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2017年1月21日土曜日

(増補版)484E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年4月~1889年4月)

題:(増補版)484E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年4月~1889年4月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1889年4月11日、甲武鉄道(中央線)、新宿駅~立川駅間が
 開通した。
  この甲武鉄道開通時の錦絵がある。
  それには、甲武鉄道沿線の名所旧跡が紹介されている。
  それには、小金井桜、玉川、高尾山の説明文がある。
  その錦絵には、中央の下に新宿停車場が描かれ、そし
 て、立川停車場に向かって行く蒸気機関車が描かれてい
 る。 
  左上に富士山、高尾山、御嶽山の遠景があり、
  御嶽山の方から流れているのが玉川(多摩川)(中央
 左側)で、羽村からは、玉川上水が東京市街地に向かっ
 て流れている。
  玉川には、立川と日野との間に甲州街道の橋が架けら
 れてる。
  西南戦争の戦費調達等のため、国は膨大な財政支出が
 迫られ、国家財政は窮地に立っていた。
  そこで、民間に任せたほうが望ましい分野は民営化し
 ようという方針の国。
  その様な中で、国は、1881年(明治14年)「私設鉄道」
 を認める方向に転換した。
  約10年間続けた「官設官営鉄道」に終止符を打った。
  そして、甲武鉄道の敷設・・さまざまな反対運動があ
 った。
  甲州街道で栄えていた府中や調布は、商人、宿屋、人
 力車夫などが、客がとられるといって反対した。
  農家もまた、汽車のばい煙が桑の葉や野菜を害すると、
  火の粉がわらぶき屋根にかかって火事になると、
  家畜に悪影響が生じるといったいろいろな反対理由が
 叫ばれた。
  また、中野でも、青梅街道と宮園通りの中間を東西に
 貫いて行くという計画に対して、
  地主や村民等が・・「鉄道は村を衰微せしむ」という
 理由をぶち上げた・・頑強な反対運動を展開した。
  こうした反対運動のために・・、
  甲武鉄道は、やむなく・・計画を大きく変更した。
  そして、えい!やー!・・っと、抵抗の少なかった武
 蔵野の原っぱを・・原野を、現在の東中野あたりから立
 川までを、定規で一直線に引っ張った・・そして、敷設
 した。
  1889年(明治22年)4月11日のこの日、後に中央線とな
 る甲武鉄道が・・、
  内藤新宿駅と立川駅間の27.2kmで開通した。
  内藤新宿より中野・境(武蔵境)・国分寺の3駅を経て、
 立川まで運行された。
  新宿を午前7時14分に出発した列車は、立川駅に予定時
 間の8時14分に到着した。
  新宿から1時間。
  新宿駅発7時14分~中野駅7時25分~境駅7時48分、国分
 寺駅8時1分、途中の各駅に1分間停車し、終点の立川駅に
 8時14分に到着。
  列車のスピード:平均時速30kmだった。
  北海道の原野の様な中野駅構内に停車している明治39
 年の蒸気機関車が写る写真がある(複線)。
  車両は、イギリスから直輸入したナスミス・ウィルソ
 ン社製の軸配置1B1型(先輪1軸、動輪2軸、従輪1軸)・
 タンク蒸気機関車(国鉄400形蒸気機関車)
  客車は、「マッチ箱」と呼ばれた箱型客車。
  運行は、午前・午後2本ずつ、1日4往復。
 (内藤新宿駅発、7時9分、10時0分、14時30分、17時30分)、
 (立川発、8時40分、11時40分、16時10分、18時55分)
  運賃は、上等・中等・下等と3段階に分け、運賃の基準
 は、下等は1マイル(約1609m)1銭で、中等は下等の2
 倍、上等は下等の3倍。
  1889年(明治22年)は、もり・かけそばが1銭なので、
 かなり高額。
  立川~八王子間はわずか9.7kmしかないが、鉄道架橋
 が計画した工期以上にかかり遅れた。
  1889年(明治22年)7月に多摩川本橋(約418m)、浅
 川橋(139.5m)が完成。
  この架橋の完成で、立川~八王子間は、新宿~立川の
 開業から4ヶ月遅れの1889年(明治22年)8月11日に開業
 する。 
1889年4月16日、メートル法条約に加盟する(1885年説あり)。
  メートル法条約は、メートル法による度量衡標準の国
 際的統一、および、その完成を目指して、1875年5月20日、
 パリで締結された。
  14ヵ条の本文と 22ヵ条の付則と6ヵ条の過渡規定から
 成り、パリに度量衡万国中央局を設置すること、国際度
 量衡委員会、国際度量衡総会その他を規定している。
  日本は、1885年(明治18年)に加盟手続を終わってい
 たが、公布されたのは翌年・1886年4月16日であった。
  メートル条約が締結されると、フランス政府は、各国
 に対して加盟の呼びかけを行い、日本にも、駐独公使を
 通じて勧誘してきたが、政府の意見は一致せず、
  1884年(明治17年)重ねての勧誘の際、新たにメート
 ル原器とキログラム原器をつくって加盟国に配布する旨
 の通知に接して加盟が定まった。
  日本のメートル法化(にっぽんのメートルほうか)と
 は、1885年のメートル条約加盟と、1891年の度量衡法公
 布により始まった。
  1884年、新たに原器を製作するとの報に接し、これを
 機にメートル条約への加盟が決断された。
  1885年10月9日に加盟手続を終わり、
  翌1886年4月16日にメートル条約(明治19年4月20日勅
 令)として公布された。
  日本の原器は、抽選によりメートル原器はNo.22、キロ
 グラム原器はNo.6とされ、
  1889年に在パリ公使館の大山綱介・書記官が受け取り、
  翌1890年4月に日本に到着した。
1889年4月16日、静岡駅~浜松駅間の鉄道が竣工して開通し、
 開業した。
  ここに初めて東海道全線(官設鉄道)が開通した(7月
 説あり)
  日本は、この様に、国家建設のため地道に努力を積み
 重ねて来た。東海道線も全線開通した。
1889年4月19日、ロンドン・タイムスに大隈重信(外相)条
 約改正案が掲載され、論評が載る。
  以後、反対世論高まり、猛烈な批判を招いた。
  井上馨が努力していた条約改正を引き継いだ大隈外相
 は、各国と交渉を続けていたが、ロンドン・タイムスに
 報道されてしまう。
  井上馨は、妥協した改正案で・・、
  「領事裁判権の撤廃、輸入関税の一部引き上げの代わ
 りに外国人裁判官を任用し、内地雑居を認める」とした。
  大隈重信の改正案は・・、「外国人判事任用を大審院
 に限る」とした。
  そして、比較的理解を示していたアメリカ・ドイツ・
 ロシアと秘密裏に個別に交渉していた、調印する・・が、
 発効せず(メキシコとは対等条約を締結済み・1888年11
 月30日に締結)、
  しかし、イギリスの新聞:ロンドン・タイムスが・・
 大隅改正草案を掲載した。
  そして、既に締結したメキシコとの条約が内地雑居を
 認めるのなら・・イギリスは最恵国待遇なので、同じ様
 に認めるのだねと論評した。
  大隅は、これを、最恵国有条件主義を唱えて拒否した。
  日本国内でも違憲論が起き、話はこじれていく・・、
  大隅がテロに遭い負傷し・・条約改正交渉中止となる。
1889年4月21日、民法財産編を公布した(1890年説あり)
  1890年(明治23年)3月:民法(財産編、財産取得編、
 債権担保編、証拠編)公布
  1890年(明治23年)に、公布された民法典の施行をめ
 ぐって論争が展開された。
  日本における民法典編纂は、ボアソナードの指導のも
 と、フランス民法典を範として進められ、
  1890年公布し、1893年に施行されることになっていた。
  しかし、1889年、イギリス法学系の法学士会が・・、
  「法典編纂ニ関スル意見書」を発表、
  民法典と商法典との不統一などを指摘して慎重論を展
 開すると、法典の実施可否をめぐって激しい論争が繰り
 広げられた。
  特に、延期派の穂積八束が、「民法出テテ忠孝亡フ」
 を著して、日本固有の家族制度を美俗と捉える立場から
 民法実施に反対した。
  これは大きな影響力をもった。
  これに対し、断行派の梅謙次郎や岸本辰雄らは、フラ
 ンス法的市民法原理にもとづいた民法実施の必要性を強
 調した。
  結果的には、1892年の第三議会で、民法・商法を延期
 する法律案が可決されて延期が決定した。
  論争は、固有法と継受法の衝突、イギリス法・フラン
 ス法・ドイツ法の学派的抗争、自然法学と歴史法学の対
 立のほか、立法技術や条約改正をめぐる問題、実業界と
 政界の思惑など複雑な要因が絡み合って展開されたが、
  その後、法典調査会で審議・修正された新民法は、ド
 イツ民法を模範に、戸主権を重視した家中心のものとな
 った」(日本思想史辞典)
  民法典論争は、1890年(明治23年)に公布された民法
 (旧民法)の施行時期をめぐり、延期派と断行派の間で
 行われた論争のことで、不平等条約を撤去する条約改正
 を実現するため、近代的な基本法典の制定を迫られてい
 た明治政府は、フランス人の法学者ボアソナード、G. E
 に民法草案の起草を依頼し、旧民法が公布された。
  しかし、公布の前から、延期派は、その個人主義的な
 性格が日本社会の淳風美俗の根本にある伝統的な家族道
 徳を損なうものとして法典の編纂に反対した。
  その際に発表され世間の注目を集めたのが、延期派の
 中心人物、穂積八束の論文「民法出デテ忠孝亡ブ」(『
 法学新報』第5号)だった。
  激しい論争の末、1892年に、帝国議会で延期が決定さ
 れ、結局旧民法は実施されず、論争は延期派の勝利に終
 わった」。
  (参考-1)
  1887年(明治20年)10月、諸法典編纂の事業を完成す
   るために、法律取調委員会を設置。山田顕義司法大
   臣を委員長とする。
  1887年(明治20年)11月、井上馨失脚に伴い、民法編
   纂、司法局に戻る。
  1888年(明治21年)民法典第一草案成立
  1889年(明治22年)民法典論争(~1892年)
  (参考ー2)
  改めて民法の編纂に取り掛かり、財産権、財産取得編
 の主要部分、債権担保編、証拠編をボアソナードに起草
 させる一方(一部を除き現行民法の財産法部分に相当)、
 人事編及び財産取得編中の相続・贈与・遺贈・夫婦財産
 契約に関する部分(ほぼ現行法の家族法部分に相当)は
 特に日本固有の民族慣習を考慮する必要があるというこ
 とから、熊野敏三、磯部四郎などの日本人委員に起草さ
 せた。
  1888年(明治21年)に、ボアソナード担当部分の草案
 が成立し、
  1889年(明治22年)に、元老院の議決を経て
  1890年(明治23年)4月、『民法財産編・財産取得編・
 債権担保編・証拠編』(明治23年4月21日法律第28号)と
 して公布、
  1890年10月、残部についても、この時に『民法財産取
 得編・人事編』(明治23年10月7日法律第98号)として公
 布され、
  1893年(明治26年)1月1日、双方とも、この時から、
 実施すべきものと定められた。
  この法律28号、第98号が旧民法。
1889年4月25日、宮武外骨(みやけがいこつ)の不敬事件に
 禁錮3年、罰金100円の判決。
  外骨は、控訴した。
1889年4月26日、大阪府警本部が、大阪壮士倶楽部の解散と
 壮士募集広告の取り消しを命令する。
  壮士とは、自由民権運動の活動家の事を言うが・・、
  明治二十二年のこの時、「大阪朝日新聞」などの大阪
 の新聞に奇妙な広告が載る。
  勇悍猛烈の壮士二十名募集す内十七名は散宿せしめ学
 費を給し三名は同居を諾し学費を給す。
  北区天満橋筋一丁目大阪壮士倶楽部取締、菅野道親
  これは何だ?と・・新聞は取り上げた・・そして、記
 した。
  「世に巡査の募集とか生徒の募集とか将(は)た雇人
 の募集とか申すこと屡々あれど壮士の募集とはまた希有
 なるべし」・・と。(明治二十二年四月二十二日)
  そして、これが、「治安に妨害あり」と認められ・・、
  そして、募集差止並に壮士倶楽部解散を命ぜられたる」
 となった。
  しかし、今度は・・
  「温厚篤実の壮士二十名募集す」という広告に切り替
 えられて、再び、募集記事が出た。
  しかしこれも・・、
  「如何なる冠詞を附するも壮士募集は総て治安を妨害
 する趣(おもむき)、内務大臣の訓令なりとて、警察本
 部より差止めら」れた・・
  そこで・・
  「募集を取り消す」という広告まで出された。
1889年4月26日、日本画家・河鍋暁斎(かわなべきょうさい)
 死去。
  弟子の中に鹿鳴館設計者のコンドルが居た。
  3歳で初めてカエルを描き、7歳で浮世絵師の国芳に入
 門した。
  1831年(天保2年)、現在の茨城県古河市に藩士・河鍋
 記右衛門の次男として誕生した。
  数え年2歳で家族ともども江戸に移り住んだ。
  絵が格別に好きな幼少時代、他の遊びや菓子を食べる
 のも忘れて絵を眺めたという。
  わずか7歳で浮世絵師の歌川国芳に入門した。
  1839年5月(8歳)梅雨による出水で、神田川に浮かん
 だ生首を写生して、周囲を驚かせたという。
  珍しいもの何でも写生をしたという・・。
  1840年(9歳)国芳の侠気(きょうき、おとこぎ)と品
 行を心配した父は、国芳の元から駿河台の狩野派絵師・
 前村洞和愛徳の門に替えた。
  前村洞和愛徳は、周三郎(暁斎の幼名)の画才を見込
 んで「画鬼」と呼び、可愛がった。
  異例の若さといわれる19歳の1847年(嘉永2年)「洞郁
 陳之」(とういく・のりゆき)の号を授かって、狩野派
 の修業を終えた。
  幕末・明治の動乱期、強烈な個性を前面に押し出し、
 日本画の表現領域を広げ続けた桁外れの絵師だった。
  この群を抜いた筆力・写生力で海外でも高く評価され
 ている天才絵師が、この日に没した、享年58歳だった。
.
  (今日の言葉)
.
  題:アメリカも・・日本と同じように・・戦争に突入させられて行く・・
    (変な大統領を・・選んだからだ・・)
.
1933年1月30日、フランクリン・ルーズベルトが、第32代ア
 メリカ大統領になる約1ヶ月前のこの日、ドイツのナチス
 のヒトラーが、首相の座に就いていた。
  ルーズベルトが、何故か? また、愚かにも、演説が
 ヒトラーに似ている事の疑問が・・解けた。
  ヒトラーの首相就任後の約5週間後に、大統領になった
 アメリカ大統領ルーズベルトは、ヒトラーに強く影響さ
 れていた。
  ヒトラーと同じ様な調子で「アジ演説」をアメリカ国
 民の方々へした。
  ヒトラーと同じような調子で、感情的に、アメリカ国
 民の方々を煽(あお)る演説をして、「戦争をする特権
 をくれ」と言っていた。
  そして、ヒトラーが、国家統制経済で産業を効率的に
 して行きたいとしたが、
  ルーズベルトも、同じ考えで、国家復興庁(NRI)
 で産業効率を良くしたいとした。
  ルーズベルトは、ヒトラーと高い類似性がある大統領
 だった。
.
  題:アメリカは・・人格的な欠陥の大きい大統領によって・・戦争に突入して行った・・
.
1940年5月16日、ルーズベルトは、この頃、明らかに戦争を
 する、戦争したいと想定していて、軍備増強をアメリカ
 上下院の合同議会で訴えた。
  議会は、ルーズベルトの戦争思考に反発し、戦争回避
 運動を展開し、反発した。
  また、アメリカ国民の方々も、ルーズベルトの危険な
 戦争思考に反発した。
  多くの様々な団体が、強く反発した。
  また、個人も、例えば「リンドバーグ」らも反発した。
  この頃、陰湿な事だが、ルーズベルトは、陰の世界(
 裏社会)で働く輩を持っていた。
  ルーズベルトの意を受けた大統領首席報道官のスティ
 ーブ・アーリーは、その陰の暗躍者へ連絡を取った・・、
  「大統領のお願いですが、大統領がした軍備増強の演
 説以来、軍備増強に反対する電報が、数多く舞い込んで
 いる。
  その差出人が誰かを掴(つか)んでもらいたい」と。
  このルーズベルトに便利に使われていたのがジェイ・
 エドガー・フーバーだった。
  この男は、アメリカ連邦捜査局(FBI)の前身の司
 法省捜査局長だった。
  ルーズベルトは、この男を『闇の情報屋』という使い
 道を掴んでいた。
  この男とルーズベルトとのつながりは、1933年に、ル
 ーズベルトが政権の座に就(つ)くと、フーバーの方か
 らルーズベルトへ近づき、「地位の継続」を求めた。
  1934年には、ルーズベルトは、アメリカのナチズムの
 信奉者を調べる指示を出している。
  フーバーの過酷なのは、プライバシーの闇の部分に大
 きく踏み込むところだった。
  ルーズベルトは、そこに価値を見出した。
  ルーズベルトは、調査対象をさらに広げた・・、
  政敵も調査させた。
  ルーズベルトを厳しく批判した前大統領(第31代アメ
 リカ大統領ハーバート・フーバー)も調べさせた。
  ルーズベルトは、その様な分厚い調査資料を貰い、喜
 んだ。
  そして、思わず、「こんな価値ある報告書を本当にあ
 りがとう」と言った。
  また、異例な行為である、感謝状まで送ったこともあ
 った。
  ルーズベルトは、卑劣にも、大恐慌や戦争を言い訳に
 して、「違法な捜査を奨励」した。
  危機の時代だからいいのだと・・、まったく自分勝手
 な理由を付けて・・違法行為をさせていた。
  ファシストと共産党も、ルーズベルトは命令を出して、
 監視させた。
  1939年6月26日には、大統領令を出し、スパイ、破壊活
 動防止の権限をFBIと陸海空の情報部へ与えた。
  アメリカは、監視国家となった。
  ルーズベルト大統領夫人エレノアの禁断の密会情事も、
 こんなアメリカの監視社会から分かった。
  FBIは、ルーズベルト大統領の直属の様な汚い情報
 を貢(みつぐ)組織に成り下がっていた。
  「盗聴器を仕掛けること」を命じるハレンチなルーズ
 ベルト大統領だった。
  その記録が残っている。
.
  そして・・、
.
1940年夏、ランドルフ(A・フィリップ・ランドルフ、黒
 人指導者)が、フランクリン・ルーズベルトと会談し、
 「黒人の地位向上」を訴えた。
  この時点で、アメリカ海軍の総人員は、13万9000人だ
 ったが、黒人のアメリカ海軍軍人は皆無、0人だった。
  完全な人種差別状態だった。
  雑役夫と料理係に4000人の黒人の方々が居た。
  日米開戦後、人員不足で、アメリカは、やむを得ず黒
 人の方々を採用したが、
  それでも差別は止まらなかった。
  黒人の方々は、「艦船で、白人の軍人と一緒に戦うこ
 とが禁止されていた」。
  卑劣極まりないアメリカと、日本は戦っていた。
  大半の黒人の方々は、雑役か、港湾での爆弾運びの仕
 事だった・・悲劇が起きた・・
  1944年7月17日、サンフランシスコの軍港で爆弾が爆発
 した。
  大音響が轟いた。
  黒人雑役兵が、爆弾を運んでいた。
  近くの兵舎も吹き飛んだ。
  320人が即死し、390人が重軽傷を負った。
  アメリカの規則で、従事していたのは黒人の方々だけ
 だった。
  故に、犠牲者の大半は、黒人の方々だった。
  黒人の方々は、黒人の方々だけが、危険な仕事に従事
 させられて来たことに反発した。
  当然だった。
  また、この事故後のアメリカの国の対応でさえも、人
 種差別行為をしていた。
  事故後、白人将校達には、この事故を理由に「1ヶ月の
 休暇」が与えられたが、
  黒人の方々・雑役兵に対しては、何の配慮もされず、
 休暇は与えられなかった。
  黒人の方々・雑役兵は、「爆弾運びを拒否した」。
  そして、復帰命令に反発して、現場復帰をしなかった
 50人には、「反逆罪」が課せられた。
  そして、「15年の強制労働」という卑劣な厳罰が下さ
 れた。
  この時から50年を経た後に・・、
  クリントン・アメリカ大統領(第42代大統領)は、こ
 の人種差別の酷(ひど)いアメリカの状況を反省し、
  50年月以上をさかのぼって、この時に厳罰を下された
 一人の黒人兵に、嘆願を受け入れ、
  50年以上さかのぼって恩赦を与えた。
  今・現在の時点でも、アメリカは、人種差別をし、人
 種差別の恩赦を与えるという行為をしなければならない
 『遅れた国の実態』となっている。
  日本の事を内政干渉するべきアメリカという国の状態
 ではない。
  このランドルフ氏は、ワシントン行進を計画(軍需産業
 及び、政府内の雇用における人種差別を禁ずるという大
 統領行政命令8802号を引き出すという功績を残した。
  黒人指導者として頭角を現していたランドルフは、事
 態打開のために、この「ワシントン行進」を提唱し、こ
 の運動が戦時態勢下に実行されることを危惧したルーズ
 べルト大統領から、軍需関連産業における雇用差別を禁
 止する大統領行政命令第8802号を勝ちとるとともに、
  この行政命令の実施状況を監督する機関、公正雇用委
 員会を設立させた。
  A・フィリップ・ランドルフ(1889年~1979年)は、
 労働運動指導者、公民権運動家で、
  フロリダ州クレセント・シティに生まれた。
  ニューヨーク市立大学に学び、仲間と共同で職業紹介
 所を創設した。
  1917年(28歳)には、アフリカ系アメリカ人労働問題
 月刊誌「メッセンジャー」を発刊した。
  1925年(36歳)アフリカ系アメリカ人労働組合の最初
 の成功例、寝台車ポーター友愛会を設立した。
  1940年(51歳)アメリカ大統領と会談して、国人の地
 位向上を訴えた。
  1941年(52歳)大統領行政命令8802号を出させた。
  1944年(55歳)7月、サンフランシスコの軍港で爆弾が
 爆発し、黒人の方々が、大勢、亡くなった。
  1948年(59歳)トルーマン大統領に働きかけて軍隊内
 の人種差別を廃止させた。
  1960年(71歳)黒人アメリカ労働会議を結成した。
  1963年(74歳)公民権を求めるワシントン大行進を指
 揮した。
.
  そして・・、
.
1941年12月9日(アメリカ東部時間12月8日)、日本の真珠
 湾攻撃の翌日、フランクリン・ルーズベルトは、アメリ
 カ議会へ急いだ。
  日本への宣戦布告を議会に承認してもらうためだった
 (日本の、アメリカへの宣戦布告は、すでに、なされて
 いる)。
  ルーズベルトは、普段は、スピーチライターに演説文
 を書いてもらっているが、この時は、自分で書くとした。
  当初の演説草稿は、「昨日、12月7日は、世界史に残る
 日となるでしょう」で書き始められていたが、
  「世界史」の部分が、「汚辱」に書き換えられた。
  日本の攻撃行為や、攻撃個所などが生々しく書き加え
 られて行った。
  卑劣な演説文となって行った。
  日本を、「だまし討ち攻撃」をしたという印象を持た
 せようとした。
  そして、「汚辱の日を忘れるな」という呼びかけがな
 された。
  このルーズベルトの「汚辱の日」から、アメリカ国民
 の方々は、「リメンバー・パールハーバー(真珠湾を忘
 れるな〉」が生まれ、そして、誓った。
  しかし、こんな話、すべてが、ルーズベルトが仕組んだ
 ことだった。
  この様にして、議会演説書をルーズベルトは作った。
  ルーズベルトは、「劇的な効果を狙いたい」という狙
 いがあったことを、後に、手紙で友人へ書き送っている。
  そして、「大衆心理、あるいは、個人の心理状態を配
 慮した」と言った。
  そこまで考え、「煽(あお)る」ルーズベルトだった。
  ルーズベルトが、演壇に立った時、会場は熱狂に近い
 状態になっていた(ヒトラーの熱狂と同じだった)。
  ルーズベルトが、すぐに、演説を始められないほどだ
 った。
  アメリカ国民の方々は、この熱狂にあおられた。
  火付け役が、ルーズベルトだった。
  ルーズベルトは、「改革十字軍」という言葉を使った。
  「改革十字軍を助けてほしい」と言った。
  「武器をとれ」と言った。
  ヒトラーの『アジ演説』と何ら変わらない状況だった。
  アメリカは、戦争に引きずり込まれて行った。
  (日本が引きずり込まれ・・そして・・アメリカが引
 きずり込まれて行った)
.
  そして・・、
.
1946年、フーバー元大統領が訪日し、マッカーサーと会談
  フーバー元大統領が批判・・「ルーズベルトは狂気の男」
  (産経新聞、2011年12月7日、22:41)
  【ワシントン=佐々木類】ハーバート・フーバー第31
  代米大統領(1874年~1964年)が、日本軍が1941年12月
 8日、米ハワイの真珠湾を攻撃した際の大統領だったフラ
 ンクリン・ルーズベルト(第32代1882年~1945年)につい
 て、「対ドイツ参戦の口実として、日本を対米戦争に追い
 込む陰謀を図った『狂気の男』」と批判していたことが分
 かった。
  米歴史家のジョージ・ナッシュ氏が、これまで非公開だ
 ったフーバーのメモなどを基に著した「FREEDOM 
 BETRAYED(裏切られた自由)」で明らかにした。
  真珠湾攻撃に関しては、ルーズベルトが対独戦に参戦
 する口実を作るため、攻撃を事前に察知しながら放置。
  ドイツと同盟国だった日本を対米戦に引きずり込もうと
 した・・などとする「陰謀説」が日米の研究者の間で浮か
 んでは消えてきたが、
  米大統領経験者が、「陰謀説」に言及していたことが判
 明したのは初めて。
  ナッシュ氏の著書によると、フーバーは第33代大統領の
 トルーマンの指示で戦後の日本などを視察。
  1946年に訪日し、東京で連合国軍総司令部(GHQ)の
 マッカーサー元帥と会談した。
  その際、フーバーは、マッカーサーに対し、日本との戦
 争は「対独戦に参戦する口実を欲しがっていた『狂気の男』
 の願望だった」と指摘。
  在米日本資産の凍結など1941年7月の経済制裁は「対独
 戦に参戦するため、日本を破滅的な戦争に引きずり込も
 うとしたものだ」と語ったという。
  マッカーサーも、「ルーズベルトは、1941年夏に、日本
 側が模索した近衛文麿首相との日米首脳会談を行い、戦争
 回避の努力をすべきだった」と批判していた。
  著書では、フーバーが、「米国から日本への食糧供給が
 なければ、ナチスの強制収容所並みかそれ以下になるだろ
 う」と、マッカーサーに食糧支援の必要性を説いていたこ
 とも詳細につづられており、
  フーバーの対日関与の功績に光を当てるものにもなって
 いる。
  ナッシュ氏は「この著書が、今でも米国の英雄とされて
 いるルーズベルト大統領への歴史評価を見直すきっかけに
 なってほしい」と話している。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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2017年1月18日水曜日

(増補版)483E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年3月~1889年4月)

題:(増補版)483E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年3月~1889年4月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1889年3月22日、横浜相生町が大火となり、1600戸が焼失し
 た(1890年3月説あり)
  1889年4月、横浜は、市制を施行した(戸数:26000戸、
 人口:11万6000人)。
  そして、従来の消防を廃止し、新たに横浜警察署に移
 管した。
  そして、ホース絡車の消防隊を編成し、各派出所ごと
 に絡車1台に消防夫3人をもって1分隊とし、取締役1
 人を配置した。
1889年3月23日、北海道で麋鹿(となかい)保護のために、
 鹿猟が禁止となる。
1889年3月23日、土地台帳規則が制定された。
  地券と地券台帳を廃止し、地租は、土地台帳に記載さ
 れた地価を基準として徴収する旨が公布された。
  地券(ちけん)とは、明治初期に土地の所有権を示す
 ために明治政府が発行した証券のこと。
1889年3月31日、佐渡と生野の両鉱山が、帝室(皇室)財産
 に編入されて、宮内庁御料局の所管となり生野支庁と改
 称された。
  フランス人技師フランソア・コワニェ(薩摩藩当時に、
 領内の鉱業振興のために雇用されていた)と共に、生野
 銀山の近代化に取り組んできた朝倉盛明は、
  御料局移管と同時に、御料局理事生野支庁長に昇進し
 た。
1889年3月、由良要塞が起工された。
  由良要塞(ゆらようさい)は、大日本帝国陸軍の要塞
 の一つ。
  大阪湾防衛の目的で、紀伊半島と淡路島の間の紀淡海
 峡周辺に作られた。
  歴史・・、
  1889年(明治22年)3月、生石山第三砲台を起工、由良
   要塞の建設開始。
  1896年(明治29年)7月、由良要塞司令部開設
  1898年(明治31年)10月8日、司令部は兵庫県津名郡由
   良町に移転[2]。
  1903年(明治36年)5月、鳴門要塞を吸収合併
  1904年(明治37年)2月、動員下令(日露戦争)
  1913年(大正2年)4月、佐瀬川保塁、深山第一砲台、
   深山第二砲台、赤松山保塁、伊張山保塁、成山第一
   砲台、成山第二砲台廃止の方針が出た。
1889年4月1日、2府32県で市制・町村制が施行された。
  弘前市、横浜市、久留米市など31都市が選ばれる。
  横浜に市制が施行された(2万5000戸、人口:11万6000
 人)。
  1888年(明治21年)4月25日に市制と町村制が公布され
 この日に、施行された。、
1889年4月7日、大阪北野茶屋に9階建ての凌雲閣が落成した。
  同名の建物が東京の浅草にもあるが、これは、「浅草
 十二階」とも呼ばれた建物で1890年11月11日に開館した。
  そして、この大坂の凌雲閣は、大阪・北野茶屋町の遊
 園地「有楽園」内にたてられていて、9階建て、高さ39メ
 ートルだった。
  この9楼凌雲閣に先立つ1888年には、浪速区日本橋の遊
 園地「有宝地」内に、5階建て、高さ31メートルの眺望閣
 が造られていた。
  「キタの九階」「ミナミの五階」と呼ばれ、
  眺望閣は、六角柱状パノラマ式高塔で、日本で最初の
 西洋式高層建築といわれ、周囲には露天街もでき、1904
 年に解体されたが、通称としての地名が現在でも残って
 いる。
1889年4月8日、帝国大学文科大学に、中学校教員養成のた
 め、特約生教育学科を開設した。
  東京大学の教育学の教育は、1887年(明治20年)に始
 まった。
  その講義を担当したドイツ人教師が、エミール・ハウ
 スクネヒトだった。
  これが、東京帝国大学文学部教育学科の発祥点である。
  そして、彼の講じた教授理論(ヘルバルト派教授理論)
 が、その後、明治中期から後期にかけての、日本の教育
 学界、及び、教育現場の動向を強く規定していく。
  彼の携えて来た教授理論の影響力の大きさの故に、日
 本の近代教育学史・教育史のうえで、極めて重要な位置
 を、これが占めている。
  彼が、帝国大学に着任したのは1887年(明治20年)1月
 で、その翌々年の1889年(明治22年)2月から、帝国大学
 文科大学に「特約生教育学科」という特別の仮定が置か
 れた。
  そして、1890年(明治23年)には、12名の「特約生」
 が、その課程を卒業して行った。
.
  (今日の言葉)
.
  題:高度な文明国なのか?
.
1933年9月、初秋のニューヨークの大通りが、25万人のデモ
 行進の群衆で埋まった。
  記録的な群衆だった。
  茶色の制服を着て、胸に青鷲(あおわし)の記章を付
 けた人々も居た。
  沿道は150万人の人々が居た。
  「私たちは国(アメリカ)のための役割を果(は)た
 している」と訴えていた。
  フランクリン・ルーズベルト政権へのアッピールと不
 満があった。
  ルーズベルトは、法改正などで強大な権力を得て、ま
 た、次なる権力も得ようとしていた。
  ルーズベルトは、「アメリカ企業をコントロールしよ
 うとしていた」。
  1933年4月12日の記者会見では、「アメリカ企業は、馬
 鹿げた過剰生産をしている」と、ルーズベルトは、不満
 を口にしていた。
  そして、「何とか規制したい」と言っていた。
  ルーズベルトの考え方は、「市場を放任しているから
 シッチャカメッチャカになるんだ」という考え方だった。
  「そんな、市場の放任の考え方は、今や破綻(はたん)
 している」と言った。
  「私は、自分のやり方(市場を放任状態にしない)が
 正しいと確信している」と言った。
  資本主義を救うには、ある程度の規制が必要だという
 考え方だった。
  ルーズベルト批判派は、「ニューディールは、ファシ
 スト運動だ」と批判した。
  しかし、ルーズベルトが、不況の克服の特効薬として
 推進した一連の構想は、1年も経(た)たない内に、次々
 と行き詰って行った。
  ルーズベルトの「ニューディール政策は、うまく行っ
 た」という話は、真っ赤なウソである。
  プロパガンダ(嘘宣伝)である。
  ルーズベルトが、不況克服のために、戦争需要を得て、
 景気刺激をしたがるのは、この点から発していた。
  その相手をさせられた日本が可哀想だった。
  可哀想を通り越し、それでは済まされない怒りが湧く・・、
  ルーズベルトが進めた「アーサーデール入植」も失敗
 する。
  金をいくら注ぎ込んでも駄目だった。
  内務長官(ハロルド・イッキーズ)は・・、
  「どんどん予算は膨張するし、まるで酒飲みの水兵が
 (酒代に給料のすべてを)注ぎ込むようなものだ」と、
 非難していた。
  こんな具合のものばかりのニューディール政策を・・、
 「成功した」と言いたかったアメリカは、
  経済復興のために戦争をしたと、本当のことを指摘さ
 れたくなかったからだった。
.
  そして・・、
.
1934年9月20日、アメリカにあった革命未遂。
  革命未遂の事は、アメリカのそのクーデター計画が、
 事前に暴露された事から判明された。
  1934年9月20日、計画が暴露された「アメリカ下院の非
 アメリカ特別委員会」は、アメリカ海兵隊の退役軍人ス
 メドレー・バトラー少将を証人として尋問した。
  少将は、明確に証言した、「ファシストによるクーデ
 ター計画が存在する」・・と。
  このバトラーに、ウォール街の債権ブローカーのジェ
 ラルド・マクガイアが接触して来たのは、1933年初秋の
 頃で、この約1年前のことだった。
  マクガイアは説明した、「ルーズベルトのニューディ
 ール政策は、アメリカの企業家精神を蝕(むしば)んで
 いる」・・と。
  そして、アメリカを救うには貴方(バトラーのことを
 将軍と言った)が・・「退役軍人を組織して立ち上がら
 ねばなりません」
  「ルーズベルトを軟禁するのです」
  「新政府を樹立すべきです」・・と。
  特別委員会の委員は、最初は、信じられないという表
 情をした。
  ジョン・マコーマック委員長も信じられないという様
 子だった。
  しかし、話を聞いて行くと・・、
  「バトラーが資金を300万ドル提示された」という話や、
  「有名企業のシンガーミシンの会長ロバート・クラー
 クが、5000万ドルもの軍資金を、すでに用意していた」
 という話や、
  「生活に困っていた退役軍人の兵士が、50万人、動員
 されることになっている」という話や、
  「銃は、レミントン社」が、
  「火薬は、デュポン社がまかなう」など・・、
  具体的な話が続くと委員たちは唖然(あぜん)とした。
  説明は、具体的で詳細だった。
  その基底に、ニューディールの批判を続けていて、強
 めていた「アメリカ自由同盟」の面々が連なっていた。
  マコーマック委員長は、その事実性を強め、心証を強
 めた。
  実際、フランクリン・ルーズベルトは、深刻な不況と
 はいえ、自由の国・アメリカで、「経済の国家統制」と
 いう、当時のファシズムや共産主義のような政策を行な
 っていた。
  この流れの先に・・、この国で初めての「政府転覆」
 という大掛かりな政治暴力がなされようとしていた。
  マコーマック委員長は、記者会見で、「バトラーは、
 証拠を持っている」と言った。
  そして、事件追求に自信を見せた。
  しかし、12月に入ると、不思議な事に、何故か? 公
 聴会は開かれなくなり、
  アメリカ国民の方々をつんぼ桟敷に置き、秘密のベー
 ルが降ろされた。
  そして、不明のうちに、その翌年の1935年2月に・・、
  証拠不十分として、追及は取り止めにするとされた。
  そして、委員会が、追及を中止した直後の1935年3月、
 マクガイアは、急に病死した。
  『反ニューディール勢力』は、以後、強い監視下に置
 かれた。
  「ルーズベルト潰(つぶ)し集団」のレッテルが貼ら
 れた。
.
  そして・・、
.
1936年頃、フランクリン・ルーズベルト大統領を・・、
  何か?おかしい大統領だと・・アメリカ国内でも、多
 くの方々が、その様に見ていた。
  国益をアメリカにもたらそうとするアメリカ大統領な
 のだが・・、
  共産主義のソ連と、枢軸国側(ドイツ、日本、イタリ
 ア、オーストリー)を共通の敵として戦っている間は、
  こだわりなく・・同じテーブルに座っていた。
  しかし、愚かにも、そのドイツや日本の枢軸国側の敗
 退が見えて来た頃より、
  まだまだ、戦いが続いているというその戦争中に・・、
  次なる敵が・・また、新たに見えてきたという輩たち
 だった。
  昨日まで、同じテーブルに座っていた者たちが、敵に
 見えてきた輩たち。
  連合国側のアメリカ・イギリスに対抗する共産国=ソ
 連が・・その敵対相手だと・・。
  愚かさの極みだった。
  キリスト教の「異端の排除教義」に洗脳され、毒され
 た者たちだった。
  ルーズベルト政権に居たホワイトは、「根っからの共
 産主義ではなく・・むしろ共産主義という理念が・・理
 想に見えた輩だった。
  そして、ソ連へ情報提供するというスパイ活動をした
 輩となった。
  ベンレートが言うように・・ルーズベルト政権には、
 ソ連のスパイたちが「うようよ」と居た。
  アイゼンハワー政権のブラウネル司法長官が・・、
  1953年11月に、アメリカ上院国内安全保障小委員会で、
 「ホワイト以外に、カリーや、陸軍省のジョージ・シル
 バーマンらの名前を明らかにした」ように・・、
  また、戦争中のソ連の交信記録(1943年~1944年)を
 解読したアメリカVENONA資料には・・、
  スパイ網は、FBI報告をはるかに上回る規模だった
 様に・・。
  何故、ルーズベルト政権に、ソ連協力者が浸透するこ
 とが出来たのか?
  また、浸透を止めることが出来なかったのか?
  1945年9月に、FBIに駆け込むまで、スパイ網の要
 (かなめ)にいたエリザベス・ベントレーは・・、
  『1951年8月、アメリカ上院国内安全保障小委員会で、
 ホワイトらの政府内の情報員の活動実態について』証言
 した。
  ベントレーは、「工作員の役割は、秘密文書を持ち出
 す事の他に、
  アメリカの政策(ルーズベルトの政策)に、こちらの
 望むような影響を与える事だった」と言っている。
  それで、何故か? ルーズベルトの政策がおかしかっ
 た。
  第二次世界大戦中のルーズベルト政権が、如何に、ソ
 連スパイによって浸透されていたか?
  議会の調査委員会や、FBIの捜査で、かなりの部分
 が明らかにされた。
  ルーズベルトのやっていることがおかしいと、動いた
 アメリカ国民の方々もあった。
  1936年1月24日、モーゲンソー財務長官は、この日の午
 後3時、いつものようにニュースを聞くと、
  「GM(ゼネラル・モーターズ社)が、突然、大量の
 米ドル売りを開始した」。
  米ドルは、英ポンドに対して急落した。
  これは、ルーズベルトへも伝えられた。
  ルーズベルトは怒った・・、
  「祖国の貨幣を貶(おとし)めるとは、これほど非愛
 国的行為を知らない」・・と、鋭い口調で言った。
  ルーズベルトが、これほど怒ったのは、翌日、民主党
 の大物が、反ルーズベルト演説をやる予定だったからだ
 った。
  これに呼応して、ドル売りをしたと・・。
  この演説会は、「アメリカ自由同盟」の主催で・・、
  GMや、デュポン社グループだったからだった。
  また、この頃、ルーズベルトは、大統領選の再選を意
 識していた。
  また、ニューディールを誇らしげに語っていたが・・、
  実際は、経済が好転したわけでもなく、また、失業者
 が減った訳でもなく、
  さらに悪い事に、国家復興庁(NRA)の価格統制が、
 違憲という判断が出て、
  その違憲判断などを受けて、『アメリカの自由を損ね
 ているルーズベルト』という見方や意見が、アメリカ国
 内で広まり、強まっていた。
  民主党のスミスは、米ドル売りの翌日、演説で言った、
  「ニューディールは、マルクスとレーニンの事なので
 す」・・と、
  そして、また、「問題は、ワシントンか?モスクワか
 ?」と、
  また、「星条旗か? それとも、赤旗か? の選択な
 のです」・・と。
.
  そして・・、
.
  題:遅れた国=アメリカの「人種差別から戒厳令まで」・・
.
1943年6月20日~22日、アメリカ合衆国で・・、
  白人の人種差別意識が原因とする『戒厳令も出るとい
 う騒ぎ』が起きた。
  銃撃戦がアメリカ国内で行われた内戦状態だった。
  アメリカ大統領のフランクリン・ルーズベルトは、ど
 うしても黒人の方々を、同じ人間と見れない、同じ人た
 ちと認めたくないという大統領だった。
  奴隷解放したという「リンカーンだって」同じだった。
  リンカーンが奴隷解放したからと言って、黒人の方々
 に対して、差別観のない・・、人間として平等な感情を
 持っているのかと言えば、それは違うと言えた。
  それは、間違いだった。
  そうではなかった。
  このルーズベルトにしたって、黒人の方々に対して、
 人間として平等という『当たり前の感情』を持っていな
 かった。
  ルーズベルトのこの様な人種偏見を持った、差別感を
 持った大統領は、日本人に対しても、その様な感情(有
 色人種蔑視感情)を持った。
  故に、第二次世界大戦が、より悲惨な戦争となった。
  このルーズベルトの「人種差別観」は、キリスト教に
 よって生まれ、醸成された。
  ルーズベルトが、日本へ「無条件降伏」の要求をした
 のも、チャーチル英国首相でさえ、その異常さにびっく
 りしたのだった・・が、
  その「無条件降伏の日本への要求」は、キリスト教の
 「シャローム」の教義から来ていた。
  この卑劣なキリスト教教義は、「すべての殺戮と破壊
 から平和が来る」という教義で・・、
  キリスト教の有色人種蔑視の教義とともに、すべての
 殺戮・破壊が伴った。
  原子爆弾の投下とともに、完全破壊活動の末の「無条
 件降伏の要求」という「卑劣さを極めた」。
  この様なキリスト教のマインド・コントロールされた
 ルーズベルトは・・、
  同じアメリカ国民である黒人の方々へも「差別観をむ
 き出し」にし、差別観を持って対した。
  ルーズベルトの政策の中に「黒人の方々は無かった」。
  ルーズベルトは、民主主義を解きながらも、その民主
 の民には、「黒人の方々は含まれていなかった」。
  この差別観は、あらゆる面で生じていた。
  その差別に耐えて来た黒人の方々は・・、
  1943年6月20日から22日にかけて、やむなく行動を起こ
 した・・爆発した。
  黒人の方々は立ち上がった。
  白人たちは、黒人暴動だと表現した。
  フランス革命に市民の方々が立ち上がったのと同様に
 気高い行動だった。
  黒人の方々の行動は、当然の結果だった。
  立場を守る行動は美しかった。
  その行動は、デトロイトで起きた。
  切っ掛けは、公園で、黒人の方と、人種に対して蔑視
 観を持つ白人と・・その個人的口論から始まった。
  これが、公園にいた周りの人々を巻き込んだ。
  騒ぎは大きくなった。
  それだけ、ルーズベルトの政策をはじめ、白人たちの
 虐(しいた)げが「極限に達していた」。
  そして、双方が入り乱れての騒ぎとなり・・、
  止まることなく広がって行った。
  それだけ、黒人の方々が、ルーズベルトに始まる虐げ
 の中にいた。
  白人の・・黒人の方々への蔑視感があった。
  同じだという平等観から、尊重するという態度や姿勢
 はまったく無かった・・それが原因だった。
  それまでには、例えば・・、白人地区をただ歩いてい
 たというだけで、黒人の方が殴打された、
  そして、死ぬまでの殴打をされた・・この様な事が頻
 発していた。
  この様な差別観から来る差別行為が、この様な騒ぎと
 なった。
  差別観を植え付けたキリスト教の罪だった。
  ルーズベルトは、21日に戒厳令を発令した。
  この様な段階まで問題化した。
  名誉な事ではなかった。
  文明国ではなかった。
  ここまで騒ぎは大きくなった。
  『正規の黒人部隊』が武器庫を襲うという事態も起き
 た。
  革命である。
  アメリカ軍が出動した。
  戦争である。
  銃撃戦が行われた。
  死者35人、重軽傷者700人が出た。
  不名誉な人種差別の末の戦いだった。
  まったく遅れた人種差別の国=アメリカだった。
  この後にも、この様な騒ぎが、度々、起き、
  そして、戒厳令が出されたりするという「アメリカと
 いう遅れた国」だった。
.
  そして・・、
.
2016年、大富豪だが、質素な生活を送っているので尊敬さ
 れている投資家のウォレン・バフェット氏が・・、
  数年前に、2016年の事を予測して言った・・、
  「2016年以降のある時点で、アメリカは、対外債務の
 負担に耐え切れなくなり、深刻な財政危機と、通貨危機
 を引き起こすだろう。
  アメリカの国内政治は、動乱状態になるかもしれない」
 ・・と。
  奇しくも、トランプという大統領が登場した。
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2017年1月15日日曜日

(増補版)482E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年3月~1889年3月)

題:(増補版)482E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年3月~1889年3月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1889年3月14日、電信電話線私設条規(明治22年逓信省令
 第004号)が公布された。
  信書の秘密保護を訓諭(逓信省)
1889年3月14日、国税徴収法(こくぜいちょうしゅうほう、
 法律第 9 号国税徴収法)が公布された。
  旧国税徴収法(1897公布)は、1889年に制定された国税
 徴収法と国税滞納処分法とを統合したもの。
  この1889年(明治22年)の新たな国税徴収法・国税滞
 納処分法が制定されたが、
  これは、この年の明治憲法成立、同じく、この年の市
 制・町村制成立とも関連する。
  明治22税徴は、国税徴収に関する市町村の役割を明ら
 かにして、また、国税と一般債権との関係について、納
 税人が一般債権の負債により身代限りの処分を受けた時
 は、徴税令書を発している場合には納期に至らなくとも
 「他の債主に先立ち』税金を徴収すること(第14条)
  及び、その場合に、税金の納期限よりも1箇年前に「質
 入書入」をなしたものがあるときは、物件の売却代金を
 質入書入付き債権に充当してから税金を徴収すること(
 第15条)を既定した。
  さらに、租税の時効についても定めた。
  (獨協大学、小柳春一郎教授の論文などを参考にした)
1889年3月15日、大日本紡績同業連合会が、対罷工規約を制
 定した。
  大阪紡績を始めとする紡績会社の創業が進められるな
 かで、旧来の紡績聯合会も、1888年6月に改組されて、
 「大日本紡績同業聯合会」と改称した。
  その新しい規約第7条には・・、
  「罷工ヲナス等ノ場合」は、「速ニ其職工ノ姓名ヲ同
 盟中ニ通知」し、雇傭停止措置をとることとした。
  大阪天満紡績のストライキに先立つこと6ヵ月であるが、
 この規約は、当時、大阪紡績のストライキ対策に効果が
 あったという。
  (参考)ストライキとは、労働者による争議行為の一
 種で、労働法の争議権の行使として雇用側(使用者)の
 行動などに反対して被雇用側(労働者、あるいは労働組
 合)が労働を行わないで抗議することで、
  日本語では「同盟罷業」(どうめいひぎょう)、ある
 いは、「同盟罷工」と呼ばれ、一般には「スト」と略さ
 れる。
1889年3月16日、薬品営業・薬品取扱規則が公布された。
  薬品営業並薬品取扱規則(やくひんえいぎょうならび
 やくひんとりあつかいきそく、明治22年3月16日法律第10
 号)は、薬品の取り締まりや医薬品販売業に関する日本
 最初の法律で、
  1889年(明治22年)3月16日に公布、1890年3月1日から
 施行された。
  一般には「薬律」と呼ばれていた。
  人間の生活と医薬品は、極めて密接な関係があるので、
 医薬に関する法制(普通これを薬制と言う)も、相当、
 昔からあった。
  現在の薬事法の淵源は、この薬律、更に、それ以前の
 1874年(明治7年)の「医制」にまでさかのぼることが
 できる。
1889年3月22日、後藤象二郎が、逓信大臣に就任し、大同団
 結運動に亀裂が生じる。
  板垣退助らとともに愛国公党を組織し、民撰議院設立
 建白書の提出に参画し、のち、1887年(明治20年)反政
 府の大同団結運動を提唱し、巻き起こしていた。
  そして、機関誌「政論」を刊行するなどしたが
  1889年(明治22年)のこの年、黒田清隆首相に誘われ、
 政府に協力して、逓信相、農商務相などに就任して行く。
  若い時は、土佐藩士で馬廻(うままわり)格。
  義叔父の吉田東洋の推挙で登用されたが、東洋暗殺後
 は逆境にあり、
  藩論一変後の1864年(元治1年)に大監察となり、
  藩主・山内豊信(とよしげ)(容堂)の信任をえて、土
 佐勤王党を断罪、
  1866年(慶応2年)には、参政として開成館事業を運営し、
 長崎、上海に赴くなどして藩の「富国強兵」につとめた。
  坂本竜馬と相知り、幕府の第2次征長失敗後、
  竜馬の大政奉還策を将軍徳川慶喜によって現実化する
 ことにつとめた。
.
  (今日の言葉)
.
  題:引っ掛け話・・日本が引っ掛かってしまう話・・
.
1915年1月18日、二十一カ条の要求
  日本は、第一次世界大戦に連合国側として参戦し、
  そして、ドイツと戦い、
  日本は、この戦争の勃発の翌年の1915年1月18日に、
  第一次世界大戦で戦う相手国・ドイツの「中国におけ
 るドイツの権益」を中国へ還付(かんぷ、返すこと)し、
  そして、日本への継承を中国(中華民国)に要求した。
  また、これは、満蒙の権益問題や、そこにいる日本人
 の保護についても話し合われ、決着した。
  日本の大隈重信内閣は、中国の袁世凱政府に二十一カ
 条の要求を示した(五項と二十一条からなる)
  なお、この要求は、第一次世界大戦の終結後の1919年
 6月28日に開かれたベルサイユ条約において、連合国(ア
 メリカ、イギリス、フランス、イタリア、ベルギー・・
 など)に認められた(ここが大事)。
  第一項:「山東省に関する件」日本のドイツ権益を継
 承を認めることと、
  芝罘(煙台)と膠済鉄道(青島~済南)をつなぐ新鉄
 道の敷設権を要求。(全4条)
  第二項:「南満州および東部内蒙古(内モンゴル)に
 関するする件」(全七ヵ条)
  その主なものは・・、
  (1)旅順・大連の租借期限を99ヶ年延長すること
  (2)日本人の土地租借権と土地所有権を認めること
  (3)日本人の居住と営業の自由
  (4)鉱山採掘権の承認
  (5)政治、財政、軍事についての顧問を求める場合は
 まず日本政府と協議すること
  (参考)この頃の状況を伝える史料・・、
  1)孫文は、「二十一カ条の要求は、袁世凱(えんせい
 がい)自身によって起草され、要求された策略であり、
 皇帝であることを認めてもらうために、袁が日本に支払
 った代償である」と述べている。
  因みに、孫文は、辛亥革命のとき、日本に資金援助と
 武器の援助を要求しており、
  そのかわり「満州をやる」と提案している。
  2)この頃、支那は、辛亥革命(1911年)によって、
 共和国が誕生していたが、非常に不安定な政権で、混乱
 が続いていて、大総統の袁世凱は「皇帝」になりたかっ
 た。
  3)アメリカ公使ポール・ラインシュの国務省への報告
 書には、「支那側は、譲歩すると約束したよりも要求が
 はるかに少なかったので、最後通牒の寛大さに驚いた」
 とある。
  4)中国は、策謀が錯綜(さくそう)する国で、
  また、権謀術数(けんぼうじゅっすう、人を欺くため
 のはかりごと。種々の計略)の国で、
  日本が、要求をのませたと言われているが・・、
  実際は、この逆であることが明らかになっている。
  日本が要求したとなっているが・・、
  当時の袁世凱・中華民国大総統が、「国民に理解させ
 るために、この様な形で出してもらいたい」と言ってい
 た。
  日本側が、積極的に出したものではなかった。
  袁世凱から、日本側へ頼んでいるのだった。
  しかし、策謀の国・中国の裏の目的は、「中国の引っ
 掛け外交」だった。
  これは、当時の外務大臣の加藤高明の自伝に記述され
 ている。
  また、東郷茂徳外相が、巣鴨プリズンで書いた回顧録
 にも記されている。
  そこには、「日本の武力行使だと見せかけたい」とい
 う中国があった。
  また、日本が、不当な要求を、武力で脅して押して来
 たと、世界に見せたかった、公表したかった。
  事実、国際社会での日本の立場は、中国の思惑通りに、
 急に悪くなった。
  日本は悪者にされた。
  そして、このことから、中国は、次に、成立した条約
 も無効だと言い掛かりを付けた。
  正当に話し合って、国と国が結んだ条約であっても、
 簡単に反故(ほご、無駄に捨てる)にできるの戦略だっ
 た。
.
  そして・・、
.
  (関連)「田中上奏文」:
  日本が、引っ掛かった事件。
  2005年、日本が引っ掛けられていたという事件の無実
 が明らかになった。
  2005年の春、モスクワのロシアのテレビやラジオ放送
 が、「田中上奏文は、ソ連KGBの前身のОGPUが偽
 造したものだ」と放送した。
  80年ぶりに日本の「濡れ衣」が、剥がされた。
  卑怯な事に、東京裁判のアメリカなどは、その事を知
 っていた。
  それで、「田中上奏文は、証拠にも取り上げなかった」。
  日本への有利な「この偽造証拠」は隠された。
  この当時の日本の痛手は甚大だった。
  この事も世界へプロパガンダ(嘘宣伝)されて、世界
 が日本への敵意を強くした。
  ルーズベルトも「日本への敵意を強くした」と言って
 いる。
  日本は、今・現代でも、この様な卑劣なプロパガンダ
 (嘘宣伝)する中国や韓国に対し、必要な資金をしっか
 り使って反駁すべきだ。
  正しい事を、正義を、しっかり世界へ伝え、主張して
 行かねばならない。
  また、今でも、このはっきりした捏造された嘘話を、
 中国は、教科書や辞典などに「事実だ」と記載している。
  嘘教育をしている。
  盧溝橋事件も、中国共産党軍が起こした謀略だったこ
 とが明らかになっている。
  こんな事ばかりだ。
.
  そして・・、
.
1929年~1930年、中国と満州で、日本人叩(たた)きが、
 最高潮に達した。
  中国をアメリカは支援し、「金と武器を、無尽蔵に流
 入させていた」。
  だから、中国は強気だった。
  そして、何故か?この頃、アメリカでも、日本を排除
 する風潮が盛んだった。
  ここに共通するアメリカは、世界も繰っていた。
  中国の日本人たちのそれまでの努力は、無に帰されて
 いた。
  露骨な「日本の追い落とし行為」が行われていた。
  長く続く、アメリカと同じ様な「排日行為」だった。
  日本人たちは、日本総領事館へ訴えるが、まったく無
 駄だった。
  アメリカに繰られた中国は、その様な行動を変えるつ
 もりは無かった。
  満州には、20万人の日本人と、80万人の朝鮮の方々が
 居た。
  この時は、朝鮮は、日本との併合関係にあって、一体
 で満州を開拓しようと努力していた。
  その朝鮮の方々へも危害を加えて来た。
  1931年6月~7月には、中国を正式なピザを持って旅行
 中の日本軍人が、中国軍に捕まり、秘密裏に殺害された。
  これを知って、日本国内で世論は沸き立った。
  アメリカの仕掛けに、中国も、日本も、はまって行っ
 た。
  中国は、日本からの調査依頼を無視した。
  逆に、「日本のデッチアゲだ」と反駁した。
  何か?この後の時代にも、この様な中国の対応があっ
 た。
  中国は、いつもこんな風だ。
  1931年7月には、朝鮮の農民の方々(200名)が、中国
 人に虐殺され、迫害された(万宝山事件)。
  日本の本国政府は、それなりに努力しているが、中国
 の誠意は見られなかった。
  また、日本政府も国際協調・日中(支那)友好を大切
 として、実行の上がらない、空転が続いていた。
  現地の満州は、切羽詰まっていた。
  実効ある対応が、切実に必要な状態にあった。
  陰にアメリカが居る中国は、強気で、止(とど)まる
 ことを知らなかった。
  事が大きくなることを狙った行動が続いていた。
.
  そして・・、
.
1930年代、アメリカは、ソ連のスパイ網が、アメリカの政
 府中枢に張り巡らされて居るという情報を掴んだ。
  それで、アメリカは、アメリカ国内のソ連高官とモス
 クワとの秘密電信を解読する作戦を始めた。
  第二次世界大戦前の日本も、アメリカに傍受されてい
 て、完全に暗号は解読されていて、
  日本が困っていることなど・・すべての状況を手の内
 にして、日本の戦争へ至る道を繰っていた。
  また、ハワイへ向かう日本の連合艦隊の通信なども完
 全に傍受し、
  ハワイへ迫る艦隊の位置情報も知っていた。
  『奇襲攻撃』なんて、アメリカ・ルーズベルトの作り
 ごと。
  アメリカは、国内のソ連高官とモスクワとの秘密電信
 を解読する作戦を始めたが、
  この作戦は、アメリカ陸海軍情報部の通信傍受部隊に
 よってひそかに進められた。
  1943年、また、この年の後半は、特に、盛んとなって
 行った。
  この長い期間に、アメリカ政府内に、何と200人近いソ
 連側への情報提供者が居た。
  そして、政府中枢部のスパイが浮かび上がった。
  (今・現在も、アメリカは、盛んに日本を含む世界中
 に、傍受作業を行なっている、当然に・・、)
  ソ連は、信じられない様なスパイ網をアメリカに作り
 上げていた。
  第二次世界大戦の終了間際は、その頂点に達していた。
  (今・現在も、中国は行なっていて、アメリカの次期
 大統領のトランプは、中国を含むロビーイスト達などを
 含む情報員を、排除する考えを明らかにしている。
  また、日本にも、中国の組織員が多く潜入している事
 が知られている)。
  アメリカは、ソ連のスパイであったアメリカ政府高官
 の名前もつかんだ。
  (日本の今・現在の官僚にも、多く中国と連絡をとり、
 情報提供する官僚が多くいる)。
  大統領補佐官の「ロークリン・カリー」、財務省次官
 の「ホワイト」までがスパイだった。
  (日本も、今・現在、『国防の話』が安心して開けな
 い状態となっている)。
  この組織は、戦後、5年を経て崩壊した・・と言われて
 いる?
  スパイ網の解明に重要な役割を果たしたのが『KGB
 電信』だった。
  (参考)KGB:ソ連国家保安委員会(それんこっか
     ほあんいいんかい、略称:КГБ(カーゲーベ
    ー)は、1954年からソ連崩壊(1991年)まで存在
    したソビエト社会主義共和国連邦の情報機関・秘
    密警察。
     軍の監視や国境警備も担当していた。
     東西冷戦時代にはアメリカの中央情報局(CIA)
    と一、二を争う組織と言われていたが、ソ連崩壊
    と同時にロシア連邦保安庁(FSB)に権限を移行し
    た。
     日本での略称は КГБ を翻字した KGBが使わ
    れる。
  このホワイトからの政府高官のスパイへ、アメリカ政
 府内の200人近い者たちが、アメリカの情報を提供する
 『情報提供者』となっていた。
  アメリカの情報が、秘密情報が、大量に流れ出ていた。
  しかし、これでも、アメリカが、秘密流出のスパイ行
 為の裏付けとして解読に成功したのは2900通で、交信全
 体の数パーセントに過ぎず、
  判明した部分は、ほんの僅かとなっている。
  ソ連スパイだったアメリカ政府内にいた不明な高官
 「X」は、1943年5月、ワシントンでの、ルーズベルトと
 チャーチルの米英首脳会議にも加わっていて、
  この両首脳と意見を交換するほどの高官だった。
  アメリカ政府高官のハリー・ホワイトのスパイ発覚が
 明らかになって、急速に、すべての状況が明らかになっ
 て行った。
  アメリカでは、この衝撃が、アメリカを1850年代、極
 端な反共運動(マッカーシズム)へと突き動かした。
  そして、ルーズベルトの半世紀の後までも、まだ、ソ
 連スパイ網が出来ていた。
  (今・現在も、日本において、中国工作員が多くいる
 と判断されるリトマス試験紙が、
  今・現在、こんなに、中国経済がシッチャカメッチャ
 カで、中国崩壊の可能性が大きい時に、同じ言葉で、口
 裏を合わせて、同じ様な論理で、「平気だ、平気だ」と
 同じ様に言う者たち・・)
.
  そして・・、
.
1930年、アメリカ合衆国に「黒シャツ隊」が結成された。
  世界大恐慌の真っ最中のアメリカ社会で、仕事のない
 社会だった。
  この「黒シャツ隊」は、「白人が仕事を得るまでは、
 すべての黒人の職を奪うのだ」という行動目標が掲げら
 れていた。
  また、この頃、黒人の方々は、白人たちから「リンチ」
 を受けていた。
  死者が出るという激しいものだった。
  ルーズベルトは、この様な時、1933年に、アメリカ大
 統領に就任した。
  黒人の方々は、黒人の方々の人権を守るために、「全
 米黒人地位向上協会(NAABC)」を結成した。
  そして、1938年、リンチを取り締まる「連邦法」の成
 立を求めて行動した。
  しかし、ルーズベルトは無視した。
  ルーズベルト政権の支援も得られず、廃案とされた。
  リンカーンが「奴隷解放した」と言うが、リンカーン
 には奴隷解放の意思はなく、
  社会の流れが、長い黒人の方々の虐げの終わりを、さ
 すが、続けていられないという反省・反動の中で、終わ
 る流れの中にあっただけで・・、
  その自由になった黒人の方々を、アメリカは、どうし
 ようと・・そして・・、
  そして、「リベリア」というアフリカの土地を取得し、
  そのアフリカの地を独立させ、自由黒人の方々を棄民
 しようとした。
  そして実行した。
  リンカーンも賛成していた、この政策を推し進めた。
  この様な社会のアメリカのその後も、この1863年のリ
 ンカーンの奴隷解放宣言の後も、黒人の方々は虐げ続け
 ていた。
  何ら立場は改善されずに居た。
  最下層の仕事にしかつけず、与えられずにいた。
  ルーズベルト大統領の世界不況の時は、さらに、黒人
 の方々は虐げられた。
  この頃の黒人の方々の失業率は、5割以上、5割を超え
 た。
  白人優先だった。
  黒人の方々への差別は激化していた。
  そして、アメリカ社会は、黒人の方々の「職を奪う」
 風潮が荒れ狂った。
.
  そして・・、
.
  題:グローバル・スタンダードに合わせるという事で
   戦争への坂を下りて行った・・、
    国際協調一点張りでは無理・・、
.
1931年9月18日、満鉄線爆破事件が起きた。
  この事件が・・満州事変の引き金を引いたとされるが・・、
  国際法で、国家間の懸案を解決をするため「保障占領」
 が認められていて合法だった。
  この事件が起きる直前に、「中国側が、今後も、日本
 側の抗議に応じないなら、奉天の町を軍事占領(保障占
 領)する」と検討されていた。
  それが、日本の総領事館で検討されるほど、中国の行
 動は過激だった。
  また、この事件に至る悲劇だったのは、また、この事
 件の遠因となったのは、日本の経済的不安定を生み出し
 たウォール街を発信源とする世界恐慌だった。
  そして、日本の経済的不安定を生みだした「このウォ
 ール街を原因とする恐慌」に対する索=「金解禁」の政
 策だった。
  浜口雄幸を首相とする浜口内閣の大蔵大臣の井上準之
 助は、「グローバル・スタンダード」に合わせるという
 考え方だった。
  (今・現在も「グローバリズムが良いのだ」というア
 メリカを発信源とする花が咲いているが?)、
  そこで、この井上準之助・大蔵大臣は、前記の様に、
 世界がウォール街を震源とする「株の大暴落の大嵐の中」、
  また、金本位制が、世界で崩れつつあるという中、
  井上大蔵大臣は、グローバルだと、それが良いのだと
 の理想を掲げて、その理想のなせる罪=金解禁を行なっ
 た。
  その結果、日本経済は「めちゃめちゃ」になった。
  奈落のどん底へ突き落とされた。
  やってはいけない、下劣なるグローバル協調路線を突
 き進んでしまっていた。
  日本は、必死に国際協調しよう、しなければとしてい
 たが、日本を潰(つぶ)したいというアメリカの思惑は
 変わらなかった。
  そして、この後、悲劇の「リットン報告書」が出て来
 る。
  グローバル主義には、「日本の伝統の否定」があり、
  また、「日本の文化の否定」があり、
  「日本の天皇制の否定」があった。
  また、この事について、コミンテルンも同調していた。
  そして、国内に同調する大学の教授陣が居り、
  また、取り込まれた官僚と、その上の高級官僚、
  そして、外務省官僚が居て(今・現在と非常に似てい
 た)、
  戦争への坂を、アメリカの頑(かたく)なな方針と共
 に降りて行った。
  「抵抗するものは排除」としながら戦争への坂を降り
 て行った。
  さも、「異教徒は殺せの排除思想」の行動だった。
  (参考)保障占領:ほしょうせんりょう、条約上の一
    定条件の履行を、相手国に間接に強制するために、
    相手国領域の一部 (ときには全部) を占領するこ
    と。
     講和条約が発効し、交戦国間に平時関係が成立
    したのちも、条約上の義務、たとえば、賠償支払
    義務、その他の条約実施を確保するために行われ
    る。
.
  そして・・、
.
1931年9月、フーバー大統領の政権に居た国務長官のスティ
 ムソンは、フーバー大統領へ二つの案を提示した。
  「経済制裁を行なって、日本を圧迫する」という案と、
 「国際世論を喚起して、警告する案」・・だった。
  スティムソンは、フーバー大統領へ、前者の「強行策
 の経済制裁」を勧めるのだった。
  しかし、フーバー大統領は、冷静に、次のように言っ
 た。
  「いかなる国も経済を破壊され、国が飢える様な制裁
 に、素直に応じるとは思えない」、
  「制裁は、銃撃を伴わない戦争行為である」・・と、
  また、フーバー大統領は言った・・、
  「イギリスやフランスも中国に利権を持っていて、日
 本と同じことをしている」、
  「日本に仲間意識も持っている」・・と。
  日本だけを経済制裁をするという『論理の公正さが無
 い』と指摘した。
  フーバー大統領の偉い所は、『自分たちも同じことを
 やっている』と考えた所だった。
  アメリカは、「フィリピンで、甘い汁を吸っていた」。
  そして、フーバー大統領は確かめた。
  「経済制裁の延長線上にある戦争の可能性について、
 真剣に考慮した。
  そして、実際、極秘で、対日参戦の意志を確認した。
  アメリカは、ルーズベルトの前の「フーバー大統領の
 時」でさえ、「日本との一戦の考え方が存在して居た」、
 「日本と戦う」の考えが存在していた。
  このフーバー大統領の後のルーズベルト大統領が、「
 日本に、真珠湾攻撃の奇襲攻撃をされたから、第二次世
 界大戦が起きた」と、急に、戦争に至った様に言うのは、
 『下手な茶番劇』だ。
  下手な演技はするな・・と言いたい。
  フーバー大統領は、この時、「イギリスに、戦争開始
 の意志を確かめた」、そして、否定されている。
  また、フーバー大統領は、「陸海軍長官に、日本に勝
 利することが出来るか?」と、その可能性を確認してい
 た。
  そして、フーバー大統領は、「日本と開戦すれば、ア
 メリカの植民地のフィリピンが占領されるだろう」と予
 測していた。
  また、「イギリスの参戦が望めないと・・参戦否定さ
 れているので、イギリスの参戦が望めないなら、戦争は
 長引き、5年間が戦争期間になるだろう」と予測し、
  「その為の戦争準備が必要である」としている。
  そして、急な開戦は無理として・・、
  「戦争をするのは、問題外」としている。
  スティムソンは、フーバー大統領の考え方に「完全に
 一致した訳ではなかった」・・が、「戦争は、回避しよ
 う」という考えに至った。
  スティムソンの考えは、「経済制裁で戦争に至ること
 はない」「経済制裁で日本の行動を止められる(自分た
 ちだけは、甘い汁は、吸い続ける・・だった)」。
  日本は、「日本から自分たちの資本を持って行って」、
 その資本を投下して、そして、共に豊かになろうという
 方針だった。
.
  そして・・、
.
  題:実質、戦争だという策を、アメリカは採用した。
.
1931年10月、アメリカの国務長官が、二つの提案をした。
  そして、これに始まって・・、
  1941年7月25日、フーバー大統領が、「戦争になるよ」
 と言った経済制裁の、最も強い制裁である制裁が、ルー
 ズベルト大統領によって、日本に加えられた。
  それは、アメリカにある「日本の資産が凍結された」
 のだった。
   第37代大統領であるフランクリン・ルーズベルト大
 統領の前の大統領であるハーバート・フーバー大統領は、
 回顧録に書く・・、
  フーバー大統領の時の国務長官であるスティムソンは、
 1931年10月の段階で、日本の行動を止めるための提案を
 二つした。
  一つが、国際社会による経済制裁であり、
  もう一つが、外交と国際世論による説得だった。
  そして、フーバーは言う・・「私は、もちろん後者を
 望んだ。
  だが、国務長官(スティムソン)は、外交官と言うよ
 りも戦士の様であり、
  『制裁で解決できると信じていた』。
  国務長官(スティムソン)は、制裁が、戦争につなが
 ると考えなかったようだが・・、第一次大戦の経験に照
 らせば・・大国に対する経済制裁は、「実質的な戦争を
 意味していた」。
  スティムソンは、強硬策を主張した。
  そして、このスティムソンの考え方は、ルーズベルト
 に継承された。そして、
  1940年6月、ルーズベルト政権の陸軍長官に、このステ
 ィムソンが迎えられた。
  ルーズベルト大統領の政策が、より一層、日本への強
 い経済制裁へとエスカレートして行った・・そして・・、
  1941年7月25日、アメリカ国内の「日本の資産が凍結さ
 れる」という最強の制裁をアメリカは日本へした。
  アメリカは、常に、強硬策を日本へ加えるという『強
 者の立場』と『強者の論理』の中に居た。
  フーバー大統領ではないが、ルーズベルト大統領は、
 戦争を仕掛け行為をするのに夢中な中にいた。
.
  そして・・、
.
1932年7月2日、ルーズベルトは、民主党の大統領候補の指
 名を受け、シカゴで『ニューディール』の呼びかけを行
 っていた頃、アメリカの首都ワシントンのアメリカ議会
 周辺では、2万人以上の退役軍人らが、居座りテントで埋
 まっていた。
  この人たちは、第一次世界大戦後、帰還しても仕事が
 無く、極貧の生活を送らざるを得ない方々だった。
  不況の最大の犠牲者の方々だった。
  政府が約束した「退役年金のボーナス」を即座に支払
 うようにと求めていた。
  通りや空き地、そして、道路に面したビルなどを占拠
 していた。
  1932年7月28日、朝、群衆の投石で始まった小競り合い
 は、警察側の発砲で退役軍人の2人が即死した。
  これがきっかけで、群衆の5000人以上が、レンガやこ
 ん棒を手に暴れ回って、手が付けられない状態になった。
  午後になって、警察は、フーバー大統領に、軍の出動
 を要請した。
  アメリカ陸軍参謀総長のダグラス・マッカーサー(後
 のGHQ最高司令官)は、直ちに、軍を出動させ、鎮圧
 を命じた。
  6両の戦車も出動して、銃剣を付けた歩兵大隊、そして、
 サーベルを抜刀した6縦列の騎兵隊が出動するという物々
 しい市街戦もどきとなった。
  テントなども焼き払われた。
  内乱の様相だった。
  アメリカ国民の方々は、一層、不安と恐怖に陥(おち
 い)った。
  群衆には革命を起こしたいという意図があったと言わ
 れた。
  作戦に参加したアイゼンハワーやパットンは、英雄と
 祭り上げられて行く。
.
  そして・・、
.
1933年、アメリカの失業者数が、最悪の1400万人に膨れ上
 がった。
  因みに、1929年の4年前は155万人・・で、
  1930年は、434万人だった。
.
  そして・・、
.
1933年2月15日、ルーズベルトが狙撃された。
  アメリカ大統領に就任する約2週間前、ルーズベルトは
 狙撃された。
  アメリカは、この様な社会不安の中にあった。
  破壊的な不況が社会をむしばんでいて、アメリカ国民
 の方々は、恐怖に捉(とら)われていた。
  「社会改革。さもなくば革命を」という事を、初期の
 ルーズベルト政権を支えたアドルフ・バーレは警告した。
  この狙撃された日、ルーズベルトは、友人のヨットで
 カリブ海を周遊していた。
  そして、国民や支持者に顔を見せ、挨拶したいと、マ
 イアミ公園に立ち寄ることになった。
  会場は、新大統領を、一目、見たいと群衆が溢(あふ)
 れた。
  そこに警護官に警護されたルーズベルトのオープンカ
 ーが現れた。
  後部座席のルーズベルトは、群衆の歓声に手を挙げ応
 えた。
  ルーズベルトは、簡単な挨拶ぐらいで立ち去ろうと思
 っていた。
  近くには知人のシカゴ市長のアントン・サーマック氏
 が居た。
  サーマック氏が、ちょうど、ルーズベルトへ話し掛け
 た時、鋭い銃声がした。
  銃弾は、サーマック氏の胸を貫いた。
  ルーズベルトからわずか10数センチの所だった。
  サーマック氏は、これで死亡した。
  群衆の数人も、流れ弾で重傷を負った。
  青年の単独犯行ということで、大きな政治事件になら
 なかった。
  この様な血なまぐさい事件が、この頃、アメリカでは
 頻発していた。
.
  そして・・、
.
1933年3月4日、フランクリン・ルーズベルトが、第37代ア
 メリカ大統領就任式に臨んだ。
  ルーズベルト大統領は、大統領就任の時点で、すでに、
 不埒(ふらち、道理が外れていて、けしからぬこと)に
 も、戦争を利用した景気浮揚策が、彼の頭の中にあった。
  アメリカ国民の方々の8割以上が「戦争はしない」とし
 ていて、また、ルーズベルト本人も、大統領選挙期間中
 に、何度も何度も「戦争はしない」と宣言していた。
  しかし、その様に宣言していたのに、ルーズベルトの
 頭の中には、世界恐慌から脱却するためには戦争需要を
 利用しようという考えがあった。
  ルーズベルトの前任の大統領のフーバーは、ルーズベ
 ルトへ、「国際経済を重視すべき」と訴え続けた。
  しかし、ルーズベルトは、フーバーを避け続けた。
  世界経済とともにアメリカ経済も転落の一途をたどり
 続けていた。
  取付け騒ぎが連鎖的に起きていて、銀行は、次々と閉
 鎖状態に追い込まれていた。
  アメリカ経済は、急速な悪化の中にいた。
  フーバーは、1933年2月、退任まであと10日しかない時
 点で、ルーズベルトへ手紙を書いた・・、
  「不況の問題は、人々の心の中に潜んでいる。
  将来への不安な増大し、今や危険点に達している。
  新大統領である貴方(ルーズベルト)の確約こそ人々
 に自信をよみがえらせ、購買欲を引き起こし、景気を回
 復させることが出来るのです」・・と。
  ニューヨークで、風刺劇を観劇中に、この親展の手紙
 を手渡されたルーズベルトは、それを無視しただけでな
 く、2週間も返事さえ書かなかった。
  1933年3月4日、ルーズベルトは、大統領就任式に臨ん
 だ。
  ルーズベルトは演説で言った・・、
  「偉大な国は必ずや復活し、栄える。
  恐るべきは恐慌です。
  必要なのは行動であり、重視すべきなのは失業者を仕
 事に就かせることなのです。
  この危機に直面し、私は、戦争をも想定したような幅
 広い権限を議会に求めるでしょう。
  実際、外国の侵略を受けた時に与えられるであろうほ
 どの強大な権限をです」。
  民衆へ言った。
  当時、急速に普及したラジオで、多くのアメリカ国民
 の方々がこれを聞いた。
  これを聞いたルーズベルトの妻のエレノアは、ルーズ
 ベルトが演説で『戦争を想定した』と言ったとたん、聴
 衆が思わず歓声を上げ、拍手喝采(かっさい)した事に
 「恐ろしい印象を受けました」と語っている。
  まったく、ドイツのヒトラーの民衆を煽(あお)る『
 アジ演説』と同じ、ルーズベルトの演説だった。
  取付け騒ぎ(とりつけさわぎ)とは、特定の金融機関
 や金融制度に対する信用不安などから、預金者が預金・
 貯金・掛け金等を取り戻そうとして(=取り付け)、急
 激に金融機関の店頭に殺到し、混乱をきたす現象のこと。
  アジ演説は、民衆を扇動する演説。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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