ページビューの合計

2016年7月14日木曜日

(増補版)380E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1883年1月~1883年2月)

題:(増補版)380E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1883年1月~1883年2月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1883年、流行:
・書生・士族の子弟らの間に麦わら帽子流行し始める。
・金沢で茶の湯が流行し、また、道具市がたびたび立ち、
 流行し、骨董品が高騰した。
・歌 「ダイナマイト節」
 https://www.youtube.com/watch?v=AmegfQjtB8k
  自由民権運動は、藩閥政府の弾圧が厳しく、言論集会
 も新聞活動も思うようにできなかった。
  そこで窮余の策として、歌の形式をとって街頭に出て
 民衆に直の呼びかけをはじめた。
  そして、ザラ紙刷りの歌本を一銭で売った。
  それを運動の資金にあて、全くスポンサーなしの自発
 的な活動だった。
  「ダイナマイト節」のパンチをきかせたやりかたは、
 後の演歌に引き継がれていった。
  歌の「コクリミンプクゾウシンシテ ミンリョクキュ
 ウヨウセ」は、
  「国利民福増進して 民力休養せ」の意味。
・女史風俗で、ハイカラスタイルが流行り始めた。
  ハイカラ:西洋風の身なりや生活様式をする様、人物、
 事物などを表す日本語の単語。
  1898年(明治31年)頃から、当時、東京毎日新聞の主
 筆であった石川半山(石川安次郎)が、紙上で使い始め、
 後に流行語となって定着した。
・馬車鉄道が開通したため、人力車が減少し始めた。
1883年、その他:
・中西輝政・京都大学大学院教授は言う・・、
  「歴史を振り返った時・・、
  日本では『国家の危機』と『文明の危機」が、常に、
 並行して起っていることが分かる。
  そして、『日本文明』が最も活力を発揮できたのは、
 『国家の危機』と『文明の危機』、その二つながらを
『一つのもの』と捉え、乗り越えようと闘った、明治の
 『和魂洋才』の時代だったことを、今日われわれは切実
 に思い起こすべきである」・・と。
・市内巡査交番所に、天気予報を掲げることとなる
・地球磁気観測が始められた。
  中央気象台に、常設の地球磁気観測が始められた。
  日本における地磁気定常観測は、第1回国際極年観測
 (1882年~1883年)を契機に、1883年(明治16年)、東京
 市赤坂で始められた。
・英国人動物学者のブラキストンが、動物棲息の範囲を定
 める『津軽海峡ブラキストン線』を発表した。
・太政官日誌を廃し、官報となる。
・帝国教育会(ていこくきょういくかい)が設立された。
  日本の教育者、および、教育関係者を構成員とする教
 育団体の全国機関。
  教育史で大きな役割を果たした帝国教育会は・・、
 東京府教育会と東京教育協会の合併により1883年発足し、
 名称を大日本教育会とし・・、
   1896年に、既存の大日本教育会と国家教育社を統合し
 た。
  「我国教育社会ノ中央機関トナリ教育ノ改良及ヒ上進
 ヲ図ルコト」を目的とし、各種の調査部会をおいて調査
 活動を行う。
  後、日本教育会と改称し、1948年(昭和23年)まで存
 続した。
  (日本教職員組合(日教組)の成立後に解散した)。
・丸ノ内馬場先門外に補修道路(タタキ路)ができる。
・浅野セメント・大日本製薬・東京製氷等が設立された。
  ☆浅野セメント:太平洋セメント株式会社は、1998年
 に、秩父小野田と日本セメント(1947年に、浅野セメン
 トから改称)が合併して設立されたセメント業界最大手
 の企業。
  ☆大日本製薬:大阪の道修町は、西日本の薬種取引の
 中心市場として栄えてきた。
  明治維新後、洋薬の輸入に取り組み、純良薬品を供給
 することを目的に、道修町の薬業家21人が発起人となり、
 1897年(明30)大阪製薬が設立された。
  翌年・1898年には、日本初の製薬会社として1883年(明
 治16年)東京に創立された大日本製薬を吸収合併し、社名
 を由緒ある大日本製薬(株)と改めた。
  ☆東京製氷:日本最初の製氷会社。
  余談だが・・1870年(明治3年)の梅雨時、福沢諭吉が
 熱病にかかり、氷が必要となる。
  しかし、当時は氷を簡単に手に入れることは不可能だ
 った。
  塾生たちは困る・・、だが、たまたま福井藩主だった
 松平春嶽が、外国から製氷機を購入していた。
  春嶽は、氷製造器の使い方がわからなかったが、塾生
 たちは借り出し、大学東校の宇都宮三郎教授の元に持ち
 込んだ。
  機械自体は単純な構造だったので、すぐに氷を作るこ
 とができた。
  福沢の熱病に役立ったという・・これが日本で初めて
 の人工的に氷を作った話。
  また、因みに、仁徳天皇陛下は、氷室で蓄えられた氷
 を夏に食べられた天皇陛下で・・
  延喜式(えんぎしき)に、氷室が、山城・大和・河内・
 近江・丹波に21室あったと記されている。
・佐世保村は、この頃、わずか戸数800、人口3700ほどの農
 漁村だった。
・横浜の貸自転車業屋が、大火により自転車を全て焼失、
 廃業となった。
・ガソリン自動車が発明された。
  19世紀のはじめに、トレビシックが発明した蒸気機関
 車は、スティーブンソンによって改良され、
  ヨーロッパやアメリカでは、人員や貨物を輸送する実
 用的な手段となっていた。
  一方、1769年に、キュニョーが先鞭(せんべん)をつ
 けた蒸気自動車も、少しずつ技術開発が進んでいた。
  さらには、電気自動車の可能性を探る動きもあった。
  しかし、そのどれにも一長一短があった。
  1860年、フランスのエティエンヌ・ルノワールが、「
 ガスエンジン」の特許を取った。
  実用的な内燃機関の考え方だった。
  軽量でコンパクトなシステムだった。
  4ストロークエンジンなどの工夫で問題点を乗り越え、
 内燃機関の改善がなされた。
  そして、ダイムラーとウィルヘルム・マイバッハが、
 カンシュタットで研究を重ね、1883年に、熱管点火方式
 の改良型エンジンを完成させた。
・悪く書かれた者の代理だと称し、新聞社を「告訴する、
 金で解決か」と、ゆする者がふえ、連絡所も出来た・・
 と(郵便報知)新聞が報じた。
1883年1月1日、共同運輸株式会社が開業した。
  三菱会社の海運独占による高運賃に対抗して、1882年
 に、三井資本を中心に、政府出資も得て、設立された海
 運会社。
1883年1月1日、『栃木新聞』が、不敬罪で発禁処分となっ
 た。
  不敬罪:天皇陛下、および、皇族・神宮・皇陵に対し
 て不敬(ふけい、尊敬の念を持たず、礼儀に外れること)
 の行為をする罪。
1883年1月4日、叙勲の条例が制定された。
1883年1月11日、京橋の明治会堂で、西洋風舞踏会が開催さ
 れた。
  明治会堂(めいじかいどう)は、福澤諭吉と慶應義塾
 (現:慶應義塾大学)の政治結社グループにより建築さ
 れた政談演説公会堂。
  1880年6月に「明治会堂建築相談会」が発足し、
  1880年9月に着工し、1881年1月に完成した。
  所在地:東京府築地木挽町(銀座)
  1階1000席、2階300席(食堂)。
1883年1月22日、『絵入朝野新聞』が創刊した。
  編集の中心は山田孝之介であったが、経営不振のため
 同年・1883年4月3日より「朝野新聞」の経営に移った。
1883年1月23日、府県に兵事課が設置された。
1883年1月23日、工部美術学校が廃止された。
  日本最初の美術教育機関で、工部省の管轄。
  「工部大学校」の付属機関として設置され、1883年に
 廃校となった。
  設置されていた学科は「画学科」「彫刻科」の二科。
  アーネスト・フェノロサの提言などもあって、日本美
 術の再評価が行われ、国粋主義が台頭してきた。
  こうした背景の中、1882年(明治15年)6月に、彫刻科
 が廃止され、翌1883年1月には、画学科も廃止されて、工
 部美術学校は廃校に到った。
  6年後の1889年、国立の美術教育機関である東京美術学
 校が設立された。
1883年2月7日、東京で40年来の大雪
  東京で大雪、日本橋白木屋に来客皆無。
1883年2月12日、福島事件審問を開始
  東京法院を開き、国事犯最初の審問を開始した。
1883年2月15日、電力会社の設立許可
  矢島作郎、藤岡市助、大倉喜八郎、原六郎、三野村利
 助、柏村信、蜂須賀茂韶など数名からなる発起人が、国
 から会社の設立許可を受けた。
  富国強兵に電力は今後欠かせないという判断の元、資
 本金20万円で前年に出した企業創立の請願書が認められ
 た。
1883年2月16日、天気図初めて発行される(七色刷りの天気
 図で一日一回発行)
  日本で初めて天気図が作られる。
  御雇外国人のドイツ人の気象学者エリヴィン・クニッ
 ピングの指導のもとに、7色刷りの天気図となった。
  全国11か所の観測所から、電報データを集めクニッピ
 ングが英文でかき馬場信倫が訳して天気図にした。
  1883年3月1日に、毎日発行されるようになり、
  1883年8月23日に、新橋と横浜の停車場に掲示された。
1883年2月16日、赤羽工作分局(あかばねこうさくぶんきょ
 く)を廃止し、その設備は、海軍省兵器局に移管された。
  赤羽工作分局は、明治初期の官営の機械製作工場で、
 1870年(明治3)閏(うるう)10月に、新設された工部省の
 もとで、
  翌年・1871年10月に、東京・芝赤羽の旧久留米(くるめ)
 藩邸跡に開設された製鉄寮がその前身。
  1873年に、赤羽製作所となった。
  旧佐賀藩所有の工作機械や、材料を引き継ぎ、
  外国人技師を雇って、農具、機械、鉱山・鉄道用品の
 ほか、蒸気機関や紡績機などを試作した。
  1877年に、赤羽工作分局と改称し、
  品川、深川工作分局とともに、工部省所管のもとで、
 多額の出資がなされ、当時の機械工業部門の中枢にあっ
 た。
  1883年廃止され、その設備は、海軍省へ移管された。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
 

2016年7月13日水曜日

(増補版)379E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1883年1月~1883年1月)

題:(増補版)379E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1883年1月~1883年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1883年、出来事:
・鹿鳴館外交
  井上馨外相、鹿鳴館時代:治外法権など列強各国に押
 し付けられた不公正条約の改正に努力するが失敗、列強
 の横暴の中で涙ぐましい努力をする日本。
  鹿鳴館時代は、館の落成の1883年から1887年まで・・、
  鹿鳴館の落成の祝宴が、1883年11月28日に行われた。
  この欧化政策に対し「退廃的」との非難の国民の声も
 あった。
  欧米列強に媚びへつらう日本の姿も見え、この様な批
 判となった。
  しかし、ここまでして条約改正に努力する日本。
  しかし、しかし、欧米諸国の外交官の日記などには、
 完全に西欧化していない部分を、ぎこちない部分を、そ
 こまで出来ない日本を「滑稽」などと嘲笑している。
  ダンスの踊れる日本女性が少なく、ダンスの訓練を受
 けた芸妓が対応した。
  こうした井上外交は、次第に風当たりの厳しいものと
 なった。
  日本は、何と、「外国人判事の任用など」屈辱的な条
 約改正案なども提示した。
  当然、国内から「大反対」の声があがった。
  鹿鳴館は、1940年に閉館となり、取り壊された。
  しかし、この頃、日本は、自律的発展への離陸条件を
 備えた国に、やっとやっと、なって来た(軽工業中心、
 ~明治30年)
・工業所有権
  工業所有権の保護に関するパリ条約がつくられた。
  これは、工業所有権についての最も基本的な国際的枠
 組みを定めたもの。
  平成3年の時点で、103ヶ国に増えている。
1883年、データ:
  自作農37.3%、自小作41.8%、小作20.9%、~1884年
1883年、衣:
・大阪紡績(現:東洋紡績)が開業した。
  この開業の後、日本の綿糸の生産量は急増し、1897年
 (明治30年)に至ると、輸出量が輸入量を上回るように
 なった。
  その先駆けとなったのがこの大坂紡績だった。
  また、この頃、綿布は、貿易の目玉商品となっていた。
 各国は競った、特に、イギリス製やインド製の綿布。
  そして、日本は輸入した綿布を、朝鮮に再輸出するケ
 ースが多くなった。
・金巾(かなきん、固くよった糸で目を細かく織った薄地
 の広幅綿布)輸入が激減する。
  貿易港であった長崎が衰退しつつあったことも影響し
 ている。
  また、綿布貿易の担い手の変化があり、日本商人から
 清国商人へ変化してもいた。
  日本商人は、綿布貿易から手を引きつつあり、大阪市
 場へ向けての穀物輸出に比重を置くようになった。
1883年、食:
・東京に偕楽園・陶々亭の支那料理店ができる。
・山形県ハッカの輸出に成功し、県下至る処ハッカの栽培
 流行す。
  北海道農業発達史に、1885年に、山形県からハッカ種
 根を移入し、上川郡で試作、これが、ハッカ栽培の起源
 との記述がある。
・栃木県で外国煙草の試作をなす。
  栃木県那珂川町馬頭地区が発祥の地とされていて、こ
 こに「たばこ神社(=別雷神社)」があり、この神社に
 「たばこの和歌」が残されている。
  そして、1898年(明治31年)に、葉煙草専売法が敷か
 れ、
  当時、日本で一番の生産高を誇った馬頭町には、専売
 所が開設され、町は発展した。
  「福寿草」という煙草の箱に記してある「たばこ和歌」
   香ばしき その名も高き 福寿草
        命を延ぶる 薬なりけり
1883年、住:
・東京電燈株式会社が創立された。
  日本初の電力会社。
  1883年(明治16年)2月15日、矢島作郎、藤岡市助、大
 倉喜八郎、原六郎、三野村利助、柏村信、蜂須賀茂韶な
 ど数名からなる発起人が、国から会社の設立許可を受け
 た。
  富国強兵に、電力は、今後、欠かせないという判断の
 元に、資本金20万円で、前年・1882年に出した企業創立
 の請願書が認められた。
1883年、医学:
・ドイツのコッホが、コレラ菌を発見した。
1883年、論・新聞・本・文学・出版:
・馬場辰猪 「天賦人権論」 刊行(1月)
  明治初期の啓蒙主義者・民権論者によって、広く主張
 された自由主義的人権思想であったが、
  民権運動発展の過程を通して理論的に純化され、西欧
 的な自然権思想と変らないものとなった。
  加藤弘之が、 1882年、『人権新説』で天賦人権を虚妄
 と論じたことから「天賦人権論争」が生じた。
  しかし、植木枝盛は、『天賦人権弁』において、人権
 を自然権の概念によって把握しようとした。
・植木枝盛 「天賦人権弁」
・田口卯吉(たぐちうきち)「支那開化小史」
  田口卯吉は、日本の経済学者、歴史家、実業家、衆議
 院議員。
  実業家としては、士族授産金処理事業としての南洋交
 易を、東京府から提案されて引き受けている。
  ほぼ無抵抗で秩禄処分で既得権を失った士族を支援し
 た。
・矢野龍渓 「経國美談」 発行(1月)
  日本の民権と国権の伸長を図った政治小説。
・ 「動物進化論」(述:モース/記:石川千代松)
  モースは、腕足類(わんそくるい、海産で、二枚貝の
 ような貝殻を持つが、殻は体の背腹に位置する)の研究
 を進め、ダーウィンの進化論を支持するようになった。
・「東京大家十四家集」(編:平井元満)
・「絵入朝野新聞」 創刊(1883年1月22日に創刊)
・「明治協會雑誌」 創刊
・ 「人肉質入裁判」(原題・ベニスの商人/著:ラム/訳:井上
 勤)刊行(10月)
・ 「魯敏孫漂流記」(原題・ロビンソン=クルーソー(ロビ
 ンソン漂流記)/著:デフォー/訳:井上勤) 刊行
・ 「花心蝶思録」(「大尉の娘」抄訳/作:プーキシン/訳:高
 須治助)
・(フランス)モンパッサン「女の一生」
・(ドイツ)ニーチェ「ツァラトゥストラはこう語った」
.
 (今日の言葉)
.
  アンドレ・モーロワは書く、
  「国というものは簡単に滅びることがある」・・と。
  アンドレ・モーロワは、フランスが、ナチス・ドイツ
 の侵略を受け、あっけなく滅びた様子を書いた。
  フランスは、自国の防衛にほとんど手を打っていなか
 った。
  その底には、見たくもないものは見ようとしない国民
 の「精神の崩れ」があった。
  その結果、フランスは、1940年に、ナチス・ドイツの
 侵略を受け、あっけなく軍門に下った。
  そして、4年4ヶ月の間、敗戦国としてヒトラーに支配
 された。
  モーロワは言う「大切な自由」「祖国のその自由を守
 る」
  「国民は、祖国の自由のためには、いつでも死ねるだ
 けの心構えがなければ、やがてその自由を失う」・・と。
  「自由を失えば、その自由を守る自己犠牲の精神を失
 えば、自由も民主主義も平和も守れない」・・と。
  そして、モーロワは、次に、「国民の団結」の大切さ
 を言い、そして、「外国の影響から世論を守ること」を
 言う。
.
 (今日の言葉・・おまけ)
1807年~1808年、フランスのナポレオンが、スペインのイ
 ベリア半島に侵攻した。
  スペインという宗主国が、ナポレオンの支配下に置か
 れ、混乱が続いたために、スペインの植民地は、各地で
 独立運動が起きた。
  1806年に、世界初の黒人共和国・ハイチが誕生した(
 独立は1804年)。
  1811年には、ベネズエラが独立した。
  しかし、先住民のインディオの方々は、蚊帳の外に置
 かれた。
  牛耳ったのは「クリオーリョ」というスペイン本国の
 移民の子孫。
  結局、移民が国を乗っ取ってしまった。
  日本もこの様な移民の形で「めでたし、めでたし」と
 ならない様に・・、特に、沖縄が・・。
  また、結局、EUの大揺れも『移民の問題』。
  グローバリゼーションなんて美しく言ってはいられな
 い。
  グローバリゼーションについて騙(だま)されてはい
 けない。
  イギリスのエマ・ロスチャイルドは言う・・、
  「グローバリゼーションのブームは、ほぼ30年周期で
 終わる」・・と。
  だから、1980年前後に始まった今のグローバリゼーシ
 ョンのブームは、間もなく終局する・・と。
  そして、奇(く)しくもEU離脱をしたイギリスの行
 動が・・2016年に起きた。
  そしてまた、ドラッガーは言う、
  「近代史というのは「『グローバル・エコノミー』と
 『ネイション・ステイト』、すなわち、国際化と国民国
 家の間を振り子のように動く」・・と。
  今、2016年は、転換期にある。
  グローバリゼーションの終わりが近づきつつある・・
 と言う。
  日本よ!「ポスト・グローバリゼーション」の時代に
 向けて対応をせよ!!
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
 

2016年7月11日月曜日

(増補版)378E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1882年12月~1882年12月)

題:(増補版)378E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1882年12月~1882年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1882年12月2日、巡査が、棒を廃して洋劔を帯びる。
  明治最初期には、邏卒(らそつ、警察官)は3尺の手棒
 を携行しており、帯刀は禁止されていた。
  その後、1874年の太政官達によって1等巡査にも帯刀が
 解禁されており、この時点で警部以上は既に帯刀してい
 たものと考えられる。
  この時点では、区内を巡行するときに限られていたが、
 その後、適用範囲が、順次、拡大され、
  1882年12月2日の太政官達第63号をもって、全国一斉に
 帯刀が開始された。
  基本的にはサーベルが用いられていたが、
  幹部などは、刀身が日本刀の場合もあり、外装も高級
 であった。
1882年12月3日、幼学綱要(ようがくこうよう)
  天皇陛下が、「幼学綱要」を地方長官らに下付された。
  幼学綱要は、幼童のための欽定教訓書で、 1882年に、
 宮内省より出版された(7巻)。
  1879年、明治天皇陛下の勅命を奉じて、元田永孚(も
 とだながさね、熊本藩士、儒学者、男爵)が中心となっ
 て編纂して来た。
  1881年には、成稿を得たが、なお修訂を重ねていた。
  古典からの引用と、中国、および、日本の例話をあげ
 ながら、孝行、忠節をはじめ、和順(わじゅん、気質が
 穏やか)、友愛、信義、勤学、立志、誠実、仁慈、礼譲
 (れいじょう、礼儀正しくへりくだった態度をとること)、
 倹素(けんそ、質素でむだな出費をしない)など 20徳目
 を掲げて、国民の守るべき道徳を説いている。
1882年12月7日、岩倉具視が、府県会が政府に批判的だとし」
 て中止するよう意見書を提出した。
  1871年の廃藩置県以後、各府県で府県会・民会・区戸
 長会などの名目で、地域代表による諮問機関が設置され
 るようになっていたが、
  1878年(明治11年)には、府県会規則を公布して、各
 府県に民選の地方議会である府県会を設置していた。
  府県会(ふけんかい)は、今日の地方議会の前身であ
 る府県の議会(府会・県会)のことで、
  府県会は、帝国議会よりも先に設置されていた(帝国
 議会の開設は、この12年後の1890年)
  そして、地方長官、あるいは内務卿が、国家の安寧を
 害し、法律規則を犯すと認めた場合には、会議の中止・
 解散・閉会を命じることが可能であった。
  この様な中で、自由民権運動が高まって行くとともに、
 各地で、県令と府県会の衝突が相次いだ。
  そこで、1882年に、右大臣・岩倉具視は、府県会中止
 の意見書を提出した。
  しかし、政府内部では、府県会の事実上の廃止を求め
 るこの岩倉の考えに同調する動きは少なかった。
  府県会に対し、政府の統制を強化することで対応して
 行った。
  因みに、府県会規則の選挙権は、年間地租5円以上納付
 の満20歳以上男子で、
  被選挙権は、同10円以上納付の25歳以上の男子だった。
1882年12月12日、請願規則を布告する。 
  請願権は、国民の自己の権利の確保を求める手段とし
 て大切であるが・・、
  請願制度は、明治維新後活発に行われた「建白書」を
 1882年に、「請願規則」として、当時の政府が発布し、
 はじめて請願という文言用られ、権利として確認された
 のは大日本帝国憲法においてであった。
  自由民権運動が高揚して、1877年に立志社ができ、
  1880年に、国会期成同盟が、国会開設を要求する建白
 書を提出したり(政府はこれを却下)・・、
  この様な情勢に対応するために、1880年に、太政官布
 告第53号を布告し、「建白」と定義して、管轄庁を経
 由して元老院に提出することを定めた。
  そして、翌年の1881年に、「建白書取扱順序」を定め
 た。
  そして、政府は、1882年に、請願規則を発布した。
1882年12月16日、郵便条例の制定
  郵便条例の制定(翌年・1883年1月1日、施行)により、
 第3種の規定が設けられ、雑誌(定期刊行物)は他より
 低料金となった。
  江戸時代から、公用の書状を送達する飛脚制度があっ
 たが、これは、幕府や一部大名の事務連絡用であり、一
 般の用に供されるものではなかった。
  明治政府は、欧米列強からの立ち遅れを克服すべく、
 近代国家、近代産業にとって欠かすことのできない交通・
 通信制度の整備に力を注いだ。
  1870年5月に、駅逓権正(ごんのかみ)兼任となった前
 島密は、公文書などの巨額の運送費を飛脚屋に支払って
 いた実情に目を向け、
  外国のように、官営の郵便制度を創設すべく検討を始
 めた。
  そこで、前島による創業の建議により、そして、鉄道
 建設資金借款要務のため、彼のイギリス派遣後は、時の
 駅逓権正・杉浦譲の準備作業のもと、1871年3月1日(新
 暦4月20日)、東京~西京(京都)~大阪の間に「新式郵
 便」の制度が発足した。
  これが日本おける国営事業としての郵便事業の始まり
 だった。
  1840年のイギリスの新式郵便創始から31年後だった。
  1875年に、外国郵便の取扱いが開始された。
  小包郵便は,国内に先立って外国との間で取扱われた。
  日本に設置されていたイギリスの郵便局の閉鎖の条件
 として、その取扱いの存続が求められて、1880年に、香
 港との間で外国小包の取扱いが開始された。
  (因みに、国内の小包郵便の開設は、その17年後の1892
 年だった)。
  当初は、制度や規則の改廃が、毎年繰り返されたが、
  1882年に、制度的にも固まってきたとして、初めて郵
 便条例が制定された。
  これによって、郵便事業は、法律的に体系化されると
 ころとなり、翌年の1883年より施行された。
1882年12月29日、村田経芳が、銃の発明で叙勲された。
  陸軍少将・村田経芳(むらたつねよし)は、日本陸軍
 が初めて採用した国産銃「村田銃」の発明の功により、
 勲三等に叙せられた。
1882年12月30日、軍備拡張を陸海軍両省に通達
  壬午軍乱を契機に、日本は、それまでの軍拡抑制の路
 線から転換した。
  清国(中国)の「定遠」「鎮遠」に対抗して軍備を拡
 張する方針を決定した。
  また、この年、それまでの治安維持軍事力は、対外侵
 攻のための軍事力として再編強化をして行くことになっ
 た。
  陸軍力の基幹である歩兵連隊は、1878年には15個であ
 ったが、1884年に3個、1885年に4個、1886年に5個、1887
 年には1個がつぎつぎ増設され、28個連隊になった。
1882年12月31日、陸奥宗光が、禁固5年の刑を終わり出獄を
 許された(特赦?)
  陸奥は、西郷隆盛を中心とする薩摩閥を強く批判して
 いた。
  さらに、陸奥は、彼らが起こした西南戦争を非難し、
 西郷を、歴史的に中国で謀反人として名高い安録山と名
 指しした。
  西郷の起こした西南戦争を非難しながら、皮肉なこと
 に、陸奥は、その西南戦争時に、旧土佐藩のグループに
 協力したので、結局、自分自身も政府に対して反乱を起
 こした謀反人の1人となり入獄することとなった。
1882年12月、東本願寺が、貫練教校を真宗大学寮と改称し
 た(後の大谷大学)
  1868年3月28日に、「神仏判然令」が布達された。
  これによって「廃仏毀釈」が起きた。
  しかし、この反仏教的な処置に対しての農民を中心と
 した強い抗議運動があり、
  明治政府は、これに苦慮し、解決策を見いだすことを
 模索していた。
  また、浄土宗に属する増上寺の福田行誡や、真言宗の
 釈雲照らは、諸宗同徳会盟などの活動を通して仏教擁護
 の運動を展開した。
  明治政府は、1872年に設置した「教部省」に、神社や
 寺院の建設や廃止の権限を置き、管理責任を与えた。
  ここに、教導職として、神主や僧侶も任用された。
  苦しい活動はあったが、運動は実を結び、宗教の自由
 を求める声は徐々に大きくなって行った。
  1875年11月に至り、明治政府は「信教の自由保障の口
 達」で仏教徒の要求を認め、信教の自由を保障した。
  1881年には、西本願寺が普通教校(本派普通校)を創設
 した。
  この学校は、当時の仏教界として画期的な一面を持っ
 ていた。
  また、僧侶のみを教育するのではなく、僧俗共学を実
 施した。
  更に、この西本願寺の普通教校には、学生を中心とし
 た自主的な修養団体があった。
  東本願寺では、1879年に、貫練場と称されていた教育
 機関が貫練教校と改称され、1896年には、真宗大学へと
 発展して行った。
  そして、真宗大谷大学と改称される。
1882年、アメリカが、中国人の移民を禁止した。
  この後、日本人が移民を始めるが、この中国人の後に、
 日本人が移民を始めたということが不運だった。
  日本人に対しても、インディアンの方々や中国人に対
 するのと同様に、『非白人』に関する劣った種の人間と
 の意識が移民先のアメリカに根強くあった。
  キリスト教に感化された意識だった。
  この意識が、アメリカの指導者階級にまで及んでいた。
  ジョン・ダワーの言葉:
  「彼らは敏感な白人の様には痛みを感じず、彼らによ
 って生命は安価だ」と言うのだった。
1882年9月4日、ニューヨークに初めて電燈が点火した。
  そして、この年、ニューヨークに、世界初の大規模な
 火力発電所が建設された。
  そして、白熱電球の発明により、照明は、石油やガス
 を使ったランプから、現在も利用されている電灯へと変
 わっていった。
  1879年には、エジソンが、白熱電球を45時間点灯させ
 続けることに成功していた。
  1882年9月に、エジソンは、ニューヨーク中央発電所の
 200馬力ジャンボ発電機で、電力の供給を開始した。
  この時の電灯数は、わずか400個であったが、
  中央発電所はだんだんと消費者を増やし、1ヵ月後には、
 1万個の電灯に送電を行なうようになった。
  この時、エジソンは、直流によって電力供給を考えて
 いた。
  1890年頃に、これが問題となった時、エジソンは、照
 明が安定することや、モーターの起動力が大きいという
 理由で直流を主張した。
  しかし、エジソンの部下であったニコラ・テスラや、
 フェランティたちは、電圧を変えて効率よく電力を送れ
 るなどの点から、交流を主張した。
  そして、テスラは、1887年に、誘導電動機を発明し、
 交流技術を完成させ、
  そして、1896年には、ナイアガラ水力発電所を成功に
 導いた。
  この成功で、交流の優位が決定的となって、エジソン
 の主張は退けられ敗北した。
  エジソンの進めた直流による送電システムは、交流電
 力システムの発展とともに消えていった。
18829月、イギリスのエジプト支配が完了。
  イギリスの横暴、エジプトを保護国とする。
  イギリスは、エジプトにアラビ・パシャの民族運動が
 起き、エジプト国内の政情が不安になると、それを口実
 にして、アレキサンドリアを砲撃した。
  そして、さらに、これを端緒にしてエジプトを侵略し、
 イギリスの目的通りに武力で行動した。
  イギリスの帝国主義国家の行動だった。
  エジプトをイギリスは保護国化した。
  そして、スーダンへと侵略して行く。
  イギリスは、1881年に、エジプトにウラービーの反乱
 が勃発すると、イギリスは軍事介入し、
  1882年に至り、アレクサンドリアに上陸して反乱軍に
 砲撃を加え、鎮圧した。
  これによってエジプトは、イギリス軍の単独軍事占領
 下に置かれ、事実上の保護国とされることとなった。
  1904年には、英仏協商が締結され、
  イギリスは、フランスのモロッコ支配を認める代わり
 に、フランスにイギリスのエジプト支配を認めさせ、帝
 国主義諸国による植民地分割が行われた。
  この様にして、エジプトは、1882年に、イギリス領に
 実質的に組み組まれたが、形式的にはオスマン帝国の宗
 主権が続いていた。
  しかし、第一次世界大戦が、1914年に勃発し、オスマ
 ン帝国が、ドイツ・オーストリア側に参戦したため、
  イギリスは、正式にエジプトを保護国とすることをオ
 スマン帝国に通告した。
  第一次世界大戦では、エジプトのカイロは、イギリス
 の対オスマン帝国とのアラブ各地での戦闘の拠点とされ
 た。
  第一次世界大戦開戦に伴い、1914年に、正式に保護国
 とした。
  大戦後の民族運動の高揚をうけ、イギリスは、1922年
 に、エジプト王国の独立を認めたが、スエズ運河地帯で
 の駐兵権などは継続させた。
1882年5月20日、独墺伊、三国同盟(~1915年)
  戦争ばかりしているヨーロッパ・キリスト教国。
  ドイツ、オ-ストリア・ハンガリ-二重帝国、イタリ
 アの間で三国同盟が成立した。
  これは、秘密軍事防御同盟で、英仏露三国協商と対立
 して、第1次世界大戦の一方の陣営を形成した。
  1870年~1871年の独仏戦争で、フランスに勝って成立
 したドイツ帝国では、宰相・ビスマルクの下、フランス
 を孤立化させて、対独復讐を断念させる目的で、欧州各
 国との同盟外交を推進した。
  その一環として、1882年、オーストリア、イタリアと
 三国同盟を締結した。
  その後、ベルリン会議 (アフリカ分割)などにおける
 いざこざ(俺の方が分け前が少ない・・という餓鬼の戦
 い)対立により・・ロシア、イギリスとの関係が悪化し、
 ビスマルク外交は破綻した。
  しかし、三国同盟は維持され続け、1907年に成立した
 イギリス、フランス、ロシアの三国協商と角を突き合わ
 せて対抗した。
  1914年に始まった第一次世界大戦では、ドイツ、オー
 ストリアが同盟国を形成して『協商3国』などによる連合
 国と戦った。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
 

2016年7月10日日曜日

(増補版)377E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1882年10月~1882年12月)

題:(増補版)377E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1882年10月~1882年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1882年10月21日、東京専門学校が創立した(後の、早稲田
 大学)
  大隈重信、および、小野梓らが、東京専門学校を創立
 (設立)し、開校式を挙行し開校した。
  因みに、大学令による私立大学は、慶應義塾大学と早
 稲田大学が、1920年2月2日に、私立大学で初めて(旧制)
 大学として認可された。
  そして、この年、次いで、公立2校と私立6校が大学と
 して設立された。
1882年10月27日、売薬印紙税規則が制定され、布告された。
  売薬業者が減少した
  施行は、1883年1月1日。
  因みに、1886年になると、売薬印紙交換規則が制定さ
 れ、未使用の売薬印紙が交換できるようになった。
  また、この年、 藤井論三が、ハワイに売薬を輸出し、
 富山売薬の海外進出が始まった。
  この売薬税は、一種の消費税で、下層ともされる階層
 の人たちが頼りにする薬に税を課すことは悪税とされ、
  1926年(大正15年)に廃止とされた。
1882年10月30日、日朝修好条規続約の批准書が交換された
 (10月31日説あり)
  件名: 朝鮮国修好条規続約訂定交換(ちょうせんこく
 しゅうこうじょうきぞくやくていていこうかん)
  調印: 1882年(明治15年)8月30日(陰暦7月17日)
  場所: 仁川府(済物浦)
  日本側全権: 花房義質
  朝鮮側全権: 李裕元、金宏集
  批准: 1882年(明治15年)10月30日
  布告: 1882年(明治15年)11月22日
  法令番号: 明治15年太政官布告第54号
  内容:
  日本國ト朝鮮國ト嗣後益々親好ヲ表シ貿易ヲ便ニスル
 爲メ茲ニ續約二款ヲ訂定スルコト左ノ如シ
  第一 元山釜山仁川各港ノ間行里程今後擴メテ四方各
 五十里ト爲シ(朝鮮里法)二年ノ後ヲ期シ(條約批准ノ
 日ヨリ周歳ヲ算シテ一年ト爲ス)更ニ各百里ト爲ス事
  今ヨリ二年ノ後ヲ期シ楊花鎭ヲ以テ開市場ト爲ス事(
 間行里程取極約書ノ部ヲ參照スヘシ)
  第二 日本國公使領事及ヒ其隨員眷從ノ朝鮮内地各處
 ニ遊歷スルヲ任聽スル事
  遊歷地方ヲ指定シ禮曹ヨリ證書ヲ給シ地方官證書ヲ驗
 メ護送ス
  右兩國全權大臣各々
  諭旨ニ據リ約ヲ立テ印ヲ盖シ更ニ批准ヲ請ヒ二ケ月ノ
 内(日本明治十五年十月 朝鮮開國四百九十一年九月)
 日本東京ニ於テ交換スヘシ
  大日本國 明治十五年八月三十日
   日本國辨理公使 花房義質(印)
  大朝鮮國 開國四百九十一年七月十七日
   朝鮮國全權大臣 李裕元(印)
   朝鮮國全權副官 金宏集(印)
1882年10月31日、海軍兵学校条令が制定された。
  海軍兵学校(かいぐんへいがっこう)は、1876年に設
 立され、
  大日本帝国海軍の将校たる士官の養成を目的とした教
 育機関だった。
  海軍兵学校と言えば江田島だった。
  この海軍兵学校は、海軍機関学校、海軍経理学校とと
 もに生徒三校と呼ばれた。
  その規模は、イギリスの王立海軍兵学校、アメリカの
 合衆国海軍兵学校とともに、世界でも最大の兵学校の一
 つであった。
  この海軍兵学校から、全78期、総計1万2433名の卒業生
 が輩出した。
  英語教育が重視され、また、徹底した教養教育もなさ
 れた。
  坂元正一東京大学名誉教授や、建築家・池田武邦(日
 本の高層建築のパイオニア)など、近年まで、各界でリ
 ーダーとして活躍している卒業生も多い。
  その創立は、勝海舟が関係した海軍操練所に辿れる。
  東京・築地の元芸州屋敷内に、1869年に、創立開設さ
 れた。
  1870年(明治3年)、海軍兵学寮と改称し、
  1876年(明治9年)、改称されて海軍兵学校が開校した。
  築地時代に、明治天皇陛下が、皇居から海軍兵学校ま
 で行幸され、その道が、現在のみゆき通り。
1882年11月1日、東京電灯會社が設立され・・、
  初の電気街灯が点灯された。
  東京・銀座大倉組前で、4000燭光のアーク灯が点灯し
 た。
  これが、日本で初めての電気街灯だった。
  これは、東京電灯会社設立事務所が、会社設立の宣伝
 を兼ね、銀座大倉組前でアーク灯を点灯したもので、
 大評判となった。
1882年11月1日、東京職工学校が開校した。
  この学校は、1881年4月、東京府浅草区(現在の東京都
 台東区)に設立された旧制の中等教育、もしくは、高等
 教育相当の官立学校で、
  明治初期の日本では、産業技術の近代化を推進する人
 材を育成するべく、
  欧米の科学技術を取り入れた工業技術教育の整備が進
 められた。
  まず初め、1873年に、工部省の工学寮工学校が、日本
 最初の国立工業学校として設立され、
  そして、1877年には、工部大学校に改組された。
  御雇外国人G・ワグネルの建議を受けて、1874年に、東
 京開成学校内に「製作学教場」が設置された。
  しかし、3年後の1877年に廃止された。
  先行の工部大学校も、1886年、東京大学に合併されて
 (東京)帝国大学工科大学に改組された後は、実務的な
 工業教育よりも学理研究へと傾斜していた。
  この様な状況の中、ワグネルや手島精一(文部省・教
 育博物館長補)は、中等技術教育の必要性を主張し、文
 部省内の理解者(九鬼隆一・浜尾新などの同調者)が現
 れたことから、
  1881年4月26日、文部省は、官立の東京職工学校を設立
 した。
  職工学校は「職工学校ノ師範若シクハ職工長タル者ニ
 必須ナル諸般ノ工芸等ヲ教授スル」学校として位置づけ
 られ、教員となったのは東京大学理学部を卒業した日本
 人の教員で、
  先行の開成学校・工部大学校・東京大学の教官の大半
 が、御雇外国人で占められていたのとは大きく違った。
1882年11月4日、皇典講究所(こうてんこうきゅうじょ)が
 開設された(国学院大学の前身)。
  皇典講究所は、国典を研究し、国体の意義を明らかに
 して、日本的徳性を有する人材を育成することを目的と
 し、
  「凡ソ学問ノ道ハ本ヲ立ツルヨリ大ナルハ莫シ」(初代
 総裁有栖川宮幟仁(たかひと)親王の告諭)ということか
 ら、
  国体を講明し、徳性を涵養し、皇典を講究して祭祀・
 旧儀古式を明らかにし、かつ、これに必要な教育を施し
 て国家有用の人物を養成するにあった。
  山田顕義、岩下方平らにより この時、東京に設立され
 た財団法人で、
   1890年には、国史、国学を研究するための國學院を設
 立し、神職の養成も行なった。
  1946年には、GHQの占領政策により解体させられた。
1882年11月13日、幌内鉄道が、幌内まで全通した(11月10
 日説あり)
  明治政府の資源開発の為の鉄道で、
  建設工事は、1880年1月、小樽市内の若竹第3隧道から
 着工されていた。
  1880年10月24日には、手宮桟橋~熊碓第4隧道間で蒸気
 機関車「弁慶号」による試運転を行い、
  1880年11月28日には、手宮~札幌間の22マイル25チェ
 ーン(約35.9km)が開通していた。
  また、1882年2月8日を以って開拓使は廃止されたが、
 鉄道と炭鉱は、工部省の所管となり、
  1882年6月25日には、札幌~江別間が仮開業し、
  1882年11月13日には、手宮~幌内間が全通した。
1882年11月11日、板垣退助・後藤象二郎が、横浜を出発し
 渡欧した。
  しかし、何故、渡欧したのかの理由は、よく分からな
 い状況にある。
  板垣退助と後藤象二郎は、随員二人(今村和郎、栗原
 亮一)を連れ、この時、横浜を出港し、
  翌年・1883年6月に、帰国するまで、ヨーロッパの国会
 や政治などを視察するため渡欧したとされる。
  板垣の渡欧については、自由党内部でも、旅行反対論
 が沸き起こっていた。
  しかし、ふたりは渡欧を強行した。
  板垣と後藤のパリ滞在中の行動は、当時、パリに滞在
 していた西園寺公望がお目付け役として監視していて、
 伊東博文に手紙で報告している。
  そして、このことは、伊藤博文宛西園寺公望書簡(伊
 藤博文関係文書5)で読むことができる。
  その書簡によると、板垣は、西園寺に滞在資金の援助
 を求めている。
  板垣は、滞在費の工面に困窮していたのでホテル住ま
 いができず、安アパートで生活をし、外出もあまりしな
 かった。
  しかし、一方の後藤は、ホテル住まいで、羽振りがよ
 かった様だ。
  しかし、この渡欧中の後藤の行動は、よく分かってな
 い。
  この渡欧の資金は、何と政敵側から捻出されていると
 いう疑惑も持たれている。
  この「板垣退助の洋行問題」は、国内の政局問題とし
 て語られている。
  そして、この様な、政局のリスクを無視してまで押し
 切った渡欧・・、
  なのに、何をしたかったかがよく分かってない。
  特に、後藤の行動が謎・・?
  ただの物見遊山で渡欧したとは考えにくい。
  この頃の東アジア情勢に関わっているという説がある。
  この頃、後藤象二郎は、福沢諭吉を介して、朝鮮の開
 明派の金玉均と会っている。
  この頃の朝鮮は、中国(清朝)への旧態依然とした属
 国のようだった。
  金玉均は、日本に倣(なら)って開国をとげて、
  日本がヨーロッパのイギリスなら、朝鮮はフランスに
 ならなければならないと考えていた。
  この様な金玉均に、後藤は、当時、中国と交戦状態に
 あったフランスと利害が一致する朝鮮独立運動で、フラ
 ンスに活動資金となる借款を出させるよう、後藤は、仲
 介をしている。
  こうした背景と、この渡欧は無縁とは言えない。
  因みに、後藤は、1881年に、自由党の結成に際し、板
 垣に次ぐ副党首格で参加し、大同団結運動を推進する。
1882年11月13日、陸軍大学校条例を定めた。
  陸軍の将校のなかから優秀な者を選抜し、高等用兵、
 および、軍事研究に必要な学術を修得させ、
  また、高等用兵に関する研究を行う学校。
  アメリカ、イギリス、フランスをはじめとして、各国
 とも高級指揮官、幕僚教育、軍事研究のための陸軍大学
 校が設立されている。
1882年11月19日、右大臣・岩倉具視が、海軍拡張を建議し
 た(9月説あり)
  明治維新以来、日本は対外的危機の中に居た。
  その西洋列強の侵略に備えるため、国防、特に、海防
 は重要な政治課題の一つであった。
  しかし、財政の制約、血税一揆と士族反乱を鎮圧する
 ため、海軍優先の発想と主張があっても、陸軍(治安警
 備軍)の建設が優先されていた。
  ただし、1877年の西南戦争後、陸軍の実力者・山縣有
 朋が、「強兵」から「民力休養」への転換を主張(同年・
 1877年12月「陸軍定額減少奏議」など)するなど、たえ
 ず軍拡が追求されたわけではなかった。
  それが、軍拡路線へ転換が計られたのは、1882年に、
 朝鮮で勃発した壬午事変であった。
  事変直後の同年・1882年8月、山縣は、煙草税増税によ
 る軍拡を、
  1882年9月に、岩倉具視が、清を仮想敵国とする海軍増
 強とそのための増税を建議した。
1882年11月24日、松方大蔵卿が「軍備拡張ノ議」を上程し
 た。
  清国の軍事脅威から国防増強の必要性が迫られ、軍備
 拡張策がとられた。
  そして、軍拡についての詔勅が下された。
  この年の壬午軍乱を契機とする軍備と、その時の清国
 の圧力の脅威を目の当たりにしたことに、その対処を目
 的とした財源確保のための大増税政策が実施された。
  朝鮮の軍乱以後、東洋、特に、清国の軍備と、その圧
 迫に脅され、自衛上、海軍拡張の急を迫られ、
  この国防政策遂行には、巨額の経費を必要とし、
  かつ、多額の国債償還を始め、他の一般経費の増加が
 見込まれていたため、
  財源となる租税収入は、北海道物産税軽減の閣議決定
 もあり、税収減が見込まれ、
  この税収減を補填し、かつ経費増加に対応するとして
 も、社会経済の発展変化に対応出来ないきわめて非弾力
 的な現行税制では困難であった。
  そこで、新税を起こして、これに対応する必要があり、
 この政策・増税策が採られた。
  わが国所得税創設は、世界で初めて所得税を創設した
 イギリスと同様に、軍事費の財源調達に起因した。
1882年11月28日、福島事件、(11月20日説あり)
  県令の三島通庸の圧政に対し、福島県民が立ち上がり、
 警官隊と衝突した。
  福島県新道路建設に反対していた農民らの所有地が、
 公売処分されることになり、
  この運動を支援していた会津自由党の宇田成一らが抗
 議を行い、逮捕された。
  また、喜多方警察署に抗議した2人が逮捕されたのを
 きっかけに農民の怒りは爆発した。
  数千人の農民が、釈放を求め、喜多方警察署を包囲し、
 また、工事中止と弾圧抗議のため警察署へ押し掛けた。
  警察は、この事件を口実に、自由党員と農民あわせて
 約2000人を検挙した。
  自由民権運動を警察力で弾圧した最初の事件となった。
1882年11月、山川捨松と津田梅子が、アメリカより帰国し
 た。
  津田仙(旧幕臣・東京府士族)と初子夫妻の次女とし
 て生まれた津田梅子。
  1871年、仙は、明治政府の事業である北海道開拓使の
 嘱託となり、津田家は麻布へ移った。
  開拓使次官の黒田清隆は、女子教育にも関心を持って
 いた人物で、仙は黒田が企画した女子留学生に梅子を応
 募させ、同年・1871年、岩倉使節団に随行して渡米した。
  5人のうち最年少の満6歳であった。
  1871年11月に、横浜を出港し、サンフランシスコを経
 て、同年・1871年12月に、ワシントンへ到着した。
  この時の留学生の山川捨松と津田梅子が、この年・1882
 年に帰国した。
  津田梅子は18歳だった。
  梅子は、アメリカでは一般家庭に預けられ、英語とピ
 アノを学び、学校へ通った。
  梅子は、帰国の18年後の1900年の36歳の時、父の津田
 仙らの支援を得て、「女子英学塾」(後の、津田塾大学)
 を設立した。
  因みに、山川捨松は女性で、日本軍人の元帥陸軍大将
 の大山巌(おおやまいわお)の妻となり、大山捨松とな
 った。
  鹿鳴館時代は、明治政府の高官方たちと、諸外国の外
 交官の接待に、宴に加わり、涙ぐましい努力・活躍をさ
 れた。
  しかし、慣れない日本を、諸外国は揶揄し嘲弄した。
1882年11月、御雇外国人のドイツ人フェスカが来日した。
  フエスカは、ドイツの農学者で、
  1882年~1894年の間、農商務省嘱託、駒場農学校(東
 京大学農学部の前身)教師、地質調査所土性掛長を兼任
 した。
  1886年に、北海道を実地調査し、「日本農業及北海道
 殖民論」(1888年)を発表した。
  その後、日本各地を歩き「農業改良」(1888年)、「地
 産要覧図」(1889年)をとりまとめた。
  この様に、わが国最初の全国的土性調査を指導し、本
 格的記録を完成した。
  そして、日本農業に関して多くの提言・・、
  科学的農学に基づき在来・零細農法を批判し(大農方
 式の導入を主張)、日本の土性調査事業を創始し、「日
 本農業及北海道殖民論」「日本地産論」などで農業改良
 策を立案、近代農学の育成に貢献した。(1845年~1917年)
1882年12月1日、 福嶋事件 (11月28日説あり)
  福島県自由党幹部の河野広中らが、政府転覆の盟約を
 作成したという容疑で逮捕された。
  道路工事の反対運動での福島事件の首謀者として、河
 野広中ら逮捕のほか、自由党員などが一斉検挙された。
1882年12月1日、農商務省の官立学校の東京山林学校が開校
 した。
  世界的に例のない林学の高等教育機関だった。
  修業年限は3年で、前期・後期に分け、
  前期を2段階、 後期を4段階にして講した。
  教養課程にあたる前期で、主に、自然科学系の基礎科
 目を取得し、段階を上げるにしたがい、その他の学系科
 目が占める形式にしていた。
1882年12月2日、東京の馬車鉄道を更に延長して、京橋~
 上野間に布設し、開業された。
  馬車鉄道は、南は沖縄から、北は北海道までの全国に
 広まって行った。
  しかし、電気で動く電車が登場すると、糞尿や餌の問
 題がない事もあって、急速に取って代わられ、馬車鉄道
 は衰退した。
  東京馬車鉄道も、1903年(明治36年)には電化され、
 「東京電車鉄道」となった。
  因みに、電車ではなく、蒸気鉄道に生まれ変わったも
 のや、馬車鉄道のまま廃止になったものもある。
  日本で、最後まで営業していた民営の馬車鉄道は、1949
 年(昭和24年)に廃止された宮崎県の銀鏡軌道である。
  また、北海道の殖民軌道などでは、昭和30年代まで存
 続した。
  現在、北海道にある野幌森林公園内で、「北海道開拓
 の村」にて、馬車鉄道が夏季に限って、再現という形で
 運行されている。
  また、岩手県の「小岩井農場」内にある「まきば園」
 でも、同様に、観光向けで馬車鉄道が運行されている。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
 

2016年7月7日木曜日

(増補版)376E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1882年8月~1882年10月)

題:(増補版)376E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1882年8月~1882年10月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1882年8月9日、清国が、属邦保護のためとして朝鮮派兵を
 日本へ通告して来た。
  壬午事変(1882年7月23日に勃発)の発生を察知した清
 国は、「両国間を調停したい」「日本公使館は我が属邦
 に在るので派兵したい(兵を派して護衛したい)」と言
 って来た。
1882年8月11日、日本の清国への通告
  吉田清成外務卿代理は、朝鮮(李氏朝鮮)は清国の属
 国ではない、「日本は、朝鮮を自主独立国と認める」と
 通告した。
1882年8月11日、伊藤博文が、憲法草案の形が見えたことを
 日本へ連絡した。
  伊藤博文は、日本の憲法を作ろうと、ヨーロッパに来
 ていたが、
  その憲法を、如何に形づけるかと、その姿が見えずに、
 苦しみ悩んでいた。
  その当時、日本は、一部の選ばれた者が、政治を行う
 体制で、
  自由民権運動が起こり、国民の間で、最高潮に達して
 いた。
  そこに、「憲法を定めて、国会を開く」という国民の
 要望があった。
  政府は、国民の要望を聞き入れ、1890年に、国会を開
 くことを約束した。
  伊藤は、この様な切羽詰まった状態の中で、憲法につ
 いての調査に、ドイツに来ていた。
  この日、伊藤博文は、岩倉具視へ、ドイツから書簡を
 書いた。
  その憲法の姿が見えたと感動的に記述した。
  「私は、グナイスト、スタインの両師について、国家
 組織の大体を了解することができ、皇室の基礎を固め、、
 大権の大眼目を充分に組み立てました。・・
  いま、我が国の現情は、自由論者が、英米仏流の思想
 を誤信し、国家を傾けようとの勢いで御座いますが、こ
 れを凌駕する論理と手段とを私がつかみましたことは、
 報国(ほうこく、国恩にむくいること)の赤心(せきし
 ん、嘘いつわりのない、ありのままの心、まごころ)を
 貫徹する時機において、その効果をあらわす大切な要具
 になると存じます。
  私は心ひそかに死場所を得た心地です」・・と。
1882年8月15日、煙草税の増税を建議
  朝鮮で起きた壬午事変、そして、その後に、清が、朝
 鮮に軍隊を駐留させて干渉するようになった。
  朝鮮内では、この清の方針に沿おうとする穏健的開化
 派(事大党)と、
  これを不当とする急進的開化派(独立党)との二派が
 相争う姿が鮮明になった。
  党派の観点からは前者の清の方針に沿おうとする派が
 優勢だった。
  後者の独立党は劣勢であった。
  また、アメリカ・イギリス・ドイツなどは前者を支援
 し、日本は後者を支援した。
  この様な情勢の中で、日本は、参事院議長・山県有朋
 が、煙草増税をもって軍備充実にあたりたいと建議した。
1882年8月30日、「済物浦條約」 締結
  日本と朝鮮の両国代表の間に、善後処置のための済物
 浦条約が成った。
  日本と李氏朝鮮の間で締結された条約・・済物浦は、
 朝鮮語読みで「サイモッポ」、仁川の旧称。
   壬午事変(壬午軍乱)での日本公使館焼き討ち事件等
 の事後処理のために結ばれた。
  この朝鮮の不満兵士の反乱・事変において、
  日本の公使館が襲われ、日本人の死傷者十数名を出し
 た事変について、首謀者の処罰、賠償、公使館の修理費
 と護衛の為の駐留、開市・開港などが締結された。
  朝鮮駐在公使・花房義質(はなぶさよしただ)は、朝鮮
 政府代表・李裕元(りゆうげん)、金宏集(きんこうしゅ
 う)と、済物浦(現:仁川(じんせん))で、善後約定を結
 んだ。
  加害者処罰、損害賠償、および、公使館護衛のための
 兵員駐在、国書による謝罪が決められた。
  これは、若干名とはいえ、日本が海外に駐兵権を得た
 最初の条約だった。
  この日本の駐兵に対抗して、清(しん)側は軍駐在、お
 よび、宗主権の一層の強化を図った。
  そして、親日派の独立党と、親清派の事大党との相克
 が激化した。
  甲申(こうしん)政変の遠因が醸成された。
  しかし、この済物浦条約がすんなり締結されたわけで
 はなかった。
  そこには、清国の影響から、交渉の進展を渋った朝鮮
 があり、
  この日本・朝鮮間の交渉の停滞に、いち早く反応した
 のが、仁川に軍隊を展開していた馬建忠が率いる清国軍
 だった。
  清国軍は、日本の交渉団が漢城を去るのと入れ違いに
 入京した。
  そして、日本側へ、「李氏朝鮮の大院君を排斥し、交
 渉を調停する用意がある」と言った。
  日本はその話を拒否した。
  しかし、清国軍の陣営に誘(おび)き出された大院君(
 日本と朝鮮の条約締結の要(かなめ)に居た)は、身柄
 を拘束され、清国へと連れ去られた。
  そして、漢城市内に、「大院君が清国皇帝の怒りに触
 れて処罰された」とする掲示文が貼り出された。
  大院君が、清国に拉致された期間は3年間という長期に
 渡った。
  この様なアクシデントの中、朝鮮政府から謝罪文が日
 本側へ送られて来た。
  これを契機に、交渉再開が約され、そして、交渉は続
 けられた。
  条約内容は、日本公使館の襲撃において、多くの職員
 が被害を受け、
  また、朝鮮国から招聘を受けて、日本側が送り出した
 軍事教官までもが惨殺された経緯において・・、
  しかし、和好を重んじ、両国関係を修復しようと表明
 され、話し合いによって条約は約された。
  軍乱に巻き込まれて死亡した日本官吏は、礼を尽くし
 て埋葬し、厚く弔うとされた。
  また、日本公使館は、兵員若干名を置いて警護するこ
 とも約された。
  そして、国書をもって日本へ謝罪する事も約され、
  また、同時に、日朝修好条規続約(追加条項)が決め
 られ、
  居留地の拡大、市場の追加、公使館員の朝鮮内地遊歴
 が認められた。
1882年8月、会津自由党員の宇田成一らが、福島県新道路建
 設反対の抵抗運動を開始した。
1882年8月 高木兼寛が、有志共立東京病院を開院した。
  日本初の私立医科大学で、東京慈恵会医科大学附属病
 院の前身。
  尚、高木兼寛(たかきかねひろ)は、「ビタミン研究
 の開拓者」として、日本、および、欧米においても高い
 評価を受けていて、
  1959年(昭和34年)には、イギリスの南極地名委員会
 によって、南極大陸に「高木岬」という地名がつけられ
 た。
  その説明には、「日本帝国海軍の軍医総監・高木兼寛
 男爵は、1882年、食事の改善によって脚気の予防に初め
 て成功した」と述べられている。
1882年9月9日、板垣退助の外遊資金疑惑
  立憲改進党系の東京横浜毎日新聞が・・、
  板垣退助の外遊資金の出所疑惑について非難した。
  この攻撃を受けた自由党は、大混乱に陥(おちい)っ
 たが、立憲改進党と三菱との関係を攻撃した。
  しかし、この年・1882年、欧州の憲政事情研究の名目
 で、板垣は、後藤象二郎とふたりで外遊した。
  因みに、後藤象二郎(ごとうしょうじろう)は、土佐
 藩政の最高責任者だった、そして、参政を務め、
  1867(慶応3)年1月、脱藩者の坂本龍馬と長崎の清風亭
 で会談し、
  土佐藩が大政奉還に向けて動き出す契機となった。
  龍馬は、姉の乙女らへの手紙で後藤について・・、
  「実ニ同志ニて人のたましいも志も、土佐国中で外ニ
 ハあるまいと存候(ぞんじそうろう)」と評した。
1882年9月22日、陸軍裁判所の廃止
  陸軍裁判所が廃止され、東京鎮台に軍法会議を設置し
 た。
1882年10月1日、 第1回 内國絵画共進會 開催
  東京の上野公園で、農商務省主催の第1回・内国絵画
 共進会が開催された。
  洋風画の出品は拒否された。
  内國絵画共進會(ないこくかいがきょうしんかい)は、
 1882年と1884年に開催された官営の展覧会で、
  維新と、それに続く文明開化の風潮(アメリカ・ヨー
 ロッパ讃美にマインド・コントロールされた風潮)は、
 日本固有の美術を衰微させたが・・、
  やがて反省が起こり・・伝統保存の機運が高まった。
  (フェノロサのお蔭・功績、
  しかし、廃仏毀釈の愚行で、多くの国宝級の伝統の美
 術・工芸の品々が逸失した。まったく惜しい限り)。
  端緒になったのは、1877年に開催された内国勧業博覧
 会の成功と、1879年に創立した竜池会(古美術の鑑賞と
 調査のため、佐野常民らによって組織された)の運動で
 あった。
  東京大学に招聘(しようへい)されたフェノロサが竜
 池会で講演し、洋画を排して日本画を尊重すべきことを
 説いたことが、この機運をいちじるしく助長した。
1882年10月2日、浅草~上野~日本橋間の全線が開業した。
1882年10月4日、馬車鉄道が出現したことにより、失業対策
 として人力車夫懇親会が結成された。
1882年10月10日、日本銀行条例により成立した日本銀行が
 開業した(10月6日説あり)
  東京の永代橋のたもと(現在の日本橋箱崎町)にあっ
 た旧北海道開拓使出張所の建物を本店とし、中央銀行と
 して開業し、業務を開始した。
  政府が発行した札を回収し、また、札の発行を1ヶ所で
 行なうことを目的として設立された。
  預金取引し、貸出等を開始。
  明治維新以来、明治政府は、混乱した貨幣制度を建て
 直すため、新貨条例や国立銀行条例を 制定するなど貨幣
 制度の近代化に努めて来ていた。
  沿革:
  1872年、国立銀行条例が制定され、
  1876年、国立銀行条例全面改正された。
    不換紙幣の発行を認めたことが一因となって、イ
   ンフレーションが進行した。
  1881年、三井銀行の為替方を廃止し、大蔵卿・松方正
   義により日本銀行の創設へ。
  1882年6月、日本銀行条例が公布され、
  1882年10月10日、日本銀行が開業した。
  日本銀行券発行は(1885年)、本館完成(1896年)
1882年10月10日、曹洞宗、大学林専門学本校を開校した。
 後の駒沢大学。
1882年10月19日、朝鮮全権大臣兼修信使・朴泳孝らが、天
 皇陛下と会見し、国書を提出した。
  朴泳孝(ぼくえいこう)は、朝鮮における貴族で、ま
 た、実業家でもあり、福沢諭吉と交遊があり、支援を受
 けていた。
  そして、この時、壬午政変(壬午軍乱)の謝罪のため
 に派遣された。
  朴泳孝は、この時、8月9日に仁川を出航して、この日
 本に向かう船上で、現在の大韓民国国旗である太極旗の
 デザインを考案した。
  この時、イギリス領事が立ち会っている。
  このいきさつが、彼の記述の『使和記略』に詳しく書
 かれている。
  そして、神戸に到着した8月14日には、すでに宿泊先に
 このデザインした太極旗を掲げた。
  そして、8月22日に、国旗制定を本国に報告した。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
 

2016年7月4日月曜日

(増補版)375E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1882年6月~1882年8月)

題:(増補版)375E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1882年6月~1882年8月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1882年6月26日、植木枝盛らが、元老院に酒税減額を建白す
 る。
1882年6月27日、「日本銀行条例」が公布された。
  日本銀行条例が制定され、公布された。
  そして、1882年10月10日に、永代橋のたもと(現:日
 本橋箱崎町)に、日本銀行の本店が開業した。
  1885年、日本銀行券(兌換銀券)の発行開始→銀本位
 制度確立へ
  これまで、日本は、兌換貨幣(金との交換が保証され
 た通貨)を使用していたが、
  まだ、経済基盤が弱かった日本からは、金貨の海外流
 出などで金準備不足が深刻化した。
  そのため、兌換制度を止める必要があった。
  1871年に、新貨条例が制定し、
  「円」を貨幣とする最初の近代貨幣制度を導入した。
  しかし、同時に採用された金本位制は、金準備不足の
 ために実際には銀貨が主に使われた。
  1876年に事実上、1878年に正式に、金銀複本位制が確
 立した。
  そして、1885年に、銀本位制に移行し、
  1897年に、ようやく金本位制に復帰した。
1882年6月27日、検疫
  神戸・横浜などの7港に、悪疫防止のため、船舶検疫制
 度が実施された。
1882年7月7日、東洋社会党の結社が禁止された(6月20日説
 あり)
  東洋社会党は、 1882年5月25日に、長崎県の樽井藤吉、
 赤松泰助らが結成した。
  「道徳を以て言行の基準とす」
  「平等を主義となす」
  「社会公衆の最大福利を以て目的とす」
 ・・という綱領を立てた。
  この綱領にある様に、日本で初めて「社会党」と名づ
 けられた政党だったが、
  旧佐賀藩主・鍋島閑叟(なべしまかんそう)の徳政的土
 地改革制度継続を要求した流れにあり、
  社会主義政党でもなく、また、無政府主義政党でもな
 かった。
  組織面においても、平等主義のために指導、被指導と
 いった上下関係をもたず、
  党名の「東洋」が示すように、党の趣旨を「支那や朝
 鮮」にも拡充することを目指し、
  東洋の独自性を主張する意識があった。
  そして、米欧に牛耳られている日本のみでなく、朝鮮、
 清(中国)にも広め、東洋の衰運を挽回したいとの意図
 もあった。
  しかし、当局により虚無党とみなされ、
  同年・1882年6月、山田顕義(あきよし)内務卿(きょう)
 により治安に有害とされ、
  1ヵ月後の6月20日に、集合禁止を命じられ、
  翌年・1883年1月、樽井は軽禁錮に処せられ、解散した。
1882年7月10日、お茶の水女子大学附属の前身
  東京女子師範学校で、予科を改組し、
  修業年限5年の附属高等女学校を設置した(お茶の水女
 子大学附属中学校・お茶の水女子大学附属高等学校の前
 身)
  1873年11月、文部省学監の御雇外国人・ダビッド・モ
 ルレーは、
  申報(しんぽう、中国最初の日刊紙)のなかで、日本
 も欧米諸国に倣って女性を「児童ヲ教育スル最良ノ教師」
 として育成することを建言し、文部少輔である田中不二
 麿もこれに同調し、
  翌年・1874年1月、三条実美太政大臣に対し「東京府下
 ニ一箇ノ女子師範学校ヲ設ケ」る「伺」を提出した。
  これが承認され、
  同年・1874年3月13日に、木戸孝允文部卿により、お茶
 ノ水橋たもとに、女子師範学校を設置する旨布達が発令、
  日本最初の(官立)女子師範学校である東京女子師範
 学校の設立となった(11月に開校)
1882年7月14日、共同運輸会社
  渋沢栄一・益田孝らが、共同運輸会社を設立した。
  共同運輸会社は、海運会社で、日本郵船会社の前身。
  この年に、三菱(みつびし)会社の海運界独占に対抗す
 るためにつくられた。
1882年7月23日、壬午軍乱(じんごぐんらん)
  朝鮮王国の漢城(ハンソン、現=ソウル)で、兵士が
 待遇に不満をいだいて反乱を起こした。
  この暴動に貧民も混じって、大臣の屋敷を襲撃した。
  支援と称して出動した清国軍は、暴動に加担した軍人
 や民衆を弾圧した。
  軍・兵士らは、また、朝鮮王国の重臣や、日本人軍事
 顧問らを殺害した。
  日本公使館も襲撃され、公使の花房義質らは、一旦脱
 出した。
  日本政府は、軍艦4隻を派遣し、清朝政府も、北洋艦
 隊を派遣した。
  翌月・1882年8月に、済物浦条約を締結した。
  (朝鮮・京城に内乱起り、暴徒、王宮に乱入、日本公
 使館も襲撃さる。壬午事変ともいう)
  この壬午事変の後の、翌々年・1884年の甲申事変を経
 て、日本は清国との間に、天津条約を結ぶに至る。
1882年7月30日、朝鮮の変報に、日本軍艦、急きょ派遣。
1882年7月31日、工部美術学校(日本最初の美術教育機関)
 の彫刻科の廃止に伴い、ラグーザの解任。
  1887年の西南戦争後の、財政事情の悪化のため、十分
 な教育ができないと考えた御雇外国人・フォンタネージ
 は、1878年に、帰国してしまった。
  代わりにフェレッチが招かれたが、
  フォンタネージに心服していた画学科の学生たちは、
 不満をもち、多数が退学した(退学者たちは十一会を設
 立した)。
  後に、フェレッチに代わり、サン・ジョヴァンニが就
 任した。
  さらに、アーネスト・フェノロサの提言などもあって
 日本美術の再評価が行われた。
  こうした背景の中、1882年6月に彫刻科が廃止され、翌
 年・1883年1月に、画学科も廃止されて、工部美術学校は
 廃校に至った。
  因みに、フェノロサは、日本美術を愛した日本美術研
 究家で、
  ハーバード大学で哲学をまなんだ秀才(首席で卒業)
  父が自殺し、
  自殺者を差別するキリスト教の差別を受けるころ、
  東京大学の求人情報を知り、新天地として渡日を決意
 する。
  フェノロサは、来日後すぐに、仏像や浮世絵など様々
 な日本美術の美しさに心を奪われた。
  「日本では、全国民が美的感覚を持ち、庭園の庵や置
 き物、日常用品、枝に止まる小鳥にも美を見出し、最下
 層の労働者さえ山水を愛で花を摘む」と彼は記した。
  彼は、日本の美を求めて、全国の古寺を旅した。
  このような時、仏教寺院は寺領を没収され、経済的危
 機にあった。
  日常の費用に困る状況、財政難にあった(廃仏稀釈の
 関係、西欧は何でも良いという時代だった)。
  フェノロサは、日本美術の素晴らしさを訴え、保護に
 立ち上がった。
  1880年に、長男が誕生し「カノー」と名付けた。
  日本画家の「狩野」に由来していた。
  また、彼は、1881年(28歳)に、滅亡寸前であった日
 本画を憂え、日本画の復興も決意した。
  その頃の日本は、日本の良さを見失い、何でも欧米讃
 美にあった日本へ、覚醒を求め、講演もした。
  日本政府も、フェノロサの言葉に目覚め、フェノロサ
 の演説を印刷し、全国に配布した。
  1882年(29歳)の時、彼は、日本画の第1回コンクール
 (内国絵画共進会)の審査委員として招かれた。
  ここで狩野芳崖(かのうほうがい)を発見する(この
 時、芳崖54歳)。
  フェノロサは、この翌年から、芳崖に生活費を支給し
 始めた。
  1884年(31歳)の時、彼は、政府の宝物調査団に任命
 され、文部省職員となっていた岡倉天心と奈良・京都の
 古社寺を歴訪した。
  この調査で、法隆寺の救世観音像(国宝)を見い出す。
  これらの行動などのうち、仏教の奥深さを知ったフェ
 ノロサは、翌年・1885年(32歳)の時、キリスト教を捨
 て、仏教徒となった。
  そして、滋賀の三井寺(園城寺)にて受戒した。
  『諦信』の法名を授かった。
  彼の故郷、生地のセラームの魔女事件の記憶も彼には、
 フェノロサにはあった。
  歴史上の汚点として残る、1692年の悪名高い魔女裁判
 で、200名もの女性が、拷問され、火あぶりの刑に処せら
 れている。
  1888年、フェノロサ35歳の時、岡倉天心は欧州の視察
 体験から、国立美術学校の必要性を痛感した。
  そして、東京美術学校(現:東京芸術大学)を設立し、
 初代校長となった。
  フェノロサは、副校長に就任し、美術史を講義した。
  東京芸術大学には、この開校の由来を刻んだ石碑があ
 り、フェノロサが描かれている。
  1890年(37歳)、ボストン美術館に日本美術部が新設
 され、フェノロサへ就任以来が届き、
  また、この時、日本政府との契約も満期終了となり、
 彼は、帰国の途に就いた。
  日本政府は、フェノロサに勲三等を授与した。
  この年、フェノロサは、ボストン美術館の東洋美術部
 長に就任した。
  そして、日本美術の紹介に尽力した。
  1896年(43歳)の時、彼は、2度目の来日をする、そし
 て、東京高等師範学校の教授となった。
  そして、この年、彼は、夫人と共に、三井寺・法明院
 を訪ねた。
  法明院は、彼を仏門に導いた僧が、住職を務めていた。
  フェノロサは、法明院の茶室「時雨亭」で寝起きした。
  今でも、フェノロサの愛用の蓄音機・望遠鏡・地球儀
 が同院に保存されている。
  1898年(45歳)、3度目の来日。
  この時、上野で「浮世絵展覧会」を開催し、彼・自ら
 英文付きの目録を作成し、解説を書いている。
  1901年(48歳)、来日。これが最後の来日だった。
  「北斎展」の開催のための来日だった。
  そして、1908年(55歳)の時、ロンドン開催の国際美
 術会議にアメリカ代表委員として出席し、
  その滞在中に、心臓発作で急逝した。
  戒名は、「玄智院明徹諦信居士」。
  フェノロサは、生前、「墓は法明院に」と願っていた。
  翌・1909年、三井寺・法明院に分骨され、埋葬された。
  彼が集めた2万点の美術品は、ボストン美術館でしっか
 り管理・所蔵され、展示されている。
  当時、来日した医師・ビゲローは次の様に記した・・、
  「維新後に名品が大量に(日本の)市場に出たのは、
 二つの原因による。
  ひとつは、経済的に困窮した貴族層が値段の見境なく
 売り出したこと。
  もう一つは、日本人の間に、極端な外国崇拝があるこ
 と」・・と。
  フェノロサも天心に言った、
  「本当にもったいないことです」・・と。
1882年8月5日、「戒厳令」 制定
  軍隊に非常事態統治権の戒厳令が定められた。
  (参考)戒厳(かいげん)とは、
  戦時において、兵力をもって一地域、あるいは、全国
 を警備する場合に、
  国民の権利を保障した憲法・法律の一部の効力を停止
 し、
  行政権・司法権の一部、ないし全部を、軍部の権力下
 に移行することをいう。
  軍事法規のひとつであり、戒厳について規定した法令
 を戒厳令(martial law)という。
1882年8月5日、徴発令を定めた(8月12日説あり)
  戦時調達を定めた徴発例が定められた。
  1882年8月5日のこの日に、戒厳に関する法令が、元老
 院の審議を経て、太政官布告第36号を以て公布された。
  徴発は、戦時または事変、時によっては、平時の演習
 に際し、地方の人民に賦課して軍需を満たすことで、
  この徴発令は、朝鮮の壬午軍乱にあたり、日本陸軍最
 初の動員を行うに際して急ぎ制定された。
  「戦時若クハ事変ニ際シ、兵備ヲ以テ、全国若クハ一
 地方ヲ警備スル」
  警戒される地域は、戒厳地域と称し、
  その地域内において、司令官は、次の諸件を執行する
 権利を有する。
  (1)集会、若しくは、新聞・雑誌・広告等の時勢に妨
    害ありと認めるものを停止する。
  (2)軍需に供すべき民有の緒物品を調査し、又は、時
    機に依りその輸出を禁止する。
  (3)郵信・電報を開封し、出入の船舶及び緒物件を検
    査し、並に、陸海通路を停止する。
  (4)戦状に依り、已むを得ざる場合、人民の動産・不
    動産を破壊たん焼する。
  ・・などで、有事の際に、国民の気持ちを一つにまと
 めるとともに、軍事機密が洩れるのを防ぐことを意図し
 ている。
  そして、戒厳の執行によりて蒙りたる損害は要償する
 ことができないとなっている。
1882年8月8日、憲法の成案の確信を得る。
  伊藤博文が、ウィーンのロレンツ・フォン・スタイン
 邸を初めて訪問し、そこで最も有益な教示を受け、憲法
 の成案に確信を持ったという。
  それから、11月まで4ヶ月間(2ヶ月?)、ウィーンに
 滞在し、憲法の講義を受けた。
  河島醇や柳原公使や、たくさんの日本人が集まって随
 分にぎやかだったという。
  明治憲法(大日本帝国憲法)の逸話。
  (参考)ロレンツ・フォン・スタインは:
  ドイツの法学者・思想家。1815年11月18日~1890年9月
 23日。
  彼は、伊藤にプロイセン(ドイツ)式の憲法を薦めた。
  そして、伊藤は、この時、日本政府の法律顧問として
 招聘したいと懇願した。
  しかし、高齢を理由に実現しなかった(代わりの候補
 者が推薦された)。
  ただ、シュタイン自身は、ドイツの体制には批判的で
 あり、日本の国情・歴史を分析した上で、あえて、ドイ
 ツ憲法を薦めた。
  しかし、伊藤とともに憲法草案を執筆した井上毅が、
 シュタインに批判的であったため、
  実際に制定された大日本帝国憲法の内容には、シュタ
 イン学説の影響は少ない。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
 

2016年7月3日日曜日

(増補版)374E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1882年4月~1882年6月)

題:(増補版)374E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1882年4月~1882年6月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1882年4月12日、日本鉄道の川口~前橋間の建設が始まった。
  日本鉄道(にっぽんてつどう)は、日本初の私鉄であ
 り、
  現在の東北本線や高崎線、常磐線など、東日本の東日
 本旅客鉄道(JR東日本)の路線の多くを建設・運営して
 いた会社で、
  沿線の産業開発をはかることを目的に、岩倉具視らが
 中心となって、1881年11月5日に創立された。
  政府の鉄道建設資金の不足を補うため、華士族の出資
 によって鉄道建設が推進された。
  1882年(明治15年)、川口~熊谷間から建設を開始し、
 当初は、貿易港がある品川、横浜と直結する計画であっ
 た。
  しかし、山手の起伏が大きく、建設費が、より高額と
 なることが見込まれたため、
  東京下町の山下町を起点として、建設が進み、
  1883年7月28日に、第一区線の上野~熊谷間を開業した。
 (1884年に、上野~高崎間が全通した)、
  1906年11月1日に、鉄道国有法により国有化した。
1882年4月16日、立憲改進党が結成された。
  立憲改進党が結成されて、大隈重信が、総理に選出さ
 れた。
  東洋議政会が合併する。
1882年4月20日、工部大学校に、造船学科が設置された。
  工部大学校(こうぶだいがっこう)は、工部省が管轄
 した教育機関で、現在の東京大学工学部の前身の一つ。
  この頃の理工系高等教育機関は、東京大学工芸学部が
 あって、
  こちらは、学術理論に重きを置いた。
  一方、この工部大学校は、実地教育を重点視し、
  そのため、工部大は実務応用に秀で、東大と争うよう
 にした。
  工部大には、工部省から在学中の経費を支給される官
 費生と、
  学資を納める必要のある私費生の別があった。
  官費生には、奉職義務があり、卒業後7年間は官庁で働
 くことになっていた。
  各分野や業界の先覚者らを輩出した。
  沿革:
  1871年、工部省に工学寮が設置された。
  1873年に、大学が置かれ、
  1877年1月に、工部大学校に改称した。
  1886年の帝国大学令により、東京大学工芸学部と合併
 し、帝国大学工科大学となった。
  教授に、ジョサイア・コンドルが居り、
  卒業生に、辰野金吾(日本の建築のパイオニア)、曽
 禰達蔵、片山東熊(迎賓館設計者)、渡辺譲(初代帝国
 ホテル設計者)、高峰譲吉(タカヂアスターゼ)らがい
 る。、
1882年4月26日、産業教育の開始
  駒場農学校と商船学校以外の実業学校を、文部省所管
 と決定した。
  我が国の産業教育の開始は・・、
  「学制」では、中学や専門学校の条章の中で、産業技
 術に関する学校について規定はしていたものの、それは
 実施されなかった。
  工部大学校、札幌農学校、商法講習所など、近代技術
 導入を任務とした官省や民間において、産業教育の初歩
 が築かれた。
  1874年(明治7年)に、開成学校内に設置された製作学
 教場は、文部省による産業教育の嚆矢(こうし、物事の
 始まり)と言える。
  しかし、第二次教育令に農学校・商業学校・職工学校
 の規定が盛り込まれ、
  それ以来、文部省は、産業教育学校の制度化に着手し
 た。
  ところが、1881年(明治14年)、農商務省の発足に伴
 い「農工商ノ諸学校」を農商務・文部のいずれの省の管
 轄とするかが問題となった。
  当初、いったんは、農商務省の管轄に組み入れられた
 が、「全国ノ教育事務」を管轄する文部省の主張が入れ
 られて、
  1882年4月、農商務省職制が改正され、農商務省は、
 官立農学校と商船学校とだけを所管することになり、
  その他の農工商諸学校一般は、文部省の管轄に属する
 こととされた。
  この経緯と併行して、1881年8月、文部省は、東京職工
 学校(後の東京工業大学)を最初の独立した文部省直轄
 の産業教育学校として設置した。
  そして、1883年に、農学校通則が制定され、
  1884年に、商業学校通則が、それぞれ制定された。
1882年4月26日、酒屋会議
  この日に、大阪府知事は、開催予定日が近づいている
 酒屋会議の開催の禁止を告示した(4月27日説あり)。
  酒屋会議(さかやかいぎ)は、造酒税の引上げに対す
 る抗議として、酒造業者が起こした日本全国的な運動で、
  自由民権運動とも深く結びついていた。
  財政難の明治政府は、当時、生産額の最も多い、また、
 そのほとんどが国内消費されて、関税の問題もない日本
 酒に対する増税を、たびたび行っていた。
  1881年5月には、高知県の酒造業者300名が、政府に対
 し、造酒税の引下げを嘆願していた。
  そして、地元出身の自由民権運動の指導者の植木枝盛
 に助力を求めた。
  種々かかわりをお互いが持つ中で、1882年5月1日に、
 大阪で全国規模の酒屋会議を招集して、減税と営業の自
 由を求める運動を起こすための檄文を作成した。
  政府は、自由党をあまり刺激したくなかったため、植
 木枝盛に対しては不問としたが、
  酒造業者の5名に対して、不応為罪を適用し、禁錮刑と
 した。
  植木は、その後も会議の準備を続けた。
  4月27日に至り、大阪府知事と大阪府警は、会議の禁止
 を通達した。
  また、全国各地で、酒造業者による集会の禁止命令や、
 大阪に向かう会議代表団が逮捕される事態となった。
  しかし、植木は、「会議は禁止されても、代表に会う
 事までは禁じられていない」として、
  1882年5月4日に、淀川上の船上で、大阪入りができた
 代表と会合を持ち、
  また、1882年5月10日に、京都・祇園で、改めて2府15
 県の代表44名と会議を開催した。
  そして、先に、禁錮刑を受けた小原鉄臣を代表者とし
 て、「酒税軽減嘆願書」を起草し、政府に提出した。
  大阪酒屋会議事件(おおさかさかやかいぎじけん)と
 いう。
  財源のない政府も苦しい立場だった(だから、不平等
 条約の改正を早くしたい政府だった)。
  (参考)不応為条(ふおういじょう):法令に該当す
    る条文が無い場合、裁判官がその情理に基づいて
    処罰を認めた条文。
1882年4月28日、東京・上野の帝室博物館が落成
  コンドル設計の東京帝室博物館(現在の東京国立博物
 館・煉瓦造り)が竣工した。
1882年4月30日、神宮皇学館が伊勢神宮に設置された。
  伊勢神宮が、神官の研究・教育機関として、神宮皇学
 館を設立した。
1882年4月、奈良正倉院を、内務省から農商務省へ移管した。
1882年5月1日、太湖汽船が、大津~長浜間に鉄道連絡航路
 を開港した。
1882年5月3日、東京気象学会が設立された。
  後の、日本気象学会。
1882年5月3日、大阪紡績会社が設立された。
1882年5月4日、植木枝盛ら、前年予告していた酒屋会議に
 ついて協議した。
1882年5月10日、植木枝盛ら、酒屋会議を京都で開催した。
1882年5月12日、福島県会は、三島通庸県令の県内新道路
 (通称三方道路)の建設に反対し、地方税議案を否決
 (詳細は前記参照)。
1882年5月15日、富山県の氷見で大火。
1882年5月24日、富くじあ、再度、禁止となる。
  富くじの売買、再度禁止に、
1882年5月25日、東洋社会党の結成
  長崎県島原で、樽井藤吉らが集会し、東洋社会党党則
 を設定した。
1882年5月27日、医学校通則が制定された。
1882年5月29日、明治のコレラ・パンデミック
  東京市にコレラ患者が発生し、秋にかけて全国に伝染
 し、大流行した。
  5月29日に、東京芝・神田でコレラが発生し、流行が始
 まった。
  この東京のコレラ発生で、全国の死者数108,405人。
 1890年35,277人、1895年40,154人。
  日本中がパニック状態に陥った。
  この頃は、「虎列刺(コレラ)」等と言われ恐れられ
 た。
  また、この頃、恐れられた伝染病を「六大伝染病」と
 言い、コレラ、腸チフス、赤痢、ジフテリア、発疹チフ
 ス、痘瘡だった。
  1884年には、ドイツ人の細菌学者であるR. コッホによ
 ってコレラの病原菌が発見され、
  1897年に、コッホに師事した北里柴三郎によって、コ
 レラの血清療法が発見された。
  この功績により、死者数は大幅に減った。
1882年5月30日、東京大学文学部が、古典講習科を設置した。
1882年5月、人物写真、その人の許可なく販売することを
 禁止した。
1882年5月、大阪紡績会社が設立された。
1882年6月1日、 博笑戯墨(たわれごと)という漫画欄が、
 『読売新聞』に登場した。
1882年6月3日、「集会条例」の追加改正
  政治運動の取締りがさらに強化され、政治結社などに
 大打撃 。
  主な内容:政治演説会や政治結社は事前に警察署に届
 出て認可を受ける。
  また、会場立会の警察官には、集会の解散権を与える
 事など。
1882年6月3日、林子平、佐藤信淵の両氏に正五位を追贈
1882年6月3日、官営・広島紡績所を広島県に移管し、すぐ
 に広島綿糸紡績会社に払い下げられる。
1882年6月5日、嘉納治五郎が、東京下谷北稲荷町の永昌寺
 の書院を借りて、柔道場開設した(後の講道館のおこり)
  わずか12畳の道場と、初年の入門者9人から始まった。
1882年6月7日、警視庁に保安課が新設された。
1882年6月10日、集会条例改正で、学生・生徒の学術演説の
 禁止布告が、各県に通達された。
1882年6月15日、空知集治監が設置された。
1882年6月16日、統計局が、日本帝国統計年鑑の刊行を開始
 した。
1882年6月25日、東京馬車鉄道会社が、新橋~日本橋間で営
 業を開始した(車両総数:6両)
  後に、東京電車鉄道となる。
  人口125万の東京市唯一の市街鉄道、
  車は縦12呎、横9呎の大きさで、両端に乗降口があり、
 2頭のラバ(馬?)が引く馬車(定員は24~27人)。
  前方の乗降口には、洋風の制服を着用し、片手に手綱
 を、もう片方の手に鞭を持った御者が立った。
  そして、御者は、鈴を鳴らして接近を知らせた。
  うしろの乗降口には、肩からつり下げ腰につけた皮鞄
 をもつ車掌が立った。
  1882年7月21日、日本橋~本町角間が開通した。
  1882年10月1日に、日本橋~上野~浅草~本石町~日本
 橋の循環線が開通した(10月25日説あり)
  また、後に、線路は延長された。
  1899年6月19日、品川~新橋間の品川馬車鉄道会社を合
 併した。
  1900年10月、東京馬車鉄道会社が東京電車鉄道会社に
 改組した(1903年説あり)
  1903年8月22日、品川八ツ山~新橋間の5.6キロメート
 ルが電化した(40人乗り木造4輪単車の市内電車)
  1904年3月、総延長17.0キロメートルの旧馬車鉄道の路
 線が電化された。
  1906年9月11日、東京市街鉄道会社と東京電気鉄道会社
 とあわせて3社が合併し、東京鉄道会社に改称した。
1882年6月25日、東京・上野~高崎間の鉄道が開通した。
1882年6月25日、 「自由新聞」が、東京で創刊された。
  定価:1部3銭、発行部数:3000部、
  日刊の自由党機関紙で、
  国会開設に備え、自由党や改進党が、あいついで結成
 されると、それまでの多くの政論新聞は、政党の機関紙
 となった。
  板垣退助を総理とし、馬場辰猪、中江兆民、末広鉄腸、
 田口卯吉らを社説担当者にして、改進党系の『東京横浜
 毎日新聞』『郵便報知新聞』などと抗争した。
  社説担当が、間もなく古沢滋、植木枝盛らに代わった。
  格調の高い自由民権論で政府を批判すると同時に、改
 進党を偽党と攻撃、その撲滅を唱えた。
  しかし、板垣の洋行費の出所をめぐる党内紛議で、同
 年・1882年秋、田口、末広、馬場、ついで、中江が退社、
 古沢滋(しげる)が主幹となったが、政府の民党系紙弾圧
 などもあって紙勢は伸びず、
  1884年10月、自由党も解体したため、機関紙としての
 存在意義を失い、
  1885年3月15日、廃刊届を出した。
  1890年に、立憲自由党(1891年自由党に復称)の機関
 紙として再刊した。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
 

2016年7月1日金曜日

(増補版)373E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1882年3月~1882年4月)

題:(増補版)373E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1882年3月~1882年4月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1882年3月14日、立憲改進党の趣意書の発表
  大隈重信らの東洋議政会が、嚶鳴社と合同して立憲改
 進党の趣意書を発表した。
  この年の4月16日に至り、大隈重信を盟主とする漸進主
 義の立憲改進党が、商工業者を母体に、都市中心の政党
 として発足した。
  立憲改進党には、犬養毅・小野梓・尾崎行雄・河野敏
 鎌・沼間守一・前島密らの百数十人が参加し、
  総理に大隈を、副総理に河野が選ばれた。
  根本理念は・・、
  (1) 皇室の尊栄と国民の幸福、
  (2) 金貨制の断行、
  (3) 学問の独立、
  (4) 責任内閣制、
  (5)選挙権の漸進的拡大、
  (6)通商の推進・・などで、イギリスの立憲政体を模
 した。
  そして、自由党とともに、自由民権期を代表する政党
 となり、
  イギリス流漸進主義(ぜんしん、順を追ってだんだん
 に進む)の議会政治と、
  立憲君主制のもとでの二院制議会の早期開設を主張し
 た。
  都市知識人、産業ブルジョアジー、地方名望家・地主
 層の支持を得た。
  『東京横浜毎日新聞』『郵便報知新聞』『朝野新聞』
 に、「改進党録事」の欄を設ける予定があった、そして、
 幅広い階層を地盤として、自由民権運動に積極的役割を
 果たす意欲があった。
  そして、自由党と並び自由民権運動を推進したが、
  しかし、運動が激化し、諸激化事件の発生とともに、
 弾圧が強化し、自由党の解党などのため・・、
  1884年11月ころより、党内に解党論が台頭した。
  そして、1884年12月には、総理の大隈をはじめ、小野、
 河野らが脱党するという事態が生じた。
  しかし、残った者たちで規約を改正し、事務委員制を
 とって再生を果たそうとした。
  最初に選出された委員は、藤田茂吉、尾崎行雄、箕浦
 勝人、島田三郎、肥塚龍、沼間守一、中野武営の7名と、
  東洋議政会、嚶鳴社の人々を中心に、党活動を維持し
 た。
  初期議会では、民党の立場を堅持し、軍事予算削減を
 求めて政府と対決した。
  1892年の総選挙の際は、政府の大弾圧を受けた。
  しかし、外交政策に関しては、明治10年代後半より国
 権色を強め、
  さらに、1888年、外相として入閣した大隈の条約改正
 交渉を支持するなど、政府に同調する姿勢をとった。
  そして、日清戦争を支持した。
  1896年2月16日になり、解党を決議し、
  1896年3月1日に、対外硬を高唱していた立憲革新党や、
 大手倶楽部(くらぶ)などと合同し、進歩党を結成した。
  (参考)対外硬(たいがいこう):国際社会における
 日本国家の現状を、対外的に危機的状況と考え、
  国家の自主・独立を重んじ、強い外交によって危機を
 打開しようとする思想。
1882年3月16日、立憲改進党の結党式(総理・大隈重信)
1882年3月18日、東京電灯会社の設立が出願された。
  矢嶋作郎、原六郎、大倉喜八郎、三野村利助、柏村信、
 蜂須賀茂韶の6氏が、発起人となり、
  資金20万円を以って、東京電灯会社の設立を、東京府
 知事を通じ、内務卿・山田顕義氏に出願した。
1882年3月18日、立憲帝政党(総裁・福地桜痴)の結成。
  長崎出身の福地源一郎、島原出身の丸山作楽らが、立
 憲帝政党を組織した。
  欽定憲法主義(天皇陛下の主権)を標榜(ひょうぼう)
 し、自由党・立憲改進党に対立したが、翌年・1883年9月
 24日に解党した。
  結党の理由は・・、
  1881年の自由党、1882年の立憲改進党の結成によって、
 政府に対立する政治運動がますます激しくなったことか
 ら、
  これに対抗するため(新聞によって自由党・立憲改進
 党を攻撃)福地源一郎 (東京日々新聞社長) 、丸山作楽
 (明治日報社長) 、水野寅次郎 (東洋新報社長) らを中心
 に、谷干城を交えて、結成した。
   地方の旧士族や、吏員、豪農・名望家層の保守的勢力
 に基盤を求め、自由民権運動に対抗した。
  1882年10月、京都で、全国同志の大懇親会を開催し、
 27府県から310人が集まった。
  福地らは、当初、政府に対して、直接、同党の活動に
 関与するよう期待したが、
  政府側は、政党内閣制を否定する超然主義に立って間
 接的支援にとどめた。
  党勢は振るわず、政府の後援も失って、1883年9月24日
 に解党した。
1882年3月20日、上野動物園開園と、上野博物館が開園
  農商務省博物局付属の動物園が、東京・上野に開園し
 た。
  日本初の近代動物園として、上野恩賜公園内にできた。
  また、この日に、農商務省博物局博物館新館(旧本館)
 が開館した。
  浅草文庫とともに一般公開され、また、法隆寺献納宝
 物も収蔵された。  
  「東京国立博物館」の付属施設として動物園が開園し
 た時には、明治天皇陛下が御出席されて、開園式が行わ
 れた。
  収容されていたのは、鹿、猪、熊、猿、鴨、鶴などで
 猛獣はいなかった。
1882年3月24日、結核菌の発見
  ドイツの細菌学者ローベルト・コッホにより、初めて
 結核菌が発見された。
  そして、ベルリン学会で同予防法が発表された。
1882年3月、官報の発行
  参議・山県有朋が、官報発行の建議書を、太政大臣・
 三条実美に提出した。
  これが、翌年・1883年7月2日の官報創刊のきっかけと
 なった。
1882年4月1日、馬車輸送業の開始
  西北社が、東京、高崎、前橋、坂本(碓氷)を結ぶ、
 郵便物・旅客・貨物の馬車輸送業を開始した。
1882年4月1日、三菱商船学校が、農商務省所轄となり、東
 京商船学校と改称した。
  日本は、四面環海の島国であり、
  航空機の発達以前の海外貿易においては、専ら、船舶
 によって行なわれており、
  外洋で、大型の商船を運行する高級船員(いわゆる商
 船士官)の養成は国家的事業であった。
  これを受けて、三菱財閥や、川崎財閥の手により、創
 立された三菱商船学校、川崎商船学校を官立に移管し、
 東京高等商船学校と神戸高等商船学校の2校が発足した。
  沿革:
  1875年(明治8年)私立「三菱商船学校」が設立される。
  1882年、官立(国立)に移管され、官立「東京商船学
 校」と改称。
  1886年、官立「商船学校」と改称(1890年まで)
  1890年、函館の官立商船学校(逓信省所管)を函館分
 校とする(現在の北海道函館水産高等学校の源流)。
  1896年、再度、官立「商船学校」と改称(1925年まで)
  1901年、函館分校を北海道庁へ移管。
  1925年、文部省所管とされ、官立「東京高等商船学校」
 と改称。
  1945年、東京・神戸・清水の高等商船学校3校が統合し、
 「高等商船学校」が発足。
  本校は、旧清水高等商船学校の校地に集約。
  旧・東京高等商船学校は「高等商船学校東京分校」と
 なる。
  1949年、学校教育法に拠り、新制・国立「商船大学」
 が発足。
  1957年、国立商船大学は、東京商船学校の旧校地に移
 転、国立「東京商船大学」と改称。
  2003年10月、東京水産大学と統合し「東京海洋大学海
 洋工学部」となる。
1882年4月4日、御雇い外国人のドイツ人カール・ラートゲ
 ンが、東京大学に着任した。
  ラートゲンは、「自由主義経済と、その上からの制御」
 とを、明治前期の日本において問う試みをした。
  彼の下から、阪谷芳郎をはじめとする俊英が輩出した。
  彼らは、日清・日露戦争を画期(かっき、過去と新し
 い時代とを分けること)する日本の経済的・社会的・国
 家的膨張を、直接、担った。
  そして、ラートゲンは、離日後も、彼らとの緊密な関
 係を保っていた。
  ラートゲンのその卓越した日本分析によって、マック
 ス・ヴェーパーの「日本社会論」に大きな影響を与えた。
  ラートゲンは、日本の政治学・統計学・財政学の基礎
 づけをなした傑出した人物である。
  それ故に、同時代の日本人たちに大きな影響を与えた。
  その功績により、1890年5月20日に勲四等(旭日小綬章)
 に叙せられている。
  また、1907年には、勲三等(瑞宝章)に勲位進級され
 た。
  ラートゲンは、8年間の日本滞在中、各方面の官僚・政
 治家、財界人、経済学者・財政学者・統計学者たちと知
 り合い、こうした人たちを育成・指導した。
  また、日本の俊英たちも、彼の日本財政・行政事項な
 どの研究を支え、また、その研究が日本に役立った。
  また、その日本の俊英の弟子たちも、ラートゲン亡き
 後のドイツに居る夫人を訪ね、慰め、3万マルクとテーブ
 ル掛けを贈るなど、心温まる行為をしていた。
1882年4月5日、井上馨の内地開放声明(条約改正会議)
  井上馨外務卿が、日本の法律・裁判所に服することを
 条件に、外国人内地全面開放を列国に提案した。
  この日、初めて、井上外務卿は、第7回会議において、
 内地開放を声明した。
  明治維新以来、日本は、「幕府の締結した条約は、不
 平等だ」と、早くから考えていた。
  日本は、「切り札」を持っていた。
  その最大の切り札が、日本が内地開放に応じて来なか
 ったことだった。
  そして、この日、井上馨は、初めて我が国の法律に従
 うことを条件に、全国を開放する旨を声明した。
  井上改正案は、「取らんと欲せば、必ず酬(しゅう、
 むくいる)うる所なかるべからず」という方針に立って
 いた。
  日本が関税を引き上げて税収増加を図ること、日本の
 行政規則を条件づきで外国人に及ぼすこと、12年後に対
 等条約の締結を提議する権利を有することなどの代わり
 に、
  外国人には、土地所有権、営業権、内地雑居権を与え
 ようというものであり、
  中には、宮城県の野蒜築港後に同港を開き、区域を設
 けて外国人の雑居を許すという案もあった。
  これについて、政府部内でも、佐々木高行、大木喬任、
 山田顕義の参議3名が、日本人は失うもの多く、得るとこ
 ろは少ないとして強く反対し、政府上層部の意見が分裂
 した。
  そのため、井上は、一時は辞任の意向を示すほどであ
 ったが、
  寺島前外務卿が慰留し、岩倉具視や山縣有朋らの3参議
 が取りなして、結局、ひき続き、井上の方針が採用され
 ることとなった。
  なお、小野梓は、1882年『外交を論ず』を著し、冒頭
 にトルコの例をひいて、列国共同会議を開くことは列国
 共同の圧力を受けることにほかならないとして、共同会
 議を開くべきではないと強く主張した。
  井上の改正案は、諸外国からも、法権・税権のいずれ
 に対しても批判が相次いだ。
  これに対し、井上は、日本は、法典の整備に鋭意取り
 組んでおり、日本国内の裁判所に外国人判事を任用する
 用意があると回答、
  1883年(明治16年)4月5日の第9回予議会では、日本の
 法律に服する外国人には、内地開放(内地雑居)を行う
 旨宣言した。
  内地開放とは、内地旅行や内地通商に関する制限を撤
 廃することであり、外国人の土地所有や企業活動の自由
 を認めることであったが、
  これは、法権の束縛された当時の日本にとって唯一最
 大の切り札であり、
  列国が、明治初年から繰り返し主張してきたことでも
 あった。
  この宣言は、イギリスはじめ列国からは、意外の念を
 示されながらも歓迎された。
1882年4月6日、板垣退助・遭難事件(岐阜事件)
  自由党党首の板垣退助が、岐阜県厚見郡富茂登村 (現:
 岐阜市)の神道中教院(現在の岐阜公園にあった建物)で
 遊説中に、愛知県士族の暴漢(相原尚褧)に襲撃され、
 負傷した。
  この日、午後6時半頃、板垣は、帰途につこうと中教院
 の玄関の階段を下りる。
  その時、「将来の賊」と叫びながら相原尚褧が、刃渡
 り9寸(約27cm)の短刀を振りかざし板垣に襲い掛かった。
  相原は、板垣の胸を狙い、左胸を刺す。
  板垣は、相原の腹部に肘で当身を行い(板垣は呑敵流
 小具足術(柔術)を会得していた)怯ませるが、再び、
 相原は襲い掛かる。
  板垣は、短刀を持った手を押さえた際、短刀で親指と
 人差し指の間を負傷する。
  二人がもみ合うのに気づいた内藤魯一が駆け寄り、相
 原を押さえ込む。
  その場にいた者たちは、第2の刺客に警戒しつつ、板垣
 を連れ、門前の傘屋に避難する。
  通報を受けた岐阜警察署から警察医が派遣され、診察
 をする。
  その結果、命に別状は無いが、左胸、右胸に各1ヶ所、
 右手に2ヶ所、左手に2ヶ所、左頬に1ヶ所の、計7ヶ所に
 傷を負っていた。
  板垣は、輿に乗せられ旅館に戻り、警察は相原を連行
 した。
  襲われたとき、「板垣ハ死ストモ自由ハ死セズ」(諸君
 嘆ずる勿れ、板垣退助死すとも自由は滅ぜざるなり)と
 叫んだという。
  その後、板垣を診察した医者は後藤新平だった。
  板垣は、後藤の才を見抜き「彼を政治家にできないの
 が残念だ」と語った。
  だが、後に、後藤は、板垣の希望通り政治家となった。
  (氷川清話)明治15年には板垣退助の遭難。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
 

2016年6月28日火曜日

(増補版)372E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1882年2月~1882年3月)

題:(増補版)372E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1882年2月~1882年3月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1882年2月8日、北海道開拓使、廃止(三県一局時代)
  開拓使を廃止して、函館県・札幌県・根室県の3県を
 設置した。
  北海道には、この3県のほか、
  北海道事業管理局(農商務省の一部局)が設置されて
 いた。
  3県と事業管理局は、1886年1月26日の北海道庁の設置
 に伴って廃止された。
  1871年10月3日(明治4年8月19日)、当時の北海道開拓
 使は、北海道の開拓の目途として、翌年・1872年から10
 年間1,000万円をもって総額とするという大規模予算計画、
 いわゆる開拓使十年計画を決定していた。
  そして、開拓使十年計画の満期を迎えた1882年、当初
 の計画通り、北海道開拓使を廃止した。
  そして、その当時置かれていた北海道開拓使の札幌の
 本庁、および、函館・根室の2支庁のそれぞれの管轄区域
 に応じて、道外と同様に、県という行政区域を新たに3つ
 設定することになった。
  開拓事業については、これらの3県と農商務省管轄の北
 海道事業管理局とで、地方レベル・国レベルを各々分担
 する形で引き継がれることになった。
  北海道開拓使の廃止直前に、「開拓使官有物払下げ事
 件」が起きて混乱が生じたものの、
  1882年2月8日のこの日に、予定通り北海道開拓使に代
 わって札幌県・函館県・根室県の3県が成立した。
  これによって、北海道全体としては、初めて近代行政
 機関・近代行政区画を持つことになった。
1882年2月12日、東洋議政會(とうようぎせいかい)が結成
 された。
  矢野文雄・尾崎行雄・犬養毅ら、東洋議政会を興す。
  東洋議政会は、慶應義塾(現・慶應義塾大学)の出身
 者によって結成された明治時代前期の政治結社で、「三
 田派(みたは)」とも呼ばれた。
  慶應義塾内では、早くから演説を導入していて、三田
 演説会などの政談演説会が、頻繁に開催されていた。
  主に、急進的な「政談演説討論会」(馬場辰猪・西村
 玄道・犬養毅・波多野承五郎・大石正巳・奥宮健之・竹
 内正志ら)と、
  穏健的傾向の「政談演説会」(小幡篤次郎・鎌田栄吉・
 藤田茂吉ら)の2派に分かれていた。
  そして、馬場辰猪は、田口卯吉・末広鉄腸と共に、よ
 り急進的な「国友会」を結成していた。
  そして、この日・1882年2月12日に、明治十四年の政変
 で下野した「嚶鳴社」・「鷗渡会」の同人と協議して、
 立憲改進党の結成に参加した。
  2院制・立憲君主制を標榜して、英国流の漸進的な改革
 を目指した。
1882年2月15日、劇場取締規則
  警視総監と東京府知事が、劇場を10座に制限するな
 どの劇場取締規則を定めた。
  1877年に、「寄席取締規則」が出されているが、どち
 らも寄席・劇場に対する客席数や営業時間などを規制し
 た。
  そして、劇場取締規則においては、下劣なものを避け
 る様にとの指導がなされた(高尚なものに)。
  鑑札制度・興行届出制・臨官席設置・定員・興行時間
 が定められた。
1882年2月25日、植物学会の創立(2月15日説あり))
  これまで、動物研究者と一緒だった東京大学生物学会
 (1878年、創立)に、東京植物学会が創立された(植物
 専攻研究の始め)
  機関誌「植物学雑誌」も、この年に創刊された。
  尚、東京大学生物学会は、植物学者が、この時に脱会
 した後、東京生物学会と名を改めた。そして、1885年に、
 東京動物学会と名を改めた。
1882年2月25日、九段遊就館ができた。
  靖国神社の祭神の霊を慰め、その徳を頌する(しょう
 する、ほめる)ため絵馬堂を兼ねて祭神の遺物を陳列す
 る所とし、1878年(明治11年)に、陸軍卿・山県有朋そ
 の他の主唱によって、西南戦争の際に献納された華族の
 恤兵金(じゅっぺい、兵士の慰問)の一部で建築に着手
 した。
  1882年、幕末維新の新政府軍(官軍)戦没者ゆかりの
 品を展示する目的で開館した。
1882年2月25日、参議・伊藤博文らが、憲法、及び、制度研
 究のため西欧諸国へ差遣を命じられた。
  さかのぼること1881年6月~7月にかけて、法律と政治
 を司る法政官僚の井上毅が、
  ドイツ人の法律顧問・ロエスレルに意見を聞いて、憲
 法に関する綱領をまとめ、岩倉具視に示していた。
 (1)欽定(きんてい、君主による制定)憲法とすること。
 (2)プロイセン=ドイツ流の漸進主義とする。
  急激な改革はしないで、徐々に進む形にする。
 (3)陸海軍の統率、宣戦と講和、外国との条約などは天皇
 陛下の大権とする。
 (4)元老院と、国民の選挙で選ばれる民撰議院を設ける=
 二院制とする。
  この頃、大隈重信は、イギリス流の二大政党政治を主
 張していたが、
  伊藤博文や、岩倉具視は、君主制イギリス流は急進的
 過ぎ、また、革命思想が強いと考えていた。
1882年2月、福島事件(自由民権運動の民権激化事件)
  福島県令が、三方道路建設を計画し、無償で工事に従
 事することなどを決定して、農民の反対運動が起こった。
  この年の2月に、県令に着任した三島通庸は、着任すぐ
 に、会津地方から新潟県、山形県、栃木県へ通じる県道
 (会津三方道路)の工事をするために、
  会津地方六郡下の15歳から60歳までの男女を、2年にわ
 たり、月一日人夫として働くか、一日につき男15銭、女
 10銭の人夫賃を出すかと布告した。
  さらに、工事に従事しない者の財産は、競売に出すな
 どとした。
  この布告に、県会議長・河野広中らと福島県会は反発
 した。
  各地で、三島非難の演説会が開かれた。
  春から8月までに、36回余りの演説会が開かれ、うち
 19回が解散させられた。
  警察の弾圧が激化した。
  その様な中、福島県会が開会し、県側から、前年度2.5
 倍の地方税増税が提案された。
  これにも県会は抵抗し、否決に追い込んだ。
  しかし、三島県令は、内務卿・山田顕義から「原案執
 行」の特別許可を得て、県会の議決を事実上無効にした。
  さらに、三島は、自由党に対抗するため旧会津士族か
 らなる帝政党とつくった。
  そして、民権家を襲わせ、流血事件が続発した。
1882年2月、桑原紡績所が開業した。
  1870 年代末から1880年代にかけて、明治政府による紡
 績機械の輸入と、民間への払い下げを通して、
  綿糸紡績業が始動し始めた。
  当時導入された紡績機の紡錘数は2000であり、この紡
 錘機1基をもって一工場とする小規模な操業であった。
  (注)紡錘(ぼうすい):糸をつむぐとき、その糸を
    巻きつける心棒。
  桑原紡績所は、大阪府に所在し、政府の保護の立て替
 え払いを受け、2000の錘で操業した。
1882年3月1日、 「日本銀行創立ノ儀」
  松方大蔵卿「日本銀行創立ノ議」を建議する。
  松方正義大蔵卿、中央銀行設立・外国為替取引などを
 太政官に提出。
  明治維新以降、わが国は、富国強兵策によって、列強
 に伍することを目ざし、積極的な殖産興業政策を展開し
 ていた。
  しかし、財政的基盤のまだ固まっていない政府は、そ
 の資金の調達を不換紙幣の発行に依存せざるを得なかっ
 た。
  そうした中、明治10年、不平士族が立ち上がり、政府
 は、これに対処する事態となった。
  特に、1877年2月、西南戦争が勃発し、大量の不換政府
 紙幣、不換国立銀行紙幣が発行された。
  このことから、激しいインフレーションが発生してし
 まった。
  そこで、1881年、大蔵卿(現在の財務大臣)に就任し
 た松方正義は、不換紙幣の整理をはかるため、正貨兌換
 の銀行券を発行する中央銀行を創立した。
  それによって、通貨価値の安定を図るとともに、中央
 銀行を中核とした銀行制度を整備し、
  近代的信用制度を確立することが不可欠であると提議
 した。
  こうして、明治15年(1882年) 6月、日本銀行条例が
 制定され、
  同年・1882年10月10日、日本銀行が業務を開始するに
 至る。
1882年3月1日、 「時事新報(日刊新聞)」 が公刊した。
  日刊新聞の創刊ラッシュの時代だった。
  福沢諭吉が、「時事新報」を創刊し、官民調和を唱え
 た(主宰・福沢諭吉)
  慶應義塾大学、及び、その出身者が全面協力して運営
 され、
  創刊に当たって・・、
  「我日本国の独立を重んじて、畢生(ひっせい、一生
 を終わるまでの期間、終生)の目的、唯国権の一点に在
 る」・・と宣言した。
  創刊時より、国権論的主張を展開し、社説には、朝鮮
 に関する論説や、中国に関わる様々な形の東洋政略を論
 じたものが極めて多かった。
  この国権論は、慶応同窓に引き継がれ、条約改正問題
 や、朝鮮問題に際し影響を与えた。
  創刊よりの「国権皇張」「不偏不党」を掲げて発行部
 数は伸びた。
  ロイター通信社とも独占契約を、1896年に締結した。
  福沢諭吉の経営する「時事新報」の編集部は、三田の
 慶応義塾内にあった。
1882年3月1日「速達列車」
  「速達列車(そくたつれっしゃ)」とは、主要な駅だ
 けに停車し、目的地に早く到着する列車のことをいい、
 優等列車とも言った。
  新橋~横浜間の鉄道が、ダイヤ改正で1日で14往復にな
 った。
  このうち、4往復は、途中の品川と神奈川だけに停車す
 る速達列車で、所要時間は45分に短縮された。
  急行列車の始まり。  
  鉄道の創成期は、すべての列車が各駅停車だった。
  路線が長くなるに従い、長距離の利用乗客に対し、速
 達サービスの停車駅を限定する列車が出現した。
  そして、1882年3月、新橋~横浜間で、品川と神奈川に
 のみ停車する列車を「急行」と称した。
1882年3月1日、軽便鉄道の工部省鉱山局・釜石鉄道が、旅
 客運輸を開始した。
  工部省釜石鉄道の経緯:
  1880年2月17日、工部省釜石鉄道として、釜石桟橋~大
 橋間18kmの本線と、小佐野~小川山(わらびの)間4.9km
 の支線、さらに、工場への支線を含めた総延長26.3kmの
 鉱山専用鉄道として試運転を開始した。
  1880年9月7日に、製鉄所と鉄道の仮開業式が執り行わ
 れた。
  これは、新橋駅~横浜駅間鉄道と、京都駅~神戸駅間
 鉄道に続く、日本で3番目に開業した鉄道だった。
  軌間は838mm(2フィート9インチ)の特殊なものであっ
 たが、レールは16kg平底と丈夫なものを使用した。
  機関車は、英国シャープ・スチュアート社から輸入し
 たサドルタンク式の3両を使用した。
  1882年3月1日に、製鉄所の燃料用の炭焼竃の大半が、
 失火により焼失して、製鉄所が休止した。
  そして、それに伴い、遊休施設となった釜石鉄道は、
 一般へ開放され、旅客運輸を開始した。
  1882年12月、官営製鉄所の操業停止と、鉱山閉山によ
 り、鉄道が全廃された。
  燃料となる木炭が不足したことと、代替燃料となるコ
 ークス使用の目処が立たなかったことが原因だという。
  機関車2両と軌条は、大阪の阪堺鉄道(現、南海電気鉄
 道)へ売却された。
  近代化へ苦悩する明治政府だった。一朝一夕で、今が
 あるのではない。
1882年3月10日、日本最初の鉄道連絡船。
  琵琶湖の湖上連絡船・大津~長浜間航路が開業した。
  1882年(明治15年)、琵琶湖上で、長距離航路を運営
 する多数の会社が合同し、設立された。
  その後、いくつかの会社を吸収し、琵琶湖最大の船舶
 会社となった。
  同年・1882年に、金ヶ崎駅(現在の敦賀港駅)から長
 浜駅までの鉄道が開通したのを受けて、
  日本初の鉄道連絡船が、大津駅(現在の浜大津駅)ま
 での区間に就航した。
  この航路は、翌年・1883年(明治16年)に、長浜駅か
 らの鉄道が東海道本線に接続されてから、
  1889年(明治22年)に、湖東線(関ヶ原駅~米原駅~
 馬場駅(現在の膳所駅))が開業するまでの間、東海道
 の交通を担っていた。
1882年3月13日、立憲帝政党(りっけんていせいとう)が結
 成された。
  この日の1882年3月13日に、自由党、立憲改進党などに
 対抗し、
  東京日日新聞社長の福地源一郎、明治日報の丸山作楽、
 東洋新報の水野寅次郎によって結成された。
  4月4日には、大阪で、機関紙である大東日報を創刊し
 た(社長:羽田恭輔・主筆:原敬)
  立憲帝政党は、天皇主権・欽定憲法の施行・制限選挙・
 シビリアンコントロール・司法の独立・言論の自由など
 を党議綱領に掲げた。
  自由党や立憲改進党に対抗する政府与党を目指し、
  国学者、旧士族層や有力商人、高級官吏、神官・僧侶
 らなどの体制擁護を意図した。
1882年3月14日、伊藤博文が、西園寺公望らと欧州へ憲政視
 察(憲法調査・取調べ)で出航した(帰国は1883年8月3
 日)
  伊藤博文が、「憲法取調の大命」を受け、横浜を出帆。
  5月にベルリンに到着し、
  ドイツの憲法学者・ダナイスト、モッセラについて講
 義を受けた。
  しかし、伊藤は、「文字言語の不通」のうえ、きわめ
 て系統立ったモッセの憲法講義に、すっかり厭(あ)き、
  そして、疲れ、自信を失い、その困難をしきりと日本
 政府の参議・山形有朋や井上馨らに訴えていた。
  しかし、8月8日、オーストリアに入り、ロレンツ・フ
 ォン・スタイン邸を訪れてから、にわかに元気になった。
  岩倉具視にあてた手紙に「スタイン博士の講話は、私
 の感銘を興起せしめました」とある。
  「私は、グナイスト、スタインの両師について、国家
 組織の大体を了解することができ、
  皇室の基礎を固定し、大権を失墜させないための大眼
 目を十分に相立てました。・・
  いま、わが国の現情は、自由過激論者が英・米・仏流
 の思想を誤信し、
  ほとんど国家を傾けんばかりの勢いでございますが、
 これ挽回する論理と手段とを、私がつかみましたことは、
 報国の赤心を貫徹する時機において、その効果をあらわ
 す大切な要具になると存じます。
  私は心ひそかに死場所を得た心地です」
  (1882・8・11、岩倉宛伊藤博文書簡)(原文のまま)
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
 

2016年6月26日日曜日

(増補版)371E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1882年1月~1882年2月)

題:(増補版)371E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1882年1月~1882年2月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1882年1月1日、全国人口が、3670万人118人
  東京:98万2143人、
  横浜:7万人と・・15年間で倍になった。
1882年1月1日、刑法・治罪法(ちざいほう)が施行された。
  1880年7月17日に、太政官布告37号で制定され、公布さ
 れていた日本で最初の近代的刑事訴訟法典。
  御雇外国人のG・ボアソナード (フランス人) が、フラ
 ンスの治罪法を基礎に、
  諸国の法を参照し、原案を起草した。
  それを、元老院において修正のうえ公布していた。
  1890年に、刑事訴訟法の施行によって廃止された。
  この法律の制定以前の明治初頭においては・・
  日本の刑事法制は、律令法制の復活に始まり、
  1870年の新律綱領、そして、
  1873年の改定律例とあいついで制定された。
  しかし、ヨーロッパ近代法(特に、フランス法)を範
 とした刑事手続の近代化の動きも、個々的に進められて
 いた。
  そして、治罪法制定までの間に、改定律例の自白によ
 る断罪を定めた規定の廃止や、
  証拠裁判主義や、
  1876年の自由心証主義の採用や、検事の公訴による国
 家訴追主義、
  そして、予審、保釈、裁判公開などの制が確立された。
  1878年の弾劾主義の確立、
  1879年の拷問の廃止などの法改革も進められていた。
1882年1月4日、陸軍および海軍に「軍人勅諭(ぐんうじん
 ちょくゆ)」が発布された。
  元となったのは武士道の考え方・・で、
  それまでの武士階級の規範だったものを・・国民一般
 の軍人の規範とした。
  忠節、礼儀、武勇、信義、質素が5つの柱となっている。
  西周(にしあまね、幕臣、官僚、啓蒙思想家)が、起
 草し、
  福地源一郎・井上毅・山縣有朋‎によって加筆修正され
 た。
  天皇陛下より下賜された当時、西南戦争・竹橋事件・
 自由民権運動などの社会情勢によって、世の中の状況に
 不安があり、また、設立間もない軍部に動揺が広がって
 いたため、
  これに対して精神的支柱を確立する意図で起草された
 ものされている。
  1878年(明治11年)10月に、陸軍卿・山縣有朋‎が、全
 陸軍将兵に印刷し、配布した軍人訓誡が元になっている。
  特に、「忠節」の項において、「政論に惑わず政治に
 拘わらず」と軍人の政治への不関与を命じている。
  また、戦いに於いては、「普段は命を無駄にせず、け
 れども時には義のため、国のために、命を捨てよ」と命
 じている。
1882年1月8日、京都に体育演武場が開場した。
1882年1月15日、フランス人画家・ビゴーが来日した。
  ジョルジュ・フェルディナン・ビゴーは、明治時代の
 日本で17年間にわたり活動した。
  当時の世相を伝える多くくの絵を残した。
  ビゴーは、1876年(16歳)の時に、フランスの国立高
 等美術学校であるエコール・デ・ボザールを退学し、
  その後、日本美術愛好家として知られたフェリックス・
 ビュオや、アンリ・ゲラールから日本美術についての知
 識を得た。
  また、挿絵の仕事で出会ったエミール・ゾラや、エド
 モン・ド・ゴンクールなどからも、ジャポニスムの魅力
 を知るようになった。
  そして、1878年に、フェリックス・レガメが、旅行記
 『日本散策』を出版したりして、日本ブームだったこの
 年、
  パリ万国博覧会で、浮世絵と出会い、興味をより強く
 抱いた。
  1880年には、美術研究家ルイ・ゴンスによる大著『日
 本美術』の挿絵の一部を担当した。
  1881年より、人気の作品の挿絵を担当するなど活躍し、
 フランスで高い知名度を得ていた・・が、
  東洋の高い文化の国・日本への思いは強く、日本への
 渡航を決断した。
  そして、21歳の1882年のこの年、マルセイユ港を発ち、
 来日した。
  日本でのビゴーは、陸軍卿・大山巌の尽力で、御雇外
 国人・絵画講師としての高給の安定した生活を得た。
  そして、日本の隅々まで見て回り、スケッチした。
  また、幸い、その画集が好評を得て、御雇外国人の契
 約が切れた後も、経済的な支えとなり、日本に住み続け
 た。
  1885年~1887年頃に、中江兆民の仏学塾でフランス語
 を教え、塾で自由民権家とも接し、運動を知った。
  また、1885年に、日本の新聞「団団珍聞」への漫画寄
 稿や、
  1886年、「郵便報知新聞」の掲載された小説の挿絵の
 仕事を得たり、
  また、1886年に、フランス新聞社の「ル・モンド・イ
 リュストレ」や、イギリス新聞社の「ザ・グラフィック」
 などから、日本を題材とした報道画家の仕事を得た。
  しかし、ビゴーは、当時の日本の悲願である条約改正
 については理解を示さず、
  当時、居留する外国人と同じ意見である「条約改正は
 時期尚早である」の立場を取り、
  また、「日本の近代化にはまだ時間がかかる」との立
 場にいた。
  そして、日本にとって手痛い風刺画を、自分で発行し
 た風刺雑誌「トバエ」に描き、発表した。
  そのため、日本での身の置き所の心配が生じ、警察も
 注意を配すべき外人とした。
  例えば、必死に条約改正をしようと鹿鳴館で苦労する
 日本女性の休息室をのぞき見し・・、
  疲れて休んでいる女性の姿を・・皮肉たっぷりに描い
 たりした。
  また、身だしなみを整え、鹿鳴館で対応する日本の紳
 士・淑女を、
  鏡の前に立ったその姿と、鏡に映ったその姿をビゴー
 は描き、
  鏡の中に居るその日本の紳士・淑女は、みすぼらしい
 姿であると描いている。
  いたずらに、日本を見下し、バカにした風刺画といっ
 たところで、
  何らそこには、高貴な叡智溢れる風刺の姿はない。
  ただ、低劣な蔑(さげす)みの皮肉な風刺画がある。
  しかし、日本に居留する外国人たちには人気があった。
  酒を注がせ、脇に女性を侍らせ、料理を食べながら、
 西洋に追い付け追い越せと勉強している外交官を描いた
 りしている。
  まったく、正しく、正当に日本を見ていない「風刺屋・
 皮肉屋」がそこにいた。
  ビゴーの絵で、ロシアの監視下で、中国(清)と日本
 が、一生懸命、朝鮮という魚を釣り上げようとしている
 絵は有名であるが・・、(まだ、ちょんまげ姿の日本に
 している)
  教科書にも載っているこの絵なのだが・・、
  ビゴーは、自分の国・フランスやイギリスが、麻薬と
 いう卑劣な商品を用いて、それを売りつけるという行動・
 戦争によって、清国をとことん虐(いじ)め、奪った過
 去の残酷な歴史については、何も語っていない。
1882年1月21日、大日本山林会が設立された。
  現在も存続し、活動している本会のホームページには、
  「大日本山林会は・・、林業の改良・進歩を目的とし、
  明治15年1月21日創立されました。
  爾来130年有余を数え、わが国で最も長い歴史をもつ
 伝統ある林業団体です。
  この間、大正4年4月5日には、社団法人の認可(農商務
 省)を得、
  歴代総裁には皇族を奉戴いたしております。
  新公益法人制度の施行に伴い、平成22年10月1日付けで、
 公益社団法人に移行しました」・・とある。
1882年1月23日、大阪府、旧堺県の和泉・河内・大和の合併
 に当たり、
  同地方の鍼灸、水蛭、吸玉による治療の新規開業を禁
 止した。
1882年1月24日、神官の教導職兼補を廃止。
  自今神官ハ教導職ノ兼補ヲ廃シ葬儀ニ関係セザルモノ
 トス。
  明治十五年一月二十四日内務省達乙第七号
1882年1月25日、条約改正協議の「第1回各国連合予議会」
 が開催された。
  議長は、井上馨外務卿。
  日本や、中国には、イギリスやアメリカなど、外国に
 警察権を奪われた地があったり、また、行政権まで奪わ
 れた地があったり(中国の租界など)、
  自分たちのお好みのシステムに組み込んで、日本など
 の国家主権を好きに牛耳っていた。
  関税や裁判権なども牛耳られていた。
  また、欧州やアメリカなどの内のある国が、条約で得
 た「旨味のある権利」は、
  自動的に、他のアメリカやヨーロッパの他の国へも適
 用する事という・・まったくバカげた片務的な最恵国待
 遇が設けられていた。
  アメリカ・ヨーロッパが連合して弱小のアジアを牛耳
 る「まったく、不平等な条約」となっていた。
  強者のアメリカ・ヨーロッパ諸国の・・
  強者による、弱者への収奪以外の何物でもなかった。
  日本の地であっても、日本の法律が聞き入れらない悲
 しさ、
  そして、日本の裁判も・・無視された(治外法権)
  そして、日本に入って来る外国製品に関税を掛ける自
 由も奪われていた。
  イギリスが、卑劣な麻薬を中国へどんどん売った様な
 悪行為に対しても・・阻止する手はもがれていた。
  また、イギリスは「自由貿易の旗手」だなんて美しい
 事を言っているのに、
  日本の関税は低くさせて、イギリス品は日本に輸出し
 やすくしたのに、
  日本品のイギリスへの輸出品には、その5倍以上の関税
 を掛けた。
  どこが「自由貿易の旗手なのだ」と言いたい。
  アメリカなどは、そのイギリスの2倍という卑劣さだっ
 た。
  (アメリカは、日本の17倍以上の関税を掛けた)。
  日本の研究者は、その5倍や17倍の不平等さの半分でも
 改善されれば、日本の農民が税金で苦しむ事もなかった
 と言う(日本の間接税は全廃できた・・と)。
  財政難の日本は、この様な差別から国庫を潤す事も出
 来なかった。
  国内産業の発展にも「大きなブレーキ」がかかった。
  外国商人は、日本の法律の外の地位で、貿易で多大な
 利益を得て、さらに、日本の貿易を左右していた。
  その様な、程度の悪い、卑劣な条約内容だった。
  そして、この年・1882年、条約改正予議会が開催され
 た。
  (条約改正会議の開催は、1886年になった、そして、
 鹿鳴館は、1883年に落成する)。
  予備会議は、この年・1882年1月25日に、東京の外務省
 で第1回が開かれ、
  フランス・ドイツ・イギリスなど8か国が参加した(
 アメリカはこの時は参加しなかった)。
  この後になって、アメリカ合衆国とベルギーなども加
 わって、1882年7月27日まで計21回、開催された。
1882年1月、東京日日新聞と東京横浜毎日新聞の間で、主権
 所在論争が起こり、加熱した。
1882年1月、玉島紡績所が開業した(1881年説あり)
  岡山県繊維産業の勃興の端緒。
  1888年に、倉敷紡績が設立されたりしている。
  倉敷市児島地域の繊維産業は、明治時代に入り、由加
 山の参拝客が減少し、土産物として人気のあった真田紐、
 小倉帯地が売れなくなったことから、県外に販路を拡大
 するとともに、袴地や前掛地に転換していった。
1882年1月、井上馨が、条約改正に着手する。
  1882年~1887年頃に、井上馨は、条約改正に尽力した
 が、
  外国人判事任用問題で非難をあびて失脚した。
  日本に国力がまだ無く、
  外国は、日本の改正行動に対し、高をくくっていた(
 大したことはないと見くびっていた)。
  鹿鳴館など、欧化政策を必死にしていたが、まだ、し
 っくり身についていない日本の西欧化は・・蔑まされる
 面もあった。
  (ビゴーの風刺画は、風刺・ウィット(機知)と言う
 より蔑みである)
  そこには、日本の猿まねという見方があった。
  屈辱的な不平等条約を押し付けた欧米外国側に、その
 責任があるのに、その点へは、まったく思いは及んでい
 なかった。
  軍事力もまだない、そしてまだ、文明の未発達の日本
 だった。
  健気に、必死に歩んでいる日本、その日本の井上馨の
 涙ぐましい努力も、その様に受け取られていた。
  また、苦労をしている庶民サイドからも、鹿鳴館的な
 行為は、良くは感じられていなかった。
  当の在日外国人からも強く批判される鹿鳴館だった。
  また、舞踏曲の日本の演奏もまだまだ未熟であった。
  愛おしい明治の方々・明治人の一時期の出来事だった。
  結果は、功を奏さず。
1882年1月31日、日本初の生命保険金の受取人が出たことが
 報じられた。
  この生命保険会社ができたのは前年・1881年7月で、そ
 れから半年を過ぎ、加入者も1000名に達した頃の、
  1月20日に、心臓病で急死した警部長で、支払われた保
 険金は1000円。
  当人が払った保険料は30円だった。
  因みに、当時の1000円は、小学校教員の初任給の約200
 倍に相当した。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
 

2016年6月22日水曜日

(増補版)370E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1882年1月~1882年1月)

題:(増補版)370E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1882年1月~1882年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1882年、住:
・1882年11月1日、米国のブラッシ会社より、初めて発電機
 が移入され、銀座二丁目に2000燭光の弧光燈の電燈が灯
 された。
  東京・銀座に灯された日本初の電灯(アーク灯)には、
 連日、大勢の人が見物に訪れた。
  翌年の1883年には、京都の祇園に、この電気の街灯が
 登場し、
  そしてまた、その翌年の1884年には、大阪の道頓堀に
 設置された(その場に据え付けたバッテリーから電力を
 供給する形だった)
  発電所からの電力供給が始まったのは、1886年で、
  室内電燈は、1887年1月に、鹿鳴館の室内に、日本で初
 めて、室内電燈が灯った。
  次いで、皇居に、1889年1月6日に、電燈が灯され、
  営業用に電燈が使われるようになったのは、1890年11
 月の浅草・凌雲閣だった(12階の塔、お雇い外国人のイ
 ギリス人の設計、関東大震災で倒壊)
  東京電燈(日本で最初に誕生した電力会社)は1886年
 に設立され、火力発電所を、日本橋・茅場町や、麹町な
 ど、5か所に建設した。
  その後、次々と電力会社が誕生し、
  1888年:神戸電燈、
  1889年:大阪電燈、京都電燈、名古屋電燈、
  1890年:品川電燈、横浜共同電燈、深川電燈、熊本電
      燈、
  1891年:帝国電燈・・などが火力発電所を建設した。
  1894年に、日清戦争が始まると、電力が不足し、東京
 電燈は集中発電所として、浅草発電所を完成させた。
  浅草発電所の発電機は、石川島造船所が制作したもの
 で、交流200kw。
  ドイツのアルゲマイネ社の発電機を併用した。
  この発電機が50サイクルで、
  同時期に大阪電燈が採用したGE社の発電機が60サイク
 ルで、この違いが、現在まで続く日本の周波数の違いの
 起源となった。
1882年、その他:
・1882年6月25日に、東京で、鉄道馬車(てつどうばしゃ)
 が開通した。
  都市交通機関の軌道上に馬車を走らせるという輸送手
 段の東京馬車会社が、
  新橋~日本橋間の開通・開業させたのが最初。
  1882年10月1日までに、日本橋~上野~浅草~本石町~
 日本橋の循環線を完成させた。
  1372ミリメートル幅の軌道上を、定員24~28名の客車
 1両を、2頭の馬が牽引(けんいん)した。
  乗合馬車に比べてたいへん快適とされ、この後、主要
 都市の市街交通機関となった。
  1891年に大阪に、そして、1898年には函館(はこだて)
 でも開通した。
  しかし、京都の市街電車をまねて、東京でも1903年(
 明治36年)、東京馬車鉄道が電車に変わった。
  そして、地方都市でも、次第に、鉄道馬車は電車や、
 ガソリンカーに代わり、市街電車の普及により廃止され
 て行った。
  1914年の第一次世界大戦前までには、ほぼ姿を消した。
  尚、これにさかのぼること1869年、北海道茅沼炭坑で、
 軌道上を牛が炭車を引く方式が採用されたが普及しなか
 った。
  因みに、鉄道馬車の普及の前に、普及していた乗合馬
 車は、1877年9月には、雷門~新橋間のものだけで、車両
 数が87もあり、また、1日の平均売上げが、100円にも達
 するという盛況を見せた。
  しかし、1882年6月に、鉄道馬車が開設されると、次第
 に、中央部から駆逐され、
  1910年には、東京市内の乗合馬車はまったく姿を消し
 た。
・民の中に、馬にひかせる二輪車が使われ出した。
  日本における馬車の歴史は・・、
  運搬の手段としての馬は、古くから用いられていて、
  古代律令(りつりょう)制においては、駅制が整備され、
 駅馬も制度化された。
  しかし、これは、車を引かせるものではなかった。
  馬に人が乗ったり、馬の背に荷物を乗せて運んだので、
 こうした車を使用しない馬の使用は、ずっと後まで続い
 た。
  畜力による車としては、牛車(ぎっしゃ)だった。
  しかし、牛車に乗れる人は貴人に限られ、一般庶民は
 徒歩がほとんどで、
  駕籠(かご)や、馬の背を利用できる人も限られた人た
 ちだった。
  荷物を運ぶのも、人や馬の背によって行われ、駅から
 駅を付け通しする中馬(ちゅうま)制度も、車を用いるも
 のではなかった。
  日本における馬車の出現は遅く、幕末になってからで、
 横浜居留地の外人が私用に使ったり、
  外国の公使館が、幕府のある江戸とを往復するために
 用いたのが最初といわれている。
  こうした、馬車の使用を見た横浜の川奈幸左衛門ら数
 名が、1869年(明治2年)2月、乗合馬車の営業を出願し、
 出願者が共同で、成駒屋(なりこまや)という店名で、
  1870年9月、営業を開始した。
  2頭立てで乗客は6人、東京までの所要時間:4時間、運
 賃は75銭だった。
・共同運輸会社・大日本山林会・大日本水産会が設立。
 ☆共同運輸会社(きょうどううんゆかいしゃ)は、
  三菱会社の海運独占による高運賃に対抗し、1882年、
 三井資本を中心に、政府出資も得て、設立された海運会
 社だった。
  維新政府の海運振興策によって、1875年以来、船舶の
 払下げや助成金の交付などで、特別の保護・助成を受け
 て来た三菱会社との間に、
  運賃ダンピングによる死闘が展開された。
  両者が共倒れの危機となって、こうした状態を是正を
 し、海運業の一層の発展を図るため、政府が、仲介し、
  (政府は、三菱の海運界の独占を是正したいと、共同
 運輸会社の設立に対して、半額出資していた)
  1885年9月、三菱と共同運輸は合併し、10月、半官半民
 の日本郵船として開業となった。
 ☆大日本山林会(だいにほんさんりんかい)は、
  この会が設立されたのを契機として、全国各地に組織
 された民間の林業を指導した。
  大日本山林会は、1879年に、山林に関する学術知識を
 交換論究するために設立された山林学共会を先駆として、
  そして、この年・1882年に、山林共進会の開催を機に
 設立され、
  国内外の森林・林業の発展を図ることを目的とする公
 益社団法人。
  初代会頭:伏見宮貞愛親王(1882年1月~1915年4月)
  事業:
  (1)森林・林業に関する指導・普及・普及
  (2)森林・林業に関する政府への提言
  (3)森林・林業に関する調査・研究
  (4)雑誌『山林』の発行
  (5)小林記念林業文献センターの運営
 ☆大日本水産会(だいにほんすいさんかい)は、
  水産業者の養成を目的として設立した民間の教育機関。
  水産業に関係する生産者、加工業者、流通業者、小売
 販売会社など、約400の会員で構成される業界団体(一般
 社団法人)。
  沿革:
  1882年2月、「大日本水産会」が創立され、
  小松宮彰仁親王を会頭に奉戴し、品川弥二郎を初代幹
 事長に選出した。
  事業:
  (1)水産業会の意見を国の施策に反映させる。
  (2)漁業における国際会議や地域管理機関などの活動
   をNGOの立場で支援する。
  (3)漁船から食卓までの品質衛正管理の向上を目指す。
・この年になされた郵便関係のこと:
  ・郵便葉書取扱手続を制定した。
  ・郵便集配人の被服制定が改正された。
  ・駅逓局に運輸課が置かれた。
  ・外国書留郵便物の事故には、万国郵便連合条約によ
   り弁償金支払。
  ・郵便物の留置は私書函貸与に限ること:受取人の願
   による取扱禁止。
  ・郵便条例公布。
   1873年太政官布告97号・1873年制定された郵便規則
   により郵便事業官営と全国均一料金制を採用。(後に、
   郵便条例(1882年)などに整理される)
  ・郵便条例公布:郵便為替を12章に、駅逓局貯金を13
   章におさむ。
  ・府県管内地方郵便を「約束郵便」と改称。
・慈恵病院が創業した。
  1882年8月 高木兼寛が、有志共立東京病院を開院。
  1887年4月 当時の皇后陛下(明治天皇陛下の皇后・昭
 憲皇太后)より、「慈恵」の名を賜り、東京慈恵医院と
 改称した。
  現:東京慈恵会医科大学附属病院
・この年のコレラ流行で、3万3784人が死亡する。
  幕末から明治にかけて「三日コロリ」「虎列刺(これ
 ら)」「虎狼痢(ころり)」「暴瀉病(ぼうしゃびょう)」
 とよばれ、非常に恐れられた。
  1877年には、西南戦争の戦線でコレラが発生し、帰還
 兵によって全国に感染が広がった。
  以後、1879年、1882年、1886年も多くの犠牲者が出た。
  この様な事態に、明治政府は、衛生、防疫体制の整備
 を急ぎ、
  1879年に「虎列刺病予防仮規則(太政官布告第23号)」、
  1880年には「伝染病予防規則(太政官布告第34号)」
 を公布した。
  伝染病予防法心得につき県達前書、明治14年11月11日
  目今、本邦流行伝染病中、最モ予防注意ヲ要スヘキハ
 虎列刺、腸窒扶私、赤痢、実布垤利亜、発疹窒扶私、痘
 瘡ノ六病トス。
  而テ各種ノ病症ニ従ヒ、予防ノ法モ亦其趣ヲ異ニスト
 雖モ、其要領ハ之ヲ約スルニ四項ニ出テス。
  其一ハ、病毒ノ萌動及ヒ蔓延ノ因ヲ除却スルニアリ(
 即チ清潔法)
  其二ハ、各人体中有スル所ノ感受性ナカラシムルニア
 リ(即チ摂生法)
  其三ハ、病毒伝播ノ媒介ヲ隔離スルニアリ(即チ隔離
 法)
  其四ハ、伝染病毒ヲ消滅スルニアリ(即チ消毒法)
  右ノ四項ニ依リ、予防ノ事ヲ施サヽルヘカラス。
  故ニ其大意ヲ示スコト左ノ如シ(後略)
・下岡蓮杖が、浅草に写真館を開業した。
  1862年、蓮杖は、40歳で、横浜の野毛、ついで、弁天
 通5丁目横町で写真館を開業した。
  これが、横浜における営業写真館の最初であるという。
  明治15年(1882年)、蓮杖は、浅草公園第五区に写真
 館を移した。
・田鎖綱紀(たくさりこうき)が、速記文字を創案、習う
 者多し。
  大学南校で鉱山学をまなぶかたわら、在学中、偶然に
 目にした欧米の速記記号に興味を抱いて研究を始め、
  グラハム式の英語速記法をもとに、日本語速記法を考
 案した。日本語速記術の創始者。
  欧米の速記術を研究して日本語速記法を考案、明治15
 年(1882年)に、「日本傍聴筆記法」を発表し、速記普
 及につとめた。
  弟子たちは、帝国議会発足と同時に貴族院、衆議院の
 速記者として活躍したが、
  自らは、仕官を好まず、もっぱら速記普及の全国行脚
 に努めた。
  終生、速記記号を日本文字にとの願いを失わなかった。
  明治27年、藍綬褒章。著作に「新式速記術」など。
・スダレを豪州に輸出した。
.
 (今日の言葉)
.
  題:アメリカが言う屁理屈・・
.
  その言葉は、人類の『負の遺産』。
  人類の『負の遺産』に、まさになろうとしている。
  後々の世まで、大きな弊害を、人類に与え続けて行く・・
  その、計り知れない大きなマイナス要因を人類社会へ
 与えている。
  その様な・・恐ろしさがある・・、
  アメリカのその屁理屈は・・キリスト教の教義「目に
 は目を」の「同罪報復」から来ている・・
  「同罪なら報復しても良い」という考え方・・その教
 義に・・
  考え方を、洗脳され、マインド・コントロールされ・・
  アメリカは・・これによって・・「広島・長崎に原爆
 を投下した」・・実行した・・
  「広島・長崎の原爆投下」は、『真珠湾の報復だった』
 ・・『報(むく)いだった・・』・・だから・・だから、
 アメリカは、正しいのだ・・投下は正しいのだと言う・・
  そして・・また言う・・「広島・長崎に原爆投下をし
 なかったら」・・もっと多くのアメリカの青年が死んで
 いたと、だから、広島と長崎に原爆投下したのだと、
  アメリカは悪行を糊塗して言った・・が・・しかし・・
  これは、研究者が間違いだと指摘している・・
  この様な論理や数字は成立しないと・・
  「広島・長崎の原爆投下による死者の数の方が多い」
 と言う・・しかし・・
  しかし、しかし・・このキリスト教的な・・同じ数な
 ら同罪報復だから良いとか・・多い死者数だから投下し
 て良いとか・・、低劣きわまりない・・キリスト教的発
 想・考え方の低劣さ・・??
  恐ろしい正当化の理論である・・、
  誰が何と糊塗しようと・・何しろ、このキリスト教の
 教義の考え方は、正しくない・・正義でも何でもない・・、
  ある話を・・する・・、
  もしもの・・仮定のはなし・・、
  Rや・・Cという国が・・、
  「Aという国は、自分を正当化して・・なんだかんだ
 と無実の人々を、何人も・・、
  歴史の今までに、何人も・・何人も・・殺して来た。
  だから、これから先も、この様に・・何人も、何人も、
 人々を・・無実の人々を殺して行くだろう・・だから・・
  だから、だから・・その様なことをしない様に・・こ
 のAなる国へ、原爆を投下しても正義なのだ・・」・と、
  これから、Aの国に殺される多くの人々を救う事にな
 るから・・と・・
  こういう論理が成立するのだ・・と・・
  こんな論理は・・屁理屈だ・・成立しない・・する訳
 ない・・
  アメリカの屁理屈は・・世界へ言えば言うほど・・
  世界に公言して憚(はばか)らないアメリカの行動・
 発言・・
  愚かなことを言い続ける・・そして、もしも・・もし
 も・・この事を正義と勘違いして・・実行してしまう・・
 恐ろしさ・・
  キリスト教の教義は、この様な論理・考え方を・・正
 義だというように勘違いさせて、
  これまでの歴史の様に、そして、今・現代も・・
  そして、つい先ごろの事もそうだが、悪行をやって来
 た・・、
  アメリカの「広島・長崎の原爆投下のキリスト教教義
 からの理論は・・大間違いなのだ」・・、
  「20万人~30万人殺されるだろうから、先に、20万人
 ~30万人殺した」・・、
 というキリスト教の教義の理論は大間違いなのだ・・、
  「一人、殺されようが・・」、「二人、殺されようが
 ・・」「スペインのキリスト教徒とキリスト教聖職者た
 ちが、南米などで一千万人以上の人々を殺した」様に、
 その人数は波及していく、
  その考え・教義が間違っているのだ・・
  キリスト教の教義の大罪なのだ・・、
  「一人であろうが」「二人であろうが」「一千万人で
 あろうが」・・何人・・殺そうが・・
  殺人は・・『絶対悪』なのだ。
  殺人を正当化する論理は、「まったく存在しないのだ」
 ・・「正当化理論は、まったく無いのだ」。
  こんな論理が分からないで・・キリスト教にマインド・
 コントロールされ、アメリカは、洗脳されて、さも正義
 の様に思って、今・現代も同じことを・論理を言ってい
 る、言い続けている。
  そして、「広島・長崎の原爆投下は正しかった」と、
  恐ろしい事は・・人類の歴史に・・原爆投下の正当化
 の『愚かな先例』が刻み込まれた・・若しくは、刻み込
 まれようとしていることだ。
  キリスト教の遅れた教義・考え方に毒されている。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

2016年6月20日月曜日

(増補版)369E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1881年12月~1882年1月)

題:(増補版)369E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1881年12月~1882年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1882年、出来事:
・デフレーションですべて産業に陰り。
  松方財政によるデフレーション政策は、繭の価格や米
 の価格などの農産物価格の下落を招き、農村の窮乏を招
 いた。
  このデフレーション政策に耐えうる体力を持たない窮
 乏した農民は、農地を売却し、都市に流入し、資本家の
 下の労働者となったり、自作農から小作農へと転落した
 りした。
  一方で、農地の売却が相次いだことで、広範な土地が
 地主や高利貸しへと集積されていった。
  一部の農民は、経済的困窮から、蜂起活動に走り、各
 地では自由党による激化事件に参加して反政府的な暴動
 を引き起こすようになった(当時、農村は自由党の支持
 基盤だった)。
  また、官営工場の払い下げにより政商が財閥へと成長
 して行った。
  しっかりした資本家層が生まれ、一層、労働者層との
 分離が進んだ。
  資本主義経済の醜い面が、より一層強く日本に形づく
 られて行った。
1882年、流行・世相:
・東京にコレラが大流行し、全国に伝染して行った。
・世相:東京で開店や売り出しに景品を付ける富籤(とみ
 くじ)に似た行為が流行 → 各警察署が取締
  また、この取締り強化で、興農競馬会社は、富くじ付
 き前売り入場券が、発売できなくなり収入は激減した。
・1882年11月1日、東京・銀座にアーク燈がともった。
  東京電灯会社による、日本最初の電気街灯建設の地=
 東京都中央区銀座2丁目に電気街灯がともった。
  アメリカ製の可搬型小型発電機を使って、直流110ボル
 トの電気がが供給され点灯された。
  それまで、1874年に、銀座~京橋間に85本のガス灯に
 よる街灯が点灯された。
  また、この年・1874年は、日本橋馬喰町に石油ランプ
 の街灯が灯されている。
1882年、データ・物価:
・新聞・雑誌の発行禁止・停止処分件数 132件。
・鉄道運賃
  (3等・新橋起点)品川まで6銭、大森まで10銭、
 横浜まで30銭、京都まで3円75銭、大阪まで3円97銭、
 神戸まで4円13銭、
1882年、本:
・ 「民約訳解(みんやくやくかい)」(著:ジャン・ジャック・
 ルソー/訳:中江兆民)
  兆民主宰の仏学塾出版局発行の雑誌《政理叢談》に、
 原著の第2編第6章までが訳載された。
  全訳は、1877年および1883年に、兆民以外の人によっ
 てなされた。
  兆民は日本語訳でなく、漢文訳だった。
  兆民は、漢文の簡潔で豊富な表現力に傾倒し、その素
 養を深めることこそ文に長ずる道とみて、
  その文人・兆民の漢文修業の労苦の結晶であった。
  兆民の「解」が付してあり、兆民は「東洋のルソー」
 と言われた。
  この『民約訳解』は、民権派人士に歓迎され自由民権
 運動に大きな影響を与え、理論的支柱となった。
  しかし、後に、批判が加えられるようになり、時代遅
 れの理論とされるようになった。
  しかし、兆民の普遍的価値に接近していこうとする態
 度などから「東洋のルソー」と言われる機縁となった。
  兆民の「ルソーの本著の精読」から・・、
  『民権至理也自由平等是れ大義也』という確信は、
  『民権自由は欧米の専有に非ず』とする認識へ結び付
 いて行った。
  『古来、日本にもあった』と言いたかったのだろう・・
・ 「良政府談(りょうせいふだん)」(原題・ユートピア/著:
 トマス=モア/訳:井上勤)
  因みに、この頃までのユートピア文学で表現されてき
 た「理想郷」に共通する特徴は・・、
  (1)周囲の大陸と隔絶した孤島。
  (2)科学と土木によって、その自然は、無害かつ幾何
   学的に改造され、幾何学的に建設された城塞都市が
   中心となっている。
  (3)生活は、理性により厳格に律せられ、質素で規則
   的で、一糸乱れぬ画一的な社会。
    ふしだらで豪奢な要素は徹底的にそぎ落とされて
   いる。
    住民の一日のスケジュールは、労働・食事・睡眠
   の時刻などが厳密に決められている。
    長時間労働はせず、余った時間を科学や芸術のた
   めに使う。
  (4)人間は機能・職能で分類される。
    個々人の立場は、男女も含め、完全に平等だが、
   同時に個性はない。
    なお、一般市民の下に奴隷や囚人を想定し、困難
   で危険な仕事をさせている場合がある。
  (5)物理的にも社会的にも衛生的な場所である。
    黴菌などは駆除され、社会のあらゆるところに監
   視の目がいきわたり犯罪の起こる余地はない。
  (6)変更すべきところがもはやない理想社会が完成し
   たので、歴史は止まってしまっている(ユートピア
   は、ユークロニア(時間のない国)でもある)。
・ 「露国虚無党事情」(訳:西川通徹)
  虚無党(きょむとう):1、帝政ロシア時代、チェル
 ヌイシェフスキーを指導者とする革命的民主主義者の党
 派の称。
  2、ロシア皇帝暗殺などの非常手段に訴えた1870~80
 年代の革命家たちを、非難してよんだ語。
  (参考)虚無(きょむ):
  1、何物もなく、むなしいこと。空虚。
  2、この世に存在するすべてのものに価値や意味を認
 めないこと。
・ 「人権新説(じんけんしんせつ)」(著:加藤弘之)
  優勝劣敗の社会進化論を肯定し、
  天賦人権(てんぷじんけん、天がすべての人に対して
 平等に、分かち与えた権利)の存在を否定。
・イタリアの作家コローディ『ピノキオ』を発表。
1882年、衣:
・銀座に丸善・森村・大倉組などの洋服店ができた。
  洋服は、1871年(明治4年)頃より普及が始まった。
  丁稚奉公人として入店し、10年の年季奉公を済ませ、
 その後に、洋服職人として2年か3年のお礼奉公をし、
 独立開業して巣立った。
・二重マワシを着るものあり、横浜で金巾の輸入が、最も
 盛ん。
  「二重回し(にじゅうまわし)」は、この頃に生まれ
 たケープコート(ポンチョ風コート)、主に、紳士向け
 の外套だった。
  また、金巾(かなきん・かねきん)は、綿布の一種で、
 固くよった糸で目を細かく織った薄地の広幅綿布。
  白足袋(しろたび)、割烹着(かっぽうぎ)、和服の
 裏地に使われた。
・浅草で学生カバン製造され、漸次普及する。
  折鞄とも言われ、材料はズック製で、後に皮革等でも
 作られ、寸法は45cm~78cm位。
  革の工人、革具師、馬具師、文庫職人等々に依る発想
 で、1869年(明治2年)頃から1877年(明治10年)頃にかけ
 て通称、胴乱が鞄になり、
  「鞄」漢字の常用は1881年(明治14年)頃。
  (参考)胴乱(どうらん):皮または布製の四角の袋
    で、印章や薬などを入れて腰に下げるもの。
     もと、鉄砲の弾丸を入れるのに用いた。
1882年、食:
・神戸港で米の輸入が始まった。
  日本の米の輸入量と、輸出量は・・、
  1868年(明治1年)輸入:436千円、輸出:不明、
  1869年        4432千円    不明、
  1870年        14598千円    不明、
  1871年        1260千円    不明、
  1872年          0千円    不明、
  1873年         30千円    553千円、
  1874年         24千円    316千円、
  1875年         22千円     16千円、
  1876年          1千円    810千円、
  1877年(明治10年)    0千円    2269千円、
  1878年          0千円    4644千円、
  1879年         248千円    417千円、
  1880年         435千円    211千円、
  1881年         135千円    262千円、
  1882年         20千円    1652千円、
  明治維新にもとづく内乱と凶作の為、1869年と1870年
 に国内不安を鎮めるために輸入した。
  1870年の米の輸入額は、すべての輸入の43パーセント
 が米の輸入額という大量の輸入量となった。
  明治政府は、この時、米の輸出禁止令を出した。
  その結果、1872年以降は、米の輸入は、ほとんど皆無
 に近くなった。
  逆に、1873年7月15日の米輸出禁止令が解除になると、
 輸出される量が、急激に伸びた。
・搾乳場
  大阪に七つの搾乳場あり、牛乳過剰で、バター製造を
 始めた。
  1874年(明治7年)に、愛媛県の下井小太郎氏は、乳用
 牛を飼育し、搾乳し、粉乳製法を研究している。
  1863年(文久2年)に、横浜で牛乳の生産を開始した。
  これにより庶民でも牛乳を手に入れる事ができるよう
 になった。
  1876年(明治9年)、北海道根室に東梅牧場(柳田藤吉
 による国内初の大規模な近代牧場)が築かれて以降、北
 海道において欧米の酪農技術を取り込んだ近代的な酪農
 経営が行われるようになった。
・松本市で馬肉を食べ始めた。
  因みに、キリスト教の宣教師フランシスコ・ザビエル
 は、日本の僧の食習慣を真似て肉食をしなかった。
  また、1863年(文久3年)の遣欧使節団としてヨーロッ
 パへ派遣された一行は、肉食はもちろん、パンも牛乳も
 喉を通らなくなっていった・・とある。
・神谷伝兵衛コウザン蜂印ブドウ酒製造に成功する。
 伝兵衛は、浅草の神谷バーの経営者。
  この年に、ブドウ酒を発売した。
  そして、伝兵衛は、1882年~1886年頃、速成ブランデ
 ーを製造・販売した。
  この頃、大流行していたコレラに効くと大いに宣伝さ
 れた。
  この後、また当時、流行していた「電気」という語を
 冠して「電気ブランデイ」を売り出した。
  電気ブランは、浅草の神谷バーの名物として愛飲され
 た。
  甘く強い酒で、飲み過ぎると足を取られ、店ではカッ
 プ3杯以上は売らなかった。
  電氣ブランデー(デンキブラン)の説明に・・「ブラ
 ンデーベースのカクテルで、ジンや薬草などが使われて
 いて、アルコール度数は40度。 当時、洋風の洒落たもの
 には『電気』の名をつけた」とある。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
 

2016年6月18日土曜日

(増補版)368E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1881年10月~1881年12月)

題:(増補版)368E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1881年10月~1881年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1881年10月21日、陸軍・大山巌と、海軍・川村純義を参議
 兼任に任命した。
  (参考)大山巌(おおやまいわお)1842年~1916年、
  薩摩(鹿児島)藩士の生まれ、西郷隆盛の従弟。
  陸軍軍人、元帥・陸軍大将、公爵、元老、
  1862年(20歳)に、大坂に出て倒幕運動に参加。
  薩英戦争でイギリス艦の大砲の威力を認識し、戦後、
 江戸の江川塾で砲術を学ぶ。
  1868年(26歳)の戊辰戦争では、薩摩藩兵の砲隊長。
  維新後の1869年(27歳)に、欧州に派遣され、砲術を
 研究する。
  そして、普仏戦争で勝利したプロシア軍に従ってパリ
 入城をする。
  1871年(29歳)再び渡欧、
  パリ・スイスに住んでフランス語・砲術を学ぶ。
  1877年(35歳)の西南戦争では、旅団司令官として西
 郷軍とたたかう。
  1880年(38歳)、陸軍卿となって、以後は陸軍内部の
 薩摩閥の首領の地位を占め、長州の山県有朋とともに陸
 軍を2分した。
  陸相・参謀総長を務め、日本陸軍の創設にあたった。
  1884年(42歳)には、陸軍の俊秀をひきいて渡欧し、
 各国の兵制を視察し、帰国後、陸軍大臣として軍制改革
 を行った。
  1894年(52歳)日清戦争では第二軍司令官、
  1904年(62歳)日露戦争では満州軍総司令官をつとめ
 た。陸軍大将、元帥、
  因みに、イギリス軍楽隊長のJ・W・フェントンが国歌
 の必要を説いたとき、
  大山巌が、薩摩琵琶歌の「蓬莱山」から「君が代」を
 歌詞として選定したという。
  (参考)川村純義(かわむらすみよし)1836~1904、
  薩摩(鹿児島)藩士の家に生れる。
  軍人、参議兼海軍卿、海軍大将、伯爵、枢密顧問官、
 日本海軍の創設者の一人。
  戊辰(ぼしん)戦争で活躍。
  1877年(41歳)西南の役征討に軍艦を行動させて参軍
 し、活躍。
  1878年(42歳)参議兼海軍卿。勝海舟の後任の海軍卿
 となる。
  薩摩勢力を海軍部内にのばした。以後、海軍充実に尽
 力した。
  上記の大山巌の普仏戦争の観戦について・・、
  1870年8月15日、大山巌(28歳)らは、普仏戦争観戦を
 命ぜられ、8月28日、横浜から米飛脚船クレド・ハフリッ
 ク号で出発した。
  太平洋を横断し、サンフランシスコからニューヨーク
 経由で大西洋を渡り、
  10月23日に、ロンドン到着、
  閏10月23日に、ベルリン着、
  11月11日(西暦1871年1月1日)以後、普仏戦争を観戦
 した。
  フランス政府が、プロシヤに降伏後、大山はパリに入
 り、3月19日に、マルセーユから日本への帰途についた。
  5月5日(明治4年3月16日)横浜に帰着した。
  すでに、1870年12月の勅使・岩倉具視らが鹿児島を訪
 問したとき、
  藩主の依頼により鹿児島県大参事の職にあった西郷隆
 盛は、岩倉に提出した改革意見二十五箇条の中で、
  明治新政府の軍事力を世襲の士族軍隊を中核とするこ
 とを主張していた。
  翌年・1871年2月13日に、政府は、薩長土3藩の兵を徴
 して御親兵の編成を命令した。
  そして、4月25日に、大山巌は、その御親兵を統括する
 兵部省の役職兵部権大丞に任命された。
1881年10月28日、日本語速記術の発明
  田鎖綱紀(たくさりこうき)が、日本語の速記術を発
 明し、講習会を開いた。
  大学南校(政府所轄の洋学校)で鉱山学を学ぶかたわ
 ら、グラハム式の英語速記法をもとに日本語速記法を発
 明した。
1881年10月29日、自由党の結党式
  東京にて、板垣退助を総裁とする急進主義の自由党が
 結成された。
  我が国最初の組織政党として全国の農村に根を張るこ
 とになる。
1881年11月11日、最初の私鉄・日本鉄道会社が設立された。
  日本最初の民間資本による鉄道会社である日本鉄道が
 設立された。
  代表は岩倉具視。 上野~熊谷間開通(1883年)
  運行期間:1883年~1906年
  今のJR東日本の路線の多くを建設し、運営した。
  横浜の実業家の高島嘉右衛門(たかしまかえもん)が、
 1872年5月、東京から青森に至り、北海道開拓を支える鉄
 道の建設を政府に建言し、却下されるも、高島は、政府
 要人の岩倉具視を説き、
  鍋島直大、蜂須賀茂韶をして、明治天皇陛下および当
 時の政府に、
  『華族と士族が家財をもって会社を建て、東京と青森、
 あるいは、東京と越後新潟に鉄路を敷き蒸気機関車を走
 らせることを補す』ことを建言させた。
  こうした経緯を経た1881年8月1日、岩倉具視をはじめ
 とする華族などが参加して私立鉄道会社「日本鉄道」の
 創立が決定し、
  同年・1881年11月11日、設立特許条約書が下付され、
 初代社長に吉井友実を選出し、会社が設立された。
1881年11月、 日本初の官製唱歌集『小学唱歌集』が刊行さ
 れた。
  君が代・蝶々・蛍(蛍の光)などを収めた『小学唱歌
 集(しょうがくしょうかしゅう)』初編を刊行した。
  文部省音楽取調掛が編集した日本最初の音楽教科書。
  明治14年に初編、~明治17年(1881年~1884年)刊。
  初編に「蝶々」「蛍の光」、
  第二偏に「霞か雲か」、
  第三編に「仰げば尊し」「庭の千草」などを収録。
1881年12月7日、紅綬・緑綬・藍綬の褒章が定められた。
  太政官布告第63号の褒章条例(1881年)で定められ、
  初めは、紅綬褒章、緑綬褒章、藍綬褒章の3種で、
  紅綬褒章:自分の危険を顧みず人命救助をした人に、
  緑綬褒章:孝子(孝行な子)・節婦(節操堅固な婦人)・
 徳行卓絶なる人や、実業に精励して一般人の模範たるべ
 き人に、
  藍綬褒章:教育、衛生事業、学校・病院建設、道路・橋
 梁などの修築、田野の開墾、森林の栽培、水産の繁殖、
 実業の発達などに貢献した人に与えることとした。
  1918年に、公益のために私財を寄付した人に授与する
 紺綬褒章が加わり、
  1955年、政令により、条例の一部が改正され、業務に
 精励し衆民の模範である人を緑綬褒章から切り離して黄
 綬褒章の対象に、
  また、従来は藍綬褒章に含まれていた学術・芸術・発
 明などの顕著な功績に対し新たに紫綬褒章の各褒章がで
 き、6種となった。
  勲章が、国家に功績ある者に与えられるのに対して、
 社会や公共のため尽くした人々に与えられる栄典だった。
1881年、アメリカの野心を訴えるハワイ王国の国王
  原因に・・そこには・・巧妙に「ハワイ」を手に入れ
 ようとするアメリカ合衆国があった。
  ハワイには「ちゃんとした政府があって」「チャント
 統合する国があって」「チャント統合する王が居て」「
 ちゃんとその王国・政府に従う人々が幸せに生活してい
 る」というのに・・、
  そこが弱者の国だと思うと・・自分のものにしたくな
 ったアメリカ合衆国だった。
  当然、そこに、何らの正義は無かった・・まったく、
 無かった。
  この年に、ハワイ王国のカラカウア王一行が来日した。
  予定の行事をこなしながらの或る日、王は、付き纏(
 つくろ)うアメリカ随行員の目をくらまして赤坂離宮を
 訪ね、明治天皇陛下(当時29歳)との極秘会談に及んだ。
  カラカウア王のこの行動は、外国の『国家元首』の最
 初の明治天皇陛下への訪問となった。
  王は、その場で、次のように訴えた。
  意訳概要:
  「我が国は、主権を持つ独立国家である。
  その我が国に対し、アメリカ合衆国が太平洋上の拠点
 にしようという野心を抱いている。
  今や列強諸国は利己主義に走り、相手国の立場を尊重
 する気持ちが微塵も無い。
  アジア諸国は列強の支配を受けながら、互いに孤立を
 深めている。
  この状況を抜け出すには、各国が一致団結して欧米列
 強諸国に対峙することが急務です。
  日本の進歩には実に驚くべきものであり、
  アジア連合を起こすとすれば、その盟主には日本以外
 には無い。
  また、天皇陛下こそが相応しい。
  日本は、今、列強諸国に治外法権(不平等条約の改正)
 を認めさせようとして苦労していると伺います。
  日本なら連合実現が、より容易にできるはずです。
  どうか協力してアジア諸国連合を結び、その盟主とな
 っていただきたい。
  そうなれば私は、陛下を支え、大いに力をお貸しさせ
 て戴きたいです。
  私は、その証として、姪であり皇位継承資格を持つカ
 イウラニ(Kaiulani)王女を差し出します。
  日本とハワイの絆の為、是非もらって戴きたい。
  私は、貴国の良い返事を待ち続けます」
  (「明治天皇紀」のカラカウア王の言葉)。
  そして、この後・・、
  「明治天皇陛下とカラカウア・ハワイ国王の極秘会談」
 は、直ちに外務卿・井上馨に伝えられた。
  井上馨は、伊藤博文を後継し、明治政府の重要な地位
 に居る人だった。
  ハワイ王国の国王による国王間直訴は・・その後・・、
  1882年(明治15年)3月22日になって、ハワイ国王・カ
 ラカウアによる日本との連合計画提案に対し、明治政府
 の回答がカラカウア王へ届けられた。
  「政府に、そこまでの余力はない」との内容だった。
  また、カイウラニ王女と日本の皇族の結婚に関しても
 最終的にはウヤムヤとなって行き・・幻となった。
  井上馨は・・、
  「カイウラニ王女の話はうまく運ぶだろう」という見
 解を示し、
  伏見宮邦家親王の第17王子の山階宮定麿親王(当時15
 歳、後に海軍兵学校卒業後、英国プレスト海軍兵学校留
 学、小松宮依仁親王となる))との「将来の御成婚」が、
 画策された。
  ・・が、しかし、懸念材料はアメリカだった。
  アメリカとの関係の悪化を懸念する意向が前面に出て、
 幻となって行った。
  かくて、「カラカウア王の望み(秘策)」は潰(つい)
 えてしまった。
  カイウラニ王女は・・その後・・、
  1889年に、カラカウア王の指示で、イギリスへ留学し
 た。
  そして、その留学中に、カラカウア王は死去されてし
 まった。
  カイウラニ王女は、叔母のリリウオカラニから王位継
 承権第1位に指名され、
  美貌の彼女は、ヨーロッパ社交界の教養を身につけ、
 英仏社交界の華になった・・が・・、
  アメリカの思惑(アメリカ帝国主義によるハワイの地
 の取得)がうごめくハワイの政変が続くハワイの事情か
 ら・・帰国が出来ず・・帰国が延び続けるという状況と
 なった。
  日本とハワイの連邦化を夢見ていたハワイ王国は・・
 消滅し・・そして、ハワイはアメリカ化し・・今、アメ
 リカ合衆国の州となっている。
1881年2月24日、イリ条約
  ロシアと中国(清国)との間で、1871年に起きた国境
 紛争事件(イリ事件)の条約が結ばれた。
  ロシアのイリ地方占拠を、清朝は左宗棠の働きで1875
 年から1877年にかけて排除した。
  しかし、1879年に、ロシアとのイリ返還を交渉した清
 朝の全権大使・満州貴族・嵩厚保がいったん領土を大幅
 に譲歩した条約を締結した。
  そのため、激怒した光緒帝が批准を拒み、改めて曽紀
 沢(曽国藩の子)が交渉に当たり、
  ようやく1881年に、イリ条約を成立させ、イリ地方は
 清に返還された。
  しかし、清朝もロシアに多額の賠償金を支払い、新疆
 全土を市場としてロシアに経済的に開放することを認め
 た。
1881年3月12日、ロシア皇帝アレクサンドル二世が暗殺され
 た(3月13日説あり)
  1867年、フランスを訪問中のアレクサンドル2世は、パ
 リで襲撃されたが、この時は難を逃れた。
  その後も、皇帝暗殺計画は再三にわたって企てられ、
  1880年2月には、アレクサンドル2世を狙った冬宮食堂
 爆破事件が起きて、多数の死傷者が出た。
  これをきっかけに、最高指揮委員会が設置され、下ヴ
 ォルガ臨時総督として暴動鎮圧に成果を収めたミハイル・
 ロリス=メリコフが委員長に任命された。
  政治を安定させ、内政の改革を進めることがテロや暴
 動の抑止になると考えたロリス=メリコフは、行政改革
 と財政改革を皇帝に進言し、
  これを受けて最高指揮委員会は解散され、ロリス=メ
 リコフが内務大臣となった。
  社会の不安を除くため、人々の怨嗟の的となっていた
 悪名高い秘密警察・皇帝官房第三部を廃止し、
  立憲制導入に向けてまず一種の「議会」導入を提案し、
 一般委員会や国家評議会にゼムストヴォの代表や大都市
 自治会の代表などを参加させようとした。
  1881年3月13日、アレクサンドル2世は、没落したシュ
 ラフタの家柄で「人民の意志」党員のポーランド人イグ
 ナツィ・フリニェヴィエツキの投じた爆弾(キバリチチ
 式手投げ爆弾)により、サンクトペテルブルク市内で暗
 殺された。
1881年5月、フランスが、チュニジアを保護国化した。
  1830年のフランスによるアルジェリア占領以後、
 フランスとイタリアによる植民地化の対象となった。
  ベクは、1867年立憲君主制憲法を制定し、トルコの力
 をかりて独立維持をはかった。
  1869年、チュニジアは財政破綻してイギリス・フラン
 ス・イタリアの管理下に置かれ、
  1873年~1877年の改革派官僚のハイルッディーンによ
 る改革が行われたが、宮廷内の保守派の反対で成果を上
 げることが出来なかった。
  普仏戦争でフランスが敗れるとイタリアがチュニジア
 に進出したのでフランスは危機感を強めた。
  1878年のベルリン会議では、イタリアとフランスが、
 チュニジアの鉄道敷設権を巡って対立したが、
  フランスは、チュニジアに於けるフランスの権利を認
 めさせ、
  最終的にイタリアが折れ、西欧列強によってチュニジ
 アにおけるフランスの優先権が確認された。
  フランスは、1881年に、軍隊を派遣し、首都チュニス
 を占領して、保護領とした。
1881年7月2日、アメリカ合衆国大統領の暗殺事件が起きた
  第20代大統領のガーフィルド大統領が暗殺された。
  ワシントンのボルティモア・ポトマック駅で大統領は
 銃撃され、9月19日に死亡した。
  暗殺犯のチャールズ・J・ギトーは、色々な職業に手を
 出して失敗していた。
  神学、法律実務、集金、オナイダ・コミュニティ(キ
 リストの再臨を信じる共同社会)だった。
  大統領は、就任から4か月の短期間だった。
1881年7月14日、ビリーザ・キッドが、満21歳で、射殺され、
 この日に死んだ。
  彼は、アメリカ西部開拓時代のアウトロー(犯罪など
 によって法の保護を受けられなくなった人)で、強盗な
 どを行なっていた(1859年~1881年)
  罪名:殺人と脱獄。
  職業:牧場手伝、ギャンブラー、牛泥棒、アウトロー。
  ニューヨークで生まれたらしい、西部のニューメキシ
 コ州で育った。
  偽名が多く、父親は良く分からない。
  12歳の時に、母親を侮辱した男を殺してアウトローに
 なったとされる。
  死ぬまでに21人を殺害したとするが、この人数の中に
 はインディアンの方々の人数は含まれてないとされる(
 有色人種への無視・軽視・蔑視)。
  アリゾナ、テキサス、メキシコ国境あたりをさすらっ
 たという。
  用心棒もした。この時、リンカーン郡戦争と呼ばれる
 騒動となった。この時、4人を射殺。
  1880年12月、友人でもあった保安官に、仲間と共に
 逮捕される。
  しかし、1881年4月18日に刑務所を脱走した。
  この事が、ニューヨーク・タイムズに報じられ有名に
 なる。
  1881年7月14日に、ニューメキシコ州フォートサムナー
 で、ギャレットに射殺された。
  鏡で銃を抜く敵を見て、振り返らずに撃ち殺したなど、
 嘘もあるだろうが・・彼の銃の腕前を示す話は多い。
  この様なアメリカ西部の様相の中で、西部は開拓され
 て行った。
  誠実に農地開拓をしている農夫の土地を、欲しがる牧
 場主が、プロの殺し屋を雇い、この正直な農夫を殺そう
 とする。
  その時、殺し屋は次の手を使う、
  町の酒場に農夫を呼び出し、この農夫に対して、あら
 んかぎりの嫌(いや)らしい事を言う。
  農夫は、愛する妻や子供も居るので我慢してその話を
 聞いているが、続けて、殺し屋は人格攻撃も含めて、い
 やらしい攻撃を続け、
  この続く人格攻撃などの中で、農夫は、やむを得ず腰
 のけん銃に手を掛ける。
  その途端、プロの殺し屋の銃が、いち早く火を噴く。
  可哀想に、この善良な農夫は殺される。
  キリスト教は、この様なこの行為を、この殺し屋の行
 為を悪くないとしている。
  だから、アメリカの西部では、この様に殺される人が
 多かった。
  キリスト教は、「(キリスト教の)神の義があれば、
 人を誅しても良い」と、神の義による殺人を是としてい
 る。
  この様な論理・教義で、隣国の富を奪いに行く。
  当然、戦争の頻発地となる。
  長い歴史、キリスト教の回りには多くの戦争の歴史が
 記録されている。
  キリスト教聖書に記されている「相手に警告を与えれ
 ば何をやっても良い」という教え・・、
  また、キリスト教の聖書記載の手順を踏めば、攻撃を
 加えて良いという教え・・
  「相手の町を包囲して、ぐるぐる回れば、何をやって
 も良い」とかと・・この様な記載が、色々多い。
  キリスト教には蛮行の実行につながる教義が多い。
  「目には目を」という教義は有名だが、「同罪報復を
 認める」教義である。
1881年9月、エジプトでアラービー=パシャの乱が起きた(~
 1882年)
  アフマド=ウラービー=パシャ・・エジプトの反イギ
 リス民族闘争の指導者は、
  1881年に、イギリス・フランスの支配に反発し、立憲
 政治実現を要求して革命を試みたが、イギリス軍によっ
 て鎮圧されてしまった。
  世界中で、武力によって、やりたいことをやっている
 イギリス、そして、ヨーロッパ列強のキリスト教国。
  パシャは尊称で、
  エジプト人の農民の子として生まれ
  軍人となり、
  ワターニューン(愛国者たちの意味、ワタン党ともい
 う)という秘密結社を組織して、
  ムハンマド=アリー朝を支え陸軍大臣にまで昇り、
  パシャの称号を認められ、ウラービー=パシャと言わ
 れた。
  19世紀中頃のエジプトが、イギリスとフランスの経済
 的支配を受けて、
  政治干渉も受けるという二国管理体制下におかれ、
  これに強く反発した(誰だって反発したくなるだろう
 よ)、
  エジプトの方々のエリート層や、高等教育を受けた
 方々は、ヨーロッパ人が、エジプト社会を牛耳ることに
 よって、
  自らの出世の道が閉ざされることも不安視した。
  また、農民は、課せられた重税に対して不平を募って
 いた。
  また、差別も存在した。
  エジプトは識字率も向上し、1870年代から188年代には、
 出版も盛んになり、新聞も発行されるようになった。
  人々は、社会の情勢・変化を知り、行動を起こした。
  1881年に、クーデターを起こして、エジプト王を退位
 させ、実権を握り、立憲政治の実現などの改革を進めよ
 うとした。
  しかし、イギリスが直ちにアレクサンドリアを砲撃、
 陸上からも攻撃し、革命を強烈な軍事力で抑えつけた。
  その結果、この出来事は〝反乱〟に終わった。
  ウラービー=パシャは捕らえられ、セイロンに流され
 た。
  彼が掲げた〝エジプト人のためのエジプト〟のスロー
 ガンは、
  その後のエジプト民族運動に受け継がれ、
  ウラービー運動といわれるようになった。
  → アラブ民族主義運動へ
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
 

2016年6月16日木曜日

(増補版)367E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1881年9月~1881年10月)

題:(増補版)367E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1881年9月~1881年10月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1811年10月1日、國會期成同盟 第3回大会
  第三回大会は自由党結党の会だった。
  1881年(明治14年)10月に開かれる予定の第3回国会期成
 同盟大会での重要議題は、各地で作成された「憲法私案
 の審議」であった。
  また、10月1日~10月2日の幹部相談会では、常務委員
 の林包明(はやしほうめい、自由民権運動家、自由党幹
 事となる)を中心として、
  大日本国会期成有志公会と自由党(準備会)を糾合して、
 新党を結成する相談がなされた。
  そうした中、開拓使官有物払下げ事件が明るみとなり、
 政府側を追求した。
  その結果、明治十四年の政変(1881年8月31日)が起こ
 った。
  大隈重信は、政府から追放された。
  ・・と同時に、政府は批判をかわすために・・、
  1881年(明治14年)10月12日に、『国会開設の詔を発
 布』し、
  1890年(明治23年)に、国会を開設することを決めた。
  国会開設の目的は達せられた。
  この様ないきさつから、目的達成と判断した自由民権
 運動家達は、大会での憲法私案の審議を見送った。
  そして、「政党を樹立すべき」との意見が、大勢を占
 めた。
  しかしなお、地方出身者層と都市出身者層との間で意
 見の相違は発生していた。
  そのため、嚶鳴社(おうめいしゃ、自由民権系の政治
 結社)の沼間守一らは、新党結成から離脱した。
  1881年10月18日に、東京の井生村楼(いぶむらろう、
 浅草にあった演説会場として利用された会場)に全国各
 地から代表78人が集まって大会が開かれた。
  大会では、議長に後藤象二郎、副議長に馬場辰猪が選
 ばれた。
  そして、翌日の1881年10月19日には、自由党盟約・規
 約が作成され、
  1881年10月29日には、総理(党首)に板垣退助を、副
 総理に中島信行が選び、自由党を発足させた。
1881年10月2日、大日本自由政党結成會を組織した。
1881年10月9日、黒田清隆が、大隈重信の「国会開設早急
 論」に反対し、そして、三条実美へ趣意書を提出した。
  『開拓使官有物払下げ事件』:
  北海道開拓使長官の黒田清隆は、1881年に、開拓使の
 廃止方針が決定したため、この開拓使の事業を継承させ
 るために、官有の施設・設備を安値で払い下げる事にし
 た。
  黒田は、その払下げ予定事業が赤字であったため、非
 常な安値で払い下げ価格を設定した。
  払下げの対象は、船舶・農園・炭鉱・ビール・砂糖工
 場などで、
  例えば、「1400万円の国費を投じたもの」を「38万円
 (無利息30年賦)」という破格の低価格だった。
  その払い下げを受けたのが、関西貿易商会(黒田と同
 郷の薩摩出身者・五代友厚ら)だった。
  破格の値段の払下げ先が同郷の薩摩だったので、薩閥
 政治への不満が高まって行った。
  当然の様に、この方針に、政府部内の薩長出身参議は
 賛成した。
  しかし、政府内でも批判の声が起こり、特に、払下げ
 の規則を作った前大蔵卿の大隈重信が反対した。
  この経緯(いきさつ)を新聞がすっぱ抜いた。
  この秘密をリーク(意図的に秘密や情報などを漏らす
 こと)したのが「大隈だろう」と疑われた。
  さらに、大隈が登用した大蔵官僚の間にも、払下げ中
 止を求める意見が出された事から、
  払下げ中止を目的として「大隈が仕掛けた」という話
 が広まった。
  この様な中、黒田清隆は、天皇陛下の裁許を戴いて払
 下げを決定してしまった。
  しかし、批判の声は、ますます高まった。
  そして、大隈が、東京を離れた間に、伊藤博文らは、
 収拾策の方針を決定し、天皇陛下に裁許を仰ぎ、大隈の
 追放、国会開設の詔勅(藩閥政治への不満への対応)、
 払下げ中止などを発表した(明治十四年の政変)。
  その後、黒田も開拓使長官を辞め、内閣顧問の閑職と
 なった。
  薩長閥でない大隈が退かされた、薩長閥主導の時代と
 なった。
  薩長閥の黒田は、問題視され無かった。
  民意を尊重する政治・・、
  日本には、明治以前から、早々と、民意を受けて、民
 意によって政治を司るという考え方はあった。
  そして、明治になって草々の1868年の「五箇条の御誓
 文」・・第一条「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ」
 と形となって・・議会開設の理念は示されていた。
  この様な流れから、大隈の「国会即時開設論」はその
 流れの中にあった。
  しかし、政府は漸近主義をとり、
  その中に、「イギリス型の議院内閣制か」、「ドイツ
 型の超然内閣の選択か」などの思考があった。
  大隈らはイギリス型案だった。
1881年10月11日、明治十四年の政変
  伊藤博文らが、大蔵卿参議・大隈重信を追放、罷免し
 た(10月12日説あり)
  自由民権運動の嵐が吹き荒れる世のなかで・・、
  また、その方向へ世の中が流れるなかで・・、
  憲法制定論議が高まり、政府内でも、君主大権を残す
 「ビスマルク憲法」か、「イギリス型の議院内閣制の憲
 法」とするか・・で争われていた。
  前者を支持する伊藤博文と井上馨が、後者を支持する
 大隈重信と、ブレーンの慶應義塾門下生らを、政府内か
 ら追放した。
  クーデター状態だった。
  明治10年代の政治は・・、
  大久保利通亡き後は・・、国会開設運動が興隆して行
 った。
  政府が、いつ立憲体制に移行するか・・という課題の
 ある・・問題が持ち上がっている時代だった。
  この様な時代の流れの中にあって・・、
  政府は、消極論者の右大臣・岩倉具視を擁しながら、
 漸進的な伊藤博文・井上馨(長州閥)と、
  やや急進的な大隈重信(参議・大蔵卿・肥前藩出身)
 を中心に運営されていた。
  この頃は、政治への介入工作などもあって、政情は不
 安定の中にあった。
  「薩長土肥」四藩の連合が変化し、「薩長」二藩至上
 主義的方向へ姿を変えて行った。
  そして、明治14年の政変は・・起きた。
1881年10月12日、国会開設の詔
  1890年(明治23年)に国会開設の詔勅。
  明治天皇陛下が、来る明治23年を期して、10年後(1890
 年)国会を開設する旨の詔書を下し給う。
  天皇陛下が、行幸から帰京された10月11日に、御前会
 議の裁許を得て、
  翌日・1881年10月12日のこの時、「国会開設の詔勅」
 などが公表された。
  また、大隈邸を、伊藤と西郷従道が訪れて、辞表の提
 出を促し、大隈は了承した。
  なお、この際に、
  「建国の本各源流を殊にす(とりわけ、格別)。彼れ
 を以て此れに移すべからず」という政府首脳間の合意が
 為された。
  そして、結果として、自由民権運動や大隈の唱えるフ
 ランス流やイギリス流を否定したものの、
  岩倉らの進めようとしたプロシア流についても、一旦
 は白紙撤回された。
  ドイツ憲法に傾いていくのは、岩倉が公家出身という
 立場も関係した。
  政変で下野した官僚:犬養毅、牛場卓蔵、大隈英麿、
 尾崎行雄、小野梓、河野敏鎌、島田三郎、津田純一、中
 野武営、中上川彦次郎、前島密、牟田口元学、森下岩楠、
 矢野文雄、
  (注)国会開設奏議、明治十四年十月十一日
  「国会開設ノ期限ヲ定ムル勅諭ノ事」 『岩倉公実記』
  日本憲政基礎史料:
  諸參議連署の立憲政體に關する建奏(明治十四年十月
 十一日):
  憲法を定める標準に至ては臣等竊に以為く建国の本各
 源流を殊にす。彼を以て此れに移すべからず。祖宗基を
 始め伝うるに神器を以てす。民と之を守る万世不易の道
 なり。陛下時期を照鑑し古今を変通し将に政権を分て之
 を衆庶に公にせんとす。蓋、実に祖宗の遺烈を掲げ懿訓
 を広むるに過ぎざるなり。今民間政談を為す者を視るに
 好で欧米詭激の説を主張し国体の何たるかを省みざる者、
 往々之れ有り。臣等、実に之を危む。竊に願くは憲法の
 成各国の長を採酌するも、而も我国体の美を失わず広く
 民議を興し公に衆思を集むるも而も我皇室の大権を墜さ
 ず乾綱を総攬し有極を建立し以て万世不抜の基を垂れん
 ことを。…
  以上陳ぶる所を総ぶるに、国会の開設の期を予定する
 は大政の向う所を公示する所以なり。憲法を定めるに国
 体を重んずるは篤く祖宗の遺業を守る所以なり。…
1881年10月18日、自由党、結成
  板垣退助らが、自由党(自由主義派)を結成した。
  初の政党(総理・板垣退助)。 
  この日・10月18日に、東京・浅草の井生村楼で自由党
 結成会議が開催された。
  10月29日に、板垣退助を総理に選び、副総理・中島信
 行(のぶゆき)以下の本部役員を選出し、盟約3章と規則15
 章を決定して正式に発足した。
  日本最初の近代的な政党。
  1881年8月以後に起草した植木枝盛の「東洋大日本国国
 憲按」(私擬憲法)が作成されていた。
1881年10月21日、参事院(さんじいん)が設置された。
  この日、太政官布達89号によって、官制改革太政官に
 参事院が設置された。
  初代の長は、参議・伊藤博文。
  1872年7月の太政官達で設けられた正院法制局を受継い
 だもの、
  尚、1885年12月22日に、内閣法制局発足とともに廃止
 された。
1881年10月21日、松方デフレの開始
  松方の前々任者の大隈重信は、1873年10月25日に大蔵
 卿に就任し、1880年2月28日まで務めた。
  そして、この大隈の後は、大隈と「同じ肥前閥」の佐
 野常民が、この1880年2月28日に就任し、1881年10月21日
 まで務めた。
  そして、この日・1881年10月21日に、閥が変わって、
 「薩摩閥」の松方正義が、参議兼大蔵卿に就任し(~
 1885年12月22日)、方針は転換された。
  大蔵卿に就任した松方正義は、薩摩閥の地で発生した
 西南戦争による戦費調達で生じたインフレーションを解
 消しようと、デフレーション誘導の財政政策を行なった。
  世はデフレ不況へ向かって行く・・、
  この松方財政(まつかたざいせい)の緊縮財政によっ
 て政府は、紙幣の回収を進めた。
  紙幣価値の安定と、正貨の蓄積を図る「松方財政」を
 推し進めた。
  松方正義は、また、欧州各国の中央銀行をモデルに、
 「一国の金融の心臓」として日本銀行の設立を提案し、
  紙幣発行権を、日本銀行に集中させ、兌換券の発行を
 目指した。
  1877年の西南戦争の戦費の大半を、紙幣増発でまかな
 ったことなどから、政府紙幣の整理の問題が焦点となっ
 ていたからだった。
  松方は、大隈が進める外債による政府紙幣の整理に真
 っ向から反対していたのだった。
  それによって、1年半まえの1880年2月28日には、松方
 正義は、伊藤博文の配慮によって、内務卿に転出する形
 で大蔵省を去っていたのだった。
  松方は、1877年(明治10年)には渡欧して、経済を勉
 強していた。
  1878年(明治11年)3月~12月には、第三共和制下のパ
 リを中心とするフランスに滞在し、
  フランス蔵相レオン・セイ(「セイの法則」で名高い、
 フランスの経済学者のジャン=バティスト・セイの孫)
 から3つの助言を得ていた。
  (1)日本は、発券を独占する「中央銀行」を持つべき、
  (2)その際、フランス銀行やイングランド銀行は、そ
    の古い伝統故に、モデルとならない、
  (3)従って最新のベルギー国立銀行を例として、これ
    を精査すること・・を、勧められた。
  1881年(明治14年)7月に、帰国した松方は、「日本帝
 国中央銀行・説立案」を含む政策案である「財政議」を
 政府に提出した。
  そして、政変によって大隈が失脚すると、
  参議兼大蔵卿として復帰し、日本に中央銀行である日
 本銀行を、ベルギーの中央銀行制度を原型にして創設し
 た(1882年10月10日)。
  この後の1883年(明治16年)に、松方は、明治天皇陛
 下に奏上して、恩になったレオン・セイに、勲一等旭日
 大綬章が贈られるように図っている。
  そして、1885年の内閣制度発足と同時に、大蔵大臣に
 就任し、兌換銀行券条例に基づき兌換券(銀貨兌換)を
 発行した、
  さらに、1886年に兌換を開始し、近代的信用制度の確
 立をはかった。
  松方は、財政家として、政府紙幣の全廃と、兌換紙幣
 である日本銀行券の発行による紙幣整理と、
  煙草税や酒造税や醤油税などの増税による歳入増や、、
  政府予算の圧縮策などの財政政策や、
  官営模範工場の払い下げなどによって、財政収支を大
 幅に改善させ、インフレーションも押さえて行った。
  ただ、これらの政策は、深刻なデフレーションを招い
 たために、「松方デフレ」と呼ばれ、世論の反感を買う
 こととになった。
  物価が急落し、そして、景気が、急速に下降し
 インフレを終息させることには成功したが、農民の方々
 の多数が土地を失うなど、
  農民の方々への被害が、特に、甚だしく大きかった。
  地主制の成立の促進の現象となった。
  農民層の分解が進み、資本主義的体制の基礎を作った
 という別の一面が語られた。
  明治新政府は金が無かった。
  不換紙幣を乱発して世はインフレとなり・・、
  地租を確保しようとしたら、世は一揆が一斉に起き、
  外債を発行して、海外へ資金を求める大隈政府だった。
  松方正義大蔵卿は、支出を削減しながら、官営事業を
 払い下げたりして・・金を作った。
  富岡製糸は、31万円で整備したが、三井への払下げの
 売却は12万円だった。
  院内・阿仁鉱山は、古川へ売却し、
  兵庫造船は、川崎に売却し、
  長崎造船は、三菱に売却したが、
  いずれも破格の値段で、格安払下げをし、政府の儲け
 はなかった。
  ただ唯一、三井炭鉱は、三井が競り落としたが、整備
 費の6倍となり、政府に金が入った。
  この様な中で、間接税である消費税の大増税を行なっ
 た。
  煙草も課税の対象にしたが、その他、醤油税、菓子税、
 酒造税などを行ない。
  酒税は、1875年に250万円の収入となり、1884年には
 1400万円と5~6倍となった。
  因みに、松方正義は、オックスフォード大学の名誉博
 士である。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive