信じ、他
の人々(異教徒)を、『その教義から殺戮する』という歴史の繰
り返しがキリスト教には数多くあります。
 たまたま、今の信仰になったのです。
 また、今までの経過から、この後どうなるか?とも、言えてし
まいます。
 キリスト教に、たまたま、なったのです。
 ユダヤ教を信じてた、そして、キリスト教に変遷し流れて来た。
 ユダヤ教に破門されたある派は、原始キリスト教にならざるを
得なかったのです。
 自ら望んでなったのではなかったのです。
 ユダヤ教のままでいたかったのです。
 信仰の絶対性はこの時点でも『なかった』のです。
 あらゆる場面で、時とともに、その事情で、都合で、流れて来
たのです。
 また1例を言いますと、彼等が遠く「ウル」に住んでいた時も、
 チグリス・ユーフラテスの豊かな地に居た時も、彼等は、やは
り、「その地の神」を敬(うやま)い、信じ、生活とともに、そ
この信仰がありました。
 そして、カナンの地を目指した時、苦難の後にカナンの地に来
て、彼らには以前の神は捨てていて、以前の神は、すでに無くな
っていました。
 カナンの地にては、彼等は「カナンの地にあった神」を敬いま
した。
 そして、そこの新しい神を信仰して、生活しました。
 カナンの地の神は多神教でした。彼らは、神の数は何ら、何も
関係なく、多神教を信仰しました。。
 今、キリスト教は「一神教、一神教」と言いますが、一神教で
はありませんでした。今は、無理に3つを1つにしていますが・・
・。でも、実質、多神教ですが・・・。
 そして、その時、カナンのその神々の1つの神が、存在した考
え・天地創造の至高の神でした。
 この民族の信仰は、まったくこれと言った絶対性はないもの、
 流れと変遷の中で信仰を持ち、そして神を作り、信仰をつくっ
て来ました。
 そしてまた、バビロンの地にても、バビロンの宗教を受けとり
ました。行く先々で・・・。
 そしてまたまた、彼等・イスラエルの民は、「アブラハムの神」
「イサクの神」「ヤコブの神」と個人個人に神が分かれるという
状態にもなりました。
 イスラエルの宗教とはこの様なもの、どんどん変わるものなの
です。
 キリスト教も変わりました。イエスの信じた神と違う神を信仰
しています。
 この様な宗教の状態であるにもかかわらず、「絶対性」を主張
し、
 それ故の「正統性』を主張し、
 「人の命を奪う正義まである」と主張し、
 多くの人々を「正義を振りかざして」殺戮してきたキリスト教
の歴史。その教義を大変革して行かなくてはいけません。
 その教義が存在するため、知らず知らず洗脳され、人類の不幸
が発生しています。不幸にも近年にもその事例がありました。