ページビューの合計

2017年3月18日土曜日

(増補版)509E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1890年3月~1890年4月)

題:(増補版)509E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1890年3月~1890年4月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1890年、シッキム条約が締結された。
  イギリスが、チベットと関係を持つようになったのは
 清朝のグルカ征討(1792年)よりも以前で、
  イギリスの勢力は、プラッシーの戦い(1757年、イギ
 リス対インド+フランスとの戦い)等の後、ネパール、
 ブータン両国の国境に迫った。
  1772年、ブータンは、インド・ベンガル地方の混乱に
 乗じてクーチェ・ビハールを占領した。
  ブータンの侵入は、インド・ベンガル地方の直接の脅
 威であったため、イギリス軍は、ブータン軍を破り、ブ
 ータンの首都プカナに迫り、全土を制圧しようとしたが、
  ブータンは、チベットが仏教国であったので、国王の
 要請により、当時、幼かったダライ・ラマに代わり、第
 6代パンチェン・ラマが仲裁を申し入れた。
  その時、イギリスは、チベットが清朝の西部に位置し、
 ブータンは、チベットの属国であるという事実を知り、
  チベットの金銀貨や麝香などの珍しい贈り物を手にし、
 イギリスは、ベンガルとチベットの交易を計画するよう
 になった。
  1774年、ボーグルをチベットへの使者としてパンチェ
 ン・ラマの住むシガツェに赴かせ、
  パンチェン・ラマに好意的に迎えられたが、ラサ政庁
 の鎖国政策により通商関係を確立することはできなかっ
 た。
  その後、約100年間、イギリスとチベットの間には、何
 もなかったが、
  ラサの託宣所のラマ僧達が、チベットには魔力の加護
 があり、イギリス軍の武装を無力にしている。
  今こそ、チベット、シッキム間に、有利な国境を決定
 すべきだと唱え、
  1887年、チベット軍は、シッキムに侵攻した。
  イギリスは、侵入兵の撤退を要求したが、何の反応も
 示さなかったので、
  翌年・1888年、ベンガル政庁はチベット軍を攻撃し、
  1890年、シッキム条約を締結した。
  シッキム条約内容は・・、
  1、 チベットとシッキム間における国境の画定と国境
   不可侵の協約。
  2、 シッキムに対するイギリスの保護権。
  3、 チベット、シッキム間の通商、シッキム国内の遊
   牧、両国官吏の交渉往来。
  (参考)
  今、シッキムはインドのシッキム州となっている。
  インド北東部の、東パキスタンでくびれた地の辺り。
  ネパールとブータンの間。
1890年、チベットが参加しない条約は・・無効。
  チベットは、「チベットの参加しない条約は無効で、
 その条約には従わない」と、至極当然の主張をした。
  さかのぼること17年前の1873年、チベットとの通商(
 インド茶・英国製品などの輸出や羊毛などの輸入)を求
 めるベンガル州政府は・・、
  「チベットの鎖国状態は、駐蔵(チベット駐在)の中
 国官吏(アンバン)が強要している」と見て、インド政
 府に対し、チベットへの入国許可を出すべく清朝に交渉
 するように申し入れた。
  初代ベンガル総督ウォーレン・ヘイスティングズ(在
 任:1773年~1785年)が通商などを求めて、公式に、
 1774年~1775年に、ジョージ・ボーグルを、チベットに
 派遣するなどして以来、約1世紀を経て、中国を介した蔵・
 英関係が再スタートした。
  以後、イギリスは、特別条項で、チベット探検隊の派
 遣計画を許可された1876年の「芝罘条約」、
  チベットの反対にあって探検隊派遣中止に同意した1886
 年の「ビルマ及びチベットに関する条約」、
  シッキム・チベット間の境界を画定し、チベットとの
 通商に関する商議を約束した1890 年の「シッキム及びチ
 ベットに関する英中間の条約」、
  前条約をうけて通商などを約した1893 年の「シッキム
 及びチベットに関する1890年の英中間の条約に増補さる
 べき貿易と公的通信と遊牧に関する章程」など・・、
  次々と、チベットに関する条約を清国と締結していく。
  こうした英・清間の諸条約は・・、
  英国が、従来の歴史的な蔵中関係を西洋由来の国際法
 のフィルター(外挿法:既知のデーターから、その範囲
 外を予測する方法)を通して捉え、
  蔵・中は、「保護関係ではなく、付庸関係(付庸国―
 宗主国の関係)にある・・すなわち・・
  「中国は、チベットに対して宗主権を有する」と規定
 した。
  しかし、自由な国と自己認識するチベットは、「自ら
 が参加しない条約には従わない(中国の宗主権の否定)」
 として、諸条約の履行を拒絶し続けた。
  当然である。
  そこに住み、生活している民の意志が存在しないで、
 何の取り決めとなるのか?
  取り決めとなる訳はない。
  占領以外の何者でもない・・、
1890年2月25日、恵比寿麦酒の発売(3月説あり)  
  1889年10月、日本麦酒醸造会社の工場建設(現在の恵
   比寿ガーデンプレイス)
  ビヤホール(1899年)
1890年3月20日、ドイツ皇帝のヴィルヘルム2世が、ビスマ
 ルク宰相を解任した。
1890年3月24日、東京工業学校(後の、東京高等工業学校)設
 置された(東京職工学校を改称)
  1881年、東京府浅草・蔵前に開設された旧制の東京職
   工学校から・・、
  1890年、改称。
  1901年、東京高等工業学校。
  1929年、官立大学の(旧制)東京工業大学になった。
  1949年より現在の(新制)東京工業大学。 
   ⇒ 東京職工学校
1890年3月25日、女子高等師範学校が創設された。
  高等師範学校から女子部が独立し、女子高等師範学校
 となった。
  お茶の水女子大の前身。
  1890年3月、東京女子高等師範学校(とうきょうじょし
 こうとうしはんがっこう)は、1890年(明治23年)3月、
 東京市神田区(現・東京都文京区)に設立された官立の
 女子高等師範学校で・・、
  略称は「東京女高師」(とうきょうじょこうし)。
  日本最初の女子中等教員養成機関「女子高等師範学校」
 として設立された。
1890年3月26日、第3回内国勧業博覧会(4月1日~7月31日)
  【会場】東京・上野公園
  3月36日に開場式が行われ、明治天皇陛下が御出席され
 た。
  入場者数:1,023,693人
  当初は、ウィーン万博副総裁であった佐野常民を中心
 として、将来の万博開催を目指して少しでも規模を拡大
 した「アジア博覧会」を、皇紀2550年にあたる1890年に
 開催する案が構想されていた。
  しかし、大蔵大臣松方正義らの反対によって、純然た
 る内国博として第3回内国勧業博覧会が開催されることに
 なった。
  このような経緯により、内国博ではあったが出展品の
 販路拡大のために外国人客の誘致に力が入れられ、世界
 各国に招待状が送られた。
  最終的には、外国から246人の入場者があった。
  不景気・インフルエンザの流行・連日の雨、7月1日に
 は帝国議会衆議院選挙があったなどの影響から、全体の
 入場者数は伸び悩んだ。
  そのほかにも、単に西洋の文物というだけでは満足で
 きなくなりつつある民衆に対して、政府はあくまで、第
 1回以来の娯楽を排除する方針を貫いたことも、影響して
 いた。
  会場の建坪は9,725坪(3万2,000平方メートル)で、本館
 のほかに、美術館、農林館、動物館、水産館、機械館、
 外国製品を並べる参考館からなり、
  建物全体の面積は、第2回の約1.3倍、
  出展品数は、441,458点と増加した。
  東京電灯会社が、会場内に、日本ではじめての電車と
 なる路面電車を走らせた。
  官庁出品物は、褒賞の審査の対象外とされたので、民
 業を振興する意図が明確になった。
  しかし、褒賞については、審査の結果次第では商品の
 売れ行きに大きな影響が出たため、等数に不満をもった
 出展者から訴訟が起こることもあった。
  一方、この博覧会は、1888年からの意匠登録制度を促
 進したことも注目される。
  政府は意匠条例を社会に認知させる意図のもと、出展
 物に限り出願手数料と登録料を徴収しないことにしたの
 で、出願数が急増した。
  このように様々な新しい動きがあった第3回内国勧業博
 覧会であったが、不景気なども重なり、出品数の増加に
 対して、大量の売れ残りが出る結果となった。
1890年3月31日、天皇陛下の御統監による、はじめての陸海
 軍特別大演習が、愛知県で行われた。
  動員数3万人。
  この日の天候は、あいにく豪雨となった。
1890年4月1日、第3回内国勧業博覧会が開催された。
 (~7月31日)
  電車の試運転を公開
1890年4月1日、第1回日本医学会が開催された。
  第1回日本医学会は、1890年、第1回帝国議会・内国勧
 業博覧会を機に、石黒忠悳、大沢謙二、長与専斎、高木
 兼寛、三宅 秀ら乙酉会員有志が発起人となり、学術上
 の知識交換を趣旨として全国に会員を募り、4月1日から
 7日間、東京において開催され、2千余名が参加した。
  しかし、大家の講義にとどまり、研究討論の意図にか
 けているとの強い批判も生まれ、第2回日本医学会は行わ
 れたものの、第3回は開催されなかった。
  また、第1回日本医学会において、薬物学分野から猪子
 吉人が「菌類中毒説」を、また、高橋順太郎が「薬物学
 研究ノ方針」を講演した。
  そして、この会の準備には、帝国大学医科大学薬物学
 教室教授・高橋順太郎が五十数名の「招聘員」の一人と
 して参画した。
  1947年(昭和22年)4月、大阪で開催された第12回日本
 医学会において、「医学および近接科学の進歩発達を図
 り、分科会間の連絡を密にするとともに、わが国の内外
 に対する日本医学界の代表機関とする」目的をもって決
 議された。
  この決議にもとづき、1948年(昭和23年)3月8日、日
 本医師会の設立にともない、日本医学会が常設化された。
.
  (今日の言葉)
.
  題:今、キリスト教は、『新たな宗教弾圧者』となろうとしている・・、
.
紀元前753年、古代ローマ建国
  ロームルス(紀元前771年~紀元前717年7月5日)は、ロ
 ーマの建国神話に登場するローマの建設者で、伝説上の王
 政ローマ建国の初代王。
  レムスの双子の兄弟
  王政期:紀元前753年(建国)~紀元前509年まで、ロー
 ムルスに始まる伝説上の7人の王が治めていた(~紀元前
 509年)(伝承による)
  ローマ時代以来の野蛮な風習。
  他人の生命の危険を、大勢の人間が見物するのは、ロ
 ーマ時代以来の野蛮な風習であった。
.
1592年5月24年、文禄の役が始まった。
  秀吉は、文禄・慶長の役を行なったが、その事につい
 て徳富蘇峰は書く・・、
  徳富蘇峰(とくとみそほう)は、1863年3月14日に生ま
 れの思想家、歴史家、評論家で・・、
  『國民新聞』を主宰し、大著『近世日本国民史』を著し
 た。
  この『近世日本国民史』初版には、豊臣秀吉の朝鮮出兵
 時の見聞録が書かれている・・、
  『キリシタン大名、小名、豪族たちが、火薬がほしいば
 かりに、日本の女たちを南蛮船に運び、獣のごとく縛って
 (南蛮)船内に押し込むゆえに、女たちが泣き叫ぴ、わめ
 くさま地獄のごとし』・・、
  南蛮貿易をするキリスト教宣教師やマラーノたちは、悪
 どい入れ知恵をした・・、
  「生きるか?死ぬか?」の九州の中小大名たちは、キリ
 シタンとなって生き延びようとした・・、
  そこに付け込まれたのだった・・そこがつけ込みどころ
 だった。
  (因みに、このキリシタン大名たちの次の代の者たちは、
 きっぱりとキリスト教を辞めている)
  キリスト教をはじめて日本に伝えたザヴィエルたちは・・、
 早くも・・日本を、ヨーロッパの帝国主義に売り渡す役割
 を演じていた。
  その役目も負っていた・・キリスト教聖職者たちは、そ
 の先兵としての役も与えられていた。
  そして、ユダヤ人でマラーノ(改宗ユダヤ人)のアルメイ
 ダは、ザビエルも知っていたこと、「日本に火薬を売り込
 む」ことと交換に、「日本女性を奴隷船に連れ込んで海外
 で売りさばいた」。
  後に、ザビエルたちのキリスト教の宣教師たちは、この
 事がばれて、この事の申し開きが出来ず、『海外追放とな
 った』。
  しかし、この事は、まったくキリスト教に偏するNHK
 は放送していない、日本の方たちへ伝える事をしていない。
 隠している。
  「火薬の欲しい」キリシタン大名たちは、ザビエルたち
 の卑劣な行為・南蛮交易に組していた。
  また、キリシタン大名の大友、大村、有馬の関係者たち
 は、宣教師に言われるままに、天正少年使節団として、ロ
 ーマ法王のところへ行かせた。
  宗教的な求めから行ったのではない。
  宣教師から言われて・・たまたま行ったのだった。
  「インドへ行くが・・どうだい」的な声掛けで行くこと
 が決まった・・、
  そして、その報告書にも、ザビエルたちの南蛮貿易の悪
 行がきされていた・・、
  世界中のあちこちで見られる悪行の証明がなされていた。
  『行く先々で、日本女性が、どこまで行っても、沢山、
 目につく。
  ヨーロッパ各地で50万という。
  肌白くみめよき日本の娘たちが秘所まるだしにつながれ、
 もてあそばれ、奴隷らの国にまで転売されていくのを正視
 できない。
  鉄の伽(かせ)をはめられ、同国人をかかる遠い地に売
 り払う徒への憤りも、もともとなれど、白人文明でありな
 がら、何故、同じ人間を奴隷にいたす。
  ポルトガル人の教会や師父が硝石(火薬の原料)と交換し、
 インドやアフリカまで売っている』・・と記す。
  少年使節団の書いた『50万人の日本女性の悲劇』・・、
  「火薬一樽で50人の日本娘」が売られていった悲劇・・、
  キリスト教宣教師、キリスト教信徒、キリシタン大名
 たちに・・神杜・仏閣を焼かれた悲劇・・、
  殺された仏教僧侶の方々・・、
  この事は、キリスト教に偏するNHKも放送しないが、
 教科書にも掲載されていない(この逆は、プロパガンダさ
 れて掲載されている)。
  「火薬一樽につき日本娘50人」の記録は、必ず放送せよ。
  そして、今、申請中の世界遺産に登録せよ!
  追記せよ!!(作り事のきれいごとだけにするな!)
  豊臣秀吉は、キリスト教本部のルソン島の準管区長・コ
 エリヨに対して、
  「ポルトガル人が、多数の日本人を、奴隷として購入し、
 彼らの国に連行しているが、これは、許しがたい行為であ
 る。
  従って、伴天遠は、インドその他の遠隔地に売られて行
 った『すぺての日本人』を、日本に連れ戻せ」と命じた。
.
1860年~1890年、西部開拓時代。
  これは、北アメリカの時代区分の一つであるが・・、
 時代区分の終結は・・1890年のフロンティアの消滅を区分
 としている。
  1848年には、カリフォルニア州で金鉱が発見され、ゴー
 ルド・ラッシュとなって太平洋岸が開拓された。
  そして、逆に、太平洋岸から内陸部に向かっての開拓の
 波も起こった。
  この様に、西部開拓は、大西洋岸、および、太平洋岸か
 ら内陸に向かって進んでいった。
  1869年には、アメリカ合衆国で最初の大陸横断鉄道が
 開通した。
  この様な中、先住民族であるインディアンの方々にとっ
 て、突然やって来た侵略者に、自分達の土地を強奪された。
  そのうえに・・殺戮された。
  そして、鉱山の町では・・売春も酷かった。
  アメリカ西部は、売春が合法となっていた。
  売春婦は「夜の鳩」と呼ばれた。
  西部の砦の脇にも・・売春宿は作られていた。
  若い女性は、その行為で稼ぐ事も出来たが、年が行くと
 料金的に虐げられた。
  土曜の夜は、4000人の売春婦が、賃金が払われた鉱夫
 たちが押しかける夜で・・盛んとなり、娼館はにぎわった。
  気に入った娼婦を連れて2階へ行くという娼館だった。
  売春婦は、鉛や水銀の化粧を使った。
  それで、体を痛めた。
  また、少量のヒ素を使うと「肌が透きとおる」として
 使われた。
  並んだ小部屋に、女たちは並んで入れられ、男たちに
 選ばれた・・、
  女たちは男たちに媚(こび)を売り気を引いた。
  荒っぽい男たちを扱う時・・呼び鈴で、異常の事態に
 は助けを求めることも出来た。
  その様な客の対応もさせられた。
  現金は使われなかった。
  代用紙幣が作られ、金の役をした。
  また、砂時計が使われ、時間を決められ、目いっぱい
 男の対応をさせられた。
  脱出ルートもあった。
  妻から逃げる客が、そのルートを使うことにも使われた。
  また、地下ルートから娼館へ遊びに来ることにも使われ
 た。
  町の特定の家にもつながっているという「体たらくさ」
 「ひどさ」だった。
  町の人に見つからずに来れると・・裕福な男たちは、
 そのルートを使って女を買った。
  薬品で体を洗うことも求められた。
  鉄道員が来ると赤ランプを付け、露骨な呼び込みも止
 めた。
  地下の町が作られ、ビーナス街と言った。
  日の当たらない地下の部屋で体を売らされた。
  賭博と酒もはびこった。
  身分を隠した。
  売春婦だとはせず、下宿人と書いた。
  売春街は無法者を隠した。
  その様な客は、チップをはずんでくれる上客だった。
  保安官が来ても黙っていた。
  女主人も、保安官に金を渡した。
  女たちは5年しか働けなかった。
  精神的苦痛から自殺する女も多かった。
  第一次大戦で止められた。
  アメリカ政府は、「戦士に性病が拡がる」ことを恐れた
 ためだった。
  この時は、欧州で、アメリカ兵は盛んに女を買った。
  アメリカで出来ない反動だった。
  フランスでやった。
  アメリカ政府は、「必要悪」として公然と認めていた。
  ハワイのホノルルは、大変、有名な場所となった。
  アメリカ海軍は、有り難がって使った。
  アメリカ軍は、「3分で行為を済ませ」と命じた。
  出来なかった兵には、「振替チケット」を配った。
  アメリカ陸軍省は、性病のパンフレットを作って配った。
  性病の流行が酷(ひど)くなって作られたのだった。
  19世紀~20世紀初頭、特に、戦時中に盛んとなった。
  売春宿は情報源となると見られた。
  盗聴器が仕掛けられた。
  売春の歴史は古い。
  紀元前2300年、メソポタミアは、神殿娼婦が居た。
  神殿での性交は儀式とされていた。
  コリント、ギリシャにも1000人の売春婦が居た。
  町の宿でも商売としてなされる娼婦が居た。
  キリスト教も売春を行なった。
  カトリック教会は売春宿を持った(経営した)。
  金がキリスト教は欲しかった。
  キリスト教の聖アウグスティヌスは、「売春は否定で
 きない」と言った。
  売春宿を作ったキリスト教聖職者も居た。
  また、売春宿を奨励した聖職者も居た。
  名目は、結婚を促(うなが)すだった。
  キリスト教徒だけに性交させた。
  また、キリスト教会は売春宿に献金させ、潤った。
  今・現代は、電話で呼び出すシステムがあり、アメリ
 カで合法化されている町までさえある。
  欧米は、女性に優しいとか、倫理観があると言われて
 いるが、これは、完全なプロパガンダ(嘘宣伝)。
  日本人こそ、女性に対して優しく、高潔な倫理観がある。
.
  題:バチカンが最悪行為の児童虐待・・キリスト教の
    最高の機関がこのレベル・・他は推して知るべし・・
.
2014年1月17日、国連が、バチカンに児童虐待への対策迫る。
  AFP=時事
  バチカン(ローマ法王庁)は、2016年1月16日、ローマ・
 カトリック教会の聖職者による『未成年者への性的虐待』
 を撲滅するための取り組みついて、初めて国連(UN)から
 の質疑に応じた。
  ローマ法王、聖職者の児童性的虐待で委員会を新設
  バチカンの使節団は、スイス・ジュネーブ(Geneva)に
 ある国連・子どもの権利委員会(Committee on the
 Rights of the Child)にて、6時間に及ぶ質疑に応じた。
  バチカンの元検察高官チャールズ・シクルナ(Charles
 Scicluna)氏は、同教会は何をなすべきかを理解している
 と主張した。
  「特定の事案について、今とは違った対応が必要なこと
 は理解している」などと述べた。
  これに対し同委員会は、バチカンの決意を疑問視。
  サラ・オビエド(Sara Oviedo)委員は、使節団に対し
 て、「態度の変化に疑問を持っている」として、「あなた
 方(バチカン)は、実行に移す必要がある。
  われわれは、具体的な行動を目にする必要がある」と
 述べた。
  国連が、1989年に採択した「子どものための権利条約
 (Convention on the Rights of the Child)」の締約国
 は、規則が遵守されているかどうかを示した報告書を定期
 的に提出することが求められており、18人の委員からなる
 同委員会がこれを吟味する。
  報告書の提出に同意しているバチカンが、同委員会に、
 最初に、使節団を派遣したのは、同教会の聖職者の児童
 虐待問題が明るみに出る前の1995年で、16日の派遣が2回
 目となった。
  バチカンが提出した報告書と、同日の質疑応答に基づき、
 同委員会は、2月5日までに勧告を行う予定。
  勧告内容は、法的義務ではないが、道義的責任が問われ
 ることになる。
  英国に拠点を置く「子どもの権利国際ネットワーク(
 Child Rights International Network)」のベロニカ・
 イエーツ(Veronica Yates)代表は、AFPの取材に対し、
 「国連からのメッセージは明白。
  『あなた方(バチカン)は規則を守っていない』『責
 務を果たそうという意欲がない』『否定し話をそらして
 いる』だ。
  人権を促進する国際機関が、この様に言うのは、これが
 初めてだ」と、この日の質疑応答の意義を強調した。
  (評)
  キリスト教の最高の組織がこの最悪レベルである。
  他は、推して知るべし・・、
  キリスト教に偏するNHKよ、この事を報じよ!
.
2017年2月2日、「長崎の天草地方の潜伏キリシタン関連遺
 産」世界遺産登録のための推薦書が、再度、ユネスコへ
 提出された。
  前回、この世界遺産登録は、東南アジアなどに普通に
 存在している遺産と同程度で、特別性がないと判定され
 たり、種々、指摘されていた・・それの再チャレンジとな
 っている(大分、無理をしての申請だった)。
  そして・・、
  題:今、キリスト教は、新たな宗教弾圧者に、なろうと
 している。
  長崎のキリスト教関連の世界遺産登録は、歴史を曲げ、
 事実を曲げて、嘘を作ろうとしている・・、
  日本人は、本当に、温厚な民族だ・・、
  その1例を考えてみると・・、
  キリスト教の日本の禁教の歴史の中で・・、
  江戸幕府は、そう厳しい取り締まりをした訳では無かっ
 た。
  それが、ヨーロッパ社会と同じ様な、卑劣な、そして、
 非人道的な取り締まりが、日本で行なわれたと・・錯覚
 しようとしている・・そして、錯覚させられている・・、
  この主な原因者に、キリスト教とNHKが居る。
  この様な酷い弾圧が、日本でもなされたと思わせる事
 が・・錯覚が・・キリスト教には都合が良いのである。
  厳しい取り締まりがあった中を、信仰を守ったのだと
 したいのである。
  キリスト教は、その様なプロパガンダ(嘘宣伝)をして
 来ている。
  また、キリスト教に偏するNHKも、ひたすら「キリス
 ト教は、虐(しいた)げられた」という嘘番組を放送して
 いる。
  キリスト教禁教令の以後、1600年代の半ば以降、徳川
 時代のごく初期から、事実上、徳川幕府は、キリスト教
 取り締まりから手を引いた・・ノータッチとなった。
  この様な史実は、まったくと言ってNHKやキリスト教
 は、説明もしないし、放送もしない。
  徳川幕府は、『信仰の黙認さえもした』のである。
  研究論文に、「17世紀半ば以降は、信仰が事実上黙認
 されていた」と明記されている。
  この事実を無視しているのか?知らないのか?NHK
 は、キリスト教が弾圧を受け続けたと放送している。
  その様な嘘を放送し、明治になってキリスト教が自由
 になったという歴史観で、『間違った歴史観』で、キリス
 ト教に偏する放送を続けている。
  「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」の世界遺産登録
 申請も、この歴史観から申請しようとしている。
  間違いである・・デッチアゲである。
  その申請主旨の、「弾圧の中、信仰を忘れず、カトリッ
 クに復帰した」というのは嘘である。
  はっきりした嘘であり、デッチアゲである。
  世界遺産登録を目指すと言うが、嘘・デッチアゲで登録
 を目指すというのは、『恥ずかしくないのか?』と問いた
 い。
  長崎県平戸市生月島(いきつきしま)の方々が、明治に
 信仰が認められた時でも、カトリックにはならなかった。
  それは、信徒の長老の言葉でもその理由が分かる・・、
  「(カトリックの人から)一緒にならんかと言われた
 が、元は同じでも拝み方が違う。先祖の教えは絶やせな
 い」・・である。
  もう、今の状態は、キリスト教から程遠い、仏教や神道
 などと習合して、『キリスト教とは別の、キリスト教と
 異質な宗教に・・変容しているのである』。
  キリスト教だって、節操無く色々な宗教と習合し、また
 集合するという・・習合のごちゃまぜの宗教であるという
 ことを忘れないで戴きたい。
  天使だって、他の宗教からの拝借品、借り物・・、その
 他ことごとにも、たくさん、この様な事はある。
  この九州の長崎県平戸市生月島の方々の宗教は、キリス
 ト教では、「最早(もはや)、ない」のである。
  このキリスト教と別な宗教に変容した宗教も、『尊重
 して差し上げなければならない』。
  それを、キリスト教は必死に戻そうとしているが、新た
 な『宗教の改宗の弾圧になる』ということを、キリスト教
 は知らねばならない、悟(さと)らねばならない。
  今、キリスト教は、新たな『宗教弾圧者』に、なろう
 としている。
  嘘の世界遺産登録は取り下げるべきである。無理であ
 る。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
 

2017年3月16日木曜日

(増補版)508E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1890年2月~1890年3月)

題:(増補版)508E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1890年2月~1890年3月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
19世紀後半、黄禍論(こうかろん)
  19世紀半ば~20世紀前半にかけて、北アメリカ、ヨー
 ロッパ、オーストラリアなどの白人国家において現れた、
 黄色人種脅威論で、そこには、キリスト教に洗脳された
 白人の優越性と黄色人種の劣等生という考え方があり、
 洗脳された人種の差別論だった。
  アメリカやヨーロッパでは、黄色人種の台頭を懸念し、
 白人文明ないし白人社会に脅威を与えると恐れた。
  軍事、政治、経済、社会のいずれかにおいて、黄色人
 種の活躍が既成の白人支配体制に大きな影響を及ぼすと、
 宗教洗脳された白人社会に想像され・・、
  それによって「黄禍論」が唱えられた。
  13世紀のモンゴル帝国のヨーロッパ侵略の想像がある
 と論じるものもあるが、
  まったく裏付けのない宗教洗脳された非科学的な論理
 だった。
  その一方、日本では、アジア諸民族の連帯を説く「ア
 ジア主義」が主張された。
  黄禍論が・・人種的な言説が・・拡大したからという
 一面があった。
  そしてのちに、時は太平洋戦争へと至って行った。
  この様なことから、アジア太平洋戦争を「人種戦争」
 と捉える論説・作品は少なくない。
  人種的偏見が戦争へとつながって行った。
  さらに、他資料では・・、
  日清戦争末期の 1895年春頃から、ヨーロッパで唱えら
 れた黄色人種警戒論で、
  19世紀末に、ドイツの地理学者 F.リヒトホーフェンは、
 アジア民族の移住と、労働力の脅威にふれて、黄色人種
 の人口が圧倒的に多いことが、将来の脅威となるであろ
 うと指摘した。
  そして、日本を極東に閉じ込めるべきだと主張した。
  さらに、別資料では・・、
  白人種の正当化理論として・・、黄色人種が、白色人
 種を凌駕(りょうが)するおそれがあると主張し、
  また、黄色人種が、やがて世界に災禍をもたらすであ
 ろうと主張し・・、
  アジアに対する欧米諸国の侵略と黄色人種の圧迫を正
 当化するために用いられた。
  ドイツ皇帝ウィルヘルム2世が、画家に「黄禍の図」
 を描かせ、それをロシア皇帝ニコライ2世に贈ってから、
 黄禍論がヨーロッパで問題となり・・、
  日清戦争、義和団事件などに際して、この言葉を用い
 たのが最初とされ、
  Yellow Perilという英語となって、
  とくに、日露戦争以後広まり、
  19世紀から20世紀初頭におよび、アメリカにおける、
 中国系移民や日系移民の排斥につながった。
  また、オーストラリアにおける、黄色人排斥の白豪主
 義にも黄禍論がある。
  キリスト教の宗教洗脳による有色人種蔑視を根底にし
 た黄禍論が、白人社会に広がり、戦争へとつながって行
 った。
1890年2月27日、浅草区で大火。
  東京・浅草三間町で大火、焼失1500戸。
  浅草区三間町から出火し、折からの北西の強風にあお
 られ寿町、駒形町、黒船町へと延焼し、全焼1469戸、焼
 損面積1万2828坪(4万2332平方メートル)
  この大火で、常備されて間もない蒸気ポンプが使用さ
 れた。
1890年2月28日、菊花紋章の乱用の禁
  商品などへの菊花紋章の乱用が禁止された。
  江戸時代より・・幕府の葵紋とは対照的に、菊花紋章
 の使用は自由とされていて、
  一般庶民にも浸透し、
  この紋の図案を用いた和菓子や仏具などの飾り金具が
 作られるなど、各地に広まっていた。
  1867年(慶応3年)3月28日の太政官布告第195号で、
 提灯・陶器・貢物などに菊紋を描くことを禁止され、
  1869年(明治2年)8月25日の太政官布告第803号で、
 社寺で使用されていた菊紋も、一部の社寺を除き一切の
 使用が禁止された。
  その後、徐々に社殿の装飾や幕・提灯に菊紋の使用が
 許され、
  1879年(明治12年)5月22日の太政官達第23号で、一般
 の社寺でも神殿・仏堂の装飾として使用することが許さ
 れていた。
1890年3月4日、イギリスでフォース鉄道橋が完成(開橋)
 した。
  スコットランドのエディンバラ近郊のフォース湾に架
 かる鉄道橋で、
  全長2530mのカンチレバートラス橋。
  トーマス・バウチは、スコットランドのテイ湾に架か
 るテイ橋を設計した人物であった。
  そのテイ橋は、1878年に開通した長さ約3kmのトラス橋
 で、
  バウチは、この功績でナイトの称号を与えられている。
  当代随一の設計者として知られていた。
  しかし、スコットランドは、風が強く、テイ橋は、完
 成した翌年・1879年に、強風で崩壊してしまった。
  運悪く通過中の列車が、テイ湾に落下した、そして、
 75名の犠牲者・死亡者を出した。
  この様な悲しい歴史があるスコットランドの橋だった。
  このフォース鉄道橋は、2015年に、ユネスコの世界遺
 産に登録された橋で、高さ100メートルという、大きな橋
 であるが・・、
  この建設に、日本人が関わっていた。
  スコットランドの強風にも耐え抜ける橋を造るべく、
 カンチレバーという構造が採用された。
  日本人の渡邊嘉一氏(長野県出身)は、現在の東京大
 学工学部を卒業すると、1884年に、グラスゴー大学に留
 学した。
  そして、卒業あとも、スコットランドにとどまり、
  当時、建設中であったこのフォース鉄道橋の建設工事
 監督を任された。
  2007年発行のスコットランド紙幣にも印刷され、現在
 でも使われている・・この橋・・、
  渡邊嘉一は、帰国後、日本土木会社の技術部長となり、
 そのあと、参宮鉄道、関西瓦斯、東京石川島造船所(石
 川島重工)、京阪電気鉄道会社、京王電鉄などの社長を
 務め、「日本土木史の父」と呼ばれている。
  フォース鉄道橋の前に、ダンディーンのティ・ブリッ
 ジという橋が建設されたが、強風で壊れ、走行中の列車
 とともに崩壊、多数の犠牲者を出したという惨事があっ
 た。
  その教訓からも、風に強い橋にすることが最重要課題
 だった。
  橋に使用された鋼材は50,000トンを越え、リベットの
 総数は650万個。
  そして、建設に関わった作業員は約4600人で、57人が
 建設における事故犠牲者となり、橋に尊い命を捧げた。
  この様な意味もあって、スコットランドの方々の思い
 入れの強い橋となっている。
1890年3月6日、東京駅前の三菱村と言われる地・・丸の内
 近辺の官有地が、岩崎弥之助に払下られた。
  岩崎弥之助が、政府から丸の内一帯の軍用地だった10
 万坪余りを(いわゆる三菱ヶ原)を譲り受けた。
  財源に苦しむ政府は、麻布に新兵舎を建設するための
 費用を捻出しようと、三菱会社(正式には岩崎久彌総代
 理人、岩崎彌之助個人)へ150万円で払い下げた。
  当時、一帯は、朽ち果てた古い大名屋敷のほかは、草
 が生い茂るばかりの荒れ地だった。
  三菱社、丸の内陸軍省用地、並びに、神田三崎町練兵
 場土地(353,000㎡余)の払下げを受け・・、
  1890年9月、丸ノ内建築所設置。
  1893年12月、三菱合資会社設立。
  1894年6月、丸の内最初の事務所建築である「第一号館」
   竣工。
  1923年2月、「丸ノ内ビル」竣工。
1890年3月15日、琵琶湖疏水(びわこそすい)が竣工した。
  琵琶湖から京都市内に通じる水路・運河で・・、
  大津市三保ヶ崎から長等山などをトンネルで抜け、京
 都市東山区蹴上(けあげ)を通り・・宇治川に合流する。
  第一疏水は、長さ8.7キロで、1890年に完成した。
  並行する第二疏水は、長さ7.4キロで、1912年に完成し
 た。
  舟運・発電・上水道・灌漑の目的で、当初は開削した
 が、現在は、蹴上浄水場への供給が主目的。
  京都府知事の北垣国道が、舟運の利便性を高め、工業
 用水や農業用水、飲料水を確保して近代化を推し進めよ
 うと考え、1885年に、工事を着工し、
  1890年に、大津から鴨川までの第一疏水が完成した。
  日本初の鉄筋コンクリート橋、インクライン、疎水分
 線の水路閣などが、1996年に、国の史跡に指定された。
  西欧の近代的土木技術を学んだ日本人技術者による大
 規模土木工事であり、
  明治中期における日本の土木技術水準の高さを示す画
 期的な事業だった。
  田辺朔郎(さくろう)の設計、施工によるもの。
1890年3月15日、博文館から「日本文学全書」24冊の刊行が
 始まる。
  博文館は、1887年、大橋佐平が、東京本郷で創業した
 出版社で、創業にあたり、集録雑誌「日本大家論集」を
 創刊し、驚異的成功を収めた。
.
  (今日の言葉)
.
  題:ポーランドの孤児たちを・・シベリアの極寒の地から・・日本軍は救出した・・
    今でも・・ポーランドの方々は・・その行為に対し・・感謝をして戴いている・・
.
1920年7月、日本軍が、ポーランドの孤児たちをロシア兵か
 ら救出した。
  この様な行為は、1922年にも、救出作戦は行われた。
  ポーランドに駐在した元大使が、ポーランドの方々か
 ら、大変、感謝されて感動したと記しています。
  http://shuchi.php.co.jp/article/1812
  当時、可哀想なことに、ポーランドは、領土を分割さ
 れ、国家を喪失していた。
  ロシアに占領され、ロシア領とされていた。
  そこで、ポーランドの方たちは、独立のために立ち上
 がった。
  しかし、鎮圧され・・、
  国の英雄となるべき方々は、ロシアによってシベリア
 へ流刑にされた。
  第一次世界大戦までに・・その数は5万人以上に上った。
  また、第一次世界大戦では、ロシアとドイツの戦場と
 なったポーランドだった。
  ポーランドの方々は、両軍に追い立てられて、流民と
 なって・・シベリアへ流れ込んだ。
  その様なポーランド人の方々は、15万人~20万人にま
 で膨れ上がった。
  そして・・ロシア革命が起きた・・そして・・内戦が
 起きた・・、
  その戦火の中で、シベリアのポーランドの方々は・・
 凄惨な行き地獄へと・・追い込まれた。
  食糧も医薬品もない中を、多くの人々が・・シベリア
 の荒野をさ迷った・・
  彷徨いの中で、多くの方々が餓死した・・、
  そして・・病死した・・、そして、凍死した・・、
  生きるか死ぬかの中で・・食べ物を先に子供たちへ食
 べさせていた母親が・・ついに力尽きた・・
  また、その様な母親の胸にすがって涙を流しながら・・
 その子供たちも・・死にゆくという光景が・・あちこち
 にあった・・、
  親を失った孤児たちも・・大勢いた・・、
  1919年、そのあまりにひどさに・・、また、悲しい悲
 劇的な状況に・・見かねたウラジオストク在住のポーラ
 ンドの方たちは立ち上がった・・、
  当時、シベリア出兵中の日本軍が居た。
  シベリア出兵は・・アメリカも、イギリスも、フラン
 スも、イタリア軍なども・・居た。
  ポーランドの方々は・・、初め、アメリカや・・ヨー
 ロッパ諸国の軍へ救いの働きかけをした・・
  しかし・・、ポーランド孤児たちの窮状を救って下さ
 いと懇願するが・・、
  ・・救出の行為は・・得られなかった。
  最後の頼みとなった日本軍が・・その要請に応えてく
 れた・・その行動を起こしてくれた。
  救出要請の訴えを聞いた日本政府は、その対応は早か
 った・・
  わずかな日数の後には・・その救出の行動が決断され
 た。
  そして・・日本陸軍の支援とともに・・日本赤十字社
 が行動した。
  そして、救出されたポーランドの孤児たちは、1920年
 (大正9年)7月、日本の地へ・・敦賀経由で東京に到着
 した。
  この様な行動は、1922年(大正11年)にも行なわれた。
  最初に、375人の児童が救われ・・、
  第2回で、390名が救われた・・、
  シベリアで死の淵をさ迷ってきた孤児たちは・・栄養
 失調で身体も弱り・・腸チフスなどの病気が猛威を振る
 うこともあった・・、
  1921年(大正10年)7月11日には、孤児たちを必死に看
 護していた看護婦の松沢フミさん(23歳)が、腸チフス
 に感染し・・殉職された。
  孤児たちも・・彼女の死を悼み・・涙にくれたと記録
 されている。
  日本の民間の方々も、不憫(ふびん、かわいそうなこ
 と。あわれむべきさま)なポーランド孤児たちを温かく
 迎え、世話をした。
  東京でも・・大阪でも・・慰問品や寄贈金が次々と寄
 せられた。
  慰安会も、何度も開かれた。
  この様な献身的な看護と、温かい周囲の行動のかいも
 あって、来日当初は、飢えて、体力も衰えていた孤児た
 ちは、
  元気を取り戻し、全員無事に、ポーランドへ帰国でき
 た。
  横浜港や神戸港から出航する時、幼い孤児たちは、親
 身に世話をしてくれた日本人の看護婦や、保母たちとの
 別れを悲しみ、乗船を泣いて嫌がるほどだった。
  苦難に満ちたシベリアでの生活を過ごした孤児たちに
 とって、これほどまでに温かく親切にされたのは、物心
 ついてから初めてということも多かったのでしょう・・、
  彼らは口々に「アリガト」など、覚えたての日本語を
 連発し、「君が代」などを歌って、感謝の気持ちを表わ
 した。
  帰る子供たちも、大勢の見送りの日本人たちも、涙を
 流しながら、姿が見えなくなるまで手を握り続けていた。
  (別史料も参考に・・)
  1920年から1922年にかけて、数回にわたり、合計765名
 のシベリアのポーランド孤児を受け入れ・・、
  さらに、孤児たちの世話役として65名のポーランド人
 の大人も受け入れ・・、
  東京や大阪など日本各地で厚い保護の元、1年ほど生活
 をした。
  その後、孤児たちは、無事にポーランドへ帰還した・・、
  この中には、多くのユダヤ系ポーランド人が含まれて
 いた。
.
1945年12月、白洲次郎が、GHQ司令長官のダグラス・マ
 ッカーサーを怒鳴りつけた。
  白洲次郎(しらすじろう)は、連合国軍占領下の日本
 で、吉田茂の側近として活躍した。
  終戦連絡中央事務局や、経済安定本部の次長を経て、
 商工省の外局として新設された貿易庁の長官を務めた。
  (参考)
  終戦連絡中央事務局:(しゅうせんれんらくちゅうお
 うじむきょく)は、
  太平洋戦争の終結に伴い、GHQとの折衝を担当する
 機関として、1945年8月26日に、終戦連絡事務局官制(昭
 和20年勅令496号)により設置された政府機関だった。
  白洲は、吉田茂の側近として、連合国軍最高司令官総
 司令部と渡り合った。
  吉田政権崩壊後は、実業家として、東北電力の会長を
 務めるなど多くの企業の役員を歴任した。
  一時は忘れられた存在であったが・・、
  1990年代前半頃から、少しずつ再評価され、各種メデ
 ィアで取り上げられることが増えた。
  21世紀に入ってからは、「日本のプリンシパル」(有
 数の要人)と評価する書籍が多く刊行されている。
  この白洲が、この時・1945年12月に・・、
  昭和天皇陛下からダグラス・マッカーサーに対するク
 リスマスプレゼントを届けた。
  その時に、「その辺にでも置いてくれ」とプレゼント
 がぞんざいに扱われた為に、白洲は激怒した。
  「仮にも天皇陛下からの贈り物を、その辺に置けとは
 何事か!」と怒鳴りつけた。
  マッカーサーは、持ち帰ろうとした白洲に慌てた。
  その白洲次郎が・・、
  占領が終わった後の『日本の親米保守派』のことを、
  「独立回復後の今日でもそうである。米語を話し、と
 にかく米国人のご機嫌をとらんと努力する。
  それ以外のことは考えない日本人が、残念ながら多数
 存在する」・・と。
  そして、この白洲の言葉を読んだ伊藤貫氏は・・、
  「この親米保守派というのは、『強そうな奴』に媚(
 こ)びへつらうだけのコラボレイショニストだったのか」
 と思ったという。
  それが、朝日新聞やNHKという記述もある。
  戦時中は、軍にへつらい、そして、戦後は、親米保守
 となってアメリカにへつらった・・と・・、
.
2017年3月5日、中国の軍事費の伸び率
  驚くべきことだが・・次のような数字がある・・、
  中国政府の公表する数字がまったく信用が出来ないと
 いうが・・、
  それでも、中国の発表した軍事予算と伸び率を見ると
 ・・以下の様になる。
  2000年度、1200億元、前年比の伸び率・17  %
  2001年度、1400           16
  2002年度、1700           21 
  2003年度、2000           17 
  2004年度、2250           12.5
  2005年度、2600           15 
  2006年度、2950           13.5
  2007年度、3500           18.5
  2008年度、4100           17 
  以上の様に、毎年、二桁のハイ・ペースで伸び続け、
 5年~6年で倍になるという・・驚異的な伸びとなってい
 る。
  その目的・・狙いは・・
  1)短期的に:台湾の有事の場合、アメリカに対する
        けん制。
  2)長期的に:アジアからアメリカの勢力を駆逐し、地
        域の覇権を確立する。
  そして・・近年の状況は・・驚異的な額となっている。
  最近の、2017年3月5日、読売新聞に、これに関連する
 記事が掲載されていた。
  中国の「国防予算」(軍事予算)が初めて1兆元(約
 16.5兆円)を突破することが確実になった・・と報じて
 いた。
  また、「強軍建設」路線を進む中国は、アメリカ軍と
 の対立も念頭に、最新兵器の配備を急ピッチで進めてい
 る・・と報じた。
  この記事を参考にして、以下に抜書きすると・・、
  ・中国の軍事費は、アメリカに次ぐ世界第2の規模で、
   2016年は、日本の防衛予算の・・約3.2倍だった。
   また、世界第3のロシアと比べても・・約2.5倍とな
   る。
  ・専門家は、「潤沢な予算で軍備拡張を進められるこ
   とが出来る」と言う。
  ・1月に就任したトランプ米大統領は、「力による平和」
   を掲げ、国防費を約1割増やし、軍備増強を図る方針
   を示している。
    中国の習近平政権も、「自国の安全に対する脅威」
   に毅然と立ち向かう姿勢を示している。
  ・3月3日に、北京で開幕した会議で、軍出身委員から
   軍備増強を求める声が相次いだ。
   「中国の軍事費は、アメリカの4分の1だ」・・
   「もっと増やす必要がある」・・と、まくし立てた。
  ・また、「建軍の父」と言われる朱徳の孫は・・、
   「中国は、米国に比べて低い」。
   「国際水準に並ぶまでにまだ大きな空間がある」と
   主張した。
    また、全人代の傳氏も・・、
   「中国は、GDPの1.3%なのに、北大西洋条約機構
   (NATO)加盟国は2%まで引き上げようとしてい
   る」と言った。
  ・全人代代表で、中国軍事科学院研究員の少将は・・、
   「海、空、ロケット軍、(宇宙とサイバー分野など
   を担う)戦略支援部隊」の建設に(予算を)傾斜配
   分すると言った・・、
    また、海軍強化の一環として、建設中の国産初の
   航空母艦について、兵器や装備の取り付けが順調に
   進み、まもなく進水予定である・・と言った。
  ・習政権は、陸海空軍などの統合運用と戦力精鋭化を
   進めてきた。
    新たな戦略に対応するための兵器の近代化や、情
   報通信システムの構築をするためには「膨大な予算
   が必要」と・・、
    1月には、習氏をトップに、軍事面の開発研究に民
   間の資金や技術を導入する。
    そのための「軍民融合発展委員会」を発足させた
   ・・と・・など・・、
   因みに、日本の防衛費は・・1%以下の0.93%・・、
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
 

2017年3月13日月曜日

(増補版)507E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1890年1月~1890年2月)

題:(増補版)507E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1890年1月~1890年2月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1890年1月27日、慶応義塾が大学部を開設。
  1858年(安政5年)10月、開塾
    福沢諭吉が、藩命により江戸築地鉄砲洲に中津藩
   中屋敷内(現:東京都中央区明石町)に蘭学塾(1863
   年に英学塾に転向)を開いた。
    これが慶應義塾の起源。
    この時、福沢諭吉・・25歳。
    昔の日本人は偉かった・・若くして大志を実行し
   た。
  1868年(慶応4年~明治元年)4月、新銭座の新校舎が
   完成すると、時の年号をとって塾名を「慶應義塾」
   と定めた。
    同時に、共立学校の制度として、志を同じくする
   ものが共同で社を結び、家塾から脱して近代私学と
   して発足した。
  1871年3月、三田に移転。
    三田の地は、島原藩の中屋敷があったところで、
   前年・1870年に、邸地約1万2千坪を貸し下げられ、
   翌1871年年に、払い下げを受けた。
  1873年4月、学課を整備し、正則・変則の両科新設
  1875年5月1日、三田演説館竣工、開館
  1880年11月、「慶應義塾維持法案」を発表する
  1889年8月、「慶應義塾規約」制定
  1890年1月、大学部発足、文学・理財・法律の三科を
   置く。修業年限3年。
    私立として最初の総合大学。
    これまでの課程を普通部と呼ぶ。
1890年2月1日、國民新聞が創刊。
  徳富蘇峰主宰の「国民新聞」が創刊される。
  蘇峰が・・「新聞其物をして社会の生活と一致合体せ
 しむる」・・を、基本方針として発刊した。
  創刊当初は、政治、経済、文化等のさまざまな分野を
 報道・論評する生新な新聞として人気を博した。
  また、開明的なナショナリズムと、平民主義 (ブルジ
 ョア民主主義) の立場からの欧化政策を主張し、知識人
 層に歓迎された。
  ・・が・・蘇峰が、大隈重信、松方正義に次々と接近
 しては離れ、
  最後に、日清戦争後、蘇峰が、山県有朋、桂太郎の長
 州閥に密着して御用新聞化した。
  この山県、桂系の代弁新聞となることにより、官僚、
 軍人の支持を得るようになって、その論調は、政界に大
 きな影響力をもった。
  1913年(大正2年)の憲政擁護運動でも、桂内閣を支持
 して民衆の襲撃を受けたが、根強い蘇峰信者の支援を得
 て紙勢は衰えなかった。
  新聞統合で「都(みやこ)新聞」と合併し、
  1942年(昭和17年)10月、「東京新聞」となった。
1890年2月3日、第伍海軍区鎮守府を室蘭に設置した。
  1890年2月4日勅令第7号「第五海軍区鎮守府位置設定ノ
 件」によって、室蘭鎮守府の設置を内定したが、室蘭は
 地形的に太平洋からの攻撃に対して防御が困難であると
 の理由で、
  1895年6月12日に、軍港予定地を大湊に変更した。
  しかし、大湊に鎮守府の設置は実現しなかった。
1890年2月5日、メキシコに公使を置く(アメリカ国公使の
 陸奥宗光が兼務)
  在メキシコ日本大使(全権大使)
  陸奥宗光   :1890年(明治23年)
  建野郷三   :1891年(明治24年)~1894年(明治2年7)
  栗野慎一郎 :1894年(明治27年)~1896年(明治29年)
  室田義文   :1896年(明治29年)~1900年(明治33年)
  佐藤愛麿   :1900年(明治33年)~1902年(明治35年)
  杉村虎一   :1903年(明治36年)~1906年(明治39年)
  荒川巳次   :1906年(明治39年)~1907年(明治40年)
  1890年、駐サン・フランシスコ珍田領事メキシコとの
   貿易の可能性を調査。
  1890年、メキシコ初代駐日領事サルタレルが横浜に到
   着。
  1891年6月、建野郷三(10年間大阪府知事であった)が特
   命全権公使としてポルフィリオ・デイーアス大統領
   に信任状を提出した。
    しばらく後の会合での発言で、日本とメキシコの
   人種的近似性、両国語の類似性について言及、「ワ
   ラチェ」が両国で同じ意味であると述べた。
    一方メキシコ公使館もこの年の1月、東京に開設さ
   れた。
  1891年11月、メキシコのホセ・マルテイン・ラスコン
   特命全権公使が天皇陛下に拝謁した。
1890年2月8日 閣議が、青木周蔵外相提出の条約改正案を決
 定した。
  テロによって大隈が遭難した後、、1889年12月24日、
 青木周三が、第1次山縣内閣の外務大臣に就任した。
  そして、外相として「青木覚書」を閣議に提出し、承
 認を受けた。
  この後、対イギリス条約改正交渉をみずから指揮し、
 駐日イギリス公使フレーザーとの交渉を進め、
  1891年、第1次松方内閣でも外務大臣を留任、領事裁判
 権撤廃の条約改正に奮闘した。
  青木の条約改正案は、従来のものと異なり、治外法権
 に関して「対等合意」
  (外国人裁判官の大審院への不採用、外国人不動産は
 領事裁判権を撤廃しない限り認めないことを明記)を目
 指した。
  帝政ロシアが、東アジアに進出することに不安を抱い
 たイギリスが、日本に好意を持った。
  また、時勢にも恵まれ、交渉は成功しかけた・・が、
 新条約調印寸前の、1891年5月、大津事件が発生し・・青
 木周三は引責辞任した・・、交渉は中断された。
1890年2月10日、裁判所構成法が公布された。
  区裁判所、地方裁判所、控訴院、大審院の制度が出来
 た(明治23年法律第6号)
  公布:明治23年2月10日
  施行:明治23年11月1日
  公布文:
   朕裁判所構成法ヲ裁可シ之ヲ公布セシム此ノ法律ハ
  明治二十三年十一月一日ヨリ施行スヘキコトヲ命ス  
  御名御璽
     明治二十三年二月八日
             内閣總理大臣伯爵 山縣有朋
               司法大臣伯爵 山田顯義
1890年2月11日、金鵄勲章が制定され創設された。
  皇紀2550年の紀元節を記念して、この日に、金鵄勲章
 (きんしくんしょう)が制定された。
  (氷川清話)金鵄勲章の制成る。
  日本の武功勲章で、戦功が特にすぐれた陸海軍人、お
 よび、軍属に勲章が与えられた。
  神武天皇の東征の際、天皇陛下の弓の弭 (ゆはず、弓
 の両端の弦をかけるところ) に金鵄(金色の鵄・トビ)
 がとまったことにより、長髄彦(ながすねひこ)の軍卒
 を眩惑・圧倒し、連勝したという神話の故事にちなんで制
 定された。
  金鵄と古代の兵器をデザインした。
  功一級から七級までに分れ、終身年金付きで与えられ
 た。
  敗戦後の1947年5月3日に、GHQの指示により廃止さ
 れ、年金支給も無くなった。
1890年2月15日、偕行社(かいこうしゃ)新築落成式
  日本陸軍の将校クラブで、1877年(明治10年)に創立さ
 れた。
  1890年、それまで部内の自発的な研究団体として存在
 した月曜会を合併し、以後、全将校を包含する唯一の組
 織となった。
  帝国陸軍の創建まもない1877年(明治10年)2月15日、
 陸軍将校の集会所・社交場(将校倶楽部)や一種の迎賓
 館として東京府九段に集会所(九段偕行社/東京偕行社)
 が設立されたことに始まり、
  以降、各地の師団司令部所在地に偕行社が設立された。
  偕行社は、財団法人として、現役・予備役を問わず陸
 軍将校准士官ら会員同士の親睦、学術(世界戦史/軍事史・
 戦術・戦略・兵器等)研究や論文発表と、
  それらを掲載した「偕行社記事」の刊行、陸軍軍人の
 英霊奉賛と、戦争・事変・事件犠牲者の救済を主な活動
 としていた。
  運営は、会員である陸軍将校の会費によってなされた。
  また、偕行社は、一種の企業としても一大組織であり、
 各地の偕行社では、将校准士官、および、見習士官を対
 象とする軍服を筆頭とする各種軍装品(軍服(冬衣袴・
 夏衣袴・防暑衣袴・外套・マント・正衣袴ほか)、軍帽・
 略帽・正帽、手套・シャツ・パンツ・袴下・襟布・袖布・
 カフリンクス、軍靴(長靴・短靴・半靴・編上靴)、脚
 絆・革脚絆、軍刀・指揮刀・刀帯、拳銃・拳銃嚢・双眼
 鏡から、陸軍記念日や陸軍特別大演習といった行事記念
 品など)の製作・販売、
  および、陸軍将校や関係者用の喫茶店・旅館(各地の
 偕行社に付属)、学校の経営なども広く手がけた。
.
  (今日の言葉)
.
  題:すべての考え方の前提が・・崩れ去って行く・・消え去って行く・・
.
1618年、キリスト教の宗教戦争(三十年戦争)が始まる。
  愚かなる戦争である。
  愚かなることにキリスト教は、1618年~1648年もの間、
 31年間という長い長い期間、30年以上にも渡って三十年
 戦争と名付けられた卑劣な程度の戦争をした。
  それは、宗教戦争であったがゆえ、その悲惨さは極限
 に達していた。
  キリスト教のカトリックと、キリスト教のプロテスタ
 ントとが・・戦うという、悲惨この上ない凄惨(せいさ
 ん、目をそむけたいような、むごたらしい様子)な戦い
 だった。
  消えた町や村が100以上もあった・・全滅する村・・皆
 殺しにあった村・・
  また、ヨーロッパの人々3分の1が死ぬという、劣悪な
 る宗教=キリスト教ゆえの卑劣な戦争だった。
  貴方の家族が5人であるなら、1人か2人が殺されるとい
 うむごたらしい戦争・・、
  それも、あなたの家が不幸であったのではなく、あな
 たの隣の家も、その隣の家も、また、その隣の家も、そ
 の様な不幸に会うというむごたらしい戦争だった。
  キリスト教の言う・・「隣人愛」なんて・・まったく
 ない「キリスト教どうし」の軽蔑すべき戦争だった。
  しかし、人類は、この様な歴史を経験しているのにも
 かかわらず・・、
  アメリカは、第二次世界大戦という、これまた卑劣な、
 そして、悲惨な戦争の後に・・、
  アメリカは、日本に、キリスト教を定着させようとし
 た。
  卑劣な・・戦争を利用した・・行為であり・・、
  そして、まだ、その行為を・・続けている。
  その様な・・アメリカのこの様な行為をすることは止
 めようと・・、今から約370年もの前の1648年に、すでに、
 世界は・・ウェストファリア条約で、人類は決めている。
  そのような歴史的叡智のまったくない・・その様な叡
 智の残っていない愚かなアメリカとなっている。
.
1930年代、アメリカは、日本を敵視していた。
  そして、アメリカは、日本に対して、敵対的な政策を
 採って行く。
  だが、イギリスの見方は違っていた。
  イギリスは、「何もそこまで、日本に意地悪くする必
 要はないではないか」・・という「発言をしていた」。
  また、イギリスは・・、
  「満州は、欧米諸国が、むきになって日本を処罰する
 ほど重要な事でもない」・・と言った。
  イギリスは、アメリカの頑(かたく)なな反日外交を
 緩和しようとしていた。
  この時、中国は排外ナショナリズムの行動をしていた。
  イギリスは、これにも手を焼いていた。
  この時、中国に勢力圏を築いていたのは、アメリカ・
 イギリス・フランス・オランダで、それぞれ美味しい勢
 力圏を持っていた。
  日本だけが満州を持っていたという訳ではない。
  満州は、日露戦争の結果、日本はロシアから移譲(い
 じょう、権利や権限などを譲り渡すこと)されていた。
  戦争で、侵略で、得たのではない。
  中国とも話し合われた結果だった。
  だから、イギリスは、アメリカが日本に対して排除意
 識を持たなくてもよいではないかの立場だった。
  だから、イギリスは、アメリカへ言った・・、
  「日本も大国なのだ。何故、日本が東アジアで独自の
 勢力圏を持ってはいけないのか」・・と、
  しかし、この時、アメリカは、「親中反日」だった。
  アメリカは言った・・、
  「日本には勢力圏は持たせない」。
  「イギリスが、東アジアで日本の肩を持つのなら、我々
 は、ヨーロッパで、イギリスの味方はしない」・・と。
  アメリカは、逆に、イギリスを脅した。
  イギリスは、対米説得、アメリカへの説得をあきらめ
 た・・止めてしまった。
  このアメリカの頑(かたくな)な日本への対抗意識、
 排除意識が・・第二次世界大戦への遠因となった・・
  不幸な第二次世界大戦へとつながって行った。
.
1979年、第39代アメリカ大統領のジミー・カーターの時、
 口約束であるが、
  中国の鄧小平は・・、
  中国の「国家を承認してもらう」代わりに・・、
  「台湾には手を付けない」・・という内諾を、ホワイ
 トハウスでしている。
.
1996年、クリントン政権は、この年に、「北朝鮮が、濃縮
 ウラニウム生産のための活動を始めた」という重大情報
 を得ていたが・・、
  同盟国の日本には・・秘密にした・・隠した。
.
2007年8月27日、AFPの国際ニュースが伝えた・・、
 「マザーテレサのキリスト教の神の不存在」のニュース
  その内容・・、
  マザー・テレサ、神の存在への疑念を手紙に記す
  http://www.afpbb.com/article/life-culture/religion/2272720/2044213
  【8月27日 AFP】
  カトリック教会の「聖人」に限りなく近いとされるマ
 ザー・テレサ(Mother Teresa)がしたためた私的な手紙
 が、近日出版される書籍の文中で公表される。
  この中でマザー・テレサは、自身の信仰の危機、およ
 び、「神の存在への疑念」に悩まされていたことが明ら
 かになった。
  数ある手紙の中の一通は、1979年に、親友のMichael
 Van Der Peet牧師にあてたもので、文中には・・、
  「あなたはイエスの愛を受けている。
  わたしはといえば、むなしさと沈黙にさいなまれてい
 る。
  見ようとしても何も見えず、聞こうとしても何も聞こ
 えない」・・と書かれている。
  66年の間に書かれた40通以上の手紙には、マザー・テ
 レサが破棄するよう求めたものも含まれており、これら
 は来週発売される書籍「Mother Teresa: Come Be My Light」
 で公表される。
  一部抜粋は、すでに米タイム誌(Time Magazine)が掲
 載している。
  インドのコルカタ(Kolkata)で、貧困層のために人生
 をささげたマザー・テレサは、手紙の中で、自身を襲う
 「闇」や「孤独」、「苦しみ」について記し、神にあて
 たとされる日付のない手紙では、
  「わたしの信仰はどこへ消えたのか。
  心の奥底には何もなく、むなしさと闇しか見あたらな
 い。
  神よ、このえたいの知れない痛みがどれだけつらいこ
 とか」と問いかけている。
  「貧民街の聖女」としても知られるマザー・テレサは、
 若年期にはイエス・キリストの啓示を受けていたとされ
 るが、公の場での表情に反し、新たに明らかになった手
 紙の内容からは、彼女が亡くなるまでの50年以上を、神
 の存在を確信できないまま過ごしていたことがわかる。
  また、ある手紙には・・
  「ほほえみは仮面」と書いたこともあり、
  さらに1959年に書いた手紙には、
  「神が存在しないのであれば、魂の存在はあり得ない。
  もし魂が真実でないとすれば、イエス、あなたも真実
 ではない」と記されている。(c)AFP
.
2010年頃、アメリカの財政赤字はGDP比10%だった。
  そして、この頃、アメリカ政府の言っている事は・・、
  「2013年頃に、正常な状態に戻れる」・・と、
  そいう事を・・アメリカは言っていたが、しかし・・、
  アメリカの連邦議会予算局は・・
  たとえアメリカ経済が、「正常な状態」に戻ったとし
 ても、2015年以降は、毎年、GDP比5パーセント以上の
 「財政赤字が続く」ことになると・・言っていた。
  しかし、ハーバード大学教授などは、
  「アメリカは、恒常的に、GDP7%を超える財政赤
 字となる」・・と、
  「そんなに甘くない」と言った。
  そして、「2020年代の財政赤字は、さらに悪化します」
 と言っている。
  ほとんど貯蓄をしないアメリカ・・その様なアメリカ・・
 予測では、「救える道がない」・・と・・、
  そして・・大量の白人層(それでも貯蓄をしていた層)
 が、引退をし始め・・、
  なけなしの・・その貯蓄を・・取り崩す状況にあるア
 メリカ。
  過剰消費国家・・アメリカ・・食いつぶす姿がある・・
  日本は、せっせと・・
  アメリカ国債を買わねばならない・・、
  また、「買ってくれの・・構図」となっている。
.
2010年6月13日、マザー・テレサ(Mother Teresa)の支持
 者たちが、8月26日のマザーテレサの誕生日にあわせ、
  有名なベールの色である白と青のライトアップを行う
 ことを提案した・・
  その提案をしたところ・・エンパイアーステートビル
 側は拒否した。(AFP)
  理由について、同ビルのオーナーであるマルキン・ホ
 ールディングス(Malkin Holdings)のアンソニー・マル
 キン(Anthony E. Malkin)氏は、
  「民間企業であるエンパイアステートビルには、いか
 なる宗教的人物のためのライトアップ、または、宗教、
 および、宗教団体からのライトアップ要求については受
 け付けないという方針がある」・・と述べた。
  マザーテレサを支持する米カトリック団体「カトリッ
 ク連盟(Catholic League)」は、マルキン側に決定を覆
 すよう求めている。
  同連盟は、中国建国60周年記念の際のライトアップを
 取り上げ、「中国を建国した毛沢東(Mao Zedong)主席
 の時代、中国共産党は7700万人を殺害した。
  つまり、歴史上最大の大量殺人者が、マザーテレサが
 拒否された称賛を受けるに値するというのか」と指摘し
 ている。
  (文が分かりづらいですが・・そのまま記載しました)
.
2017年、アメリカのヘッジファンドは曲者だ。
  まず、ヘッジファンド業界は、その政治資金の7割を
 民主党に流している。
  つまり、民主党以外へ渡す金額の2倍以上を、民主党へ
 資金提供している。
  (この様な異常な偏りの資金を与えている・・そこに
 は、買収的な異常さがある)
  そして、当然、ヘッジファンド業界が増税におちいる
 時、それを・・一生懸命に阻止したのが民主党の議員た
 ちだった。
  ヒラリー・クリントンも、その行動をした一人。
  そして、民主党のオバマ元大統領は、ユダヤ系ヘッジ
 ファンド業界から大量の政治資金を受け取っていた。
  アメリカの民主党は、金融業者たちと完全な癒着状態
 にある。
.
2017年、アメリカの誤解は、そして、不幸への根源は・・、
  「アメリカ・イズ・ザ・ビッゲスト」と思うこと・・、
  そして、「リッチェスト」と思うこと・・、
  そして、「ストロンゲスト」と思うこと。
  アメリカ勢力圏は縮小している・・、
  そして、失業率は高い・・、
  アメリカ国際は買ってもらっている。
  そして、不幸なことは・・「これが理解できない」・・
  ・・というより・・都合が悪いから、「理解したくな
 いというアメリカ」となっている。
  今、アメリカが恐れている事は、『アメリカ国債の暴
 落』・・、
  そして、それに伴って起きる・・『国際通貨危機』。
  日本が、せっせと買ってあげているアメリカ国債の価
 値は・・風前の灯火(ともしび)状態となっている。
  今、アメリカは、米ドルの国際基軸通貨の恩恵を最大
 に受けているが・・その地位から『下落する』。
  アメリカは、もっと『誠実にならなければならない』
 のだ。
  ノーベル経済学賞を受けたジョセフ・スティグリッツ
 氏は・・、
  「米ドルを・・国際基軸通貨として通用させる政策は
 『無責任だ』・・と。
  また、『利己的だ』・・と。
  この様な通貨政策は『危険すぎる』・・と。
  そして・・、
  米ドルは『止めて』、世界の諸国が信用できるESD
 R(IMFが発行している合成通貨)のような通貨にす
 べきだ」・・と、言っている。
.
2020年代、アメリカの経済的に、また、予算的に、その緊
 迫する状況から・・、
  アメリカの軍事費は・・明らかに・・現在の状況を維
 持できなくなる。
  「アメリカに頼っていれば大丈夫」・・は、崩れる。
  「日本の安全は大丈夫」に、危険のランプが灯(とも)
 る。
.
2020年代、この年代に、アメリカの青少年の『過半数』は、
 有色人種(非白人〉に・・なる。
  2042年頃、アメリカの有色人種が、アメリカ人口全体
 の『過半数になる』。
  今、アメリカ白人の平均年齢は42歳、ヒスパニックの
 平均年齢は26歳。
  アメリカの白人女性は、1人当たり1.7人の子供を生む
 のに対し・・
  (因みに、2.1人以下の場合は人口減少が起きる)、
  アメリカのヒスパニックの女性は3.0人を生む。
  WASP〈白人・アングロサクソン・プロテスタント)
 の支配層は・・少数派になって行く・・
  すべての考え方の前提が崩れ去って行く・・消え去っ
 て行く・・
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive