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2015年8月8日土曜日

(増補版)174D2/3:気になった事柄を集めた年表(1759年~1763年)

題:(増補版)174D2/3:気になった事柄を集めた年表(1759年~1763年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1760年3月20日~23日、江戸大火
  (宝暦の大火or明石屋火事)、連日の火事となる。
  神田旅籠町の足袋屋・明石屋から出火し、北西風で延
 焼。
  日本橋、木挽町、さらに深川から洲崎まで焼失した。
  死者数不明、460町が焼失した。
1760年9月、将軍・家治となる。
  徳川家治(とくがわいえはる、家重の長子)が、第10代
 将軍となる(在職:1760年~1786年))
  家治の父・家重は、1761年7月13日に没した(1712年
 1月28日~1761年7月13日)
  1760年5月の父・家重の隠居により、家治は、家督を相
 続し、
  同年の1760年9月に、正式に将軍の宣下を受け、第10代
 将軍職を承継した。
  家治は、江戸城の西丸で生まれ、吉宗の膝下で養育さ
 れた。
  幼い時より文武の才に恵まれ、頴敏(えいびん、才知
 が鋭くさといこと)で、周囲の期待を集め、祖父の吉宗
 の寵愛を受けた。
1760年10月31日、葛飾北斎(かつしかほくさい、浮世絵師)
 が生まれた(1760年~1849年)
  幕府の用達の鏡師の家、江戸本所に生まれる。
  90回を越える転居をした(93回とも)。
  初め、勝川章に入門する・・が、狩野派・土佐派・琳
 派(りんぱ)・洋風画(洋風銅版画の画法)など和漢洋
 の画法を摂取し、独自の画風を確立した。
  70年間にわたる旺盛な作画活動を続けた。
  画域は広い(風景画・花鳥画・美人画・戯画)、錦絵、
 版本挿絵、肉筆画・・、
  「富嶽三十六景」「北斎漫画」
  「九十歳よりは、又々画風をあらため、百歳の後に至
 りては、此道を改革せんことをのみ願ふ」(絵本彩色通)
1760年、イギリスが、インドのムガール帝国の統治権を、
 この年に、奪った。
  そして、民への重税を課した。
  イギリスは、不満の民へは戦争を仕掛け、虐(いじ)
 める行動をとった(統治をしたい、金が欲しいのイギリ 
 スだった)。
  イギリスのインド遠征軍には、法とか、誠意とかは無
 かった。
  何しろ無法に、自分の持つ腕力でもって土地と利を奪
 った。
  イギリスは、12門、また、17門の大砲を持った軍艦
 10隻で、やりたい事をやった。
  インドの西海岸では、インドの方々の艦船を捕獲し、
 また、ムガール帝国に宣戦したり、
  インドの東の海上では、法も何も無視して、一切の艦
 船を拿捕(だほ)し、
  ベンガル湾の街・チッタゴンを占領し、
  ガンジス川をさかのぼって、首都に至り、王をその戦
 力で威圧し、強制的に条約を結ばせたり・・と。
  このインド以外でも、紅海や、ペルシャ湾に、強烈な
 軍艦を出動させて、イスラム教徒の巡礼船を捕獲したり、
  世界中で、やりたい放題の、海賊的無法な事をしてい
 た。
1761年1月、大坂米商人の「空米切手(くうまいきって)」、
 および、両替商の印金売買を禁止する。
  大阪の蔵屋敷(くらやしき、幕府や諸大名が年貢など
 を収納し、換金するために設けた邸)が、
  金銀の調達手段として発行した現米(実際の米)の裏
 付けのない米切手である「空米切手」を禁止した。
  また、両替商が、金銀両替、および、金融業務を行う
 場合、
  秤量がわずらわしいために、手形による信用取引が不 
 可欠となり、それに伴い不正も行われ、
  幕府は、大阪町奉行にこれを取り締まらせていた。
1762年、日本の総人口:25,921,000人
1762年、山脇東洋(やまわきとうよう、医学者)が没した
 (1705年~1762年)
1762年、ルソー(フランス、哲学者)の、「社会契約論(
 しゃかいけいやくろん)」が出版された。
  1761年に完成していた。
  キリスト教は、神と人間との契約という形を人々に認
 識させたが、
  この契約の認識の中にあるルソーも、そして、ルソー
 の生きていた社会も、その様な社会契約によって国家が
 成立していると考えていた。
  しかし、この契約、この頃の国家の成立におけるこの
 契約が、基本原理だと考えられていた・・が、
  この事に対して、人民と国家の首長との間の統治契約
 (首長が人民を保護する代わりに、人民は、首長に服従
 するという契約)に、齟齬(そご、物事がうまくかみ合
 わないこと)があると感じた。
  ルソーは、各個人が、自分の持つすべてを、全体に譲
 渡し、そのことによって強い力を蓄えた全体が、各構成
 員を保護するという契約を構想した。
  絶対権力者が、各個人に対して支配的に行為する契約
 ではないと、過去の契約論を否定した。
  自由な人間が(罪のない人間が)全員一致の約束によ
 って形成する理想的な国家形態を主張した。
1763年、小林一茶(こばやしいっさ、俳諧師)が生まれた
 (1763年~1827年)
  信濃の本百姓(中の上)の長男としてに生まれる。
  3歳で母を失う。
  8歳の時から継母に育てられたが、折り合いが悪く(
 弟が生まれたことが原因と見られている)、離郷した。
  内向的で孤独な性質が養われた。
  この頃を追想した句が、
  「我と来て遊べや親のない雀}
  14歳で江戸に出て、奉公し、25歳(又は29歳)の頃よ
 り葛飾派の師に俳諧を学び、
  後に、行脚(西国の修行のごとき旅)、そして、葛飾
 派の関係者の多い千葉・茨木を巡回俳諧師として歩き、
  信濃方面にも門弟を多数を得て、50歳の晩年に、故郷
 に定住した。
  「是(これ)がまあつひの栖(すみか)か雪五尺」
  52歳で結婚(初婚)し、故郷の門弟を訪ね、また、と
 きには江戸に出て、江戸の親友を訪ねる。
  その後、妻子を失う。
  その後、再婚するもうまく行かず、
  大火にも遭い、土蔵暮らしとなる。
  三度目の中風を患い、これが命取りとなり、不幸の中
 に没した。
  一茶旧宅(国指定史跡)が、長野県上水内郡信濃町柏
 原48にある。
  しかし、貧しいながらも、彼の生活を支えた人々の良
 心と、社会の陰の力を感じる。
1763年、谷文晁(たにぶんちょう、画家)が生まれた。
 (1763年~1841年)
  江戸下谷根岸に生まれた。
  父は、田安家の家臣。
  10歳頃から、狩野派の師に絵を学ぶが、
  19歳の頃から、南蘋(なんぴん)派に師事し、
  1788年の25歳の時に、田安徳川家へ出仕し、この年に、
 長崎へ遊学。
  広く和漢洋の画法を学び、独自の南画で一家をなした。
  江戸文人画壇の重鎮となる。
  門下に渡辺崋山ら多数がいる。
  1792年の29歳の時に、松平定信付の近習(きんじゅ)
 となり愛顧を受けた。
  「なんでも鑑定団」のテレビによく文晁の作品が出る
 が、偽物が多い。
  それは、文晁の性格が鷹揚な性格であり、弟子などに
 求められると、自分の作品でなくとも落款を認めた。
  また、画塾での講義中、本物の文晁印を誰でもが利用
 できる状況にあり、
  自作を文晁作品だと偽って売り、糊口をしのぐ弟子が
 相当数いた。
  文晁は、購入者から苦情を受けても「自分の落款があ
 るのだから本物でしょう」と、意に介さなかったという。
  文晁の活躍していた頃より、偽物が市中に出回ってい
 るという状況だった。
  真偽は、文晁の場合、落款・印章だけでの真偽判定は
 できない。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009

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